南史 巻八 梁本紀下第八

南史

巻八 梁本紀下第八

簡文帝

太宗簡文皇帝は諱を綱、字を世贊、小字を六通といい、武帝の第三子、昭明太子の同母弟である。天監二年十月丁未、顯陽殿に生まれた。五年、 しん 安王に封ぜられる。普通四年、累遷して 都督 ととく ・雍州刺史となった。中大通三年、征されて入朝するが、未だ到らぬうちに、昭明太子が左右に謂いて曰く、「我夢に しん 安王と道を擾えて碁を打ち、我が班剣を彼に授く。王の還る時、かくの如き加増があるであろうか」と。四月、昭明太子薨ず。五月丙申、 しん 安王を立てて皇太子とす。七月乙亥、軒に臨みて策拝す。東宮を修繕するため、暫く東府に居す。四年九月、移って東宮に還る。

太清三年、台城陥つ。太子は永福省に坐して侯景を見るも、神色自若として、懼れる容色なし。五月丙辰、帝崩ず。辛巳、太子皇帝の位に即く。大赦す。癸未、穆貴嬪を追尊して皇太后とし、妃王氏を追諡して簡皇后とす。

六月丙戌、南康王會理を 司空 しくう となす。丁亥、宣城王大器を立てて皇太子とす。壬辰、當陽公大心を立てて尋陽郡王とし、石城公大款を江夏郡王とし、甯國公大臨を南海郡王とし、臨城公大連を南郡王とし、西豐公大春を安陸郡王とし、新淦公大成就を山陽郡王とし、臨湘公大封を宜都郡王とし、高唐公大莊を新興郡王とす。

秋七月甲寅、廣州刺史元景仲、侯景に応ぜんと謀る。西江督護陳霸先これを攻め、景仲自殺す。霸先は定州刺史蕭勃を迎えて刺史となす。庚午、 司空 しくう 南康王會理を以て兼 尚書令 しょうしょれい となす。是の月、九江大いに饑え、人相食むこと十に四五なり。

八月癸卯、征東大将軍・開府儀同三司・南徐州刺史蕭藻薨ず。丙午、侯景詔を矯りて曰く、「儀同三司の位は正公に比す。今より後は悉く将軍を加えず、以て定準と為す」と。

冬十月丁未、地震す。是の月、百濟国使いを遣わして朝貢す。城寺の荒蕪たるを見て、闕下に哭す。

大寶元年春正月辛亥朔、大赦し、元を改む。丁巳、天黄沙を雨らす。己未、西魏安陸を克ち、司州刺史柳仲禮を執り、漢東の地を尽く有す。丙寅、月昼に東方に見ゆ。癸酉、前江都令祖皓、広陵に義兵を起こす。

二月癸未、侯景広陵を攻め下し、皓害せらる。乙巳、尚書僕射王克を以て左僕射となす。丙午、侯景帝を逼りて西州に幸せしむ。

夏五月丙辰、東魏静帝斉に位を遜る。庚午、開府儀同三司鄱陽王範薨ず。春より夏に至るまで大旱し、人相食み、都下特に甚だし。

六月庚子、前司州刺史羊鴉仁、尚書省より出奔して江陵に至る。

秋七月戊辰、賊の行台任約江州を寇し、刺史尋陽王大心州を以てこれに降る。

八月甲午、湘東王繹、領軍将軍王僧辯を遣わして 郢州 えいしゅう を逼り、邵陵王綸郢州を棄てて走る。

九月乙亥、侯景は自ら進んで相國の位に就き、二十郡を封じて漢王と為す。

冬十月乙未、侯景はまた帝を逼りて西州に幸せしめ曲宴を催し、自ら宇宙大将軍・ 都督 ととく 六合諸軍事を加える。皇子大鈞を立てて西陽郡王と為し、大威を武寧郡王と為し、大球を建安郡王と為し、大昕を義安郡王と為し、大摯を綏建郡王と為し、大圜を樂梁郡王と為す。壬寅、侯景は 司空 しくう 南康王會理を害す。

十一月、任約は進んで西陽を據へ、兵を分かちて齊昌を寇し、衡陽王獻を執へて都下に送り、之を害す。湘東王繹は前寧州刺史徐文盛を遣はして約を拒がしめ、南郡王前中兵參軍張彪は會稽若邪山に起義し、浙東諸縣を攻破す。

二年春二月、邵陵王綸は走りて安陸董城に至り、魏に攻められて殺さる。

三月庚戌、魏の文帝崩ず。

夏四月、侯景は巴陵を圍む。

六月乙巳、圍みを解きて宵に遁る。

秋七月、景は還りて建鄴に至る。

八月戊午、景は偽衛尉卿彭雋・廂公王僧貴を遣はして殿に入らしめ、帝を廢して しん 安王と為す。皇太子大器・尋陽王大心・西陽王大鈞・武寧王大威・建安王大球・義安王大昕及び尋陽王の諸子二十餘人を害す。帝の詔として偽り、以て次は支庶に當たるべく、正嫡に歸すべきを宜しくし、 章王棟に禪位すと為す。呂季略をして詔を送らしめ、帝に之を寫さしむ。帝の書、「先皇は神器の重きを念ひ、社稷の固きを思ひ、非次を越えて升り、遂に震方を主とす」に至りて、嗚咽して自ら止むること能はず、賊衆皆之が爲に掩ひて泣く。乃ち帝を永福省に幽す。棟即位し、元を天正と改む。南海王大臨を吳郡に於て、南郡王大連を姑孰に於て、安陸王大春を會稽に於て、新興王大莊を京口に於て害さしむ。

冬十月壬寅、帝は永福省に於て崩ず。時に年四十九。賊偽りて諡して明皇帝と曰ひ、廟號を高宗と稱す。明年三月己丑、王僧辯は侯景を平げ、百官を率ひて梓宮を奉じて廟堂に升る。元帝は追崇して簡文皇帝と爲し、廟號を太宗とす。四月乙丑、莊陵に葬る。

