南史
巻三 宋本紀下第三
明帝
太宗明皇帝は諱を彧、字を休景、小字を榮期といい、文帝の第十一子である。元嘉十六年十月に生まれた。二十五年、淮陽王に封ぜられ、二十九年に湘東王に改封された。孝武帝が即位すると、鎮軍将軍・雍州刺史に累進した。
この年、入朝した。時に廃帝は諸父を疑い畏れたので、上(明帝)を廷尉に引き渡し、明日に禍害を加えようとした。上は腹心の阮佃夫・李道兒らと密謀した。時に廃帝の側近の直閤将軍宗越・譚金・童太一らはこの夜ともに外宿しており、佃夫・道兒は寿寂之らを結託し、十一月二十九日、後堂で廃帝を 弑 した。建安王休仁はすぐに臣下の礼をとり、奉じて西堂に導き、御座に登らせた。事は倉卒に出で、上は履を失い、跣足のまま、なお烏紗帽を着けていたので、休仁は主衣に呼びかけて白紗のものと代えさせた。即位前は、すべての事柄を令書と称した。己未、 司徒 豫 章王子尚・山陰公主はともに賜死し、宗越・譚金・童太一は誅された。
十二月庚申朔、令書をもって東海王褘を 中書監 ・太尉とし、晋安王子勲を車騎将軍・開府儀同三司とした。癸亥、建安王休仁を 司徒 ・ 尚書令 ・揚州刺史とした。乙丑、安陸王子綏を江夏王に改封した。
泰始元年はすなわち大明九年であり、魏の和平六年である。冬十二月丙寅、皇帝は太極前殿で即位し、大赦を行い、元号を改めた。辛未、臨賀王子産を南平王に、晋熙王子輿を廬陵王に改封した。壬申、王景文を尚書僕射とした。乙亥、生母の沈婕妤を追尊して宣皇太后と称した。戊寅、太皇太后を崇憲皇太后と改称し、皇后王氏を立てた。二銖銭を廃止した。
江州刺史晋安王子勲が兵を挙げて反し、鎮軍長史鄧琬がその謀主となり、雍州刺史袁顗がこれに赴いた。壬午、太廟に謁した。甲申、 郢州 刺史安陸王子綏・会稽太守尋陽王子房・臨海王子頊がともに兵を挙げて同逆した。
二年春正月乙未、晋安王子勲が尋陽で僭位し、年号を義嘉とした。壬辰、徐州刺史薛安都が兵を挙げて反した。甲午、内外戒厳し、 司徒 建安王休仁が諸軍を 都督 して南討した。丙申、徐州刺史申令孫・司州刺史龐孟虯・ 豫 州刺史殷琰・青州刺史沈文秀・冀州刺史崔道固・湘州行事何慧文・広州刺史袁曇遠・益州刺史蕭惠開・梁州刺史柳元怙がともに同逆した。丙午、車駕みずから六軍を統御し、中興堂に駐屯した。辛亥、南 豫 州刺史山陽王休祐を 豫 州刺史に改め、西討させた。呉郡太守顧琛・呉興太守王曇生・義興太守劉延熙・晋陵太守袁標・山陽太守程天祚がともに兵を挙げて反した。鎮東将軍巴陵王休若が軍を統率して東討した。壬子、崇憲皇太后が崩御した。
二月乙丑、蔡興宗を尚書右僕射とした。壬申、呉興太守張永・右軍将軍蕭道成が東討し、晋陵を平定した。丁亥、建武将軍呉喜公が諸軍を率いて呉・呉興・会稽で賊を破り、三郡を平定し、同逆者は皆誅された。輔国将軍蕭道成が前鋒として北討し、輔国将軍劉勔が前鋒として西討した。劉胡の軍勢四万が赭圻を占拠した。
三月庚寅、撫軍将軍殷孝祖が赭圻を攻撃し、戦死した。輔国将軍沈攸之を代わりに南討の前鋒とした。賊の勢力は次第に盛んとなり、袁顗は鵲尾に駐屯し、連営して濃湖に至り、軍勢十余万であった。丙申、南徐州刺史桂陽王休范が北討諸軍事を総統した。戊戌、尋陽王子房の爵位を松滋県侯に貶した。癸卯、人に命じて米七百石を納めさせた者には郡守を授け、これより少ない者にはそれぞれ差等を設けた。壬子、新銭を断ち、専ら古銭を用いた。
