明帝
この年、入朝した。時に廃帝は諸父を疑い畏れたので、上(明帝)を廷尉に引き渡し、明日に禍害を加えようとした。上は腹心の阮佃夫・李道兒らと密謀した。時に廃帝の側近の直閤将軍宗越・譚金・童太一らはこの夜ともに外宿しており、佃夫・道兒は寿寂之らを結託し、十一月二十九日、後堂で廃帝を弑した。建安王休仁はすぐに臣下の礼をとり、奉じて西堂に導き、御座に登らせた。事は倉卒に出で、上は履を失い、跣足のまま、なお烏紗帽を着けていたので、休仁は主衣に呼びかけて白紗のものと代えさせた。即位前は、すべての事柄を令書と称した。己未、司徒豫章王子尚・山陰公主はともに賜死し、宗越・譚金・童太一は誅された。
十二月庚申朔、令書をもって東海王褘を中書監・太尉とし、晋安王子勲を車騎将軍・開府儀同三司とした。癸亥、建安王休仁を司徒・尚書令・揚州刺史とした。乙丑、安陸王子綏を江夏王に改封した。
江州刺史晋安王子勲が兵を挙げて反し、鎮軍長史鄧琬がその謀主となり、雍州刺史袁顗がこれに赴いた。壬午、太廟に謁した。甲申、郢州刺史安陸王子綏・会稽太守尋陽王子房・臨海王子頊がともに兵を挙げて同逆した。
二月乙丑、蔡興宗を尚書右僕射とした。壬申、呉興太守張永・右軍将軍蕭道成が東討し、晋陵を平定した。丁亥、建武将軍呉喜公が諸軍を率いて呉・呉興・会稽で賊を破り、三郡を平定し、同逆者は皆誅された。輔国将軍蕭道成が前鋒として北討し、輔国将軍劉勔が前鋒として西討した。劉胡の軍勢四万が赭圻を占拠した。
三月庚寅、撫軍将軍殷孝祖が赭圻を攻撃し、戦死した。輔国将軍沈攸之を代わりに南討の前鋒とした。賊の勢力は次第に盛んとなり、袁顗は鵲尾に駐屯し、連営して濃湖に至り、軍勢十余万であった。丙申、南徐州刺史桂陽王休范が北討諸軍事を総統した。戊戌、尋陽王子房の爵位を松滋県侯に貶した。癸卯、人に命じて米七百石を納めさせた者には郡守を授け、これより少ない者にはそれぞれ差等を設けた。壬子、新銭を断ち、専ら古銭を用いた。
夏五月甲寅、崇憲皇太后を修寧陵に葬った。
秋七月丁酉、仇池太守楊僧嗣を北秦州刺史とし、武都王に封じた。
八月己卯、司徒建安王休仁が衆軍を率いて賊を大破し、偽尚書僕射袁顗を斬り、江・郢・荊・湘・雍の五州に進討し、これを平定した。晋安王子勲・安陸王子綏・臨海王子頊・邵陵王子元はともに賜死し、同党は皆誅された。諸将帥への封賞にはそれぞれ差等があった。
九月癸巳、六軍の戒厳を解いた。戊戌、王玄謨を左光禄大夫・開府儀同三司とし、護軍将軍を領させた。
冬十月乙卯、永嘉王子仁、始安王子真、淮南王子孟、南平王子産、廬陵王子輿、松滋侯子房を並びに賜死す。丁卯、沈攸之を中領軍と為し、張永と俱に北討せしむ。戊寅、皇子昱を立てて皇太子と為す。
十一月壬辰、建平王景素の子延年を立てて新安王と為す。
十二月、薛安都魏軍を引きいれんとし、張永・沈攸之大いに敗る。ここに於て遂に淮北四州及び豫州淮西の地を失う。
閏正月庚午、都下大雨雪。使者を遣わし巡行し、振貸すること各差有り。
二月甲申、戦亡の将士の為に哀を挙ぐ。丙申、青・冀二州を曲赦す。
五月丙辰、詔して宣太后崇寧陵の禁内に在る墳瘞の遷徙する者に葬直を給し、其の家を蠲復す。壬戌、太子詹事袁粲を尚書僕射と為す。
秋八月壬寅、中領軍沈攸之を行南兗州刺史と為し、衆を率いて北伐せしむ。
