南史
巻二 宋本紀中 第二
文帝
太祖文皇帝は諱を義隆といい、小字を車兒といい、武帝の第三子である。 晉 の義熙三年に京口に生まれた。十一年、彭城縣公に封ぜられる。永初元年、宜都郡王に封ぜられ、位は鎮西将軍・荊州刺史となり、 都督 を加えられた。時に年十四。身長七尺五寸、経史に広く渉猟し、隷書をよくした。この年、朝見に来た。折しも武帝が訴訟を聴こうとしており、そこで上(文帝)を遣わして建康の獄囚を訊問させたところ、弁断が上意に適い、武帝は大いに喜んだ。
景平の初め、西方に黒龍が現れ、五色の雲がそれに従った。二年、江陵の城上に紫雲があった。望気者たちは皆、帝王の符瑞であり、西方に当たるという。その年、少帝が廃され、百官は擁立すべき者を議した。徐羨之・傅亮らは、禎祥の符瑞が集まったとして、法駕を整えて奉迎し、皇統を奉じさせた。行台が江陵に至ると、 尚書令 傅亮が表を奉り璽紱を進め、州府の佐吏たちは皆臣と称し、諸門に榜題を請うたが、すべて宮省の例に依れということで、上は皆許さなかった。州・府・国の綱紀に命じて、統轄内の現行刑を宥めさせた。この時、 司空 徐羨之らは新たに 弑 害を行ったばかりであり、また鑾駕が西から迎えられるに及んで、人々は疑懼を抱いたが、長史王曇首・司馬王華・南蠻 校尉 到彥之のみが共に期して、朝臣に異志なきことを確信した。帝は言った、「諸公は遺命を受け、背くことは許されぬ。かつ労臣旧将は内外に満ちており、今また兵力は物事を制するに足る。何を疑うことがあろうか」。
甲戌、ここに江陵を発ち、王華に州府のことを知らせ、陝西に留まって鎮守させ、到彥之に襄陽を監させた。車駕が道中にある時、黒龍が躍り出て、上(文帝)の乗る舟を背負った。左右の者は色を失わぬ者なく、上は王曇首に言った、「これはまさに夏禹が天命を受けた所以である。我に何の徳があってこれに堪えようか」。都に至ると、群臣は新亭で迎えて拝した。まず初寧陵を謁し、還って中堂に次いだ。百官が璽紱を奉ったが、謙譲して受けず、数度にわたって勧請されて、ようやくこれに従った。
元嘉元年秋八月丁酉、皇帝は中堂で即位し、法駕を備えて宮中に入り、太極前殿に御し、大赦を行い、元号を改め、文武の官に位二等を賜った。戊戌、太廟を拝した。詔して廬陵王の先の封を追復し、霊柩を奉迎することを命じた。辛丑、臨川烈武王の陵を謁した。癸卯、 司空 徐羨之の位を 司徒 に進め、江州刺史王弘の位を 司空 とし、 尚書令 傅亮を左光禄大夫・開府儀同三司とした。甲辰、生母の胡婕妤を追尊して章皇太后とし、皇弟義恭を江夏王に、義宣を竟陵王に、義季を衡陽王に封じた。己酉、荊・湘二州の今年の稅布を半減した。
九月丙子、妃袁氏を立てて皇后とした。
この年は、魏の太武皇帝の始光元年である。
二年春正月丙寅、 司徒 徐羨之・ 尚書令 傅亮が表を奉って政務を返上した。上(文帝)は初めて万機を親覧した。辛未、南郊で祀り、大赦を行った。
秋八月乙酉、驃騎将軍・南徐州刺史彭城王義康は本号のまま開府儀同三司とし、 司空 王弘を改めて車騎大将軍・開府儀同三司に授けた。
冬十一月癸酉、武都王の世子楊玄を北秦州刺史とし、武都王の封を襲封させた。この年、赫連屈丐が死んだ。
三年春正月丙寅、 司徒 徐羨之・ 尚書令 傅亮は罪有って誅殺された。中領軍到彥之・征北将軍檀道濟を遣わして荊州刺史謝晦を討たせ、上はみずから六師を率いて西征した。大赦を行った。丁卯、江州刺史王弘を 司徒 ・録尚書事とした。
二月戊午、金紫光禄大夫王敬弘を尚書左僕射とし、 豫 章太守鄭鮮之を右僕射とした。戊辰、到彥之・檀道濟が隠磯で謝晦を大破した。丙子、車駕は蕪湖より旗を返した。己卯、延頭で晦を擒らえ、都に送って誅殺した。
夏五月乙未、征北将軍・南兗州刺史檀道濟を征南大将軍・開府儀同三司・江州刺史とした。乙巳、驃騎大将軍・涼州牧大且渠蒙遜を車騎大将軍に改めた。詔して大使を四方に巡行させ、風俗を観察させた。丙午、延賢堂に臨んで訴訟を聴き、これより毎年三度訊問することとなった。
秋、旱魃があり、かつ蝗害が発生した。
冬十二月、前吳郡太守徐佩之が謀反を企て、誅殺された。
四年春正月乙亥朔、建鄴の百里以内を曲赦した。辛巳、南郊で祭祀を行った。二月乙卯、丹徒に行幸し、京陵を謁見した。
三月丙子、丹徒宮で宴を催し、帝郷の父老ことごとくこれに参与した。丹徒の今年の租布を免除し、五年刑以下の者を赦免した。丁亥、車駕が宮に還った。戊子、尚書右僕射鄭鮮之が卒した。壬寅、富陽令諸葛闡の議を採り、夏至日の五絲命縷の類を禁断した。
夏五月、都下に疾疫が流行し、使者を遣わして見舞い、医薬を給し、死んで家族のない者には棺器を賜った。
六月癸卯朔、日蝕があった。
五年春正月乙亥、詔して陰陽の順序が乱れたことを以て、直言を求めた。甲申、玄武館に臨んで武を閲した。戊子、都下で大火があり、使者を遣わして巡行し慰問し救済した。
夏六月庚戌、 司徒 王弘が衛将軍・開府儀同三司に降格した。都下に大水があった。乙卯、使者を遣わして巡行し救済し供給した。
十二月、天竺国が使者を遣わして朝貢した。
この年は、北魏の神鹿元年であり、太武皇帝が赫連昌を討伐してこれを滅ぼした。乞伏熾盤が死んだ。
六年春正月辛丑、南郊で祭祀を行った。癸丑、荊州刺史彭城王義康を 司徒 ・録尚書事とした。
三月丁巳、皇子劭を立てて皇太子とした。戊午、大赦を行い、文武の官に位一等を賜った。
夏四月癸亥、尚書左僕射王敬弘を 尚書令 とし、丹陽尹臨川王義慶を尚書左僕射とし、吏部尚書江夷を右僕射とした。
