暴顯
暴顯は、字を思祖といい、魏郡斥邱の人である。祖父の喟は、 北魏 の瑯邪 太守 ・朔州刺史となり、辺境の朔州に住まいを定めた。父の誕は、北魏の恒州刺史・左衛将軍、楽安公となった。顯が幼い時、一人の沙門が彼を指して言うには、「この郎子は良い相貌を有し、成長すれば必ず良将となり、人臣として極めて貴くなるであろう」と。言葉を終えると僧は消え失せ、どこへ去ったか分からなかった。
顯は若い頃から軍旅を経て、騎射に長けていた。かつて北魏の孝荘帝に従って狩猟に出た際、一日のうちに、自ら禽獣七十三を獲た。孝昌二年 (526年) 、 羽林 監に任ぜられる。中興元年 (531年) 、襄威将軍・ 晉 州車騎府長史に任ぜられる。後に高祖 (高歓) に従って 信都 で義兵を挙げ、中堅将軍・散騎侍郎・帳内大 都督 を授かり、安東将軍・銀青光禄大夫を加えられ、屯留県開国侯に封ぜられる。天平二年 (535年) 、 渤海 郡守に任ぜられる。元象元年 (538年) 、雲州大中正に任ぜられ、武衛将軍を兼ね、鎮東将軍を加えられる。二年 (539年) 、北徐州刺史・当州大 都督 に任ぜられる。高祖に従って西軍 ( 西魏 軍) と邙山で戦い、高祖は顯に河橋鎮を守り、中潬城を拠るよう命じた。武定二年 (544年) 、征南将軍・広州刺史に任ぜられる。 侯景 が河南で反乱を起こし、景に攻撃されたが、顯は左右二十余騎を率いて賊の包囲を突破し、難を抜けて帰国した。時に高岳・ 慕容 紹宗 らが侯景を討伐しており、直ちに顯に兵馬を配属し、高岳らに従って渦陽で侯景を破った。武定六年 (548年) 、太府卿に任ぜられる。世宗 ( 高澄 ) に従って潁川で 王思政 を平定し、潁州刺史を授かる。七年 (549年) 、鄭州刺史に転ずる。八年 (550年) 、驃騎将軍を加えられ、侯から公に進爵し、前後の食邑は合わせて一千三百戸となる。天保元年 (550年) 、衛大将軍を加えられ、刺史は元の通り。三年 (552年) 、清河王高岳と共に歴陽を襲撃し、これを奪取する。贓物収受の罪により、鄭州の職を解かれ、大理寺に拘禁される。処断が未了のうちに、合肥が包囲されたため、歩汗薩・慕容儼らと共に梁の北徐州を攻撃するよう派遣される。刺史の王強を生け捕る。梁の秦州刺史厳超達と涇城で戦い、これを破る。五年 (554年) 、儀同三司を授かる。その年、また高岳と共に南進して漢水に臨み、梁の西楚州を攻め落とし、刺史の許法光を捕らえる。この時、梁の将軍蕭循と侯瑱らが慕容儼を郢州に包囲したため、再び顯を水軍大 都督 とし、摂口から長江に入って救援に向かわせる。軍が帰還すると、開府儀同三司を加えられ、帛五百匹を賞賜される。十年 (559年) 、幽州范陽郡の幹禄を食む。乾明元年 (560年) 、車騎大将軍に任ぜられる。皇建元年 (560年) 、楽安郡開国公に転封される。二年 (561年) 、趙州刺史に任ぜられる。河清元年 (562年) 、洛州刺史に遷る。二年 (563年) 、再び朔州刺史に任ぜられ、任期満了で帰還する。天統元年 (565年) 、特進・驃騎大将軍を加えられ、定陽王に封ぜられる。四年 (568年) に卒去。享年六十六。
皮景和
皮景和は、瑯邪下邳の人である。父の慶賓は、北魏の淮南王開府中兵参軍事であった。正光年間 (520-525年) 中、使いとして懐朔に行き、世の乱れに遭い、広寧の石門県に住まいを定めた。
