南史

巻一 宋本紀上 第一

巻一 宋本紀上 第一

南史

巻一 宋本紀上 第一

武帝

原文武帝

宋の高祖武皇帝は諱いみなを裕、字あざなを徳輿、小字を寄奴といい、彭城県綏輿里の人、姓は劉氏、漢の楚元王劉交の二十一世の孫である。彭城は楚の都であったので、その子孫がここに家を構えた。晋氏が東遷すると、劉氏は晋陵丹徒の京口里に移り住んだ。皇祖は靖、晋の東安太守。皇考は翹、字は顕宗、郡の功曹であった。帝は晋の哀帝興寧元年、癸亥の歳三月壬寅の夜に生まれた。神光が部屋を照らして明るくし、この夕べ甘露が墓樹に降った。成長すると、雄傑にして大度あり、身長七尺六寸、風骨奇偉で、廉隅細事にはこだわらず、継母に孝行をもって知られた。

原文宋高祖武皇帝諱裕,字德輿,小字寄奴,彭城縣綏輿里人,姓劉氏,漢楚元王交之二十一世孫也。彭城楚都,故苗裔家焉。晉氏東遷,劉氏移居晉陵丹徒之京口裏。皇祖靖,晉東安太守。皇考翹,字顯宗,郡功曹。帝以晉哀帝興寧元年歲在癸亥三月壬寅夜生,神光照室盡明,是夕甘露降於墓樹。及長,雄傑有大度,身長七尺六寸,風骨奇偉,不事廉隅小節,奉繼母以孝聞。

かつて京口の竹林寺に遊んだ時、一人で講堂の前に臥すと、上に五色の龍の文様があった。僧侶たちはそれを見て驚き、帝に告げたが、帝はただ喜んで言った。「上人よ、妄言をなすな。」皇考の墓は丹徒の候山にあり、その地は秦の史書にいう曲阿・丹徒の間に天子の気あるところである。時に孔恭という者がおり、墓相を占うのに妙を得ていた。帝はかつて彼と共に墓を通りかかり、欺いて言った。「この墓はどうか。」孔恭は言った。「尋常の地にあらず。」帝はこれによってますます自負した。行く先々で時に二匹の小龍が翼のようについているのを見た。山沢で樵や漁をする時、仲間もまた時々目撃した。貴くなると、龍の形はさらに大きくなった。

原文嘗游京口竹林寺,獨臥講堂前,上有五色龍章,眾僧見之,驚以白帝,帝獨喜曰:「上人無妄言。」皇考墓在丹徒之候山,其地秦史所謂曲阿、丹徒間有天子氣者也。時有孔恭者,妙善占墓,帝嘗與經墓,欺之曰:「此墓何如?」孔恭曰:「非常地也。」帝由是益自負。行止時見二小龍附翼,樵漁山澤,同侶或亦睹焉。及貴,龍形更大。

帝は元来貧しく、当時の人には理解されなかったが、ただ琅邪の王謐のみがひそかに深く敬った。帝はかつて刁逵の社銭三万を負い、長らく返すことができず、逵に捕らえられた。謐が密かに自分の銭で代わりに弁済したので、これによって釈放された。後に新洲で荻を伐っていると、数丈の大蛇を見つけ、これを射て傷つけた。翌日また洲に行くと、中から杵臼の音が聞こえたので、覗きに行くと、数人の童子が皆青衣を着て、榛の茂みの中で薬を搗いていた。そのわけを問うと、答えて言った。「我が王が劉寄奴に射られ、散薬を合わせて塗るのだ。」帝が言った。「王は神ならなぜ殺さないのか。」答えて言った。「劉寄奴は王者で死なず、殺すことはできない。」帝が叱ると、皆散り去った。そこで薬を収めて帰った。また客として下邳の旅舎に寄った時、一人の沙門が帝に言った。「江表は乱れるであろう。これを安んずる者は、おそらく君であろう。」帝は以前から手の傷を患い、長年治らなかった。沙門はある黄薬を持っており、帝に与えて置き、やがて忽然と消え失せた。帝は黄散を塗ると、その傷は一度塗って治った。残りと得た童子の薬を大切にし、金創に遭うたびに塗ると、いずれも効験があった。

原文帝素貧,時人莫能知,唯琅邪王謐獨深敬焉。帝嘗負刁逵社錢三萬,經時無以還,被逵執,謐密以己錢代償,由是得釋。後伐荻新洲,見大蛇長數丈,射之,傷。明日復至洲,裏聞有杵臼聲,往覘之,見童子數人皆青衣,於榛中搗藥。問其故,答曰:「我王為劉寄奴所射,合散傅之。」帝曰:「王神何不殺之?」答曰:「劉寄奴王者不死,不可殺。」帝叱之,皆散,仍收藥而反。又經客下邳逆旅,會一沙門謂帝曰:「江表當亂,安之者,其在君乎。」帝先患手創,積年不愈,沙門有一黃藥,因留與帝,既而忽亡,帝以黃散傅之,其創一傅而愈。寶其餘及所得童子藥,每遇金創,傅之並驗。

初め冠軍将軍孫無終の司馬となった。晋の隆安三年十一月、妖賊孫恩が会稽で乱を起こした。朝廷は衛将軍謝琰・前将軍劉牢之を派遣して東征させた。牢之は帝に府の軍事に参与するよう請い、数十人を率いて賊を偵察するよう命じた。賊の数千の軍勢に遭遇すると、帝はすぐに戦いを交え、率いた兵の多くは死んだが、帝は長刀を奮って殺傷した者は甚だ多かった。牢之の子敬宣は帝が賊に囲まれたかと疑い、軽騎で探しに行った。やがて多くの騎兵がともに到着し、山陰を平定した。恩は海に逃げ込んだ。

原文初為冠軍孫無終司馬。晉隆安三年十一月,祅賊孫恩作亂于會稽,朝廷遣衛將軍謝琰、前將軍劉牢之東討。牢之請帝參府軍事,命與數十人覘賊,遇賊眾數千,帝便與戰,所將人多死,而帝奮長刀,所殺傷甚眾。牢之子敬宣疑帝為賊所困,乃輕騎尋之;既而眾騎並至,遂平山陰,恩遁入海。

四年五月、恩は再び会稽に入り、謝琰を殺した。十一月、牢之が再び東征し、帝に句章を守備させた。句章城は小さく兵も少なかったが、帝は戦うたびに敵陣に突入し、賊はついに退いて浹口に還った。当時東征の諸将は士卒が暴掠し、百姓は皆苦しんだが、ただ帝のみは何も侵さなかった。

原文四年五月,恩復入會稽,殺謝琰。十一月,牢之復東征,使帝戍句章,句章城小人少,帝每戰陷陣,賊乃退還浹口。時東伐諸將,士卒暴掠,百姓皆苦之,惟帝獨無所犯。

五年春、恩は頻りに句章を攻めたが、帝はたびたびこれを破り、恩は再び海に入った。三月、恩は北に出て海塩に向かった。帝は故海塩に城を築いた。賊は日々来て城を攻めた。城内の兵は少なかったので、帝は敢死の士を選んで撃退した。連勝していたが、帝は衆寡敵せずと深く憂慮し、一夜のうちに旗を伏せて弱兵であることを示し、その油断を見て奮撃し、大破した。恩は城を落とせぬと知り、滬瀆に向かって進んだ。帝は城を棄ててこれを追った。海塩県令鮑陋は子の嗣之に呉兵一千を率いさせて前鋒とした。帝は呉人は戦いに慣れていないとして、後方まさに置くよう命じたが、従わなかった。この夜、帝は多く奇兵を設け、旗鼓を兼ねて置いた。翌日戦うと、伏兵が発し、賊は退き、嗣之が追撃して陥没した。帝は退きながら戦い、麾下の死傷はほとんど尽き、ついに以前の場所に戻って止まり、左右に命じて死人の衣を解き取らせて余裕を示した。賊はまだ伏兵があるかと疑い、引き去った。六月、恩は海を渡って丹徒に至った。帝は兼行してともに至り、奔撃して大破した。恩は建鄴に至り、朝廷に備えあることを知り、鬱洲に逃げた。八月、晋帝は帝を下邳太守とした。帝はまた恩を鬱洲及び海塩まで追撃し、たびたびこれを破った。恩はこれより飢饉に陥り、臨海に奔った。

原文五年春,恩頻攻句章,帝屢破之,恩復入海。三月,恩北出海鹽,帝築城於故海鹽,賊日來攻城,城內兵少,帝乃選敢死士擊走之。時雖連勝,帝深慮眾寡不敵,乃一夜偃旗示以羸弱,觀其懈,乃奮擊,大破之。恩知城不可下,進向滬瀆,帝棄城追之。海鹽令鮑陋遣子嗣之以吳兵一千為前驅,帝以吳人不習戰,命之在後,不從。是夜帝多設奇兵,兼置旗鼓,明日戰,伏發,賊退,嗣之追奔陷沒。帝且退且戰,麾下死傷將盡,乃至向處止,令左右解取死人衣以示暇。賊疑尚有伏,乃引去。六月,恩浮海至丹徒,帝兼行與俱至,奔擊大破之。恩至建鄴,知朝廷有備,遂走鬱洲。八月,晉帝以帝為下邳太守。帝又追恩至鬱洲及海鹽,頻破之。恩自是饑饉,奔臨海。

元興元年、荊州刺史桓玄が兵を挙げて東下した。驃騎将軍司馬元顕は牢之を派遣してこれを防がせ、帝はまたその軍事に参与した。玄が到着すると、帝はこれを撃つよう請うたが、牢之は許さず、子の敬宣を遣わして玄に和を請わせた。帝は東海の何無忌とともに固く諫めたが、聞き入れられなかった。玄は建鄴を攻克し、牢之を会稽内史とした。牢之は恐れ、広陵で挙兵するよう帝を招いた。帝は言った。「人心は去った。広陵もまたどうして得られようか。」牢之はついに新洲で縊死した。何無忌が帝に言った。「私はどこへ行こうか。」帝は言った。「我とともに京口に還るがよい。玄が必ず臣節を守るなら、卿とともにこれに仕えよう。そうでなければ、卿とともにこれを図ろう。」

原文元興元年,荊州刺史桓玄舉兵東下,驃騎將軍司馬元顯遣牢之拒之,帝又參其軍事。玄至,帝請擊之,牢之不許,乃遣子敬宣詣玄請和。帝與東海何無忌並固諫,不從。玄克建鄴,以牢之為會稽內史。牢之懼,招帝於廣陵舉兵,帝曰:「人情去矣,廣陵亦豈可得之?」牢之竟縊於新洲。何無忌謂帝曰:「我將何之?」帝曰:「可隨我還京口。玄必守臣節,當與卿事之;不然,與卿圖之。」

玄の従兄の修が撫軍将軍として丹徒に鎮し、帝を中兵参軍とした。孫恩は敗れた後、捕らえられるのを恐れ、水に投じて臨海で死んだ。残党は恩の妹婿盧循を主に推した。玄はまた帝を派遣して東征させた。

原文玄從兄修以撫軍將軍鎮丹徒,以帝為中兵參軍。孫恩自敗後,懼見獲,乃投水死於臨海,餘眾推恩妹夫盧循為主。玄復遣帝東征。

二年、循は永嘉に奔った。帝は追撃してこれを破った。六月、帝に彭城内史を加えた。

原文二年,循奔永嘉,帝追破之。六月,加帝彭城內史。

十二月、桓玄が帝位を簒奪し、晋帝を尋陽に遷した。桓修が入朝すると、帝はこれに従って建鄴に至った。玄は帝を見て、司徒王謐に言った。「昨日劉裕を見たが、風骨並々ならず、まさに人傑である。」遊宴のたびに、贈り物や賜り物は甚だ厚かった。玄の妻劉氏は、尚書令劉耽の娘で、聡明で智鑒があった。かつて帝を見て、玄に言った。「劉裕は龍行虎歩、目つきが凡ならず、必ず人の下に立たない恐れがある。早く手を打つべきである。」玄は言った。「我は今中原を平蕩しようとしているが、裕でなければできない。関中・隴右が平定されるのを待って、その後で議しよう。」

原文十二月,桓玄篡位,遷晉帝于尋陽。桓修入朝,帝從至建鄴,玄見帝,謂司徒王謐曰:「昨見劉裕,風骨不恒,蓋人傑也。」每遊集,贈賜甚厚。玄妻劉氏,尚書令耽之女也,聰明有智鑒,嘗見帝,因謂玄曰:「劉裕龍行虎步,視瞻不凡,恐必不為人下,宜早為其所。」玄曰:「我方平蕩中原,非裕莫可,待關、隴平定,然後議之。」

