北齊書

卷四十一 列傳第三十三 暴顯 皮景和 鮮于世榮 綦連猛 元景安 獨孤永業 傅伏 高保寧

暴顯

暴顯は、字を思祖といい、魏郡斥邱の人である。祖父の喟は、 北魏 ほくぎ の瑯邪 太守 たいしゅ ・朔州刺史となり、辺境の朔州に住まいを定めた。父の誕は、北魏の恒州刺史・左衛将軍、楽安公となった。顯が幼い時、一人の沙門が彼を指して言うには、「この郎子は良い相貌を有し、成長すれば必ず良将となり、人臣として極めて貴くなるであろう」と。言葉を終えると僧は消え失せ、どこへ去ったか分からなかった。

顯は若い頃から軍旅を経て、騎射に長けていた。かつて北魏の孝荘帝に従って狩猟に出た際、一日のうちに、自ら禽獣七十三を獲た。孝昌二年 (526年) 羽林 うりん 監に任ぜられる。中興元年 (531年) 、襄威将軍・ しん 州車騎府長史に任ぜられる。後に高祖 (高歓) に従って 信都 しんと で義兵を挙げ、中堅将軍・散騎侍郎・帳内大 都督 ととく を授かり、安東将軍・銀青光禄大夫を加えられ、屯留県開国侯に封ぜられる。天平二年 (535年) 渤海 ぼっかい 郡守に任ぜられる。元象元年 (538年) 、雲州大中正に任ぜられ、武衛将軍を兼ね、鎮東将軍を加えられる。二年 (539年) 、北徐州刺史・当州大 都督 ととく に任ぜられる。高祖に従って西軍 西魏 せいぎ 軍) と邙山で戦い、高祖は顯に河橋鎮を守り、中潬城を拠るよう命じた。武定二年 (544年) 、征南将軍・広州刺史に任ぜられる。 侯景 こうけい が河南で反乱を起こし、景に攻撃されたが、顯は左右二十余騎を率いて賊の包囲を突破し、難を抜けて帰国した。時に高岳・ 慕容 ぼよう 紹宗 ぼようしょうしゅう らが侯景を討伐しており、直ちに顯に兵馬を配属し、高岳らに従って渦陽で侯景を破った。武定六年 (548年) 、太府卿に任ぜられる。世宗 高澄 こうちょう に従って潁川で 王思政 おうしせい を平定し、潁州刺史を授かる。七年 (549年) 、鄭州刺史に転ずる。八年 (550年) 、驃騎将軍を加えられ、侯から公に進爵し、前後の食邑は合わせて一千三百戸となる。天保元年 (550年) 、衛大将軍を加えられ、刺史は元の通り。三年 (552年) 、清河王高岳と共に歴陽を襲撃し、これを奪取する。贓物収受の罪により、鄭州の職を解かれ、大理寺に拘禁される。処断が未了のうちに、合肥が包囲されたため、歩汗薩・慕容儼らと共に梁の北徐州を攻撃するよう派遣される。刺史の王強を生け捕る。梁の秦州刺史厳超達と涇城で戦い、これを破る。五年 (554年) 、儀同三司を授かる。その年、また高岳と共に南進して漢水に臨み、梁の西楚州を攻め落とし、刺史の許法光を捕らえる。この時、梁の将軍蕭循と侯瑱らが慕容儼を郢州に包囲したため、再び顯を水軍大 都督 ととく とし、摂口から長江に入って救援に向かわせる。軍が帰還すると、開府儀同三司を加えられ、帛五百匹を賞賜される。十年 (559年) 、幽州范陽郡の幹禄を食む。乾明元年 (560年) 、車騎大将軍に任ぜられる。皇建元年 (560年) 、楽安郡開国公に転封される。二年 (561年) 、趙州刺史に任ぜられる。河清元年 (562年) 、洛州刺史に遷る。二年 (563年) 、再び朔州刺史に任ぜられ、任期満了で帰還する。天統元年 (565年) 、特進・驃騎大将軍を加えられ、定陽王に封ぜられる。四年 (568年) に卒去。享年六十六。

皮景和

皮景和は、瑯邪下邳の人である。父の慶賓は、北魏の淮南王開府中兵参軍事であった。正光年間 (520-525年) 中、使いとして懐朔に行き、世の乱れに遭い、広寧の石門県に住まいを定めた。

