北齊書

巻三十七補列傳第二十九 魏收

魏收

魏收、字は伯起、小字は佛助、鉅鹿郡下曲陽の人である。曾祖父は緝、祖父は韶。父の子建は字を敬忠といい、儀同・定州刺史を追贈された。収は十五歳の時、既に文を綴ることをよくした。父に従って辺境に赴いた後は、騎 もと を習うことを好み、武芸によって自らを顕そうとした。 滎陽 けいよう の鄭伯がこれをからかって言うには、「魏郎は戟を弄ぶことどれほどか」と。収は恥じ、そこで志を改めて読書に励んだ。夏の月には板床に坐り、木陰に従って誦読し、数年を経て、板床はそれによって著しく減じたが、精力は衰えなかった。文華によって顕れた。

初め太學博士に任ぜられた。 尒朱榮 じしゅえい が河陰において朝士を濫りに害した時、収もまた包囲の中にあり、日が暮れたために免れた。吏部尚書李神儁は収の才学を重んじ、上奏して 司徒 しと 記室參軍に任じた。永安三年、北主客郎中に任ぜられた。 節閔帝 せつびんてい が即位し、近侍を精選するにあたり、詔して収に『封禪書』を作らせて試みたところ、収は筆を下ろせばすぐに成り、草稿を立てず、文は千言に及んだが、改めた所はほとんどなかった。時に黄門郎賈思同が侍立していたが、深くこれを奇とし、帝に言うには、「七歩の才といえども、これを超えるものはない」と。散騎侍郎に遷り、まもなく起居注を掌ることを命ぜられ、併せて國史を修め、兼ねて中書侍郎となった。時に二十六歳。

孝武帝の初め、また詔して収に本職を摂らせた。文誥は積み重なり、事はすべて旨にかなった。黄門郎崔㥄が齊の神武帝に従って朝廷に入り、世に勢威を振るったが、収は初めその門を詣でなかった。㥄が帝の即位の赦文を作り、「朕は孝文帝に體を託す」と云ったが、収はその率直さを嗤った。正員郎李慎がこれを㥄に告げたので、㥄は深く憤り忌んだ。時に節閔帝が崩じ、収に詔を作らせた。㥄はそこで言いふらした。「収は普泰の世に帷幄に出入りし、一日詔を作って、ことさらに文辞を巧みにした。それでは義旗を挙げた士はすべて逆人となってしまう」と。また収の父は老いており、官を解いて帰り侍るべきであるとして、南臺が弾劾を加えようとしたが、尚書辛雄が中尉綦儁に取りなしたために解けた。収に賤しい生まれの弟仲同があり、先に登録されていなかったが、このことで怖れ懼れ、籍に上って、郷里に帰って扶侍させた。孝武帝はかつて大いに士卒を発し、嵩少の南で十六日間狩りをした。時に天寒く、朝野嗟怨した。帝は従官および諸妃主とともに、奇伎異飾多く礼度に非ざるものがあった。収は言おうとすれば懼れ、黙していればやめられず、そこで『南狩賦』を上って諷した。時に二十七歳、言葉は豊かで淫麗ではあったが、終には雅正に帰した。帝は手詔で答え、甚だ褒め称えられた。鄭伯が言うには、「卿は老夫に遇わなければ、なお兎を追うべき身であったろうに」と。

初め、神武帝が固く天柱大將軍を譲った時、魏帝は収に詔を作らせ、その請いを遂げさせようとした。相国を加えようとして、その品秩を問うたが、収は実をもって答えたので、帝はやめた。収は既に主相の意を測りかね、以前のことで不安を覚え、解任を求め、詔してこれを許した。久しくして、帝の兄の子広平王贊の開府從事中郎に任ぜられたが、収は辞することができず、そこで『庭竹賦』を作って己の意を表した。まもなく中書舍人を兼ね、濟陰の溫子升、河間の邢子才とともに誉れを並べ、世に三才と号された。時に孝武帝は神武帝を猜忌し、内に間隙があったので、収は病を理由に固く辞して免れた。その舅の崔孝芬が怪しんで問うと、収は言った。「 しん 陽の甲の有るを懼れるなり」と。まもなく神武帝が南上し、帝は西に関に入った。