修はまもなく京口に還った。帝は金創の病気が発動したと偽り、歩いて従うに堪えぬとして、無忌と同船してともに還り、復興の計を立てた。弟の道規、沛国の劉毅、平昌の孟昶、任城の魏詠之、高平の檀憑之、琅邪の諸葛長人、太原の王元徳、隴西の辛扈興、東莞の童厚之らがともに義を同じくして謀った。時に桓修の弟弘が青州刺史として広陵に鎮し、道規は弘の中兵参軍、昶は州の主簿であった。そこで毅を昶のもとに遣わし、ともに弘を襲うことを謀らせた。長人は豫州刺史刁逵の左軍府参軍で、歴陽を占拠して呼応することを謀り、元徳と厚之は建鄴で玄を攻めることを謀り、期日を定めて一斉に発することとした。

原文修尋還京口,帝托以金創疾動,不堪步從,乃與無忌同船共還,建興復計,及弟道規、沛國劉毅、平昌孟昶、任城魏詠之、高平檀憑之、琅邪諸葛長人、太原王元德、隴西辛扈興、東莞童厚之,並同義謀。時桓修弟弘為青州刺史,鎮廣陵,道規為弘中兵參軍,昶為州主簿,乃令毅就昶謀共襲弘。長人為豫州刺史刁逵左軍府參軍,謀據曆陽相應,元德、厚之謀於建鄴攻玄,克期齊發。

三年二月乙卯、帝は遊猟と偽り、無忌・詠之・憑之、毅の従弟の藩、憑之の従子の韶・祗・隆・道済、昶の族弟の懐玉らと、義徒合わせて二十七人、従うことを願う者百余人を集めた。丙辰、城門の開くのを待ち、無忌ら義徒は詔使の服を着て、詔を称して前を行き、義衆は馳せ入って一斉に叫んだ。吏士は驚いて散り、ただちに修を斬って示衆した。帝はこれを悼んで甚だ慟哭し、手厚く葬って恤った。昶は弘にその日狩りに出るよう勧めた。まだ明けぬうちに、門を開いて猟師を出した。昶・道規・毅らは壮士五六十人を率い、門が開くのに乗じて直ちに入った。弘が粥を啜っているところを斬り、その衆を収めて江を渡った。

原文三年二月乙卯,帝托遊獵,與無忌、詠之、憑之,毅從弟藩,憑之從子韶、祗、隆、道濟,昶族弟懷玉等,集義徒凡二十七人,願從者百餘人。丙辰,候城門開,無忌等義徒服傳詔服,稱詔居前,義眾馳入齊叫,吏士驚散,即斬修以徇。帝哭之甚慟,厚加斂恤。昶勸弘其日出獵,未明,開門出獵人,昶、道規、毅等率壯士五六十人,因開門直入。弘方噉粥,即斬之,因收眾濟江。

義軍が初めて京城を陥れた時、修司馬の刁弘が文武の佐吏を率いて駆けつけた。帝は城に登って彼らに言った、「郭江州(郭昶之)は既に尋陽において乗輿(天子)を奉じて反正した。我等は皆密詔を受けて逆党を誅するものであり、今日、賊玄の首は既に大航で梟されるはずである。諸君は大晋の臣ではないのか」。弘らはこれを信じて退いた。劉毅が到着すると、帝は弘らを誅殺するよう命じた。

原文義軍初克京城,修司馬刁弘率文武佐吏來赴,帝登城謂曰:「郭江州已奉乘輿反正于尋陽,我等並被密詔誅逆黨,今日賊玄之首已當梟於大航。諸君非大晉之臣乎?」弘等信之而退。毅既至,帝命誅弘等。

劉毅の兄の劉邁は先に建鄴におり、事が発する数日前、帝は同謀の周安穆を派遣して彼に報せ、内応するよう命じた。邁は大いに恐れ、安穆は事が発覚するのを憂い、馳せ帰った。当時、桓玄は邁を竟陵太守としていたが、邁は直ちに船を下り、その郡へ赴こうとした。その夜、玄は邁に書を送り、「北府(京口)の人情はどうか。卿は近頃劉裕に会って何か言われたか」と問うた。邁は玄が既にその謀を知っていると思い、朝起きてそれを告げた。玄は驚き、邁を重安侯に封じたが、また安穆を捕らえなかったことを理由に彼を殺し、元徳(刁逵の字か)、扈興、厚之(諸葛長人の字か)らを誅した。そして頓丘太守の呉甫之と右衛将軍の皇甫敷を派遣し、北から義軍を防がせた。

原文毅兄邁先在建鄴,事未發數日,帝遣同謀周安穆報之,使為內應。邁甚懼,安穆慮事發,馳歸。時玄以邁為竟陵太守,邁便下船,欲之郡。是夜玄與邁書曰:「北府人情雲何?卿近見劉裕何所道?」邁謂玄已知其謀,晨起白之。玄驚,封邁為重安侯,又以不執安穆故殺之,誅元德、扈興、厚之等。乃遣頓丘太守吳甫之、右衛將軍皇甫敷北拒義軍。

先に、帝が遊撃将軍の何澹之を訪ねた時、左右の者が帝の光曜が部屋中に満ちているのを見て、澹之に告げた。澹之はこれを玄に報告したが、玄は意に介さなかった。この時になって義兵の起こったことを聞き、大いに恐れた。ある者が言った、「劉裕らは甚だ弱いのに、陛下は何故そこまで深く憂えられるのか」。玄は言った、「劉裕は一世の雄たるに足りる。劉毅は家に儋石の儲けもなく、摴蒱(賭博)では一擲百万を投じる。何無忌は劉牢之の外甥で、その舅に酷似している。彼らが共に大事を挙げるなら、何ぞ成らざらんと言えよう」。当時、衆は帝を推して盟主とし、孟昶を長史として後方の事務を総括させ、檀憑之を司馬とした。百姓で従おうとする者は千余人に及んだ。軍は竹裏に駐屯し、都下に檄を飛ばして言った。

原文先是,帝造遊擊將軍何澹之,左右見帝光曜滿室,以告澹之,澹之以白玄,玄不以為意,至是,聞義兵起,甚懼。或曰:「裕等甚弱,陛下何慮之深?」玄曰:「劉裕足為一世之雄,劉毅家無儋石之儲,摴蒱一擲百萬,何無忌,劉牢之之外甥,酷似其舅,共舉大事,何謂無成。」時眾推帝為盟主,以孟昶為長史,總後事,檀憑之為司馬,百姓願從者千餘人。軍次竹裏,移檄都下曰:

三月戊午、江乗において呉甫之と遭遇し、帝自ら長刀を執って大呼し、直ちに甫之を斬った。進軍して羅落橋に至り、皇甫敷と遭遇した。檀憑之は戦いに敗れて死に、衆は退いたが、帝は進んで戦いを交え、ますます激しく奮戦し、また敷の首を斬った。初め、帝が大謀を立てた時、相工が帝と無忌らの相を見て、近く大貴に当たると言ったが、ただ憑之には相がないと言った。この時、憑之が戦死したので、帝は事が必ず捷つことを知った。

原文三月戊午,遇吳甫之于江乘,帝躬執長刀,大呼,即斬甫之。進至羅落橋,遇皇甫敷,檀憑之戰敗,死之,眾退,帝進戰彌厲,又斬敷首。初,帝建大謀,有工相者相帝與無忌等近當大貴,惟云憑之無相。至是,憑之戰死,帝知其事必捷。

玄は敷らが敗没したと聞き、桓謙をして東陵口に屯させ、卞範之をして覆舟山の西に屯させた。己未、義軍は覆舟山の東に進み、疑兵を張り、油帔(油を塗った布)を諸々の樹にかぶせて、山谷に満ち布かせた。帝が先駆けて馳せ向かうと、将士は皆殊死しゅしの戦いをし、一もって百に当たらぬ者はなく、呼声は天地を動かした。風に乗じて火を放つと、煙炎は天を張り、謙らは大敗した。玄は初め軍を派遣したが、既に逃走を決意しており、別に領軍の殷仲文に命じて石頭に船を具えさせていた。謙の敗北を聞くと、軽船で南へ逃れた。

原文玄聞敷等沒,使桓謙屯東陵口,卞範之屯覆舟山西。己未,義軍進至覆舟東,張疑兵,以油帔冠諸樹,佈滿山谷。帝先馳之,將士皆殊死戰,無不一當百,呼聲動天地。因風縱火,煙焰張天,謙等大敗。玄始雖遣軍,而走意已決,別遣領軍殷仲文具舟石頭,聞謙敗,輕船南逸。

庚申、帝は石頭城を鎮守し、留台の百官を立て、桓温の神主を宣陽門外で焼き、太廟に晋の新たな神主を造った。諸将を派遣して桓玄を追わせ、尚書の王嘏に百官を率いて乗輿を奉迎させた。司徒の王謐が衆議して帝を推して揚州を領せしめようとしたが、帝は固辞した。そこで謐を録尚書事・領揚州刺史とし、帝を鎮軍将軍・都督八州諸軍事・徐州刺史・領軍将軍とした。初め、晋陵人の韋叟は相術に長けていた。桓修が帝に相を見て州を得るかどうかと命じたところ、叟は「辺州の刺史を得るでしょう」と言った。退いて密かに帝に言った、「君の相は貴く言い表せません」。帝は笑って言った、「もし当たれば、そなたを司馬に用いよう」。この時になって、叟が帝のもとに来て言った、「成王は桐葉の信を負わず、公も亦た司馬の言を忘れ給わぬはず。今、鎮軍司馬を望むことは敢えてせず、領軍の佐(領軍佐史)を得たいと願います」。そこでこれを用いた。

原文庚申,帝鎮石頭城,立留台百官,焚桓溫主于宣陽門外,造晉新主於太廟。遣諸將追玄,命尚書王嘏率百官奉迎乘輿。司徒王謐與眾議推帝領揚州,帝固辭,乃以謐為錄尚書事、領揚州刺史,帝為鎮軍將軍、都督八州諸軍事、徐州刺史、領軍將軍。初,晉陵人韋叟善相術,桓修令相帝當得州不,叟曰:「當得邊州刺史。」退而私於帝曰:「君相貴不可言。」帝笑曰:」若中,當相用為司馬。」至是,叟詣帝曰:「成王不負桐葉之信,公亦應不忘司馬之言。今不敢希鎮軍司馬,願得領軍佐。」於是用焉。

当時、諸葛長人は期日に遅れ、刁逵に捕らえられて送られてきたが、到着する前に桓玄は敗れた。玄は尋陽を経由し、江州刺史の郭昶之が乗輿の法物(天子の車駕や器物)を整えた。初め、荊州刺史の王綏は江左の冠族であり、また桓氏の甥であったため、平素より帝を甚だしく軽侮していた。この時になって、その父の尚書左僕射の王愉と共に自ら疑う志があり、共に誅殺に及んだ。

原文時諸葛長人失期,為刁逵執送,未至而玄敗。玄經尋陽,江州刺史郭昶之為具乘輿法物。初,荊州刺史王綏以江左冠族,又桓氏之甥,素甚陵帝,至是,及其父尚書左僕射愉有自疑志,並及誅。

四月戊子、武陵王司馬遵を奉じて大将軍とし、制を承け、大赦を行った。ただ桓玄の一祖(桓彝)の後裔だけは免じなかった。桓玄が簒奪した時、王謐はこれを佐命し、自ら安帝の璽紱を解いた。義旗が建てられると、衆は謐を誅すべきであると言ったが、ただ帝は平素より謐に徳を感じており、彼を保護した。劉毅が嘗て朝会の際に、謐に璽紱の所在を問うたので、謐はますます恐れた。王愉父子が誅殺されると、謐の従弟の王諶が謐に言った、「王駒は罪なくして誅せられた。これは勝己者を翦除するものであり、兄は既に桓氏に党附している。免がれ得ようか」。駒は愉の小字である。謐は恐れ、曲阿に奔った。帝は大将軍に上書して迎え還し、その位を復させた。

原文四月戊子,奉武陵王遵為大將軍,承制,大赦,惟桓玄一祖後不免。桓玄之篡,王謐佐命,手解安帝璽紱。及義旗建,眾謂謐宜誅,惟帝素德謐,保持之。劉毅嘗因朝會,問謐璽紱所在,謐益懼。及王愉父子誅,謐從弟諶謂謐曰:「王駒無罪而誅,此是翦除勝己,兄既桓氏黨附,求免得乎?」駒,愉小字也。謐懼,奔曲阿。帝箋白大將軍迎還,復其位。

桓玄は天子を挟んで江陵に走り、また江を浮かんで東下し、劉毅・何無忌・劉道規らと崢嶸洲で遭遇し、衆軍はこれを大破した。玄の党与の殷仲文が晋の二皇后(穆帝后の何氏と安帝后の王氏か)を奉じて建鄴に還った。玄は再び天子を挟んで江陵に至り、やがて南郡に逃走した。太守の王騰之と荊州別駕の王康産が天子を奉じて南郡府に入った。