五月壬辰朔、日蝕があった。
秋七月、百済国が使者を遣わして朝貢した。
冬十一月己丑の朔、日に蝕あり、星昼に見ゆ。
十二月、河西・河南の国並びに使いを遣わして朝貢す。
七年春二月壬戌、雪降り且つ雷す。
三月戊子、右将軍到彦之を遣わして魏を侵さしむ。
夏六月己卯、氐の楊難当を封じて武都王と為す。
冬十月戊午、銭署を立て、四銖銭を鋳る。戊寅、魏金墉城を克つ。十一月癸未、また虎牢を克つ。壬辰、征南大将軍檀道済を遣わして魏を拒がしむ、右将軍到彦之滑台より奔退す。
十二月、都下火災あり、延焼して太社の北牆に及ぶ。
是歳、馮跋死す。倭・百済・呵羅単・林邑・呵羅他・師子等の国並びに使いを遣わして朝貢す。呉興・晋陵・義興大水あり、使いを遣わして巡行し振恤す。
八年春二月辛酉、魏滑台を克つ。癸酉、檀道済軍を引きて還る、是より河南復た亡ぶ。
三月、大雩を行う。
夏六月乙丑、大赦す、旱の故なり。また大雩を行う。
閏六月乙巳、使いを遣わして獄訟を省行し、徭役を簡息せしむ。
九年春二月辛卯、詔して曰く、「故太傅長沙景王、故大司馬臨川烈武王、故 司徒 南康文宣公穆之、衛将軍華容公弘、征南大将軍永修公道済、故左将軍龍陽侯鎮悪、或いは道を履みて広深、徳を執りて沖邈たり。或いは雅量高劭、風鑒明遠たり。或いは識准弘正、才略開邁たり。咸しく文徳を以て帝載を弘め、武功を以て景業を隆くす。而るに太常未だ銘せず、従祀享を闕く、寤寐属慮し、永言興懐す。宜しく廟庭に配祭し、功を天府に勒すべし」。
三月庚戌、衛将軍王弘を進めて太保と為す。丁巳、江州刺史檀道済に 司空 を加ふ。
夏五月壬申、新たに除せられたる太保王弘薨ず。
六月癸未、積射将軍・強弩将軍の官を置く。乙未、征西将軍・沙州刺史の吐谷渾慕璝を征西大将軍・西秦河二州刺史・隴西王とする。壬寅、撫軍将軍の江夏王義恭を征北将軍・開府儀同三司・南兗州刺史とする。
秋七月庚午、領軍将軍の殷景仁を尚書僕射とする。
冬十二月庚寅、皇子の紹を立てて廬陵王とし、孝献王の祭祀を奉ぜしむ。江夏王義恭の子朗を南豊王とし、営陽王の祭祀を奉ぜしむ。
この年は、北魏の延和元年である。
十年春正月甲寅、竟陵王義宣を改封して南譙王とする。己未、大赦を行う。
夏、林邑・闍婆娑州・訶羅単国がともに使者を遣わして朝貢す。
秋七月戊戌、益州・梁州・秦州の三州に曲赦を行う。
冬十一月、氐の楊難当が梁州を占拠す。この月、且渠蒙遜死す。
十一年夏四月、梁秦二州刺史の蕭思話が氐を破り、梁州平定す。
五月丁卯、梁州・南秦二州の剣閣以北に曲赦を行う。戊寅、大且渠茂虔を征西大将軍・涼州刺史とし、河西王に封ず。
この年、林邑・扶南・訶羅単国がともに使者を遣わして朝貢す。
十二年春正月辛酉、大赦を行う。辛未、南郊に祀る。癸酉、馮弘を燕王に封ず。
夏四月丙辰、内外に士を挙げることを詔す。都下地震す。
六月、酒を禁ず。師子国が使者を遣わして朝貢す。丹陽・淮南・呉・呉興・義興に大水あり、都下船に乗る。己酉、徐 豫 南兗の三州及び会稽宣城の二郡の米穀百万斛を以て、五郡の水害に遭える民に賜う。
秋七月辛酉、闍婆娑達・扶南国がともに使者を遣わして朝貢す。
八月乙亥、水害を受けた諸郡の未納租税を免除す。
九月、蜀の賊張尋が寇す。
この年、北魏の太延元年。
十三年春正月癸丑朔、上(文帝)病に罹り、朝会せず。
三月己未、 司空 江州刺史檀道濟を誅す。庚申、大赦を行う。
夏六月、高麗・武都等の国、並びに使を遣わして朝貢す。
秋七月己未、零陵王太妃薨ず。晋の皇后と追崇し、晋の礼をもって葬る。九月癸丑、皇子の浚を立てて始興王とし、駿を武陵王とす。
この年、馮弘、高麗に奔る。
十四年春正月辛卯、南郊に祀り、大赦を行う。戊戌、鳳凰二羽都下に現れ、衆鳥これに従う。その地を改めて鳳凰裏と曰う。
夏四月、蜀の賊張尋・趙広降る。これを建鄴に遷す。
冬十二月辛酉、初めて雪を賀することを停む。河南・河西・訶羅単国、並びに使を遣わして朝貢す。
十五年春二月、平東将軍吐谷渾の慕延を以て鎮西将軍・秦河二州刺史と為し、隴西王に封ず。
秋七月辛未、地震す。新たに東宮を作る。
この年、武都・河南・高麗・倭・扶南・林邑等の国、並びに使を遣わして朝貢す。北郊に儒學館を立て、雷次宗をしてこれに居らしむ。
十六年春正月戊寅、北郊にて武を閲す。庚寅、彭城王義康を進めて大将軍・ 司徒 を領せしめ、開府儀同三司江夏王義恭を以て 司空 と為す。
夏六月己酉、隴西王吐谷渾慕延を改封して河南王と為す。
秋八月庚子、皇子鑠を立てて南平王と為す。
九月、魏、且渠茂虔を滅ぼす。
冬十二月乙亥、皇太子冠す、大赦す。
是の歳、武都・河南・林邑・高麗等の国並びに使いを遣わして朝貢す。
上は儒雅を好み、また丹陽尹何尚之に命じて玄素学を立て、著作佐郎何承天に史学を立て、 司徒 参軍謝元に文学を立てしめ、各門徒を聚め、就業する者多し。江左の風俗、これに於いて美なり、後に政化を言うに、元嘉を称す。
十七年夏四月戊午朔、日蝕有り。
秋七月壬子、皇后袁氏崩ず。
八月、徐・兗・青・冀の四州大水、使いを遣わして振恤す。
九月壬子、元皇后を長寧陵に葬る。
冬十月戊午、前丹陽尹劉湛罪有りて誅に伏す。大赦し、文武に爵一級を賜う。大将軍・ 司徒 を領し尚書事を録する彭城王義康を以て江州刺史と為し、大将軍は故の如し。甲戌、 司空 江夏王義恭を以て 司徒 ・録尚書事と為す。
十一月、尚書僕射・揚州刺史殷景仁卒す。
十二月癸亥、光禄大夫王球を以て尚書僕射と為す。戊辰、武都・河南・百済等の国並びに使いを遣わして朝貢す。
是の歳、魏の太平真君元年。
