辛術
辛術は、字を懷哲といい、幼少より明敏にして識見と度量があった。初めて官に就き 司空 胄曹參軍となり、僕射高隆之と共に 鄴 都の宮室の営造を管掌し、術は構想に優れ、多くの工匠をよくまとめた。再び尚書右丞に遷る。出て清河 太守 となり、政治に手腕ありと名を馳せた。追って 幷州 長史を授けられたが、父の喪に遭い職を去った。清河の父老数百人が宮闕に赴き、碑を立ててその徳を称えることを請うた。 文襄 ( 高澄 ) が後を継ぐと、尚書左丞宋遊道・中書侍郎李繪らと共に追って 晉 陽に召し寄せられ、ともに上客となった。累遷して 散騎常侍 に至る。
武定八年 (550年) 、 侯景 が叛くと、東南道行臺尚書に任じられ、江夏縣男に封ぜられ、高岳らと共に侯景を破り、蕭明を擒らえた。東徐州刺史に遷り、淮南經略使となる。齊の天保元年 (550年) 、侯景が江西の租税を徴収しようとしたので、術は諸軍を率いて淮を渡りこれを遮断し、その稻数百万石を焼いた。下邳に還って鎮すると、術に従って北へ淮を渡った者は三千餘家に及んだ。東徐州刺史郭誌が郡守を殺害した。 文宣 帝 ( 高洋 ) はこれを聞き、勅して術に、今後統轄する十餘州の地において法を犯す者があれば、刺史はまず上奏して返答を待ち、それ以下の者は先に断罪して後で上奏せよ、と命じた。齊の代において行臺が人事を兼ね総べることは、術より始まるのである。安州刺史・臨清太守・盱眙・蘄城の二鎮將が法を犯したので、術はことごとく取り調べて上奏し誅殺した。睢州刺史及びその配下の郡守がともに大辟 (死刑) に当たる罪を犯したので、朝廷はその奴婢百口と資財をすべて術に賜わったが、三度辞退しても許されず、術はそれらを所管の官衙に送り、もはや朝廷に報告しなかった。邢卲はこれを聞き、術に書を送って言うには、「昔、鐘離意が『孔子は盜泉で渇きを忍んだ』と言い、珠璣を地に棄てたが、足下今このようにできることは、まさに異代にして同じ時と言えよう」。王僧辯が侯景を破ると、術は人々を招き寄せて安撫し、城鎮が相次いで帰順し、前後二十餘州に及んだ。ここにおいて広陵に移って鎮した。傳國の璽を獲得して鄴に送ると、文宣帝は璽を太廟に告げた。この璽はすなわち秦の制作で、四方四寸、上部の鈕には龍が交わり盤踞し、その文に「受命于天、旣壽永昌」とある。二漢より伝わり、さらに魏・ 晉 に伝わった。懷帝が敗れると、劉聰のもとに没した。聰が敗れると、石氏のもとに没した。石氏が敗れ、 晉 の穆帝の永和年間 (345–356年) に、濮陽太守戴僧施がこれを得て、督護何融に遣わして建鄴に送らせた。宋・齊・梁を経て、梁が敗れると、侯景がこれを得た。景が敗れると、侍中趙思賢が璽を侯景の南兗州刺史郭元建に投げ与え、術のもとに送ったので、術が進上したのである。まもなく召されて殿中尚書となり、太常卿を領し、引き続き朝の賢臣と律令を議定した。吏部尚書に遷り、南兗州梁郡の幹を食む。
鄴に遷都して以後、大選 (吏部尚書) の職に就いた者で知名の士は四、五人いたが、互いに得失があり、尽く美を極めるには至らなかった。文襄帝 (高澄) は若年で高潔明朗であったが、欠点は粗疏であった。袁叔德 (袁聿修) は沈着緻密で謹厚であったが、欠点は細かすぎた。楊愔は風流で弁舌に富んだが、士を取るに浮華を失した。ただ術のみが性質が貞明を尚び、士を取るに才能と器量をもってし、名に循って実を責め、新旧を参酌して推挙し、倉庫の小吏も必ず抜擢し、名門の家柄も遺さなかった。前後の銓衡 (人事) を考察するに、術の時が最も折衷を得ており、当時大いに称揚された。天保の末、文宣帝はかつて術に百員の官を選ばせたが、参選する者は二、三千人に及び、術は士子を品題して、人に謗り讟る者なく、その旌表抜擢した者は、後みな通顕の地位に至った。
