南史

巻第四 斉本紀上 第四

巻第四 斉本紀上 第四

南史

巻第四 斉本紀上 第四

高帝

原文高帝

斉の太祖高皇帝は諱いみなを道成、字あざなを紹伯、小字を闘将といい、姓は蕭氏である。その先祖は本来、東海郡蘭陵県中都郷中都里に居住していたが、晋の元康元年、恵帝が東海郡を分割して蘭陵郡を設置したため、再び蘭陵郡の人となった。中朝(西晋)が乱れて喪われると、皇高祖である淮陰県令の蕭整(字は公齊)が長江を渡り、晋陵郡武進県の東城里に居住した。江左に寓居する者は、皆、本来の籍貫地を僑置し、これに「南」の字を加えたので、さらに南蘭陵の人となったのである。

原文齊太祖高皇帝諱道成,字紹伯,小字鬥將,姓蕭氏。其先本居東海蘭陵縣中都鄉中都里,晉元康元年,惠帝分東海郡為蘭陵,故復為蘭陵郡人。中朝喪亂,皇高祖淮陰令整,字公齊,過江居晉陵武進縣之東城里,寓居江左者,皆僑置本土,加以「南」名,更為南蘭陵人也。

皇曾祖の蕭雋(字は子武)は、即丘県令の官位にあった。皇祖の蕭楽子(字は閨子)は、輔国参軍の官位にあり、宋の昇明年間に太常を追贈された。皇考の蕭承之(字は嗣伯)は、若くして大志を持ち、才力は人に優れ、宋に仕えて漢中太守となった。梁州平定の功績により龍驤将軍を加えられ、後に南泰山太守となり、晋興県五等男に封ぜられ、右軍将軍に転じた。元嘉二十四年に死去し、梁州の民は彼を慕い、峨公山に廟を立てて祭祀した。昇明二年、散騎常侍・金紫光禄大夫を追贈された。

原文皇曾祖雋,字子武,位即丘令。皇祖樂子,字閨子,位輔國參軍,宋升明中贈太常。皇考承之,字嗣伯,少有大志,才力過人,仕宋為漢中太守。梁州之平,以功加龍驤將軍,後為南泰山太守,封晉興縣五等男,遷右軍將軍。元嘉二十四年殂,梁土思之,於峨公山立廟祭祀。昇明二年,贈散騎常侍、金紫光祿大夫。

高帝は宋の元嘉四年(丁卯の年)に生まれた。姿形は英邁で異なり、龍のような額に鐘のような声、身長は七尺五寸、鱗のような文様が体に遍くあった。旧宅は武進県にあり、宅の南に一本の桑の木があった。根元から三丈も聳え、横に四本の枝を生じ、その形状は華蓋のようであった。帝が数歳の時、その下で遊ぶのを好んだ。従兄の敬宗が言うには、「この木は汝のために生じたのだ」と。儒生の雷次宗が鶏籠山に学舎を立てると、帝は十三歳でそこに赴き、『礼』と『左氏春秋』を受講した。

原文高帝以宋元嘉四年丁卯歲生,姿表英異,龍顙鐘聲,長七尺五寸,鱗文遍體。舊宅在武進縣,宅南有一桑樹,擢本三丈,橫生四枝,狀似華蓋。帝年數歲,好戲其下,從兄敬宗曰:「此樹為汝生也。」儒生雷次宗立學於雞籠山,帝年十三,就受《禮》及《左氏春秋》。

元嘉十七年、宋の大将軍彭城王劉義康が罷免され、豫章に徙された時、皇考が兵を率いて防衛に当たり、帝は学業を捨てて南行した。十九年、竟陵の蛮が動乱を起こすと、宋の文帝は帝に偏軍を率いて沔水以北の蛮を討たせた。二十三年、雍州刺史蕭思話が襄陽に鎮すると、帝を従えるよう上奏し、初めて左軍中兵参軍に任じた。二十九年、偏軍を率いて仇池を征伐し、その武興・蘭皋の二つの堡塁を破り、ついに谷口から関中に入った。長安まで八十里に至らないところで、梁州刺史劉秀之が司馬の馬注を派遣して帝を助け、談提城を攻め落とした。魏の救兵が到着し、帝の軍は疲弊して兵力も少なく、また文帝の崩御を聞いたため、城を焼いて南鄭に引き揚げた。

原文十七年,宋大將軍彭城王義康被黜,徙豫章,皇考領兵防守,帝舍業南行。十九年,竟陵蠻動,宋文帝遣帝領偏軍討沔北蠻。二十三年,雍州刺史蕭思話鎮襄陽,啟帝自隨,初為左軍中兵參軍。二十九年,領偏軍征仇池,破其武興、蘭皋二壘,遂從谷口入關。未至長安八十里,梁州刺史劉秀之遣司馬馬注助帝,攻拔談提城。魏救兵至,帝軍力疲少,又聞文帝崩,乃燒城還南鄭。

後に晋興県五等男の爵位を襲封した。建康令となり、有能な名声があった。少府の蕭恵開は古くから人を見抜く鑑識眼があり、人に言った。「昔、魏武(曹操)が洛陽北部尉であった時、人々はその英邁さに敬服した。今、蕭建康(蕭道成)を見るに、ただ彼を凌駕するのみであろう」と。

原文後襲爵晉興縣五等男。為建康令,有能名。少府蕭惠開雅有知人鑒,謂人曰:「昔魏武為洛陽北部時,人服其英,今看蕭建康,但當過之耳。」

宋の明帝が即位すると、右軍将軍となった。当時、四方で反乱が起こり、会稽太守の尋陽王劉子房および東方の諸郡が皆、兵を挙げた。明帝は帝に輔国将軍を加えて東方を討伐させた。晋陵に至り、一日で賊の十二の堡塁を破り、軍を分けて諸県を平定した。また、徐州刺史薛安都が彭城を拠点として魏に帰順し、甥の薛索児を派遣して淮陰を攻撃すると、再び帝を征してこれを撃破し、索児は鍾離に逃走した。帝は黯黮まで追撃して引き揚げた。驍騎将軍に任じられ、西陽県侯に封ぜられ、巴陵王衛軍司馬に転じ、会稽に鎮する王に随従した。

原文宋明帝即位,為右軍將軍。時四方叛,會稽太守尋陽王子房及在東諸郡皆起兵。明帝加帝輔國將軍,東討。至晉陵,一日破賊十二壘,分軍定諸縣。及徐州刺史薛安都據彭城歸魏,遣從子索兒攻淮陰,又征帝討破之,索兒走鍾離,帝追至黯黮而還。除驍騎將軍,封西陽縣侯,遷巴陵王衛軍司馬,隨鎮會稽。

江州刺史の晋安王劉子勲が、臨川内史張淹を派遣して鄱陽から山道を通って三呉に入ろうとすると、明帝は帝にこれを討伐させた。当時、朝廷の兵器や甲冑は全て南方討伐に充てられており、帝の軍容は乏しかった。そこで棕櫚の皮を編んで馬具装を作り、竹を折って寄生(馬具の装飾)とし、夜に火を挙げて進軍した。賊はこれを見て恐れ、戦わずして逃走した。帰還すると、桂陽王征北司馬・南東海太守に任じられ、南徐州の事務を代行した。張永らが彭城で敗北すると、淮南は孤立して弱体化したため、帝を仮の冠軍将軍・持節・都督北討前鋒諸軍事とし、淮陰に鎮守させた。南兗州刺史に転じ、五州の都督を加えられ、北討都督の任は以前の通りであった。

原文江州刺史晉安王子勳遣臨川內史張淹自鄱陽嶠道入三吳,明帝遣帝討之。時朝廷器甲皆充南討,帝軍容寡闕,乃編棕皮為馬具裝,折竹為寄生,夜舉火進軍。賊望見恐懼,未戰而走。還,除桂陽王征北司馬、南東海太守,行南徐州事,及張永等敗于彭城,淮南孤弱,以帝為假冠軍將軍、持節、都督北討前鋒諸軍事,鎮淮陰。遷南兗州刺史,加督五州,督北討如故。

明帝は、帝に人臣の相ではないところがあるのを嫌い、世間に「帝が天子となるであろう」との流言が広まると、明帝はますます疑念を深め、冠軍将軍の呉喜を派遣して軍を破釜に留め置かせ、自ら銀の壺に入れた酒に封印をして帝に賜った。帝は軍服を着て門を出て迎えたが、毒殺を恐れて飲もうとせず、逃亡しようとした。喜が誠意を告げ、先にそれを飲んだので、帝は直ちに酌んで飲んだ。喜が帰還すると、明帝の心はようやく悦んだ。

原文明帝嫌帝非人臣相,而人間流言,帝當為天子,明帝愈以為疑,遣冠軍將軍吳喜留軍破釜,自持銀壺酒封以賜帝。帝戎服出門迎,懼鴆,不敢飲,將出奔,喜告以誠,先飲之,帝即酌飲之。喜還,明帝意乃悅。

泰始七年、都に召還された。部下は征に応じるなと勧めたが、帝は言った。「主上は自ら諸弟を誅殺しているが、これは太子が幼弱なため、万歳(崩御)後のことを計っているのであって、他の一族に関わることではない。ただ速やかに出発すべきであり、事を緩めれば疑われるであろう。今、骨肉が互いに害し合っている。これはもとより国運が長く続く兆しではなく、禍難が起こらんとしている。まさに卿らと力を合わせる時である」と。都に至ると、散騎常侍・太子左衛率に任じられた。明帝が崩御すると、遺詔により右衛将軍となり、衛尉を兼任し、兵五百人を加えられ、尚書令の袁粲・護軍の褚彦回・領軍の劉勔と共に機密事務を執掌した。まもなく衛尉の兼任を解かれ、侍中を加えられ、石頭戍軍事を兼任した。

原文泰始七年,征還都,部下勸勿就征。帝曰:「主上自誅諸弟,為太子幼弱,作萬歲後計,何關他族。惟應速發,事緩當見疑。今骨肉相害,自非靈長之運,禍難將興,方與卿等戮力耳。」至,拜散騎常侍、太子左衛率。明帝崩,遺詔為右衛將軍,領衛尉,加兵五百人,與尚書令袁粲、護軍褚彥回、領軍劉勉共掌機事。尋解衛尉,加侍中,領石頭戍軍事。

元徽二年五月、江州刺史の桂陽王劉休範が尋陽で挙兵した。朝廷は惶恐した。帝と褚彦回らが中書省に集まって協議したが、発言する者はいなかった。帝は言った。「昔、上流で謀反を企てた者は、皆、行動が遅滞したために敗れた。休範は必ずや過去の失敗を深く戒め、軽兵を率いて急ぎ下り、我が無備に乗じるであろう。新亭に駐屯してその鋒先に当たることを請う」と。そこで筆を求めて意見を書き下ろすと、残りの者も皆、同意を注記した。中書舎人の孫千齢は休範と密約があったため、ただ一人、「旧例に従い軍を派遣して梁山を占拠すべきである」と言った。帝は厳しい顔色で言った。「賊は今や既に近づいている。梁山にどうして到達できようか!新亭は既に軍事上の要衝であり、願わくばここで死をもって国に報いんとするのみである」と。そこで単車に乗り、白服を着て新亭に出た。帝は使持節・都督征討諸軍事・平南将軍を加えられ、鼓吹一部を加えられた。新亭の城塁を築くことが未だ完了しないうちに、賊の前軍が既に到着した。帝はちょうど衣を解き、高く臥して、衆心を安んじた。そこで白虎幡を求め、西の城壁に登り、寧朔将軍の高道慶・羽林監の陳顕達・員外郎の王敬則に命じて、舟を浮かべて賊と水戦させ、これを大破した。未の刻(午後2時頃)、張敬児が休範の首を斬ったが、朝廷軍も賊軍も共に知らなかった。その別動隊の将帥である杜黒蠡が東の堡塁を急攻した。帝は身を挺して馬上に上がり、数百人を率いて出戦し、黒蠡と対峙して戦った。昼過ぎから翌朝の明け方まで、矢石が止むことがなかった。その夜は大雨で、鼓や叫び声が互いに聞こえなくなった。将士は数日間寝食ができず、軍中の馬が夜驚きし、城内では乱れて走り回った。帝は燭を執って端坐し、声を厲してこれを制止した。このようなことが数度あった。

