孫騰
孫騰、字は龍雀、咸陽郡石安県の人である。祖父の通は沮渠氏に仕えて中書舎人となり、沮渠氏が滅びると 北魏 に入り、北辺に居住した。騰が顕貴すると、魏朝は通に使持節・侍中・ 都督 雍華岐幽四州諸軍事・驃騎大將軍・ 司徒 公・尚書左僕射・雍州刺史を追贈し、騰の父の機に使持節・侍中・ 都督 冀定滄瀛殷五州諸軍事・太尉公・ 尚書令 ・冀州刺史を追贈した。
騰は若くして質朴で率直であり、吏事に明るく理解していた。北魏の正光年間(520-525)、北方が擾乱すると、騰は艱難辛苦を経て秀容に到達した。 尒朱榮 が義兵を挙げるに当たり、騰は栄に従って洛陽に入り、例により冗従僕射に任じられた。まもなく高祖 (高歓) の 都督 府長史となり、高祖に従って東征し邢杲を討った。軍が斉城に駐屯した時、撫宜鎮の軍人が謀反を企て、督帥を害そうとした。騰はこれを知り、密かに高祖に報告した。間もなく事が発覚したが、高祖は備えがあったため、これを捕らえて打ち破った。高祖が晋州刺史となった時、騰は長史となり、後将軍を加えられ、石安県伯に封じられた。高祖が晋陽から滏口に出て、 襄垣 に行き着いた時、 尒朱兆 が衆を率いて追撃してきた。高祖は兆と水辺で宴飲し、兄弟の誓いを結び、それぞれ本営に帰った。翌朝、兆が再び高祖を招いたが、高祖はその意を安んじようと赴こうとした。馬に乗ろうとした時、騰が衣を引いて止めた。兆は水を隔てて罵り、晋陽に馳せ帰った。高祖は遂に東進した。 信都 で義兵を挙げた時、騰は誠実な心をもって常に謀策に参画した。騰は朝廷と隔絶し号令の帰するところがないことを以て、暫定的に主君を立てなければ衆将が沮喪離散すると考え、高祖に苦しくも請願した。高祖はこれに従い、遂に中興主 ( 元朗 ) を立てた。侍中に任じられ、まもなく使持節・六州流民大 都督 ・北道大行臺を加えられた。高祖が 鄴 に進軍した時、初め段栄を留めて信都を守らせたが、まもなく栄を派遣して中山を鎮守させ、依然として騰を居守させた。鄴が平定されると、相州刺史に任じられ、咸陽郡公に改封され、封邑を増やして通算一千三百戸とし、入朝して侍中となった。当時、北魏の京兆王愉の娘である平原公主が寡居しており、騰はこれを娶ろうとしたが、公主は許さなかった。侍中の 封隆之 には妻がおらず、公主は隆之を望んだ。騰は隆之を妬み、遂に互いに讒言し合った。高祖は騰の官を免じ、外任を請うたが、間もなく復職させた。
騰は高祖の腹心として門下省に入り、 斛斯椿 と共に機密を掌った。椿が異心を抱き、行く先々で道理に背くようになると、騰は深く猜忌を受け、禍が己に及ぶことを憂慮し、遂に密かに十数騎を率いて晋陽に馳せ赴いた。高祖が斛斯椿を討伐するため入朝した時、騰を留めて 幷州 の事務を行わせ、また騰を冀相殷定滄瀛幽安八州行臺僕射・行冀州事とし、さらに行相州事を兼ねさせた。天平初年(534)、入朝して尚書左僕射となり、内外の事柄を騰はすべて知り、 司空 ・ 尚書令 を兼ねた。当時、 西魏 が将を遣わして南兗州を侵犯したため、詔により騰を南道行臺とし、諸将を率いてこれを討たせた。騰の性質は弱く臆病で、威略がなく、失利して帰還した。また 司徒 に任じられた。初め北境が乱離した時、一人の娘を亡くし、顕貴になってから遠くまで探し求めたが、遂に見つからず、人の婢となって賤しい身分にあるのではないかと疑った。 司徒 となった時、奴婢が良民であると訴える者があれば、虚実を究めず、おおむねこれを免じ、千人を免じて娘を見つけようと願った。