南史
巻第十 陳本紀下 第十(巻十一へ続く)
宣帝
高宗孝宣皇帝は諱を頊、字を紹世、小字を師利といい、始興昭烈王の第二子である。梁の中大通二年七月辛酉に生まれ、赤光が室に満ちた。少時より寛容で、智略に富んだ。成長すると、容貌は美しく、身長は八尺三寸、手を垂らせば膝を過ぎ、勇力があり、騎射に長じた。武帝が侯景を平定し京口を鎮守した時、梁の元帝が武帝の子や甥を侍従として召し出したので、武帝は帝を江陵に赴かせた。累官して中書侍郎となった。時に軍主の李総は帝と旧知であり、常に共に遊び起居していたが、帝がかつて夜に酒に酔い、灯りを点けて眠っていると、李総がちょうど出て行き、すぐに戻って来て、帝が大龍であるのを見て、驚いて他の室に走り去った。魏が江陵を平定すると、長安に移された。帝の容貌は愚かそうであったが、魏の将軍楊忠の門客張子煦がこれを見て奇異とし、「この人は虎の頭をしており、必ず大いに貴くなるであろう」と言った。
永定元年、遠くより始興郡王の封を襲いだ。文帝が位を嗣ぐと、安成王に改封された。天嘉三年、周より帰還し、侍中・ 中書監 ・中衛将軍を授けられ、佐史を置かれた。 司空 ・ 尚書令 の位を歴任した。廃帝が即位すると、 司徒 ・録尚書・ 都督 中外諸軍事に拝された。光大二年正月、位を進めて太傅となり、 司徒 を領し、殊礼を加えられ、剣履上殿を許された。十一月甲寅、慈訓太后が廃帝を廃して臨海王とし、帝をして皇統を継がしめた。この月、斉の武成帝が崩じた。
太建元年春正月甲午、皇帝は太極前殿において即位し、大赦を行い、元号を改めた。文武の官には位一階を賜い、孝悌力田および父の後を継ぐ者には爵一級を賜い、鰥寡で自ら生活できない者には、人ごとに穀五斛を賜った。太皇太后の尊号を復して皇太后と称した。妃柳氏を立てて皇后とし、世子叔宝を皇太子とした。皇子で江州刺史の康楽侯叔陵を始興王に封じ、昭烈王の祭祀を奉じさせた。乙未、太廟に謁した。丁酉、大使を分命し、四方の風俗を観察させた。尚書僕射沈欽を左僕射とし、度支尚書王勱を右僕射とした。辛丑、南郊で祭祀を行った。壬寅、皇子の建安侯叔英を 豫 章王に、豊城侯叔堅を長沙王に封じた。
二月乙亥、藉田を耕した。
夏五月甲午、斉の使いが来朝して聘問した。丁巳、吏部尚書徐陵を尚書右僕射とした。
秋七月辛卯、皇太子が妃沈氏を納れ、王公以下に帛を賜うことそれぞれ差等があった。
冬十月、新たに左衛将軍に任じられた歐陽紇が広州に拠って 反 した。辛未、開府儀同三司章昭達を派遣してこれを討たせた。
二年春二月癸未、章昭達が歐陽紇を捕らえて都に送り、建康の市で斬った。広州は平定された。
三月丙申、皇太后が崩じた。丙午、広州・衡州の二州を曲赦した。丁未、大赦を行った。また詔して、周迪・華皎を討伐して以来、兵士で死亡した者があるところは、すべてこれを収斂させ、棺槥を与えて本郷に送還させよと命じた。
夏四月乙卯、臨海王伯宗が薨じた。戊寅、皇太后を萬安陵に祔葬した。
五月壬午、斉の使いが来朝して弔問した。
六月戊子、新羅国が使いを遣わして朝貢した。辛卯、大雨雹が降った。乙巳、大使を分遣して州郡を巡行させ、冤屈を省みさせた。
冬十一月辛酉、高麗国が使者を遣わして朝貢した。
十二月癸巳、雷が鳴った。
三年春正月癸丑、尚書右僕射の徐陵を尚書僕射とした。辛酉、南郊で祭祀を行った。
二月辛巳、明堂で祭祀を行った。丁酉、藉田を耕した。
三月丁丑、大赦を行った。
夏四月壬辰、斉の人が来聘した。
五月辛亥、高麗・新羅・丹丹・天竺・盤盤などの国がともに使者を遣わして朝貢した。
六月丁亥、江陰王の蕭季卿が罪により免官された。甲辰、東中郎長沙王府諮議参軍の蕭彝を江陰王に封じた。
冬十月乙酉、周の人が来聘した。