原文玄挾天子走江陵,又浮江東下,與劉毅、何無忌、劉道規等遇于崢嶸洲,眾軍大破之。玄党殷仲文奉晉二皇后還建鄴。玄復挾天子至江陵,因走南郡,太守王騰之、荊州別駕王康產奉天子入南郡府。

初め、益州刺史の毛璩が従孫の毛佑之と参軍の費恬を派遣して弟の喪を州に送らせた。璩の弟の子の毛修之は当時桓玄の屯騎校尉であったが、玄を誘って蜀に入らせようとした。枚回洲に至ると、恬と佑之が迎え撃って矢を射かけ、益州督護の馮遷が玄を斬り、その首を建鄴に伝送した。玄の従子の桓振は華容の湧中に逃れ、逆党を招集して江陵城を襲い、騰之と康産は皆殺害された。桓謙は先に沮川に匿れていたが、亦た衆を集めて振に応じた。玄のために哀を挙げ、喪庭を立てた。謙は衆官を率いて璽綬じじゅを安帝に奉った。劉毅と何無忌が進軍して桓振と戦ったが、霊溪で敗績した。

原文初,益州刺史毛璩遣從孫佑之與參軍費恬送弟喪下州,璩弟子修之時為玄屯騎校尉,誘玄入蜀,至枚回洲,恬與佑之迎射之,益州督護馮遷斬玄,傳首建鄴。玄從子振逃于華容之湧中,招集逆黨,襲江陵城,騰之、康產皆被殺。桓謙先匿沮川,亦聚眾應振。為玄舉哀,立喪庭。謙率眾官奉璽綬于安帝。劉毅、何無忌進及桓振戰,敗績於靈溪。

十月、帝は青州刺史を領し、甲仗(武装兵)百人を率いて殿中に入った。

原文十月,帝領青州刺史,甲仗百人入殿。

義熙元年正月、劉毅らが江津に至り、桓謙・桓振を破り、江陵が平定された。三月甲午、晋帝が江陵より至った。庚子、詔して帝を侍中・車騎将軍・都督中外諸軍・録尚書事に進めた。帝は固辞し、やがて丹徒に鎮した。九月乙巳、帝に領兗州刺史を加えた。

原文義熙元年正月,毅等至江津,破桓謙、桓振,江陵平。三月甲午,晉帝至自江陵。庚子,詔進帝侍中、車騎將軍、都督中外諸軍、錄尚書事。帝固讓,旋鎮丹徒。九月乙巳,加帝領兗州刺史。

盧循が海を渡って広州を破り、刺史の呉隠之を捕らえた。直ちに循を広州刺史とし、その党与の徐道覆を始興相とした。

原文盧循浮海破廣州,獲刺史吳隱之,即以循為廣州刺史,以其党徐道覆為始興相。

二年三月、帝を督交広二州に進めた。十月、匡復の勲功を論じ、帝を豫章郡公に封じ、邑一万戸を賜い、絹三万匹を賜った。その他の封賞はそれぞれ差等があった。

原文二年三月,進帝督交、廣二州。十月,論匡復勳,封帝豫章郡公,邑萬戶,賜絹三萬疋。其餘封賞各有差。

三年十二月、司徒・録尚書・揚州刺史の王謐が薨じた。

原文三年十二月,司徒、錄尚書、揚州刺史王謐薨。

四年正月、帝を召して輔弼に入らしめ、侍中・車騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史・録尚書事を授け、徐・兗二州刺史はもとの如し。表を奉って兗州の任を解くことを請う。先に、帝は冠軍将軍劉敬宣を遣わして蜀の賊譙縦を討たせたが、功なくして還った。九月、帝は敬宣の挫退を以て、位を譲ろうとしたが、許されなかった。十月、ついに中軍将軍に降格され、開府はもとの如し。

原文四年正月,征帝入輔,授侍中、車騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史、錄尚書事,徐、兗二州刺史如故。表解兗州。先是,帝遣冠軍劉敬宣伐蜀賊譙縱,無功而還。九月,帝以敬宣挫退,遜位,不許。十月,乃降為中軍將軍,開府如故。

五年二月、偽燕の主慕容超が淮北を大いに掠める。三月、帝は表を奉って北討を請い、丹陽尹孟昶に中軍留府事を監させた。すなわち淮水を浮かび泗水に入り、五月、下邳に至り、船を留め、歩軍を進めて琅邪に至り、過ぐる所に城を築き守りを置いた。

原文五年二月,偽燕主慕容超大掠淮北。三月,帝抗表北討,以丹陽尹孟昶監中軍留府事。乃浮淮入泗,五月,至下邳,留船,步軍進琅邪,所過築城留守。

超の大将公孫五楼は大峴を断つことを請い、壁を堅くし野を清くして待つよう進言したが、超は従わなかった。初めこの役を謀るに、議する者は「賊もし大峴を厳守すれば、軍は資する所なく、どうして自ら返ることができようか」と言った。帝は「そうではない。鮮卑の性は貪にして、略するに遠く及ばず、既にその勝ちを幸いとし、かつその穀を愛すれば、必ず我を引き入れ、また戦いを軽んずるであろう。軍ひとたび峴に入れば、我何の患いかあらん」と言った。峴に入るに及んで、帝は手を挙げて天を指し「我が事成るべし」と言った。衆がその故を問うと、帝は「軍既に険を過ぎ、士に必死の志あり、余糧は畝に棲み、軍に匱乏の憂いなし。勝つこと必ずしも可なり」と言った。

原文超大將公孫五樓請斷大峴,堅壁清野以待,超不從。初謀是役,議者以為賊若嚴守大峴,軍無所資,何能自反?帝曰:「不然。鮮卑性貪,略不及遠,既幸其勝,且愛其穀,必將引我,且亦輕戰。師一入峴,吾何患焉。」及入峴,帝舉手指天曰:「吾事濟矣。」眾問其故,帝曰:「師既過險,士有必死之志,餘糧棲畝,軍無匱乏之憂,勝可必矣。」

六月、超は羸老を留めて広固を守らせ、その広寧王賀刺盧及び公孫五楼に力を尽くして臨朐を占拠させた。城を去ること四十里に巨蔑水あり、超は五楼に急ぎこれを占拠せよと告げた。至るに及んで、龍驤将軍孟龍符に保たれ、五楼はすなわち退いた。

原文六月,超留羸老守廣固,使其廣甯王賀刺盧及公孫五樓悉力據臨朐。去城四十里有巨蔑水,超告五樓急據之。比至,為龍驤將軍孟龍符所保,五樓乃退。

大軍は車四千両を分けて二翼と為し、軌を並べて徐行し、車には幰を張り、御者は肖を執り、騎兵を遊軍と為し、軍令は厳粛であった。臨朐に及ぶと、賊騎交々至り、帝は兗州刺史劉藩・并州刺史劉道憐らに命じてその陣を陥れしめた。日は昃に傾き、戦いなお酣なり、帝は参軍胡藩の策を用い、臨朐を襲って克ち、賊はすなわち大いに奔った。超は逃れて広固に還り、その玉璽・豹尾・輦等を獲て、都に送った。丙子の日、広固の大城を克ち、超はその小城に固守した。すなわち長囲を設けてこれを守り、青土に館穀し、江・淮の転輸を停めた。

原文大軍分車四千兩為二翼,方軌徐行,車張幰,禦者執肖,以騎為遊軍,軍令嚴肅。比及臨朐,賊騎交至,帝命兗州刺史劉藩、并州刺史劉道憐等陷其陣。日向昃,戰猶酣,帝用參軍胡藩策,襲克臨朐,賊乃大奔。超遁還廣固,獲其玉璽、豹尾、輦等,送於都。丙子,克廣固大城,超固其小城。乃設長圍以守之,館谷於青土,停江、淮轉輸。

七月、超の尚書郎張綱が姚興に師を乞い、長安より返る途中、泰山太守申宣がこれを捕らえて送った。綱は巧思あり、先に帝が攻具を修めると、城上の人が「汝は張綱を得ずして、何を為すことができようか」と言った。及んで綱が至ると、諸々の楼車に昇らせてこれを示すと、城内の者色を失わざるはなかった。超は既に救いを求めて得ず、綱は反って虜と見え、すなわち藩を称し、大峴を割いて境と為し、馬千匹を献ずることを求めたが、聞き入れられなかった。時に姚興が使者を遣わし、声言して将に淮左を渉らんとすと、帝はこれに謂って「爾は姚興に報ぜよ、我青州を定め、将に関谷を過ぎんとす、虜よく自ら送るならば、今その時なり」と言った。録事参軍劉穆之が急ぎ入って「この言は敵を威するに足らず、かえって彼を怒らしむるのみ。もし鮮卑未だ抜けず、西羌また至らば、公何を以てこれに待たん」と言うと、帝はすなわち笑って「これは兵機なり、子の及ぶ所にあらず。羌もし救うことができれば、先声あることなく、これ自ら強きなり」と言った。

原文七月,超尚書郎張綱乞師于姚興,自長安反,泰山太守申宣執送之。綱有巧思,先是,帝修攻具,城上人曰:「汝不得張綱,何能為也。」及至,升諸樓車以示之,城內莫不失色。超既求救不獲,綱反見虜,乃求稱藩,割大峴為界,獻馬千匹,不聽。時姚興遣使,聲言將涉淮左,帝謂曰:「爾報姚興,我定青州,將過函谷,虜能自送,今其時矣。」錄事參軍劉穆之遽入曰:「此言不足威敵,容能怒彼。若鮮卑未拔,西羌又至,公何以待之?」帝乃笑曰:「此兵機也,非子所及。羌若能救,不有先聲,是自強也。」

十月、張綱が攻具を修めて成り、飛楼・懸梯・木幔・板屋を設け、牛皮を冠せしめ、弓矢用いる所なし。劉毅が上党太守趙恢に千余人を以て来援せしめ、帝は夜ひそかに軍を遣わしてこれと会した。明くる朝、恢の衆五千、道を方に進まんとし、晋の使将到るごとに、すなわちまたこの如くした。六年二月丁亥、広固を屠り、超は城を踰えて走り、追ってこれを獲、建康の市で斬った。その王公以下を殺し、生口万余を納れ、馬二千匹を得た。

原文十月,張綱修攻具成,設飛樓縣梯,木幔板屋,冠以牛皮,弓矢無所用之。劉毅遣上党太守趙恢以千餘人來援,帝夜潛遣軍會之。明旦,恢眾五千,方道而進,每晉使將到,輒復如之。六年二月丁亥,屠廣固,超踰城走,追獲之,斬于建康市。殺其王公以下,納生口萬餘,馬二千匹。

初め、帝の北征するや、徐道覆が盧循に乗虚にして出ることを勧めたが、循は従わず、道覆はすなわち番禺に至り循を説いて「今日の機、万に失うべからず。もし京都を克てば、劉公たとえ還るも、為す能わざるなり」と言った。循はこれに従った。この月、南康・廬陵・豫章諸郡を寇し、郡守は皆奔走した。時に帝は将に下邳を鎮め、河・洛に進兵せんとし、征使の至るに及び、即日に班師した。鎮南将軍何無忌が道覆と戦い、敗れて豫章に死す、内外震駭し、朝議は乗輿を奉じて北走せんと欲した。帝は山陽に次す、敗報を聞き、甲を巻き数十人と江上に造り征問し、賊未だ至らざるを知った。

原文初,帝之北也,徐道覆勸盧循乘虛而出,循不從,道覆乃至番禺說循曰:「今日之機,萬不可失。若克京都,劉公雖還,無能為也。」循從之。是月,寇南康、廬陵、豫章諸郡,郡守皆奔走。時帝將鎮下邳,進兵河、洛,及征使至,即日班師。鎮南將軍何無忌與道覆戰,敗死于豫章,內外震駭,朝議欲奉乘輿北走。帝次山陽,聞敗,卷甲與數十人造江上征問,知賊尚未至。

四月癸未、帝は都に至る。劉毅自ら表して南征を請う、帝は賊新たに捷ち鋒鋭なるを以て、厳軍を須いて偕に進むべしとし、劉藩をしてこれを止めしめたが、毅は従わなかった。五月壬午、盧循が桑落洲にて毅を破る。及んで帝の凱入するを審らかにするや、相視て色を失い、尋陽に還り、江陵を平げ、二州を拠って朝廷に抗せんと欲した。道覆は勝に乗じて遂に下ることを請い、これを旬日争う、すなわち従った。

原文四月癸未,帝至都。劉毅自表南征,帝以賊新捷鋒銳,須嚴軍偕進,使劉藩止之,毅不從。五月壬午,盧循敗毅于桑落洲。及審帝凱入,相視失色,欲還尋陽,平江陵,據二州以抗朝廷。道覆請乘勝遂下,爭之旬日,乃從。

