北齊書

文宣帝には五人の男子あり:李后は廃帝及び太原王紹徳を生み、馮世婦は范陽王紹義を生み、裴嬪は西河王紹仁を生み、顔嬪は隴西王紹廉を生む。

太原王紹徳

太原王紹徳は、 文宣 ぶんせん 帝の第二子である。天保の末年に、開府儀同三司となった。武成帝は李后に怒り、紹徳を罵って曰く「お前の父が朕を打つ時、お前は遂に来て救わなかった!」と。刀の環で彼を打ち築き殺し、自ら土を以て遊 園に埋めた。武平元年、詔して范陽王の子の辨才を後嗣とし、太原王を襲封させた。

范陽王紹義

范陽王紹義は、文宣帝の第三子である。初め広陽王に封ぜられ、後に范陽王に封ぜられた。侍中・清都尹の官を歴任した。群小と共に飲むことを好み、内参を擅に置き、博士の任方栄を打ち殺した。武成帝は嘗て彼を二百回杖打ちし、昭信后に送り付け、后もまた百回杖打ちした。後主が ぎょう に奔った時、紹義を 尚書令 しょうしょれい ・定州刺史とした。周の武帝が 幷州 へいしゅう を攻克すると、封輔相を北朔州総管とした。この地は斉の重鎮であり、諸々の勇士多くここに集まっていた。前長史の趙穆・司馬の王当万らは謀って輔相を捕らえ、瀛州において任城王を迎えようとした。事は果たせず、便ち紹義を迎えた。紹義は馬邑に至った。輔相及びその配下の韓阿各奴ら数十人は皆斉の叛臣であり、肆州より北の城戍二百八十余りは悉く輔相に従い、紹義が至ると、皆これに反した。紹義は霊州刺史の袁洪猛と兵を率いて南に出て、幷州を取らんと欲し、新興に至った時、肆州は既に周の守りとなっていた。前隊の二儀同がその配下を率いて周に降った。周兵は顕州を撃ち、刺史の陸瓊を捕らえ、また諸城を攻め陥とした。紹義は還って北朔を保った。周の将軍宇文神挙の軍が馬邑に逼ると、紹義は杜明達を遣わしてこれを拒がせたが、兵は大敗した。紹義は曰く「死あるのみ、人に降ることはできぬ」と。遂に突厥に奔った。衆三千家に対し、令して曰く「還りたい者は任意にせよ」と。ここにおいて泣き拝して別れる者が大半であった。突厥の他鉢可汗は文宣帝を英雄天子と謂い、紹義が重踝 (二重のくるぶし) で彼に似ているのを以て、甚だ愛重され、凡そ北に在る斉人は悉く紹義に隷属させた。高宝寧が営州に在り、表を上って尊号を称したので、紹義は遂に皇帝の位に即き、武平元年と称した。趙穆を天水王とした。他鉢は宝寧が平州を得たと聞き、また諸部を招き、各々兵を挙げて南に向かい、共に范陽王を立てて斉帝と為し、その為に仇を報いんと云った。周の武帝は大いに兵を雲陽に集め、将に親しく北伐せんとしたが、疾に遇い 暴崩 ぼうほう した。紹義はこれを聞き、天が己を賛するものと為した。盧昌斯が范陽を拠り、また表を上って紹義を迎えた。間もなく周の将軍宇文神挙が攻めて昌期を滅ぼした。その日、紹義は丁度幽州に至り、周の総管が外に出兵したと聞き、虚に乗じて薊城を取らんと欲し、天子の旌旗を列ね、燕昭王の冢に登り、高きに乗りて遠くを望み、兵衆を分ち配した。神挙は大将軍宇文恩を遣わし四千人を率いて馳せ救い幽州に至らせたが、半ばは斉軍に殺された。紹義は范陽城が陥落したと聞き、素服を着て哀悼し、軍を回して突厥に入った。周人は他鉢に対して彼を懸賞し、また賀若誼を遣わして往き説かせた。他鉢は猶お忍びず、遂に偽って紹義と南境で狩猟し、誼に彼を捕らえさせ、蜀に流した。紹義の妃は 渤海 ぼっかい の封孝琬の女で、突厥より逃げ帰った。紹義は蜀に在り、妃に遺書を送りて云う「夷狄に信無く、吾をここに送る」と。遂に蜀中にて死した。

