武帝下
二月癸丑、高麗王の嗣子安を甯東将軍・高麗王とする。
三月、滑国使いを遣わして朝貢す。
夏四月、河南国使いを遣わして朝貢す。
秋七月己卯、江・淮・海、並びに溢る。
九月乙亥、星晨に東方に見え、光爛として火の如し。
二月辛丑、明堂を祀る。
三月庚寅、大雪、平地三尺。
夏四月乙卯、南北郊を改作す。丙辰、詔して曰く「平秩東作、義は南に在らず。前代因襲して、礼制に乖けり。震方に於いて、茲の千畝を具すべし」。ここに於いて藉田を東郊外十五里に徙す。
五月己卯、琬琰殿火災し、後宮の屋三千間に延焼す。
閏月丁巳の日、詔して今後は祥瑞を賀することを停めよとす。
六月丁卯の日、義州刺史の文僧明、州を挙げて魏に帰す。
秋七月丁酉の日、大匠卿の斐邃に節を仮し、諸軍を督して魏を侵す。甲寅の日、魏の荊州刺史桓叔興、衆を率いて降る。
八月丁亥の日、始平郡石鼓村の地、自ら開きて井となる。方六尺六寸、深さ三十二丈。
冬十一月、百済・新羅の国、各使いを遣わして朝貢す。
十二月戊辰の日、鎮東大将軍百済王餘隆を甯東大将軍と為す。
三月乙卯の日、巴陵王蕭屏薨ず。
夏四月丁卯の日、汝陰王劉端薨ず。
五月壬辰朔、日蝕あり、既す。癸巳の日、大赦す。詔して公卿百官各上封事し、連率・郡国は賢良・方正・直言の士を挙げよとす。
秋八月甲子の日、婆利・白題の国、各使いを遣わして朝貢す。
冬十一月甲午の日、開府儀同三司始興王蕭憺薨ず。
四年春正月辛卯の日、南郊を祀り、大赦す。辛亥の日、明堂を祀る。
二月乙亥の日、藉田を耕す。孝弟力田に爵一級を賜い、豫め耕すの司、日に克ちて労酒す。
冬十月庚午の日、中衛将軍袁昂を尚書令と為し、即ち本号の開府儀同三司にす。
十一月癸未朔、日に蝕あり。甲辰、尚書左僕射王暕卒す。
十二月戊午、給事中王子雲の議を用い、始めて鐵錢を鑄つ。狼牙修國、使を遣わして朝貢す。
五年夏六月乙酉、龍曲阿王陂に闘い、西に従ひて建陵城に至る。経る所の樹木倒れ折れ、地數十丈を開く。庚子、員外散騎常侍元樹を以て平北將軍・北青兗二州刺史と為し、衆を率いて魏を侵す。
六年春正月辛亥、南郊に祀り、大赦す。庚申、魏徐州刺史元法僧、彭城を以て來降す。去年以来、北侵の諸軍、在る所に克ち獲る。甲戌、元法僧を以て司空と為し、始安郡王に封ず。
二月辛巳、法僧を改めて宋王に封ず。
三月丙午、新附の人に長復除を賜ひ、詿誤の罪失、一に問ふ所なし。
夏五月己酉、宿預堰を修め、又曹公堰を濟陰に修む。壬子、中護軍夏侯亶を遣わして壽陽の諸軍を督し魏を侵さしむ。
六月庚辰、豫章王綜魏に奔る。魏復た彭城を據ふ。
秋七月壬戌、大赦す。
冬十二月壬辰、都下地震す。
七年春正月辛丑朔、死罪以下赦す。
夏四月乙酉、太尉臨川王宏薨ず。南州津校尉を置き、奉秩を増加す。詔して在位の群臣に、各知る所を挙げしめ、凡そ清吏たる者は、咸く薦聞せしむ。
秋九月己酉、荊州刺史鄱陽王恢薨ず。
冬十一月庚辰、丁貴嬪薨ず。大赦す。
この年、河南、高麗、林邑、滑國がそろって使者を遣わして朝貢した。
三月辛未、寺に幸して身を捨つ。甲戌宮に還り、大赦し、元を大通と改め、寺及び門の名に符す。
夏五月丙寅、成景雋が魏の臨潼、竹邑を克つ。
冬十月庚戌、魏の東豫州刺史元慶和が渦陽を以て内属す。甲寅、東豫州を曲赦す。