景和は若くして聡明で機敏、騎射に長けていた。初め親信として高祖 (高歓) に仕え、後に親信副 都督 ととく に補任される。武定二年 (544年) 、歩落稽を征討した。世宗 (高澄) は賊に伏兵があるのを疑い、景和に五六騎を率いて一つの谷深く入るよう命じた。賊百余りに出会うと、共に格闘戦を交え、景和は数十人を射て、弦に応じて倒れぬ者はなかった。高祖はかつて景和に一頭の猪を射るよう命じ、一箭でこれを獲たため、深く賞賛され、庫直正 都督 ととく に任ぜられる。天保初年 (550年) 、仮節・通州刺史を授かり、永寧県開国子に封ぜられる。後に庫莫奚を襲撃することに従軍し、左右大 都督 ととく を加えられる。また黄龍を渡り、契丹を征討し、稽胡を平定することに従う。まもなく陘北で茹茹の主菴羅辰を討伐することに従い、また茹茹の残党を平定することに従う。景和は敏捷で、武勇の才があり、常に戦功を立てた。十年 (559年) 、安楽郡の幹禄を食む。乾明元年 (560年) 、武衛将軍に任ぜられ、給事黄門侍郎を兼ねる。粛宗 高演 こうえん が宰相となると、本官のまま大丞相府從事中郎を摂行する。大寧元年 (561年) 、儀同三司・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・武衛大将軍に任ぜられ、まもなく開府を加えられる。二年 (562年) 、梁州刺史として出向する。三年 (563年) 、突厥が しん 陽を包囲攻撃したため、景和に駅伝を馳せて京に赴き、後軍を督率して 幷州 へいしゅう に向かうよう命じた。到着する前に、賊は既に退却していた。そのまま領左右大将軍に任ぜられ、斉郡の幹禄を食み、また幷省五兵尚書に任ぜられる。天統元年 (565年) 、殿中尚書に遷る。二年 (566年) 、侍中に任ぜられる。

景和は武職の中にあって、吏事にも長け、また性質識見が公平であったため、頻繁に良い官職を授かった。北周と通好した後、使者が往来する際、常に景和に対応させ、しばしば使者と共に射を行い、百発百中であったため、非常に推重された。武平年間 (570-576年) 中、詔獄は多く中黄門らに監治させたが、常に景和に審査覆奏させ、理に拠って正しく執り行ったため、過誤による冤罪や濫刑はなかった。

後に特進・中領軍に任ぜられ、広漢郡開国公に封ぜられる。また斛律光に従って衆を率いて西討し、姚襄・白亭の二城を陥落させ、別に永寧郡開国公に封ぜられる。また領軍将軍に任ぜられる。また軍に従って宜陽城を陥落させ、開封郡開国公に封ぜられる。瑯邪王 (高儼) が和士開を殺害した時、兵が西闕を指し、内外惶惑し、どうすべきか分からなかった。景和は後主 高緯 こうい に千秋門から出て自ら号令するよう請うた。事態が平定されると、尚書右僕射・趙州刺史に任ぜられる。まもなく河南行臺尚書右僕射・洛州刺史に遷る。

陳の将軍呉明徹が淮南に侵寇したため、景和に衆を率いてこれを防ぐよう命じ、領軍大将軍に任ぜられ、文城郡王に封ぜられ、高陽郡の幹禄に転ずる。軍が柤口に至ると、土着の民の陳喧らが乱を起こしたが、景和がこれを平定した。また陽平人の鄭子饒という者がおり、仏道に依ると詐り、斎会を設け、用いる米麺は多くないのに、供養する範囲は甚だ広く、密かに地蔵から次第に餅飯を出したため、愚かな者は神力と思い、魏・衛の間で信じられた。逆乱を起こそうとしたが、謀が漏れ、討伐したが漏れて逃亡した。そこで密かに黄河を渡り、数千の衆を集め、自ら長楽王と号し、既に乗氏県を破り、また西兗州城を襲撃しようとした。景和が南兗州から騎兵数百を派遣してこれを撃破し、二千余級を斬首し、子饒を生け捕り、京師に送って烹殺した。呉明徹が寿陽を包囲した時、勅命により景和は賀拔伏恩らと共に救援に向かう。景和は尉破胡の軍が敗北したばかりであるため、怯懦して進もうとせず、淮口に軍を駐屯させた。頻繁に勅使が催促したが、ようやく淮水を渡った。寿陽が既に陥落した時節に属し、狼狽して北へ帰還し、器械や軍資は、大いに遺失した。陳の将軍蕭摩訶が歩騎を率いて淮北の倉陵城でこれを遮断したが、景和は軍旅を整えて逆襲し、摩訶は退き帰った。この時、呉明徹を防いだ者は多くが敗北したが、ただ景和だけが全軍を以て帰還したため、これにより賞を受け、 尚書令 しょうしょれい に任ぜられ、別に西河郡開国公に封ぜられ、銭二十万、酒米十車を賜った。時に陳軍が声をあげて淮水を渡ろうとしたため、景和に軍を西兗州に留め、防衛の節度をとらせた。武平六年 (575年) に病没。享年五十五。侍中・使持節・ 都督 ととく 定恒朔幽定平六州諸軍事・太尉公・録尚書事・定州刺史を追贈された。

