南朝梁
梁の文獻張皇后
梁の文獻張皇后は諱を尚柔といい、范陽郡方城県の人である。父の穆之は文帝の従姑を娶って后を生んだ。后は宋の元嘉年間に文帝に嫁ぎ、長沙宣武王蕭懿・永陽昭王蕭敷を生み、次に武帝を生んだ。妊娠中、突然庭前の昌蒲の花を見ると、光り輝いて並々ならず、驚いて知らせると、侍者たちは皆見えないと言った。后は言った。「常に聞くところでは、昌蒲の花を見る者は富貴になるという。」そこで取ってこれを呑み込んだ。その月に武帝を生んだ。出産の前夜、后は庭内に衣冠を整えた者が列をなして陪しているかのように見えた。次に衡陽宣王蕭暢・義興昭長公主令嫕を生んだ。后は宋の泰始七年に秣陵県同夏里の邸宅で没し、晉陵郡武進県東城里の山に葬られた。
穆之は字を思静といい、晉の司空張華の六世孫である。若い頃から方正高雅で、識見と鑑識眼があった。初め員外散騎侍郎となり、深く始興王劉濬に引き入れられた。穆之はその禍の芽を見抜き、交址太守を求めた。政績に優れたものがあった。宋の文帝は彼を交州刺史に任じようとしたが、病で死去した。子の弘籍は字を真藝といい、斉の初めに鎮西参軍となり、任地で没した。梁の武帝が即位すると、穆之を光祿大夫に追贈し、金章紫綬を加えた。弘籍を廷尉卿に追贈した。弘籍には子がなく、従父の弟の弘策が子の纘を後嗣とした。別に伝がある。
武德郗皇后
武德郗皇后は諱を徽といい、高平郡金郷県の人である。祖父の紹は、宋の国子祭酒・領東海王師であった。父の曄は太子舎人で、早くに亡くなった。后の母は宋の文帝の娘の尋陽公主である。妊娠中、貴い子を生む夢を見た。后が生まれると、赤い光が部屋を照らし、器物がすべて明るくなったので、家人は怪しんだ。巫が言うには「この娘は光が高いので、何か妨げがあるだろう」と。そこで水辺で祓い清めた。
后は酷く嫉妬深く、死後、龍に化して後宮の井戸に入り、帝に夢で通じた。ある時は姿を現し、光り輝いて照り映えた。帝の体が不安になると、龍は激しく水を湧き上がらせた。露井の上に殿を造り、衣服を積み重ね、常に銀の鹿盧と金の瓶に百味を満たして祀った。それ故に帝はついに后を立てなかった。
武丁貴嬪
武丁貴嬪は諱を令光といい、譙国の人である。祖父が襄陽に官として赴任し、それによって沔水の北の五女村に住み、劉惠明の屋敷の下屋に寓居した。貴嬪は樊城で生まれた。生まれた時、神聖な光の異変があり、紫の気が部屋に満ちたので、「光」を名とした。相者(占い師)が言うには「大いに貴くなるであろう」と。幼い頃、隣の女たちと月下で紡績をしていたが、女たちは皆蚊や蚋に悩まされたが、貴嬪はそれを感じなかった。郷人の魏益德が娶ろうとしたが、まだ成らぬうちに、武帝が樊城を鎮守し、かつて楼に登って眺めると、漢水の岸辺に五色のものが龍のようであり、その下に女子が絹を捶っていた。それが貴嬪であった。また丁氏が人を通じて相者の言葉を帝に聞かせると、帝は金環を贈って迎え入れ、時に十四歳であった。貴嬪は生まれつき左腕に赤い痣があり、治療しても消えなかった。また体に多くの疣があったが、この時、いつの間にかすべて消えていた。徳后(郗皇后)は酷く嫉妬深く、貴嬪を無道に扱い、日に五斛を搗かせたが、搗くことが常に規定量に達するのは、助ける者がいるかのようであった。遇され方は厳しかったが、ますます慎み深く敬った。かつて経典を供養する机の傍で、彷佛として神人のようなものを見たので、心に異と感じた。
