【序】
梁の武帝は乱を撥ねて反正し、奢逸を深く鑑み、配徳は早く終わり、長秋の位は久しく空位であった。令を定めて貴妃・貴嬪・貴姫を三夫人とし、淑媛・淑儀・淑容・昭華・昭儀・昭容・修華・修儀・修容を九嬪とし、婕妤・容華・充華・承徽・列栄を五職とし、美人・才人・良人を三職とした。東宮には良娣・保林を二職として置いた。簡文帝・元帝は儲蕃より出で、あるいは拘縶の中に迫られ、あるいは寇乱に逼られ、かつ妃はともに先に殂し、更に椒閫を建てなかった。
陳の武帝は天暦を光栄に受け、質素を以て自ら処したので、後宮の員位はその数多く欠けていた。文帝の天嘉の後、詔して宮職に員を備えた。その制定したところは、梁の旧制を改めなかった。これを令文に編し、もって後の法とした。しかし帝の性質は恭儉であり、嬪嬙は備わらなかった。宣帝・後主は改作するところがなかった。今総べて綴緝し、もってこの篇を立てる。
南朝宋
孝穆皇后 趙安宗
孝懿皇后 蕭文寿
卓は初め趙裔とともに金紫光禄大夫を追贈され、また封陽県侯に追封された。妻の下邳趙氏を呉郡寿昌県君に封じた。卓の子源之が爵を襲い、源之は子の思話伝に見える。
武敬皇后 臧愛親
武敬臧皇后は諱を愛親といい、東莞の人である。祖父は汪、尚書郎、父は雋、郡功曹であった。后は武帝に嫁ぎ、会稽宣長公主の興弟を生んだ。帝は倹正を以て下に率い、后は恭謹で違うことがなかった。義熙四年正月甲子、東城にて殂し、豫章公夫人を追贈され、丹徒に還葬された。帝は臨崩に際し、遺詔して建鄴に留葬するよう命じた。ここにおいて法駕を備えて梓宮を迎え、初寧陵に祔葬した。宋の初めに雋を金紫光禄大夫に追贈し、妻の高密叔孫氏を遷陵永平郷君とした。雋の子燾・熹は、ともに別に伝がある。
武帝夫人 張闕
文章皇太后胡道安
文章胡太后、諱は道安、淮南の人なり。義熙初年、武帝に納れらる。文帝が五歳の時、譴責を受けて賜死し、丹徒に葬らる。武帝践祚の後、婕妤を追贈さる。文帝即位の際、有司が尊号を「章皇太后」と上奏し、陵を「熙寧」と称し、廟を建鄴に立てる。
少帝皇后司馬茂英
文元皇后袁齊媯
文元袁皇后、諱は齊媯、陳郡陽夏の人、左光禄大夫湛之の庶女なり。母は元より卑賤、后が六歳の年齢に至って初めて挙げらる。後に文帝に適し、初め宜都王妃に拝され、子の劭及び東陽献公主英娥を生む。上は后に対し恩礼甚だ篤く、袁氏は貧薄なれば、后は毎度上に就きて銭帛を求め以て贍う。上は性倹約にして、得る所は五三万銭、五三十匹布に過ぎず。後に潘淑妃寵愛を得て、その愛は後宮を傾け、求むる所無からざると咸に言う。后これを聞き、信ずるや否や知らず、乃ち潘に因りて三十万銭を家に求めしめ、以て上の意を観んとす。一宿にして便ち得たり。ここに因りて恚恨し疾を称し、復た上に見えず、遂に憤恚して疾を成す。元嘉十七年、疾篤く、上は手を執りて流涕し、言わんと欲する所を問う。后は上を良久視て、乃ち被を引きて面を覆い、顕陽殿にて崩ず。上は甚だ悼痛し、詔して前永嘉太守顔延之に哀策を作らしむ。文は甚だ麗なり。奏上するに及び、上自ら「撫存悼亡、感今懐昔」の八字を益して以て意を致す。有司が諡を宣皇后と奏す。詔して諡を元と曰す。初め、后が劭を生み、自ら詳しく視て、人を馳せて帝に白さしむ。「此の児形貌異常、必ず国を破り家を亡ぼすべし、挙ぐべからず」と。便ち殺さんと欲す。文帝狼狽して後殿の戸外に至り、手ずから幔を掇って禁じ、乃ち止む。