十一月丁卯、中護軍蕭藻を以て都督とし魏を侵し、渦陽に鎮す。
この年、林邑、師子、高麗等の国が各々使者を遣わして朝貢した。
二月、寒山堰を築く。癸丑、魏の孝明皇帝崩ず。
夏四月戊戌、魏の尒朱榮が孝莊帝を推奉す。庚子、榮が幼主及び太后胡氏を殺す。辛丑、魏の郢州刺史元願達が義陽を以て降り、願達を封じて樂平王とす。この時魏は大いに乱れ、その北海王顥、臨淮王彧、汝南王悦並びに来奔す。北青州刺史元雋、南荊州刺史李志皆地を以て降る。
冬十月丁亥、魏の北海王顥を以て魏の主とし、東宮直閣將軍陳慶之を遣わし衛送して還北せしむ。魏の豫州刺史鄧獻が地を以て降る。
夏四月癸巳、陳慶之が魏の梁城を攻め抜き、進んで考城を屠り、魏の濟陰王暉業を禽える。
五月癸酉、進んで虎牢を克ち、魏の孝莊帝は出でて河北に居す。乙亥、元顥が京師に入り、僭して建武と號す。
六月壬午、永興公主の病篤きを以て故とし、大赦を行ふ、公主の志なり。是の月、都下疫甚だしく、帝は重雲殿に於いて百姓の為に救苦斎を設け、身を以て禱る。
閏月、護軍將軍南康王績薨ず。己卯、魏の将尒朱榮、元顥を攻めて殺し、京師反正す。
秋九月辛巳、朱雀航の華表災あり。癸巳、同泰寺に幸し、四部無遮大会を設く。上は御服を釈ぎ、法衣を披き、清浄大捨を行ひ、便省を以て房と為し、素床瓦器、小車に乗り、私人をして役を執らしむ。甲午、講堂の法座に升り、四部大衆の為に涅槃経の題を開く。癸卯、群臣、銭一億萬を以て皇帝菩薩大捨を奉贖し、僧衆黙許す。乙巳、百辟寺の東門に詣で表を奉り、宸極に還り臨むことを請ふ、三たび請ひて乃ち許さる。帝三たび書に答え、前後並びに頓首と称す。
冬十月己酉、又た四部無遮大会を設け、道俗五萬餘人。会畢りて、帝金輅に御して還宮し、太極殿に御し、大赦し、元を改む。
十一月戊子、魏の巴州刺史嚴始欣、城を以て降る。
是歳、盤盤国、蠕蠕国並びに使いを遣はして朝貢す。
六月丁巳、魏の汝南王悅を遣はして還り北し魏を主たしむ。庚申、魏の尚書左僕射范遵を以て司州牧と為し、悅に随ひて北侵せしむ。是の月、林邑国、扶南国使いを遣はして朝貢す。
秋八月庚戌、徳陽堂に幸し、魏主元悅を祖す。山賊会稽郡県を寇す。
九月壬午、超武將軍湛海珍に仮節して以て之を討たしむ。
是歳、魏の荘帝其の権臣尒朱榮を殺し、其の党魏の長広王曄を奉りて主と為し孝荘帝を殺し、年号建明とす。
二月辛丑、明堂に祀る。
夏四月乙巳、皇太子統薨ず。
六月癸丑、昭明太子の子華容公歡を立て豫章郡王と為し、枝江公譽を河東郡王と為し、曲江公察を岳陽郡王と為す。是の月、丹丹国使いを遣はして朝貢す。
秋七月乙亥、晋安王綱を皇太子に立て、大赦を行ふ。父の後を継ぐ者及び出処忠孝・文武清勤の者に賜ひ、並びに爵一級を加ふ。庚寅、詔して宗戚に服屬ある者に、並びに湯沐食を賜ひ、郷亭侯は各遠近に隨ひて差次と為す。壬辰、吏部尚書何敬容を尚書右僕射と為す。
九月、狼牙修国使いを遣はして朝貢す。是の秋、呉興に野稻生じ、饑者之に頼る。
冬十月己酉、上同泰寺に幸し、法座に升り、四部衆の為に涅槃経を説き、乙卯に迄る。前楽山県侯蕭正則罪有りて流徙せられ、是に至り亡命を招誘し、広州を寇せんと欲す。在所に於て之を討平す。
十一月乙未、上同泰寺に幸し、法座に升り、四部衆の為に般若経を説き、十二月辛丑に迄る。