十八年春三月庚子、雹を雨らす。戊申、尚書刪定郎官を置く。
夏五月壬午、衛将軍南兗州刺史臨川王劉義慶、征北将軍南徐州刺史南譙王劉義宣、ともに開府儀同三司となる。甲申、沔水が氾濫し、住民に被害を及ぼす。六月戊辰、使者を派遣し巡行させて救済を与える。
冬十一月戊子、尚書僕射王球卒す。己亥、丹陽尹孟顗を尚書僕射とする。氐の楊難當が漢川を寇す。
十二月、 晉 寧太守爨松子が兵を挙げて反し、寧州刺史徐循がこれを討ち平らげる。
この年、河南国・肅特国・高麗国・蘇摩黎国・林邑国などがともに使者を派遣して朝貢した。
十九年夏四月甲戌、帝は久しい病が癒えたので、初めて初礿の祭りを奉じ、大赦を行う。
五月庚寅、梁秦二州刺史劉真道・龍驤将軍裴方明が楊難當を破り、仇池が平定される。
閏月、都下に水害あり、使者を派遣し巡行させて救済と慰撫を行う。
六月、且渠無諱を征西大将軍・涼州刺史とし、河西王に封ずる。
秋七月甲戌晦、日蝕あり。
九月丙辰、客星が北斗にあり、やがて彗星となり、文昌に入り、五車を貫き、畢を掃い、天節を払い、天苑を経て、季冬になってようやく消滅する。
冬十二月丙申、詔して、孔子の子孫については速やかに承襲を議じ、また廟を修め四時に饗祀を行わせ、併せて墓の近くの五家の供役を免除して洒掃に当たらせ、松柏六百株を植えさせる。
この年、蠕蠕国・河南国・扶南国・婆皇国がともに使者を派遣して朝貢した。西涼武昭王の孫李宝が初めて魏に帰順する。
二十年春正月辛亥、南郊で祀る。
二月甲申、白下で武を閲す。魏軍が仇池を攻略する。
夏四月甲午、皇子劉誕を立てて広陵王とする。
秋七月癸丑、楊文徳を征西将軍・北秦州刺史と為し、武都王に封ず。
冬十月、雷鳴す。
十二月壬午、藉田を置く。
是の歳、河西・高麗・百済・倭国並びに使を遣わして朝貢す。去歳より是に至るまで、諸州郡水旱有りて稼を傷つく。人多く饑え、使を遣わして倉を開き賑恤す。
二十一年春正月己亥、南徐・南兗・南 豫 州・揚州の浙江西、並びに酒を禁ず。辛酉、親しく藉田を耕し、大赦す。
二月己丑、 司徒 ・録尚書事江夏王義恭、位を進めて太尉と為し、 司徒 を領す。辛卯、皇子宏を立てて建平王と為す。
秋八月戊辰、荊州刺史衡陽王義季を征北大将軍・開府儀同三司・南兗州刺史と為す。
九月甲辰、大且渠安周を征西将軍・涼州刺史と為し、河西王に封ず。
冬十月己亥、刺史郡守に命じて東耕を修めしむ。丙子、雷鳴し且つ電光す。
二十二年春正月辛卯朔、御史中丞何承天の元嘉新暦を用うるに改む。
二月甲戌、皇子褘を立てて東海王と為し、昶を義陽王と為す。
秋七月己未、尚書僕射孟顗を左僕射と為し、中護軍何尚之を右僕射と為す。
九月己未、酒禁を開く。癸酉、武帳堂に宴す。上将に行かんとし、諸子に且つ食う勿からんことを敕す。会する所に至りて饌を賜う。日旰くも、食至らず、饑色有り。上之を誡めて曰く、「汝曹は少長豊佚にして、百姓の艱難を見ず。今爾をして饑苦有るを識らしめ、以て節儉を物に期するを知らしむ」と。
冬十二月乙未、太子詹事范曄謀反し、及び党与皆誅に伏す。丁酉、大将軍彭城王義康を免じて庶人と為し、属籍を絶つ。
是の冬、淮を浚い、湖熟の廃田千余頃を起こす。
二十三年夏四月丁未、大赦を行ふ。
六月癸未朔、日蝕あり。交州刺史檀和之、林邑国を伐ち、之を克つ。
是の歳、大いに年有り。北堤を築き、玄武湖を楽游苑の北に立て、景陽山を華林園に興す。役重くして人怨む。
二十四年春正月甲戌、大赦し、文武の位一等を賜ふ。
夏四月、河・済ともに清し。
六月、都下疫癘あり、巡省して医薬を給はしむ。貨貴なるを以て、大銭を制し、一を以て両に当つ。
秋八月乙未、徐州刺史衡陽王義季薨ず。
冬十一月甲寅、皇子渾を立てて汝陰王と為す。
是の歳、徐・兗・青・冀の四州大水あり。
二十五年春閏二月己酉、宣武場に大いに搜す。
三月庚辰、校獵す。
夏四月乙巳、新たに閶闔・広莫の二門を作り、先の広莫門を改めて承明と曰ひ、開陽門を津陽と曰ふ。
五月己卯、当両大銭を罷む。
六月庚戌、零陵王司馬元瑜薨ず。丙寅、荊州刺史南譙王義宣の位に 司空 を加ふ。
八月甲子、皇子彧を立てて淮陽王と為す。
九月辛未、尚書右僕射何尚之を左僕射とする。
冬、青州の城南を遠望すると、地中に水の如きものあり、影有り、これを「地鏡」と謂う。
二十六年春正月辛巳、南郊に祀る。
二月己亥、丹徒に幸し、京陵を謁す。
三月丁巳、丹徒宮に宴し、大赦す。丹徒県の僑旧の今年の租布の半を復し、行幸の経過する所、田租の半を蠲す。癸亥、使を遣わして晋の故 司空 忠肅公何無忌の墓を祭らしむ。
五月壬午、丹徒より至る。丙戌、婆皇国、壬辰、婆達国並びに使を遣わして朝貢す。
冬十月庚子、広陵王誕を改封して随郡王とす。癸卯、彗星太微に見ゆ。甲辰、揚州刺史始興王浚を征北将軍・開府儀同三司・徐兗二州刺史とす。
二十七年春正月辛卯、百済国使を遣わして朝貢す。
二月、魏軍県瓠を攻む。軍興に因り、百官の奉祿を三分の一減ず。三月乙丑、淮南太守諸葛闡奉祿を減じて内百官と同じからんことを求め、ここに於いて諸州郡県の丞尉並びに悉く同じく減ず。戊寅、国子学を罷む。
秋七月庚午、甯朔将軍王玄謨を遣わして魏を拒がしめ、太尉江夏王義恭をして出でて彭城に次ぎ、諸軍を総統せしむ。
冬十一月丁未、大赦す。
十二月庚午、魏の太武帝大衆を率いて瓜歩に至り、声して江を渡らんと欲すと為し、都下震懼し、咸に担を荷いて立つ。壬午、内外戒厳し、江に縁る六七百里舳艫相接す。初め北侵を議し、朝士多く同からず、ここに至り、帝烽火楼に登り極望し、悦ばず、江湛に謂いて曰く「北伐の計、同議する者少なく、今日士庶労怨す、慚無きを得ず。大夫の憂を貽すは、予が過ちに在り」と。甲申、百牢を魏に饋らしむ。