原文元徽二年五月,江州刺史桂陽王休范舉兵于尋陽,朝廷惶駭,帝與褚彥回等集中書省計議,莫有言者。帝曰:「昔上流謀逆,皆因淹緩以敗,休範必遠懲前失,輕兵急下,乘我無備,請頓新亭以當其鋒。」因索筆下議,餘並注同。中書舍人孫千齡與休範有密契,獨曰:「宜依舊遣軍據梁山。」帝正色曰:「賊今已近,梁山豈可得至!新亭既是兵沖,所欲以死報國耳。」乃單車白服出新亭。加帝使持節、都督征討諸軍事、平南將軍,加鼓吹一部。築新亭城壘未畢,賊前軍已至,帝方解衣高臥,以安眾心。乃索白虎幡,登西垣,使甯朔將軍高道慶、羽林監陳顯達、員外郎王敬則,浮舸與賊水戰,大破之。未時,張敬兒斬休范首,台軍及賊眾俱不知。其別率杜黑蠡急攻東壘,帝挺身上馬,帥數百人出戰,與黑蠡拒戰,自晡達明旦,矢石不息。其夜大雨,鼓叫不復相聞。將士積日不得寢食,軍中馬夜驚,城內亂走。帝執燭正坐,厲聲呵止之,如是者數四。

賊の将帥である丁文豪が伏兵を設け、皁莢橋で朝廷軍を破り、そのまま朱雀航まで進み、王道隆と劉勔は共に戦死した。初め、劉勔はその志を高尚にし、園宅を造ることに託けて「東山」と名付け、時務を甚だしく軽んじていた。帝は彼に言った。「将軍は顧命の重責を負っている。これは艱難の日であるのに、深く悠長さを尊び、羽翼(補佐)を廃し省いている。一朝事が至れば、後悔しても及ばないであろう」と。勔は受け入れず、ついに敗れた。賊が杜姥宅まで進むと、車騎典簽の茅恬が東府を開いて賊を迎え入れ、冠軍将軍の沈懐明は石頭から敗走し、張永は白下で潰走し、宮中では新亭も陥落したと伝えられ、太后は蒼梧王(後廃帝)の手を執って泣いて言った。「天下の事は敗れた」と。帝は軍主の陳顕達・任農夫・張敬児・周盤龍らを派遣し、石頭から淮水を渡り、間道を通って承明門から入り、宮闕を守衛させた。

原文賊帥丁文豪設伏,破台軍於皁莢橋,直至朱雀航,王道隆、劉勉並戰沒。初,勉高尚其意,托造園宅,名為「東山」,頗忽時務。帝謂曰:「將軍以顧命之重,此是艱難之日,而深尚從容,廢省羽翼,一朝事至,悔可追乎!」勉不納,竟敗。及賊進至杜姥宅,車騎典簽茅恬開東府納賊,冠軍將軍沈懷明於石頭奔散,張永潰于白下,宮內傳新亭亦陷,太后執蒼梧王手泣曰:「天下事敗矣。」帝遣軍主陳顯達、任農夫、張敬兒、周盤龍等從石頭濟淮,間道自承明門入衛宮闕。

時に休范の典簽許公與は詐りて休範が新亭に在ると称し、士庶は惶惑し、壘に詣でて休範に赴かんと期し、名を投ずる者数千に及び、至るに、乃ち是れ帝なりき。随うて得て輒ち之を焼く。城の北に登りて謂ひて曰く、「劉休范父子は先だって昨既に皆已に死し、戮屍は南岡の下に在り、身は蕭平南なり、諸君善く見観せよ。汝等の名は皆已に焚除せり、懼るる勿れ」と。台は衆軍を分遣して賊を撃ち平らげ、帝は旅を振ひ凱歌して入る。百姓は道に縁りて聚り観て曰く、「国家を全うする者は、此の公なり」と。帝は袁粲・褚彥回・劉彥節と咎を引き職を解かんとす、許さず。散騎常侍・中領軍・都督・南兗州刺史・鎮軍將軍に遷り、爵を進めて公と為す。袁粲・褚彥回・劉彥節等と更日に直に入り事を決し、「四貴」と号す。

原文時休范典簽許公與詐稱休範在新亭,士庶惶惑,詣壘期赴休範,投名者千數,及至,乃是帝。隨得輒燒之。登城北謂曰:「劉休范父子先昨皆已死,戮屍在南岡下,身是蕭平南,諸君善見觀。汝等名皆已焚除,勿懼也。」台分遣眾軍擊平賊,帝振旅凱入。百姓緣道聚觀,曰:「全國家者,此公也。」帝與袁粲、褚彥回、劉彥節引咎解職,不許。遷散騎常侍、中領軍、都督、南兗州刺史、鎮軍將軍,進爵為公。與袁粲、褚彥回、劉彥節等更日入直決事,號為「四貴」。

休范平らぎし後、蒼梧王漸く凶暴を行ひ、屡ひ帝を害せんと欲し、嘗て数十人を率ひて直ちに鎮軍府に入る。時に暑熱なり、帝は晝臥して裸袒す、蒼梧は帝を室内に立たしめ、腹に画きて射的と為し、自ら満を引き、将に之を射んとす。帝は神色変らず、板を斂めて曰く、「老臣罪無し」と。蒼梧の左右王天恩諫めて曰く、「領軍は腹大なり、是れ佳き射堋なり、而して一箭にして便ち死せば、後復た射る無からん、雹箭を以て之を射るに如かず」と。乃ち雹箭を取り、一発にして即ち帝の臍に中つ。蒼梧は弓を地に投げ、大笑して曰く、「此の手如何」と。時に建平王景素は朝野の帰心と為り、潜かに自全の計を為し、誠を帝に布く、帝は拒みて納れず。景素尋いで兵を挙ぐ、帝は出でて玄武湖に屯し、事平らぎて乃ち還る。

原文休范平後,蒼梧王漸行凶暴,屢欲害帝,嘗率數十人直入鎮軍府。時暑熱,帝晝臥裸袒,蒼梧立帝於室內,畫腹為射的,自引滿,將射之。帝神色不變,斂板曰:「老臣無罪。」蒼梧左右王天恩諫曰:「領軍腹大,是佳射堋,而一箭便死,後無復射,不如以雹箭射之。」乃取雹箭,一發即中帝臍。蒼梧投弓於地,大笑曰:「此手何如?」時建平王景素為朝野歸心,潛為自全計,布誠於帝,帝拒而不納。景素尋舉兵,帝出屯玄武湖,事平乃還。

帝の威名既に重く、蒼梧は深く相猜忌し、木を刻みて帝の形と為し、腹に画きて射堋と為し、自ら之を射り、又左右に命じ、中つる者に賞を加ふ、皆能く中つる莫し。時に帝は領軍府に在り、蒼梧は自ら来りて之を焼き、冀くは帝の出づるを以て、因りて難を作らんとす、帝は堅く臥して動かず。蒼梧益々忿恚を懐き、見る所の物、之を呼んで帝と為す。手を以て自ら鋋を磨くを加へ、曰く、「明日当に刃を以て蕭道成に加へん」と。陳太妃之を罵りて曰く、「蕭道成は国に大功有り、今之を害せば、誰か汝が為に力を尽くさん」と。故に止む。高帝は袁・褚と謀りて廃立せんとす、皆見従せられず。

原文帝威名既重,蒼梧深相猜忌,刻木為帝形,畫腹為射堋,自射之,又命左右,射中者加賞,皆莫能中。時帝在領軍府,蒼梧自來燒之,冀帝出,因作難,帝堅臥不動。蒼梧益懷忿恚,所見之物,呼之為帝。加以手自磨鋋,曰:「明日當以刃蕭道成。」陳太妃罵之曰:「蕭道成有大功于國,今害之,誰為汝盡力?」故止。高帝謀與袁褚廢立,皆不見從。

五年七月戊子、楊玉夫等は直合將軍王敬則と通謀し蒼梧を弑す。首を齎し、左右陳奉伯をして衣袖の中に蔵めしめ、常の行法に依りて敕と称し承明門を開き、出でて囊に之を貯へ、以て敬則に与ふ。敬則は馳せて領軍府に至り、門を叩き大呼し、自ら帝に報ずと言ふ、門猶開かず、敬則は門の窐より首を以て帝に見え、帝猶信ぜず、乃ち牆上より其の首を投げ進む、帝は水を索めて洗ひ視、敬則乃ち垣を踰えて入る。帝は跣で出づ、敬則叫びて曰く、「事平らげり」と。帝乃ち戎服し、常に騎する所の赤馬に乗り、夜に殿中に入る、殿中驚怖す;蒼梧の死を知るに及び、咸に万歳と称す。帝践阼に至り、此の馬を「龍驤赤」と号す。明旦、袁粲・褚彥回・劉彥節を召し入れて西鍾の槐樹の下に会し計議す。帝は事を彥節に譲る、彥節未だ答へず。帝の須髯尽く張り、眼光電の如し。次に袁粲に譲る、又受けず。敬則乃ち刀を抜き、床側に在りて躍り衆を麾ひて曰く、「天下の事は、皆応に蕭公に関すべし、敢へて一言を開く者有らば、血敬則の刀を染めん」と。仍りて虎賁・剣戟・羽儀を呼び、手ずから白紗帽を取りて帝の首に加へ、帝に即位せしめ、曰く、「今日誰か復た敢へて動かん、事は熱に及ぶを須ふ」と。帝は正色して之を呵して曰く、「卿都て自ら解せず」と。粲は言有らんと欲す、敬則又之を叱す、乃ち止む。帝乃ち議を下し、法駕を備へ、東城に詣で、順帝を迎へ立てしむ。是に於て長刀を以て粲・彥節等を遮り、色を失して去る。甲午、帝は東府に移鎮し、袁粲・褚彥回・劉彥節と各甲仗五十人を以て殿に入る。丙申、侍中・司空・録尚書事・驃騎大將軍を加へられ、竟陵郡公に封ぜられ、油幢絡車を給ひ、班劍三十人を賜ふ。帝固より上臺を辞し、即ち驃騎大將軍・開府儀同三司を以て授けらる。

原文五年七月戊子,楊玉夫等與直合將軍王敬則通謀弑蒼梧。齎首,使左右陳奉伯藏衣袖中,依常行法稱敕開承明門,出囊貯之,以與敬則。敬則馳至領軍府,叩門大呼,自言報帝,門猶不開,敬則自門窐中以首見帝,帝猶不信,乃於牆上投進其首,帝索水洗視,敬則乃踰垣入。帝跣出,敬則叫曰:「事平矣。」帝乃戎服,乘常所騎赤馬,夜入殿中,殿中驚怖;及知蒼梧死,咸稱萬歲。至帝踐阼,號此馬為「龍驤赤」。明旦,召袁粲、褚彥回、劉彥節入會西鍾槐樹下計議。帝以事讓彥節,彥節未答。帝須髯盡張,眼光如電。次讓袁粲,又不受。敬則乃拔刀,在床側躍麾眾曰:「天下之事,皆應關蕭公,敢有開一言者,血染敬則刀!」仍呼虎賁劍戟羽儀,手自取白紗帽加帝首,令帝即位,曰:「今日誰敢復動,事須及熱。」帝正色呵之曰:「卿都不自解。」粲欲有言,敬則又叱之,乃止。帝乃下議,備法駕,詣東城,迎立順帝。於是長刀遮粲、彥節等,失色而去。甲午,帝移鎮東府,與袁粲、褚彥回、劉彥節各甲仗五十人入殿。丙申,加侍中、司空、錄尚書事、驃騎大將軍,封竟陵郡公,給油幢絡車,班劍三十人。帝固辭上臺,即授以驃騎大將軍、開府儀同三司。

