北齊書

巻040

巻040

北齊書

原文北齊書

卷四十補列傳第三十二 尉瑾 馮子琮 赫連子悅 唐邕 白建

原文卷四十補列傳第三二 尉瑾 馮子琮 赫連子悅 唐邕 白建

尉瑾

原文尉瑾

尉瑾、字は安仁。父の慶賓は、魏の肆州刺史となった。瑾は幼くして聡明で悟りが早く、学問を好み善を慕った。やがて直後に遷る。司馬子如が政権を執ると、瑾はその外甥の皮氏の女を娶り、これによって抜擢されて中書舍人に任ぜられた。既に子如の姻戚となったので、しばしば参詣し、それによって先達の名士たちと少し親しくなった。世宗が朝廷に入ると、それによって瑾を鄴の北宮において高德正と共に機密を司らせた。肅宗が政務を補佐すると、累進して吏部尚書となった。世祖が即位すると、趙彥深は元来子如の賓客であり、元文遙・和士開は共に帝の郷里の旧知であったので、互いに推薦し、任用と待遇はますます重くなった。また吏部の官吏選抜の任は、事柄が多く秘密であるため、これによって朝廷の機密事をかなり予め聞くこととなった。まもなく右僕射を兼ね、選任を代行し、間もなく正式に任ぜられた。病没すると、世祖はちょうど三臺で酒宴をしていたが、文遙が奏上して知らせたので、楽を止め酒宴をやめさせた。

原文尉瑾,字安仁。父慶賓,為魏肆州刺史。瑾少而敏悟,好學慕善。稍遷直後。司馬子如執政,瑾取其外生皮氏女,由此擢拜中書舍人。旣是子如姻戚,數往參詣,因與先達名輩微相款狎。世宗入朝,因命瑾在鄴北宮共高德正典機密。肅宗輔政,累遷吏部尚書。世祖踐祚,趙彥深本子如賓僚,元文遙、和士開並帝鄉故舊,共相薦達,任遇彌重。又吏部銓衡所歸,事多秘密,由是朝之幾事,頗亦預聞。尋兼右僕射,攝選,未幾即真。病卒,世祖方在三臺飲酒,文遙奏聞,遂命徹樂罷飲。

瑾は外見は顕要であったが、内面には風教が欠けており、閨門の内は穢らわしく雑然としており、世間から軽蔑された。しかしまた身分を低くして士人に接し、名流を引き入れようとする意図はあったが、区別がつかなかった。官位が高く重任を負うに及んで、大いにせっかちで怒りっぽくなり、省中の郎中で事を論じようとする者を迎えるとすぐに目を怒らせ罵り、諮問に応じることはできなかった。大選(吏部尚書の職)に就くと、ますます驕り高ぶって横暴になった。子の德載が後を嗣いだ。

原文瑾外雖通顯,內闕風訓,閨門穢雜,為世所鄙。然亦能折節下士,意在引接名流,但不別之。及官高任重,便大躁急,省內郎中將論事者逆即瞋詈,不可諮承。旣居大選,彌自驕狠。子德載嗣。

馮子琮

原文馮子琮

馮子琮は信都の人、北燕の主馮跋の後裔である。父の霊紹は度支郎中であった。子琮は性質聡明で、書物や伝記に広く目を通した。肅宗によって領軍府法曹に任ぜられ、機密を司り、庫部を代行した。肅宗がかつて帳簿を閲覧し、試みに口頭で述べさせると、子琮は暗誦して答え、遺漏はなかった。子琮の妻は、胡皇后の妹である。殿中郎に遷り、東宮管記を加えられた。また別詔を奉じて、胡長粲と共に太子を補佐させることとなり、庶子に転じた。

原文馮子琮,信都人,北燕主馮跋之後也。父靈紹,度支郎中。子琮性聰敏,涉獵書傳。為。肅宗除領軍府法曹,典機密,攝庫部。肅宗曾閱簿領,試令口陳,子琮闇對,無有遺失。子琮妻,胡皇后妹也。遷殿中郎,加東宮管記。又奉別詔,令共胡長粲輔遵太子,轉庶子。

