北齊書

巻019

巻019

北齊書

原文北齊書

卷十九列傳第十一 賀拔允 蔡儁 韓賢 尉長命 王懷 劉貴 任延敬 莫多婁貸文 高市貴 厙狄迴洛 厙狄盛 薛孤延 張保洛 侯莫陳相

原文卷十九列傳第十一 賀拔允 蔡儁 韓賢 尉長命 王懷 劉貴 任延敬 莫多婁貸文 高市貴 厙狄迴洛 厙狄盛 薛孤延 張保洛 侯莫陳相

賀拔允

原文賀拔允

賀拔允、字は可泥、神武の尖山の人である。祖父は爾頭、父は度拔、ともに魏史に見える。允は弓馬に巧みで、頗る膽略があり、弟の嶽とともに賊帥の衛可肱を殺し、そのまま魏に奔った。廣陽王元深は允を上書して積射將軍とし、節を持って滏口を防がせた。深が敗れると、尒朱榮に歸した。允父子兄弟はともに武藝をもって知られ、榮は平素よりこれを聞いていた。允を見て、これを厚く待遇した。建義の初め、征東將軍・光祿大夫を除され、壽陽縣侯に封ぜられ、邑七百戶を賜う。永安年中、征北將軍・蔚州刺史を除され、爵を公に進めた。魏の長廣王が立つと、燕郡公に改封され、侍中を兼ねた。茹茹に使いし、晉陽に還り至るに、高祖こうそが山東に出づるに當たり、允は素より高祖が凡人ならざるを知り、早くより自ら結び託した。高祖はその北士の望みあるを以て、特に親しく禮した。遂に允とともに信都を出で、大策を參定す。魏中興の初め、司徒しとに轉じ、尚書令しょうしょれいを領す。高祖が洛に入り、爵を王に進め、太尉に轉じ、侍中を加えらる。

原文賀拔允,字可泥,神武尖山人也。祖爾頭,父度拔,俱見魏史。允便弓馬,頗有膽略,與弟嶽殺賊帥衛可肱,仍奔魏。廣陽王元深上允為積射將軍,持節防滏口。深敗,歸尒朱榮。允父子兄弟並以武藝知名,榮素聞之。見允,待之甚厚。建義初,除征東將軍、光祿大夫,封壽陽縣侯,邑七百戶。永安中,除征北將軍、蔚州刺史,進爵為公。魏長廣王立,改封燕郡公,兼侍中。使茹茹,還至晉陽,值高祖將出山東,允素知高祖非常人,早自結托。高祖以其北士之望,尤親禮之。遂與允出信都,參定大策。魏中興初,轉司徒,領尚書令。高祖入洛,進爵為王,轉太尉,加侍中。

魏の武帝が高祖を猜忌するに當たり、允の弟の岳に深く相委託し、密かに來往せしむ。當時、皆允が變を爲すを慮る。岳の死するに及び、武帝はまた岳の弟の勝に心腹の寄を委ぬ。高祖はその舊を重んじ、久しく全護す。天平元年、乃ち死を賜う、時に年四十八、高祖親臨して哭す。定州刺史・五州軍事を贈らる。

原文魏武帝之猜忌高祖也,以允弟岳深相委托,潛使來往。當時咸慮允為變。及岳死,武帝又委岳弟勝心腹之寄。高祖重其舊,久全護之。天平元年乃賜死,時年四十八,高祖親臨哭。贈定州刺史、五州軍事。

允に三子あり、長子は世文、次は世樂、次は難陀。興和の末、高祖並びに召して諸子と同學せしむ。武定年中、勅して定州に居らしめ、その田宅を賜う。

原文允有三子,長子世文,次世樂,次難陀。興和末,高祖並召與諸子同學。武定中,勑居定州,賜其田宅。

蔡儁

原文蔡儁

蔡儁、字は景彥、廣寧の石門の人である。父は普、北方擾亂し、五原に奔走し、守戰に功あり。寧朔將軍を拜し、安上縣男に封ぜられ、邑二百戶を賜う。尋いで卒す、輔國將軍・燕州刺史を贈らる。

原文蔡儁,字景彥,廣寧石門人也。父普,北方擾亂,奔走五原,守戰有功。拜寧朔將軍,封安上縣男,邑二百戶。尋卒,贈輔國將軍、燕州剌史。

儁は豪爽にして膽氣あり、高祖が微時に在りし時、深く相親附す。遼西の段長、太原の龐蒼鷹とともに先知の鑒あり。長は魏の懷朔鎮將たり、嘗て高祖を見て、甚だこれを異とし、高祖に云う、「君に康世の才あり、終に徒然たるべからず、請う子孫を以て託せん」と。興和中、啓して司空しくう公を贈らる。子の寧は、相府從事中郎、天保の初め、南中郎將を兼ぬ。蒼鷹は豪俠と交遊し、賓旅を厚く待ち、州城に居る。高祖その舍に客たり、初めは蝸牛廬の中に居處す。蒼鷹の母、數たび廬の上に赤氣天に屬するを見る。蒼鷹もまた高祖に霸は王の量あるを知り、每に私に敬を加え、その宅の半ばを割きて高祖に奉ず、これによりて遂に親識を蒙る。高祖の晉州を牧するに、引いて兼治中從事史とし、義寧郡の事を行わしむ。義旗建つに及び、蒼鷹は乃ち家を棄てて間行し高祖に歸す、高祖以て兼行臺倉部郎中とす。安州刺史にて卒す。

原文儁豪爽有膽氣,高祖微時,深相親附。與遼西段長、太原龐蒼鷹俱有先知之鑒。長為魏懷朔鎮將,嘗見高祖,甚異之,謂高祖云:「君有康世之才,終不徒然也,請以子孫為託。」興和中,啟贈司空公。子寧,相府從事中郎,天保初,兼南中郎將。蒼鷹交遊豪俠,厚待賓旅,居於州城。高祖客其舍,初居處於蝸牛廬中,蒼鷹母數見廬上赤氣屬天。蒼鷹亦知高祖有霸王之量,每私加敬,割其宅半以奉高祖,由此遂蒙親識。高祖之牧晉州,引為兼治中從事史,行義寧郡事。及義旗建,蒼鷹乃棄家間行歸高祖,高祖以為兼行臺倉部郎中。卒於安州刺史。

儁は初め杜洛周に虜われたり、時に高祖もまた洛周の軍中に在り、高祖洛周を誅せんと謀り、儁その計に預かる。事泄れ、走りて葛榮に奔り、仍って葛を背きて尒朱榮に歸す。榮洛に入り、平遠將軍・帳內別將と為る。葛榮を破るに從い、諫議大夫を除く。また元顥を平ぐるに從い、烏洛縣男に封ぜらる。高祖に從い義を舉げ、都督ととくと為る。高祖鄴を平げ、及び四胡を韓陵に破るに、儁並びに戰功あり。太昌中、出でて濟州刺史と為り、治め嚴暴にして、又多く受納す、然れども亦明解にして部分あり、吏民これを畏服す。性賓客を好み、頗る施與を稱す。後、胡遷等兗州に據りて逆を爲すに、儁は齊州刺史の尉景とともにこれを討平す。

