北齊書

卷十九列傳第十一 賀拔允 蔡儁 韓賢 尉長命 王懷 劉貴 任延敬 莫多婁貸文 高市貴 厙狄迴洛 厙狄盛 薛孤延 張保洛 侯莫陳相

賀拔允

賀拔允、字は可泥、神武の尖山の人である。祖父は爾頭、父は度拔、ともに魏史に見える。允は弓馬に巧みで、頗る膽略があり、弟の嶽とともに賊帥の衛可肱を殺し、そのまま魏に奔った。廣陽王元深は允を上書して積射將軍とし、節を持って滏口を防がせた。深が敗れると、 尒朱榮 じしゅえい に歸した。允父子兄弟はともに武藝をもって知られ、榮は平素よりこれを聞いていた。允を見て、これを厚く待遇した。建義の初め、征東將軍・光祿大夫を除され、壽陽縣侯に封ぜられ、邑七百戶を賜う。永安年中、征北將軍・蔚州刺史を除され、爵を公に進めた。魏の長廣王が立つと、燕郡公に改封され、侍中を兼ねた。茹茹に使いし、 しん 陽に還り至るに、高祖が山東に出づるに當たり、允は素より高祖が凡人ならざるを知り、早くより自ら結び託した。高祖はその北士の望みあるを以て、特に親しく禮した。遂に允とともに 信都 しんと を出で、大策を參定す。魏中興の初め、 司徒 しと に轉じ、 尚書令 しょうしょれい を領す。高祖が洛に入り、爵を王に進め、太尉に轉じ、侍中を加えらる。

魏の武帝が高祖を猜忌するに當たり、允の弟の岳に深く相委託し、密かに來往せしむ。當時、皆允が變を爲すを慮る。岳の死するに及び、武帝はまた岳の弟の勝に心腹の寄を委ぬ。高祖はその舊を重んじ、久しく全護す。天平元年、乃ち死を賜う、時に年四十八、高祖親臨して哭す。定州刺史・五州軍事を贈らる。

允に三子あり、長子は世文、次は世樂、次は難陀。興和の末、高祖並びに召して諸子と同學せしむ。武定年中、勅して定州に居らしめ、その田宅を賜う。

蔡儁 さいしゅん

蔡儁、字は景彥、廣寧の石門の人である。父は普、北方擾亂し、五原に奔走し、守戰に功あり。寧朔將軍を拜し、安上縣男に封ぜられ、邑二百戶を賜う。尋いで卒す、輔國將軍・燕州刺史を贈らる。

儁は豪爽にして膽氣あり、高祖が微時に在りし時、深く相親附す。遼西の段長、太原の 龐蒼鷹 ほうそうよう とともに先知の鑒あり。長は魏の 懷朔 かいさく 鎮將たり、嘗て高祖を見て、甚だこれを異とし、高祖に云う、「君に康世の才あり、終に徒然たるべからず、請う子孫を以て託せん」と。興和中、啓して 司空 しくう 公を贈らる。子の寧は、相府從事中郎、天保の初め、南中郎將を兼ぬ。蒼鷹は豪俠と交遊し、賓旅を厚く待ち、州城に居る。高祖その舍に客たり、初めは蝸牛廬の中に居處す。蒼鷹の母、數たび廬の上に赤氣天に屬するを見る。蒼鷹もまた高祖に霸王の量あるを知り、每に私に敬を加え、その宅の半ばを割きて高祖に奉ず、これによりて遂に親識を蒙る。高祖の しん 州を牧するに、引いて兼治中從事史とし、義寧郡の事を行わしむ。義旗建つに及び、蒼鷹は乃ち家を棄てて間行し高祖に歸す、高祖以て兼行臺倉部郎中とす。安州刺史にて卒す。

儁は初め 杜洛周 とらくしゅう に虜われたり、時に高祖もまた洛周の軍中に在り、高祖洛周を誅せんと謀り、儁その計に預かる。事泄れ、走りて 葛榮 かつえい に奔り、仍って葛を背きて尒朱榮に歸す。榮洛に入り、平遠將軍・帳內別將と為る。葛榮を破るに從い、諫議大夫を除く。また元顥を平ぐるに從い、烏洛縣男に封ぜらる。高祖に從い義を舉げ、 都督 ととく と為る。高祖 ぎょう を平げ、及び四胡を韓陵に破るに、儁並びに戰功あり。太昌中、出でて濟州刺史と為り、治め嚴暴にして、又多く受納す、然れども亦明解にして部分あり、吏民これを畏服す。性賓客を好み、頗る施與を稱す。後、胡遷等兗州に據りて逆を爲すに、儁は齊州刺史の尉景とともにこれを討平す。