帝は幼くして聰睿、六歳にして便能く文を屬す。武帝之を信ぜず、前に於て面試す。帝は筆を攬りて立ちどころに文を成す。武帝歎じて曰く、「常に東阿を以て虚しと爲すも、今則ち信ず」と。長ずるに及び、器宇寬弘、未だ喜慍の色を見ず、尊嚴神の若し。方頤豐下、鬚鬢畫の如く、直髮地に委し、雙眉翠色。項毛左に旋り、連錢背に入る。手に玉如意を執るも、相辨別せず。眄睞すれば則ち目光人を燭す。書を讀むこと十行俱に下り、辭藻豔發し、群言を博綜し、善く玄理を談ず。十一より便能く庶務に親しみ、藩政を歷試し、所在稱美せらる。性恭孝、穆貴嬪の憂に居りては、哀毀骨立ち、坐する所の席は沾濕して盡く爛る。襄陽に在りて表を拜して魏を侵し、長史柳津・司馬董當門・壯武將軍杜懷寶・振遠將軍曹義宗等を遣はして軍を進め、南陽・新野等の都を克ち、地を拓くこと千餘里。

監撫に居るに及び、弘宥すること多く、文案簿領、纖豪必ず察す。文學の士を弘納し、賞接倦むこと無し。嘗て玄圃に於て武帝の制する所の五經講疏を述ぶ。聽く者は朝野を傾く。雅く賦詩を好み、其の自序に云く、「七歳にして詩癖有り、長じて倦まず」と。然れども帝の文は輕靡に傷き、時に「宮體」と號す。著する所、昭明太子傳五卷、諸王傳三十卷、禮大義二十卷、長春義記一百卷、法寶連璧三百卷、謝客文涇渭三卷、玉簡五十卷、光明符十二卷、易林十七卷、竈經二卷、沐浴經三卷、馬槊譜一卷、棋品五卷、彈棋譜一卷、新增白澤圖五卷、如意方十卷、文集一百卷、並びに世に行はる。

初め即位し、年號を制して將に「文明」と曰はんとす。外に強臣を制するを以て、周易「内は文明にして外は柔順」の義を取る。賊の覺るるを恐れ、乃ち大寶と改む。蒙塵に在りと雖も、尚ほ諸儒を引いて道を論じ義を說き、墳史を披尋して未だ暫くも釋かず。南康王會理の誅さるるを見て、久からざるを知り、居る所の殿を指して舍人殷不害に謂ひて曰く、「龐涓此の下に死す」と。又た曰く、「吾昨夢みて土を吞む、試みに之を思へ」と。不害曰く、「昔、重耳塊を饋りて、卒に しん 國に反る。陛下の夢みる所、將に是れに符せんか」と。帝曰く、「儻ひに幽冥に徵有らば、冀くは斯の言妄らざらんことを」と。

初め、景は帝の女溧陽公主を納る。公主美色有り、景之に惑ひ、政事に妨げ有り。王偉每之を以て言ふ。景以て主に告ぐ。主惡言を出す。偉之を知り、讒せらるるを懼れ、乃ち帝を廢して後に主を間はんと謀る。殺を行ふを苦勸し、以て衆心を絶たんとす。廢したる後、王偉乃ち彭雋・王修纂と與に觴を進めて帝に曰く、「丞相は陛下の幽憂既に久しきを以て、臣をして壽を上らしむ」と。帝笑ひて曰く、「已に帝位に禪せり、何ぞ陛下と得て言ふ。此の壽酒將に此れを盡さざらんか」と。是に於て雋等並びに酒肴・曲項琵琶を齎し、帝と極め飲む。帝將に殺さるるを見んと知り、乃ち盡く酣にし、謂ひて曰く、「樂を圖らざる、一に斯れに至る」と。既に醉ひて寢る。偉乃ち出で、雋土囊を進む。王修纂坐に上りて、乃ち崩ず。竟に夢に協ふ。偉戶扉を撤して棺と爲し、殯を城北の酒庫中に遷す。

帝幽縶せられし後より、賊乃ち内外の侍衛を撤し、突騎をして圍み守らしめ、牆垣悉く枳棘有り。復た紙無く、乃ち壁及び板鄣に書して文と爲す。自序に云く、「梁の正士蘭陵蕭世贊有り、身を立て道を行ひ、終始一の若し。風雨晦るる如く、雞鳴已まず。暗室を欺かず、豈に況んや三光をや。數此に至る、命や如何」と。又た文數百篇を爲す。崩じたる後、王偉之を觀て、其の辭切なるを惡み、即時に刮去らしむ。偉に隨ひ入る者有り、其の連珠三首、詩四篇、絕句五篇を誦す。文並びに悽愴と云ふ。

元帝

世祖孝元皇帝は諱を繹、字を世誠、小字を七符といい、武帝の第七子である。初め、武帝は片目の僧が香炉を執り、王宮に生まれ変わると称する夢を見た。やがて帝の母が采女の列に侍り、初めて戸の幔を捲ると、風が裾を翻し、武帝は感ずるところあって寵幸した。采女は月が懐に堕ちる夢を見て、遂に懐妊した。天監七年八月丁巳に帝を生むと、部屋中に尋常ならぬ香りがし、紫の胞衣の異変があった。武帝はこれを奇異とし、よって采女に阮の姓を賜い、修容に進めた。十三年、湘東王に封ぜられる。太清元年、累遷して鎮西将軍・ 都督 ととく ・荊州刺史となった。

三年三月、侯景が建鄴を陥落させる。四月、世子方等が建鄴より至り、台城が守られていないことを知る。帝は江陵城に柵を巡らすよう命じ、周囲七十里に及んだ。鎮西長史王沖らが箋を奉って太尉・ 都督 ととく 中外諸軍事となり、制を承けて盟主となることを請うた。帝は許さず、「我は天下において賤しからず、どうして 都督 ととく の名を待たん。帝子の尊さとして、どうして上臺の位を借りよう。議する者は斬るべし」と言い、筆を投げて涙を流した。王沖らが重ねて請うたが従わず。また 司空 しくう となり、諸侯を主とすることを請うたが、これも聴かなかった。そこで鎮西府を開き、天下の士を招聘した。

