孫搴
孫搴は、字を彥舉といい、樂安の人である。若い頃から志を励まし学問に勤しみ、自ら檢校御史から再び國子助教に遷った。太保崔光が引き立てて國史の編修に携わらせ、頻繁に行臺郎を歴任し、文才をもって称された。崔祖螭が反乱を起こした際、搴はこれに加担し、王元景の家に逃れ、赦令に遇って初めて出た。 孫騰 が同族の情誼をもって彼を推薦したが、知られるところとはならなかった。
折しも高祖が西征するに当たり、風陵に登り、中外府司馬李義深と相府城局李士略に共に檄文を作るよう命じたが、二人とも辞退し、搴を代わりに推挙した。高祖は搴を帳中に引き入れ、自ら火を吹いて催促した。搴は筆を取ってたちどころに書き上げ、その文は甚だ美しかった。高祖は大いに喜び、直ちに相府主簿に任じ、専ら文筆を司らせた。また 鮮卑 語に通じ、号令の伝達をも兼ねた。煩雑な重任に当たり、大いに賞賛され重用された。韋氏を妻として賜り、これは士人の子女であり、かつ色貌を兼ね備えていたので、当時の人はこれを栄誉とした。まもなく左光祿大夫を除され、常に主簿を領した。
世宗が初めて 鄴 に行き、朝政を総べ知ろうとした時、高祖はその年少を理由に許さなかった。搴が言葉を尽くして取りなしたので、果たして行くことができた。搴はこの功に恃んで自ら特進を乞うたが、世宗はただ 散騎常侍 を加えたに過ぎなかった。当時また燕・恒・雲・朔・顯・蔚・二夏州・高平・平涼の民を大々的に徴発して軍士とし、逃亡・隠匿した者は本人と主人・三長・守令が大辟の罪に処せられ、その家は没収されることとなった。これにより捕らえられた者は甚だ多く、これは搴の献策によるものであった。
搴は学問が浅く行いも軽薄で、邢邵がかつて「更に読書を要すべし」と言うと、搴は「我が精鋭の騎兵三千は、君がかの疲弊した兵卒数万に十分対抗できる」と答えた。かつて棘刺丸を服用した時、李諧らがからかって言うには、「卿の棘刺は自ずから足りているはずだ、どうして外に求める必要があろうか」と。座にいた者は皆笑った。 司馬子如 と 高季式 が搴を招いて酒を飲ませ、大いに酔って卒した。時に五十二歳。高祖は自ら臨んだ。子如が頭を叩いて罪を請うと、高祖は「我が右腕を折ったのだから、良い代わりを探して返せ」と言った。子如は魏收を、季式は陳元康を挙げて、搴の後継ぎとした。儀同三司・吏部尚書・青州刺史を追贈された。
陳元康
陳元康は、字を長猷といい、廣宗の人である。父の終徳は、 北魏 の濟陰內史であり、鎮南將軍・金紫光祿大夫の官で終わった。元康が貴くなると、冀州刺史を追贈され、諡は貞といった。元康は広く文史に渉猟し、機敏で実務の才幹があった。北魏正光五年、 尚書令 李崇に従って北伐し、軍功により臨清縣男の爵を賜った。普泰年間、主書に除され、威烈將軍を加えられた。天平元年、起居注を修めた。二年、 司徒 府記室參軍に遷り、特に府公 高昂 に信頼された。後に出て瀛州開府司馬となり、輔國將軍を加えられた。歴任した官職はいずれもその任に称し、高祖はこれを聞いて召し出した。次第に任用され、相府功曹參軍とし、内で機密を掌った。
高祖が大業を経営するに当たり、軍務は煩雑広大であったが、元康はその意旨を受け、甚だ迅速に用いられた。性質はまた柔和で慎み深く、世事に通暁していた。高祖がかつて世宗を怒り、内で親しく殴り蹴りし、口を極めて罵ったことがあった。世宗が出てきて元康に告げると、元康は諫めて言った、「王が世子を教え訓うるには、自ずから礼法があり、儀範として仰ぎ見られるべきです。どうしてこのようなことまでなさるべきでしょうか」と。言葉は懇切で、涙を流すに至った。高祖はこれ以降、怒りを戒めるようになった。時に怒って打つことがあっても、常に「元康に知らせるな」と言った。そのように敬い憚られたのである。高仲密の反乱に際し、高祖はその原因が崔暹にあることを知り、暹を殺そうとした。世宗は暹を匿い、諫めて請うた。