夏五月甲寅、崇憲皇太后を修寧陵に葬った。
秋七月丁酉、仇池太守楊僧嗣を北秦州刺史とし、武都王に封じた。
八月己卯、 司徒 建安王休仁が衆軍を率いて賊を大破し、偽尚書僕射袁顗を斬り、江・郢・荊・湘・雍の五州に進討し、これを平定した。晋安王子勲・安陸王子綏・臨海王子頊・邵陵王子元はともに賜死し、同党は皆誅された。諸将帥への封賞にはそれぞれ差等があった。
九月癸巳、六軍の戒厳を解いた。戊戌、王玄謨を左光禄大夫・開府儀同三司とし、護軍将軍を領させた。
冬十月乙卯、永嘉王子仁、始安王子真、淮南王子孟、南平王子産、廬陵王子輿、松滋侯子房を並びに賜死す。丁卯、沈攸之を中領軍と為し、張永と俱に北討せしむ。戊寅、皇子昱を立てて皇太子と為す。
十一月壬辰、建平王景素の子延年を立てて新安王と為す。
十二月、薛安都魏軍を引きいれんとし、張永・沈攸之大いに敗る。ここに於て遂に淮北四州及び 豫 州淮西の地を失う。
是の歳、魏の天安元年。
三年春正月庚子、農役将に興らんとす。詔して太官に宰牛を停めしむ。癸卯、 豫 ・南 豫 二州を曲赦す。
閏正月庚午、都下大雨雪。使者を遣わし巡行し、振貸すること各差有り。
二月甲申、戦亡の将士の為に哀を挙ぐ。丙申、青・冀二州を曲赦す。
夏四月丙戌、詔して故丞相江夏文獻王、故太尉巴東忠烈公柳元景、故 司空 始興襄公沈慶之、故征西將軍洮陽肅侯宗愨を以て孝武廟庭に陪祭せしむ。庚子、桂陽王休範の第二子德嗣を立てて廬陵王と為し、侍中劉韞の第二子銑を立てて南豐王と為し、以て廬江昭王・南豐哀王の祀を奉ぜしむ。
五月丙辰、詔して宣太后崇寧陵の禁内に在る墳瘞の遷徙する者に葬直を給し、其の家を蠲復す。壬戌、太子詹事 袁粲 を尚書僕射と為す。
秋八月壬寅、中領軍沈攸之を行南兗州刺史と為し、衆を率いて北伐せしむ。
九月戊午、皇后六宮以下の雑衣千領・金釵千枚を以て、北伐の将士に賜う。冬十月壬午、新安王延年を改封して始平王と為す。辛丑、鎮西大将軍・西秦河二州刺史吐谷渾拾寅を征西大将軍と為す。
十一月、建安王休仁の第二子伯猷を立てて江夏王と為す。
是の歳、魏の皇興元年。
四年春正月丙辰朔、宮中に草を雨ふ。乙亥、零陵王司馬勖薨ず。
二月乙巳、左光禄大夫・開府儀同三司王玄謨薨ず。
三月、交州の人李長仁が州を占拠して叛いた。妖賊が広州を攻め、刺史羊希を殺したが、龍驤将軍陳伯紹がこれを討ち平らげた。
夏四月丙申、東海王褘を廬江王に、山陽王休佑を 晉 平王に改封した。
秋九月戊辰、黥刑と刖刑の制度を定める詔を下した。有司が奏上した。「今後、官の仗を奪い取り、邏司に抵抗して戦い、亭寺を攻め略奪し、吏人を傷害する者、並びに監司や将吏自らが強盗を働く者は、人数を限らず、全て旧制に従って斬刑とする。もし赦令に遇えば、両頬に『劫』の字を黥し、両脚の筋を断ち切り、交州・梁州・寧州に徒流する。五人以下でただ互いに脅迫して奪う者も、同様に『劫』の字を黥し、両脚の筋を断ち切り、遠州に徒流する。もし赦令に遇い、徒流の刑は免除されても、顔面に黥することは依然として行い、旧来通りに冶士に補する。家族が連座すべき者は、全て旧来通りに処罰する。」 しかし帝が崩御すると、この例は廃止された。庚午、帝は法駕を整えて東宮に行幸した。
冬十月癸酉朔、日蝕があった。諸州の兵を発して北伐した。