魏の武帝高祖に貳するに當たり、濟州の要重なるを以て、腹心をしてこれを據らしめんと欲す。密かに詔して御史に儁の罪狀を構えしめ、汝陽王を以て儁に代えんと欲す、これによりて行兗州事に轉ず。高祖は儁に罪なきを以て、啓してその任を復せしむ。武帝許さず、 賈顯智 かけんち を刺史と除し、衆を率いて州に赴かしむ。儁は防守嚴備を以てす、顯智これを憚り、東郡に至りて、敢えて前進せず。

天平中、 都督 ととく と為り、領軍の婁昭に隨い兗州にて樊子鵠を攻め、また行臺の元子思とともに元慶和を討ち、ともにこれを平ぐ。侯深反す、また儁を大 都督 ととく と為し、衆を率いてこれを討ち、深敗走す。また揚州刺史に轉ず。天平三年秋、州にて卒す、時に年四十二。持節・侍中・ 都督 ととく ・冀州刺史・ 尚書令 しょうしょれい 司空 しくう 公を贈られ、諡して威武と曰う。齊、禪を受く、詔してその墓に祭告す。皇建の初め、高祖廟庭に配享す。

韓賢

韓賢、字は普賢、廣寧の石門の人である。壯健にして武用あり。初め葛榮に隨い逆を爲し、榮破れるに、例に隨い 幷州 へいしゅう に至り、尒朱榮擢いて左右に充つ。榮の妻子北走し、世隆等魏の長廣王曄を立てて主と為し、賢を鎮遠將軍・屯騎 校尉 こうい と除く。是に先立ち、世隆等建州及び石城を攻むるに、賢並びに戰功あり。尒朱度律用いて帳內 都督 ととく と為し、汾陽縣伯に封ぜられ、邑四百戶を賜う。

普泰の初め、前將軍・廣州刺史を除く。高祖起義するに屬し、度律は賢が素より高祖に知らるるを以て、その變あるを恐れ、使いを遣わしてこれを征す。賢應召を願わず、乃ち密かに群蠻を遣わし、多く烽火を舉げ、寇難將至するが如くす。使者遂に啓し、停まるを得。賢仍って潛かに使人を遣わして誠を高祖に通ず。高祖洛に入り、尒朱の官爵例皆削除せらるるも、賢の遠く誠 たた を送るを以て、その舊を復せしむ。太昌の初め、累遷して中軍將軍・光祿大夫と為り、出でて建州刺史と為る。武帝西に入るに、行荊州事に轉ず。

天平の初め、洛州刺史となった。民の韓木蘭らが土民を率いて叛乱を起こしたが、賢はこれを撃破し、自ら検分して、甲冑兵器を収めようとした。ある賊が窮迫して死屍の間に隠れていたが、賢が来るのを見て、突然立ち上がって賢を斬り、その脛を断って死なせた。賢は武将であったが、性質は温和で正直であり、甚だ貪暴ではなく、歴任した地で善政はなかったが、吏民に苦しまれることはなかった。昔、漢の明帝の時、西域が白馬に仏経を負わせて洛陽に送り、それによって白馬寺を建立したが、その経函がこの寺に伝わり、形制は淳朴で、世間では古物とされ、歴代に宝蔵されていた。賢は理由もなくこれを斬り破ったが、間もなく死んだので、 ずる者は賢がこれによって禍を招いたという。侍中・持節・定営安平四州軍事・大將軍・ 尚書令 しょうしょれい 司空 しくう 公・定州刺史を追贈された。子の裔が後を嗣いだ。

尉長命

尉長命は、太安の狄那人である。父の顯は、魏の鎮遠將軍・代郡 太守 たいしゅ であった。長命は性質が温和で篤厚、器量と識見があった。扶陽の乱の時、太原に寄寓した。高祖が大義を建てようとした時、長命は計策に参与し、高祖に従って韓陵で四胡を破り、安南將軍に拝された。樊子鵠が兗州に拠って反すると、東南道大 都督 ととく に任ぜられ、諸軍とともにこれを討平した。范陽城を鎮守することとなり、そのまま幽州刺史に任ぜられ、安・平二州の事を 都督 ととく した。州は北辺に位置し、土地は荒廃し民は離散していたが、長命は多くを 聚斂 しゅうれん したが、恩をもって民を撫で、少し安集を得た。まもなく病気のため職を去った。間もなく、また征召されて車騎大將軍・ 都督 ととく 西燕幽滄瀛四州諸軍事・幽州刺史に任ぜられた。州で卒した。本官をもって追贈し、 司空 しくう を加え、諡して武壯といった。