長子の信は、機知に悟りがあり風采があり、少し書伝に通じていた。武平末年 (576年) 、開府儀同三司・武衛将軍となり、勲貴の子弟の中にあって、その識見眼力を称えられた。幷州で北周軍に降伏し、上開府・軍正大夫を授かる。隋の開皇年間 (581-600年) 中、洮州刺史の任上で卒去した。

末子の宿達は、武平末年に太子齋帥となり、才藻と品行を備えていた。開皇年間、通事舍人となる。母の喪に服し、喪中に復職し、京に赴かんとして、霊前に別れを告げ慟哭して気絶し、久しくして蘇生したが、食を下すことができず、三日にして死す。

鮮于世榮

鮮于世榮は漁陽の人である。父の寶業は 懷朔 かいさく 鎮將であり、武平初年に儀同三司・祠部尚書・朔州刺史を追贈された。世榮は若くして沈着聡明で、器量と才幹があった。興和二年、高祖の親信副 都督 ととく となり、やがて平西將軍に遷り、石門縣子の爵位を賜う。後にしばしば顯祖に従って茹茹を討ち、稽胡を破る。また高岳に従って郢州を平定し、持節・河州刺史に除され、朝歌縣の幹を食む。まもなく肅宗の丞相府諮議參軍となる。皇建年間、儀同三司・武衛將軍に除される。天統二年、開府を加えられ、また鄭州刺史に除される。武平年間、信州の賊を平定した功により、領軍將軍に除され、 上黨 じょうとう 郡の幹を食むことに転ずる。高思好平定に従い、義陽王に封ぜられる。七年、後主が しん 陽に行幸し、世榮に本官のまま尚書右僕射の事を判らしめ、北平王の北宮留後を輔けしむ。まもなく勅令があり、吏部尚書袁聿修とともに尚書省において挙人を検試せしむ。乗馬して雲龍門外より省の北門に入ったことを、憲司に挙奏されて免官となる。後主が平陽を包囲したとき、世榮を領軍將軍に除す。周の軍が ぎょう に入らんとするとき、領軍大將軍・太子太傅に除され、城西にて防戦するも敗れて捕らえられ、周の武帝に殺される。世榮は武人で文芸はなかったが、朝廷の危うきと政の乱れを以て、しばしひそかに嘆いた。徴税の飽くことなきを見、賜与の過度なるを発言して嘆惜す。子の子貞は、武平末年に仮の儀同三司となる。

綦連猛

綦連猛は字を武兒といい、代の人である。その先祖は姬姓、六国の末、乱を避けて塞外に出で、祁連山に保ち、山を以て姓とす。北人の言葉訛りて、故に綦連氏と曰う。父の元成は燕郡太守なり。

