文襄 帝 ( 高澄 ) が政を輔けると、大将軍中兵参軍に転じ、甚だ親寵された。魏帝の側近に腹心を置く必要があるとして、中書侍郎に抜擢された。文襄帝が 中書監 となると、門下の機密事を中書に総括させ、また季舒は音楽に巧みであったため、内伎もまた中書に隷属させることとなり、内伎が中書に属するのは季舒から始まった。文襄帝が魏帝に上書する際、諫言や請願があり、文辞が繁雑な時は、季舒が常にこれを修飾して通し、勧戒の意を伝えるにとどめた。静帝 ( 東魏 孝静帝) が霸府 (高氏) に返答する際、常に季舒とこれを 論 じ、「崔中書は我が乳母である」と言った。黄門侍郎に転じ、主衣都統を領す。表面上は魏朝にありながら、心は霸府に帰し、密謀や大計策は皆、参画して聞くことができた。ここにおいて賓客が輻湊し、心を傾けて礼遇したため、名声を得て、その勢いは崔暹を凌いだ。崔暹はかつて朝堂で人を退けて彼に拝礼し、「暹がもし僕射を得るならば、皆、叔父の恩である」と言った。その権勢はこのようなものであった。
当時、勲貴たちは多く法を守らず、文襄帝は一切容赦しなかったため、世間の議論では季舒や崔暹らの所為とされ、甚だ怨み憎まれた。文襄帝が難に遭うと、 文宣 帝 ( 高洋 ) が晋陽へ赴かんとした際、黄門郎の陽休之が季舒に従行を勧め、「一日朝廷を離れれば、その間に刃が容れられる (隙が生じる) 」と言った。季舒は性質として声色を好み、閑放な生活を望んでいたため、遂に従行を請わず、行楽を恣にしようとした。 司馬子如 が宿怨に縁り、尚食典御の陳山提らと共にその過失を列挙して上奏したため、季舒と崔暹はそれぞれ鞭二百回を打たれ、北辺に流された。
天保初年、文宣帝は彼に罪がないことを知り、将作大匠に追任し、再び侍中に遷った。まもなく尚書左僕射・儀同三司を兼ね、大いに恩遇を受けた。乾明初年、楊愔が文宣帝の遺旨により、その僕射の任を停めた。母の喪に遭い解任されたが、起復して光禄勲に任じられ、中兵尚書を兼ねた。斉州刺史として出向したが、人を遣わして淮を渡り互市を行わせた罪、および贓賄の事があり、御史に弾劾されたが、赦令に会い追及されなかった。武成帝 ( 高湛 ) が藩王であった時、病にかかり、文宣帝が季舒に療治を命じると、心力を尽くした。大寧初年、追還されて引見され、慰労激励を受け、累ねて度支尚書・開府儀同三司に拝された。昭陽殿を営造する際、勅命により監造を命じられた。判事の方式について胡長仁に密かに短所を言われたため、西兗州刺史として出された。吏部に典籖を推薦したことで責められ免官となり、また広寧王の邸宅を訪れたことで、馬鞭で数十回を打たれた。武成帝が崩御した際は、哭泣に預かることを許されなかった。久しくして膠州刺史に任じられ、侍中・開府に遷り、新安・河陰二郡の幹禄を食んだ。左光禄大夫を加えられ、文林館に待詔し、『御覧』の監撰を務めた。特進を加えられ、国史の監修を命じられた。季舒は元来図籍を好み、晩年は一層精勤に転じ、併せて人士を推薦し、文学を奨励したため、当時の議論は一致して称賛し、遠近にその美名が称えられた。