時に高祖が入朝し、側近がこのことを言上すると、高祖は大いに怒り、その 司徒 を解任した。武定年間(543-550)、青州に使して浮逃の戸口を調査し、太保に遷った。初め、博陵の崔孝芬が貧家の子の賈氏を養女とし、孝芬が死ぬと、その妻の元氏は更に鄭伯猷に再嫁し、賈氏を鄭氏に連れて行った。賈氏は容姿があり、騰はこれを娶り、初めは妾とした。その妻の袁氏が死ぬと、騰は賈氏に子があることを以て、正妻とし、詔により丹陽郡君に封じられ、また袁氏の爵位をその娘に回授することを請うた。礼に背き情に任せることは、多くこの類であった。
騰は早くから高祖に依附し、艱難辛苦を共にし、勤勉で恭謹であり、深く信頼された。高祖が彼を魏朝に置いて心腹とすると、志気が驕慢になり、与奪を己の意のままにし、財賄の納入を求め、限度を知らなかった。生前の官職も死後の追贈も、賄賂によらなければ行われず、官庫の銀器を盗んで家財とし、小人に親狎し、専ら 聚斂 に努めた。鄴において高岳・高隆之・ 司馬子如 と共に四貴と号され、法に非ず専横恣肆する中でも、騰が最も甚だしかった。高祖はたびたび譴責したが、終に悔い改めず、朝野から深く非難嘲笑された。武定六年(548)四月に薨去、時に六十八歳。使持節・ 都督 冀定等五州諸軍事・冀州刺史・太師・開府・録尚書事を追贈され、諡して文といった。天保初年(550)、騰が佐命の功あることを以て、詔してその墓に祭告せしめた。皇建年間(560-561)、高祖の廟庭に配享された。子の鳳珍が嗣いだ。鳳珍は凡庸で愚昧であり、武平年間(570-576)に開府儀同三司の任で卒した。
高隆之
高隆之、字は延興、本姓は徐氏、高平郡金郷県の出自という。父の幹は北魏の白水郡守であり、姑の婿である高氏に養われたため、その姓に従った。隆之が顕貴すると、魏朝は 司徒 公・雍州刺史を追贈した。隆之は後に参議の功があり、高祖は彼を従弟とし、なお 渤海 郡蓚県の人であると言った。
隆之は身長八尺、鬚髯が美しく、深沈として志気があった。北魏の汝南王悦が司州牧となった時、戸曹従事に任じた。建義初年(528)、員外 散騎常侍 に初任し、行臺の于暉と共に太山で羊侃を討ちに出た。暉は隆之を行臺郎中に引き立て、また給事中に任じた。高祖と深く結び付いた。高祖が晋州に臨んだ時、治中に引き立て、平陽郡の事務を行わせた。高祖に従って山東で義兵を挙げ、大行臺右丞とした。北魏中興初年(531)、御史中尉に任じ、尚食典御を領した。高祖に従って鄴を平定し、行相州事とした。韓陵で四胡を破り、太昌初年(532)、驃騎大將軍・儀同三司に任じられた。西魏の文帝 (元宝炬) がかつて隆之と酒席で争い、文帝は座を免ぜられた。高祖は隆之が協和できないことを責め、北道行臺として出させ、転じて幷州刺史とし、平原郡公に封じ、邑一千七百戸を与えた。隆之は七百戸の減封を請い、また己の四階を降りて兄の騰に譲ることを求め、いずれも優詔をもって許され、なお騰を滄州刺史とした。高祖が斛斯椿を討った時、隆之を行臺尚書とした。大司馬・清河王亶が制を承けた時、隆之を侍中・尚書右僕射に拝し、御史中尉を領させた。広く人工を費やし、大いに寺塔を営み、高祖に責められた。