猛は若くして志気あり、弓馬を習熟す。永安三年、 尒朱榮 じしゅえい に征されて親信となる。洛陽に至り、榮が害せられると、即ち 尒朱世隆 じしゅせいりゅう に従って建州に奔り、なお 尒朱兆 じしゅちょう に従って洛に入る。その年、また兆に従って紇豆陵步藩を討ち、 都督 ととく を補す。普泰元年、征虜將軍・中散大夫を加えらる。猛の父母兄弟は皆山東に在り、尒朱京纏は高祖に投ぜんと欲し、猛に謂いて曰く、「王は爾が父兄皆山東に在るを以て、毎に信ぜざるを懐く。爾もし走らざれば、今夜必ず爾を殺すべし。走り去るべし」と。猛は平素兆の恩を受けたるを以て、拒みて従わず。京纏曰く、「我今また去らんと欲す。爾我に従わんか」と。猛また従わず。京纏乃ち矟を挙げて曰く、「爾従わざれば、我必ず爾を刺さん」と。猛乃ちこれに従う。城を去ること五十余里にして、即ち京纏に背き復た尒朱に帰る。兆の敗るるに及び、乃ち高祖に帰す。高祖問いて曰く、「尒朱京纏爾を将て我に投ぜんとし、爾中途に背き去りしは何ぞや」と。猛乃ち服事の理を具に陳べ、二心あるべからざるを述ぶ。高祖曰く、「爾懼るる莫れ。人に服事する法は須らく此の如くあるべし」と。遂に 都督 ととく を補す。

步落稽等逆を起こし、覆釜山に在り。猛を使わしてこれを討たしむ。大いに捷ち、特しく賞賫せらる。元象元年、高祖に従って河陽に向かい、周の文帝と邙山に戦う。二年、平東將軍・中散大夫に除される。その年、また中外府帳内 都督 ととく に転じ、邙山の功を賞され、廣興縣開國君に封ぜらる。

五年、梁の使い来聘し、武藝有りと云い、北人を訪い求めて相角せんと欲す。世宗、猛を遣わして館に就きてこれに接せしむ。雙びて兩鞬を帯び、左右に馳射す。兼ねて力を試むるを共にし、強きを挽く。梁人弓兩張を引き、力皆三石なり。猛遂に並びて四張を取り、疊みてこれを挽き、度を過ぐ。梁人嗟服す。

その年、撫軍將軍に除され、別に石城縣開國子に封ぜられ、肆州平寇縣の幹を食む。天保元年、 都督 ととく ・東秦州刺史に除され、別に雍州京兆郡覆城縣開國男に封ぜらる。顯祖に従って契丹を討ち、大いに戶口を獲る。また斛律敦に随い北征して茹茹を討つ。敦、猛に令して軽く百騎を将いて深く入り覘候せしむ。還りて白道に至り、軍と相会す。此れに因りて追躡し、遂に大いにこれを破る。帛三百段を賚う。七年、武衛將軍・儀同三司に除される。九年、武衛大將軍に転ず。乾明初め、車騎大將軍を加えらる。皇建元年、石城郡開國伯に封ぜられ、尋いで爵を進めて君とす。二年、領左右大將軍に除され、肅宗に従って奚賊を討ち、大いに捷ち、馬二千匹、牛羊三萬頭を獲る。河清二年、開府を加えらる。突厥 しん 陽に侵逼す。勅して猛に三百騎を将いて賊の遠近を覘わしむ。行きて城北十五里に至り、賊の前鋒に遇う。敵衆多きを以て、遂に漸く退避す。賊中に一 ぎょう 将有り、超え出で来たりて鬥わんとす。猛遥かにこれを見、即ちまた身を挺して独り出で、其れと相対す。俯仰の間に、賊を刺して馬を落とし、因りて即ちこれを斬る。三年、別に武安縣開國君に封ぜられ、驃騎大將軍を加えらる。天統元年、右衛大將軍に遷る。乃ち世祖の勅を奉じ、恒に嗣主の左右に在らしめ、兼ねて内外の機要の事を知らしむ。三年、中領軍に除される。四年、領軍將軍に転じ、別に義寧縣開國君に封ぜらる。五年、幷省尚書左僕射に除され、余は故の如し。幷省 尚書令 しょうしょれい ・領軍大將軍に除され、山陽王に封ぜらる。