子の興敬は、弓馬に巧みで、武芸があり、高祖が帳内 都督 ととく に引き立てた。出て常山公府参軍事となり、集中縣伯の爵を賜った。 しん 州の民李小興が群聚して賊となったので、興敬は 司空 しくう 韓軌に従ってこれを討平し、侯に爵を進めた。高祖が邙山で周の文帝を攻めた時、興敬は戦闘中に流れ矢に当たって卒した。涇岐豳三州軍事を追贈され、爵は公とされ、諡して閔莊といった。高祖は哀惜し、自ら弔問し、その妻子に禄を賜うこと興敬の存命中の如くであった。子の士林が後を嗣いだ。

王懷

王懷は、字を懷周といい、何許の人か知らない。若い時から弓馬を好み、気概と節操がかなりあり、北辺の喪乱に遭い、早くから軍旅に従った。韓樓が幽州で反すると、懷はその成らぬことを知り、ひそかに親しい者を結び、中興の初めに樓を叛いて魏に帰順し、征虜將軍・第一領民酋長・武周縣侯に任ぜられた。

高祖が東に出ると、懷はその部人三千餘家を率い、高祖に従って冀州に至った。義旗が建つと、高祖は大 都督 ととく とし、広阿で 尒朱兆 じしゅちょう を討つに従い、これを破り、安北將軍・蔚州刺史に任ぜられた。また高祖に従って鄴を攻め、これを落とし、韓陵で四胡を破るに従い、侯に爵を進めた。そのまま洛に入るに従い、車騎將軍に任ぜられ、盧鄉縣侯に改封された。

天平年中、使持節・廣州軍事に任ぜられた。梁が将の湛僧珍・楊暕を遣わして来寇したので、懷は行臺の元晏とともに項城を撃ち、これを抜き、暕を擒らえた。また高祖に従って西夏州を襲撃し落とした。帰還し、大 都督 ととく となり、下館を鎮守し、儀同三司に任ぜられた。元象の初め、大 都督 ととく となり、諸将とともに西討し、病気に遇い建州で卒した。定幽恒肆四州諸軍事・刺史・ 司徒 しと 公・尚書僕射を追贈された。懷は武芸と勲誠をもって高祖に知られ、志と力は未だ伸びず、論ずる者はその遂げざるを惜しんだ。皇建の初め、高祖廟庭に配饗された。

劉貴

劉貴は、秀容の陽曲の人である。父の幹は、魏の世に前將軍・肆州刺史を追贈された。貴は剛直で気性が激しく決断力があり、尒朱榮の府で騎兵參軍を歴任した。建義の初め、策定に参与した功により、敷城縣伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。左將軍・太中大夫に任ぜられ、まもなく公に進んだ。榮の性質は猛烈で急であり、貴は特に厳峻で、任使されるごとに多く榮の心に適い、信遇され、位望日々重くなり、撫軍將軍を加えられた。永安三年、涼州刺史に任ぜられた。建明の初め、 尒朱世隆 じしゅせいりゅう が専擅し、貴を征南將軍・金紫光祿・兼左僕射・西道行臺とし、正平において孝莊行臺の元顯恭に対抗させた。貴は顯恭を破り、これを擒らえ、大 都督 ととく 裴儁らとともにし、また しん 州刺史に任ぜられた。普泰の初め、行汾州事に転じた。高祖が起義すると、貴は城を棄てて鄴の高祖のもとに帰った。太昌の初め、本官をもって肆州刺史に任ぜられ、行建州事に転じた。天平の初め、陜州刺史に任ぜられた。四年、御史中尉・肆州大中正に任ぜられた。その年、行臺僕射を加えられ、 侯景 こうけい 高昂 こうこう らとともに洛陽で獨孤如願を討った。