この月、帝は湘州刺史河東王蕭譽に兵を徴したが、蕭誉は命を拒んだ。まもなく上甲侯蕭韶が建鄴より至り、三月十五日の密詔を宣し、帝に仮黄鉞・大 都督 ととく 中外諸軍事・ 司徒 しと ・制を承けることを授けた。ここにおいて南郡に行台を立て官司を置いた。

七月、世子方等を遣わして河東王蕭誉を討たせたが、軍は敗れ、戦死した。また鎮兵将軍鮑泉を遣わして蕭誉を討たせた。

九月乙卯、雍州刺史岳陽王蕭詧が兵を挙げて江陵を寇し、その将杜崱兄弟が降伏して来たので、蕭詧は逃げ去った。鮑泉は湘州を攻めたが、未だ克たず。また左衛将軍王僧辯を遣わして将を代えさせた。

簡文帝が即位し、元号を大宝元年と改めた時、帝は簡文帝が賊臣に制せられているとして、終に遵用しなかった。正月、末子方晷を魏に人質として遣わしたが、魏は人質を受け入れず、兄弟の盟を結んだ。

四月、湘州を攻克し、蕭誉を斬り、湘州は平定された。雍州刺史岳陽王蕭詧は自ら梁王と称し、魏に藩属し、魏は兵を遣わして襄陽討伐を助けた。これに先立ち、邵陵王蕭綸の書状に既に凶事(武帝崩御)が記されていたが、秘して湘州の捷報を待っていた。この月壬寅、初めて陳瑩に命じて武帝崩御の報を伝えさせ、帝は正寝で哭した。

六月、江夏王大款・山陽王大成・宜都王大封が信安より来奔した。

九月辛酉、前郢州刺史南平王蕭恪を中衛将軍・ 尚書令 しょうしょれい ・開府儀同三司とした。大款を臨川郡王に、大成を桂陽郡王に、大封を汝南郡王に改封した。

十一月甲子、南平王蕭恪らが箋を奉って相国の位に進め、百揆を総べることを請うたが、帝は従わなかった。

二年三月、侯景が兵を悉く西上させた。

四月、侯景はその将宋子仙・任約を遣わして郢州を襲わせ、刺史方諸を捕らえた。庚戌、領軍王僧辯は軍を巴陵に屯させた。

五月癸未、帝は将胡僧佑・陸法和を遣わして巴陵を救援させた。

六月、胡僧佑らが侯景の将任約の軍を撃破し、任約を生け捕りにしたので、侯景は包囲を解いて夜遁した。王僧辯を征東将軍・開府儀同三司・ 尚書令 しょうしょれい とし、衆を率いて侯景を追撃させたところ、到る所で勝利した。進軍して郢州を包囲し、賊将宋子仙らを捕獲した。

九月、盤盤国が馴象を献上した。

十月辛丑朔、紫雲が蓋の如く江陵城に臨んだ。この月、簡文帝が崩御し、開府儀同三司王僧辯らが上表して即位を勧めた。帝は訃報を受け、三日間大いに哭礼を行い、百官は縞素の喪服を着て、上表に答えて許さなかった。 司空 しくう 南平王蕭恪が宗室を率い、領軍将軍胡僧佑が群僚を率い、江州別駕張佚が吏人を率いて、共に奉箋して即位を勧めた。帝は固く辞退した。

十一月乙亥、王僧辯がまた上表して即位を勧めたが、また従わなかった。当時大賊(侯景)はまだ存続しており、帝は即位を望まず、四方からの上表勧進が前後して相次いだので、ついに上表を断つ命令を下した。

承聖元年二月、王僧辯の諸軍が尋陽より出発し、帝は四方に檄を馳せ、侯景及びその逆党を捕らえた者に、万戸開国公の爵位と絹布五万匹を与えることを懸賞した。

三月、王僧辯らが侯景を平定し、その首級を江陵に伝送した。戊子、賊平定を明堂・太社に告げた。己丑、王僧辯らがまた上表して即位を勧めた。

帝はなお従わなかった。辛卯、宣猛将軍朱買臣が帝の密旨を奉じ、 章王蕭棟とその二人の弟蕭橋・蕭樛を害した。

四月乙巳、益州刺史、新たに仮黄鉞・太尉を拝した武陵王蕭紀が蜀で僭位し、年号を天正とした。帝は兼 司空 しくう 蕭泰、祠部尚書楽子雲を遣わして塋陵を拝謁させ、社廟を修復させた。丁巳、戒厳令を解除する命令を下した。

五月庚午、 司空 しくう 南平王蕭恪及び宗室王侯、大 都督 ととく 王僧辯らが、再び上表して尊号を奉った。帝はなお固く辞退した。甲申、開府儀同三司・江州刺史王僧辯を 司徒 しと とした。乙酉、賊の左僕射王偉、尚書呂季略、少府卿周石珍、舎人厳亶を江陵の市で斬り、ついに境内を赦す命令を下した。斉の将軍潘楽、辛術らが秦郡を攻め、王僧辯は将軍杜崱を遣わして兵を率いさせてこれを防がせた。陳霸先を征北大将軍・開府儀同三司・徐州刺史とした。斉人が侯景平定を賀した。

八月、武陵王蕭紀が巴・蜀の兵を率いて東下し、護軍将軍陸法和を遣わして巴峡に駐屯させてこれを防がせた。

九月甲戌、 司空 しくう 南平王蕭恪が薨去した。

十月乙未、前梁州刺史蕭循が魏より江陵に至り、平北将軍・開府儀同三司とした。戊申、湘州刺史王琳を殿内で捕らえた。庚戌、王琳の長史陸納とその将軍潘烏累らが挙兵して反し、湘州を陥落させた。この月、四方の征鎮王公卿士が再び即位を勧める上表をし、三度上ったので、ついにこれを許した。

冬十一月丙子、皇帝は江陵において即位し、太清六年を承聖元年と改めた。未納の租税と旧債は、全て寛大に赦免することを許した。孝子順孫は、全て爵位を賜った。長期の徒刑や鎖につながれた者も、特に赦免した。官職を禁じられたり労役を課せられたりした者は、全てその罪を免除した。この日、帝は正殿に昇らず、公卿が陪列したのみであった。時に二つの太陽が共に見えた。己卯、王太子方矩を皇太子と立て、名を元良と改めた。皇子方智を晋安郡王と立て、方略を始安郡王とした。生母の阮修容を追尊して文宣太后とした。忠壮太子の諡を改めて武烈太子とし、武烈太子の子蕭荘を永嘉王に封じた。この月、陸納が将軍潘烏累らを遣わして淥口において衡州刺史丁道貴を破り、道貴は零陵に逃れた。