景和は若くして聡明で機敏、騎射に長けていた。初め親信として高祖 (高歓) に仕え、後に親信副 都督 に補任される。武定二年 (544年) 、歩落稽を征討した。世宗 (高澄) は賊に伏兵があるのを疑い、景和に五六騎を率いて一つの谷深く入るよう命じた。賊百余りに出会うと、共に格闘戦を交え、景和は数十人を射て、弦に応じて倒れぬ者はなかった。高祖はかつて景和に一頭の猪を射るよう命じ、一箭でこれを獲たため、深く賞賛され、庫直正 都督 に任ぜられる。天保初年 (550年) 、仮節・通州刺史を授かり、永寧県開国子に封ぜられる。後に庫莫奚を襲撃することに従軍し、左右大 都督 を加えられる。また黄龍を渡り、契丹を征討し、稽胡を平定することに従う。まもなく陘北で茹茹の主菴羅辰を討伐することに従い、また茹茹の残党を平定することに従う。景和は敏捷で、武勇の才があり、常に戦功を立てた。十年 (559年) 、安楽郡の幹禄を食む。乾明元年 (560年) 、武衛将軍に任ぜられ、給事黄門侍郎を兼ねる。粛宗 ( 高演 ) が宰相となると、本官のまま大丞相府從事中郎を摂行する。大寧元年 (561年) 、儀同三司・ 散騎常侍 ・武衛大将軍に任ぜられ、まもなく開府を加えられる。二年 (562年) 、梁州刺史として出向する。三年 (563年) 、突厥が 晉 陽を包囲攻撃したため、景和に駅伝を馳せて京に赴き、後軍を督率して 幷州 に向かうよう命じた。到着する前に、賊は既に退却していた。そのまま領左右大将軍に任ぜられ、斉郡の幹禄を食み、また幷省五兵尚書に任ぜられる。天統元年 (565年) 、殿中尚書に遷る。二年 (566年) 、侍中に任ぜられる。
景和は武職の中にあって、吏事にも長け、また性質識見が公平であったため、頻繁に良い官職を授かった。北周と通好した後、使者が往来する際、常に景和に対応させ、しばしば使者と共に射を行い、百発百中であったため、非常に推重された。武平年間 (570-576年) 中、詔獄は多く中黄門らに監治させたが、常に景和に審査覆奏させ、理に拠って正しく執り行ったため、過誤による冤罪や濫刑はなかった。
後に特進・中領軍に任ぜられ、広漢郡開国公に封ぜられる。また斛律光に従って衆を率いて西討し、姚襄・白亭の二城を陥落させ、別に永寧郡開国公に封ぜられる。また領軍将軍に任ぜられる。また軍に従って宜陽城を陥落させ、開封郡開国公に封ぜられる。瑯邪王 (高儼) が和士開を殺害した時、兵が西闕を指し、内外惶惑し、どうすべきか分からなかった。景和は後主 ( 高緯 ) に千秋門から出て自ら号令するよう請うた。事態が平定されると、尚書右僕射・趙州刺史に任ぜられる。まもなく河南行臺尚書右僕射・洛州刺史に遷る。
陳の将軍呉明徹が淮南に侵寇したため、景和に衆を率いてこれを防ぐよう命じ、領軍大将軍に任ぜられ、文城郡王に封ぜられ、高陽郡の幹禄に転ずる。軍が柤口に至ると、土着の民の陳喧らが乱を起こしたが、景和がこれを平定した。また陽平人の鄭子饒という者がおり、仏道に依ると詐り、斎会を設け、用いる米麺は多くないのに、供養する範囲は甚だ広く、密かに地蔵から次第に餅飯を出したため、愚かな者は神力と思い、魏・衛の間で信じられた。逆乱を起こそうとしたが、謀が漏れ、討伐したが漏れて逃亡した。そこで密かに黄河を渡り、数千の衆を集め、自ら長楽王と号し、既に乗氏県を破り、また西兗州城を襲撃しようとした。景和が南兗州から騎兵数百を派遣してこれを撃破し、二千余級を斬首し、子饒を生け捕り、京師に送って烹殺した。呉明徹が寿陽を包囲した時、勅命により景和は賀拔伏恩らと共に救援に向かう。景和は尉破胡の軍が敗北したばかりであるため、怯懦して進もうとせず、淮口に軍を駐屯させた。