南史 巻九 陳本紀上 第九

南史

巻九 陳本紀上 第九

武帝

陳の高祖武皇帝は諱を霸先、字を興國、小字を法生といい、吳興郡長城縣下若里の人である。姓は陳氏。その出自は甚だ微賤であったが、自らは漢の太丘長陳寔の後裔であると称した。陳寔の玄孫に しん の太尉陳准がいる。陳准は陳匡を生み、陳匡は陳達を生んだ。永嘉の乱の際に南方に移り、丞相掾・太子洗馬となり、出て長城縣令となった。その山水を愛で、遂にそこに家を定めた。かつて親しい者に言った、「この地は山川秀麗で、王者が興るであろう。二百年後、我が子孫は必ずこの運に当たるだろう」と。陳達は陳康を生み、また丞相掾となった。咸和年間の土断により、故に長城の人となった。陳康は盱眙太守陳英を生み、陳英は尚書郎陳公弼を生み、陳公弼は步兵 校尉 こうい 陳鼎を生み、陳鼎は散騎侍郎陳高を生み、陳高は懷安縣令陳詠を生み、陳詠は安成太守陳猛を生み、陳猛は太常卿陳道巨を生み、陳道巨は皇考(皇帝の父)の陳文贊を生んだ。帝は梁の天監二年癸未の年に生まれた。若い頃より倜儻として大志があり、謀略に長け、意気雄傑で、生業には従わなかった。成長すると、史籍に広く目を通し、兵書を好んで読み、緯候・孤虚・遁甲の術に明るく、武芸に秀で、明達果断で、当時の人々に推服された。身長は七尺五寸、日角龍顔の相で、手を垂らすと膝を過ぎた。かつて義興に遊び、許氏の家に宿泊した時、天が数丈開き、朱衣の四人が日を捧げて来て、帝の口に納めた夢を見た。覚めると腹内はまだ熱く、帝はひそかに喜んだ。初め郷里で里司に仕え、後に建鄴に至り油庫吏となり、新喻侯蕭映の傳教に転じた。その職務に勤勉で、蕭映に賞賛された。蕭映が吳興太守となると、帝を非常に重んじ、僚佐に言った、「この人は将来遠大で、必ず私に勝るであろう」と。蕭映が廣州刺史となると、帝は中直兵參軍となり、彼に従って任地に赴き、蕭映は帝に兵馬を招集させた。

先に武林侯蕭諮が交州刺史となったが、厳しく過酷で人心を失い、土人の李賁が数州の豪傑を結びつけて同時に反乱を起こした。朝廷は高州刺史孫冏・新州刺史盧子雄に兵を率いて李賁を討たせた。孫冏らが時を移さず進軍しなかったため、皆廣州で誅殺された。盧子雄の弟の子の盧子略と孫冏の子・甥、およびその主帥の杜天合・杜僧明が共に兵を挙げ、南江督護沈顗を捕らえ、進んで廣州を寇し、昼夜を分かたず激しく攻め、州中は震え恐れた。帝は精兵を率いてこれを救い、賊の衆は大いに潰走した。杜僧明は後に功業を立て、遂に降伏した。梁の武帝は深く歎異し、直合將軍に任じ、新安縣子に封じ、なお帝の姿を描かせて見た。

その年の冬、蕭映が卒去した。翌年、帝は喪を送って還る途中、大庾嶺に至った時、詔により帝を交州司馬とし、刺史楊瞟と共に南方を討伐することとなった。帝はますます勇敢な者を招き、器械を精良にし、楊瞟は帝に経略を委ねた。時に蕭勃が定州刺史としており、西江で合流した。蕭勃は軍士が遠征を恐れているのを知り、偽って楊瞟を引き留めようとした。楊瞟は諸将を集めて策を問うた。帝は言った、「交址が叛き、その罪は宗室(蕭諮)にある。節下(楊瞟)は辞(命令)を奉じて罪を伐つのであり、死生をかけるべきである」と。そこで進軍の太鼓を鳴らして進んだ。軍が交州に至ると、楊瞟は帝を前鋒に推し、向かう所ことごとく陥落させた。李賁は屈獠洞に逃げ込み、屈獠が李賁を斬り、その首を建鄴に伝送した。この年は太清元年である。李賁の兄の李天寶は九真に逃げ込み、賊帥の李紹隆と共に残兵を収め、德州刺史陳文戒を殺し、進んで愛州を包囲したが、帝がこれを討平した。西江督護・高要太守に任じられ、七郡諸軍事を督した。

二年の冬、侯景が侵攻して逼迫すると、帝は救援に赴こうとしたが、廣州刺史元景仲がひそかに帝を図ろうとした。帝はこれを知り、成州刺史王懷明らと、南海で兵を集め、檄を馳せて元景仲を討った。元景仲は閣下で縊死し、帝は蕭勃を迎えて廣州を鎮守させた。時に臨賀内史歐陽頠が衡州を監察していたが、蘭裕・蘭京禮が始興など十郡を扇動誘惑して共に歐陽頠を攻撃した。歐陽頠は蕭勃に援軍を請い、蕭勃は帝にこれを救わせ、蘭裕らをことごとく捕らえた。引き続き始興郡の事務を監察した。帝は杜僧明・胡穎に二千人を率いさせて嶺上に駐屯させ、併せて始興の豪傑と厚く結び、義挙を共に謀った。侯安都・張偲らが衆を率いて来て帰附した。蕭勃はこれを聞き、鍾休悅を遣わして帝を止めさせようとした。帝は泣いて鍾休悅に言った、「君が辱められれば臣は死す、誰が命を惜しもうか。私の行動は決した」と。時に蔡路養が兵を起こして南康を占拠し、蕭勃は腹心の譚世遠を曲江縣令とし、蔡路養と結びつき、共に義軍を阻止した。