十二月、陸納が兵を分けて巴陸を襲撃したが、湘州刺史蕭循がこれを撃退した。天門山で野人が捕らえられたが、山を出て三日で死んだ。星が呉郡に隕落した。淮南に数百頭の野象が現れ、人の家屋を破壊した。宣城郡では猛獣が暴れて人を食った。

この年は、西魏の廃帝元年である。

二年春正月乙丑、詔して王僧辯に陸納を討たせた。戊寅、吏部尚書王褒を尚書右僕射とした。己卯、江夏宮の南門の鍵の牡(雄の部分)が飛んだ。

三月庚寅、二頭の龍が湘州の西江に現れた。

夏五月甲申、魏の大将尉遅迥が兵を進めて巴西を逼り、潼州刺史楊幹運は城を以て迥に降った。己丑、武陵王紀の軍は西陵に至った。

六月乙卯、王僧辯が湘州を平定した。

秋七月、武陵王紀の軍衆は大いに潰え、殺害された。

八月戊戌、尉遅迥が蜀を平定した。

九月、斉が郭元建及び将の邢杲遠、歩大汗薩、東方老を遣わし、衆を率いて合肥に頓した。

冬十一月辛酉、僧辯は姑孰に留まって鎮し、 州刺史侯瑱は東関の塁を拠り、呉興太守裴之横を征して衆を率いてこれに継がせた。戊戌、尚書右僕射王褒を左僕射と為し、湘東太守張綰を右僕射と為した。

十二月、宿預の土人東方光が城を拠り帰化し、斉の江西の州郡は皆兵を起こしてこれに応じた。

三年春正月、魏帝は相安定公に廃せられ、斉王廓を立てた。これが恭帝元年である。

三月、主衣庫に黒蛇が長さ一丈余り現れ、数十の小蛇がこれに随い、頭を挙げて一丈余り高く南を望み、俄かに所在を失った。帝はまた宮人と共に玄洲苑に幸し、再び大蛇が前に盤屈し、群小蛇がこれを遶るのを見た。皆黒色であった。帝はこれを悪み、宮人は言った、「これは怪異ではありません。恐らくは銭龍でしょう。」帝は所司に勅して即日数千万銭を取り、蛇の在った所に鎮めてこれを厭った。因って法会を設け、囚徒を赦し、窮乏を振い、棲心省に退居した。また蛇が屋より帝の帽上に堕ち落ち、忽然として便ち失せた。また龍光殿上の御する肩輿に再び小蛇が輿中に縈屈し、頭を以て夾膝前の金龍の頭に駕し、人を見て走り去り、これを逐うも及ばなかった。城濠中の龍が騰げ出で、五色に煥爛として、竦躍して雲に入り、六七の小龍が相随って飛び去った。群魚が騰躍し、陸道に墜ち死した。龍の在った所は数百斛の圌の如き窟となった。旧大城の上には常に紫気有りしが、この時に至って稍々復た消歇した。甲辰、 司徒 しと 王僧辯を太尉、車騎大將軍と為した。戊申、護軍將軍、郢州刺史陸法和を 司徒 しと と為した。

夏四月癸酉、征北大將軍、開府儀同三司陳霸先を 司空 しくう と為した。

六月癸未、黒気龍の如きものが殿内に現れた。

秋九月辛卯、帝は龍光殿において老子の義を述べた。先に、魏の使い宇文仁恕が来聘し、斉の使いもまた江陵に至ったが、帝の仁恕への接し方に欠け有り、魏の相安定公はこれを憾んだ。乙巳、柱国万紐於謹を使わして来攻させた。

冬十月丙寅、魏軍は襄陽に至り、梁王蕭察が衆を率いてこれと会した。丁卯、講を停め、内外戒厳し、輿駕は城柵を行き、大風木を抜く。丙子、講を続け、百僚は戎服を以て聴いた。王僧辯を征する詔を下す。

十一月甲申、津陽門に幸して武を講じ、南北両城主を置く。帝親しく観閲す。風雨総集し、部分未だ交わらず、旗幟飄乱す。帝は駕を趣けて回り、復た次序無し。風雨随いて息み、衆窃かに驚く。乙酉、領軍胡僧佑を 都督 ととく 城東城北諸軍事と為し、右僕射張綰を副とす。左僕射王褒を 都督 ととく 城西城南諸軍事と為し、直殿省元景亮を副とす。丁亥、魏軍は柵下に至る。丙申、広州刺史王琳を征して入援せしむ。丁酉、大風、城内火災し居人数千家を焼く。これを婦人の失いに在りと為し、首を斬り屍す。この日、帝は猶詩を賦することを廃さず。胡僧佑を開府儀同三司と為す。庚子、信州刺史徐世譜、晋安王司馬任約の軍は馬頭岸に次ぐ。この夜、流星が城中に墜つ。帝は蓍を援ってこれを筮い、卦成る。亀式を取ってこれを験し、因って地に抵して曰く、「吾若し此の下に死せば、豈に命に非ずや?」因って帛を裂きて書と為し僧辯を催して曰く、「吾は死を忍んで公を待つ。以て至るべし。」戊申、胡僧佑、朱買臣等が出戦し、買臣敗績す。辛亥、魏軍大いに攻む。帝は枇杷門を出で、親しく陣に臨み督戦す。僧佑は流矢に中りて薨じ、軍敗る。反する者西門の守卒を斬りて以て魏軍を納る。帝は執らる。梁王蕭察の営に如き、甚だ詰責侮辱せらる。他日、乃ち魏の僕射長孫儉に見ゆ。儉に譎って云く、「城内に金千斤を埋む。以て相贈らんと欲す。」儉は乃ち帝を将いて城に入る。帝は因って察の侮辱する状を述べ、儉に謂いて曰く、「向は聊か相譎りて、言わんと欲するのみ。豈に天子自ら金を埋むる有らんや?」儉は乃ち帝を主衣庫に留む。