原文儁初為杜洛周所虜,時高祖亦在洛周軍中,高祖謀誅洛周,儁預其計。事泄,走奔葛榮,仍背葛歸尒朱榮。榮入洛,為平遠將軍、帳內別將。從破葛榮,除諫議大夫。又從平元顥,封烏洛縣男。隨高祖舉義,為都督。高祖平鄴,及破四胡於韓陵,儁並有戰功。太昌中,出為濟州剌史,為治嚴暴,又多受納,然亦明解有部分,吏民畏服之。性好賓客,頗稱施與。後胡遷等據兗州作逆,儁與齊州刺史尉景討平之。

魏の武帝高祖に貳するに當たり、濟州の要重なるを以て、腹心をしてこれを據らしめんと欲す。密かに詔して御史に儁の罪狀を構えしめ、汝陽王を以て儁に代えんと欲す、これによりて行兗州事に轉ず。高祖は儁に罪なきを以て、啓してその任を復せしむ。武帝許さず、賈顯智を刺史と除し、衆を率いて州に赴かしむ。儁は防守嚴備を以てす、顯智これを憚り、東郡に至りて、敢えて前進せず。

原文魏武帝貳於高祖,以濟州要重,欲令腹心據之。陰詔禦史構儁罪狀,欲以汝陽王代儁,由是轉行兗州事。高祖以儁非罪,啟復其任。武帝不許,除賈顯智為刺史,率衆赴州。儁以防守嚴備,顯智憚之,至東郡,不敢前。

天平中、都督と為り、領軍の婁昭に隨い兗州にて樊子鵠を攻め、また行臺の元子思とともに元慶和を討ち、ともにこれを平ぐ。侯深反す、また儁を大都督と為し、衆を率いてこれを討ち、深敗走す。また揚州刺史に轉ず。天平三年秋、州にて卒す、時に年四十二。持節・侍中・都督・冀州刺史・尚書令・司空公を贈られ、諡して威武と曰う。齊、禪を受く、詔してその墓に祭告す。皇建の初め、高祖廟庭に配享す。

原文天平中,為都督,隨領軍婁昭攻樊子鵠於兗州,又與行臺元子思討元慶和,俱平之。侯深反,復以儁為大都督,率衆討之,深敗走。又轉揚州刺史。天平三年秋,卒於州,時年四十二。贈持節、侍中、都督、冀州刺史、尚書令、司空公,諡曰威武。齊受禪,詔祭告其墓。皇建初,配享高祖廟庭。

韓賢

原文韓賢

韓賢、字は普賢、廣寧の石門の人である。壯健にして武用あり。初め葛榮に隨い逆を爲し、榮破れるに、例に隨い幷州に至り、尒朱榮擢いて左右に充つ。榮の妻子北走し、世隆等魏の長廣王曄を立てて主と為し、賢を鎮遠將軍・屯騎校尉こういと除く。是に先立ち、世隆等建州及び石城を攻むるに、賢並びに戰功あり。尒朱度律用いて帳內都督と為し、汾陽縣伯に封ぜられ、邑四百戶を賜う。

原文韓賢,字普賢,廣寧石門人也。壯健有武用。初隨葛榮作逆,榮破,隨例至幷州,尒朱榮擢充左右。榮妻子北走,世隆等立魏長廣王曄為主,除賢鎮遠將軍、屯騎校尉。先是,世隆等攻建州及石城,賢並有戰功。尒朱度律用為帳內都督,封汾陽縣伯,邑四百戶。

普泰の初め、前將軍・廣州刺史を除く。高祖起義するに屬し、度律は賢が素より高祖に知らるるを以て、その變あるを恐れ、使いを遣わしてこれを征す。賢應召を願わず、乃ち密かに群蠻を遣わし、多く烽火を舉げ、寇難將至するが如くす。使者遂に啓し、停まるを得。賢仍って潛かに使人を遣わして誠を高祖に通ず。高祖洛に入り、尒朱の官爵例皆削除せらるるも、賢の遠く誠款を送るを以て、その舊を復せしむ。太昌の初め、累遷して中軍將軍・光祿大夫と為り、出でて建州刺史と為る。武帝西に入るに、行荊州事に轉ず。

原文普泰初,除前將軍、廣州刺史。屬高祖起義,度律以賢素為高祖所知,恐其有變,遣使征之。賢不願應召,乃密遣群蠻,多舉烽火,有如寇難將至。使者遂為啟,得停。賢仍潛遣使人通誠於高祖。高祖入洛,尒朱官爵例皆削除,以賢遠送誠款,令其復舊。太昌初,累遷中軍將軍、光祿大夫,出為建州刺史。武帝西入,轉行荊州事。

天平の初め、洛州刺史となった。民の韓木蘭らが土民を率いて叛乱を起こしたが、賢はこれを撃破し、自ら検分して、甲冑兵器を収めようとした。ある賊が窮迫して死屍の間に隠れていたが、賢が来るのを見て、突然立ち上がって賢を斬り、その脛を断って死なせた。賢は武将であったが、性質は温和で正直であり、甚だ貪暴ではなく、歴任した地で善政はなかったが、吏民に苦しまれることはなかった。昔、漢の明帝の時、西域が白馬に仏経を負わせて洛陽らくように送り、それによって白馬寺を建立したが、その経函がこの寺に伝わり、形制は淳朴で、世間では古物とされ、歴代に宝蔵されていた。賢は理由もなくこれを斬り破ったが、間もなく死んだので、論ずる者は賢がこれによって禍を招いたという。侍中・持節・定営安平四州軍事・大將軍・尚書令・司空公・定州刺史を追贈された。子の裔が後を嗣いだ。

原文天平初,為洛州刺史。民韓木蘭等率土民作逆,賢擊破之,親自按檢,欲收甲仗。有一賊窘迫,藏於死屍之間,見賢將至,忽起斫之,斷其脛而卒。賢雖武將,性和直,不甚貪暴,所歷雖無善政,不為吏民所苦。昔漢明帝時,西域以白馬負佛經送洛,因立白馬寺,其經函傳在此寺,形制淳朴,世以為古物,歷代藏寶。賢無故斫破之,未幾而死,論者或謂賢因此致禍。贈侍中、持節、定營安平四州軍事、大將軍、尚書令、司空公、定州刺史。子裔嗣。

尉長命

原文尉長命

尉長命は、太安の狄那人である。父の顯は、魏の鎮遠將軍・代郡太守であった。長命は性質が温和で篤厚、器量と識見があった。扶陽の乱の時、太原に寄寓した。高祖が大義を建てようとした時、長命は計策に参与し、高祖に従って韓陵で四胡を破り、安南將軍に拝された。樊子鵠が兗州に拠って反すると、東南道大都督に任ぜられ、諸軍とともにこれを討平した。范陽城を鎮守することとなり、そのまま幽州刺史に任ぜられ、安・平二州の事を都督した。州は北辺に位置し、土地は荒廃し民は離散していたが、長命は多くを聚斂したが、恩をもって民を撫で、少し安集を得た。まもなく病気のため職を去った。間もなく、また征召されて車騎大將軍・都督西燕幽滄瀛四州諸軍事・幽州刺史に任ぜられた。州で卒した。本官をもって追贈し、司空を加え、諡して武壯といった。