大寶元年正月、帝は始興を出発し、大庾嶺に駐屯し、蔡路養の軍を大破し、進んで南康に駐屯した。湘東王蕭繹が承制(詔命を受けて便宜を図る権限)により帝を交州刺史に任じ、南野縣伯に改封した。そこで崎頭古城を修理して移り住んだ。劉惠騫らは常に紫気が城上に立ち上るのを見て、遠近驚異し、故に劉惠騫らは深く帝と結んだ。まもなく長城縣侯・南江州刺史に改封された。時に甯都の劉藹らが高州刺史李遷仕に舟艦と兵器を供給し、南康を襲撃しようとした。帝は杜僧明らを遣わして白口を占拠させて防がせた。

二年、杜僧明が李遷仕を捕らえ、南康に送って斬った。承制により帝を江州刺史に任じた。帝は南康を出発した。灨石には旧来二十四の灘があり、灘には巨石が多く、旅人はこれを難所とした。帝が出発すると、水が突然数丈も漲り、三百里の間に巨石は皆沈んだ。進軍して西昌に駐屯した。水辺に龍が現れ、高さ五丈、五色鮮やかに輝き、軍民で見物する者は数万人に及んだ。帝はまたかつて閣下で胡床に独り座っていた時、突然神光が閣内に満ち、廊廡の間も皆互いに見えるほどであった。趙知禮が側に侍っていたが、怪しんで帝に問うと、帝は笑って答えなかった。時に承制により征東將軍王僧辯が衆軍を督して侯景を討ち、盆城に駐屯した。帝は杜僧明らを率いて三万の兵を合わせてこれと会おうとした。時に西軍(王僧辯軍)は食糧が乏しく、帝は先に軍糧五十万石を貯えていたが、この時三十万石を分けてこれを援助した。引き続き巴丘に駐屯した。侯景が簡文帝を廃し、 章嗣王蕭棟を立てると、帝は兼長史沈袞を遣わして江陵に上表し、進位(皇帝即位)を勧めた。承制により帝を東揚州刺史に任じ、會稽太守を領せしめた。

三年、帝は師を率いて 章より出発した。二月、桑落洲に駐屯した。時に王僧辯は既に盆城を出発し、帝と白茅灣で会し、そこで岸に登って壇を結び、犠牲を裂いて盟約を結んだ。進んで大雷に駐屯した。軍人の杜棱が夢に雷池君・周何神を見、自ら征討大將軍と称し、朱色の船に乗り、甲仗を並べ、侯景を征伐しに下ると称し、しばらくして帰還し、既に侯景を殺し終えたと言った。

三月、帝は諸軍と共に進んで姑孰を攻克し、引き続き蔡洲に駐屯した。侯景は石頭城に登り、官軍の盛んなのを見て快からず、言った、「一握りの者ども、打つに足りるものか」と。密かに左右に言った、「この軍の上には紫気がある。容易に当たることはできない」と。そこで猫琉(投石機の一種か)に石を詰め、淮口を沈めて塞ぎ、淮に沿って城を築き、石頭から青溪までの十余里の間に、楼と雉(櫓)を連ねた。王僧辯は杜崱を遣わして帝に計略を問うた。帝は諸将が先鋒を担当しようとしないので、自ら先に往って柵を立てることを請うた。即ち石頭の西の横壟に柵を築いた。衆軍は八城を連ねて駐屯し、直ちに東北に出た。賊は西州の路が断たれるのを恐れ、また東北の果林に五城を築き、大路を阻止した。帝は言った、「善く兵を用いる者は、常山の蛇の如く、首を救わしめ尾を救わしめ、困窮して暇なきようにする。今我が師は既に多く、賊徒は甚だ寡い。賊の兵力を分け、強をもって弱を制すべきである」と。そこで諸将に命じて各所に兵を配置させ、帝は王琳・杜龕らと力を尽くしてこれに乗じ、侯景の衆は大いに潰走した。王僧辯は上啓して帝に京口を鎮守させるよう命じた。

五月、斉は将軍辛術を遣わして秦郡において厳超達を包囲し、帝は徐度に命じて兵を率いさせてその固守を助けさせた。斉の軍は土山を築き、地道を穿ち、攻撃は甚だ急であった。帝は自ら一万の兵を率いてその包囲を解き、軍を整えて南へ帰還した。承制により帝は征北大将軍・開府儀同三司・南徐州刺史に任じられ、長城県公に封ぜられた。王僧辯が湘州において陸納を征討した際には、承制により帝に命じて揚州を鎮守させた。承聖二年、湘州が平定されると、帝は京口に帰還して鎮守した。

三年三月、帝の位は 司空 しくう に進んだ。魏が江陵を平定した時、帝は王僧辯らと共に進み啓上して、晋安王を太宰として承制することを請うた。十二月、晋安王は尋陽より至り、朝堂に入居し、帝には班剣二十人を給した。

四年五月、斉は貞陽侯蕭明を送り返して社稷の主とし、王僧辯は彼を受け入れた。蕭明は即位し、元号を天成と改め、晋安王を皇太子とした。初め、斉が貞陽侯を立てた時、帝は固く争ってこれを不可とし、従われなかった。帝は常日頃憤慨して嘆き、「嗣主は高祖の孫、元皇の子であるのに、果たして何の罪があって、座して廃立されるのか。仮に順序を外れて立てられた者ならば、この情は知れるというものだ」と言った。そこで密かに袍数千領及び錦彩・金銀を準備し、賞賜の資材とした。

九月壬寅、帝は徐度・侯安都・周文育を召し、将兵を部署し、水陸ともに進軍し、夜に南徐州を発して王僧辯を討った。甲辰、帝は石頭に至り、先に勇士を遣わして城北より越え入らせた。時に僧辯は政務を見ている最中で、外に兵が来たと報告されると、慌てて逃げた。帝の大軍が続いて至り、風に乗じて火を放ち、僧辯は捕らえられた。この夜に絞殺し、その子の頠も同様にした。ここにおいて貞陽侯を廃し、晋安王を奉じて即位させ、承聖四年を紹泰元年と改めた。壬子、詔して帝を侍中・大 都督 ととく 中外諸軍事・車騎将軍・揚南徐二州刺史に任じ、持節・ 司空 しくう ・班剣・鼓吹は全て従前の通りとした。また詔して甲仗百人が殿省に出入りすることを許した。

