斛律金
斛律金、字は阿六敦、朔州勑勒部の人である。高祖倍侯利は、壮勇をもって塞外に名を知られ、道武帝の時に戸を率いて内附し、孟都公の爵を賜わった。祖父の幡地斤は、殿中 尚 書であった。父の大那瓌は、光禄大夫・第一領民酋長であった。天平年 間 、金が貴顕となると、 司空 公を追贈された。
金は性質敦直にして騎射を善くし、行兵は匈奴の法を用い、塵埃を望んで馬歩の多 少 を識り、地を嗅いで軍の度る遠近を知った。初め軍主となり、懐朔鎮将の楊鈞とともに茹茹の主阿那瓌を送って北に還した。瓌は金の射猟を見て、深くその巧みさを嘆じた。後に瓌が高陸に侵入すると、金はこれを 拒 ぎ撃ち破った。正光の末、破六韓抜陵が叛逆を構えると、金は衆を擁してこれに属し、抜陵は金に王号を仮授した。金は抜陵の終に敗滅すべきを量り、乃ち統べる所の部衆一万戸を率いて雲州に詣でて降伏を請い、即時に第二領民酋長を授けられた。稍々南に出でて黄瓜堆に至り、 杜洛周 に撃破せられ、部衆は分散し、金は兄の平と二人、身を脱して尓朱栄に帰した。栄は金を別将に上表し、累遷して都 督 となった。孝莊帝が立つと、阜城県男の爵を賜わり、寧朔将軍・屯騎 校尉 を加えられた。葛栄・元顥を破るに従い、頻りに戦功有り、鎮南大将軍を加えられた。
尓朱兆等が逆乱をなすに及んで、高祖は密かに匡復の計を懐き、金は婁昭・厙狄干等とともに大謀を賛成し、 仍 挙義に従った。高祖が南して 鄴 を攻めるに当たり、金を留めて 信都 を守らせ、恒・雲・燕・朔・顯・蔚の六州大 都督 を領せしめ、後事を委ね、別に李脩を討ち破り、右光禄大夫を加えられた。高祖に鄴で 会 し、仍従って晋陽を平らげ、尓朱兆を追滅した。太昌初め、金を汾州刺史・当州大 都督 とし、爵を侯に進めた。高祖に従って河西で紇豆陵を破った。天平初め、鄴に遷都するに当たり、金に歩騎三万を領せしめて風陵に鎮し、西寇に備えさせた。軍が罷むと、晋陽に還った。高祖に従って沙苑で戦い、利あらずして軍を返すと、これにより東雍の諸城は再び西軍に占拠されたので、金と尉景・厙狄干等を遣わしてこれを討ち回復させた。元象年間、周の文帝が再び大挙して河陽に向かうと、高祖は衆を率いてこれを討ち、金をして 径 ちに太州に往かしめ、掎角の勢いとなした。金が晋州に到ると、軍が退いたため行かず、仍行臺の薛脩義とともに喬山の寇を囲んだ。間もなく高祖が至り、仍共に討ち平らげ、これに従って高祖に従い南絳・邵郡等数城を攻め落とした。武定初め、北 豫 州刺史の高仲密が城を拠り西に叛くと、周の文帝が洛陽に侵入した。高祖は金に劉豊・歩大汗薩等の歩騎数万を統率させ、河陽城を守らせてこれを拒がしめた。高祖が到ると、仍従って仲密を破った。軍が還ると、大司馬に除され、石城郡公に改封され、邑一千戸を賜わり、第一領民酋長に転じた。三年、高祖が軍を出して山胡を襲い、二道に分かれた。金を南道軍司とし、黄櫨嶺より出でしめた。高祖は自ら北道より出で、赤谼嶺を度り、烏突戍で金と会し、合撃してこれを破った。軍が還ると、出でて冀州刺史となった。四年、詔して金に衆を率いさせ、烏蘇道より晋州で高祖に会し、仍従って玉壁を攻めた。軍が還ると、高祖は金に大衆を総督させ、従って晋陽に帰った。
