北齊書

巻016

巻016

北齊書

原文北齊書

卷十六列傳第八 段榮 子韶

原文卷十六列傳第八 段榮 子韶

段榮

原文段榮

段榮は、字を子茂といい、姑臧武威の人である。祖父の信は沮渠氏に仕え、後に北魏に入り、豪族として北辺に移され、五原郡に家を定めた。父の連は安北府司馬であった。榮は若くして暦術を好み、星象に専心した。正光の初め、人に語って曰く、「『易』に『天文を観て以て時変を察す』と云い、また『天は象を垂れて吉凶を見す』と曰う。今、玄象を観、人事を察するに、十年を待たずして乱あらん」と。或る人が問うて曰く、「何れの処より起こるか、避くべけんや」と。榮曰く、「乱を構うるの源、此の地を始めとす。恐らくは天下此れに因りて横流し、避く所無からん」と。未だ幾ばくもせず、果たして言の如し。榮は乱に遇い、郷里の旧知と妻子を携え、南に平城に向かう。杜洛周が乱を為すに属し、榮は高祖こうそと謀りて之を誅せんとし、事捷かず、共に尒朱榮に奔る。

原文段榮,字子茂,姑臧武威人也。祖信,仕沮渠氏,後入魏,以豪族徙北邊,仍家於五原郡。父連,安北府司馬。榮少好曆術,專意星象。正光初,語人曰:「《易》云 『觀於天文以察時變』,又曰『天垂象,見吉兇』,今觀玄象,察人事,不及十年,當有亂矣。」或問曰:「起於何處,當可避乎?」榮曰:「構亂之源,此地為始,恐天下因此橫流,無所避也。」未幾,果如言。榮遇亂,與鄉舊攜妻子,南趣平城。屬杜洛周為亂,榮與高祖謀誅之,事不捷,共奔尒朱榮。

後に高祖が山東に義兵を挙げると、榮は大策の成就を補佐した。行臺右丞、西北道慰喻大使となり、方域を巡りて曉諭し、所在の地これを下す。高祖が南に鄴を討つに当たり、榮を留めて信都を鎮守せしめ、鎮北將軍、定州刺史を授けられる。時に鄴を攻めて未だ克たず、須いる軍資を、榮は転輸して欠くこと無し。高祖が洛に入り、功を論じて姑臧縣侯に封ぜられ、邑八百戸を賜う。転じて瀛州刺史を授けられる。榮の妻は皇后の姉なり。榮は高祖が私親を招くとの議を恐れ、固く諸将に推し、遂に州に赴かず。尋いで相州の事を行い、後に濟州刺史となる。天平三年、泰州の事を行うに転ず。榮の性質は温和にして、歴任の地皆仁恕を推し、民吏これに親しむ。初め、高祖将に関右を図らんとし、榮と密謀す。榮は盛んに未だ可からずと称す。渭曲に利あらずしてのち、高祖之を悔い、曰く、「吾れ段榮の言を用いざるにより、以て此に至る」と。四年、山東大行臺・大都督ととくを除かれ、甚だ物情を得る。元象元年、儀同三司を授けられる。二年五月卒す。年六十二。使持節・定冀滄瀛四州諸軍事・定州刺史・太尉・尚書左僕射を贈られ、諡して昭景と曰う。皇建の初め、高祖廟庭に配饗される。二年、重ねて大司馬・尚書令しょうしょれい・武威王を贈られる。長子の韶が嗣ぐ。

原文後高祖建義山東,榮贊成大策。為行臺右丞,西北道慰喻大使,巡方曉喻,所在下之。高祖南討鄴,留榮鎮信都,仍授鎮北將軍,定州刺史。時攻鄴未克,所須軍資,榮轉輸無闕。高祖入洛,論功封姑臧縣侯,邑八百戶。轉授瀛州刺史。榮妻,皇后姊也,榮恐高祖招私親之議,固推諸將,竟不之州。尋行相州事,後為濟州刺史。天平三年,轉行泰州事。榮性溫和,所歷皆推仁恕,民吏愛之。初,高祖將圖關右,與榮密謀,榮盛稱未可。及渭曲失利,高祖悔之,曰:「吾不用段榮之言,以至於此。」四年,除山東大行臺、大都督,甚得物情。元象元年,授儀同三司。二年五月卒,年六十二。贈使持節、定冀滄瀛四州諸軍事、定州刺史、太尉、尚書左僕射,諡曰昭景。皇建初,配饗高祖廟庭。二年,重贈大司馬、尚書令、武威王。長子韶嗣。

子韶

原文子韶

韶は、字を孝先といい、小名を鐵伐という。若くして騎射に巧み、将領たる才略有り。高祖は武明皇后の姉の子なるを以て、ことごとく器としてこれを愛し、常に左右に置き、以て心腹と為す。

