魏蘭根
魏蘭根は、鉅鹿郡下曲陽県の人である。父の伯成は、 北魏 の中山 太守 であった。蘭根は身長八尺、容姿は雄偉で、広く群書を読み、『左氏伝』『周易』を誦し、機知に富み識見があった。初め北海王国侍郎に起家し、定州長流参軍を歴任した。母の喪に服し、居喪中は孝行で称された。常山郡内に葬ろうとした時、先に董卓の祠があり、祠には柏の木があった。蘭根は、董卓が凶逆無道であるから、今日まで祠が残るべきではないと考え、柏を伐って棺の材とした。ある人が伐つことを諫めたが、蘭根は全て伐り取り、少しも疑懼しなかった。父の喪に遭い、墓の傍らに廬を結び、土を背負って墳丘を築き、悲しみに 憔悴 して命を落とすほどであった。後に 司空 ・ 司徒 二府の記室参軍となり、夏州平北府長史に転じ、朝廷に入って 司徒 掾となり、出て本郡の太守に任ぜられ、いずれも職務をよく遂げる能力があった。
正光の末、 尚書令 李崇が本郡 都督 となり、軍を率いて茹茹を討つにあたり、蘭根を長史とした。蘭根はそこで李崇に説いて言った。「辺境の諸鎮は、長遠を控え扼している。昔、初めて設置された時は、土地は広く人は少なく、あるいは中原の豪族の子弟を徴発し、あるいは国の肺腑 (近親) を、爪牙として任じた。中頃以来、役所が実情に背き、府戸と号し、その役は賤しい者と同様で、官職や婚姻の序列においても、清流の地位を失わせている。しかし、本来の宗族や旧来の類は、それぞれ栄えて顕れ、互いに顧み比べれば、理の当然として憤り怨むであろう。琴瑟を改張するは、今がその時であり、境を静め辺を寧んずるは、事の大なるものである。宜しく鎮を改めて州を立て、郡県を分置し、凡そ府戸たる者は、悉く免じて民とし、官途に就く順序は、全て旧来の通りとし、文武を兼ね用い、威と恩を並び施すべきである。この計略が行われれば、国家は北顧の憂いが無くなるでしょう。」李崇はこれを奏上したが、事は止み返答が無かった。軍が帰還すると、冠軍将軍に任ぜられ、 司徒 右長史に転じ、仮節を与えられ、 豫 州の事務を行った。
孝昌の初め、岐州刺史に転じた。行臺蕭宝寅に従い宛川を討ち破り、その民を捕虜として奴婢とし、美女十人を蘭根に賞与した。蘭根は辞して言った。「この県は強虜の間にあり、皇威が及ばず、従う所を知らず、故に背叛したのである。今は寒い者には衣を着せ、飢えた者には食を与えるべきで、どうして奴隷としようか。」全てその父兄に帰した。管内では麦に五穂のものが多く、隣州では田鼠が災害となったが、犬牙の境を接しても岐州の境内には入らなかった。秦隴の反叛に属し、蕭宝寅が涇州で敗れると、高平の虜賊が岐州に迫り、州城の民は蘭根を脅迫して囚え、賊に降った。宝寅が雍州に至り、散亡した兵を収集して兵威を再び振るうと、城民は再び賊の刺史侯莫陳仲和を斬り、蘭根を推して再任させた。朝廷は蘭根が西土の人心を得ているとして、持節を加え、仮平西将軍・ 都督 涇岐東秦南岐四州諸軍事とし、四州行臺尚書を兼ねた。まもなく朝廷に入り、光禄大夫に任ぜられた。
孝昌の末、河北の流民が南に渡ったため、蘭根に尚書を兼ねさせ、斉・済・二兗の四州を安撫させ、郡県を置かせた。河間の邢杲が青・兗の間で反乱を起こした。杲は蘭根の甥であったので、再び詔を下し蘭根に命じて慰労させた。邢杲が降らなかったので、元天穆に従ってこれを討った。帰還後、太府卿に任ぜられたが、辞して受けなかった。安東将軍・中書令に転じた。
