竇泰
竇泰、字は世寧、大安捍殊の人である。本貫は清河観津にあり、曾祖父の羅は北魏の統萬鎮将であり、これにより北辺に居住した。父の樂は、北魏末に破六韓拔陵が乱を起こした時、鎮将の楊鈞と共に固守し、害に遇った。泰が貴顕となると、司徒を追贈された。初め、泰の母は風雷が暴に起こり、雨の降る様な気配がある夢を見、庭に出て見ると、電光が目を奪い、激しい雨が降り注いでいるのを見て、目覚めて驚き汗をかき、やがて懐妊した。出産期になっても生まれず、大いに恐れた。巫が言うには、「河を渡りて裙を湔げば、子を産むことは必ず易からん」と。便ち水辺に向かった。忽ち一人の者を見て、曰く、「貴子を生むべし、徙って南にすべし」と。泰の母はこれに従った。俄にして泰を生んだ。成長すると、騎射に長け、勇略があった。泰の父兄は鎮において戦死したので、泰は自らその骸骨を背負って尓朱榮に帰った。邢杲討伐に従った功により、爵位を広阿子と賜った。神武が晋州に在った時、泰を鎮城都督とし、軍事に参謀することを請うた。累遷して侍中・京畿大都督となり、尋ねて御史中尉を領した。泰は勲戚として御史臺に在り、多く糾挙することは無かったが、百官はこれを畏懼した。
尉景
尉景、字は士真、善無の人である。秦・漢が尉候官を置き、その祖先にこの職に居た者があったので、これにより氏とした。景の性質は温厚で、頗る俠気があった。北魏の孝昌年中、北鎮が反し、景は神武と共に杜洛周の軍中に入り、やがて共に尓朱榮に帰った。軍功により博野県伯に封ぜられた。後に神武に従い信都にて起兵した。韓陵の戦いでは、唯だ景の統べる所のみが失利した。神武が洛に入ると、景を留めて鄴を鎮守させた。尋ねて公に進封された。景の妻の常山君は、神武の姉である。勲戚として、軍事がある毎に、厙狄干と共に常に委任され重んぜられたが、財利を忘れず、神武は毎にこれを嫌い責めた。冀州刺史に転じ、また大いに賄賂を受け、人夫を発して狩猟させ、死者三百人を出した。厙狄干が景と神武の座に在った時、御史中尉になることを請うた。神武曰く、「何ぞ意に下りて卑官を求むるや」と。干曰く、「尉景を捉えんと欲す」と。神武は大笑いし、優者の石董桶にこれを戯れさせた。董桶は景の衣を剥ぎ、曰く、「公は百姓を剥ぐ、董桶何ぞ公を剥がざらんや」と。神武は景に誡めて曰く、「以て貪ること無かるべし」と。景曰く、「爾と生活を計るに孰れか多からん、我は唯だ人より上に取るのみ、爾は天子の調を割く」と。神武は笑って答えず。長楽郡公に改封された。歴任して太保・太傅となり、亡人を匿った罪で禁錮された。崔暹を使い文襄に謂わせて曰く、「阿惠児に語れ、富貴が我を殺さんとするか」と。神武はこれを聞きて泣き、闕に詣でて曰く、「臣、尉景に非ざれば、以て今日に至る無し」と。三度請うて、帝は乃ちこれを許した。ここに於いて驃騎大将軍・開府儀同三司に貶黜された。神武がこれを訪うと、景は憤って臥して動かず、叫んで曰く、「我を殺す時は趣きて来たるか」と。常山君、神武に謂いて曰く、「老人は死に近し、何ぞ忍びてか煎迫すること此くの如きに至らん」と。また曰く、「我は爾が為に水を汲みて胝生ず」と。因りてその掌を出だす。神武は景を撫で、その為に膝を屈した。先に、景に果下馬があり、文襄がこれを求めると、景は与えず、曰く、「土は相扶けて墻と為り、人は相扶けて王と為る、一馬も亦た畜うべからずして索むるか」と。神武は景及び常山君の前で文襄を責めてこれを杖った。常山君は泣いてこれを救う。景曰く、「小児は慣れて去る、放って心腹と為らしむるに、何ぞ須いん干啼湿哭して打つことを聴かざらんや」と。尋ねて青州刺史を授けられ、操行は頗る改まり、百姓はこれを安んじた。召されて大司馬を授けられた。疾に遇い、州において薨じた。太師・尚書令を贈られた。齊が禅を受けると、景は元勲であることを以て、詔してその墓に祭告せしめた。皇建初年、神武の廟庭に配享され、長楽王を追封された。子の粲は、少より顕職を歴任し、性質は粗野で武勇であった。天保初年、厙狄干等を王に封ずるに、粲は父が王爵に預からざるを以て、大いに恚恨し、十余日門を閉ざして朝せず。帝は怪しみ、使いを遣わして宅に問わしめた。門を隔てて使者に謂いて曰く、「天子、粲が父を王に封ぜずんば、粲は死するに如かず」と。使い云く、「須らく門を開きて勅を受けよ」と。粲は遂に弓を引きて門を隔てて使者を射た。使者はその状を以てこれを聞かせ、文宣は段韶を使い諭旨せしめた。粲は韶を見て、唯だ膺を撫でて大哭するのみで、一言も答えず。文宣は親しくその宅に詣でてこれを慰め、方って復た朝請した。尋ねて景を長楽王に追封した。粲が爵を襲いだ。位は司徒・太傅、薨じた。子の世辯が嗣いだ。周の軍が鄴に入らんとする時、辯に千余騎を出させて偵察せしめ、滏口より出で、高き阜に登り西を望むと、遥かに群烏の飛び起つを見て、これ西軍の旗幟なりと謂い、即ち馳せて還り、紫陌橋に至る比、敢えて顧みなかった。隋の開皇年中、浙州刺史にて卒した。
婁昭
婁昭、字は菩薩、代郡平城の人である、武明皇后の母弟である。祖父の提は、雄傑にして識度あり、家僮数千、牛馬は谷を以て量った。性質は周給を好み、士多くこれに帰附した。北魏の太武の時、功により真定侯に封ぜられた。父の内干は、武力あり、未だ仕えずして卒した。昭が貴顕となると、魏朝より司徒を贈られた。齊が禅を受けると、太原王を追封された。昭は方正雅量で正直、大度深謀あり、腰帯八尺、弓馬は世に冠たる。神武は少よりこれを親重した。昭も亦早く人を見識り、常に礼敬を曲げて尽くした。数度神武に従い狩猟し、毎に危険に乗じ階を歴るべからざるを請うた。
神武が将に信都より出でんとする時、昭は大策を賛成し、即ちこれをもって中軍大都督とした。広阿において尓朱兆を破るに従い、安喜県伯に封ぜられ、済北公に改め、また濮陽郡公に徙封され、領軍将軍を授けられた。北魏の孝武帝が将に神武に貳せんとする時、昭は疾を以て辞して晋陽に還った。神武に従い洛に入り、兗州刺史の樊子鵠が反すると、昭を東道大都督としてこれを討たしめた。子鵠が既に死すと、諸将は昭に勧めてその党を尽く捕え誅せんとした。昭曰く、「此の州は無状にして、横に残賊を被る、その君を怨むは是れなり、その人何の罪かあらん」と。遂に皆これを赦した。後に大司馬に転じ、仍って領軍を領した。司徒に遷り、出でて定州刺史となった。昭は酒を好み、晩年に偏風を得、愈ゆるも、猶劇務を処すること能わず、州の事は僚属に委ね、昭はその大綱を挙ぐるのみであった。州において薨じた。仮黄鉞・太師・太尉を贈られ、諡して武と曰う。齊が禅を受けると、詔してその墓に祭告し、太原王に封ぜられた。皇建初年、神武の廟庭に配享された。長子の仲達が嗣ぎ、濮陽王に改封された。
次子の定遠は、若くして顕職を歴任し、外戚の中で特に武成帝に寵愛された。別に臨淮郡王に封ぜられる。武成帝が危篤に陥ると、趙郡王らと共に顧命を受け、司空の位に就いた。趙郡王が和士開を罷免するよう奏上した際、定遠はその謀議に与したが、後に士開の賄賂を受け取り、趙郡王の禍を成してしまった。その貪欲卑劣さはこのようなものである。まもなく瀛州刺史に任ぜられた。初め、定遠の弟の季略がおり、穆提婆がその伎妾を求めると、定遠は許さなかった。高思好が乱を起こすと、提婆は臨淮国の郎中令に命じて、定遠が密かに思好と通じていると告発させた。後主は開府段暢に三千騎を率いて急襲させ、侍御史趙秀通を州に派遣し、贓物の事で定遠を弾劾させた。定遠は変事ありと疑い、遂に縊死した。
兄の子に叡がいる。
厙狄干
後に神武帝に従って起兵し、韓陵で四胡を破り、廣平縣公に封ぜられ、まもなく郡公に進んだ。河陰の戦いでは、諸将は大勝したが、干の軍のみが退却した。神武帝はその旧功を重んじ、ついに責めて罷免することはなかった。まもなく太保、太傅に転じた。高仲密が武牢で叛くと、神武帝がこれを討つにあたり、干を大都督の前鋒とした。干は出発の途上、家に寄らず、侯景に会っても食事の暇もなく、景は騎兵を追わせて食糧を届けさせた。時に西魏の文帝自ら兵を率いて洛陽に至り、軍容は甚だ盛んであった。諸将は南進して渡河しようとしなかったが、干は決断して黄河を渡った。神武帝の大軍が続いて到着し、遂にこれを大破した。帰還して定州刺史となった。吏事に明るくなく、事は煩雑を極めたが、清廉倹約を旨とし、吏民に患いとされることはなかった。太師に遷る。天保初年、天平年間の元勲として創業を輔佐した功により、章武郡王に封ぜられ、太宰に転じた。
干は神武帝の妹の樂陵長公主を娶り、親族として遇された。勤王に参与して以来、常に大衆を総率し、威望の重さは諸将の敬服するところであり、また最も厳格で激しい性格であった。京師に参上した際、北魏の譙王元孝友が公門で戯言が過ぎ、諸公の中で面と向かって諫める者はいなかったが、干は厳しい表情でこれを責めたので、孝友は大いに恥じ、当時の人々はこれを称えた。薨去し、假黃鉞、太宰を追贈され、轀輬車を賜り、諡して景烈といった。干は書を読まず、署名する「干」の字を、逆に上から画いたので、当時の人々はこれを「穿錐」と呼んだ。また、武將の王周という者がおり、署名は先に「吉」と書き、後からその外側を成した。二人の子孫に至って初めて共に書を学ぶようになった。干は、皇建初年に神武帝廟庭に配享された。子の敬伏は、儀同三司の位に至り、卒した。子の士文が嗣いだ。
子に士文がいる。
士文の性格は孤高で真っ直ぐであり、隣人や近親といえども、親しく交わる者はなかった。北齊において、章武郡王の爵位を襲封し、領軍將軍の位にあった。周の武帝が北齊を平定すると、山東の士大夫の多くは迎えに出たが、士文のみは門を閉ざして自らを守った。帝はこれを奇異に思い、開府儀同三司、隨州刺史を授けた。隋の文帝が禅譲を受けると、上開府を加えられ、湖陂縣子に封ぜられた。
まもなく貝州刺史に任ぜられた。性質は清貧刻苦で、公の俸料を受け取らず、家に余財はなかった。その子が一度、官厨の餅を食べたことがあり、士文はこれを枷につなぎ獄に数日間入れ、二百回杖打ちし、歩いて京に送り返したので、僮僕奴婢は敢えて門を出る者はいなかった。買う塩や野菜は、必ず他州のものであった。出入りする度に、必ずその門に封緘し、親戚故旧は絶え、慶弔の交わりもなかった。法令は厳粛で、吏民は服従し、道に落ちた物を拾う者もなかった。些細な過失があれば、必ず法律文を深く解釈して陥れようとした。かつて朝廷に入った時、天子が公卿に左蔵庫に入り、好きなだけ取ることを許すと、人々は皆極めて重い荷をしたが、士文はただ口に絹一匹をくわえ、両手にそれぞれ一匹ずつ持っただけだった。上(皇帝)がその理由を問うと、士文は「臣の口と手は既に満ち足りており、他に必要なものはございません」と答えた。上はこれを異とし、別に賜物を与えた。士文は州に着くと、姦吏を摘発し、尺の布や斗の粟ほどの贓物でも、一切容赦せず、千人を摘発して上奏し、全て嶺南の防戍に配流した。親戚が送別する際、哭声が州中に満ちた。嶺南に至ると、瘴気に罹って死者が十中八九に及び、その父母妻子はただ士文を哭いた。士文はこれを聞き、人を捕らえさせ、前に捶楚(杖打ち)を並べても、哭く者はますます甚だしかった。司馬の京兆韋焜、清河令の河東趙達の二人は共に苛刻であり、ただ長史のみが善政を行った。当時の人々は言った。「刺史は羅刹の政、司馬は蝮蛇の瞋り、長史は含笑して判じ、清河は人を生きたまま喰らう」と。上はこれを聞き、「士文の暴虐は猛獣を超えている」と嘆いた。ついに罪に坐して免官された。間もなく雍州長史となり、人に言った。「私は以前から法を厳格にし、権貴に取り入ることを知らない。おそらくこの官で必ず死ぬだろう」と。着任すると、法を執り行うこと厳正で、貴戚をも避けず、賓客は敢えて門に至る者もなかった。人々の怨嗟は多かった。士文の従妹は北齊の后妃で、美色であり、北齊滅亡後、薛公の長孫覽に賜られた。覽の妻の鄭氏が嫉妬し、文獻皇后に讒言したので、后は覽に離縁させた。士文はこれを恥じ、彼女と会おうとしなかった。後に應州刺史の唐君明が母の喪に服している時、彼女を妻として聘したため、このことで君明と士文は共に御史に弾劾された。士文の性質は剛直で、獄中に数日いて、憤慨のあまり死んだ。家に余財はなく、三人の子は朝夕の糧にも事欠き、親戚賓客で養ってくれる者はいなかった。
韓軌
韓軌は、字を百年といい、太安狄那の人である。若くして志操があり、性格は深沈で、喜怒を顔色に表さなかった。神武帝が晉州を鎮守した時、召し出して鎮城都督とした。信都で起兵すると、軌は大計の達成を助けた。廣阿で尒朱兆を破るのに従い、また韓陵の戦陣に従い、平昌縣侯に封ぜられた。引き続き中軍を督し、赤谼嶺で尒朱兆を破るのに従った。再び泰州刺史に遷る。辺境の和合を大いに得た。神武帝が泰州を巡行し、軌を連れ帰ろうとし、城の人々に戸別に絹布二匹を賜ろうとした。州人の田昭ら七千戸は皆辞退して受け取らず、ただ軌を留めることを請うた。神武帝は嘉賞して嘆息し、ついに留めた。頻繁に軍功を立て、安德郡公に進封された。瀛州刺史に遷るが、州で収奪を行い、御史に糾弾され、官爵を削除された。間もなく、その安德郡公の爵位を回復した。中書令、司徒の位を歴任した。北齊が禅譲を受けると、安德郡王に封ぜられた。軌の妹は神武帝に娶られ、上黨王渙を生み、また功績により、台鉉(三公・宰相)の位に登った。常に謙虚恭順を以て自ら処し、富貴を以て人に驕ることはなかった。後に大司馬に任ぜられ、文宣帝に従って蠕蠕を征討し、軍中で急病により薨去した。假黃鉞、太宰、太師を追贈され、諡して肅武といった。皇建初年、文襄帝廟庭に配享された。
子の晉明が嗣ぐ。天統年間、東萊王に改封される。晉明は俠気あり、諸勳貴の子孫の中で最も学問に心を留む。酒を好み放縦にして、賓客を招き寄せ、一席の費用は動ねば萬錢に至り、猶ほ倹約を恨む。朝廷は彼を貴要の地に処せんとすれば、必ず疾を以て辞す。人に告げて云く、「廃人は美酒を飲み、名勝を封じて、安んぞ能く刀筆の吏と為りて返って故紙を披かんや」と。武平末、尚書左僕射を除かれ、百余日にして便ち病を謝して官を解く。
潘樂
潘樂、字は相貴、廣寧石門の人なり。本は廣宗の大族、魏の世に北辺を分鎮し、因りて家す。父の永、技藝有り、爵の廣宗男を襲ふ。樂の初めて生まるるや、一雀其の母の左肩に止まる、占ふ者皆な富貴の徴なりと言ひ、因りて相貴と名づけ、後始めて字と為す。長ずるに及び、寬厚にして膽略有り。初め葛榮に歸し、京兆王を授けらる、時に年十九。榮敗れ、尒朱榮に隨ひ、別將として元顥を討ち、功を以て敷城縣男に封ぜらる。
齊の神武、晉州に出で牧せんとし、樂を引いて鎮城都將と為す。廣阿に於て尒朱兆を破るに從ひ、爵を進めて廣宗縣伯と為す。累ねて軍功を以て東雍州刺史に拝せらる。神武嘗て州を廢せんと議す、樂は東雍の地山河を帶び、境胡・蜀に連なり、形勝の會たり、棄つべからずとす、遂に故の如し。後に河陰に於て周師を破り、之を追はんと議し、追はんとする者を西に在らしめ、願はざる者を東に在らしむ、唯だ樂と劉豐のみ西に居る。神武之を善しとす、衆議同じからずして止む。改めて金門郡公に封ぜらる。文宣事を嗣ぎ、河陽に鎮し、西將楊檦等を破る。時に帝は懷州刺史平鑒等の築く所の城の敵境に深入するを以て、之を棄てんと欲す、樂は軹關要害たりとし、須らく防固すべしとし、乃ち更に修理し、兵將を増置し、而して還りて河陽に鎮し、司空に拝せらる。齊禪を受く、樂璽綬を進む。進みて河東郡王に封ぜられ、司徒に遷る。周文東に崤・陜に至り、其の行臺侯莫陳崇を遣はして齊子嶺より軹關に趣かしめ、儀同楊檦をして鼓鐘道より建州に出でしめ、孤公戍を陷る。詔して樂に大衆を總べて之を禦がしむ。樂晝夜兼行し、長子に至り、儀同韓永興を遣はして建州より西に崇に趣かしむ、崇遂に遁る。又た南道大都督と為り、侯景を討つ。樂石鱉より發し、南に度ること百余里、梁の涇州に至る。涇州舊は石梁に在り、侯景之を改めて懷州と為す、樂其の地を獲、仍ほ涇州を立て、又た安州を克つ。瀛州刺史を除かれ、仍ほ淮・漢を略す。天保六年、懸瓠にて薨ず。假黃鉞、太師・大司馬・尚書令を贈らる。
子の子晃嗣ぐ。諸將の子弟、率ね多く驕縱なり、子晃は沈密謹愨にして、清淨を以て自ら居る。公主に尚し、駙馬都尉に拝せらる。武平末、幽州道行臺右僕射・幽州刺史と為る。周師將に鄴に入らんとす、子晃突騎數萬を率ひて赴援す。博陵に至り、鄴城守らざるを知り、冀州に詣りて降る。周上開府を授く。隋の大業初年に卒す。
校