九月戊午、皇后六宮以下の雑衣千領・金釵千枚を以て、北伐の将士に賜う。冬十月壬午、新安王延年を改封して始平王と為す。辛丑、鎮西大将軍・西秦河二州刺史吐谷渾拾寅を征西大将軍と為す。
四年春正月丙辰朔、宮中に草を雨ふ。乙亥、零陵王司馬勖薨ず。
二月乙巳、左光禄大夫・開府儀同三司王玄謨薨ず。
三月、交州の人李長仁が州を占拠して叛いた。妖賊が広州を攻め、刺史羊希を殺したが、龍驤将軍陳伯紹がこれを討ち平らげた。
夏四月丙申、東海王褘を廬江王に、山陽王休佑を晉平王に改封した。
秋九月戊辰、黥刑と刖刑の制度を定める詔を下した。有司が奏上した。「今後、官の仗を奪い取り、邏司に抵抗して戦い、亭寺を攻め略奪し、吏人を傷害する者、並びに監司や将吏自らが強盗を働く者は、人数を限らず、全て旧制に従って斬刑とする。もし赦令に遇えば、両頬に『劫』の字を黥し、両脚の筋を断ち切り、交州・梁州・寧州に徒流する。五人以下でただ互いに脅迫して奪う者も、同様に『劫』の字を黥し、両脚の筋を断ち切り、遠州に徒流する。もし赦令に遇い、徒流の刑は免除されても、顔面に黥することは依然として行い、旧来通りに冶士に補する。家族が連座すべき者は、全て旧来通りに処罰する。」 しかし帝が崩御すると、この例は廃止された。庚午、帝は法駕を整えて東宮に行幸した。
冬十月癸酉朔、日蝕があった。諸州の兵を発して北伐した。
五年春正月癸亥、みずから藉田を耕した。乙丑、魏が青州を陥とし、刺史沈文秀を捕らえて帰った。
二月丙申、廬江王褘を車騎将軍・開府儀同三司・南豫州刺史とした。
夏六月辛未、晉平王休佑の子宣曜を南平王に立てた。
秋七月壬戌、輔国将軍を輔師将軍に改めた。
九月甲寅、長沙王纂の子延之を始平王に立てた。
冬十月丁卯朔、日蝕があった。
十一月丁未、魏の使いが来朝した。
十二月庚申、荊州・益州の五郡を分けて三巴校尉を置いた。
夏四月癸亥、皇子燮を晉熙王に立てた。
六月癸卯、王景文を尚書左僕射・揚州刺史とし、袁粲を右僕射とした。己未、臨賀郡を臨慶郡と改めた。
秋七月丙戌、臨慶王劉智井薨ず。
九月戊寅、総明観を立て、学士を徴して以て之を充す。東観祭酒・訪挙各一人を置き、挙士二十人を置き、儒・道・文・史・陰陽の五部学に分かつ。陰陽を言う者は遂に其の人無し。
冬十月辛卯、皇子劉賛を立てて武陵王と為す。
十二月癸巳、辺難未だ息まずを以て、父母隔たりて異域に在る者は、悉く婚宦せしむる制を為す。
七年春正月甲戌、散騎奏挙郎を置く。
二月癸丑、征西将軍・荊州刺史巴陵王劉休若、征西大将軍に進号し、及び征南大将軍・江州刺史桂陽王劉休範並びに開府儀同三司と為る。甲寅、南徐州刺史晋平王劉休佑薨ず。
三月辛酉、魏人聘問に来る。
夏五月戊午、司徒建安王劉休仁を鴆す。庚午、袁粲を尚書令と為し、褚彦回を右僕射と為す。丙戌、晋平王劉休佑を追免して庶人と為す。
秋七月丁巳、散騎奏挙郎を罷む。乙丑、江州刺史巴陵王劉休若に死を賜う。
八月戊子、皇子劉躋を以て江夏文献王劉義恭を継がしむ。庚寅、帝疾間う。戊戌、皇子劉准を立てて安成王と為す。
夏四月己亥、上疾大いに漸す。江州刺史桂陽王劉休范に位司空を加え、劉勔を尚書右僕射と為し、蔡興宗を征西将軍・開府儀同三司・荊州刺史と為し、郢州刺史沈攸之安西将軍に進号す。袁粲・褚彦回・劉勔・蔡興宗・沈攸之、閤に入り顧命を受く。是日、上景福殿に崩ず。時に年三十四。五月戊寅、臨沂県莫府山の高寧陵に葬る。
