北齊書

巻018

巻018

北齊書

原文北齊書

卷十八列傳第十 孫騰 高隆之 司馬子如

原文卷十八列傳第十 孫騰 高隆之 司馬子如

孫騰

原文孫騰

孫騰、字は龍雀、咸陽郡石安県の人である。祖父の通は沮渠氏に仕えて中書舎人となり、沮渠氏が滅びると北魏に入り、北辺に居住した。騰が顕貴すると、魏朝は通に使持節・侍中・都督ととく雍華岐幽四州諸軍事・驃騎大將軍・司徒しと公・尚書左僕射・雍州刺史を追贈し、騰の父の機に使持節・侍中・都督冀定滄瀛殷五州諸軍事・太尉公・尚書令しょうしょれい・冀州刺史を追贈した。

原文孫騰,字龍雀,咸陽石安人也。祖通,仕沮渠氏為中書舍人,沮渠滅,入魏,因居北邊。及騰貴,魏朝贈通使持節、侍中、都督雍華岐幽四州諸軍事、驃騎大將軍、司徒公、尚書左僕射、雍州刺史,贈騰父機使持節、侍中、都督冀定滄瀛殷五州諸軍事、太尉公、尚書令、冀州刺史。

騰は若くして質朴で率直であり、吏事に明るく理解していた。北魏の正光年間(520-525)、北方が擾乱すると、騰は艱難辛苦を経て秀容に到達した。尒朱榮が義兵を挙げるに当たり、騰は栄に従って洛陽らくように入り、例により冗従僕射に任じられた。まもなく高祖こうそ(高歓)の都督府長史となり、高祖に従って東征し邢杲を討った。軍が斉城に駐屯した時、撫宜鎮の軍人が謀反を企て、督帥を害そうとした。騰はこれを知り、密かに高祖に報告した。間もなく事が発覚したが、高祖は備えがあったため、これを捕らえて打ち破った。高祖が晋州刺史となった時、騰は長史となり、後将軍を加えられ、石安県伯に封じられた。高祖が晋陽から滏口に出て、襄垣に行き着いた時、尒朱兆が衆を率いて追撃してきた。高祖は兆と水辺で宴飲し、兄弟の誓いを結び、それぞれ本営に帰った。翌朝、兆が再び高祖を招いたが、高祖はその意を安んじようと赴こうとした。馬に乗ろうとした時、騰が衣を引いて止めた。兆は水を隔てて罵り、晋陽に馳せ帰った。高祖は遂に東進した。信都で義兵を挙げた時、騰は誠実な心をもって常に謀策に参画した。騰は朝廷と隔絶し号令の帰するところがないことを以て、暫定的に主君を立てなければ衆将が沮喪離散すると考え、高祖に苦しくも請願した。高祖はこれに従い、遂に中興主(元朗)を立てた。侍中に任じられ、まもなく使持節・六州流民大都督・北道大行臺を加えられた。高祖が鄴に進軍した時、初め段栄を留めて信都を守らせたが、まもなく栄を派遣して中山を鎮守させ、依然として騰を居守させた。鄴が平定されると、相州刺史に任じられ、咸陽郡公に改封され、封邑を増やして通算一千三百戸とし、入朝して侍中となった。当時、北魏の京兆王愉の娘である平原公主が寡居しており、騰はこれを娶ろうとしたが、公主は許さなかった。侍中の封隆之には妻がおらず、公主は隆之を望んだ。騰は隆之を妬み、遂に互いに讒言し合った。高祖は騰の官を免じ、外任を請うたが、間もなく復職させた。

原文騰少而質直,明解吏事。魏正光中,北方擾亂,騰間關危險,得達秀容。屬尒朱榮建義,騰隋榮入洛,例除冗從僕射。尋為高祖都督府長史,從高祖東征邢杲。師次齊城,有撫宜鎮軍人謀逆,將害督帥。騰知之,密啟高祖。俄頃事發,高祖以有備,擒破之。高祖之為晉州,騰為長史,加後將軍,封石安縣伯。高祖自晉陽出滏口,行至襄垣,尒朱兆率衆追。高祖與兆宴飲於水湄,誓為兄弟,各還本營。明旦,兆復招高祖,高祖欲安其意,將赴之,臨上馬,騰牽衣止之。兆乃隔水肆罵,馳還晉陽。高祖遂東。及起義信都,騰以誠款,常預謀策。騰以朝廷隔絕,號令無所歸,不權有所立,則衆將沮散,苦請於高祖。高祖從之,遂立中興主。除侍中,尋加使持節、六州流民大都督、北道大行臺。高祖進軍於鄴,初留段榮守信都,尋遣榮鎮中山,仍令騰居守。及平鄴,授相州刺史,改封咸陽郡公,增邑通前一千三百戶,入為侍中。時魏京兆王愉女平原公主寡居,騰欲尚之,公主不許。侍中封隆之無婦,公主欲之,騰妬隆之,遂相間構。高祖啟免騰官,請除外任,俄而復之。