十二月壬辰、 司空 の章昭達が薨去した。
四年春正月丙午、尚書僕射の徐陵を左僕射とし、 中書監 の王勱を右僕射とした。
二月乙酉、皇子の叔卿を立てて建安王とした。
三月乙丑、扶南・林邑国がともに使者を遣わして朝貢した。
夏五月癸卯、尚書右僕射の王勱が卒した。この月、周の人が塚宰の宇文護を誅殺した。
秋八月辛未、周の人が来聘した。
九月庚子朔、日に蝕あり。辛亥、大赦す。丙寅、故太尉徐度、儀同三司杜棱・程霊洗を以て武帝廟庭に配食し、故 司空 章昭達を以て文帝廟庭に配食す。
冬十一月己亥、地震す。
是の歳、周の建徳元年。
五年春正月癸酉、吏部尚書沈君理を以て尚書右僕射と為し、吏部を領せしむ。辛巳、南郊を祀る。
二月辛丑、明堂を祀る。乙卯の夜、白気虹の如く有り、北方より北斗紫宮を貫く。
三月壬午、開府儀同三司吳明徹を以て征討諸軍事を 都督 せしめ、北辺の地を略取せしむ。丙戌、西衡州馬角を生ずるを献ず。己丑、皇孫胤生まる。内外文武に帛を賜ひ、各差有り。父を後とする者に爵一級を賜ふ。
夏六月癸亥、周人聘問に来る。
秋九月癸未、尚書右僕射沈君理卒す。壬辰晦、夜明るし。
冬十月己亥、特進周弘正を以て尚書右僕射と為す。乙巳、吳明徹寿陽城を克ち、王琳を斬り、首を建鄴に伝へ、朱雀航に梟す。
十二月壬辰、熊曇朗・留異・陳宝応・周迪・鄧緒等及び王琳の首を並びに親属に還し、以て弘く宥を広むることを詔す。乙巳、皇子叔明を立てて宜都王と為し、叔献を河東王と為す。
是の歳、諸軍地を略し、所在に克捷す。
六年春正月壬戌、江右淮北諸州を赦す。甲申、周人聘問に来る。高麗国使いを遣はし朝貢す。
二月壬辰朔、日に蝕あり。辛亥、藉田を耕す。
夏四月庚子、彗星見ゆ。
六月壬辰、尚書右僕射周弘正卒す。
冬十一月乙亥、北辺の行軍の地に詔して、すべて十年間の租税を免除す。
十二月戊戌、吏部尚書王瑒を尚書右僕射とす。
七年春正月辛未、南郊に祀る。
三月辛未、詔して 豫 、二兗、譙、徐、合、霍、南司、定の九州及び南 豫 、江、郢の管轄する江北の諸郡に、雲旗義士を置き、大軍及び諸鎮の防備に赴かしむ。
夏四月丙戌、星孛(彗星)大角に現る。庚寅、 豫 州を監する陳桃根、青牛を献ず。詔してこれを百姓に還す。乙未、桃根また織成の羅紋錦被表各二を上る。詔して雲龍門外にてこれを焚く。壬子、 郢州 瑞鍾六を献ず。
六月丙戌、詔して北行の将士で王事に死した者のために、期日を定めて哀悼の礼を挙行す。壬辰、尚書右僕射王瑒を尚書僕射とす。己酉、雲龍、神獸の門を改作す。
秋八月癸卯、周人聘問に来る。
閏九月壬辰、 都督 吳明徹、呂梁にて齊軍を大破す。是の月、甘露頻りに楽游苑に降る。丁未、輿駕苑に幸して甘露を採り、群臣を宴し、詔して苑の龍舟山に甘露亭を立てしむ。
冬十月己巳、皇子叔齊を立てて新蔡王とし、叔文を立てて 晉 熙王とす。
十二月壬戌、尚書僕射王瑒を左僕射とし、太子詹事陸繕を右僕射とす。甲子、南康郡瑞鍾一を献ず。
八年春二月壬申、開府儀同三司吳明徹を 司空 とす。
夏五月庚寅、尚書左僕射王瑒卒す。
六月甲寅、尚書右僕射陸繕を左僕射とし、新たに除せられたる 晉 陵太守王克を右僕射とす。
秋九月戊戌、皇子叔彪を立てて淮南王とす。
九年春正月乙亥、齊主、位をその太子恒に伝え、自ら太上皇と号す。是の月、周、齊を滅ぼす。
二月壬子、藉田を耕す。
秋七月己卯、百済国は使いを遣わして朝貢す。庚辰、大雨、万安陵の華表を震わす。己丑、慧日寺の刹及び瓦官寺の重門を震わし、一女子震死す。
冬十月戊午、 司空 呉明徹、周の将梁士彦を呂梁に破る。
十二月戊申、東宮成る。皇太子、新宮に移る。
十年春二月甲子、周軍、梁士彦を救い、 司空 呉明徹を呂梁に大いに破る。及び将卒皆囚俘と見え、反らず。