十二月丙辰、徐世譜・任約は退き巴陵を守る。辛未、魏人が帝を殺害す。

明年四月、梁王方智は制を承け、追尊して元皇帝と為し、廟号を世祖とす。帝は聡悟俊朗にして、天才英発、言を出して論と為し、音響鐘の如し。年五六歳、武帝嘗て読む所の書を問う。対えて曰く「曲礼を誦する能う」と。武帝之を誦せしむるに、即ち上篇を誦す。左右驚歎せざる莫し。初生の時眼を患い、医療必ず増す。武帝自ら意を下して之を療す。遂に一日を盲す。乃ち先の夢を憶い、弥に湣愛を加う。長ずるに及びて好学し、群書を博く極む。武帝嘗て問うて曰く「孫策江東に在りし時、年幾ばくぞ」と。答えて曰く「十七」と。武帝曰く「正に是れ汝が年なり」と。

帝は性声色を好まず、頗る高名を慕う。荊州刺史と為り、州学宣尼廟を起こす。嘗て儒林参軍一人を置き、勧学従事二人、生三十人、廩餼を加う。帝は書に工に画に善く、自ら宣尼の像を図り、之が為に賛を作りて之を書す。時人之を三絶と謂う。裴子野・劉顕・蕭子雲・張纘及び当時の才秀と布衣の交わりを為す。常に諸葛亮・桓温に自ら比す。惟だ纘のみ之を許す。

性矯飾を好み、猜忌多く、名に於いて仮る所人に無し。微かに己に勝る者有れば、必ず毀害を加う。帝の姑義興昭長公主の子王銓兄弟八九人は盛名有り。帝其の美を妒害し、遂に寵姫王氏の兄王珩の名を琳と改め、以て其の父の名に同じくす。劉之遴の学を忌み、人をして之を鴆せしむ。此の如き者甚だ衆し。骨肉と雖も亦遍く其の禍を被る。始め文宣太后の憂に居り、丁蘭に依り木母を作る。及び武帝崩ず、喪を秘して年を踰え、乃ち凶問を発す。方に檀を刻みて像と為し、百福殿内に置き、之に事うること甚だ謹し。朝夕蔬食を進め、動静必ず啓聞す。其の虚矯なる跡此の如し。性書籍を愛し、目を患うに既にして、多く自ら巻を執らず、読書左右を置き、番次に上直し、昼夜常と為し、略に休已むこと無し。睡ると雖も、巻猶お釋かず。五人各一更を伺い、恒に暁に達す。常に眠り熟して大鼾す。左右睡る者有り、読みて次第を失い、或いは巻を偷み紙を度す。帝必ず驚覚し、更に追読せしめ、檟楚を以て之に加う。戎略殷湊し、機務繁多と雖も、軍書羽檄、文章詔誥、毫を点ずれば便ち就く。殆ど手を遊ばさず。常に曰く「我は文士に韜れ、武夫に愧ず」と。論者以て言を得たりと為す。

始め尋陽に在りし時、人に夢みて曰く「天下将に乱れんとす、王必ず之を維がん」と。又背に黒子を生ず。巫媼見て曰く「此れ大貴言ふ可からず」と。初め、武帝賀革に勅して帝の府諮議と為らしめ、三礼を講ぜしむ。革西上するも、意甚だ悦ばず。過ぎ別るるに御史中丞江革に過ぐ。江革之に告げて曰く「吾嘗て主上の諸子を遍く見るを夢む。湘東王に至りて、帽を脱ぎて之を授く。此人後必ず当璧せん。卿其れ行かんや」と。革之を頷く。太清の禍に及びて、遂に帰運を膺く。

侯景の難より、州郡太半魏に入る。巴陵以下より建康に至るまで、縁りて長江を以て限りと為す。荊州の界、北は武寧に尽き、西は峡口に拒む。嶺以南より、復た蕭勃に拠らる。文軌の同じくする所、千里にして近く、人戸著籍するも、三万に盈たず。中興の盛、尽く是に於けり。

武陵の平らぐや、議者其の舟艦に因りて都を建鄴に遷さんと欲す。宗懍・黄羅漢皆楚人、移るを願わず。帝及び胡僧佑亦俱に未だ動かんと欲せず。僕射王褒・左戸尚書周弘正驟に言う、即ち楚に在るは便ならずと。宗懍及び御史中丞劉懿は建鄴の王気已に尽き、且つ渚宮洲已に百に満つと為す。是に於いて乃ち留まる。尋いて歳星井に在り、熒惑心を守る。帝之を観て慨然として朝臣文武に謂いて曰く「吾玄象を観るに、将に賊有らんと恐る。但だ吉凶我に在り、運数天に由る。之を避くる何の益かあらん」と。魏軍逼るに及び、閽人朱買臣剣を按じて進みて曰く「惟だ宗懍・黄羅漢を斬る有り、以て天下に謝す可し」と。帝曰く「曩に実に吾が意なり。宗・黄何の罪ぞ」と。二人人中に退き入る。

魏人柵を焼くに及び、買臣・謝答仁帝に勧めて暗に乗じて囲みを潰し出で、任約に就かんとす。帝は素より馳馬に便せず。曰く「事必ず成る無からん。徒らに辱を増すのみ」と。答仁又た自ら扶くるを求む。帝以て僕射王褒に問う。褒曰く「答仁は侯景の党なり。豈に信ず可きや。彼の勲を成すは、降るに如かず」と。乃ち図書十余万巻を聚めて尽く之を焼く。答仁又た子城を守らんことを請う。兵を収めれば五千人を得可しと。帝之を然りとす。即ち城内大 都督 ととく を授け、帝の鼓吹を以て之に給し、公主を以て配す。既にして又た王褒を召して之を謀る。答仁入ることを請うも得ず、血を欧えて去る。遂に皇太子・王褒をして出質し降を請わしむ。有る頃、黄門郎裴政門を犯して出づ。帝白馬素衣に乗り東門より出で、剣を抽って闔を撃ちて曰く「蕭世誠一に此に至るか」と。魏師至る凡そ二十八日、四方に徴兵す。未だ至らざるに城克見る。