后の亡き後、常に小小の霊応あり。明帝を生める沈美人、嘗て罪無きに非を以て責められ、死を賜わるべく、后の昔住みし徽音殿の前を過ぐ。此の殿は五間あり、后の崩じて後常に閉ざさる。美人、殿前に至り流涕して大いに言う。「今日罪無くして死に就く、先後に若し霊あらば之を知るべし」と。殿戸応声にして豁然と開く。職掌者急ぎて文帝に白す。驚き往きて之を視るに、美人乃ち釈放を得たり。大明五年、孝武帝乃ち詔して后の生める外祖父の親王夫人を豫章郡新淦平楽郷君と追贈し、又詔して趙、蕭、臧光禄、袁敬公、平楽郷君の墓、先に未だ塋戸を与えざるに、各々蛮戸三を給し以て灑掃に供せしむ。後の公湛之は自ら伝有り。
潘淑妃
潘淑妃は、本より容貌を以て進み、初めは未だ賞せられず。帝は羊車に乗り諸房を経るを好む。淑妃は毎度荘厳に飾り帷を褰げて候い、並びに密かに左右に令して鹹水を以て地に灑かしむ。帝の戸に至る毎に、羊は輒ち地を舐めて去らず。帝曰く、「羊すら汝が為に徘徊す、況んや人においてをや」と。ここに於いて愛は後宮を傾く。
孝武昭皇太后路惠男
孝武昭路太后、諱は惠男、丹陽建康の人なり。色貌を以て選ばれ後宮に入り、孝武帝を生み、淑媛に拝せらる。年長ずるに及び、寵無く、常に孝武に随い蕃に出づ。孝武帝即位の際、有司が尊号を太后と奉るを奏し、宮を崇憲と曰す。太后は顕陽殿に居す。上は閨房の内に於いて礼敬甚だ寡く、御幸する所あるも、或いは太后の房内に留止す。故に人間咸に醜声有り。宮掖の事秘にして、亦た能く弁ぜず。
初め、明帝は少くして生母を失い、太后に摂養せられ、撫愛甚だ篤し。即位するに及び、供奉の礼儀は旧日に異ならず。有司が別に外宮に居るべしと奏す。詔して親しく晨昏を奉じ、閨禁に歓を尽くさんと欲し、奏する所の如くせず。義嘉の難作ると聞くに及び、太后は心に之を幸いし、上を延いて酒を飲ませ、毒を置きて進む。侍者が上衣を引く。上悟り、起ちて其の卮を以て上寿す。是の日太后崩ず。秘して喪事を礼の如くす。殯を東宮に遷し、題して崇憲宮と曰す。又詔して太后の恩慈を述べ、特に斉衰三月を以て追遠を申べしむ。諡して昭皇太后と曰し、孝武陵の東南に葬り、号して修寧陵と曰す。
先に、晋安王子勳未だ平らがざるに、巫者が昭太后の陵を開き、梓宮を毀ち去りて以て厭勝すべしと謂う。修復は倉卒にして、礼の如くするを得ず。上は性忌み、将来の災を致すを慮り、泰始四年夏、有司に詔して曰く、「崇憲昭太后の修寧陵の地は、大明の世、久しく考卜せし所なり。前歳諸蕃の難に遭い、礼は権宜に従い、未だ営改に暇あらず。而して塋隧の所、山原卑陋なり。旧典を式遵し、礼を以て改創すべし」と。有司「修寧陵の玄宮の毀壊を補葺し、権に油殿を施し、暫く梓宮を出だし、事畢りて即ち窆す」と奏請す。詔して可とす。廃帝の景和年中、又興之に侍中、金紫光禄大夫を追贈し、諡して孝侯と曰す。道慶に光禄大夫、開府儀同三司を贈り、諡して敬侯と曰す。道慶の女は皇后となり、休之を以て侍中とす。
