南史
巻六 梁本紀上 第六
武帝
梁の高祖武皇帝は諱を衍といい、字は叔達、小字は練兒、南蘭陵郡中都里の人で、姓は蕭氏、斉(南斉)と同じく淮陰県令の蕭整を祖とする。整は皇高祖の轄を生み、済陰太守の位にあった。轄は皇曾祖の副子を生み、州の治中従事の位にあった。副子は皇祖の道賜を生み、南台治書侍御史の位にあった。道賜は皇考を生み、諱は順之、字は文緯といい、斉の高帝とは始族弟(同族の弟)の関係にあった。
皇考は外見は非常に温和であったが、内には英気を抱き、斉の高帝と幼少の頃から親しく交わった。かつて共に金牛山に登った時、道端に枯骨が散乱していた。斉の高帝が皇考に言うには、「周の文王の時代から今まで何年経ったか、再びこの枯骨を埋葬する者が現れるだろうか」と。その言葉は厳然として表情を動かした。皇考はこれによって斉の高帝に大志があることを知り、常に付き従った。斉の高帝が外征するたびに、皇考は常に軍の副将を務めた。北討の際、薛索兒が夜間に人を遣わして営中に入り、刀を手に斉の高帝の寝床に直行したが、皇考が自らこれを斬り殺した。頻繁に斉の高帝の鎮軍司馬・長史を務めた。当時、宋の皇帝(後廃帝)は昏虐であり、斉の高帝は外に出ることを謀ったが、皇考は一旦逃亡すれば危険が測り知れないとして、むしろ人の欲望に乗じて伊尹・霍光のような事(廃立)を行うべきだとし、斉の高帝は深くそれに同意した。黄門郎、安西長史、呉郡内史を歴任し、経歴した地では皆名声を挙げた。呉郡の張緒は常に称えて言った、「文武の才を兼ね備え、徳と行いを有する。私は蕭順之を敬う」と。 袁粲 が石頭城を拠点とした時、黄回は彼と通謀した。皇考は難が起こったと聞き、家兵を率いて朱雀橋を占拠した。回の偵察者が戻って報告して言うには、「朱雀橋の南に一人の長者、英威凛然として胡床に座り南を向いている」と。回は言った、「蕭順之だ」と。そこで敢えて出撃しなかった。当時、皇考がいなければ、石頭城はほとんど守れなかったであろう。斉の高帝が皇業を創建するに当たり、先鋒を推し決戦に勝つこと、全ては垂拱してその成功を仰いだのである。斉の建元の末、斉の高帝は穏やかに皇考に言った、「阿玉に揚州を解任させて君に授けよう」と。玉は、 豫 章王蕭嶷の小名である。斉の武帝が東宮にいた時、皇考が問訊(挨拶)に訪れ、退出する際、斉の武帝は皇考を指して蕭嶷に言った、「この翁がいなければ、我々は今日に至ることはできなかった」と。即位すると、深く忌憚したため、台輔(宰相)の地位には就けなかった。佐命(創業)に参画した功により、臨湘県侯に封ぜられた。侍中、衛尉、太子詹事、領軍将軍、丹陽尹を歴任し、鎮北将軍を追贈され、諡を懿といった。
帝は宋の孝武帝の大明八年、甲辰の年に秣陵県同夏里の三橋の邸宅で生まれた。初め、皇妣の張氏がかつて日を抱く夢を見、後に懐妊し、遂に帝を産んだ。帝は生まれながらにして異光があり、容貌は格別で、日角龍顔、重岳虎顧、舌に八字の文があり、 項 に浮く光があり、身は日に映っても影がなく、両股に駢骨があり、項の上が隆起し、右手に「武」の字があった。帝は幼少の頃、空中を歩くことができた。成長すると、博学で多くのことに通じ、籌略を好み、文武の才幹があった。居室の中には、常に雲気のようなものがあった。人が遭遇すると、身体は自然と厳粛になった。
初め衛軍将軍王儉の東閣祭酒となり、儉は一目見て深く器異し、戸曹属に請うた。廬江の何憲に言った、「この蕭郎は三十歳までに侍中となり、それを過ぎれば貴ぶべく言い尽くせない」と。竟陵王蕭子良が西邸を開き、文学を招くと、帝は沈約・謝朓・王融・蕭琛・范雲・任昉・陸倕らと共に遊び、「八友」と号した。王融は俊爽で、識鑑は人に優れ、特に帝を敬異し、常に親しい者に言った、「天下を宰製する者は、必ずこの人である」と。累遷して随王の鎮西諮議参軍となった。牛渚を通りかかった時、風に逢い、龍瀆に入泊した。一人の老人が帝に言った、「君は龍行虎歩、相貌は言うべからず、天下はまさに乱れようとしている。これを安んずる者は君においておるであろうか」と。その姓名を問うと、忽然として見えなくなった。まもなく皇考の喪(艱)により職を去り、建鄴に帰った。
斉の武帝が病に伏せると、竟陵王蕭子良は帝と兄の蕭懿、王融、劉絵、王思遠、顧暠之、范雲らを帳内軍主とした。王融は帝(武帝)の崩御に乗じて子良を立てようとしたが、帝(蕭衍)は言った、「並ならぬ事を立てるには、必ず並ならぬ人を待たねばならない。王融の才は負図(大任を担う)の器ではなく、その敗れを見るであろう」と。范雲は言った、「国家を憂うる者は、ただ王中書(王融)のみである」と。帝は言った、「国を憂うるとは、周公・召公たらんとするか?それとも豎刁・易牙たらんとするか?」蕭懿は言った、「直なるかな史魚、何と木強(頑固)なことか」と。