祖珽が任用されると、季舒に内作の総監を奏上した。祖珽が外されると、韓長鸞は彼を祖珽の党とみなし、また外そうとした。折しも車駕が晋陽へ行幸せんとする時、季舒は張雕と議し、寿春が包囲され、大軍が出撃して防ぎ、信使が往還するには、節度を稟る必要があり、また道中の小人らが驚き恐れ、大駕が 幷州 に向かい、南寇 (南朝) を畏れて避けているなどと噂するかもしれず、もし諫めなければ、必ず人心が動揺すると考えた。そこで従駕の文官と連名で進諫した。当時、貴臣の趙彦深・唐邕・段孝言らも初めは同心であったが、臨時に疑いを抱き、季舒と争って決しなかった。長鸞は遂に「漢児の文官が連名して総署し、声は幷州行幸を諫め止めると言うが、実際は反乱を企てないとも限らない。誅戮すべきである」と奏上した。帝は直ちに署名した官人を集めて含章殿に召し、季舒・張雕・劉逖・封孝琰・裴澤・郭遵らを首謀者として、殿庭で斬り、長鸞はその屍を 漳水 に棄てるよう命じた。その他の連署者は鞭打ちに処せられようとしたが、趙彦深が執り成して諫めたため免れた。季舒らの家属の男女は北辺に流され、妻・娘・子の妻は奚官に配され、幼い男子は蚕室に下され、財産は没収された。
季舒は大いに医術を好み、天保年間、流刑地で無事であったため、一層鋭意研究に精を出し、遂に名手となり、多くを全うし救済した。位望が高くなっても、懈怠することなく、貧賤の者や下僕であっても、治療を行った。
庶子の長君は尚書右外兵郎中。次ぎの鏡玄は著作佐郎。共に遠方の悪地に流された。間もなく、季舒ら六人の妻は年老いているとして放出された。後に南安王思好が再び朝廷の罪悪を称し、季舒らが害されたことを口実に、六人の兄弟子姪を悉く召し出して軍に従わせ晋陽へ向かった。事敗れると、長君らは皆、誅殺に従い、六人の妻はまた追って官に没入された。周の武帝が斉を滅ぼすと、詔を下して斛律光と季舒ら六人に同じく優れた追贈を行い、季舒には開府儀同大将軍・定州刺史が贈られたという。
祖珽
祖珽、字は孝征、范陽狄遒の人である。父は瑩、魏の護軍将軍。珽は神情機警にして、詞藻が勁健で優れ、若くして令誉を馳せ、世に推重された。秘書郎として起家し、対策で高第となり、尚書儀曹郎中となり、儀注を掌った。かつて冀州刺史の万俟受洛のために『清徳頌』を撰し、その文は典雅麗しく、これにより神武帝に聞こえた。当時、文宣帝が幷州刺史であり、珽を開府倉曹参軍に任用した。神武帝が口授で珽に三十六事を伝えると、退出してこれを書き記し、一つも遺失せず、大いに同僚たちに賞賛された。神武帝が魏の蘭陵公主を送り出塞させて蠕蠕に嫁がせた時、魏収が『出塞』及び『公主遠嫁詩』二首を賦し、珽は皆これに和し、大いに当時の人々に伝誦された。
祖珽の性質は疎放で率直であり、廉潔・謹慎をもって道を守ることができなかった。倉曹は州の局ではあるが、山東の課税輸送を受け取るため、これによって大いに収賄し、財産を豊かにした。また自ら琵琶を弾くことを解し、新曲を作ることができ、都市の若者を招いて歌舞を娯楽とし、諸々の娼家に遊び集まった。陳元康・穆子容・任胄・元士亮らと声色の遊びをした。諸人がかつて祖珽のもとに宿泊した際、山東の大文綾および連珠孔雀羅など百余疋を取り出し、老女たちに樗蒲をさせて賭けさせ、これを戯れの楽しみとした。参軍の元景献は、故 尚書令 元世雋の子である。その妻は司馬慶雲の娘で、これは魏の孝静帝の姑である博陵長公主の生んだところである。祖珽は突然、景献の妻を宴席に迎え、諸人と順番に寝所を共にし、これもまた財物によって招いたものであった。その豪奢で放縦、淫逸な様はこのようであった。常に言うには、「丈夫たるもの一生、身を負かすことはない」と。やがて文宣帝が州を罷めると、祖珽は例に従って府に随従すべきところ、倉局の間を図り、陳元康に請いを致し、元康がこれを取り次いだため、これによって倉曹に還任した。祖珽はまた、参軍事で典簽を兼ねる陸子先に身を委ねて附き、ともに策をめぐらし、糧食を請う際に、子先に宣教させ、倉粟十車を出させ、僚官に捕らえられて送致された。