騰は高祖の腹心として門下省に入り、斛斯椿と共に機密を掌った。椿が異心を抱き、行く先々で道理に背くようになると、騰は深く猜忌を受け、禍が己に及ぶことを憂慮し、遂に密かに十数騎を率いて晋陽に馳せ赴いた。高祖が斛斯椿を討伐するため入朝した時、騰を留めて幷州の事務を行わせ、また騰を冀相殷定滄瀛幽安八州行臺僕射・行冀州事とし、さらに行相州事を兼ねさせた。天平初年(534)、入朝して尚書左僕射となり、内外の事柄を騰はすべて知り、司空しくう・尚書令を兼ねた。当時、西魏が将を遣わして南兗州を侵犯したため、詔により騰を南道行臺とし、諸将を率いてこれを討たせた。騰の性質は弱く臆病で、威略がなく、失利して帰還した。また司徒に任じられた。初め北境が乱離した時、一人の娘を亡くし、顕貴になってから遠くまで探し求めたが、遂に見つからず、人の婢となって賤しい身分にあるのではないかと疑った。司徒となった時、奴婢が良民であると訴える者があれば、虚実を究めず、おおむねこれを免じ、千人を免じて娘を見つけようと願った。時に高祖が入朝し、側近がこのことを言上すると、高祖は大いに怒り、その司徒を解任した。武定年間(543-550)、青州に使して浮逃の戸口を調査し、太保に遷った。初め、博陵の崔孝芬が貧家の子の賈氏を養女とし、孝芬が死ぬと、その妻の元氏は更に鄭伯猷に再嫁し、賈氏を鄭氏に連れて行った。賈氏は容姿があり、騰はこれを娶り、初めは妾とした。その妻の袁氏が死ぬと、騰は賈氏に子があることを以て、正妻とし、詔により丹陽郡君に封じられ、また袁氏の爵位をその娘に回授することを請うた。礼に背き情に任せることは、多くこの類であった。

原文騰以高祖腹心,入居門下,與斛斯椿同掌機密。椿既生異端,觸塗乖謬。騰深見猜忌,慮禍及己,遂潛將十餘騎馳赴晉陽。高祖入討斛斯椿,留騰行幷州事,又使騰為冀相殷定滄瀛幽安八州行臺僕射、行冀州事,復行相州事。天平初,入為尚書左僕射,內外之事,騰咸知之,兼司空、尚書令。時西魏遣將寇南兗,詔騰為南道行臺,率諸將討之。騰性尫怯,無威略,失利而還。又除司徒。初北境亂離,亡一女,及貴,遠加推訪,終不得,疑其為人婢賤。及為司徒,奴婢訴良者,不研虛實,率皆免之,願免千人,冀得其女。時高祖入朝,左右有言之者,高祖大怒,解其司徒。武定中,使於青州,括浮逃戶口,遷太保。初,博陵崔孝芬取貧家子賈氏以為養女,孝芬死,其妻元更適鄭伯猷,攜賈於鄭氏。賈有姿色,騰納之,始以為妾。其妻袁氏死,騰以賈有子,正以為妻,詔封丹陽郡君,復請以袁氏爵迴授其女。違禮肆情,多此類也。

騰は早くから高祖に依附し、艱難辛苦を共にし、勤勉で恭謹であり、深く信頼された。高祖が彼を魏朝に置いて心腹とすると、志気が驕慢になり、与奪を己の意のままにし、財賄の納入を求め、限度を知らなかった。生前の官職も死後の追贈も、賄賂によらなければ行われず、官庫の銀器を盗んで家財とし、小人に親狎し、専ら聚斂に努めた。鄴において高岳・高隆之・司馬子如と共に四貴と号され、法に非ず専横恣肆する中でも、騰が最も甚だしかった。高祖はたびたび譴責したが、終に悔い改めず、朝野から深く非難嘲笑された。武定六年(548)四月に薨去、時に六十八歳。使持節・都督冀定等五州諸軍事・冀州刺史・太師・開府・録尚書事を追贈され、諡して文といった。天保初年(550)、騰が佐命の功あることを以て、詔してその墓に祭告せしめた。皇建年間(560-561)、高祖の廟庭に配享された。子の鳳珍が嗣いだ。鳳珍は凡庸で愚昧であり、武平年間(570-576)に開府儀同三司の任で卒した。

原文騰早依附高祖,契闊艱危,勤力恭謹,深見信待。及高祖置之魏朝,寄以心腹,遂志氣驕盈,與奪由己,求納財賄,不知紀極。生官死贈,非貨不行,餚藏銀器,盜為家物,親狎小人,專為聚斂。在鄴與高岳、高隆之、司馬子如號為四貴,非法專恣,騰為甚焉。高祖屢加譴讓,終不悛改,朝野深非笑之。武定六年四月薨,時年六十八。贈使持節、都督冀定等五州諸軍事、冀州刺史、太師、開府、錄尚書事,諡曰文。天保初,以騰佐命,詔祭告其墓。皇建中,配享高祖廟庭。子鳳珍嗣。鳳珍庸暗,武平中,卒於開府儀同三司。