高祖は「私は彼の命を捨てるが、苦手 (厳罰) を与えねばならぬ」と言った。世宗は暹を出して元康に言った、「卿がもし崔に杖罰を受けさせたら、二度と会わない」。暹が廷に出て、衣を解き罰を受けようとした時、元康は走り入り、階を上りながら言った、「王は今まさに天下を大將軍 (世宗) に託そうとされているのに、一人の崔暹を容忍できないというのですか」。高祖はこれに従って赦した。世宗が京師の輔政に入ると、崔暹・崔季舒・崔昂らは皆任用され、張亮・張徽 纂 は共に高祖から厚遇されていたが、委任の度合いは皆元康の下にあった。当時の人の言葉に「三崔二張、一康に如かず」とあった。北魏の尚書僕射范陽盧道虔の娘は右衛將軍郭瓊の子の妻であったが、瓊が死罪により官に没収されたため、高祖はこれを元康に賜って妻とすべく奏上した。元康はそこで故妻の李氏を棄てたが、識者はこれを非とした。元康は便佞で人に仕えることを巧みにし、顔色を窺い意向を伺い、多くの者を推挙したが、公平な心で物事に処することができず、財利に溺れ、金帛を受け取ることは数え切れず、貸付や取引は州郡に遍く及び、清議によって讒謗された。
高祖に従って邙山で周文帝を破り、諸将を大会して進退の策を議した。皆、野に青草なく、人馬疲弊痩せているので、遠くまで追撃すべきではないと考えた。元康は言った、「両雄の交戦は、歳月已久しい。今大捷を得たのは、まさに天の授けるところであり、時を失うべからず、必ず勝ちに乗じて追撃すべきです」。高祖は「もし伏兵に遇ったら、孤はどうやって渡るのか」と言った。元康は「王が前に沙苑を渡って還軍した時、彼らにさえ伏兵はありませんでした。今このように敗走しているのに、どうして遠謀ができましょう。もし捨てて追わなければ、必ず後患となります」と言った。高祖は結局従わなかった。功により安平縣子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。まもなく平南將軍・通直常侍に除され、大行臺郎中に転じ、右丞に徙った。高祖が病篤くなった時、世宗に言った、「邙山の戦いで、元康の言を用いなかったために、かえって汝に禍患を残すことになった。これを恨みとし、死んでも瞑目できない」。高祖が崩じると、喪を発せず秘し、ただ元康のみが知っていた。
世宗が後を嗣ぐと、また任用され厚遇された。 散騎常侍 ・中軍將軍に拝され、別に昌國縣公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。 侯景 が反乱すると、世宗は諸将に迫られ、崔暹を殺して彼らに謝罪しようとし、密かに元康に語った。元康は諫めて言った、「今四海未だ清まらず、綱紀は既に定まっています。もし数人の将軍が外にいるからといって、一時的にその心を悦ばせようとし、無辜を枉げて殺し、刑典を虧け廃すれば、ただ上は天神に負うのみならず、どうして下の黎民を安んずることができましょうか。晁錯の前事を、願わくば公は慎重になさってください」。世宗はそこでやめた。高岳が侯景を討って未だ克たず、世宗は潘相樂を副将として遣わそうとした。元康は言った、「相樂は機変に緩慢です。 慕容 紹宗 には及びません。かつ先王 (高祖) が命じて、彼が侯景に対抗できると称されました。公はただこの人に赤心を推し置かれれば、侯景は憂うるに足りません」。この時紹宗は遠方にいたが、世宗は彼を召し出して会おうとし、その驚いて叛くことを恐れた。元康は言った、「紹宗は元康が特に顧み遇われていることを知っており、新たに人を遣わして金を贈り、その誠意を示してきました。元康はその意を安んじようと思い、故にこれを受け、手厚く返書をしたのです。異変のないことを保証します」。世宗はそこで紹宗を任用し、遂に侯景を破った。元康に金五十斤を賞賜した。 王思政 が潁城に入ると、諸将はこれを攻めて陥とせず、元康は世宗に進言して計略を述べた、「公が朝政を匡輔されて以来、殊勲はまだありません。侯景を敗ったとはいえ、もとより外賊ではありません。今潁城は陥ちんとしています。願わくば公はこれに乗じられ、十分に威を取って業を定められますように」。世宗は元康に駅伝を馳せて視察させた。復命して言うには、「必ず陥とせられます」。世宗はそこで親征し、到着してすぐにこれを攻略し、元康に金百鋌を賞賜した。