世宗が事を嗣ぐと、 侯景 が潁川に拠り 西魏 に降ったので、詔して金に潘楽・薛孤延等を帥いさせ、河陽を固守して備えさせた。西魏はその大 都督 李景和・若干宝に馬歩数万を領せしめ、新城より赴き侯景を救援せんとした。金は衆を率いて広武に停まり、これを邀え撃たんとした。景和等はこれを聞いて退走した。還って肆州刺史となり、仍率いる所の部を率いて宜陽に楊志・百家・呼延の三戍を築き、守備を置いて還った。侯景が南 豫 に走ると、西魏の儀同三司 王思政 が入り潁川を拠った。世宗は高嶽・ 慕容 紹宗 ・劉豊等に衆を率いさせてこれを囲んだ。再び詔して金に彭楽・可朱渾道元等を督せしめ、出でて河陽に屯し、その奔救の路を断たしめた。又詔して金に衆を率いさせ、潁川を会攻させた。事が平らぐと、再び金に衆を率いさせ、崿阪より米を宜陽に送らせた。西魏の九曲戍将馬紹隆が険要を拠り鬭うたので、金はこれを破った。功により別に安平県男に封ぜられた。
顯祖が禅を受けると、咸陽郡王に封ぜられ、刺史は元の如しであった。その年の冬、晋陽宮に朝した。金が病むと、帝はその宅に幸して臨視し、医薬を賜い、中使は絶えなかった。病癒えて州に還った。三年、就いて太師を除された。帝が奚賊を征するに、金は帝の行に従った。軍が還ると、帝は肆州に幸し、金と宴射して去った。四年、州を解き、太師として晋陽に還った。車駕は再びその第に幸し、六宮及び諸王ことごとく従い、酒を置き楽を作し、夜極めて 方 く罷んだ。帝は甚だ忻び、詔して金の第二子の豊楽を武衛大将軍とし、 因 て金に謂いて曰く、「公は元勳として命を佐け、父子忠誠なり。朕まさに婚姻を結び、永く蕃衛たらしめん」と。仍詔して金の孫の武都に義寧公主を尚せしめた。成礼の日、帝は皇太后に従い金の宅に幸し、皇后・太子及び諸王等皆従い、その親待せられること此の如しであった。
後に茹茹が突厥に破られ、種落分散したので、その塞を犯し辺民を驚撓せんことを慮り、乃ち詔して金に騎二万を率いさせ、白道に屯してこれを備えさせた。而して虜の帥の豆婆吐久備が三千余戸を将いて密かに西に過らんとす。候騎が還り告げるや、金は統べる所の部を勒して追撃し、その衆を尽く俘虜にした。茹茹の但缽が挙国西に徙らんとす。金はその候騎を 獲 てこれを送り、並びに表して虜を撃ち取るべき勢いを陳べた。顯祖はここにおいて衆を率い金とともに吐頼でこれを討ち、二万余戸を獲て還った。位を進めて右丞相とし、斉州の幹を食し、左丞相に遷った。
肅宗が践祚すると、その孫女を納れて皇太子妃とした。又詔して金の朝見を許し、歩挽車に乗って階まで至ることを 聴 した。世祖が登極すると、礼遇ますます重く、又その孫女を納れて太子妃とした。金の長子の光は大将軍、次子の羨及び孫の武都は並びに開府儀同三司、出でて方岳を鎮め、その余の子孫は皆封侯して貴達した。一門に一皇后、二太子妃、三公主、尊寵の盛んなること、当時比ぶるもの無し。金は嘗て光に謂いて曰く、「我は書を読まざれども、古来外戚の梁冀等、傾滅せざるは無きを聞く。女若し寵有らば、諸貴人妒む。女若し寵無からば、天子これを嫌う。我家は直ちに勲を立て忠を抱いて富貴を致す。豈に女を 藉 むべけんや」と。辞するを得ず、常にこれを憂いとした。天統三年に薨じ、年八十。世祖は西堂に哀を挙げ、後主は又晋陽宮に於いて哀を挙げた。仮黄鉞・使持節・ 都督 朔定冀並瀛青斉滄幽肆晋汾十二州諸軍事・相国・太尉公・録尚書・朔州刺史を贈り、酋長・王は元の如し、銭百万を贈り、謚して武と曰う。子の光が嗣いだ。