猛は和士開の死後より、漸く朝政に預かり、疑議と与奪と、咸くまた諮稟す。趙彥深は猛が武將の中にて頗る姦佞を疾み、言議時に采るべき有るを以て、故に機事を知らしむるを引く。祖珽既に彥深を出だし、猛を以て趙の黨與と為し、乃ち 光州 こうしゅう 刺史に除す。已に発ちて牛蘭に至る。忽ち人有りて告ぐ、和士開の害せられし日、猛もまた知情せりと。遂に追止せらる。還り、内禁に留め入り、家口を簿録す。尋いで釈放を見、王爵を削り、開府を以てのみ州に赴かしむ。任に在りて寬惠清慎、吏民これ称す。淮陰王阿那肱は猛と旧有り、毎に携え引きんと欲す。曾て勅有りて闕に徴詣せしめ、委寄せんと欲するに似たり。韓長鸞等沮難し、復た膠州刺史に除す。尋いで徴還し、南兗に在りて防捍せしむ。後主平陽に敗れて還り、また鄴に徴赴せしめ、大將軍に除す。齊亡びて周に入り、尋いで卒す。

元景安

元景安は、魏の昭成帝の五世孫なり。高祖の虔は、魏の陳留王。父の永は、少くして奉朝請と為る。積射將軍より元天穆に薦められて尒朱榮に之き、孝莊帝を立てし謀に参じ、代郡公の爵を賜う。將軍・太中大夫・二夏・幽三州行臺左丞を加えられ、持節して降戶四千餘家を招納す。榮また啓して永を朝那縣子に封じ、邑三百戶、持節南幽州刺史、仮の撫軍將軍とす。天平初め、高祖以て行臺左丞と為し、尋いで潁州刺史に除し、また北揚州刺史と為る。天保年中、征拜して大司農卿と為り、銀青光祿大夫に遷り、例に依り爵を降して幹鄉男とす。大寧二年、金紫光祿大夫に遷る。

景安は沈着聡明にして才幹と器量を備え、若くして騎射に巧みで、人に仕えることに長けていた。初めて官に就いて爾朱栄の大将軍府長流参軍となり、寧遠将軍を加えられ、さらに爾朱栄の大丞相府長流参軍に転じた。高祖が洛陽を平定すると、領軍婁昭が推薦して京畿 都督 ととく に補任され、父の永が代郡公の爵位を返上してこれを授けるよう請うたので、前将軍・太中大夫を加えられた。武帝に従って西に入った。天平の末、大軍が西征した際、景安は戦場で自ら帰順し、高祖はこれを賞賛して、直ちに 都督 ととく に補任した。興和年間、 親信都督 しんしんととく に転じた。邙山の戦いでは、奮戦して功績があり、西華県都郷男の爵位を賜り、代郡公はもとのままとした。世宗が朝廷に入ると、景安は従って鄴に在った。当時、江南は帰順し、朝貢が相次いだ。景安は騎乗に極めて巧みで、容儀作法に優れていたため、梁の使者が来るたびに、常に斛律光・皮景和らとともに客に対して騎射を行わせ、見る者は称賛した。世宗が後を継ぐと、国封を減らして将士に分け与えるよう請い、石保県開国子に封ぜられ、邑三百戸を賜り、安西将軍を加えられた。また通州刺史に任ぜられ、鎮西将軍を加えられ、子爵から伯爵に転じ、邑を増やして前の分と合わせて六百戸とし、その他の官はもとのままとした。天保初め、征西将軍を加えられ、別に興勢県開国伯に封ぜられ、定襄県令を兼ね、高氏の姓を賜った。三年、代川において庫莫奚を撃破することに従い、左右大 都督 ととく を領するよう転じ、その他の官はすべてもとのままとした。四年、黄龍において契丹を討つことに従い、北平太守を領した。その後しばしば従駕して茹茹を再び撃破し、武衛大将軍に昇進し、さらに左右大将軍を領するよう転じ、七兵尚書を兼ねた。

当時、長城を築き始めたばかりで、鎮戍がまだ整っておらず、突厥が強盛であったため、あるいは辺境を侵すことを憂慮し、詔を下して景安に諸軍とともに辺塞に沿って守備に当たらせた。督領する軍が多く、かつ配下の軍人が財物に富んでいたため、賄賂が公然と行われるようになった。顕祖はこれを聞き、使者を遣わして調査させた。同行した諸人の贓物は散乱していたが、ただ景安だけは微塵も犯していなかった。帝は深く賞賛し、詔を下して有司に集められた贓物の絹五百匹を景安に賜り、清廉な節操を顕彰させた。

また都官尚書に転じ、儀同三司を加えられ、高平郡の幹禄を食み、さらに儀同三司に任ぜられた。乾明元年、七兵尚書に転じ、車騎大将軍を加えられた。皇建元年、さらに侍中を兼ね、駅馬を飛ばして鄴に至り、百官を慰労し、風俗を巡視した。