三月辛未、武庫を震わす。丙子、衆軍に命じて分かち周に備う。乙酉、大赦す。
夏四月庚戌、詔して軍に在る者に絓る並びに爵二級を賜う。又詔して禦府堂署の営造する所、礼楽儀服軍器の外は、悉く皆停息す。掖庭の常供、王侯妃主諸に奉恤有る者は、並びに各量り減ず。庚申、大雨雹す。
六月丁酉、周の武帝崩ず。
閏六月丁卯、大雨、大皇寺の刹・荘厳寺の露盤・重陽閣の東楼・千秋門内の槐樹及び鴻臚府の門を震わす。
秋七月戊戌、新羅国は使いを遣わして朝貢す。
八月戊寅、霜隕りて稻菽を殺す。
九月乙巳、方明壇を婁湖に立つ。戊申、揚州刺史始興王叔陵を以て王官伯を兼ねしめ、盟に臨む。甲寅、婁湖に幸し、衆に誓いに臨む。乙卯、大使を分遣して盟誓を以て四方に班下し、上下相い警むるを以てす。
冬十月戊子、尚書左僕射陸繕を以て尚書僕射と為す。
十二月乙亥、合州廬江の蛮田伯興出でて樅陽を寇す。刺史魯広達これを討ち平らぐ。
是の歳、周の宣政元年。
十一年春正月丁酉、南兗州より龍の出現を言上す。
二月癸亥、藉田を耕す。
秋七月辛卯、初めて大貨六銖銭を用う。
八月丁卯、大壯観に幸して武を閲す。
冬十月甲戌、尚書僕射陸繕を以て尚書左僕射と為し、祠部尚書 晉 安王伯恭を以て右僕射と為す。
十一月辛卯、大赦す。戊戌、周の将梁士彥、壽陽を囲みて之を克つ。辛亥、また霍州を克つ。癸丑、揚州刺史始興王叔陵を以て大 都督 と為し、水歩の衆軍を総督せしむ。
十二月乙丑、南兗・北兗・ 晉 の三州及び盱眙・山陽・陽平・馬頭・秦・曆陽・沛・北譙・南梁等九郡の民、並びに自ら抜けて建鄴に向かう。周また譙・北徐の二州を克つ。ここより淮南の地、ことごとく周に帰す。己巳、軍国の須いざる所は多く減損し、儉約に帰すべしと詔す。
是の歳、周の宣帝大象元年。
十二年夏四月癸亥、尚書左僕射陸繕卒す。己卯、大雩す。壬午、雨ふる。
五月癸巳、尚書右僕射 晉 安王伯恭を以て尚書僕射と為す。己酉、周の宣帝崩ず。
六月壬戌、大風、皋門の中闥を吹き壊す。
秋八月己未、周の鄖州総管司馬消難、統ぶる所の九州八鎮の地を以て来降す。詔して因りて消難を以て大 都督 と為し、 司空 を加え、隨郡公に封ず。庚申、鎮西将軍樊毅に詔して沔・漢諸軍事を進めて督せしむ。南 豫 州刺史任忠を遣わし衆を率いて曆陽に趨かしめ、超武将軍陳慧紀を前軍 都督 と為し、南兗州に趨かしむ。戊辰、 司空 司馬消難を以て大 都督 水陸諸軍事と為す。庚午、通直 散騎常侍 淳於陵、臨江郡を克つ。癸酉、智武将軍魯廣達、郭默城を克つ。甲戌、大雨霖ふる。丙子、淳於陵、佑州城を克つ。
九月癸未、周の臨江太守劉顯光、衆を率いて来降す。是の夜、天の東南に声有り、風水相い激するが如く、三夜にして乃ち止む。丁亥、周の将王延貴、衆を率いて曆陽を援く。任忠之を撃ち破り、延貴等を 禽 す。己酉、周の廣陵義軍主曹藥、衆を率いて来降す。
冬十月癸丑、大雨、雷電す。
十二月庚辰、南徐州刺史河東王叔獻薨ず。
十三年春正月壬午、中権将軍・護軍将軍鄱陽王伯山を以て本号のまま開府儀同三司と為す。尚書僕射 晉 安王伯恭を左僕射と為し、吏部尚書袁憲を右僕射と為す。
二月乙亥、藉田を耕す。
秋九月癸亥の夜、大風西北より来たり、屋を発き樹を抜き、大雨雹。
冬十月壬寅、丹丹国使いを遣わして朝貢す。
十二月辛巳、彗星西南に見ゆ。
是の歳、周の静帝大定元年、位を隋の文帝に譲り、元を改めて開皇元年と為す。
十四年春正月己酉、上(帝)疾有り。甲寅、宣福殿に崩ず。時に年五十三。遺詔す、「凡そ其の終制、事は省約に従うべし。金銀の飾り、以て壙に入れず、明器は皆瓦を用うべし。日を以て月に易え及び公除の制は、悉く旧准に依るべし。位に在る百司、三日に一たび臨むべし。四方の州鎮、五等の諸侯、各おの守る所の職を守り、並びに奔赴を停むべし」と。二月辛卯、群臣諡を上りて孝宣皇帝と曰し、廟号を高宗とす。癸巳、顕寧陵に葬る。