四年春正月丙寅、開府儀同三司南平王偉を大司馬と為し、司空宋王元法僧を太尉と為し、尚書令・開府儀同三司袁昂を司空と為す。臨川靖恵王宏の子正徳を立てて臨賀郡王と為す。庚午、嫡皇孫大器を立てて宣城郡王と為し、位諸王の上に列す。癸未、魏の南兗州刺史劉世明城を以て降る。
二月壬寅、太尉元法僧を還して北主魏と為し、侍中元景隆を徐州刺史と為し彭城郡王に封じ、通直常侍元景宗を青州刺史と為し平昌郡王に封じ、法僧に随ひて北侵せしむ。庚戌、新たに除せられたる揚州刺史邵陵王綸罪有り、免じて庶人と為す。
三月庚午、侍中・領国子博士蕭子顯表して制旨孝経助教一人、生十人を置き、専ら帝の釈したる『孝経』の義を通ぜしむ。
夏四月、盤盤国使いを遣はして朝貢す。
秋七月甲辰、星隕ちて雨の如し。
九月乙巳、司空袁昂に尚書令を加ふ。
冬十一月、高麗国使いを遣はして朝貢す。
十二月丙子、魏の彭城王尒朱仲遠来奔す。之を定洛将軍と為し河南王に封じ、北侵せしむ。克つ所の土に随ひ、自ら封建せしむ。庚辰、太尉元法僧を郢州刺史・驃騎大将軍・開府同三司之儀と為す。
五年春正月辛卯、南郊に祀り、大赦す。孝悌力田に爵一級を賜ふ。先づ一日丙夜、南郊令解滌之等郊所に到りて履行す。忽ち異香三たび風に随ひて至る有るを聞く。将に事を行はんとするに及び、楽を奏して神を迎へ畢りて、神光壇上に円満し、朱紫黄白雑色、食頃にして乃ち滅す。戊申、都下地震す。己酉、長星見ゆ。辛亥、明堂に祀る。
二月癸未、帝は同泰寺に幸し、四部大会を設け、法座に昇り、金字の般若経の題を発し、己丑に至って終わる。
三月丙辰、大司馬南平王蕭偉薨ず。
夏五月戊子、都下大水あり、御道に船を通ず。
六月己卯、魏の建義城主蘭保、東徐州刺史崔庠を殺し、下邳を以て降る。
冬十月庚申、尚書右僕射何敬容を以て左僕射と為し、吏部尚書謝挙を以て右僕射と為す。
是の歳、河南・波斯・盤盤等の国並びに使いを遣わして朝貢す。
六年春二月癸亥、藉田を耕し、大赦す。孝悌力田に爵一級を賜う。
三月己亥、行河南王可遝振を以て西秦・河二州刺史と為し、正しく河南王に封ず。甲辰、百済国使いを遣わして朝貢す。
夏四月丁卯、熒惑南斗に在り。
秋七月甲辰、林邑国使いを遣わして朝貢す。
冬十月丁卯、信武將軍元慶和を以て鎮北將軍と為し、魏王に封じ、衆を率いて北に侵す。
閏十二月丙午、西南に雷声二つあり。
二月辛巳、明堂を祀る。丁亥、藉田を耕す。辛丑、高麗・丹丹国並びに使いを遣わして朝貢す。
三月丙寅、帝は同泰寺に幸し、無遮大会を設けた。辛未、滑国が使者を遣わして朝貢した。
夏四月庚子、波斯国が使者を遣わして朝貢した。壬戌、帝は同泰寺に幸し、十方銀像を鋳造し、併せて無礙会を設けた。
秋七月辛卯、扶南国が使者を遣わして朝貢した。
冬十月、黄塵が雪の如く降った。
十一月壬戌、北梁州刺史蘭欽が漢中を攻め、魏の梁州刺史元羅が降った。癸亥、梁州を回復した。
三月庚申、讜言を求める詔を下し、及び文武の在位の者に士を挙げることを命じた。戊寅、帝は同泰寺に幸し、平等法会を設けた。
夏四月乙未、開府同三司之儀の元法僧を太尉とした。
五月癸卯、魏の梁州刺史元羅を青・冀二州刺史とし、東郡王に封じた。
六月丁亥、郊明堂陵廟等の令を、散騎侍郎に視するものと改める詔を下した。