初め、皇考が薨じた時、志を得ず、その事は斉の魚復侯伝に見える。この時、郁林王(蕭昭業)は徳を失い、斉の明帝(蕭鸞)が輔政として、廃立の計画を立てようとした。帝(蕭衍)は斉の明帝を助け、斉の武帝の後嗣を傾けて心の恥を雪ごうとし、斉の明帝もまたこれを知り、常に帝と謀った。当時、斉の明帝は随王(蕭子隆)を召還しようとしたが、従わないことを恐れ、また王敬則が会稽にいて、変を起こすことを恐れ、帝に問うた。帝は言った、「随王は美名はあるが、実は凡庸で劣っており、智謀の士はおらず、爪牙として頼るのはただ司馬の垣歴生と武陵太守の卞白龍のみである。この両者は共に利さえあれば与する者であり、顕職をもって啖(誘い)すれば、馳せ参じない者はいない。随王にはただ手紙一本で足りる。敬則は江東を安んずる志があり、富貴を極めている。美女を選んでその心を楽しませるのがよい」と。斉の明帝は言った、「これもまた我が意である」と。すぐに歴生を征して太子左衛率とし、白龍を遊撃将軍とし、共に到着させた。続いて随王を都に召し、自尽を賜った。
豫 州刺史の崔慧景は斉の武帝の旧臣であり、自ら安んぜず、斉の明帝はこれを憂い、そこで帝を起用して寿陽に鎮させ、表向きは魏に備えると称し、実は慧景を防がせた。軍は長瀬に駐屯した。慧景は罪を恐れ、喪服(白服)で出迎えた。帝は慰撫してこれを宥した。将軍の房伯玉と徐玄慶は共に言った、「慧景の反逆の跡は既に明らかであり、まさに賊である。我々武人は、譬えば鷹狩りの腕鞲の上の鷹の如く、将軍が一言命じられれば、直ちにこれを制します」と。帝は笑って言った、「掌中の嬰児の如きもの、殺すのは武勇ではない」と。そこで意を曲げて和解させ、慧景は遂に安堵した。隆昌元年、中書侍郎に拝され、黄門侍郎に遷った。
建武二年、魏の将軍王粛・劉昶が司州刺史蕭誕を攻撃して甚だ急であり、斉の明帝は左衛将軍王広之を派遣して救援に向かわせた。帝は偏帥として広之に隷属した。行軍して熨斗洲に至った時、身長八尺余りの者がおり、容貌と衣冠は白く輝いて皆白く、江に沿って呼び叫んで言うには、「蕭王は大いに貴し」と。帝は既に幾度も瑞祥の兆しがあり、心にますます自負するところがあった。時に蕭誕の地から百里を隔て、諸軍は魏軍の勢いが盛んなのを理由に、敢えて進もうとする者はいなかった。帝は大いに威略を振るおうと欲し、諸将に言うには、「今、下梁の城に屯し、鑿峴の険を塞ぎ、雉腳の路を守り、賢首の山を拠り、以て西関を通じ、以て賊の塁に臨み、三方より掎角し、その不意を出でば、賊を破ることは必ずである」と。広之らは従わなかった。後に徐玄慶を派遣して進み賢首山を占拠させたが、魏軍はその糧道を断った。兵士らは恐れ、敢えてこれを救援する者はいなかった。ただ帝のみが奮い立って率先して進むことを請うた。そこで広之は帝に精鋭の甲兵を増やし、枚を銜ませて夜間に前進した。道に迷い、二つの松明を持つ者の如きものを見て、それに従えば果たして道を得、まっすぐに賢首山に登った。広之の軍はこれによって前進することができた。魏軍が脅しに来たが、帝は堅く壁を守って進まなかった。時に王粛は自ら城を攻め、一鼓で退却した。劉昶には疑心があり、帝はこれに因み書を送り、間隙を生じさせた。ある朝、風が西北より起こり、陣雲がそれに従って来て、王粛の営に当たった。やがて風は回り雲は転じて、還って西北に向かった。帝は言う、「これいわゆる帰気なり、魏の師は遁走す」と。軍中に令して言う、「麾を見て進み、鼓を聴いて動け」と。粛はついに壁を傾けて十万の兵を率い、水の北に陣を布いた。帝は麾を揚げて鼓噪し、響きは山谷を振るわせた。敢死の士は短兵を執って先に登り、長戟がこれを翼護した。城中で援軍が来たのを見て、これに因み軍を出して魏の柵を攻撃した。魏軍は表裏より敵を受け、ここに大いに崩れた。粛・昶は単騎で逃げ走り、斬獲は千を数え、流血は野を紅に染めた。王粛・劉昶の巾箱の中から魏帝の勅を得た。そこには、「蕭衍は兵を用いるに善しと聞く。これと鋒を争うことなかれ。我が至るを待て。もし能くこの人を禽らば、すなわち江東は我に有り」とあった。功により建陽県男に封ぜられた。
まもなく司州刺史となった。沙門あり、自ら僧惲と称し、帝に言うには、「君の項に伏龍あり、人臣にあらず」と。再び求めしも、その所在を知る者なし。帝は州にあって、甚だ威名があった。嘗て人が馬を贈ったが、帝は受け取らなかった。贈った者は密かに馬を斎の柱に繋いで去った。帝が出て馬を見、丁寧に返書を書き、それを馬の首に縛り付け、人に命じて城外に追い出させた。馬は自ら還っていった。都に還って太子中庶子となり、四廂直を領した。石頭に出鎮した。斉の明帝は猜忌の性があり、帝は時の嫌疑を避け、部曲を解き遣わし、常に折角の小牛車に乗った。斉の明帝はしばしば帝の清儉を称え、朝臣を勧励した。
四年、魏の孝文帝が自ら大衆を率いて雍州に迫った。刺史曹武は沔を渡って樊城を守った。武はもと斉の武帝の腹心であり、斉の明帝はこれを忌み、後の弟の劉暄を雍州にしようとした。暄は外に出ることを望まず、江祏によって留まることを得た。斉の明帝は帝を雍州に擬し、密旨を受けて出頓させ、名目は軍事のため発遣とした。また五兵尚書崔慧景・征南将軍陳顕達に命じて相次いで襄陽を救援させた。慧景は帝と共に鄧城に進んだ。魏の孝文帝が十余万騎を率いて急に至った。慧景は退却しようとした。帝はこれを止めたが、従わず、ここに大敗した。帝は衆を率いて拒戦し、ただ独り全軍を得た。魏軍が退いた後、帝を輔国将軍とし、雍州事を監せしめた。