幽逼に在りて、酒を求めて之を飲み、詩四絶を制す。其の一に曰く「南風且に絶唱せんとし、西陵最も悲しむ可し。今日還た蒿裏にて、終に封禅の時に非ず」と。其の二に曰く「人世百六に逢い、天道貞恒に異なり。何をか言わん異なる螻蟻、一旦にして鵬に従うを損す」と。其の三に曰く「松風暁を侵して哀しみ、霜雰夜当たり来たる。寂寥千載の後、誰か畏れん軒轅台を」と。其の四に曰く「夜長く歳月無く、安んぞ知らん秋と春とを。原陵五樹の杏、空しく耕人を動かすを得ん」と。梁王察尚書傅準を遣わし刑を行うを監せしむ。帝之に謂いて曰く「卿幸いに我が為に行を宣せよ」と。準詩を捧げ、流淚禁ずる能わず。進みて土囊を以て之を殞す。梁王察布帊を以て屍を纏わしめ、蒲席を以て斂め、白茅を以て束ね、車一乗を以て、津陽門外に葬る。湣懐太子元良及び始安王方略等、皆見害さる。徐世譜・任約馬頭より走りて巴陵に至る。約後ち斉に降る。将軍裴畿・畿の弟機並びに被害さる。謝答仁三人相抱き、俱に屠らるるを見る。汝南王大封・尚書左僕射王褒以下、並びに俘と為りて長安に帰す。乃ち百姓男女数万口を選び、分ちて奴婢と為し、小弱者は皆之を殺す。

帝は伎術に於いて該らざる無し。嘗て南信を得ず、之を筮うに、剣の艮に遇う。曰く「南信已に至れり。今当に左右季心を遣わし往きて看さしむべし」と。果して説く所の如し。賓客皆其の妙に驚く。凡そ占決する所皆然り。初め劉景に従いて相術を受け、因りて年を訊ねるに、答えて曰く「未だ五十に至らず、当に小厄有らん。之を禳えば免る可し」と。帝自ら勉めて曰く「苟くも期会有らば、之を禳う何の益かあらん」と。灨に叙すこと四十七。特に禁忌多く、牆壁崩倒し、屋宇傾頹すとも、年月便ならずば、終に修改せず。庭草蕪没すとも、令して鞭ちて之を去らしむ。其の慎護此の如し。

孝徳伝・忠臣伝各三十巻、丹陽尹伝十巻、漢書注一百十五巻、周易講疏十巻、内典博要百巻、連山三十巻、詞林三巻、玉韜・金楼子・補闕子各十巻、老子講疏四巻、懐旧伝二巻、古今全徳志・荊南地記・貢職図・古今同姓名録一巻、筮経十二巻、式賛三巻、文集五十巻を著す。

初めに、承聖二年三月、二頭の龍が南郡城の西から天に昇り、百姓が集まって見物し、五色がはっきりとしていた。江陵の古老はひそかに泣き合って言うには、「往年、龍が建康の淮水に現れ、天下が大いに乱れた。今またこれがある。禍いが至るまで幾日もないであろう」と。帝はこれを聞いて嫌い、一年を経ずして禍いに遭った。また江陵には先に九十九の洲があり、古老が代々伝えて言うには、「洲が百に満ちれば、天子が出るであろう」と。桓玄が荊州刺史であった時、内に さん 逆の心を抱き、そこで人を遣わして一つの洲を穿ち破らせ、百の数に応じさせた。その後崩れ散り、ついに何も成さなかった。宋の文帝が宜都王であった時、藩国に在って、一つの洲が自ら立ち、やがて文帝が統治を継いだ。後に元凶の禍いに遇い、この洲はまた没した。太清の末、枝江の楊之閣浦にまた一つの洲が生じ、群公が上疏して慶賀を称え、翌年に帝が即位した。承聖の末、その洲は大岸と相通じ、ただ九十九のみであった。

敬帝

敬皇帝は諱を方智、字を慧相、小字を法真といい、元帝の第九子である。太清三年、興梁侯に封ぜられる。承聖元年、晋安郡王に封ぜられる。二年、出て江州刺史となる。三年十一月、魏が江陵を陥とし、太尉王僧辯・ 司空 しくう 陳霸先が議を定め、帝を梁王・太宰とし、制を承けしむ。

四年二月癸丑、江州において奉迎されて建鄴に至り、朝堂に入居す。太尉王僧辯を 中書監 ちゅうしょかん ・録尚書・驃騎大将軍・ 都督 ととく 中外諸軍事とし、 司空 しくう 陳霸先に班剣二十人を加える。湘州刺史蕭循を太尉とし、広州刺史蕭勃を 司徒 しと とする。

三月、斉がその上党王高渙を遣わして貞陽侯蕭明を送り、梁の嗣たるを主たらしめんとし、東関に至る。呉興太守裴之横を遣わしてこれを拒ぐ。戦いて敗績し、之横死す。

四月、 司徒 しと 陸法和が郢州を以て斉に附き、江州刺史侯瑱を遣わしてこれを討つ。

七月辛丑、僧辯が貞陽侯蕭明を納れ、採石より江を渡る。甲辰、建鄴に入る。丙午、偽位に即く。年号を天成とし、帝を皇太子とする。 司空 しくう 陳霸先が王僧辯を襲撃して殺し、蕭明を廃して帝を奉ず。

紹泰元年秋九月丙午、皇帝即位す。

冬十月己巳、大赦し、元を改む。貞陽侯蕭明を 司徒 しと とし、建安郡公に封ず。壬子、 司空 しくう 陳霸先に 尚書令 しょうしょれい 都督 ととく 中外諸軍事を加う。震州刺史杜龕が兵を挙げ、長城において信武将軍陳蒨を攻め、義興太守韋載これに応ず。癸丑、太尉蕭循を太保とし、 司徒 しと 蕭明を太傅とし、 司徒 しと 蕭勃を太尉とし、鎮南将軍王琳を車騎将軍・開府儀同三司とする。戊午、生母の夏貴妃を尊んで皇太后とし、妃王氏を立てて皇后とする。辛未、 司空 しくう 陳霸先、東に向かい韋載を討ち、これを降す。丙子、南 州刺史任約・譙秦二州刺史徐嗣徽が兵を挙げ石頭を拠りて反す。