粛宗がかつて群臣と西園で宴会し射を催したことがあり、文武の官で参加した者は二百余人であった。的を堂から百四十歩余り離れた所に設け、的に当てた者には良馬や金玉錦彩などを賜った。一人が獣の頭に射当てたが、鼻から一寸余り離れていた。ただ景安だけが最後に一矢を発していなかった。帝が景安にこれを解かせると、景安はゆったりと容儀を整え、弓を引き絞って満月とし、見事に獣の鼻を射貫いた。帝は感嘆して称賛し、特に馬二匹を賜い、玉帛雑物もさらに常例より多く加えた。

大寧元年、開府を加えられた。二年、右衛将軍に転じ、まもなく右衛大将軍に転じた。天統初め、幷省尚書右僕射を判じ、まもなく出向して徐州刺史となった。四年、 州道行臺僕射・ 州刺史に任ぜられ、開府儀同三司を加えられた。武平三年、行臺 尚書令 しょうしょれい に進んで授けられ、刺史はもとのまま、歴陽郡王に封ぜられた。景安が辺境の州に在った時、隣接する他国と境を接し、辺境を安んじて和ませ、互いに侵掠することなく、人々は安堵していた。また管内は蛮族が多く華人が少なかったが、景安は威と恩をもって臨み、皆が安寧を得た。武平の末に至るまで、招き慰めて租賦を納めるようになった生蛮は数万戸に及んだ。六年、召し出されて領軍大将軍に任ぜられた。北周に入り、大将軍・大義郡開国公として衆を率いて稽胡を討ち、戦死した。子の仁は、武平末に儀同三司・武衛となり、隋の驃騎将軍となった。丹陽太守の任で卒した。

初め、永の兄の祚が陳留王の爵位を襲い、祚が卒すると、子の景皓が嗣いだ。天保の時、諸元の帝室に近い者は多く誅戮された。疎遠な宗族である景安の徒は高氏の姓を請おうと議したが、景皓は言った。「どうして本宗を棄てて他姓に従えようか。大丈夫たるもの、寧ろ玉砕すべし、瓦全すべからず」。景安はこの言葉を顕祖に告げたので、景皓を捕らえて誅し、家属を彭城に移した。これにより景安のみが高氏の姓を賜り、その他の者は本姓のままに任せられた。

永の弟の種の子、 は、字を景 といい、姿容が美しく、器量と才幹があった。永安年間、羽林監となった。元顥が洛陽に入った時、河内を守った功績により、永安君の爵位を賜った。後に濮陽郡守となった。魏の 彭城王 ほうじょうおう 韶が引いて開府諮議参軍とし、韶が定州に出鎮すると、定州司馬に任じるよう請うた。景安が景皓の不遜な言葉を告げた時、 の言葉を引き合いに出して呼応した。 は供述して言った。「あの時、袖で景皓の口を覆い、『兄上、妄言なさるな』と言いました」。景皓に問いただすと、 が列挙したことと符合したので、罪を免れた。他に同じ言葉を聞いた数人は、皆遠方に流刑・配流された。 は徐州刺史の任で卒した。

獨孤永業

獨孤永業は、字を世基といい、本来は劉姓、中山の人である。母が獨孤氏に再嫁し、永業は幼くして孤児となり、母に従って獨孤家に養育されたので、その姓に従った。兵士の中に身を置き、才幹があり、弓馬に巧みであった。選抜されて定州六州 都督 ととく に補任され、 しん 陽で宿衛した。ある者がその識見と有用さを称えると、世宗は語り合って喜び、格抜擢して中外府外兵参軍に任じた。天保初め、中書舎人、 州司馬に任ぜられた。永業は文書計算に通じ、歌舞に巧みで、顕祖に大いに知られた。