原文韶,字孝先,小名鐵伐。少工騎射,有將領才略。高祖以武明皇后姊子,盡器愛之,常置左右,以為心腹。

建義の初め、親信都督を領す。中興元年、高祖に従い尒朱兆を拒ぎ、廣阿に戦う。高祖韶に謂いて曰く、「彼は衆、我は寡、之を如何にせん」と。韶曰く、「所謂衆とは、衆人の死を得る者、強者とは、天下の心を得る者なり。尒朱は狂狡にして、行路の見る所、冠を裂き冕を毀ち、本を抜き源を塞ぐ。邙山の会、搢紳何の罪か有らん、兼ねて主を殺し君を立て、旬朔を脱せず、天下乱を思い、十室にして九なり。王躬は德義を昭かにし、君側の悪を除く、何れの往きか克たざらんや」と。高祖曰く、「吾れ順を以て逆を討ち、辞を奉じて罪を伐つと雖も、但だ弱小強大の間に在り、恐らくは天命無からん、卿聞かざるか」と。答えて曰く、「韶聞く、小よく大に敵し、小道は大淫なり、皇天親無く、唯だ德を輔く、と。尒朱は外に天下を賊とし、内に善人を失う。知者は謀り為さず、勇者は鬭わず、不肖は職を失い、賢者之を取る、復た何をか疑わん」と。遂に兆と戦い、兆の軍潰える。鄴に於いて劉誕を攻む。及び韓陵の戦い、韶は率いる所部を督し、先鋒として陣に陷る。尋いで高祖に従い晉陽を出で、赤谼嶺に於いて尒朱兆を追い、之を平らぐ。軍功を以て下洛縣男に封ぜられる。又従い夏州を襲い取り、斛律彌娥突を擒え、龍驤將軍・諫議大夫を加えられ、累遷して武衛將軍となる。後に父榮の姑臧縣侯の恩賜に当たり、其の下洛縣男を啓して継母の弟寧安に譲り嗣がしむ。

原文建義初,領親信都督。中興元年,從高祖拒尒朱兆,戰於廣阿。高祖謂韶曰:「彼衆我寡,其若之何?」韶曰:「所謂衆者,得衆人之死;強者,得天下之心。尒朱狂狡,行路所見,裂冠毀冕,拔本塞源,邙山之會,搢紳何罪,兼殺主立君,不脫旬朔,天下思亂,十室而九。王躬昭德義,除君側之惡,何往而不克哉!」高祖曰:「吾雖以順討逆,奉辭伐罪,但弱小在強大之間,恐無天命,卿不聞之也?」答曰:「韶聞小能敵大,小道大淫,皇天無親,唯德是輔,尒朱外賊天下,內失善人,知者不為謀,勇者不為鬭,不肖失職,賢者取之,復何疑也。」遂與兆戰,兆軍潰。攻劉誕於鄴。及韓陵之戰,韶督率所部,先鋒陷陣。尋從高祖出晉陽,追尒朱兆於赤谼嶺,平之。以軍功封下洛縣男。又從襲取夏州,擒斛律彌娥突,加龍驤將軍、諫議大夫,累遷武衛將軍。後恩賜父榮姑臧縣侯,其下洛縣男啟讓繼母弟寧安。

興和四年、高祖に従い周文帝を邙山に禦ぐ。高祖身を行間(陣中)に在らしめ、西魏の将賀拔勝に識られ、鋭兵を率いて来り逼る。韶は傍らより馳せ馬を引き弓を反らせて射れば、一箭其の前駆を斃し、追騎憚れて、敢えて前る者莫し。西軍退き、馬並びに金を賜い、爵を進めて公と為す。

原文興和四年,從高祖禦周文帝於邙山。高祖身在行間,為西魏將賀拔勝所識,率銳來逼。韶從傍馳馬引弓反射,一箭斃其前驅,追騎懾憚,莫敢前者。西軍退,賜馬並金,進爵為公。

武定四年、玉壁に征することに従う。時に高祖豫よ(病氣)ならず、城を攻めて下さず、諸将を召集し、共に進止の宜を論ず。大司馬斛律金・司徒しと韓軌・左衛將軍劉豐等に謂いて曰く、「吾れ毎に段孝先と兵を論ずるに、殊に英略有り。若し比来其の謀を用いしならば、亦た今日の労無からん。吾れ患い勢危篤、恐らくは或いは虞るべき有らん、孝先に鄴下の事を委ねんと欲す、如何」と。金等曰く、「臣を知るは君に若くは莫し、実に孝先に出でる者無し」と。仍って韶に謂いて曰く、「吾れ昔卿の父と険艱に冒し涉り、同じく王室を獎け、此の大功を建つ。今病疾此の如く、殆んど将に済わざらんとす。宜しく善く相翼佐し、茲が負荷を克せよ」と。即ち韶をして顯祖に従い鄴を鎮守せしめ、世宗を召して軍に赴かしむ。高祖疾甚だしく、世宗に顧命して曰く、「段孝先は忠亮仁厚、智勇兼備す。親戚の中、唯だ此の子有り。軍旅の大事、宜しく之と共に籌すべし」と。五年春、高祖晉陽に崩ず。秘して喪を発せず。俄にして侯景乱を構う。世宗鄴に還り、韶は晉陽に留まり守る。世宗還りて、女楽十数人、金十斤、繒帛是に称うるを賜い、長樂郡公に封ぜらる。世宗潁川を征し、韶は留まりて晉陽を鎮守す。別に真定縣男に封ぜられ、幷州刺史を行う。顯祖禪を受け、別に朝陵縣を封ぜられ、又霸は城縣を封ぜられ、位を特進に加えらる。朝陵公に帰ることを啓求し、継母梁氏を郡君に封ずることを乞う。顯祖之を嘉し、別に梁氏を以て安定郡君と為す。又霸城縣侯を以て其の継母の弟孝言に譲る。論者之を美す。