十二月、荊州刺史沈攸之反し、太后の詔已に都に下ると称す。丁卯、帝は朝堂に入居し、諸将に命じて西討せしめ、平西將軍黃回を都督前驅と為す。先づ是れ、太后の兄の子前湘州刺史王蘊は、母の喪に遭ひ任を罷められ、還りて巴陵に至り、舟を停めて攸之と密謀し、乃ち下りて郢州えいしゅうに達す。武帝時に郢州長史たり、蘊は武帝の出でて弔ふを伺ひ、因りて乱を作し、郢城を拠る。武帝之を知り、出でず。蘊は還りて東府の前に至り、又期して高帝に見えんとす、帝又出でて弔はず。再び計行はれず、外謀愈々固し。司徒袁粲・尚書令劉彥節は帝の威権稍々盛んなるを見、自ら安からざるを慮り、蘊及び黃回等と相結び事を挙げんとす、殿内の宿衛主帥協同せざる莫し。攸之の反問初めて至るに及び、帝は石頭に往き粲に詣で謀る、粲は疾と称して相見えず、壬申の夜を克ちて兵を起こし石頭を拠る。其の夜丹陽丞王遜変を告ぐ。彥節の従弟領軍韞及び直合將軍卜伯興等は兵を厳しくして内応と為す、帝は王敬則に命じて宮内に於て之を誅せしむ。諸将を遣はして石頭を攻めしむ、王蘊は数百の精手を将ひ、甲を帯びて粲に赴く、城門已に閉ざされ、官軍又至る、乃ち散ず。衆軍石頭を攻め、粲を斬り、彥節は額擔湖に走り、蘊は鬥場に逃ぐ、並びに禽へ斬らる。粲の典簽莫嗣祖は粲と謀を同くし、蘊の嬖人張承伯は蘊を蔵匿す、高帝亦並びに赦して之を用ふ。時に黃回は新亭に頓し、石頭已に下るを聞き、因りて救援と称す、高帝知りて言はず、之を撫すること愈々厚く、回を西上せしめ、涕を流して別る。

原文十二月,荊州刺史沈攸之反,稱太后詔己下都。丁卯,帝入居朝堂,命諸將西討,平西將軍黃回為都督前驅。先是,太后兄子前湘州刺史王蘊,遭母喪罷任,還至巴陵,停舟與攸之密謀,乃下達郢州。武帝時為郢州長史,蘊伺武帝出吊,因作亂,據郢城。武帝知之,不出。蘊還至東府前,又期見高帝,帝又不出吊。再計不行,外謀愈固。司徒袁粲、尚書令劉彥節見帝威權稍盛,慮不自安,與蘊及黃回等相結舉事,殿內宿衛主帥無不協同。及攸之反問初至,帝往石頭詣粲謀,粲稱疾不相見,克壬申夜起兵據石頭。其夜丹陽丞王遜告變。彥節從弟領軍韞及直合將軍卜伯興等嚴兵為內應,帝命王敬則于宮內誅之。遣諸將攻石頭,王蘊將數百精手,帶甲赴粲,城門已閉,官軍又至,乃散。眾軍攻石頭,斬粲,彥節走額擔湖,蘊逃鬥場,並禽斬之。粲典簽莫嗣祖同粲謀,蘊嬖人張承伯藏匿蘊,高帝亦並赦而用之。時黃回頓新亭,聞石頭已下,因稱救援,高帝知而不言,撫之愈厚,遣回西上,流涕告別。

二年正月、沈攸之平らぐ。二月、宋帝は高帝を太尉に進め、十六州諸軍事を都督せしむ、高帝は表して黄鉞を送る。三月己酉、班劍四十人・甲仗百人の殿入を増す。丙子、羽葆・鼓吹を加ふ。大明・泰始以来、相承きて奢侈し、百姓俗を成す、高帝の政を輔くるに及び、禦府を罷むるを奏し、二尚方の諸の飾玩を省く、是に至り、又表を上りて人間の華偽雑物を禁ず、凡そ十七条。其中宮及び諸王の服用は、旧例に依るも、亦詳なる制を請ふ。

原文二年正月,沈攸之平。二月,宋帝進高帝太尉,都督十六州諸軍事,高帝表送黃鉞。三月己酉,增班劍四十人、甲仗百人入殿。丙子,加羽葆、鼓吹。大明、泰始以來,相承奢侈,百姓成俗,及高帝輔政,奏罷禦府,省二尚方諸飾玩,至是,又上表禁人間華偽雜物,凡十七條。其中宮及諸王服用,雖依舊例,亦請詳制。

九月丙午、帝に仮黄鉞・都督中外諸軍事・太傅を加へ、揚州牧を領し、剣履上殿、入朝趨らず、贊拜名を称せず、左右の長史・司馬・從事中郎・掾・属各四人を置く。固より辞し、詔を遣はして敦勸す、乃ち黄鉞を受け、殊礼を辞す。甲寅、三望車を給ふ。

原文九月丙午,加帝假黃鉞、都督中外諸軍事、太傅,領揚州牧,劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名,置左右長史、司馬、從事中郎、掾、屬各四人。固辭,詔遣敦勸,乃受黃鉞,辭殊禮。甲寅,給三望車。

三年正月乙巳、高帝は表して百姓の逋責を蠲す。丙辰、前部羽葆・鼓吹を加ふ。丁巳、太傅府に命じて旧に依り辟召せしむ。丁卯、高帝に甲仗五百人を給ひ、殿省に出入せしむ。甲午、前命を重申し、剣履上殿、入朝趨らず、贊拜名を称せず。三月甲辰、宋帝は詔して帝の位を相国に進め、百揆を総べ、十郡を封じて斉公と為し、九錫の礼を備へ、遠遊冠を加へ、位を諸侯王の上にし、相国緑綟綬を加ふ。甲寅、備物典禮を以て進ましむるを遣はし、策して曰く。

原文三年正月乙巳,高帝表蠲百姓逋責。丙辰,加前部羽葆、鼓吹。丁巳,命太傅府依舊辟召。丁卯,給高帝甲仗五百人,出入殿省。甲午,重申前命,劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名。三月甲辰,宋帝詔進帝位相國,總百揆,封十郡為齊公,備九錫禮,加遠遊冠,位在諸侯王上,加相國綠綟綬。甲寅,使以備物典禮進,策曰:

又公に九錫を加ふ、其れ後命を敬聴せよ。

原文又加公九錫,其敬聽後命:

高帝は三度辞退したが、公卿が強く勧めて固く請うたので、ついにこれを受けた。丁巳の日、国内の殊死しゅし以下の罪人を赦す令を下した。宋の皇帝は詔して、斉公に十郡の外は、適宜に除用することを許した。斉国が初めて建てられたので、銭五百万、布五千匹、絹五千匹を与えた。太尉左長史の王儉を尚書右僕射とし、吏部を領せしめた。

原文高帝三讓,公卿敦勸固請,乃受之。丁巳,下令赦國內殊死以下。宋帝詔齊公十郡之外,隨宜除用。以齊國初建,給錢五百萬、布五千疋、絹五千疋。以太尉左長史王儉為尚書右僕射,領吏部。

四月癸酉の日、宋の皇帝はまた詔して斉公を王に進め、豫州の南梁・陳・潁川・陳留、南兗州の盱眙・山陽・秦・広陵・海陵・南沛を増やし、王の封を二十郡とした。司空の褚彦回を使者として策を奉じ璽綬じじゅを授けさせ、王社を改めて立て、その他は従前の通りとした。丙戌の日、斉王に冕十二旒を用い、天子の旌旗を立て、出入りに警蹕を設け、金根車に乗り、六馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭・雲罕を置き、楽舞は八佾とし、鍾虡宮懸を設け、王世子を太子とし、王女・王孫の爵命は、すべて旧儀の通りとすることを命じた。

原文四月癸酉,宋帝又詔進齊公為王,以豫州之南梁陳潁川陳留、南兗州之盱眙山陽秦廣陵海陵南沛增王封為二十郡。使司空褚彥回奉策授璽紱,改立王社,餘如故。丙戌,命齊王冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭、雲罕,樂舞八佾,設鍾虡宮縣,王世子為太子,王女、王孫爵命,一如舊儀。

辛卯の日、宋の皇帝は歴数が斉にあるとして、ついに位を禅る詔を下し、この日東邸に退いた。壬辰の日、使者を遣わして策を奉り、言うには、

原文辛卯,宋帝以歷數在齊,乃下詔禪位,是日遜于東邸。壬辰,遣使奉策曰:

高帝は固く辞退したが、宋朝の王公以下陳留王の劉粲らが門に詣でて陳請し、帝はなお許さなかった。斉の世子と卿士以下が固く請うた。兼太史令・将作匠の陳文建が符瑞を奏上し、それに因って言うには、漢は建武から建安二十五年まで百九十六年で魏に禅り、魏は黄初から咸熙二年まで四十六年で晋に禅り、晋は泰始から元熙二年まで百五十六年で宋に禅り、宋は永初元年から昇明三年まで凡そ六十年である。いずれも六で終わり六で受け、六は亢位である。往昔を験し今を推し量れば、このように明らかである。職任を以て敢えて管穴の見を備え陳べ、伏して天時に順い符瑞に応ぜられることを願う、と。二朝の百辟ひゃくへきもまた固く請うた。尚書右僕射の王儉が奏上して、「宋の詔により位を譲られました。臣らが参議しますに、日を定めて禅位を受けるべきです」と言った。高帝はついにこれを許した。

原文高帝固讓,宋朝王公以下陳留王粲等,詣門陳請,帝猶未許。齊世子卿士以下固請;兼太史令、將作匠陳文建奏符瑞,因言漢自建武至建安二十五年,一百九十六年而禪魏;魏自黃初至咸熙二年,四十六年而禪晉;晉自泰始至元熙二年,一百五十六年而禪宋;宋自永初元年至昇明三年,凡六十年;咸以六終六受,六,亢位也。驗往揆今,若斯昭著,敢以職任,備陳管穴,伏願順天時,膺符瑞。二朝百辟又固請。尚書右僕射王儉奏:「被宋詔遜位,臣等參議,宜克日受禪。」高帝乃許焉。

建元元年夏四月甲午の日、皇帝は南郊で即位し、柴燎を焚いて天に告げて言うには、

原文建元元年夏四月甲午,皇帝即位于南郊,柴燎告天曰:

礼が終わると、大駕を整え、建康宮に行幸し、太極前殿に臨んだ。大赦を行い、元号を改めた。人に爵二級、文武の位二等を賜い、鰥寡孤独で自活できない者には、人ごとに穀五斛こくを与えた。未納の租税と古い負債は徴収しない。郷論清議に犯し、贓汚淫盗の罪ある者は、すべてこれを洗い清め、先に注記されたものを除き、新たに始めさせる。長期の徒刑や赦されたまま拘禁されている者は、特にこれを原赦して放免する。官を失い爵を奪われ、禁錮や労役を奪われた者は、すべて旧典の通りとする。宋の皇帝を汝陰王に封じ、丹陽の故県に宮室を築き、宋の正朔を用い、車旗服色はすべて晋・宋の故事の通りとし、上書するときは表とせず、答表するときは詔と称しない。宋の諸王は皆公に降格し、郡公主は県君とし、県公主は郷君とした。詔して宋の南康郡公を県公に降格し、華容公を侯とし、萍郷侯を伯とし、戸数を差等に減らして、劉穆之・王弘・何無忌の祭祀を奉ぜしめた。皇考を追尊して宣皇帝とし、皇妣を孝皇后とし、陵を永安と称した。妃を昭皇后とし、陵を泰安と称した。詔して、劫賊の残党で台府に没収されている者は、すべてこれを原赦する。諸々の罪を負って流徙した者は、皆本国に還ることを許す、とした。戊戌の日、荊州刺史の蕭嶷を尚書令・驃騎大将軍・開府儀同三司とした。四方からの慶賀の礼を断った。己亥の日、詔して二宮と諸王は、すべて屯邸を営立し、山湖を封略してはならない、とした。そこで太官の池禦税を停止した。庚子の日、詔して宋の皇帝・皇后・藩王の諸陵に、守衛を量り置くこととした。