莊帝が尓朱栄を誅殺しようとした時、蘭根はその計画を聞き、密かに尓朱世隆に告げた。栄が死ぬと、蘭根は莊帝に知られることを恐れ、憂懼してどうしてよいか分からなかった。時に応詔の王道習が莊帝に信任されていたので、蘭根は彼に付き従い、外で功を立てることを求めた。道習が啓上して聞かせたので、蘭根を河北行臺とし、定州で郷里の者を募り、井陘を防がせようとした。時に尓朱栄の将軍侯深が范陽から中山に向かうと、蘭根はこれと戦い、大敗し、 渤海 の 高乾 に頼って逃れた。高乾兄弟が義兵を挙げたのに属し、その中に加わった。高祖 (高歓) が到ると、蘭根の宿望を重んじ、深く礼遇した。中興の初め、車騎大将軍・尚書右僕射を加えられた。高祖が洛陽に入ろうとした時、蘭根を先に京師に遣わした。時に廃立が未決であり、蘭根に魏の前 廃帝 を観察させた。帝は神采が高明であったので、蘭根は後々測り難いことを恐れ、高幹兄弟及び黄門侍郎崔㥄と心を一つにして高祖に固く請い、廃帝は元来胡賊に推戴されたものであり、今もし再び立てば、理に允らないと述べた。高祖は已むを得ず、遂に武帝 (孝武帝) を立てた。廃帝は平素より徳業があったが、蘭根らによって讒毀され、深く当時の議 論 に非難された。
太昌の初め、儀同三司に任ぜられ、まもなく開府を加えられ、鉅鹿県侯に封ぜられ、邑七百戸を与えられた。兄の子の同達に授けるよう上奏した。蘭根は義勲に参与し、端揆の地位にあったが、この時になって初めて岐州での功績を叙し、永興県侯に封ぜられ、邑千戸を与えられた。高乾が死ぬと、蘭根は恐れ、邸宅を離れ、寺に避けた。武帝は大いに譴責し、蘭根は憂怖して、病と称して僕射を解任した。天平の初め、病篤を理由に上表して郷里に帰ることを求めた。魏帝は舍人石長宣を遣わし、その家を訪ねて労い、なお開府儀同として、門に行馬を施すことを許し、本郷に帰った。二年に卒去、時に六十一歳。冀定殷三州諸軍事・定州刺史・ 司徒 公・侍中を追贈され、諡して 文宣 といった。蘭根は功名をもって自立したが、よく附会し、出処の際には、多く計略を優先したので、清論に許されなかった。
長子の相如は、秘書郎中となった。建義の功勲により、まもなく将軍を加えられた。父の爵を襲い、安東将軍・ 殷州 別駕に遷り、朝廷に入って侍御史となった。武定三年に卒去した。次子は敬仲である。肅宗 ( 高演 ) の時、佐命功臣を配享したが、蘭根は及ばなかった。敬仲が上表して訴えると、帝は詔命が既に行われた以上、追って改めるのは難しいとして、敬仲を祠部郎中に抜擢した。章武太守の任で卒去した。
蘭根の族弟の明朗は、経史に広く渉猟し、粗く文才があった。累遷して大司馬府法曹参軍となり、尚書金部郎中を兼ねた。元顥が洛陽に入ると、明朗は南道行臺郎中となり、元顥に捕らえられた。後に元顥を棄てて逃げ帰り、龍驤将軍・中散大夫に任ぜられ、爵を鉅鹿侯と賜った。永安の末、蘭根が河北行臺となると、明朗を左丞に引き立てた。蘭根が中山で敗れると、共に高祖に帰順した。中興の初め、撫軍将軍に任ぜられ、出て安德太守となった。後に衛将軍・右光禄大夫・定州大中正に転じた。武定の初め、顕祖 ( 高洋 ) の諮議参軍となった。出て平陽太守となったが、御史に弾劾され、禁錮に処された。病に遇い卒去した。
明朗の従弟の愷は、若い頃より剛直で才弁に優れていた。魏の末年に、開府行参軍に辟召され、やがて尚書郎・齊州長史に昇進した。天保年間、陳への使者の副使を務めた。青州長史に転任となったが、固辞して就任しなかった。楊愔がこのことを報告すると、顕祖は大いに怒り、楊愔に言った。「何様の漢子か、朕が官を与えても肯んじないとは。明日にでも来させよ、朕自ら話してやる。」この時すでに顕祖は徳を失っており、朝廷の者は皆これを恐れたが、愷の表情と態度は泰然としていた。顕祖が厳しく責め立て、なおも言うには、「死と長史とどちらが良いか、卿が選ぶがよい。」愷は答えて言った。「臣を殺し得るのは陛下であり、長史を受けないのは愚かな臣です。謹んで明詔をお待ちします。」顕祖は楊愔に言った。「官職に就く者がいないと心配する必要はない。