帝が在田(即位前)の時、本より恢弘の度有り。及び尊位に居るに及び、実に天人(天下の人)の属望に 允 えり。時に国歩(国運)初めて 弭 み、創痍未だ復せず。淮南の地は、並びに斉に併入せり。帝は旧境を復せん志有り、侵地を反さん意有り。強弱の形、理を論ずれば則ち懸絶す。斯の不韙(道理に背くこと)を犯すは、適足れり禽わるる為し。及び周兵斉を滅ぼし、勝に乗じて挙(兵を挙)げ、地を略して還りて江際に至る。此より懼る。既にして都城を修飾し、扞禦の備えを為す。銘を得たり云く、「二百年の後、当に癡人有りて吾が城を修破する者有らん」と。時に測むる所従(由来)を知る者莫し。
後主
後主は諱を叔宝、字を元秀、小字を黄奴と曰い、宣帝の嫡長子なり。梁の承聖二年十一月戊寅、江陵に生まる。明年、魏江陵を平らげ、宣帝は長安に遷り、後主を穣城に留む。天嘉三年、建鄴に帰り、安成王の世子と立つ。光大二年、累遷して侍中に至る。太建元年正月甲午、皇太子と立つ。
十四年正月甲寅、宣帝崩ず。乙卯、始興王叔陵逆を構えて誅せらる。丁巳、太子皇帝の位に即く於太極前殿、大赦し、位に在る文武及び孝悌力田父後たる者に、並びに爵一級を賜い、孤老鰥寡自ら存すること能わざる者には、穀人五斛・帛二匹を賜う。癸亥、侍中・丹陽尹・長沙王叔堅を以て驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史と為す。乙丑、皇后を尊びて皇太后と為す。丁卯、皇弟叔重を立てて始興王と為し、昭烈王の祀を奉ぜしむ。己巳、妃沈氏を立てて皇后と為す。辛未、皇弟叔儼を立てて尋陽王と為し、叔慎を岳陽王と為し、叔達を義陽王と為し、叔熊を巴山王と為し、叔虞を武昌王と為す。甲戌、無礙大会を設く於太極前殿。
三月癸亥、詔して内外の衆官九品以上に、各一人を薦挙せしむ。又詔して忠讜を求め、隠諱する所無からしむ。己巳、新たに除せられたる翊左将軍永陽王伯智を尚書僕射と為す。
夏四月丙申、皇子永康公胤を立てて皇太子と為し、天下の父後たる者に爵一級を賜い、王公以下帛を賚うこと各差有り。庚子、詔す、「金銀薄を鏤み、庶物化生、土木人、彩華の属、及び布帛短狭軽疏なる者は、並びに財を傷り業を廃し、尤も蠹患を成す。又僧尼道士、邪を挟み左道に依り、経律に依らず、人間の淫祀・祅書・諸の珍怪事、詳かに条制を為し、並びに皆禁絶すべし」と。
秋七月辛未、大赦す。是の月、建鄴より荊州に至るまで、江水の色赤くして血の如し。
八月癸未、天に声有り風水相い激するが如し。乙酉の夜、又之の如し。
九月丙午、無礙大會を太極前殿に設け、身及び乗輿御服を捨て、大赦を行ふ。辛亥の夜、天の東北に声あり、虫の飛ぶが如く、次第に西北に移る。丙寅、驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史長沙王叔堅を 司空 と為し、征南将軍・江州刺史 豫 章王叔英を即ち本号の開府儀同三司と為す。
至徳元年春正月壬寅、大赦し、元を改む。征南将軍・江州刺史 豫 章王叔英を中衛大将軍と為し、 司空 ・驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史長沙王叔堅を江州刺史と為し、征東将軍・開府儀同三司・東揚州刺史司馬消難を車騎将軍に進号す。癸卯、皇子深を立てて始安王と為す。
秋八月丁卯、驃騎将軍・開府儀同三司長沙王叔堅を 司空 と為す。
九月丁巳、天の東南に声あり、虫の飛ぶが如し。
冬十一月丁酉、皇弟叔平を立てて湘東王と為し、叔敖を臨賀王と為し、叔宣を陽山王と為し、叔穆を西陽王と為し、叔儉を南安王と為し、叔澄を南郡王と為し、叔興を沅陵王と為し、叔韶を岳山王と為し、叔純を新興王と為す。