貴は凡そ歴任した地では、ことごとくその威酷を恣にした。城郭を修営し、督責は厳切峻烈で、道理に合わぬ殺害を行い、下を見ること草芥の如くであった。しかし厳断をもって事務を助け、機速に益があった。性質は峻直で、攻撃・摘発に回避することがなく、故に時に賞せられた。佐命の元功ではないが、高祖とは布衣の旧交であり、特に親重された。興和元年十一月卒した。冀定幷殷瀛五州軍事・太保・太尉公・錄尚書事・冀州刺史を追贈され、諡して忠武といった。齊が禅を受けると、詔してその墓に祭告した。皇建年中、高祖廟庭に配享された。長子の元孫は、員外郎・肆州中正であったが、早世した。肆州刺史を追贈された。次子の洪徽が後を嗣いだ。武平の末、仮の儀同三司となり、門下事を奏した。

任延敬

任延敬は、廣寧の人である。伯父の桃は、太和の初め雲中軍将となり、延敬はこれに従い、因ってそこに家を定めた。延敬は若い時から温和で篤厚、器量と度量があった。初め葛榮に従って賊となり、榮は王に署し、甚だ委任された。榮が敗れると、延敬は擁する所部を率いて先に降伏し、鎮遠將軍・廣寧太守に任ぜられ、西河縣公の爵を賜った。

後に高祖に従って大義を建て、中興の初め、累遷して光祿大夫となった。太昌の初め、累転して尚書左僕射となり、位を進めて開府儀同三司となった。延敬は位望既に重かったが、寛和をもって人と接することができ、人士に称えられた。 斛斯椿 こくしちゅん の隙が起こると、延敬は家を棄てて北走し、河北郡に至り、因って土民を率いてこれを拠り、高祖を待った。

魏の武帝が関に入ると、荊蠻が従わず、延敬を持節南道大 都督 ととく として、これを討平した。天平の初め、また侍中に任ぜられた。時に范陽の人盧仲延が河北の流民を率いて陽夏で反し、西兗州の民田龍が衆を聚めてこれに応じたので、延敬を大 都督 ととく ・東道軍司とし、 都督 ととく の元整・叱列陀らを率いてこれを討たせた。まもなく行臺僕射となり、徐州刺史に任ぜられた。時に梁が元慶和とその諸将を遣わして辺境を寇したので、延敬は北済陰で梁の仁州刺史黄道始を破り、また単父で梁儁を破り、捕虜斬首一万人に及んだ。また侍中に任ぜられた。州にあって大いに収納を受けた。しかし為政は残忍ではなく、人士を礼敬し、民に苦しまれることはなかった。

潁州長史賀若徽が刺史田迅を捕らえて城を占拠し 西魏 せいぎ に降り、再び延敬に命じて 州刺史堯雄らを率いてこれを討たせた。西魏はその将怡鋒に衆を率いて来援させ、延敬らはこれと戦って利あらず、北 に収まって還り、行臺侯景・ 司徒 しと 高昂らと相会し、共に潁川を攻めてこれを抜いた。元象元年秋、鄴にて卒す。時に年四十五。使持節・太保・太尉公・録尚書事・ 都督 ととく 冀定瀛幽安五州諸軍事・冀州刺史を贈られた。子の胄が嗣いだ。

胄は軽侠で、頗る敏慧であった。少くより高祖の左右にあり、天平年中、抜擢されて東郡太守となった。家は元より財豊かで、また多く聚斂し、動けば極めて豪華、賓客の往来には将迎至厚であった。尋いで贓汚の罪により有司に弾劾されたが、高祖はこれを赦した。郡を解かれた後、高祖は 都督 ととく とした。興和末、高祖が玉壁を攻めて還り、 しん 州西南の要地を重視し、清河公嶽を行臺として鎮守させ、胄をこれに隷属させた。胄は酒を飲み遊びふけり、防守に勤めず、高祖に責められた。胄は懼れ、密かに使を遣わして周に降伏の意を送った。人に糾弾され、窮めて取り調べたが実証を得ず、高祖は特にこれを免じ、胄に謂って曰く「我は物に誠を推す、卿は必ずや此の理無からんと謂う。且つ黒獺 (宇文泰) の降人、首尾相継ぎ、卿の虚実は、後ち何ぞ知らんことを患えん」と。胄は内に自ら安からず。是の時、儀同尒朱文暢及び参軍房子遠・鄭仲禮らは並びに険薄無頼、胄は厚くこれと交結し、乃ち陰に殺逆を図った。武定三年正月十五日、高祖の夜戯に乗じ、謀って窃かに発さんとす。これを告ぐる者あり、捕えて窮治させたところ、事皆実を得た。胄及び子弟は並びに誅された。

