尉瑾
尉瑾、字は安仁。父の慶賓は、魏の肆州刺史となった。瑾は幼くして聡明で悟りが早く、学問を好み善を慕った。やがて直後に遷る。 司馬子如 が政権を執ると、瑾はその外甥の皮氏の女を娶り、これによって抜擢されて中書舍人に任ぜられた。既に子如の姻戚となったので、しばしば参詣し、それによって先達の名士たちと少し親しくなった。世宗が朝廷に入ると、それによって瑾を 鄴 の北宮において高德正と共に機密を司らせた。肅宗が政務を補佐すると、累進して吏部尚書となった。世祖が即位すると、趙彥深は元来子如の賓客であり、元文遙・和士開は共に帝の郷里の旧知であったので、互いに推薦し、任用と待遇はますます重くなった。また吏部の官吏選抜の任は、事柄が多く秘密であるため、これによって朝廷の機密事をかなり予め聞くこととなった。まもなく右僕射を兼ね、選任を代行し、間もなく正式に任ぜられた。病没すると、世祖はちょうど三臺で酒宴をしていたが、文遙が奏上して知らせたので、楽を止め酒宴をやめさせた。
瑾は外見は顕要であったが、内面には風教が欠けており、閨門の内は穢らわしく雑然としており、世間から軽蔑された。しかしまた身分を低くして士人に接し、名流を引き入れようとする意図はあったが、区別がつかなかった。官位が高く重任を負うに及んで、大いにせっかちで怒りっぽくなり、省中の郎中で事を 論 じようとする者を迎えるとすぐに目を怒らせ罵り、諮問に応じることはできなかった。大選 (吏部尚書の職) に就くと、ますます驕り高ぶって横暴になった。子の德載が後を嗣いだ。
馮子琮
馮子琮は 信都 の人、北燕の主馮跋の後裔である。父の霊紹は度支郎中であった。子琮は性質聡明で、書物や伝記に広く目を通した。肅宗によって領軍府法曹に任ぜられ、機密を司り、庫部を代行した。肅宗がかつて帳簿を閲覧し、試みに口頭で述べさせると、子琮は暗誦して答え、遺漏はなかった。子琮の妻は、胡皇后の妹である。殿中郎に遷り、東宮管記を加えられた。また別詔を奉じて、胡長粲と共に太子を補佐させることとなり、庶子に転じた。
天統元年、世祖は後主に禅位した。世祖が正殿に臨御し、子琮に言うには、「少君 (幼帝) の側近には正しい人物を得るべきである。卿は心に正直を存するゆえ、今より後事を委ねる」と。給事黄門侍郎に任じ、主衣都統を領す。世祖が 晉 陽におり、旧殿に居ると、少帝には別の居所がなかったので、詔して子琮に大明宮の造営を監督させた。宮殿が完成すると、世祖は自ら巡幸し、あまり宏大で麗しくないのを怪しんだ。子琮が答えて言うには、「至尊は幼年で、大業を継承されました。倹約を篤く行わせ、天下に示そうとされたのです。またここは北に天闕 (宮城) に連なり、過度に高大峻厳にすべきではありません」と。世祖は良しと称えた。
世祖が崩御すると、僕射の和士開は先んじて常に侍疾しており、喪を秘して三日間発しなかった。子琮が士開に喪を発しない意図を問うと、士開は神武帝・ 文襄 帝が初め崩御した時も共に喪を秘して発せず、至尊が年少であるため、王公に二心を抱くのを恐れ、広く涼風堂に召集してから、詳しく議論したいと考えたと引き合いに出した。時に太尉録尚書事の趙郡王高叡は先んじて常に内に居り、帷幄の謀議に参与していた。子琮は平素から士開が高叡及び領軍の臨淮王婁定遠を忌み嫌っているのを知っており、彼らが遺詔を偽って高叡を外任に出し、定遠の禁衛の権を奪うことを恐れ、それに答えて言うには、「大行皇帝 (世祖) は神武帝の御子であり、今上の皇帝もまた先皇から位を伝えられた方です。群臣で富貴な者は皆、至尊父子の恩によるものです。ただ内にいる貴臣に少しも変更がなければ、王公以下は必ず異なる望みを持つことはありません。世は異なり事は別であり、覇朝 (神武・文襄の朝) と比べることはできません。かつ公は宮門を出て既に数日経ち、昇遐 (崩御) の事は、道行く人も皆伝えております。久しく発喪しなければ、他の変事が起こる恐れがあります」と。そこでようやく発喪した。