乾明初め、出向して河陽行臺右丞となり、洛州刺史に転じ、さらに左丞に転じ、刺史はもとのまま、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。宜陽は深く敵境に在り、周人が黒澗に城戍を築いて糧道を断とうとしたので、永業もまた鎮を築いてこれに対抗した。辺境統治に威信を大いに有し、行臺尚書に転じた。河清三年に至り、周人が洛州を侵犯した。永業は刺史段思文が自ら守りきれないことを恐れ、馳せて金墉城に入り守備を助けた。周人は土山と地道を作り、昼夜を分かたず攻撃し、三十日を経て、大軍が到着したので、敵は退いた。永業は長く河南に在って、招撫に長け、帰降する者は万単位に及んだ。そのうち二百人を選んで爪牙とし、常に先鋒として寡をもって衆に敵し、周人はこれを畏れた。儀同三司を加えられ、賞賜は甚だ厚かった。性質は剛直で、権勢と交わらなかった。斛律光が二人の婢を求めたが得られず、朝廷で彼を誹謗した。河清の末、召し出されて太僕卿となり、乞伏貴和が後任となった。そこで四方の国境は逼迫して弱体化し、河洛の人心は動揺した。

武平三年、永業を遣わして斛律豊洛を取らせ、これにより北道行臺僕射・幽州刺史とした。まもなく召し出されて領軍将軍となった。河洛の民衆は、多く永業を慕い、朝廷もまた国境が不安であるため、永業を河陽道行臺僕射・洛州刺史に任じた。周の武帝が親征して金墉城を攻めると、永業は出兵してこれを防いだ。問うて言った。「これはどのような高官で、どのような行動をなさるのか」。周人は言った。「至尊 (天子) が御自ら来られた。主人はなぜ出て客をご覧にならないのか」。永業は言った。「客の行動が突然で速いので、出ないのである」。そこで夜通しで馬槽二千を整えた。周人はこれを聞き、大軍が来ると考え、包囲を解いて去った。永業は開府に進み、臨川王に封ぜられた。甲士三万を有し、初め しん 州の敗報を聞き、出兵して北討することを請うたが、上奏は握り潰され返答がなく、永業は慨嘆憤慨した。また幷州も陥落したと聞き、周将の常山公に逼迫されたので、その子の須達を遣わして周に降伏を告げさせた。周の武帝は永業に上柱国を授けた。宣政の末、出向して襄州総管となった。大象二年、行軍総管崔彥睦に殺害された。

傅伏

傅伏は太安の人である。父の元興は儀同・北蔚州刺史であった。伏は若くして軍に従い、戦功によって次第に開府・永橋領民大 都督 ととく に至った。周帝が先に河陰を攻めた時、伏は橋から夜に渡り、中潬城に入って守った。南城が陥落し、二十日間包囲されたが落ちなかった。救兵が到着し、周軍は退いた。伏は行臺の乞伏貴和に言った、「賊はすでに疲弊している。精騎二千を得てこれを追撃すれば、勝利を得ることができましょう」と。貴和は許さなかった。

武平六年、東雍州刺史に任じられた。ちょうど周兵が迫ってきたので、伏は出戦してこれを退けた。周が しん 州を陥落させ、行臺の尉相貴を捕らえ、彼を使って伏を招こうとしたが、伏は従わなかった。後主が親征して しん 州を救おうとし、伏を行臺右僕射とした。周軍が略奪に来たので、伏はこれを撃退した。周が幷州を陥落させ、韋孝寬を伏の子の世寬と共に遣わして伏を招いた、「幷州はすでに平定された。故に公の息子をやって報告させる。時宜に従って急ぎ降るがよい」と。上大將軍・武郷郡開國公を授け、直ちに告身を与え、金瑪瑙の酒鐘二つを信とした。伏は受けず、孝寬に言った、「君に事えるには死すとも二心なく、この児は臣として忠を尽くさず、子として孝を尽くさない。人が憎悪する所である。願わくは直ちにこれを斬り、以て天下に号令せられよ」と。