斛律光
光、字は明月、幼少より騎射に巧みで、武芸をもって名を知られた。魏の末、金に従って西征し、周の文帝の長史莫孝暉が当時行間に在ったが、光は馬を馳せてこれを射て命中させ、陣中にてこれを捕らえた。光は時に十七歳であった。高祖はこれを嘉し、直ちに 都督 に抜 擢 した。世宗が世子となると、 親信都督 に引き立て、次第に征虜将軍に昇進し、累ねて衛将軍を加えられた。武定五年、永楽県子に封ぜられた。かつて世宗に従って洹橋で校猟した時、大鳥が雲表を飛び颺るのを見て、光は弓を引いてこれを射ると、正しくその頸に当たった。この鳥は車輪の如き形で、旋転して下り、地に至ってみれば、大なる鷲であった。世宗はこれを取って観て、深く壮異とした。丞相属の邢子高が見て嘆じて言うには、「これ射鵰手なり」と。当時、落鵰 都督 と号して伝えられた。まもなく左衛将軍を兼ね、爵を伯に進めた。
斉が禅を受けると、開府儀同三司を加えられ、別に西安県子に封ぜられた。天保三年、征討に従って塞外に出で、光は先駆けて敵を破り、多く首虜を斬り、併せて雑畜を獲た。帰還して、晋州刺史に任ぜられた。東方に周の天柱・新安・牛頭の三つの戍があり、亡叛を招き引き、 屡 々寇 窃 を為した。七年、光は歩騎五千を率いてこれを襲い破り、また周の儀同王敬儁らを大破し、口五百余人、雑畜千余頭を獲て帰還した。九年、また衆を率いて周の絳川・白馬・澮交・翼城等の四戍を取った。朔州刺史に任ぜられた。十年、特進・開府儀同三司に任ぜられた。二月、騎一万を率いて周の開府曹迴公を討ち、これを斬った。栢谷城主の儀同薛禹生は城を棄てて奔り遁れ、文侯鎮を取って、戍を立て柵を置いて帰還した。乾明元年、 并 州刺史に任ぜられた。皇建元年、爵を鉅鹿郡公に進めた。時に楽陵王百年が皇太子となり、粛宗は光が代々醇謹であり、かつ王室に勲功を著わしていることから、その長女を納れて太子妃とした。大寧元年、尚書右僕射に任ぜられ、中山郡の幹を食した。二年、太子太保に任ぜられた。河清二年四月、光は歩騎二万を率いて軹関の西に勲掌城を築き、なお長城二百里を築き、十三の戍を置いた。三年正月、周が将達奚成興らを遣わして平陽を寇したため、詔して光に歩騎三万を率いてこれを防がせた。興らはこれを聞いて退走した。光はこれを追って北し、遂にその境に入り、二千余口を獲て帰還した。その年の三月、 司徒 に遷った。四月、騎を率いて北へ突厥を討ち、馬千余匹を獲た。この年冬、周の武帝がその柱国大司馬尉遅迥・斉国公宇文憲・柱国庸国公可叱雄らを遣わし、衆は十万と称し、洛陽を寇した。光は騎五万を率いて馳せ往き赴き撃ち、邙山に戦い、迥らは大敗した。光はみずから雄を射て、これを殺し、斬捕した首虜は三千余級に及び、迥・憲は辛うじて免れ、その甲兵輜重を尽く収め、なお死者を積んで京観とした。世祖が洛陽に幸し、勲功を策し賞を班ち、太尉に遷り、また冠軍県公に封ぜられた。先に世祖が命じて光の第二女を納れて太子妃とし、天統元年、皇后に拝された。その年、光は大将軍に転じた。三年六月、父の喪により官を去ったが、その月、詔して光とその弟羨とを起し、併せて前任に復させた。秋、太保に任ぜられ、 咸陽王 の爵を襲い、併せて第一領民酋長を襲い、別に武徳郡公に封ぜられ、趙州の幹に徙り食し、太傅に遷った。