原文武定四年,從征玉壁。時高祖不豫,攻城未下,召集諸將,共論進止之宜。謂大司馬斛律金、司徒韓軌、左衛將軍劉豐等曰:「吾每與段孝先論兵,殊有英略,若使比來用其謀,亦可無今日之勞矣。吾患勢危篤,恐或不虞,欲委孝先以鄴下之事,何如?」金等曰:「知臣莫若君,實無出孝先。」仍謂韶曰:「吾昔與卿父冒涉險艱,同獎王室,建此大功。今病疾如此,殆將不濟,宜善相翼佐,克茲負荷。」即令韶從顯祖鎮鄴,召世宗赴軍。高祖疾甚,顧命世宗曰:「段孝先忠亮仁厚,智勇兼備,親戚之中,唯有此子,軍旅大事,宜共籌之。」五年春,高祖崩於晉陽,秘不發喪。俄而侯景構亂,世宗還鄴,韶留守晉陽。世宗還,賜女樂十數人,金十斤,繒帛稱是,封長樂郡公。世宗征潁川,韶留鎮晉陽。別封真定縣男,行幷州刺史。顯祖受禪,別封朝陵縣,又封霸城縣,加位特進。啟求歸朝陵公,乞封繼母梁氏為郡君。顯祖嘉之,別以梁氏為安定郡君。又以霸城縣侯讓其繼母弟孝言。論者美之。

天保三年、冀州刺史・六州大都督となり、善政を施し、官吏・民衆の心を得た。四年十二月、梁の将軍東方白額が密かに宿預に至り、辺境の民を誘い、長吏を殺害したため、淮・泗の地は騒然となった。五年二月、韶を召してこれを討たしむる詔が下った。到着すると、梁の将軍厳超達らの軍が涇州に迫り、また陳の武帝が兵を率いて広陵を攻めようとし、刺史王敬寶が使者を遣わして危急を告げ、さらに尹思令が一万余りの兵を率いて盱眙を襲おうと謀るという事態が重なった。三軍は皆恐れた。韶は諸将に言う、「梁氏が乱れて以来、国に定まった主なく、人は去就を思い、強者に従う。霸先らは智は小さく謀は大きく、政令は統一されず、外には同徳を装い、内には離心がある。諸君は憂えるに足らず、我はこれを熟知している」と。そこで儀同の敬顯儁・堯難宗らを留めて宿預を包囲させ、自らは歩騎数千を率いて倍道で涇州へ向かった。途中盱眙を出ると、思令は大軍の突然の到来を予期せず、旗を見て敗走した。進んで超達と合戦し、これを大破し、その舟艦・器械をことごとく鹵獲した。諸将士に言う、「呉人は軽躁で、もともと大謀はない。今超達を破ったので、霸先は必ず逃げるであろう」と。ただちに引き返して広陵へ向かった。陳の武帝は果たして逃走した。楊子柵まで追撃し、揚州城を望んで引き返し、その軍資器物を多く獲て、宿預へ帰還した。六月、韶は弁士を遣わして白額に禍福を説かせた。白額はそこで門を開いて盟を請うた。韶は行臺の辛術らと議し、ひとまず盟を受けることとした。盟が終わると、白額は結局用をなさないと見て、捕らえて斬り、その諸弟らとともに首を京師に伝送した。江淮は平穏となり、民は皆安堵した。顕祖はその功を嘉し、詔して呉口七十人を賞賜し、平原郡王に封じた。清河王岳が郢州を攻略し、司徒陸法和を捕らえた際、韶もまた従軍し、層城を築き、新蔡に郭默戍を立てて帰還した。皇建元年、太子太師を領す。

原文天保三年,為冀州刺史、六州大都督,有惠政,得吏民之心。四年十二月,梁將東方白額潛至宿預,招誘邊民,殺害長吏,淮、泗擾動。五年二月,詔徵韶討之。既至,會梁將嚴超達等軍逼涇州;又陳武帝率衆將攻廣陵,刺史王敬寶遣使告急;復有尹思令率衆萬餘人,謀襲盱貽。三軍咸懼。韶謂諸將曰:「自梁氏喪亂,國無定主,人懷去就,強者從之。霸先等智小謀大,政令未一,外託同德,內有離心,諸君不足憂,吾揣之熟悉矣。」乃留儀同敬顯儁、堯難宗等圍守宿預,自將步騎數千人倍道赴涇州。途出盱眙,思令不虞大軍卒至,望旗奔北。進與超達合戰,大破之,盡獲其舟艦器械。謂諸將士曰:「吳人輕躁,本無大謀,今破超達,霸先必走。」即回赴廣陵。陳武帝果遁去。追至楊子柵,望揚州城乃還,大獲其軍資器物,旋師宿預。六月,韶遣辯士喻白額禍福,白額於是開門請盟。韶與行臺辛術等議,且為受盟。盟訖,度白額終不為用,因執而斬之,並其諸弟等並傳首京師。江淮帖然,民皆安輯。顯祖嘉其功,詔賞吳口七十人,封平原郡王。清河王岳之克郢州,執司徒陸法和,韶亦豫行,築層城,於新蔡立郭默戍而還。皇建元年,領太子太師。

大寧二年、幷州刺史に任ぜられる。高帰彦が冀州で乱を起こすと、詔により東安王婁叡とともに兵を率いてこれを討ち平げ、太傅に遷り、女楽十人と帰彦の果園一千畝を賜う。引き続き幷州に臨み、政治は大綱を挙げ、細かい点を察せず、民の和を大いに得た。

原文大寧二年,除幷州刺史。高歸彥作亂冀州,詔與東安王婁叡率衆討平之,遷太傅,賜女樂十人,並歸彥果園一千畝。仍蒞幷州,為政舉大綱,不存小察,甚得民和。

十二月、周の武帝が将を遣わし、羌夷と突厥の兵を合わせて晉陽に迫った。世祖は鄴から倍道兼行で救援に赴いた。突厥は北から陣を結んで進み、東は汾河に至り、西は風谷に及んだ。事態は突然であり、兵馬は整っていなかった。世祖はこの状況を見て、やはり避けて東へ向かおうとした。ほどなく河間王孝琬の請いを容れ、趙郡王に諸将を統率させた。時は大雪の後であり、周人は歩卒を前鋒とし、西山から下り、城から二里のところに来た。諸将は皆これを迎撃しようとした。韶は言う、「歩兵の気勢には自ら限りがある。今、積雪が厚く、迎え撃つのは得策ではない。陣を敷いて待つ方がよい。彼は労し我は逸す、必ずこれを破ることができよう」と。やがて交戦し、これを大破した。敵の前鋒はことごとく殪され、一人も残らず、残りは夜通し逃げ去った。そこで韶に騎兵を率いて追撃させたが、塞を出ても追いつかず帰還した。世祖はその功を嘉し、別に懐州武徳郡公に封じ、太師に進位させた。

原文十二月,周武帝遣將率羌夷與突厥合衆逼晉陽,世祖自鄴倍道兼行赴救。突厥從北結陣而前,東距汾河,西被風谷。時事既倉卒,兵馬未整,世祖見如此,亦欲避之而東。尋納河間王孝琬之請,令趙郡王盡護諸將。時大雪之後,周人以步卒為前鋒,從西山而下,去城二里。諸將咸欲逆擊之。詔曰:「步人氣勢自有限,今積雪既厚,逆戰非便,不如陣以待之。彼勞我逸,破之必矣。」既而交戰,大破之,敵前鋒盡殪,無復孑遺,自餘通宵奔遁。仍令韶率騎追之,出塞不及而還。世祖嘉其功,別封懷州武德郡公,進位太師。

周の冢宰宇文護の母閻氏は先に中山宮に配されていた。護は閻氏がなお存命と聞き、国境を通じて文書を送り、母の返還を請うとともに、隣国との友好を通じさせようとした。当時、突厥がたびたび辺境を犯し、韶は塞下に駐屯していた。世祖は黄門徐世栄を駅伝に乗せて周の書を携えさせ、韶に意見を問うた。韶は、周人は反覆して元来信義がなく、先の晉陽の戦役の事実からもそれは明らかである、護は外には宰相を装っているが、実は王であり、母のために和を請うのであれば、一人の使者も遣わして情理を述べることもせず、移書に基づいてすぐにその母を送れば、弱みを見せることになるだろう、と。臣の管見では、ひとまず外ではこれを許し、後で返すのでも遅くはない、と述べた。聞き入れられなかった。ついに使者を礼をもって送り届けさせた。

原文周冢宰宇文護母閻氏先配中山宮,護聞閻尚存,乃因邊境移書,請還其母,並通鄰好。時突厥屢犯邊,韶軍於塞下。世祖遣黃門徐世榮乘傳賫周書問韶。韶以周人反覆,本無信義,比晉陽之役,其事可知。護外托為相,其實王也,既為母請和,不遣一介之使申其情理,乃據移書即送其母,恐示之弱。如臣管見,且外許之,待後放之未晚。不聽。遂遣使以禮將送。

護は母を得ると、やはり将軍尉遅迥らを遣わして洛陽らくようを襲撃させた。韶は蘭陵王長恭・大将軍斛律光に兵を率いてこれを撃たせ、邙山の下に駐屯させたが、逗留して進まなかった。世祖は韶を召して言う、「今、王を洛陽の包囲に赴かせたいと思うが、突厥がここにいるので、また鎮め防がねばならぬ。王はどう思うか」と。韶は言う、「北虜が辺境を侵すのは、疥癬のようなものである。今、西羌が窺い迫るのは、膏肓の病のようなものである。詔を奉じて南行することを請う」と。世祖は言う、「朕の考えもまたそうである」と。そこで韶に精騎一千を督させ、晉陽から出発させた。五日で黄河を渡り、大将とともに進退を計った。韶は早朝、配下の二百騎を率いて諸軍とともに邙阪に登り、周軍の形勢をうかがった。大和谷に至ると、ちょうど周軍に出会い、ただちに馳せて諸営に告げ、兵馬を集めさせた。そして諸将と陣を結んでこれを待った。韶は左軍、蘭陵王は中軍、斛律光は右軍となり、周人と相対した。韶は遠く周人に呼びかけて言う、「汝ら宇文護は幸いにも母を得たのに、恩を懐いて徳に報いることができず、今日来るとは、いったい何のつもりか」と。周人は言う、「天が我らを遣わしたのだ。何を問うことがあろうか」と。韶は言う、「天道は善を賞し悪を罰する。汝らを死に送り来らせたのであろう」と。周軍はやはり歩兵を前にして、山を登り迎え撃った。韶は、彼は徒歩で我は騎兵であるから、しりぞきながら引きつけ、その力尽きるのを待って、下馬して撃たせた。短兵がまさに交わると、周人は大いに潰えた。その中軍が当たったところもまた一時に瓦解し、溪谷に投げ落ちて死ぬ者が多かった。洛城の包囲軍もまた逃げ去り、営幕をことごとく棄て、邙山から穀水までの三十里の間に、軍資器物が川沢に満ちた。車駕は洛陽に行幸し、自ら将士を労い、河陰で酒宴を開き、勲功を記録し賞を命じ、太宰に任じ、霊武県公に封じた。天統三年、左丞相・永昌郡公となり、滄州の幹を食む。

原文護既得母,仍遣將尉遲迥等襲洛陽。詔遣蘭陵王長恭、大將軍斛律光率衆擊之,軍於邙山之下,逗留未進。世祖召謂曰:「今欲遣王赴洛陽之圍,但突厥在此,復須鎮禦,王謂如何?」韶曰:「北虜侵邊,事等疥癬,今西羌窺逼,便是膏肓之病,請奉詔南行。」世祖曰:「朕意亦爾。」乃令韶督精騎一千,發自晉陽。五日便濟河,與大將共量進止。韶旦將帳下二百騎與諸軍共登邙阪,聊觀周軍形勢。至大和谷,便值周軍,即遣馳告諸營,追集兵馬。仍與諸將結陣以待之。韶為左軍,蘭陵王為中軍,斛律光為右軍,與周人相對。韶遙謂周人曰:「汝宇文護幸得其母,不能懷恩報德,今日之來,竟何意也?」周人曰:「天遣我來,有何可問。」韶曰:「天道賞善罰惡,當遣汝送死來耳。」周軍仍以步人在前,上山逆戰。韶以彼徒我騎,且却且引,待其力弊,乃遣下馬擊之。短兵始交,周人大潰。其中軍所當者,亦一時瓦解,投墜溪谷而死者甚衆。洛城之圍,亦即奔遁,盡棄營幕,從邙山至榖水三十里中,軍資器物彌滿川澤。車駕幸洛陽,親勞將士,於河陰置酒高會,策勳命賞,除太宰,封靈武縣公。天統三年,除左丞相,永昌郡公,食滄州幹。

武平二年正月、晉州道より出て、定隴に到り、威敵・平寇の二城を築いて帰還した。二月、周の軍が来寇したので、韶を右丞相斛律光・太尉蘭陵王長恭とともに派遣して防がせた。三月の末に西境に到着した。栢谷城というのは、敵の絶險の地であり、石城は千仞で、諸将は誰も攻囲しようとしなかった。韶は言う、「汾北・河東は、形勢上国家の所有するところである。もし栢谷を除かなければ、事は痼疾と同じである。彼の援兵は南道に集まるだろうと推測する。今、その要路を断てば、救援は来られない。また城の地勢は高いが、中は非常に狭い。火弩を射れば、一日で尽くすことができる」と。諸将は善しとし、そこで鼓を鳴らしてこれを攻めた。城は潰え、儀同薛敬礼を捕らえ、多くの首級と捕虜を獲た。引き続き華谷に城を築き、戍を置いて帰還した。広平郡公に封ぜられた。

原文武平二年正月,出晉州道,到定隴,築威敵、平寇二城而還。二月,周師來寇,遣韶與右丞相斛律光、太尉蘭陵王長恭同往捍禦。以三月暮行達西境。有栢谷城者,乃敵之絕險,石城千仞,諸將莫肯攻圍。韶曰:「汾北、河東,勢為國家之有,若不去栢谷,事同痼疾。計彼援兵,會在南道,今斷其要路,救不能來。且城勢雖高,其中甚狹,火弩射之,一旦可盡。」諸將稱善,遂鳴鼓而攻之。城潰,獲儀同薛敬禮,大斬獲首虜,仍城華谷,置戍而還。封廣平郡公。