十一月庚辰、斉の安州刺史翟子崇・楚州刺史劉仕榮・淮州刺史柳達摩が衆を率いて任約に赴き、石頭に入る。

十二月庚戌、任約・徐嗣徽らが採石に至り斉の援軍を迎える。丙辰、猛烈将軍侯安都を江寧に遣わして邀撃し、これを破り、約・嗣徽らは江西に奔る。庚申、翟子崇ら降伏し、ともに放ちて北に還す。

太平元年春正月戊寅、大赦す。簡文帝の諸子を追贈して諡す。故永安侯確の子後を封じて邵陵王とし、携王の後を奉ぜしむ。癸未、震州刺史杜龕降伏す。詔して死を賜い、呉興郡を赦す。己亥、太保宜豊侯蕭循を以て鄱陽王を襲封せしむ。東揚州刺史張彪が剡岩において臨海太守王懷振を囲む。

二月庚戌、周文育・陳蒨を遣わして会稽を襲い張彪を討ち、彪敗走す。中衛将軍臨川王大款を以て本号のまま開府儀同三司とす。丙辰、若邪村人が張彪を斬り、首を建鄴に伝え、東揚州を赦す。甲子、東土が杜龕・張彪の乱を経たことを以て、大使を遣わして巡省せしむ。是の月、斉人聘問に来たり、侍中王廓をして報聘せしむ。

三月壬午、遠近に班下し、並びに今古の銭を雑用す。戊戌、斉の将蕭軌が柵口より出で、梁山に向かい、陳霸先がこれを大いに破る。

夏四月壬申、侯安都が軽兵を以て歴陽において斉の行台司馬恭を襲い、これを大破す。

五月癸未、太傅建安公蕭明薨ず。庚寅、斉軍水歩丹陽県に入り、内外纂厳す。

六月壬子、斉軍玄武湖の西北に至る。乙卯、陳霸先大いに斉軍を破る。戊午、大赦す。辛酉、厳を解く。

秋七月丙子、 司空 しくう 陳霸先進みて 司徒 しと となる。丁亥、開府儀同三司侯瑱を以て 司空 しくう となす。

八月己酉、太保鄱陽王循薨ず。

九月壬寅、大赦し、元を改む。 司徒 しと 陳霸先進みて丞相・録尚書事となり、義興郡公に改封さる。中権将軍王衝に開府儀同三司を加え、吏部尚書王通を以て尚書右僕射となす。

冬十月乙亥、魏の相安定公薨ず。

十一月、雲龍・神武の門を起こす。

十二月壬申、太尉蕭勃を進めて太保となす。甲午、前寿昌令劉叡を封じて汝陰王とし、前鎮西法曹行参軍蕭沇を封じて巴陵王とし、宋・斉二代の後を奉ぜしむ。庚子、魏恭帝周に位を遜る。

二年春正月壬寅、詔して魯国孔氏の族を求め奉聖侯となし、併せて廟堂を繕い、祀典の供備をなさしむ。又詔して諸州各々中正を置く。旧く放挙選するも、単状を承けて輒く官を序せず、皆須らく中正押上して、然る後に量り授く。其の中正を選ぶに、毎に耆徳該悉を求め、他官を以て之を領せしむ。開府儀同三司王琳を以て 司空 しくう となし、尚書右僕射王通を以て左僕射となす。

二月庚午、領軍将軍徐度を遣わして東関に入らしむ。太保・広州刺史蕭勃兵を挙げて反す。詔して平西将軍周文育・平南将軍侯安都等に南討せしむ。戊子、徐度合肥に至り、斉の船舶三千艘を焼く。癸巳、周文育巴山に軍し、蕭勃の偽帥欧陽頠を獲る。

三月甲寅、徳州刺史陳法武・前衡州刺史譚遠始興に於いて蕭勃を攻め殺す。

夏四月癸酉、江・広・衡の三州を曲赦し、併せて督内賊に拘逼せられたる者を赦す。己卯、四柱銭を鋳る。一は二十に当つ。斉使いを遣わして和を通ず。壬辰、四柱銭を改む。一は十に当つ。丙申、復た細銭を閉づ。

五月乙巳、平西将軍周文育進みて号を鎮南将軍とし、平南将軍侯安都進みて号を鎮北将軍とし、並びに開府儀同三司を加う。戊辰、余孝頃使いを遣わして丞相府に詣り降を求む。

秋八月、丞相陳霸先に殊礼を加う。

九月、周の塚宰宇文護閔帝を殺す。丞相陳霸先改めて相国を授けられ、陳国公に封ぜらる。

冬十月戊辰、陳國公の爵位を進めて王となす。辛未、帝位を陳に譲る。陳は天命を受け、帝を奉じて江陰王と為し、外邸にて薨ず。時に年十六、敬皇帝と追諡す。

論す。

論うに曰く、帝王の位は天下の重職、文武の道は国を守るに常に遵う所なり。その行用に於いては、義は水火に均しく、相資すれば則ち可なり、専任すれば乱を成す。夫れ有梁の諸帝を観るに、皆一つのみに之る。簡文は文明の姿、天授に稟り、粤に支庶より自り、明両に入居すれども、国を経るの算、その道聞こえず。宮体の伝うる所、且つ朝野を変じ、虚号を主とすと雖も、何ぞ滅亡を救わん。元帝は勢勝の地に居り、中興の業を啓き、既に讎恥を雪ぎ、且つ天人に応ず。而るに内に猜忍を積み、外に矯飾を崇め、攀号の節、忍酷なること踰年より甚だしく、定省の制、情を木偶に申す。竟に雍州寇を引き、釁は河東の戮より起こり、益部親を尋ね、事は邵陵の窘に習う。悖辞は僧辯に屈し、残虐は圓正に極まる。不義不昵、斯の如きの甚だしき。而して復た謀に経遠無く、心労し志大なり。近くは宗国を捨て、遠くは強鄰に迫り、外には藩籬を弛め、内には講肆を崇む。卒に溘至の戕隕に及び、方に始皇の跡を追う。文籍腹に満つと復すと雖も、何ぞ社廟の墟を救わん。歴に書契以来を観るに、蓋し亦た興廃代々有れども、未だ三葉遘湣し、頓に蕭宗の酷の若きを見ず。敬皇は此の沖年を以て、斯の頽運に当たり、将に高揖せざらんや、其れ得可けんや。初め、武帝の末年、都下に銭を用うるに、毎百皆其の九を除き、九佰と謂う。竟に侯景の乱有り。江陵将に覆らんとするに及び、毎百復た六文を除き、六佰と称す。識者は以て九は陽九、六は百六、蓋し歴数に符し、人事に非ざるなりと為す。