莫多婁貸文

莫多婁貸文は、太安狄那の人である。 ぎょう 果にして胆気あり。高祖に従って義挙す。中興初、伏波将軍・武賁中郎将・虞候大 都督 ととく に除せられる。広阿にて尒朱兆を撃つに従い、功有り、前将軍を加えられ、石城県子に封ぜられ、邑三百戸を賜う。また韓陵にて四胡を破るに従い、爵を進めて侯となる。赤谼嶺にて尒朱兆を平らぐに従う。兆は窮迫して自経し、貸文はその屍を獲た。左廂大 都督 ととく に遷る。斛斯椿らが釁を起こすと、魏武帝は賈顯智を遣わして石済を据え守らせた。高祖は貸文に命じ精鋭三万を率い、 竇泰 とうたい らと定州にて相会し、共に石済に向かい、顯智を撃ち走らせた。天平年中、 しん 州刺史に除せられる。汾州の胡賊が寇窃を為すや、高祖親らこれを討ち、貸文を先鋒とし、毎に戦功有り。還りて奴婢三十人・牛馬各五十匹・布一千匹を賜い、仍って汾・陜・東雍・ しん ・泰五州大 都督 ととく となる。後に太保尉景と共に東雍・南汾二州を攻め、これを克つ。元象初、車騎大将軍・儀同・南道大 都督 ととく に除せられ、行臺侯景と共に金墉城にて独孤如願を攻む。周文帝の軍が函谷より出で、景と高昂は議して旅を整え卒を励まし、その至るを待たんとす。貸文は請うて率いる所部を以て、その前鋒を撃たんとす、景ら固より許さず。貸文は性勇にして専、命を受けることを肯ぜず、軽騎一千を以て軍前の斥候と為し、西に瀍澗を過ぎ、周軍に遇い、戦没す。幷肆恒雲朔五州軍事・幷州刺史・尚書右僕射・ 司徒 しと 公を贈られた。

子の敬顯は、強直勤幹、少より武力を以て知られる。恒に斛律光に従い征討し、数え戦功有り。光は毎に敬顯に命じて前駆と為し、営壘を安置せしめ、夜中巡察し、或いは達旦して睡らざらしむ。敵に臨み陣を置くにも、亦た敬顯に令して将士を部分せしめ、造次の間に、行伍整肅たり。深く光に重んぜらる。位は領軍将軍に至り、恒に虞候事を検校す。武平年中、車駕 しん 陽に幸す毎に、敬顯に留臺兵馬を督せしめ、盗賊を糾察せしむると、京師肅然たり。七年、後主に従い平陽に至り、敗れて幷州に帰り、唐邕らと共に推立して安德王をして尊号を称せしむ。安德敗れ、文武群官皆周軍に投ずるも、唯だ敬顯は走りて鄴に還る。 司徒 しと を授かる。周武帝が 鄴城 ぎょうじょう を平らげし明日、敬顯を執り、閶闔門外に斬り、その しん 陽に留まらざりしを責む。

高市貴

高市貴は、善無の人である。少より武用有り。孝昌初、恒州内部の勅勒劉侖らが衆を聚めて反すや、市貴は 都督 ととく と為り、衆を率いて侖を討ち、一戦にしてこれを破る。累遷して撫軍将軍・諫議大夫となる。及んで尒朱榮が魏莊帝を立てるや、高貴は翼戴の勲に預かり、衛将軍・光禄大夫・秀容大 都督 ととく ・第一領民酋長に遷り、上洛県伯の爵を賜う。尒朱榮が滏口にて葛栄を撃つに、市貴を前鋒 都督 ととく と為す。栄平らぎ、使持節・汾州刺史に除せられ、尋いで しん 州刺史となる。紇豆陵歩藩が幷州を侵乱するや、高祖これを破り、市貴も亦た従行して功有り、驃騎大将軍・儀同三司に除せられ、常山郡公に封ぜられ、邑一千五百戸を賜う。

高祖義挙すや、市貴はその謀に預かる。及んで樊子鵠が州を据えて反すや、大 都督 ととく 婁昭に従いこれを討つ。子鵠平らぎ、西兗州刺史に除せられるも、州に之かず。天平初、再び しん 州刺史に除せられる。高祖尋いで洪峒の要険を以て、市貴を遣わしてこれを鎮めしむ。