これに先立ち、雍州では樊城に王気ありと伝えられ、この時には流言が更に甚だしくなった。斉の明帝が崩御すると、遺詔により帝を 都督 ・雍州刺史とした。時に揚州刺史始安王蕭遙光・ 尚書令 徐孝嗣・右僕射江祏・右将軍蕭坦之・侍中江祀・衛尉劉暄が内省に更直し、日を分けて勅を帖し、世にいわゆる「六貴」である。また御刀茹法珍・梅蟲児・豊勇之ら八人あり、「八要」と号し、及び舎人王咺之ら四十余人、皆口を以て王言を擅にし、権をもって国憲を行った。帝は張弘策に言うには、「政出づること多門、これ乱の階なり。当今禍を避くるには、惟だこの地にあり。勤めて仁義を行えば、坐して西伯と作すべし。但だ諸弟は都にあり、時に患いを離るるを恐る。須らく益州とこれを図るべし」と。時に上の長兄蕭懿が益州を罷め還り、なお 郢州 事を行っていた。そこで弘策を郢に遣わし、懿に計を陳べさせた。語は懿伝にある。言うところが既に従われず、弘策が還ると、帝は弟の蕭偉及び蕭憺を召し、この歳に襄陽に至らせた。そこで密かに器械を造り、多く竹木を伐り、檀渓に沈め、密かに舟装の備えとした。時に帝の住む斎には常に気があり、五色が回転し、その状蟠龍の如し。季秋に九日台に出でしに、忽ち暴風起こり、煙塵四面より合した。帝の居る所のみは白日清朗にして、その上に紫雲騰り起ち、形は傘蓋の如く、望む者異ならざるはなかった。
まもなく大臣が相次いで誅戮された。永元二年冬、蕭懿もまた害された。報せが至ると、帝は密かに長史王茂・中兵呂僧珍・別駕柳慶遠・功曹史起士瞻らを召してこれを謀った。既に定まり、十一月乙巳に僚佐を召して聴事に集め、挙兵することを告げた。この日に牙を建て、檀渓の竹木を出して舸艦を装備し、旬日の間に大いに整った。百姓で従うことを願う者、鉄馬五千匹、甲士三万人を得た。
先に、東昏侯は劉山陽を巴西太守とし、荊州を通過させて行事蕭穎胄に就き、襄陽を襲撃させようとした。帝はその謀を知り、参軍王天武・龐慶國を江陵に遣わし、州府の人々に広く書を送って軍事を論じさせた。天武が出発した後、帝は諮議参軍張弘策に言った、「今日、天武は天下を坐して収めるであろう。荊州は天武が至れば必ず慌てふためき計略がなく、もし我らに同調しなければ、これを取ることは地の芥を拾うが如きである。三峡を断ち、巴・蜀を拠り、兵を分けて湘中を定めれば、上流をことごとく有することになる。この威声をもって、九派に臨み、彭蠡を断ち、江南に檄を伝えれば、風が草を靡かせるにも比べるに足らず、ただ少し日月を引き延ばすだけである。江陵はもとより襄陽の人を恐れ、加之唇亡びて歯寒し、必ず孤立せず、どうして暗黙に同調せぬことがあろうか。荊・雍の兵を挟み、東夏を掃定すれば、韓信・白起が再び出でても計を為すことができず、ましてや無算の昏主が、御刀・応勅の徒を役使するようなものに及ぶべくもない。」
山陽が巴陵に至ると、帝はまた天武に命じて書を穎胄兄弟に齎らせた。去った後、帝は張弘策に言った、「用兵の道は、心を攻めるを上とし、城を攻めるはこれに次ぐ。心戦を上とし、兵戦はこれに次ぐ。今日のことがそれである。近く天武を州府に遣わした時は、人々に皆書があったが、今度はただ二通のみ、行事兄弟に与え、『一两天武口に具す』と記した。そして天武に問えば、口には説くところがない。天武は行事の心膂である。彼らは聞けば必ず、行事と天武が共にその事を隠していると思い、人々は疑いを生じるであろう。山陽は衆口に惑わされ、判然と嫌隙を抱けば、行事は進退して自ら明らかにする術がなく、これぞ両の空函を馳せて一州を定めるというものだ。」
山陽が江安に至り、これを聞いて果たして疑い、進まなかった。柳忱は天武を斬り、その首を山陽に送るよう勧め、穎胄は天武に言った、「天下の事は卿に懸かっている。今、卿に頭を借りて、山陽を欺こう。昔、樊於期もまた頭を借りて荊軻に与えた。」そこでこれを斬り、首を山陽に送った。山陽はこれを信じ、馳せて城に入らんとし、閾を踰えようとした時、縣門が発し、その車轅を折ったので、車を投げて逃げた。中兵参軍陳秀が戟を抜いてこれを逐い、門外で斬り、首を帝に伝えた。
引き続き南康王の尊号を奉る議を以て告げ来たり、かつ言った、「時として未だ利あらず、来年二月を待たねばならぬ。急ぎ進兵すれば、恐らく廟算に非ざるべし。」帝は答えて言った、「今、甲を坐すること十万、糧用は自ら竭きる。もし兵を頓すること十旬に及べば、必ず悔い吝しみを生ず。かつ太白西方に出で、義に仗して動く。天時人謀、何の不利かあらん。昔、武王が紂を伐つに、太歳に逆行し、また年月を待つことを須いしか。」
竟陵太守曹景宗は杜思沖を遣わして帝に南康王を迎え、襄陽に都し、正しく尊号を待つよう勧めたが、帝は従わなかった。王茂はまた密かに張弘策に言った、「今、南康王を人の手中に置けば、彼は天子を挟んで諸侯に令し、節下は前に進んで人に使われることになる。これ豈に歳寒の計たるべけんや。」弘策がこれを帝に言うと、帝は言った、「もし前途の大事が捷からずば、故に蘭と艾とを同じく焚くのみ。もし功業を克く建てれば、誰か従わざらん。豈に碌碌として人の処分を受けるべきであろうか。」
沔水の南に新野郡を立て、新たに帰附する者を集めた。
三年二月、南康王は相国となり、帝を征東将軍とした。戊申、帝は襄陽を発った。冬以来積もった霰が、この時晴れ渡り、士卒は皆喜んだ。帝は弟の偉を留めて襄陽城を守らせ、言った、「心を襄陽人の腹中に置き、誠信を推してこれを遇し、疑うことなかれ。天下一家、乃ち相見る時あらん。」
