北齊書

巻二十二 列傳第十四 李元忠 族弟密 族叔景遺 盧文偉 孫詢祖 族人勇 李義深

李元忠 りげんちゅう

李元忠は、趙郡柏人県の人である。曾祖父の霊は、 北魏 ほくぎ の定州刺史・鉅鹿公であった。祖父の恢は、鎮西将軍。父の顕甫は、安州刺史。元忠は若くして志操を磨き、喪に服しては孝行で知られた。爵位の平棘子を襲封した。北魏の清河王元懌が 司空 しくう となった時、士曹参軍に召された。太尉に昇進すると、また長流参軍に起用された。元懌が後に太傅となり、まもなく詔により営構明堂大 都督 ととく となると、また主簿に抜擢した。元忠は史書と陰陽数術を大まかに読み、鼓箏を解し、また射弾を好み、巧みな思慮があった。母の喪に遭い、職を去った。間もなく、相州刺史・安楽王元鑒が府司馬に請うたが、元忠は艱憂 (父母の喪) のため、固辞して就任しなかった。

初め、元忠は母が老いて病が多いため、ひたすら医薬に専心し、数年研鑽して、ついに方技に長じるようになった。性質は仁恕であり、病気の者を見ると、貴賤を問わず、皆救療した。家はもとより富んでおり、その家の者が郷里で多く貸付けて利を求めていたが、元忠はしばしば証文を焼いて負債を免除した。郷人は彼を非常に敬重した。北魏の孝明帝の時、盗賊が蜂起し、清河から五百人の兵が西方の守備に向かい、帰途に南趙郡を通ったが、道路が塞がれていたため共に元忠を頼った。絹千匹を奉ったが、元忠はただ一匹だけ受け取り、五頭の羊を殺して彼らに食べさせ、奴を案内役として遣わし、「もし賊に逢えば、ただ李元忠が遣わしたと言え」と言った。奴がその言葉の通りに言うと、賊は皆避けて去った。

永安の初め、南趙郡 太守 たいしゅ に任ぜられたが、酒を好み、政績はなかった。洛陽が陥落し、荘帝が幽閉されて崩御すると、元忠は官を棄てて家に帰り、ひそかに義挙を図った。ちょうど高祖 (高歓) が衆を率いて東に出たので、自ら出向いて奉迎した。露車に乗り、素箏と濁酒を載せて高祖に謁見し、縦横の策を進言し、誠意を尽くして陳べたので、深く嘉納された。時に刺史の尒朱羽生が兵を阻んで州を占拠していたが、元忠は先に西山に衆を集め、やがて大軍と合流し、羽生を生け捕りにして斬った。直ちに 殷州 いんしゅう の事務を行わせた。中興の初め、中軍将軍・衛尉卿に任ぜられた。二年、太常卿・殷州大中正に転じた。後に従兄の瑾が年長であるため、中正の職を譲った。まもなく征南将軍を加えられた。武帝 (孝武帝) が后を納れようとしたが、それは高祖の長女であった。詔により元忠は 尚書令 しょうしょれい の元羅と共に晋陽に赴き聘礼を行った。高祖は宴席でしばしば旧事を じ、手を打って欣笑して言うには、「この人が私を起兵に追いやったのだ。」白馬一匹を賜った。元忠は高祖に戯れて言った、「もし侍中 (の位) を与えなければ、また建義の地を探すであろう。」高祖は答えて言った、「建義の地は無いとは思わぬが、ただこのような老翁に遇わないことを恐れるだけだ。」元忠は言った、「ただこの翁に遇い難いからこそ、去らないのである。」そこで高祖の鬚を撫でて大笑した。高祖もまたその雅意を理解し、深く嘉重した。後に高祖が皇后を奉送し、晋沢で狩猟した時、元忠は馬が倒れて傷を負い、その場で気絶し、久しくしてようやく蘇生した。高祖は自ら見舞った。その年、晋陽県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。後に些細な過失で官を失った。時に朝廷は離反し、義旗を掲げる者たちは多く猜疑されていた。 斛斯椿 こくしちゅん らは元忠が栄利に淡泊で、また世事を心にかけないので、嫌疑の地に置かなかった。まもなく中書令を兼ねた。