原文禮畢,備大駕,幸建康宮,臨太極前殿。大赦,改元。賜人爵二級,文武位二等,鰥寡孤獨不能自存者,穀人五斛。逋租宿責勿收。犯鄉論清議、贓汙淫盜者,一皆蕩滌,洗除先注,與之更始。長徒敕系者,特加原遣。亡官失爵,禁錮奪勞,一依舊典。封宋帝為汝陰王,築宮於丹陽故縣,行宋正朔,車旗服色,一如晉、宋故事,上書不為表,答表不稱詔。宋諸王皆降為公,郡公主為縣君,縣公主為鄉君。詔降宋南康郡公為縣公,華容公為侯,萍鄉侯為伯,減戶有差,以奉劉穆之、王弘、何無忌之祀。追尊皇考曰宣皇帝,皇妣曰孝皇后,陵曰永安。妃曰昭皇后,陵曰泰安。詔劫賊餘口沒在台府者,悉原赦。諸負釁流徙者,皆聽還本土。戊戌,以荊州刺史嶷為尚書令、驃騎大將軍、開府儀同三司。斷四方上慶禮。己亥,詔二宮諸王,悉不得營立屯邸,封略山湖。乃停太官池禦稅。庚子,詔宋帝后藩王諸陵,量置守衛。

五月丙午の日、河南王の吐谷渾拾寅を驃騎大将軍とした。詔して宋氏の第秩は、廃置を量る、とした。有司が奏上して、襄陽郡公の張敬児ら六十二人は留め、広興郡公の沈曇亮ら百二十二人は除く、とした。元嘉暦を改めて建元暦とし、祖祭は正月の卯の日、臘祭は十二月の未の日とした。丁未の日、詔して言うには、「募りを設けて将を取め、賞を懸けて士を購うのは、権宜の策である。今後は諸々の募集を断つべきである」。乙卯の日、河南国が使者を遣わして朝貢した。丙辰の日、詔して兼散騎常侍十二人を遣わし、四方を巡行させた。己未の日、汝陰王が崩じた(斉の意向である)。追諡して宋順帝とした。辛酉の日、陰安公の劉燮らを誅殺した。六月乙亥の日、詔して宋末以来の枯骨や毀損した棺は、下して埋蔵すべきである、とした。庚辰の日、法駕を整え、七廟の神主を太廟に奉った。甲申の日、斉の太子の蕭賾を皇太子に立てた。諸州郡の慶賀の礼を断ち、死罪以下の刑を減じ、併せて前の赦恩を百日間延長した。皇子の蕭嶷を豫章王に、蕭映を臨川王に、蕭晃を長沙王に、蕭曄を武陵王に、蕭暠を安成王に、蕭鏘を鄱陽王に、蕭鑠を桂陽王に、蕭鑒を広興王に立て、皇孫の蕭長懋を南郡王に立てた。乙酉の日、宋順帝を遂寧陵に葬った。

原文五月丙午,以河南王吐谷渾拾寅為驃騎大將軍。詔宋氏第秩,量所廢置。有司奏留襄陽郡公張敬兒等六十二人,除廣興郡公沈曇亮等一百二十二人。改元嘉曆為建元曆,祖以正月卯,臘以十二月未。丁未,詔曰:「設募取將,縣賞購士,蓋出權宜,自今可斷眾募。」乙卯,河南國遣使朝貢。丙辰,詔遣兼散騎常侍十二人,巡行四方。己未,汝陰王殂,齊志也,追諡為宋順帝。辛酉,誅陰安公劉燮等。六月乙亥,詔宋末以來,枯骸毀櫬,宣下埋藏。庚辰,備法駕,奉七廟主於太廟。甲申,立齊太子賾為皇太子。斷諸州郡禮慶,降死罪以下刑,並申前赦恩百日。立皇子嶷為豫章王,映為臨川王,晃為長沙王,曄為武陵王,暠為安成王,鏘為鄱陽王,鑠為桂陽王,鑒為廣興王,皇孫長懋為南郡王。乙酉,葬宋順帝于遂寧陵。

秋七月丁未の日、交州の部内を曲赦した。丁巳の日、詔して南蘭陵は桑梓の本郷であるので、永く租布を免除し、武進は王業の基づく所であるので、十年間の租税を免除する、とした。

原文秋七月丁未,曲赦交州部內。丁巳,詔南蘭陵桑梓本鄉,長蠲租布;武進王業所基,給復十年。

八月癸巳の日、陳留国を省いた。丁巳の日、皇子の蕭鈞を衡陽王に立てた。

原文八月癸巳,省陳留國。丁巳,立皇子鈞為衡陽王。

九月辛丑の日、詔して二呉・義興の三郡が水害に遭ったので、今年の田租を減ずる、とした。乙巳の日、南蛮校尉の官を再び置いた。丙午の日、司空の褚彦回に尚書令を加えた。

原文九月辛丑,詔以二吳、義興三郡遭水,減今年田租。乙巳,復置南蠻校尉官。丙午,加司空褚彥回尚書令。

冬十月丙子の日、彭城の劉胤を汝陰王に立て、宋の後を奉ぜしめた。己卯の日、太廟を享った。辛巳の日、汝陰王の太妃の王氏が薨じた。追贈して宋恭皇后とした。己丑の日、荊州の天井湖から綿が出て、人が用いるも常の綿と異ならない。

原文冬十月丙子,立彭城劉胤為汝陰王,奉宋後。己卯,享太廟。辛巳,汝陰王太妃王氏薨,追贈宋恭皇后。己丑,荊州天井湖出綿,人用與常綿不異。

二年春正月戊戌朔の日、大赦を行った。司空の褚彦回を司徒とし、尚書右僕射の王儉を左僕射とした。辛丑の日、南郊で祀った。

原文二年春正月戊戌朔,大赦。以司空褚彥回為司徒,以尚書右僕射王儉為左僕射。辛丑,祀南郊。

二月丁卯の日、魏軍が寿陽を攻めたが、豫州刺史の垣崇祖がこれを破って退かせた。癸巳の日、大使を遣わして淮・肥・徐・豫の辺境で特に貧しく難に遭った者を巡行して慰めた。

原文二月丁卯,魏軍攻壽陽,豫州刺史垣崇祖破走之。癸巳,遣大使巡慰淮、肥、徐、豫邊人尤貧遘難者。

三月、百済国が使者を遣わして朝貢した。その王の牟都を鎮東大将軍とした。

原文三月,百濟國遣使朝貢,以其王牟都為鎮東大將軍。

夏四月丙寅の日、高麗王の楽浪公の高璉の号を驃騎大将軍に進めた。

原文夏四月丙寅,進高麗王樂浪公高璉號驃騎大將軍。

五月、六門都牆を立てる。

原文五月,立六門都牆。

秋九月甲午朔、日蝕あり。丙子、蠕蠕国使いを遣わして朝貢す。

原文秋九月甲午朔,日有蝕之。丙子,蠕蠕國遣使朝貢。

冬十二月戊戌、司空褚彦回を以て司徒となす。壬子、驃騎将軍豫章王蕭嶷を以て司空となす。

原文冬十二月戊戌,以司空褚彥回為司徒。壬子,以驃騎豫章王嶷為司空。

三年春正月壬戌朔、詔して王公卿士に讜言を薦めしむ。丙子、皇子蕭鋒を立てて江夏王となす。

原文三年春正月壬戌朔,詔王公卿士薦讜言。丙子,立皇子鋒為江夏王。

二月癸丑、南蛮校尉官を罷む。

原文二月癸丑,罷南蠻校尉官。

夏四月辛亥、始めて東宮臣僚に下官の礼を用いて聞喜公蕭子良等を敬せしむ制を定む。

原文夏四月辛亥,始制東宮臣僚用下官禮敬聞喜公子良等。

六月壬子、大赦を行ふ。

原文六月壬子,大赦。

秋七月己未朔、日蝕あり。

原文秋七月己未朔,日有蝕之。

九月辛未、蠕蠕国王使いを遣わし、俱に魏を攻たんと欲し、師子皮の袴褶を献ず。烏程令吳郡の顧昌玄、父法秀が宋の泰始中北征に死亡し、屍骸反らず、而るに昌玄宴楽嬉游し、常人と異なる無きに坐す。有司請ふらく、清議を加へんと。丙戌、会稽山陰県の獄丞を置く。

原文九月辛未,蠕蠕國王遣使欲俱攻魏,獻師子皮褲褶。烏程令吳郡顧昌玄,坐父法秀宋泰始中北征死亡,屍骸不反,而昌玄宴樂嬉游,與常人無異。有司請加以清議。丙戌,置會稽山陰縣獄丞。

冬十月戊子、河南王の世子吐谷渾度易侯を以て西秦河二州刺史・河南王となす。

原文冬十月戊子,以河南王世子吐谷渾度易侯為西秦河二州刺史、河南王。

十二月丁亥、高麗国使いを遣わして朝貢す。散騎常侍虞炎等十二人を命じて諸州郡を行巡せしめ、風俗を観省せしむ。

原文十二月丁亥,高麗國遣使朝貢。命散騎常侍虞炎等十二人巡行諸州郡,觀省風俗。

四年春二月乙未、上豫せず。庚戌、詔して都下の囚禁せられたる者を差等ありて原赦し、元年以前の逋責を免ず。

原文四年春二月乙未,上不豫。庚戌,詔原都下囚系有差,免元年以前逋責。

三月庚申、司徒褚彦回・左僕射王儉を召して顧托を受く。壬戌、皇帝臨光殿に崩ず、年五十六。群臣上諡して高皇帝と曰ひ、廟号を太祖とす。梓宮を東府前の渚に於いて龍舟に昇す。四月丙午、武進の泰安陵に葬る。龍舟に於いて卒哭し、内外吉に反る。

原文三月庚申,召司徒褚彥回、左僕射王儉受顧托。壬戌,皇帝崩于臨光殿,年五十六。群臣上諡曰高皇帝,廟號太祖。梓宮於東府前渚升龍舟。四月丙午,葬于武進泰安陵,於龍舟卒哭,內外反吉。

上は少くより大量有り、喜怒色に形せず、深沈静黙にして、常に四海の心有り。博学にして、善く文を属し、草隷書に工なり、弈棋は第二品なり。夷険を経綸すと雖も、素業を廃せず。即位に及びて後、身は精細の物を禦せず、主衣の中に玉介導有り、以て侈奢の源を長ず、命じて打破せしむ。凡そ異物は皆例に随ひて毀棄せしむ。後宮の器物欄檻、銅を以て飾と為す者は、皆鉄に改用す。内殿に黄紗帳を施し、宮人に紫皮履を著せしむ。華蓋の金華爪を除き、鉄回釘を用ふ。毎に曰く、「我をして天下に臨ましむること十年あらば、当に黄金をして土と価を同じくせしめん」と。身を以て下を率ひ、風俗を移易せんと欲す。性寛大にして、嘗て直閤将軍周覆・給事中褚思莊と共に棋を囲み、累局倦まず、覆乃ち上手を抑へ、行を易るるを許さず。其の弘厚此の如し。著す所の文は、詔して中書侍郎江淹に撰次せしむ。又詔して東観の学士に『史林』三十篇を撰せしむ、魏文帝の『皇覧』の流なり。