二十八年春正月丁亥、魏の太武帝瓜歩より退き帰り、広陵の居人万余家を俘らえて北に帰し、徐・ 豫 ・青・冀・二兗の六州殺略算ふるに勝えず、過ぐる所の州郡、赤地として余無し。
二月甲戌、太尉・領 司徒 江夏王義恭を降して驃騎将軍・開府儀同三司とす。壬午、瓜歩に幸す。是日、戒厳を解く。
三月乙酉、車駕宮に還る。丙申、初寧陵を拝す。大旱す。
夏四月癸酉、婆達国が使者を遣わして朝貢した。己卯、彗星が昴宿に現れた。この月、都下に疫病が流行し、使者を巡行させて医薬を給した。
五月乙酉、亡命の司馬順則が自ら斉王と号し、梁鄒城を占拠した。丁巳、婆皇国が、戊戌、河南国がともに使者を遣わして朝貢した。戊申、尚書左僕射の何尚之を 尚書令 とし、太子詹事の徐湛之を左僕射・護軍将軍とした。壬子、彗星が太微中に現れ、帝坐に対した。
秋七月甲辰、安東将軍倭王綏済を安東大将軍に進めた。
八月癸亥、梁鄒が平定され、司馬順則を斬った。この秋、猛獣が郭内に入り災いとなった。
冬十月癸亥、高麗国が使者を遣わして朝貢した。
十一月壬寅、二兗・徐・ 豫 ・青・冀の六州を曲赦し、彭城の流民を瓜歩に、淮西の流民を姑孰に移し、合わせて一万家ほどであった。
この年は、魏の正平元年である。
二十九年春正月甲午、詔して、寇賊に遭った六州がなお災害・洪水に逢ったので、量を加えて救済・養給すべきであるとした。
二月乙卯、雷が鳴り、かつ雪が降った。戊午、皇子休仁を立てて建安王とした。
三月壬午、大風が木を抜き、都下で火災があった。
夏四月戊午、訶羅単国が使者を遣わして朝貢した。
秋七月壬辰、汝陰王渾を改封して武昌王とし、淮陽王彧を湘東王とした。丁酉、大司農・太子僕・廷尉監の官を省いた。
九月丁亥、平西将軍吐谷渾拾寅を安西将軍・秦河二州刺史とし、河南王に封じた。
冬十一月壬寅、揚州刺史廬陵王紹が薨じた。
十二月戊辰、黄霧が四方に満ちた。辛未、南兗州刺史江夏王義恭を大将軍・南徐州刺史とし、録尚書はもとの通りとした。
この年、北魏の中常侍宗愛が逆謀を構え、太武皇帝が崩御した。そこで南安王余を奉じて帝位に即かせ、元号を承平と改めたが、後にまた余を害した。ここにおいて殿中尚書長孫渴侯と尚書陸麗が皇孫を奉じ、これが文成皇帝となり、元号を興安と改めた。
三十年春正月乙亥朔、太極前殿にて群臣を会し、青黒い気が東南より来たりて宮殿の上を覆い映した。戊寅、 司空 ・荊州刺史南譙王義宣を 司徒 ・中軍将軍・揚州刺史とした。壬午、南徐州刺史始興王浚を衛将軍・開府儀同三司・荊州刺史とした。戊子、江州刺史武陵王駿に命じて諸軍を統率させ西陽の蛮を討伐させた。
二月甲子、元凶の劭が逆謀を構え、帝は合殿にて崩御した。時に年四十七。諡して景皇帝、廟号を中宗という。三月癸巳、長寧陵に葬られた。孝武帝が践祚すると、追って諡を改めて文帝とし、廟号を太祖とした。
帝は聡明で仁厚、文儒を重んじ、みずから政事に勤勉で、孜々として倦むことがなく、在位の日が久しいことにより、簡靖を心がけた。当時は政治平穏で訴訟が理に適い、朝野ともに悦び睦み、江左の政治において未だかつてなかったものである。また性質は倹約を旨とし、奢侈を好まなかった。車府令がかつて輦の莑(竹の覆い)が古くなったので改易を請うた。また輦の席は旧来烏皮で縁取っていたのを、紫皮で代えようとした。上は竹の莑はまだ破損に至らず、紫色は高価であるとして、ともに改めることを聞き入れなかった。その質素なありさまはこのようであったという。
孝武帝
世祖孝武皇帝、諱は駿、字は休龍、小字は道人、文帝の第三子である。元嘉七年八月庚午の夜に生まれ、光が室を照らした。幼少より機知に富み、神采が発揚し、書を読むに七行を一度に見下し、才藻は甚だ美しく、雄大な決断力と武を愛し、騎射に長じていた。
十二年、武陵王に立てられ、二十二年、累進して雍州刺史となった。晋の江左以来、襄陽に皇子の重鎮はなかったが、時に文帝は関・河を経略しようと欲したので、この任があった。魏の太武帝が大挙して淮南に至った時、帝は彭城を鎮守し、魏が尚書李孝伯を使わして来た。帝は長史張暢を遣わしてこれと語らせ、自らは服を改めてこれを観察した。孝伯は帝を目して見やめず、退出して人に言うには、「張侯の側に風骨と視瞻のある人物がおり、並みの士ではない」と。二十八年、 都督 ・江州刺史となった。時に縁江の蛮が寇掠したので、文帝は太子歩兵 校尉 沈慶之らを遣わしてこれを討伐させ、上(帝)に命じて諸軍を統率させた。
三十年正月、西陽の五洲に出て駐屯した。時に元凶が逆を 弑 し、上は衆を率いて入討した。荊州刺史南譙王義宣と雍州刺史臧質がともに義兵を挙げた。
三月乙未、軍門に牙(軍旗)を建てた。この時、多くは旧儀に通じていなかったが、一人の斑白の翁がおり、自称するところでは若い頃に武帝に従って征伐し、その事柄に詳しいという。そこで指麾をさせたところ、事が終わると、忽然として所在を失った。冬から春にかけて、常に東北風が吹き、連日曇り晴れなかったが、この日牙が立てられた後、風は転じて西南となり、景色が開けて晴れ、紫雲二つが牙の上に蔭った。
四月辛酉、上は溧洲に駐屯した。丙寅、江寧に駐屯した。丁卯、大将軍江夏王義恭が来奔し、表を奉って尊号を上った。戊辰、上は新亭に至った。己巳、皇帝の位に即き、大赦を行い、文帝の号諡を改めた。大将軍江夏王義恭を太尉・南徐州刺史とした。庚午、荊州刺史南譙王義宣を 中書監 ・丞相・揚州刺史とし、ともに尚書六条事を録させた。安東将軍随王誕を衛将軍・荊州刺史とした。雍州刺史臧質に車騎将軍・江州刺史を加え、ともに開府儀同三司とした。撫軍将軍蕭思話を尚書左僕射とした。壬申、征虜将軍王僧達を右僕射とした。新亭を中興亭と改称した。