天平の初め、再び太常となった。後に驃騎将軍を加えられた。四年、使持節・ 光州 こうしゅう 刺史に任ぜられた。時に州内は災害で凶作であり、人々は皆菜色であった。元忠は上表して賑貸を求め、秋になってから徴収することを請うた。返答があり、一万石の使用を許された。元忠は一万石を人々に与えても、一家あたり升斗に過ぎず、虚名のみで弊害を救えないと考え、遂に十五万石を出して賑済した。事が終わって上表して陳べると、朝廷は賞賛して責めなかった。興和の末、侍中に任ぜられた。

元忠は要職にあったが、初めから物事に心を煩わさず、ただ音楽と酒をもって自ら楽しみ、大抵常に酔っており、家事の大小には全く関心がなかった。園庭の中には果樹や薬草を植え、親朋が訪ねてくれば、必ず引き留めて宴賞した。しばしば弾丸と壺を携え、里門を逍遥し、酒を酌み交わす機会があれば、蕭然として自得していた。常に執事に向かって言うには、「年は次第に暮れ、志力もすでに衰え、久しく名官の任に忝くし、賢者の道を妨げている。もし朝廷の厚恩により、直ちに放棄し難いならば、閑職を乞い、残りの年を養いたい。」武定元年、東徐州刺史に任ぜられたが、固辞して拝命しなかった。そこで驃騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。かつて世宗 高澄 こうちょう に葡萄一盤を献上した。世宗は百練の縑で返礼し、その書を送って言うには、「儀同の位は台鉉に次ぎ、識見は貞素を懐き、藩に出で侍に入り、要職を歴任された。それなのになお家に担石の蓄えもなく、室は懸磬のようである。これは財を軽んじ義を重んじ、時に奉じて己を愛する故であろうか。久しく賞賛し、嘆詠して極まりなく、常に表彰したいと思っていたが、意あれども由がなかった。突然葡萄を辱く賜り、深く佩帯する。聊か絹百匹をもって、清徳に酬いたい。」そのように重んじられた。 孫騰 そんとう 司馬子如 しばしじょ がかつて共に元忠を訪ね、彼が樹下に座り、被を抱えて壺に向かい、庭室が荒れ広々としているのを見た。元忠は二公に言った、「今日藜藿をまとうとは思わなかった。」そこで妻を呼び出したが、衣は地を曳かなかった。二公は顔を見合わせて嘆息して去り、多くの米・絹・衣服を贈ったが、元忠は受け取ってそれを分け与えた。三年、再び本官で衛尉卿を領した。その年に任上で卒した。六十歳。詔により縑布五百匹を贈られ、使持節・督定冀殷幽四州諸軍事・大将軍・ 司徒 しと ・定州刺史を追贈され、諡して敬恵といった。初め、元忠が仕官しようとした時、手に炬火を持って父の墓に入る夢を見、夜中に驚いて起き、非常に嫌った。朝に師匠に告げると、占って言うには、「大吉である。これは先人を照らすことを謂い、終に貴達に至るであろう。」子の搔が嗣いだ。

搔は、字を徳況といい、若くして聡敏で、才芸があり、音律や囲碁などの類に、多く通解していた。かつて諸々の音声を採り、別に一つの楽器を作り、八絃と号した。当時の人はその思理を称えた。 司徒 しと 行参軍として起家した。累遷して河内太守となり、百姓は安んじた。入朝して尚書儀曹郎となった。天保八年に卒した。

族弟 密

元忠の族弟の密は、字を希邕といい、平棘の人である。祖父の伯膺は、魏の東郡太守となり、幽州刺史を追贈された。父の煥は、治書侍御史・河内太守となり、青州刺史を追贈された。密は若くして節操があり、尓朱兆が逆殺をなすに及び、ひそかに豪族と結び、 渤海 ぼっかい 高昂 こうこう とともに復讐の計を立てた。高祖が山東に出るに及び、密は兵を率いて義挙に従い、遙かに 幷州 へいしゅう 刺史を授けられ、容城県侯に封ぜられ、邑四百戸を賜った。尓朱兆が広阿に至ると、高祖は密に命じて殷・定二州の兵五千人を募り、黄沙・井陘の二道を鎮めさせた。兆が韓陵で敗れて晋陽に帰還すると、軍に従って兆を平定した。高祖は薛循義を行幷州事とし、密に建州刺史を授けた。また襄州刺史を除かれた。州に十餘年在任し、辺境を安んずる術に大いに長け、威信は外境に聞こえた。高祖はしばしば手書を降して労問し、口馬を賜った。 侯景 こうけい が外で叛き、密を誘ってこれを捕らえ、官爵を授けた。景が敗れて朝廷に帰すると、朝廷は密が景に従ったのは本心ではないとして、これを罪しなかった。天保の初め、旧功により 散騎常侍 さんきじょうじ を授けられ、もとの爵位の県侯に復し、卒した。殿中尚書・済州刺史を追贈された。密は性質方正で、行いに節度があった。母の病が積年にわたり、名医の治療を受けても癒えなかったため、経方を精しく習い、鍼薬に通暁し、母の病を除くことができた。当世の人々は皆その明解に感服し、これにより医術でも知られるようになった。魏の末に護軍司馬・武邑太守を行い、天保の初めに 司空 しくう 長史となった。大寧・武平の間に、清河・広平二郡の太守、銀青光禄大夫となった。斉が滅亡した後に卒した。子の道謙は、武平の間に侍御史となった。道謙の弟の道貞は、南青州司馬となり、逆賊の邢杲に殺された。北徐州刺史を追贈された。