西河王紹仁

西河王紹仁は、文宣帝の第四子である。天保の末年に、開府儀同三司となった。間もなく薨じた。

隴西王紹廉

隴西王紹廉は、文宣帝の第五子である。初め長楽王に封ぜられ、後に改封された。性質粗暴にして、嘗て刀を抜いて紹義を逐い、紹義は厩に走り入り、門を閉じてこれを拒いだ。紹義が初めて清都尹となった時、未だ政務に及ばぬうちに、紹廉が先に往き、囚人を悉く呼び出し、意の儘に決断して遣わした。酒をよく飲み、一挙に数升を飲み、終にこれが為に薨じた。

孝昭帝の六王

孝昭帝には七人の男子あり:元后は楽陵王百年を生み、桑氏は襄城王亮を生み (襄城景王の後を出す) 、諸姫は汝南王彦理・始平王彦徳・城陽王彦基・定陽王彦康・汝陽王彦忠を生む。

楽陵王百年

楽陵王百年は、孝昭帝の第二子である。孝昭帝が初めて即位した時、晋陽に在り、群臣は中宮及び太子の立てを請うたが、帝は謙って未だ許さず、都下の百官また請う有りて、乃ち太后の令を称して皇太子に立てた。帝の臨崩に際し、遺詔して位を武成帝に伝え、併せて手書有り、その末に曰く「百年は罪無し、汝は楽しみ処置すべし、前人に学ぶなかれ」と。大寧年中、楽陵王に封ぜられた。河清三年五月、白虹が日を二重に囲み、また横貫して達せず。赤星現る。帝は盆に水を入れ星影を承けてこれを けだ いしに、一夜にして盆自ら破る。百年を以てこれを厭わんと欲した。時に博陵の人賈徳冑が百年に書を教え、百年が嘗て数個の「勅」の字を書き、徳冑がこれを封じて奏上した。帝は乃ち怒りを発し、百年を召すことを命じた。百年は召され、免れ難きを知り、帯の玦を割いて妃の斛律氏に留め与えた。玄都苑の涼風堂において帝に謁し、百年に「勅」の字を書かせ、徳冑の奏上したものと相似ているのを験すと、左右を遣わし乱れ すい ち撃たせ、また人をして百年を曳きて堂を繞り、且つ走り且つ打たしめ、過ぎし処の血は皆地に遍く。氣息将に尽きんとして曰く「命を乞う、願わくは阿叔に奴と為らん」と。遂にこれを斬り、諸池に棄てしに、池の水尽く赤し。後園において親しく埋めるのを見た。妃は玦を把り哀号し、食を肯ぜず、月余りして亦死し、玦は猶お手に在り、拳開くべからず、時に年十四、その父の光自らこれを擘くに、乃ち開けた。後主の時、九院を二十七院に改め、一小屍を掘り得たり、緋袍に金帯、一つの髻は解け、一足に靴有り。諸内参窃かに言う、百年太子なり、或いは太原王紹徳なりと。詔して襄成王の子の白沢に楽陵王の爵を襲封させた。斉の亡びし後、関に入り、蜀に徙されて死せり。

汝南王彦理

汝南王彦理は、武平の初めに王に封ぜられ、開府・清都尹の位にあった。北斉が滅亡すると、関中に入り、例に従って儀同大将軍を授けられ、県子に封ぜられた。娘が太子の宮に入ったため、死を免れた。隋の開皇年間、 へい 州刺史の任で没した。

始平王・城陽王・定陽王・汝陽王ら諸王

始平王彦徳・城陽王彦基・定陽王彦康・汝陽王彦忠は、汝南王とともに封を受け、いずれも儀同三司を加えられたが、後の事績は欠けている。

武成帝の十二王

武成帝には十三人の男子があった。胡皇后は後主および琅邪王儼を生み、李夫人は南陽王綽を生み、後宮は齊安王廓・北平王貞・高平王仁英・淮南王仁光・西河王仁幾・樂平王仁邕・潁川王仁儉・安樂王仁雅・丹陽王仁直・東海王仁謙を生んだ。