天平の初め、母の喪に遭い解任されたが、まもなく詔により起用されて幷州刺史となり、入朝して尚書右僕射となった。当時、民に田地を給付し始めたが、貴族や権勢家は皆良田美地を占め、貧弱な者は皆瘠せた土地を受けた。隆之は高祖に上奏し、全てを入れ替えさせ、ようやく均平を得た。また営構大将軍を兼任し、京師の造営は全て彼によるものであった。南城を増築し、周囲二十五里とした。 漳水 が帝城に近いため、長堤を築いて氾濫の患いを防いだ。また渠を開鑿して漳水を城郭の周囲に流し、水碾磑 (水車による製粉施設) を造り、いずれも当時に有益であった。魏は孝昌以後、天下多難となり、刺史や 太守 は皆その管轄区域の 都督 を兼ね、兵事がなくても皆佐僚を置き、その所在は甚だ煩擾を来たしていた。隆之は上表して、実際に辺境の要地にあり、兵馬を有する者でなければ、全てこれを断つよう請うた。また朝貴の多くは常侍を仮授されて貂蟬の飾りを得ていたが、隆之は自ら侍中を解くことを上表し、併せて諸々の仮侍中の服用する者についても、罷めるよう請うた。詔により全て表の通りとした。軍国多事以来、名を冒し官を窃む者は数え切れず、隆之は検括を奏請し、五万余人を摘発したが、群小が喧騒したため、隆之は恐れて止めた。起居事を監することを詔され、 司徒 公に進位した。
武定年間、河北括戸大使となった。追還されて、領軍将軍・録尚書事を授かり、まもなく侍中を兼ねた。続いて青州の事務を行った。追還されて、太子太師・兼尚書左僕射・吏部尚書に任じられ、太保に遷った。当時、世宗が宰相となり、風俗は粛清されていたが、隆之は時に賄賂を受け取ることがあり、世宗は尚書省で大いに責め辱めた。斉が禅譲を受けると、爵位を王に進めた。まもなく本官のまま録尚書事となり、大宗正卿を領し、国史を監修した。隆之の性質は小才に長け、公家の羽儀・百戯・服制について時に改易し、典故に従わず、当時の 論 議はこれを非とした。射堋 (的場) の上に三体の人像を立てて壮勇の勢いとしていた。顕祖がかつて東山に行幸し、射猟の際、隆之に言った。「射堋の上には猛獣を作って古義を存すべきである。なぜ人を置くのか。終日人を射ることは、朕の取るところではない。」隆之は答える言葉がなかった。
初め、世宗は兼右僕射の崔暹・黄門郎の崔季舒らを委任していたが、世宗が崩ずると、隆之は顕祖に啓上して彼らを害そうとしたが、許されなかった。顕祖は隆之を旧臣として政事を委ねたが、季舒らは以前の遺恨により、讒言して言った。「隆之は訴訟者を見るごとに、哀れみの情を加え、裁決が自分の能力ではないことを示しています。」顕祖は、彼が受けた任が既に重く、冤状があることを知っているならば、便宜を図って申し開きすべきであり、どうして過ちを委ねて名声を求めようとするのか、大臣の義ではない、と考えた。天保五年、尚書省に禁錮された。隆之はかつて元昶と宴飲し、酒が酣になった時、昶に言った。「王と交遊するには、生死を共にしても背かないべきである。」これを密かに告げる者がいた。また帝が未だ登庸されない頃、隆之の心中は常に帝を侮っていた。帝が魏の禅譲を受けようとした時、大臣は皆未だ不可と言い、隆之もまたその中にいた。帝は深くこれを恨んだ。このため、遂に大いに怒りを発し、壮士に命じて百余回殴打させた。放出され、渇いて水を飲もうとした時、人が止めたが、隆之は言った。「今日、何をか慮らんや!」遂にこれを飲んだ。因って従駕したが、路中で死んだ。年六十一。冀・定・瀛・滄・幽の五州諸軍事・大将軍・太尉・太保・冀州刺史・陽夏王を追贈された。結局諡号は得られなかった。