神武帝自らこれを問うと、祖珽は自らは署を受けていないと述べ、罪を子先に帰し、神武帝は信じてこれを釈放した。祖珽は出て言うには、「これは丞相の天縁による明らかな鑑識であるが、しかし実際は孝徴 (祖珽) のしたことである」と。性質は羈束されず放縦であり、かつて膠州刺史司馬世雲の家に飲酒に行き、そこで銅の疊二枚を隠した。厨人が諸客を搜すことを請うと、果たして祖珽の懐中からそれを見つけ、見た者は深い恥辱と見なした。乗っていた老馬を、常に騮駒 (黒駿馬) と称した。また寡婦の王氏と姦通し、人前で毎度互いに往来を聞かせ合った。裴譲之は祖珽と早くから親しく、衆人の中で祖珽を嘲って言うには、「卿はどうしてこのように奇怪なのか、老馬十歳にしてなお騮駒と号し、一妻は耳順 (六十歳) なのに尚娘子と称するとは」と。当時喧しく伝えられた。後に神武帝の中外府功曹となり、神武帝が僚属を宴する際、座中で金の叵羅 (酒杯) を失い、 竇泰 が飲酒した者に皆脱帽させると、祖珽の髻の上からそれを見つけ、神武帝は罪にすることができなかった。後に秘書丞となり、舍人を兼ね、文襄帝に仕えた。州の客が来て、『華林遍略』を売ることを請うた。文襄帝は多くの書写人を集め、一日一夜で書き終え、その本を返して言うには、「必要ない」と。祖珽は『遍略』数帙を質入れして樗蒲の金とし、文襄帝は彼を四十回杖打った。また令史の李双・倉督の成祖らとともに 晉 州の啓を作り、粟三千石を請い、功曹参軍趙彦深に代わって神武帝の教を宣し、城局参軍事の過典簽髙景略に給するが、景略はその決定が事実でないと疑い、密かに彦深に問うと、彦深はすべてこのような事はないと答えたため、遂に推問を受け、祖珽は即座に自白した。神武帝は大いに怒り、鞭二百回の判決を下し、甲坊に配属し、鉗を加え、その穀物は倍額で徴収することとした。未だ科罰に及ばぬうち、たまたま幷州の定国寺が新たに完成し、神武帝が陳元康・温子升に言うには、「昔『芒山寺碑』の文を作った時、当時絶妙と称されたが、今『定国寺碑』は誰に詞を作らせるべきか」と。元康はそこで祖珽の才学を薦め、また 鮮卑 語を解することを併せて述べた。そこで筆札を与えて禁所で草稿を作らせた。二日の内に完成し、その文は甚だ麗しかった。神武帝はその巧みで且つ速やかなことを以て、特に許して問わず、しかし尚免官とし、相府に散参させた。文襄帝が後を継ぐと、功曹参軍とした。文襄帝が害に遇うと、元康は傷を負い創が重く、祖珽に頼んで家累の事を託する書を作らせ、併せて言うには、「祖喜の辺りに少々の物がある、早く索取すべきである」と。祖珽はそこでこの書を通さず、祖喜を呼んで私かに問い、金二十五鋌を得、ただ喜に二鋌を与え、残りはすべて自ら自分のものとした。また元康の家の書数千巻を盗んだ。祖喜は恨みを抱き、遂に元康の二弟の叔諶・季璩らに告げた。叔諶がこれを楊愔に話すと、愔は眉をひそめて答えて言うには、「亡き者に益することは恐らくない」と。このため停止することができた。文宣帝が宰相となると、祖珽は令史十余人を補うことを擬し、皆収賄があり、法に拠って絞刑に処すべきところ、上は尋ねてこれを赦した。また官の『遍略』一部を盗んだ。事が発覚し、文宣帝はこれを從事中郎王土雅に付して推問させ、併せて書を平陽公高淹に与え、祖珽を捕らえて禁中に付し、逃亡させないように命じた。淹は田曹参軍孫子寬を遣わして呼びにやらせたが、祖珽は命を受けると、すぐに私かに逃亡した。