宗人に愍あり。

元忠の宗人の愍は、字を魔憐といい、体つき容貌が魁偉で、当時に異とされた。若くして大志があり、四十歳になっても州郡に仕えず、ただ姦俠を招き集めて徒侶とした。孝昌の末、天下に兵が起こると、愍は林慮山に潜居し、時変を観察した。賊帥の鮮于修禮・毛普賢が乱を起こすと、詔により大 都督 ととく の長孫稚が討伐に遣わされた。稚はかねてより愍の名を聞き、召し出して帳内統軍を兼ねさせた。軍が呼沱に達すると、賊が迎え撃って来て、稚の軍は賊に敗れ、愍は帰郷した。安楽王の元鑒が北道大行臺となり、 ぎょう に至り、賊衆が盛んであるため進めず、使者を遣わして愍を徴し、表して武騎常侍・仮節・別将を授け、 鄴城 ぎょうじょう の東郭を鎮めさせた。葛栄が 信都 しんと を包囲し、余党が南に略奪し、陽平より北は皆賊の占領するところとなった。鑒は愍を前駆とし、別にこれを討たせ、多く斬獲があった。鑒が謀反を企てると、愍は暴風に患ったと偽り、鑒はこれを信じ、これにより難を免れた。間もなく、大 都督 ととく の源子邕が安陽に屯し、大 都督 ととく の裴衍が 鄴城 ぎょうじょう に屯し、西へ鑒を討った。愍は家族を棄てて子邕に奔り、やがて洛陽に召し出され、奉車都尉を除かれ、節を持って汁河を鎮めた。汁河は鄴の西北、重山の中にあり、幷・相二州の境を接する。葛栄が南に迫ったため、愍を用いてこれを鎮めさせた。栄はその叔父の楽陵王葛萇に精騎一万を率いさせて愍を撃たせたが、愍は険阻に拠って防戦し、萇は進めなかった。尓朱栄が東関に至ると、愍は栄に謁見した。栄は賊の勢力を分かたせようと、愍を別道より襄国に向かわせ、賊が任命した広州刺史田怙の軍を襲撃させた。愍が襄国に至らぬうちに、すでに葛栄を擒にした。ただちに表して愍に建忠将軍を授けた。広平の易陽・襄国、南趙郡の中丘の三県を分けて易陽郡とし、愍を太守とした。爵を襄国侯と賜った。

永安の末、仮の平北将軍・持節・当郡大 都督 ととく となり、楽平太守に遷った。未だ郡に赴かぬうちに、洛京が傾覆し、愍は配下を率いて西の石門山を守った。ひそかに幽州刺史の劉霊助及び高昂兄弟・安州刺史の盧曹らとともに義挙を契った。助が敗れると、愍は石門に入った。高祖が義挙を起こすと、書を送って愍を招き、愍は書を受け、数千人の衆を擁して高祖に赴き、高祖は自らこれを迎えた。使持節・征南将軍・ 都督 ととく 相州諸軍事・相州刺史を除き、尚書西南道行臺・当州 都督 ととく を兼ねた。愍に命じて本衆を率いて西に旧鎮に帰還させ、高祖は自らこれを送った。愍は郷里に至り、馬鞍山に拠り、険阻に依って塁を築き、糧を徴し兵を集めて、声勢と為した。尓朱兆が井陘より出ると、高祖は広阿で兆を破った。愍はその本衆を統率し、故城に屯して尓朱兆に備えた。相州が平定されると、愍に命じて鄴に帰還させ、西南道行臺都官尚書を除き、再び故城に屯した。尓朱兆らが将に至らんとするとき、高祖は愍を徴して 鄴城 ぎょうじょう の守備に参与させた。