震州刺史杜龕が呉興に拠り、義興太守韋載と共に兵を挙げて命に逆らった。辛未、帝は上表して自ら東征し、高州刺史侯安都・石州刺史杜棱を留めて台省を宿衛させた。甲戌、軍は義興に至った。秦州刺史徐嗣徽は城を拠って斉に入り、さらに南 州刺史任約を誘って兵を挙げて杜龕に応じさせ、斉人はその兵糧を援助した。嗣徽は虚に乗じて急に闕下に至り、侯安都が出戦すると、嗣徽らは退いて石頭に拠った。丁丑、韋載及び杜龕の従弟の北叟が降伏して来たので、帝は慰撫して釈放し、韋載の兄の鼎に郡の事務を執らせた。嗣徽の侵逼が迫ったため、甲を巻いて都に帰還し、周文育に命じて杜龕を討伐させた。

十一月己卯、斉は兵五千を遣わして姑孰を占拠させ、また安州刺史翟子崇・楚州刺史劉士榮・淮州刺史柳達摩に命じ、兵一万を率いさせ、胡墅において米粟三万石・馬千匹を石頭に運び入れた。帝は侯安都に命じて水軍を率い夜襲して胡墅を焼き、周鉄武に舟師を率いさせて斉の輸送を断ち切り、帝は鉄騎を率いて西明門より襲撃した。斉軍は大いに潰え、嗣徽は達摩らを留めて城を守らせ、自らは親族腹心を率いて南州の採石へ行き、斉の援軍を迎えようとした。

先に、太白星が十一月丙戌より見えず、十二月乙卯に東方に出た。丙辰、帝は全ての軍に命じて甲卒を分かち部署し、冶城に対し航を立て、兵を渡してその水南の二つの柵を攻撃させた。柳達摩らは淮を渡って陣を置いたが、帝は兵を督して激戦し、火を放って柵を焼き、煙塵が天に漲り、斉軍は大いに潰え、その船艦を全て鹵獲した。この日、嗣徽・任約らは斉兵を率いて石頭を拠り返したが、帝は侯安都に命じて水軍を率い襲撃して破り、嗣徽らは単舸で脱走した。丁巳、石頭南岸の柵を抜き、北岸に移って柵を築き、その水汲みの道を絶った。また東門の故城中の諸井戸を埋め塞いだ。斉の占拠する城中には水がなく、水一合で米一升を買い、米一升で絹一匹を買い、あるいは米を炒って食った。達摩はその衆に言った、「近ごろ北にいた時、童謡に『石頭搗兩襠、搗青復搗黃』とあった。侯景は青を服し、既にここで倒れた。今我らは黄を衣ている。まさか謡言が的中するのか」。庚申、達摩は侯子欽・劉士榮らを遣わして和を請うたので、帝はこれを許した。そこで城外で盟約を結び、その将士は南北に去ることを恣にした。辛酉、帝は石頭南門より出て兵を陳べ、斉人で北に帰る者を見送った。彼らが到着すると、斉人は彼らを殺した。壬戌、斉の和州長史烏丸遠が南州より歴陽に奔還し、江寧令陳嗣・黄門侍郎曹朗が姑孰に拠り、従わなかった。帝は侯安都・徐度らに命じて討伐平定させ、その首を集めて京観とした。この月、杜龕は城を以て降伏した。

二年正月癸未、杜龕を誅し、その弟の翕・従弟の北叟・司馬の沈孝敦を並びに賜死した。三月戊戌、斉は水軍儀同蕭軌・庫狄伏連・堯難宗・東方老・侍中裴英起・東広州刺史獨狐辟惡・洛州刺史李希光並びに任約・徐嗣徽・王僧愔らの衆十万を遣わして柵口より出で、梁山に向かい、帳内蕩主黄叢が逆撃してこれを破り、その前軍の船艦を焼いた。斉軍は蕪湖に頓軍して守った。五月丙申、斉兵は秣陵故城に至った。己亥、帝は宗室王侯及び朝臣を率い、大司馬門外の白虎闕の下において、牲を刑して天に告げ、斉人の約に背いたことを挙げ、発言は慷慨として涙が流れ、士卒の見る者は益々奮い立った。辛丑、斉軍は秣陵故城において、淮を跨いで橋柵を立て、兵馬を引き渡した。癸卯、方山より進んで児塘に及び、游騎が台に至り、都下は震駭した。帝は密かに精卒三千を沈泰に配し、江を渡って斉の行台趙彦深を瓜歩において襲撃させ、その舟と粟を獲た。

六月甲辰、斉の兵がひそかに鍾山の龍尾に至る。丁未、進んで莫府山に至る。帝は錢明に命じて水軍を率い江乗より出撃させ、斉人の糧運を遮断してこれをことごとく鹵獲せしむ。斉軍は大いに飢え、馬や驢を殺して食らう。壬子、斉軍は玄武湖の西北、莫府山の南に至り、北郊壇を占拠せんとす。諸軍は覆舟より東に移り、郊壇の北に駐屯し、斉人と相対す。その夜、大雨雷電あり、暴風木を抜き、平地に水一丈余り。斉軍は昼夜泥中に坐立し、鬲を懸けて炊爨し、足の指ことごとく爛る。これに対し、台城中及び潮溝の北は水退きて路乾き、官軍はたびたび交代を得たり。甲寅、少し晴る。この時食糧尽き、市人を徴発して軍に饋るも、皆麦屑を飯とし、荷葉に包んで分給し、間に麦絆を交えしむ。兵士皆困憊す。時に文帝が米三千石、鴨千頭を送り届けしに会し、帝は直ちに米を炊き鴨を煮て、一戦を誓う。士卒は防身の糧食として、糧の数に応じて肉片を計り、人ごとに飯を包み、鴨肉を添う。帝は諸軍に命じて早朝に食事をとらせて攻撃す。斉軍は大いに潰える。嗣徽及びその弟嗣宗を捕らえ、斬って徇しむ。蕭軌、東方老、王敬寶、李希光、裴英起、王僧智ら将帥四十六人を虜獲す。その軍士で江に逃げ至り、筏を縛って渡らんとする者、中流にて溺れ、流屍京口に至る者は岸を満たす。ただ任約、王僧愔のみが免る。先に童謡ありて云う、「虜万夫、五湖に入り、城南の酒家、虜奴を使わしむ」と。晋・宋以後より、魏の境たる江・淮の北に在る者は、南人皆これを虜と謂う。時に賞賜の俘虜を以て酒を換える者、一人ただ一醉を得るのみ。丁巳、諸軍南州に出でて賊の舟を焼く。己未、劉帰義、徐嗣産、傅野猪を建康市にて斬る。この日、厳戒令を解く。庚申、蕭軌、東方老、王敬寶、李希光、裴英起らを誅す。

