万俟普
万俟普、字は普撥、太平の人、その先祖は匈奴の別種である。雄大果敢にして武勇あり。正光年中、破六韓拔陵が叛逆を構えるや、普を太尉に任ず。部衆を率いて魏に降り、後將軍、第二領民酋長を授かる。高祖 (高歓) が義兵を起こすと、普は遠くより誠意を通じ、高祖は大いにこれを嘉した。 斛斯椿 が帝 (孝武帝) を逼って西出せしめ、普は 司空 ・秦州刺史に任ぜられ、覆靺城を拠る。高祖が夏州を平定すると、普は乃ちその部落を率いて来奔し、高祖は自ら出迎え、普に河西公を授く。累遷して太尉・朔州刺史となり、卒す。
子の洛、字は受洛干。豪壮にして武芸あり、騎射は人に過ぎ、郷里に伏せられた。拔陵が反すや、父に随い帰順し、顯武將軍を除される。 尒朱榮 に随い戦功を重ね、累遷して汾州刺史・驃騎將軍となる。 信都 にて義兵が起こると、遠くより誠意を送り、高祖はその父子ともに至るを嘉し、礼を殊の外に優遇す。撫軍を除し、霊州刺史を兼ぬ。武帝 (孝武帝) が関に入ると、左仆射を除す。天平年中、父に随い東帰し、建昌郡公に封ぜられ、再遷して領軍將軍となる。諸将と共に金墉にて獨孤如願を囲み、及び河陰の戦いにおいて、共に功あり。高祖はその父普が尊老なるを以て、特に礼を崇め、嘗て自ら上馬を扶けしむ。洛は冠を免じ稽首して曰く、「死力を出して深恩に報ぜんことを願う」と。この役に及び、諸軍は北に橋を渡るも、洛は一軍を動かさず。西人に謂いて曰く、「 万俟受洛干 ここに在り、来たれるならば来たれ」と。西人は畏れて去る。高祖はその雄壮なるを以て、その営地を回洛城と名づく。洛は慷慨として気節あり、勇鋭は時に冠たり、当世に推されて名将と為る。興和初年に卒す。
可朱渾元
可朱渾元、字は道元。自ら遼東の人と云う。代々渠帥たり、魏の時に衆を擁して内附し、曾祖の護野肱は終に懐朔鎮将となり、遂にここに家す。元は寛仁にして武略あり、少時に高祖と相知る。北辺擾乱す、遂に家屬を将いて定州に赴く、鮮于修禮の乱に値い、元は衆を擁してこれに属す。 葛榮 が修禮を併呑す、復た元を梁王と為す。遂に尒朱榮に奔り、別将と為し、天光に隷属して関中を征し、功を以て渭州刺史と為る。
侯莫陳悅が 賀拔岳 を殺すや、周文帝 (宇文泰) は岳の所部を率いて還り、共に悅を図る。元は時に悅を助け、悅走る、元はその衆を収め、秦州を拠りて入る、周の攻囲を受け、苦戦し、盟を結びて罷む。元は既に早く高祖の知遇を受け、兼ねてその母兄東に在り、嘗て思帰の志有り、恒に表疏を遣わし、高祖と陰に往来す。周文は元の智勇を忌み、元の二心を懐くを知り、兵を発してこれを攻む。元は乃ち所部を率い、渭州より発し、西北より烏蘭津を渡る。周文は頻りに兵を遣わし邀え撃つも、元は戦えば必ずこれを摧く。軍を引き河・源二州の境を歴て、乃ち東に出ることを得。霊州刺史曹埿の女婿劉豐は元と深く交結し、元は因りて豐に高祖の英武非凡にして、大業を克成すべきを説き、豐はここより委質の心有り、遂に元を資送す。元は霊州より東北に雲州に入る。高祖その来るを聞き、平陽守高嵩を遣わし金環一枚を持たせて元に賜い、並びに資糧を運び、遠く候接を遣わす。元は 晉 陽に至り、引見して手を執り、帛千匹並びに奴婢田宅を賜う。兄弟四人先づ 幷州 に在る者は、官爵を進む。元の所部督将は、皆爵邑を以て賞す。元を縣公に封じ、車騎大將軍を除す。
東雍にて 西魏 の儀同金祚・皇甫智達を討ち、これを擒る。幷州刺史に遷る。又諸将と征伐し、頻りに克捷降下す。天保初め、扶風王に封ぜらる。頻りに顯祖 ( 高洋 ) に従い山胡・茹茹を討ち、累ねて戦功有り。太師に遷り、薨ず。假黃鉞・太宰・錄尚書を贈らる。元は衆を御するに善く、行軍用兵は務めて持重に在り、前後出征して未だ嘗て負敗せず。及び卒すや、朝廷深くこれを悼む。皇建初め、世宗 ( 高澄 ) の廟庭に配享す。
劉豐