頻繁に勅使が催促したが、ようやく淮水を渡った。寿陽が既に陥落した時節に属し、狼狽して北へ帰還し、器械や軍資は、大いに遺失した。陳の将軍蕭摩訶が歩騎を率いて淮北の倉陵城でこれを遮断したが、景和は軍旅を整えて逆襲し、摩訶は退き帰った。この時、呉明徹を防いだ者は多くが敗北したが、ただ景和だけが全軍を以て帰還したため、これにより賞を受け、 尚書令 に任ぜられ、別に西河郡開国公に封ぜられ、銭二十万、酒米十車を賜った。時に陳軍が声をあげて淮水を渡ろうとしたため、景和に軍を西兗州に留め、防衛の節度をとらせた。武平六年 (575年) に病没。享年五十五。侍中・使持節・ 都督 定恒朔幽定平六州諸軍事・太尉公・録尚書事・定州刺史を追贈された。
長子の信は、機知に悟りがあり風采があり、少し書伝に通じていた。武平末年 (576年) 、開府儀同三司・武衛将軍となり、勲貴の子弟の中にあって、その識見眼力を称えられた。幷州で北周軍に降伏し、上開府・軍正大夫を授かる。隋の開皇年間 (581-600年) 中、洮州刺史の任上で卒去した。
末子の宿達は、武平末年に太子齋帥となり、才藻と品行を備えていた。開皇年間、通事舍人となる。母の喪に服し、喪中に復職し、京に赴かんとして、霊前に別れを告げ慟哭して気絶し、久しくして蘇生したが、食を下すことができず、三日にして死す。
鮮于世榮
鮮于世榮は漁陽の人である。父の寶業は 懷朔 鎮將であり、武平初年に儀同三司・祠部尚書・朔州刺史を追贈された。世榮は若くして沈着聡明で、器量と才幹があった。興和二年、高祖の親信副 都督 となり、やがて平西將軍に遷り、石門縣子の爵位を賜う。後にしばしば顯祖に従って茹茹を討ち、稽胡を破る。また高岳に従って郢州を平定し、持節・河州刺史に除され、朝歌縣の幹を食む。まもなく肅宗の丞相府諮議參軍となる。皇建年間、儀同三司・武衛將軍に除される。天統二年、開府を加えられ、また鄭州刺史に除される。武平年間、信州の賊を平定した功により、領軍將軍に除され、 上黨 郡の幹を食むことに転ずる。高思好平定に従い、義陽王に封ぜられる。七年、後主が 晉 陽に行幸し、世榮に本官のまま尚書右僕射の事を判らしめ、北平王の北宮留後を輔けしむ。まもなく勅令があり、吏部尚書袁聿修とともに尚書省において挙人を検試せしむ。乗馬して雲龍門外より省の北門に入ったことを、憲司に挙奏されて免官となる。後主が平陽を包囲したとき、世榮を領軍將軍に除す。周の軍が 鄴 に入らんとするとき、領軍大將軍・太子太傅に除され、城西にて防戦するも敗れて捕らえられ、周の武帝に殺される。世榮は武人で文芸はなかったが、朝廷の危うきと政の乱れを以て、しばしひそかに嘆いた。徴税の飽くことなきを見、賜与の過度なるを発言して嘆惜す。子の子貞は、武平末年に仮の儀同三司となる。
綦連猛
綦連猛は字を武兒といい、代の人である。その先祖は姬姓、六国の末、乱を避けて塞外に出で、祁連山に保ち、山を以て姓とす。北人の言葉訛りて、故に綦連氏と曰う。父の元成は燕郡太守なり。
猛は若くして志気あり、弓馬を習熟す。永安三年、 尒朱榮 に征されて親信となる。洛陽に至り、榮が害せられると、即ち 尒朱世隆 に従って建州に奔り、なお 尒朱兆 に従って洛に入る。その年、また兆に従って紇豆陵步藩を討ち、 都督 を補す。普泰元年、征虜將軍・中散大夫を加えらる。猛の父母兄弟は皆山東に在り、尒朱京纏は高祖に投ぜんと欲し、猛に謂いて曰く、「王は爾が父兄皆山東に在るを以て、毎に信ぜざるを懐く。爾もし走らざれば、今夜必ず爾を殺すべし。走り去るべし」と。猛は平素兆の恩を受けたるを以て、拒みて従わず。