この月、周がまた将を遣わして辺境を侵した。右丞相斛律光が先に師を率いて討伐に出、段韶も従軍を請うた。五月、服秦城を攻める。周人は姚襄城の南にさらに城鎮を築き、東は定陽に接し、また深い塹壕を掘り、通行の道を断った。段韶は密かに壮士を選抜し、北からこれを襲撃した。また人を遣わし密かに黄河を渡らせ、姚襄城内に告げて内外相応じるよう命じた。渡河した者は千余人に及び、周人はようやく気づいた。ここにおいて合戦し、これを大破し、その儀同若干顯宝らを捕らえた。諸将は皆その新城を攻めようとしたが、段韶は言う、「この城は一面は河に阻まれ、三方は地勢が険しく、攻め難い。仮に得たとしても、一城の地に過ぎぬ。むしろ別に一城を築いてその通路を塞ぎ、服秦を破り、力を合わせて定陽を図るのが、長い目で見た良策である」と。将兵は皆これを然りとした。六月、定陽を包囲し、その城主開府儀同楊範が堅く守って降伏しなかった。段韶は山に登って城の地勢を眺め、兵を放って急攻した。七月、その外城を屠り、多く首級を斬り捕らえた。この時、段韶は軍中で病に臥せっていたが、子城がまだ陥落していないのを見て、蘭陵王長恭に言う、「この城は三面が深い澗で険阻であり、逃げ道は全くない。ただ東南の一か所を恐れるのみだ。賊が包囲を突破すれば、必ずここから出るであろう。精兵を選んで専らこれを守らせれば、おのずと捕らえることができる」と。長恭は壮士千余人を命じて東南の澗口に伏兵を設けた。その夜、果たしてその策の通りとなり、賊は城を出て、伏兵がこれを撃ち、大いに潰走させた。楊範らは面縛し、その衆をことごとく捕らえた。

原文是月,周又遣將寇邊。右丞相斛律光先率師出討,韶亦請行。五月,攻服秦城。周人於姚襄城南更起城鎮,東接定陽,又作深塹,斷絕行道。韶乃密抽壯士,從北襲之。又遣人潛渡河,告姚襄城中,令內外相應。渡者千有餘人,周人始覺。於是合戰,大破之,獲其儀同若干顯寶等。諸將咸欲攻其新城,韶曰:「此城一面阻河,三面地險,不可攻,就令得之,一城地耳。不如更作一城壅其路,破服秦,並力以圖定陽,計之長者。」將士咸以為然。六月,徙圍定陽,其城主開府儀同楊範固守不下。韶登山望城勢,乃縱兵急攻之。七月,屠其外城,大斬獲首級。時韶病在軍中,以子城未克,謂蘭陵王長恭曰:「此城三面重澗險阻,並無走路,唯恐東南一處耳。賊若突圍,必從此出,但簡精兵專守,自是成擒。」長恭乃令壯士千餘人設伏於東南澗口。其夜果如所策,賊遂出城,伏兵擊之,大潰,範等面縛,盡獲其衆。

段韶の病は甚だ重く、先に軍を返した。功により別に楽陵郡公に封ぜられる。ついに病により薨去した。帝は東堂で哀悼の礼を挙げ、贈り物千段・温明秘器・轀輬車を賜り、軍校の士が衛護して平恩の墓所まで送り、卒を発して冢を築かせた。仮黄鉞・使持節・都督朔幷定趙冀滄齊兗梁洛晉建十二州諸軍事・相国・太尉・録尚書事・朔州刺史を追贈し、諡して忠武といった。

原文韶疾甚,先軍還。以功別封樂陵郡公。竟以疾薨。上舉哀東堂,贈物千段、溫明秘器、轀輬車,軍校之士陳衛送至平恩墓所,發卒起冢。贈假黃鉞、使持節、都督朔幷定趙冀滄齊兗梁洛晉建十二州諸軍事,相國、太尉、錄尚書事、朔州刺史,諡曰忠武。

段韶は外に出ては軍旅を統率し、内に入っては帷幄に参画し、功は既に高く、重ねて婚姻の関係もあり、その声望は朝野を傾けた。計略に長け、衆を統御することに巧みで、将兵の心を得、敵に臨む日には、人々が争って奮戦した。また、温厚で慎重な雅な性質を持ち、宰相の風格があった。子弟を教え諭し、家門は和やかで整っており、継母に仕えることは孝行として知られ、斉の世の勲貴の家でこれに及ぶものは稀であった。しかし、好色に偏っており、要職にありながらも、微服でひそかに外出した。皇甫氏という者がおり、魏の黄門郎元瑀の妻であったが、弟の元謹が謀反を企てたため、皇甫氏は官に没収された。段韶はその容姿の美しさを気に入り、上啓して固く請うたので、世宗(高澄)はその意に逆らい難く、これを賜うた。特に財貨に吝嗇で、親戚や旧知に対してもほとんど施しを与えなかった。その子の段深が公主を娶った時、並省の丞郎が家に来て十数日間事務を補佐し、事が終わって辞去する際、人々にただ一杯の酒を賜っただけであった。長子の段懿が後を嗣いだ。

原文韶出總軍旅,入參帷幄,功既居高,重以婚媾,望傾朝野。長於計略,善於禦衆,得將士之心,臨敵之日,人人爭奮。又雅性溫慎,有宰相之風。教訓子弟,閨門雍肅,事後母以孝聞,齊世勛貴之家罕有及者。然僻於好色,雖居要重,微服間行。有皇甫氏,魏黃門郎元瑀之妻,弟謹謀逆,皇甫氏因沒官。韶美其容質,上啟固請,世宗重違其意,因以賜之。尤嗇於財,雖親戚故舊略無施與。其子深尚公主,並省丞郎在家佐事十餘日,事畢辭還,人唯賜一杯酒。長子懿嗣。

段懿は、字を德猷といい、風采があり、音楽をよく理解し、また騎射に優れていた。天保初年、潁川長公主を娶った。累進して行臺右僕射となり、殿中尚書を兼ね、出て兗州刺史に任ぜられた。卒去した。子の段宝鼎が後を嗣ぎ、中山長公主を娶った。武平末年、儀同三司。隋の開皇年間、開府儀同三司・驃騎大将軍となり、大業初年、饒州刺史の任で卒去した。

原文懿,字德猷,有資儀,頗解音樂,又善騎射。天保初,尚潁川長公主。累遷行臺右僕射,兼殿中尚書,出除兗州刺史。卒。子寶鼎嗣。尚中山長公主,武平末,儀同三司。隋開皇中,開府儀同三司、驃騎大將軍,大業初,卒於饒州刺史。

段韶の第二子、段深は、字を德深という。容貌が美しく、寛大で慎重、父の風格があった。天保年間、父の封爵により姑臧県公を受けた。大寧初年、通直散騎侍郎に任ぜられる。二年、詔により永昌公主を娶ることとなったが、未婚のうちに公主が卒去した。河清三年、また詔により東安公主を娶った。父がたびたび大功を立てたため、累進して侍中・将軍・源州大中正となり、趙郡の幹禄を食んだ。段韶が病篤いとき、詔により段深を済北王に封じ、その心を慰めた。武平末年、徐州行臺左僕射・徐州刺史。北周に入り、大将軍・郡公に任ぜられたが、事に坐して死んだ。

原文韶第二子深,字德深。美容貌,寬謹有父風。天保中,受父封姑臧縣公。大寧初,拜通直散騎侍郎。二年,詔尚永昌公主,未婚,主卒。河清三年,又詔尚東安公主。以父頻著大勳,累遷侍中、將軍、源州大中正,食趙郡幹。韶病篤,詔封深濟北王,以慰其意。武平末,徐州行臺左僕射、徐州刺史。入周,拜大將軍,郡公,坐事死。

段韶の第三子、段德挙は、武平末年、儀同三司。北周の建德七年、鄴城ぎょうじょうで高元海と謀反を企て、誅殺された。

原文韶第三子德舉,武平末,儀同三司。周建德七年,在鄴城與高元海謀逆,誅。

段韶の第四子、段德衡は、武平末年、開府儀同三司、隆化の時、済州刺史。北周に入り、儀同大将軍を授けられた。

原文韶第四子德衡,武平末,開府儀同三司,隆化時,濟州刺史。入周,授儀同大將軍。

段韶の第七子、段德堪は、武平年間、儀同三司。隋の大業初年、汴州刺史、汝南郡守の任で卒去した。

原文韶第七子德堪,武平中,儀同三司。隋大業初,汴州刺史,卒於汝南郡守。

段韶の弟、段孝言

原文韶弟孝言

段栄の第二子、段孝言は、若くして聡明で風采があった。魏の武定末年、司徒参軍事として官途に就いた。斉が禅譲を受けると、その兄の段韶が別封の霸城県侯の爵位を彼に授けた。累進して儀同三司・度支尚書・清都尹となった。

原文榮第二子孝言,少警發有風儀。魏武定末,起家司徒參軍事。齊受禪,其兄韶以別封霸城縣侯授之。累遷儀同三司、度支尚書、清都尹。

段孝言は元来、勲戚の余緒により、高位顕官に至ったが、ここに至って驕奢放逸となり、何ら畏れるところがなかった。かつて夜行し、その賓客の宋孝王の家に宿泊した際、坊の民に防衛を呼び求めたが、時を移さず応じ赴かなかったので、これを拷問して殺した。また、諸々の淫婦と密かに遊び、その夫に気づかれると、さらに官勢を頼み、拷問して死に至らしめた。当時、苑内に果樹が必要となり、民間及び僧寺に供出を課したが、ことごとく分取して自分の私宅に植えさせた。また、殿内及び園中に石材が必要となり、車牛を徴発して漳河から運搬させたが、さらに車を分けて戻らせて取らせた。事がすべて露見し、海州刺史として出された。まもなくその兄の縁故により、召し出されて都官尚書に任ぜられ、陽城郡の幹禄を食み、さらに開府を加えられた。太常卿に転じ、斉州刺史に任ぜられたが、賄賂の罪で御史に弾劾された。世祖(武成帝)の崩御に遭い、赦免に遇った。太常卿に任ぜられ、河南郡の幹禄に転じ、吏部尚書に昇進した。

原文孝言本以勳戚緒餘,致位通顯,至此便驕奢放逸,無所畏憚。曾夜行,過其賓客宋孝王家宿,喚坊民防援,不時應赴,遂拷殺之。又與諸淫婦密遊,為其夫覺,復恃官勢,拷掠而殞。時苑內須果木,科民間及僧寺備輸,悉分向其私宅種植。又殿內及園中須石,差車牛從漳河運載,復分車迴取。事悉聞徹,出為海州刺史。尋以其兄故,徵拜都官尚書,食陽城郡幹,仍加開府。遷太常卿,除齊州刺史,以贓賄為御史所劾。屬世祖崩,遇赦免。拜太常卿,轉食河南郡幹,遷吏部尚書。

祖珽が政権を執ると、趙彦深を廃そうとして、段孝言を引き入れて助力とした。兼侍中に任ぜられ、内省に入り、機密を掌り、まもなく正任となり、引き続き吏部尚書であった。段孝言は深い識見もなく、また人を待遇すること公平でなく、抜擢する人材は、賄賂による者か旧知の者ばかりであった。将作丞の崔成が、突然衆中で声を張り上げて言う、「尚書は天下の尚書であって、どうして段家だけの尚書でありましょうか!」と。段孝言は答える言葉がなく、ただ厳しい顔色で下がらせただけであった。まもなく中書監ちゅうしょかんに任ぜられ、特進を加えられた。また韓長鸞に頼み、共に祖珽の短所をでっち上げた。祖珽が外に出た後、段孝言は尚書右僕射に任ぜられ、引き続き選挙を掌り、思いのままに任用・罷免を行い、請託が大いに横行した。勅命で京城の北の堀を浚渫することとなり、段孝言が監督した。儀同三司崔士順・将作大匠元士将・太府少卿酈孝裕・尚書左民郎中薛叔昭・司州治中崔龍子・清都尹丞李道隆・鄴県令尉長卿・臨漳令崔象・成安令高子徹らが皆、段孝言の部下にいた。工事の日、別に酒宴を設けて盛会を催し、諸人は膝行して跪き伏し、杯を捧げて寿を祝い、ある者は自らの不遇を訴え、さらに官職の転任を請うた。段孝言は得意満面で、自らの任であるかのように思い、皆、事に応じて返答し、別に授けることを許諾した。富商大賈は多く選抜任用され、結局、彼が進用した人士は、皆、粗暴で危険な放縦の輩であった。まもなく尚書左僕射に転じ、特進・侍中はもとの通りであった。

原文祖珽執政,將廢趙彥深,引孝言為助。除兼侍中,入內省,典機密,尋即正,仍吏部尚書。孝言既無深鑒,又待物不平,抽擢之徒,非賄則舊。有將作丞崔成,忽於衆中抗言曰:「尚書天下尚書,豈獨段家尚書也!」孝言無辭以答,惟厲色遣下而已。尋除中書監,加特進。又托韓長鸞,共構祖珽之短。及祖出後,孝言除尚書右僕射,仍掌選舉,恣情用捨,請謁大行。勑濬京城北隍,孝言監作,儀同三司崔士順、將作大匠元士將、太府少卿酈孝裕、尚書左民郎中薛叔昭、司州治中崔龍子、清都尹丞李道隆、鄴縣令尉長卿、臨漳令崔象、成安令高子徹等並在孝言部下。典作日,別置酒高會,諸人膝行跪伏,稱觴上壽,或自陳屈滯,更請轉官,孝言意色揚揚,以為己任,皆隨事報答,許有另授。富商大賈多被銓擢,緃令所進用人士,咸是粗險放縱之流。尋遷尚書左僕射,特進、侍中如故。

段孝言は富貴豪侈で、特に女色を好んだ。後に婁定遠の妾の董氏を娶り、大いに溺愛したため、これにより家庭内が不和となり、互いに非難し合い、争いの罪で官を免ぜられ、光州に流された。隆化の敗戦後、勅命で追い返された。段孝言は、財貨を貪り飽くことを知らず、酒色に身を任せたが、しかし挙措は風流で、名士を招き寄せ、美景良辰を虚しく過ごすことはなく、詩を賦し、伎楽を奏で、ことごとく歓びを尽くした。草莽の士であっても、粗く文芸に通じていれば、多く賓館に引き入れ、共に興に賞し、その貧窮している者にも時折施しを与えた。世論はまたこの点をもって彼を称賛した。斉が滅んで北周に入り、開府儀同大将軍を授けられ、後に上開府を加えられた。

原文孝言富貴豪侈,尤好女色。後娶婁定遠妾董氏,大耽愛之,為此內外不和,更相糾列,坐爭免官,徙光州。隆化敗後,有勑追還。孝言雖黷貨無厭,恣情酒色,然舉止風流,招致名士,美景良辰,未嘗虛棄,賦詩奏伎,畢盡歡洽。雖草萊之士,粗閑文藝,多引入賓館,與同興賞,其貧躓者亦時有乞遺。世論復以此多之。齊亡入周,授開府儀同大將軍,後加上開府。

【史論】

原文【史論】

史臣が曰く、段榮は姻戚としての重みを以て、時来たるの会に遇い、功伐の地にあり、亦た称するに足る。韶は七君を光輔し、門業を克く隆んじ、毎に閫外に出でて当たるか、或いは留臺を以て任ぜられ、猜忌の朝に在りて、其の眉寿を終う。亭候に警多きに属し、有齊の上将たり、豈に其れ然らんや。志は矜功を謝し、名は実を逾えず、威権を以て物を御せず、智数を以て時を要せず、覆餗を求めんと欲す、其れ得べけんや。語に曰く「率性の之を道と謂う」と、此れ其の効ならんか。

原文史臣曰:段榮以姻戚之重,遇時來之會,功伐之地,亦足稱焉。韶光輔七君,克隆門業,每出當閫外,或任以留臺,以猜忌之朝,終其眉壽。屬亭候多警,為有齊上將,豈其然乎?當以志謝矜功,名不逾實,不以威權御物,不以智數要時,欲求覆餗,其可得也?語曰「率性之謂道」,此其效歟?