隆之は学問に渉猟しなかったが、文雅を欽尚し、縉紳名流には必ず礼を以て接した。寡婦の姉が尼となったが、これを母のように仕え、諸子を訓督するには必ず文義を先にした。世間は甚だこれを称えた。顕祖の末年、猜害が多くなり、隆之を追って憤り、その子の徳枢ら十余人を誅し、皆漳水に投げ込んだ。また隆之の冢を発き、その屍を出した。埋葬されて既に数年経っていたが、その容貌は変わらず、骸骨を斬截して、これもまた漳水に棄て、遂に嗣を絶った。幹明年間、詔してその兄の子の子遠を隆之の後嗣とし、陽夏王の爵を襲封させ、その財産を返還させた。初め、隆之は高祖に信頼されていたが、性質は陰毒が多く、睚眥の忿りも、報いられないことはなかった。儀同三司の崔孝芬は婚姻を結ぼうとして果たせず、太府卿の任集は同じく営構を知っていたが、甚だ相違し、瀛州刺史の元晏は請托が遂げられなかったが、前後してその罪を構成し、皆誅害した。終には家門が殄滅し、論者は報応があると言った。
司馬子如
司馬子如、字は遵業、河内郡温県の人である。八世の祖は模、晋の 司空 ・南陽王。模の世子は保、晋の乱に涼州に奔り、因ってそこに家を定めた。魏が姑臧を平定すると、雲中に移り住んだ。その自序にそうある。父は興龍、魏の魯陽太守。
子如は若くして機警で、口辯があった。豪傑と交遊を好み、高祖と結び付き、分義は甚だ深かった。孝昌年間、北州が淪陥すると、子如は家口を携えて南に肆州に奔り、尒朱栄に礼遇され、中軍を仮授された。栄が洛陽に向かう時、子如を司馬・持節・仮平南将軍とし、前軍を監させた。高都に駐屯した時、栄は 建興 が険阻で、往来の要衝であり、後顧の憂いがあるとして、子如を行建興太守・当郡 都督 とした。永安の初め、平遙県子に封じられ、邑三百戸を賜り、仍って大行臺郎中となった。栄は子如が明辯で時事を説くことが出来ると考え、しばしば使いとして朝廷に遣わし、多く帝旨に叶い、孝莊帝もまた接待した。葛栄の乱では、相州が孤立危急となったため、栄は子如を間道から鄴に入らせ、防衛を助けさせた。葛栄が平定されると、爵位を侯に進めた。元顥が洛陽に入ると、人心が離反したため、子如がかつて 鄴城 を守り、頗る恩信があったので、行相州事を命じた。顥が平定されると、徵されて金紫光禄大夫となった。
尒朱栄が誅殺されると、子如は変事があると知り、宮内から突出し、栄の宅に至り、家を棄てて栄の妻子と 尒朱世隆 らに随い京城を走出した。世隆は直ちに北に還ろうとしたが、子如は言った。「事は機に応ずることを貴び、兵は詐りを厭わない。天下は恟恟として、ただ強きを視るのみである。この際会に当たり、弱きを以て人に示すべからず。もし必ず北に走らば、即ち恐らく変故が随って起こるであろう。兵を分けて河橋を守り、軍を回して京に向かい、その不意を衝く方が、或いは離潰させることが出来よう。仮に心に叶わなくとも、なお余力有ることを示すに足り、天下の観聴をして、我が威強を懼れさせることが出来る。」そこで世隆は還って京城を逼った。魏の長広王が立つと、兼尚書右僕射となった。前 廃帝 は侍中・驃騎大将軍・儀同三司とし、爵位を陽平郡公に進め、邑一千七百戸を賜った。固く辞して儀同は受けなかった。高祖が信都で義兵を起こすと、世隆らは子如が高祖と旧知であることを知り、疑慮して、南岐州刺史に出した。子如は憤恨し、涙を流して自ら陳述したが、免れることは得られなかった。高祖が洛陽に入ると、子如は使いを遣わして祝賀を啓上し、仍って平生の旧恩を述べた。まもなく追って京に赴かせ、大行臺尚書とし、朝夕左右に侍らせ、軍国に参与させた。天平の初め、左僕射に任じられ、侍中の高岳・侍中の孫騰・右僕射の高隆之らと共に朝政を知り、甚だ信頼重用された。高祖が 晉 陽に鎮すると、子如は時に謁見に往き、厚く遇され、並んで坐り同じく食し、朝から暮れに及び、その帰還に当たっては、高祖及び武明后が共に賜物を与え、常例となった。