夏五月乙亥、輔国将軍朱修之が東府を攻略した。丙子、建鄴を攻略し、二凶および同逆の者はともに誅殺された。庚辰、詔して大使を分遣し、方俗を巡省させた。この日、厳戒令を解いた。辛巳、東府城に行幸した。甲申、生母の路淑媛を皇太后と尊んだ。乙酉、妃王氏を皇后に立てた。壬辰、太尉江夏王義恭を太傅とし、大司馬を領させた。甲午、初寧陵を謁し、建鄴二百里内を曲赦し、今年の租税を免除した。戊戌、撫軍将軍南平王鑠を 司空 とし、建平王宏を尚書左僕射とした。
六月丙午、車駕は宮中に還った。初めて殿門および上合門に屯兵を置いた。庚午、丹陽尹褚湛之を尚書右僕射とした。庚申、詔して有司に命じ、功績を論じて賞を班ち、それぞれ差等をつけさせた。辛酉、安西将軍・西秦河二州刺史吐谷渾拾寅の号を進めて鎮西大将軍・開府儀同三司とした。辛未、南譙王義宣を改封して南郡王とし、随王誕を竟陵王とした。閏月丙子、兼 散騎常侍 楽詢ら十五人を遣わし、風俗を巡行させた。庚申、太傅江夏王義恭に録尚書事を加え、荊州刺史竟陵王誕を侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・揚州刺史とした。甲申、尋陽・西陽郡の租布を三年間免除した。この月、衛尉官を置いた。
秋七月辛丑朔、日蝕があった。辛酉、詔して倹約を崇め、淫侈を禁じた。己巳、 司空 南平王鑠が薨じた。侍中南郡王世子恢を尚書右僕射とした。
冬十月癸未、閲武堂にて訴訟を聴いた。
十一月丙辰、台省の諸官による朔望の問訊を停止した。丙寅、高麗国が使いを遣わして朝貢した。
十二月甲戌、都水使者の官を省き、水衡令の官を置く。癸未、東宮を設置せんとし、太子率更令・歩兵 校尉 ・翊軍 校尉 ・旅賁中郎将・冗従僕射・左右積弩将軍の官を省く。中庶子・中舎人・庶子・舎人・洗馬は各々旧員の半減とする。
孝建元年春正月己亥朔、南郊に祀り、大赦を行い、元号を改める。壬戌、四銖銭を改めて鋳造する。丙寅、皇子の子業を立てて皇太子とし、天下の父の後を継ぐ者に爵一級を賜う。是の月、正光殿を起工す。
二月庚午、 豫 州刺史魯爽・車騎将軍・江州刺史臧質・丞相・荊州刺史南郡王義宣・兗州刺史徐遺宝、兵を挙げて反す。壬午、 豫 州を曲赦す。
三月己亥、内外戒厳す。
夏五月甲寅、義宣等梁山を攻む。左衛将軍王玄謨、これを大破す。己未、戒厳を解く。癸亥、呉興太守劉延孫を尚書右僕射と為す。
六月戊辰、臧質武昌に走り至り、人の為に斬られ、首を建鄴に伝う。甲戌、撫軍将軍柳元景、号を進めて撫軍大将軍と為し、及び鎮北大将軍沈慶之と並びに開府儀同三司を開く。癸未、南蛮 校尉 の官を罷む。戊子、録尚書の官を省く。庚寅、義宣、江陵に於いて死を賜う。
秋七月丙申朔、日蝕有り、既す。丙辰、大赦を行い、文武に爵一級を賜う。
冬十月戊寅、詔して仲尼の廟を開建し、制を諸侯の礼に同じくし、爽塏を詳かに択び、祭秩を厚く給す。
十一月癸卯、復た都水使者の官を置く。始めて南徐州の僑人の租を課す。
是の歳、魏の興光元年。
二年春二月己丑、婆皇国使いを遣わして朝貢す。丙寅、南兗州刺史沈慶之を左光禄大夫・開府儀同三司と為す。
夏四月壬申、河南国使いを遣わして朝貢す。五月乙未、熒惑南斗に入る。戊戌、湘州刺史劉遵考を尚書右僕射と為す。
六月甲子、国哀の除釈を以て、大赦す。
秋七月癸巳、皇弟休佑を立てて山陽王と為し、休茂を海陵王と為し、休業を鄱陽王と為す。己酉、盤盤国使いを遣わして朝貢す。
八月庚申、雍州刺史武昌王渾罪有り、廃して庶人と為し、自殺す。辛酉、幹陀利国使いを遣わして朝貢す。三呉飢饉す。詔して所在に振貸せしむ。
九月丁亥、宣武場において武を閲す。
冬十月壬午、揚州刺史竟陵王誕を 司空 ・南徐州刺史と為し、尚書左僕射建平王宏を 尚書令 と為す。
十一月辛亥、高麗国使いを遣わして朝貢す。
是の歳、魏の太安元年。
三年春正月庚寅、皇弟休範を立てて順陽郡王と為し、休若を巴陵郡王と為す。戊戌、皇子子尚を立てて西陽郡王と為す。辛丑、南郊に祀る。驃騎將軍建昌忠公到彥之、衛將軍・左光禄大夫新建文宣侯王華、 豫 寧文侯王曇首を以て文帝廟庭に配饗す。壬子、皇太子妃を納る。甲寅、大赦す。群臣礼を上る。
二月丁丑、朔望に西堂に臨み、群下に接し、奏事を受くる制を定む。
閏三月癸酉、鄱陽王休業薨ず。
夏四月甲子、初めて人車及び酒肆の器用に銅を用いることを禁ず。
五月辛酉、荊・徐・兗・ 豫 ・雍・青・冀の七州統内に、家に馬一匹有る者は、一丁を蠲復する制を定む。
秋九月壬戌、丹陽尹劉遵考を尚書右僕射と為す。
冬十月丙午、太傅江夏王義恭、位を進めて太宰と為り、 司徒 を領す。
大明元年春正月辛亥朔、大赦し、元を改む。庚午、都下雨水す。辛未、使いを遣わして検行せしめ、樵米を賜う。
三月壬戌、大臣に班剣を加うる者は宮城門に入ることを得ざる制を定む。
夏四月、都下疾疫有り。丙申、使いを遣わして巡行せしめ、医薬を賜給す。死して収斂する者無きは、官これを斂埋す。
五月、呉興・義興大水有り、人饑う。乙卯、使いを遣わして倉を開き振恤す。癸酉、華林園に於いて訟を聴く。是より、巡狩軍役に非ざれば、則ち車駕歳に三たび臨訊す。丙寅、芳香琴堂の東西に双橘連理有り、景陽楼の上層西南梁栱の間に紫気有り、清暑殿の西甍鴟尾の中央に嘉禾生じ、一株五莖なり。景陽楼を改めて慶雲楼と為し、清暑殿を嘉禾殿と為し、芳香琴堂を連理堂と為す。乙亥、輔国將軍梁瑾蔥を河州刺史と為し、宕昌王に封ず。