高隆之

原文高隆之

高隆之、字は延興、本姓は徐氏、高平郡金郷県の出自という。父の幹は北魏の白水郡守であり、姑の婿である高氏に養われたため、その姓に従った。隆之が顕貴すると、魏朝は司徒公・雍州刺史を追贈した。隆之は後に参議の功があり、高祖は彼を従弟とし、なお渤海郡蓚県の人であると言った。

原文高隆之,字延興,本姓徐氏,云出自高平金鄉。父幹,魏白水郡守,為姑婿高氏所養,因從其姓。隆之貴,魏朝贈司徒公、雍州刺史。隆之後有參議之功,高祖命為從弟,仍云渤海蓚人。

隆之は身長八尺、鬚髯が美しく、深沈として志気があった。北魏の汝南王悦が司州牧となった時、戸曹従事に任じた。建義初年(528)、員外散騎常侍さんきじょうじに初任し、行臺の于暉と共に太山で羊侃を討ちに出た。暉は隆之を行臺郎中に引き立て、また給事中に任じた。高祖と深く結び付いた。高祖が晋州に臨んだ時、治中に引き立て、平陽郡の事務を行わせた。高祖に従って山東で義兵を挙げ、大行臺右丞とした。北魏中興初年(531)、御史中尉に任じ、尚食典御を領した。高祖に従って鄴を平定し、行相州事とした。韓陵で四胡を破り、太昌初年(532)、驃騎大將軍・儀同三司に任じられた。西魏の文帝(元宝炬)がかつて隆之と酒席で争い、文帝は座を免ぜられた。高祖は隆之が協和できないことを責め、北道行臺として出させ、転じて幷州刺史とし、平原郡公に封じ、邑一千七百戸を与えた。隆之は七百戸の減封を請い、また己の四階を降りて兄の騰に譲ることを求め、いずれも優詔をもって許され、なお騰を滄州刺史とした。高祖が斛斯椿を討った時、隆之を行臺尚書とした。大司馬・清河王亶が制を承けた時、隆之を侍中・尚書右僕射に拝し、御史中尉を領させた。広く人工を費やし、大いに寺塔を営み、高祖に責められた。

原文隆之身長八尺,美鬚髯,深沈有志氣。魏汝南王悅為司州牧,以為戶曹從事。建義初,釋褐員外散騎常侍,與行臺于暉出討羊侃於太山,暉引隆之為行臺郎中,又除給事中。與高祖深自結托。高祖之臨晉州,引為治中,行平陽郡事。從高祖起義山東,以為大行臺右丞。魏中興初,除御史中尉,領尚食典御。從高祖平鄴,行相州事。從破四胡於韓陵,太昌初,除驃騎大將軍、儀同三司。西魏文帝曾與隆之因酒忿競,文帝坐以黜免。高祖責隆之不能協和,乃啟出為北道行臺,轉幷州刺史,封平原郡公,邑一千七百戶。隆之請減戶七百,並求降己四階讓兄騰,並加優詔許之,仍以騰為滄州刺史。高祖之討斛斯椿,以隆之為大行臺尚書。及大司馬、清河王亶承制,拜隆之侍中、尚書右僕射,領御史中尉。廣費人工,大營寺塔,為高祖所責。

天平の初め、母の喪に遭い解任されたが、まもなく詔により起用されて幷州刺史となり、入朝して尚書右僕射となった。当時、民に田地を給付し始めたが、貴族や権勢家は皆良田美地を占め、貧弱な者は皆瘠せた土地を受けた。隆之は高祖に上奏し、全てを入れ替えさせ、ようやく均平を得た。また営構大将軍を兼任し、京師の造営は全て彼によるものであった。南城を増築し、周囲二十五里とした。漳水が帝城に近いため、長堤を築いて氾濫の患いを防いだ。また渠を開鑿して漳水を城郭の周囲に流し、水碾磑(水車による製粉施設)を造り、いずれも当時に有益であった。魏は孝昌以後、天下多難となり、刺史や太守は皆その管轄区域の都督を兼ね、兵事がなくても皆佐僚を置き、その所在は甚だ煩擾を来たしていた。隆之は上表して、実際に辺境の要地にあり、兵馬を有する者でなければ、全てこれを断つよう請うた。また朝貴の多くは常侍を仮授されて貂蟬の飾りを得ていたが、隆之は自ら侍中を解くことを上表し、併せて諸々の仮侍中の服用する者についても、罷めるよう請うた。詔により全て表の通りとした。軍国多事以来、名を冒し官を窃む者は数え切れず、隆之は検括を奏請し、五万余人を摘発したが、群小が喧騒したため、隆之は恐れて止めた。起居事を監することを詔され、司徒公に進位した。