貴嬪は性質が仁恕で、宮中にあって人に接し下を治めるのに、下々まで皆その歓心を得た。華美な飾りを好まず、器物や衣服に珍しいものや麗しいものはなかった。親戚のために私的に取り次ぎを請うたことはなかった。武帝が仏教を弘めると、貴嬪は進んで菜食を摂った。戒を受けた日、甘露が殿前に降り、一丈五尺四方に広がった。帝の立てた経義は、皆その指帰を得ており、特に『淨名經』(維摩経)に精通した。普通七年十一月庚辰、薨去し、柩を東宮の臨雲殿に移した。時に四十二歳。詔して吏部郎張纘に哀冊文を作らせ、有司が諡を穆と奏上し、甯陵に葬り、小廟に合祀した。簡文帝が即位すると、追って太后と崇めた。
貴嬪の父の道遷は、天監初年に歴陽太守となった。廬陵威王が生まれた時、武帝は彼に言った。「賢女がまた一男を産んだ。」答えて言った。「猪狗の子などと言うな。」世間の人はこれを笑いとした。後に兗州刺史・宣城太守の位に至った。
文宣阮太后
文宣阮太后は諱を令嬴といい、会稽余姚の人である。本来の姓は石であった。初め、斉の始安王蕭遙光がこれを娶った。遙光が敗れると、東昏侯の宮中に入った。建康城が平定されると、武帝の采女となった。懐妊中に、龍がその寝台を覆う夢を見た。天監七年八月、後宮において元帝を生んだ。この日、大赦が行われた。まもなく修容に任じられ、阮の姓を賜った。かつて元帝に従って出藩した。大同九年六月、江州の正寝において薨去した。時に六十七歳であった。その年の十一月、江寧県通望山に帰葬され、諡を宣といった。元帝が即位すると、有司が奏上して追崇して文宣太后とし、小廟に還祔させた。
簡文王皇后
元帝徐妃
敬夏太后
敬王皇后
南朝陳
陳武宣章皇后
武帝が崩御すると、后は中書舎人蔡景歴と計らいを定め、秘して喪を発さなかった。時に衡陽献王陳昌が未だ到着せず、文帝を召した。そして即位すると、后を尊崇して皇太后とし、宮を慈訓といった。廃帝が即位すると、后は太皇太后となった。
皇后の親族で朝廷に在る者はなく、ただ本族の兄の沈鈕洽のみが中散大夫の官に至った。
文沈皇后
文沈皇后は諱を妙容といい、呉興武康の人である。父は沈法深、梁の安前中録事参軍であった。后は十歳余りの時、梁の大同年間に文帝に嫁いだ。武帝が侯景を討った時、文帝は当時呉興におり、后と共に捕らえられたが、侯景が平定されて後、ようやく免れた。武帝が即位すると、后は臨川王妃となった。文帝が即位すると、皇后となった。后の父法深を追贈して光禄大夫とし、金章紫綬を加え、建城県侯に封じ、諡して恭といった。后の母高氏を追贈して綏安県君とし、諡して定といった。廃帝が即位すると、后を尊んで皇太后とし、宮を安德といった。