天統元年、世祖は後主に禅位した。世祖が正殿に臨御し、子琮に言うには、「少君(幼帝)の側近には正しい人物を得るべきである。卿は心に正直を存するゆえ、今より後事を委ねる」と。給事黄門侍郎に任じ、主衣都統を領す。世祖が晉陽におり、旧殿に居ると、少帝には別の居所がなかったので、詔して子琮に大明宮の造営を監督させた。宮殿が完成すると、世祖は自ら巡幸し、あまり宏大で麗しくないのを怪しんだ。子琮が答えて言うには、「至尊は幼年で、大業を継承されました。倹約を篤く行わせ、天下に示そうとされたのです。またここは北に天闕(宮城)に連なり、過度に高大峻厳にすべきではありません」と。世祖は良しと称えた。

原文天統元年,世祖禪位後主。世祖御正殿,謂子琮曰:「少君左右宜得正人,以卿心存正直,今以後事相委。」除給事黃門侍郎,領主衣都統。世祖在晉陽,旣居舊殿,少帝未有別所,詔子琮監造大明宮。宮成,世祖親自巡幸,怪其不甚宏麗。子琮對曰:「至尊幼年,纂承大業,欲令敦行節儉,以示萬邦。兼此北連天闕,不宜過復崇峻。」世祖稱善。

世祖が崩御すると、僕射の和士開は先んじて常に侍疾しており、喪を秘して三日間発しなかった。子琮が士開に喪を発しない意図を問うと、士開は神武帝・文襄帝が初め崩御した時も共に喪を秘して発せず、至尊が年少であるため、王公に二心を抱くのを恐れ、広く涼風堂に召集してから、詳しく議論したいと考えたと引き合いに出した。時に太尉録尚書事の趙郡王高叡は先んじて常に内に居り、帷幄の謀議に参与していた。子琮は平素から士開が高叡及び領軍の臨淮王婁定遠を忌み嫌っているのを知っており、彼らが遺詔を偽って高叡を外任に出し、定遠の禁衛の権を奪うことを恐れ、それに答えて言うには、「大行皇帝(世祖)は神武帝の御子であり、今上の皇帝もまた先皇から位を伝えられた方です。群臣で富貴な者は皆、至尊父子の恩によるものです。ただ内にいる貴臣に少しも変更がなければ、王公以下は必ず異なる望みを持つことはありません。世は異なり事は別であり、覇朝(神武・文襄の朝)と比べることはできません。かつ公は宮門を出て既に数日経ち、昇遐(崩御)の事は、道行く人も皆伝えております。久しく発喪しなければ、他の変事が起こる恐れがあります」と。そこでようやく発喪した。

原文及世祖崩,僕射和士開先恒侍疾,秘喪三日不發。子琮問士開不發喪之意。士開引神武、文襄初崩並秘喪不舉,至尊年少,恐王公有貳心,意欲普追集涼風堂,然後與詳議。時太尉錄尚書事趙郡王叡先恒居內,預帷幄之謀,子琮素知士開忌叡及領軍臨淮王婁定遠,恐其矯遺詔出叡外任,奪定遠禁衛之權,因答云:「大行,神武之子,今上又是先皇傳位,群臣富貴者皆是至尊父子之恩,但令在內貴臣一無改易,王公已下必無異望。世異事殊,不得與霸朝相比。且公出宮門已經數日,升遐之事,行路皆傳,久而不舉,恐有他變。」於是乃發喪。