原文尉長命,太安狄那人也。父顯,魏鎮遠將軍、代郡太守。長命性和厚,有器識。扶陽之亂,寄居太原。及高祖將建大義,長命參計策,從高祖破四胡於韓陵,拜安南將軍。樊子鵠據兗州反,除東南道大都督,與諸軍討平之。轉鎮范陽城,就拜幽州剌史,督安、平二州事。州居北垂,土荒民散,長命雖多聚斂,然以恩撫民,少得安集。尋以疾去職。未幾,復征拜車騎大將軍、都督西燕、幽、滄、瀛四州諸軍事、幽州刺史。卒於州。贈以本官,加司空,諡曰武壯。

子の興敬は、弓馬に巧みで、武芸があり、高祖が帳内都督に引き立てた。出て常山公府参軍事となり、集中縣伯の爵を賜った。晉州の民李小興が群聚して賊となったので、興敬は司空韓軌に従ってこれを討平し、侯に爵を進めた。高祖が邙山で周の文帝を攻めた時、興敬は戦闘中に流れ矢に当たって卒した。涇岐豳三州軍事を追贈され、爵は公とされ、諡して閔莊といった。高祖は哀惜し、自ら弔問し、その妻子に禄を賜うこと興敬の存命中の如くであった。子の士林が後を嗣いだ。

原文子興敬,便弓馬,有武藝,高祖引為帳內都督。出為常山公府參軍事,賜爵集中縣伯。晉州民李小興群聚為賊,興敬隨司空韓軌討平之,進爵為侯。高祖攻周文帝於邙山,興敬因戰為流矢所中,卒。贈涇岐豳三州軍事,爵為公,諡曰閔莊。高祖哀惜之,親臨吊,賜其妻子祿如興敬存焉。子士林嗣。

王懷

原文王懷

王懷は、字を懷周といい、何許の人か知らない。若い時から弓馬を好み、気概と節操がかなりあり、北辺の喪乱に遭い、早くから軍旅に従った。韓樓が幽州で反すると、懷はその成らぬことを知り、ひそかに親しい者を結び、中興の初めに樓を叛いて魏に帰順し、征虜將軍・第一領民酋長・武周縣侯に任ぜられた。

原文王懷,字懷周,不知何許人也。少好弓馬,頗有氣尚,值北邊喪亂,早從戎旅。韓樓反於幽州,懷知其無成,陰結所親,以中興初叛樓歸魏,拜征虜將軍、第一領民酋長、武周縣侯。

高祖が東に出ると、懷はその部人三千餘家を率い、高祖に従って冀州に至った。義旗が建つと、高祖は大都督とし、広阿で尒朱兆を討つに従い、これを破り、安北將軍・蔚州刺史に任ぜられた。また高祖に従って鄴を攻め、これを落とし、韓陵で四胡を破るに従い、侯に爵を進めた。そのまま洛に入るに従い、車騎將軍に任ぜられ、盧鄉縣侯に改封された。

原文高祖東出,懷率其部人三千餘家,隨高祖於冀州。義旗建,高祖以為大都督,從討尒朱兆於廣阿,破之,除安北將軍、蔚州刺史。又隨高祖攻鄴,克之,從破四胡於韓陵,進爵為侯。仍從入洛,拜車騎將軍,改封盧鄉縣侯。

天平年中、使持節・廣州軍事に任ぜられた。梁が将の湛僧珍・楊暕を遣わして来寇したので、懷は行臺の元晏とともに項城を撃ち、これを抜き、暕を擒らえた。また高祖に従って西夏州を襲撃し落とした。帰還し、大都督となり、下館を鎮守し、儀同三司に任ぜられた。元象の初め、大都督となり、諸将とともに西討し、病気に遇い建州で卒した。定幽恒肆四州諸軍事・刺史・司徒公・尚書僕射を追贈された。懷は武芸と勲誠をもって高祖に知られ、志と力は未だ伸びず、論ずる者はその遂げざるを惜しんだ。皇建の初め、高祖廟庭に配饗された。

原文天平中,除使持節、廣州軍事。梁遣將湛僧珍、楊暕來寇,懷與行臺元晏擊項城,拔之,擒暕。又從高祖襲克西夏州。還,為大都督,鎮下館,除儀同三司。元象初,為大都督,與諸將西討,遇疾卒於建州。贈定幽恒肆四州諸軍事、刺史、司徒公、尚書僕射。懷以武藝勳誠為高祖所知,志力未申,論者惜其不遂。皇建初,配饗高祖廟庭。

劉貴

原文劉貴

劉貴は、秀容の陽曲の人である。父の幹は、魏の世に前將軍・肆州刺史を追贈された。貴は剛直で気性が激しく決断力があり、尒朱榮の府で騎兵參軍を歴任した。建義の初め、策定に参与した功により、敷城縣伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。左將軍・太中大夫に任ぜられ、まもなく公に進んだ。榮の性質は猛烈で急であり、貴は特に厳峻で、任使されるごとに多く榮の心に適い、信遇され、位望日々重くなり、撫軍將軍を加えられた。永安三年、涼州刺史に任ぜられた。建明の初め、尒朱世隆が専擅し、貴を征南將軍・金紫光祿・兼左僕射・西道行臺とし、正平において孝莊行臺の元顯恭に対抗させた。貴は顯恭を破り、これを擒らえ、大都督裴儁らとともにし、また晉州刺史に任ぜられた。普泰の初め、行汾州事に転じた。高祖が起義すると、貴は城を棄てて鄴の高祖のもとに帰った。太昌の初め、本官をもって肆州刺史に任ぜられ、行建州事に転じた。天平の初め、陜州刺史に任ぜられた。四年、御史中尉・肆州大中正に任ぜられた。その年、行臺僕射を加えられ、侯景・高昂らとともに洛陽で獨孤如願を討った。

原文劉貴,秀容陽曲人也。父幹,魏世贈前將軍、肆州刺史。貴剛格有氣斷,歷尒朱榮府騎兵參軍。建義初,以預定策勛,封敷城縣伯,邑五百戶。除左將軍、太中大夫,尋進為公。榮性猛急,貴尤嚴峻,每見任使,多愜榮心,遂被信遇,位望日重,加撫軍將軍。永安三年,除涼州刺史。建明初,尒朱世隆專擅,以貴為征南將軍、金紫光祿、兼左僕射、西道行臺,使抗孝莊行臺元顯恭於正平。貴破顯恭,擒之,並大都督裴儁等,復除晉州刺史。普泰初,轉行汾州事。高祖起義,貴棄城歸高祖於鄴。太昌初,以本官除肆州刺史,轉行建州事。天平初,除陜州刺史。四年,除御史中尉、肆州大中正。其年,加行臺僕射,與侯景、高昂等討獨孤如願於洛陽。

貴は凡そ歴任した地では、ことごとくその威酷を恣にした。城郭を修営し、督責は厳切峻烈で、道理に合わぬ殺害を行い、下を見ること草芥の如くであった。しかし厳断をもって事務を助け、機速に益があった。性質は峻直で、攻撃・摘発に回避することがなく、故に時に賞せられた。佐命の元功ではないが、高祖とは布衣の旧交であり、特に親重された。興和元年十一月卒した。冀定幷殷瀛五州軍事・太保・太尉公・錄尚書事・冀州刺史を追贈され、諡して忠武といった。齊が禅を受けると、詔してその墓に祭告した。皇建年中、高祖廟庭に配享された。長子の元孫は、員外郎・肆州中正であったが、早世した。肆州刺史を追贈された。次子の洪徽が後を嗣いだ。武平の末、仮の儀同三司となり、門下事を奏した。