術は清潔で倹約し、嗜欲が少なかった。職務に勤勉で、暫しも懈怠することがなかった。軍に臨むには威厳をもってし、民を治めるには恵みある政治を行った。若くして文史を愛し、晚年にはさらに学問を修め、軍旅にあっても手から書巻を放さなかった。淮南を平定した時、諸々の資財物品には一切手を触れず、ただひたすら典籍を収集し、多くは宋・齊・梁の時の佳本で、鳩集すること万余巻、ならびに顧愷之・陸探微らの名画、王羲之・王獻之以下の法書も数少なくなく、すべて王府には上納せず、ただ私門に入れた。朝廷に還ると、権要に贈り物をしたため、世間の議 論 はこれをもって術をやや軽んじた。天保十年 (559年) に卒去、年六十。皇建二年 (561年) 、開府儀同三司・ 中書監 ・青州刺史を追贈された。子の閣卿は尚書郎。閣卿の弟衡卿は識見学問があり、開府参軍事となった。隋の大業初年、太常丞の任で卒した。
元文遙
元文遙は、字を德遠といい、河南洛陽の人、魏の昭成皇帝の六世孫である。五世祖は常山王の元遵。父の元 晞 は孝行があり、父が卒すると墓側に廬してそのまま終わった。文遙が貴くなると、特進・開府儀同三司・ 中書監 を追贈され、諡して孝といった。文遙は聡明慧敏にして早くから成り立ち、濟陰王元暉業は常々、「この子は王を補佐する才である」と言った。暉業がかつて賓客を大いに会した時、ある者が『何遜集』を初めて洛陽に持ち込み、諸賢は皆これを賞賛した。河間の邢卲が試みに文遙に命じて、「これを誦するのに何遍かかるか」と問うと、文遙は一覧してただちに誦し、時に年十余歳であった。濟陰王が「我が家の千里駒は、今いかがであろうか」と言うと、邢卲は「これはおそらく古来未だかつてないことです」と言った。
員外 散騎常侍 より起家する。父の喪に遭い、喪が明けると、太尉東閤祭酒に任じられた。天下がまさに乱れようとしていたので、ついに官を解いて父母に仕え、林慮山に隠棲した。武定年間 (543–550年) 、文襄 (高澄) が召し出して大將軍府功曹とした。齊が禪を受けると、登壇の所で中書舍人を授かり、文武の号令を宣伝した。楊遵彥 (楊愔) は常々、「穰侯 (魏冉) の印を解かしめることができる者は、必ずこの人に在る」と言った。後に突然、中旨 (皇帝の直接命令) によって幽閉拘束されたが、ついにその理由を知ることができなかった。このように数年を経た。文宣帝は後になって自ら禁獄に臨み、その手を執って慚愧謝罪し、自ら着けていた金帯と御服を解いて賜い、即日に起用して尚書祠部郎中とした。孝昭帝 ( 高演 ) が政を摂ると、大丞相府功曹參軍に任じられ、機密を管掌した。帝が即位すると、中書侍郎に任じられ、永樂縣伯に封ぜられ、軍国大事に参与した。帝が危篤に陥ると、平秦王の高歸彥・趙郡王の高叡らと共に顧命を受け、武成帝 ( 高湛 ) を迎え立てた。即位すると、任用と待遇はますます厚くなり、給事黃門侍郎・ 散騎常侍 ・侍中・ 中書監 を歴任した。天統二年 (566年) 、詔して特に高氏の姓を賜わり、籍は宗正に属し、子弟は例に依って歳時に朝参することとなった。再び尚書左僕射に遷り、寧都郡公に進封され、侍中となった。
文遙は三主 (文宣・孝昭・武成) に歴事し、世務に明達し、帝が軒檻に臨むたびに、多く命じて勅を宣べさせ、文武に号令するに、声韻高朗で、発吐滞るところがなかった。しかし上意を探り測るに、時に巷の卑しい言葉を用いたので、知音の士に重んじられなかった。齊は魏朝に因り、県令には多く卑賤の者を用い、士流は百里 (県令) の職に就くことを恥じた。文遙は県令が民を治める重要な職であると考え、遂に選任制度の改革を請うた。ここにおいて密かに貴遊の子弟を捜索推挙させ、勅を発して任用した。なお彼らが訴え出ることを恐れ、総べて神武門に召集し、趙郡王の高叡に命じて旨を宣べ名を唱えさせ、厚く慰撫諭示を加えた。士人が県令となることは、ここに始まるのである。趙彥深・和士開と共に任用待遇されたが、彥深のように清貞で道を守るほどではなく、また士開のように貪淫で政を乱すこともなく、季・孟 (伯仲) の間にあった。しかし性質は温和で厚く、物と競わなかったので、当時の論評では彥深に劣るとされなかった。初め、文遙が洛陽から鄴に遷った時、ただ十頃の田地があるだけで、家は貧しく、衣食の資とするのみであった。魏の末世、宗姓は侮られ、ある者が偽って侵奪しようとしたので、文遙は即座にこれを与えた。貴くなってから、この者がまだ存命していたので、家を挙げて逃げ隠れた。文遙は大いに驚き、追って慰撫を加え、返して与えた。その人は慚愧して受けず、互いに譲り合い、遂に閑田となった。