太平元年九月壬寅、帝は丞相・録尚書事・鎮衛大将軍・揚州牧に進位し、義興郡公に進封せらる。庚申、皇考を追贈して侍中・光禄大夫とし、義興郡公に封じ、諡して恭と曰う。十月甲戌、梁帝は詔して丞相に対し、今後問訊するに別榻を設け、扆座に近づくことを許す。

二年正月壬寅、詔して帝に班剣十人を加え、前の分と合わせて三十人とす。丁未、詔して皇兄道談を追贈して南兗州刺史・長城県公とし、諡して昭烈と曰う。皇弟休先を侍中・南徐州刺史・武康県侯とし、諡して忠壮と曰う。甲寅、兼侍中謁者僕射陸繕を遣わし、長城県夫人章氏を策拝して義興国夫人とす。丁卯、詔して皇祖を追贈して侍中・太常卿とし、諡して孝と曰う。皇祖妣許氏を追封して呉郡嘉興県君とし、諡して敬と曰う。皇妣張氏を義興国太夫人とし、諡して宣と曰う。

二月庚午、蕭勃が兵を挙げ広州より嶺を越え、南康に駐屯す。その将欧陽頠、傅泰及びその子孜を前軍として遣わし、 章に至り、要衝に分屯す。南江州刺史余孝頃が兵を起こして勃に応ず。帝は周文育、侯安都に命じて衆を率いてこれを討平せしむ。

八月甲午、帝は太傅に進位し、黄鉞を加えられ、剣履上殿、入朝不趨、拝礼に名を称せざる礼遇を受く。丙申、前後部の羽葆・鼓吹を加えらる。この時、湘州刺史王琳が兵を擁して命令に応ぜず、周文育、侯安都を遣わして衆を率いてこれを討たしむ。

九月辛丑、梁帝は帝の位を相国に進め、百揆を総べさせ、十郡を封じて陳公とし、九錫の礼を備え、璽紱を加え、遠遊冠、緑綟綬を賜い、位を諸侯王の上に置く。策文に曰く。

十月戊辰、また帝の爵を王に進む。揚州の会稽・臨海・永嘉・建安、南徐州の晋陵・信安、江州の尋陽・ 章・安成・廬陵を以て、前の分と合わせて二十郡とし、陳国に益封す。その相国・揚州牧・鎮衛大将軍の職は並びに元の如し。また陳王に命じて冕に十二旒を垂れ、天子の旌旗を立て、出には警蹕を厳にし、入には蹕を清め、金根車に乗り、六馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭・雲罕を置き、楽舞は八佾を用い、鍾虡宮懸を設けしむ。王妃・王子・王女の爵命の号、陳台の百官は、一に旧典に依る。

辛未、梁帝は位を陳に禅る。策文に曰く。

この日、梁帝は別宮に退く。帝は再三謙譲すれども、群臣固く請う。乃ちこれを許す。

永定元年冬十月乙亥、皇帝は南郊にて即位し、柴燎を焚いて天に告げて曰く。

先に霧気雨雪あり、昼夜晦冥たりしが、この日に至りて景気清晏たり。礼畢りて、輿駕宮に還り、太極前殿に臨み、大赦を行い、元号を改む。百姓に爵二級、文武に二等を賜う。鰥寡孤独自ら存し難き者には、人ごとに穀五斛を給す。逋租宿債は、皆再び収めず。郷論清議に犯し、贓汚淫盗の罪ある者は、皆先に注記されたるものを洗い除き、更始を与之む。長徒や赦されたる繫囚は、特に皆これを原ゆ。亡官失爵、禁錮奪労の者は、一に旧典に依る。また詔して江陰郡を以て梁主に奉じ、江陰王と為し、梁の正朔を行わせ、車旗服色は一に前の准に依らしむ。梁の皇太后を江陰国太妃と為し、皇后を江陰国妃と為す。また詔して百官に各々その位に依り職を摂行せしむ。丙子、鍾山に幸し、蔣帝廟を祭る。戊寅、華林園に幸して辞訟を覧み、囚徒を赦しに臨む。己卯、大使を分遣して四方を宣撫慰労せしむ。庚辰、詔して杜姥宅より仏牙を出し、四部を集めて無遮大会を設く。辛巳、皇考を追尊して景皇帝と曰い、廟号を太祖とす。皇妣董太夫人を安皇后と曰う。前夫人錢氏を昭皇后とす。世子克を孝懐太子とす。夫人章氏を立てて皇后とす。癸未、景帝の陵を瑞陵と尊び、昭皇后の陵を嘉陵と尊び、梁初の園陵の故事に依る。刪定郎を立て、律令を刊定せしむ。戊子、景皇帝の神主を遷して太廟に祔す。この月、西討 都督 ととく 周文育、侯安都が 郢州 えいしゅう にて敗績し、王琳に没す。

十一月丙申、皇兄の子長城県侯蒨を封じて臨川郡王と為し、頊は始興郡王を襲封し、皇弟の子曇朗は南康郡王を襲封す。庚申、都下に火災あり。

十二月庚辰、皇后太廟を謁す。

この年は、周の閔帝元年なり。九月に至り、塚宰宇文護が閔帝を廃して明帝を奉ず。また明帝元年と為す。

二年春正月乙未、車騎将軍・開府儀同三司侯瑱を 司空 しくう と為す。辛丑、南郊を祀り、大赦を行う。甲寅、中書舎人韋鼎を遣わし、策を以て呉興の楚王神を帝と為す。戊午、明堂を祀る。