原文貴凡所經歷,莫不肆其威酷。修營城郭,督責切峻,非理殺害,視下如草芥。然以嚴斷濟務,有益機速。性峭直,攻訐無所迴避,故見賞於時。雖非佐命元功,然與高祖布衣之舊,特見親重。興和元年十一月卒。贈冀定幷殷瀛五州軍事、太保、太尉公、錄尚書事、冀州刺史,諡曰忠武。齊受禪,詔祭告其墓。皇建中,配享高祖廟庭。長子元孫,員外郎、肆州中正,早卒。贈肆州刺史。次子洪徽嗣。武平末,假儀同三司,奏門下事。

任延敬

原文任延敬

任延敬は、廣寧の人である。伯父の桃は、太和の初め雲中軍将となり、延敬はこれに従い、因ってそこに家を定めた。延敬は若い時から温和で篤厚、器量と度量があった。初め葛榮に従って賊となり、榮は王に署し、甚だ委任された。榮が敗れると、延敬は擁する所部を率いて先に降伏し、鎮遠將軍・廣寧太守に任ぜられ、西河縣公の爵を賜った。

原文任延敬,廣寧人也。伯父桃,太和初為雲中軍將,延敬隨之,因家焉。延敬少和厚,有器度。初從葛榮為賊,榮署為王,甚見委任。榮敗,延敬擁所部先降,拜鎮遠將軍、廣寧太守,賜爵西河縣公。

後に高祖に従って大義を建て、中興の初め、累遷して光祿大夫となった。太昌の初め、累転して尚書左僕射となり、位を進めて開府儀同三司となった。延敬は位望既に重かったが、寛和をもって人と接することができ、人士に称えられた。斛斯椿の隙が起こると、延敬は家を棄てて北走し、河北郡に至り、因って土民を率いてこれを拠り、高祖を待った。

原文後隨高祖建義,中興初,累遷光祿大夫。太昌初,累轉尚書左僕射,進位開府儀同三司。延敬位望既重,能以寬和接物,人士稱之。及斛斯椿釁發,延敬棄家北走,至河北郡,因率土民據之,以待高祖。

魏の武帝が関に入ると、荊蠻が従わず、延敬を持節南道大都督として、これを討平した。天平の初め、また侍中に任ぜられた。時に范陽の人盧仲延が河北の流民を率いて陽夏で反し、西兗州の民田龍が衆を聚めてこれに応じたので、延敬を大都督・東道軍司とし、都督の元整・叱列陀らを率いてこれを討たせた。まもなく行臺僕射となり、徐州刺史に任ぜられた。時に梁が元慶和とその諸将を遣わして辺境を寇したので、延敬は北済陰で梁の仁州刺史黄道始を破り、また単父で梁儁を破り、捕虜斬首一万人に及んだ。また侍中に任ぜられた。州にあって大いに収納を受けた。しかし為政は残忍ではなく、人士を礼敬し、民に苦しまれることはなかった。

原文魏武帝入關,荊蠻不順,以延敬為持節南道大都督,討平之。天平初,復拜侍中。時范陽人盧仲延率河北流人反於陽夏,西兗州民田龍聚衆應之,以延敬為大都督、東道軍司,率都督元整、叱列陀等討之。尋為行臺僕射,除徐州刺史。時梁遣元慶和及其諸將寇邊,延敬破梁仁州刺史黃道始於北濟陰,又破梁儁於單父,俘斬萬人。又拜侍中。在州大有受納。然為政不殘,禮敬人士,不為民所疾苦。

潁州長史賀若徽が刺史田迅を捕らえて城を占拠し西魏に降り、再び延敬に命じて豫よ州刺史堯雄らを率いてこれを討たせた。西魏はその将怡鋒に衆を率いて来援させ、延敬らはこれと戦って利あらず、北豫に収まって還り、行臺侯景・司徒高昂らと相会し、共に潁川を攻めてこれを抜いた。元象元年秋、鄴にて卒す。時に年四十五。使持節・太保・太尉公・録尚書事・都督冀定瀛幽安五州諸軍事・冀州刺史を贈られた。子の胄が嗣いだ。

原文潁州長史賀若徽執刺史田迅據城降西魏,復令延敬率豫州刺史堯雄等討之。西魏遣其將怡鋒率衆來援,延敬等與戰失利,收還北豫,仍與行臺侯景、司徒高昂等相會,共攻潁川,拔之。元象元年秋,卒於鄴,時年四十五。贈使持節、太保、太尉公、錄尚書事、都督冀定瀛幽安五州諸軍事、冀州刺史。子胄嗣。

胄は軽侠で、頗る敏慧であった。少くより高祖の左右にあり、天平年中、抜擢されて東郡太守となった。家は元より財豊かで、また多く聚斂し、動けば極めて豪華、賓客の往来には将迎至厚であった。尋いで贓汚の罪により有司に弾劾されたが、高祖はこれを赦した。郡を解かれた後、高祖は都督とした。興和末、高祖が玉壁を攻めて還り、晉州西南の要地を重視し、清河公嶽を行臺として鎮守させ、胄をこれに隷属させた。胄は酒を飲み遊びふけり、防守に勤めず、高祖に責められた。胄は懼れ、密かに使を遣わして周に降伏の意を送った。人に糾弾され、窮めて取り調べたが実証を得ず、高祖は特にこれを免じ、胄に謂って曰く「我は物に誠を推す、卿は必ずや此の理無からんと謂う。且つ黒獺(宇文泰)の降人、首尾相継ぎ、卿の虚実は、後ち何ぞ知らんことを患えん」と。胄は内に自ら安からず。是の時、儀同尒朱文暢及び参軍房子遠・鄭仲禮らは並びに険薄無頼、胄は厚くこれと交結し、乃ち陰に殺逆を図った。武定三年正月十五日、高祖の夜戯に乗じ、謀って窃かに発さんとす。これを告ぐる者あり、捕えて窮治させたところ、事皆実を得た。胄及び子弟は並びに誅された。

原文胄輕俠,頗敏惠。少在高祖左右,天平中,擢為東郡太守。家本豐財,又多聚斂,動極豪華,賓客往來,將迎至厚。尋以贓汚為有司所劾,高祖捨之。及解郡,高祖以為都督。興和末,高祖攻玉壁還,以晉州西南重要,留清河公嶽為行臺鎮守,以胄隸之。胄飲酒遊縱,不勤防守,高祖責之。胄懼,遂潛遣使送款於周。為人糾列,窮治未得其實,高祖特免之,謂胄曰:「我推誠於物,謂卿必無此理。且黑獺降人,首尾相繼,卿之虛實,於後何患不知。」胄內不自安。是時,儀同尒朱文暢及參軍房子遠、鄭仲禮等並險薄無賴,胄厚與交結,乃陰圖殺逆。武定三年正月十五日,因高祖夜戲,謀將竊發。有人告之,令捕窮治,事皆得實。胄及子弟並誅。