秋七月辛未、雍州の諸僑郡県を土断す。
九月、建康・秣陵の二県に各都官従事一人を置き、水・火・劫・盗を司らしむ。
冬十月甲辰、百済王余慶を鎮東大将軍となす。
十二月丁亥、順陽王休範を改封して桂陽王となす。
二年春正月辛亥、南郊に祀る。丙辰、郡県の田秩を復し、並びに九親の禄奉を復す。壬戌、初寧陵を拝す。
二月丙戌、衛将軍・ 尚書令 建平王宏は本号を以て開府儀同三司と為し、丹陽尹褚湛之を尚書左僕射となす。
三月丁未、 尚書令 建平王宏薨ず。乙卯、田農の要月を以て、太官に命じて牛を殺すを停めしむ。
夏四月甲申、皇子子綏を立てて安陸王となす。辛丑、地震す。
六月戊寅、吏部尚書一人を増置し、五兵尚書の官を省く。丁亥、左光禄大夫何尚之に開府儀同三司を加う。
秋八月丙戌、中書令王僧達獄に下り死す。
九月壬戌、襄陽大水す。使いを遣わし巡行して振恤す。庚午、武衛将軍・武騎常侍の官を置く。
冬十二月己亥、諸王及び妃主庶姓の位公に従う者の喪事は凶門を設くるを聴し、余は悉く断つ。
是歳、河南・高麗・林邑等の国並びに使いを遣わし朝貢す。
三年春正月己丑、領軍将軍柳元景を 尚書令 となす。
二月乙卯、揚州の統ぶる所の六郡を以て王畿と為し、東揚州を以て揚州と為す。甲子、廷尉監の官を復置す。
夏四月乙卯、 司空 ・南兗州刺史竟陵王劉誕が罪あり、爵を貶せらる。誕は命を受けず、広陵に拠りて反す。沈慶之を車騎大将軍・開府儀同三司・南兗州刺史とし、誕を討たしむ。
秋七月己巳、広陵城を克つ。誕を斬り、城内の男丁を悉く誅し、女口を以て軍の賞とす。是の日、厳戒令を解く。辛未、大赦を行う。丙子、丹陽尹劉秀之を尚書右僕射とす。丙戌、南兗州刺史沈慶之に 司空 の位を加う。
九月壬辰、玄武湖の北に上林苑を立てる。甲午、南郊の壇を牛頭山に移し、以て陽の位を正す。
冬十一月甲子、皇后の蚕宮を西郊に立てる。
十二月辛酉、謁者僕射の官を置く。
是の歳、婆皇国・河西国・高麗国・粛慎国等、各使いを遣わして朝貢す。西域より舞馬を献ず。
四年春正月辛未、南郊に祀る。甲戌、宕昌国使いを遣わして朝貢す。乙亥、みずから藉田を耕し、大赦を行う。庚寅、皇子子勲を立てて晋安王とし、子房を尋陽王とし、子頊を歴陽王とし、子鸞を襄陽王とす。
三月甲申、皇后みずから西郊にて桑を採る。
夏四月丙午、詔して四時の供給の制限を詳らかにし、大半を減ず。辛亥、太宰江夏王劉義恭等、表を奉りて岱宗を封ぜんことを請う。詔して従わず。辛酉、詔して都下の疾疫を以て、使いを遣わして存問し、併せて医薬を与う。其の亡き者は宜しきに随い賑恤す。
五月丙戌、尚書左僕射褚湛之卒す。
秋七月甲戌、左光禄大夫・開府儀同三司何尚之薨ず。
八月、雍州大水す。甲寅、遣わして賑恤を加う。
九月丁亥、襄陽王劉子鸞を改封して新安王とす。
冬十月庚寅、新たに除された 司空 沈慶之を遣わして、縁江の蛮を討たしむ。
十一月戊辰、細作署令を改めて左右御府令とす。丙戌、復た大司農の官を置く。
十二月辛丑の日、帝は廷尉寺に行幸し、囚人を赦した。魏が使者を遣わして和を通じた。丁未の日、建康県に行幸し、獄中の囚人を赦し放免した。倭国が使者を遣わして朝貢した。
この年は、魏の和平元年であった。
五年春正月戊午朔、華雪が降り、六出に散じた。上は喜び、これを瑞祥とした。
二月癸巳、武を閲し、軍幢以下の者に普く班錫を加え、多くを赦宥した。
三月甲戌、江乗に行幸し、故太保王弘・光禄大夫王曇首の墓を祭らせた。
夏四月癸巳、西陽王子尚を改封して 豫 章王とした。丙申、 尚書令 柳元景に左光禄大夫・開府儀同三司を加えた。丙午、雍州刺史海陵王休茂が司馬庾深之を殺し、兵を挙げて反した。参軍尹玄慶が起義し、これを斬り、首を建鄴に伝送した。
五月、国学の南丙巳の地に明堂を建てた。癸亥、帝室の期親で、禄官に非ざる官職にある者には、月に銭十万を給する制を定めた。
秋七月丁卯、高麗国が使者を遣わして朝貢した。庚午、雍州を曲赦した。八月戊子、皇子子仁を立てて永嘉王とし、子真を始安王とした。己丑、来年、庠序を修葺し、国胄を旌延すべきことを詔した。庚寅、方鎮が仮授する白板の郡県は、年限は台除に依り、食禄は三分の一とし、送故は給さざる制を定めた。衛将軍東海王褘は本号のまま開府儀同三司とした。
九月甲寅、日蝕があった。丁卯、琅邪郡に行幸し、囚人を赦し遣わした。庚午、河・済が清んだ。
閏月丙申、初めて馳道を立て、閶闔門より朱雀門に至り、また承明門より玄武湖に至った。壬寅、歴陽王子頊を改封して臨海王とした。
冬十月甲寅、南徐州刺史劉延孫を尚書左僕射とした。
十二月壬申、領軍将軍劉遵考を尚書右僕射とした。甲戌、天下の人戸が歳ごとに布四匹を輸す制を定めた。
六年春正月辛卯、南郊で祀った。この日、また明堂で文皇帝を宗祀し、以て上帝に配した。大赦した。乙未、五官中郎将・左右中郎将の官を置いた。
二月乙卯、百官の禄を復した。
三月庚寅、皇子子元を立てて邵陵王とした。壬寅、倭の世子興を安東将軍・倭国王とした。
夏四月庚申、新たに大航門を作る。
五月丙戌、覆舟山に凌室を置き、氷を蔵する礼を修める。
六月辛酉、尚書左僕射劉延孫卒す。
秋七月甲申、地震あり、声雷の如し、兗州は特に甚だしく、ここに魯郡の山二つ揺る。乙未、皇子子雲を立てて 晉 陵王と為す。
八月乙丑、清台令官を置く。
九月、沙門が人主に致敬する制を定む。乙未、尚書右僕射劉遵考を以て左僕射と為し、丹陽尹王僧朗を以て右僕射と為す。