帝は読書を好み、文義を愛し、藩に在りし時、江左以来の文章志を撰し、又衛瓘の注したる『論語』二巻を続く。大位に即くに及び、旧臣才学の士多く引進せらる。末年は鬼神を好み、忌諱多く、言語文書に禍敗凶喪の疑わしき言有りて回避すべきものは、犯せば即ち戮を加う。「騧」の馬の字を「馬」の辺に「瓜」と改む。「騧」の字「禍」に似たるを以ての故なり。嘗て南苑を張永に借す。「且く三百年を与え、期尽きて更に請わん」と云う。宣陽門を白門と謂う。上は白門不祥を以て、之を諱む。尚書右丞江謐嘗て誤って犯す。上色を変えて曰く、「汝が家門を白せよ」と。路太后の屍を停むる漆床東宮より移し出づ。上宮に幸して之を見、怒り、中庶子を免じ、之に坐して死する者数十人。内外常に犯触を慮り、人自ら保たず。床を移し壁を修するに、先ず土神を祭り、文士をして祝策を為さしめ、大祭饗の如くす。
阮佃夫・楊運長・王道隆皆威権を擅にし、言いて詔勅と為す。郡守令長一欠十除し、内外混然たり。官は賄を以て命ぜられ、王・阮の家は公室より富めり。中書舎人胡母顥専権し、奏するに不可なること無し。時人の語に曰く、「禾絹眼を閉じて諾し、胡母大いに橐を張る」と。「禾絹」は上を謂う。泰始・泰豫の際に及び、左右旨を失えば、往々にして刳剒断截有り、禁中懍懍として刀剣を践むが若し。夜夢に豫章太守劉愔反す。郡に遣わして之を殺す。軍旅息まず、府蔵空虚たり。内外の百官並びに禄奉を断つ。朝に在りて官を造る者は皆市井の傭販の子なり。而して又小黄門をして殿内に銭を埋めしめて以て私蔵と為さしむ。蜜を以て鱁鮧を漬け、一食数升、臘肉を噉むこと常に二百臠に至る。奢費過度し、造制する毎に、必ず正御三十、副御・次副又各三十と為す。一物を須うれば、輒ち九十枚を造る。天下騒然たり。民命に堪えず。宋氏の業、此より衰う。
後廢帝
六月乙巳、皇后を尊んで皇太后とし、皇后江氏を立てた。
秋七月戊辰、帝の生母である陳貴妃を皇太妃に拝した。
八月戊午、中書監・左光祿大夫・開府儀同三司蔡興宗が薨じた。
冬十一月己亥、新たに除された郢州刺史劉彥節を尚書左僕射とした。
夏六月乙卯、壽陽に大水があった。
秋八月、都下は旱魃に見舞われた。庚午、陳留王曹銑が薨じた。
九月丁亥、衡陽王蕭嶷の子伯玉を南平王に立てた。
冬十二月癸卯朔、日蝕があった。乙巳、桂陽王劉休范の位を太尉に進めた。癸亥、前建安王の世子伯融を始安縣王に立てた。
六月癸卯、晉熙王劉燮が軍を遣わして尋陽を攻克し、江州が平定された。壬戌、輔師將軍を改めて輔國將軍に戻した。
秋七月庚辰、皇弟劉友を邵陵王に立てた。乙酉、南徐州刺史建平王劉景素の号を征北將軍・開府儀同三司に進めた。
九月丁酉、袁粲を中書監とし、司徒を領せしめた。護軍將軍褚彥回に尚書令を加えた。
冬十一月丙戌、帝は元服を加えた。
十二月癸亥、皇弟の躋を立てて江夏王とし、贊を武陵王とした。
夏六月、魏の使いが来て聘問した。
秋七月庚戌、袁粲を尚書令とした。
九月丙辰、征西大将軍河南王吐谷渾拾寅に車騎大将軍の号を進めた。
四年夏六月乙亥、蕭道成に尚書左僕射を加えた。
秋七月戊子、建平王景素が京城を拠りて反した。己丑、内外に厳戒態勢を布いた。驍騎将軍任農夫・冠軍将軍黄回を遣わして北討させ、蕭道成が諸軍を総統した。始安王伯融・都郷侯伯猷はともに死を賜った。乙未、京城を陥とし、景素を斬り、同逆の者は皆誅に伏した。