原文上少有大量,喜怒不形於色,深沈靜默,常有四海之心。博學,善屬文,工草隸書,弈棋第二品。雖經綸夷險,不廢素業。及即位後,身不禦精細之物,主衣中有玉介導,以長侈奢之源,命打破之。凡異物皆令隨例毀棄。後宮器物欄檻,以銅為飾者,皆改用鐵。內殿施黃紗帳,宮人著紫皮履。華蓋除金華爪,用鐵回釘。每曰:「使我臨天下十年,當使黃金與土同價。」欲以身率下,移風易俗。性寬,嘗與直合將軍周覆、給事中褚思莊共棋,累局不倦,覆乃抑上手,不許易行。其弘厚如此。所著文,詔中書侍郎江淹撰次之。又詔東觀學士撰《史林》三十篇,魏文帝《皇覽》之流也。

初め帝が十七歳の時、嘗て青龍に乗って天に昇り、西へ行って日を追う夢を見た。帝の旧塋は武進の彭山にあり、岡阜が連なり、数百里に絶えず、その上には常に五色の雲があり、また龍が現れた。上は既に貴い身分であったが、宋の明帝は甚だこれを憎み、墓相を占うのが巧みな高霊文を遣わして墓所を占わせた。霊文は先に太祖に給事していたが、帰って偽って答えて曰く、「方伯を出すに過ぎません」と。密かに太祖に白して曰く、「貴くして言うべからず」と。明帝の心はなお止まず、人を遣わして踏み荒らさせ、左道をもってこれを厭った。上は後に立てた華表の柱に忽ち龍が鳴き、山谷を震わせた。明帝は病臥し、身後の慮りとして功臣を多く切り、上もまた疑われ、常に云う、「蕭道成に不臣の相あり」と。時に淮陰に鎮し、常に憂懼を懐き、忽ち神人が現れて上に謂う、「憂うることなかれ、子孫は当に昌盛すべし」と。泰始三年、宋の明帝は前淮南太守孫奉伯を遣わして淮陰に往き元会を監させた。奉伯は旧より帝と親しく、この行に、帝は奉伯と同室に臥し、奉伯は夢に上が龍に乗って天に昇り、下で龍の脚を捉え、得られなかった。覚めて、夢を語り、因って謂う、「兗州は当に大いに生霊を庇うべし、而して弟は与かるを得ず」と。奉伯は竟に宋の世に卒した。また参軍崔霊建は夢に天が己に謂う、「蕭道成は我が第十九子なり、我去年已に其の天子の位を授けしむ」と。三皇・五帝以来、受命の次第を考うるに、帝に至って十九である。領軍となった時、望気者陳安宝が上を見ると、身上に恒に紫黄の気があった。安宝は王洪範に謂う、「この人は貴くして言うべからず」と。居所の武進県に一つの道があり、相伝えて云う、「天子路」と。或いは秦の始皇の遊んだ所と謂い、或いは孫氏の旧跡と云う。時に訛言に東城より天子出ずと。その後建安王休仁が東府を鎮めると、宋の明帝は懼れ、休仁を殺し、而して常に東府を閉じて居らせず。明帝は又しばしば幸し、「代」を「伐」に改め、以て王気を厭った。又子の安成王をして代わらせた。蒼梧王が敗れ、安成王が代わって立つと、時に皆言って験ありと為す。術数者が推すに、上の旧居は武進の東城村にあり、「東城」の言は、其れ此に在りと。升明二年冬、延陵県の季子廟の沸井の北に、忽ち金石の声を聞き、其の異を疑い、三尺深く鑿ると、沸井を得、奔湧して浪の若し。其の地又響く、即ち復た之を鑿ると、復た一井を得、湧沸亦然り。井中に一の木簡を得、長さ一尺、広さ二分、上に隠起の字有り、曰く、「廬山道人張陵再拝し、闕に詣で起居す」と。簡の木は堅白、字の色は黄なり。瑞応図に云う、「浪井は鑿らずして自ら成る、王者清静なれば、則ち仙人之を主る」と。会稽剡県に山有り、名を刻石とす。父老相伝えて云う、「山は名は刻石と雖も、而して文字の在る所を知らず」と。升明末、県人の児襲祖が狩りを行い、忽ち石の上に文字有るを見る、凡そ三処、苔其の上に生じ、字識るべからず、乃ち苔を去りて之を視るに、其の大石の文に曰く、「此の斉は、黄石公の化気なり」と。立石の文に曰く、「黄天星、姓は蕭、字は道成、賢帥を得、天下太平」と。小石の文に曰く、「刻石する者は誰ぞ、会稽南山の李斯、秦望の封を刻すなり」と。孝経鉤命決に曰く、「誰者か起り、名将を視よ」と。将は、帝の小字なり。河洛讖に曰く、「歴年七十水滅緒、風雲俱に起り龍鱗挙がる」と。又曰く、「粛粛として草成る、道徳尽く備わる」と。案ずるに宋は水徳なり。義熙元年、宋の武帝の王業の始めより、斉の受命に至るまで、七十年。又讖に曰く、「蕭は二士と為りて天下楽しましむ」と。案ずるに二士は「主」の字なり。郭文挙の金雄記に曰く、「当に復た作有るべし、粛として草に入る」と。易に曰く、「聖人作れば、万物睹る」と。「当に復た作有るべし」とは、聖人の作るを言うなり。王子年の歌に曰く、「其の姓を知らんと欲すれば草粛粛、穀中最も細き低頭熟す、鱗身甲体永く福を興す」と。穀中の精細なる者は、稻なり、即ち道なり、熟するは猶成るなり。又歌に曰く、「金刀利刃斉に之を刈る」と。金刀は「劉」の字、刈るは猶翦ぐなり。孔子の河洛讖に曰く、「河梁を堨げ、龍泉を塞ぎ、水災を消除し山川を泄す」と。水は即ち宋なり、宋氏は災害を為す、故に水災と曰う。梁も亦た水なり、河梁を堨ぐれば、則ち行路成る。路は、猶道なり。水災を消除するは、宋の水氏の災害を除くなり。河図讖としんに又曰く、「上は南斗第一星に参じ、下は草屋を立てて紫庭と為し、神龍の岡に梧桐生じ、鳳鳥翼を戢え朔旦に鳴く」と。南斗は、呉の分野、草屋は居上、「蕭」の字の象なり。先に、益州に山有り、古老相伝えて曰く斉後山と。升明三年四月二十三日、沙門玄暢なる者有り、此の山に精舎を立て、其の日上尊位に登る。其の月二十四日、滎陽郡の人尹千、嵩山の東南隅に於て天石を雨るを見、地に墜ちて石開き、玉璽其の中に在り。璽方三寸、文に曰く、「戊丁の人と道と俱にし、粛然として草に入り天符に応じ、河・洛を掃平し魏の都を清む」と。又曰く、「皇帝運興る」と。千璽を奉じて雍州刺史蕭赤斧に詣で、赤斧以て献ず。案ずるに宋の武帝は嵩高山に於て玉璧三十二枚を得、神人云う、「此れは宋の卜世の数なり」と。三十二は、二「三十」なり、宋の受命より斉に禅するに至るまで凡そ六十年。然らば則ち帝の符応も是の若し、今之を備うるなり。

原文始帝年十七時,嘗夢乘青龍上天,西行逐日。帝舊塋在武進彭山,岡阜相屬,數百里不絕,其上常有五色雲,又有龍出焉。上時已貴矣,宋明帝甚惡之,遣善占墓者高靈文往墓所占相。靈文先給事太祖,還,詭答曰:「不過出方伯耳。」密白太祖曰:「貴不可言。」明帝意猶不已,遣人踐藉,以左道厭之。上後於所樹華表柱忽龍鳴,震響山谷。明帝寢疾,為身後之慮,多翦功臣,上亦見疑,每云:「蕭道成有不臣相。」時鎮淮陰,每懷憂懼,忽見神人謂上曰:「無所憂,子孫當昌盛。」泰始三年,宋明帝遣前淮南太守孫奉伯往淮陰監元會。奉伯舊與帝款,是行也,帝與奉伯同室臥,奉伯夢上乘龍上天,于下捉龍腳,不得。及覺,敘夢,因謂曰:「兗州當大庇生靈,而弟不得與也。」奉伯竟卒于宋世。又參軍崔靈建夢天謂己:「蕭道成是我第十九子,我去年已使授其天子位。」考自三皇、五帝以降,受命之次,至帝為十九也。及為領軍,望氣者陳安寶見上身上恒有紫黃氣。安寶謂王洪範曰:「此人貴不可言。」所居武進縣有一道,相傳云:「天子路」。或謂秦皇所遊,或云孫氏舊跡。時訛言東城天子出。其後建安王休仁鎮東府,宋明帝懼,殺休仁,而常閉東府不居。明帝又屢幸,改「代」作「伐」,以厭王氣。又使子安成王代之。及蒼梧王敗,安成王代立,時咸言為驗。術數者推之,上舊居武進東城村,「東城「之言,其在此也。升明二年冬,延陵縣季子廟沸井之北,忽聞金石聲,疑其異,鑿深三尺,得沸井,奔湧若浪。其地又響,即復鑿之,復得一井,湧沸亦然。井中得一木簡,長一尺,廣二分,上有隱起字,曰:「廬山道人張陵再拜,詣闕起居。」簡木堅白,字色乃黃。瑞應圖云:「浪井不鑿自成,王者清靜,則仙人主之」。會稽剡縣有山,名刻石。父老相傳云,「山雖名刻石,而不知文字所在」。升明末,縣人兒襲祖行獵,忽見石上有文字,凡處,苔生其上,字不可識,乃去苔視之,其大石文曰:「此齊者,黃石公之化氣也。」立石文曰:「黃天星,姓蕭,字道成,得賢帥,天下太平。」小石文曰:「刻石者誰?會稽南山李斯刻秦望之封也。」孝經鉤命決曰:「誰者起,視名將。」將,帝小字也。河洛讖曰:「歷年七十水滅緒,風雲俱起龍鱗舉。」又曰:「肅肅草成,道德盡備。」案宋水德也。義熙元年,宋武帝王業之始,至齊受命,七十年。又讖曰:「蕭為二士天下樂。」案二士「主」字也。郭文舉金雄記曰:「當復有作,肅入草。」易曰:「聖人作,萬物睹。」「當復有作」,言聖人作也。王子年歌曰:「欲知其姓草肅肅,穀中最細低頭熟,鱗身甲體永興福。」穀中精細者,稻也,即道也,熟猶成也。又歌曰:「金刀利刃齊刈之。」金刀「劉」字,刈猶翦也。孔子河洛讖曰:「堨河梁,塞龍泉,消除水災泄山川。」水即宋也,宋氏為災害,故曰水災。梁亦水也,堨河梁,則行路成矣。路,猶道也。消除水災,除宋水氏之災害也。河圖讖又曰:「上參南斗第一星,下立草屋為紫庭,神龍之岡梧桐生,鳳鳥戢翼朔旦鳴。」南斗,吳分野,草屋者居上,「蕭」字象也。先是,益州有山,古老相傳曰齊後山。升明三年四月二十三日,有沙門玄暢者,於此山立精舍,其日上登尊位。其月二十四日,滎陽郡人尹千,于嵩山東南隅見天雨石,墜地石開,有玉璽在其中。璽方三寸,文曰:「戊丁之人與道俱,肅然入草應天符,掃平河、洛清魏都。」又曰:「皇帝運興。」千奉璽詣雍州刺史蕭赤斧,赤斧以獻。案宋武帝于嵩高山得玉璧三十二枚,神人云:「此是宋卜世之數。」三十二者,二「三十」也,宋自受命至禪齊凡六十年。然則帝之符應也若是,今備之云。