当時、宣帝と僕射の到仲挙、舎人の劉師知らは、共に遺命を受けて政を補佐していた。師知と仲挙は常に禁中に居り、多くの事柄を参決したが、宣帝は揚州刺史として、左右三百人を率いて尚書省に入居していた。師知は宣帝の権力が重いのを忌み、詔勅を偽って東府に還り州の事務を処理するよう命じた。宣帝が出立しようとした時、毛喜が帝を止めて言うには、「今もし外に出れば、直ちに人の制を受けることになり、曹爽が富家の公たらんことを願っても得られなかったようなことになります」と。宣帝はそこで病と称し、師知を召し留めて語らせ、毛喜を先に入らせ、后にこのことを言上させた。后は言った、「今伯宗(廃帝)は幼く、政事はすべて二郎(宣帝)に委ねている。これは私の意ではない」と。喜はまた廃帝に言上すると、廃帝は言った、「これは師知らがしたことであって、朕の意ではない」と。喜が出て宣帝に報告すると、宣帝はそこで師知を囚禁した。自ら入って后と帝に謁し、師知の短所を極力陳述した。そして自ら詔勅を草し、画可を請い、師知を廷尉に付した。その夜、獄中で死を賜った。ここより政は宣帝に帰した。后は憂悶し、計る所なく、ひそかに宦官の蒋裕を賄い、建安人の張安国を誘って郡を占拠させ反乱を起こさせ、これによって帝を図ろうとした。安国の事は発覚して誅殺され、当時后の左右の近侍はこの事をよく知っていたので、后は連座して党与に及ぶことを恐れ、皆殺しにした。
宣帝が即位すると、后を文皇后とした。陳が滅亡して隋に入り、大業初年に長安から江南に帰ったが、間もなく卒した。
后の兄の沈欽は、爵を襲い建城侯となり、位は尚書左僕射に至った。欽は元来技芸才能がなく、己を守るのみであった。卒し、諡して成といった。子の沈観が嗣ぎ、頗る学識があり、官は御史中丞に至った。
廃帝王皇后
宣柳皇后
後主沈皇后
后は性質端静で、識量があり、嗜欲寡く、聡敏で記憶力強く、経史に渉猟し、書翰に巧みであった。後主が東宮にいた時、后の父君理が卒し、別殿に居て憂いに処し、哀毀礼を過ぎた。後主は后に対し既に薄く遇し、張貴妃が寵愛され、後宮の政を総べたが、后は澹然として嘗て忌み怨むところがなかった。そして身を儉約に居し、衣服に錦繡の飾りがなく、左右の近侍は僅か百人余りで、ただ図史及び釈典を尋閲することを事とした。嘗て歳旱に遇い、自ら身を曝して仏経を誦すると、時に応じて雨が降った。子がなく、孫姫の子の胤を養って己が子とした。数度上書して諫争したが、後主は彼女を廃して張貴妃を立てようとしたが、国が滅亡したために果たせず、乃ち後主と共に長安に入った。後主が薨じると、后は自ら哀辞を作り、文は甚だ酸切であった。
隋の煬帝は巡幸する度に、常に従駕を命じた。煬帝が殺害されると、后は広陵から江を渡り、毘陵の天静寺で尼となり、名を観音といった。貞観初年に卒した。
後主の張貴妃麗華
張貴妃は名を麗華といい、兵家の女である。父兄は席を織ることを業としていた。後主が太子であった時、選ばれて宮中に入った。当時龔貴嬪が良娣であり、貴妃は十歳で、その給使となった。後主はこれを見て悦び、寵愛を得て、遂に懐妊し、太子深を生んだ。後主が即位すると、貴妃に拝された。性質は聡明で、甚だ寵遇された。
後主は始め始興王叔陵の乱に遭い、傷つき、承香殿に臥せっていた。当時諸姫は皆進むことができず、ただ貴妃のみが侍っていた。一方柳太后はなお柏梁殿に居り、即ち皇后の正殿である。そして沈皇后は元より後主の寵愛がなく、病に侍ることができず、別に求賢殿に住んだ。
張貴妃の髪は長さ七尺、黒く漆の如く、その光は鑑とすべし。特に聡慧で、神彩あり、進止は閑雅で、容色は端麗であった。毎に瞻視眄睞するに、光彩は目に溢れ、左右を照映した。嘗て閣上で粧いを整え、軒檻に臨むと、宮中より遥かに望めば、飄として神仙の若し。才弁強記で、よく人主の顔色を窺った。諸宮女を推薦し、後宮は皆その徳とし、競ってその善を言った。また厭魅の術に巧みで、鬼道を仮りて後主を惑わした。淫祀を宮中に置き、諸女巫を集めて鼓舞させた。