後主が位を継ぐに至り、趙郡王高叡・婁定遠らが和士開を外そうと謀り、元文遙もまたその議に参じた。高叡は殺され、文遙はこれにより西兗州刺史として出された。士開のもとに別れを告げに行くと、士開は言った。「言える立場にいて、元家の子 (文遙) を令・仆射にさせられなかったことは、朝廷に対して深く恥じる」。言ってから後悔し、なおも手を取って慰労激励した。なお文遙が自ら疑うことを慮り、その子行恭を尚書郎に用いて、その心を慰めた。士開が死ぬと、東徐州刺史から朝廷に召し入れられたが、結局用いられず、卒した。
行恭は姿貌が美しく、父の風があり、俊才を兼ね、位は中書舎人、文林館に待詔した。北斉が滅ぶと、陽休之ら十八人と共に関中に入り、やがて司勲下大夫に遷った。隋の開皇年間、位は尚書郎、事に坐して瓜州に徙され、そこで卒した。行恭は若い頃はやや驕り勝ちで、文遙は范陽の盧思道と交遊させた。文遙はかつて思道に言った。「小児が近ごろ少し知るところがあるのは、大弟 (思道) の力である。しかし、白擲 (骰子遊び) や劇飲は、まことに師の風を得ている」。思道は答えて言った。「郎君 (行恭) の言辞・情致は俊邁であり、自ずから堂構を荷うに足る。白擲・劇飲もまた天性の得るところである」。行恭の弟行如もまた聡慧で早く成り、武平末年に著作佐郎を任じられた。
趙彥深
趙彥深は、自ら言うには南陽宛の人で、漢の太傅趙熹の後裔である。高祖父の趙難は清河太守となり、恵政があり、そこで家を構えた。清河は後に平原と改められたので、平原の人となった。本名は隠であったが、北斉の廟諱を避け、字 (彥深) をもって行うように改めた。父の奉伯は、 北魏 に仕えて位は中書舎人・行洛陽令であった。彥深が貴くなると、 司空 を追贈された。彥深は幼くして孤貧であり、母に仕えて甚だ孝行であった。十歳の時、かつて 司徒 崔光を訪ねた。光は賓客に言った。「古人は眸子を観て人を知るというが、この人は必ず遠くまで至るであろう」。性質は聡敏で、書計を善くし、安閑として道を楽しみ、交遊を雑えず、雅論の帰服するところとなった。夜明けには、自ら門外を掃き、人に見られないようにし、常としていた。
初めは 尚書令 司馬子如 の賤客となり、書を写すことに供した。子如はその誤りのないことを善しとし、観省の舎に連れ入れようとした。趙隠 (彥深) の靴には氈がなく、衣帽は破れていたので、子如はこれを与えた。書令史として用い、一月余りで正令史に補った。神武帝が 晉 陽におり、二史 (令史) を求めると、子如は彥深を推挙した。後に子如の開府参軍に拝され、超えて水部郎に拝された。文襄帝が 尚書令 となり選事を摂ると、諸曹郎を沙汰し、彥深は地寒 (家柄が低い) により出されて滄州別駕となったが、辞して行かなかった。子如が神武帝に言上し、大丞相功曹参軍に補われ、専ら機密を掌り、文翰は多くその手から出て、敏給と称された。神武帝はかつて対座し、軍令を作らせ、手でその額を撫でて言った。「もし天が卿に年寿を仮すならば、必ず大いに至るところあらん」。常に 司徒 孫騰 に言った。「彥深は小心恭慎、曠古絶倫である」。