京纏曰く、「我今また去らんと欲す。爾我に従わんか」と。猛また従わず。京纏乃ち矟を挙げて曰く、「爾従わざれば、我必ず爾を刺さん」と。猛乃ちこれに従う。城を去ること五十余里にして、即ち京纏に背き復た尒朱に帰る。兆の敗るるに及び、乃ち高祖に帰す。高祖問いて曰く、「尒朱京纏爾を将て我に投ぜんとし、爾中途に背き去りしは何ぞや」と。猛乃ち服事の理を具に陳べ、二心あるべからざるを述ぶ。高祖曰く、「爾懼るる莫れ。人に服事する法は須らく此の如くあるべし」と。遂に 都督 を補す。
步落稽等逆を起こし、覆釜山に在り。猛を使わしてこれを討たしむ。大いに捷ち、特しく賞賫せらる。元象元年、高祖に従って河陽に向かい、周の文帝と邙山に戦う。二年、平東將軍・中散大夫に除される。その年、また中外府帳内 都督 に転じ、邙山の功を賞され、廣興縣開國君に封ぜらる。
五年、梁の使い来聘し、武藝有りと云い、北人を訪い求めて相角せんと欲す。世宗、猛を遣わして館に就きてこれに接せしむ。雙びて兩鞬を帯び、左右に馳射す。兼ねて力を試むるを共にし、強きを挽く。梁人弓兩張を引き、力皆三石なり。猛遂に並びて四張を取り、疊みてこれを挽き、度を過ぐ。梁人嗟服す。
その年、撫軍將軍に除され、別に石城縣開國子に封ぜられ、肆州平寇縣の幹を食む。天保元年、 都督 ・東秦州刺史に除され、別に雍州京兆郡覆城縣開國男に封ぜらる。顯祖に従って契丹を討ち、大いに戶口を獲る。また斛律敦に随い北征して茹茹を討つ。敦、猛に令して軽く百騎を将いて深く入り覘候せしむ。還りて白道に至り、軍と相会す。此れに因りて追躡し、遂に大いにこれを破る。帛三百段を賚う。七年、武衛將軍・儀同三司に除される。九年、武衛大將軍に転ず。乾明初め、車騎大將軍を加えらる。皇建元年、石城郡開國伯に封ぜられ、尋いで爵を進めて君とす。二年、領左右大將軍に除され、肅宗に従って奚賊を討ち、大いに捷ち、馬二千匹、牛羊三萬頭を獲る。河清二年、開府を加えらる。突厥 晉 陽に侵逼す。勅して猛に三百騎を将いて賊の遠近を覘わしむ。行きて城北十五里に至り、賊の前鋒に遇う。敵衆多きを以て、遂に漸く退避す。賊中に一 驍 将有り、超え出で来たりて鬥わんとす。猛遥かにこれを見、即ちまた身を挺して独り出で、其れと相対す。俯仰の間に、賊を刺して馬を落とし、因りて即ちこれを斬る。三年、別に武安縣開國君に封ぜられ、驃騎大將軍を加えらる。天統元年、右衛大將軍に遷る。乃ち世祖の勅を奉じ、恒に嗣主の左右に在らしめ、兼ねて内外の機要の事を知らしむ。三年、中領軍に除される。四年、領軍將軍に転じ、別に義寧縣開國君に封ぜらる。五年、幷省尚書左僕射に除され、余は故の如し。幷省 尚書令 ・領軍大將軍に除され、山陽王に封ぜらる。
猛は和士開の死後より、漸く朝政に預かり、疑議と与奪と、咸くまた諮稟す。趙彥深は猛が武將の中にて頗る姦佞を疾み、言議時に采るべき有るを以て、故に機事を知らしむるを引く。祖珽既に彥深を出だし、猛を以て趙の黨與と為し、乃ち 光州 刺史に除す。已に発ちて牛蘭に至る。忽ち人有りて告ぐ、和士開の害せられし日、猛もまた知情せりと。遂に追止せらる。還り、内禁に留め入り、家口を簿録す。尋いで釈放を見、王爵を削り、開府を以てのみ州に赴かしむ。任に在りて寬惠清慎、吏民これ称す。淮陰王阿那肱は猛と旧有り、毎に携え引きんと欲す。曾て勅有りて闕に徴詣せしめ、委寄せんと欲するに似たり。韓長鸞等沮難し、復た膠州刺史に除す。尋いで徴還し、南兗に在りて防捍せしむ。後主平陽に敗れて還り、また鄴に徴赴せしめ、大將軍に除す。齊亡びて周に入り、尋いで卒す。