当時後主は政事に怠り、百官の啓奏は、皆宦官の蔡臨児・李善度を因って進請し、後主は隠囊に倚り、張貴妃を膝上に置いて共にこれを決した。李・蔡の記し得ざる所は、貴妃が皆これを疏条し、遺脱する所無かった。外事を参訪するに因り、世間に一言一事あれば、貴妃は必ず先ずこれを知って白し、これにより益々寵異を加え、後庭に冠絶した。そして後宮の家は、法度を遵ばず、理に絓る者あれば、ただ貴妃に恩を求め、貴妃は則ち李・蔡に先ずその事を啓させ、然る後に従容としてこれを言わせた。大臣に従わざる者あれば、これに因って譖し、言うこと聴かれざる無し。ここにおいて張・孔の権勢は四方に熏灼し、内外の宗族は多く引用され、大臣執政もまた風に従って靡いた。閹宦便佞の徒は、内外に交結し、転相引進した。賄賂は公行し、賞罰は常無く、綱紀は瞀乱した。隋軍が台城を克つに及んで、貴妃は後主と共に井に入り、隋軍がこれを出し、晋王広は命じて青溪の中橋でこれを斬らせた。
史論
論じて曰く、飲食男女は、人の大欲の存する所なり、故に聖人は人情に順いてこれが度を為す。王宮六列、士室二等は、皆事に随って升降し、以て節文を立てる。若し夫れ義閫闈に篤く、政刑邦国に及ぶは、古の先哲の王これ有りて以て化を致す。后妃が夕を専らにするは、徳を以て配し昇り、姫嬙並びに禦するは、色幸に非ずして進み、情の覃被する有らんことを欲し、愛の偏流する無からしめ、専貞内に表れ、妖蠱外に息み、乃ち以て君徳を輔興し、陰政を燮理すべし。
宋氏は晋の旧典に因り、聘納方有り、天に俔いて儷と作すは、必ず四嶽の後なり。元嘉以降、内職稍々繁く、選ぶ所は軍署に止まり、徴引するは厮皁に極まり、晋氏の采択の如く冠冕に濫及する者に非ざるなり。而して愛は帷房に止まり、権は外に授けず、戚属の餼賚は、歳時に過ぎず肴漿、これ美と為す。文帝の潘嫗に傾惑し、謀りを婦人に及ぼし、大明の殷姫に淪没し、后を並べ嫡に匹するは、その喪敗と為る、亦已に甚だし。
斉氏の孝・昭二后は、並びに賢明の訓有り、惜しむらくは早世し、万国に母臨するを得ず。婦人有りて、空しく周典を慕い、禎符顕瑞、徒らに徽名を萃む。高皇命を受く、宮禁貶約し、衣は文繡せず、色に紅采無く、永巷貧空、素室と同じし。武帝位を嗣ぎ、運は休平に藉り、寿昌前に興り、鳳華晩に構え、香柏文檉、花梁繡柱、金を彫り宝を鏤り、房帷を照燭し、趙瑟呉趨、閑を承けて曲を奏す、事は私蓄に由り、国儲を損せず。明帝業を統べ、情を矯めて儉陋にし、己を奉ずるの制、曾て雲の改むる莫し。東昏道を喪い、侈風大いに扇ぎ、哲婦城を傾け、殷・夏に符を同じくす、以て誡を垂るべし、其れ斯に在るか。梁武志は約己に在り、宮掖の存するを示す、貴嬪の徽華早く著るも、元良を誕育すと雖も、唯崇重を見るのみ、正位を聞かず。徐妃行無く、其れ殲滅するや宜なるかな。
陳武は茲の帰運を撫で、奄に帝業を開く。若し夫れ天に儷して則を作し、王化を燮隆するは、則ち宣太后其れ懿なり。文・宣の宮壼は、喪徳に聞こえ無く、後主業を嗣ぐ、実に椒房に敗る、既に牝晨と曰い、亦唯だ家の索くるのみ。