この時北師始めて還り、傷痍未だ復せず、戦士わずか数千、賊衆十余万、舳艫千里に亙る。孟昶・諸葛長人懼れ、天子を擁して江を渡らんと欲す、帝は「今兵士少なきも、なお一戦に足る。もしその克済すれば、臣主ともに休せん。もしその然らざれば、復た能く草間に求めて活くること能わず。吾が計決せり」と言った。初め、帝が慕容超を征するに、ただ孟昶のみ行くことを勧め、丙辰の日、昶はすなわち表して天子に引罪し、仰薬して死んだ。

原文于時北師始還,傷痍未復,戰士才數千,賊眾十餘萬,舳艫亙千里。孟昶、諸葛長人懼,欲擁天子過江,帝曰:「今兵士雖少,猶足一戰,若其克濟,臣主同休;如其不然,不復能草間求活,吾計決矣。」初,帝征慕容超,惟孟昶勸行,丙辰,昶乃表天子,引罪,仰藥而死。

時に議する者は兵を分かち諸津に屯守せんと欲す、帝は「賊衆我寡、その兵を分かてば人は虚実を測る。一処利あらずんば、すなわち三軍の心を沮す。もし衆を石頭に聚めれば、すなわち衆力分かたず」と言った。戊午、帝は石城に移鎮す。乙丑、賊大いに至る、帝は「賊もし新亭より直上すれば、かつ将にこれを避けん。もし回泊して蔡洲に至れば、禽と成るのみ」と言った。徐道覆は新亭より自ら舟を焚きて戦わんと欲す、循は疑い多く決断少なく、毎に万全を求め、すなわち蔡洲に泊して軍の潰るるを待った。帝は石頭に登り以て望み、これを見て悦んだ。庚辰、賊は南岸に伏兵を設け、疑兵を白石に向かわしむ。帝は劉毅・諸葛長人を率いて北にこれを拒ぎ、参軍徐赤特を留めて査浦に戍らしめ、戦うなかれと戒令した。帝既に北す、賊は査浦を焚きて張侯橋に至り、赤特これと戦い大敗し、賊進みて丹陽郡に屯す。帝は馳せて石頭に還り、徐赤特を斬った。甲を解くこと久しく、すなわち南塘に出陣した。七月庚申、循は蔡洲より退き、将に尋陽に還帰せんとす、帝は輔国将軍王仲德らを遣わしてこれを追わしめた。建威将軍孫処をして海道より番禺を襲わしめ、これを戒めて「我十二月必ず祅寇を破らん、卿もまた足りて番禺に至り、先ずその巣窟を傾けよ」と言った。

原文時議者欲分兵屯守諸津,帝曰:「賊眾我寡,分其兵則人測虛實,一處失利,則沮三軍之心,若聚眾石頭,則眾力不分。」戊午,帝移鎮石城。乙丑,賊大至,帝曰:「賊若新亭直上,且將避之;若回泊蔡洲,成禽耳。」徐道覆欲自新亭焚舟而戰,循多疑少決,每求萬全,乃泊蔡洲以待軍潰。帝登石頭以望,見之,悅。庚辰,賊設伏于南岸,疑兵向白石。帝率劉毅、諸葛長人北拒焉,留參軍徐赤特戍查浦,戒令勿戰。帝既北,賊焚查浦而至張侯橋,赤特與戰,大敗,賊進屯丹陽郡。帝馳還石頭,斬徐赤特。解甲久之,乃出陣于南塘。七月庚申,循自蔡洲退,將還歸尋陽,帝遣輔國將軍王仲德等追之。使建威將軍孫處自海道襲番禺,戒之曰:「我十二月必破祅寇,卿亦足至番禺,先傾其巢窟也。」

十月、帝は舟師を率いて南伐し、劉毅に太尉留府を監させた。この月、徐道覆が江陵を寇す、荊州刺史劉道規大いにこれを破り、道覆は走って湓口に還る。十一月、孫処が番禺に至り、その城を克ち、盧循の父嘏は始興に奔る、処はその人を撫して守る。十二月己卯、大軍は大雷に次す。庚辰、賊方に江を下る、帝躬みずから幡鼓を提げ、衆軍に命じて斉力してこれを撃たしむ、軍中に多し万鈞の神弩、至る所摧陷せざるなし。帝自ら中流に於いてこれを蹙め、風水の勢に因り、賊艦悉く西岸に薄し、岸上の軍先に火具を備えてこれを焚き、大敗せしむ。循は尋陽に還り、すなわち走って豫章に至り、力を尽くして左裏に柵す。丙申、大軍は左裏に次し、将に戦わんとす、帝これを麾す、麾竿折れ、幡水に沈む、衆皆懼る、帝笑って「昔覆舟の役もまた此の如し、今勝つこと必ずしも可なり」と言った。その柵を攻め、循は単舸にて走り、衆皆降る。師旋る、晋帝は侍中黄門を遣わして行在所に於いて師を労した。

原文十月,帝率舟師南伐,使劉毅監太尉留府。是月,徐道覆寇江陵,荊州刺史劉道規大破之,道覆走還湓口。十一月,孫處至番禺,克其城,盧循父嘏奔始興,處撫其人以守。十二月己卯,大軍次大雷。庚辰,賊方江而下,帝躬提幡鼓,命眾軍齊力擊之,軍中多萬鈞神弩,所至莫不摧陷。帝自于中流蹙之,因風水之勢,賊艦悉薄西岸,岸上軍先備火具焚之,大敗。循還尋陽,遂走豫章,悉力柵左裏。丙申,大軍次左裏,將戰,帝麾之,麾竿折,幡沈于水,眾咸懼,帝笑曰:「昔覆舟之役亦如此,今勝必矣。」攻其柵,循單舸走,眾皆降。師旋,晉帝遣侍中黃門勞師於行所。

七年正月己未、軍を整えて帰還し、大将軍・揚州牧に改めて授けられ、班剣二十人を給され、本来の官職はすべて従前の通りであった。固辞した。南北の征伐において戦死した者はすべて上奏して葬儀の贈り物を贈り、屍体が帰還していない者は主帥を派遣して迎えに赴かせ、故郷に送り届けさせた。

原文七年正月己未,振旅而歸,改授大將軍、揚州牧,給班劍二十人,本官並如故。固辭。凡南北征伐戰亡者,並列上賻贈,屍喪未反者,遣主帥迎接,致還本土。

二月、盧循が番禺に至り、孫処に撃破され、残兵を収めて南へ逃走した。劉藩・孟懐玉が始興において徐道覆を斬った。

原文二月,盧循至番禺,為孫處所破,收余眾南走。劉藩、孟懷玉斬徐道覆於始興。

晋の中興以来、朝廷の綱紀は弛緩紊乱し、権門は兼併を繰り返し、百姓は流離し、その産業を保つことができなかった。桓玄は大いに改めようとしたが、ついに実行できなかった。帝が輔政となると、大いに軌則を示し、豪強は粛然とし、遠近に禁令が行き渡った。この時、会稽余姚の虞亮がまた亡命者千余人を匿った。帝は亮を誅し、会稽内史司馬休之を免官した。

原文自晉中興以來,朝綱弛紊,權門兼併,百姓流離,不得保其產業。桓玄頗欲厘改,竟不能行。帝既作輔,大示軌則,豪強肅然,遠近禁止。至是,會稽余姚虞亮復藏匿亡命千餘人。帝誅亮,免會稽內史司馬休之。

晋帝はまた前の詔を重ねて申し述べたが、帝は固辞した。そこで太尉・中書監に改めて授けられ、これを受命し、黄鉞を奉送した。

原文晉帝又申前詔,帝固辭。於是改授太尉、中書監,乃受命,奉送黃鉞。

交州刺史杜恵度が盧循父子を斬り、七つの首を函に入れて都に送った。これ以前、諸州郡が派遣した秀才・孝廉は多く適任者ではなかったので、帝は上表して旧例を申し明らかにし、策試を行った。

原文交州刺史杜惠度斬盧循父子,函七首送都。先是,諸州郡所遣秀才、孝廉多非其人,帝乃表申明舊例,策試之。

荊州刺史劉道規が病を患い、帰還を求めた。八年四月、豫州刺史に改めて授け、豫州刺史劉毅をこれに代えた。毅は雄才大志を持ち、帝とともに晋室を興復したが、自ら京城・広陵の功績は互角であると思い、表面上は帝を推戴しながらも、内心は服していなかった。自らを大いに誇り、朝士で素望ある者は多く彼に帰し、尚書僕射謝混・丹陽尹郗僧施と深く結託した。江陵を鎮守するに及んで、豫州の旧府の多くを割いて自らに随わせ、僧施を南蛮校尉とするよう請うた。帝は毅がついに異端となることを知り、密かにこれを図った。毅が西に赴くと、病篤いと称し、従弟の兗州刺史劉藩を副武とするよう上表して求めた。帝は偽ってこれを許した。九月、藩が入朝すると、帝は命じて藩と謝混を収監し、ともに死を賜った。自ら上表して毅を討ち、また黄鉞を仮授され、諸軍を率いて西征した。前鎮軍将軍司馬休之を平西将軍・荊州刺史とし、兗州刺史劉道憐に丹徒を鎮守させ、豫州刺史諸葛長人に太尉留府事を監させ、太尉司馬丹陽尹劉穆之に建威将軍を加え、実力を配した。壬午、建鄴を出発し、参軍王鎮悪・龍驤将軍蒯恩を派遣して先に江陵を襲撃させ、これを陥落させ、毅とその党与は皆誅殺された。

原文荊州刺史劉道規疾患,求歸,八年四月,改授豫州刺史,以豫州刺史劉毅代之。毅既有雄才大志,與帝俱興復晉室,自謂京城、廣陵功足相抗,雖權事推帝,而心不服也。厚自矜許,朝士素望者並多歸之,與尚書僕射謝混、丹陽尹郗僧施並深相結。及鎮江陵,豫州舊府多割以自隨,請僧施為南蠻校尉。帝知毅終為異端,心密圖之。毅至西,稱疾篤,表求從弟兗州刺史藩以為副貳,帝偽許焉。九月,藩入朝,帝命收藩及謝混,並賜死。自表討毅,又假黃鉞,率諸軍西征。以前鎮軍將軍司馬休之為平西將軍、荊州刺史,兗州刺史道憐鎮丹徒,豫州刺史諸葛長人監太尉留府事,加太尉司馬丹陽尹劉穆之建威將軍,配以實力。壬午,發建鄴,遣參軍王鎮惡、龍驤將軍蒯恩前襲江陵,克之,毅及黨與皆伏誅。

十一月、帝は江陵に至り、荊州十郡を分けて湘州とし、帝は引き続きこれを都督した。西陽太守朱齢石を益州刺史とし、蜀を伐たせた。晋帝は帝を太傅・揚州牧に進め、羽葆・鼓吹を加え、班剣二十人を賜った。

原文十一月,帝至江陵,分荊州十郡為湘州,帝仍進督焉。以西陽太守朱齡石為益州刺史,使伐蜀。晉帝進帝太傅、揚州牧,加羽葆、鼓吹,班劍二十人。

九年二月乙丑、帝は江陵より帰還した。初め、諸葛長人は貪淫驕横で、帝は常に寛容に扱っていた。劉毅が誅殺されると、長人は親しい者に言った、「往年は彭越を醢にし、今年は韓信を殺す、禍いがまさに至らんとしている」と。乱を謀ろうとした。帝は期日を定めて都に帰還するはずであったが、毎回遅滞して進まなかった。公卿以下は連日新亭で奉迎し、長人もたびたび出迎えた。やがて帝は軽舟で密かに到着し、すでに東府に戻っていた。長人が門に至ると、前に進められ、人払いして語り合い、平生言い尽くせなかったことをすべて話し合い、長人は大いに喜んだ。帝はすでに密かに左右の丁旿に命じて幔の後ろから出させ、座においてこれを引き倒し、床の側で死なせた。屍を車に載せて廷尉に渡し、その弟の黎人も誅した。旿は驍勇で力があり、当時の人は言った、「跋扈するな、丁旿に付すぞ」と。

原文九年二月乙丑,帝至自江陵。初,諸葛長人貪淫驕橫,帝每優容之。劉毅既誅,長人謂所親曰:「昔年醢彭越,今年殺韓信,禍其至矣。」將謀作亂。帝克期至都,而每淹留不進。公卿以下,頻日奉候於新亭,長人亦驟出。既而帝輕舟密至,已還東府矣。長人到門,引前,卻人閑語,凡平生言所不盡者,皆與及之,長人甚悅。帝已密命左右丁旿自幔後出,於坐拉焉,死於床側。輿屍付廷尉,並誅其弟黎人。旿驍勇有力,時人語曰,「勿跋扈,付丁旿」。

これ以前、山湖川沢はすべて豪強に奪われ、百姓が薪を採り魚を釣るにも、すべて税を課せられていたが、この時に至ってこれを禁断した。当時人の居住は統一されておらず、帝は上表して制度を定め、そこで境界に依って土断を行い、ただ徐・兗・青の三州で晋陵に居住する者は土断の例に含めなかった。諸々の流寓郡県は多く合併廃止された。帝に鎮西将軍・豫州刺史を兼任させた。帝は太傅・揚州牧および班剣を固辞し、黄鉞を奉還した。