原文天平初,丁母艱解任,尋詔起為幷州刺史,入為尚書右僕射。時初給民田,貴勢皆占良美,貧弱咸受瘠薄。隆之啟高祖,悉更反易,乃得均平。又領營構大將軍,京邑制造,莫不由之。增築南城,周迴二十五里。以漳水近於帝城,起長堤以防泛溢之患。又鑿渠引漳水周流城郭,造治水碾磑,並有利於時。魏自孝昌已後,天下多難,刺史太守皆為當部都督,雖無兵事,皆立佐僚,所在頗為煩擾。隆之表請自非實在邊要,見有兵馬者,悉皆斷之。又朝貴多假常侍以取貂蟬之飾,隆之自表解侍中,並陳諸假侍中服用者,請亦罷之。詔皆如表。自軍國多事,冒名竊官者不可勝數,隆之奏請檢括,獲五萬餘人,而群小喧囂,隆之懼而止。詔監起居事,進位司徒公。

武定年間、河北括戸大使となった。追還されて、領軍将軍・録尚書事を授かり、まもなく侍中を兼ねた。続いて青州の事務を行った。追還されて、太子太師・兼尚書左僕射・吏部尚書に任じられ、太保に遷った。当時、世宗が宰相となり、風俗は粛清されていたが、隆之は時に賄賂を受け取ることがあり、世宗は尚書省で大いに責め辱めた。斉が禅譲を受けると、爵位を王に進めた。まもなく本官のまま録尚書事となり、大宗正卿を領し、国史を監修した。隆之の性質は小才に長け、公家の羽儀・百戯・服制について時に改易し、典故に従わず、当時の論議はこれを非とした。射堋(的場)の上に三体の人像を立てて壮勇の勢いとしていた。顕祖がかつて東山に行幸し、射猟の際、隆之に言った。「射堋の上には猛獣を作って古義を存すべきである。なぜ人を置くのか。終日人を射ることは、朕の取るところではない。」隆之は答える言葉がなかった。

原文武定中,為河北括戶大使。追還,授領軍將軍、錄尚書事,尋兼侍中。續出行青州事。追還,拜太子太師、兼尚書左僕射、吏部尚書,遷太保。時世宗作宰,風俗肅清,隆之時有受納,世宗於尚書省大加責辱。齊受禪,進爵為王。尋以本官錄尚書事,領大宗正卿,監國史。隆之性小巧,至於公家羽儀、百戲、服制時有改易,不循典故,時論非之。於射堋上立三像人為壯勇之勢。顯祖曾至東山,因射,謂隆之曰:「射堋上可作猛獸,以存古義,何為置人?終日射人,朕所不取。」隆之無以對。

初め、世宗は兼右僕射の崔暹・黄門郎の崔季舒らを委任していたが、世宗が崩ずると、隆之は顕祖に啓上して彼らを害そうとしたが、許されなかった。顕祖は隆之を旧臣として政事を委ねたが、季舒らは以前の遺恨により、讒言して言った。「隆之は訴訟者を見るごとに、哀れみの情を加え、裁決が自分の能力ではないことを示しています。」顕祖は、彼が受けた任が既に重く、冤状があることを知っているならば、便宜を図って申し開きすべきであり、どうして過ちを委ねて名声を求めようとするのか、大臣の義ではない、と考えた。天保五年、尚書省に禁錮された。隆之はかつて元昶と宴飲し、酒が酣になった時、昶に言った。「王と交遊するには、生死を共にしても背かないべきである。」これを密かに告げる者がいた。また帝が未だ登庸されない頃、隆之の心中は常に帝を侮っていた。帝が魏の禅譲を受けようとした時、大臣は皆未だ不可と言い、隆之もまたその中にいた。帝は深くこれを恨んだ。このため、遂に大いに怒りを発し、壮士に命じて百余回殴打させた。放出され、渇いて水を飲もうとした時、人が止めたが、隆之は言った。「今日、何をか慮らんや!」遂にこれを飲んだ。因って従駕したが、路中で死んだ。年六十一。冀・定・瀛・滄・幽の五州諸軍事・大将軍・太尉・太保・冀州刺史・陽夏王を追贈された。結局諡号は得られなかった。

原文初,世宗委任兼右僕射崔暹、黃門郎崔季舒等,及世宗崩,隆之啟顯祖並欲害之,不許。顯祖以隆之舊齒,委以政事,季舒等仍以前隙,乃譖云:「隆之每見訴訟者,輒加哀矜之意,以示非己能裁。」顯祖以其受任既重,知有冤狀,便宜申滌,何得委過要名,非大臣義。天保五年,禁止尚書省。隆之曾與元昶宴飲,酒酣,語昶曰:「與王交遊,當生死不相背。」人有密言之者。又帝未登庸之日,隆之意常侮帝。帝將受魏禪,大臣咸言未可,隆之又在其中。帝深銜之。因此,遂大發怒,令壯士築百餘下。放出,渴將飲水,人止之,隆之曰:「今日何在!」遂飲之。因從駕,死於路中,年六十一。贈冀定瀛滄幽五州諸軍事、大將軍、太尉、太保、冀州刺史、陽夏王。竟不得諡。