冬十月丁卯、詔して上林苑内の士庶の丘墓にて還り合葬せんと欲する者は、禁ずるなからしむ。
十一月己卯、陳留王曹虔秀薨ず。
七年春正月癸未、詔して克日を玄武湖に於いて水師を大閲し、並びに江右を巡り、武を講じ校獵す。丁亥、右衛將軍顏師伯を以て尚書左僕射と為す。
二月甲寅、車駕南 豫 ・南兗二州を巡る。丁巳、烏江に校獵す。己未、烏江県の六合山に登る。壬戌、大赦し、行幸の経たる所は、今年の租布を出さず、人に爵一級を賜い、女子百戸に牛酒を賜い、郡守邑宰及び人夫で従搜する者は、普く沾賚を加う。また詔して歴陽郡の租輸を三年蠲免し、使者を遣わして巡慰し、人の疾苦を問う。癸亥、尉氏に行幸し、温泉を観る。壬申、車駕都に至り、二廟を拝し、乃ち宮に還る。
夏四月甲子、詔して今より軍に臨み戦陣に在るを除き、一に専殺することを得ざるべし。その罪重辟に入る者は、皆旧に依り先ず上り報を須うべし、有司厳しく聴察を加え、犯す者は殺人の罪を以て論ず。五月丙子、詔して今より刺史守宰が人を動かし軍を興すは、皆手詔を須うて施行すべし。ただ辺隅の外警及び奸釁の内発し、変倉卒に起る者は、この例に従わず。
六月戊申、蠕蠕・高麗等国並びに使いを遣わして朝貢す。
秋七月乙亥、高麗王高璉の位を進めて車騎大将軍・開府儀同三司と為す。
八月乙丑、皇子子孟を立てて淮南王と為し、子産を立てて臨賀王と為す。車駕建康・秣陵県に行幸し獄囚を訊く。
九月庚寅、南徐州刺史新安王子鸞を以て兼 司徒 と為す。乙未、廷尉に行幸し獄囚を訊く。丙申、皇子子嗣を立てて東平王と為す。
冬十月壬寅、皇太子の冠礼を行い、王公以下に帛を賜うこと各差あり。戊申、車駕は南 豫 州を巡幸し、太后を奉じて行く。癸丑、江寧県に行幸して獄囚を訊く。車騎将軍・揚州刺史 豫 章王子尚に開府儀同三司を加える。癸亥、開府儀同三司東海王褘を 司空 とし、中軍将軍義陽王昶に開府儀同三司を加える。己巳、姑孰において校猟を行う。
十一月丙子、南 豫 州の殊死以下の者を曲赦す。巡幸の経過した所は、今年の田租を詳かに減ずる。乙酉、詔して晋の大司馬桓温・征西将軍毛璩の墓を祭らしむ。上は行在所において溧陽・永世・丹陽県の囚を訊く。癸巳、梁山を祀り、水師を大いに閲す。中江において、白雀二羽華蓋に集まる。有司、元を改めて神雀とすべしと奏す。詔して許さず。乙未、行獄の徒囚を原放す。浙江東諸郡大いに旱す。
十二月壬寅、使いを遣わして倉を開き賑恤し、雑物を以て租に当つることを聴す。丙午、歴陽に行幸す。甲寅、大赦し、歴陽郡の女子百戸に牛酒を賜い、郡の租を十年間蠲免す。己未、太宰江夏王義恭に 尚書令 を加う。博望梁山に双闕を立てる。癸亥、歴陽より至る。
八年春正月辛巳、南郊に祀る。この日、還って明堂において文帝を宗祀す。甲戌、詔して曰く「東境は去歳稔らず、宜しく商貨を広め、遠近米粟を販鬻する者は、道中の雑税を停むべし。其れ仗を以て自ら防ぐ者は、悉く禁ずる勿れ」。
夏閏五月壬寅、太宰江夏王義恭に太尉を領せしむ。庚申、帝玉燭殿に崩ず。時に年三十五。七月丙午、丹陽秣陵県岩山景寧陵に葬る。
帝の末年は長夜の飲をなし、毎朝寝起きし、盥嗽畢りて、仍復飲を命じ、俄頃に数斗を飲み、几に憑りて惛睡し、大いに醉える者の如し。或いは外に奏事有れば、便ち肅然として容を整え、復た酒色無し。外内其の神明に服し、敢えて弛惰する者無し。
前廃帝
前廃帝は諱を子業とし、小字は法師、孝武帝の長子なり。元嘉二十六年正月甲申に生まる。孝武が尋陽に鎮する時、帝は都下に留まる。三十年、孝武入伐するに及び、元凶は帝を侍中下省に囚し、将に害を加えんとする者数たびなり。卒に恙無く得たり。孝武践阼するに及び、皇太子に立てらる。始め未だ東宮に之かず、中庶子・二率併びに永福省に入直す。
大明二年、出でて東宮に居る。七年、元服を加う。八年閏五月庚申、孝武崩ず。其の日、太子即ち皇帝の位に即き、大赦す。驃騎大将軍柳元景に 尚書令 を加う。甲子、録尚書の官を置き、太宰江夏王義恭に録尚書事を以てせしめ、驃騎大将軍柳元景に開府儀同三司を加う。
秋七月庚戌、婆皇国使いを遣わして朝貢す。皇太后を崇めて太皇太后と為し、皇后を皇太后と曰う。乙卯、南北二馳道を罷め、孝建以来変えたる制度を改め、還って元嘉に依る。丙辰、献妃を追崇して献皇后と為す。
八月己丑、皇太后崩ず。九月乙卯、文穆皇后景寧陵に祔葬す。
冬十二月乙酉、尚書左僕射顔師伯を尚書僕射と為す。壬辰、王畿諸郡を以て揚州と為し、揚州を以て東揚州と為す。癸巳、車騎将軍・揚州刺史 豫 章王子尚の位に 司徒 を加う。
去歳及び是歳、東諸郡大いに旱し、甚だしきは米一斗数百に至り、都下も亦百余に至り、餓死する者十の六七なり。孝建以来、又た錢署を立てて錢を鑄す。百姓此に因りて盗鑄し、錢轉た偽小となり、商貨行はず。
景和元年春正月乙未朔、大赦し、元を改めて永光と為す。乙巳、諸州の台伝を省く。
二月乙丑、州郡県の田祿の半を減ず。庚寅、二銖錢を鑄す。
夏五月、魏の文成皇帝崩ず。
秋八月庚午、尚書僕射顔師伯を左僕射と為し、吏部尚書王景文を右僕射と為す。癸酉、帝自ら宿衛兵を率いて太宰江夏王義恭・ 尚書令 柳元景・左僕射顔師伯・廷尉劉德願を誅す。元を改めて景和と為す。甲戌、 司徒 ・揚州刺史 豫 章王子尚に 尚書令 を領せしむ。乙亥、帝素服を脱ぎ、錦衣を御す。始興公沈慶之を太尉と為す。庚辰、石頭城を長楽宮と為し、東府城を未央宮と為す。甲申、北邸を建章宮と為し、南第を長楊宮と為す。己丑、復た南北二馳道を立てる。