原文先是,山湖川澤皆為豪強所奪,百姓薪采漁釣,皆責稅直,至是禁斷之。時人居未一,帝上表定制,於是依界土斷,惟徐、兗、青三州居晉陵者不在斷例。諸流寓郡縣,多所並省。以帝領鎮西將軍、豫州刺史。帝固讓太傅、揚州牧及班劍,奉還黃鉞。

七月、朱齢石が蜀を平定し、譙縦を斬り、首を建鄴に伝送した。

原文七月,朱齡石平蜀,斬譙縱,傳首建鄴。

九月、晋帝は帝の斉平定・盧循平定の功績により、帝の次子義真を桂陽県公に封じた。また前の命を重ねて申し述べ、帝に太傅・揚州牧を授け、羽葆・鼓吹を加え、班剣二十人を賜った。将吏百官が敦促したので、羽葆・鼓吹・班剣のみを受け、その他は固辞した。

原文九月,晉帝以帝平齊、定盧循功,封帝次子義真為桂陽縣公;並重申前命,授帝太傅、揚州牧,加羽葆、鼓吹,班劍二十人。將吏百僚敦勸,乃受羽葆、鼓吹、班劍,餘固辭。

十年、民を休ませて労役を簡素化し、東府城を築き、府舎を建てた。

原文十年,息人簡役,築東府城,起府舍。

帝は荊州刺史司馬休之が宗室の重鎮であり、また江・漢の人心を得ているので、異心があるのではないかと疑った。休之の子で譙王の文思が都におり、軽侠を招集していたので、帝はこれを捕らえて休之に送り、自ら処分するよう命じた。休之は上表して文思を廃し、また帝に書を送って陳謝した。

原文帝以荊州刺史司馬休之宗室之重,又得江、漢人心,疑其有異志;而休之子譙王文思在都,招聚輕俠,帝執送休之,令自為其所。休之表廢文思,並與帝書陳謝。

十一年正月、帝は休之の子文宝・兄の子文祖を収監し、ともに死を賜い、衆を率いて西討した。また黄鉞を仮授され、荊州刺史を兼任した。中軍将軍劉道憐に留府事を監させた。休之は上表して自らを陳べ、また帝を罪状として挙げた。休之の府の録事参軍韓延之は有能な才幹があり、帝が江陵に至る前に、密かに書を送って招いた。延之は返書して言った、「親しく戎馬を率いて、遠く西辺を踏まれ、全境の士庶は、みな惶駭しない者はいない。辱くも書簡を賜り、譙王の前事によることを知り、まことに歎息を増す。司馬平西(休之)は国体に忠貞で、誠意をもって人を待ち、公が匡復の勲功があり、家国がその恩頼を受けたので、その徳を推して誠を委ね、何事も仰ぎ尋ねていた。譙王はかつて些細な事で弾劾された時でさえ、自ら上表して退位した。ましてや大過があって黙っているべきだろうか。来示に『処懐期物、自ら由来有り』とある。今、人の君を伐ち、人に利を啖わせるとは、まさに『処懐期物』と言うべきである。劉藩は閶闔の門で死に、諸葛は左右の手で斃れ、甘言をもって方伯を欺き、軽兵をもってこれを襲い、遂に席上には款懐の士がなく、閫外には自信ある諸侯がなく、これを得策とするとは、まことに恥ずべきことである。私は鄙劣ではあるが、かつて君子より道を聞き、平西の至徳をもって、どうして命を授ける臣がいないことがあろうか。仮に天が長く喪乱し、九流が渾濁したとしても、臧洪とともに地下で遊ぼう。多くは語らない」と。帝は書を見て歎息し、将佐に示して言った、「人に仕えるとはこのようであるべきだ」と。

原文十一年正月,帝收休之子文寶、兄子文祖,並賜死,率眾西討。復假黃鉞,領荊州刺史。以中軍將軍道憐監留府事。休之上表自陳,並罪狀帝。休之府錄事參軍韓延之有幹用才,帝未至江陵,密書招之。延之報書曰:「承親率戎馬,遠履西偏,闔境士庶,莫不惶駭。辱疏,知以譙王前事,良增歎息。司馬平西體國忠貞,款懷待物,以公有匡復之勳,家國蒙賴,推德委誠,每事詢仰。譙王往以微事見劾,猶自表遜位;況以大過而當默邪!來示雲,‘處懷期物,自有由來’。今伐人之君,啖人以利,真可謂‘處懷期物’者矣。劉藩死於閶闔之門,諸葛斃於左右之手,甘言詫方伯,襲之以輕兵,遂使席上靡款懷之士,閫外無自信諸侯,以為得算,良所恥也。吾雖鄙劣,嘗聞道于君子,以平西之至德,寧可無授命之臣乎?假天長喪亂,九流渾濁,當與臧洪游於地下。不復多云。」帝視書歎息,以示將佐曰:「事人當如此。」

三月、軍は江陵に駐屯した。初め、雍州刺史魯宗之は力を恃んで乱を好み、また帝に容れられないことを慮り、常に讖言を作って言った、「魚が日に登れば、帝室を輔ける」と。休之と結託した。この時に至り、その子の竟陵太守魯軌を率いて江陵で合流した。帝が江を渡ると、休之の衆は潰走し、軌らとともに襄陽に奔った。江陵は平定された。南蛮校尉を兼任させた。南蛮校尉を拝授しようとした時、四廃の日に当たり、佐史の鄭鮮之らが日を改めるよう申し出たが、許さなかった。詔書を下して寛大な恩赦を行った。四月、軍を進めて襄陽に至ると、休之らは姚興のもとに奔った。晋帝はまた前の命を重ねて申し述べ、太傅・揚州牧を授け、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名を許し、前部の羽葆・鼓吹を加え、左右長史・司馬・従事中郎四人を置き、第三子義隆を北彭城県公に封じた。八月甲子、帝は江陵より帰還し、黄鉞を奉還し、太傅・州牧・前部羽葆・鼓吹を固辞し、その他のみを受命した。

原文三月,軍次江陵。初,雍州刺史魯宗之負力好亂,且慮不為帝容,常為讖曰:「魚登日,輔帝室。」與休之相結。至是,率其子竟陵太守軌會于江陵。帝濟江,休之眾潰,與軌等奔襄陽,江陵平。加領南蠻校尉。將拜南蠻,遇四廢日,佐史鄭鮮之等白遷日,不許。下書開寬大之恩。四月,進軍襄陽,休之等奔姚興。晉帝復申前令,授太傅、揚州牧,劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名,加前部羽葆、鼓吹,置左右長史、司馬、從事中郎四人,封第三子義隆為北彭城縣公。八月甲子,帝至自江陵,奉還黃鉞,固辭太傅、州牧、前部羽葆、鼓吹,其餘受命。

十二年正月、晋の皇帝は詔を下し、帝が旧例に従って士を辟召することを許し、平北将軍・兗州刺史を加領させ、南秦を増督し、合わせて二十二州を管轄させた。帝は平北府の文武の官が少ないとして、別に設置すべきでないと考え、ここに平北府を廃止して大府に併合した。三月、帝に中外大都督を加えた。

原文十二年正月,晉帝詔帝依舊辟士,加領平北將軍、兗州刺史,增督南秦,凡二十二州。帝以平北文武寡少,不宜別置,於是罷平北府,以並大府。三月,加帝中外大都督。

初め、帝が斉を平定した時、なお関中・洛陽を定めようとする意向があったが、盧循の侵攻逼迫に遭ったため、取りやめた。荊州・雍州が平定された後、外征を謀った。折しも姚興が死に、子の姚泓が新たに立ち、兄弟が互いに殺し合い、関中は擾乱した。四月乙丑、帝は関中・洛陽征伐を上表し、戒厳令を敷いて北討し、征西将軍・司州豫州二州刺史を加領した。世子を徐州・兗州二州刺史とした。帝は正義の名声をもって遠方を懐柔しようとし、琅邪王を奉じて北伐しようとした。五月、廬江郡霍山が崩れ、六つの鐘を獲得し、天子に献上した。癸巳、北雍州刺史を加領し、前後部の羽葆・鼓吹を加え、班剣を増員して四十人とした。八月丁巳、大衆を率いて進発し、世子を中軍将軍とし、太尉留府事を監させ、尚書右僕射劉穆之を左僕射とし、監軍・中軍二府の軍司を領させ、東府に入居させ、内外を総摂させた。九月、帝は彭城に至り、北徐州刺史を加領した。十月、諸軍は洛陽に至り、金墉城を包囲してこれを降した。晋の五陵を修復し、守衛を置いた。

原文初,帝平齊,仍有定關、洛意,遇盧循侵逼,故寢。及荊、雍平,乃謀外略。會姚興死,子泓新立,兄弟相殺,關中擾亂。四月乙丑,帝表伐關、洛,乃戒嚴北討,加領征西將軍、司豫二州刺史。以世子為徐、兗二州刺史。帝欲以義聲懷遠,奉琅邪王北伐。五月,廬江霍山崩,獲六鍾,獻之天子。癸巳,加領北雍州刺史,前後部羽葆、鼓吹,增班劍為四十人。八月丁巳,率大眾進發,以世子為中軍將軍,監太尉留府事,尚書右僕射劉穆之為左僕射,領監軍、中軍二府軍司,入居東府,總攝內外。九月,帝至彭城,加領北徐州刺史。十月,眾軍至洛,圍金墉,降之。修復晉五陵,置守衛。

十二月壬申、晋の皇帝は帝の位を相国・総百揆・揚州牧に加え、十郡を封じて宋公とし、九錫の礼を備え、璽綬・遠遊冠・緑綟綬を加え、諸侯王の上に位した。策文に曰く。

原文十二月壬申,晉帝加帝位相國、總百揆、揚州牧,封十郡為宋公,備九錫之禮,加璽紱、遠遊冠、綠綟綬,位在諸侯王上。策曰:

十三年正月、帝は水軍を率いて進討し、彭城公劉義隆を留めて彭城を鎮守させた。軍は陳留城に駐屯し、張良廟を経過した時、時に応じて棟宇を修飾し祭祀を捧げるよう命じた。晋の皇帝は帝の祖父を太常に、父を特進・左光禄大夫に追贈したが、帝は辞退して受けなかった。二月、冠軍将軍檀道済らの軍は潼関に駐屯した。三月庚辰、帝は大軍を率いて黄河に入った。五月、帝は洛陽に至り、晋の五陵を拝謁した。七月、陝に至り、龍驤将軍王鎮悪が水軍を率いて黄河から渭水を浮上った。八月、扶風太守沈田子が藍田で姚泓の軍を大破し、王鎮悪が長安を攻克し、姚泓を生け捕りにした。初め義熙九年、歳星・鎮星・熒惑・太白が東井に聚まったが、ここに至って関中が平定された。九月、帝は長安に至った。長安は豊作で、府庫の蔵は満ち溢れていた。帝はまずその彝器・渾儀・土圭・記里鼓・指南車及び秦始皇帝の玉璽を収めて都に送った。その他の珍宝珠玉は、全て将帥に分け与えて賜った。姚氏の一族を江南に移し、姚泓を建康の市で斬首に処した。漢の長陵を拝謁し、未央殿で文武を大会した。

原文十三年正月,帝以舟師進討,留彭城公義隆鎮彭城。軍次陳留城,經張良廟,下令以時修飾棟宇致薦焉。晉帝追贈帝祖為太常,父為特進、左光祿大夫,讓不受。二月,冠軍將軍檀道濟等軍次潼關。三月庚辰,帝率大軍入河。五月,帝至洛陽,謁晉五陵。七月,至陝,龍驤將軍王鎮惡舟師自河浮渭。八月,扶風太守沈田子大破姚泓軍于藍田,王鎮惡克長安,禽姚泓。始義熙九年,歲、鎮、熒惑、太白聚東井,至是而關中平。九月,帝至長安。長安豐稔,帑藏盈積,帝先收其彝器、渾儀、土圭、記裏鼓、指南車及秦始皇玉璽送之都;其餘珍寶珠玉,悉以班賜將帥。遷姚宗於江南,送泓斬于建康市。謁漢長陵,大會文武於未央殿。

十月、晋の皇帝は詔を下し、宋公の爵位を王に進め、十郡を増やして宋国に加え、前の分と合わせて二十郡とした。その相国・揚州牧・征西将軍を領し、司州豫州北徐州雍州四州刺史は従前の通りとした。帝は長安に駐留し、趙・魏を経略しようとしたが、十一月、前将軍劉穆之が卒したため、帰還した。十二月庚子、長安を出発し、桂陽公劉義真を雍州刺史とし、長安を鎮守させ、腹心の将佐を留めてこれを補佐させた。