二月壬申、南 州刺史沈泰が斉に奔る。辛卯、詔して 司空 しくう 侯瑱に水陸の衆軍を総督せしめて斉を禦がしむ。

三月、王琳、梁の永嘉王蕭莊を立てて梁の後を奉ぜしめ、郢州にて即位す。

夏四月甲子、太廟を祀る。乙丑、江陰王殂す、陳の志なり。梁敬帝と追諡す。詔して太宰に弔祭せしめ、 司空 しくう に喪事を監護せしむ。梁の武林侯蕭諮の子季卿を嗣として江陰王とす。戊辰、重雲殿の東鴟尾に紫煙天に属す。

五月乙未、都下地震す。壬寅、梁の邵陵攜王の廟室を立て、祭に太牢を用う。辛酉、帝大莊嚴寺に幸し、身を捨つ。壬戌、群臣表を奉りて還宮を請う。

六月己巳、詔して 司空 しくう 侯填・領軍將軍徐度に王琳を討たしむ。初め、侯景の平らぎしとき、太極殿焚かれ、承聖中に営まんと議すれども、独り一柱を闕く。

秋七月、樟木有り、大さ十八圍、長さ四丈五尺、流れて陶家の後渚に泊す。監軍鄒子度以て聞く。詔して中書令沈衆に起部尚書を兼ねしめ、太極殿を構わしむ。

八月、周文育・侯安都等、王琳の所より逃れて帰る。自ら廷尉に劾す。即日引見し、之を宥し、並びに本官に復す。丁亥、江州刺史周迪に平南將軍・開府儀同三司を加う。

冬十月庚午、鎮南將軍周文育を遣わし衆軍を 都督 ととく して 章より出で、餘孝勱を討たしむ。乙亥、莊嚴寺に幸し、金光明経の題を発す。丁酉、高州刺史黄法氍に平南將軍・開府儀同三司を加う。

十二月甲子、大莊嚴寺に幸し、無礙大会を設け、乗輿の法物を捨つ。群臣法駕を備えて奉迎し、即日還宮す。丙戌、北江州刺史熊曇朗に平西將軍・開府儀同三司を加う。

三年春正月丁酉、鎮南將軍・廣州刺史歐陽頠、即ち本号に開府儀同三司とす。是の夜大雪、旦に及び、太極殿前に龍跡見ゆ。甲子、廣州言う、羅浮山寺の小石楼に仙人見ゆと。

二月辛酉、平西將軍・桂州刺史淳于量に鎮西大將軍・開府儀同三司を加う。

夏閏四月甲午、詔して前代に依り西省学士を置き、伎術士を兼ねて取る。是の時久しく雨降らず。丙午、鍾山に幸し蔣帝廟を祭る。是の日降雨し、月晦に迄る。

五月丙辰朔、日蝕有り。有司旧儀を奏す、帝前殿に御し、朱紗袍・通天冠を服す。詔して曰く「此れ乃ち前代承用する所、意に未だ同からざる有り。合朔して太陽を助け仰ぐ、宜しく袞冕の服を備うべし。今より永く准と為すべし」。丙子、扶南国使いを遣わし朝貢す。乙酉、北江州刺史熊曇朗、 都督 ととく 周文育を殺し、兵を挙げて反す。王琳、其の将常衆愛・曹慶を遣わし兵を率いて餘孝勱を援く。

六月戊子、儀同侯安都、衆愛等を左裏に破る。琳の従弟襲・主帥羊暕等四十余人を獲、衆愛遁走す。庚寅、廬山人之を斬り、首を建鄴に伝う。甲午、衆軍凱帰す。

丁酉、帝 せず。兼太宰・尚書右僕射王通を遣わし疾を以て太廟に告げしむ。兼太宰・中書令謝哲に太社・南北郊に告げしむ。辛丑、帝小瘳す。故 司空 しくう 周文育の柩、建昌より至る。壬寅、帝素服して朝堂に哭し、哀しみ甚だし。癸卯、上臨みて獄訟を訊く。是の夜、熒惑天尊に在り、上疾甚だし。丙午、帝璿璣殿に崩ず。時に年五十七。遺詔して臨川王蒨を追いて大業を纘がしむ。甲寅、太極殿西階に殯す。八月甲午、群臣上諡して武皇帝と曰い、廟号高祖とす。丙申、万安陵に葬る。

帝は雄武にして英略多く、性質は甚だ仁愛に富んだ。阿衡(宰相の位)に居るに及んで、常に寛大簡素を尊び、雅に倹素を尚び、常の御膳は数品を過ぎず、私的な饗宴や曲宴も皆、瓦器や蚌盤を用い、肴核や庶羞も僅かに充足させるのみで、虚費を為さなかった。初め侯景を平定し、敬帝を立てた時、子女玉帛は皆、将士に分け与えた。その閨房に充てる者は、衣に重ねた采色を用いず、飾りに金翠を用いず、声楽を前に列ねなかった。践祚した後は、一層恭倹に励んだ。故に功を隆くし徳を茂くし、江左に光を放ったという。