五年春正月癸亥、みずから藉田を耕した。乙丑、魏が青州を陥とし、刺史沈文秀を捕らえて帰った。
二月丙申、廬江王褘を車騎将軍・開府儀同三司・南 豫 州刺史とした。
夏六月辛未、 晉 平王休佑の子宣曜を南平王に立てた。
秋七月壬戌、輔国将軍を輔師将軍に改めた。
九月甲寅、長沙王纂の子延之を始平王に立てた。
冬十月丁卯朔、日蝕があった。
十一月丁未、魏の使いが来朝した。
十二月庚申、荊州・益州の五郡を分けて三巴 校尉 を置いた。
六年春正月乙亥、初めて二年ごとに南郊を祭り、一年ごとに明堂を祭る制度を定めた。
夏四月癸亥、皇子燮を 晉 熙王に立てた。
六月癸卯、王景文を尚書左僕射・揚州刺史とし、 袁粲 を右僕射とした。己未、臨賀郡を臨慶郡と改めた。
秋七月丙戌、臨慶王劉智井薨ず。
九月戊寅、総明観を立て、学士を徴して以て之を充す。東観祭酒・訪挙各一人を置き、挙士二十人を置き、儒・道・文・史・陰陽の五部学に分かつ。陰陽を言う者は遂に其の人無し。
冬十月辛卯、皇子劉賛を立てて武陵王と為す。
十二月癸巳、辺難未だ息まずを以て、父母隔たりて異域に在る者は、悉く婚宦せしむる制を為す。
七年春正月甲戌、散騎奏挙郎を置く。
二月癸丑、征西将軍・荊州刺史巴陵王劉休若、征西大将軍に進号し、及び征南大将軍・江州刺史桂陽王劉休範並びに開府儀同三司と為る。甲寅、南徐州刺史晋平王劉休佑薨ず。
三月辛酉、魏人聘問に来る。
夏五月戊午、 司徒 建安王劉休仁を鴆す。庚午、 袁粲 を 尚書令 と為し、褚彦回を右僕射と為す。丙戌、晋平王劉休佑を追免して庶人と為す。
秋七月丁巳、散騎奏挙郎を罷む。乙丑、江州刺史巴陵王劉休若に死を賜う。
八月戊子、皇子 劉躋 を以て江夏文献王劉義恭を継がしむ。庚寅、帝疾間う。戊戌、皇子劉准を立てて安成王と為す。
是歳、北魏孝文帝延興元年なり。
泰 豫 元年春正月甲寅朔、上疾未だ痊えざるを以て、故に元を改む。丁巳、巨人の跡西池の氷上に見ゆ。
夏四月己亥、上疾大いに漸す。江州刺史桂陽王劉休范に位 司空 を加え、劉勔を尚書右僕射と為し、蔡興宗を征西将軍・開府儀同三司・荊州刺史と為し、郢州刺史沈攸之安西将軍に進号す。 袁粲 ・褚彦回・劉勔・蔡興宗・沈攸之、閤に入り顧命を受く。是日、上景福殿に崩ず。時に年三十四。五月戊寅、臨沂県莫府山の高寧陵に葬る。
帝は読書を好み、文義を愛し、藩に在りし時、江左以来の文章志を撰し、又衛瓘の注したる『論語』二巻を続く。大位に即くに及び、旧臣才学の士多く引進せらる。末年は鬼神を好み、忌諱多く、言語文書に禍敗凶喪の疑わしき言有りて回避すべきものは、犯せば即ち戮を加う。「騧」の馬の字を「馬」の辺に「瓜」と改む。「騧」の字「禍」に似たるを以ての故なり。嘗て南苑を張永に借す。「且く三百年を与え、期尽きて更に請わん」と云う。宣陽門を白門と謂う。上は白門不祥を以て、之を諱む。尚書右丞江謐嘗て誤って犯す。上色を変えて曰く、「汝が家門を白せよ」と。路太后の屍を停むる漆床東宮より移し出づ。上宮に幸して之を見、怒り、中庶子を免じ、之に坐して死する者数十人。内外常に犯触を慮り、人自ら保たず。床を移し壁を修するに、先ず土神を祭り、文士をして祝策を為さしめ、大祭饗の如くす。