原文十月,晉帝詔進宋公爵為王,加十郡益宋國,並前為二十郡。其相國、揚州牧、領征西將軍、司豫北徐雍四州刺史如故。帝欲息駕長安,經略趙、魏,十一月,前將軍劉穆之卒,乃歸。十二月庚子,發自長安,以桂陽公義真為雍州刺史,鎮長安,留腹心將佐以輔之。

十四年正月壬戌、帝は彭城に至り、戒厳を解き兵を休めた。輔国将軍劉遵考を并州刺史とし、河東太守を領させ、蒲阪を鎮守させた。帝は司州刺史を解き、徐州・冀州二州刺史を領し、進爵を固辞した。時に漢中成固県の漢水の岸辺で雷のような異音がし、間もなく岸が崩れ、十二の銅鐘が地下から現れた。鞏県の人宗曜がその田で嘉禾を得、九つの穂が同じ茎についていた。帝はこれを献上したが、晋の皇帝はこれを我が方に帰した。帝は謙譲して、やめた。六月丁亥、相国宋公九錫の命を受け、国内の殊死以下の罪を赦す命令を下した。詔して豫章太夫人を宋公太妃と崇め、世子を中軍将軍副貳とし、相国府の百官は全て天朝の制度に従うとした。また詔して宋国に封じられた十郡の外は、全て任用できるとした。先に、安西中兵参軍沈田子が安西司馬王鎮悪を殺し、諸将が安西長史王修を殺し、関中が乱れた。十月、帝は右将軍朱齢石を遣わし、安西将軍桂陽公劉義真に代えて雍州刺史とした。義真が帰還する途中、赫連勃勃に追撃され、大敗して僅かに身一つで逃れ、諸将帥及び朱齢石は共に没した。

原文十四年正月壬戌,帝至彭城,解嚴息甲。以輔國將軍劉遵考為并州刺史,領河東太守,鎮蒲阪。帝解司州,領徐、冀二州刺史,固讓進爵。時漢中成固縣漢水崖際有異聲如雷,俄頃岸崩,有銅鍾十二,出自潛壤。鞏縣人宗曜于其田所獲嘉禾,九穗同莖,帝以獻,晉帝以歸於我。帝沖讓,乃止。六月丁亥,受相國宋公九錫之命,下命赦國內殊死以下。詔崇豫章太夫人為宋公太妃,世子為中軍將軍副貳,相國府百官悉依天朝之制。又詔宋國所封十郡之外,悉得除用。先是,安西中兵參軍沈田子殺安西司馬王鎮惡,諸將殺安西長史王修,關中亂。十月,帝遣右將軍朱齡石代安西將軍桂陽公義真為雍州刺史。義真還,為赫連勃勃所追,大敗,僅以身免,諸將帥及齡石並沒。

十二月、晋の安帝が崩御し、大司馬琅邪王が帝位に即いた。元熙元年正月、晋の皇帝は詔して帝を征し入朝補佐させ、また前の命令を繰り返し、公爵を王に進め、徐州の海陵・北東海・北譙・北梁、豫州の新蔡、兗州の北陳留、司州の陳郡・汝南・潁川・滎陽の十郡を以て宋国に増封した。七月、ここに命を受けた。国内の五年刑以下の者を赦し、都を寿陽に遷した。九月、揚州刺史を解任した。十二月、晋の皇帝は帝に十二旒の冕を授け、天子の旌旗を立て、出入りに警蹕を行い、金根車に乗り、六馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭・雲罕を置き、楽舞は八佾とし、鍾虡宮懸を設けた。王太妃を太后に、王妃を王后に、世子を太子に進め、王子・王孫の爵命の号は、全て旧儀の通りとした。二年正月、帝は殊礼を辞退する上表をした。竟陵郡の江辺が自然に開き、古い銅の礼器十余枚が現れた。帝はこれを晋の皇帝に献上したが、辞退されて受け取られず、ここに諸々の瑞物を帰属させ、相府に蔵めた。四月、詔を遣わして敦促し、兼ねて帝を征し入朝補佐させた。六月壬戌、帝は都に至った。甲寅、晋の皇帝は宋に禅位した。有司が詔書の草稿を既に完成させ、書写を請うと、天子は直ちに筆を執り、左右の者に謂って曰く、「桓玄の時、天命は既に改まり、重ねて劉公によって延ばされ、将に二十載となる。今日の事は、本来甘んじて受ける所である」。甲子、使者を遣わして策文を奉りて曰く。

原文十二月,晉安帝崩,大司馬琅邪王即帝位。元熙元年正月,晉帝詔征帝入輔,又申前令,進公爵為王,以徐州之海陵北東海北譙北梁、豫州之新蔡、兗州之北陳留、司州之陳郡汝南潁川滎陽十郡,增宋國。七月,乃受命。赦國內五歲刑以下,遷都壽陽。九月,解揚州。十二月,晉帝命帝冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂舞八佾,設鍾虡宮縣。進王太妃為太后,王妃為王后,世子為太子,王子、王孫爵命之號,一如舊儀。二年正月,帝表讓殊禮。竟陵郡江濱自開,出古銅禮器十餘枚,帝獻之晉帝,讓不受,於是歸諸瑞物,藏於相府。四月,詔遣敦勸,兼征帝入輔。六月壬戌,帝至都。甲寅,晉帝禪位於宋。有司草詔既成,請書之,天子即便操筆,謂左右曰:「桓玄之時,天命已改,重為劉公所延,將二十載。今日之事,本所甘心。」甲子,遣使奉策曰:

帝は上表して辞退を陳べたが、晋の皇帝は既に琅邪王の邸に退いており、上表は通じなかった。ここに陳留王司馬虔嗣ら二百七十人及び宋台の群臣が共に上表して勧進したが、なお許さなかった。太史令駱達が天文の符応を陳べて曰く、「晋の義熙元年から元熙元年に至るまで、太白が昼間に経天すること凡そ七度、占いに曰く『太白経天、人主を更え、異姓興る』。義熙七年、五虹が東方に現る、占いに曰く『五虹見ゆれば、天子黜され、聖人出ず』。九年、鎮星・歳星・太白・熒惑が東井に聚まる。十三年、鎮星が太微に入る。占いに曰く『鎮星太微を守れば、王を立つる有り、王を徙す有り』。元熙元年冬、黒龍四たび天に登る、易伝に曰く『冬、龍見ゆれば、天子社稷を亡ぼし、大人命を受く』。冀州の道人釈法称がその弟子に告げて曰く『嵩の神言う、江東に劉将軍有り、漢家の苗裔、まさに天命を受くべし、我れ璧三十二・鎮金一餅を以てこれに与う、劉氏の世を卜するの数なり』。漢の建武から建安末まで百九十六年で魏に禅じ、魏は黄初から咸熙末まで四十六年で晋に禅じ、晋は泰始から今まで百五十六年、三代の揖譲は、皆六に窮まる。また漢の光武帝が南陽に社を建て、漢末にその樹が死に、劉備が蜀を有して、これに応じて興った。晋の末年に及び、旧根が初めて萌し、ここに至って盛んになった」。このようなものが数十条有った。群臣がまた固く請うたので、ここに従った。

原文帝奉表陳讓,晉帝已遜于琅邪王第,表不獲通。於是陳留王虔嗣等二百七十人及宋台群臣並上表勸進,猶不許。太史令駱達陳天文符應曰:「案晉義熙元年至元熙元年,太白晝見經天凡七,占曰:'太白經天,人更主,異姓興。'義熙七年,五虹見於東方,占曰:'五虹見,天子黜,聖人出。'九年,鎮星、歲星、太白、熒惑聚于東井。十三年,鎮星入太微。占曰:'鎮星守太微,有立王,有徙王。'元熙元年冬,黑龍四登于天,易傳曰:'冬,龍見,天子亡社稷,大人受命。'冀州道人釋法稱告其弟子曰:'嵩神言,江東有劉將軍,漢家苗裔,當受天命,吾以璧三十二、鎮金一餅與之,劉氏卜世之數也。'漢建武至建安末一百九十六年而禪魏,魏自黃初至咸熙末四十六年而禪晉,晉自泰始至今百五十六年,三代揖讓,咸窮於六。又漢光武社於南陽,漢末而其樹死,劉備有蜀,乃應之而興;及晉季年,舊根始萌,至是而盛矣。」若此者有數十條。群臣又固請,乃從之。

永初元年夏六月丁卯、皇帝は南郊で即位し、壇を設け、柴燎を焚いて天に告げて曰く。

原文永初元年夏六月丁卯,皇帝即位于南郊,設壇,柴燎告天曰:

皇帝たる臣の裕、敢えて玄牡を用い、皇皇后帝に昭かに告ぐ。晋は卜世を以て終わりを告げ、歴数は帰する所あり、景運を欽若し、以て裕に命ず。夫れ君を樹てて世を宰つは、天下を公と為し、徳は帝王に充ち、推される楽しみ攸に集まる。唐虞を越え、漢魏に降りて、上哲をもって文祖に格り、元勲をもって帝位に陟らざるはなく、故に能く大いに黔首を拯い、訓えを垂れて窮まり無し。晋は東遷より以来、四維振わず、宰輔焉に依る所となり、日既に久し。難は隆安に棘し、禍は元興に成り、遂に帝主の遷播に至り、宗祀は堙滅す。裕は地は斉・晋に非ず、衆は一旅無しと雖も、時に憤りを仰ぎ、横流を悼みて俯し、袂を投げて一たび起つや、則ち皇祀克く復す。及び危うくして能く持ち、顛倒して能く扶け、奸宄具に殲され、僭偽も亦滅ぶ。誠に興廃期有り、否終わり数有り。大いに晋室を造り、乱を撥ね時を済すに至りては、時に因り藉りて来たり、実に其の重きを屍す。加うるに殊俗義を慕い、重訳来庭し、正朔の暨ぶ所、咸に声教に服す。乃ち三霊象を垂れ、山川祥を告げ、人神祉を協え、歳月滋に著わし。是を以て群公卿士、億兆の夷人、僉に曰く「皇霊上に降鑒し、晋朝下に款誠す。天命は以て久しく淹すべからず、宸極は以て暫く曠くべからず」と。遂に群議に逼られ、此の大礼を恭しくす。猥りに寡徳を以て、兆人の上に托る。天威を仰ぎ畏るるは、略ねば小節なりと雖も、顧みて深く永く懐い、祗懼すること霣るるが若し。謹みて元日を簡び、壇に升りて禅を受け、上帝に告類し、以て万国の情に酬い、天保を克隆し、永く祚を有宋にせん。惟れ明霊は是を饗え。

原文皇帝臣裕敢用玄牡,昭告於皇皇后帝:晉以卜世告終,歷數有歸,欽若景運,以命於裕。夫樹君宰世,天下為公,德充帝王,樂推攸集。越俶唐虞,降暨漢魏,靡不以上哲格文祖,元勳陟帝位,故能大拯黔首,垂訓無窮。晉自東遷,四維不振,宰輔焉依,為日已久。難棘隆安,禍成元興,遂至帝主遷播,宗祀堙滅。裕雖地非齊、晉,眾無一旅,仰憤時難,俯悼橫流,投袂一起,則皇祀克復。及危而能持,顛而能扶,奸宄具殲,僭偽亦滅,誠興廢有期,否終有數。至於大造晉室,撥亂濟時,因藉時來,實屍其重。加以殊俗慕義,重譯來庭,正朔所暨,咸服聲教。至乃三靈垂象,山川告祥,人神協祉,歲月滋著。是以群公卿士,億兆夷人,僉曰:「皇靈降鑒於上,晉朝款誠於下,天命不可以久淹,宸極不可以暫曠。」遂逼群議,恭茲大禮。猥以寡德,托於兆人之上,雖仰畏天威,略是小節,顧深永懷,祗懼若霣。敬簡元日,升壇受禪,告類上帝,用酬萬國之情,克隆天保,永祚于有宋。惟明靈是饗!