武帝

原文武帝

世祖武皇帝は諱を賾、字を宣遠と云い、高帝の長子なり。宋の元嘉十七年六月己未に建康県の青溪宮に生まる。産まんとする夕、孝皇后・昭皇后並びに龍が屋に据わる夢を見た、故に小字を上は龍児と為す。十三歳の時、夢に人が筆を以て身の左右を劃きて両翅と為し、又孔雀の羽衣を著て空中を飛び、挙体毛を生じ、髪足に至るまで長し。人有りて上の践む地を指して曰く、「周文王の田」と。又住む堂内に璽一枚を得、文に曰く、「皇帝行璽」と。又異銭を得、文は「北斗星」、双刀・双貝及び人形の帯剣する有り。宋に仕えて贛令と為る。江州刺史晋安王子勳反す、上は命に従わず。南康相沈粛之が上を郡獄に縶す、族人蕭欣祖・門客桓康等郡を破りて上を迎え出だす、上遂に部曲ぶきょく百余りを率いて義を起こす。難を避けて掲陽山にあり、白雀来り集い、山中に清声の漏響を伝うるを聞く。又山に石を累ねて仏図と為す、其の側忽ち一樹を生ず、状は華蓋の若く、青翠扶疏、群木に殊なる有り。上将に戴凱之を討たんとし、士卒を大いに饗す。是の日大いに熱く、上各に荊枝を折りて自ら蔽わしむるを令す、言未だ終わらずして雲有りて蔭を垂れ、正に会する所に当たり、会罷みて乃ち散ず。及び広興相と為り、嶺南旱を積み、連水阻涸し、商旅通ぜず。上の部伍既に至り、雨無くして川流暴に起こり、遂に利渉を得たり。

原文世祖武皇帝諱賾,字宣遠,高帝長子也。以宋元嘉十七年六月己未生於建康縣之青溪宮。將產之夕,孝皇后、昭皇后並夢龍據屋,故小字上為龍兒。年十三,夢人以筆劃身左右為兩翅,又著孔雀羽衣裳空中飛,舉體生毛,發長至足。有人指上所踐地曰:「周文王之田」。又於所住堂內得璽一枚,文曰:「皇帝行璽」。又得異錢,文為「北斗星」,雙刀、雙貝及有人形帶劍焉。仕宋為贛令。江州刺史晉安王子勳反,上不從命。南康相沈肅之縶上郡獄,族人蕭欣祖、門客桓康等破郡迎出上,上遂率部曲百餘人起義。避難揭陽山,有白雀來集,聞山中有清聲傳漏響。又于山累石為佛圖,其側忽生一樹,狀若華蓋,青翠扶疏,有殊群木。上將討戴凱之,大饗士卒。是日大熱,上各令折荊枝自蔽,言未終而有雲垂蔭,正當會所,會罷乃散。及為廣興相,嶺南積旱,連水阻涸,商旅不通。上部伍既至,無雨而川流暴起,遂得利涉。

元徽四年、累進して晉熙王鎮西長史・江夏内史となり、郢州の事を行なう。順帝が即位すると、晉熙王劉燮を撫軍・揚州刺史として召し、武帝を左衛将軍とし、劉燮を補佐して共に下る。沈攸之の乱が起こり、朝廷の処分が未だ得られない中、武帝は中流にて敵を待つべしとし、即座に盆口城を拠点として戦守の備えを固めた。高帝はこれを聞き、「これこそ真に我が子なり」と言った。盆城にて塹壕を掘ると、大きな銭が出土し、文に「太平百歳」とあった。当時城内は水に乏しく、水を引いて入れようと城内を掘り始めると、伏流水が湧き出し、このような場所が九箇所あり、用いても尽きなかった。上表して西征を請うたが、許されず、偏軍を派遣して郢を援け、平西将軍黄回らは皆、武帝の節度を受けた。昇明二年、乱が平定され、江州刺史に転じ、聞喜県侯に封ぜられる。同年、侍中・領軍将軍として召される。まもなく京畿諸軍事を督することを加えられる。三年、さらに尚書僕射・中軍大将軍・開府儀同三司を加えられ、爵位は公に進み、班剣二十人を与えられた。

原文元徽四年,累遷晉熙王鎮西長史、江夏內史,行郢州事。順帝立,征晉熙王燮為撫軍、揚州刺史,以上為左衛將軍,輔燮俱下。沈攸之事起,未得朝廷處分,上以中流可以待敵,即據盆口城為戰守備。高帝聞之曰:「此真我子也。」於盆城掘塹,得一大錢,文曰:「太平百歲」。于時城內乏水,欲引水入城,始鑿城內,遇伏泉湧出,如此者九處,用之不竭。上表求西討,不許,乃遣偏軍援郢,平西將軍黃回等,皆受上節度。昇明二年,事平,遷江州刺史,封聞喜縣侯。其年,征侍中、領軍將軍。尋加督京畿諸軍事。三年,又加尚書僕射、中軍大將軍、開府儀同三司,進爵為公,給班劍二十人。

斉国が建てられると、斉公の世子となる。侍中・南豫州刺史に改めて加えられ、油絡車・羽葆・鼓吹を与えられ、班剣は三十人に増やされた。石頭を世子の宮とし、官に二率以下を置き、坊省の服章は、全て東宮の如くにした。王太子に進む。高帝が即位すると、皇太子となった。

原文齊國建,為齊公世子。改加侍中、南豫州刺史,給油絡車、羽葆、鼓吹,增班劍為三十人。以石頭為世子宮,官置二率以下,坊省服章,一如東宮。進為王太子。高帝即位,為皇太子。

建元四年三月壬戌、高帝崩御し、この日、皇太子は即皇帝位し、大赦を行なった。征鎮州郡の令長・軍屯営部は、それぞれ三日間の喪に服し、任を離れることを擅にせず。都邑の城守、防備の幢隊は、一切還ることを得ず。乙丑、先帝の遺詔と称し、司徒褚彦回を以て尚書事を録せしめ、尚書左僕射王儉を尚書令とし、車騎将軍張敬児を開府儀同三司とした。詔して曰く、「喪礼には定制あるといえども、先旨は常に簡約を存す。内官は三日に一度臨むべく、外官は一日おきに臨むべし。後に大喪あるも皆これに倣え」。丁卯、前将軍王奐を尚書左僕射とする。庚午、司空豫章王蕭嶷を太尉とする。癸酉、詔して逋城銭を免じ、今より以後、旧制を申明す。初め晋・宋の旧制に、官を受けて二十日たてば、輒ち修城銭二千を送る。宋の泰始初年、軍役大いに起こり、官を受くる者万を数え、兵戎機急にして事に未遑なるあり、これより令僕以下、並びに輸送せず。二十年の間、大限勝計すべからず、文符督切にして、擾乱在所にあり、ここに至り除蕩し、百姓悦びたり。夏四月辛卯、穆妃を追尊して皇后とす。

原文建元四年三月壬戌,高帝崩,是日,皇太子即皇帝位,大赦。征鎮州郡令長、軍屯營部,各行喪三日,不得擅離任。都邑城守,防備幢隊,一不得還。乙丑,稱先帝遺詔,以司徒褚彥回錄尚書事,尚書左僕射王儉為尚書令,車騎將軍張敬兒開府儀同三司。詔曰:「喪禮雖有定制,先旨每存簡約,內官可三日一還臨,外官間日一還臨,後有大喪皆如之。」丁卯,以前將軍王奐為尚書左僕射。庚午,以司空豫章王嶷為太尉。癸酉,詔免逋城錢,自今以後,申明舊制。初晉、宋舊制,受官二十日,輒送修城錢二千。宋泰始初,軍役大起,受官者萬計,兵戎機急,事有未遑,自是令僕以下,並不輸送。二十年中,大限不可勝計,文符督切,擾亂在所,至是除蕩,百姓悅焉。夏四月辛卯,追尊穆妃為皇后。

五月庚申、高皇帝を以て南郊に配し、高昭皇后を以て北郊に配す。

原文五月庚申,以高皇帝配南郊,高昭皇后配北郊。

六月甲申朔、南郡王蕭長懋を立てて皇太子とす。詔して壬戌の赦恩を百日に申す。丙申、皇太子妃王氏を立てる。聞喜公蕭子良を進封して竟陵王とし、臨汝公蕭子卿を廬陵王とし、応城公蕭子敬を安陸王とし、江陵公蕭子懋を晉安王とし、枝江公蕭子隆を隨王とし、皇子蕭子真を建安王とし、皇孫蕭昭業を南郡王とする。戊戌、水潦の患えあり、星緯乖序するを以て、克日して都下の囚を訊き、諸遠方の獄は刺史に委ねて時に察判せしむ。建康・秣陵二県の貧人に加えて振賜し、必ず周悉ならしむ。吳興・義興の水害に遭った県は、租調を蠲除す。司徒褚彦回を司空とする。

原文六月甲申朔,立南郡王長懋為皇太子。詔申壬戌赦恩百日。丙申,立皇太子妃王氏。進封聞喜公子良為竟陵王,臨汝公子卿為廬陵王,應城公子敬為安陸王,江陵公子懋為晉安王,枝江公子隆為隨王,皇子子真為建安王,皇孫昭業為南郡王。戊戌,以水潦為患,星緯乖序,克日訊都下囚,諸遠獄委刺史以時察判。建康、秣陵二縣貧人加振賜,必令周悉。吳興、義興遭水縣,蠲除租調。以司徒褚彥回為司空。

秋八月癸卯、司空褚彦回薨ず。

原文秋八月癸卯,司空褚彥回薨。

九月丁巳、国の哀の故に、国子学を罷む。辛未、征南将軍王僧虔を左光禄大夫・開府儀同三司とする。

原文九月丁巳,以國哀故,罷國子學。辛未,以征南將軍王僧虔為左光祿大夫、開府儀同三司。

冬十月乙未、中書令王延之を尚書左僕射とする。

原文冬十月乙未,以中書令王延之為尚書左僕射。

十二月己丑、詔して曰く、「淮に沿う戍将は、久しく辺労に処る。三元行始まるに、宜しく恩慶に沾うべし。中書舎人を遣わして旨を宣し、臨会すべし」。後に毎年これに倣う。

原文十二月己丑,詔曰:「緣淮戍將,久處邊勞,三元行始,宜沾恩慶,可遣中書舍人宣旨臨會。」後每歲如之。

永明元年春正月辛亥、南郊に祀る。大赦し、元号を改む。壬子、詔して内外の群僚に、各々讜言を進めしめ、王公卿士に、各々知る所を挙げしむ。又詔して守宰の禄奉は、蓋し恒准有り、往時は辺虜の警に因りて、時に沿い損益す。今区宇寧晏なれば、宜しく優奨を加うべく、郡県の丞尉は、田秩を還すべし。壬戌、皇弟蕭銳を立てて南平王とし、蕭鏗を宜都王とし、皇子蕭子明を武昌王とし、蕭子罕を南海王とする。望気者云う、新林・婁湖・東府の西に天子気有りと。甲子、青溪の旧宮を築き、新林・婁湖苑を作りて以てこれを厭う。二月庚寅、征虜将軍楊炅を沙州刺史とし、陰平王に封ず。

原文永明元年春正月辛亥,祀南郊。大赦,改元。壬子,詔內外群僚,各進讜言,王公卿士,各舉所知。又詔守宰祿奉,蓋有恆准,往以邊虜告警,故沿時損益,今區宇甯晏,宜加優獎,郡縣丞尉,可還田秩。壬戌,立皇弟銳為南平王,鏗為宜都王,皇子子明為武昌王,子罕為南海王。望氣者云:新林、婁湖、東府西有天子氣。甲子,築青溪舊宮,作新林、婁湖苑以厭之。二月庚寅,以征虜將軍楊炅為沙州刺史,封陰平王。

三月丙辰、詔して星緯失序し、陰陽度を愆えるを以て、辛亥の赦恩を五十日に申し、期の訖りを始めとす。戊寅、詔して四方の見囚、罪の軽重を問わず、及び劫賊の余口、長徒敕系の者、悉く皆原赦す。