遂に建鄴に檄を移し、威武を闡揚した。竟陵に至ると、長史王茂と太守曹景宗を前軍とし、中兵参軍張法安に竟陵城を守らせた。茂・景宗は衆を率いて岸を渡り、進んで九里に頓した。その日、郢州刺史張沖が迎え戦い、茂らはこれを大破した。荊州は冠軍将軍鄧元起・軍主王世興・田安らを遣わし、夏口において大軍と会した。帝は漢口城を築いて魯山を守り、水軍主の張惠紹・朱思遠らに命じて中江を遊弋させ、郢・魯二城の信使を絶たせた。時に張沖が死に、その衆は軍主薛元嗣及び沖の長史程茂を主に推した。
三月乙巳、南康王は江陵において帝位に即いた。遙かに東昏侯を廃して涪陵王とし、帝を尚書左僕射とし、征東大将軍・ 都督 征討諸軍を加え、黄鉞を仮した。西台はまた冠軍将軍蕭穎達に兵を領させて来会させた。
四月、帝は沔水を出て、王茂・蕭穎達らに命じて郢城に迫らせた。
九月、天子(和帝)は詔を下し、帝(蕭衍)に東夏を平定せしめ、便宜を以て事に従うことを許した。前軍が蕪湖に駐屯すると、南 豫 州刺史申胄は姑孰を棄てて逃走し、ここに至って大軍は進んでこれを占拠した。雍州を発して以来、帝の乗る艦には常に二匹の龍が導き、左右の者は誰もが見た。沿道の民衆は奉迎し、皆綿を抱くが如くであった。ここに曹景宗・蕭穎達を遣わして馬歩を率い、江寧に進駐せしめた。東昏侯は征虜将軍李居士を遣わして迎撃させたが、景宗はこれを撃退した。ここにおいて王茂・鄧元起・呂僧珍は進んで赤鼻邏を占拠し、曹景宗・陳伯之は遊軍となった。この日、新亭城主江道林は兵を率いて出戦したが、諸軍はこれを陣中に捕らえた。大軍は新林に駐屯し、建康の士庶は都を挙げて至り、帰順の意を示すのに血で書をしたためる者もあった。王茂に命じて越城を占拠せしめ、曹景宗に皁莢橋を、鄧元起に道士墩を、陳伯之に籬門を占拠せしめた。道林の残兵は航南に退き屯したが、これを追撃し、また散走させ、朱雀を守り退き、淮水に憑りて自らを固めた。時に李居士はなお新亭の塁を占拠し、東昏侯に南岸の邑屋を焼き払い、戦場を開くよう請うた。大航より西、新亭より北は、蕩然として荒廃した。
十月、東昏侯の石頭軍主朱僧勇が帰降した。東昏侯はまた征虜将軍王珍国を遣わし、航南の大路に陣を列ねさせ、精鋭と利器を全て配し、なお十余万の兵とし、宦官の王倀子に白虎幡を持たせて諸軍を督させた。王茂・曹景宗らが挟撃してこれを突き崩すと、珍国の軍は一時に土崩した。諸軍は宣陽門まで追撃し、李居士は新亭の塁を以て、徐元瑜は東府城を以て降伏し、石頭・白下の諸軍は共に夜潰した。壬午、帝は石頭を鎮め、諸軍に命じて六門を包囲させた。東昏侯は門内を悉く焼き払い、営署官府を駆り立てて併せて城内に入れ、二十万の兵を有した。青州刺史桓和は東昏侯を欺いて出戦させ、その隙に降伏した。先に、俗語で密かに欺き裏切る者を「和欺」と言った。ここにおいて虫児・法珍らは言った、「今日は桓和に敗れた、まさに和欺と言えよう」。帝は諸軍に命じて長囲を築かせた。
初め、諸軍が既に迫ると、東昏侯は軍主左僧慶を遣わして京口を鎮めさせ、常僧景を広陵に、李叔献を瓜歩に屯させた。また申胄が姑孰から奔り帰ると、また彼を破墩に屯させ、以て東北の声援とした。ここに至り帝は降伏を諭す者を遣わすと、皆降伏した。帝はここに弟の輔国将軍秀を遣わして京口を鎮めさせ、輔国将軍恢を破墩に屯させ、従弟の寧朔将軍景を広陵に鎮めさせた。呉郡太守蔡夤は郡を棄てて降伏に赴いた。
十二月丙寅、兼衛尉張稷・北徐州刺史王珍国が東昏侯を斬り、その夜、黄油で包んだ首を軍に送った。帝は呂僧珍・張弥に命じて兵を率い府庫及び図籍を封じさせた。帝はここに入り、寵妾の潘妃を収めて誅し、及び凶党の王咺之以下四十八人を官吏に付し、宮女二千人を以て将士に分け与えた。宣徳皇后の令により、涪陵王を追廃して東昏侯とし、帝に 中書監 ・大司馬・録尚書・驃騎大将軍・ 都督 ・揚州刺史を授け、建安郡公に封じ、食邑一万戸とし、班剣四十人を与え、黄鉞・侍中・征討諸軍事は並びに元の如くとした。晋の武陵王司馬遵が承制した故事に依り、百官は敬意を表した。己卯、帝は閲武堂に入り屯し、大赦を下令した。丙戌、殿内に入り鎮まった。この日、鳳凰が建鄴に集まった。また下令した、「凡そ昏制の謬賦・淫刑濫役は、外においては前の源を詳らかに検べ、悉く除き蕩せ。その主守が散失し、諸々の損耗したものは、精しく科条を立て、皆原例に従え」。丁亥、 豫 州刺史李元履を遣わし、兵五千を以て東方十二郡を慰労せしめた。
二年正月辛卯、下令した、「尚書衆曹の東昏侯時の諸々の諍訟で理を失い、及び主者が滞り時を移さず施行しなかったものを通検し、精しく訊辯を加え、事に依り議奏せよ。義師が陣に臨み致命し、疾病死亡した者は、並びに葬斂を加え、遺孤を収恤せよ」。甲午、天子は兼侍中席闡文・兼黄門侍郎楽法才を遣わし、都下を慰労させた。皇祖(蕭道賜)を 散騎常侍 ・左光禄大夫に、皇考(蕭順之)を侍中・丞相に追贈した。乙未、下令した、「朱雀の捷において、逆徒で死を送った者は、特に家人に殯葬を許す。若し親属が無く、或いは貧苦なる者は、二県の長尉が即ち埋掩せよ。建康城内で天命に達せず、自ら淪滅を取った者も、同じくこの科に同じくせよ」。また浮費を減損することを下令し、奉粢盛・紱冕を修め・礼楽の容を習い・甲兵の備を繕う以外は、此の外一切禁絶した。御府中署は、宜しきに量り罷省し、外に命じて詳しく条格と為さしめた。