黄門郎髙德正が留臺事を副うが、謀って言うには、「祖珽は自ら犯したことがあると知り、驚いて逃げるのは常であるが、ただ秘書に向かって一命を宣し、『幷州の約束に奉じて『五経』三部を頒ち、丞に仰せて親しく検校し催遣させよ』と言えば、このようにすれば祖珽の心は安らぎ、夜には宅に戻るであろう、それから捕らえるのだ」と。祖珽は果たして德正の図った通りとなり、遂に宅に戻った。薄暮に、家に赴いて襲い、祖珽を縛って廷尉に送った。犯した枉法に拠って絞刑に処すべきところ、文宣帝は祖珽が先代に仕えたことを以て、所司に命じて特におおめに見るよう示唆し、遂に死を免じて除名することを奏上した。天保元年、再び召し出されて従駕し、除免の例に依り、 晉 陽に参じた。
祖珽は天性聡明であり、事として学ぶに難いものはなく、凡そ諸々の伎芸、措かないものはなく、文章の外に、また音律を善くし、四夷の語および陰陽占候を解し、医薬の術は特にその長ずるところであった。文宣帝はその度々憲法を犯すことを嫌いながらも、その才伎を愛し、中書省に直らせ、詔誥を掌らせた。祖珽は密状を通し、中書侍郎陸元規を列挙し、勅令で裴英に推問させると、元規は応対が旨に逆らったため、甲坊に配属された。祖珽を尚薬丞とし、まもなく典禦に遷した。また胡桃油を作ることを奏上し、再び割蔵して免官された。文宣帝は毎度彼に会うと、常に賊と呼んだ。文宣帝が崩ずると、広く労旧を選び、寧武 太守 とした。たまたま楊愔らが誅殺されると、その官に赴かず、著作郎を授かった。数度密啓を上し、孝昭帝の憤りを買い、勅して中書・門下の二省に祖珽の奏事を断たせた。
祖珽は胡桃油を作って画を塗ることを善くし、そこでこれを長広王に進め、因みに言うには、「殿下には並々ならぬ骨法があり、孝徴は殿下が龍に乗って天に上る夢を見ました」と。王は言うには、「もしそうなら、兄を大富貴にさせるであろう」と。即位すると、これが武成皇帝であり、抜擢して中書侍郎に拝した。帝は後園で祖珽に琵琶を弾かせ、和士開に胡舞を舞わせ、各々物百段を賞した。士開はこれを忌み、安德太守に出し、齊郡太守に転じたが、母が老いていることを以て還って侍養を乞うと、詔してこれを許した。たまたま江南の使人が来聘し、中労使となった。まもなく太常少卿・ 散騎常侍 ・仮儀同三司となり、詔誥を掌った。初め、祖珽は乾明・皇建の時、武成帝が陰に大志あることを知り、遂に深く自ら結び付き、曲りくねって敬い奉った。武成帝は天保の世に頻りに責められ、心に常にこれを恨んでいた。祖珽はこの時に至って旨に迎合し、上書して太祖献武皇帝を追尊して神武とし、髙祖文宣皇帝を改めて威宗景烈皇帝とすることを請い、武成帝を喜ばせ、従った。
時に皇后は少子の東平王高儼を愛し、これを嗣とせんと願ひしが、武成帝は後主が体正にして長子に居るを以て、移し易ふることを難しとせり。祖珽はひそかに和士開に謂ひて曰く、「君の寵幸は、振古無二なり。宮車一日晩駕せば、何を以てか克く終はらんと欲するや」と。士開因りて策を求めしに、珽曰く、「宜しく主上に説きて、襄・宣・昭三帝の子倶に立つことを得ずと云ひ、今宜しく皇太子をして早く大位を践ましめ、以て君臣の分を定むべし。若し事成らば、中宮・少主皆君を徳とす。これ万全の計なり。君此れ且く微かに説きて、主上をして粗く解からしめよ。珽当に自ら外より表を上りて之を論ぜん」と。士開諾す。因りて彗星出づる有り、太史奏して云く、旧を除き新を布くの徴なりと。珽是に於て上書し、言さく、「陛下は天子と為すと雖も、未だ是れ極貴に非ず。按ずるに『春秋元命苞』に云く、『乙酉の歳は、旧を除き政を革む』と。今年太歳乙酉なり。宜しく位を東宮に伝へ、君臣の分を早く定め、且つ以て上つて天道に応ずべし」と。併せて魏の献文帝が子に禅せし故事を上る。帝之に従ふ。此れ由りて秘書監に拝し、儀同三司を加へられ、大いに親寵せらる。