収は通直 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ね、王昕に副えて梁に使いし、昕は風流文辯に優れ、収は辞藻富逸であり、梁主およびその群臣は皆敬異を加えた。先に南北が初めて和した時、李諧、盧元明が最初に使命を通じ、二人の才器はともに隣国に重んぜられた。ここに至り、梁主は称して言うには、「盧・李は命世の才、王・魏は中興の才、後来またいかんを知らんや」と。収は館にあり、呉の婢を買って館に入れ、その部下に婢を売る者がいたので、収もまた呼び取って、遍く姦穢を行い、梁朝の館司は皆これによって罪を得た。人はその才を称しながらその行いを卑しんだ。途上で『聘遊賦』を作り、文辞は甚だ美盛であった。使いから還ると、尚書右僕射高隆之が昕・収に南貨を求めたが、志の如くにできず、そこで御史中尉高仲密に諷して昕・収をその臺に禁止させ、久しくして釈放された。

孫搴が死ぬと、 司馬子如 しばしじょ が収を推薦し、召して しん 陽に赴かせ、中外府主簿とした。旨を受けてそむいたため、しばしば嫌疑を被り責められ、さらに すい 楚を加えられ、久しく志を得なかった。時に司馬子如が霸朝に使いを奉じたので、収はその余光を借りた。子如は宴席で戯れに神武帝に言った。「魏收は天子の中書郎、一国の大才、願わくは大王、顔色を借りたまえ」と。これによって府屬に転じたが、まだ甚だ優礼されなかった。

収の從叔の季景は才学があり、歴官して著名で、ともに収より先んじていたが、収は常にこれを欺き軽んじた。季景と収が初めて 幷州 へいしゅう に赴いた時、頓丘の李 ちか という者は、故大司農諧の子で、華辯をもって称せられ、かつて収に言った。「霸朝には便り二魏あり」と。収は軽率に言った。「從叔を以て比するは、すなわち耶輸の卿に比するがごときなり」と。耶輸という者は、故 尚書令 しょうしょれい 陳留公繼伯の子で、愚癡有名であり、好んで自ら市肆に入り、高価で物を買い、商賈に共に嗤い弄ばれた。収が季景を軽んじたので、これに譬えたのである。不遜な例多くこのようであった。

収はもとより文才によって、必ず穎脱して知られんことを望んだが、位は既に遂げず、國史を修めることを求めた。崔進が 文襄 ぶんじょう 帝に言った。「國史の事は重く、公家父子の霸王の功業は、皆具に また せねばならず、収でなければできない」と。文襄帝は収を 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ねさせ、國史を修めさせた。武定二年、正常侍に任ぜられ、兼中書侍郎を領し、なお史を修めた。魏帝が百僚を宴し、何故人日というのかと問うたが、皆知ることができなかった。収が答えて言うには、「 しん の議郎董勛の『答問禮俗』に云う、「正月一日を雞とし、二日を狗とし、三日を豬とし、四日を羊とし、五日を牛とし、六日を馬とし、七日を人とする」と。時に邢卲もまた側にいたが、甚だ恥じた。魏と梁が和好して以来、書状の紙の下には毎に「想うに彼の境内寧静、此の率土安和」とあった。梁が後に使した時、その書には「彼」の字を用い、自称にはなお「此」を著していたが、外なきの意を示そうとしたのである。収が返書を定めて云うには、「想うに境内清晏、今萬國安和」と。梁の人が返書するに、これに依って體とした。後に神武帝が朝廷に入り、靜帝が相国を授けたが、固く譲り、収に啓を作らせた。啓が成って呈上されると、文襄帝が時に侍側していたが、神武帝は収を指して言った。「この人はまた崔光となるであろう」と。四年、神武帝が西門豹祠で宴集し、司馬子如に言った。「魏收は史官として、我らの善悪を書く。北伐の時、諸貴は常に史官に飲食を饗したと聞くが、司馬僕射は頗る曾て饗したか」と。よって共に大笑した。なお収に言った。「卿、元康らが我が目下に趨走するを見て、我が勤労と為すと謂うなかれ。我が後世の身名は卿の手に在り、我が知らざると謂うなかれ」と。まもなく著作郎を兼ねた。

魏收はかつて洛陽に在った頃、軽薄さが特に甚だしく、人々は『魏收は驚きの胡蝶なり』と号した。文襄 高澄 こうちょう はかつて東山に遊び、給事黄門侍郎の顥らに宴を命じた。文襄は言った、「魏收は才を恃んで適切さが無い、その短所を出さねばならぬ」と。数度の応酬の後、魏收は突然大声で叫んだ、「楊遵彦 (楊愔) は理屈が尽きて既に倒れた」と。楊愔は従容として言った、「我には余裕が十分にある、山のように立って動かず、もし当塗に遇えば、恐らく翩翩として遂に逝くであろう」と。当塗とは魏を指し、翩翩とは胡蝶のことである。文襄は先にこれを知っており、大笑して善しと称えた。文襄はまた言った、「先ほどの言葉はまだ微かである、更に指弾すべきである」と。楊愔は声に応じて言った、「魏收は へい 州で一篇の詩を作り、衆人に向けて読み終え、『従叔の季景から六百斛の米を打ち取っても、これ (詩の価値) を弁えられぬ』と言った。遠近の知るところであり、妄語を敢えてするものではない」と。文襄は喜んで言った、「我もまた先に聞いている」と。衆人皆笑った。魏收は自ら雪冤を申し立てたが、もはや抵抗せず、生涯これを病とした。