十二月丙辰、頭和国使いを遣はして朝貢す。 司空 ・長沙王叔堅罪有りて免ぜらる。戊午の夜、天裂け、西北より東南に至り、其の内に青黄雑色有り、隆隆として雷声の若し。
二年春正月丁卯、大使を分遣し、風俗を巡省す。癸巳、大赦す。
夏五月戊子、吏部尚書江総を尚書僕射と為す。
秋七月壬午、皇太子元服を加ふ、位に在る文武帛を賜ひ各差有り。孝悌力田父後たる者は爵一級を賜ひ、鰥寡癃老自ら存すること能はざる者は人ごとに穀五斛を賜ふ。
冬十一月丙寅、大赦す。是の月、盤盤・百済国並びに使いを遣はして朝貢す。
三年春正月戊午朔、日蝕有り。庚午、鎮左将軍長沙王叔堅を即ち本号の開府儀同三司と為す。
三月辛酉、前豊州刺史章大宝兵を挙げて反す。
夏四月庚戌、豊州義軍主陳景詳大宝を斬り、首を建鄴に伝ふ。
冬十月己丑、丹丹国使いを遣はして朝貢す。
十一月己未、詔して仲尼廟を修復す。辛巳、長幹寺に幸し、大赦す。
十二月癸卯、高麗国が使者を遣わして朝貢した。
この年、梁の明帝が崩じた。
四年春正月甲寅、詔して王公以下各々知る所を薦挙せしめ、輿皁を隔てることなからしむ。
二月丙申、皇弟叔謨を立てて巴東王と為し、叔顕を立てて臨江王と為し、叔坦を立てて新会王と為し、叔隆を立てて新寧王と為す。
夏五月丁巳、皇子莊を立てて会稽王と為す。
秋九月甲午、玄武湖に幸し、艫艦を肄い武を閲す。丁未、百済国が使者を遣わして朝貢した。
冬十月癸亥、尚書僕射江総を以て 尚書令 と為し、吏部尚書謝侑を尚書僕射と為す。
十一月己卯、大赦を行ふ。
禎明元年春正月戊寅、大赦を行ひ、元を改む。乙未、地震有り。
秋九月庚寅、梁の太傅安平王蕭岩・荊州刺史蕭瓛、其の都官尚書沈君公を遣わして荊州刺史陳慧紀に詣り降を請ふ。辛卯、岩等其の文武官男女を帥ひ江を済ふ。甲午、大赦を行ふ。
冬十一月丙子、蕭岩を平東将軍・開府儀同三司・東揚州刺史と為す。丁亥、驃騎大将軍・開府儀同三司 豫 章王叔英を以て兼 司徒 と為す。
十二月丙辰、前鎮衛大将軍・開府儀同三司・東揚州刺史鄱陽王伯山を鎮衛大将軍・開府儀同三司と為す。
二年春正月辛巳、皇子恮を立てて東陽王と為し、恬を立てて銭唐王と為す。
夏四月戊申、群鼠無数有り、蔡洲の岸より石頭に入り、淮を渡りて青塘の両岸に至り、数日にして自ら死に、流れに随ひて江に出づ。是の月、郢州南浦の水墨の如く黒し。
五月甲午、東冶に鉄を鑄くに、赤色の物有り、数升の如く大にして、天より鎔所に墜ち、声隆隆として雷の如く有り、鉄牆外に飛び出で、人家を焼く。
六月戊戌、扶南国が使者を遣わして朝貢した。庚子、皇太子胤を廃して呉興王とし、揚州刺史始安王深を立てて皇太子とした。辛丑、太子詹事袁憲を尚書僕射とした。丁巳、大風が西北より起こり、濤水を激して石頭城に入り、淮渚は暴溢し、舟乗を漂没させた。
冬十月己亥、皇子藩を立てて呉王とした。己酉、莫府山に幸し、大いに校猟した。
十一月丁卯、詔して大政殿に於いて獄を訊ずる日を定めた。丙子、皇弟叔栄を立てて新昌王とし、叔匡を立てて太原王とした。
初め隋の文帝が周の禅を受け、隣好を甚だ篤くしたが、宣帝はなお侵掠を禁じなかった。太建の末、隋兵が大挙し、宣帝の崩ずるを聞き、乃ち師を班するを命じ、使者を遣わして弔いに赴き、敵国の礼を修め、書に姓名を称して頓首した。然るに後主は益々驕り、書の末に「想うに彼の統内宜しき如く、此の宇宙清泰ならんことを」と云う。隋の文帝は悦ばず、朝臣に示す。清河公楊素は主の辱しめと為し、再拝して罪を請い、及び襄邑公賀若弼と並び奮って討致を求む。後に副使袁彦が隋に聘し、窃かに隋の文帝の状を図して帰り、後主之を見て大いに駭きて曰く「吾は此人を見ることを欲せず」と。毎に間諜を遣わすと、隋の文帝は皆衣馬を与え、礼を以て遣り返した。