十二月、周が将を遣わして洛陽を囲み、糧道を壅ぎ絶った。武平元年正月、詔して光に歩騎三万を率いてこれを討たせた。軍は定隴に次いだ。周の将張掖公宇文桀・中州刺史梁士彦・開府司水大夫梁景興らがまた鹿盧交道に屯し、光は甲を擐ぎ鋭を執り、身を士卒に先んじ、鋒刃交わるや、桀の衆は大いに潰え、二千余級を斬首した。直ちに宜陽に到り、周の斉国公宇文憲・申国公扌翕跋顕敬と十旬相対した。光は統関・豊化の二城を築き置き、以て宜陽への路を通じた。軍が還るに及び、安鄴に行き次ぐと、憲らの衆は五万と号し、なお軍の後を躡った。光は騎を縦ってこれを撃つと、憲の衆は大いに潰え、その開府宇文英・ 都督 越勤世良・韓延らを虜い、また三百余級を斬首した。憲はなお桀とその大将軍中部公梁洛都に景興・士彦らと歩騎三万を率いさせ、鹿盧交に於て要路を塞ぎ断たせた。光は韓貴孫・呼延族・王顕らと合撃し、これを大破し、景興を斬り、馬千匹を獲た。詔して右丞相・ 并 州刺史を加えた。その冬、光はまた歩騎五万を率いて玉壁に華谷・龍門の二城を築き、憲・顕敬らと相持し、憲らは敢えて動かなかった。光は乃ち進んで定陽を囲み、なお南汾城を築いた。州を置いてこれを 逼 り、夷夏一万余戸併せて来たり内附した。
二年、衆を率いて平隴・衛壁・統戎等の鎮戍十三所を築いた。周の柱国枹罕公普屯威・柱国韋孝寛ら歩騎一万余が来たり平隴を逼り、光と汾水の北に戦うと、光はこれを大破し、俘斬は千計に及んだ。また中山郡公に封ぜられ、邑一千戸を増やされた。軍が還ると、詔して復た歩騎五万を率いて平陽道より出で、姚襄・白亭城戍を攻め、皆これを克ち、その城主儀同・大 都督 等九人を獲、捕虜数千人を得た。また別に長楽郡公に封ぜられた。この月、周がその柱国紇幹広略を遣わして宜陽を囲んだ。光は歩騎五万を率いてこれに赴き、城下に大戦し、乃ち周の建安等四戍を取り、捕虜千余人を得て帰還した。軍は未だ鄴に至らぬ内に、勅令して 便 ち兵を放ち散ぜしめた。光は軍人多く勲功有りて、未だ慰労を得ず、若し即ち散ぜば恩沢施さずと以為い、密かに表を通じて使をして旨を宣べさせ、軍はなお且く進まんことを請うた。朝廷は使を発するに遅留し、軍が還り、将に 紫陌 に至らんとするに及び、光はなお営に駐まって使を待った。帝は光の軍営已に逼るを聞き、心甚だこれを悪み、急ぎ舎人に令して光を追い入見せしめ、然る後に宣労して兵を散ぜしめた。光を左丞相に拝し、また別に清河郡公に封ぜた。
光が入朝すると、常に朝堂に在って簾を垂れて坐した。祖珽は知らず、馬に乗ってその前を過ぎた。光は怒り、人に謂って曰く、「此人乃ち敢えてかくの如くす」と。後に珽が内省に在りて、言声高慢なりしを、光が恰も過ぎ、これを聞き、また怒った。珽は光の忿れるを知り、光の従奴に賂してこれを問うて曰く、「相王は孝徴を瞋るや」と。曰く、「公の事を用うるより以来、相王は毎夜膝を抱きて嘆きて曰く、『盲人入らば、国必ず破れん』と」と。穆提婆が光の庶女を娶らんことを求むるも、許さず。帝が提婆に晋陽の田を賜うと、光は朝に於て言うには、「この田は神武帝以来常に禾を種え、馬数千匹を飼い、以て寇難に擬す。今提婆に賜うは、軍務を闕くこと無からんや」と。これにより祖・穆は怨みを積んだ。
周の将軍韋孝寛は光の勇猛を忌み、流言を作り、間諜に命じてその文を鄴に漏らさせた。曰く「百升天に飛び、明月長安を照らす」、また曰く「高山推さずして自ら崩れ、槲樹扶けずして自ら豎つ」。祖珽はこれに続けて曰く「盲眼の老公背の上に大斧を下し、饒舌の老母語るを得ず」。小児に命じてこれを路上で歌わせた。提婆これを聞き、その母令萱に告げた。萱は饒舌が己を斥けるものとし、盲老公は珽を指すとし、遂に相謀り、流言をもって帝に啓して曰く「斛律氏は累世の大将、明月の声は関西に震い、豊楽の威は突厥に行われ、女は皇后となり、男は公主を尚り、流言は甚だ畏るべし」。帝は韓長鸞に問う。長鸞は不可と為し、事は 寝 んだ。祖珽また帝に謁し間を請う。唯だ何洪珍のみ側に在り。帝曰く「前に公の啓を得て、即ち施行せんと欲したるに、長鸞は此の理無しと為せり」。珽未だ答えず、洪珍進みて曰く「若し本より意無ければ則ち可なり、既に此の意有りて決行せざれば、万一泄露せば如何」。帝曰く「洪珍の言是なり」。猶予して未だ決せず。会丞相府佐の封士讓が密かに啓して云う「光前に西討より還り、勅令して兵を放ち散ぜしむ。光は軍をして帝京に逼ましめ、将に不軌を行わんとす。事果たさずして止む。家に弩甲を蔵し、奴僮千数を数う。毎に使を豊楽・武都の処に遣わし、陰謀往来す。若し早く図らざれば、恐らく事測るべからず」。啓に「軍帝京に逼る」と云う。帝の前に疑いし意に会し、何洪珍に謂いて云う「人心も亦大いに聖なり。我前に其の反を欲するを疑えり、果たして然り」。帝の性至って怯懦、恐らく即ち変発せんとし、洪珍に馳せて召し祖珽に告げしむ。又た光を追うも命に従わざるを恐る。珽因りて云う「正に 爾 りて之を召せば、恐らく疑いて 肯 えて入らじ。宜しく使を遣わして其の一駿馬を賜い、語りて云う『明日将に東山に往きて遊観せんとす、王此の馬に乗りて同行すべし』と。光必ず来り奉謝せん。因りて引入れて之を執れ」。帝其の言の如し。 頃 くして、光至る。涼風堂に引入る。劉桃枝後より 拉 ぎて之を殺す。時に年五十八。ここに於て詔を下し光の謀反を称し、今已に法に伏す。其の余の家口は並びに 須 い問うに及ばずとす。 尋 なくして詔を発し、其の族を尽く滅ぼす。
光の性、少言にして剛急、下を御するに厳しく、兵を治め衆を督するに、唯だ威刑を 仗 む。版築の役、人士を鞭撻し、頗る其の暴を称せらる。結髪して戎に従うよりこのかた、未だ律を失わず、深く隣敵に 憚 れらる。罪既に 彰 わならず、一旦屠滅せらる。朝野之を痛惜す。周の武帝光の死を聞き、大いに喜び、其の境内を赦す。後に鄴に入り、上柱国・崇国公を追贈す。詔書を指して曰く「此人若し在らば、朕豈に鄴に至らんや」。
光に四子有り。長子武都、歴位して特進・太子太保・開府儀同三司・梁兗二州刺史。所在並びに政績無く、唯だ 聚斂 を事とし、百姓を侵漁す。光の死後、使を州に遣わして之を斬る。次須達、中護軍・開府儀同三司、光に先だって卒す。次世雄、開府儀同三司。次恒伽、仮の儀同三司。並びに死を賜う。光の小子鐘、年数歳、免るることを獲たり。周朝に襲封して崇国公と為る。隋の開皇中、驃騎將軍に卒す。
斛律羨
羨、字は豊楽、少くして機警有り、尤も射芸を善くす。高祖之を見て称す。世宗之を擢んで開府参軍事と為す。征虜將軍・中散大夫に遷り、安西將軍を加え、進めて大夏県子に封じ、通州刺史を除く。顯祖礼を受く。征西と号を進め、別に顯親県伯に封ず。
河清三年、使持節に転じ、幽・安・平・南・北営・東燕の六州諸軍事、幽州刺史を 都督 す。其の年の秋、突厥の衆十余万来たりて州境を寇す。羨総べて諸将を率いて之を禦ぐ。突厥軍威の甚だ整うを見て、遂に敢えて戦わず、即ち使を遣わして 款 いを求む。其の詐り有るを慮り、且つ之に 喻 して曰く「爾輩此の行、本より朝貢に非ず、機を見て始めて変ず、未だ宿心に非ず。若し実誠有らば、宜しく速やかに帰りて巣穴し、別に使を遣わして来たれ」。ここに於て退走す。天統元年夏五月、突厥の木汗使を遣わして朝献を請う。羨始めて以て聞く。是より朝貢歳時に絶えず、羨力有り焉。詔して行臺僕射を加う。羨は北虜の屡ば辺を犯すを以て、須いるに不虞に備うべく、庫堆戍より東は海に拒るまで、山に随いて屈曲すること二千余里、其の間二百里の中、凡そ険要ある所は、或いは山を斬りて城を築き、或いは谷を断ちて障を起し、並びに戍邏五十余所を置立す。又た高梁水を導きて北は易京に合し、東は潞に会し、因りて以て田を灌ぐ。辺儲歳に積み、転漕の 用省 かれ、公私利を得たり。其の年の六月、父の憂いに 丁 たりて官を去る。兄の光と並びに起復任せられ、還って燕薊を鎮む。三年、位を特進に加う。四年、行臺 尚書令 に遷り、別に高城県侯に封ず。武平元年、驃騎大將軍を加う。時に光子武都は兗州刺史と為る。羨数帝に歴事し、謹直を以て推され、極めて栄寵に在りと雖も、自ら矜尚せず、此に至りて合門貴盛なるを以て、深く以て憂いと為す。乃ち上書して推譲し、乞う所の職を解かんとす。優詔して許さず。其の年の秋、爵を進めて荊山郡王と為す。
三年七月、光誅さる。勅して中領軍賀拔伏恩等十余人を遣わし、駅伝にて之を捕えしむ。領軍大將軍鮮于桃枝・洛州行臺僕射獨孤永業を遣わし、便ち定州の騎卒を発して続いて進ましめ、仍りて永業を以て羨に代えしむ。伏恩等既に至る。門者白して曰く「使人衷甲し馬汗す、宜しく城門を閉ざすべし」。羨曰く「勅使豈に疑拒すべけんや」。出でて之を見る。伏恩手を 把 り、遂に之を執る。長史の廳事に死す。臨終嘆いて曰く「富貴此の如し、女は皇后となり、公主家に満つ、常に三百の兵を使わしむ、何ぞ敗れざらんや」。及び其の五子世達・世遷・世辨・世酋・伏護、余年十五已下の者は之を 宥 す。羨未だ誅されざる前、忽ち其の州に在る諸子自ら伏護以下五六人を令し、頸を鎖して驢に乗りて城を出ださしむ。合家皆泣きて之を送り門に至り、 日晩 て帰る。吏民驚異せざる莫し。行燕郡守の馬嗣明は、医術の士にして、羨の欽愛する所と為る。乃ち窃かに之に問う。答えて曰く「須いるに禳厭有らん」。数日にして此の変有り。