莫多婁貸文

原文莫多婁貸文

莫多婁貸文は、太安狄那の人である。驍ぎょう果にして胆気あり。高祖に従って義挙す。中興初、伏波将軍・武賁中郎将・虞候大都督に除せられる。広阿にて尒朱兆を撃つに従い、功有り、前将軍を加えられ、石城県子に封ぜられ、邑三百戸を賜う。また韓陵にて四胡を破るに従い、爵を進めて侯となる。赤谼嶺にて尒朱兆を平らぐに従う。兆は窮迫して自経し、貸文はその屍を獲た。左廂大都督に遷る。斛斯椿らが釁を起こすと、魏武帝は賈顯智を遣わして石済を据え守らせた。高祖は貸文に命じ精鋭三万を率い、竇泰らと定州にて相会し、共に石済に向かい、顯智を撃ち走らせた。天平年中、晉州刺史に除せられる。汾州の胡賊が寇窃を為すや、高祖親らこれを討ち、貸文を先鋒とし、毎に戦功有り。還りて奴婢三十人・牛馬各五十匹・布一千匹を賜い、仍って汾・陜・東雍・晉・泰五州大都督となる。後に太保尉景と共に東雍・南汾二州を攻め、これを克つ。元象初、車騎大将軍・儀同・南道大都督に除せられ、行臺侯景と共に金墉城にて独孤如願を攻む。周文帝の軍が函谷より出で、景と高昂は議して旅を整え卒を励まし、その至るを待たんとす。貸文は請うて率いる所部を以て、その前鋒を撃たんとす、景ら固より許さず。貸文は性勇にして専、命を受けることを肯ぜず、軽騎一千を以て軍前の斥候と為し、西に瀍澗を過ぎ、周軍に遇い、戦没す。幷肆恒雲朔五州軍事・幷州刺史・尚書右僕射・司徒公を贈られた。

原文莫多婁貸文,太安狄那人也。驍果有膽氣。從高祖舉義。中興初,除伏波將軍、武賁中郎將、虞候大都督。從擊尒朱兆於廣阿,有功,加前將軍,封石城縣子,邑三百戶。又從破四胡於韓陵,進爵為侯。從平尒朱兆於赤谼嶺。兆窮迫自經,貸文獲其屍。遷左廂大都督。斛斯椿等釁起,魏武帝遣賈顯智據守石濟。高祖令貸文率精銳三萬,與竇泰等於定州相會,同趣石濟,擊走顯智。天平中,除晉州刺史。汾州胡賊為寇竊,高祖親討焉,以貸文為先鋒,每有戰功。還,賚奴婢三十人、牛馬各五十匹、布一千匹,仍為汾、陜、東雍、晉、泰五州大都督。後與太保尉景攻東雍、南汾二州,克之。元象初,除車騎大將軍、儀同、南道大都督,與行臺侯景攻獨孤如願於金墉城。周文帝軍出函谷,景與高昂議整旅厲卒,以待其至。貸文請率所部,擊其前鋒,景等固不許。貸文性勇而專,不肯受命,以輕騎一千軍前斥候,西過瀍澗,遇周軍,戰沒。贈幷肆恒雲朔五州軍事、幷州刺史、尚書右僕射、司徒公。

子の敬顯は、強直勤幹、少より武力を以て知られる。恒に斛律光に従い征討し、数え戦功有り。光は毎に敬顯に命じて前駆と為し、営壘を安置せしめ、夜中巡察し、或いは達旦して睡らざらしむ。敵に臨み陣を置くにも、亦た敬顯に令して将士を部分せしめ、造次の間に、行伍整肅たり。深く光に重んぜらる。位は領軍将軍に至り、恒に虞候事を検校す。武平年中、車駕晉陽に幸す毎に、敬顯に留臺兵馬を督せしめ、盗賊を糾察せしむると、京師肅然たり。七年、後主に従い平陽に至り、敗れて幷州に帰り、唐邕らと共に推立して安德王をして尊号を称せしむ。安德敗れ、文武群官皆周軍に投ずるも、唯だ敬顯は走りて鄴に還る。司徒を授かる。周武帝が鄴城ぎょうじょうを平らげし明日、敬顯を執り、閶闔門外に斬り、その晉陽に留まらざりしを責む。

原文子敬顯,強直勤幹,少以武力見知。恒從斛律光征討,數有戰功。光每命敬顯前驅,安置營壘,夜中巡察,或達旦不睡。臨敵置陳,亦令敬顯部分將士,造次之間,行伍整肅。深為光所重。位至領軍將軍,恒檢校虞候事。武平中,車駕幸晉陽,每令敬顯督留臺兵馬,糾察盜賊,京師肅然。七年,從後主平陽,敗歸幷州,與唐邕等推立安德王稱尊號。安德敗,文武羣官皆投周軍,唯敬顯走還鄴。授司徒。周武帝平鄴城之明日,執敬顯,斬於閶闔門外,責其不留晉陽也。

高市貴

原文高市貴

高市貴は、善無の人である。少より武用有り。孝昌初、恒州内部の勅勒劉侖らが衆を聚めて反すや、市貴は都督と為り、衆を率いて侖を討ち、一戦にしてこれを破る。累遷して撫軍将軍・諫議大夫となる。及んで尒朱榮が魏莊帝を立てるや、高貴は翼戴の勲に預かり、衛将軍・光禄大夫・秀容大都督・第一領民酋長に遷り、上洛県伯の爵を賜う。尒朱榮が滏口にて葛栄を撃つに、市貴を前鋒都督と為す。栄平らぎ、使持節・汾州刺史に除せられ、尋いで晉州刺史となる。紇豆陵歩藩が幷州を侵乱するや、高祖これを破り、市貴も亦た従行して功有り、驃騎大将軍・儀同三司に除せられ、常山郡公に封ぜられ、邑一千五百戸を賜う。

原文高市貴,善無人也。少有武用。孝昌初,恒州內部勅勒劉侖等聚衆反,市貴為都督,率衆討侖,一戰破之。累遷撫軍將軍、諫議大夫。及尒朱榮立魏莊帝,高貴預翼戴之勳,遷衛將軍、光祿大夫、秀容大都督、第一領民酋長,賜爵上洛縣伯。尒朱榮擊葛榮於滏口,以市貴為前鋒都督。榮平,除使持節、汾州刺史,尋為晉州刺史。紇豆陵步藩之侵亂幷州也,高祖破之,市貴亦從行有功,除驃騎大將軍、儀同三司,封常山郡公,邑一千五百戶。

高祖義挙すや、市貴はその謀に預かる。及んで樊子鵠が州を据えて反すや、大都督婁昭に従いこれを討つ。子鵠平らぎ、西兗州刺史に除せられるも、州に之かず。天平初、再び晉州刺史に除せられる。高祖尋いで洪峒の要険を以て、市貴を遣わしてこれを鎮めしむ。

原文高祖起義,市貴預其謀。及樊子鵠據州反,隨大都督婁昭討之。子鵠平,除西兗州刺史,不之州。天平初,復除晉州刺史。高祖尋以洪峒要險,遣市貴鎮之。

高祖沙苑にて利あらず、晉州行事封祖業城を棄てて還るや、州民柴覽衆を聚めて逆を為す。高祖は市貴に命じて覧を討たしむ。覧は柴壁に奔るも、市貴これを破り斬る。是の時、東雍・南汾二州の境に群賊多く、聚まって盗を為すも、市貴の覧を平らぐるに因り、皆散じて復業す。後に秀容人五千戸叛きて山胡に応ずるや、再び市貴を行臺と為し、諸軍を統べて討ち平らぐ。元象年中、高祖に従い邙山にて周文帝を破る。重ねて晉州刺史・西道軍司に除せられ、衆を率いて懐州の逆賊潘集を撃つ。未だ至らざるに、疾に遇い道に卒す。幷汾懐建東雍五州軍事・太尉公・幷州刺史を贈られる。子の可那肱は貴寵を受け、成臯王に封ぜられる。勅してその第二子孔雀に承襲せしむ。