阮佃夫・楊運長・王道隆皆威権を擅にし、言いて詔勅と為す。郡守令長一欠十除し、内外混然たり。官は賄を以て命ぜられ、王・阮の家は公室より富めり。中書舎人胡母顥専権し、奏するに不可なること無し。時人の語に曰く、「禾絹眼を閉じて諾し、胡母大いに橐を張る」と。「禾絹」は上を謂う。泰始・泰 豫 の際に及び、左右旨を失えば、往々にして刳剒断截有り、禁中懍懍として刀剣を践むが若し。夜夢に 豫 章太守劉愔反す。郡に遣わして之を殺す。軍旅息まず、府蔵空虚たり。内外の百官並びに禄奉を断つ。朝に在りて官を造る者は皆市井の傭販の子なり。而して又小黄門をして殿内に銭を埋めしめて以て私蔵と為さしむ。蜜を以て鱁鮧を漬け、一食数升、臘肉を噉むこと常に二百臠に至る。奢費過度し、造制する毎に、必ず正御三十、副御・次副又各三十と為す。一物を須うれば、輒ち九十枚を造る。天下騒然たり。民命に堪えず。宋氏の業、此より衰う。
後廢帝
後廢帝は諱を昱、字を德融といい、明帝の長子である。大明七年正月辛丑、衛尉府に生まれた。帝の母は陳氏、李道兒の妾であったが、明帝がこれを納れたので、人々は帝を李氏の子と呼び、帝もまた自ら李將軍と称した。明帝の諸子は孕中に、皆『周易』で占い、即ち得た卦を小字としたので、帝の小字は慧震という。泰始二年、皇太子に立てられた。六年、東宮を出た。また太子が元正の朝賀に際し、袞冕九章衣を服することを定めた。明帝が崩じ、庚子、太子は皇帝の位に即き、大赦を行った。 尚書令 袁粲 ・護軍將軍褚彥回が共に朝政を輔け、班劍は旧例の通り殿中に入ることを許された。
六月乙巳、皇后を尊んで皇太后とし、皇后江氏を立てた。
秋七月戊辰、帝の生母である陳貴妃を皇太妃に拝した。
八月戊午、 中書監 ・左光祿大夫・開府儀同三司蔡興宗が薨じた。
冬十一月己亥、新たに除された郢州刺史劉彥節を尚書左僕射とした。
元徽元年春正月戊寅、大赦を行い元号を改めた。詔して元年以前に流徙・放逐された者は皆本貫に還ることを聴すと。魏の人が聘問に来た。
夏六月乙卯、壽陽に大水があった。
秋八月、都下は旱魃に見舞われた。庚午、陳留王曹銑が薨じた。
九月丁亥、衡陽王蕭嶷の子伯玉を南平王に立てた。
冬十二月癸卯朔、日蝕があった。乙巳、桂陽王劉休范の位を太尉に進めた。癸亥、前建安王の世子伯融を始安縣王に立てた。
二年夏五月壬午、江州刺史桂陽王劉休範が兵を挙げて反した。庚寅、内外戒厳を布き、中領軍劉勔・右衛將軍蕭道成を前鋒として南討させ、新亭に出て屯した。征北將軍張永は白下に屯し、前南兗州刺史沈懷明は石頭を戍り、衛將軍 袁粲 ・中軍將軍褚彥回は殿省に入って衛した。壬辰、賊は不意に至り、新亭の塁を攻めたが、蕭道成が拒撃してこれを大破した。越騎 校尉 張苟兒が劉休範を斬った。賊党の杜黑蠡・丁文豪は軍を分けて朱雀航に向かい、劉勔が賊を拒んだが敗北し、戦死した。右將軍王道隆は奔走し、害に遇った。張永は白下で潰え、沈懷明は石頭から奔散した。甲午、車騎典簽茅恬が東府を開いて賊を納れ、賊は中堂に入って屯したが、羽林監陳顯達が撃ってこれを大破した。丙申、張苟兒らがまた賊を破り、進んで東府城を平定し、群賊を梟禽した。丁酉、大赦を行い、戒厳を解いた。荊州刺史沈攸之・南徐州刺史建平王劉景素・郢州刺史 晉 熙王劉燮・湘州刺史王僧虔・雍州刺史張興世が並びに義兵を挙げて建鄴に赴いた。
六月癸卯、 晉 熙王劉燮が軍を遣わして尋陽を攻克し、江州が平定された。壬戌、輔師將軍を改めて輔國將軍に戻した。