侯景 こうけい が梁に叛いて入り、南境を寇した時、文襄は当時晋陽におり、魏收に五十余紙の檄文を作るよう命じたが、数日で完成した。また梁朝への檄文を作り、侯景を送還せよと命じたが、初夜に筆を執り、三更 (深夜) に成り、文は七紙を超えた。文襄はこれを善しとした。魏帝 (孝静帝) がかつて季秋の大射を催し、広く詩を賦するよう命じた時、魏收の詩の末尾に「尺書を以て建 ぎょう を徴し、簡を折りて長安を召す」とあった。文襄はこれを雄壮とし、諸人を顧みて言った、「朝廷に今魏收がいることは、まさに国の光彩である。雅俗の文墨に通達し縦横である。我もまた子才 (温子昇) や子昇 (邢邵) に時折作らせたが、詞気に至っては、並ぶ者がない。我が或いは思いを懐いても、忘れて語らず、語っても尽きず、意が及ばないことがあるが、魏收が草稿を呈すれば皆周到に明らかである。これもまた得難いことだ」と。また主客郎を兼ねるよう勅命し、梁の使者謝珽と徐陵を接遇させた。侯景が梁を陥落させた後、梁の鄱陽王蕭範が当時合州刺史であった時、文襄は魏收に命じて書簡で諭させた。蕭範は書簡を得て、部伍を率いて西上し、刺史崔聖念がその城を占拠した。文襄は魏收に言った、「今一州を平定したのは、卿の力によるものだ。ただ『尺書を以て建鄴を徴す』が未だ効を奏さぬことを恨むのみである」と。

文襄が崩じると、 文宣 ぶんせん 高洋 こうよう は晋陽に行き、魏收に黄門郎の崔季舒、高徳正、吏部郎中の尉瑾と共に北第で機密を掌らせた。秘書監に転じ、著作郎を兼ね、また定州大中正に任じられた。当時、斉が禅譲を受けようとしており、楊愔は魏收を別館に置き、禅譲の詔書や冊文などの文書を撰ばせ、徐之才に門を守らせて外出を許さなかった。天保元年、中書令に任じられ、引き続き著作郎を兼ね、富平県子に封じられた。

二年、詔により魏史の撰修を命じられた。四年、魏尹に任じられたが、禄力を優遇して与え、専ら史閣に在って郡の事務は知らなかった。初め、帝 (文宣帝) は群臣に各々志を言うよう命じ、魏収は言った、「臣は東観で直筆を得て、早く『魏書』を成したい」と。故に帝は魏収にその任を専らさせた。また詔して平原王高隆之に総監させたが、署名するのみであった。帝は魏収に勅して言った、「よく直筆せよ、我は決して魏の太武帝のように史官を誅することはない」と。初め、魏の初期に鄧彦海が『代記』十余巻を撰し、その後崔浩が史を司り、遊雅、高允、程駿、李彪、崔光、李琰らが代々その業を修めた。崔浩は編年体とし、李彪が初めて紀・表・志・伝に分けて作ったが、書はまだ出なかった。宣武帝の時、邢巒に命じて『孝文起居注』を追撰させ、書は太和十四年まで及び、また崔鴻と王遵業に命じて補続させた。孝明帝に至るまで、事柄は甚だ詳細であった。済陰王の元暉業が『弁宗室録』三十巻を撰した。魏収はここにおいて通直常侍の房延佑、 司空 しくう 司馬の辛元植、国子博士の刁柔、裴昂之、尚書郎の高孝幹と共に専ら総合斟酌し、以て『魏書』を成した。名称を弁定し、条に随って甄挙し、また亡失した記録を捜採し、後事を綴続し、一代の史籍を備え、表を上って奏聞した。一代の大典を勒成し、凡そ十二紀、九十二列伝、合わせて一百十巻。五年三月に奏上した。秋、梁州刺史に任じられた。魏収は志が未完成であることを以て、終業まで奏請し、許された。十一月、再び十志を奏上した。『天象』四巻、『地形』三巻、『律暦』二巻、『礼楽』四巻、『食貨』一巻、『刑罰』一巻、『霊徴』二巻、『官氏』二巻、『釈老』一巻、凡そ二十巻、紀伝に続け、合わせて一百三十巻、十二帙に分けた。その史は三十五例、二十五序、九十四 、前後二表一啓を有した。