文帝

世祖文皇帝は諱を蒨、字を子華といい、始興昭烈王の長子である。幼少より沈着聡明で識量があり、容姿端麗で経史に留意した。武帝は彼を大いに愛し、常に「吾が家の英秀」と称えた。梁の太清の初め、帝は二つの日が闘う夢を見た。一つは大きく、一つは小さく、大きい方は光滅して地に墜ち、色は正黄で、その大きさ斗の如く、帝はその三分の一を取って懐にした。侯景の乱の時、臨安県の郭文挙の旧宅に避難した。武帝が兵を挙げて南下すると、侯景は呉興太守の信都遵を遣わして帝と衡陽献王を捕らえ都に出させた。帝は密かに小刀を袖に隠し、侯景に会う機会を窺ってこれを図ろうとした。到着すると、郎中王翻に付されて幽閉監視されたため、その事は遂げられなかった。武帝が石頭を包囲した時、侯景は幾度も害を加えようとしたが、侯景が敗れたため、ようやく出ることができた。初官は呉興太守であった。武帝が王僧弁を討とうとした時、先ず帝を召して謀った。当時、僧弁の婿の杜龕が呉興を占拠し、兵衆が甚だ盛んであったので、武帝は密かに帝に長城に戻り、柵を立てて備えるよう命じた。杜龕は将の杜泰を遣わして虚に乗じて掩い至らせた。将士は顔を見合わせて色を失ったが、帝は談笑自若として指揮を益々明らかにしたので、衆心は乃ち定まった。武帝が周文育を遣わして杜龕を討たせた時、帝は将軍劉澄・蔣元挙を遣わして杜龕を攻め落とした。会稽太守に任じられた。武帝が禅を受けると、臨川王に立てられた。梁武帝が宝刀を己に授ける夢を見た。周文育・侯安都が沌口で敗れた時、武帝は詔して帝に入らせて軍政を総括させた。間もなく命じて兵を率いて南皖に城を築かせた。

永定三年六月丙午、武帝が崩御し、皇后が遺詔を称して帝を征し、皇統を継がせようとした。甲寅、南皖より至り、中書省に入って居た。皇后は帝に宝籙を継ぐことを命じたが、帝は再三にわたって辞譲し、公卿が固く請うたので、その日、即ち皇帝の位に即いた(太極前殿で即位)。大赦を下し、詔して州郡に悉く奔赴(崩御の知らせを聞いて駆けつけること)を停止させた。

秋七月丙辰、皇后を皇太后と尊んだ。辛酉、 司空 しくう 侯瑱を太尉とし、南 州刺史侯安都を 司空 しくう とし、南徐州刺史徐度を侍中・中撫軍将軍・開府儀同三司とした。乙丑、重雲殿に災い(火災)があった。

八月庚戌、皇子伯茂を始興王に立て、昭烈王の後を奉じさせ、始興嗣王頊を安成王に徙封した。

九月辛酉、皇子伯宗を皇太子に立て、王公以下に帛を賜い、各差等があった。乙亥、妃沈氏を皇后に立てた。

冬十月甲子、斉の文宣帝が崩御した。

十一月乙卯、王琳が大雷を寇し、詔して太尉侯瑱・ 司空 しくう 侯安都・儀同徐度にこれを防がせた。

この年、周の明帝が天王の称を改めて皇帝と称し、再び年号を建てて武成元年とした。

天嘉元年春正月癸丑、大赦し、元号を改めた。詔して鰥寡孤独で自ら存立できない者に、人ごとに粟五斛を賜う。孝悌力田で、殊行異等の者には爵一級を加える。甲寅、使者を分遣して四方を宣撫慰労した。辛酉、南郊で祭祀を行った。詔して人に爵一級を賜う。

二月丙申、太尉侯瑱が梁山で王琳を破り、博望で斉兵を破り、斉の将劉伯球を生け捕りにした。王琳とその主蕭莊は斉に奔った。庚子、使者を分遣して璽書を携えさせ、四方を宣撫慰労した。乙巳、太尉侯瑱を遣わして盆城を鎮守させた。庚戌、武帝の第六子昌を衡陽王に立てた。

三月丙辰、蕭莊が任命した郢州刺史孫瑒が州を挙げて内附した。丁巳、江州刺史周迪が南中を平定し、賊帥熊曇朗を斬り、首を建鄴に伝送した。戊午、斉軍が魯山城を棄てて逃走したので、詔して南 州刺史程霊洗にこれを守らせた。丙子、衡陽王昌が江に沈んだ(水死した)。

夏四月丁亥、皇子伯信を衡陽王に立て、献王の後を奉じさせた。辛丑、周の明帝が崩御した。

六月辛巳、皇祖妣景安皇后の諡を改めて景文皇后とした。壬辰、詔して梁元帝を江寧の旧塋に改葬し、車旗礼章は悉く梁の典制を用い、なお魏が漢献帝を葬った故事に依った。甲午、故始興昭烈王妃を追策して孝妃とした。辛丑、国哀の周忌(一周忌)に、上(皇帝)は太極前殿に臨み、百官が陪哭した。建鄴の殊死以下の罪を赦した。

秋七月丙辰、皇子伯山を立てて鄱陽王と為す。

八月壬午、斉の孝昭帝、その主殷を廃して自ら立つ。戊子、詔して兵器及び国容の須うる所に非ざる、金銀珠玉衣服雑玩は、悉く皆禁断す。丁酉、正陽堂に幸して武を閲す。

九月癸丑、彗星見ゆ。乙卯、周の将軍獨孤盛、水軍を率いて巴・湘に趣き、賀若敦と水陸倶に進み、太尉侯瑱、尋陽より之を禦ぐ。

冬十月癸巳、侯瑱、楊葉洲に於いて獨孤盛を襲い破り、盛は岸に登り城を築き自ら保つ。丁酉、詔して 司空 しくう 侯安都に命じ、衆を率いて侯瑱に会し、南に周軍を拒がしむ。

十二月己亥、周の巴陵城主尉遅憲降る。庚子、獨孤盛潜かに遁走す。

二年春正月庚戌、大赦す。辛未、周の湘州城主殷亮降り、湘州平ぐ。

二月庚寅、湘州諸郡を曲赦す。

三月乙卯、太尉・湘州刺史侯瑱薨ず。

夏六月己亥、斉人通好す。

秋七月丙午、周の将軍賀若敦遁走して帰る。武陵・天門・南平・義陽・河東・宜都郡悉く平ぐ。

九月甲寅、詔して故太尉侯瑱・故 司空 しくう 周文育・故開府儀同三司杜僧明・故中護軍胡穎・故領軍陳擬を以て武帝廟庭に配食せしむ。

冬十月癸丑、霍州西山の蛮、部を率いて内属す。乙卯、高麗国使いを遣わして朝貢す。

十一月甲辰、斉の孝昭帝殂す。

十二月甲申、始興国廟を都下に立て、王者の礼を用う。国用足らざるを以て、海塩を煮るの賦及び酒の専売の科を立てる。是に先立ち縉州刺史留異、王琳に応ず。丙戌、詔して 司空 しくう 侯安都に之を討たしむ。