南陽王綽

南陽王綽は、字を仁通といい、武成帝の長子である。五月五日辰の刻に生まれ、午の刻になって後主が生まれた。武成帝は綽の母の李夫人が正嫡でないため、第二子に貶し、初めは融と名乗り、字を君明といった。漢陽王の後嗣となった。河清三年、南陽王に改封され、別に漢陽王の後継を立てた。

綽が十余歳の時、晋陽に留守していた。波斯の犬を愛し、尉破胡が諫めると、たちまち数匹の犬を斬り殺し、地面に散乱させた。破胡は驚いて逃げ、二度と口に出さなかった。後に 司徒 しと ・冀州刺史となり、人を裸にし、獣の姿で蹲らせ、犬に噛みつかせて食わせることを好んだ。左遷されて定州に至り、井戸の水を汲んで後池とし、楼の上から人を弾いた。微行を好み、遊猟は度を過ぎ、勝手気ままに強暴を働き、文宣伯 高洋 こうよう の振る舞いを学ぶと言った。子供を抱いた婦人が道にいて、逃げて草むらに隠れたが、綽はその子を奪い取り、波斯の犬に与えた。婦人が号泣すると、綽は怒り、さらに犬を放って食わせようとしたが、犬が食わないので、子の血を塗ると、ようやく食った。後主はこれを聞き、詔して綽を鎖でつなぎ行在所に赴かせた。到着すると許した。州で何が最も楽しいかと問うと、答えて言うには、「蠍を多く取り蛆と混ぜるのを見るのが、極めて楽しい。」後主はその夜すぐに蠍一斗を求め、夜明けまでに二三升を得て、浴斛の中に置き、人を裸で斛の中に臥させた。その者は号叫し身もだえした。帝は綽と共に臨んで観覧し、喜び笑いやまず、綽に言った。「このような楽しい事を、なぜ早く駅伝で奏上しなかったのか。」綽はこれにより大いに後主に寵愛され、大将軍に拝され、朝夕共に遊戯した。韓長鸞がこれを疎んじ、齊州刺史に任じた。出発しようとする時、長鸞は綽の親信に命じてその謀反を誣告させ、「これは国法に触れ、赦すべからず。」と奏上した。後主は公然と殺すに忍びず、寵愛する胡人の何猥薩に命じて後園で綽と相撲を取らせ、搤み殺させた。興聖仏寺に葬った。四百余日を経てようやく大殮を行ったが、顔色や毛髪はすべて生きているようであり、俗に五月五日生まれの者は脳が腐らないと言う。綽の兄弟は皆、父を兄兄、嫡母を家家、乳母を姊姊、妻を妹妹と呼んだ。北斉が滅亡し、妃の鄭氏が周の武帝の寵愛を受けたため、綽の埋葬を請うた。勅して所司に命じ、永平陵の北に葬らせた。