戊戌、宣徳皇后が朝に臨み、内殿に入り居り、帝を大司馬に拝し、承制を解き、百官は前の如く敬意を表した。壬寅、詔して帝を 都督 中外諸軍事に進め、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名を許し、前後部の羽葆・鼓吹を加え、左右長史・司馬・従事中郎・掾・属各四人を置き、並びに旧に依り士を辟し、余は並びに元の如くとした。甲寅、斉帝(和帝)は帝を相国の位に進め、百揆を総べさせ、十郡を封じて梁公と為し、九錫の礼を備え、遠遊冠を加え、緑綟綬を与え、位を諸王の上に置いた。策文に曰く。
また公に九錫を加う。其れ後命を敬聴せよ。
帝は固く辞し、府僚が勧進したが、許さなかった。
二月辛酉、府僚が重ねて請うて言った、「近く朝命を以て策を蘊め、丹誠を冒して奏し奉るも、還令を被り、未だ虚受を蒙らず。縉紳は顒顒として、深く未だ達せざる所なり。蓋し聞く、金を府に受くるは、通人の弘致、海隅に高蹈するは、匹夫の小節。是を以て乗石を履みて周公は疑いと為さず、玉璜を贈りて太公は譲りと為さざるなり。況んや世哲軌を継ぎ、先徳人に在り、経綸草昧、微管に歎深く、加うるに朱方の役、荊河是れ依る所、師を班し旅を振るい、大いに王室を造る。復た累繭して宋を救い、重胝して楚を存するも、今に居り古を観れば、曾て何をか云わんとするに足らん。而して惑い甚だしきは盗鐘の如く、功は賞せざるを疑わしめ、皇天后土、其の酷しきに勝えず。是を以て玉馬駿奔し、微子の去るを表し、金板地に出で、龍逄の冤を告ぐ。明公は鞍に据りて哭を輟め、三軍の志を厲し、独居して涕を掩い、義士の心を激す。故に能く海若をして只に登らしめ、図を罄くして祉を效わしめ、山戎・孤竹、馬を束ねて景従せしむ。罪を伐ち人を吊い、一たび乱を匡ねて静む。天功を叨るに匪ず、実に濡足を勤む。亀玉毀れず、誰の功ぞ。独り君子と為り、将に伊・周をして何の地にかせんとす」。ここにおいて始めて相国・梁公の命を受けた。東昏侯の淫奢なる異服六十二種を都街で焼くことを命じた。斉帝は梁公の夫人を梁国妃に追贈した。
乙丑の日、南兗州の隊主陳文興が宣武城内で井戸を掘ると、玉で彫刻した騏驎・金で彫刻した玉璧・水精の環がそれぞれ二つ得られた。また鳳凰が建康県桐下里に現れた。宣徳皇后は符瑞を称美し、その功を相国府に帰した。丙寅の日、詔して梁国が従来通り諸要職を選任することを許し、すべて天朝の制度に従わせた。帝が上表して言うには、「前代の選官は皆選簿を立てた。請う、今より選曹は精しく隠括を加え、旧例に依って簿を立て、冠履に誤りなく、名実に背かず、庶民に涯涘を識らしめ、造請自ら止むことを。かつ聞く、中間に格を立て、甲族は二十歳で仕官し、後門は三十歳を過ぎて吏を試みると。豈に風流を弘奨し、後進に希向せんとするや。これは実に巨蠹なり、特に刊革すべし」。詔して表に依り施行せしむ。丙戌の日、詔して梁公の爵を進めて王とし、 豫 州の南譙・廬江、江州の尋陽、郢州の武昌・西陽、南徐州の南琅邪・南東海・ 晉 陵、揚州の臨海・永嘉の十郡を梁国に加え、前と合わせて二十郡とする。その相国・揚州牧・驃騎大将軍はもとのまま。帝は固く辞したが、詔して上表を断つ。相国左長史王瑩らが百僚を率いて敦請した。
三月癸巳の日、梁王の命を受けた。国内の殊死以下の罪を赦すことを下令し、鰥寡孤独で自活できない者には穀物五斛を賜い、府州の統べる所も同様に蠲蕩する。丙午の日、斉帝が命じて帝に冕十二旒を用い、天子の旌旗を立て、出入に警蹕を設け、金根車に乗り、六馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭・雲罕を置き、楽舞は八佾とし、鍾虡宮懸を設け、王妃・王子・王女の爵命の号は、すべて旧儀の通りとする。丙辰の日、斉帝が詔を下して位を禅り、即時に姑孰に安んず。
四月辛酉の日、宣徳皇后の令に曰く、「西の詔至る。帝は前代を憲章し、神器を梁に敬って禅る。明らかに臨軒し、使者を遣わして恭しく璽綬を授けよ。未亡人は便ち別宮に帰る」。壬戌の日、策に曰く。
帝は表を抗して陳譲したが、表は通じなかった。ここにおいて斉の百官 豫 章王元琳ら八百十九人、及び梁台の侍中範雲ら百十七人が、ともに上表して進むことを勧めたが、帝は謙譲して受けなかった。この日、太史令蔣道秀が天文符讖六十四条を陳べ、事柄はみな明らかであった。群臣が重ねて表を上り固く請うたので、ついに従った。
天監元年夏四月丙寅の日、皇帝は南郊で即位し、壇を設け柴燎して天に告げて曰く。