後主は愈々驕り、外難を虞れず、酒色に荒み、政事を恤れず、左右の嬖佞珥貂する者五十人、婦人の美貌麗服巧態を以て従う者千余人あり。常に張貴妃・孔貴人等八人をして夾坐せしめ、江総・孔範等十人をして宴に預からしめ、号して「狎客」と曰う。先ず八婦人に采箋を襞かせ、五言詩を制せしめ、十客一時に継和し、遅るれば則ち酒を罰す。君臣酣飲し、夕より旦に達し、此を以て常と為す。而して宮室を盛んに修し、休止する時無し。江に税し市に税し、征取百端。刑罰酷濫し、牢獄常に満つ。
覆舟山及び蒋山の柏林、冬月常に多く采醴有り、後主は之を甘露の瑞と為す。前後災異甚だ多し。神有り自ら老子と称し、都下に游び、人と対語して形を見せず、吉凶を言いて多く験あり、酒を得れば輒ち之を釂し、三四年を経て乃ち去る。船下に声有りて云く「明年乱る」と。之を視れば、嬰児を得ること長さ三尺にして頭無し。蒋山の衆鳥両翼を鼓して以て膺を拊ち、曰く「奈何帝!奈何帝!」と。又建 鄴城 故無くして自ら壊る。青龍建陽門に出で、井に霧湧き、赤地に黒白の毛生じ、大風朱雀門を抜き、臨平湖の草旧く塞がりしが、忽然として自ら通ず。後主又黄衣の人城を囲むを夢み、乃ち繞城の橘樹を尽く去る。又大蛇中分し、首尾各走るを見る。夜中索めて飲まんとす、忽ち血に変ず。血有りて階に沾い坐床頭に至りて火起る。狐其の床下に入る有り、之を捕うれども見えず。之を祅と為し、乃ち自ら仏寺に売れて奴と為し以て之を禳う。郭内の大皇仏寺に於いて七層の塔を起し、未だ畢らず、火中より起り、石頭に飛び至り、焼死する者衆し。又湘州に木を採り、正寝を造らんと擬し、筏牛渚磯に至り、尽く水中に没し、既にして漁人筏の海上に浮かぶを見る。斉雲観を起す、国人歌いて曰く「斉雲観、寇来りて際畔無し」と。初め北斉の末、諸省の官人多く省主と称し、未幾にして滅ぶ。是に至り挙朝亦此の称有り、識者之を以て省主は、主将に見省される兆しと為す。
隋の文帝僕射高熲に謂いて曰く「我れ百姓の父母と為り、豈に一衣帯水を限りて之を拯わざるべけんや」と。命じて大いに戦船を作らしむ。人密かにするを請う、隋の文帝曰く「吾将に顕に行いて天誅す、何の密か之有らん!柿を江に投げしめよ、若し彼能く改まらば、吾又何をか求むる」と。及び梁の蕭瓛・蕭岩を納るるに及び、隋の文愈々忿り、晋王広を以て元帥と為し、八十総管を督して討致せしむ。乃ち璽書を送り、後主の二十悪を暴く。又詔書を散写し、書三十万紙、遍く江外に諭す。諸軍既に下り、江濱の鎮戍相継いで奏聞す。新たに除かれたる湘州刺史施文慶・中書舎人沈客卿機密を掌るも、並びに抑えて言わず。
初め蕭岩・蕭瓛の至るや、徳教学士沈君道殿前の長人を夢み、朱衣武冠、頭欄上に出で、臂を攘ぎて怒りて曰く「那ぞ忽ち叛蕭を受け誤人の事をせん」と。後主之を聞き、二蕭を忌み、故に其の衆を遠く散じ、岩を以て東揚州刺史と為し、瓛を呉州刺史と為す。領軍任忠をして出でて呉興郡を守らしめ、以て二州の襟帯と為す。南平王嶷をして江州を鎮めしめ、永嘉王彦をして南徐州を鎮めしむ。尋いで二王を召して期す明年の元会に赴かしめ、命じて江に縁る諸防の船艦、悉く二王に従い還都して威勢と為し、以て梁人の来る者に示す、是に由りて江中に一斗船無し。上流諸州の兵、皆楊素の軍に阻まれて至るを得ず。都下の甲士尚ほ十余万人有り。及び隋軍江に臨むを聞き、後主曰く「王気此に在り、斉兵三度来たり、周兵再度至るも、摧滅せざる無し。虜今来る者は必ず自ら敗るべし」と。孔範も亦渡江の理無しと言う。但だ伎を奏し酒を縦し、詩を作して輟めず。