元文遙は子琮が太后の妹婿であるため、彼が太后の政治への干与を助長することを恐れ、趙郡王及び士開に説いて彼を外に出させ、鄭州刺史に任じ、即時に赴任させた。子琮が州に任ぜられたのは、後主の本意ではなかったので、内旨(皇帝の直接の命令)でねんごろに、特に後部鼓吹を与え、兵五十人を加え、かつ物品を携えて関所を通過することを許した。州に着いて間もなく、太后が齊安王のために子琮の長女を妃に迎えようとしたので、子琮はこれによって休暇を請い鄴に赴き、そこで吏部尚書に任ぜられた。その妻は親族を恃んで放縦に振る舞い、公的な請謁を行い、賄賂の品物が山積みとなった。地方長官の任免に先立って、銭帛の多少を定め、それから奏上して聞かせ、その通達・取り次ぎは、事ごとに許されないことはなく、子琮もまた制止しなかった。まもなく尚書右僕射に遷り、依然として選任を代行した。和士開は要職に長く居たが、子琮は以前から彼に付き従い、卑下した言葉で腰を低くし、事ごとに諮問して指示を仰いだ。士開の弟の休が盧氏と婚姻すると、子琮は検校して走り回り、士開の府の官僚と異なることはなかった。この時、内官の任免は多く士開の奏上・擬定によるものであったが、子琮は既に内戚を恃み、かつ選曹(吏部)を帯びていたので、自ら権勢と寵愛をほしいままにし、かなり隙間風(不和)を生じさせた。瑯邪王高儼が士開を殺害すると、子琮もその事に関与し、内省において絞殺された。子琮は少しは識見があったが、位と声望が高まるにつれ、元来の心構えはたちまち変わった。非類(身分のふさわしくない者)を抜擢し、深い交わりとし、その子弟を放任して、官位を順序に依らずに与え、また専ら婚姻を営み、歴代の名門を選び、例として官爵を約束し、十日ほどで実現させた。子は慈正。

原文元文遙以子琮太后妹夫,恐其獎成太后干政,說趙郡王及士開出之,拜鄭州刺史,即令之任。子琮除州,非後主本意,中旨殷勤,特給後部鼓吹,加兵五十人,並聽將物度關。至州未幾,太后為齊安王納子琮長女為妃,子琮因請假赴鄴,遂授吏部尚書。其妻恃親放縱,請謁公行,賄貨填積。守宰除授,先定錢帛多少,然後奏聞,其所通致,事無不允,子琮亦不禁制。俄遷尚書右僕射,仍攝選。和士開居要日久,子琮舊所附托,卑辭曲躬,事事諮稟。士開弟休與盧氏婚,子琮檢校趨走,與士開府僚不異。是時內官除授多由士開奏擬,子琮旣恃內戚,兼帶選曹,自擅權寵,頗生間隙。瑯邪王儼殺士開,子琮與其事,就內省絞殺之。子琮微有識鑒,及位望轉隆,宿心頓改。擢引非類,以為深交;縱其子弟,官位不依倫次;又專營婚媾,歷選上門,例以官爵許之,旬日便驗。子慈正。

赫連子悅

原文赫連子悅

赫連子悅、字は士欣、赫連勃勃の後裔である。魏の永安の初め、軍功によって濟州別駕となった。高祖こうそが義兵を起こすと、侯景が刺史であったが、景は本来尒朱栄の腹心であり、子悅は景に義兵を起こすよう勧め、景はこれに従った。林慮守に任ぜられる。世宗が晉陽へ行く途中、この郡を通りかかり、それによって不便な点を問うた。悅は答えて言うには、「臨水・武安の二県は郡から遠く離れ、山嶺が重なり、車も徒歩も困難です。もし東の魏郡に属させれば、地は平らで道も近くなります」と。世宗は笑って言うには、「卿はただ民の便を図るのみで、幹(郡の中心)を損なうことに気づかない」と。子悅は答えて言うには、「申し上げるのは民の疾苦によるもので、私的な潤いのために心に背くことはできません」と。世宗は言うには、「卿がこのようにできるのは、大変結構なことだ」と。そこで勅して事に依って施行させた。郡での任期が満ちると、再び召し出されて臨漳令となった。後に鄭州刺史に任ぜられると、当時は河清の大水害を新たに経験したばかりで、民は多く逃散していたが、子悅は自ら慰撫救済に当たり、戸口はますます増加し、治績は天下第一となった。都に入って都官尚書となり、鄭州の民八百余人が碑を立てて徳を称えることを請うたので、詔があって許された。後に本官のまま吏部を兼ねた。子悅は官にあっては、ただ清廉勤勉をもって自らを守り、学術もなく、また風采も欠き、人倫を見抜く清らかな鑑識は、ますます遠ざかっていたが、一朝にして選抜の長の座に居ると、大いに世間の議論を招いた。これによって太常卿に任ぜられ、卒した。