初め、魏朝は世宗に相國・齊王を授けたが、世宗はたびたび辞退して受けなかった。そこで諸将と元康らを召して密議した。諸将は皆、世宗が朝廷の命に恭しく応ずるよう勧めたが、元康は未だ可ならずと見なした。また魏收に言うには、「諸人の言葉を見るに、専ら王を誤らせんと欲する。私は先に既に王に啓上し、朝命を受け、官僚を置くこと、元康が忝くも黄門郎を得るか、ただ時事は未だ可ならざるなり。」と。崔暹は機会を窺い、陸元規を大行臺郎に推薦し、元康の権力を分けんとした。元康は既に貨賄を貪り、世宗は内心次第にこれを嫌うようになり、元康もまた自ら懼れるところがあった。また中書令に用い、閑地に処せんとしたが、事は未だ施行されなかった。
時に世宗が魏の禅を受けんとし、元康は楊愔・崔季舒と共に世宗の座にあり、大いに朝士の遷除を行い、共に品藻していた。世宗の家の蒼頭奴・蘭固成は先に厨膳を掌り、甚だ寵昵されていた。先に、世宗はこれを数十回杖打った。呉人の性は躁急であり、また旧恩を恃み、遂に大いに忿恚し、その同事の阿改と謀りて世宗を害せんとした。阿改は時に顕祖に事え、常に刀を執って随従し、「もし東齋の叫び声を聞かば」、即ち以て刃を顕祖に加えんとした。この日、魏帝が初めて東宮を建て、群官が表を拝するに値した。事が済み、顕祖は東止車門を出て、別に赴くところがあり、未だ還らざるうちに難が起こった。固成は因って食事を進めるに当たり、刀を盤の下に置いて世宗を殺害した。元康は身を以て捍ぎ蔽い、刺されて重傷を負い、夜に至って終えた。時に年四十三。楊愔は狼狽して走り出で、季舒は廁に逃げ隠れ、庫直の紇奚舍楽は賊を捍いで死んだ。この時、世宗の凶問を秘し、故に元康を宮中に殯し、南境に出使したと託け、虚しく中書令を除した。明年、詔して曰く、「元康は識は往哲を超え、才は時英を極む。千仞も窺うべからず、万頃も測り難し。戎政を綜核し、霸道を弥綸す。草昧の邵陵の謀をなし、河陽の会を翼賛す。籌を運び策を定め、力を尽くし心を尽くす。忠を進め過を補い、家を亡ぼし国に徇う。逋寇を掃平し、荊楚を廓清す。申・甫の隆周に在るが如く、子房の盛漢に処するに同じ。曠世同じ規、殊年共に美なり。大業未だ融けず、山隤奄かに及び、悼傷既に切なるは、宜しく茂典を崇ぐべし。使持節・ 都督 冀定瀛殷滄五州諸軍事・驃騎大將軍・ 司空 公・冀州刺史を贈り、武邑県一千戸を追封す。旧封は並びに故の如し。諡して文穆と曰う。賻物一千二百段。大鴻臚に喪事を監せしむ。凶礼の須うところは、随って公より給す。」と。元康の母李氏は、元康卒して後、哀感して発病し終えた。広宗郡君を贈り、諡して貞昭と曰う。
元康の子・善藏は、温雅にして鑒裁あり。武平末、仮の儀同三司・給事黄門侍郎。隋の開皇中、尚書礼部侍郎。大業初、彭城郡贊治にて卒す。
元康の弟・諶は、官は大鴻臚に至る。次に季璩は、鉅鹿 太守 、転じて冀州別駕。平秦王・帰彦の反に、季璩は節を守り従わず、因って害に遇う。衛尉卿・趙州刺史を贈られる。
杜弼
杜弼、字は輔玄、中山曲陽の人なり。小字は輔国。自序に云う、本は京兆杜陵の人、九世の祖・驁は、晋の 散騎常侍 、因って使して趙に没し、遂に家す。祖・彦衡は、淮南太守。父・慈度は、繁畤令。弼は幼くして聡敏、家貧しく書無し。年十二、郡学に寄せて業を受け、講授の際、師は毎にこれを奇とした。同郡の甄琛は定州長史たり、諸生を簡試し、見て策問す。義解閑明、応答響の如く、大いに琛の嘆異する所と為る。その子・寛は弼と友と為る。州牧の任城王・澄は聞きて召し問い、深く相嗟賞し、王佐の才を以て許す。澄・琛は洛に還り、これを朝に称し、丞相高陽王ら多く相招命す。延昌中、軍功を以て起家し、広武将軍・恒州征虜府墨曹参軍を除し、記事を管典す。弼は筆札に長じ、毎に時輩の推す所と為る。