引き入れた史官は、彼らが凌駕逼迫することを恐れ、ただ学問の流れで先に自分に依附していた者を取った。房延佑、辛元植、眭仲讓は夙に朝位に渉っていたが、史才ではなかった。刁柔、裴昂之は儒業で知られていたが、全く編緝に堪えなかった。高孝幹は左道を以て進んだ。史を修めた諸人の祖宗や姻戚は多く書録され、美言で飾られた。魏収の性格は頗る急で、甚だ公平を保つことができず、夙に怨みのある者は、多くその善行を没した。常に言った、「何者ぞ小僧、敢えて魏収と共に色を作すや!挙げれば則ち天に上らしめ、按ずれば当に地に入らしめん」と。初め、魏収が神武帝 (高歓) の時に太常少卿として国史を修めた時、陽休之の助力を得て、陽休之に謝して言った、「徳に謝するに足るもの無し、卿のために佳伝を作らん」と。陽休之の父の陽固は、魏の世に北平 太守 たいしゅ となり、貪虐を以て中尉の李平に弾劾され罪を得たことが、『魏起居注』に載っていた。魏収の書には、「陽固は北平に在り、甚だ恵政有り、公事に坐して官を免ぜらる」と書き、また「李平は深く相敬重す」と書いた。尓朱栄は魏にとって賊であったが、魏収は高氏が尓朱氏から出たこと、且つ尓朱栄の子から金を受け取ったため、その悪を減らして善を増やし、論じて言った、「若し徳義の風を修めば、則ち韓信、彭越、伊尹、霍光、何ぞ数うるに足らんや」と。

当時の世論は既に魏收が史書を著すに当たり公平でないと言い、文宣帝は詔を下して魏收を尚書省にて諸家の子孫と共に論議討議させた。前後して投訴する者百余人あり、或いは「その家の世職と位を遺漏した」と言い、或いは「その家が記録に見えない」と言い、或いは「妄りに非毀を加えた」と言う。魏收は皆その訴状に従って答えた。范陽の盧斐の父盧同は族祖盧玄の伝の後に附載されており、頓丘の李庶の家の伝にはその本は梁国蒙の人であると称し、盧斐・李庶は譏議して言う、「史書は正直でない」と。魏收は性急で、その憤りに耐えず、啓上して彼らが屠害を加えようとしていると誣告した。帝は大いに怒り、自ら詰問責めた。盧斐は言う、「臣の父は魏に仕え、位は儀同に至り、功業は顕著で、名は天下に聞こえ、魏收とは親戚でないので、遂に伝を立てられなかった。博陵の崔綽は、位は本郡の功曹に止まり、更に事跡がなく、これは魏收の外戚であるのに、却って伝の首に為された」。魏收は言う、「崔綽は位が無くとも、名義は嘉すべきであり、それ故に伝に合わせたのである」。帝は言う、「卿はどうしてその善人たるを知るのか」。魏收は言う、「高允が曾て崔綽の賛を為し、道徳有りと称した」。帝は言う、「 司空 しくう (高允) は才士であり、人の為に賛を為すのは、正に称揚すべきである。また卿が人の為に文章を書き、その善きことを道うが如く、皆実であることができようか」。魏收は答える術なく、戦慄するのみであった。しかし帝は先に魏收の才を重んじており、罪を加えようとはしなかった。時に太原の王松年もまた史書を誹謗し、盧斐・李庶と共に罪を得て、各々鞭打たれて甲坊に配され、或いはそれによって死に至り、盧思道もまた罪に当たった。しかし猶も群口の沸騰するを以て、勅して魏史は暫く施行せず、群官に博く議させ、家事有る者の署に入ることを聴し、実ならざる者は牒を陳べさせた。ここに於いて衆口喧然として、号して「穢史」と為し、牒を投ずる者が相次ぎ、魏收はこれに抗する術がなかった。時に左僕射楊愔・右僕射高德正の二人は勢い朝野を傾け、魏收と皆親しく、魏收は遂にその家の為に並びに伝を為した。二人は史が実ならざることを言わず、訴えの言辞を抑え塞ぎ、文宣帝の世が終わるまで更に重ねて論じられなかった。また尚書陸操が曾て楊愔に謂って言う、「魏收の『魏書』は博物宏才と謂うべく、魏室に対して大功有り」。楊愔は魏收に謂って言う、「これは不刊の書と謂うべく、万古に伝わる。但だ恨むらくは諸家の枝葉親姻に論及するに、過ぎて繁碎であり、旧史の体例と異なるのみ」。魏收は言う、「往時中原の喪乱に因り、人士の譜牒は遺逸して略尽き、是を以てその支流を具に書したのである。公が過ちを観て仁を知られんことを望み、以て尤責を免れん」。