原文赫連子悅,字士欣,勃勃之後也。魏永安初,以軍功為濟州別駕。及高祖起義,侯景為刺史,景本尒朱心腹,子悅勸景起義,景從之。除林慮守。世宗往晉陽,路由是郡,因問所不便。悅答云:「臨水、武安二縣去郡遙遠,山嶺重疊,車步艱難,若東屬魏郡,則地平路近。」世宗笑曰:「卿徒知便民,不覺損幹。」子悅答云:「所言因民疾苦,不敢以私潤負心。」世宗云:「卿能如此,甚善甚善。」仍勑依事施行。在郡滿,更徵為臨漳令。後除鄭州刺史,于時新經河清大水,民多逃散,子悅親加恤隱,戶口益增,治為天下之最。入為都官尚書,鄭州民八百餘請立碑頌德,有詔許焉。後以本官兼吏部。子悅在官,唯以清勤自守,旣無學術,又闕風儀,人倫清鑒,去之彌遠,一旦居銓衡之首,大招物議。由是除太常卿,卒。

唐邕

原文唐邕

唐邕、字は道和、太原晉陽の人、その先祖は晉昌から移住した。父の霊芝は魏の壽陽令であった。邕は幼くして明敏で、世を治める才能と器量があった。太昌の初め、ある者が高祖に推薦し、外兵曹に直させることを命じ、文書帳簿の執務を司らせた。

原文唐邕,字道和,太原晉陽人,其先自晉昌徙焉。父靈芝,魏壽陽令。邕少明敏,有治世才具。太昌初,或薦於高祖,命其直外兵曹,典執文帳。

唐邕は書計に長け、記憶力が強く、黙して識り、幹事の才をもって知られ、世宗(高澄)の大将軍府参軍に抜擢された。世宗が崩御した際、事態は突然であり、顕祖(高洋)が将士を部署し四方を鎮圧する中、夜中に唐邕を召して指揮を委ねると、慌ただしい中でもすぐに処理し、顕祖は彼を大いに重んじた。顕祖が頻繁に辺境に出た際も、唐邕は必ず随行し、専ら兵機を掌握した。識見と悟りは明らかで、事務の受け答えは敏速であり、督将以下、軍吏以上の者について、その功績の由来に至るまで、詳らかにせぬことはなく、顧問を受けるごとに、即座に対応した。ある時は御前で兵士を検閲したが、たとえ三五千人であっても、唐邕は多く文書を手にせず、暗誦して官位姓名を唱え、誤りはなかった。天保七年、羊汾堤で武を講じた際、唐邕に諸軍の節度を総括させた。事が終わると、引き続き宴射の礼を監督した。この日、顕祖は自ら唐邕の手を執り、太后の前に引き寄せ、丞相の斛律金の上座に座らせ、太后に申し上げて云うには、「唐邕は強幹にして、一人で千人の働きをする」と。別に錦彩・銭帛を賜った。唐邕は強幹で明弁であるばかりでなく、またよく上意を推し量り、進取の道も多かったため、恩寵は日に日に厚くなり、委任はますます重くなった。顕祖はまたかつて唐邕に対し、太后に申し上げて云うには、「唐邕ははっきりと物を覚え、軍機大事があるごとに、手で文書を作り、口で処分を下し、耳でまた聞き受けている。実に異人である」と。一日のうちに、六度も物を賜った。またかつて自ら着ていた青鼠の皮裘を解いて唐邕に賜り、云うには、「朕の意は、車馬衣裘を卿と共に弊わさんと欲するにある」と。天保十年、晋陽への行幸に従い、兼給事黄門侍郎を授けられ、中書舎人を領した。顕祖がかつて童子仏寺に登り、幷州城を望んで云うには、「これはどのような城か」と。或る者が云うには、「これは金城湯池、天府の国でございます」と。帝は云うには、「朕は唐邕こそを金城と謂う。これは金城ではない」と。そのように重んじられた。その後、唐邕に語って云うには、「卿は労苦が久しい。卿を州の長官に任じようと思い、頻りに楊遵彦(楊愔)に勅して、卿に代わるべき者を求めさせた。遵彦が云うには、広く文武を訪ねたが、卿のような者は実に得がたいので、この考えは止めたと。卿は努めるがよい」と。顕祖は時に、意に沿わぬ侍臣を厳しく責めて云うには、「卿らの挙措を見るに、唐邕の奴隷となるにも及ばぬ」と。そのように賞遇されることが多く、この類であった。