元文遙は子琮が太后の妹婿であるため、彼が太后の政治への干与を助長することを恐れ、趙郡王及び士開に説いて彼を外に出させ、鄭州刺史に任じ、即時に赴任させた。子琮が州に任ぜられたのは、後主の本意ではなかったので、内旨 (皇帝の直接の命令) でねんごろに、特に後部鼓吹を与え、兵五十人を加え、かつ物品を携えて関所を通過することを許した。州に着いて間もなく、太后が齊安王のために子琮の長女を妃に迎えようとしたので、子琮はこれによって休暇を請い鄴に赴き、そこで吏部尚書に任ぜられた。その妻は親族を恃んで放縦に振る舞い、公的な請謁を行い、賄賂の品物が山積みとなった。地方長官の任免に先立って、銭帛の多少を定め、それから奏上して聞かせ、その通達・取り次ぎは、事ごとに許されないことはなく、子琮もまた制止しなかった。まもなく尚書右僕射に遷り、依然として選任を代行した。和士開は要職に長く居たが、子琮は以前から彼に付き従い、卑下した言葉で腰を低くし、事ごとに諮問して指示を仰いだ。士開の弟の休が盧氏と婚姻すると、子琮は検校して走り回り、士開の府の官僚と異なることはなかった。この時、内官の任免は多く士開の奏上・擬定によるものであったが、子琮は既に内戚を恃み、かつ選曹 (吏部) を帯びていたので、自ら権勢と寵愛をほしいままにし、かなり隙間風 (不和) を生じさせた。瑯邪王高儼が士開を殺害すると、子琮もその事に関与し、内省において絞殺された。子琮は少しは識見があったが、位と声望が高まるにつれ、元来の心構えはたちまち変わった。非類 (身分のふさわしくない者) を抜擢し、深い交わりとし、その子弟を放任して、官位を順序に依らずに与え、また専ら婚姻を営み、歴代の名門を選び、例として官爵を約束し、十日ほどで実現させた。子は慈正。
赫連子悅
赫連子悅、字は士欣、赫連勃勃の後裔である。魏の永安の初め、軍功によって濟州別駕となった。高祖が義兵を起こすと、 侯景 が刺史であったが、景は本来尒朱栄の腹心であり、子悅は景に義兵を起こすよう勧め、景はこれに従った。林慮守に任ぜられる。世宗が 晉 陽へ行く途中、この郡を通りかかり、それによって不便な点を問うた。悅は答えて言うには、「臨水・武安の二県は郡から遠く離れ、山嶺が重なり、車も徒歩も困難です。もし東の魏郡に属させれば、地は平らで道も近くなります」と。世宗は笑って言うには、「卿はただ民の便を図るのみで、幹 (郡の中心) を損なうことに気づかない」と。子悅は答えて言うには、「申し上げるのは民の疾苦によるもので、私的な潤いのために心に背くことはできません」と。世宗は言うには、「卿がこのようにできるのは、大変結構なことだ」と。そこで勅して事に依って施行させた。郡での任期が満ちると、再び召し出されて臨漳令となった。後に鄭州刺史に任ぜられると、当時は河清の大水害を新たに経験したばかりで、民は多く逃散していたが、子悅は自ら慰撫救済に当たり、戸口はますます増加し、治績は天下第一となった。都に入って都官尚書となり、鄭州の民八百余人が碑を立てて徳を称えることを請うたので、詔があって許された。後に本官のまま吏部を兼ねた。子悅は官にあっては、ただ清廉勤勉をもって自らを守り、学術もなく、また風采も欠き、人倫を見抜く清らかな鑑識は、ますます遠ざかっていたが、一朝にして選抜の長の座に居ると、大いに世間の議論を招いた。これによって太常卿に任ぜられ、卒した。