八年の夏、太子少傅・監国史を除され、復た律令の議に参ず。三台が成り、文宣帝は言う、「台が成れば須らく賦有るべし」。楊愔が先に以て魏收に告げ、魏收は『皇居新殿台賦』を上す。その文は甚だ壮麗であった。時に作る所の者は、邢卲以下皆及ばなかった。魏收が賦を上す数日前に乃ち邢卲に告げた。邢卲は後に人に告げて言う、「魏收は甚だ人を憎む、早く言わなかった」。帝が曾て東山に遊び、勅して魏收に詔を作らせ、威徳を宣揚し、関西に譬喩せしめ、俄頃にして終わり、詞理宏壮であった。帝は百僚に対し大いに嗟賞した。仍って兼ねて太子詹事と為す。魏收は其の舅の女、崔昂の妹を娶り、一女を産み、子無し。魏の太常劉芳の孫女、中書郎崔啓師の女は、夫家が事に坐し、帝は並びに魏收に賜いて妻と為し、時人は之を賈充が左右夫人を置くに比した。然れども子無し。後病甚だしく、身後に嫡媵平らかならざるを恐れ、乃ち二姫を放った。疾癒えて後追憶し、『懐離賦』を作り以て意を申べた。文宣帝は毎に酣宴の次に、言う、「太子の性懦弱、宗社の事重し、終に当に常山王に位を伝うべし」。魏收は楊愔に謂って言う、「古人云う、太子は国の根本、動揺すべからず。至尊が三爵の後、毎に常山王に位を伝うと言い、臣下をして疑貳せしむ。若し実ならば、便ち須らく決行すべし。此の言若し戯れならば、魏收既に師傅を忝くし、正に当に之を守りて死すべく、但だ国家の安からざるを恐るるのみ」。楊愔は魏收の言を以て帝に白し、此れより便ち止んだ。帝は数たび宴喜し、魏收は毎に侍従に預かった。皇太子が鄭良娣を納れるに当たり、有司は牢饌を備え設け、帝は既に酣飲し、起きて自ら之を毀ち覆した。仍って詔して魏收に曰く、「我が意を知るや」。魏収は曰く、「臣愚かに謂う、長娣は既に東宮の妾、理として牢を須いず、仰ぎ惟うに聖懐、此れに縁りて毀ち去る」。帝は大笑い、魏收の手を握りて曰く、「卿我が意を知る」。安德王延宗が趙郡李祖收の女を納れて妃と為し、後帝が李宅に幸して宴し、而して妃の母宋氏が二つの石榴を帝の前に薦む。諸人に問うも其の意を知る者無く、帝は之を投げた。魏收は曰く、「石榴は房中に子多く、王は新婚、妃の母は子孫衆多ならんことを欲する」。帝は大いに喜び、詔して魏收に「卿還りて将来せよ」と曰い、仍って魏收に美錦二匹を賜う。十年、儀同三司を除す。帝は宴席に在り、口勅を以て 中書監 ちゅうしょかん と為し、中書郎李愔に命じて樹下に詔を造らしむ。李愔は魏收が一代の盛才なるを以て、率爾にし難く、久しくして未だ訖らず。成るに比べて、帝は既に酔い醒め、遂に重ねて言わず、李愔は仍って奏せず、事竟に寝た。

帝が晋陽に崩ずるに及び、駅伝して魏收及び中山太守陽休之を召し、吉凶の礼を参議せしめ、並びに詔誥を掌らしむ。仍って侍中を除し、太常卿に遷る。文宣帝の諡及び廟号・陵名は、皆魏收の議なり。孝昭帝が中に居りて事を宰するに及び、魏收に命じて禁中に諸詔文を為らしめ、積日して出でず。転じて 中書監 ちゅうしょかん と為す。皇建元年、兼侍中・右光禄大夫を除し、仍って儀同・監史。魏收は先に王昕の副として梁に使い、相協睦せず。時に王昕の弟王 は親密なり。而して孝昭帝は別に陽休之を令めて中書を兼ねしめ、晋陽に在りて詔誥を典し、魏收は鄴に留め置かる。 けだ し王晞の為す所なり、魏收は大いに平らかならず、太子舎人盧詢祖に謂って言う、「若し卿をして文誥を為さしめば、我もまた言わざらん」。又た祖珽を著作郎に除し、以て魏收に代えんと欲す。 司空 しくう 主簿李翥は、文詞の士なり、聞いて人に告げて言う、「詔誥は悉く陽子烈 (陽休之) に帰し、著作は復た祖孝徴 (祖珽) を遣わす、文史頓に失す、恐らくは魏公 (魏收) 発背せん」。時に詔して二王三 つつし を議せしむ。魏收は王肅・杜預の義を執り、元氏・司馬氏を以て二王と為し、曹氏を通じて三恪を備う。詔して諸礼学の官は、皆鄭玄の五代の議を執る。孝昭帝は後姓を元とし、恪を議するに広く及ぼすを欲せず、故に議は魏收に従う。又た兼太子少傅を除し、侍中を解く。