礼畢わり、法駕を備え、建康宮に幸し、太極前殿に臨み、大赦し、元を改む。人に爵二級を賜う。鰥寡孤独自ら存すること能わざる者には、人ごとに穀五斛こくを給し、逋租宿責は収むる勿れ。其の郷論清議を犯し、贓汚淫盗ある者は、一に皆蕩滌す。長徒の身は、特みに皆原遣す。亡官失爵・禁錮奪労は、一に旧准に依る。晋帝を零陵王に封じ、一郡を全食とし、天子の旌旗を載せ、五時の副車に乗じ、晋の正朔を行い、天地を郊祀し、礼楽制度は皆晋典を用い、上書は表と為さず、答表は詔と称せず、故秣陵に宮す。皇考を追尊して孝穆皇帝と為し、妣を穆皇后と為し、王太后を尊びて皇太后と為す。詔して曰く「夫れ微禹の感は、後昆に歎き深く、人を愛して樹を懐うも、猶或は翦らざる有り。異代に在りと雖も、義として廃絶無く、降殺の儀は、一に前典に依るべし。始興公を降して県公と為し、廬陵公を柴桑県公と為し、始安公を荔浦県侯と為し、長沙公を醴陵県侯と為し、康楽公は即ち降して県侯と為し、王導・謝安・温嶠・陶侃・謝玄の祀を奉ぜしめ、其の義熙に宣力せる者は、一に本秩に仍るべし」と。

原文禮畢,備法駕,幸建康宮,臨太極前殿,大赦,改元。賜人爵二級。鰥寡孤獨不能自存者,人穀五斛,逋租宿責勿收。其犯鄉論清議,贓汙淫盜,一皆蕩滌。長徒之身,特皆原遣。亡官失爵、禁錮奪勞,一依舊准。封晉帝為零陵王,全食一郡,載天子旌旗,乘五時副車,行晉正朔,郊祀天地,禮樂制度,皆用晉典,上書不為表,答表不稱詔,宮於故秣陵。追尊皇考為孝穆皇帝,妣為穆皇后,尊王太后為皇太后。詔曰:「夫微禹之感,歎深後昆,愛人懷樹,猶或勿翦。雖在異代,義無廢絕,降殺之儀,一依前典。可降始興公為縣公,廬陵公為柴桑縣公,始安公為荔浦縣侯,長沙公為醴陵縣侯,康樂公即降為縣侯,奉王導、謝安、溫嶠、陶侃、謝玄之祀,其宣力義熙者,一仍本秩。」

庚午、司空道憐を以て太尉と為し、長沙王に封じ、南郡公義慶を立てて臨川王と為す。又詔して戦亡追贈及び酬賞除復の科を論ず。乙亥、皇子桂陽公義真を廬陵王に封じ、彭城公義隆を宜都王に封じ、義康を彭城王に封ず。丁丑、使をして四方に巡行せしめ、賢を旌げ善を挙げ、人の疾苦を問い、獄訟の虧濫・政刑の乖愆・化を傷げ俗を擾し、未だ人聴に允ならざる者は、皆具に以て聞かしむ。戊寅、詔して百官の奉を増す。己卯、晋の泰始暦を改めて永初暦と為し、社は子を以てし、臘は辰を以てす。

原文庚午,以司空道憐為太尉,封長沙王,立南郡公義慶為臨川王。又詔論戰亡追贈及酬賞除復之科。乙亥,封皇子桂陽公義真為廬陵王,彭城公義隆為宜都王,義康為彭城王。丁丑,使使巡行四方,旌賢舉善,問人疾苦,獄訟虧濫、政刑乖愆、傷化擾俗、未允人聽者,皆具以聞。戊寅,詔增百官奉。己卯,改晉泰始曆為永初曆,社以子,臘以辰。

秋七月丁亥、劫賊余口の台府に在って没する者を原放し、諸の流徙の家は、並びに本に還るを聴す。又市税の繁苦を以て、優に量りて減降す。関・洛に従征し、身を殞して反らざる者には、其の家を贍賜す。己丑、陳留王曹虔嗣薨ず。辛卯、五校三将の官を復置し、殿中將軍の員を二十人増し、余は員外に在らしむ。戊戌、征西大将軍・開府儀同三司楊盛、車騎大将軍に進号す。甲辰、鎮西将軍李歆、征西大将軍に進号し、平西将軍乞伏熾盤、安西大将軍に進号し、征東将軍高句麗王高璉、征東大将軍に進号し、鎮東将軍百済王扶餘映、鎮東大将軍に進号す。東宮冗従僕射・旅賁中郎将の官を置く。戊申、神主を太廟に遷し、車駕親しく奉ず。壬子、詔して権制を改め、率ね寬簡に従う。

原文秋七月丁亥,原放劫賊餘口沒在台府者,諸流徙之家,並聽還本。又以市稅繁苦,優量減降。從征關、洛,殞身不反者,贍賜其家。己丑,陳留王曹虔嗣薨。辛卯,復置五校三將官,增殿中將軍員二十人,余在員外。戊戌,征西大將軍、開府儀同三司楊盛進號車騎大將軍。甲辰,鎮西將軍李歆進號征西大將軍,平西將軍乞伏熾盤進號安西大將軍,征東將軍高句麗王高璉進號征東大將軍,鎮東將軍百濟王扶餘映進號鎮東大將軍。置東宮冗從僕射、旅賁中郎將官。戊申,遷神主於太廟,車駕親奉。壬子,詔改權制,率從寬簡。

八月辛酉、詔して旧郡県の北を以て名と為す者は悉く除き、南に寓立する者は、南を以て号とするを聴す。戊辰、詔して曰く「彭城は桑梓、本を敦くする斯に隆く、宜しく豊・沛と同じくすべし。其の沛郡・下邳は各租布三十年を復す」と。辛未、妃臧氏を追諡して敬皇后と為し、陵を永寧と曰う。癸酉、王太子義符を立てて皇太子と為す。乙亥、罪人を見て赦す。閏月壬午、晋帝諸陵の守衛を置き、其の名賢先哲は、詳かに灑掃を加う。丁酉、林邑国使いを遣わして朝貢す。

原文八月辛酉,詔舊郡縣以北為名者悉除之,寓立于南者,聽以南為號。戊辰,詔曰:「彭城桑梓,敦本斯隆,宜同豐、沛。其沛郡、下邳各復租布三十年。」辛未,追諡妃臧氏為敬皇后,陵曰永寧。癸酉,立王太子義符為皇太子。乙亥,赦見罪人。閏月壬午,置晉帝諸陵守衛,其名賢先哲,詳加灑掃。丁酉,林邑國遣使朝貢。

九月壬子、東宮殿中將軍十人、員外二十人を置く。壬申、都官尚書を置く。

原文九月壬子,置東宮殿中將軍十人,員外二十人。壬申,置都官尚書。

是の歳、魏の明元皇帝泰常五年。西涼亡ぶ。

原文是歲,魏明元皇帝泰常五年。西涼亡。

二年春正月辛酉、南郊に祀り、大赦す。丙寅、金銀塗を断つ。揚州刺史廬陵王義真を以て司徒と為し、尚書僕射徐羨之を以て尚書令・揚州刺史と為す。己卯、喪事に銅釘を用いるを禁ず。会稽郡府を罷む。

原文二年春正月辛酉,祀南郊,大赦。丙寅,斷金銀塗。以揚州刺史廬陵王義真為司徒,以尚書僕射徐羨之為尚書令、揚州刺史。己卯,禁喪事用銅釘。罷會稽郡府。

二月己丑、州郡の秀・孝を延賢堂に於いて策試す。倭国使いを遣わして朝貢す。三月乙丑、初めて荊州府の将を置くこと二千人を過ぎず、吏は一万人を過ぎざるを限り、州の将を置くこと五百人を過ぎず、吏は五千人を過ぎざるを限る。兵士は此の限に在らず。夏四月己卯、初めて淫祀を禁じ、諸の房廟を除く。其の先賢勳徳を以て祠を立つる者は、此の例に在らず。戊申、華林園に於いて訟を聴く。

原文二月己丑,策試州郡秀、孝於延賢堂。倭國遣使朝貢。三月乙丑,初限荊州府置將不得過二千人,吏不得過一萬人。州置將不得過五百人,吏不得過五千人。兵士不在此限。夏四月己卯,初禁淫祀,除諸房廟。其先賢以勳德立祠者,不在此例。戊申,聽訟于華林園。

五月己酉、東宮屯騎・歩兵・翊軍三校尉の官を置く。

原文五月己酉,置東宮屯騎、步兵、翊軍三校尉官。

秋七月己巳、地震す。

原文秋七月己巳,地震。

九月己丑、零陵王殂す。宋の志なり。車駕百僚を率いて朝堂に臨むこと三日、魏の明帝が山陽公に服した故事の如し。兼太尉を使わし節を持ちて喪事を護らしめ、晋礼を以て葬る。冬十月己亥、涼州の胡帥大沮渠蒙遜を以て鎮軍大将軍・開府儀同三司・涼州刺史と為す。

原文九月己丑,零陵王殂,宋志也。車駕率百僚臨於朝堂三日,如魏明帝服山陽公故事。使兼太尉持節護喪事,葬以晉禮。冬十月己亥,以涼州胡帥大沮渠蒙遜為鎮軍大將軍、開府儀同三司、涼州刺史。

十一月辛亥、晋恭皇帝を沖平陵に葬り、車駕百官を率いて瞻送す。三年春正月甲辰朔、詔して刑罰の軽重無きは悉く之を原す。癸丑、尚書令揚州刺史徐羨之を以て司空・録尚書事と為し、刺史は元の如し。江州刺史王弘を進めて衛将軍・開府儀同三司と為す。太子詹事傅亮を以て尚書僕射と為す。二月丙戌、星虚・危に孛す。

原文十一月辛亥,葬晉恭皇帝于沖平陵,車駕率百官瞻送。三年春正月甲辰朔,詔刑罰無輕重悉原之。癸丑,以尚書令揚州刺史徐羨之為司空、錄尚書事,刺史如故。進江州刺史王弘衛將軍、開府儀同三司。以太子詹事傅亮為尚書僕射。二月丙戌,有星孛于虛、危。

三月、上豫せず。太尉長沙王道憐・司空徐羨之・尚書僕射傅亮・領軍将軍謝晦・護軍将軍檀道濟併びに入りて医薬に侍る。群臣神祇に祈祷を請うも、上許さず、惟だ侍中謝方明を使わし以て疾を廟に告げしむるのみ。丁未、廬陵王義真を以て侍中・車騎将軍・開府儀同三司・南豫州刺史と為す。己未、上の疾瘳え、大赦す。

原文三月,上不豫,太尉長沙王道憐、司空徐羨之、尚書僕射傅亮、領軍將軍謝晦、護軍將軍檀道濟併入侍醫藥。群臣請祈禱神只,上不許,惟使侍中謝方明以疾告廟而已。丁未,以廬陵王義真為侍中、車騎將軍、開府儀同三司、南豫州刺史。己未,上疾瘳,大赦。

夏四月乙亥、仇池公楊盛を封じて武都郡王と為す。

原文夏四月乙亥,封仇池公楊盛為武都郡王。

五月、帝の病は甚だ重く、太子を召して戒めて曰く、「檀道済は幹略有れども遠志無く、兄の韶の如く難御の気有るに非ず。徐羨之・傅亮は異図無からん。謝晦は屡征伐に従い、頗る機変を識る。若し異有らば、必ず此の人なり。小しく却けて、会稽・江州を以て之を処すべし」と。又手詔を為して曰く、「朝廷復別府を須いず。宰相揚州を帯び、甲士こうし千人を置くべし。若し大臣中要を任じ、宜く爪牙有りて不祥の人に備うる者は、台見留隊を以て之を与うべし。征討有れば、悉く台見軍隊を以て配し、行きて還れば復旧に復す。後世若し幼主有らば、朝事一に宰相に委任し、母后臨朝を煩わさず。仗は既に台殿門に入るを許さず、要重の人には詳かに班劍を与うべし」と。癸亥、帝西殿に崩ず。時に年六十。七月己酉、丹陽建康県蒋山の初寧陵に葬る。群臣諡を上りて武皇帝と曰い、廟号を高祖とす。帝は清簡寡欲にして、厳整法度有り、未だ珠玉輿馬の飾りを視ず、後庭に紈綺絲竹の音無し。初め、朝廷音楽未だ備わらず、長史殷仲文以て言う。帝曰く、「日暇あらず、且つ解せざる所なり」と。仲文曰く、「屡聴すれば自然に之を解す」と。帝曰く、「政以て解すれば則ち之を好むを以て、故に習わざるのみ」と。寧州嘗て虎魄枕を献ず。光色甚だ麗しく、価百金に盈つ。時に将に北伐せんとす。虎魄を以て金創を療せばと、帝大いに悦び、命じて碎き分ち諸将に賜う。関中を平げ、姚興の従女を得て、盛んなる寵有り、之を以て事を廃す。謝晦諫め、即時に遣い出す。財帛は皆外府に在り、内に私蔵無し。宋台建つ。有司奏して東西堂に局脚床を施し、金塗釘とす。帝許さず。直脚床を用い、釘は鉄を用いしむ。広州嘗て入筒細布を献ず。一端八丈。帝其の精麗人を労するを悪み、即ち有司に付して太守を弾劾せしめ、布を以て之に還し、並びに嶺南に制して此の布を作るを禁ず。帝素より熱病有り、並びに金創を患う。末年尤も劇しく、坐臥常に冷物を須う。後人石床を献ずる有り。之に寝して、極めて以て佳と為す。乃ち歎じて曰く、「木床且つ費す。況んや石をや」と。即ち令して之を毀たしむ。諸主出適するに制し、遣送二十万を過ぎず、錦繡金玉無し。内外奉禁、節儉せざる莫し。性尤も簡易にして、嘗て連歯木屐を著け、神武門内左右に逍遥に出づるを好み、従者十余人を過ぎず。時に徐羨之西州に住す。嘗て羨之を思いて、便ち歩み出でて西掖門す。羽儀絡驛追従す。已に西明門を出づ。諸子旦に起居を問い、合に入りて公服を脱ぎ、止だ裙帽を著け、家人の礼の如し。