孝昌初、太学博士を除し、広陽王驃騎府法曹行参軍を帯び、行臺度支郎中を行う。還りて、 光州 曲城令を除す。政を為すに清静を務め、仁恕を尽くすことを務め、詞訟止息し、遠近これを称す。時に天下多難、盗賊充斥し、兵役を徴召すれば、途多く亡叛し、朝廷これを患う。乃ち兵人の齎す戎具を、道別に車載せしめ、又県令自ら軍所に送らしむ。時に光州兵を発し、弼は所属を送りて北海郡に達す。州兵は一時に散亡すれども、唯だ弼の送る所は動かず。他境の叛兵、並びに来たりて攻劫し、同じく去らんと欲す。弼は率いる所の親兵を率いて格鬭し、終に肯て従わず、遂に倶に軍所に達することを得たり。軍司の崔鐘は状を以て上聞す。その人心を得ること此の如し。普泰中、吏曹下りて守令の尤異なるを訪う。弼は已に代わり還り、東萊太守の王昕は弼を以て訪いに応ず。弼の父は郷里に在りて、賊の害する所と為る。弼は喪を行うこと六年。常調を以て御史を除し、前将軍・太中大夫を加え、内正字を領す。臺中の弾奏は、皆弼の為す所なり。諸御史の出使の上文ずる文簿は、弼に委ねて覆察せしめ、然る後に施行す。
中軍将軍・北 豫 州・驃騎大将軍府司馬に遷る。未だ官に之かず、儀同の 竇泰 、戎を総べて西伐す。詔して弼を泰の監軍と為す。泰の失利して自殺するに及び、弼はその徒六人と走り還る。陜州刺史の劉貴、鎖して晋陽に送る。高祖これを詰めて曰く、「竇中尉のこの行、吾前に法用を具す。乃ち吾が語に違い、自ら敗亡を取る。爾は何に由りて一言も諫争せざるや?」と。弼対えて曰く、「刀筆の小生、唯だ文墨の薄技、便宜の事は、議の及ばざる所なり。」と。高祖益々怒る。房謨の諫に頼りて免るることを得たり。下灌鎮司馬に左遷す。
元象初、高祖は弼を徴して大丞相府法曹行参軍と為し、記室事を署し、大行臺郎中に転じ、尋いで鎮南将軍を加う。高祖又弼を引きて機密を典掌せしめ、甚だ信待を見る。或いは造次にして書教に及ばず、直ちに空紙を付し、即ち宣読せしむ。弼は嘗て間を承けて密かに高祖に魏の禅を受くことを勧む。高祖は杖を挙げてこれを撃ち走らす。相府法曹の辛子炎、事を諮り、「署を取るを須う」と云う。子炎、「署」を読んで「樹」と為す。高祖大いに怒りて曰く、「小人は皆、人家の諱を避くるを知らぬ!」と。前に於いてこれを杖つ。弼進みて曰く、「『礼』に、二名は偏諱せず。孔子は『征』を言いて『在』を言わず、『在』を言いて『征』を言わず。子炎の罪、理或いは恕すべし。」と。高祖これを罵りて曰く、「眼は人の瞋るを見て、乃ち復た経を引き『礼』を引く!」と。叱して出で去らしむ。弼行くこと十歩許り、呼び還す。子炎も亦赦宥を蒙る。世子は京に在りてこれを聞き、楊愔に語りて曰く、「王の左右、頼むに此の人方正有りて、庶くは天下皆その利を蒙らん。豈に独り吾が家のみならんや。」と。
高弼は文武の官が在位するも、廉潔なる者は稀なりと高祖に言上す。高祖曰く、「弼よ、来たれ、我れ汝に語らん。天下濁乱し、習俗久し。今、督将の家属多くは関西に在り、黒獺 (宇文泰) 常に相招誘す。人情去留未だ定まらず。江東に復た一の呉児老翁蕭衍有り、専ら衣冠礼楽に事え、中原の士大夫之を望みて正朔の在り所と為す。我れ若し急に法網を作り、相饒借せざれば、恐らくは督将尽く黒獺に投じ、士子悉く蕭衍に奔らん。然らば則ち人物流散し、何を以て国と為さん。汝宜しく少しく待つべし、吾れ之を忘れじ」と。将に沙苑の役有らんとするに及び、弼又た先ず内賊を除き、却って外寇を討たんことを請う。高祖内賊は誰ぞと問う。弼曰く、「諸勲貴、万民を掠奪する者は皆是れなり」と。高祖答えず、因って軍人に皆弓を張り矢を挟み、刀を挙げ矟を按じて以て道を夾たしめ、弼をして其の間を冒して出でしむ。曰く、「必ずや傷つくこと無からん」と。弼戦慄して汗流る。高祖然る後に之を諭して曰く、「箭は注ぐと雖も射ず、刀は挙ぐと雖も撃たず、矟は按ずると雖も刺さず、爾なお頓に魂胆を喪う。諸勲人、身を以て鋒刃に触れ、百死一生す。其の貪鄙を縦すと雖も、取る所大なり。之を循常の例に同じくすべからず」と。弼時に大いに恐れ、因って頓顙して謝して曰く、「愚癡無智、至理を識らず。今開曉に蒙り、始めて聖達の心を見る」と。