三年春正月乙丑朔、朝会す、大霧四塞し、人の鼻に入る皆辛酸なり。後主昏睡し、晡時に至りて乃ち罷む。是の日、隋の将賀若弼北道より広陵に済い、韓擒横江に趨りて済い、兵を分かち晨に採石を襲い、之を取る。進みて姑孰を抜き、新林に次ぐ。時に弼京口を攻め下し、江に縁る諸戍風を望みて尽く走り、弼兵を分かち曲阿の沖を断ちて入る。丙寅、採石の戍主徐子建至りて変を告ぐ。戊辰、乃ち詔を下して曰く「犬羊陵縦し、郊畿を侵窃し、蜂蠆毒有り、宜しく時に掃定すべし、朕まさに親しく六師を禦し、八表を廓清せん、内外並びに戒厳すべし」と。是に於いて蕭摩訶を以て皇畿大 都督 と為し、樊猛を上流大 都督 と為し、樊毅を下流大 都督 と為し、司馬消難・施文慶並びに大監軍と為し、賞格を重ねて立て、兵を分かち要害を鎮守せしめ、僧尼道士尽く皆役を執らしむ。
庚午(の日)、賀若弼が南徐州を攻め陥れた。辛未(の日)、韓擒虎がまた南 豫 州を陥とした。隋軍は南北の道より並び進んだ。辛巳(の日)、賀若弼が鍾山に進軍し、白土岡の東南に頓し、陳の諸軍は敗北した。弼は勝に乗じて宮城に進軍し、北掖門を焼いた。この時、韓擒虎が衆を率いて新林より石子岡に至り、鎮東大将軍任忠が出でて擒虎に降り、そのまま擒虎を導き朱雀航を経て宮城に向かい、南掖門より入った。城内の文武百官は皆遁走し出で、ただ尚書僕射袁憲と後閤舎人夏侯公韻のみが側に侍っていた。憲は端坐して殿上にあり、正色をもってこれに待つよう勧めた。後主は言った、「鋒刃の下では、当たるべからず、我に自ら計らい有り」と。乃ち井戸の中に逃げ込んだ。二人は苦諫したが従わず、身をもって井戸を蔽ったが、後主と争うこと久しくしてようやく入ることができた。沈后は居処すること平常の如くであった。太子深は年十五、閤を閉じて坐し、舎人孔伯魚が侍っていた。戍士が閤を叩いて入ると、深は安坐してこれを労い言った、「戎旅途上にあり、労するに至らざるなり」と。既にして軍人が井戸を覗き込んで呼ぶと、後主は応じなかった。石を下ろそうとすると、乃ち叫び声を聞いた。縄で引き上げると、その重さに驚き、出てみると、張貴妃・孔貴人の三人と同乗して上がってきたのである。隋文帝はこれを聞いて大いに驚いた。開府鮑宏が言った、「東井は天文において秦に上る、今王都の所在する所、井戸に投ずるは其れ天意か」と。先に江東の謡に王献之の桃葉の辞を唱うるもの多く、云う、「桃葉また桃葉、江を度るに烜を用いず、ただ度るに苦しみ無く、我自ら汝を接迎す」と。及んで晋王広が六合鎮に軍を置くと、その山の名は桃葉といい、果たして陳の船に乗って渡った。丙戌(の日)、晋王広が台城に入り拠り、後主を東宮に送った。
三月己巳(の日)、後主は王公百官とともに建鄴を発し、長安に赴いた。隋文帝は暫定的に京城の人宅を分けて待たせ、内外を修整し、使者を遣わして迎え労った。陳の人々は謳詠し、その亡びたるを忘れた。使者が還り奏上して言うには、「後主以下、大小路に在り、五百里にわたり累累として絶えず」と。隋文帝は嗟歎して言った、「一に此くに至るか」と。京師に至ると、陳の輿服器物を庭に列べ、後主を前に引き出し、及び前後二太子・諸父諸弟の王たる衆子、凡そ二十八人、 司空 司馬消難・ 尚書令 江総・僕射袁憲・驃騎蕭摩訶・護軍樊毅・中領軍魯広達・鎮軍将軍任忠・吏部尚書姚察・侍中中書令蔡徴・左衛将軍樊猛、尚書郎以上二百余人、文帝は納言に詔を宣してこれを労わせた。次いで内史令に詔を宣して後主を譴責させた。後主は地に伏して息を屏め答えることができず、乃ち宥された。隋文帝は詔して陳の武・文・宣三帝の陵に、総べて五戸を給して分かち守らせた。