高祖沙苑にて利あらず、 しん 州行事封祖業城を棄てて還るや、州民柴覽衆を聚めて逆を為す。高祖は市貴に命じて覧を討たしむ。覧は柴壁に奔るも、市貴これを破り斬る。是の時、東雍・南汾二州の境に群賊多く、聚まって盗を為すも、市貴の覧を平らぐるに因り、皆散じて復業す。後に秀容人五千戸叛きて山胡に応ずるや、再び市貴を行臺と為し、諸軍を統べて討ち平らぐ。元象年中、高祖に従い邙山にて周文帝を破る。重ねて しん 州刺史・西道軍司に除せられ、衆を率いて懐州の逆賊潘集を撃つ。未だ至らざるに、疾に遇い道に卒す。幷汾懐建東雍五州軍事・太尉公・幷州刺史を贈られる。子の可那肱は貴寵を受け、成臯王に封ぜられる。勅してその第二子孔雀に承襲せしむ。

厙狄迴洛

厙狄迴洛は、代の人である。少より武力有り、儀貌魁偉なり。初め尒朱榮に事えて統軍と為り、莊帝を立てるに預かり、別将に転じ、毋極伯の爵を賜う。葛栄を破るに従い、 都督 ととく に転ず。栄死し、尒朱兆に隷す。高祖信都に挙兵すや、迴洛は衆を擁して義に帰す。韓陵にて四胡を破るに従い、軍功を以て 都督 ととく を補し、後将軍・太中大夫を加えられ、順陽県子に封ぜられ、邑四百戸を賜う。右廂 都督 ととく に遷る。山胡を征するに従い、先鋒として首級を斬り、朔州刺史に除せられる。河陽にて周文を破り、転じて夏州刺史を授かる。邙山の役、力戦して功有り、邑を増して通前七百戸とす。世宗事を嗣ぎ、潁川を平らぐに従う。天保初、建州刺史に除せられる。肅宗即位し、順陽郡王に封ぜらる。大寧初、朔州刺史に転じ、博陵郡幹を食む。太子太師に転じ、疾に遇い卒す。使持節・ 都督 ととく 定瀛恒朔雲五州軍事・大将軍・太尉公・定州刺史を贈られ、贈物一千段を賜う。

厙狄盛

厙狄盛は、懐朔の人である。性質は温和で、若い頃から武勇に優れていた。初め高祖の 親信都督 しんしんととく となり、伏波将軍に任ぜられ、しばしば征討に従った。功績により行唐県伯に封ぜられ、さらに累進して安北将軍・幽州刺史となり、中軍将軍を加えられ、 州鎮城 都督 ととく となった。勲功の旧臣として爵位を公に進め、世宗はその封邑を二百戸減じて、その邑を増やした。征西大将軍・開府儀同三司・朔州刺史に任ぜられた。齊が禅譲を受けると、華陽県公に改封された。また北朔州刺史に任ぜられ、華陽の封邑が遠方にあるため、定例に従って幷州の石艾県・肆州の平寇県・原平の馬邑県からそれぞれ数十戸を割き、合わせて二百戸をその食邑とした。間もなく、定例により罷免され、特進に任ぜられ、死去した。使持節・ 都督 ととく 朔瀛趙幽安五州諸軍事・太尉公・朔州刺史を追贈された。

薛孤延

薛孤延は、代の人である。若い頃から ぎょう 勇果断で、武勇に優れていた。韓楼が反乱を起こすと、延は衆に従ってこれに属した。後に王懐らと密かに謀って楼を討とうとしたが、楼の尉帥乙弗醜に察知され、力戦して醜を破り、ついに相率いて帰順した。行臺劉貴が 都督 ととく に表し、征虜将軍を加え、永固県侯の爵を賜った。後に高祖に隷属して 都督 ととく となり、引き続き起義に従った。広阿において尒朱兆を破り、これに従って鄴を平定し、功績により爵位を公に進め、大 都督 ととく に転じた。韓陵において四胡を破るのに従い、金紫光禄大夫を加えられた。赤谼嶺において尒朱兆を追撃するのに従い、第一領民酋長に任ぜられた。孝静帝が即位すると、顕州刺史に任ぜられ、累進して車騎将軍となった。天平四年、高祖に従って西征した。蒲津に至り、竇泰が河南で敗北すると、高祖は軍を返し、延は殿軍を務め、戦いながら進み、一日に十五本の刀を折り斬った。帰還後、梁州刺史に転じた。玉壁征討に従い、また恒州刺史に転じた。邙山において周文帝を破るのに従い、爵位を県公に進め、邑一千戸を賜った。