八月丁卯、皇弟の翽を立てて南陽王とし、嵩を新興王とし、禧を始建王とした。
九月戊子、驍騎将軍高道慶は罪あり、死を賜った。己丑、車騎将軍・揚州刺史安成王准に驃騎大将軍・開府儀同三司の号を進めた。
冬十月辛酉、王僧虔を尚書右僕射とした。
五年夏四月甲戌、豫州刺史阮佃夫・歩兵校尉申伯宗・朱幼が廃立を謀り、皆誅に伏した。
五月、地震があった。
六月甲戌、司徒左長史沈勃・散騎常侍杜幼文・遊撃将軍孫超之・長水校尉杜叔文を誅した。
七月戊子の夜、帝は仁寿殿において弑せられ、時に年十五であった。己丑、皇太后の令により帝を貶して蒼梧郡王とし、丹陽秣陵県の郊壇の西に葬った。
順帝
八月癸亥、司徒袁粲は石頭に鎮した。戊辰、帝の生母陳昭華を皇太妃として拝んだ。庚午、蕭道成を驃騎大将軍、開府儀同三司と為し、録尚書は元の如し。
九月己酉、廬陵王暠薨じた。
十二月丁巳、荊州刺史沈攸之は兵を挙げ、執政に従わなかった。丁卯、蕭道成は入って朝堂を守り、侍中蕭嶷は東府に鎮した。戊辰、中外纂厳した。壬申、司徒袁粲は石頭に拠り、道成を誅せんと謀ったが果たさず、旋って覆滅を見た。乙亥、王僧虔を左僕射と為し、王延之を右僕射と為した。呉郡太守劉遐は郡に拠り執政に従わず、張瑰に攻撃させて斬らせた。
閏月辛巳、屯騎校尉王宜興が執政に貳したため、誅せられた。癸巳、沈攸之は郢城を攻め、前軍長史柳世隆が固守した。己亥、中外戒厳し、蕭道成に黄鉞を仮した。乙巳、道成は出て新亭に頓した。
二月庚辰、王僧虔を尚書令と為し、王延之を左僕射と為した。癸未、蕭道成に太尉を加授し、褚彦回を中書監、司空と為した。丙戌、撫軍将軍、揚州刺史晋熙王燮は中軍将軍に進号した。
三月己酉朔、日蝕有り。
夏四月、南兗州刺史黄回が執政に貳したため、死を賜った。
五月戊午、倭国王武を安東大将軍と為した。
六月丁酉、輔国将軍楊文弘を北秦州刺史と為し、武都王に封じた。
秋九月乙巳の朔、日蝕あり。丙午、太尉蕭道成に黄鉞・都督中外諸軍事・太傅を加え、揚州牧を領せしめ、殊礼を賜う。揚州刺史晋熙王劉燮を以て司徒となす。
冬十月壬寅、皇后謝氏を立てる。
十一月、故武昌太守劉琨の子息劉頒を立てて南豊県王となす。癸亥、臨澧侯劉晃を誅す。甲子、南陽王劉翽を改封して随郡王となす。
十二月丙戌、皇后太廟に謁見す。
二月丙子、南豫州刺史邵陵王劉友薨ず。丙申、建陽門に地震あり。
三月癸卯の朔、日蝕あり。甲辰、蕭道成に相国を加え、百揆を総べ、十郡を封じて斉公と為し、九錫の礼を備う。庚戌、臨川王劉綽を誅す。
【論】
論じて曰く、文帝は扆を負いて南面し、実に人君の美有り。経国の義は弘けれども、隆家の道は足らず。彭城王劉義康は古を窺わず、本より卓爾の資無く、徒らに昆弟の義深きを見て、未だ君臣の礼異なるを識らず。この家情を以て、これを国道に行えば、主忌むもなお犯し、恩離るるも未だ悟らず。以て陵逼の愆を致し、遂に滅親の禍を成す。端を開き隙を樹て、後人に垂る。明帝は猜忍の情に因り、已に行わるる典に拠り、洪枝を翦落し、慮を待たずと願う。既にして本根庇う莫く、幼主孤立し、下に磐石の托無く、上に累卵の危有り。方に璽を蔵め紱を懐き、魚服して反るを忘れ、危冠短制し、匹馬孤征し、以て覆亡に至るは、理固然なり。神器は勢弱きを以て傾移し、霊命は楽推に随いて回改す。これ霜を履むに漸有るに蓋し、夫れ豈に一夕ならんや。何ぞ区々たる汝陰の揖譲のみに止まらん。