礼が終わると、詔して観覧を許した。ここに法駕を備えて建康宮に還り、太極前殿に臨み、大赦し、元号を改め、人に爵二級、文武の位二等を賜う。鰥寡孤独で自活できない者には、人ごとに穀五斛。逋布・口銭・宿責は収めない。郷論清議を犯し、贓汚淫盗の罪ある者は、すべて一様に蕩滌し、前の注記を洗い除き、更始を与える。斉帝を巴陵王に封じ、一郡を全食とし、天子の旌旗を載せ、五時の副車に乗り、斉の正朔を行い、天地を郊祀し、礼楽制度はすべて斉の典を用いる。斉の宣徳皇后を斉の文帝の妃とし、斉帝の后王氏を巴陵王妃とする。斉代の王侯の封爵は、すべて降等・省廃する。その功効が艱難に著しい者は、別に後の命がある。ただ宋の汝陰王は除例に含まない。劫賊の残党で台府に没した者は、すべて蠲放する。諸流徙の家は、ともに本貫に還ることを聴す。兼 尚書令 王亮を 尚書令 とし、兼尚書右僕射沈約を尚書僕射とする。皇弟中護軍宏を臨川王に、南徐州刺史秀を安成王に、雍州刺史偉を建安王に、左衛将軍恢を鄱陽王に、荊州刺史憺を始興王に封ずる。郡王以下より、列爵を県六等とする。皇弟・皇子は郡王に封じ、二千戸。王の庶子は県侯とし、五百戸、これを諸侯と謂う。功臣の爵邑には定科なし。鳳凰が南蘭陵に集まった。
丁卯の日、詔して凡そ後宮・楽府・西解・暴室などの例で幽逼された者は、すべて放遣する。もし衰老で自活できない者は、官が廩食を給する。戊辰の日、巴陵王に銭二百万、絹布各千匹、綿二千斤を贈る。車騎将軍高麗王高雲の号を進めて車騎大将軍とし、鎮東大将軍百済王餘太の号を進めて征東大将軍とし、鎮東大将軍倭王武の号を進めて征東大将軍とする。己巳の日、巴陵王が姑孰で崩じ、追諡して斉の和帝とし、喪礼はすべて故事に依る。
庚午の日、詔して内侍を分遣し、四方を周省させ、政を観て謠を聴き、賢を訪ねて滞りを挙げしむ。田野開けず、獄訟章なく、公を忘れて私に殉じ、侵漁を務とする者あれば、すべて事に随って聞かしむ。もし宝を懐いて邦に迷い、奇を蘊んで価を待ち、響を蓄え真を蔵し、聞達を求めざる者あれば、各々名に依って騰奏せしめ、遺隠あることなからしむ。また詔して曰く、「金を以て刑を贖うは、昔より聞く所、縑を入れて免するは、中代に施す。永く言えば叔季、偷薄風を成し、愆に嬰り罪に入る、その塗一ならず。死者は復た生くること能わず、刑者は自ら反する因なし。これに由りて滋実を望む、庸ぞ致すべけんや。周・漢の旧典に依り、罪有る者は贖いに入れ、外に詳しく条格を為し、時に随って奏聞せしむべし」。辛未の日、新たに除された謝沐公蕭寶義を巴陵王とし、以て斉の祀を奉ぜしむ。南蘭陵武進県を復し、前代の科に依う。新たに除された相国軍諮祭酒謝朏を征して侍中・左光禄大夫・開府儀同三司とする。南東海を改めて蘭陵郡とし、南徐州の諸僑郡県を土断する。癸酉の日、詔して「公車府の謗木・肺石の傍らに各々一函を置く。もし肉食の者言わず、山阿に横議せんと欲する者あれば、謗木函に投ぜよ。もし我が江・漢に従い、功の策すべきに在り、犀兕徒に弊れ、龍蛇方に県る者、次いで身才高妙にして、擯壓通ぜず、傅・呂の術を懐き、屈・賈の歎を抱き、その理皎然として、包匭に困を受くる者、夫れ大政小を侵し、豪門賤を陵ぎ、百姓已に窮し、九重達せず、もし自ら申さんと欲する者あれば、並びに肺石函に投ぜることを得」。甲戌の日、詔して遠近の慶礼を上ることを断つ。
閏月丁酉の日、行宕昌王梁彌邕を安西将軍・河涼二州刺史とし、正封して宕昌王とする。壬寅の日、詔して憲綱日弛し、漸く俗と為るを以て、端右に風聞を以て事を奏せしめ、元熙の旧制に依わしむ。有司が奏上し、皇考を追尊して文皇帝とし、廟号を太祖とし、皇妣張氏を献皇后とし、陵を建陵とし、郗氏を徳皇后とし、陵を修陵とす。
五月乙亥の夜、盗が南北掖に入り、神武門・総章観を焼き、衛尉卿張弘策を害した。戊子の日、江州刺史陳伯之が兵を挙げて反した。領軍将軍王茂を征南将軍・江州刺史とし、衆を率いてこれを討たしむ。
六月庚戌の日、北秦州刺史楊紹先を武都王に封ず。この月、陳伯之は魏に奔り、江州は平定された。前益州刺史劉季連が成都に拠って反した。
秋七月丁巳の朔、日蝕あり。
八月戊戌の日、建康三官を置く。癸卯の日、鸞鳥が楽游苑に現れた。乙巳の日、平北将軍・西涼州刺史象舒彭の号を進めて安西将軍とし、鄧至王に封ず。丁未の日、命 中書監 王瑩ら八人に律令を参定せしむ。詔して尚書郎に昔の如く奏事せしむ。交州が能く歌う鸚鵡を献じたが、詔して納れず。林邑・幹陀利国が各々使者を遣わして朝貢した。
冬十一月己未の日、小廟を立てる。甲子の日、皇子統を立てて皇太子とし、天下に父後たる者に爵一級を賜う。
十二月、大雪、深さ三尺。
この年は大旱魃となり、米一斗が五千銭に達し、多くの人が餓死した。
二年春正月乙卯、尚書僕射の沈約を左僕射とし、吏部尚書の范雲を右僕射とした。辛酉、南郊で祭祀を行い、死罪以下の囚人を赦免した。庚辰、仇池公の楊霊珍を北梁州刺史とし、仇池王に封じた。
夏四月癸卯、尚書刪定郎の蔡法度が梁律二十巻、令三十巻、科四十巻を上進した。
五月、尚書右僕射の范雲が卒去した。乙丑、益州刺史の鄧元起が成都を攻略し、益州を限定赦免した。
六月丁亥、新たに左光禄大夫に任じられた謝朏を 司徒 ・ 尚書令 とした。甲午、 中書監 の王瑩を尚書右僕射とした。この夏、疫病が多く流行した。
秋七月、扶南・亀茲・中天竺国がそれぞれ使者を派遣して朝貢した。
冬十月、皇子の綱が生まれ、都下の死罪以下の囚人を赦免した。
十一月乙卯、雷電があり、大雨が降り、空が暗くなった。
三年春正月癸丑、尚書右僕射の王瑩を左僕射とし、太子詹事の柳惔を右僕射とした。
二月、魏が梁州を攻略した。
三月、霜が降りて草を枯らした。
夏五月丁巳、扶南王の憍陳如闍耶跋摩を安南将軍とした。
六月丙子、詔を下して使者を分遣し州部を巡察させ、人々の冤酷な状況を視察させた。癸未、大赦を行った。