後に高祖に従い 西魏 を邙山に破り、露布を作ることを命ぜらる。弼手ずから即ち絹に書き、曾て草稿を起さず。功を以て定陽県男の爵を賜い、邑二百戸、通直 散騎常侍 ・中軍将軍を加えらる。詔を奉じて闕に詣る。魏帝之を九龍殿に見て曰く、「朕始めて『荘子』を読むや、便ち秦の名に値う。定めて体道して真を得、玄同して物を斉うす。卿の精学を聞く、聊か問う所有り。経中の仏性・法性は一なるか異なるか」と。弼対えて曰く、「仏性法性は、止だ一理なり」と。詔又た問うて曰く、「仏性既に法性に非ず、何ぞ一たるを得ん」と。対えて曰く、「性は在らざる無し、故に二を説かず」と。詔又た問うて曰く、「説く者皆法性は寛く、仏性は狭しと言う。寛狭既に別つ、二に非ずして如何」と。弼又た対えて曰く、「寛に在りては寛と成り、狭に在りては狭と成る。若し性体を 論 ずれば、寛に非ず狭に非ず」と。詔問うて曰く、「既に成寛成狭と言う、何ぞ寛に非ず狭に非ずと得ん。若し定めて狭なれば、亦た寛と成る能わざるべし」と。対えて曰く、「寛狭に非ざるを以ての故に、能く寛狭を成す。寛狭の成す所は異なると雖も、能く成すは恒に一なり」と。上悦び善しと称す。乃ち経書庫に引入れ、『地持経』一部、帛一百匹を賜う。平陽公高淹、 幷州 刺史と為り、高祖又た弼に命じて幷州驃騎府長史を帯せしむ。
弼は性、名理を好み、玄宗を探味す。自ら軍旅に在りて、経を帯びて役に従う。老子『道徳経』二巻を註し、表を上りて曰く、「臣聞く、風に乗りて弋を理め、逸羽を高雲に追い、波に臨みて鉤を命じ、沈鱗を大壑に引く。苟くも其の道を得ば、事を為すを工とす。物に在りて既に爾り、理も亦た固然なり。窃かに惟うに、『道』『徳』二経は、幽極を闡明し、旨は動寂に冥し、用は凡聖に周し、行を論ずれば清浄柔弱、跡を語れば成功致治す。実に衆流の江海、乃ち群芸の本根なり。臣少く経書を覧み、偏に篤く好む所とす。軍府に役に従うと雖も、遊息を捨てず。鉆味既に久しく、斐斖として見る所有るが如し。前に比する註に、微かに旧説に異なると謂う。情は中に発して外に彰る。軽く管を以て窺い、遂に穿鑿を成す。遊刃に取る無く、運斤に慚有り。秋毫の論を破るに足らず、何を以て連環の結を解かん。本や門内に止まり、厥の童蒙に貽さんと欲し、兼ねて近く以て愚鄙を資し、私に忘闕を備えんとす。姑射の凝神、汾陽の流照するを悟らず。 蓋 し高きの卑きを聴き、邇言の察に在るなり。春末に旨を奉じ、猥りに垂誘に蒙る。今上に註する所の『老子』、謹みて封を冒して呈し、並びに序は別の如し」と。詔答えて云く、「李君、神を冥窅に遊ばし、独り恍惚を観、玄同造化し、群有を宗極す。中よりして外に被り、周応以て裁成すべく、己よりして物に及び、運行以て資用と為すべし。家を隆え国を寧うすは、義斯の文に属す。卿才思優洽、業尚通遠、儒門に息棲し、玄肆に馳騁す。既に専門の学を啓き、且つ釈老の言を暢うす。戸列し門張り、途通じ径達す。事理兼ねて申し、能用俱に表わる。彼の賢の未だ悟らざる所、遺老の未だ聞かざる所、旨極めて精微、言窮まりて深妙なり。朕二経に味有り、旧説に倦む。新註を歴覧し、得る所已に多し。嘉尚の来る、良に一縷に非ず。已に殺青編を勅し、延閣に蔵す」と。又た一本を高祖に上り、一本を世宗に上る。