太昌の初め、太府卿を除かれた。後に出て南荊州刺史・当州大 都督 ととく となった。この州は孝昌以来、旧路が断絶し、前後の刺史は皆間道よりようやく州に達していた。愍は部曲数千人を率い、まっすぐ懸瓠に向かい、北陽より旧道を復し、戦いながら三百余里を進み、経過したところには即ち郵亭を立て、蛮左は大いに服した。梁はその南司州刺史の任思祖・随郡太守の桓和らに馬歩三万を率いさせ、辺境の蛮を発動して兼ね、下溠戍を囲み逼った。愍は自ら討撃し、これを破った。詔により車騎将軍を加えられた。愍は州内に陂梁を開き立て、千余頃の稲を灌漑し、公私これに頼った。行東荊州に転じ、やがて驃騎将軍・東荊州刺史・当州大 都督 ととく を除かれ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。天平二年に卒した。使持節・定殷二州軍事・儀同・定州刺史を追贈された。

族叔に景遺あり。

元忠の族叔の景遺は、若くして雄武で胆力があり、亡命者を結集することを好み、共に劫盗を為し、郷里はしばしばこれを患った。永安の末、その兄の南鉅鹿太守の無為が贓罪により御史に糾弾され、州の獄に禁じられた。景遺は左右十余騎を率い、台使と詐称し、まっすぐ州城に入り、無為を劫いてこれを出した。州軍が追討したが、ついに制することができなかった。これにより侠をもって知られた。高祖が信都に義挙を起こすと、景遺は軍門に赴いた。高祖はかねてよりその名を聞き、これを厚く遇した。元忠とともに西山で挙兵することを命じ、やがて大軍とともに会し、刺史の尓朱羽生を擒にした。功により龍驤将軍・昌平県公を除かれ、邑八百戸を賜った。尓朱兆が来伐すると、また力戦して功があり、使持節・大 都督 ととく ・左将軍を除かれた。太昌の初め、爵を昌平郡公に進め、邑三百戸を増やし、車騎将軍を加えられた。天平の初め、出て潁州刺史となった。間もなく、前潁川太守の元洪威に襲撃され殺された。侍中・殷滄二州軍事・大将軍・開府・殷州刺史を追贈された。子の伽林が襲封した。

盧文偉 孫の詢祖 族人の勇

盧文偉、字は休族、范陽郡涿県の人である。北州の冠族たる。父の敞は、伯父の假の後を継いだ。文偉は幼くして孤となり、志尚あり、経史に広く渉猟し、交遊に篤く、若くして郷里に敬われた。州より主簿に辟召される。三十八歳にして初めて秀才に挙げられ、本州平北府の長流参軍に任ぜられ、刺史の裴儁に督亢陂の旧跡を修復するよう説き、田万余頃を灌漑し、民はその利に頼り、修立の功績は多く文偉に委ねられた。文偉は営理に善く、私力を併せて展べ、家は素より貧儉であったが、これにより富を致した。孝昌年中、詔により尚書郎中を兼ね、時に行臺の常景が留めて行臺郎中とするよう上啓した。北方に乱が将せんとするや、文偉は范陽城に稻穀を積み、時に荒儉を経て多くを賑贍し、一層郷里に帰せられた。まもなく 杜洛周 とらくしゅう に虜われた。洛周敗れ、再び 葛榮 かつえい に入り、榮敗れて家に帰った。時に韓樓が薊城を拠す。文偉は郷里を率いて范陽を屯守し、樓と相抗した。乃ち文偉を行范陽郡事とす。二年を防守し、士卒と労苦を同じくし、家財を分散して貧乏を拯救し、人々感説せざるはなかった。 尒朱榮 じしゅえい 、将の侯深を遣わして樓を討ち、これを平らげ、文偉は功により大夏県男に封ぜられ、邑二百戸、范陽太守を除された。深は乃ち留まって范陽を鎮す。榮誅せられ、文偉は深の信じ難きを知り、乃ちこれを誘いて出猟せしめ、門を閉じてこれを拒いだ。深は拠る所を失い、遂に中山に赴いた。