是の歳、周の武帝保定元年。

三年春正月庚戌、南郊に帷宮を設け、幣を以て胡公に告げて天に配せしむ。辛亥、南郊を祀り、詔して人爵一級を賜い、孝悌力田には一等を加う。

二月、梁の宣帝崩ず。

閏月己酉、百済王餘明を撫東大将軍と為し、高麗王高湯を甯東将軍と為す。江州刺史周迪、兵を挙げて留異に応ず。甲子、五銖銭を改めて鋳る。

三月丙子、安成王頊、周より至る。丁丑、安右将軍呉明徹を安南将軍・江州刺史と為し、衆軍を督して南討せしむ。甲申、大赦す。庚寅、 司空 しくう 侯安都、留異を桃枝嶺に破り、異は晋安に奔り、東陽郡平ぐ。

夏四月癸卯、東陽郡を曲赦す。乙巳、斉人聘問に来る。

秋七月己丑、皇太子妃王氏を納る。在位の文武に帛を賜うこと各差有り、孝悌力田にして父の後を継ぐ者には爵二級を賜う。

九月戊辰朔、日蝕有り。侍中到仲挙を尚書右僕射と為す。丁亥、周迪降を請う。

四年春正月丙子、幹陀利国使いを遣わして朝貢す。甲申、周迪走りて閩州に投ず。刺史陳宝応之を納る。

夏四月辛丑、無礙大会を設け、太極前殿にて身を捨つ。乙卯、驃騎将軍・揚州刺史安成王頊に開府儀同三司を加う。

六月癸巳、 司空 しくう 侯安都に死を賜う。

秋九月壬戌、開府儀同三司・広州刺史欧陽頠薨ず。癸亥、都下を曲赦す。辛未、周迪復た臨川に寇す。詔して護軍将軍章昭達に討平せしむ。

冬十二月丙申、大赦す。詔して昭達に建安に進軍し、陳宝応を討たしむ。

五年春三月壬午、詔して故護軍将軍周鉄武を武帝廟庭に配食せしむ。

夏五月、周・斉並びに使いを遣わして聘問に来る。

秋七月丁丑、都下を曲赦す。

九月、城西城を築く。

冬十一月己丑、章昭達が陳寶應と留異を捕らえ、建鄴に送り、 しん 安郡は平定された。甲辰、護軍將軍章昭達を鎮軍將軍・開府儀同三司に任ず。

十二月甲子、建安・ しん 安の二郡を曲赦す。陳寶應を討つ将士で王事に死した者は、皆棺槥を与え、本郷に送還し、併せてその家を復す。癸未、齊人が来聘す。

六年春正月甲午、皇太子に元服を加え、王公以下に帛を賜うこと各差あり、孝悌力田にして父の後を継ぐ者には爵一級を賜い、鰥寡孤獨にして自ら存し得ざる者には穀物一人につき五斛を賜う。

夏四月甲寅、開府儀同三司・揚州刺史安成王頊を 司空 しくう に任ず。

五月、齊の武成帝が太子緯に位を伝え、自ら太上皇帝と号す。

六月辛酉、彗星が上臺の北に見ゆ。周人が来聘す。

秋七月癸未、大風西南より至り、広さ百余歩、霊台の候楼を激しく壊す。甲申、儀賢堂故なくして自ら壊る。丙戌、臨川太守駱牙が周迪を斬り、首を建鄴に伝え、朱雀航に梟す。

八月己卯、皇子伯固を立てて新安王とし、伯恭を しん 安王とし、伯仁を廬陵王とし、伯義を江夏王とす。

九月、新たに大航を作る。

冬十月辛亥、齊人が来聘す。

十二月乙卯、皇子伯礼を立てて武陵王とす。癸亥、都下を曲赦す。

天康元年春二月丙子、大赦し、元号を改む。

三月己卯、 司空 しくう 安成王頊を 尚書令 しょうしょれい に任ず。

夏四月乙卯、皇孫至澤生まる。在位の文武に帛を賜うこと各差あり、父の後を継ぐ者には爵一級を賜う。癸酉、皇帝有覚殿に崩御す。遺詔して皇太子に即君臨することを可とし、山陵は務めて倹速を存し、大斂竟れば群臣三日に一臨し、公除の制は率ねて旧典に依る。六月甲子、群臣諡を上りて文皇帝と曰し、廟号を世祖とす。丙寅、永寧陵に葬る。

文帝は布衣より起り、百姓の疾苦を知り、国家の資用は務めて倹約に従う。真偽を妙に識り、下に奸を容れず。一夜の内に閨を刺して外事を取り分判する者、前後に相続く。毎に雞人漏を伺ひ簽を殿中に傳ふる者に、簽を階石上に投ぜしめ、槍然として聲有り、云く、「吾眠を得と雖も、亦た驚覺せしむ」と。其の自強すること此の若しと云ふ。

廢帝

廢帝は諱を伯宗とし、字を奉業とし、小字を藥王とす。文帝の嫡長子なり。梁の承聖三年五月庚寅に生まる。永定二年二月戊辰、臨川王の世子に拜す。三年、文帝位を嗣ぎ、八月庚戌、皇太子に立てらる。梁室の亂離より、東宮焚燼し、太子は永福省に居る。

天康元年四月癸酉、文帝崩ず。是の日、太子皇帝の位に即く於太極前殿、大赦す。詔して内外文武各其の職に復し、遠方悉く奔赴を停む。

五月己卯、皇太后を尊びて太皇太后と曰ひ、皇后を皇太后と曰ふ。庚寅、 司空 しくう ・揚州刺史・新たに除せられたる 尚書令 しょうしょれい 安成王頊を以て 司徒 しと ・錄尚書・ 都督 ととく 中外諸軍事と為す。丁酉、中軍大將軍・開府儀同三司徐度を以て 司空 しくう と為し、鎮東將軍・東揚州刺史始興王伯茂を以て征東將軍・開府儀同三司と為す。吏部尚書袁樞を以て尚書左僕射と為し、吳興太守沈欽を以て右僕射と為す。