唐邕
唐邕、字は道和、太原 晉 陽の人、その先祖は 晉 昌から移住した。父の霊芝は魏の壽陽令であった。邕は幼くして明敏で、世を治める才能と器量があった。太昌の初め、ある者が高祖に推薦し、外兵曹に直させることを命じ、文書帳簿の執務を司らせた。
唐邕は書計に長け、記憶力が強く、黙して識り、幹事の才をもって知られ、世宗 ( 高澄 ) の大将軍府参軍に抜擢された。世宗が崩御した際、事態は突然であり、顕祖 ( 高洋 ) が将士を部署し四方を鎮圧する中、夜中に唐邕を召して指揮を委ねると、慌ただしい中でもすぐに処理し、顕祖は彼を大いに重んじた。顕祖が頻繁に辺境に出た際も、唐邕は必ず随行し、専ら兵機を掌握した。識見と悟りは明らかで、事務の受け答えは敏速であり、督将以下、軍吏以上の者について、その功績の由来に至るまで、詳らかにせぬことはなく、顧問を受けるごとに、即座に対応した。ある時は御前で兵士を検閲したが、たとえ三五千人であっても、唐邕は多く文書を手にせず、暗誦して官位姓名を唱え、誤りはなかった。天保七年、羊汾堤で武を講じた際、唐邕に諸軍の節度を総括させた。事が終わると、引き続き宴射の礼を監督した。この日、顕祖は自ら唐邕の手を執り、太后の前に引き寄せ、丞相の斛律金の上座に座らせ、太后に申し上げて云うには、「唐邕は強幹にして、一人で千人の働きをする」と。別に錦彩・銭帛を賜った。唐邕は強幹で明弁であるばかりでなく、またよく上意を推し量り、進取の道も多かったため、恩寵は日に日に厚くなり、委任はますます重くなった。顕祖はまたかつて唐邕に対し、太后に申し上げて云うには、「唐邕ははっきりと物を覚え、軍機大事があるごとに、手で文書を作り、口で処分を下し、耳でまた聞き受けている。実に異人である」と。一日のうちに、六度も物を賜った。またかつて自ら着ていた青鼠の皮裘を解いて唐邕に賜り、云うには、「朕の意は、車馬衣裘を卿と共に弊わさんと欲するにある」と。天保十年、晋陽への行幸に従い、兼給事黄門侍郎を授けられ、中書舎人を領した。顕祖がかつて童子仏寺に登り、 幷州 城を望んで云うには、「これはどのような城か」と。或る者が云うには、「これは金城湯池、天府の国でございます」と。帝は云うには、「朕は唐邕こそを金城と謂う。これは金城ではない」と。そのように重んじられた。その後、唐邕に語って云うには、「卿は労苦が久しい。卿を州の長官に任じようと思い、頻りに楊遵彦 (楊愔) に勅して、卿に代わるべき者を求めさせた。遵彦が云うには、広く文武を訪ねたが、卿のような者は実に得がたいので、この考えは止めたと。卿は努めるがよい」と。顕祖は時に、意に沿わぬ侍臣を厳しく責めて云うには、「卿らの挙措を見るに、唐邕の奴隷となるにも及ばぬ」と。そのように賞遇されることが多く、この類であった。
粛宗 ( 高演 ) が丞相となると、黄門侍郎に任じられた。華林園で射礼を行った際、特に金帯・宝器・服玩・雑物五百種を賜った。天統初年、侍中・幷州大中正に任じられ、また護軍に拝され、その他の官は元のままとした。唐邕は軍民の教習や田猟について、令では十二月に月別三回と定められているが、人馬が疲弊すると考え、月二回とするよう上奏し請うた。世祖 ( 高湛 ) はこれに従った。後に趙州刺史として出向し、その他の官は元のままとした。世祖は唐邕に云うには、「朝臣で侍中・護軍・中正を帯びて州の長官となる者は未だいない。卿の故にこの挙措をとり、卿に百余日の休息を与える。秋の間に必ず卿を召し戻す」と。右僕射に遷り、また 尚書令 に遷り、晋昌王に封ぜられ、録尚書事となった。周の軍が侵攻してきた時、丞相の高阿那肱が兵を率いて救援に赴いたが、唐邕の配分割当は甚だ妥当でなく、これによって隙が生じた。