秋七月甲子、皇子の綜を立てて 豫 章王とした。
八月、魏が司州を攻略した。
九月壬子、河南王の世子伏連籌を鎮西将軍・西秦河二州刺史と為し、河南王に封ず。北天竺国使いを遣わして朝貢す。
冬十一月甲子、詔して贖罪の科を除く。
是の歳、魏の正始元年。
四年春正月癸卯、詔す「今より九流の常選、年未だ三十ならずして一経を通ぜざるは、解褐を得べからず。若し才甘・顔に同じき有らば、年次を限る勿れ」と。五経博士各一人を置く。有司奏す、呉令唐傭盤龍火炉・翔鳳硯蓋を鑄く。詔して終身を禁錮す。丙午、鳳凰銜書伎を省く。戊申、詔す「往代多く宮人に命じて帷宮に禋郊の礼を観せしむ、是れ蒼昊を仰ぎ虔うする所以に非ず。今より停止す」と。辛亥、南郊に祀り、大赦す。
二月、初めて胄子律博士を置く。壬午、衛尉卿楊公則を遣わし宿衛兵を率い洛口を塞がしむ。壬辰、交州刺史李凱州に拠りて反す。長史李畟討ちて之を平らげ、交州を曲赦す。是の月、建興苑を秣陵建興裏に立つ。
夏四月丁巳、行宕昌王梁彌博を安西将軍・河涼二州刺史と為し、正しく宕昌王に封ず。
六月庚戌、孔子廟を立つ。
冬十月、中軍将軍・揚州刺史臨川王宏をして 都督 北討諸軍事と為し魏を侵さしむ。興師の費用に、王公以下各国租及び田穀を上りて軍資を助けしむ。
是の歳大いに穣え、米一斛三十。
五年春正月丁卯朔、詔す「凡そ諸郡国の旧族、邦内に朝位に在る者無きは、官を選びて搜括し、郡に一人有らしむべし」と。乙亥、前 司徒 謝朏を起して 中書監 ・ 司徒 と為す。甲申、皇子綱を立てて 晉 安王と為す。
三月丙寅朔、日蝕有り。
夏四月甲寅、初めて詔獄を立つ。詔して建康県に三官を置き、廷尉の三官と分ちて獄事を掌らしめ、建康を号して南獄と為し、廷尉を北獄と為す。
五月、集雅館を置きて遠学を招く。
秋七月乙丑、鄧至国使いを遣わして朝貢す。
八月辛酉、東宮を作る。
九月、臨川王蕭宏の軍が洛口に至り、大いに潰え、失った者は万を数え、蕭宏は単騎で帰還した。
冬十一月甲子、都下に地震があり、白毛が生じた。乙丑、軍を出して時を淹びたるを以て、大赦を行ふ。魏人が勝に乗じて鍾離を攻む。
十二月癸卯、 司徒 謝朏薨ず。
六年春三月庚申、霜が降りて草を殺す。是の月、三頭の象が建鄴に入る。
夏四月壬辰、左右 驍 騎・左右遊撃の将軍官を置く。癸巳、曹景宗・韋叡らが魏の師を邵陽洲に破り、斬獲すること万を数ふ。己酉、江州刺史王茂を尚書右僕射と為す。丁巳、揚州刺史臨川王蕭宏を驃騎大將軍・開府儀同三司と為し、右光禄大夫沈約を尚書左僕射と為す。
五月己巳、中衛・中権の将軍を置き、 驍 騎を雲騎と改め、遊撃を遊騎と改む。
秋八月戊子、赦を行ふ。戊戌、都下に大水あり。
九月乙亥、閲武堂を徳陽堂と改め、聴訟堂を儀賢堂と改む。
冬閏十月乙丑、開府臨川王蕭宏を 司徒 と為し、行太子太傅を兼ねしむ。尚書左僕射沈約を 尚書令 と為し、行太子少傅を兼ねしむ。吏部尚書袁昂を兼尚書右僕射と為す。甲申、左光禄大夫夏侯詳を左僕射と為す。
十二月丙辰、左僕射夏侯詳卒す。
七年春正月戊子、元樹を恒・朔二州 都督 と為し、魏郡王に封ず。戊戌、詔して端門・大司馬門外に神龍・仁獣の闕を作らしむ。
二月乙卯、越城南に新たに国門を作る。乙丑、鎮衛将軍以下を増置して十品と為し、以て日数を法とす。凡そ二十四班、以て気序を法とす。十品に登らざるは、別に八班あり、以て八風に象る。又外国将軍二十四班を置き、合わせて一百九号と為す。庚午、詔して州郡県に州望・郡宗・郷豪各一人を置き、専ら捜薦を掌らしむ。乙亥、車騎大將軍高麗王高雲を撫東大將軍・開府儀同三司と為す。
夏四月乙卯、皇太子妃を納るる故を以て、大辟以下を赦し、朝臣及び近侍に頒賜すること各差あり。
五月、都下に大水あり。戊子、詔して蘭陵県に二陵を建修する周囲五里内の居人に復を賜ひ終身とす。己亥、詔して宗正・太僕・大匠・鴻臚を復置し、又太府・太舟を増し、仍って先づ十二卿と為し、及び朱衣直合将軍官を置く。
六月辛酉、陵監を令と改む。
秋八月丁巳、皇子繹が生まれる。大辟以下の未決囚を赦す。
九月壬辰、童子奉車郎を置く。癸巳、皇子績を立てて南康王とする。
冬十月丙寅、呉興太守張稷を尚書左僕射とする。丙子、詔して大いに北征を挙げる。丁丑、魏の県瓠鎮主白皁生・ 豫 州刺史胡遜、城を以て内属す。
この年は、魏の永平元年である。
八年春正月辛巳、南郊に祀り、大赦を行う。壬辰、魏の鎮東参軍成景雋、宿預城を以て内属す。
夏四月戊申、 司徒 臨川王宏を 司空 ・揚州刺史とし、車騎將軍・領太子詹事王茂を即本號開府儀同三司とする。
秋七月癸巳、巴陵王蕭宝義薨ず。
冬十一月壬寅、皇子續を立てて廬陵王とする。
九年春正月乙亥、右光禄大夫王瑩を 尚書令 とする。庚寅、新たに縁淮塘を作る。
三月己丑、国子学に幸し、親しく講肄に臨み、祭酒以下に賜うこと各差あり。乙未、詔して皇太子及び王侯の子、年師に従うに在る者は、皆入学せしむ。
夏四月丁巳、尚書五都令史を選び、士流を用いることを革む。
六月癸丑、盗、宣城太守朱僧勇を殺す。
閏六月己丑、宣城の盗、転じて呉興を寇し、太守蔡撙これを討平す。
冬十二月癸未、国子学に幸し、胄子を策試し、訓授の司に賜うこと各差あり。
この年、于闐・林邑国並びに使いを遣わして朝貢す。