武定年中、衛尉卿に遷る。会うに梁、貞陽侯蕭明等を遣わし彭城に入寇せしむ。大 都督 高岳・行臺慕容紹宗諸軍を率いて之を討つ。詔して弼を軍司と為し、行臺左丞を摂行せしむ。発するに臨み、世宗胡馬一匹を賜い、弼に語りて曰く、「此れ 廄 中の第二馬、孤恒に自ら乗騎す。今方に遠別せんとす。聊か以て贈と為す」と。又た政務の要にして鑒戒と為す可きものを陳べしめ、一両条を録せしむ。弼口陳を請うて曰く、「天下の大務、賞罰の二端に過ぐる莫し。一人を賞して天下の人をして喜ばしめ、一人を罰して天下の人をして服せしむ。但だ二事の中を得る能えば、自然に尽美なり」と。世宗大いに悦びて曰く、「言は多くと雖も、理に於いて甚だ要なり」と。手を握りて別る。蕭明を寒山に破り、別に領軍潘楽と与に梁の潼州を攻め抜く。仍って岳等と軍を撫し民を恤み、合境傾頼す。
六年四月八日、魏帝名僧を顕陽殿に集めて仏理を講説せしむ。弼は吏部尚書楊愔・中書令邢邵・秘書監魏收等と並びに法筵に侍す。勅して弼を師子座に昇らしめ、衆に当たりて敷演せしむ。昭玄都の僧達及び僧道順は並びに緇林の英にして、問難鋒至り、往復数十番、能く屈する者莫し。帝曰く、「此の賢若し孔門に生まれなば、則ち何如ならん」と。
関中より儀同王思政を遣わし潁州を据えしむ。太尉高岳等之を攻む。弼潁州事を行い、行臺左丞を摂す。時に大軍境に在り、調輸多く費やす。弼其の苦楽を均しくし、公私兼ねて挙ぐ。大いに州民に称せらる。潁州の平ぐるや、世宗曰く、「卿試みに王思政の所以に擒えらるるを論ぜよ」と。弼曰く、「思政は逆順の理を察せず、大小の形を識らず、強弱の勢を度らず。此の三蔽有り、其の俘獲すべき宜しきなり」と。世宗曰く、「古に逆を取り順を守る有り、大なる呉は小なる越に困しめられ、弱き燕は能く強き斉を破る。卿の三義、何を以て自立せん」と。弼曰く、「王若し順にして大ならず、大にして強からず、強にして順ならざれば、義に於いて或いは偏り、聖旨の如くを得ん。今既に衆勝を兼備す。鄙言以て還って立つ可し」と。世宗曰く、「凡そ論を持せんと欲すれば、宜しく定指有るべし。那ぞ広く衆理を包み、多端を以て自ら固めんと欲せん」と。弼曰く、「大王の威徳、事衆美を兼ね、義博ければ故に言博く、義の外に言を施すに非ず」と。世宗曰く、「若し爾らば、何の故ぞ周年下らず、孤来りて即ち抜く」と。弼曰く、「此れ蓋し天意、大王の功を顕わさんと欲するなり」と。
顯祖は弼を兼長史に引き立て、衛將軍を加え、中書令に転じさせ、なお長史を兼ねさせた。定陽縣侯に爵位を進め、封邑を増やして前と合わせて五百戸とした。弼は輔佐匡正を志し、知る限りのことは全て行った。顯祖が魏の禅譲を受けようとした時、 晉 陽から平城都に至り、弼と 司空 司馬子如に駅伝を馳せて先に入らせ、世情を観察させた。即位の後、左右の箱を柏閣に入れるよう命じた。策定の功績により、驃騎將軍・衛尉卿に遷り、別に長安縣伯に封ぜられた。
かつて邢卲と共に東山に扈従し、共に名理を論じた。邢は人が死んで再び生まれることは、蛇に足を描くようなものだと恐れた。弼は答えて言った、「おそらく人は死んで無に帰し、生まれる力はないというのであろう。しかし物が未だ生まれない時、本来無であったのであり、無から有となることを疑わないのに、前の生から後の生となることを、どうして特に怪しむのか」。邢は言った、「聖人が教えを設けるのは、本来勧奨によるものであり、故に将来を恐れさせ、道理は各々その性を全うすることを望むのである」。弼は言った、「聖人は天地と徳を合わせ、四時と信を同じくし、言えば経となり、行えば法となる。しかるに虚をもって物を示し、詭をもって民を勧めるというならば、魚腹の書と同じくし、鑿楹の誥とは異なることになろう。どうして北辰に光を降らせ、龍宮に櫝を蔵めさせることができようか。仮にあなたの論の如く、福果が性霊を熔鑄し、風教を弘奨する益が大きく、これに極まるものはないというならば、これは既に真の教えであり、何をもって実でないと言うのか」。邢は言った、「死とは『澌』と言い、精神が尽きるのである」。弼は言った、「ここで言う澌は、射た矢が尽き、手中に尽きるようなものである。《小雅》に『草ならざるもの死せず』と言い、《月令》にもまた『靡草死す』と言う。