子如は元来豪放磊落な性格であり、かつての恩寵を恃み、文書事務においては、与奪を気ままに行い、公然と賄賂を受け取り、顧み憚ることがなかった。興和年間(539-542)、北道行臺に任ぜられ、諸州を巡察監察し、太守・県令以下の官の任免を委ねられた。子如が定州に至ると、深沢県令を斬り、冀州に至ると、東光県令を斬った。いずれも命令の伝達が遅れたことを理由に、極刑に処したのである。もし言葉に前後があったり、少しでも意に合わないことがあれば、すぐに武士に引きずらせ、白刃を首筋に突きつけた。士人も庶民も恐れおののき、どうしてよいかわからなかった。転じて 尚書令 となった。子如は義挙の当初には参与せず、ただ高祖 (高歓) の旧友であったことから、重責を委ねられたに過ぎないが、意気盛んで、収奪を止めなかった。時に世宗 ( 高澄 ) が朝廷の政務を補佐するようになると、次第に内心で彼を疎んじるようになり、まもなく収賄の罪で御史中尉崔暹に弾劾され、尚書省に拘禁された。詔により大罪は免ぜられたが、官爵を削られた。間もなく、冀州の事務を代行するよう起用された。子如は自ら奮起して改め、名声を大いに上げ、奸悪偽りを摘発し、属官たちは畏れて服従した。転じて幷州の事務を代行した。詔により官爵を回復し、別に野王県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。
北斉が禅譲を受けると、補佐の功績があったとして、別に須昌県公に封ぜられ、まもなく 司空 に任ぜられた。子如は滑稽な性格で、行いを慎むことがなく、言葉の戯れは卑猥であり、識者はこれを非難した。しかし姉に礼を尽くし、諸兄の子たちを慈しみ篤く養育したので、当時の名士たちは皆これを敬愛し、世間はこれをもって彼を称えた。しかし元来剛直さがなく、公平な心で物事に対処することができなかった。世宗の時代、中尉崔暹と黄門郎崔季舒がともに重用されていた。世宗が崩御すると、崔暹らは晋陽に赴いた。子如は顕祖 ( 高洋 ) に上奏して、彼らの罪悪を述べ、誅殺を勧めた。その後、子如が馬で関所を越えたことが、役人に奏上された。顕祖は子如を召し出して幾度も責めて言った、「崔暹や季舒は朕の先帝に仕えたが、何の大罪があって、卿は朕に彼らを殺せと言うのか?」これにより免官となった。久しくして、やはり先帝の旧臣であることを以て、太尉に任ぜられた。まもなく病気で薨去した。時に六十四歳であった。使持節・ 都督 冀定瀛滄懐五州諸軍事・太師・太尉・懐州刺史を追贈され、贈り物一千段を賜り、諡して文明といった。
子消難が後を嗣いだ。高祖 (高歓) の娘を娶り、公主の婿、貴公子として、しばしば中書郎・黄門郎・光禄少卿を歴任した。出て北 豫 州刺史となり、武牢を鎮守した。消難は広く史書・伝記に通じ、風采があり人柄も良かったが、廉潔ではなく、州において御史に弾劾された。また公主との仲も睦まじくなく、公主が讒言して訴えたため、罪を恐れて、ついに隣国 (北周) を招き入れ、関西 (北周) に奔った。
子如の兄の 纂 は、先に卒去していたが、子如が貴くなったので、岳州刺史を追贈された。纂の長子の世雲は、軽薄で危険な行いが多く、累進して衛将軍・潁州刺史となった。世雲は元来勲功も業績もなく、ただ子如の縁故によって、しばしば州郡の長官を歴任した。叔父の勢力を恃み、任地ごとに収奪を重ね、なおも姦淫の行いをほしいままにした。推問され処罰されようとしていることを知り、内心驚き恐れ、 侯景 が反乱を起こすと、すぐに州を挙げてこれに従った。時に世雲の同母弟が鄴にいたが、心を傾けて侯景に附き、再び顧みることはなかった。諸将が潁川で侯景を包囲すると、世雲は城上に臨んで遙か遠く諸将に対し、言葉甚だ不遜であった。世宗はやはり子如の旧恩を考え、彼の諸弟の死罪を免じ、北辺に移住させた。侯景が渦陽で敗れた後、世雲はまた異心を抱き、侯景に殺された。