隆之は学問に渉猟しなかったが、文雅を欽尚し、縉紳名流には必ず礼を以て接した。寡婦の姉が尼となったが、これを母のように仕え、諸子を訓督するには必ず文義を先にした。世間は甚だこれを称えた。顕祖の末年、猜害が多くなり、隆之を追って憤り、その子の徳枢ら十余人を誅し、皆漳水に投げ込んだ。また隆之の冢を発き、その屍を出した。埋葬されて既に数年経っていたが、その容貌は変わらず、骸骨を斬截して、これもまた漳水に棄て、遂に嗣を絶った。幹明年間、詔してその兄の子の子遠を隆之の後嗣とし、陽夏王の爵を襲封させ、その財産を返還させた。初め、隆之は高祖に信頼されていたが、性質は陰毒が多く、睚眥の忿りも、報いられないことはなかった。儀同三司の崔孝芬は婚姻を結ぼうとして果たせず、太府卿の任集は同じく営構を知っていたが、甚だ相違し、瀛州刺史の元晏は請托が遂げられなかったが、前後してその罪を構成し、皆誅害した。終には家門が殄滅し、論者は報応があると言った。

原文隆之雖不涉學,而欽尚文雅,縉紳名流,必存禮接。寡姊為尼,事之如母,訓督諸子,必先文義。世甚以此稱之。顯祖末年,既多猜害,追忿隆之,誅其子德樞等十餘人,並投漳水。又發隆之冢,出其屍,葬已積年,其貌不改,斬截骸骨,亦棄於漳流,遂絕嗣。幹明中,詔其兄子子遠為隆之後,襲爵陽夏王,還其財產。初,隆之見信高祖,性多陰毒,睚眥之忿,無不報焉。儀同三司崔孝芬以結婚姻不果,太府卿任集同知營構,頗相乖異,瀛州刺史元晏請托不遂,前後構成其罪,並誅害之。終至家門殄滅,論者謂有報應焉。

司馬子如

原文司馬子如

司馬子如、字は遵業、河内郡温県の人である。八世の祖は模、晋の司空・南陽王。模の世子は保、晋の乱に涼州に奔り、因ってそこに家を定めた。魏が姑臧を平定すると、雲中に移り住んだ。その自序にそうある。父は興龍、魏の魯陽太守。

原文司馬子如,字遵業,河內溫人也。八世祖模,晉司空、南陽王。模世子保,晉亂出奔涼州,因家焉。魏平姑臧,徙居於雲中,其自序云爾。父興龍,魏魯陽太守。

子如は若くして機警で、口辯があった。豪傑と交遊を好み、高祖と結び付き、分義は甚だ深かった。孝昌年間、北州が淪陥すると、子如は家口を携えて南に肆州に奔り、尒朱栄に礼遇され、中軍を仮授された。栄が洛陽に向かう時、子如を司馬・持節・仮平南将軍とし、前軍を監させた。高都に駐屯した時、栄は建興が険阻で、往来の要衝であり、後顧の憂いがあるとして、子如を行建興太守・当郡都督とした。永安の初め、平遙県子に封じられ、邑三百戸を賜り、仍って大行臺郎中となった。栄は子如が明辯で時事を説くことが出来ると考え、しばしば使いとして朝廷に遣わし、多く帝旨に叶い、孝莊帝もまた接待した。葛栄の乱では、相州が孤立危急となったため、栄は子如を間道から鄴に入らせ、防衛を助けさせた。葛栄が平定されると、爵位を侯に進めた。元顥が洛陽に入ると、人心が離反したため、子如がかつて鄴城ぎょうじょうを守り、頗る恩信があったので、行相州事を命じた。顥が平定されると、徵されて金紫光禄大夫となった。

原文子如少機警,有口辯。好交遊豪傑,與高祖相結托,分義甚深。孝昌中,北州淪陷,子如攜家口南奔肆州,為尒朱榮所禮遇,假以中軍。榮之向洛也,以子如為司馬、持節、假平南將軍,監前軍。次高都,榮以建興險阻,往來沖要,有後顧之憂,以子如行建興太守、當郡都督。永安初,封平遙縣子,邑三百戶,仍為大行臺郎中。榮以子如明辯,能說時事,數遣奉使詣闕,多稱旨,孝莊亦接待焉。葛榮之亂,相州孤危,榮遣子如間行入鄴,助加防守。葛榮平,進爵為侯。元顥入洛,人情離阻,以子如曾守鄴城,頗有恩信,乃令行相州事。顥平,徵為金紫光祿大夫。

