元坦
孝武帝の初め、その兄の樹が捕らえられた。坦は樹が年長でかつ賢才であるのを見て、彼が己に代わることを慮り、密かに朝廷に勧めて法によりこれを除かせようとした。樹はこれを知り、泣いて坦に言うには、「私はかつて家難により、死ぬこともできず、江湖に寄食し、その爵命を受けた。今ここに来たのは、義によって至ったのではなく、生き長らえんがためである。栄華を望むであろうか。汝はどうしてその猜忌をほしいままにし、在原(兄弟)の義を忘れるのか。腰背は雄偉であれど、善く称すべきところはない。」坦は色をなして去った。樹が死ぬと、ついに臨哭しなかった。
坦は司徒・太尉・太傅を歴任し、侍中・太師・録尚書事・宗正・司州牧を加えられた。禄厚く位尊いながら、貪求はますます甚だしく、獄を売り官を鬻ぎ、極まりを知らなかった。御史の劾奏により免官され、王として邸に帰った。まもなく起用されて特進となり、出向して冀州刺史となったが、専らまた聚斂を繰り返した。毎に百姓が賦を納める際、正税のほかに、別に先ず絹五匹を責め立て、その後で受け取った。性、畋漁を好み、出でざる日なく、秋冬は雉兔を狩り、春夏は魚蟹を捕え、鷹犬は常に数百頭であった。自ら「三日食わずとも、一日狩りせずにはいられぬ」と言った。入朝して太傅となった。齊の天保の初め、例に準じて爵を降格され、新豊県公に封ぜられ、特進・開府儀同三司を除かれた。子の世宝が通直散騎侍郎彭貴平と酒酔いの上で誹謗し、妄りに図讖を説いた罪に連座し、有司が死に当たると奏上したが、詔してともにこれを宥した。坦は北営州に配流され、配所で死んだ。
元斌
元孝友
元孝友は、祖父は魏の太武皇帝である。兄の臨淮王元彧に子がなかったため、孝友に爵を襲封させた。累遷して滄州刺史となり、政は温和で、小恵を行うことを好んだが、清白ではなかった。しかし侵犯するところはなく、百姓もまたこれによって便利とした。魏の靜帝が文襄帝を華林で宴したとき、孝友は酔いに乗じて自らを誉め、また言うには、「陛下は臣に能を賜うとお許しになりました。」帝は笑って言うには、「朕は常に王が自ら清いと道うのを聞いている。」文襄帝は言うには、「臨淮王は旨を奉じて罪を赦す。」ここにおいて君臣ともに笑って罪としなかった。
孝友は政理に明るく、かつて表を奏上して言うには、
詔して有司に付し、議奏は同じからなかった。
孝友はまた言うには、「今、人は生きては皂隸(下僕)でありながら、葬りは王侯に擬え、存と没と道を異にし、もはや節制がない。丘隴を崇壮にし、祭儀を盛飾し、鄰里は互いに栄しめ、至孝と称する。また夫婦の始めは、王化の先んずるところ、食を共にし瓢を合わすをもって、礼を成すに足る。しかるに今の富者はますます奢侈で、同牢(婚礼の共食)の設けは、祭盤よりも甚だしく、魚を累ねて山と成し、山には林木あり、林木の上に、鸞鳳これ存す。煩労あるのみで、ついには委棄される。天意を仰ぎ惟うに、あるいはそうではないであろう。請う、これより以後、もし婚葬が礼を過ぐる者は、旨に違うをもって論ぜられたい。官司が糾劾を加えざれば、すなわち同罪とせられたい。」
元暉業
元暉業、字は紹遠、魏の景穆皇帝の玄孫である。若い頃は険薄で、多く寇盗と交際した。成長してからは節を改め、子史に渉猟し、また頗る文を属することを好み、慷慨として志節があった。司空・太尉を歴任し、特進を加えられ、中書監を領し、尚書事を録した。文襄が嘗て彼に問うて曰く、「此れは何を披覧する所ぞ」と。対えて曰く、「数え伊・霍の伝を尋ね、曹・馬の書を読まず」と。
元弼
元韶
韶は性行温裕にして、高氏の婿を以て、頗る時寵に膺る。能く自ら謙退し、人に臨むに恵政有り。儒学を好み、才彦を礼致す。林泉を愛し、第宅を修め、華にして侈らず。文宣帝は韶の鬚髯を剃り、粉黛を加え、婦人の服を衣て以て自ら随えり曰く、「我は彭城を以て嬪御と為す」と。元氏の微弱を譏り、之を婦女に比す。
十年、太史奏して云う、「今年は当に旧を除き新を布くべし」と。文宣韶に謂いて曰く、「漢の光武は何故に中興せしや」と。韶曰く、「諸劉を誅すること尽きざるが為なり」と。是に於いて乃ち諸元を誅して以て之を厭わしむ。遂に五月を以て元世哲・景武等二十五家を誅し、余り十九家並びに禁止す。韶は京畿の地牢に幽閉され、食を絶ち、衣袖を啖いて死す。七月に及び、大いに元氏を誅し、昭成より已下並びに遺る所無し。或いは父祖王たり、或いは身常に貴顕たり、或いは兄弟強壮なり、皆東市に斬らる。其の嬰児は空中に投げ、之を矟を以て承く。前後死者凡そ七百二十一人、悉く屍を漳水に投じ、魚を剖くに多く爪甲を得、都下久しく魚を食わず。
【贊】