苦労してこの漢を用いることはない。家に帰らせよ、永久に採用するな。」これにより愷は長年にわたり沈淪し、官途から外れた。後に路上で楊愔に出会い、ひそかに自分の事情を述べた。楊愔は答えて言った。「詔を発して官を授けることは、全て聖旨によるものであり、選曹 (吏部) の知るところではない。公は訴える労をとらなくてよい。」愷は即座に言った。「たとえ天から零雨が降るとしても、結局は四嶽の雲が起こるのを待たねばならない。公は知らないと言えようか。」楊愔は欣然として言った。「この言葉は極めて簡潔で要を得ている。これ以上多くを語る必要はない。」数日後、霍州刺史に任じられた。在職中は統治の方策があり、辺境の民に喜ばれ信服された。大寧年間、膠州刺史の任上で死去した。
愷の従子の彥卿は、魏の大司農季景の子である。武平年間、通直 散騎常侍 を兼ね、陳への使者の副使を務めた。
彥卿の弟の澹は、学識と文藻を備えていた。武平初年、殿中御史となり、中書舎人に昇進し、文林館で待詔を務めた。隋の開皇年間、太子舎人・著作郎となった。『後魏書』九十二巻を撰し、史書の体裁をよく得ており、当時その善さを称えられたという。
崔㥄
崔㥄は、字を長孺といい、清河郡東武城県の人である。父の休は、魏の七兵尚書となり、僕射を追贈された。㥄は容貌が雄大で美しく、立ち居振る舞いに優れ、若くして名声があり、当時に知られていた。初め魏の世宗 (宣武帝) の挽郎となり、官途に就いて太学博士となった。永安年間、事件に連座して免官され郷里に帰った。高祖 (高歓) が 信都 で義兵を起こすと、㥄はこれに帰順した。高祖は彼に会い、大いに喜び、諮議参軍とした。まもなく給事黄門侍郎に任じ、将軍・右光禄大夫に昇進した。高祖が洛陽に入り、廃立 (皇帝の廃立) を議した時、太僕の綦儁が普泰王 (元恭) の賢明を大いに称え、社稷の主とすべきだと述べた。㥄は言った。「もし彼が明聖であるなら、自ら我が高王 (高歓) を待ち、ゆっくりと天子の位に登るべきである。すでに逆胡 (爾朱氏) に擁立された者を、どうしてなお天子とすることができようか。儁の言に従えば、王師の挙兵は何の名義があろうか。」これにより中興主 ( 元朗 ) も普泰帝 (元恭) も廃され、改めて平陽王 (元脩、孝武帝) を皇帝に立てた。義挙に参画した功績により、武城県公に封ぜられ、邑一千四百戸を与えられ、位は車騎大将軍・左光禄大夫に進み、引き続き黄門侍郎を領した。
㥄は門下省に在りながら、義旗に預かったことを恃み、甚だ自ら驕り放縦であった。まもなく貪汙の罪で御史に糾弾され、逃れて郷里に帰り、赦令に遇って初めて出仕した。高祖は㥄が元より義旗に預かった者であるとして、彼の黄門侍郎の官を復した。天平初年、侍読となり、典書を監した。まもなく徐州刺史に任じられ、広宗の部曲三百人と清河の部曲千人を与えられた。㥄の性質は豪放で傲慢であり、寵妾の馮氏にその威刑を仮借させ、思いのままに収賄し、風紀と政治が立たなかった。初め㥄が常侍であった時、起居注を修める者を求めた。ある者が「魏收がよい」と言うと、㥄は「収は軽薄な輩に過ぎぬ」と言い、代わりに祖鴻勛を引き立ててこれに当たらせた。枢要の地位に就くと、また盧元明を用いて魏収に代わって中書郎とし、このため魏収は彼を恨んだ。後に魏収が梁への使者となり、徐州を通り過ぎた時、㥄は刺史の鹵簿を整えて見送り、人を介して魏収に伝えさせた。「儀衛が多いことを怪しむな、稽古 (古典を研究する) の力によるものだ。」魏収は返答して言った。「崔徐州に伝えよ、建義の勲功こそあれ、何の稽古があろうか。」㥄は自ら門閥が元より高いと思っていたので、特にこの言葉に不平を抱いた。魏収は宿怨に乗じ、故意に彼を挫いたのである。刺史を罷免され、七兵尚書・清河邑中正に任じられた。