明宣皇太后沈容姫
明宣沈太后は諱を容姫といい、何の出であるかは知られていない。文帝の美人となり、明帝を生み、婕妤に拝された。元嘉三十年に卒し、建康の莫府山に葬られた。孝武帝が即位すると、湘東国太妃を追贈された。明帝が即位すると、有司が尊号を皇太后と上奏し、諡を宣とし、陵号を崇寧とした。
孝武文穆皇后王憲嫄
孝武文穆王皇后は諱を憲嫄といい、琅邪郡臨沂県の人である。元嘉二十年、武陵王妃に拝され、廃帝・豫章王劉子尚・山陰公主劉楚玉・臨淮康哀公主劉楚佩・皇女劉楚琇・康楽公主劉修明を生んだ。孝武帝が藩王であった時、后は大いに寵愛され、即位すると皇后となった。
大明四年、后は六宮を率いて西郊で躬桑を行い、皇太后が礼を観覧し、妃主以下は皆班錫を加えられた。廃帝が即位すると、皇太后と尊称し、宮を永訓といった。その年に含章殿で崩じ、景寧陵に祔葬された。父の王偃は別に伝がある。
宋孝武淑儀殷氏
時に巫者がいて鬼を見ることができ、帝に言って貴妃を招き寄せられると説いた。帝は大いに喜び、召すように命じた。しばらくして、果たして帷の中に平生の如き形を見た。帝が話そうとすると、黙然として答えなかった。手を取ろうとすると、たちまちにして消え、帝は特に咽び恨んだ。そこで李夫人の賦を擬して意を寄せた。謝荘が哀策文を作って奏上すると、帝は臥して読み、起き上がって坐り涙を流して言った、「今の世にまたこのような才があるとは思わなかった」と。都下で伝写し、紙墨がそれで高騰した。或いは言う、貴妃は殷琰の家人で義宣の家に入り、義宣が敗れて宮に入ったという。
前廃帝皇后何令婉
后の父の何瑀は字を幼玉といい、晋の尚書左僕射何澄の曾孫である。何瑀は武帝の末女の豫章康長公主(諱は次男)を尚った。公主は先に徐喬に嫁いだが、容色が美しく、聡明で智数があった。文帝の世、礼遇は特に厚かった。何瑀は当時豪奢を競い、平昌の孟霊休・東海の何勖らと共に輿馬を以て互いに誇った。公主と何瑀の情愛は厚く密で、何氏の疏戚は皆恩礼に浴した。何瑀は位は右衛将軍に至り、公主が薨じ、何瑀の墓が開かれた後、孝武帝は何瑀に金紫光禄大夫を追贈した。
何瑀の兄の子の何衍は性が躁動で、位は黄門郎に至り、拝された後、司徒司馬を求め、司馬を得ると、また太子右率を求め、一二日拝されると、また侍中を求めた。旬日の間に、求進すること已むことがなかった。侍中を得られず、怨み罵ったことで賜死された。
明恭皇后王貞風
明恭王皇后は諱を貞風といい、琅邪郡臨沂県の人である。初め淮陽王妃に拝され、明帝が改封されると、また湘東王妃となった。晋陵長公主劉伯姒・建安長公主劉伯媛を生んだ。明帝が即位すると、皇后に立てられた。帝がかつて宮内で大いに集まり、裸の婦人を見物して、これを歓笑とした。后は扇で面を遮り、独り何も言わなかった。帝は怒って言った、「外戚の家は寒乞であるのに、今共に笑楽を作るのに、何故独り見ないのか」と。后は言った、「楽しみの事は、その方法は自ら多い。豈に姑姉妹が集まるのに、裸の婦人の形体を見て、これを楽しみとするものがあろうか。外戚の家の歓適は、これとは異なる」と。帝は大いに怒り、后に起つことを命じた。后の兄の揚州刺史王景文はこの事を従舅の陳郡の謝綽に語って言った、「后は家に在った時は儜弱な婦人であったが、今この段になって遂に能く剛正であるとは知らなかった」と。