帝は魏史未だ行われざるを以て、詔して魏收に更に研審を加えしむ。魏收は詔を奉じ、頗る改正有り。魏史を行わんとする詔に及び、魏収は直に秘閣に置き、外人由って得て見る無からんことを以てし、於是に命じて一本を送りて幷省に付し、一本を鄴下に付し、人の写すに任す。

大寧元年、開府を加う。河清二年、右僕射を兼ぬ。時に武成帝は終日酣飲し、朝事は専ら侍中高元海に委す。高元海は凡庸にして、大任に堪えず、魏收は才名俗を振るい、都官尚書畢義雲は断割に長ずるを以て、乃ち虚心に倚仗す。魏收は畏避して匡救すること能わず、議者に譏らる。帝は華林に別に玄洲苑を起し、山水台観の麗を備え、詔して閣上に魏收を画かしむ。其の重んぜらるること此の如し。

初め魏收は溫子升・邢卲に比べてやや後進であったが、邢卲が既に疎んじられて出され、溫子升は罪により幽閉されて死んだので、魏收は遂に大いに任用され、一時に独歩した。議論は互いに誹謗し合い、それぞれに朋党があった。魏收はしばしば邢卲の文章を浅陋と議した。邢卲もまた云う、「江南の任昉は、文体が元来粗雑である。魏收は単に模倣するのみならず、大いに窃盗もする」と。魏收はこれを聞いて乃ち曰く、「彼は常に『沈約集』の中で賊を為す。どうして私が任昉を盗むなどと言えようか」と。任昉・沈約はともに重名があり、邢卲・魏收はそれぞれに好みがあった。武平年中、黄門郎顏之推が二公の意を以て僕射祖珽に問うたところ、祖珽は答えて曰く、「邢卲・魏收の善悪を見ることは、即ち任昉・沈約の優劣である」と。魏收は溫子升が全く賦を作らず、邢卲は一両首あるもまた得意でないことを以て、常に云う、「賦を作ることを会得してこそ、初めて大なる才士となる。ただ章表碑誌を以て自ら許すのみでは、その他は更に児戯と同じである」と。武定二年以後より、国家の大事なる詔命、軍国の文詞は、皆魏收の作るところとなった。警急あるごとに、詔を受けて立ち所に成し、時に中使の催促あるも、魏收の筆下には宿構と同じくあり、敏速の巧みは邢卲・溫子升の及ぶところでなく、その典礼への参議は、邢卲と相匹敵した。

既にして趙郡公 (李祖昇) が年齢を増して免罪を得たが、魏收は知りながらこれを見過ごし、事が発覚して除名された。その年また陳の使者封孝琰に附託し、牒を以てその門客を行かせ、崑崙船の至るに遇い、奇貨たる猓然の褥表・美玉盈尺など数十件を得た罪で、流刑に当たるべきところを、贖罪を以て論じられた。三年、起用されて清都尹を除された。尋いで黄門郎元文遙を遣わし、勅して魏收に曰く、「卿は旧人にして、我が家に事えること最も久し。前者の罪は、情状恕すべきにあり。近頃卿を尹と為すも、美授と謂うにあらず、ただ初めに卿を起すに、斟酌してかくの如し。朕豈に卿の才を用いて卿の身を忘れんや、十月に至るを待ち、当に卿に開府を還すべし」と。天統元年、左光禄大夫を除された。二年、斉州刺史を行い、尋いで真除となった。