原文邕善書計,強記默識,以幹濟見知,擢為世宗大將軍府參軍。及世宗崩,事出倉卒,顯祖部分將士,鎮壓四方,夜中召邕支配,造次便了,顯祖甚重之。顯祖頻年出塞,邕必陪從,專掌兵機。識悟閑明,承受敏速,自督將以還,軍吏以上,勞效由緒,無不諳練,每有顧問,占對如響。或於御前簡閱,雖三五千人,邕多不執文簿,暗唱官位姓名,未常謬誤。七年,於羊汾堤講武,令邕總為諸軍節度。事畢,仍監宴射之禮。是日,顯祖親執邕手,引至太后前,坐於丞相斛律金之上,啟太后云:「唐邕強幹,一人當千。」仍別賜錦彩錢帛。邕非唯強濟明辨,然亦善揣上意,進取多途,是以恩寵日隆,委任彌重。顯祖又嘗對邕白太后云:「唐邕分明強記,每有軍機大事,手作文書,口且處分,耳又聽受,實是異人。」一日之中,六度賜物。又嘗解所服青鼠皮裘賜邕,云:「朕意在車馬衣裘與卿共弊。」十年,從幸晉陽,除兼給事黃門侍郎,領中書舍人。顯祖嘗登童子佛寺,望幷州城曰:「此是何等城?」或曰:「此是金城湯池,天府之國。」帝云:「我謂唐邕是金城,此非金城也。」其見重如此。其後語邕曰:「卿劬勞旣久,欲除卿作州,頻勑楊遵彥更求一人堪代卿者。遵彥云比遍訪文武,如卿之徒實不可得,所以遂停此意。卿宜勉之。」顯祖或時切責侍臣不稱旨者:「觀卿等舉措,不中與唐邕作奴。」其見賞遇多此類。

粛宗(高演)が丞相となると、黄門侍郎に任じられた。華林園で射礼を行った際、特に金帯・宝器・服玩・雑物五百種を賜った。天統初年、侍中・幷州大中正に任じられ、また護軍に拝され、その他の官は元のままとした。唐邕は軍民の教習や田猟について、令では十二月に月別三回と定められているが、人馬が疲弊すると考え、月二回とするよう上奏し請うた。世祖(高湛)はこれに従った。後に趙州刺史として出向し、その他の官は元のままとした。世祖は唐邕に云うには、「朝臣で侍中・護軍・中正を帯びて州の長官となる者は未だいない。卿の故にこの挙措をとり、卿に百余日の休息を与える。秋の間に必ず卿を召し戻す」と。右僕射に遷り、また尚書令しょうしょれいに遷り、晋昌王に封ぜられ、録尚書事となった。周の軍が侵攻してきた時、丞相の高阿那肱が兵を率いて救援に赴いたが、唐邕の配分割当は甚だ妥当でなく、これによって隙が生じた。阿那肱が彼を讒言し、侍中の斛律孝卿に旨を宣して責めさせ、身柄を拘束したが、間もなく釈放した。車駕が晋陽に行幸しようとした際、孝卿に勅して騎兵の度支を総括させ、事柄は多く自ら決断し、唐邕に諮詢し稟議することはなかった。唐邕は自ら、霸は朝(高歓の丞相府時代)以来常に枢要を司り、六帝に仕えて恩遇が甚だ重かったことを恃みとし、一朝にして孝卿に軽んじられたことを、負気鬱怏として辞色に表した。帝が平陽で敗れた後、狼狽して鄴都に還った。唐邕は阿那肱の讒言を恐れ、斛律孝卿が己を軽んじたことを恨み、遂に晋陽に留まり、莫多婁敬顕らと共に安德王(高延宗)を推戴して帝位に即けた。二晩で城は陥落し、唐邕は周に降伏し、例に依り儀同大将軍を授けられた。鳳州刺史の任上で卒した。