原文三月丙辰,詔以星緯失序,陰陽愆度,申辛亥赦恩五十日,以期訖為始。戊寅,詔四方見囚,罪無輕重,及劫賊餘口,長徒敕系,悉皆原赦。

夏五月丁酉、車騎将軍張敬児罪有りて誅せらる。

原文夏五月丁酉,車騎將軍張敬兒有罪伏誅。

秋八月壬申、魏人聘問に来る。

原文秋八月壬申,魏人來聘。

冬十月丙寅、驍騎将軍劉瓚を使わして魏に聘問せしむ。

原文冬十月丙寅,使驍騎將軍劉瓚聘于魏。

十一月己卯、雷鳴る。

原文十一月己卯,雷。

十二月乙巳朔、日に蝕有り。

原文十二月乙巳朔,日有蝕之。

二年春正月乙亥、護軍將軍柳世隆を以て尚書右僕射と為し、南兗州刺史竟陵王子良を以て護軍將軍と為し、司徒を兼ねしむ。壬寅、新たに除せられたる尚書右僕射柳世隆を以て左僕射と為し、丹陽尹李安人を以て右僕射と為す。

原文二年春正月乙亥,以護軍將軍柳世隆為尚書右僕射,以南兗州刺史竟陵王子良為護軍將軍,兼司徒。壬寅,以新除尚書右僕射柳世隆為左僕射,以丹陽尹李安人為右僕射。

秋七月甲申、皇子子倫を立てて巴陵王と為す。

原文秋七月甲申,立皇子子倫為巴陵王。

八月丙午、旧宮に幸し、都下の獄及び三署に見る徒を申し、量りて降宥す。戊申、玄武湖に幸して武を講ず。壬子、扶南国使いを遣わし朝貢し、並びに頌章を献ずと云う。甲子、詔して都下二県の墳墓毀発せられたるは、宜しく随い掩埋し、遺骸未だ櫬せざる者は、並びに斂瘞を加え、疾困して存すること能わざる者は、詳かに沾賚を加えよと。

原文八月丙午,幸舊宮,申都下獄及三署見徒,量所降宥。戊申,幸玄武湖講武。壬子,扶南國遣使朝貢,並獻頌章云。甲子,詔都下二縣,墳墓毀發,隨宜掩埋,遺骸未櫬者,並加斂瘞。疾困不能存者,詳加沾賚。

冬十二月庚申、魏人聘問に来る。

原文冬十二月庚申,魏人來聘。

三年春正月辛卯、南郊に祀る。大赦し、都邑三百里内の罪重きに入るべき者は一等を降し、余は赦制に依る。

原文三年春正月辛卯,祀南郊。大赦,都邑三百里內罪應入重者降一等,餘依赦制。

三月甲寅、輔國將軍劉瓚を使わし魏に聘せしむ。

原文三月甲寅,使輔國將軍劉瓚聘于魏。

夏五月、総明観を省く。

原文夏五月,省總明觀。

秋七月甲戌、左光禄大夫・開府儀同三司王僧虔薨ず。辛卯、益州に平蠻校尉官を置く。

原文秋七月甲戌,左光祿大夫、開府儀同三司王僧虔薨。辛卯,於益州置平蠻校尉官。

八月乙未、中堂に幸して訟を聴く。乙巳、行宕昌王梁彌頡を以て河・涼二州刺史と為し、隴西公・宕昌王に封ず。

原文八月乙未,幸中堂聽訟。乙巳,以行宕昌王梁彌頡為河、涼二州刺史,封隴西公、宕昌王。

冬十月丙辰、魏人聘問に来る。

原文冬十月丙辰,魏人來聘。

十二月、江州刺史王奐を以て尚書右僕射と為す。武昌王子明を改封して西陽王と為す。

原文十二月,以江州刺史王奐為尚書右僕射。改封武昌王子明為西陽王。

四年春閏正月癸巳、皇子子貞を立てて邵陵王と為す。丁未、武都王楊集始を以て北秦州刺史と為す。辛亥、藉田を耕す。詔して殊死以下を宥す。甲寅、閲武堂に幸し、酒を労して小会し、王公以下在位の者に帛を賜うこと差有り。戊午、宣武堂に幸して武を講ず。

原文四年春閏正月癸巳,立皇子子貞為邵陵王。丁未,以武都王楊集始為北秦州刺史。辛亥,耕藉田。詔宥殊死以下。甲寅,幸閱武堂,勞酒小會,賜王公以下在位者帛有差。戊午,幸宣武堂講武。

二月丙寅、大風、呉興偏に甚だしく、樹葉皆赤し。己未、皇弟銶を立てて晉熙王と為し、鉉を河東王と為す。壬午、通直郎裴昭明を使わし魏に聘せしむ。

原文二月丙寅,大風,吳興偏甚,樹葉皆赤。己未,立皇弟銶為晉熙王,鉉為河東王。壬午,使通直郎裴昭明聘于魏。

五年春正月戊子、太尉豫章王嶷を以て大司馬と為し、車騎將軍竟陵王子良を以て司徒と為し、驃騎將軍臨川王映・衛將軍王儉・中軍將軍王敬則並びに本号を以て開府儀同三司と為す。尚書右僕射王奐を以て尚書左僕射と為す。辛卯、孤寡老疾に賜うこと各差有り。

原文五年春正月戊子,以太尉豫章王嶷為大司馬,車騎將軍竟陵王子良為司徒,驃騎將軍臨川王映、衛將軍王儉、中軍將軍王敬則並以本號開府儀同三司。以尚書右僕射王奐為尚書左僕射。辛卯,賜孤寡老疾各有差。

夏四月庚午、殷祀を太廟にて行い、諸囚徒を降した。

原文夏四月庚午,殷祀太廟,降諸囚徒。

先に、商飆館を孫陵岡に立て、世に九日台と呼ぶ。秋九月辛卯、車駕幸す。

原文先是,立商飆館于孫陵岡,世呼為九日台,秋九月辛卯,車駕幸焉。

冬十月、初めて新林苑を起こす。

原文冬十月,初起新林苑。

六年春三月甲申、詔して皇太子に東宮玄圃園宣猷堂にて臨訊及び三署の徒隸を聴かしむ。己亥、皇子子響を封じて巴東王とす。

原文六年春三月甲申,詔皇太子于東宮玄圃園宣猷堂臨訊及三署徒隸。己亥,封皇子子響為巴東王。

夏五月庚辰、左衛殿中將軍邯鄲超、表を上して雉射を陳ぶ。書奏して死を賜う。また潁川の荀丕も諫諍を以て、他事に托して誅せらる。

原文夏五月庚辰,左衛殿中將軍邯鄲超表陳射雉,書奏賜死。又潁川荀丕亦以諫諍,托他事及誅。

六月辛未、詔して州郡県の送故輸錢する者を省く。

原文六月辛未,詔省州郡縣送故輸錢者。

秋七月、齊興太守劉元寶、郡城の塹にて錢三十七萬を得る。皆厚徑一寸半に輪し、以て献ず。上以て瑞と為し、公卿に班賜す。

原文秋七月,齊興太守劉元寶于郡城塹得錢三十七萬,皆輪厚徑一寸半,以獻,上以為瑞,班賜公卿。

九月壬寅、琅邪城にて武を講じ、水歩軍を習う。

原文九月壬寅,於琅邪城講武,習水步軍。

冬十月庚申、立冬、初めて太極殿に臨み時令を読む。

原文冬十月庚申,立冬,初臨太極殿讀時令。

十一月丙戌、土霧天に竟き、煙の如く、人の眼鼻に入る。二日にして乃ち止む。

原文十一月丙戌,土霧竟天,如煙,入人眼鼻,二日乃止。

七年春正月丙午、鎮南將軍柳世隆を以て尚書左僕射と為し、豫州刺史西昌侯鸞を以て右僕射と為す。辛亥、南郊に祀り、大赦す。不挙子の科を申明す。若し子を産する者有らば、其の父を復す。壬戌、驃騎將軍・開府儀同三司臨川王映薨ず。戊辰、詔して諸大夫の年秩隆重なるを以て、俸を増し、見役に給す。

原文七年春正月丙午,以鎮南將軍柳世隆為尚書左僕射,以豫州刺史西昌侯鸞為右僕射。辛亥,祀南郊,大赦。申明不舉子之科;若有產子者,復其父。壬戌,驃騎將軍、開府儀同三司臨川王映薨。戊辰,詔以諸大夫年秩隆重,增俸,給見役。

三月甲寅、皇子子岳を立てて臨賀王と為し、子峻を廣漢王と為し、子琳を宣城王と為し、子瑉を義安王と為す。

原文三月甲寅,立皇子子岳為臨賀王,子峻為廣漢王,子琳為宣城王,子瑉為義安王。

夏五月乙巳、尚書令・衛將軍・開府儀同三司王儉薨ず。甲子、新たに除したる尚書左僕射柳世隆を以て尚書令と為す。

原文夏五月乙巳,尚書令、衛將軍、開府儀同三司王儉薨。甲子,以新除尚書左僕射柳世隆為尚書令。

秋九月壬寅、魏人聘問に来る。

原文秋九月壬寅,魏人來聘。

冬十一月戊申、詔して平南參軍顏幼明をして魏に聘問せしむ。

原文冬十一月戊申,詔平南參軍顏幼明聘于魏。

八年春正月庚子、領軍王奐を尚書左僕射となす。丁巳、行百済王泰を鎮東大將軍・百済王となす。

原文八年春正月庚子,以領軍王奐為尚書左僕射。丁巳,以行百濟王泰為鎮東大將軍、百濟王。

二月辛卯、零陵王司馬薬師薨ず。

原文二月辛卯,零陵王司馬藥師薨。

夏四月戊辰朔、詔して公卿以下各々知る所を挙げしむ。

原文夏四月戊辰朔,詔公卿以下各舉所知。

六月己巳、魏人聘問に来る。庚午、長沙王晃薨ず。丙申、大雷雨有り、黄光天に竟き、地を照らす状金の如し。乙酉、都下大風屋を発つ。

原文六月己巳,魏人來聘。庚午,長沙王晃薨。丙申,大雷雨,有黃光竟天,照地狀如金。乙酉,都下大風髮屋。

秋七月癸卯、詔して陰陽舛和し、緯象度を愆み、儲胤患に嬰り、旬晷を淹歴すを以て、大赦すべしとす。

原文秋七月癸卯,詔以陰陽舛和,緯象愆度、儲胤嬰患,淹曆旬晷,可大赦。

八月乙酉、河南王世子休留代を以て西秦・河二州刺史となし、河南王に封ず。壬辰、荊州刺史巴東王子響反し、丹陽尹蕭順之を遣わして之を討たしむ。子響誅せらる。

原文八月乙酉,以河南王世子休留代為西秦、河二州刺史,封河南王。壬辰,荊州刺史巴東王子響反,遣丹陽尹蕭順之討之,子響伏誅。

冬十二月戊寅、詔して尚書丞郎の賜祿を量りて増す。己卯、宣城王子琳を改めて南康王と封じ、皇子子建を立てて湘東王となす。

原文冬十二月戊寅,詔量增尚書丞郎賜祿。己卯,改封宣城王子琳為南康王,立皇子子建為湘東王。

九年春正月甲午、平蠻府を省く。辛丑、南郊に祀り、都下の見囚を降す。戊午、詔して射聲校尉裴昭明をして魏に聘せしむ。

原文九年春正月甲午,省平蠻府。辛丑,祀南郊,降都下見囚。戊午,詔射聲校尉裴昭明聘于魏。

三月癸巳、明堂災有り。

原文三月癸巳,明堂災。

夏五月丙申、林邑国金簟を献ず。丁未、魏人聘問に来る。安成王暠薨ず。己未、楽游正陽堂災有り。

原文夏五月丙申,林邑國獻金簟。丁未,魏人來聘。安成王暠薨。己未,樂游正陽堂災。

秋八月己亥、司徒参軍蕭琛を使わして魏に聘せしむ。呉興・義興大水有り。乙卯、二郡の租を蠲つ。

原文秋八月己亥,使司徒參軍蕭琛聘于魏。吳興、義興大水。乙卯,蠲二郡租。

九月戊辰、琅邪城に幸して武を講じ、観者都を傾け、普く酒肉を頒つ。

原文九月戊辰,幸琅邪城講武,觀者傾都,普頒酒肉。

冬十月甲寅、魏人聘問に来る。

原文冬十月甲寅,魏人來聘。

十年春正月戊午、司徒竟陵王子良に尚書令を領せしめ、尚書右僕射西昌侯鸞を左僕射となす。詔して内外に務有る衆官の祿奉を増す。丙戌、詔して故太宰褚彦回・故太尉王儉・故司空柳世隆・驃騎大將軍王敬則・鎮軍大將軍陳顯達・故鎮東將軍李安人をして太祖廟庭に配饗せしむ。