十年春正月辛丑、南郊に祀り、大赦を行ふ。戊申、荊州より騶虞の見ゆると言ふ。
三月、盗東莞・琅邪二郡の太守劉晰を殺し、朐山を以て魏の徐州刺史盧昶を引く。
夏六月、国子祭酒張充を尚書右僕射と為す。
冬十二月、山車臨城県に見ゆ。振遠将軍馬仙崥大いに魏軍を破り、斬首十餘萬、朐山城を復す。
是の歳、初めて宮城門の三重樓を作り、及び二道を開く。宕昌国使いを遣はして朝貢し、婆利国金席を貢ぐ。
十一年春正月壬辰、詔す「今より逋謫の家、及び罪質作に応ずる者、若し年老小有らば、将送を停むべし」と。鎮南将軍・江州刺史建安王偉に開府儀同三司を加へ、 司空 ・揚州刺史臨川王宏を進めて太尉と為し、驃騎将軍王茂を 司空 と為す。
二月戊辰、新昌・済陽二郡の野蠶繭を成す。
三月丁巳、旱の故に、揚・徐二州を曲赦す。庚申、高麗国使いを遣はして朝貢す。
夏四月、百済・扶南・林邑等の国各使いを遣はして朝貢す。
秋九月、宕昌国使いを遣はして朝貢す。
冬十一月乙未、呉郡太守袁昂を以て兼尚書右僕射と為す。己酉、太尉・揚州刺史臨川王宏を降して驃騎将軍・開府同三司の儀と為す。癸丑、斉の宣徳太妃王氏薨ず。
是の歳、魏の延昌元年。
十二年春正月辛卯、南郊に祀り、大辟罪以下を赦す。
二月辛酉、兼尚書右僕射袁昂即ち正となる。丙寅、詔す「明に遠近に下し、若し骸を委ねて葬らず、或は篨衣改むる莫き有らば、量りて棺具を給ひて収斂せしむ」と。辛巳、新たに太極殿を作り、十三間に改め、閏数に従ふ。
閏三月乙丑、特進・中軍将軍沈約卒す。
夏四月、都下に大水あり。
六月癸巳、新たに太廟を作り、基を九尺増す。
秋九月、揚州刺史臨川王蕭宏に 司空 の位を加え、 司空 王茂を驃騎將軍・開府同三司之儀・江州刺史となす。
冬十月丁亥、詔して曰く、「明堂の地は卑湿に在り、量りて埤に就きて起つべし、以て誠敬を尽くすべし」。
十三年春二月庚辰朔、西南に震え、天裂くるが如し。丁亥、藉田を耕し、大赦し、孝悌力田に爵一級を賜う。
夏六月、都下に棖棖有りと訛言し、人の肝肺及び血を取り、以て天狗に飴すと。百姓大いに懼れ、二旬にして止む。
秋七月乙亥、皇子蕭綸を立てて邵陵王とし、蕭繹を湘東王とし、蕭紀を武陵王となす。
是歳、林邑・扶南・于闐国各使いを遣わして朝貢す。浮山堰を作る。
十四年春正月乙巳朔、皇太子冠す。大赦し、父後たる者に爵一級を賜い、王公以下班賚各差有り。遠近の上慶礼を停む。辛亥、南郊に祀り、詔して遠近に班下し、博く英異を采るべし。又前に墨刑を以て重辟に代うる者は、其の条を除く。丙辰、汝陰王劉胤薨ず。丁巳、魏の宣武皇帝崩ず。
夏四月丁丑、驃騎將軍・開府同三司之儀・江州刺史王茂薨ず。
冬十月、浮山堰壊る。
是歳、蠕蠕・狼牙修国各使いを遣わして来朝貢す。
十五年春三月戊辰朔、日蝕有り、既にす。
夏四月、高麗国使いを遣わして朝貢す。
六月庚子、 尚書令 王瑩を左光禄大夫・開府儀同三司とし、尚書右僕射袁昂を左僕射とし、吏部尚書王暕を右僕射となす。
秋八月、蠕蠕及び河南国が各々使者を遣わして朝貢した。
九月辛巳、左光禄大夫・開府儀同三司の王瑩が薨じた。壬辰、大赦を行った。
冬十一月、交州刺史の李畟が反乱者阮宗孝を斬り、その首を建鄴に伝送した。交州を曲赦した。
この年は、北魏の孝明皇帝の熙平元年である。
十六年春正月辛未、南郊で祭祀を行った。詔して特に貧しい家には今年の三調を収めさせず、田業なき者には、その所在において適宜に量って賦給せよ、また子を産む家を優遇して蠲免し、冤獄を恤み理め、並びに孤老・鰥寡で自存し得ざる者を賑恤せよと。
二月辛亥、藉田を耕した。甲寅、罪人を赦した。
三月丙子、太醫に命じて生類を以て薬とせしめず、公家の織官の紋錦の飾り、並びに仙人鳥獣の形を断ち切り、以て褻衣と為し、裁翦に仁恕に乖くこと有らしめじと。ここに於いて天地宗廟に祈告し、殺生を去るの理を以て、含識に被らんと欲す。郊廟の牲牷は皆麺を以て代え、其の山川諸祀は然らず。時に宗廟より牲を去れば、則ち復た血食せざる為りと為し、公卿異議有り、朝野喧噪すと雖も、竟に従わず。
冬十月、宗廟に薦羞するに、始めて蔬果を用う。
この年、河南・扶南・婆利等の国が各々使者を遣わして朝貢した。
十七年春二月癸巳、雍州刺史安成王蕭秀が薨じた。甲辰、大赦を行った。
三月丙寅、建安郡王蕭偉を改めて南平王と為す。
夏六月乙酉、中軍将軍・ 中書監 臨川王蕭宏が本号のまま 司徒 を行す。
秋八月壬寅、詔して「兵騶奴婢、男は年六十六、女は年六十に至れば、免じて編戸と為せ」と。
閏八月、幹陀利国が使者を遣わして朝貢した。
冬十月乙亥、 司徒 を行す臨川王蕭宏を以て即ち正と為す。
十一月辛亥(の日)、南平王蕭偉を左光禄大夫・開府儀同三司に任じた。
この年は、北魏の神亀元年であった。
十八年春正月甲申(の日)、領軍将軍鄱陽王蕭恢を征西将軍・荊州刺史とし、荊州刺史始興王蕭憺を中撫将軍とし、ともに開府儀同三司とした。尚書左僕射袁昂を 尚書令 とし、右僕射王暕を左僕射とし、太子詹事徐勉を右僕射とした。辛卯(の日)、南郊で祭祀を行い、孝悌力田(孝行で農業に励む者)に爵位一級を賜った。
夏四月丁巳(の日)、帝は無礙殿において仏戒を受け、罪人を赦免した。
秋七月、于闐国と扶南国がそれぞれ使者を遣わして朝貢した。