後廃帝の太妃陳妙登
後廃帝の皇后江簡珪
後廃帝の江皇后は諱を簡珪といい、済陽考城の人である。泰始五年、明帝が太子妃を求めたが、小術を雅びに信じ、名家の娘は多く合わなかった。江氏は華族ではあったが、后の父祖はともに既に亡く、弟もまた幼弱であった。卜筮が吉と出たため、太子に納れることとした。六年、皇太子妃に拝され、朝士や州郡に諷して皆献物させ、多いものは価値百金に及んだ。始興太守孫奉伯はただ琴と書を献上しただけで、その他に余分な物はなかった。上(明帝)は大いに怒り、封薬を賜って死を命じたが、まもなくこれを許した。太子が帝位に即くと、皇后に立てられた。帝が廃されると、后は蒼梧王妃に降格された。祖父の智深は独自に伝がある。
順帝の太妃陳法容
順帝の陳太妃は諱を法容といい、丹陽建康の人である。明帝は元来肥満で、晚年には廃疾により内宮を御することができず、諸弟の姬人で身ごもっている者がいれば、すぐに取り入れて宮中に入れた。そして男児が生まれると、皆その母を殺し、六宮で寵愛されている者に養わせた。順帝は、桂陽王休範の子であり、陳昭華を母とした。明帝が崩御すると、昭華は安成王太妃に拝された。順帝が即位すると、皇太妃に進んだ。順帝が位を譲ると、皇の号を除き太妃の号のみを存した。
順帝の皇后謝梵境
南朝斉
宣孝皇后陳道止
斉の宣孝陳皇后は諱を道止といい、臨淮東陽の人で、魏の司徒陳矯の後裔である。后の家は貧しく、幼少より機織りに勤しみ、家人がその労を哀れみ、あるいは止めようとしたが、后は終いに改めなかった。宣帝に嫁いだ。宣帝の庶子として衡陽元王道度、始安貞王道生が生まれ、后は高帝を生んだ。高帝が二歳の時、乳母に乳が乏しく、后が夢に人が二つの甌の麻粥を与えるのを見て、目覚めると乳が驚くほど出るようになり、これにより豊かになった。宣帝が任地に赴き在外すると、后は常に家に留まり、相見する者が后に言うには、「夫人には貴い子がいますが、それに会っていません」。后は嘆いて言った、「私には三人の子がいるが、誰がそれに当たるのだろうか」。高帝の小字を呼んで言った、「正に汝であろう」。
永明九年、詔して太廟の四時祭において、宣皇帝には起面餅と鴨の塩漬けを薦め、孝皇后には筍・鴨卵・脯醤・炙白肉を薦め、高皇帝には肉膾・葅羹を薦め、昭皇后には茗粣・炙魚を薦めることとした。いずれも生前に嗜んだものである。
高昭皇后劉智容
高昭劉皇后は諱を智容といい、広陵の人である。祖父は玄之、父は寿之、ともに員外郎であった。后の母桓氏は、玉勝を呑む夢を見て后を生み、その時紫光が部屋中に満ちたので、寿之に告げた。寿之は言った、「残念ながら男ではない。」桓は笑って言った、「たとえ女であっても家を興すには足りよう。」後に寝ていると、羽蓋がその上を覆っているのを見、家人が試しに観察すると、常にその上に靄がかかったように雲気があるのを見た。