魏收は子侄が年少なるを以て、戒め励ますことを申し述べ、『枕中篇』を著した。その詞は曰く、

私は曾て管子の書を覧み、その言に曰く、「任の重き者は身の如くは莫く、途の畏るべき者は口の如くは莫く、期の遠き者は年の如くは莫し。重き任を以て畏るべき途を行き、遠き期に至るは、惟だ君子のみ能く及ぶ」と。これを追想して玩味し、喟然として長息す。若し夫れ岳の立つて重きを為すは、潜かに戴して傾かず、山の蔵して固きを称すは、亦趨り負うて停まらず。呂梁は独り浚くして、能く行歌して おそ れず、焦原は険を作すも、或いは のぼ あし げて驚かず。九陔方に集まる故に、眇然として迅かに挙がり、五紀当に定まるに、想うに よう として上征す。苟も任重きに度有らば、則ち之を任じて愈々固く、危きに乗ずるに術有らば、蓋し之に乗じて うれ し。彼の期遠くして能く通ずるは、果たして之に応じて必ずす可し。豈に神理の独り爾るのみならん、亦た人事其れ一の如し。嗚呼、天壤の間に処り、死生の地を労し、之を嗜欲を以て攻め、之を名利を以て牽き、粱肉は期せずして共に臻り、珠玉は足らずして俱に致る。是に於いて 驕奢仍 なお 作し、 危亡旋 まも なく至る。然らば則ち上知大賢は、幾に ただ 哲に唯り、或いは出で或いは処り、その節を常とせず。その舒ぶるや世を済い務めを成し、その巻くや声銷え跡滅ぶ。玉帛子女、椒蘭律呂、諂諛は先んずる所無く、肉を称え骨を度り、唇を膏し舌を挑むも、怨悪は前に莫し。勲名は山河と共に久しく、志業は金石と比べて堅し。これ蓋し厚き 棟橈 たわ まず、遊刃砉然たり。厥の徳常ならずに逮ぶや、その金璞を喪う。人世に馳騖し、流俗を鼓動す。湯の日を挟んで寒しと謂い、溪壑を包んで未だ足らず。源清からずして流れ濁り、表 ただ からずして影曲がる。嗟乎、膠漆豈に堅からんや、寒暑甚だ促し。利に反って害を成し、栄を化して辱に就く。欣戚更に来たり、 得喪仍 なお 続く。身を以て魑魅に禦ぎ、魂を狴獄に沈むるに至る有り。豈に足力強からずして、当局に迷うに非ずや。孰か車の前に傾くを戒め、人の師として先覚すと謂う可き。

諸君子に聞く、雅道の士は、経術に遊遨し、文史に厭飫す。筆に奇鋒有り、談に勝理有り。孝悌の至りは、神明に通ず。道を審らかにして行い、路を量りて止まる。我より物に及び、人を先にして己を後にする。情は栄悴に繫がること無く、心は慍喜に滞ること靡し。丘壑に望みを養わず、城市に価を待たず。言行相顧み、終わりを慎むこと猶お始めの如し。一つ斯れに於いて有らば、鬱として羽儀と為る。恪んで居り事を展べ、知りて為さざる無し。或いは左に或いは右に、則ち髦士の宜しくする所、悔い無く やぶさ か無く、故に高くして危うからず。勇進して退くを忘れ、苟くも得て失いを患うるに異なり、千金の産を射め、万鐘の秩を もと め、烈風の門に投じ、炎火の室に趣くが如きに、載 つまず いてその貽宴を墜とし、或いは うずくま りて乃ちその貞吉を喪う。畏れざる可けんや、戒めざる可けんや。

門に倚る禍有り、事は密にせざる可からず。墻に伏する寇有り、言は失う可からず。宜しくその言を つまび らかにし、宜しくその行いを端すべし。言の善からざる、行いの正しからざるは、鬼強梁を執り、人径廷を囚う。幽にはその魄を奪い、明にはその命を夭す。法に非ざるに服せず、道に非ざるを行わず。公の鼎は己の信と為し、私の玉は身の宝に非ず。過ぎて くろ くして紺と為し、藍を えて青と作す。縄を持して直きを視、水を置きて平きを観る。時に然る後に取るも、未だ欲無きに若かず。止まるを知り足るを知れば、辱めを免るる庶し。

是を以て必ずその幾を察し、挙ぐるには必ず微を慎むべし。幾を知り微を慮えば、斯れ亡ぶこと稀なり。既に察し且つ慎めば、福禄の帰する所。昔、 きょ 瑗は四十九の非を識り、顔子は三月に違わざるに幾し。跬歩已むこと無くして、千里に至る。一簣を覆して進み、万仞に及ぶ。故に行遠きは自ら邇きよりし、高きに登るは自ら卑きよりすと云う。大と為す可く久しと為す可く、世と推移す。月満ちて規の如くも、後夜は則ち虧く。槿は枝に栄ゆるも、暮れを望んで萎ゆ。夫れ奚ぞ益にして損に非ざらん、孰か損にして害せざる有らん。益は多くを欲せず、利は大なるを欲せず。唯だ徳に居る者はその甚だしきを畏れ、真を体する者はその大なるを懼る。道尊ければ則ち群謗集まり、任重ければ則ち衆怨会う。その達するや則ち尼父棲遑し、その忠なるや而して周公狼狽す。人の我を狹しと曰うこと無かれ、我に在りて覆す可からずと。人の我を厚しと曰うこと無かれ、我に在りて咎むる可からずと。山の大なるが如く、有らざる無く、谷の虚なるが如く、受けざる無し。能く剛能く柔なれば、重きも負う可く、能く信能く順なれば、険も走る可く、能く知能く愚なれば、期も久しき可し。周廟の人、三たび口を緘す。漏れる巵は前に在り、 き器は後に留まる。諸の来裔を て、之を坐右に伝えしむ。