琅邪王儼

琅邪王儼は、字を仁威といい、武成帝の第三子である。初め東平王に封ぜられ、開府・侍中・ 中書監 ちゅうしょかん ・京畿大 都督 ととく ・領軍大将軍・領御史中丞に任ぜられ、 司徒 しと 尚書令 しょうしょれい ・大将軍・録尚書事・大司馬に遷った。魏氏の旧制では、中丞が出ると清道し、皇太子と分かれて道を行き、王公は皆遠くで車を停め、牛を外し、軛を地に置いて、中丞の通過を待った。もし遅れたり違えたりすれば、赤棒で打った。鄴に都して後は、この儀礼は次第に絶えていたが、武成帝は儼を特に寵愛して誇ろうと、あえて一切旧制に従わせた。初めて北宮を出て中丞に上る時、京畿の歩騎、領軍の官属、中丞の威儀、 司徒 しと の鹵簿は、すべて完備された。帝と胡后は華林園の東門外に幕を張り、青紗の歩障を隔ててこれを見た。中貴に命じて馬を走らせて儀仗に向かわせたが、入ることができず、自分は勅を奉じると言ったが、赤棒が応えてその鞍を砕き、馬は驚き人は墜ちた。帝は大笑いし、良しとした。さらに勅して車を停めさせ、伝言を交わすことしばらく、見物人は都中に満ちた。儼は常に宮中におり、含光殿に坐して政務を視、諸父も皆拝礼した。帝が へい 州に行幸すると、儼は常に留守を務め、毎度見送り、あるいは半路まで、あるいは晋陽に至ってから帰還した。王師羅は常に従駕していたが、後れて到着した。武成帝が罪に問おうとすると、言い訳して言うには、「臣は第三子と別れ、名残惜しくて遅くなったのに気づきませんでした。」武成帝は儼を思い出し、そのために涙を流し、師羅を問わなかった。儼の器物・服飾・玩好・装飾は、すべて後主と同じで、必要なものはすべて官から給された。南宮で新氷や早李を見て、帰って怒って言うには、「尊兄 (後主) には既にあるのに、どうして私にはないのか。」これ以来、後主が新奇なものを先に得ると、属官や工匠は必ず罪を得た。太上皇 (武成帝) や胡后でさえも、まだ不足だと思った。儼は常に喉を患い、医者に鍼を下ろさせたが、目を見開いて瞬きしなかった。また帝に言うには、「阿兄は懦弱で、どうして左右を率いることができようか。」帝は毎度称して言うには、「この賢い子は、きっと何かを成し遂げるだろう。」後主を劣っていると考え、廃立の意思を持った。

武成帝が崩御すると、琅邪王に改封された。儼は和士開・駱提婆らが奢侈で勝手気ままに、盛大に邸宅を造営しているのを、甚だ不平に思い、かつて言った。「君たちの営む邸宅は早晩完成するだろうが、どうしてこんなに遅いのか。」二人は互いに言った。「琅邪王の眼光は奕奕として、数歩先から人を射るようだ。先ほど少し対面しただけで、知らずに汗が出た。天子の前で奏事する時でさえこうではない。」これにより彼を忌み嫌った。

武平二年、儼を北宮に出して住まわせ、五日に一朝するのみとし、毎日太后に会うことができなくなった。四月、詔して太保を除くのみとし、その他の官はすべて解かれ、中丞を帯びるのみで、京畿を督させた。北城に武庫があるため、儼を外に移し、その後でその兵権を奪おうとした。治書侍御史の王子宜と儼の側近の開府高舍洛・中常侍劉辟疆が儼に説いて言うには、「殿下が疎遠にされたのは、正に士開が離間したためです。どうして北宮を出て、百姓の群れの中に入ることができましょうか。」儼は侍中の馮子琮に言った。「士開の罪は重い。私は彼を殺したい。」子琮は帝を廃して儼を立てたいと考え、それに乗じてこの事を賛成した。儼は子宜に命じて表を上奏し、士開の罪を弾劾させ、禁中に付して推問するよう請わせた。子琮は他の文書に混ぜて奏上し、後主は詳しく審査せずにこれを許可した。儼は領軍の厙狄伏連を欺いて言った。「勅を奉じて、軍に命じて士開を収監せよ。」伏連は子琮に諮問し、かつ重ねて奏上するよう請うた。子琮は言った。「琅邪王が勅を受けたのだ。どうして重ねて奏上する必要があろうか。」伏連はこれを信じ、五十人を神獣門外に伏せさせ、翌朝早く、士開を捕らえて御史に送った。儼は馮永洛に命じて御史台でこれを斬らせた。