原文高祖沙苑失利,晉州行事封祖業棄城而還,州民柴覽聚衆作逆。高祖命市貴討覽,覽奔柴壁,市貴破斬之。是時,東雍、南汾二州境多群賊,聚為盜,因市貴平覽,皆散歸復業。後秀容人五千戶叛應山胡,復以市貴為行臺,統諸軍討平之。元象中,從高祖破周文帝於邙山。重除晉州刺史、西道軍司,率衆擊懷州逆賊潘集。未至,遇疾道卒。贈幷汾懷建東雍五州軍事、太尉公、幷州刺史。子可那肱貴寵,封成臯王。勑令其第二子孔雀承襲。

厙狄迴洛

原文厙狄迴洛

厙狄迴洛は、代の人である。少より武力有り、儀貌魁偉なり。初め尒朱榮に事えて統軍と為り、莊帝を立てるに預かり、別将に転じ、毋極伯の爵を賜う。葛栄を破るに従い、都督に転ず。栄死し、尒朱兆に隷す。高祖信都に挙兵すや、迴洛は衆を擁して義に帰す。韓陵にて四胡を破るに従い、軍功を以て都督を補し、後将軍・太中大夫を加えられ、順陽県子に封ぜられ、邑四百戸を賜う。右廂都督に遷る。山胡を征するに従い、先鋒として首級を斬り、朔州刺史に除せられる。河陽にて周文を破り、転じて夏州刺史を授かる。邙山の役、力戦して功有り、邑を増して通前七百戸とす。世宗事を嗣ぎ、潁川を平らぐに従う。天保初、建州刺史に除せられる。肅宗即位し、順陽郡王に封ぜらる。大寧初、朔州刺史に転じ、博陵郡幹を食む。太子太師に転じ、疾に遇い卒す。使持節・都督定瀛恒朔雲五州軍事・大将軍・太尉公・定州刺史を贈られ、贈物一千段を賜う。

原文厙狄迴洛,代人也。少有武力,儀貌魁偉。初事尒朱榮為統軍,預立莊帝,轉為別將,賜爵毋極伯。從破葛榮,轉都督。榮死,隸尒朱兆。高祖舉兵信都,迴洛擁衆歸義。從破四胡於韓陵,以軍功補都督,加後將軍、太中大夫,封順陽縣子,邑四百戶。遷右廂都督。從征山胡,先鋒斬級,除朔州刺史。破周文於河陽,轉授夏州刺史。邙山之役,力戰有功,增邑通前七百戶。世宗嗣事,從平潁川。天保初,除建州刺史。肅宗即位,封順陽郡王。大寧初,轉朔州刺史,食博陵郡幹。轉太子太師,遇疾卒。贈使持節、都督定瀛恒朔雲五州軍事、大將軍、太尉公、定州刺史,贈物一千段。

厙狄盛

原文厙狄盛

厙狄盛は、懐朔の人である。性質は温和で、若い頃から武勇に優れていた。初め高祖の親信都督となり、伏波将軍に任ぜられ、しばしば征討に従った。功績により行唐県伯に封ぜられ、さらに累進して安北将軍・幽州刺史となり、中軍将軍を加えられ、豫州鎮城都督となった。勲功の旧臣として爵位を公に進め、世宗はその封邑を二百戸減じて、その邑を増やした。征西大将軍・開府儀同三司・朔州刺史に任ぜられた。齊が禅譲を受けると、華陽県公に改封された。また北朔州刺史に任ぜられ、華陽の封邑が遠方にあるため、定例に従って幷州の石艾県・肆州の平寇県・原平の馬邑県からそれぞれ数十戸を割き、合わせて二百戸をその食邑とした。間もなく、定例により罷免され、特進に任ぜられ、死去した。使持節・都督朔瀛趙幽安五州諸軍事・太尉公・朔州刺史を追贈された。

原文厙狄盛,懷朔人也。性和柔,少有武用。初為高祖親信都督,除伏波將軍,每從征討。以功封行唐縣伯,復累加安北將軍,幽州刺史,加中軍將軍,為豫州鎮城都督。以勳舊進爵為公,世宗減封二百戶,以增其邑。除征西大將軍、開府儀同三司、朔州刺史。齊受禪,改封華陽縣公。又除北朔州刺史,以華陽封邑在遠,隨例割幷州之石艾縣、肆州之平寇縣、原平之馬邑縣各數十戶,合二百戶為其食邑。未幾,例罷,拜特進,卒。贈使持節、都督朔瀛趙幽安五州諸軍事、太尉公、朔州刺史。

薛孤延

原文薛孤延

薛孤延は、代の人である。若い頃から驍勇果断で、武勇に優れていた。韓楼が反乱を起こすと、延は衆に従ってこれに属した。後に王懐らと密かに謀って楼を討とうとしたが、楼の尉帥乙弗醜に察知され、力戦して醜を破り、ついに相率いて帰順した。行臺劉貴が都督に表し、征虜将軍を加え、永固県侯の爵を賜った。後に高祖に隷属して都督となり、引き続き起義に従った。広阿において尒朱兆を破り、これに従って鄴を平定し、功績により爵位を公に進め、大都督に転じた。韓陵において四胡を破るのに従い、金紫光禄大夫を加えられた。赤谼嶺において尒朱兆を追撃するのに従い、第一領民酋長に任ぜられた。孝静帝が即位すると、顕州刺史に任ぜられ、累進して車騎将軍となった。天平四年、高祖に従って西征した。蒲津に至り、竇泰が河南で敗北すると、高祖は軍を返し、延は殿軍を務め、戦いながら進み、一日に十五本の刀を折り斬った。帰還後、梁州刺史に転じた。玉壁征討に従い、また恒州刺史に転じた。邙山において周文帝を破るのに従い、爵位を県公に進め、邑一千戸を賜った。

原文薛孤延,代人也。少驍果,有武力。韓樓之反,延隨衆屬焉。後與王懷等密計討樓,為樓尉帥乙弗醜所覺,力戰破醜,遂相率歸。行臺劉貴表為都督,加征虜將軍,賜爵永固縣侯。後隸高祖為都督,仍從起義。破尒朱兆於廣阿,因從平鄴,以功進爵為公,轉大都督。從破四胡於韓陵,加金紫光祿大夫。從追尒朱兆於赤谼嶺,除第一領民酋長。孝靜立,拜顯州刺史,累加車騎將軍。天平四年,從高祖西伐。至蒲津,竇泰於河南失利,高祖班師,延殿後,且戰且行,一日斫折刀十五口。還,轉梁州刺史。從征玉壁,又轉恒州刺史。從破周文帝於邙山,進爵為縣公,邑一千戶。