その後、群臣多く魏史の実ならざるを言い、武成帝 高湛 こうたん は再び勅して更に審らかにさせたので、魏收はまた回換した。遂に盧同の伝を立て、崔綽は返って更に附け出された。楊愔の家伝には、本は「魏有り以来一門のみ」と云うところを、是に至りこの八字を改め、又先に「弘農華陰の人」と云うところを、乃ち「自ら弘農と云う」と改めて、王慧龍の自ら太原人と云うに配した。これその失いである。

尋いで開府・ 中書監 ちゅうしょかん を除された。武成帝が崩じたが、未だ喪を発さず。内に在る諸公は後主 高緯 こうい の即位すでに年数を経たるを以て、赦令について疑った。諸公は魏收を引いて訪ねたところ、魏収は固執して恩沢有るべきとし、乃ちこれに従った。詔誥を掌り、尚書右僕射を除され、五礼事を監する議を総べ、位は特進となった。魏収は趙彦深・和士開・徐之才を奏請して共に監せしめた。先ず和士開に告げたところ、和士開は驚いて不学を以て辞した。魏収曰く、「天下の事は皆王 (和士開) に由る。五礼は王無くしては決せず」と。和士開は謝してこれを許した。多く文士を引いて筆を執らせ、儒者の馬敬德・熊安生・権会が実にこれを主った。武平三年に薨じた。 司空 しくう ・尚書左僕射を贈られ、諡して文貞といった。集七十巻有り。

魏収は博学の大才であったが、性格が偏狭で、天命や道を体得することができなかった。権勢ある貴人に会うたびに、顔色をうかがって媚びへつらった。しかし後進を引き立てるにあたっては、名声と品行を第一とし、浮華で軽薄な者たちは、たとえ才能があっても重んじなかった。初め、河間の邢子才と季景が魏収とともに文章で名声を顕わし、世間では大邢小魏と称して、特に優れていると言われた。魏収は子才より十歳年少で、子才はしばしば「仏が凡人の偉才を助けたのだ」と言った。後に魏収が次第に子才と名声を争うようになると、文宣帝は子才を貶めて「お前の才は魏収に及ばない」と言ったので、魏収はますます得意になった。自序に「初めは温・邢と称し、後には邢・魏と言う」とある。しかし魏収は内心では邢を卑しめ、認めていなかった。魏収は軽薄でせっかちであり、音楽を好み、胡舞をよくした。文宣帝の末年、しばしば東山で諸優とともに獼猴と狗を闘わせ、帝は寵愛して親しんだ。魏収の従兄の博陵の崔巖がかつて双声で魏収を嘲って「愚魏衰収」と言った。魏収は答えて「顔巖腥瘦、是誰所生、羊頤狗頰、頭團鼻平、飯房苓籠、著孔嘲玎」と言った。その弁舌の速さはこのように拘束されないものであった。史筆を執るにつれて、多くの人に恨まれることとなった。北斉が滅亡した年、魏収の墳墓は暴かれ、その骨は外に棄てられた。先に養子とした弟子の仁表が後嗣となり、位は尚書膳部郎中に至った。隋の開皇年間、温県令の任で死去した。

【論】

論じて曰く、伯起 (魏収) は若い頃はやや放縦で、行いを慎まず、節を折って読書に励むに及んで、鬱然として偉大な器となった。学問は古今にわたり博く、才能は縦横に極まり、物事を描写する趣旨は特に豊かで、司馬相如の室に入り、尼父 (孔子) の門を遊ぶに足る。魏の史書を編 さん し、班固・司馬遷に追従し、婉曲にして法則があり、繁雑ではあるが冗長ではなく、議論を立て序言を述べるに、深遠なところを探り及ぼした。ただ実録を意図し、陰私を暴くことを好み、親しい故旧の家に至っては、一言も述べることがなく、不公平な議論がここに見られる。王松年・李庶らはともに家門の正しさを論じたが、誹謗の議論ではなかったのに、時勢に迎合して宰相に憑依し、過酷な刑罰を煽り、李庶は鞭打ちの刑によって死に至った。これがこの公の失徳である。

原本を確認する(ウィキソース):北齊書 巻037