九月癸巳、湖熟に幸し、鼓吹を奏す。戊戌、宮に還る。帝自ら以て昔東宮に在りし時、孝武に愛されずと為し、即位するに及び、将に景寧陵を掘らんとす。太史、帝に不利なりと言いて止む。乃ち陵に糞を撒き、肆に孝武帝を罵りて「齇奴」と為す。又た殷貴嬪の墓を発遣し、其の孝武に寵せられしを忿る。初め、貴嬪薨ずるや、武帝為に新安寺を造る。乃ち遣わして之を壊さしむ。又た諸の遠近の僧尼を誅せんと欲す。辛丑、南徐州刺史新安王子鸞を免じて庶人と為し、死を賜う。丁未、衛将軍湘東王彧に開府儀同三司を加う。己酉、車駕徐州刺史義陽王昶を討つ。内外戒厳す。昶魏に奔る。戊午、戒厳を解く。百姓に銭を鋳ることを開く。
冬十月癸亥、徐州を曲赦す。丁卯、東陽太守王藻獄に下りて死す。文帝第十女新蔡公主を貴嬪夫人と為し、姓を謝氏に改む。武賁鈒戟・鸞輅龍旗を加え、出ずれば警し入れば蹕す。矯りて公主薨ずと言い、空しく喪事を設く。乙酉、 豫 州刺史山陽王休佑を鎮軍大将軍・開府儀同三司と為す。
十一月壬辰、甯朔将軍何邁獄に下りて死す。癸巳、新たに除されたる太尉沈慶之を殺す。壬寅、皇后路氏を立て、四廂楽を奏す。揚・南徐二州を曲赦す。丁未、皇子生まる。少府劉蒙の子なり。大赦し、贓汚淫盗、悉く皆原蕩し、父の後と為る者に爵一級を賜う。壬子、護軍将軍建安王休仁を驃騎大将軍・開府儀同三司と為す。戊午、南平王敬猷・廬陵王敬先・安南侯敬深並びに死を賜う。
時に帝の凶悖日甚だしく、誅殺相継ぎ、内外の百官、首領を保たず。是に先立ち、訛言湘中に天子出ずとあり。帝将に南巡して荊・湘に之き、以て之を厭はんとし、期して旦に四叔を誅除し、然る後に発引せんとす。是の夜、湘東王彧と左右の阮佃夫・王道隆・李道兒、密かに帝の左右の寿寂之・薑産之等十一人と結び、謀り共に帝を廃せんとす。先づ、帝は華林園竹林堂に遊ぶを好み、婦人をして裸身相逐わしむ。一人の婦人命に従わず、之を斬る。少時を経て、夜夢みて後堂に遊ぶ。一人の女子有りて罵りて曰く「帝悖虐にして道ならず、明年熟するに及ばず」と。帝怒り、宮中に求めて夢みしに似たる者一人を得て之を戮す。其の夕復た夢みるに、戮したる女罵りて曰く「汝枉く我を殺す、已に上帝に訴う」と。是に至り、巫覡云く「此の堂に鬼有り」と。帝は山陰公主及び六宮の彩女数百人と群巫に随い鬼を捕え、侍衛を屏除し、帝自ら之を射る。事畢りて、将に靡靡の声を奏せんとす。寿寂之刀を懐いて直入し、薑産之副と為る。諸姫迸逸し、廃帝も亦走る。追い之に及び、大呼して「寂!寂!」と。此くの如き者三たび、手挙ぐること能わず、乃ち華光殿に崩ず。時に年十七。太皇太后の令を以て湘東王彧を奉り皇統を纂承せしむ。是に於て帝を丹陽秣陵県南郊壇の西に葬る。
帝は蜂目鳥喙、長頸鋭下、幼より狷急にして、東宮に在りし時毎に孝武に責めらる。孝武西巡するや、帝起居を参承するを啓す。書跡謹まず。上詰譲して之に曰く「書長進せず、此れは一条のみ。汝の比素業都て懈り、狷戾日甚だしと聞く。何を以て頑固なるか乃ち爾るや」と。初め阼を践み、璽紱を受くるに、傲然として哀容無し。蔡興宗退きて歎じて曰く「昔魯昭戚しまず、叔孫死を請う。国家の禍、其れ此れに在るか」と。帝始め猶諸大臣及び戴法興等を難じ、法興を殺すに既にして、諸大臣震慴せざる莫し。是に於て又た群公を誅す。元・凱以下、皆毆捶牽曳せられ、内外危懼し、殿省騷然たり。太后疾篤く、遣わして帝を呼ぶ。帝曰く「病人の間は鬼多し、畏るべし、那ぞ往く可けんや」と。太后怒り、侍者に語りて曰く「将に刀を来たらせて我が腹を破れ。那ぞかくの如き甯馨児を生むを得んや」と。太后崩ずる後数日、帝夢みるに太后謂ひて曰く「汝は仁ならず孝ならず、本より人君の相無し。子尚愚悖此くの如し、亦た運祚の及ぶ所に非ず。孝武は険虐にして道を滅ぼし、怨人神に結ぶ。兒子多くと雖も、並びに天命無し。大命の帰する所、応に文帝の子に還るべし」と。故に帝諸叔を都下に聚め、外に在りて患ひを為すを慮る。
山陰公主淫恣過度にして、帝に謂ひて曰く「妾と陛下は男女殊有ると雖も、倶に先帝に体を托す。陛下後宮数百、妾惟だ駙馬一人のみ。事均平せず、一何ぞ此くに至るや」と。帝乃ち面首左右三十人を立て、爵を進めて会稽郡長公主と為し、秩郡王に同じ。湯沐邑二千戸、鼓吹一部を給し、班剣二十人を加ふ。帝出ずる毎に、公主は朝臣と常に共に輦に陪す。
帝は少より書を読みしを好み、頗る古事を識り、粗に文才有り。自ら孝武帝誄及び雑篇章を造り、往々にして辞采有り。魏武に発丘中郎将・摸金 校尉 有るを以て、乃ち此の二官を置き、建安王休仁・山陽王休佑を以て之を領せしむ。其の余の事蹟は、諸列伝に分ち見ゆ。
【論】
論じて曰く、文帝は幼年特秀にして、自ら君徳を稟く。南面に正位するに及び、歴年長久、綱維備挙し、条禁明密、罰は恒科有り、爵は濫品無し。故に能く内清く外晏らかにして、四海謐如たり。而して将を授け師を遣わすに、事閫を分つに乖れり。才は光武に謝り、而して遥かに兵略を制し、攻戦の日時に至るまで、咸く成旨を聴く。師を覆し旅を喪すと雖も、将は韓・白に非ず、而して寇を延べ境を蹙むるは、抑も此れに由るか。言の衾衽に泄れ、凶豎に難を結ぶに至りては、禍の慮に非ざるより生ずと雖も、蓋し亦た以て然る有り。夫れ人命を尽くして以て自ら養ふは、蓋し惟だ桀・紂の行ひなり。夫の大明の世を観るに、其れ将に人命を尽くさんとするか。周公の才の美と雖も、亦た当に之を乱を以て終はるべし。此れに由りて言へば、得て歿するも亦た幸ひと為す。至りて廃帝の事に如ては、行ひ篇に著はり、仮りに中才の君に、一つ此れに在らば、以て霣致すに足る。況んや兼ねて斯の衆悪をせんや。其の亡びざるを得べけんや。