初め、武帝が即位し始めた夜、奉朝請史普が省に直宿していたところ、天より人が下り、導従数十を従え、太極殿の前に至り、北面して玉策金字を執りて曰く、「陳氏五帝三十二年」と夢に見た。また後主が東宮にいた時、婦人が突入し、唱えて曰く、「畢国主」と。一足の鳥がその殿庭に集まり、嘴をもって地に画き文を成し、曰く、「独足高台に上り、盛草灰と変わり、我が家の処を知らんと欲せば、朱門水に当たりて開く」と。解する者は、独足は蓋し後主の独行して衆無きを指し、盛草は荒穢を言い、隋は火運を承け、草は火を得て灰となる、と為した。京師に至り、その家属とともに都水台に館したのは、所謂「高台に上り水に当たる」である。その言は皆験した。或いは言う、後主の名は叔宝、反語は「少福」、これも敗亡の徴であると云う。
既に宥された後、隋文帝は給賜すること甚だ厚く、数えしばしば引見され、班位は三品に同じかった。毎度宴に預かる際、傷心を致すことを恐れ、呉の音を奏せしめなかった。後に監守者が奏上して言うには、「叔宝云う、『既に秩位無く、毎度朝集に預かる、願わくは一つの官号を得ん』と」と。隋文帝は言った、「叔宝は全く心肝無し」と。監者はまた言う、「叔宝は常に耽酔し、醒むる時稀なり」と。隋文帝はその酒を節するよう命じたが、既にして言った、「その性に任せよ、然らずんば、何を以て日を過ごさん」と。未だ幾ばくもせず、帝はまた監者に叔宝の嗜む所を問うた。答えて曰く、「驢肉を嗜む」と。酒を飲むこと多少と問うと、答えて曰く、「その子弟と日に一石を飲む」と。隋文帝は大いに驚いた。東巡に従い、芒山に登り、侍飲して、詩を賦して曰く、「日月天徳を光らし、山川帝居を壮にす、太平報ゆる無く、願わくは東封の書を上らん」と。並びに表して封禅を請うたが、隋文帝は優詔を以て謙譲し許さなかった。後に仁寿宮に至るに従い、常に宴に侍し、出でるに及んで、隋文帝はこれを見て言った、「この敗は豈に酒によらざらんや。詩を作る功夫を、時事を安んずる思うに何如。賀若弼が京口を渡った時、彼の者は密かに啓して告急したが、叔宝は飲酒していたため、遂にこれを省みなかった。高熲が至った日、未だ啓が床下にあるのを見、封を開けていなかった。これもまた笑うべきこと、蓋し天の亡ぼす所なり。昔、苻氏の征得した国は、皆その主を栄貴せしめた。苟も名を求めんと欲すれば、天命に違うを知らず、これに官を与うるは、乃ち天に違うなり」と。
隋文帝は陳氏の子弟既に多きを以て、京下に過ち有らんことを恐れ、皆諸州県に分置し、毎年衣服を賜うて以てこれを安全ならしめた。
後主は隋の仁寿四年十一月壬子(の日)、洛陽にて終わり、時に年五十二。大将軍を贈られ、長城県公に封ぜられ、諡して煬と曰う。河南洛陽の芒山に葬る。
論
論じて曰く、陳の宣帝は器度弘厚にして、人君の量有り。文帝は塚嗣の仁弱なるを知り、早く太伯の心を存し、及んで弗悆(病悩)に及び、咸な已に委託せり。纘業の後に至り、土を拓き疆を開くは、蓋し徳は文に逮わず、智は武に及ばず、志大にして已まず、晩に呂梁の敗を致し、江左日蹙す、抑も此れに由るなり。後主は削弱の余りに因り、滅亡の運に鍾り、刑政樹てず、荒淫を加う。夫れ三代の隆きを以てし、歴世数十、其の亡ぶに及びては、皆婦人に敗る。況んや区区の陳を以てし、外に明徳に鄰り、覆車の跡に、尚お叔季を追蹤するに、其れ数年を支うるを得たるも、亦た幸いなり。忠義感慨し、井隅に慟を致すと雖も、何ぞ麦秀の深悲を救わん、適足らく千祀に笑いを取るのみ。嗟乎、初め梁の末の童謡に云う、「憐れむべし巴馬の子、一日に千里を行く。馬上の郎を見ず、但だ黄塵の起るを見る。黄塵人衣を汚し、皁莢相料理す」と。及んで僧辯滅び、群臣謡言を以て奏聞し、曰く、僧辯は本巴馬に乗りて侯景を撃つ、馬上の郎は王の字なり、塵は陳を謂う、而して皁莢の謂う所を解せず、と。既にして陳隋に滅び、説く者は以て江東は羖羊の角を皁莢と謂う、隋氏の姓は楊、楊は羊なり、言う終に隋に滅ぶと。然らば則ち興亡の兆は、蓋し数有りと云うべし。