秋七月庚辰、皇弟劉友を邵陵王に立てた。乙酉、南徐州刺史建平王劉景素の号を征北將軍・開府儀同三司に進めた。
九月丁酉、 袁粲 を 中書監 とし、 司徒 を領せしめた。護軍將軍褚彥回に 尚書令 を加えた。
冬十一月丙戌、帝は元服を加えた。
十二月癸亥、皇弟の躋を立てて江夏王とし、贊を武陵王とした。
三年春三月己巳、都下に大水があった。
夏六月、魏の使いが来て聘問した。
秋七月庚戌、 袁粲 を 尚書令 とした。
九月丙辰、征西大将軍河南王吐谷渾拾寅に車騎大将軍の号を進めた。
四年夏六月乙亥、蕭道成に尚書左僕射を加えた。
秋七月戊子、建平王景素が京城を拠りて反した。己丑、内外に厳戒態勢を布いた。 驍 騎将軍任農夫・冠軍将軍黄回を遣わして北討させ、蕭道成が諸軍を総統した。始安王伯融・都郷侯伯猷はともに死を賜った。乙未、京城を陥とし、景素を斬り、同逆の者は皆誅に伏した。
八月丁卯、皇弟の翽を立てて南陽王とし、嵩を新興王とし、禧を始建王とした。
九月戊子、 驍 騎将軍高道慶は罪あり、死を賜った。己丑、車騎将軍・揚州刺史安成王准に驃騎大将軍・開府儀同三司の号を進めた。
冬十月辛酉、王僧虔を尚書右僕射とした。
五年夏四月甲戌、 豫 州刺史阮佃夫・歩兵 校尉 申伯宗・朱幼が廃立を謀り、皆誅に伏した。
五月、地震があった。
六月甲戌、 司徒 左長史沈勃・ 散騎常侍 杜幼文・遊撃将軍孫超之・長水 校尉 杜叔文を誅した。
七月戊子の夜、帝は仁寿殿において 弑 せられ、時に年十五であった。己丑、皇太后の令により帝を貶して蒼梧郡王とし、丹陽秣陵県の郊壇の西に葬った。
初め、帝の生まれた夕べ、明帝が夢を見た。人が馬に乗っているが、馬には頭と後ろ足がなく、ある人が言うには「太子である」と。東宮に在った時、五、六歳にして漆塗りの帳竿をよじ登り、地面から一丈余り離れ、このようなことを半食の間ほど続けてようやく下りた。成長するにつれ、喜怒が節度を失い、左右の者が意に背くと手ずから撲打を加え、徒跣で蹲踞した。帝位を嗣いでからは、内には太后を畏れ、外には大臣を憚り、まだ思いのままには振る舞えなかった。元服を加えてから三年、外出を好み、単身で左右の者を率い、あるいは十里、二十里、あるいは市里に入り、無礼な罵りに遇うと悦んで受け入れた。四年、一日として出ない日はなく、左右の解僧智、張五児らと常に夜に出て承明門を開け、夕方に出て朝に戻り、朝に出て暮れに帰った。従う者は皆、鋌矛を執り、行き合う男女や犬馬牛驢に逢えば免れる者はなかった。人々は擾乱して懼れ、昼間も門を開かず、路上には行く人がいなかった。嘗て小袴を着け、衣冠を服さなかった。白棓が数十本あり、それぞれ名号があり、鉗、鑿、錐、鋸を左右から離さず、脳を撃ち、陰部を槌き、心臓を剖く誅罰を行い、日に数十回あった。常に臥した死体や流れる血を見て、その後で楽しんだ。左右の者で眉を顰める者を見ると、帝はその者を正立させ、矛で刺し貫かせた。曜霊殿の上に驢を数十頭飼い、自ら乗る馬は御床の側で飼った。右衛翼輦営の女子と私通し、毎に彼女に従って遊び、数千銭を持って酒肉の費用とした。外出して婚姻や葬送に逢うと、輙ち挽車の小児と群れ集まって飲酒し、歓適と為した。阮佃夫の腹心の者張羊は佃夫に委ね信じられていたが、佃夫が敗れると、叛いて逃げ、再び捕え得て、自ら承明門で車で轢き殺した。杜延載、杜幼文を殺し、自ら矛鋌を運び、手ずから臠割した。