原文十年春正月戊午,以司徒竟陵王子良領尚書令,以尚書右僕射西昌侯鸞為左僕射。詔增內外有務眾官祿奉。丙戌,詔故太宰褚彥回、故太尉王儉、故司空柳世隆、驃騎大將軍王敬則、鎮軍大將軍陳顯達、故鎮東將軍李安人配饗太祖廟庭。

十二月乙巳、司徒参軍蕭琛を使わして魏に聘せしむ。

原文十二月乙巳,使司徒參軍蕭琛聘于魏。

十一年春正月戊午、驃騎大將軍・豫州刺史の王敬則を司空とした。乙亥、皇太子長懋が薨去した。

原文十一年春正月戊午,以驃騎大將軍、豫州刺史王敬則為司空。乙亥,皇太子長懋薨。

二月、雍州刺史の王奐は罪有りて、誅殺に伏した。

原文二月,雍州刺史王奐有罪,伏誅。

三月丙寅、金紫光禄大夫の王晏を尚書右僕射とした。

原文三月丙寅,以金紫光祿大夫王晏為尚書右僕射。

夏四月癸未、魏の使いが来朝して聘問した。甲午、皇孫昭業を皇太孫に立て、天下において父の後を継ぐ者に爵一級を賜う。

原文夏四月癸未,魏人來聘。甲午,立皇孫昭業為皇太孫,賜天下為父後者爵一級。

五月戊辰、旱魃の故をもって、都下の二県及び朱方・姑孰においては酒を暫く断つ。

原文五月戊辰,以旱故,都下二縣、朱方、姑孰權斷酒。

秋七月丁巳、南兗・兗・豫・司・徐の五州及び南豫州の歴陽・譙・臨江・廬江の四郡に対し、三調と諸々の宿債を曲赦し、全て同じく原除する。その淮水沿い及び青・冀の新たに附いた僑人については、復除は既に終わっているが、更に五年を延長する。

原文秋七月丁巳,曲赦南兗兗豫司徐五州,南豫州之曆陽譙臨江廬江四郡三調,眾逋宿責,並同原除。其緣淮及青、冀新附僑人,復除已訖,更申五年。

先に魏の地に謡言があり、「赤き火南に流れて南国を喪う」と。この歳、沙門が北よりこの火を持ち来たり、色は常の火より赤くして微かに、病を療すると云う。貴賤争ってこれを取り、多くその験を得たり。二十余日、都下に大いに盛んになり、皆云う「聖火」と。詔して禁ずるも止まず。火灸は七炷に至って疾癒す。呉興の丘国賓は密かにこれを郷里に持ち帰り、邑人の楊道慶は虚疾二十年、法に依り灸すれば即ち癒ゆ。

原文先是魏地謠言,「赤火南流喪南國」。是歲,有沙門從北齎此火而至,色赤于常火而微,雲以療疾。貴賤爭取之,多得其驗。二十餘日,都下大盛,咸云:「聖火」。詔禁之不止。火灸至七炷而疾愈。吳興丘國賓密以還鄉,邑人楊道慶虛疾二十年,依法灸即差。

この月、上は御不豫となり、延昌殿に移御したが、階に登り始めて殿屋が鳴き叫ぶ、上はこれを悪んだ。魏軍将に至らんとし、上は朝野の憂いと慌てるを慮り、病を押して楽府を召し正声の伎を奏せしむ。戊寅、大漸し、詔して曰く、「始終の大期は、聖賢も免れず、吾が行年六十、また何を恨みん。但だ皇業は艱難にして、万機は自ら重し、遺慮無きを得ず。太孫は徳を進むること日々に茂り、社稷の寄る所有り、子良は善く相い毗輔し、正道を弘むるを思え。内外の衆事は大小と無く、悉く鸞と参懐せよ。尚書は職務の根本なり、悉く王晏・徐孝嗣に委ねよ。軍旅の辺を捍ぐの略は、王敬則・陳顯達・王広之・王玄邈・沈文季・張瑰・薛深等に委ねよ。百辟庶僚は、各々爾が職を奉じ、謹んで太孫に事え、懈怠有るなかれ」。又詔して曰く、「我が識滅した後、身上には夏衣を著せ、天衣を画き、純烏犀の導を用い、諸々の器服に絓るものは、悉く宝物及び織成等を用いるべからず、唯だ装復の夾衣各一通のみ。常に服する刀長短二口、鉄環の者は、梓宮に随いて入らしめよ。祭敬の典は、本心に因るに在り、霊上には慎んで牲を以て祭と為すなかれ。祭は唯だ餅・茶飲・乾飯・酒脯を設くるのみとせよ。天下貴賤、皆この制に同じくせよ。山陵に未だ至らざる前は、朔望に菜食を設けよ。陵墓は万世の宅とす、意常に休安陵の称わざるを恨む、今は東の三処の地の最も東の辺を用いて我を葬るべし、名づけて景安陵と為せ。喪礼は毎に省約を存し、人を煩わすを須いず、百官は六時の入臨を停め、朔望の祖日は旧に依るべし。諸主六宮は、並びに山陵に従うを須いず。内殿の鳳華・寿昌・曜霊の三処は、是れ吾が改制する所なり。夫れ貴きは天下を有ち、富めるは四海を兼ぬ、宴処寝息、陋しきを容れず、これを奢儉の中と謂う、慎んで壊し去るなかれ。顕陽殿の玉像諸仏及び供養の具は、別牒の如し、心を尽くして礼拝供養せよ。応に功徳有る事は、専ら中に在るべし。今より公私皆出家して道と為し、及び塔寺を起立し、宅を以て精舎と為すことを得ず、並びに厳しくこれを断つべし。惟だ年六十にして必ず道心ある者は、朝賢の選序に聴し、既に別詔有り。諸々の小小の賜乞及び内処分に合うものも、亦た別牒有り。内外の禁衛の労旧の主帥左右は、悉く蕭諶に優量して駆使せしめよ」。この日、上は延昌殿にて崩御した。年五十四。群臣上諡して武皇帝と曰い、廟号を世祖とす。九月丙寅、景安陵に葬る。

原文是月,上不豫,徙禦延昌殿,始登階而殿屋鳴吒,上惡之。魏軍將至,上慮朝野憂惶,力疾召樂府奏正聲伎。戊寅,大漸,詔曰:「始終大期,聖賢不免,吾行年六十,亦復何恨。但皇業艱難,萬機自重,不能無遺慮耳。太孫進德日茂,社稷有寄,子良善相毗輔,思弘正道。內外眾事無大小,悉與鸞參懷。尚書是職務根本,悉委王晏、徐孝嗣。軍旅捍邊之略,委王敬則、陳顯達、王廣之、王玄邈、沈文季、張瑰、薛深等。百辟庶僚,各奉爾職,謹事太孫,勿有懈怠。」又詔曰:「我識滅後,身上著夏衣畫天衣,純烏犀導,絓諸器服,悉不得用寶物及織成等,唯裝復夾衣各一通。常所服刀長短二口,鐵環者,隨入梓宮。祭敬之典,本在因心,靈上慎勿以牲為祭。祭惟設餅、茶飲、乾飯、酒脯而已。天下貴賤,咸同此制。未山陵前,朔望設菜食。陵墓萬世所宅,意常恨休安陵未稱,今可用東三處地最東邊以葬我,名為景安陵。喪禮每存省約,不須煩人,百官停六時入臨,朔望祖日可依舊。諸主六宮,並不須從山陵。內殿鳳華、壽昌、曜靈三處,是吾所改制。夫貴有天下,富兼四海,宴處寢息,不容乃陋,謂此為奢儉之中,慎勿壞去。顯陽殿玉像諸佛及供養,具如別牒,可盡心禮拜供養之。應有功德事,可專在中。自今公私皆不得出家為道,及起立塔寺,以宅為精舍,並嚴斷之。惟年六十,必有道心,聽朝賢選序,已有別詔。諸小小賜乞,及合內處分,亦有別牒。內外禁衛勞舊主帥左右,悉令蕭諶優量驅使之。」是日上崩於延昌殿,年五十四。群臣上諡曰武皇帝,廟號世祖。九月丙寅,葬景安陵。

上は剛毅にして断有り、政は大體を総べ、富国を以て先と為す。頗る遊宴・彫綺の事を喜び、言常にこれを恨み、頓に遣わす能わず。臨崩に、又詔して「凡そ諸々の游費は、宜しく休息に従うべし。今より遠近の薦献は、務めて節儉を存し、界を出でて営求し、奢麗を相い高むるを得ず。金粟繒纊は、人を敝うこと已に甚だしく、珠玉玩好は、俗を傷つけること尤も重し、厳しく禁絶を加えよ」。

原文上剛毅有斷,政總大體,以富國為先。頗喜遊宴、雕綺之事,言常恨之,未能頓遣。臨崩,又詔:「凡諸游費,宜從休息。自今遠近薦獻,務存節儉,不得出界營求,相高奢麗。金粟繒纊,敝人已甚,珠玉玩好,傷俗尤重,嚴加禁絕。」

【論】

原文【論】

論じて曰く、斉の高帝が基命の初め、武功を潜かに用い、泰始の運を開き、大いに時艱を拯う。蒼梧の暴虐に及び、釁は朝野に結び、而して百姓は懍懍として、命は朝夕に懸かる。権道既に行われ、兼ねて天下を済わす。元功は主を振い、利器は人に仮し難く、群方は力を戮め、実に尺寸の望を懐く、豈に唯だ天の水行を厭うのみならん、固より已に人の木徳を希う、功を帰し能に与う、事は此に極まれり。武帝は雲雷の伊始、功は佐命に参じ、継體と為すと雖も、事実は艱難なり。袞を禦ぎ旒を垂れ、深く政典を存し、文武の授任は、旧章を革めず、明罰厚恩は、皆己より出づ。外表は塵無く、内朝は豫多し、機事は平理し、職貢は恒有り、府蔵は内に充ち、人に労役鮮し。宮室苑圃は、未だ財を傷つけるに足らず、安楽延年は、衆庶の同じく幸いとする所、亦た斉の良主なり。斉・梁の記録に拠れば、並びに蕭何より出づと云い、又編みて御史大夫の望之を以て先祖の次と為す。案ずるに何及び望之は漢に於いて倶に勲徳有り、而るに望之の本傳に此の陳有らず、斉典の書する所は、便ち実録に乖く。近く秘書監の顔師古は経籍を博く考へ、『漢書』を注解し、已に其の非を正す、今に随ひて改削すと云う。

原文論曰:齊高帝基命之初,武功潛用,泰始開運,大拯時艱。及蒼梧暴虐,釁結朝野,而百姓懍懍,命縣朝夕。權道既行,兼濟天下。元功振主,利器難以假人,群方戮力,實懷尺寸之望,豈惟天厭水行,固已人希木德,歸功與能,事極乎此。武帝雲雷伊始,功參佐命,雖為繼體,事實艱難。禦袞垂旒,深存政典,文武授任,不革舊章,明罰厚恩,皆由己出。外表無塵,內朝多豫,機事平理,職貢有恆,府藏內充,人鮮勞役。宮室苑圃,未足以傷財,安樂延年,眾庶所同幸,亦有齊之良主也。據齊、梁紀錄,並雲出自蕭何,又編御史大夫望之以為先祖之次。案何及望之於漢俱為勳德,而望之本傳不有此陳,齊典所書,便乖實錄。近秘書監顏師古博考經籍,注解《漢書》,已正其非,今隨而改削云。