趙郡の李渾がかつて名士たちを宴に集め、詩と酒で大いに賑わっていた時、㥄が後から到着すると、一座は再び談話する者もなくなった。鄭伯猷が嘆じて言った。「身長八尺、顔は刻んだように整い、咳払いは洪鐘の響きのようで、胸中には千巻の書を蓄えている。人をしてどうして畏服させずにおられようか。」
㥄は常に籍地 (家柄) を自慢し、盧元明に言った。「天下の盛んな門閥は、ただ我と汝のみである。博陵崔氏や趙郡李氏など、何のことがあろうか。」崔暹はこれを聞いて恨んだ。高祖が葬られた後、㥄はまたひそかに言った。「黄頷の小児 (世宗 高澄 を指す) が重任に堪えられようか。」暹の外兄の李慎がこの㥄の発言を崔暹に告げた。崔暹は世宗に上奏し、㥄の朝謁を絶たせた。㥄が道端で拝礼を求めると、世宗は怒りを発して言った。「黄頷の小児が、どうして拝礼に値しようか。」そこで㥄を鎖で繋いで 晉 陽に送り、尋問した。㥄は服罪せず、崔暹が刑子才を証人に引くと、子才はそのような言葉はなかったと主張した。㥄は獄中で、子才に言った。「卿は我が意が太丘 (陳寔、ここでは陳元康を指す) に属していることを知っているか。」子才は出て㥄の子の瞻に告げて言った。「尊公の御意は、正に陳元康と姻戚を結ぼうとされているようだ。」瞻には娘がいたので、元康の子に嫁がせることを許諾し、父の助命を求めた。元康は世宗に言上して言った。「崔㥄は名望が元より重いので、私的な処での言葉によってすぐに殺すことはできません。」世宗は言った。「もしその生命を免じるとしても、なお遠方の辺境に流すべきである。」元康は言った。「㥄が辺境にいるなら、あるいは外に叛くかもしれません。英賢を敵に与える資とすることは、宜しくありません。」世宗は言った。「すでに季圭 (崔琰) の罪があるなら、還って作所 (刑罰労働所) で労役に就かせるのはどうか。」元康は言った。「かつて『崔琰伝』を読み、魏武帝 (曹操) が度量広くなかったことを恨みました。㥄が作所で死ねば、後世はどうして公が殺さなかったと言えましょうか。」世宗は言った。「ではどうすればよいのか。」元康は言った。「崔㥄は死罪に当たることは、朝野誰もが知っています。公が誠に寛大をもって厳しさを補い、特にその罰を軽くなされれば、仁徳は一層顕著となり、天下は心を寄せるでしょう。」そこで彼を赦した。㥄が進み出て拝謝すると、世宗はなおも怒って言った。「朕は無能ではあるが、大任を辱うけている。卿が名付けて黄頷の小児と言ったことは、金石は 銷 けても、この言葉は消え難い。」
天保初年、侍中に任じられ、起居を監した。禅譲による王朝交代の際に、儀礼の執掌に参与し、別に新豊県男に封ぜられ、邑二百戸を与えられ、これを第九弟の約に授けた。㥄の一門の婚嫁は、皆衣冠 (士大夫) の美であり、吉凶の儀礼の規範は、当時に称えられた。婁太后が博陵王 (高済) に㥄の妹を妃に迎えるに当たり、中使に命じて言った。「良い作法を用いよ、崔家に人を笑わせるようなことがあってはならぬ。」婚礼の夜、顕祖が酒を挙げて祝って言った。「新婦よ、男子を産み、孝順で富貴であれ。」㥄が奏上して言った。「孝順は臣がらの家門より出で、富貴は陛下の恩によるものです。」
五年、出向して東兗州刺史となり、また馮氏を伴って任地に赴いた。㥄はまもなく半身不随に罹ったが、馮氏は驕り放縦で、収賄が狼藉を極め、御史に弾劾され、㥄と共に廷尉に召喚された。まもなく別勅があり、馮氏を都市で斬った。㥄は病気のため獄中で死去した。享年六十一。