元景安
元景安は、魏の昭成帝の五世孫なり。高祖の虔は、魏の陳留王。父の永は、少くして奉朝請と為る。積射將軍より元天穆に薦められて尒朱榮に之き、孝莊帝を立てし謀に参じ、代郡公の爵を賜う。將軍・太中大夫・二夏・幽三州行臺左丞を加えられ、持節して降戶四千餘家を招納す。榮また啓して永を朝那縣子に封じ、邑三百戶、持節南幽州刺史、仮の撫軍將軍とす。天平初め、高祖以て行臺左丞と為し、尋いで潁州刺史に除し、また北揚州刺史と為る。天保年中、征拜して大司農卿と為り、銀青光祿大夫に遷り、例に依り爵を降して幹鄉男とす。大寧二年、金紫光祿大夫に遷る。
景安は沈着聡明にして才幹と器量を備え、若くして騎射に巧みで、人に仕えることに長けていた。初めて官に就いて爾朱栄の大将軍府長流参軍となり、寧遠将軍を加えられ、さらに爾朱栄の大丞相府長流参軍に転じた。高祖が洛陽を平定すると、領軍婁昭が推薦して京畿 都督 に補任され、父の永が代郡公の爵位を返上してこれを授けるよう請うたので、前将軍・太中大夫を加えられた。武帝に従って西に入った。天平の末、大軍が西征した際、景安は戦場で自ら帰順し、高祖はこれを賞賛して、直ちに 都督 に補任した。興和年間、 親信都督 に転じた。邙山の戦いでは、奮戦して功績があり、西華県都郷男の爵位を賜り、代郡公はもとのままとした。世宗が朝廷に入ると、景安は従って鄴に在った。当時、江南は帰順し、朝貢が相次いだ。景安は騎乗に極めて巧みで、容儀作法に優れていたため、梁の使者が来るたびに、常に斛律光・皮景和らとともに客に対して騎射を行わせ、見る者は称賛した。世宗が後を継ぐと、国封を減らして将士に分け与えるよう請い、石保県開国子に封ぜられ、邑三百戸を賜り、安西将軍を加えられた。また通州刺史に任ぜられ、鎮西将軍を加えられ、子爵から伯爵に転じ、邑を増やして前の分と合わせて六百戸とし、その他の官はもとのままとした。天保初め、征西将軍を加えられ、別に興勢県開国伯に封ぜられ、定襄県令を兼ね、高氏の姓を賜った。三年、代川において庫莫奚を撃破することに従い、左右大 都督 を領するよう転じ、その他の官はすべてもとのままとした。四年、黄龍において契丹を討つことに従い、北平太守を領した。その後しばしば従駕して茹茹を再び撃破し、武衛大将軍に昇進し、さらに左右大将軍を領するよう転じ、七兵尚書を兼ねた。
当時、長城を築き始めたばかりで、鎮戍がまだ整っておらず、突厥が強盛であったため、あるいは辺境を侵すことを憂慮し、詔を下して景安に諸軍とともに辺塞に沿って守備に当たらせた。督領する軍が多く、かつ配下の軍人が財物に富んでいたため、賄賂が公然と行われるようになった。顕祖はこれを聞き、使者を遣わして調査させた。同行した諸人の贓物は散乱していたが、ただ景安だけは微塵も犯していなかった。帝は深く賞賛し、詔を下して有司に集められた贓物の絹五百匹を景安に賜り、清廉な節操を顕彰させた。
また都官尚書に転じ、儀同三司を加えられ、高平郡の幹禄を食み、さらに儀同三司に任ぜられた。乾明元年、七兵尚書に転じ、車騎大将軍を加えられた。皇建元年、さらに侍中を兼ね、駅馬を飛ばして鄴に至り、百官を慰労し、風俗を巡視した。
粛宗がかつて群臣と西園で宴会し射を催したことがあり、文武の官で参加した者は二百余人であった。的を堂から百四十歩余り離れた所に設け、的に当てた者には良馬や金玉錦彩などを賜った。一人が獣の頭に射当てたが、鼻から一寸余り離れていた。ただ景安だけが最後に一矢を発していなかった。帝が景安にこれを解かせると、景安はゆったりと容儀を整え、弓を引き絞って満月とし、見事に獣の鼻を射貫いた。帝は感嘆して称賛し、特に馬二匹を賜い、玉帛雑物もさらに常例より多く加えた。