儼の本意はただ士開を殺すことのみであったが、この時至って、彼らは儼を脅迫して言う、「事既に然り、中止すべからず」と。儼は遂に京畿の軍士三千余人を率いて千秋門に屯す。帝は劉桃枝に禁兵八十人を将いて儼を召させた。桃枝は遥かに拝礼す。儼は命じて反縛せしめ、斬らんとす。禁兵は散走す。帝はまた馮子琮をして儼を召させた。儼は辞して曰く、「士開は昔来、実に万死に当たる。至尊を廃せんと謀り、家家 (太后) の頭を剃りて阿尼 (尼僧) となさしめ、故に兵馬を擁して孫鳳珍の宅上に坐せんと欲す。臣、是の為に詔を矯って之を誅せり。尊兄若し臣を殺さんと欲せば、罪を逃れんと敢えず。若し臣を放たば、願わくは姊姊 (陸令萱) を遣わして臣を迎えしめよ。臣即ち入見せん」と。姊姊とは即ち陸令萱なり。儼は誘い出して殺さんと欲す。令萱は刀を執りて帝の後にあり、これを聞いて戦慄す。また韓長鸞をして儼を召させた。儼将に入らんとす。劉辟疆が衣を牽きて諫めて曰く、「提婆母子を斬らざれば、殿下入る由無からん」と。広寧・安德の二王、丁度西より来たり、その事を助成せんと欲し、曰く、「何ぞ入らざる」と。辟疆曰く、「人少なし」と。安德王、衆を顧みて言う、「孝昭帝、楊遵彦を殺すや、ただ八十人に止まれり。今は数千なり。何ぞ人少なしと言わんや」と。後主、泣いて太后に啓して曰く、「縁有りて更に家家に会わば、縁無くば永別せん」と。乃ち急ぎ斛律光を召す。儼もまた之を召す。光、士開を殺したるを聞き、掌を撫って大笑して曰く、「龍子の作事、固より自ら凡人に似ず」と。永巷にて後主に見え入る。帝、宿衛の歩騎四百を率い、甲を授けて将に出戦せんとす。光曰く、「小児輩の兵を弄ぶは、手を交えれば即ち乱る。鄙諺に云う『奴、大家を見て心死す』と。至尊宜しく自ら千秋門に至るべし。琅邪必ず敢えて動かじ」と。皮景和も亦以て然りと為す。後主之に従う。光、歩道し、人を出だして曰わしむ、「大家来たる」と。儼の徒、駭散す。帝、橋上に馬を駐め、遥かに之を呼ぶ。儼猶立ちて進まず。光就きて謂いて曰く、「天子の弟、一漢を殺す、何の苦しむ所かあらん」と。其の手を執り、強いて引きて前に進む。帝に請うて曰く、「琅邪王年少、腸肥脳満、軽々しく挙措を為す。長大すれば自ら然らず。願わくは其の罪を寛めよ」と。帝、儼の帯刀の環を抜きて乱れに辮頭を築くこと良久にして乃ち之を釈す。伏連及び高舍洛・王子宜・劉辟疆・ 都督 ととく 翟顕貴を後園に収め、帝親しく之を射て而して後斬る。皆支解し、都街の下に暴す。文武の職吏、尽く之を殺さんと欲す。光、皆勲貴の子弟なるを以て、人心の安からざるを恐る。趙彦深も亦云う、『春秋』は帥を責むと。是に於いて之を罪するに各差有り。

是より後、太后は儼を宮内に処し、食は必ず自ら之を嘗む。陸令萱、帝に説いて曰く、「人、琅邪王の聡明雄勇、当今無敵と称す。其の相表を観るに、殆ど人臣に非ず。専殺以来、常に恐懼を懐く。宜しく早く計らうべし」と。何洪珍は和士開と素より善し、亦之を殺すことを請う。未だ決せず。食輿を以て密かに祖珽を迎えて之を問う。珽、周公の管叔を誅し、季友の慶父を鴆すを称す。帝其の言を納る。儼を晋陽に以てし、右衛大将軍趙元侃に儼を誘い執らしむ。元侃曰く、「臣昔く先帝に事え、日に先帝の王を愛するを見る。今寧ろ死に就くも、行う能わず」と。帝、元侃を出だして 州刺史と為す。九月下旬、帝、太后に啓して曰く、「明旦、仁威と出猟せんと欲す。須らく早く出で早く還るべし」と。是の夜四更、帝、儼を召す。儼之を疑う。陸令萱曰く、「兄兄 (後主) 喚ぶ、児何ぞ去かざる」と。儼出でて永巷に至る。劉桃枝、其の手を反接す。儼呼んで曰く、「乞う、家家・尊兄を見ん」と。桃枝、袂を以て其の口を塞ぎ、反って袍を以て頭を蒙い負い出づ。大明宮に至り、鼻血満面、立ちどころに之を殺す。時に年十四。靴を脱がず、席を以て裹み、室内に埋む。帝、太后に啓せしむ。臨哭十余声、便ち殿に擁き入れらる。明年三月、鄴西に葬る。贈謚して楚恭哀帝と曰う。以て太后を慰む。遺腹の四男有り。生まれて数月、皆幽閉して死なしむ。平陽王淹の孫世俊を以て嗣がしむ。

儼の妃は李祖欽の女なり。進められて楚帝后と為り、宣則宮に居す。齊亡びて、乃ち嫁ぐ。

齊安王廓

齊安王廓、字は仁弘、武成帝の第四子なり。性、長者にて、過行無し。位は特進・開府・儀同三司・定州刺史。

北平王貞

北平王貞、字は仁堅、武成帝の第五子なり。沈審にして寬恕なり。帝常に曰く、「此の児、我が鳳毛を得たり」と。位は司州牧・京畿大 都督 ととく 尚書令 しょうしょれい ・録尚書事を兼ぬ。帝行幸の時、留臺の事を総ぶ。積年、後主、貞の長大なるを以て、漸く之を忌む。阿那肱、旨を承け、馮士幹に劾して貞を獄に繫がしめ、其の留後の権を奪う。

高平王仁英

高平王仁英、武成帝の第六子なり。挙措軒昂、精神に檢格無し。位は定州刺史。

淮南王仁光

淮南王仁光、武成帝の第七子なり。性躁にして且つ暴なり。位は清都尹。次に西河王仁幾、生まれながらにして骨無く、自ら支持せず。次に楽平王仁邕。次に潁川王仁儉。次に安楽王仁雅、小より喑疾有り。次に丹陽王仁直。次に東海王仁謙。皆北宮に養わる。琅邪王死して後、諸王の守禁弥切なり。武平末年、仁邕已下始めて外に出づるを得、供給儉薄、充つるを取るのみ。尋で後主窮蹙し、廓を 光州 こうしゅう と為し、貞を青州と為し、仁英を冀州と為し、仁儉を膠州と為し、仁直を済州刺史と為す。廓已下、多く後主と長安にて死す。仁英は清狂を以て、仁雅は喑疾を以て、免るることを獲、倶に蜀に徙す。隋の開皇中、仁英を追詔し、蕭琮・陳叔宝と其の本宗の祭礼を修めしむ。未だ幾ばくもせずして卒す。

後主五男

後主五男:穆皇后は幼主を生み、諸姫は東平王恪を生み、次に善德、次に買德、次に質錢。胡太后は恪を以て琅邪王を嗣がしむ。尋いで夭折す。齊滅び、周武帝は任城王已下大小三十王を長安に帰し、皆封爵有り。其の後、戮に従わざる者は西土に散配し、皆辺に死す。

論じて曰く、武成は殘忍姦穢、事人倫に極まる。太原王 (高紹徳) の跡は猜嫌に異なり、情は釁逆に非ず。禍は昭信 (太后) より起こり、遂に淫刑に及ぶ。嗟乎、長世を求めんと欲するも、未だ之れ有らざるなり。孝昭の德音を以てすれども、庶幾くは慶流後嗣すべし。百年の酷 北齊 ほくせい の短命) は、蓋し濟南 (高殷) の濫觴なり。其の「前人に效う莫れ」の言は、傷嘆す可し。各其の子を愛す、豈に然らんや。琅邪王は師傅の資無しと雖も、早く気尚を聞く。士開の淫乱、多年を歴る。一朝勦絶し、慶朝野に集まる。之を以て斃を受く、深く痛む可し。然れども専戮の釁、未だ之れを免れざるか。帝に恭の謚を贈るは、枉を矯うるに過直なり。過ちを観て仁を知る、亦是れに異ならざらんや。

原本を確認する(ウィキソース):北齊書 巻012