㥄は広く群書を読み、また文藻を兼ね備え、中興主が立てられてから武帝 (孝武帝) に至るまでの間の、詔・誥・表・檄の多くは㥄の作であった。しかし、性質は豪放奢侈で、財色に溺れ、諸弟との間にも、十分に和やかで美しい関係を保つことができず、世論はこれをもって彼を讒った。㥄は元より魏収と不仲であり、魏収が国史の編 纂 を専管するようになると、㥄は悪く書かれることを恐れ、彼を喜ばせようとして言った。「昔に班固あり、今は則ち魏子 (魏収) あり。」魏収は笑ったが、恨みは解けなかった。子の瞻が後を嗣いだ。
瞻は字を彥通といい、聰明で學問に強く、文才と情趣があり、容姿や立ち居振る舞いが優れ、神采は高く聳え、言葉を妄りに發することはなかった。十五歳の時、刺史の 高昂 が召して主簿に任じ、清河公の岳が開府西閣祭酒に辟召した。崔暹が中尉となると、上奏して御史に任じられたが、才能と声望によって採用されたのであって、彼の好むところではなかった。高祖が朝廷に入り、 晉 陽に還ると、召されて北海王の 晞 に陪從し、共に諸子の賓友となった。やがて相府中兵參軍となり、主簿に轉じた。世宗が崩じたが、喪は祕されて發せられず、顯祖は瞻に命じて相府司馬を兼ねさせて 鄴 に使わした。魏の孝靜帝が人日の日に雲龍門に登ると、その父の㥄が侍宴し、また瞻に勅して御坐に近く侍らせ、應詔の詩もあった。帝は邢卲らに問うて曰く、「この詩はその父に比べてどうか。」皆が云うには、「㥄は博雅で弘麗、瞻は氣調が清新、共に詩人の冠たるものなり。」宴が罷ると、共にこれを嗟賞し、皆が云うには、「今日の宴は、併せて崔瞻父子のためなり。」
天保の初め、幷省吏部郎中を兼ねた。間もなく憂に服し、起復して 司徒 屬となった。楊愔は瞻を引き立てて中書侍郎にしようとした。時に盧思道が中書省に直しており、思道に因って問うて曰く、「我この日多務にして、崔瞻の文藻を全く見ず、卿は彼と親しく通じているから、理當に相知るべきである。」思道答えて曰く、「崔瞻の文詞の美は、實に稱えるべきものあり、但し舉世その風流を重んずるが故に、才華が見えずにいるのである。」愔云く、「この言は理にかなう。」便ち奏して用いた。事が施行されると、愔また曰く、「昔、裴瓚が 晉 の世に中書郎となり、神情高邁にして、每に禁門を出入するに、宿衛の者肅然として動容した。崔生の堂堂たる容貌も、亦た裴子に愧じぬべきであろう。」
皇建元年、給事黃門侍郎に任じられた。趙郡の李概と莫逆の友となった。概が東に還らんとする時、瞻は書を遺して曰く、「氣に仗り酒を使うは、我が常の弊、詆訶し指切するは、卿に於いて尤甚し。足下が告歸すれば、我いずくにて過ちを聞かんや。」瞻は氣の病を患い、兼ねて性遲重なるが故に、二省に居ながら、竟に敷奏に堪えなかった。征虜將軍を加えられ、清河邑中正に任じられた。肅宗が踐祚し、皇太子が傅に就いて業を受けるに當たり、詔して太子中庶子に任じ、 晉 陽に徵し赴かせた。勅して專ら東宮に在り、調護講讀及び進退禮度を委ねられた。太子が妃の斛律氏を納れるに當たり、勅して瞻と鴻臚の崔劼に婚禮儀注を撰定させた。仍く面して別旨を受けて曰く、「舊事有りと雖も、恐らく未だ盡く善からず、可く好く此の儀を定めて、以て後の式と為すべし。」
大寧元年、衛尉少卿に任じられ、間もなく 散騎常侍 を兼ね、陳に聘する使主となった。瞻の詞韻は溫雅で、南人は大いに欽服し、乃ち言うには、「常侍は前朝通好の日に、何の故に來られなかったのか。」その重んぜられること此の如しであった。還って太常少卿に任じられ、冠軍將軍を加えられ、尚書吏部郎中に轉じた。急病に因って十餘日臥せった。舊式では、百日上らざれば官を解くが、吏部尚書の尉瑾は性褊急にして、瞻の舉指が舒緩で、曹務が繁劇なるを以て、遂に驛に附して奏聞し、因って代えられた。瞻は遂に免官されて鄉里に歸った。天統の末、驃騎大將軍を加えられ、就いて銀青光祿大夫を拜された。武平三年に卒す。時に年五十四。使持節・ 都督 濟州軍事・大理卿・刺史を贈られ、諡して文と曰う。