羨及び光並びに少くして騎射に 工 み、其の父毎日其の出でて 畋 するを令し、還りて即ち獲たる禽獣を 較 ぶ。光の獲たる所或少なきも、必ず 麗龜 して腋に達す。羨は獲多しと雖も、要害の所に非ず。光常に賞を蒙り、羨は或いは 捶 撻せらる。人其の故を問う。金答えて云う「明月は必ず背上に箭を著け、豊楽は随処に即ち手を下す。其の数多しと雖も、兄を去ること遠し」。聞者皆其の言に服す。
斛律平
金の兄平、弓馬に便け、幹用有り。魏の景明中、釈褐して殿中將軍と為り、襄威將軍に遷る。正光末、六鎮擾乱す。大将軍尉賓に隷し北討す。軍敗れ、賊の虜と為る。後に走りて其の弟金を雲州に奔る。進めて龍驤將軍と号す。金と衆を擁して南に出で、黄瓜堆に至り、杜洛周に破られ、部落離散す。及び尒朱栄に帰る。之を待つこと甚だ厚く、平を以て父の爵第一領民酋長を襲わしむ。
高祖が挙兵すると、 都督 として従軍した。やがて平北将軍・顕州刺史に昇進し、鎮南将軍を加えられ、固安県伯に封ぜられた。まもなく侯に進み、肆州刺史を代行した。周の文帝がその右将軍李小光を遣わして梁州を占拠させると、平は別働隊を率いて討ちこれを捕らえた。出向して燕州刺史となった。召還されて左衛将軍を兼ね、一万の兵を率いて北徐の賊を討ち、これを破り、済州刺史に任ぜられた。侯景が長江を渡ると、詔により平は大 都督 となり、青州刺史敬顕俊・左衛将軍厙狄伏連らを率いて寿陽・宿預など三十余城を平定した。事が終わって州に戻り、開府を加えられ、位は驃騎大将軍に進み、爵は公に進んだ。顕祖が禅譲を受けると、別に羨陽侯に封ぜられた。兗州刺史を代行したが、賄賂を貪ったことで除名された。後に開府儀同三司に任ぜられた。 廃帝 が即位すると、特進を拝し、滄州楽陵郡の幹を食した。皇建初年、定陽郡公に封ぜられ、護軍を拝した。後に青州刺史となり、卒した。太尉を追贈された。
【評賛】
史臣が曰く、斛律金は高祖が乱を撥ね除け始めた時、王業の達成を補佐し、忠誠の極みをもってこの大功を成し遂げた。故に長寿を全うし、百官の高位に至った。その満ち溢れることへの戒めを見よ、それは慎みの微かなるものなり。才が後嗣に及ぶや、遂に誅殺に至った。威権の重きことによるとはいえ、まさに道家の忌むところに符合する。光は上将の子として、沈毅の資質を有し、戦術と兵権は暗に韜略に同じく、敵に臨んで勝利を制し、変化に方なし。関・河が分かれて以来、年やく四紀に及ぶ。高祖の覇王たる時期に当たり、宇文氏の草創の日に属し、軍を出して討伐し、しばしば兵鋒を挫いた。しかし大寧以後、東隣は次第に弱まり、関西は先に 巴蜀 を収め、また江陵を殄滅し、高屋建瓴の勢いで武力を用い、併呑の壮気を成した。斛律は軍を治め衆に誓い、辺境を防ぎ止め、戦えば前には完陣なく、攻めれば全城あること稀なり。斉氏は必ずや拘原の師を致し、秦人は再び関を啓く策なし。しかるに世乱れて才勝り、主君を震わせる威をもって詐り、主暗く時艱しく、自ら藩籬の固きを毀つ。昔、李牧が趙の将たりし時、北に胡寇を翦り、西に秦軍を退けしも、郭開の讒言により、牧は死し趙は滅びたり。光を誅するを議したる者、豈に秦の反間なるか、何ぞ術同じくして亡ぶこと同じきや。内には諸将を解体せしめ、外には強隣に仇を報いさせたり。嗚呼、後の君子、深く戒むべきなり。