武穆皇后裴惠昭
武穆裴皇后は諱を惠昭といい、河東聞喜の人である。祖父は封之、給事中。父は璣之、左軍参軍。后は若い時、豫章王妃庾氏と嫁姉妹の間柄であったが、庾氏は女工に勤勉で、高昭后(劉智容)に仕えて恭謹で倦むことがなかったが、后は及ばず、故に舅姑(夫の父母)に重んじられず、武帝(蕭賾)も軽んじた。
当時、石志を立てようとの議があり、王儉が言った、「石志は礼典に出ず、宋の元嘉年間に顔延之が王球のために石志を作ったことに始まる。素族には銘策が無いので、行跡を記すために用いた。それ以来、共にこれを習い継いでいる。儲妃の重みは、礼が恒例を絶するものであり、既に哀策がある以上、石志を煩わす必要はない。」これに従った。武帝が即位すると、皇后を追尊した。父璣之に金紫光禄大夫を、后の母檀氏に余杭広昌郷元君を追贈した。
旧来、顕陽殿と昭陽殿の二殿は、太后と皇后の居所であった。永明年間には太后・皇后がおらず、羊貴嬪が昭陽殿の西に、范貴妃が昭陽殿の東に住み、寵姫の荀昭華が鳳華柏殿に住んだ。宮内で御所である寿昌画殿の南閣には、白鷺鼓吹二部を置き、幹光殿の東西の頭には、鍾と磬を両廂に置き、いずれも宴楽の場所であった。上(武帝蕭賾)はしばしば諸苑囿に遊幸し、宮人を載せて后車に従わせた。宮内は深く隠れており、端門の鼓漏の声が聞こえないので、景陽楼の上に鐘を置き、五鼓及び三鼓に応じた。宮人は鐘の声を聞くと、早起きして装いを整えた。車駕はしばしば琅邪城に行幸し、宮人が常に従ったが、早く出発して湖北埭に至ると、鶏がようやく鳴くので、故にこれを鶏鳴埭と呼んだ。
韓蘭英
婦人で呉郡の韓蘭英は文辞があり、宋の孝武帝の時に『中興賦』を献じて賞され宮中に入った。宋の明帝の時、宮中の職僚として用いられた。武帝(蕭賾)の時に至り、博士とされ、六宮に書学を教えた。その年老いて多くを識るゆえに、韓公と呼んだという。
文安皇后王寶明
鬱林王妃何婧英
妃は淫乱な性分を持ち、南郡王(蕭昭業)が付き合う無頼の者の中で、妃はその美しい者を選び、皆と交歓した。南郡王の侍書人である馬澄は年少で容色が美しく、妃に大いに気に入られ、常に腕相撲をして力を較べ、南郡王はこれを笑い楽しみとした。
何澄は元来剡県の寒人(下層民)であり、かつて南岸で人家の娘を強引に略奪し、秣陵県に逮捕されたが、南郡王が県に命じて釈放させた。
何澄はまた姨の娘を妾にせんと強要したが、姨が与えず、何澄は建康令の沈徽孚のもとに訴え出た。
徽孚は言った、「姨の娘は妻とはなれても、妾とはなれぬ」。
何澄は言った、「私の父は給事中であり、家柄は既に成っている。姨の家はなお寒賤であるから、まさに妾とするに足るのみ」。
徽孚は叱りつけて追い返した。
永明十一年、皇太孫妃となった。
また女巫の子の楊瑉之がおり、美貌もあり、妃は殊にこれを愛悦し、ともに寝起きし、夫婦の如くであった。
太孫が帝位につくと、皇后とされ、皇后の嫡母劉氏を高昌県都郷君に、生母宋氏を余杭広昌郷君に封じた。
皇后が拝謁せんとする時、鏡が床から理由なく堕地した。
その冬、太后と同日に太廟を謁した。