秋九月辛亥、帝は同泰寺に幸し、四部無礙法会を設けた。
冬十月乙亥、大いに北侵する詔を下した。壬午、帝は同泰寺に幸し、無礙大会を設けた。
十一月、黄塵が雪の如く降り、掬うと手一杯になった。己亥、北侵の諸軍に班師を命ずる詔を下した。辛亥、都下で地震があり、白毛が生じ、長さ二尺であった。
十二月壬申、東魏と通和した。
二月丁亥、藉田を耕す。癸巳、護軍將軍蕭藻を尚書左僕射となす。
三月戊戌、昭明太子の子謷を武昌郡王とし、臨を義陽郡王となす。
夏五月癸未、同泰寺に幸し、十方金銅像を鋳造し、無礙法会を設く。
六月、青州朐山に霜が降る。
秋七月、青州に雪が降り、苗稼を害す。癸卯、東魏の人使い来たり聘す。己酉、義陽王臨薨ず。
八月辛卯、阿育王寺に幸し、無礙法喜食を設け、大赦を下す。
九月、兼散騎常侍張皋を使いとして東魏に聘せしむ。
閏九月甲子、侍中・太尉元法僧薨ず。
冬十月丙辰、都下地震す。是の歳饑饉あり。
四年春二月己亥、藉田を耕す。
三月、河南・蠕蠕国ともに使いを遣わし朝貢す。
夏五月甲戌、東魏の人使い来たり聘す。
六月辛丑、日に蝕あり。
秋七月癸亥、詔して東冶の徒李胤之の降したる象牙如来真形を以て、大赦を下す。戊辰、兼散騎常侍劉孝儀を使いとして東魏に聘せしむ。
八月甲辰、詔して南兗等十二州は、既に饑饉を経たり、曲赦して逋租宿責を赦し、今年の三調を収むること勿れ。
九月、楽游苑にて武を閲す。
五年春正月乙卯、護軍将軍廬陵王蕭続を以て驃騎将軍と為し、安右将軍・尚書左僕射蕭藻を中衛将軍と為し、並びに開府儀同三司を開く。中権将軍・丹陽尹何敬容は本号を以て尚書令と為し、吏部尚書張続を尚書僕射と為す。丁巳、御史中丞・参礼儀事賀琛奏す、「今南北二郊及び藉田往還は、並びに宜しく輦に御すべく、復た路に乗るべからず。二郊は素輦を用いんことを請い、藉田往還は常輦に乗り、皆侍中を以て倍乗せしむ。大将軍及び太僕を停めよ」と。詔して尚書に付して博議し施行せしむ。素輦の名を改めて大同輦と為す。郊祀宗廟には玉輦に乗る。辛未、南郊を祀り、詔して孝悌力田及び州閭郷党に善人と称せられる者に、各爵一級を賜う。
秋八月乙酉、扶南国生犀を献ず。
冬十一月乙亥、東魏人聘問に来る。
十二月、兼散騎常侍柳豹をして東魏に聘問せしむ。
是歳、都下に訛言あり、天子人の肝を取って以て天狗に飴すと、大小相警し、日暮れれば便ち門を閉ざし仗を持ち、数月にして乃ち止む。
六年春正月庚戌朔、司・豫・徐・兗の四州を曲赦す。
二月己亥、藉田を耕す。
夏四月癸未、詔して晋・宋・斉三代の諸陵に職司ある者は、勤めて守護を加えよ。
五月己卯、河南王使いを遣わし朝し、馬及び方物を献じ、釈迦像並びに経論十四条を求む。勅して像並びに制旨涅槃・般若・金光明講疏一百三巻を付す。
秋七月丁亥、東魏人聘問に来る。散騎常侍陸晏子を遣わし報聘す。
八月戊午、大赦す。辛未、盤盤国使いを遣わし朝貢す。
九月戊戌、司空袁昂薨ず。
冬十一月己卯、都下を曲赦す。
十二月壬子、江州刺史豫章王蕭歡薨ず。
七年春正月辛巳、南郊に祀り、大赦す。辛丑、明堂に祀る。
二月乙巳、行宕昌王梁彌泰を平西将軍・河涼二州刺史と為し、正封して宕昌王とす。辛亥、藉田を耕す。乙卯、都下地震す。
夏四月戊申、東魏人聘問に来たり、兼散騎常侍明少遐を遣わして報聘す。