世雲の弟の膺之は、字を仲慶という。若くして学問を好み、風采が美しかった。天平年間(534-537)、子如が貴盛であった時、膺之は尚書郎から中書郎・黄門郎を歴任した。子如が別に須昌県公に封ぜられた時、その爵位を膺之に譲った。膺之の家は財産に富み、自ら蓄財に励んだ。王元景・邢子才の類は、昔からの素行を重んじて彼を尊重した。しかし彼が疎放で傲慢なため、天保年間(550-559)を通じて、埋もれて取り上げられることがなかった。幹明年間(560)、王曦が粛宗 ( 高演 ) に申し上げて、衛尉少卿に任ぜられた。河清末年 (565頃) 、光禄大夫となった。下痢の病に患り、長年起き上がれず、武平年間(570-576)になっても、なお朝謁に堪えられず、自宅で儀同三司に任ぜられた。『太玄経』を好んで読み、揚雄の『蜀都賦』に注釈を加えた。常に言った、「私は揚子雲 (揚雄) と交わりたいものだ」。北斉が滅んだ年、下痢の病で終わった。時に七十一歳であった。
膺之の弟の子瑞は、天保年間(550-559)に定州長史となり、吏部郎中に転じた。清廉・勤勉・公平・倹約として推挙された。 司徒 左長史に転じ、兼ねて廷尉卿となり、公平で正直であると称された。幹明初年(560)、御史中丞を兼任し、厳正に糾弾監察し、朝廷に認められた。病気のため職を去り、そのまま祠部尚書に任ぜられた。卒去し、瀛州刺史を追贈され、諡して文節といった。
子瑞の弟の幼之は、清廉で節操があり、素行が良く、若くして顕職を歴任した。隋の開皇年間(581-600)、眉州刺史の任で卒去した。子瑞の妻は、陸令萱の妹であり、陸令萱が後主に寵愛されるようになると、子瑞に重ねて懐州刺史を追贈し、諸子も皆顕職に就いた。同遊は、武平末年に給事黄門侍郎となった。同回は、太府卿となった。同憲は、通直常侍となった。しかし同遊は結局は良い官吏であり、隋の開皇年間に尚書民部侍郎となり、遂州刺史の任で卒去した。
【史臣の論評】
史臣曰く、高祖 (高歓) は晋陽を兵馬の地とし、覇業の拠り所と定め、兵を治め軍を訓練し、遠くから朝廷の権力を制し、中央の機密事務を、深く遠大に委任した。孫騰らは皆、清く正しく道を守り、治乱を心にかけることができず、財貨を厚く収奪して、その欲望の淵を満たした。昔の蕭何が関中を鎮め、荀彧が許下に居たことと比べれば、これはまた異なることではないか!幸い世宗が入朝して補佐し、驕慢放縦を責め、崔暹を厚く遇して、その厳しい弾劾文を奮い起こさせたのである。そうでなければ、君子 (道徳ある者) が飽き足らぬ思いをすることになり、どうして容易に間に入ることができようか。孫騰の衣の裾を引いて諫めた誠実さは、称賛に足るものがある。隆之はその志と力を尽くして、鄴の都の建設に当たり、また共に隠れた徳行を持つ幕僚であり、早くから任用され遇され、その爵位官職を高くしたが、朝廷の秩序を失うことはなかった。子如はただ若い頃から親しく重用されただけで、情誼は親密ではあったが、義は創業の功臣ではなく、恩寵と私情によって結ばれ、勲功も徳行も聞こえず、宰相の位に至ったのである。甥たちへの愛は、正しい道をもって教え導き、膺之の風采と素行は重んずるに足り、幼之の清廉で簡素な自立ぶりは、称賛に足るものである。