既に二宮に見重くせられ、遂に宰相の位を志す。先づ黄門侍郎劉逖と善くし、乃ち侍中 尚書令 趙彦深・侍中左僕射元文遙・侍中和士開の罪状を疎かにし、逖をして之を奏せしむ。逖懼れて敢へて通ぜず、其の事頗る泄る。彦深等先づ帝に詣りて自ら陳ぶ。帝大いに怒り、珽を執へて詰めて曰く、「何ぞ故に我が士開を毀つや」と。珽因りて厲声して曰く、「臣は士開に由りて進むを得たり。本より毀たんと欲する意無し。陛下今既に臣を問ふ。臣敢へて実を以て対へざるべからず。士開・文遙・彦深等は専ら威権を弄び、朝廷を控制し、吏部尚書尉瑾と内外に交通し、共に表裏と為り、官を売り獄を鬻ぎ、政賄を以て成る。天下歌謠す。若し有識の知る所と為らば、安んぞ四裔に聞こえんや。陛下之を意とせずんば、臣大斉の業の隳るるを恐る」と。帝曰く、「爾乃ち我を誹謗す」と。珽曰く、「敢へて誹謗せず。陛下人の女を取る」と。帝曰く、「我其の儉餓するを以て、故に収養せり」と。珽曰く、「何ぞ倉を開き賑給せずして、乃ち買ひ取つて将に後宮に入れんや」と。帝益々怒り、刀環を以て口を築き、鞭杖乱下し、将に撲殺せんとす。大いに呼びて曰く、「臣を殺さずんば、陛下名を得ん。臣を殺せば、臣名を得ん。若し名を得んと欲せば、臣を殺す莫れ。陛下が為に金丹を合はん」と。遂に少しく寛放せらる。珽又曰く、「陛下に一の范増有りて用ふる能はず。知る可く如何」と。帝又怒りて曰く、「爾自ら范増を作し、我を以て項羽と為すか」と。珽曰く、「項羽の人身亦何ぞ由てか及ぶ可けん。但だ天命至らざるのみ。項羽布衣にして、烏合の衆を率ひ、五年にして霸王の業を成す。陛下は父兄の資を藉り、財り此に至るを得たり。臣は項羽未だ易く軽んず可からずとす。臣何ぞ止だ范増に方ふるのみならん。縦ひ張良と雖も及ぶ能はざらん。張良身太子に傅けりと雖も、猶ほ四皓に因りて、方りて漢の嗣を定む。臣の位は輔弼に非ず、疎外の人なり。力を竭くし忠を尽くし、陛下を勧めて位を禅へしめ、陛下をして尊く太上と為らしめ、子宸扆に居らしむ。己に及び子に及び、倶に休祚を保たしむ。蕞爾たる張良、何ぞ数ふるに足らん」と。帝愈々恚り、土を以て其の口を塞がしむ。珽且に吐き且に言ひ、屈撓する所無し。乃ち二百鞭し、甲坊に配す。尋ひて 光州 に徙す。刺史李祖勳之に遇すること甚だ厚し。別駕張奉礼大臣の意を希ひ、上言して曰く、「珽は流囚と為すと雖も、常に刺史と対坐す」と。勅報して曰く、「牢に掌れ」と。奉礼曰く、「牢とは地牢なり」と。乃ち深坑を為し、諸を内に置き、苦しく防禁を加へ、桎梏其の身を離れず。家人親戚臨視するを得ず。夜中に蕪菁子の燭を以て眼を熏き、此に因りて失明す。
武成帝崩じ、後主之を憶ひ、就きて海州刺史を除す。是の時陸令萱外朝政に干与し、其の子穆提婆愛幸せらる。珽乃ち陸媼の弟悉達に書を遺して曰く、「趙彦深心腹深沈にして、伊・霍の事を行はんと欲す。儀同の姉弟豈に平安を得んや。何ぞ早く智士を用ゐざるや」と。和士開も亦珽の能く大事を決するを以て、之を謀主と為さんと欲し、故に旧怨を棄て、虚心に之を待つ。陸媼と共に帝に言ひて曰く、「襄・宣・昭三帝、其の子皆立つことを得ず。今至尊猶ほ帝位に在るは、実に祖孝徴に由る。此人は大功有り。宜しく重恩に報ずべし。孝徴の心行薄しと雖も、奇略人に出づ。緩急真に憑仗す可し。且つ其の双盲、必ず反意無からん。請ふ喚び取りて其の謀計を問はん」と。之に従ひ、入りて銀青光禄大夫・秘書監と為り、開府儀同三司を加へらる。和士開死後、仍りて陸媼に説きて彦深を出だし、珽を以て侍中と為す。晋陽に在りて、密啓を通じ誅琅邪王を請ふ。其の計既に行はるるや、漸く任遇せらる。