莊帝崩御し、文偉は幽州刺史の劉霊助と共謀して起義す。霊助は瀛州を克ち、文偉を行事として留め、自ら兵を率いて定州に赴き、尒朱榮の将の侯深に敗れ、文偉は州を棄て、本郡に走り還り、 なお 高幹邕兄弟と共に影響し合った。高祖の信都に至るに属し、文偉は子の懐道を遣わし啓を奉じて誠を陳べ、高祖は嘉んでこれを納れた。中興初め、安東将軍・安州刺史を除す。時に安州は未だ賓服せず、仍帥任に居り、幽州事を行い、鎮軍・正刺史を加えられた。時に安州刺史の盧曹もまた霊助に従い兵を挙げ、助敗れて幽州を拠り 尒朱兆 じしゅちょう に降り、兆は仍これをもって刺史とし、城を拠して下らず。文偉は州に入るを得ず、即ち郡所において州治を為す。太昌初め、安州刺史に遷り、累ねて 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられる。天平末、高祖は文偉を行東雍州事とし、転じて行青州事とす。

文偉は性財を軽んじ、賓客を愛し、撫接に善く、小恵を行なうを好み、是をもって所在頗る人情を得、受納有りと雖も、吏民甚だこれを苦しまず。生資を経紀し、常に足らざるが若く、財を致して積聚し、寵要を承候し、餉遺絶えず。興和三年、州において卒す。年六十。使持節・侍中・ 都督 ととく 定瀛殷三州諸軍事・ 司徒 しと ・尚書左僕射・定州刺史を贈られ、諡して孝威と曰う。

子の恭道、性温良、頗る文学有り。州より主簿に辟召される。李崇の北征に、開府墨曹参軍と為す。文偉の范陽を拠るより以来、屡々寇難を経、恭道は常に父を助けて防守す。七兵尚書の郭秀は素より恭道と交 たた し、任事に及び、毎にこれを称薦し、高祖も亦その名を聞く。天平初め、 わざわ いに龍驤将軍・范陽太守を除す。郡において徳恵有り。文偉に先んじて卒す。使持節・ 都督 ととく 幽平二州諸軍事・幽州刺史・度支尚書を贈られ、諡して定と曰う。

子の詢祖、祖の爵である大夏男を襲ぐ。術学有り、文章華靡にして、後生の俊たり。秀才に挙げられて京に入る。李祖勲嘗て文士を宴し、顕祖小黄門をして祖勲に勅せしめて曰く「茹茹既に破れり、何の故にか賀表無きや」と。使者佇立してこれを待つ。諸賓皆表を作る。詢祖は俄頃にして便ち成る。後、朝廷大いに遷除し、同日に催して拝せしむ。詢祖は東止車門外に立ち、二十余人の為に表を作り、文に点を加えず、辞理観るべし。

詢祖初め爵を襲ぎ大夏男に封ぜられ、宿徳の朝士これに謂いて曰く「大夏初めて成る」と。声に応じて答えて曰く「且つ燕雀の相賀うを得ん」と。天保末、職を以て出でて築長城子使と為る。自らその才を負い、内に鬱怏を懐き、遂に容服を毀ち賤役者の如くして、以て楊愔に見ゆ。愔曰く「故旧皆縻する所有り、唯だ大夏未だ処分を加えず」と。詢祖声を厲して曰く「是れ誰が咎ぞ」と。役所に至りて既に、『築長城賦』を作り、その略に曰く「板は則ち紫柏、杵は則ち木瓜、何ぞ斯の材にして斯の用いか。草は則ち離離靡靡、崗に縁りて殖ゆ。但だ十歩にして一芳有らしめば、余亦何ぞ辞せん荊棘に間わるるを」と。邢邵嘗て戯れて曰く「卿少年にして才学富盛、角を戴く者は上歯無し、卿の寿からざるを恐る」と。対えて曰く「詢祖初め此言を聞き、実に恐懼を懐く。丈人の蒼蒼たる鬢に在るを見て、以て自安す」と。邵甚だその敏贍を重んず。口弁有り、人物を臧否するを好み、嘗て人に語りて曰く「我れ昨、東方未だ明けず、和氏の門外を過ぎ、已に二陸両源を見る。森然として槐柳と列を斉しくす」と。 けだ し彦師・仁恵と文宗・那延とを謂うなり。邢邵は盧思道を盛んに誉め、詢祖を以て及ばずとす。詢祖曰く「未だ能く飛ばざる者を見ては其の羽毛を借り、逸勢天を沖ぐ者を知りては其の翅翮を剪る」と。謗毀日より至り、素論皆その人為を薄しむ。長広太守の邢子広、二盧を目して云く「詢祖には規検禰衡有り、思道には氷棱文挙無し」と。後頗る節を折る。太子舎人・ 司徒 しと 記室を歴任し、官において卒す。文集十巻有り、皆致して遺逸す。嘗て趙郡王妃鄭氏の為に挽歌詞を制す。その一篇に云く「君王海内に盛ん、伉儷寰中に尽く。女儀鄭国を掩い、嬪容趙宮に映ず。春艶桃花の水、秋度桂枝の風。遂に叢台の夜をして、明月床に満ちて空しからしむ」と。