尒朱栄が誅殺されると、子如は変事があると知り、宮内から突出し、栄の宅に至り、家を棄てて栄の妻子と尒朱世隆らに随い京城を走出した。世隆は直ちに北に還ろうとしたが、子如は言った。「事は機に応ずることを貴び、兵は詐りを厭わない。天下は恟恟として、ただ強きを視るのみである。この際会に当たり、弱きを以て人に示すべからず。もし必ず北に走らば、即ち恐らく変故が随って起こるであろう。兵を分けて河橋を守り、軍を回して京に向かい、その不意を衝く方が、或いは離潰させることが出来よう。仮に心に叶わなくとも、なお余力有ることを示すに足り、天下の観聴をして、我が威強を懼れさせることが出来る。」そこで世隆は還って京城を逼った。魏の長広王が立つと、兼尚書右僕射となった。前廃帝は侍中・驃騎大将軍・儀同三司とし、爵位を陽平郡公に進め、邑一千七百戸を賜った。固く辞して儀同は受けなかった。高祖が信都で義兵を起こすと、世隆らは子如が高祖と旧知であることを知り、疑慮して、南岐州刺史に出した。子如は憤恨し、涙を流して自ら陳述したが、免れることは得られなかった。高祖が洛陽に入ると、子如は使いを遣わして祝賀を啓上し、仍って平生の旧恩を述べた。まもなく追って京に赴かせ、大行臺尚書とし、朝夕左右に侍らせ、軍国に参与させた。天平の初め、左僕射に任じられ、侍中の高岳・侍中の孫騰・右僕射の高隆之らと共に朝政を知り、甚だ信頼重用された。高祖が晉陽に鎮すると、子如は時に謁見に往き、厚く遇され、並んで坐り同じく食し、朝から暮れに及び、その帰還に当たっては、高祖及び武明后が共に賜物を与え、常例となった。

原文尒朱榮之誅,子如知有變,自宮內突出,至榮宅,棄家隨榮妻子與尒朱世隆等走出京城。世隆便欲還北,子如曰:「事貴應機,兵不厭詐,天下恟恟,唯強是視,於此際會,不可以弱示人。若必走北,即恐變故隨起,不如分兵守河橋,迴軍向京,出其不意,或可離潰。假不如心,猶足示有餘力,使天下觀聽,懼我威強。」於是世隆還逼京城。魏長廣王立,兼尚書右僕射。前廢帝以為侍中、驃騎大將軍、儀同三司,進爵陽平郡公,邑一千七百戶。固讓儀同不受。高祖起義信都,世隆等知子如與高祖有舊,疑慮,出為南岐州刺史。子如憤恨,泣涕自陳,而不獲免。高祖入洛,子如遣使啟賀,仍敘平生舊恩。尋追赴京,以為大行臺尚書,朝夕左右,參知軍國。天平初,除左僕射,與侍中高岳、侍中孫騰、右僕射高隆之等共知朝政,甚見信重。高祖鎮晉陽,子如時往謁見,待之甚厚,並坐同食,從旦達暮,及其當還,高祖及武明後俱有賚遺,率以為常。

子如は元来豪放磊落な性格であり、かつての恩寵を恃み、文書事務においては、与奪を気ままに行い、公然と賄賂を受け取り、顧み憚ることがなかった。興和年間(539-542)、北道行臺に任ぜられ、諸州を巡察監察し、太守・県令以下の官の任免を委ねられた。子如が定州に至ると、深沢県令を斬り、冀州に至ると、東光県令を斬った。いずれも命令の伝達が遅れたことを理由に、極刑に処したのである。もし言葉に前後があったり、少しでも意に合わないことがあれば、すぐに武士に引きずらせ、白刃を首筋に突きつけた。士人も庶民も恐れおののき、どうしてよいかわからなかった。転じて尚書令となった。子如は義挙の当初には参与せず、ただ高祖(高歓)の旧友であったことから、重責を委ねられたに過ぎないが、意気盛んで、収奪を止めなかった。時に世宗(高澄)が朝廷の政務を補佐するようになると、次第に内心で彼を疎んじるようになり、まもなく収賄の罪で御史中尉崔暹に弾劾され、尚書省に拘禁された。詔により大罪は免ぜられたが、官爵を削られた。間もなく、冀州の事務を代行するよう起用された。子如は自ら奮起して改め、名声を大いに上げ、奸悪偽りを摘発し、属官たちは畏れて服従した。転じて幷州の事務を代行した。詔により官爵を回復し、別に野王県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。

原文子如性既豪爽,兼恃舊恩,簿領之務,與奪任情,公然受納,無所顧憚。興和中,以為北道行臺,巡檢諸州,守令已下,委其黜陟。子如至定州,斬深澤縣令;至冀州,斬東光縣令。皆稽留時漏,致之極刑。若言有進退,少不合意,便令武士頓曳,白刃臨項。士庶惶懼,不知所為。轉尚書令。子如義旗之始,身不參預,直以高祖故舊,遂當委重,意氣甚高,聚斂不息。時世宗入輔朝政,內稍嫌之,尋以贓賄為御史中尉崔暹所劾,禁止於尚書省。詔免其大罪,削官爵。未幾,起行冀州事。子如能自厲改,甚有聲譽,發摘姦偽,僚吏畏伏之。轉行幷州事。詔復官爵,別封野王縣男,邑二百戶。