大寧元年、開府を加えられた。二年、右衛将軍に転じ、まもなく右衛大将軍に転じた。天統初め、幷省尚書右僕射を判じ、まもなく出向して徐州刺史となった。四年、 豫 州道行臺僕射・ 豫 州刺史に任ぜられ、開府儀同三司を加えられた。武平三年、行臺 尚書令 に進んで授けられ、刺史はもとのまま、歴陽郡王に封ぜられた。景安が辺境の州に在った時、隣接する他国と境を接し、辺境を安んじて和ませ、互いに侵掠することなく、人々は安堵していた。また管内は蛮族が多く華人が少なかったが、景安は威と恩をもって臨み、皆が安寧を得た。武平の末に至るまで、招き慰めて租賦を納めるようになった生蛮は数万戸に及んだ。六年、召し出されて領軍大将軍に任ぜられた。北周に入り、大将軍・大義郡開国公として衆を率いて稽胡を討ち、戦死した。子の仁は、武平末に儀同三司・武衛となり、隋の驃騎将軍となった。丹陽太守の任で卒した。
初め、永の兄の祚が陳留王の爵位を襲い、祚が卒すると、子の景皓が嗣いだ。天保の時、諸元の帝室に近い者は多く誅戮された。疎遠な宗族である景安の徒は高氏の姓を請おうと議したが、景皓は言った。「どうして本宗を棄てて他姓に従えようか。大丈夫たるもの、寧ろ玉砕すべし、瓦全すべからず」。景安はこの言葉を顕祖に告げたので、景皓を捕らえて誅し、家属を彭城に移した。これにより景安のみが高氏の姓を賜り、その他の者は本姓のままに任せられた。
永の弟の種の子、 豫 は、字を景 豫 といい、姿容が美しく、器量と才幹があった。永安年間、羽林監となった。元顥が洛陽に入った時、河内を守った功績により、永安君の爵位を賜った。後に濮陽郡守となった。魏の 彭城王 韶が引いて開府諮議参軍とし、韶が定州に出鎮すると、定州司馬に任じるよう請うた。景安が景皓の不遜な言葉を告げた時、 豫 の言葉を引き合いに出して呼応した。 豫 は供述して言った。「あの時、袖で景皓の口を覆い、『兄上、妄言なさるな』と言いました」。景皓に問いただすと、 豫 が列挙したことと符合したので、罪を免れた。他に同じ言葉を聞いた数人は、皆遠方に流刑・配流された。 豫 は徐州刺史の任で卒した。
獨孤永業
獨孤永業は、字を世基といい、本来は劉姓、中山の人である。母が獨孤氏に再嫁し、永業は幼くして孤児となり、母に従って獨孤家に養育されたので、その姓に従った。兵士の中に身を置き、才幹があり、弓馬に巧みであった。選抜されて定州六州 都督 に補任され、 晉 陽で宿衛した。ある者がその識見と有用さを称えると、世宗は語り合って喜び、格抜擢して中外府外兵参軍に任じた。天保初め、中書舎人、 豫 州司馬に任ぜられた。永業は文書計算に通じ、歌舞に巧みで、顕祖に大いに知られた。
乾明初め、出向して河陽行臺右丞となり、洛州刺史に転じ、さらに左丞に転じ、刺史はもとのまま、 散騎常侍 を加えられた。宜陽は深く敵境に在り、周人が黒澗に城戍を築いて糧道を断とうとしたので、永業もまた鎮を築いてこれに対抗した。辺境統治に威信を大いに有し、行臺尚書に転じた。河清三年に至り、周人が洛州を侵犯した。永業は刺史段思文が自ら守りきれないことを恐れ、馳せて金墉城に入り守備を助けた。周人は土山と地道を作り、昼夜を分かたず攻撃し、三十日を経て、大軍が到着したので、敵は退いた。永業は長く河南に在って、招撫に長け、帰降する者は万単位に及んだ。そのうち二百人を選んで爪牙とし、常に先鋒として寡をもって衆に敵し、周人はこれを畏れた。儀同三司を加えられ、賞賜は甚だ厚かった。性質は剛直で、権勢と交わらなかった。斛律光が二人の婢を求めたが得られず、朝廷で彼を誹謗した。河清の末、召し出されて太僕卿となり、乞伏貴和が後任となった。そこで四方の国境は逼迫して弱体化し、河洛の人心は動揺した。
武平三年、永業を遣わして斛律豊洛を取らせ、これにより北道行臺僕射・幽州刺史とした。まもなく召し出されて領軍将軍となった。河洛の民衆は、多く永業を慕い、朝廷もまた国境が不安であるため、永業を河陽道行臺僕射・洛州刺史に任じた。周の武帝が親征して金墉城を攻めると、永業は出兵してこれを防いだ。問うて言った。「これはどのような高官で、どのような行動をなさるのか」。周人は言った。「至尊 (天子) が御自ら来られた。主人はなぜ出て客をご覧にならないのか」。永業は言った。「客の行動が突然で速いので、出ないのである」。そこで夜通しで馬槽二千を整えた。周人はこれを聞き、大軍が来ると考え、包囲を解いて去った。永業は開府に進み、臨川王に封ぜられた。甲士三万を有し、初め 晉 州の敗報を聞き、出兵して北討することを請うたが、上奏は握り潰され返答がなく、永業は慨嘆憤慨した。また幷州も陥落したと聞き、周将の常山公に逼迫されたので、その子の須達を遣わして周に降伏を告げさせた。周の武帝は永業に上柱国を授けた。宣政の末、出向して襄州総管となった。大象二年、行軍総管崔彥睦に殺害された。
傅伏
傅伏は太安の人である。父の元興は儀同・北蔚州刺史であった。伏は若くして軍に従い、戦功によって次第に開府・永橋領民大 都督 に至った。周帝が先に河陰を攻めた時、伏は橋から夜に渡り、中潬城に入って守った。南城が陥落し、二十日間包囲されたが落ちなかった。救兵が到着し、周軍は退いた。伏は行臺の乞伏貴和に言った、「賊はすでに疲弊している。精騎二千を得てこれを追撃すれば、勝利を得ることができましょう」と。貴和は許さなかった。
武平六年、東雍州刺史に任じられた。ちょうど周兵が迫ってきたので、伏は出戦してこれを退けた。周が 晉 州を陥落させ、行臺の尉相貴を捕らえ、彼を使って伏を招こうとしたが、伏は従わなかった。後主が親征して 晉 州を救おうとし、伏を行臺右僕射とした。周軍が略奪に来たので、伏はこれを撃退した。周が幷州を陥落させ、韋孝寬を伏の子の世寬と共に遣わして伏を招いた、「幷州はすでに平定された。故に公の息子をやって報告させる。時宜に従って急ぎ降るがよい」と。上大將軍・武郷郡開國公を授け、直ちに告身を与え、金瑪瑙の酒鐘二つを信とした。伏は受けず、孝寬に言った、「君に事えるには死すとも二心なく、この児は臣として忠を尽くさず、子として孝を尽くさない。人が憎悪する所である。願わくは直ちにこれを斬り、以て天下に号令せられよ」と。
周帝が鄴から 晉 州に還った時、高阿那肱ら百余人を遣わして汾水に臨んで伏を召した。伏は軍を出して水を隔てて相見え、至尊 (天子) は今どこにおられるかと問うた。阿那肱は言った、「すでに捕らえられた。別の路から関に入られた」と。伏は天を仰いで大いに泣き、衆を率いて城に入り、聽事の前で北面して長く哀号し、その後降伏した。周帝がこれを見て言った、「どうして早く降らなかったのか」と。伏は涙を流して答えた、「臣は三代にわたり齊の家より衣食を蒙り、このように任用されました。革命の際に自ら死ぬことができず、天地を見るのが恥ずかしいのです」と。周帝は自らその手を執って言った、「臣たる者はこのようであるべきだ。朕が齊国を平定して、ただ公一人を見たのみである」と。そこで自ら羊の肋骨一つを食べ、その骨を伏に賜って言った、「骨は親しく肉は疎い。これをもって付託する所以である」と。そこで別に彼を引いて共に食わせ、侍伯邑に宿衛させ、上儀同を授け、勅して言った、「もし直ちに公に高官を与えれば、帰順する者の心が動揺する恐れがある。努力してよく行え。富貴にならぬ心配はない」と。また前に河陰を救った時、どの官職を得たかと問うた。伏は言った、「一転を蒙り、特進・永昌郡開國公を授かりました」と。周帝は後主に言った、「朕は三年前に兵馬を教習し、決意して河陰を取ろうとしたが、正に傅伏がよく守り、城を動かすことができなかったので、軍を収めて退いたのである。公の当時の賞授はなんと薄かったことか」と。伏に金の酒卮を賜った。後に岷州刺史としたが、まもなく卒した。
齊軍が 晉 州で敗れた後、兵将で節を全うした者は稀であった。その身を殺して仁を成した者に、儀同の叱干茍生がいる。鎮南兗州にあったが、周帝が鄴を破り、赦書が届くと、茍生は自縊して死んだ。
また開府・中侍中の宦官である田敬宣がいた。本字は鵬、蠻人である。年十四、五の時からすでに書を読むことを好んだ。閽寺となってからは、隙を見てはあちこち奔走して尋ね請い、文林館に至るごとに、息切れして汗を流し、書を問う以外に他の言葉を述べる暇がなかった。古人の節義の事跡を見るに及んでは、感激して沈吟しないことはなかった。顏之推はその勤学を重んじ、大いに奨励した。後に遂に通顕した。後主が青州に奔った時、彼を西に出させ、動静を探らせたが、周軍に捕らえられた。齊主はどこにいるかと問われると、すでに去ったと偽って言った。殴打して服従させようとしたが、一肢を折るごとに、言葉と顔色はますます厳しく、ついに四肢を断たれて死んだ。
また雷顯和がいた。 晉 州敗後、建州道行臺左僕射となった。周帝がその子を遣わして招いたが、顯和はその子を禁じて受け入れなかった。 鄴城 が敗れたと聞いて、ようやく降った。
後主が幷州を失い、開府の紇奚永安をして突厥の他缽略可汗に急を告げさせた。齊が滅んだと聞くと、他缽は永安を吐谷渾の使者の下に置いた。永安は声を張り上げて言った、「本国がすでに敗れた以上、永安がどうして賤命を惜しみましょうか!息を止めて自絶しようと思ったが、天下が大齊に死節の臣があることを知らない恐れがある。ただ一刀を乞い、以て遠近に示したい」と。他缽はその壮烈さを称え、馬七十匹を贈って帰した。
高保寧
高保寧は代人である。その来歴は知られていない。武平の末、営州刺史となり、黄龍を鎮守し、夷夏ともにその威信を重んじた。周師が鄴に迫らんとした時、幽州行臺の潘子晃が黄龍の兵を動員した。保寧は 驍 鋭と契丹・靺羯の万余騎を率いて赴援しようとした。北平に至り、子晃がすでに薊を発ったことを知り、また鄴都が守られていないと聞くと、直ちに営州に帰った。周帝が使者を遣わして招き慰めたが、勅書を受けなかった。范陽王の紹義が突厥の中にいて、上表して帝位に就くよう勧めた。范陽 (紹義) は保寧を丞相に任じた。盧昌期が范陽城を拠って兵を起こすと、保寧は紹義を引き連れ、夷夏の兵数万騎を集めてこれを救おうとした。潞河に至り、周の将軍宇文神挙がすでに范陽を屠ったことを知り、黄龍に戻って拠り、ついに周に臣従しなかった。
【贊】
史臣が言う。皮景和らは覇業の基より、戎幕に名を策し、艱難辛苦を経て、末運に至るまで、位高く任重く、皆その本誠を遂げた。またそれぞれその時に遇ったのである。傅伏の徒は、ともに忠節を表した。そうでなければ、どうして丹青 (絵画) や簡冊 (史書) が貴ばれようか。