動植物は異なるが、これもこの類である。情なき草花でさえ尚かつ還生するのであるから、霊を含む物が、どうして再造を妨げようか。もし草が死んでもなお種があると言うならば、人は死んでもまた識があることになる。識の種が見えないからと言って、無であるとするのは、神が形にあるのも、自ら見ることはできず、離朱の明でも見ることができないのである。たとえ孟軻が眸を観て賢愚を察し、鐘生が曲を聴いて山水の状を呈するとしても、それは神の働きであって、神の本質ではない。玉帛が礼でなく、鐘鼓が楽でないのと同じである。これをもって推し量れば、道理は見えてくる」。邢は言った、「季札は『無不之』と言い、また散じて尽きるとも言った。もし再び聚まって物となるならば、『無不之』とは言えない」。弼は言った、「骨肉は下って土に帰し、魂気は則ち『無不之』である。これは形は墜ち魂は遊び、往くもって尽きるのではない。鳥が巣を出、蛇が穴を出るが如し。それに尚かつ有があるから、故に『無不之』なのであり、もし無であるならば、どこへ適うというのか。延陵には微を察する識があり、それが形に随わないことを知った。仲尼は習礼の嘆を発し、それが形と別れることを美とした。もし廓然たることを許すならば、人は皆季子となるであろう。高論とは言わず、これを無と執するのである」。邢は言った、「神が人にあるのは、光が燭にあるようなもので、燭が尽きれば光も窮し、人が死ねば神も滅する」。弼は言った、「旧学の前儒は、しばしばこの言葉があり、群疑衆惑は皆ここから起こる。おそらく弁ずる者が精でなく、思う者が篤実でないのであろう。窃かに末見があるが、以てこれを核することができる。燭は則ち質によって光を生じ、質が大きければ光も大きい。人は則ち神は形に繫がらず、形が小さくても神は小さくない。故に仲尼の智は、必ずや長狄より短くはなく、孟徳の雄は、乃ち崔琰より遠く奇である。神の形に対するは、亦た君の国を持つに似る。国は実に君の統べる所であるが、君は国によって生まれるのではない。同じく生まれずして、どうして共に滅すると言えようか」。邢は言った、「此を捨てて彼に適えば、生々は恒に在る。周・孔は自ら応に莊周の缶を鼓し、桑扈の歌に循うべきではなかったのか」。弼は言った、「同じ陰に息いていても、尚かつ別れの悲しみあり。窮轍を以て遊んでも、亦た中途の嘆がある。ましてや聯体同気と言い、異物に化するならば、情に称うる服喪が、どうして聖人に害あろうか」。邢は言った、「鷹が鳩に化し、鼠が鴽に変わり、黄母が鱉となるのは、皆生の類である。類が化して相生ずるのは、光がこの燭を去り、かの燭に再び燃えるようなものである」。弼は言った、「鷹が未だ鳩に化さない時、鳩は有ではない。鼠は既に二つ有るのであれば、どうして両立できようか。光がこの燭を去り、かの燭を燃やすことができるならば、神がこの形を去り、かの形に託されることも、また何の惑いがあろうか」。邢は言った、「土を人に化し、木に眼鼻を生ぜしめようとするのは、造化の神明はこのようであるべきではない」。弼は言った、「腐草が螢となり、老木が蠍となるのは、造化ができなければ、誰がそうするというのか」。
その後、別に邢に書を送って言った、「建言して理を明らかにするには、宜しく典証を出すべきである。しかるに孔に背き釈に違い、独り君子たらんとする。もし聖に師いなければ、物各々心あり、馬首東を欲すれば、誰か能くこれを禦せん。どうして衷に適うことを取り、一を得ることを貴ばん。逸韻は高しと雖も、管見未だこれを諭さず」。前後往復再三に及び、邢卲は理屈して止み、文多く載せず。