阿那肱が彼を讒言し、侍中の斛律孝卿に旨を宣して責めさせ、身柄を拘束したが、間もなく釈放した。車駕が晋陽に行幸しようとした際、孝卿に勅して騎兵の度支を総括させ、事柄は多く自ら決断し、唐邕に諮詢し稟議することはなかった。唐邕は自ら、霸朝 (高歓の丞相府時代) 以来常に枢要を司り、六帝に仕えて恩遇が甚だ重かったことを恃みとし、一朝にして孝卿に軽んじられたことを、負気鬱怏として辞色に表した。帝が平陽で敗れた後、狼狽して鄴都に還った。唐邕は阿那肱の讒言を恐れ、斛律孝卿が己を軽んじたことを恨み、遂に晋陽に留まり、莫多婁敬顕らと共に安德王 (高延宗) を推戴して帝位に即けた。二晩で城は陥落し、唐邕は周に降伏し、例に依り儀同大将軍を授けられた。鳳州刺史の任上で卒した。
唐邕の性質は識見明敏で、時事に通暁し、斉朝一代、兵機を執り行った。凡そ九州の軍士、四方の勇募、その強弱多少、番代往還、及び器械の精粗、糧儲の虚実について、心を込めて勤め、熟知せぬことはなかった。大寧以来、奢侈糜費が進み、武平の末に至るまで、府庫の蔵は次第に空虚となった。唐邕の度支の取捨は、大いに益があった。然しながら、既に任用遇されると、意気は次第に高くなり、府寺に陳訴せずに越権して詞牒を閲覧し、その条数は甚だ多く、全て御史台及び左丞から弾劾糾挙されたが、いずれも御注によって放免された。 司空 従事中郎の封長業、太尉記室参軍の平濤は共に徴官銭の期限違反を犯し、唐邕は各々背中に二十回杖罰を加えた。斉朝の宰相で朝士を鞭撻した者は未だおらず、この時は世人の耳目を甚だしく驚かせた。
唐邕の子は三人。長子は君明、開府儀同三司。開皇初年、応州刺史の任上で卒した。次子は君徹、中書舎人、隋の順州・戎州の二州刺史、大業年間、武賁郎将の任上で卒した。末子は君徳、唐邕が周に降伏した罪により処刑された。
斉朝は高祖 (高歓) が丞相となった時、丞相府の外兵曹・騎兵曹が分かって兵馬を掌った。天保年間に禅譲を受けると、諸司監は皆尚書省に帰属したが、唯この二曹だけは廃されず、唐邕と白建に主管させ、外兵省・騎兵省と称した。その後、唐邕と白建の位望は転じて隆盛となり、各々省の主となり、中書舎人に命じて二省の事務を分掌させたので、世に唐・白と称した。
白建
白建、字は彦挙、太原郡陽邑県の人である。初め大丞相府の騎兵曹に入り、文帳を執り行い、書計に明解で、同局の者から推挙された。天保十年、中書舎人を兼ねた。粛宗が政を補佐すると、大丞相騎兵参軍に任じられた。河清三年、突厥が国境に入ると、代州・忻州の二牧の馬は全て良馬で、数万匹が五台山北の栢谷中に賊を避けていた。賊が退いた後、勅により白建が現地に赴いて検査し、続いて使者を白建のもとに遣わして馬を引き取り、定州に送って民に養飼させようとした。白建は馬が久しく食を得られず痩せ弱っており、遠く送れば多くが死損すると考え、遂に勅に違いて便宜により処置し、近くの軍人に分散して付与した。上啓して知らせると、勅許された。軍馬に損害がなかったのは、白建の力によるものであった。武平末年、特進・侍中・中書令を歴任した。
白建は他に才は無かったが、公務に勤勉であった。王業の基礎が始まる時節に当たり、軍務が重んじられたため、白建は唐邕と共に兵馬を執り行うことで卿相の位に至った。晋陽は国の副都であり、毎年行幸があり、徴詔や差科は州郡に責められた。本藩の僚佐から守宰に至るまで、諮詢承諾や陳情請願に趨走して暇がなかった。諸子は幼少ながらも、皆州郡主簿となり、新たな君主が選補する際は、必ず先ず召し辟いた。男の婚儀、女の嫁ぎ先は、皆勝れた家柄を得た。当世、栄寵の極みとされた。武平七年に卒した。
校