冬十一月丙子、詔して所在の女丁の使役を停む。
十二月壬寅、東魏人聘問に来たり、兼散騎常侍袁狎を遣わして報聘す。丙辰、宮城の西に士林館を立て、学者を延集す。
是の歳、宕昌・蠕蠕・高麗・百濟・滑國各使いを遣わして朝貢す。百濟、涅槃等の経疏及び医工・画師・毛詩博士を求め、並びに之を許す。交州人李賁、刺史蕭諮を攻む。
八年春正月、安成郡人劉敬躬、左道を挟みて以て反す。
二月戊戌、江州刺史湘東王蕭繹、中兵曹子郢を遣わして之を討ち禽らえ、都に送り、建康市に斬る。
三月、江州新蔡高塘に頌平屯を立て、蠻田を墾作す。
九年春閏正月丙申、地震し、毛生ず。
三月、太子詹事謝挙を尚書僕射と為す。
夏四月、林邑王、德州を破り、李賁を攻む。賁の将范修、又林邑王を九徳に破り、之を敗走せしむ。
冬十一月、益州刺史武陵王蕭紀、征西将軍・開府儀同三司の号を進む。
十年春正月、李賁、交址に於いて号を窃み、年号を天徳とす。
三月甲午、帝は蘭陵に行幸した。庚子、建陵を謁し、紫雲が陵上を覆い、食頃にして散じた。帝は陵を望み涕を流し、その濡れた草は皆色を変え、陵の傍らに枯泉あり、この時に至って流水香潔となった。辛丑、修陵において哭した。壬寅、皇基寺に法会を設け、詔して蘭陵の老少に位一階を賜い、並びに頒賚を加えた。経過した県邑は、今年の租賦を出さず。因りに旧郷に還る詩を賦す。癸卯、詔して園陵の職司は、恭しく事に勤労したるを以て、並びに位一階を錫し、並びに賜賚を加う。己酉、京口城の北固楼に行幸し、因りに名を北顧と改む。庚戌、回賓亭に行幸し、帝郷の故老及び経過した近県の奉迎候する者、少長数千人を宴し、各々銭二千を賚う。
夏四月乙卯、蘭陵より至る。詔して鰥寡孤獨特に貧しき者は、贍恤各々差あり。
五月、広州の人盧子略反す。刺史新渝侯蕭映これを討ち平らぐ。詔して広州を曲赦す。
秋九月己丑、赦す。
冬十一月、大雪、平地三尺。
十一年春正月、華林園の光厳殿・重雲閣を震う。帝自ら貶して上天に拝謝し、累刻にして止む。
夏四月、東魏人聘問に来る。
冬十月己未、詔して贖罪の典を復び開く。
三月乙巳、大赦す。庚戌、同泰寺に行幸し金字の三慧経を講じ、仍りて身を施す。
夏四月丙戌、皇太子以下奉贖し、仍りて同泰寺に於いて講を解き、法会を設け、大赦し、元を改む。是の夜、同泰寺災う。
六月辛巳、竟天に声あり、風水相薄するが如し。
秋七月甲子、詔す、今より犯罪ある者は、大逆に非ざれば、父母祖父母坐せしむること勿れ。丙寅、詔して曰く、「朝四暮三、衆狙皆喜ぶ、名実未だ虧けずして、喜怒用いらる。頃聞く外間多く九佰銭を用う、佰減ずれば則ち物貴く、佰足れば則ち物賤し、物に貴賤有るに非ず、是れ心に顛倒有るなり。遠方に至りては、日を更めて滋甚し。今より足佰銭を通用すべし」。
八月丁丑、東揚州刺史武昌王蕭謷薨ず。甲午、渴盤陀国使いを遣わし方物を献ず。
冬十月癸酉、汝陰王劉哲薨ず。
二月己卯、白虹日を貫く。庚辰、東魏の司徒侯景、河南十三州を以て内属せんことを求む。壬午、景を以て大将軍と為し、河南王に封じ、大行台とし、制を承くること鄧禹の故事の如し。丁亥、藉田を耕す。