又太后の幽せらるるに、珽は陸媼を以て太后と為さんと欲し、魏帝皇太后の故事を撰び、太姬に之を言ふ。人に謂ひて曰く、「太姬は婦人と云ふと雖も、実に是れ雄傑なり。女媧已来未だ有らざるなり」と。太姬も亦珽を称して国師・国宝と為す。此れ由りて尚書左僕射に拝し、国史を監し、特進を加へられ、文林館に入り、撰書を総監し、燕郡公に封ぜられ、太原郡の幹を食み、兵七十人を給ふ。住む所の宅は義井坊に在り、旁ら鄰居を拓き、大事に修築す。陸媼自ら往きて案行す。勢朝野に傾く。斛律光甚だ之を悪み、遥かに見て窃かに罵りて云く、「多事乞索の小人、何の計数を行はんと欲するか」と。常に諸将に謂ひて云く、「辺境の消息、兵馬を処分するに、趙令嘗て吾等と之に参論す。盲人機密を掌ること来り、全く我輩と語らず。止だ他を誤りて国家の事を為すを恐る」と。又珽頗る其の言を聞き、其の女皇后寵無きに因り、謡言を以て上に聞こえて曰く、「百升天に飛び、明月長安を照らす」と。其の妻の兄鄭道 蓋 をして之を奏せしむ。帝珽に問ふ。珽実を証す。又謡を説きて云く、「高山崩れ、槲樹挙がり、盲老翁背の上より大斧を下し、多事老母語るを得ず」と。珽幷せて云く、「盲老翁は是れ臣なり」と。国と憂戚を同じくすと云ひ、上を行はしむるを勧め、語りて「其の多事老母は、女侍中陸氏に似たり」と。帝以て韓長鸞・穆提婆に問ひ、幷せて高元海・段士良をして密に之を議せしむ。衆人未だ従はず。光府の参軍封士讓の啓告に因りて光の反するを告ぐ。遂に其の族を滅す。
祖珽はまた陸媼に取り入り、領軍となることを求め、後主はこれを許した。詔は覆奏を要し、侍中斛律孝卿の署名を取る。孝卿は密かに高元海に告げ、元海は侯呂芬・穆提婆に語って云う、「孝徴 (祖珽) は漢人であり、両眼もまた物を見えず、どうして領軍に相応しようか」と。翌朝、面奏し、詳しく祖珽が相応しくない様子を陳べ、併せて祖珽が広寧王孝珩と交結し、大臣の体を欠くことを書き記す。祖珽もまた面見を求め、帝は引見を命じる。祖珽は自ら疎遠であることを弁じ、併せて元海と元来嫌い合っているので、必ずや元海が臣を讒言したと云う。帝は弱く顔を隠せず、曰く「然り」と。祖珽は元海が司農卿尹子華・太府少卿李叔元・平準令張叔略らと共に朋党を結び徒党を組んだことを列挙する。遂に子華を仁州刺史に、叔元を襄城郡太守に、叔略を南営州録事参軍に除す。陸媼もまたこれに唱和し、また元海を鄭州刺史に除す。祖珽は是より機衡を専らにし、騎兵・外兵の事を総べて知る。内外の親戚、皆顕位を得る。後主もまた中要の数人に出入りの扶侍を命じ、紗帽を着けて永巷に直に入り、万春門を出て聖寿堂に向かい、毎度御榻に同じて政事を論決し、委任の重さ、群臣比ぶる者なし。
和士開が執事して以来、政体は隳壊し、祖珽は高望を推祟し、官人は職に称し、内外称美す。また政務を増損し、人物を沙汰せんと欲す。始め京畿府を罷めることを奏し、これを領軍に併せ、事は百姓に連なり、皆郡県に帰す。宿衛 都督 等の号位は旧官名に従い、文武の章服は並びに故事に依る。また諸閹豎及び群小輩を黜け、誠を推して士を延べ、治を致す方とせんと欲す。陸媼・穆提婆の議は頗る同異あり。祖珽は乃ち御史中丞麗伯侓に諷して主書王子沖の賄賂収受を劾めしむ。