高祖がかつて北の牧場で馬を閲兵していた時、道中で暴雨に遭い、大雷が地を震わせた。前方に一つの仏塔があり、高祖は延にこれを視察させた。延は馬を馳せて槊を構えまっすぐに進み、三十歩に至らないうちに、雷火が顔面を焼いた。延は喝をかけて殺気を放ち、仏塔の周りを走り回ると、火はついに消えた。延が戻ると、眉鬢および馬の鬃毛と尾はすべて焦げていた。高祖は嘆じて言った、「薛孤延は霹靂と鬪うことができたのか!」その勇決はこのようなものであった。

またしばしば高祖に従って山胡を討ち破り、西進して玉壁を攻めた。入朝して左衛将軍となり、平秦郡公に改封された。左廂大 都督 ととく として、諸軍の将とともに潁州を討った。延は専ら土山の造営を監督したが、酒に酔っていたため敵に襲撃され占拠された。潁州が平定され、諸将が京師に帰還し、華林園で宴が開かれた。世宗は魏帝に奏上し、延を階下に座らせて辱めた。後に兼領軍将軍となり、出向して滄州刺史となり、別に温県男に封ぜられ、邑三百戸を賜った。齊が禅譲を受けると、別に都昌県公の爵を賜った。性質は酒を好み、しばしば酔いにふけっていた。しかし勇決善戦であり、大軍が征討する時は常に前鋒を務めたため、彭・劉・韓・潘らと同列に並んだ。天保二年、太子太保となり、太子太傅に転じた。八年、肆州刺史に任ぜられ、開府儀同三司を加えられ、洛陽郡の幹禄を食み、まもなく河間郡の幹禄を食むよう改められた。

張保洛

張保洛は、代の人である。自ら言うには、本貫は南陽西鄂であるという。家は代々賓客を好み、気侠を尊び、しばしば北土に知られた。保洛は若い頃から剛健で、弓馬に優れていた。魏の孝昌年間、北鎮が擾乱すると、保洛もまた衆に従って南下した。葛栄が僭逆をなすと、保洛を領左右とした。栄が敗れると、引き続き尒朱栄の統軍となり、累進して揚烈将軍・奉車都尉となった。後に高祖に隷属して 都督 ととく となり、歩蕃討伐に従った。

高祖が起義すると、保洛は帳内となり、広阿において尒朱兆を破るのに従った。まもなく右将軍・中散大夫に遷り、引き続き帳内として高祖に従って 鄴城 ぎょうじょう を包囲し、陥落させると、平南将軍・光禄大夫に任ぜられた。韓陵において尒朱兆らを破るのに従い、これに従って高祖とともに洛に入り、安東将軍を加えられた。後に高祖が国邑を減じて将士に分け与えるよう奏上すると、保洛は定例に従って昌平県薄家城郷男に封ぜられ、百戸を賜った。

魏の出帝が高祖と不協和音を生じると、儀同賈顕智に命じて 州刺史斛斯寿を率いさせ、東に向かって済州へ急がせた。高祖は大 都督 ととく 竇泰を派遣して滑臺から渡河させて顕智を防がせ、保洛は泰に隷属して前駆を務めた。事態が収まると、 都督 ととく に転じた。

高祖に従って夏州を襲撃し、これを陥落させた。 万俟受洛干 まんきじゅらくかん が降伏する時、高祖は保洛と諸将を派遣して途中で迎え援護させた。元象初年、西夏州刺史・当州大 都督 ととく に任ぜられ、また前後の功績により、安武県伯に封ぜられ、邑四百戸を賜った。行蔚州刺史に転じた。邙山において周文帝を攻撃するのに高祖に従い、玉壁を包囲し、龍門を攻めた。帰還後、留まって しん 州を鎮守した。

世宗が即位すると、保洛を左廂大 都督 ととく とした。後に しん 州を出て、征西将軍を加えられた。 王思政 おうしせい が潁州を救援し、攻囲しても陥落しなかった。世宗は引き続き保洛に楊志塢を鎮守させ、陽州と掎角の勢いをなすようにした。潁川が平定されると、まもなく梁州刺史に任ぜられた。

顕祖が禅譲を受けると、引き続き刺史となり、任地においてはもっぱら聚斂に務め、民吏はこれを怨んだ。済南帝の初年、出向して滄州刺史となり、敷城郡王に封ぜられた。州において聚斂を行ったため、官を免ぜられ、王爵を削奪された。死去すると、以前の官位を追贈され、本来の封爵を追復された。子の默言が嗣いだ。武平末年、衛将軍となった。