三月庚子、同泰寺に幸し、無遮大会を設く。上は御服を釈ぎ、法衣を服し、清浄大舎を行い、名づけて「羯磨」と曰う。五明殿を以て房と為し、素木の床・葛帳・土瓦の器を設け、小輿に乗り、私人をして役を執らしむ。乗輿法服、一に皆屏除す。甲辰、司州刺史羊鴉仁を遣わし、土州刺史桓和・仁州刺史湛海珍等を率い、侯景に応接せしむ。兵未だ至らずして、東魏兵を遣わし景を攻む。景また地を割き西魏に求救す。方に囲みを解く。乙巳、帝光厳殿の講堂に升り、師子座に坐し、金字三慧経を講じ、身を捨つ。
六月戊辰、前雍州刺史鄱陽王蕭範を以て征北将軍と為し、漢北征討諸軍事を総督せしむ。
秋七月庚申、羊鴉仁県瓠城に入る。
八月乙丑、諸軍北征す。南豫州刺史蕭明を以て大都督と為す。縁辺初附の諸州を赦す。戊子、大将軍侯景を行台尚書事を録せしむ。
九月癸卯、王游苑成る。輿駕苑に幸す。
冬十一月、東魏の将慕容紹宗、寒山に於いて蕭明を大いに破る。明俘執せらる。紹宗進みて潼州を囲む。
十二月戊辰、太子舎人元貞を命じて還り北に赴き東魏の主と為さしむ。
三月甲辰、撫東将軍高麗王高延卒す。其の子成を以て甯東将軍・高麗王・楽浪公と為す。己未、屈獠洞李賁を斬り、首を建鄴に伝う。
夏四月丙子、詔して朝及び州郡に在る者各々士を挙げしむ。
五月辛丑、新たに除せられたる中書令邵陵王蕭綸を以て安前将軍・開府儀同三司と為す。辛亥、交・愛・徳の三州を曲赦す。
六月、天西北に裂け、長さ十丈、闊さ二丈、光出でて電の如く、其の声雷の若し。
秋七月、兼散騎常侍謝班を東魏に派遣して和を結ぶ。
八月戊戌、侯景兵を挙げて反す。甲辰、開府儀同三司邵陵王蕭綸をして諸軍を都督させて景を討たしめ、南豫州を曲赦す。
九月戊辰、地震あり、江左は特に甚だしく、屋を壊し人を殺す。地に白毛生じ、長さ二尺。益州市に飛蜂万群あり、人を螫して死なしむ。
冬十月、侯景譙州を襲い、進んで歴陽を攻め陥とす。戊申、臨賀王蕭正徳を平北将軍と為し、諸軍を都督して丹陽郡に屯せしむ。己酉、景自ら横江より採石を渡る。辛亥、建鄴に至り、臨賀王蕭正徳衆を率いて賊に附く。
十一月戊午朔、壇を設け、白馬を刑し、蚩尤を太極殿前で祀る。己未、景蕭正徳を南闕前で天子と為し立てる。辛酉、賊東府城を攻め陥とす。庚辰、邵陵王蕭綸武州刺史蕭弄璋・前譙州刺史趙伯超等を率いて入援す。乙酉、湖頭に進軍し、賊と戦い、敗績す。丙戌、安北将軍鄱陽王蕭範世子蕭嗣・雄信将軍裴之高らを遣わし衆を率いて入援せしめ、張公洲に次す。
十二月戊申、天西北裂け、光火の如し。尚書令謝挙卒す。丙辰、司州刺史柳仲礼・前衡州刺史韋粲・高州刺史李遷仕・前司州刺史羊鴉仁等軍を率いて入援す。
二月、侯景使いを遣わして和を求め、皇太子固く請う、帝乃ち之を許す。西華門下にて盟す。景既に東城の米を石頭に運び帰り、亦囲みを解かず、諸軍の退くを遣わさんことを求め啓す。丁未、皇太子又命じて南兗州刺史南康王蕭会理・前青冀二州刺史湘潭侯蕭退に江北の衆を率いさせ、蘭亭苑に頓せしむ。甲子、開府儀同三司・丹陽尹邵陵王蕭綸を司空と為し、合州刺史鄱陽王蕭範を征北大将軍・開府儀同三司と為し、司州刺史柳仲礼を侍中・尚書僕射と為す。時に景の奸計既に成り、乃ち表して帝の失を陳べ、復た兵を挙げて闕に向かう。