孫超に蒜の気有るを察し、腹を剖いてそれを見た。楯を執り馬を馳せ、自ら往って杜叔文を玄武北湖で刺した。孝武帝の二十八子のうち、明帝がその十六を殺し、残りは皆帝が殺した。呉興の沈勃は宝貨多く、往ってこれを劫い、刀を揮って独り前に進んだ。左右の者が未だ至らぬうちに、勃は時に喪に居り廬に在った。帝はこれを見ると、便ち鋌を投げたが、中たらず。勃は免れぬと知り、手ずから帝の耳を搏ち、唾を吐き罵って言うには、「汝の罪は桀・紂を踰え、屠戮する日遠からず」と。遂に害せられ、帝は自ら臠割した。露車一乗を制し、莑を施し、これに乗って出入りし、数十人に従われた。羽儀がこれを追うも、常に相及ばず。また各々禍を慮り、敢えて追わず、ただ部伍を整え、別の一処で瞻望するのみであった。凡そ諸々の鄙事は、過目すれば則ち能くし、銀を鍛え、衣を裁ち、帽を作るに、精絶ならざるはなかった。未だ嘗て箎を吹かずとも、管を執れば便ち韻を成した。天性殺すことを好み、一日事無きと、輙ち惨惨として楽しまず。内外憂惶し、夕べに及ばずして旦を待った。領軍将軍蕭道成と直閤将軍王敬則がこれを謀った。七月戊子、帝は微行して北湖に出で、単騎で先に走り、羽儀は及ばず。左右の張五児の馬が湖に墜ち、帝は怒り、自ら騎を馳せて馬を刺し、屠割した。左右と羌胡の伎を為して楽しんだ。また蛮岡で賭跳し、因って露車に乗り、再び鹵簿無く、青園尼寺に往った。晩に新安寺に至り狗を盗み、曇度道人の所でこれを煮て酒を飲んだ。楊玉夫は常に意を得ていたが、忽然として憎まれ遇い、輙ち切歯して言うには、「明日は小子を殺し、肝肺を取らん」と。この夜は七夕で、玉夫に織女の渡るのを伺わせ、己に報ぜしめようとした。因って内人と穿針を終え、大いに酔い、仁寿殿東阿の氈幄の中に臥した。帝の出入りに禁無く、王敬則は先に玉夫、陳奉伯、楊万年ら二十五人と結んだ。その夕べ、玉夫は帝の眠熟を候い、乙夜に至り、万年と共に氈幄内に入り、千牛刀を取ってこれを殺した。
順帝
順皇帝、諱は准、字は仲謨、小字は知観、明帝の第三子である。泰始五年七月癸丑に生まれた。七年、安成王に封ぜられた。帝の姿貌は端麗で華やか、眉目は画の如く、見る者は神人と為した。廃帝が即位すると、揚州刺史を加えられた。元徽二年、 都督 揚南 豫 二州諸軍事を加えられた。四年、驃騎大将軍に進号した。廃帝が殞ちると、蕭道成が太后の令を奉じて王を迎え、朝堂に入居させた。
昇明元年秋七月壬辰、皇帝即位し、大赦し、元徽五年を改めて升明元年と為した。甲午、蕭道成は出鎮して東城に在り、政を輔けた。荊州刺史沈攸之は車騎大将軍に進号し、蕭道成は 司空 、録尚書事となった。 袁粲 を 中書監 、 司徒 と為し、褚彦回を衛将軍と為し、劉彦節を 尚書令 と為し、中軍将軍を加えた。辛丑、王僧虔を尚書僕射と為した。癸卯、車駕太廟を謁した。
八月癸亥、 司徒 袁粲 は石頭に鎮した。戊辰、帝の生母陳昭華を皇太妃として拝んだ。庚午、蕭道成を驃騎大将軍、開府儀同三司と為し、録尚書は元の如し。
九月己酉、廬陵王暠薨じた。
十二月丁巳、荊州刺史沈攸之は兵を挙げ、執政に従わなかった。丁卯、蕭道成は入って朝堂を守り、侍中蕭嶷は東府に鎮した。戊辰、中外纂厳した。壬申、 司徒 袁粲 は石頭に拠り、道成を誅せんと謀ったが果たさず、旋って覆滅を見た。乙亥、王僧虔を左僕射と為し、王延之を右僕射と為した。呉郡太守劉遐は郡に拠り執政に従わず、張瑰に攻撃させて斬らせた。