原文五月,上疾甚,召太子,戒之曰:「檀道濟雖有幹略,而無遠志,非如兄韶有難禦之氣。徐羨之、傅亮當無異圖。謝晦屢從征伐,頗識機變,若有異,必此人也。小卻,可以會稽、江州處之。」又為手詔:「朝廷不須復有別府,宰相帶揚州,可置甲士千人。若大臣中任要,宜有爪牙,以備不祥人者,可以台見留隊給之。有征討,悉配以台見軍隊,行還復舊。後世若有幼主,朝事一委任宰相,母后不煩臨朝。仗既不許入台殿門,要重人可詳給班劍。」癸亥,上崩於西殿,時年六十。七月己酉,葬丹陽建康縣蔣山初寧陵。群臣上諡曰武皇帝,廟號高祖。上清簡寡欲,嚴整有法度,未嘗視珠玉輿馬之飾,後庭無紈綺絲竹之音。初,朝廷未備音樂,長史殷仲文以為言,帝曰:「日不暇給,且所不解。」仲文曰:「屢聽自然解之。」帝曰:「政以解則好之,故不習耳。」寧州嘗獻虎魄枕,光色甚麗,價盈百金。時將北伐,以虎魄療金創,上大悅,命碎分賜諸將。平關中,得姚興從女,有盛寵,以之廢事,謝晦諫,即時遣出。財帛皆在外府,內無私藏。宋台建,有司奏東西堂施局腳床,金塗釘,上不許。使用直腳床,釘用鐵。廣州嘗獻入筒細布,一端八丈,帝惡其精麗勞人,即付有司彈太守,以布還之,並制嶺南禁作此布。帝素有熱病,並患金創,末年尤劇,坐臥常須冷物,後有人獻石床,寢之,極以為佳,乃歎曰:「木床且費,而況石邪。」即令毀之。制諸主出適,遣送不過二十萬,無錦繡金玉。內外奉禁,莫不節儉。性尤簡易,嘗著連齒木屐,好出神武門內左右逍遙,從者不過十餘人。時徐羨之住西州,嘗思羨之,便步出西掖門,羽儀絡驛追隨,已出西明門矣。諸子旦問起居,入合脫公服,止著裙帽,如家人之禮焉。

微時に丹徒に躬耕し、命を受くるに及び、耨耜の具頗る存する者有り。皆命じて之を蔵め、以て後に留めしむ。文帝旧宮に幸するに及び、見て問う。左右以て実に対う。文帝色慚じたり。近侍進みて曰く、「大舜は歴山に躬耕し、伯禹は土木に親事す。陛下列聖の遺物を睹ざれば、何を以てか稼穡の艱難を知り、何を以てか先帝の至徳を知らん」と。孝武大明中、上の居ます所の陰室を壊し、其の処に玉燭殿を起つ。群臣と之を観る。床頭に土障有り、壁上に葛灯籠・麻繩拂を掛く。侍中袁顗盛んに上の儉素の徳を称す。孝武答えず、独り曰く、「田舎公此を得て、已に過ぎたり」と。故に能く天下を光有し、大業を克成す。盛んなるかな。

原文微時躬耕於丹徒,及受命,耨耜之具頗有存者,皆命藏之,以留於後。及文帝幸舊宮,見而問焉,左右以實對,文帝色慚。有近侍進曰:「大舜躬耕曆山,伯禹親事土木,陛下不睹列聖之遺物,何以知稼穡之艱難,何以知先帝之至德乎。」及孝武大明中,壞上所居陰室,於其處起玉燭殿,與群臣觀之,床頭有土障,壁上掛葛燈籠、麻繩拂,侍中袁顗盛稱上儉素之德,孝武不答,獨曰:「田舍公得此,已為過矣。」故能光有天下,克成大業,盛矣哉。

少帝

原文少帝

少帝諱は義符、小字は車兵、武帝の長子なり。母は張夫人と曰う。晋の義熙二年、京口に於いて帝を生む。時に武帝年不惑を踰え、未だ男有らず。帝の生るるに及び、甚だ悦ぶ。年十歳、豫章公世子に拝す。帝は膂力人に絶え、騎射に善く、音律を解す。宋台建つ。宋世子に拝す。元熙元年、進めて宋太子と為す。武帝禅を受け、皇太子に立つ。

原文少帝諱義符,小字車兵,武帝長子也。母曰張夫人,晉義熙二年,生帝於京口。時武帝年踰不惑,尚未有男,及帝生,甚悅。年十歲,拜豫章公世子。帝膂力絕人,善騎射,解音律。宋台建,拜宋世子。元熙元年,進為宋太子。武帝受禪,立為皇太子。

永初三年五月癸亥、武帝崩ず。是の日、太子即ち皇帝位に即く。大赦し、三年の制服と為し、皇太后を尊びて太皇太后と曰う。

原文永初三年五月癸亥,武帝崩,是日太子即皇帝位,大赦,制服三年,尊皇太后曰太皇太后。

六月壬申、尚書僕射傅亮を中書監・尚書令と為し、司空徐羨之・領軍將軍謝晦及び亮に政を輔えしむ。戊子、太尉長沙王道憐薨ず。秋九月丁未、有司奏して武皇帝を南郊に配し、武敬皇后を北郊に配す。冬十一月戊午、星孛ること営室に有り。

原文六月壬申,以尚書僕射傅亮為中書監、尚書令,司空徐羨之、領軍將軍謝晦及亮輔政。戊子,太尉長沙王道憐薨。秋九月丁未,有司奏武皇帝配南郊,武敬皇后配北郊。冬十一月戊午,有星孛于營室。

十二月庚戌、魏軍滑台を克つ。

原文十二月庚戌,魏軍克滑台。

景平元年春正月己亥朔、大赦し、元を改め、文武に位二等を賜う。辛丑、南郊を祀る。魏軍金墉城を攻む。癸卯、河南郡守を失う。乙卯、星孛ること東壁に有り。

原文景平元年春正月己亥朔,大赦,改元,文武賜位二等。辛丑,祀南郊。魏軍攻金墉城。癸卯,河南郡失守。乙卯,有星孛於東壁。

二月丁丑、太皇太后崩ず。鎮軍大將軍大且渠蒙遜・河南鮮卑吐谷渾阿豺並びに使いを遣わして朝貢す。庚辰、蒙遜を進めて驃騎大將軍と為し、河西王に封ず。阿豺を安西將軍・沙州刺史と為し、澆河公に封ず。

原文二月丁丑,太皇太后崩。鎮軍大將軍大且渠蒙遜、河南鮮卑吐谷渾阿豺並遣使朝貢。庚辰,進蒙遜驃騎大將軍,封河西王。以阿豺為安西將軍、沙州刺史,封澆河公。

三月壬寅、孝懿皇后興寧陵に祔葬す。是の月、高麗国使いを遣わして朝貢す。

原文三月壬寅,孝懿皇后祔葬于興寧陵。是月,高麗國遣使朝貢。

夏閏四月己未、魏軍虎牢を克つ。

原文夏閏四月己未,魏軍克虎牢。

秋七月癸酉、生みし所の張夫人を尊びて皇太后と為す。丁丑、五歳刑以下を赦す。

原文秋七月癸酉,尊所生張夫人為皇太后。丁丑,赦五歲刑以下。

冬十月己未、星孛ること氐に有り。

原文冬十月己未,有星孛於氐。

是歳、魏の明元皇帝崩ず。

原文是歲,魏明元皇帝崩。

二年春二月癸巳朔、日蝕有り。南豫州刺史廬陵王義真を廃して庶人と為し、新安郡に徙す。乙巳、大風、天に五色の雲有り。占者以て兵有りと為す。執政使いをして皇弟義真を新安に於いて誅せしむ。高麗国使いを遣わして朝貢す。時に帝の居処する所の為すこと多く乖失有り。

原文二年春二月癸巳朔,日有蝕之。廢南豫州刺史廬陵王義真為庶人,徙新安郡。乙巳,大風,天有雲五色,占者以為有兵。執政使使者誅皇弟義真于新安。高麗國遣使朝貢。時帝居處所為多乖失。

夏五月乙酉、皇太后の令を以て帝の過悪を暴き、廃して営陽王と為す。一切漢の昌邑王・晋の海西公の故事に依る。鎮西将軍宜都王義隆を奉迎し、皇統を継がしむ。

原文夏五月乙酉,皇太后令暴帝過惡,廢為營陽王。一依漢昌邑、晉海西故事。奉迎鎮西將軍宜都王義隆入纂皇統。

初め徐羨之・傅亮、帝を廃せんとし、王弘・檀道済に諷して国訃に赴くを求めしめ、弘等来朝し、中書舎人邢安泰・潘盛をして内応せしむ。是の旦、道済・謝晦兵を率いて前に居り、羨之等後に従い、東掖門の開くに因り、雲龍門より入る。盛等先づ宿衛を戒め、禦ぐ者莫し。時に帝は華林園に於いて列肆を為し、自ら酤売し、又瀆を開き土を聚めて破岡埭に象り、左右と船を引き唱呼し、以て歓楽と為す。夕べ天泉池に游び、即ち龍舟にして寝る。其の朝未だ興らず、兵士進み、二侍者を帝の側にて殺し、帝の指を傷つけ、扶け出して東閣に就き、璽紱を収む。群臣拝辞して東宮に送り、遂に呉郡に幽す。是の日、死罪以下を赦す。太后の令を以て璽紱を奉還し、檀道済入りて朝堂を守る。六月癸丑、徐羨之等中書舎人邢安泰をして帝を金昌亭に弑せしむ。帝勇力有り、即時に制を受けず、突き走りて昌門を出づ。追いて門関を以て之を踣らせて殞せしむ。時に年十九。

原文始徐羨之、傅亮將廢帝,諷王弘、檀道濟求赴國訃,弘等來朝,使中書舍人邢安泰、潘盛為內應。是旦,道濟、謝晦領兵居前,羨之等隨後,因東掖門開,入自雲龍門,盛等先戒宿衛,莫有禦者。時帝于華林園為列肆,親自酤賣,又開瀆聚土,以象破岡埭,與左右引船唱呼,以為歡樂。夕游天泉池,即龍舟而寢。其朝未興,兵士進,殺二侍者于帝側,傷帝指,扶出東合,就收璽紱。群臣拜辭送於東宮,遂幽于吳郡。是日,赦死罪以下。太后令奉還璽紱,檀道濟入守朝堂。六月癸丑,徐羨之等使中書舍人邢安泰弑帝于金昌亭。帝有勇力,不即受制,突走出昌門,追以門關踣之致殞,時年十九。

論

原文【論】

論うに曰く、晋自ら社稷南遷してより、王綱弛紊し、朝権国命、台輔に遞回し、君道は存すれども、主威久しく謝す。桓温雄才蓋世、勳高く一時にし、鼎を移すの業既に成り、天人の望将に改まらんとす。斯の後より、帝道弥に昏く、道子其の禍端を開き、元顕其の釁末を成す。桓玄時に乗じ運を藉り、先資を加え、革命して終を受け、人異望無し。宋武の地は斉・晋に非ず、衆一旅無く、曾て浹旬せずして、凶を夷げ暴を翦ぎ、内を誅し外を清め、功上下に格る。若し夫れ楽推の帰する所、謳歌の集まる所を校するに、魏・晋に比し、実を収むと謂うべし。然れども武皇将に知命に渉らんとし、弱嗣方に育ち、顧みて慈顔有り、前に厳訓無し。少帝は易染の質を体し、下す可き姿を稟け、外物其の心を犯す莫く、欲する所必ず其の志に従い、嶮縦は学びて能くするに非ざるも、危亡期せずして集まり、其の顛沛に至るは、不幸に非ざるなり。悲しいかな。

原文論曰:晉自社稷南遷,王綱弛紊,朝權國命,遞回台輔,君道雖存,主威久謝。桓溫雄才蓋世,勳高一時,移鼎之業已成,天人之望將改。自斯以後,帝道彌昏,道子開其禍端,元顯成其釁末。桓玄乘時藉運,加以先資,革命受終,人無異望。宋武地非齊、晉,眾無一旅,曾不浹旬,夷凶翦暴,誅內清外,功格上下。若夫樂推所歸,謳歌所集,校之魏、晉,可謂收其實矣。然武皇將涉知命,弱嗣方育,顧有慈顏,前無嚴訓。少帝體易染之質,稟可下之姿,外物莫犯其心,所欲必從其志,嶮縱非學而能,危亡不期而集,其至顛沛,非不幸也。悲哉!