周帝が鄴から しん 州に還った時、高阿那肱ら百余人を遣わして汾水に臨んで伏を召した。伏は軍を出して水を隔てて相見え、至尊 (天子) は今どこにおられるかと問うた。阿那肱は言った、「すでに捕らえられた。別の路から関に入られた」と。伏は天を仰いで大いに泣き、衆を率いて城に入り、聽事の前で北面して長く哀号し、その後降伏した。周帝がこれを見て言った、「どうして早く降らなかったのか」と。伏は涙を流して答えた、「臣は三代にわたり齊の家より衣食を蒙り、このように任用されました。革命の際に自ら死ぬことができず、天地を見るのが恥ずかしいのです」と。周帝は自らその手を執って言った、「臣たる者はこのようであるべきだ。朕が齊国を平定して、ただ公一人を見たのみである」と。そこで自ら羊の肋骨一つを食べ、その骨を伏に賜って言った、「骨は親しく肉は疎い。これをもって付託する所以である」と。そこで別に彼を引いて共に食わせ、侍伯邑に宿衛させ、上儀同を授け、勅して言った、「もし直ちに公に高官を与えれば、帰順する者の心が動揺する恐れがある。努力してよく行え。富貴にならぬ心配はない」と。また前に河陰を救った時、どの官職を得たかと問うた。伏は言った、「一転を蒙り、特進・永昌郡開國公を授かりました」と。周帝は後主に言った、「朕は三年前に兵馬を教習し、決意して河陰を取ろうとしたが、正に傅伏がよく守り、城を動かすことができなかったので、軍を収めて退いたのである。公の当時の賞授はなんと薄かったことか」と。伏に金の酒卮を賜った。後に岷州刺史としたが、まもなく卒した。

齊軍が しん 州で敗れた後、兵将で節を全うした者は稀であった。その身を殺して仁を成した者に、儀同の叱干茍生がいる。鎮南兗州にあったが、周帝が鄴を破り、赦書が届くと、茍生は自縊して死んだ。

また開府・中侍中の宦官である田敬宣がいた。本字は鵬、蠻人である。年十四、五の時からすでに書を読むことを好んだ。閽寺となってからは、隙を見てはあちこち奔走して尋ね請い、文林館に至るごとに、息切れして汗を流し、書を問う以外に他の言葉を述べる暇がなかった。古人の節義の事跡を見るに及んでは、感激して沈吟しないことはなかった。顏之推はその勤学を重んじ、大いに奨励した。後に遂に通顕した。後主が青州に奔った時、彼を西に出させ、動静を探らせたが、周軍に捕らえられた。齊主はどこにいるかと問われると、すでに去ったと偽って言った。殴打して服従させようとしたが、一肢を折るごとに、言葉と顔色はますます厳しく、ついに四肢を断たれて死んだ。

また雷顯和がいた。 しん 州敗後、建州道行臺左僕射となった。周帝がその子を遣わして招いたが、顯和はその子を禁じて受け入れなかった。 鄴城 ぎょうじょう が敗れたと聞いて、ようやく降った。

後主が幷州を失い、開府の紇奚永安をして突厥の他缽略可汗に急を告げさせた。齊が滅んだと聞くと、他缽は永安を吐谷渾の使者の下に置いた。永安は声を張り上げて言った、「本国がすでに敗れた以上、永安がどうして賤命を惜しみましょうか!息を止めて自絶しようと思ったが、天下が大齊に死節の臣があることを知らない恐れがある。ただ一刀を乞い、以て遠近に示したい」と。他缽はその壮烈さを称え、馬七十匹を贈って帰した。

高保寧

高保寧は代人である。その来歴は知られていない。武平の末、営州刺史となり、黄龍を鎮守し、夷夏ともにその威信を重んじた。周師が鄴に迫らんとした時、幽州行臺の潘子晃が黄龍の兵を動員した。保寧は ぎょう 鋭と契丹・靺羯の万余騎を率いて赴援しようとした。北平に至り、子晃がすでに薊を発ったことを知り、また鄴都が守られていないと聞くと、直ちに営州に帰った。周帝が使者を遣わして招き慰めたが、勅書を受けなかった。范陽王の紹義が突厥の中にいて、上表して帝位に就くよう勧めた。范陽 (紹義) は保寧を丞相に任じた。盧昌期が范陽城を拠って兵を起こすと、保寧は紹義を引き連れ、夷夏の兵数万騎を集めてこれを救おうとした。潞河に至り、周の将軍宇文神挙がすでに范陽を屠ったことを知り、黄龍に戻って拠り、ついに周に臣従しなかった。

【贊】

史臣が言う。皮景和らは覇業の基より、戎幕に名を策し、艱難辛苦を経て、末運に至るまで、位高く任重く、皆その本誠を遂げた。またそれぞれその時に遇ったのである。傅伏の徒は、ともに忠節を表した。そうでなければ、どうして丹青 (絵画) や簡冊 (史書) が貴ばれようか。

原本を確認する(ウィキソース):北齊書 巻041