北斉が禅譲を受けると、補佐の功績があったとして、別に須昌県公に封ぜられ、まもなく司空に任ぜられた。子如は滑稽な性格で、行いを慎むことがなく、言葉の戯れは卑猥であり、識者はこれを非難した。しかし姉に礼を尽くし、諸兄の子たちを慈しみ篤く養育したので、当時の名士たちは皆これを敬愛し、世間はこれをもって彼を称えた。しかし元来剛直さがなく、公平な心で物事に対処することができなかった。世宗の時代、中尉崔暹と黄門郎崔季舒がともに重用されていた。世宗が崩御すると、崔暹らは晋陽に赴いた。子如は顕祖(高洋)に上奏して、彼らの罪悪を述べ、誅殺を勧めた。その後、子如が馬で関所を越えたことが、役人に奏上された。顕祖は子如を召し出して幾度も責めて言った、「崔暹や季舒は朕の先帝に仕えたが、何の大罪があって、卿は朕に彼らを殺せと言うのか?」これにより免官となった。久しくして、やはり先帝の旧臣であることを以て、太尉に任ぜられた。まもなく病気で薨去した。時に六十四歳であった。使持節・都督冀定瀛滄懐五州諸軍事・太師・太尉・懐州刺史を追贈され、贈り物一千段を賜り、諡して文明といった。

原文齊受禪,以有翼贊之功,別封須昌縣公,尋除司空。子如性滑稽,不治檢裁,言戲穢褻,識者非之。而事姊有禮,撫諸兄子慈篤,當時名士並加欽愛,世以此稱之。然素無鯁正,不能平心處物。世宗時,中尉崔暹、黃門郎崔季舒俱被任用。世宗崩,暹等赴晉陽。子如乃啟顯祖,言其罪惡,仍勸誅之。其後子如以馬度關,為有司所奏。顯祖引子如數讓之曰:「崔暹、季舒事朕先世,有何大罪,卿令我殺之?」因此免官。久之,猶以先帝之舊,拜太尉。尋以疾薨,時年六十四。贈使持節、都督冀定瀛滄懷五州諸軍事、太師、太尉、懷州刺史,贈物一千段,諡曰文明。

子消難が後を嗣いだ。高祖(高歓)の娘を娶り、公主の婿、貴公子として、しばしば中書郎・黄門郎・光禄少卿を歴任した。出て北豫よ州刺史となり、武牢を鎮守した。消難は広く史書・伝記に通じ、風采があり人柄も良かったが、廉潔ではなく、州において御史に弾劾された。また公主との仲も睦まじくなく、公主が讒言して訴えたため、罪を恐れて、ついに隣国(北周)を招き入れ、関西(北周)に奔った。

原文子消難嗣。尚高祖女,以主婿、貴公子,頻歷中書、黃門郎、光祿少卿。出為北豫州刺史,鎮武牢。消難博涉史傳,有風神,然不能廉潔,在州為御史所劾。又於公主情好不睦,公主譖訴之,懼罪,遂招延鄰敵,走關西。

子如の兄の纂は、先に卒去していたが、子如が貴くなったので、岳州刺史を追贈された。纂の長子の世雲は、軽薄で危険な行いが多く、累進して衛将軍・潁州刺史となった。世雲は元来勲功も業績もなく、ただ子如の縁故によって、しばしば州郡の長官を歴任した。叔父の勢力を恃み、任地ごとに収奪を重ね、なおも姦淫の行いをほしいままにした。推問され処罰されようとしていることを知り、内心驚き恐れ、侯景が反乱を起こすと、すぐに州を挙げてこれに従った。時に世雲の同母弟が鄴にいたが、心を傾けて侯景に附き、再び顧みることはなかった。諸将が潁川で侯景を包囲すると、世雲は城上に臨んで遙か遠く諸将に対し、言葉甚だ不遜であった。世宗はやはり子如の旧恩を考え、彼の諸弟の死罪を免じ、北辺に移住させた。侯景が渦陽で敗れた後、世雲はまた異心を抱き、侯景に殺された。

原文子如兄纂,先卒,子如貴,贈岳州刺史。纂長子世雲,輕險無行,累遷衛將軍、潁州刺史。世雲本無勳業,直以子如故,頻歷州郡。恃叔之勢,所在聚斂,仍肆姦穢。將見推治,內懷驚懼,侯景反,遂舉州從之。時世雲母弟在鄴,便傾心附景,無復顧望。諸將圍景於潁川,世雲臨城遙對諸將,言甚不遜。世宗猶以子如恩舊,免其諸弟死罪,徙於北邊。侯景於渦陽敗後,世雲復有異志,為景所殺。

世雲の弟の膺之は、字を仲慶という。若くして学問を好み、風采が美しかった。天平年間(534-537)、子如が貴盛であった時、膺之は尚書郎から中書郎・黄門郎を歴任した。子如が別に須昌県公に封ぜられた時、その爵位を膺之に譲った。膺之の家は財産に富み、自ら蓄財に励んだ。王元景・邢子才の類は、昔からの素行を重んじて彼を尊重した。しかし彼が疎放で傲慢なため、天保年間(550-559)を通じて、埋もれて取り上げられることがなかった。幹明年間(560)、王曦が粛宗(高演)に申し上げて、衛尉少卿に任ぜられた。河清末年(565頃)、光禄大夫となった。下痢の病に患り、長年起き上がれず、武平年間(570-576)になっても、なお朝謁に堪えられず、自宅で儀同三司に任ぜられた。『太玄経』を好んで読み、揚雄の『蜀しょく都賦』に注釈を加えた。常に言った、「私は揚子雲(揚雄)と交わりたいものだ」。北斉が滅んだ年、下痢の病で終わった。時に七十一歳であった。