高祖がかつて北の牧場で馬を閲兵していた時、道中で暴雨に遭い、大雷が地を震わせた。前方に一つの仏塔があり、高祖は延にこれを視察させた。延は馬を馳せて槊を構えまっすぐに進み、三十歩に至らないうちに、雷火が顔面を焼いた。延は喝をかけて殺気を放ち、仏塔の周りを走り回ると、火はついに消えた。延が戻ると、眉鬢および馬の鬃毛と尾はすべて焦げていた。高祖は嘆じて言った、「薛孤延は霹靂と鬪うことができたのか!」その勇決はこのようなものであった。

原文高祖嘗閱馬於北牧,道逢暴雨,大雷震地。前有浮圖一所,高祖令延視之。延乃馳馬按槊直前,未至三十步,雷火燒面,延喝殺,繞浮圖走,火遂滅。延還,眉鬢及馬鬃尾俱焦。高祖嘆曰:「薛孤延乃能與霹靂鬭!」其勇決如此。

またしばしば高祖に従って山胡を討ち破り、西進して玉壁を攻めた。入朝して左衛将軍となり、平秦郡公に改封された。左廂大都督として、諸軍の将とともに潁州を討った。延は専ら土山の造営を監督したが、酒に酔っていたため敵に襲撃され占拠された。潁州が平定され、諸将が京師に帰還し、華林園で宴が開かれた。世宗は魏帝に奏上し、延を階下に座らせて辱めた。後に兼領軍将軍となり、出向して滄州刺史となり、別に温県男に封ぜられ、邑三百戸を賜った。齊が禅譲を受けると、別に都昌県公の爵を賜った。性質は酒を好み、しばしば酔いにふけっていた。しかし勇決善戦であり、大軍が征討する時は常に前鋒を務めたため、彭・劉・韓・潘らと同列に並んだ。天保二年、太子太保となり、太子太傅に転じた。八年、肆州刺史に任ぜられ、開府儀同三司を加えられ、洛陽郡の幹禄を食み、まもなく河間郡の幹禄を食むよう改められた。

原文又頻從高祖討破山胡,西攻玉壁。入為左衛將軍,改封平秦郡公。為左廂大都督,與諸軍將討潁州。延專監造土山,以酒醉為敵所襲據。潁州平,諸將還京師,讌於華林園。世宗啟魏帝,坐延於階下以辱之。後兼領軍將軍,出為滄州刺史,別封溫縣男,邑三百戶。齊受禪,別賜爵都昌縣公。性好酒,率多昏醉。而以勇決善戰,每大軍征討,常為前鋒,故與彭、劉、韓、潘同列。天保二年,為太子太保,轉太子太傅。八年,除肆州刺史,加開府儀同三司,食洛陽郡幹,尋改食河間郡幹。

張保洛

原文張保洛

張保洛は、代の人である。自ら言うには、本貫は南陽西鄂であるという。家は代々賓客を好み、気侠を尊び、しばしば北土に知られた。保洛は若い頃から剛健で、弓馬に優れていた。魏の孝昌年間、北鎮が擾乱すると、保洛もまた衆に従って南下した。葛栄が僭逆をなすと、保洛を領左右とした。栄が敗れると、引き続き尒朱栄の統軍となり、累進して揚烈将軍・奉車都尉となった。後に高祖に隷属して都督となり、歩蕃討伐に従った。

原文張保洛,代人也,自云本出南陽西鄂。家世好賓客,尚氣俠,頻為北土所知。保洛少率健,善弓馬。魏孝昌中,北鎮擾亂,保洛亦隨衆南下。葛榮僭逆,以保洛為領左右。榮敗,仍為尒朱榮統軍,累遷揚烈將軍、奉車都尉。後隸高祖為都督,從討步蕃。

高祖が起義すると、保洛は帳内となり、広阿において尒朱兆を破るのに従った。まもなく右将軍・中散大夫に遷り、引き続き帳内として高祖に従って鄴城を包囲し、陥落させると、平南将軍・光禄大夫に任ぜられた。韓陵において尒朱兆らを破るのに従い、これに従って高祖とともに洛に入り、安東将軍を加えられた。後に高祖が国邑を減じて将士に分け与えるよう奏上すると、保洛は定例に従って昌平県薄家城郷男に封ぜられ、百戸を賜った。

原文及高祖起義,保洛為帳內,從破尒朱兆於廣阿。尋遷右將軍、中散大夫,仍以帳內從高祖圍鄴城,既拔,除平南將軍、光祿大夫。從破尒朱兆等於韓陵,因隨高祖入洛,加安東將軍。後高祖啟減國邑,分授將士,保洛隨例封昌平縣薄家城鄉男一百戶。

魏の出帝が高祖と不協和音を生じると、儀同賈顕智に命じて豫州刺史斛斯寿を率いさせ、東に向かって済州へ急がせた。高祖は大都督竇泰を派遣して滑臺から渡河させて顕智を防がせ、保洛は泰に隷属して前駆を務めた。事態が収まると、都督に転じた。

原文魏出帝不協於高祖,令儀同賈顯智率豫州刺史斛斯壽東趣濟州。高祖遣大都督竇泰濟自滑臺拒顯智,保洛隸泰前驅。事定,轉都督。

高祖に従って夏州を襲撃し、これを陥落させた。万俟受洛干が降伏する時、高祖は保洛と諸将を派遣して途中で迎え援護させた。元象初年、西夏州刺史・当州大都督に任ぜられ、また前後の功績により、安武県伯に封ぜられ、邑四百戸を賜った。行蔚州刺史に転じた。邙山において周文帝を攻撃するのに高祖に従い、玉壁を包囲し、龍門を攻めた。帰還後、留まって晉州を鎮守した。

原文從高祖襲夏州,剋之。万俟受洛干之降也,高祖遣保洛與諸將於路接援。元象初,除西夏州刺史、當州大都督,又以前後功,封安武縣伯,邑四百戶。轉行蔚州刺史。從高祖攻周文帝於邙山,圍玉壁,攻龍門。還,留鎮晉州。

世宗が即位すると、保洛を左廂大都督とした。後に晉州を出て、征西将軍を加えられた。王思政が潁州を救援し、攻囲しても陥落しなかった。世宗は引き続き保洛に楊志塢を鎮守させ、陽州と掎角の勢いをなすようにした。潁川が平定されると、まもなく梁州刺史に任ぜられた。

原文世宗即位,以保洛為左廂大都督。後出晉州,加征西將軍。王思政之援潁州,攻圍未克。世宗仍令保洛鎮楊誌塢,使與陽州為掎角之勢。潁川平,尋除梁州刺史。

顕祖が禅譲を受けると、引き続き刺史となり、任地においてはもっぱら聚斂に務め、民吏はこれを怨んだ。済南帝の初年、出向して滄州刺史となり、敷城郡王に封ぜられた。州において聚斂を行ったため、官を免ぜられ、王爵を削奪された。死去すると、以前の官位を追贈され、本来の封爵を追復された。子の默言が嗣いだ。武平末年、衛将軍となった。

原文顯祖受禪,仍為刺史,所在聚斂為務,民吏怨之。濟南初,出為滄州刺史,封敷城郡王。為在州聚斂,免官,削奪王爵。及卒,贈以前官,追復本封。子默言嗣。武平末,衛將軍。