劉豐、字は豐生、普楽の人である。雄姿壮気有り、果毅人に絶え、口辯有り、兵事を説くを好む。破六韓拔陵の乱に、豐は守城の功を以て、普楽 太守 を除される。魏の永安初め、霊州鎮城大 都督 を除す。周文 (宇文泰) は衛大將軍を以て授けんとす、豐は受けず、乃ち攻囲を遣わすも、克たず。豐は遠く高祖の威徳を慕い、乃ち戸数万を率いて来奔す。高祖は豐を上表して平西將軍・南汾州刺史と為す。遂に諸将と征討し、寇乱を平定す。又高祖に従い河陰にて周文を破るに、豐の功多く、高祖は手を執り嗟賞す。入りて左衛將軍と為り、出でて 殷州 を除す。
王思政 が長社を拠る、世宗 (高澄) は豐に命じ清河王岳とこれを攻めしむ。豐は水攻の策を建て、遂に洧水を遏えて以てこれを灌ぎ、水長じ、魚鱉皆遊ぶ。九月より四月に至り、城将に陷らんとす。豐と行臺 慕容 紹宗 は北に白気有るを見て同船に入る、忽ち暴風東北より来たり、正昼昏暗、飛沙走礫、船纜忽ち絶え、漂いて城下に至る。豐は水に遊びて土山に向かうも、浪に激せられ、時に至らず、西人これに鉤をかけ、並びに敵人の為に害せらる。豐は壮勇善戦、諸将に推さる。死するの日、朝野駭惋す。大司馬・ 司徒 公・ 尚書令 を贈られ、諡して忠と曰う。子の曄嗣ぐ。
破六韓常
破六韓常、字は保年、附化の人、匈奴単于の裔である。右谷蠡王潘六奚、魏に没し、その子孫は潘六奚を氏と為し、後人訛誤して、破六韓と為す。代々部落を領し、その父孔雀、世襲して酋長たり。孔雀は少より 驍 勇なり。時に宗人の拔陵乱を為し、孔雀を大 都督 ・ 司徒 ・平南王と為す。孔雀は部下万人を率いて尒朱榮に降り、詔して平北將軍・第一領民酋長を加え、卒す。
常は沈敏にして膽略有り、騎射に善く、累遷して平西將軍となる。高祖が義兵を起こすと、常は附化守たり、万俟受洛干と共に東帰し、高祖はこれを嘉し、上表して撫軍と為す。諸将と征討し、又高祖に従い諸寇を撃ち、累遷して車騎大將軍・開府となり、平陽公に封ぜられ、洛州刺史を除す。常は世宗に啓して曰く、「常、河陽を鎮めて以来、頻りに關口・太谷の二道より出で、北荊已北、洛州已南、所有の要害、頗る知悉す。而して太谷南口、荊路を去ること一百餘り、赤工阪を経るは、是れ賊の東西を往還する大道、中間曠絶すること一百五十里、賊の糧饢、唯だ此の路を経る。愚謂う、彼の形勝の地を選び、城戍を営築し、士馬を安置し、その遠還を截てば、自然に行送を更有すること能わざるべし」と。世宗その計を納れ、大司馬斛律金等を遣わし楊志・百家・呼延の三鎮を築かしむ。常は秩満し、還りて 晉 陽に至り、太保・滄州刺史を拝し、卒す。 尚書令 ・ 司徒 公・太傅・第一領民酋長を贈られ、假王、諡して忠武と曰う。
金祚
金祚、字は神敬、安定の人である。性質は 驍 雄にして、気節を尊び任侠を好んだ。 北魏 の正光年間(520–525)、隴右に賊が起こり、詔により雍州刺史の元猛がこれを討つにあたり、狼家 (隴右の勇猛な者) を召募して軍の先導としようとしたところ、祚が選に応じた。軍功により累進して龍驤将軍・霊州刺史となった。高祖 (高歓) が義兵を挙げると、尒朱天光が関右の衆を率いて尒朱仲遠らとともに北進し義師に抗した。天光は祚を東秦に留め、三州を総督させ、二州を鎮静させた。天光が敗れると、高祖に帰順し、車騎大将軍に任ぜられた。邙山の戦いでは、大 都督 として従軍し西軍を破った。祚は華州刺史に任ぜられ、開府儀同三司を加えられ、別に臨済県子に封ぜられ、卒した。 司空 を追贈された。
韋子粲
韋子粲、字は暉茂、京兆の人である。曾祖父の閬は、北魏の咸陽太守であった。父の雋は、都水使者であった。子粲は郡の功曹史に仕え、累進して大行臺郎中となり、尒朱天光に従って関右を平定した。孝武帝 (元脩) が関中に入ると、彼を南汾州刺史とした。神武帝 (高歓) が将を命じて討伐に出させると、城は陥落し、子弟ともに捕らえられ、晋陽に送られたが、赦免された。子粲を幷州長史とし、累進して 豫 州刺史となり、卒した。初め、子粲の兄弟は十三人、子・甥などの親族、一家百口はことごとく西魏にいた。子粲が城を陥としながら死難できなかったため、多くが誅滅され、帰国して生き残ったのは、ただ弟の道諧と二人だけであった。諧は子粲とともに国 ( 東魏 ・北斉) に入った。子粲が富貴になった後、とりわけ道諧を見捨て、別居させ、得る所の俸禄は、ほとんど分け与えず、その恩義を顧みないことはこのようであった。
校