原文肅宗作相,除黃門侍郎。於華林園射,特賜金帶寶器服玩雜物五百種。天統初,除侍中、幷州大中正,又拜護軍,餘如故。邕以軍民教習田獵,依令十二月,月別三圍,以為人馬疲敝,奏請每月兩圍。世祖從之。後出為趙州刺史,餘官如故。世祖謂邕曰:「朝臣未有帶侍中、護軍、中正作州者,以卿故有此舉,放卿百餘日休息,至秋間當即追卿。」遷右僕射,又遷尚書令,封晉昌王,錄尚書事。屬周師來寇,丞相高阿那肱率兵赴援,邕配割不甚從允,因此有隙。肱譖之,遣侍中斛律孝卿宣旨責讓,留身禁止,尋釋之。車駕將幸晉陽,勑孝卿總知騎兵度支,事多自決,不相詢稟。邕自恃從霸朝以來常典樞要,歷事六帝,恩遇甚重,一旦為孝卿所輕,負氣鬱怏,形於辭色。帝平陽敗後,狼狽還鄴都。邕懼那肱譖之,恨斛律孝卿輕己,遂留晉陽,與莫多婁敬顯等崇樹安德王為帝。信宿城陷,邕遂降周,依例授儀同大將軍。卒於鳳州刺史。

唐邕の性質は識見明敏で、時事に通暁し、斉朝一代、兵機を執り行った。凡そ九州の軍士、四方の勇募、その強弱多少、番代往還、及び器械の精粗、糧儲の虚実について、心を込めて勤め、熟知せぬことはなかった。大寧以来、奢侈糜費が進み、武平の末に至るまで、府庫の蔵は次第に空虚となった。唐邕の度支の取捨は、大いに益があった。然しながら、既に任用遇されると、意気は次第に高くなり、府寺に陳訴せずに越権して詞牒を閲覧し、その条数は甚だ多く、全て御史台及び左丞から弾劾糾挙されたが、いずれも御注によって放免された。司空しくう従事中郎の封長業、太尉記室参軍の平濤は共に徴官銭の期限違反を犯し、唐邕は各々背中に二十回杖罰を加えた。斉朝の宰相で朝士を鞭撻した者は未だおらず、この時は世人の耳目を甚だしく驚かせた。

原文邕性識明敏,通解時事,齊氏一代,典執兵機。凡是九州軍士、四方勇募,強弱多少,番代往還,及器械精粗、糧儲虛實,精心勤事,莫不諳知。自大寧以來,奢侈糜費,比及武平之末,府藏漸虛。邕度支取捨,大有裨益。然旣被任遇,意氣漸高,其未經府寺陳訴,越覽詞牒,條數甚多,俱為憲臺及左丞彈糾,並御注放免。司空從事中郎封長業、太尉記室參軍平濤並為徵官錢違限,邕各杖背二十。齊時宰相未有撾撻朝士者,至是甚駭物聽。