その事が穆提婆に連なることを知り、贓罪を相及ぼさしめ、この故をもって坐せ、併せて陸媼に及ぼさんと望む。なお後主が近習に溺るるを恐れ、后党を因って援けとせんと欲し、皇后の兄胡君瑜を侍中・中領軍とすることを請い、また君瑜の兄梁州刺史君璧を徴し、以て御史中丞とせんと欲す。陸媼聞いて怒りを懐き、百方排毀し、即ち君瑜を出して金紫光禄大夫とし、中領軍を解き、君璧を還して梁州を鎮守せしむ。皇后の廃は、頗る亦これに由る。王子沖は釈して問わず。祖珽は日に日に疎んぜらる。また諸宦者更に共に譖毀し、至らざる所なし。後主諸太姫に問う、憫然として黙して対せず、三たび問うに及んで、乃ち床を下りて拝して曰く「老婢は死すべし、本和士開が孝徴 (祖珽) の多才博学なるを道い、善人と為すを言うを見て、故に挙げしなり。比来これを見るに、極めて是れ罪過、人は実に知り難し。老婢は死すべし」と。後主韓長鸞に命じて案を検せしむ、その詐りて勅を出し賜を受くる十余事を得る。以前に其と重ねて誓いて殺さざるにより、遂に祖珽の侍中・僕射を解き、出して北徐州刺史とす。祖珽後主に見えんことを求む、韓長鸞は祖珽に積もる嫌あり、人を遣わして柏閣より推出す。祖珽固く面見を求め、坐して行かず。長鸞は乃ち軍士に牽曳して出さしめ、祖珽を朝堂に立たせ、大いに誚責を加う。上路の後、追い還すを命じ、その開府儀同・郡公を解き、直に刺史と為す。
州に至り、時に陳の寇有り、百姓多く反す。祖珽は城門を関せず、守埤の者皆に下城して静坐せしめ、街巷行人を禁断し、鶏犬鳴吠を聴かず。賊は聞く所見る所無く、測る所以を知らず、疑惑して人は走り城は空なりとし、警備を設けず。祖珽忽然として大叫せしめ、鼓噪天を聒し、賊大いに驚き、登時に走り散ず。後また陣を結んで城に向かう、祖珽は馬に乗って自ら出で、録事参軍王君植に兵馬を率いしめ、仍って親ら戦に臨む。賊は先にその盲なるを聞き、拒抗できぬと謂い、忽然として親ら戎行に在るを見、弓を彎ぎ鏑を放つに、相与に驚怪し、これを畏れて罷む。時に穆提婆はこれを憾み已まず、城をして陥没して賊に陥らしめんと欲し、危急を知りながらも、救援を遣わさず。祖珽は且つ戦い且つ守ること十余日、賊竟に奔走し、城卒く保全す。州に卒す。
祖珽の子 君信
子君信は、書史に渉猟し、諸々の雑芸多し。位は通直 散騎常侍 ・聘陳使副・中書郎を兼ぬ。祖珽が出でしとき、亦見て廃免せらる。君信の弟君彦は、容貌短小、言辞澀訥、少しく才学有り。隋の大業中、位は東平郡書佐に至る。郡は翟譲に陥り、因って李密の得る所と為り、密は甚だ礼し、記室に署し、軍書羽檄皆その手に成る。密の敗るるに及び、王世充に殺さる。
祖珽の弟 孝隠
祖珽の弟孝隠は、文学有り、早く知名なり。詞章は兄に逮ばざれども、亦機警に弁有り、音律を解するを兼ぬ。魏末に 散騎常侍 ・迎梁使と為る。時に徐君房・庾信来聘し、名誉甚だ高く、魏朝聞いて重んじ、接対する者は多く一時の秀を取る。盧元景の徒は並びに階を降り職を摂し、更に司賓を遞す。孝隠少しく其中に処り、物議称美す。
孝隠の従父弟の茂は、頗る辞情有り、然れども酒を好み性率直、時の重んずる所と為らず。大寧中、経学を以て本郷に薦められ、給事に除せらる、疾を以て辞し、仍って復た仕えず。祖珽は任寄を受けし故、呼び茂を令す、茂は已むを得ず、暫く来りこれに就く。祖珽は官に奏せんと欲す、茂は乃ち逃げ去る。
祖珽の族弟 孝隠
祖珽の族弟崇儒は、学に渉り辞藻有り、少くより幹局を以て知名なり。武平末、司州別駕・通直常侍。周に入り、容昌郡太守と為る。隋の開皇初、宕州長史に終わる。
校