三月、城内景の盟に違うを以て、壇を設けて天地神祇に告ぐ。戊午、前司州刺史羊鴉仁等東府北に進軍し、賊と戦い、大敗す。時に四方の征鎮入援する者三十余万、闘志有る莫く、自ら相抄奪するのみ。丁卯、賊宮城を攻め陥とし、兵を縦して大いに掠奪す。己巳、賊詔を矯って石城公蕭大款を遣わし外援の軍を解かしむ。庚午、侯景自ら都督中外諸軍事・大丞相・録尚書事と為る。辛未、援軍各退散す。丙子、熒惑心を守る。
夏四月己丑、都下地震す。丙申、又震う。己酉、帝求めし所供へられざるを以て、憂憤して寝疾す。是の月、青冀二州刺史明少遐・東徐州刺史湛海珍・北青州刺史王奉伯各州を挙げて東魏に附く。
五月丙辰、帝淨居殿にて崩ず、時に年八十六。辛巳、梓宮を太極前殿に遷す。十一月乙卯、修陵に葬る。武皇帝と追尊し、廟号を高祖とす。
帝の性は淳孝にして、六歳の時、献皇太后崩御し、水漿三日口に入れず、哭泣成人に過ぎたり。及び文帝の憂いに遭うや、時に斉の随王諮議たり、随府は荊鎮に在り、病を以て聞こえ、便ち劾を投じて星馳し、復た寝食せず、道を倍して路に就く。憤風驚浪も暫くも停止せず。帝の形容本より壮んなりしも、都に至るに及び、銷毀して骨立ち、親表士友皆復た識らず。宅を望みて諱を奉じ、気絶すること久し。哭する毎に、輒ち血数升を嘔す。服内、日に惟だ麦二溢を食すのみ。山陵を拝掃し、涕泪の洒ぐ所、松草色を変ず。及び帝位に居るや、即ち鍾山に大愛敬寺を造り、青渓辺に智度寺を造り、台内に至敬等の殿を立て、又七廟堂を立つ。月中再び淨饌を設け、展拝する毎に、涕泗滂沱として、哀しみ左右を動かす。
少にして篤く学び、能く事を畢く究め、万機多務と雖も、猶巻を手に輟めず、燭を側てて光らせ、常に戊夜に至る。通史六百巻、金海三十巻を撰し、制旨孝経義・周易講疏及び六十四卦・二系・文言・序卦等の義、楽社義・毛詩・春秋答問・尚書大義・中庸講疏・孔子正言・孝経講疏を制し、凡そ二百余巻。王侯朝臣皆表を奉じて質疑す、帝皆為に解釈す。国学を修飾し、生員を増広し、五館を立て、五経博士を置く。天監初、何佟之・賀瑒・厳植之・明山賓等制旨を覆述し、並びに吉凶賓軍嘉の五礼を撰し、一千余巻、帝制を称して疑を断つ。大同中、台西に士林館を立て、領軍朱異・太府卿賀琛・舎人孔子驅等互いに講述を遞す。皇太子・宣城王も亦東宮宣猷堂及び揚州廨に於いて講を開く。是に於いて四方郡国、風に向かわざる莫し。爰に田に在りしより、及び宝位に登るに及び、躬から賛・序・詔誥・銘・誄・説・箴・頌・箋・奏諸文を制し、又百二十巻。六芸備わり閑かにし、棋は逸品に登り、陰陽・緯候・卜筮・占決・草隸・尺牘・騎射、妙ならざる莫し。
晩年乃ち仏道に溺れ信じ、日に一食を止め、膳に鮮腴無く、惟だ豆羹糲飯のみ。或いは事に遇いて擁せられ、日儻中に移らば、便ち口を嗽いて以て過ごす。涅槃・大品・浄名・三慧諸経の義記数百巻を制す。聴覧の余閑、即ち重雲殿及び同泰寺に於いて講説し、名僧碩学、四部の聴衆、常に万余り。
政務に勤勉で、倦むことなく怠ることがなかった。毎冬の四更が終わるや、直ちに燭を取らせて政務を見、筆を執って寒さに触れ、手は皸裂した。しかし仁愛の心が強く決断に欠け、親族や寵愛する者の過失犯行を多くは寛大に赦したので、政令と刑罰は弛緩して紊乱した。毎回死罪を決する際には、常に哀れみ悲しんで涙を流し、その後でようやく奏上を許した。性質は方正で、たとえ小殿や暗室に居ても、常に衣冠を整えて端座し、暑月でも袒裼することはなかった。内豎の小臣に会う時も、大賓に遇うように接した。