秋七月丁酉、妃王氏を立てて皇后と為す。

冬十月庚申、太廟を享く。

十一月乙亥、周人來り吊す。

十二月甲子、高麗國使いを遣はし朝貢す。

是の歲、周の天和元年なり。

光大元年春正月癸酉、尚書左僕射袁樞卒す。乙亥、大赦し、元を改め、孝悌力田に爵一級を賜ふ。辛卯、南郊に祀る。

二月辛亥、南 州刺史余孝頃謀反し、誅に伏す。

三月甲午、尚書右僕射沈欽を以て侍中・尚書僕射と為す。

夏五月乙未、湘州刺史華皎執政に從はず。丙申、中撫軍大將軍淳于量を以て征南大將軍と為し、舟師を總べて之を討たしむ。

六月壬寅、中軍大將軍・ 司空 しくう 徐度を以て車騎將軍と為し、都下の眾軍を總督し、步道より湘州を襲はしむ。

秋七月戊申、皇子至澤を立てて皇太子と為し、天下に父の後を継ぐ者に爵一級を賜い、王公以下に賚うところの帛は各差有り。

九月丙辰、百済国は使いを遣わして朝貢す。是の月、周の将拓拔定は郢州に入り、華皎と水陸共に進み、 都督 ととく 淳于量・呉明徹等大いに之を破り、皎は単舸にて江陵に奔り、定を禽えて建鄴に送る。

冬十月辛巳、湘・巴二州に曲赦し、皎に詿誤せられたる者と為す。

十一月甲子、中権将軍・開府儀同三司王沖薨ず。

十二月庚寅、儀同三司兼従事中郎孔英哲を以て奉聖亭侯と為し、孔子の祀を奉ぜしむ。

二年春正月己亥、 司徒 しと ・安成王頊は位を進めて太傅と為し、 司徒 しと を領し、殊礼を加う。新たに除せられたる征南大将軍淳于量を以て中軍大将軍と為し、及び安南将軍・湘州刺史呉明徹は即ち本号にて並びに開府儀同三司と為す。庚子、詔して華皎の軍人にて王事に死したる者を討ち、並びに棺槥を給し、本郷に送還し、仍く其の家を復す。甲子、 司空 しくう 徐度薨ず。

夏五月丙辰、太傅安成王頊は玉璽一を献ず。

六月丁亥、彗星見ゆ。

秋七月戊申、新羅国は使いを遣わして朝貢す。壬戌、皇弟伯智を立てて永陽王と為し、伯謀を桂陽王と為す。

九月、林邑・狼牙修国並びに使いを遣わして朝貢す。

冬十一月甲寅、慈訓太后令して曰く、「伯宗は昔儲宮に在りしとき、本より令問無く、及び崇極に居りて、遂に凶淫を騁す。太傅は親しく顧托を承け、義は垣屏に深し。而るに攢塗未だ禦せず、翌日淹ること無く、仍て劉師知・殷不佞等を遣わして顕言排斥し、陰謀禍乱す。元相の維持に頼り、但だ君側を除くのみ。又余孝頃を以て密邇京師なるを便とし、相徴召し、宗社の霊、祅氛是れ滅ぶ。ここにおいて密詔して華皎にし、兵を称して上流にす。国祚憂惶し、幾くんぞ丑類に移らんとす。又別に勅して欧陽紇等をして衡州を攻逼せしめ、嶺表紛紜、殊に弦望を淹る。但だ賊豎皆亡び、日を望みて懲改むるも、而して礼を悖り徳を忘れ、情性悛わず。蕩主侯法喜等は、太傅の麾下にて、恒に府内に遊び、深利を啖いて、肘腋に興らんと謀る。又蕩主孫泰等潜かに相連結し、大いに交通有り。天其の衷を誘い、自然に発く。此の諸の文跡、今以て相示す。豈に復た粛恭して禋祀し、生霊に臨御すべけんや。今特ち臨海郡王に降し、藩邸に送還すべし。太傅安成王は、固より天徳を生じ、聖に斉しく広深、二後心を鍾け、三霊眷に佇つ。前朝不 より以来、任は邦家を総べ、威恵相宣え、刑礼兼ねて設く。且つ地は霊璽を彰し、天は長彗を表し、新を布き旧を除き、禎祥咸く顕わる。文皇子を知るの鑑、事は甚だ帝堯にしく、弟に伝うるの懐、久しく太伯に符す。今還た旧志を申し、賢君を崇立すべし。外は旧典に照らし、輿駕を奉迎すべし。」是の日、帝出でて別第に居る。

太建二年四月乙卯薨ず。時に年十九。

帝は性仁弱にして、人君の器無く、及び尊位に即きては、政刑皆塚宰に帰す。故に宣太后は文帝の遺志を称して而して廃せり。

論す。

論じて曰く、陳武帝は雄毅の姿を以て、殷憂の運に属し、功は溺を拯うに存し、道は横流を済す。応変方無く、蓋し惟だ人傑なり。西都蕩覆に及び、江表阽危に及ぶや、僧辯は任伊尹に同じくし、空しく桐宮の恨を結び、貞陽は秦兵に入り仮り、穆嬴の泣を息めず。帝は隙に乗じて挙ぐるに及び、乃ち玄機に蹈む。王業の基く所、此より始まる。柴天して物を改むるは、蓋し憑る有るか。文帝は宗枝を以て統を承け、情は兢惕に存し、儒術を崇尚し、文義を愛悦するを加え、恭儉己を行い、勤労物を済し、志度弘遠、前哲の風有り。下に臨みて明察なるに至りては、永平の政を得たり。臨海は懦弱、帝摯に同じき有り。文後は殷の道を鑒みずと雖も欲すとも、蓋し亦た其れ得べけんや。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻009