北齊書

巻041

巻041

北齊書

原文北齊書

卷四十一 列傳第三十三 暴顯 皮景和 鮮于世榮 綦連猛 元景安 獨孤永業 傅伏 高保寧

原文卷四一列傳第三三 暴顯 皮景和 鮮于世榮 綦連猛 元景安 獨孤永業 傅伏 高保寧

暴顯

原文暴顯

暴顯は、字を思祖といい、魏郡斥邱の人である。祖父の喟は、北魏の瑯邪太守・朔州刺史となり、辺境の朔州に住まいを定めた。父の誕は、北魏の恒州刺史・左衛将軍、楽安公となった。顯が幼い時、一人の沙門が彼を指して言うには、「この郎子は良い相貌を有し、成長すれば必ず良将となり、人臣として極めて貴くなるであろう」と。言葉を終えると僧は消え失せ、どこへ去ったか分からなかった。

原文暴顯,字思祖,魏郡斥邱人也。祖喟,魏瑯邪太守、朔州刺史,因家邊朔。父誕,魏恒州刺史、左衛將軍,樂安公。顯幼時,見一沙門指之曰:「此郎子有好相表,大必為良將,貴極人臣。」語終失僧,莫知所去。

顯は若い頃から軍旅を経て、騎射に長けていた。かつて北魏の孝荘帝に従って狩猟に出た際、一日のうちに、自ら禽獣七十三を獲た。孝昌二年(526年)、羽林監に任ぜられる。中興元年(531年)、襄威将軍・晉州車騎府長史に任ぜられる。後に高祖こうそ(高歓)に従って信都で義兵を挙げ、中堅将軍・散騎侍郎・帳内大都督ととくを授かり、安東将軍・銀青光禄大夫を加えられ、屯留県開国侯に封ぜられる。天平二年(535年)、渤海郡守に任ぜられる。元象元年(538年)、雲州大中正に任ぜられ、武衛将軍を兼ね、鎮東将軍を加えられる。二年(539年)、北徐州刺史・当州大都督に任ぜられる。高祖に従って西軍(西魏軍)と邙山で戦い、高祖は顯に河橋鎮を守り、中潬城を拠るよう命じた。武定二年(544年)、征南将軍・広州刺史に任ぜられる。侯景が河南で反乱を起こし、景に攻撃されたが、顯は左右二十余騎を率いて賊の包囲を突破し、難を抜けて帰国した。時に高岳・慕容紹宗らが侯景を討伐しており、直ちに顯に兵馬を配属し、高岳らに従って渦陽で侯景を破った。武定六年(548年)、太府卿に任ぜられる。世宗(高澄)に従って潁川で王思政を平定し、潁州刺史を授かる。七年(549年)、鄭州刺史に転ずる。八年(550年)、驃騎将軍を加えられ、侯から公に進爵し、前後の食邑は合わせて一千三百戸となる。天保元年(550年)、衛大将軍を加えられ、刺史は元の通り。三年(552年)、清河王高岳と共に歴陽を襲撃し、これを奪取する。贓物収受の罪により、鄭州の職を解かれ、大理寺に拘禁される。処断が未了のうちに、合肥が包囲されたため、歩汗薩・慕容儼らと共に梁の北徐州を攻撃するよう派遣される。刺史の王強を生け捕る。梁の秦州刺史厳超達と涇城で戦い、これを破る。五年(554年)、儀同三司を授かる。その年、また高岳と共に南進して漢水に臨み、梁の西楚州を攻め落とし、刺史の許法光を捕らえる。この時、梁の将軍蕭循と侯瑱らが慕容儼を郢州に包囲したため、再び顯を水軍大都督とし、摂口から長江に入って救援に向かわせる。軍が帰還すると、開府儀同三司を加えられ、帛五百匹を賞賜される。十年(559年)、幽州范陽郡の幹禄を食む。乾明元年(560年)、車騎大将軍に任ぜられる。皇建元年(560年)、楽安郡開国公に転封される。二年(561年)、趙州刺史に任ぜられる。河清元年(562年)、洛州刺史に遷る。二年(563年)、再び朔州刺史に任ぜられ、任期満了で帰還する。天統元年(565年)、特進・驃騎大将軍を加えられ、定陽王に封ぜられる。四年(568年)に卒去。享年六十六。

原文顯少經軍旅,善於騎射,曾從魏孝莊帝出獵,一日之中,手獲禽獸七十三。孝昌二年,除羽林監。中興元年,除襄威將軍、晉州車騎府長史。後從高祖於信都舉義,授中堅將軍、散騎侍郎、帳內大都督,加安東將軍、銀青光祿大夫,屯留縣開國侯。天平二年,除渤海郡守。元象元年,除雲州大中正,兼武衛將軍,加鎮東將軍。二年,除北徐州刺史、當州大都督。從高祖與西師戰於邙山,高祖令顯守河橋鎮,據中潬城。武定二年,除征南將軍、廣州刺史。侯景反於河南,為景所攻,顯率左右二十餘騎突出賊營,拔難歸國。時高岳、慕容紹宗等討景,即配顯士馬,隨岳等破景於渦陽。武定六年,拜太府卿。從世宗平王思政於潁川,授潁州刺史。七年,轉鄭州刺史。八年,加驃騎將軍,進侯為公,通前食邑一千三百戶。天保元年,加衛大將軍,刺史如故。三年,與清河王高岳襲歷陽,取之。為贓貨,解鄭州,大理禁止。處斷未訖,為合肥被圍,遣與步汗薩、慕容儼等同攻梁北徐州。擒刺史王強。與梁秦州刺史嚴超達戰於涇城,破之。五年,授儀同三司。其年,又與高岳南臨漢水,攻下梁西楚州,獲刺史許法光。于時梁將蕭循與侯瑱等圍慕容儼於郢州,復以顯為水軍大都督,從攝口入江救之。師還,加開府儀同三司,賞帛五百疋。十年,食幽州范陽郡幹。乾明元年,除車騎大將軍。皇建元年,轉封樂安郡開國公。二年,除趙州刺史。河清元年,遷洛州刺史。二年,復除朔州刺史,秩滿歸。天統元年,加特進、驃騎大將軍,封定陽王。四年卒,年六十六。

皮景和

原文皮景和

皮景和は、瑯邪下邳の人である。父の慶賓は、北魏の淮南王開府中兵参軍事であった。正光年間(520-525年)中、使いとして懐朔に行き、世の乱れに遭い、広寧の石門県に住まいを定めた。

原文皮景和,瑯邪下邳人也。父慶賓,魏淮南王開府中兵參軍事。正光中,因使懷朔,遇世亂,因家廣寧之石門縣。

景和は若くして聡明で機敏、騎射に長けていた。初め親信として高祖(高歓)に仕え、後に親信副都督に補任される。武定二年(544年)、歩落稽を征討した。世宗(高澄)は賊に伏兵があるのを疑い、景和に五六騎を率いて一つの谷深く入るよう命じた。賊百余りに出会うと、共に格闘戦を交え、景和は数十人を射て、弦に応じて倒れぬ者はなかった。高祖はかつて景和に一頭の猪を射るよう命じ、一箭でこれを獲たため、深く賞賛され、庫直正都督に任ぜられる。天保初年(550年)、仮節・通州刺史を授かり、永寧県開国子に封ぜられる。後に庫莫奚を襲撃することに従軍し、左右大都督を加えられる。また黄龍を渡り、契丹を征討し、稽胡を平定することに従う。まもなく陘北で茹茹の主菴羅辰を討伐することに従い、また茹茹の残党を平定することに従う。景和は敏捷で、武勇の才があり、常に戦功を立てた。十年(559年)、安楽郡の幹禄を食む。乾明元年(560年)、武衛将軍に任ぜられ、給事黄門侍郎を兼ねる。粛宗(高演)が宰相となると、本官のまま大丞相府從事中郎を摂行する。大寧元年(561年)、儀同三司・散騎常侍さんきじょうじ・武衛大将軍に任ぜられ、まもなく開府を加えられる。二年(562年)、梁州刺史として出向する。三年(563年)、突厥が晉陽を包囲攻撃したため、景和に駅伝を馳せて京に赴き、後軍を督率して幷州に向かうよう命じた。到着する前に、賊は既に退却していた。そのまま領左右大将軍に任ぜられ、斉郡の幹禄を食み、また幷省五兵尚書に任ぜられる。天統元年(565年)、殿中尚書に遷る。二年(566年)、侍中に任ぜられる。

原文景和少通敏,善騎射。初以親信事高祖,後補親信副都督。武定二年,征步落稽。世宗疑賊有伏兵,令景和將五六騎深入一谷中,值賊百餘人,便共格戰,景和射數十人,莫不應弦而倒。高祖嘗令景和射一野豕,一箭而獲之,深見嗟賞,除庫直正都督。天保初,授假節、通州刺史,封永寧縣開國子。後從襲庫莫奚,加左右大都督。又從度黃龍,征契丹,定稽胡。尋從討茹茹主菴羅辰於陘北,又從平茹茹餘燼。景和趫捷,有武用,每有戰功。十年,食安樂郡幹。乾明元年,除武衛將軍,兼給事黃門侍郎。肅宗作相,以本官攝大丞相府從事中郎。大寧元年,除儀同三司、散騎常侍、武衛大將軍,尋加開府。二年,出為梁州刺史。三年,突厥圍逼晉陽,令景和馳驛赴京,督領後軍赴幷州,未到間,賊已退。仍除領左右大將軍,食齊郡幹,又除幷省五兵尚書。天統元年,遷殿中尚書。二年,除侍中。

景和は武職の中にあって、吏事にも長け、また性質識見が公平であったため、頻繁に良い官職を授かった。北周と通好した後、使者が往来する際、常に景和に対応させ、しばしば使者と共に射を行い、百発百中であったため、非常に推重された。武平年間(570-576年)中、詔獄は多く中黄門らに監治させたが、常に景和に審査覆奏させ、理に拠って正しく執り行ったため、過誤による冤罪や濫刑はなかった。

原文景和於武職之中,兼長吏事,又性識均平,故頻有美授。周通好之後,冠蓋往來,常令景和對接,每與使人同射,百發百中,甚見推重。武平中,詔獄多令中黃門等監治,恒令景和按覆,據理執正,由是過無枉濫。

後に特進・中領軍に任ぜられ、広漢郡開国公に封ぜられる。また斛律光に従って衆を率いて西討し、姚襄・白亭の二城を陥落させ、別に永寧郡開国公に封ぜられる。また領軍将軍に任ぜられる。また軍に従って宜陽城を陥落させ、開封郡開国公に封ぜられる。瑯邪王(高儼)が和士開を殺害した時、兵が西闕を指し、内外惶惑し、どうすべきか分からなかった。景和は後主(高緯)に千秋門から出て自ら号令するよう請うた。事態が平定されると、尚書右僕射・趙州刺史に任ぜられる。まもなく河南行臺尚書右僕射・洛州刺史に遷る。

原文後除特進、中領軍,封廣漢郡開國公。又隨斛律光率衆西討,剋姚襄、白亭二城,別封永寧郡開國公。又除領軍將軍。又從軍拔宜陽城,封開封郡開國公。瑯邪王之殺和士開也,兵指西闕,內外惶惑,莫知所為。景和請後主出千秋門自號令。事平,除尚書右僕射、趙州刺史。尋遷河南行臺尚書右僕射、洛州刺史。

陳の将軍呉明徹が淮南に侵寇したため、景和に衆を率いてこれを防ぐよう命じ、領軍大将軍に任ぜられ、文城郡王に封ぜられ、高陽郡の幹禄に転ずる。軍が柤口に至ると、土着の民の陳喧らが乱を起こしたが、景和がこれを平定した。また陽平人の鄭子饒という者がおり、仏道に依ると詐り、斎会を設け、用いる米麺は多くないのに、供養する範囲は甚だ広く、密かに地蔵から次第に餅飯を出したため、愚かな者は神力と思い、魏・衛の間で信じられた。逆乱を起こそうとしたが、謀が漏れ、討伐したが漏れて逃亡した。そこで密かに黄河を渡り、数千の衆を集め、自ら長楽王と号し、既に乗氏県を破り、また西兗州城を襲撃しようとした。景和が南兗州から騎兵数百を派遣してこれを撃破し、二千余級を斬首し、子饒を生け捕り、京師に送って烹殺した。呉明徹が寿陽を包囲した時、勅命により景和は賀拔伏恩らと共に救援に向かう。景和は尉破胡の軍が敗北したばかりであるため、怯懦して進もうとせず、淮口に軍を駐屯させた。頻繁に勅使が催促したが、ようやく淮水を渡った。寿陽が既に陥落した時節に属し、狼狽して北へ帰還し、器械や軍資は、大いに遺失した。陳の将軍蕭摩訶が歩騎を率いて淮北の倉陵城でこれを遮断したが、景和は軍旅を整えて逆襲し、摩訶は退き帰った。この時、呉明徹を防いだ者は多くが敗北したが、ただ景和だけが全軍を以て帰還したため、これにより賞を受け、尚書令しょうしょれいに任ぜられ、別に西河郡開国公に封ぜられ、銭二十万、酒米十車を賜った。時に陳軍が声をあげて淮水を渡ろうとしたため、景和に軍を西兗州に留め、防衛の節度をとらせた。武平六年(575年)に病没。享年五十五。侍中・使持節・都督定恒朔幽定平六州諸軍事・太尉公・録尚書事・定州刺史を追贈された。

原文陳將吳明徹寇淮南,令景和率衆拒之,除領軍大將軍,封文城郡王,轉食高陽郡幹。軍至柤口,值土人陳喧等作亂,景和平之。又有陽平人鄭子饒,詐依佛道,設齋會,用米面不多,供贍甚廣,密從地藏漸出餅飯,愚人以為神力,見信於魏、衛之間。將為逆亂,謀泄,掩討漏逸。乃潛渡河,聚衆數千,自號長樂王,已破乘氏縣,又欲襲西兗州城。景和自南兗州遣騎數百擊破之,斬首二千餘級,生擒子饒,送京師烹之。及吳明徹圍壽陽,勑令景和與賀拔伏恩等赴救。景和以尉破胡軍始喪敗,怯懦不敢進,頓兵淮口,頻有勑使催捉,然始渡淮。屬壽陽已陷,狼狽北還,器械軍資,大致遺失。陳將蕭摩訶率步騎於淮北倉陵城截之,景和得整旅逆戰,摩訶退歸。是時拒吳明徹者多致傾覆,唯景和全軍而還,由是獲賞,除尚書令,別封西河郡開國公,賜錢二十萬,酒米十車。時陳人聲將渡淮,令景和停軍西兗州,為拒守節度。武平六年病卒,年五十五。贈侍中、使持節、都督定恒朔幽定平六州諸軍事、太尉公、錄尚書事、定州刺史。

長子の信は、機知に悟りがあり風采があり、少し書伝に通じていた。武平末年(576年)、開府儀同三司・武衛将軍となり、勲貴の子弟の中にあって、その識見眼力を称えられた。幷州で北周軍に降伏し、上開府・軍正大夫を授かる。隋の開皇年間(581-600年)中、洮州刺史の任上で卒去した。

原文長子信,機悟有風神,微涉書傳。武平末,開府儀同三司、武衛將軍,於勳貴子弟之中,稱其識鑒。於幷州降周軍,授上開府、軍正大夫。隋開皇中,卒於洮州刺史。

末子の宿達は、武平末年に太子齋帥となり、才藻と品行を備えていた。開皇年間、通事舍人となる。母の喪に服し、喪中に復職し、京に赴かんとして、霊前に別れを告げ慟哭して気絶し、久しくして蘇生したが、食を下すことができず、三日にして死す。

原文少子宿達,武平末太子齋帥,有才藻檢行。開皇中,通事舍人。丁母憂,起復,將赴京,辭靈慟哭而絕,久而獲蘇,不能下食,三日致死。

鮮于世榮

原文鮮于世榮

鮮于世榮は漁陽の人である。父の寶業は懷朔鎮將であり、武平初年に儀同三司・祠部尚書・朔州刺史を追贈された。世榮は若くして沈着聡明で、器量と才幹があった。興和二年、高祖の親信副都督となり、やがて平西將軍に遷り、石門縣子の爵位を賜う。後にしばしば顯祖に従って茹茹を討ち、稽胡を破る。また高岳に従って郢州を平定し、持節・河州刺史に除され、朝歌縣の幹を食む。まもなく肅宗の丞相府諮議參軍となる。皇建年間、儀同三司・武衛將軍に除される。天統二年、開府を加えられ、また鄭州刺史に除される。武平年間、信州の賊を平定した功により、領軍將軍に除され、上黨郡の幹を食むことに転ずる。高思好平定に従い、義陽王に封ぜられる。七年、後主が晉陽に行幸し、世榮に本官のまま尚書右僕射の事を判らしめ、北平王の北宮留後を輔けしむ。まもなく勅令があり、吏部尚書袁聿修とともに尚書省において挙人を検試せしむ。乗馬して雲龍門外より省の北門に入ったことを、憲司に挙奏されて免官となる。後主が平陽を包囲したとき、世榮を領軍將軍に除す。周の軍が鄴に入らんとするとき、領軍大將軍・太子太傅に除され、城西にて防戦するも敗れて捕らえられ、周の武帝に殺される。世榮は武人で文芸はなかったが、朝廷の危うきと政の乱れを以て、しばしひそかに嘆いた。徴税の飽くことなきを見、賜与の過度なるを発言して嘆惜す。子の子貞は、武平末年に仮の儀同三司となる。

原文鮮于世榮,漁陽人也。父寶業,懷朔鎮將,武平初,贈儀同三司、祠部尚書、朔州刺史。世榮少而沈敏,有器幹。興和二年,為高祖親信副都督,稍遷平西將軍、賜爵石門縣子。後頻從顯祖討茹茹,破稽胡。又從高岳平郢州,除持節、河州刺史,食朝歌縣幹。尋為肅宗丞相府諮議參軍。皇建中,除儀同三司、武衛將軍。天統二年,加開府,又除鄭州刺史。武平中,以平信州賊,除領軍將軍,轉食上黨郡幹。從平高思好,封義陽王。七年,後主幸晉陽,令世榮以本官判尚書右僕射事,貳北平王北宮留後。尋有勑令與吏部尚書袁聿修在尚書省檢試舉人。為乘馬至雲龍門外入省北門,為憲司舉奏免官。後主圍平陽,除世榮領軍將軍。周師將入鄴,除領軍大將軍、太子太傅,於城西拒戰,敗被擒,為周武所殺。世榮雖武人無文藝,以朝危政亂,每竊嘆之。見徵稅無厭,賜與過度,發言嘆惜。子子貞,武平末假儀同三司。

綦連猛

原文綦連猛

綦連猛は字を武兒といい、代の人である。その先祖は姬姓、六国の末、乱を避けて塞外に出で、祁連山に保ち、山を以て姓とす。北人の言葉訛りて、故に綦連氏と曰う。父の元成は燕郡太守なり。

原文綦連猛,字武兒,代人也。其先姬姓,六國末,避亂出塞,保祁連山,因以山為姓,北人語訛,故曰綦連氏。父元成,燕郡太守。

猛は若くして志気あり、弓馬を習熟す。永安三年、尒朱榮に征されて親信となる。洛陽らくように至り、榮が害せられると、即ち尒朱世隆に従って建州に奔り、なお尒朱兆に従って洛に入る。その年、また兆に従って紇豆陵步藩を討ち、都督を補す。普泰元年、征虜將軍・中散大夫を加えらる。猛の父母兄弟は皆山東に在り、尒朱京纏は高祖に投ぜんと欲し、猛に謂いて曰く、「王は爾が父兄皆山東に在るを以て、毎に信ぜざるを懐く。爾もし走らざれば、今夜必ず爾を殺すべし。走り去るべし」と。猛は平素兆の恩を受けたるを以て、拒みて従わず。京纏曰く、「我今また去らんと欲す。爾我に従わんか」と。猛また従わず。京纏乃ち矟を挙げて曰く、「爾従わざれば、我必ず爾を刺さん」と。猛乃ちこれに従う。城を去ること五十余里にして、即ち京纏に背き復た尒朱に帰る。兆の敗るるに及び、乃ち高祖に帰す。高祖問いて曰く、「尒朱京纏爾を将て我に投ぜんとし、爾中途に背き去りしは何ぞや」と。猛乃ち服事の理を具に陳べ、二心あるべからざるを述ぶ。高祖曰く、「爾懼るる莫れ。人に服事する法は須らく此の如くあるべし」と。遂に都督を補す。

原文猛少有志氣,便習弓馬。永安三年,尒朱榮征為親信。至洛陽,榮被害,即從尒朱世隆出奔建州,仍從尒朱兆入洛。其年,又從兆討紇豆陵步藩,補都督。普泰元年,加征虜將軍、中散大夫。猛父母兄弟皆在山東,尒朱京纏欲投高祖,謂猛曰:「王以爾父兄皆在山東,每懷不信,爾若不走,今夜必當殺爾,可走去。」猛以素蒙兆恩,拒而不從。京纏曰:「我今亦欲去,爾從我不?」猛又不從。京纏乃舉矟曰:「爾不從,我必刺爾。」猛乃從之。去城五十餘里,即背京纏復歸尒朱。及兆敗,乃歸高祖。高祖問曰:「尒朱京纏將爾投我,爾中路背去何也?」猛乃具陳服事之理,不可貳心。高祖曰:「爾莫懼,服事人法須如此。」遂補都督。

步落稽等逆を起こし、覆釜山に在り。猛を使わしてこれを討たしむ。大いに捷ち、特しく賞賫せらる。元象元年、高祖に従って河陽に向かい、周の文帝と邙山に戦う。二年、平東將軍・中散大夫に除される。その年、また中外府帳内都督に転じ、邙山の功を賞され、廣興縣開國君に封ぜらる。

原文步落稽等起逆,在覆釜山,使猛討之,大捷,特被賞賫。元象元年,從高祖向河陽,與周文帝戰於邙山。二年,除平東將軍、中散大夫。其年,又轉中外府帳內都督,賞邙山之功,封廣興縣開國君。

五年、梁の使い来聘し、武藝有りと云い、北人を訪い求めて相角せんと欲す。世宗、猛を遣わして館に就きてこれに接せしむ。雙びて兩鞬を帯び、左右に馳射す。兼ねて力を試むるを共にし、強きを挽く。梁人弓兩張を引き、力皆三石なり。猛遂に並びて四張を取り、疊みてこれを挽き、度を過ぐ。梁人嗟服す。

原文五年,梁使來聘,雲有武藝,求訪北人,欲與相角。世宗遣猛就館接之,雙帶兩鞬,左右馳射。兼共試力,挽強,梁人引弓兩張,力皆三石,猛遂並取四張,疊而挽之,過度。梁人嗟服之。

その年、撫軍將軍に除され、別に石城縣開國子に封ぜられ、肆州平寇縣の幹を食む。天保元年、都督・東秦州刺史に除され、別に雍州京兆郡覆城縣開國男に封ぜらる。顯祖に従って契丹を討ち、大いに戶口を獲る。また斛律敦に随い北征して茹茹を討つ。敦、猛に令して軽く百騎を将いて深く入り覘候せしむ。還りて白道に至り、軍と相会す。此れに因りて追躡し、遂に大いにこれを破る。帛三百段を賚う。七年、武衛將軍・儀同三司に除される。九年、武衛大將軍に転ず。乾明初め、車騎大將軍を加えらる。皇建元年、石城郡開國伯に封ぜられ、尋いで爵を進めて君とす。二年、領左右大將軍に除され、肅宗に従って奚賊を討ち、大いに捷ち、馬二千匹、牛羊三萬頭を獲る。河清二年、開府を加えらる。突厥晉陽に侵逼す。勅して猛に三百騎を将いて賊の遠近を覘わしむ。行きて城北十五里に至り、賊の前鋒に遇う。敵衆多きを以て、遂に漸く退避す。賊中に一驍ぎょう将有り、超え出で来たりて鬥わんとす。猛遥かにこれを見、即ちまた身を挺して独り出で、其れと相対す。俯仰の間に、賊を刺して馬を落とし、因りて即ちこれを斬る。三年、別に武安縣開國君に封ぜられ、驃騎大將軍を加えらる。天統元年、右衛大將軍に遷る。乃ち世祖の勅を奉じ、恒に嗣主の左右に在らしめ、兼ねて内外の機要の事を知らしむ。三年、中領軍に除される。四年、領軍將軍に転じ、別に義寧縣開國君に封ぜらる。五年、幷省尚書左僕射に除され、余は故の如し。幷省尚書令・領軍大將軍に除され、山陽王に封ぜらる。

原文其年,除撫軍將軍,別封石城縣開國子,食肆州平寇縣幹。天保元年,除都督、東秦州刺史,別封雍州京兆郡覆城縣開國男。從顯祖討契丹,大獲戶口。又隨斛律敦北征茹茹,敦令猛輕將百騎深入覘候。還至白道,與軍相會,因此追躡,遂大破之。賚帛三百段。七年,除武衛將軍、儀同三司。九年,轉武衛大將軍。乾明初,加車騎大將軍。皇建元年,封石城郡開國伯,尋進爵為君。二年,除領左右大將軍,從肅宗討奚賊,大捷,獲馬二千匹,牛羊三萬頭。河清二年,加開府。突厥侵逼晉陽,勑猛將三百騎覘賊遠近。行至城北十五里,遇賊前鋒,以敵衆多,遂漸退避。賊中有一驍將,超出來鬥。猛遙見之,即亦挺身獨出,與其相對。俯仰之間,刺賊落馬,因即斬之。三年,別封武安縣開國君,加驃騎大將軍。天統元年,遷右衛大將軍,乃奉世祖勑,恒令在嗣主左右,兼知內外機要之事。三年,除中領軍。四年,轉領軍將軍,別封義寧縣開國君。五年,除幷省尚書左僕射,餘如故。除幷省尚書令、領軍大將軍,封山陽王。

猛は和士開の死後より、漸く朝政に預かり、疑議と与奪と、咸くまた諮稟す。趙彥深は猛が武將の中にて頗る姦佞を疾み、言議時に采るべき有るを以て、故に機事を知らしむるを引く。祖珽既に彥深を出だし、猛を以て趙の黨與と為し、乃ち光州刺史に除す。已に発ちて牛蘭に至る。忽ち人有りて告ぐ、和士開の害せられし日、猛もまた知情せりと。遂に追止せらる。還り、内禁に留め入り、家口を簿録す。尋いで釈放を見、王爵を削り、開府を以てのみ州に赴かしむ。任に在りて寬惠清慎、吏民これ称す。淮陰王阿那肱は猛と旧有り、毎に携え引きんと欲す。曾て勅有りて闕に徴詣せしめ、委寄せんと欲するに似たり。韓長鸞等沮難し、復た膠州刺史に除す。尋いで徴還し、南兗に在りて防捍せしむ。後主平陽に敗れて還り、また鄴に徴赴せしめ、大將軍に除す。齊亡びて周に入り、尋いで卒す。

原文猛自和士開死後,漸預朝政,疑議與奪,咸亦咨稟。趙彥深以猛武將之中頗疾姦佞,言議時有可采,故引知機事。祖珽既出彥深,以猛為趙之黨與,乃除光州刺史。已發至牛蘭,忽有人告和士開被害日猛亦知情,遂被追止。還,入內禁留,簿錄家口。尋見釋,削王爵,止以開府赴州。在任寬惠清慎,吏民稱之。淮陰王阿那肱與猛有舊,每欲攜引之,曾有勑徵詣闕,似欲委寄。韓長鸞等沮難,復除膠州刺史。尋徵還,令在南兗防捍。後主平陽敗還,又徵赴鄴,除大將軍。齊亡入周,尋卒。

元景安

原文元景安

元景安は、魏の昭成帝の五世孫なり。高祖の虔は、魏の陳留王。父の永は、少くして奉朝請と為る。積射將軍より元天穆に薦められて尒朱榮に之き、孝莊帝を立てし謀に参じ、代郡公の爵を賜う。將軍・太中大夫・二夏・幽三州行臺左丞を加えられ、持節して降戶四千餘家を招納す。榮また啓して永を朝那縣子に封じ、邑三百戶、持節南幽州刺史、仮の撫軍將軍とす。天平初め、高祖以て行臺左丞と為し、尋いで潁州刺史に除し、また北揚州刺史と為る。天保年中、征拜して大司農卿と為り、銀青光祿大夫に遷り、例に依り爵を降して幹鄉男とす。大寧二年、金紫光祿大夫に遷る。

原文元景安,魏昭成五世孫也。高祖虔,魏陳留王。父永,少為奉朝請。自積射將軍為元天穆薦之於尒朱榮,參立孝莊之謀,賜爵代郡公。加將軍、太中大夫、二夏、幽三州行臺左丞,持節招納降戶四千餘家。榮又啟封永朝那縣子,邑三百戶,持節南幽州刺史,假撫軍將軍。天平初,高祖以為行臺左丞,尋除潁州刺史,又為北揚州刺史。天保中,征拜大司農卿,遷銀青光祿大夫,依例降爵為幹鄉男。大寧二年,遷金紫光祿大夫。

景安は沈着聡明にして才幹と器量を備え、若くして騎射に巧みで、人に仕えることに長けていた。初めて官に就いて爾朱栄の大将軍府長流参軍となり、寧遠将軍を加えられ、さらに爾朱栄の大丞相府長流参軍に転じた。高祖が洛陽を平定すると、領軍婁昭が推薦して京畿都督に補任され、父の永が代郡公の爵位を返上してこれを授けるよう請うたので、前将軍・太中大夫を加えられた。武帝に従って西に入った。天平の末、大軍が西征した際、景安は戦場で自ら帰順し、高祖はこれを賞賛して、直ちに都督に補任した。興和年間、親信都督に転じた。邙山の戦いでは、奮戦して功績があり、西華県都郷男の爵位を賜り、代郡公はもとのままとした。世宗が朝廷に入ると、景安は従って鄴に在った。当時、江南は帰順し、朝貢が相次いだ。景安は騎乗に極めて巧みで、容儀作法に優れていたため、梁の使者が来るたびに、常に斛律光・皮景和らとともに客に対して騎射を行わせ、見る者は称賛した。世宗が後を継ぐと、国封を減らして将士に分け与えるよう請い、石保県開国子に封ぜられ、邑三百戸を賜り、安西将軍を加えられた。また通州刺史に任ぜられ、鎮西将軍を加えられ、子爵から伯爵に転じ、邑を増やして前の分と合わせて六百戸とし、その他の官はもとのままとした。天保初め、征西将軍を加えられ、別に興勢県開国伯に封ぜられ、定襄県令を兼ね、高氏の姓を賜った。三年、代川において庫莫奚を撃破することに従い、左右大都督を領するよう転じ、その他の官はすべてもとのままとした。四年、黄龍において契丹を討つことに従い、北平太守を領した。その後しばしば従駕して茹茹を再び撃破し、武衛大将軍に昇進し、さらに左右大将軍を領するよう転じ、七兵尚書を兼ねた。

原文景安沈敏有幹局,少工騎射,善於事人。釋褐尒朱榮大將軍府長流參軍,加寧遠將軍,又轉榮大丞相府長流參軍。高祖平洛陽,領軍婁昭薦補京畿都督,父永啟回代郡公授之,加前將軍、太中大夫。隨武帝西入。天平末,大軍西討,景安臨陣自歸,高祖嘉之,即補都督。興和中,轉領親信都督。邙山之役,力戰有功,賜爵西華縣都鄉男,代郡公如故。世宗入朝,景安隨從在鄴。於時江南款附,朝貢相尋,景安妙閑馳騁,雅有容則,每梁使至,恒令與斛律光、皮景和等對客騎射,見者稱善。世宗嗣事,啟減國封分錫將士,封石保縣開國子,邑三百戶,加安西將軍。又授通州刺史,加鎮西將軍,轉子為伯,增邑通前六百戶,餘如故。天保初,加征西將軍,別封興勢縣開國伯,帶定襄縣令,賜姓高氏。三年,從破庫莫奚於代川,轉領左右大都督,餘官並如故。四年,從討契丹於黃龍,領北平太守。後頻從駕再破茹茹,遷武衛大將軍,又轉領左右大將軍,兼七兵尚書。

当時、長城を築き始めたばかりで、鎮戍がまだ整っておらず、突厥が強盛であったため、あるいは辺境を侵すことを憂慮し、詔を下して景安に諸軍とともに辺塞に沿って守備に当たらせた。督領する軍が多く、かつ配下の軍人が財物に富んでいたため、賄賂が公然と行われるようになった。顕祖はこれを聞き、使者を遣わして調査させた。同行した諸人の贓物は散乱していたが、ただ景安だけは微塵も犯していなかった。帝は深く賞賛し、詔を下して有司に集められた贓物の絹五百匹を景安に賜り、清廉な節操を顕彰させた。

原文時初築長城,鎮戍未立,突厥強盛,慮或侵邊,仍詔景安與諸軍緣塞以備守。督領既多,且所部軍人富於財物,遂賄貨公行。顯祖聞之,遣使推檢,同行諸人贓汙狼藉,唯景安纖毫無犯。帝深嘉嘆,乃詔有司以所聚斂贓絹伍百疋賜之,以彰清節。

また都官尚書に転じ、儀同三司を加えられ、高平郡の幹禄を食み、さらに儀同三司に任ぜられた。乾明元年、七兵尚書に転じ、車騎大将軍を加えられた。皇建元年、さらに侍中を兼ね、駅馬を飛ばして鄴に至り、百官を慰労し、風俗を巡視した。

原文又轉都官尚書,加儀同三司,食高平郡幹,又拜儀同三司。乾明元年,轉七兵尚書,加車騎大將軍。皇建元年,又兼侍中,馳驛詣鄴,慰勞百司,巡省風俗。

粛宗がかつて群臣と西園で宴会し射を催したことがあり、文武の官で参加した者は二百余人であった。的を堂から百四十歩余り離れた所に設け、的に当てた者には良馬や金玉錦彩などを賜った。一人が獣の頭に射当てたが、鼻から一寸余り離れていた。ただ景安だけが最後に一矢を発していなかった。帝が景安にこれを解かせると、景安はゆったりと容儀を整え、弓を引き絞って満月とし、見事に獣の鼻を射貫いた。帝は感嘆して称賛し、特に馬二匹を賜い、玉帛雑物もさらに常例より多く加えた。

原文肅宗曾與群臣於西園宴射,文武預者二百餘人。設侯去堂百四十餘步,中的者賜與良馬及金玉錦彩等。有一人射中獸頭,去鼻寸餘。唯景安最後有一矢未發,帝令景安解之,景安徐整容儀,操弓引滿,正中獸鼻。帝嗟賞稱善,特賚馬兩匹,玉帛雜物又加常等。

大寧元年、開府を加えられた。二年、右衛将軍に転じ、まもなく右衛大将軍に転じた。天統初め、幷省尚書右僕射を判じ、まもなく出向して徐州刺史となった。四年、豫よ州道行臺僕射・豫州刺史に任ぜられ、開府儀同三司を加えられた。武平三年、行臺尚書令に進んで授けられ、刺史はもとのまま、歴陽郡王に封ぜられた。景安が辺境の州に在った時、隣接する他国と境を接し、辺境を安んじて和ませ、互いに侵掠することなく、人々は安堵していた。また管内は蛮族が多く華人が少なかったが、景安は威と恩をもって臨み、皆が安寧を得た。武平の末に至るまで、招き慰めて租賦を納めるようになった生蛮は数万戸に及んだ。六年、召し出されて領軍大将軍に任ぜられた。北周に入り、大将軍・大義郡開国公として衆を率いて稽胡を討ち、戦死した。子の仁は、武平末に儀同三司・武衛となり、隋の驃騎将軍となった。丹陽太守の任で卒した。

原文大寧元年,加開府。二年,轉右衛將軍,尋轉右衛大將軍。天統初,判幷省尚書右僕射,尋出為徐州刺史。四年,除豫州道行臺僕射、豫州刺史,加開府儀同三司。武平三年,進授行臺尚書令,刺史如故,封歷陽郡王。景安之在邊州,鄰接他境,綏和邊鄙,不相侵暴,人物安之。又管內蠻多華少,景安被以威恩,咸得寧輯,比至武平末,招慰生蠻輸租賦者數萬戶。六年,徵拜領軍大將軍。入周,以大將軍、大義郡開國公率衆討稽胡,戰沒。子仁,武平末儀同三司、武衛,隋驃騎將軍。卒於丹陽太守。

初め、永の兄の祚が陳留王の爵位を襲い、祚が卒すると、子の景皓が嗣いだ。天保の時、諸元の帝室に近い者は多く誅戮された。疎遠な宗族である景安の徒は高氏の姓を請おうと議したが、景皓は言った。「どうして本宗を棄てて他姓に従えようか。大丈夫たるもの、寧ろ玉砕すべし、瓦全すべからず」。景安はこの言葉を顕祖に告げたので、景皓を捕らえて誅し、家属を彭城に移した。これにより景安のみが高氏の姓を賜り、その他の者は本姓のままに任せられた。

原文初,永兄祚襲爵陳留王,祚卒,子景皓嗣。天保時,諸元帝室親近者多被誅戮。疏宗如景安之徒議欲請姓高氏,景皓云:「豈得棄本宗,逐他姓,大丈夫寧可玉碎,不能瓦全!」景安遂以此言白顯祖,乃收景皓誅之,家屬徙彭城。由是景安獨賜姓高氏,自外聽從本姓。

永の弟の種の子、豫は、字を景豫といい、姿容が美しく、器量と才幹があった。永安年間、羽林監となった。元顥が洛陽に入った時、河内を守った功績により、永安君の爵位を賜った。後に濮陽郡守となった。魏の彭城王韶が引いて開府諮議参軍とし、韶が定州に出鎮すると、定州司馬に任じるよう請うた。景安が景皓の不遜な言葉を告げた時、豫の言葉を引き合いに出して呼応した。豫は供述して言った。「あの時、袖で景皓の口を覆い、『兄上、妄言なさるな』と言いました」。景皓に問いただすと、豫が列挙したことと符合したので、罪を免れた。他に同じ言葉を聞いた数人は、皆遠方に流刑・配流された。豫は徐州刺史の任で卒した。

原文永弟種子豫,字景豫,美姿儀,有器幹。永安中,羽林監。元顥入洛,以守河內功,賜爵永安君。後為濮陽郡守。魏彭城王韶引為開府諮議參軍,韶出鎮定州,啟為定州司馬。及景安告景皓慢言,引豫言相應和。豫占云:「爾時以衣袖掩景皓口,云 『兄莫妄言』」。及問景皓,與豫所列符同,獲免。自外同聞語者數人,皆流配遠方。豫卒於徐州刺史。

獨孤永業

原文獨孤永業

獨孤永業は、字を世基といい、本来は劉姓、中山の人である。母が獨孤氏に再嫁し、永業は幼くして孤児となり、母に従って獨孤家に養育されたので、その姓に従った。兵士の中に身を置き、才幹があり、弓馬に巧みであった。選抜されて定州六州都督に補任され、晉陽で宿衛した。ある者がその識見と有用さを称えると、世宗は語り合って喜び、格抜擢して中外府外兵参軍に任じた。天保初め、中書舎人、豫州司馬に任ぜられた。永業は文書計算に通じ、歌舞に巧みで、顕祖に大いに知られた。

原文獨孤永業,字世基,本姓劉,中山人。母改適獨孤氏,永業幼孤,隨母為獨孤家所育養,遂從其姓焉。止於軍士之中,有才幹,便弓馬。被簡擢補定州六州都督,宿衛晉陽。或稱其有識用者,世宗與語悅之,超授中外府外兵參軍。天保初,除中書舍人,豫州司馬。永業解書計,善歌舞,甚為顯祖所知。

乾明初め、出向して河陽行臺右丞となり、洛州刺史に転じ、さらに左丞に転じ、刺史はもとのまま、散騎常侍を加えられた。宜陽は深く敵境に在り、周人が黒澗に城戍を築いて糧道を断とうとしたので、永業もまた鎮を築いてこれに対抗した。辺境統治に威信を大いに有し、行臺尚書に転じた。河清三年に至り、周人が洛州を侵犯した。永業は刺史段思文が自ら守りきれないことを恐れ、馳せて金墉城に入り守備を助けた。周人は土山と地道を作り、昼夜を分かたず攻撃し、三十日を経て、大軍が到着したので、敵は退いた。永業は長く河南に在って、招撫に長け、帰降する者は万単位に及んだ。そのうち二百人を選んで爪牙とし、常に先鋒として寡をもって衆に敵し、周人はこれを畏れた。儀同三司を加えられ、賞賜は甚だ厚かった。性質は剛直で、権勢と交わらなかった。斛律光が二人の婢を求めたが得られず、朝廷で彼を誹謗した。河清の末、召し出されて太僕卿となり、乞伏貴和が後任となった。そこで四方の国境は逼迫して弱体化し、河洛の人心は動揺した。

原文乾明初,出為河陽行臺右丞,遷洛州刺史,又轉左丞,刺史如故,加散騎常侍。宜陽深在敵境,周人於黑澗築城戍以斷糧道,永業亦築鎮以抗之。治邊甚有威信,遷行臺尚書。至河清三年,周人寇洛州,永業恐刺史段思文不能自固,馳入金墉助守。周人為土山地道,曉夕攻戰,經三旬,大軍至,寇乃退。永業久在河南,善於招撫,歸降者萬計。選其二百人為爪牙,每先鋒以寡敵衆,周人憚之。加儀同三司,賞賜甚厚。性鯁直,不交權勢。斛律光求二婢弗得,毀之於朝廷。河清末,徵為太仆卿,以乞伏貴和代之,於是四境蹙弱,河洛人情騷動。

武平三年、永業を遣わして斛律豊洛を取らせ、これにより北道行臺僕射・幽州刺史とした。まもなく召し出されて領軍将軍となった。河洛の民衆は、多く永業を慕い、朝廷もまた国境が不安であるため、永業を河陽道行臺僕射・洛州刺史に任じた。周の武帝が親征して金墉城を攻めると、永業は出兵してこれを防いだ。問うて言った。「これはどのような高官で、どのような行動をなさるのか」。周人は言った。「至尊(天子)が御自ら来られた。主人はなぜ出て客をご覧にならないのか」。永業は言った。「客の行動が突然で速いので、出ないのである」。そこで夜通しで馬槽二千を整えた。周人はこれを聞き、大軍が来ると考え、包囲を解いて去った。永業は開府に進み、臨川王に封ぜられた。甲士三万を有し、初め晉州の敗報を聞き、出兵して北討することを請うたが、上奏は握り潰され返答がなく、永業は慨嘆憤慨した。また幷州も陥落したと聞き、周将の常山公に逼迫されたので、その子の須達を遣わして周に降伏を告げさせた。周の武帝は永業に上柱国を授けた。宣政の末、出向して襄州総管となった。大象二年、行軍総管崔彥睦に殺害された。

原文武平三年,遣永業取斛律豐洛,因以為北道行臺僕射、幽州刺史。尋徵為領軍將軍。河洛民庶,多思永業,朝廷又以疆埸不安,除永業河陽道行臺僕射、洛州刺史。周武帝親攻金墉,永業出兵禦之。問曰:「是何達官,作何行動?」周人曰:「至尊自來,主人何不出看客。」永業曰:「客行忽速,是故不出。」乃通夜辦馬槽二千。周人聞之,以為大軍將至,乃解圍去。永業進位開府,封臨川王。有甲士三萬,初聞晉州敗,請出兵北討,奏寢不報,永業慨憤。又聞幷州亦陷,為周將常山公所逼,乃使其子須達告降於周。周武授永業上柱國。宣政末,出為襄州總管。大象二年,為行軍總管崔彥睦所殺。

傅伏

原文傅伏

傅伏は太安の人である。父の元興は儀同・北蔚州刺史であった。伏は若くして軍に従い、戦功によって次第に開府・永橋領民大都督に至った。周帝が先に河陰を攻めた時、伏は橋から夜に渡り、中潬城に入って守った。南城が陥落し、二十日間包囲されたが落ちなかった。救兵が到着し、周軍は退いた。伏は行臺の乞伏貴和に言った、「賊はすでに疲弊している。精騎二千を得てこれを追撃すれば、勝利を得ることができましょう」と。貴和は許さなかった。

原文傅伏,太安人也。父元興,儀同、北蔚州刺史。伏少從戎,以戰功稍至開府、永橋領民大都督。周帝前攻河陰,伏自橋夜渡,入守中潬城。南城陷,被圍二旬不下。救兵至,周師還,伏謂行臺乞伏貴和曰:「賊已疲弊,願得精騎二千追擊之,可捷也。」貴和弗許。

武平六年、東雍州刺史に任じられた。ちょうど周兵が迫ってきたので、伏は出戦してこれを退けた。周が晉州を陥落させ、行臺の尉相貴を捕らえ、彼を使って伏を招こうとしたが、伏は従わなかった。後主が親征して晉州を救おうとし、伏を行臺右僕射とした。周軍が略奪に来たので、伏はこれを撃退した。周が幷州を陥落させ、韋孝寬を伏の子の世寬と共に遣わして伏を招いた、「幷州はすでに平定された。故に公の息子をやって報告させる。時宜に従って急ぎ降るがよい」と。上大將軍・武郷郡開國公を授け、直ちに告身を与え、金瑪瑙の酒鐘二つを信とした。伏は受けず、孝寬に言った、「君に事えるには死すとも二心なく、この児は臣として忠を尽くさず、子として孝を尽くさない。人が憎悪する所である。願わくは直ちにこれを斬り、以て天下に号令せられよ」と。

原文武平六年,除東雍州刺史。會周兵來逼,伏出戰,卻之。周剋晉州,執獲行臺尉相貴,以之招伏,伏不從。後主親救晉州,以伏為行臺右僕射。周軍來掠,伏擊走之。周克幷州,遣韋孝寬與其子世寬來招伏曰:「幷州已平,故遣公兒來報,便宜急下。」授上大將軍、武鄉郡開國公,即給告身,以金馬瑙二酒鐘為信。伏不受,謂孝寬曰:「事君有死無貳,此兒為臣不能竭忠,為子不能盡孝,人所讐疾,願即斬之,以號令天下。」

周帝が鄴から晉州に還った時、高阿那肱ら百余人を遣わして汾水に臨んで伏を召した。伏は軍を出して水を隔てて相見え、至尊(天子)は今どこにおられるかと問うた。阿那肱は言った、「すでに捕らえられた。別の路から関に入られた」と。伏は天を仰いで大いに泣き、衆を率いて城に入り、聽事の前で北面して長く哀号し、その後降伏した。周帝がこれを見て言った、「どうして早く降らなかったのか」と。伏は涙を流して答えた、「臣は三代にわたり齊の家より衣食を蒙り、このように任用されました。革命の際に自ら死ぬことができず、天地を見るのが恥ずかしいのです」と。周帝は自らその手を執って言った、「臣たる者はこのようであるべきだ。朕が齊国を平定して、ただ公一人を見たのみである」と。そこで自ら羊の肋骨一つを食べ、その骨を伏に賜って言った、「骨は親しく肉は疎い。これをもって付託する所以である」と。そこで別に彼を引いて共に食わせ、侍伯邑に宿衛させ、上儀同を授け、勅して言った、「もし直ちに公に高官を与えれば、帰順する者の心が動揺する恐れがある。努力してよく行え。富貴にならぬ心配はない」と。また前に河陰を救った時、どの官職を得たかと問うた。伏は言った、「一転を蒙り、特進・永昌郡開國公を授かりました」と。周帝は後主に言った、「朕は三年前に兵馬を教習し、決意して河陰を取ろうとしたが、正に傅伏がよく守り、城を動かすことができなかったので、軍を収めて退いたのである。公の当時の賞授はなんと薄かったことか」と。伏に金の酒卮を賜った。後に岷州刺史としたが、まもなく卒した。