神武帝が崩ずると、喪事を秘し、文襄帝は河南に変があることを慮り、自ら巡撫することとし、そこで彥深に後事を委ね、大行臺都官郎中に転じた。出発に臨み、手を握って泣いて言った。「母と弟とを託す。幸いにこの心を得よ」。やがて内外は寧静となり、それは彥深の力によるものであった。帰還して発喪すると、深く褒美を加え、郡県の簿を披いて選に任じ、安国県伯に封じた。潁川征従に従い、時に水を引いて城を灌ぐと、城の雉 (城壁) は将に没せんとしたが、 西魏 の将 王思政 はなお死戦しようとした。文襄帝は彥深に単身で城に入り告げ諭すことを命じ、即日にこれを降伏させ、手ずから思政を牽いて城を出た。先に、文襄帝は彥深に言った。「吾昨夜夢に獵す。一群の豕に遇い、吾は射て尽く獲たが、ただ一つの大豕を得られなかった。卿は言う、『吾が為に取らん』と。須臾にして豕を獲て進む」。この時に至り、文襄帝は笑って言った。「夢が験った」。即ち思政の佩刀を解いて彥深に与え、言った。「卿に常にこの利を得させん」。
文宣帝が位を嗣ぐと、なお機密を典し、侯に爵を進めた。天保初年、累遷して秘書監となった。忠謹であるとして、郊廟の礼がある毎に、必ず太僕卿を兼ねさせ、御を執り陪乗した。大司農に転じた。帝が巡幸する時は、即ち太子を輔賛し、後事を知った。出て東南道行臺尚書・徐州刺史となり、政は恩信を尚び、吏人に懐かれ、多く降伏させた。軍を営んだ所では、士庶が追思し、趙行臺頓と号した。文宣帝は璽書を下して労勉し、侍中に徴し入れ、なお機密を掌らせた。河清元年、安楽公に爵を進め、累遷して尚書左僕射・斉州大中正・国史監となり、 尚書令 に遷り、特進となり、宜陽王に封じられた。武平二年に 司空 に拝されたが、祖珽に間せられ、出されて西兗州刺史となった。四年、 司空 に徴され入れ、 司徒 に転じた。母の憂に服したが、まもなく本官に起用された。七年六月、暴疾にて薨じ、時に七十歳。
彥深は累朝に歴事し、常に機近に参じ、溫柔謹慎で、喜怒を色に形さなかった。皇建以来、礼遇は次第に重くなり、引見がある毎に、時に御榻に昇らせ、常に官号を呼んで名を呼ばなかった。凡そ諸々の選挙は、先ず彼に銓定させ、人物を提獎するには、皆行業を先とし、軽薄の徒は、これを歯しなかった。孝昭帝が朝権を執ると、群臣は密かに多く勧進したが、彥深だけは言葉を致さなかった。孝昭帝はかつて王晞に言った。「もし衆心が皆天下に帰すと言うなら、何故彥深の語る所を見ないのか」。晞がこれを告げると、彥深は已むを得ず、陳請した。その時重んぜられること、このようであった。常に言葉を遜り己を恭しくし、未だかつて驕矜をもって物に接することなく、それ故に出たり処ったりし、去ってまた還ったのである。母の傅氏は、雅に操識があった。彥深が三歳の時、傅は早くも寡居し、家人が改適させようとしたが、死を誓った。彥深が五歳の時、傅はこれに言った。「家は貧しく児は小さい。どうして済ませられようか」。彥深は泣いて言った。「もし天が哀れみ給うなら、児が大きくなったら仰いで報いん」。傅はその意に感じ、対して流涕した。彥深が太常卿に拝された時、帰ると、朝服を脱がず、先ず母に入って見え、跪いて幼少より孤露であり、訓えに蒙りてここに至ったことを陳べた。母子は久しく相泣き、その後で服を改めた。後に宜陽国太妃となった。彥深には七子があり、仲将が知名である。
仲将は、沈敏で父の風があり、温良恭儉であり、妻子に対しても、未だかつて怠慢せず、終日儼然としていた。学は群書に渉り、草隷を善くした。弟に書を送る時も、字は楷正に書き、「草書は解さざるべからず。もし人に施すならば、即ち軽んずるに似る。もし当家の中の卑幼に与えるならば、又その疑う所、宜しきに在るを恐れる。是を以て必ず隷筆を用いねばならぬ」と言った。彥深は万歳県子の爵を転じて彼に授けることを乞うた。位は給事黄門侍郎・ 散騎常侍 。隋の開皇年間、位は吏部郎、安州刺史で終わった。
北斉朝の宰相で、善く始め令終したのは、唯彥深一人である。然しながら、朝廷を諷して子の叔堅を中書侍郎としたことは、頗る物議を招いた。時に馮子琮の子慈明・祖珽の子君信が相継いで中書に居たので、故に時の言葉に云う。「馮・祖及び趙、我が鳳池を穢す」と。然しながら叔堅の身材は最も劣っていた。
校