唐邕の子は三人。長子は君明、開府儀同三司。開皇初年、応州刺史の任上で卒した。次子は君徹、中書舎人、隋の順州・戎州の二州刺史、大業年間、武賁郎将の任上で卒した。末子は君徳、唐邕が周に降伏した罪により処刑された。

原文邕三子。長子君明,開府儀同三司。開皇初,卒於應州刺史。次子君徹,中書舍人,隋順、戎二州刺史,大業中,卒於武賁郎將。少子君德,以邕降周伏法。

斉朝は高祖(高歓)が丞相となった時、丞相府の外兵曹・騎兵曹が分かって兵馬を掌った。天保年間に禅譲を受けると、諸司監は皆尚書省に帰属したが、唯この二曹だけは廃されず、唐邕と白建に主管させ、外兵省・騎兵省と称した。その後、唐邕と白建の位望は転じて隆盛となり、各々省の主となり、中書舎人に命じて二省の事務を分掌させたので、世に唐・白と称した。

原文齊朝因高祖作相,丞相府外兵曹、騎兵曹分掌兵馬。及天保受禪,諸司監咸歸尚書,唯此二曹不廢,令唐邕、白建主治,謂之外兵省、騎兵省。其後邕、建位望轉隆,各為省主,令中書舍人分判二省事,故世稱唐、白云。

白建

原文白建

白建、字は彦挙、太原郡陽邑県の人である。初め大丞相府の騎兵曹に入り、文帳を執り行い、書計に明解で、同局の者から推挙された。天保十年、中書舎人を兼ねた。粛宗が政を補佐すると、大丞相騎兵参軍に任じられた。河清三年、突厥が国境に入ると、代州・忻州の二牧の馬は全て良馬で、数万匹が五台山北の栢谷中に賊を避けていた。賊が退いた後、勅により白建が現地に赴いて検査し、続いて使者を白建のもとに遣わして馬を引き取り、定州に送って民に養飼させようとした。白建は馬が久しく食を得られず痩せ弱っており、遠く送れば多くが死損すると考え、遂に勅に違いて便宜により処置し、近くの軍人に分散して付与した。上啓して知らせると、勅許された。軍馬に損害がなかったのは、白建の力によるものであった。武平末年、特進・侍中・中書令を歴任した。

原文白建,字彥舉,太原陽邑人也。初入大丞相府騎兵曹,典執文帳,明解書計,為同局所推。天保十年,兼中書舍人。肅宗輔政,除大丞相騎兵參軍。河清三年,突厥入境,代、忻二牧悉是細馬,合數萬匹,在五臺山北栢谷中避賊。賊退後,勑建就彼檢校,續使人詣建間領馬,送定州付民養飼。建以馬久不得食,瘦弱,遠送恐多死損,遂違勑以便宜從事,隨近散付軍人。啟知,勑許焉。戎乘無損,建有力焉。武平末,歷特進、侍中、中書令。

白建は他に才は無かったが、公務に勤勉であった。王業の基礎が始まる時節に当たり、軍務が重んじられたため、白建は唐邕と共に兵馬を執り行うことで卿相の位に至った。晋陽は国の副都であり、毎年行幸があり、徴詔や差科は州郡に責められた。本藩の僚佐から守宰に至るまで、諮詢承諾や陳情請願に趨走して暇がなかった。諸子は幼少ながらも、皆州郡主簿となり、新たな君主が選補する際は、必ず先ず召し辟いた。男の婚儀、女の嫁ぎ先は、皆勝れた家柄を得た。当世、栄寵の極みとされた。武平七年に卒した。

原文建雖無他才,勤於在公。屬王業始基,戎寄為重,建與唐邕俱以典執兵馬致位卿相。晉陽,國之下都,每年臨幸,徵詔差科,責成州郡。本藩僚佐爰及守宰,諮承陳請,趨走無暇。諸子幼稚,俱為州郡主簿,新君選補,必先召辟。男婚女嫁,皆得勝流。當世以為榮寵之極。武平七年卒。

校

原文校