原文周帝自鄴還至晉州,遣高阿那肱等百餘人臨汾召伏。伏出軍隔水相見,問至尊今在何處。阿那肱曰:「已被捉獲,別路入關。」伏仰天大哭,率衆入城,於聽事前北面哀號良久,然後降。周帝見之曰:「何不早下?」伏流涕而對曰:「臣三世蒙齊家衣食,被任如此,革命不能自死,羞見天地。」周帝親執其手曰:「為臣當若此。朕平齊國,唯見公一人。」乃自食一羊肋,以骨賜伏,曰:「骨親肉疏,所以相付。」遂別引之與同食,令於侍伯邑宿衛,授上儀同,勑之曰:「若即與公高官,恐歸投者心動,努力好行,無慮不富貴。」又問前救河陰得何官職。伏曰:「蒙一轉,授特進,永昌郡開國公。」周帝謂後主曰:「朕前三年教習兵馬,決意往取河陰,正為傅伏能守,城不可動,是以收軍而退。公當時賞授何其薄也。」賜伏金酒卮。後以為岷州刺史,尋卒。

齊軍が晉州で敗れた後、兵将で節を全うした者は稀であった。その身を殺して仁を成した者に、儀同の叱干茍生がいる。鎮南兗州にあったが、周帝が鄴を破り、赦書が届くと、茍生は自縊して死んだ。

原文齊軍晉州敗後,兵將罕有全節者。其殺身成仁者,有儀同叱干茍生,鎮南兗州,周帝破鄴,赦書至,茍生自縊死。

また開府・中侍中の宦官である田敬宣がいた。本字は鵬、蠻人である。年十四、五の時からすでに書を読むことを好んだ。閽寺となってからは、隙を見てはあちこち奔走して尋ね請い、文林館に至るごとに、息切れして汗を流し、書を問う以外に他の言葉を述べる暇がなかった。古人の節義の事跡を見るに及んでは、感激して沈吟しないことはなかった。顏之推はその勤学を重んじ、大いに奨励した。後に遂に通顕した。後主が青州に奔った時、彼を西に出させ、動静を探らせたが、周軍に捕らえられた。齊主はどこにいるかと問われると、すでに去ったと偽って言った。殴打して服従させようとしたが、一肢を折るごとに、言葉と顔色はますます厳しく、ついに四肢を断たれて死んだ。

原文又有開府、中侍中宦者田敬宣,本字鵬,蠻人也。年十四五,便好讀書。既為閽寺,伺隙便周章詢請,每至文林館,氣喘汗流,問書之外,不暇他語。及視古人節義事,未嘗不感激沈吟。顏之推重其勤學,甚加開獎,後遂通顯。後主之奔青州,遣其西出,參伺動靜,為周軍所獲。問齊主何在,紿云已去。毆捶服之,每折一支,辭色愈厲,竟斷四體而卒。

また雷顯和がいた。晉州敗後、建州道行臺左僕射となった。周帝がその子を遣わして招いたが、顯和はその子を禁じて受け入れなかった。鄴城ぎょうじょうが敗れたと聞いて、ようやく降った。

原文又有雷顯和,晉州敗後,為建州道行臺左僕射。周帝使其子招焉,顯和禁其子而不受。聞鄴城敗,乃降。

後主が幷州を失い、開府の紇奚永安をして突厥の他缽略可汗に急を告げさせた。齊が滅んだと聞くと、他缽は永安を吐谷渾の使者の下に置いた。永安は声を張り上げて言った、「本国がすでに敗れた以上、永安がどうして賤命を惜しみましょうか!息を止めて自絶しようと思ったが、天下が大齊に死節の臣があることを知らない恐れがある。ただ一刀を乞い、以て遠近に示したい」と。他缽はその壮烈さを称え、馬七十匹を贈って帰した。

原文後主失幷州,使開府紇奚永安告急於突厥他缽略可汗。及聞齊滅,他缽處永安於吐谷渾使下。永安抗言曰:「本國既敗,永安豈惜賤命!欲閉氣自絕,恐天下不知大齊有死節臣,唯乞一刀,以顯示遠近。」他缽嘉其壯烈,贈馬七十匹而歸。

高保寧

原文高保寧

高保寧は代人である。その来歴は知られていない。武平の末、営州刺史となり、黄龍を鎮守し、夷夏ともにその威信を重んじた。周師が鄴に迫らんとした時、幽州行臺の潘子晃が黄龍の兵を動員した。保寧は驍鋭と契丹・靺羯の万余騎を率いて赴援しようとした。北平に至り、子晃がすでに薊を発ったことを知り、また鄴都が守られていないと聞くと、直ちに営州に帰った。周帝が使者を遣わして招き慰めたが、勅書を受けなかった。范陽王の紹義が突厥の中にいて、上表して帝位に就くよう勧めた。范陽(紹義)は保寧を丞相に任じた。盧昌期が范陽城を拠って兵を起こすと、保寧は紹義を引き連れ、夷夏の兵数万騎を集めてこれを救おうとした。潞河に至り、周の将軍宇文神挙がすでに范陽を屠ったことを知り、黄龍に戻って拠り、ついに周に臣従しなかった。

原文高保寧,代人也,不知其所從來。武平末,為營州刺史,鎮黃龍,夷夏重其威信。周師將至鄴,幽州行臺潘子晃下黃龍兵,保寧率驍銳並契丹、靺羯萬餘騎將赴救。至北平,知子晃已發薊,又聞鄴都不守,便歸營。周帝遣使招慰,不受勑書。范陽王紹義在突厥中,上表勸進,范陽署保寧為丞相。及盧昌期據范陽城起兵,保寧引紹義集夷夏兵數萬騎來救之。至潞河,知周將宇文神舉已屠范陽,還據黃龍,竟不臣周。

【贊】

原文【贊】

史臣が言う。皮景和らは覇業の基より、戎幕に名を策し、艱難辛苦を経て、末運に至るまで、位高く任重く、皆その本誠を遂げた。またそれぞれその時に遇ったのである。傅伏の徒は、ともに忠節を表した。そうでなければ、どうして丹青(絵画)や簡冊(史書)が貴ばれようか。

原文史臣曰:皮景和等爰自霸基,策名戎幕,間關夷險,迄於末運,位高任重,咸遂本誠,亦各遇其時也。傅伏之徒,俱表忠節,不然則丹青簡冊安可貴乎?