瞻の性は簡傲にして、才地を以て自ら矜り、周旋する所は皆一時の名望であった。御史臺に在る時、恒に宅中より食を送らせ、珍羞を備え盡くし、別室に獨り飡し、之に處して自若たり。河東の人士で姓は裴という者も亦た御史であったが、瞻の食するを窺い、便ち往きて造訪した。瞻は交言せず、又匕筯を命ぜず。裴は坐して瞻の食するを見て罷みて退いた。明日、裴は自ら匕筯を携え、恣情に飲噉した。瞻は方に裴に謂って云く、「我初め君を喚んで食せしめず、亦た君と語らず、君遂に能く小節に拘らざりき。昔、劉毅が京口に在りて、鵝炙を請うことを冒したるは、豈に是れと異ならんや。君は定めて名士なり。」是より每に之と同食した。
㥄の昆季の仲文は、學尚有り、魏の高陽太守・清河內史となった。興和年中、丞相掾となった。沙苑の敗に際し、仲文は馬尾を把って以て河を渡り、波中に乍ち沒し乍ち出づ。高祖望見して曰く、「崔掾なり。」遽かに船を遣わして赴き接せしむ。既に濟ると、勞って曰く、「卿は親の為、君の為に、萬死を顧みず、家の孝子、國の忠臣と謂うべし。」中軍將軍を加えられた。天保初め、 散騎常侍 ・光祿大夫を拜された。七年に卒す。年六十。子の偃は、武平年中、太子洗馬・尚書郎を歷任した。偃の弟の儦は、學識才思有り、風調甚だ高し。武平年中、瑯琊王大司馬中兵參軍。五禮の參定に與り、文林館に待詔した。隋の仁壽年中、通直 散騎常侍 にて卒す。叔仁は、魏の潁州刺史。子の彥武は、識用有り、朝歌令。隋の開皇初め、魏州刺史。子の侃は、魏末に通直常侍を兼ね、梁に聘する使となった。子の極は、武平初め太子僕、武德郡守にて卒す。子の聿は、魏の東莞太守。子の約は、 司空 祭酒。
㥄の族叔の景鳳は、字を鸞叔といい、㥄の五世祖の逞の玄孫なり。景鳳は學に涉り、醫術を以て知名たり。魏の尚藥典御、天保年中に譙州刺史となった。景鳳の兄の景哲は、魏の太中大夫・ 司徒 長史。子の國は、字を法峻といい、幼くして學を好み、經傳を泛覽し、伎藝多く、相術に尤も工みたり。天保初め尚藥典御、乾明に高陽郡太守・太子家令を拜し、武平に儀同三司を假され、鴻臚卿にて卒す。法峻は武平六年に從駕して 晉 陽に在り、嘗て中書侍郎の李德林に語って云く、「此の日高相王以下の文武官人の相表を見るに、俱に其の事を盡くし、口を忍びて言わず。唯だ弟一人のみ、更に富貴に應ずべく、當に他國に在りて、本朝に在らず、吾も亦た及ばずして見ることを得ざらん。」其の精妙なること此の如し。
㥄の族子の肇師は、魏の尚書僕射の亮の孫なり。父は士太、諫議大夫。肇師は少時疏放なりしが、長じて遂に節を變え、更に謹厚を成す。經史に涉獵し、頗る文思有り。父の爵である樂陵男を襲ぐ。釋褐して開府東閤祭酒となり、轉じて 司空 外兵參軍、遷って大司馬府記室參軍となった。天平初め、通直侍郎に轉じ、尉勞青州使となった。齊州の界に至り、土賊の崔迦葉等に虜われ、逼って同事せんとす。肇師は節を執って動かず、禍福を以て諭すと、賊遂に之を捨てた。乃ち青部を巡慰して還る。元象年中、數たび中舍人として梁使を接す。武定年中、復た中正員郎を兼ね、梁使を徐州に送る。還りて、勅して起居注を修めしむ。尋いで通直 散騎常侍 を兼ね、梁に聘する副使となった。中書舍人に轉ず。天保初め、禪代禮儀の參定に與り、襄城縣男に封ぜられ、仍く中書侍郎を兼ねた。二年に卒す。時に年四十九。
【史論】
史臣曰く、蘭根は早くより名行有り、時論に稱せられ、長孺は才望の美、當世に重んぜらる。並びに功は霸迹に參じ、位遇は通顯に至り、 李元忠 ・盧文偉と 蓋 し義旗の人物か。魏の要幸附會、崔は門地を以て驕很たり、周公の美有ると雖も、猶お以て德を累すと為すに、況んや未だ其の高下を喩うるに足らざるをや。瞻は詞韻溫雅、風神秀發、亦た一時の領袖たり。