原文世雲弟膺之,字仲慶。少好學,美風儀。天平中,子如貴盛,膺之自尚書郎歷中書、黃門郎。子如別封須昌縣公,回授膺之。膺之家富於財,厚自封殖。王元景、邢子才之流以夙素重之。以其疏簡傲物,竟天保世,淪滯不齒。幹明中,王曦白肅宗,除衛尉少卿。河清末,光祿大夫。患泄利,積年不起,至武平中,猶不堪朝謁,就家拜儀同三司。好讀《太玄經》,註揚雄《蜀都賦》。每云:「我欲與揚子雲周旋。」齊亡歲,以利疾終,時年七十一。

膺之の弟の子瑞は、天保年間(550-559)に定州長史となり、吏部郎中に転じた。清廉・勤勉・公平・倹約として推挙された。司徒左長史に転じ、兼ねて廷尉卿となり、公平で正直であると称された。幹明初年(560)、御史中丞を兼任し、厳正に糾弾監察し、朝廷に認められた。病気のため職を去り、そのまま祠部尚書に任ぜられた。卒去し、瀛州刺史を追贈され、諡して文節といった。

原文膺之弟子瑞,天保中為定州長史,遷吏部郎中。舉清勤平約。遷司徒左長史,兼廷尉卿,以平直稱。幹明初,領御史中丞,正色舉察,為朝廷所許。以疾去職,就拜祠部尚書。卒,贈瀛州刺史,諡曰文節。

子瑞の弟の幼之は、清廉で節操があり、素行が良く、若くして顕職を歴任した。隋の開皇年間(581-600)、眉州刺史の任で卒去した。子瑞の妻は、陸令萱の妹であり、陸令萱が後主に寵愛されるようになると、子瑞に重ねて懐州刺史を追贈し、諸子も皆顕職に就いた。同遊は、武平末年に給事黄門侍郎となった。同回は、太府卿となった。同憲は、通直常侍となった。しかし同遊は結局は良い官吏であり、隋の開皇年間に尚書民部侍郎となり、遂州刺史の任で卒去した。

原文子瑞弟幼之,清貞有素行,少歷顯位。隋開皇中,卒於眉州刺史。子瑞妻,令萱之妹,及令萱得寵於後主,重贈子瑞懷州剌史,諸子亦並居顯職。同遊,武平末給事黃門侍郎。同回,太府卿。同憲,通直常侍。然同遊終為嘉吏,隋開皇中尚書民部侍郎,卒於遂州刺史。

【史臣の論評】

原文【史論】

史臣曰く、高祖(高歓)は晋陽を兵馬の地とし、覇業の拠り所と定め、兵を治め軍を訓練し、遠くから朝廷の権力を制し、中央の機密事務を、深く遠大に委任した。孫騰らは皆、清く正しく道を守り、治乱を心にかけることができず、財貨を厚く収奪して、その欲望の淵を満たした。昔の蕭何しょうかが関中を鎮め、荀彧が許下に居たことと比べれば、これはまた異なることではないか!幸い世宗が入朝して補佐し、驕慢放縦を責め、崔暹を厚く遇して、その厳しい弾劾文を奮い起こさせたのである。そうでなければ、君子(道徳ある者)が飽き足らぬ思いをすることになり、どうして容易に間に入ることができようか。孫騰の衣の裾を引いて諫めた誠実さは、称賛に足るものがある。隆之はその志と力を尽くして、鄴の都の建設に当たり、また共に隠れた徳行を持つ幕僚であり、早くから任用され遇され、その爵位官職を高くしたが、朝廷の秩序を失うことはなかった。子如はただ若い頃から親しく重用されただけで、情誼は親密ではあったが、義は創業の功臣ではなく、恩寵と私情によって結ばれ、勲功も徳行も聞こえず、宰相の位に至ったのである。甥たちへの愛は、正しい道をもって教え導き、膺之の風采と素行は重んずるに足り、幼之の清廉で簡素な自立ぶりは、称賛に足るものである。

原文史臣曰:高祖以晉陽戎馬之地,霸圖攸屬,治兵訓旅,遙制朝權,京臺機務,委寄深遠。孫騰等俱不能清貞守道,以治亂為懷,厚斂貨財,填彼溪壑。昔蕭何之鎮關中,荀彧之居許下,不亦異於是乎!賴世宗入輔,責以驕縱,厚遇崔暹,奮其霜簡,不然則君子屬厭,豈易間焉。孫騰牽裾之誠,有足稱美。隆之勞其志力,經始鄴京,又並是潛德僚寀,早申任遇,崇其名器,未失朝序。子如徒以少相親重,情深昵狎,義非草昧,恩結寵私,勳德莫聞,坐致臺輔。猶子之愛,訓以義方,膺之風素可重,幼之清簡自立,有足稱也。