閏月辛巳、屯騎 校尉 王宜興が執政に貳したため、誅せられた。癸巳、沈攸之は郢城を攻め、前軍長史柳世隆が固守した。己亥、中外戒厳し、蕭道成に黄鉞を仮した。乙巳、道成は出て新亭に頓した。
この歳、魏の太和元年。
二年春正月丁卯、沈攸之敗れた。己巳、華容県人が攸之の首を斬ってこれを送った。辛未、雍州刺史張敬児が江陵を克ち、荊州平らぐ。丙子、厳を解く。柳世隆を尚書右僕射と為した。蕭道成は旋って東府に鎮した。
二月庚辰、王僧虔を 尚書令 と為し、王延之を左僕射と為した。癸未、蕭道成に太尉を加授し、褚彦回を 中書監 、 司空 と為した。丙戌、撫軍将軍、揚州刺史晋熙王燮は中軍将軍に進号した。
三月己酉朔、日蝕有り。
夏四月、南兗州刺史黄回が執政に貳したため、死を賜った。
五月戊午、倭国王武を安東大将軍と為した。
六月丁酉、輔国将軍楊文弘を北秦州刺史と為し、武都王に封じた。
秋九月乙巳の朔、日蝕あり。丙午、太尉蕭道成に黄鉞・ 都督 中外諸軍事・太傅を加え、揚州牧を領せしめ、殊礼を賜う。揚州刺史晋熙王劉燮を以て 司徒 となす。
冬十月壬寅、皇后謝氏を立てる。
十一月、故武昌太守劉琨の子息劉頒を立てて南豊県王となす。癸亥、臨澧侯劉晃を誅す。甲子、南陽王 劉翽 を改封して随郡王となす。
十二月丙戌、皇后太廟に謁見す。
三年春正月辛亥、領軍將軍蕭賾に尚書右僕射を加え、中軍大将軍・開府儀同三司に進号す。
二月丙子、南 豫 州刺史邵陵王劉友薨ず。丙申、建陽門に地震あり。
三月癸卯の朔、日蝕あり。甲辰、蕭道成に相国を加え、百揆を総べ、十郡を封じて斉公と為し、九錫の礼を備う。庚戌、臨川王劉綽を誅す。
夏四月壬申、斉公蕭道成の爵を王に進む。壬午、安西将軍武陵王劉賛薨ず。辛卯、帝位を斉に禅る。壬辰、東邸に退く。この日、王敬則兵を率いて殿庭に陣し、帝なお内に居るも、これを聞き、仏蓋の下に逃る。太后懼れ、自ら閹豎を帥いて索め、板輿に扶せしめて幸す。黄門或いはこれを促すに、帝怒り、刀を抽いてこれを投じ、項に中りて殞る。帝既に出で、宮人行哭し、俱に遷る。羽儀を備え、画輪車に乗り、東掖門を出づ。帝を封じて汝陰王と為し、丹徒宮に居らしめ、斉兵これを衛す。建元元年五月己未、帝外に馬を馳せる者あるを聞き、乱作を懼る。監人王を殺し、疾を以て赴く。斉人これを徳とし、邑を以て賞す。六月乙酉、遂寧陵に葬る。諡して順帝と曰う。宋の王侯は少長無く皆幽死す。
【論】
論じて曰く、文帝は扆を負いて南面し、実に人君の美有り。経国の義は弘けれども、隆家の道は足らず。彭城王劉義康は古を窺わず、本より卓爾の資無く、徒らに昆弟の義深きを見て、未だ君臣の礼異なるを識らず。この家情を以て、これを国道に行えば、主忌むもなお犯し、恩離るるも未だ悟らず。以て陵逼の愆を致し、遂に滅親の禍を成す。端を開き隙を樹て、後人に垂る。明帝は猜忍の情に因り、已に行わるる典に拠り、洪枝を翦落し、慮を待たずと願う。既にして本根庇う莫く、幼主孤立し、下に磐石の托無く、上に累卵の危有り。方に璽を蔵め紱を懐き、魚服して反るを忘れ、危冠短制し、匹馬孤征し、以て覆亡に至るは、理固然なり。神器は勢弱きを以て傾移し、霊命は楽推に随いて回改す。これ霜を履むに漸有るに蓋し、夫れ豈に一夕ならんや。何ぞ区々たる汝陰の揖譲のみに止まらん。