初め、斉の高帝は履を履いて殿に登る夢を見、顧みると武・明二帝の后の一人が天地の図を手に広げているが誰か分からず、問うと、答えて「順子の後なり」と言った。また崔慧景が逼迫した時、長沙宣武王が救援に入り、越城に至り、馬に乗って半空を飛び墜ちる夢を見た。帝の乗っていた馬は赤龍と化し、虚空を独り昇っていった。当時、台城内に宿衛の士で巫覡の者がおり、常に太極殿に六匹の龍が各々一柱を守っているのを見ていたが、後に忽然と二匹が消え、後に宣武王の宅にあるのを見た。当時、宣武王は益州にいたので、巫覡は蜀へ行き仕えた。宣武王が郢州にいた時、この巫覡は都に戻り、六匹の龍が皆、帝の寝斎にあるのを見て、そこで郢州を去って雍州へ向かった。途中で病にかかり死に際に、同僚に「蕭雍州(後の武帝)必ず天子となるべし」と言い、以前の事を詳しく語った。これを推して言えば、蓋し天命であった。
たとえ蒙塵(難を避けて逃亡)の身にあっても、斎戒を廃さず、病で食事が進まなくなっても、盥漱は初めの如く行った。皇太子は日中に再び朝見し、毎回安否を問うては涕泗が顔に交わった。賊臣の侍者も、涙を掩わぬ者はなかった。病が久しく口が苦くなり、蜜を求めたが得られず、再び「荷、荷!」と言って崩御した。賊はこれを秘し、太子は起居を問うても会うことができず、閣下で慟哭した。
当時、海中に浮鵠山が浮かび、余姚の岸から千余里離れており、上に三百歳の女人がおり、女官道士が四五百人いて、年齢は皆百歳を超えていたが、ただ山で学道していた。使いを遣わして紅席を献上した。帝が捨身を行っていた時、その使いが丁度到着し、この草には常に紅鳥が下に居るので、この名があると言った。その図様を見ると、鸞鳥であった。時に男子がおり、何者か知れなかったが、大衆の中で自ら身を割いて飢えた鳥に与え、血流が体に遍くも、顔色は変わらなかった。また沙門の智泉は鉄の鉤を体に掛け、千の燈を燃やし、一日一夜、端坐して動かなかった。開講の日、三足の鳥が殿の東戸に集まり、戸から西南の懸楣に移り、三度飛び三度集まった。白雀一羽が、重雲閣前の連理樹に見えた。また五色の雲が華林園の昆明池上に浮かんだ。帝はますます流遁(仏教に耽溺)が甚だしくなり、境内もこれに化され、遂に喪亡に至ったという。
【論】
論じて曰く、梁の武帝は時に昏虐に逢い、家に冤禍を遭いながら、既に地は勢勝に居り、機に乗じて起こり、この文徳をもって、この武功有り。始めは湯・武の師を用い、終には唐・虞の業を成し、豈に人謀のみと言わんや、亦た惟だ天命なり。図籙を拠るに及んで、多年を歴し、礼楽を製造し、儒雅を敦崇し、江左以来、年二百年を踰え、文物の盛は、独り茲に美なり。然れども先王は文武を遞用し、徳刑を備挙し、之を水火に方え、陰陽に法を取り、国の道と為すは、独り任すべからず。而るに帝は俎豆に心を留め、干戚に情を忘れ、釈教に溺れ、刑典に弛む。既にして帝紀立たず、悖逆萌生し、反噬み彎弧するは、皆子弟より出で、履霜戒めず、卒に乱亡に至る。古より乱を撥つ君は、固より已に多し。其れ或いは樹置失所にして、後嗣以て之を失う有りと雖も、未だ自己にして得、自己にして喪う有らず。徐偃の仁を追蹤し、以て窮門の酷を致す、深く痛むべく、至りて戒むべき者か。