善いかな、鄭文貞公の之を論ずるに曰く、高祖は固より天の攸く縦する所、聡明にして古を稽え、道は生知に亜ぎ、学は博物と為り、允に文允に武、多芸多才なり。爰に諸生より自り、羈れざるの度有り。昏凶の肆虐するに属し、天倫禍に及び、義旅を糾合し、将に家冤を雪がんとす。曰く紂は伐つ可し、期せずして会い、龍は樊・漢に躍り、電は湘・郢を撃つ。離徳を翦ること槁を振うが如く、独夫を取ること遺を拾うが如し。其の雄才大略、固より称うるを得ざるなり。既に白旗の首を県げ、方に皇天の眷に応じ、徳を布き恵を施し、近きを悦ばしめて遠きを来たす。蕩蕩たる王道を開き、靡靡たる商俗を革む。大いに文教を修め、盛んに礼容を飾り、玄風を鼓扇し、儒業を闡揚す。介冑に仁義し、尊俎に折衝し、声は寰宇に振い、沢は遐裔に流る。干戈載せて戢い、凡そ数十年、済済たり、洋洋たり。魏・晋以来、斯の如き盛んなるは未だ有らざるなり。然れども末を息め本を敦くし、雕を斲ちて樸と為すこと能わず、名を慕い事を好み、浮華を崇尚し、孔・墨を抑揚し、釈・老に流連す。或は終夜寝ず、或は日旰に食わず。道を弘めて以て物を利するに非ず、惟だ智を飾りて以て愚を驚かすのみ。且つ心未だ栄を遺せず、虚しく蒼頭の伍に廁し、高談に屣を脱ぐと雖も、終に黄屋の尊を恋う。夫れ人の大欲は飲食男女に在り、軒冕殿堂に至っては、切身の急有るに非ず。高祖は嗜欲を屏除し、軒冕に眷恋す。其の難き所を得て、其の易き所に滞る。神の達せざる所有り、智の通ぜざる所有りと謂う可し。夫れ精華稍く竭き、鳳徳已に衰うるに逮り、聴受に惑い、権は奸佞に在り。儲後百辟、言を尽くすこと能わず。険躁の心、暮年に逾よ甚だしく、利を見て動き、諫に愎くして卜に違う。門を開きて盗を揖し、好を棄てて即ち讎とす。釁は蕭牆より起こり、禍は戎・羯に成る。身は非命に殞ち、災は億兆に被る。衣冠は鋒鏑の下に斃れ、老幼は戎馬の足に粉す。彼の黍離を瞻みて、痛み周廟に深く、永く麦秀を言いて、悲しみ殷墟に甚だし。古より安を以て危と為し、既に成りて敗るる、顛覆の速きは、書契未だ聞かざる所なり。

易に曰く、「天の助くる所は順なり、人の助くる所は信なり。」高祖の斯の屯剝に遇い、其の死を得ざるは、蓋し動いて険に之き、信順に由らざるに在り。天人の助を失いて、其れ能く此れを免れんや。太宗は敏叡人に過ぎ、神采秀発し、多聞博達、詞藻に富み贍けり。然れども文豔にして用寡く、華にして実ならず、体は淫麗に窮まり、義は疏通に罕なり。哀思の音、遂に風俗を移す。此を以て万国を貞うるは、周の誦・漢の莊に異なるかな。我生辰に逢わず、載に離れて多難、桀逆構扇し、巨猾天に滔き、始めは牖裏の拘に同じく、終には望夷の禍に類す。悠悠たる蒼昊、其れ問う可けんや。昔、国歩初めて屯み、兵魏闕に纏わり、群後位を釈き、袂を投じて王に勤む。元帝は磐石の宗を以て、分陝の任を受け、君親の難に属し、連率の長に居る。剣を撫で胆を嘗め、戈を枕み血を泣き、躬士卒に先んじ、命を前駆に致すこと能わず。遂に乃ち衆を擁して逡巡し、内に觖望を懐き、坐して国変を観、身の幸と為す。莽・卓の誅を急にせず、先ず昆弟の戮を行う。又沈猜忍酷、無礼を行うこと多く、智辯を騁して以て非を飾り、忿戾を肆にして以て物を害す。爪牙の重将、心膂の謀臣、或は顧眄して以て拘囚に就き、或は一言にして以て葅醢に及ぶ。朝の君子、相顧みて懍然たり。自ら安きこと泰山の若しと謂い、算に遺策無しとす。邪説に怵き、即ち荊楚に安んず。元悪克く翦ると雖も、社稷未だ寧からず。而して西鄰責言し、禍敗旋及びて及ぶ。斯れ乃ち上霊降鑒し、此れに焉んぞ手を仮す。天道人事、其れ誣う可けんや。其れ篤志芸文、浮華を采りて忠信を棄て、戎昭果毅、骨肉を先にして寇讎を後にする。口に六経を誦し、心に百氏を通ず。仲尼の学有り、公旦の才有りと雖も、適足りて其の驕矜を益し、其の禍患を増すのみ。何ぞ金陵の覆没を補い、何ぞ江陵の滅亡を救わんや。敬帝は家の不造に遭い、茲の屯運を紹ぐ。征伐は自ら出づる所有り、政刑は己に由るに非ず。時に伊・霍の輔無く、焉んぞ高譲を為さざらんや。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻008