段榮
段榮は、字を子茂といい、姑臧武威の人である。祖父の信は沮渠氏に仕え、後に北魏に入り、豪族として北辺に移され、五原郡に家を定めた。父の連は安北府司馬であった。榮は若くして暦術を好み、星象に専心した。正光の初め、人に語って曰く、「『易』に『天文を観て以て時変を察す』と云い、また『天は象を垂れて吉凶を見す』と曰う。今、玄象を観、人事を察するに、十年を待たずして乱あらん」と。或る人が問うて曰く、「何れの処より起こるか、避くべけんや」と。榮曰く、「乱を構うるの源、此の地を始めとす。恐らくは天下此れに因りて横流し、避く所無からん」と。未だ幾ばくもせず、果たして言の如し。榮は乱に遇い、郷里の旧知と妻子を携え、南に平城に向かう。杜洛周が乱を為すに属し、榮は高祖と謀りて之を誅せんとし、事捷かず、共に尒朱榮に奔る。
子韶
韶は、字を孝先といい、小名を鐵伐という。若くして騎射に巧み、将領たる才略有り。高祖は武明皇后の姉の子なるを以て、ことごとく器としてこれを愛し、常に左右に置き、以て心腹と為す。
興和四年、高祖に従い周文帝を邙山に禦ぐ。高祖身を行間(陣中)に在らしめ、西魏の将賀拔勝に識られ、鋭兵を率いて来り逼る。韶は傍らより馳せ馬を引き弓を反らせて射れば、一箭其の前駆を斃し、追騎憚れて、敢えて前る者莫し。西軍退き、馬並びに金を賜い、爵を進めて公と為す。
武定四年、玉壁に征することに従う。時に高祖豫(病氣)ならず、城を攻めて下さず、諸将を召集し、共に進止の宜を論ず。大司馬斛律金・司徒韓軌・左衛將軍劉豐等に謂いて曰く、「吾れ毎に段孝先と兵を論ずるに、殊に英略有り。若し比来其の謀を用いしならば、亦た今日の労無からん。吾れ患い勢危篤、恐らくは或いは虞るべき有らん、孝先に鄴下の事を委ねんと欲す、如何」と。金等曰く、「臣を知るは君に若くは莫し、実に孝先に出でる者無し」と。仍って韶に謂いて曰く、「吾れ昔卿の父と険艱に冒し涉り、同じく王室を獎け、此の大功を建つ。今病疾此の如く、殆んど将に済わざらんとす。宜しく善く相翼佐し、茲が負荷を克せよ」と。即ち韶をして顯祖に従い鄴を鎮守せしめ、世宗を召して軍に赴かしむ。高祖疾甚だしく、世宗に顧命して曰く、「段孝先は忠亮仁厚、智勇兼備す。親戚の中、唯だ此の子有り。軍旅の大事、宜しく之と共に籌すべし」と。五年春、高祖晉陽に崩ず。秘して喪を発せず。俄にして侯景乱を構う。世宗鄴に還り、韶は晉陽に留まり守る。世宗還りて、女楽十数人、金十斤、繒帛是に称うるを賜い、長樂郡公に封ぜらる。世宗潁川を征し、韶は留まりて晉陽を鎮守す。別に真定縣男に封ぜられ、幷州刺史を行う。顯祖禪を受け、別に朝陵縣を封ぜられ、又霸城縣を封ぜられ、位を特進に加えらる。朝陵公に帰ることを啓求し、継母梁氏を郡君に封ずることを乞う。顯祖之を嘉し、別に梁氏を以て安定郡君と為す。又霸城縣侯を以て其の継母の弟孝言に譲る。論者之を美す。
十二月、周の武帝が将を遣わし、羌夷と突厥の兵を合わせて晉陽に迫った。世祖は鄴から倍道兼行で救援に赴いた。突厥は北から陣を結んで進み、東は汾河に至り、西は風谷に及んだ。事態は突然であり、兵馬は整っていなかった。世祖はこの状況を見て、やはり避けて東へ向かおうとした。ほどなく河間王孝琬の請いを容れ、趙郡王に諸将を統率させた。時は大雪の後であり、周人は歩卒を前鋒とし、西山から下り、城から二里のところに来た。諸将は皆これを迎撃しようとした。韶は言う、「歩兵の気勢には自ら限りがある。今、積雪が厚く、迎え撃つのは得策ではない。陣を敷いて待つ方がよい。彼は労し我は逸す、必ずこれを破ることができよう」と。やがて交戦し、これを大破した。敵の前鋒はことごとく殪され、一人も残らず、残りは夜通し逃げ去った。そこで韶に騎兵を率いて追撃させたが、塞を出ても追いつかず帰還した。世祖はその功を嘉し、別に懐州武徳郡公に封じ、太師に進位させた。
周の冢宰宇文護の母閻氏は先に中山宮に配されていた。護は閻氏がなお存命と聞き、国境を通じて文書を送り、母の返還を請うとともに、隣国との友好を通じさせようとした。当時、突厥がたびたび辺境を犯し、韶は塞下に駐屯していた。世祖は黄門徐世栄を駅伝に乗せて周の書を携えさせ、韶に意見を問うた。韶は、周人は反覆して元来信義がなく、先の晉陽の戦役の事実からもそれは明らかである、護は外には宰相を装っているが、実は王であり、母のために和を請うのであれば、一人の使者も遣わして情理を述べることもせず、移書に基づいてすぐにその母を送れば、弱みを見せることになるだろう、と。臣の管見では、ひとまず外ではこれを許し、後で返すのでも遅くはない、と述べた。聞き入れられなかった。ついに使者を礼をもって送り届けさせた。
この月、周がまた将を遣わして辺境を侵した。右丞相斛律光が先に師を率いて討伐に出、段韶も従軍を請うた。五月、服秦城を攻める。周人は姚襄城の南にさらに城鎮を築き、東は定陽に接し、また深い塹壕を掘り、通行の道を断った。段韶は密かに壮士を選抜し、北からこれを襲撃した。また人を遣わし密かに黄河を渡らせ、姚襄城内に告げて内外相応じるよう命じた。渡河した者は千余人に及び、周人はようやく気づいた。ここにおいて合戦し、これを大破し、その儀同若干顯宝らを捕らえた。諸将は皆その新城を攻めようとしたが、段韶は言う、「この城は一面は河に阻まれ、三方は地勢が険しく、攻め難い。仮に得たとしても、一城の地に過ぎぬ。むしろ別に一城を築いてその通路を塞ぎ、服秦を破り、力を合わせて定陽を図るのが、長い目で見た良策である」と。将兵は皆これを然りとした。六月、定陽を包囲し、その城主開府儀同楊範が堅く守って降伏しなかった。段韶は山に登って城の地勢を眺め、兵を放って急攻した。七月、その外城を屠り、多く首級を斬り捕らえた。この時、段韶は軍中で病に臥せっていたが、子城がまだ陥落していないのを見て、蘭陵王長恭に言う、「この城は三面が深い澗で険阻であり、逃げ道は全くない。ただ東南の一か所を恐れるのみだ。賊が包囲を突破すれば、必ずここから出るであろう。精兵を選んで専らこれを守らせれば、おのずと捕らえることができる」と。長恭は壮士千余人を命じて東南の澗口に伏兵を設けた。その夜、果たしてその策の通りとなり、賊は城を出て、伏兵がこれを撃ち、大いに潰走させた。楊範らは面縛し、その衆をことごとく捕らえた。
段韶の病は甚だ重く、先に軍を返した。功により別に楽陵郡公に封ぜられる。ついに病により薨去した。帝は東堂で哀悼の礼を挙げ、贈り物千段・温明秘器・轀輬車を賜り、軍校の士が衛護して平恩の墓所まで送り、卒を発して冢を築かせた。仮黄鉞・使持節・都督朔幷定趙冀滄齊兗梁洛晉建十二州諸軍事・相国・太尉・録尚書事・朔州刺史を追贈し、諡して忠武といった。
段韶は外に出ては軍旅を統率し、内に入っては帷幄に参画し、功は既に高く、重ねて婚姻の関係もあり、その声望は朝野を傾けた。計略に長け、衆を統御することに巧みで、将兵の心を得、敵に臨む日には、人々が争って奮戦した。また、温厚で慎重な雅な性質を持ち、宰相の風格があった。子弟を教え諭し、家門は和やかで整っており、継母に仕えることは孝行として知られ、斉の世の勲貴の家でこれに及ぶものは稀であった。しかし、好色に偏っており、要職にありながらも、微服でひそかに外出した。皇甫氏という者がおり、魏の黄門郎元瑀の妻であったが、弟の元謹が謀反を企てたため、皇甫氏は官に没収された。段韶はその容姿の美しさを気に入り、上啓して固く請うたので、世宗(高澄)はその意に逆らい難く、これを賜うた。特に財貨に吝嗇で、親戚や旧知に対してもほとんど施しを与えなかった。その子の段深が公主を娶った時、並省の丞郎が家に来て十数日間事務を補佐し、事が終わって辞去する際、人々にただ一杯の酒を賜っただけであった。長子の段懿が後を嗣いだ。
段懿は、字を德猷といい、風采があり、音楽をよく理解し、また騎射に優れていた。天保初年、潁川長公主を娶った。累進して行臺右僕射となり、殿中尚書を兼ね、出て兗州刺史に任ぜられた。卒去した。子の段宝鼎が後を嗣ぎ、中山長公主を娶った。武平末年、儀同三司。隋の開皇年間、開府儀同三司・驃騎大将軍となり、大業初年、饒州刺史の任で卒去した。
段韶の弟、段孝言
段孝言は元来、勲戚の余緒により、高位顕官に至ったが、ここに至って驕奢放逸となり、何ら畏れるところがなかった。かつて夜行し、その賓客の宋孝王の家に宿泊した際、坊の民に防衛を呼び求めたが、時を移さず応じ赴かなかったので、これを拷問して殺した。また、諸々の淫婦と密かに遊び、その夫に気づかれると、さらに官勢を頼み、拷問して死に至らしめた。当時、苑内に果樹が必要となり、民間及び僧寺に供出を課したが、ことごとく分取して自分の私宅に植えさせた。また、殿内及び園中に石材が必要となり、車牛を徴発して漳河から運搬させたが、さらに車を分けて戻らせて取らせた。事がすべて露見し、海州刺史として出された。まもなくその兄の縁故により、召し出されて都官尚書に任ぜられ、陽城郡の幹禄を食み、さらに開府を加えられた。太常卿に転じ、斉州刺史に任ぜられたが、賄賂の罪で御史に弾劾された。世祖(武成帝)の崩御に遭い、赦免に遇った。太常卿に任ぜられ、河南郡の幹禄に転じ、吏部尚書に昇進した。
祖珽が政権を執ると、趙彦深を廃そうとして、段孝言を引き入れて助力とした。兼侍中に任ぜられ、内省に入り、機密を掌り、まもなく正任となり、引き続き吏部尚書であった。段孝言は深い識見もなく、また人を待遇すること公平でなく、抜擢する人材は、賄賂による者か旧知の者ばかりであった。将作丞の崔成が、突然衆中で声を張り上げて言う、「尚書は天下の尚書であって、どうして段家だけの尚書でありましょうか!」と。段孝言は答える言葉がなく、ただ厳しい顔色で下がらせただけであった。まもなく中書監に任ぜられ、特進を加えられた。また韓長鸞に頼み、共に祖珽の短所をでっち上げた。祖珽が外に出た後、段孝言は尚書右僕射に任ぜられ、引き続き選挙を掌り、思いのままに任用・罷免を行い、請託が大いに横行した。勅命で京城の北の堀を浚渫することとなり、段孝言が監督した。儀同三司崔士順・将作大匠元士将・太府少卿酈孝裕・尚書左民郎中薛叔昭・司州治中崔龍子・清都尹丞李道隆・鄴県令尉長卿・臨漳令崔象・成安令高子徹らが皆、段孝言の部下にいた。工事の日、別に酒宴を設けて盛会を催し、諸人は膝行して跪き伏し、杯を捧げて寿を祝い、ある者は自らの不遇を訴え、さらに官職の転任を請うた。段孝言は得意満面で、自らの任であるかのように思い、皆、事に応じて返答し、別に授けることを許諾した。富商大賈は多く選抜任用され、結局、彼が進用した人士は、皆、粗暴で危険な放縦の輩であった。まもなく尚書左僕射に転じ、特進・侍中はもとの通りであった。
段孝言は富貴豪侈で、特に女色を好んだ。後に婁定遠の妾の董氏を娶り、大いに溺愛したため、これにより家庭内が不和となり、互いに非難し合い、争いの罪で官を免ぜられ、光州に流された。隆化の敗戦後、勅命で追い返された。段孝言は、財貨を貪り飽くことを知らず、酒色に身を任せたが、しかし挙措は風流で、名士を招き寄せ、美景良辰を虚しく過ごすことはなく、詩を賦し、伎楽を奏で、ことごとく歓びを尽くした。草莽の士であっても、粗く文芸に通じていれば、多く賓館に引き入れ、共に興に賞し、その貧窮している者にも時折施しを与えた。世論はまたこの点をもって彼を称賛した。斉が滅んで北周に入り、開府儀同大将軍を授けられ、後に上開府を加えられた。
【史論】
史臣が曰く、段榮は姻戚としての重みを以て、時来たるの会に遇い、功伐の地にあり、亦た称するに足る。韶は七君を光輔し、門業を克く隆んじ、毎に閫外に出でて当たるか、或いは留臺を以て任ぜられ、猜忌の朝に在りて、其の眉寿を終う。亭候に警多きに属し、有齊の上将たり、豈に其れ然らんや。志は矜功を謝し、名は実を逾えず、威権を以て物を御せず、智数を以て時を要せず、覆餗を求めんと欲す、其れ得べけんや。語に曰く「率性の之を道と謂う」と、此れ其の効ならんか。