帳内として高祖に従って山東に出た者には、また曲珍・段琛・牒舍楽・尉摽・乞伏貴和およびその弟令和・王康德がおり、いずれも軍功により大官に至った。

曲珍は字を舍洛といい、西平酒泉の人である。壮勇で騎射に優れていた。帳内として高祖に従って しん 州に至り、引き続き起義し、任地において征討した。武定末年、富平県伯に封ぜられた。天保初年、黎陽郡の幹禄を食み、 しん 州刺史に任ぜられた。武平初年、 州道行臺・ 尚書令 しょうしょれい 州刺史に遷り、死去すると、太尉を追贈された。

段琛は字を懐宝といい、代の人である。若い頃から武勇に優れていた。高祖に従って信都で起義した。天保年間、 光州 こうしゅう 刺史となった。

牒舍樂は、武成帝の時に開府儀同三司・營州刺史となり、漢中郡公に封ぜられた。関中で戦死した。

尉摽は、代の人である。大寧の初め、海昌王に封ぜられた。子の相貴が後を嗣いだ。相貴は、武平の末に しん 州道行臺尚書僕射・ しん 州刺史となった。行臺左丞の侯子欽らが密かに周の武帝に内応を請う啓上をしたため、欽らが内応した。周の武帝自ら衆を率いて城下に至ると、欽らは夜に城門を開いて軍を引き入れ、相貴を鎖して長安に送った。まもなく卒した。弟の相願は、強幹にして胆略あり。武平の末、領軍大將軍となった。平陽から幷州に至り、また鄴に到るまで、毎度計略を立てて高阿那肱を殺し、後主を廃して広寧王を立てようとしたが、事ついに果たせず。広寧王が出されるに及んで、相願は佩刀を抜き柱を斬って嘆き言うには、「大事去れり、また何を言わんや」と。

貴和及び令和の兄弟は、武平の末、ともに開府儀同三司となった。令和は、領軍將軍となった。幷州が敗れる前に、領軍大將軍の韓建業・武衛大將軍の封輔相と相次いで周軍に投じた。令和は柱国に任ぜられ、西河郡公に封ぜられた。隋の大業の初め、秦州総管の任で卒した。

建業・輔相は、ともにその来歴を知られず。建業は上柱国に任ぜられ、郇国公に封ぜられ、隋の開皇年間に卒した。輔相は、上柱国となり、郡公に封ぜられた。周の武帝が幷州を平定すると、直ちに朔州総管とした。

康德は、代の人である。数州刺史・幷省尚書を歴任し、新蔡郡王に封ぜられた。

侯莫陳相

侯莫陳相は、代の人である。祖父の伏頹は、魏の第一領民酋長。父の斛古提は、朔州刺史・白水郡公。

まもなく蔚州刺史を拝命し、引き続き大行臺として西道諸軍事を節度した。また車騎將軍・顯州刺史に遷った。入朝して太僕卿を拝命した。ほどなく、出て汾州刺史となった。別に安次県男に封ぜられ、また別に始平県公に封ぜられた。天保の初め、太師を拝命し、 司空 しくう 公に転じ、爵を進めて白水王と為り、邑一千一百戸を賜う。累ねて太傅を授かり、建州の幹を進食し、別に義寧郡公に封ぜられた。武平二年四月、州において薨じ、年八十三。仮黄鉞・使持節・督冀定瀛滄済趙幽幷朔恒十州軍事・右丞相・太宰・太尉公・朔州刺史を贈られた。二子あり。長子の貴樂は公主を尚び、駙馬都尉となった。次子の しん 貴は、武衛將軍・梁州刺史となった。隆化の時、幷州が失陥すると、 しん 貴は使者を遣わして周に降り、上大將軍に任ぜられ、信安県公に封ぜられた。

史評

史臣曰く、高祖 (高歓) は世に雲代に居り、英雄として知られた。後に尒朱氏に遇い、武功次第に振るい、郷邑の故人は、いよいよ推重し合った。賀拔允は兄弟仲違いし、猜嫌の地に処したが、初めは旧望を以て矜み護ったものの、ついに令終を得ず、呉・蜀の安瑾 (諸葛瑾) ・亮 (諸葛亮) に比すれば、まさに器識の浅深を知る。劉貴・蔡儁は先見の明あり、 霸業 はぎょう 始めて基づくに、義深く匡贊し、清廟に配饗されるは、豈に徒然ならんや。韓賢らは義挙を聞くに及んで、競って戎行に趣き、末光に憑附し、その志力を申べ、公侯と化するは、固より其れ宜なるかな。

原本を確認する(ウィキソース):北齊書 巻019