恭道の弟、懐道、性軽率にして酒を好み、頗る慕尚有り。范陽を守った勲功により、員外散騎侍郎を以て出身す。文偉に遣わされて啓を奉じ高祖に詣る。中興初め、平西将軍・光禄大夫を加えられる。元象初め、行臺の薛琡、行平州事を表し、勅に応じて霸府に赴く。興和中、行汾州事。懐道の家は義挙に預かり、高祖親しくこれを待ち、出でて烏蘇鎮城 都督 ととく と為り、官において卒す。

懐道の弟、宗道、性粗率、任侠を重んず。尚書郎・通直 散騎常侍 さんきじょうじ を歴任し、後に行南営州刺史と為る。嘗て晋陽に酒を置き、賓遊座に満つ。中書舎人の馬士達、其の箜篌を弾ずる女妓を目して云く「手甚だ纖素なり」と。宗道即ちこの婢を以て士達に遺わす。士達固く辞す。宗道便ち家人に命じて其の腕を解かしめんとす。士達已むを得ずしてこれを受く。将に営州に赴かんとするに、督亢陂において大いに郷人を集め、牛を殺し会を聚む。一つの旧門生酒に酔い、言辞の間に微かに疏失有り。宗道遂にこれを水に沈めしむ。後、酷濫に坐して除名せらる。

文偉の族人の勇、字は季礼、父の璧は魏の下邳太守。勇は初め従兄の景裕と俱に学に在り、其の叔の同これを称して曰く「白頭必ず文を以て通じ、季礼は当に武を以て達すべし。吾が門を興すは二子に在り」と。幽州の反者僕骨那、勇を以て本郡の范陽王と為す。時に年十八。後、葛榮乱を作し、又た勇を以て燕王と為す。

義旗が挙がった時、盧文偉が彼を召したが、応じなかった。尒朱氏が滅んだ後、ようやく しん 陽に赴いた。高祖 (高歓) は盧勇を丞相主簿に任用した。折しも山西は霜害で凶作となり、山東の郷租を輸送するに当たり、すべて実物を載せるよう命じ、違反者は罪に処し、盧勇にその事を主管させた。瑯邪公主が千余車を虚偽で雇ったので、盧勇はこれを弾劾した。公主が高祖に訴えたが、盧勇は法を守って屈しなかった。高祖は郭秀に言った、「盧勇は凛々として犯しがたい色があり、真に公正な人である。まさに大事を委ねるべきであり、ただ租税を納めるだけの任ではない」と。汝北太守に遷り、陜州の事務を代行し、転じて洛州の事務を代行した。

元象元年、官軍が広州を包囲したが、数十日経っても陥落しなかった。行臺侯景は 西魏 せいぎ の救兵が来ると聞き、諸将を集めて協議した。盧勇は進んで形勢を観察し、そこで百騎を率い、それぞれ馬一匹を籠に載せた。大隗山に至り、魏の将軍李景和が軍を率いて来ようとしていることを知った。盧勇は樹の先に多く幡旗を置き、騎兵を十隊に分け、角笛を鳴らして直ちに前進し、西魏の儀同程華を生け捕り、儀同王征蠻を斬り、馬三百匹を駆り立て、夜通しで帰還した。広州の守将駱超は城を降したので、高祖は盧勇に広州の事務を行わせた。