また本官のまま鄭州の事を行ったが、未だ発たずして、家客が弼の謀反を告げたため、収監して獄に下し、案じて治めたが実なく、久しくしてようやく原められた。このため朝見を絶った。また第二子の廷尉監臺卿が獄を断ずるに稽遅したことに坐し、寺官と共に郎中封靜哲に訟えられた。事が既に上聞されると、顯祖は忿りを発し、遂に弼を臨海鎮に徙した。時に楚州の人東方白額が謀反し、南北響応し、臨海鎮は賊師張綽・潘天合らに攻められたが、弼は城人を率い励まし、終に全固を得た。顯祖はこれを嘉し、海州の事を行わせるよう勅し、即ち徙された州である。州において陵道を通し、並びに韓信の故道を奏上した。また州の東、海に帯びて長堰を起こし、外には鹹潮を遏え、内には淡水を引いた。勅して並びに行うに依らしめた。徐州刺史に転じたが、未だ任に就かず、また膠州刺史を除かれた。
弼は儒雅で寬恕、特に史職に通暁していた。所在清潔で、吏民に懐かれた。玄理に耽溺し、老いて愈々篤かった。また《莊子・惠施篇》と《易上下繫》に註し、名を《新註義苑》とし、並びに世に行われた。弼の性質は直であり、前に霸朝に在った時、多く匡正した。顯祖が相となった時、僚首の位に至り、初めて揖譲の議を聞き、なお諫言があった。顯祖はかつて弼に問うて言った、「国を治めるには誰を用いるべきか」。対えて言った、「鮮卑の車馬客は、会須中国人を用いるべし」。顯祖はこの言葉が自分を譏ったと思った。高德政が要職に居たが、彼に下ることができず、乃ち衆人の前で面折して言った、「黄門は帝の左右にあり、どうして善を聞いて驚かず、唯だ減削抑挫を好むのか」。德政は深くこれを恨み、しばしばその短を言った。また主書杜永珍に命じ、弼が長史の日に、人の請託を受け、大いに婚嫁を営んだことを密かに啓させた。顯祖は内にこれを銜んだ。弼は旧恩を恃み、なお公事を陳請した。十年の夏、上は酒を飲むに因り、その愆失を積み、遂に州に遣わしてこれを斬らせた。時に六十九歳。既にしてこれを悔い、駅伝で追ったが及ばなかった。長子の蕤と第四子の光は、遠く臨海鎮に徙された。次子の臺卿は、先に東 豫 州に徙されていた。幹明の初め、並びに鄴に還ることを得た。天統五年、弼を追贈して使持節・揚郢二州軍事・開府儀同三司・尚書右僕射・揚州刺史とし、諡して文肅といった。
蕤と臺卿は、ともに学業を修めた。臺卿は特に文筆に優れ、当世に称えられた。蕤は字を子美といい、武平年間に大理少卿、兼 散騎常侍 となり、陳への使節の主となった。末年には吏部郎中となった。隋の開皇年間に、開州刺史の任で没した。臺卿は字を少山といい、中書侍郎・黄門侍郎を歴任し、兼大著作・修国史を務めた。武平末年には国子祭酒となり、尚書左丞を兼ねた。周の武帝が北斉を平定したとき、尚書左僕射陽休之以下、朝士の知名人十八人を命じて随駕入関させたが、蕤兄弟はともにこの名に預からなかった。臺卿は後に召し出されたが、聾疾のため帰された。隋の開皇年間に著作郎として召されたが、一年余りで年老いて致事し、詔によって許された。特に礼遇され、終身禄を給され、間もなく没した。
【史評】
史臣が曰く、孫搴は側近として仕え、文墨の地にあり、幕下に入って久しからぬうちに、情義すでに深かった。及びて倉卒に殞命したとき、高祖は我が右臂を折る思いであった。軍旗いまだ捲かざるも、才子を愛惜したのである。然らずんば、何をもって霸王の業を成さんや。太史公が云う、「死ぬるは難からず、死に処するは難し」「或いは太山より重く、或いは鴻毛より軽し」と。これがその意味である。元康は智謀と才幹をもって、覇朝に委質し、帷幄に綢繆し、任寄重きをなした。及びて難に臨み苟も免れず、生を忘れて義に殉じた。地を得たりと謂うべきである。楊愔は自ら異行奇才と称し、夷等を冠絶せりとし、 弑 逆の際には趨ってこれを避けた。これはすなわち、死に処するが難しきにあらず、死ぬること自体が難しかったのである。顕祖は弱齢にして器を蔵し、未だ朝臣の知るところとならず、北宮の難に及び、年次をもって推重され、故に受終の議は、時に未だこれを許さざりき。杜弼は識見学問明らかにして、発言は讜正、禅代の際に先んじて異図を起こした。王の怒り未だ怠息せず、ついに顕戮を蒙る。直言多し、これに及ばざる者あらんや。