帳内として高祖に従って山東に出た者には、また曲珍・段琛・牒舍楽・尉摽・乞伏貴和およびその弟令和・王康德がおり、いずれも軍功により大官に至った。

原文以帳內從高祖出山東,又有曲珍、段琛、牒舍樂、尉摽、乞伏貴和及弟令和、王康德,並以軍功至大官。

曲珍は字を舍洛といい、西平酒泉の人である。壮勇で騎射に優れていた。帳内として高祖に従って晉州に至り、引き続き起義し、任地において征討した。武定末年、富平県伯に封ぜられた。天保初年、黎陽郡の幹禄を食み、晉州刺史に任ぜられた。武平初年、豫州道行臺・尚書令・豫州刺史に遷り、死去すると、太尉を追贈された。

原文曲珍字舍洛,西平酒泉人也。壯勇善騎射。以帳內從高祖晉州,仍起義,所在征討。武定末,封富平縣伯。天保初,食黎陽郡幹,除晉州刺史。武平初,遷豫州道行臺、尚書令、豫州刺史,卒,贈太尉。

段琛は字を懐宝といい、代の人である。若い頃から武勇に優れていた。高祖に従って信都で起義した。天保年間、光州刺史となった。

原文段琛字懷寶,代人也。少有武用。從高祖起義信都。天保中,光州刺史。

牒舍樂は、武成帝の時に開府儀同三司・營州刺史となり、漢中郡公に封ぜられた。関中で戦死した。

原文牒舍樂,武成開府儀同三司、營州刺史,封漢中郡公。戰歿關中。

尉摽は、代の人である。大寧の初め、海昌王に封ぜられた。子の相貴が後を嗣いだ。相貴は、武平の末に晉州道行臺尚書僕射・晉州刺史となった。行臺左丞の侯子欽らが密かに周の武帝に内応を請う啓上をしたため、欽らが内応した。周の武帝自ら衆を率いて城下に至ると、欽らは夜に城門を開いて軍を引き入れ、相貴を鎖して長安ちょうあんに送った。まもなく卒した。弟の相願は、強幹にして胆略あり。武平の末、領軍大將軍となった。平陽から幷州に至り、また鄴に到るまで、毎度計略を立てて高阿那肱を殺し、後主を廃して広寧王を立てようとしたが、事ついに果たせず。広寧王が出されるに及んで、相願は佩刀を抜き柱を斬って嘆き言うには、「大事去れり、また何を言わんや」と。

原文尉摽,代人也。大寧初,封海昌王。子相貴嗣。相貴,武平末晉州道行臺尚書僕射、晉州刺史。為行臺左丞侯子欽等密啟周武請帥,欽等為內應。周武自率衆至城下,欽等夜開城門引軍入,鎖相貴送長安。尋卒。弟相願,強幹有膽略。武平末,領軍大將軍。自平陽至幷州,及到鄴,每立計將殺高阿那肱,廢後主,立廣寧王,事竟不果。及廣寧被出,相願拔佩刀斫柱而嘆曰:「大事去矣,知復何言!」

貴和及び令和の兄弟は、武平の末、ともに開府儀同三司となった。令和は、領軍將軍となった。幷州が敗れる前に、領軍大將軍の韓建業・武衛大將軍の封輔相と相次いで周軍に投じた。令和は柱国に任ぜられ、西河郡公に封ぜられた。隋の大業の初め、秦州総管の任で卒した。

原文貴和及令和兄弟,武平末,並開府儀同三司。令和,領軍將軍。幷州未敗前,與領軍大將軍韓建業、武衛大將軍封輔相相繼投周軍。令和授柱國,封西河郡公。隋大業初,卒於秦州總管。

建業・輔相は、ともにその来歴を知られず。建業は上柱国に任ぜられ、郇国公に封ぜられ、隋の開皇年間に卒した。輔相は、上柱国となり、郡公に封ぜられた。周の武帝が幷州を平定すると、直ちに朔州総管とした。

原文建業、輔相,俱不知所從來。建業授上柱國,封郇國公,隋開皇中卒。輔相,上柱國,封郡公。周武平幷州,即以為朔州總管。

康德は、代の人である。数州刺史・幷省尚書を歴任し、新蔡郡王に封ぜられた。

原文康德,代人也。歷數州刺史、並省尚書,封新蔡郡王。

侯莫陳相

原文侯莫陳相

侯莫陳相は、代の人である。祖父の伏頹は、魏の第一領民酋長。父の斛古提は、朔州刺史・白水郡公。

原文侯莫陳相,代人也。祖伏頹,魏第一領民酋長。父斛古提,朔州刺史、白水郡公。

まもなく蔚州刺史を拝命し、引き続き大行臺として西道諸軍事を節度した。また車騎將軍・顯州刺史に遷った。入朝して太僕卿を拝命した。ほどなく、出て汾州刺史となった。別に安次県男に封ぜられ、また別に始平県公に封ぜられた。天保の初め、太師を拝命し、司空公に転じ、爵を進めて白水王と為り、邑一千一百戸を賜う。累ねて太傅を授かり、建州の幹を進食し、別に義寧郡公に封ぜられた。武平二年四月、州において薨じ、年八十三。仮黄鉞・使持節・督冀定瀛滄済趙幽幷朔恒十州軍事・右丞相・太宰・太尉公・朔州刺史を贈られた。二子あり。長子の貴樂は公主を尚び、駙馬都尉となった。次子の晉貴は、武衛將軍・梁州刺史となった。隆化の時、幷州が失陥すると、晉貴は使者を遣わして周に降り、上大將軍に任ぜられ、信安県公に封ぜられた。

原文尋除蔚州刺史,仍為大行臺,節度西道諸軍事。又遷車騎將軍,顯州刺史。入除太僕卿。頃之,出為汾州刺史。別封安次縣男,又別封始平縣公。天保初,除太師,轉司空公,進爵為白水王,邑一千一百戶。累授太傅,進食建州幹,別封義寧郡公。武平二年四月,薨於州,年八十三。贈假黃鉞、使持節、督冀定瀛滄濟趙幽幷朔恒十州軍事、右丞相、太宰、太尉公、朔州刺史。有二子。長子貴樂,尚公主,駙馬都尉。次子晉貴,武衛將軍、梁州刺史。隆化時,幷州失守,晉貴遣使降周,授上大將軍,封信安縣公。

史評

原文史評

史臣曰く、高祖(高歓)は世に雲代に居り、英雄として知られた。後に尒朱氏に遇い、武功次第に振るい、郷邑の故人は、いよいよ推重し合った。賀拔允は兄弟仲違いし、猜嫌の地に処したが、初めは旧望を以て矜み護ったものの、ついに令終を得ず、呉・蜀しょくの安瑾(諸葛瑾)・亮(諸葛亮)に比すれば、まさに器識の浅深を知る。劉貴・蔡儁は先見の明あり、霸業始めて基づくに、義深く匡贊し、清廟に配饗されるは、豈に徒然ならんや。韓賢らは義挙を聞くに及んで、競って戎行に趣き、末光に憑附し、その志力を申べ、公侯と化するは、固より其れ宜なるかな。

原文史臣曰:高祖世居雲代,以英雄見知。後過尒朱,武功漸振,鄉邑故人,彌相推重。賀拔允以昆季乖離,處猜嫌之地,初以舊望矜護,而竟不獲令終,比於吳、蜀之安瑾、亮,方知器識之淺深也。劉貴、蔡儁有先見之明,霸業始基,義深匡贊,配饗清廟,豈徒然哉。韓賢等及聞義舉,競趣戎行,憑附末光,申其志力,化為公侯,固其宜矣。