功により儀同三司・陽州刺史を授かり、宜陽を鎮守した。叛民の韓木蘭・陳忻らが常に辺境の患いとなっていたが、盧勇はこれを大破した。入朝を求めて上啓すると、高祖は盧勇に書を賜って言った、「我は卿を陽州に委ねた。枕を安くして高臥するのみで、西南の憂いはない。ただ朝廷の委任に依り、表啓は止めるがよい。卿の妻子は州に住むことを任せ、漢人の中で卿より先んじる者を無からしめよう」と。武定二年に卒去、三十二歳。盧勇は馬五百匹、甲冑兵器を六車分作り、遺啓してことごとく朝廷に献上するよう願った。賻賵の品のほか、別に布絹四千匹を賜った。 司空 しくう ・冀州刺史を追贈され、諡して武貞侯といった。

李義深

李義深は、趙郡高邑の人である。祖父の李真は、魏の中書侍郎。父の李紹宗は、殷州別駕。義深は経史に学問を渉猟し、当世に通用する才能があった。初官は済州征東府功曹参軍、累進して龍驤将軍を加えられた。義旗の初め、信都において高祖 (高歓) に帰順し、大行臺郎中に任じられた。中興の初め、平南将軍・鴻臚少卿を除された。義深は尒朱兆の兵勢が盛んなのを見て、遂に高祖を裏切り彼の下に奔った。兆が平定されると、高祖はその罪を許し、大丞相府記室参軍とした。累遷して左光禄大夫・相府司馬となり、経歴した職務はいずれも称職であった。転じて幷州長史となった。当時、刺史の可朱渾道元は細務に親しまず、民事は多く義深に委ねたが、機敏迅速をよく助けた。再び大丞相司馬となった。武定年間、齊州刺史を除されたが、財利を好み、多くの収賄があった。天保初年、鄭州の事務を代行し、転じて梁州の事務を代行し、まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ を除され、陽夏太守となった。段業が彼が州で収斂を行ったと告発したため、禁錮され、梁州に送られて徹底的に取り調べられたが、未決のうちに、三年、病を得て、禁錮された場所で卒去、五十七歳。

子の騊駼は、才弁があり、尚書郎・鄴県令を歴任し、武平初年、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ねた。陳に聘使として赴き、陳の人々に称賛された。後に寿陽道行臺左丞となり、王琳らとともに陥落した。北周末年に逃げ帰った。開皇初年、永安太守。絳州長史の任で卒去した。

子の正藻は、明敏で才幹があった。武平末年、儀同開府行参軍・集書省事を判じた。父の騊駼が陳で没したため、正藻はすぐに病と称して職を解き、憂い思いで身体を損ない、住居や飲食は喪中の礼のようであり、人士はこれを称えた。隋の開皇年間、尚書工部員外郎・盩厔県令を歴任した。宜州長史の任で卒去した。

騊駼の弟の文師は、中書舎人・齊郡太守を歴任した。

義深兄弟は七人おり、多くが学問と志操があった。第二弟の同軌は儒学で名を知られた。第六弟の稚廉は別に伝がある。

義深の族弟に神威がいる。曾祖父の李融は、魏の中書侍郎。神威は幼少より風采と識見があり、家業を伝え、礼学の義訓を粗く通じた。また音楽を好み、『楽書』を撰集し、百巻に近かった。魏 東魏 とうぎ の武定末年、尚書左丞。天保初年に卒去。信州刺史を追贈された。

【贊】

史臣曰く、元忠は元来は寒門の出身であり、教義を聞き知る名声はあったが、人倫の誉れは、縦横の才を以て許されたものではなかった。折しも荘帝が幽閉され崩御し、群胡が偽って権力を擅にした時、志と力ある士は皆、王事に勤める師を望んだ。高祖が東に向かって車を進めるに及び、事は心と合致し、一度その雄姿に遇うや、肝胆を瀝し、石を水に投ずるが如く、豈に徒然ならんや。功名を享けた後、終に足るを知り、進退の道は、見るべきものがある。文偉は声望高く地縁も華やかで、早くから志尚を持ち、艱難辛苦の際にも、終に英雄の主に遇い、礼遇と官秩は未だ弘大ではなかったが、佐命の一人となった。詢祖は文辞と情熱が華やかに発露し、早くから名声を著し、その才地を恃み、思いのままに驕り高ぶったので、京華の人士は、その舌鋒を畏れぬ者はなかった。任用と遇合は聞かれず、若年で夭逝したが、もし眉寿を全うし得たならば、通塞は量り難かったであろう。

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