趙郡王琛
子 叡
叡、小名は須拔、生まれて三旬にして孤と為り、聰慧夙に成り、特に高祖の愛する所と為り、宮中に養われ、遊娘に母たることを命じ、恩諸子に同じし。東魏の興和(孝靜帝年號)の中、爵を襲い南趙郡公と為る。四歳に至るまで、未だ嘗て母を識らず。其の母は則ち魏の華陽公主なり。鄭氏と云う者有り、叡の母の従母姊妹の女、戯れに叡に語りて曰く「汝は我が姨の児なり、何の因りぞ倒って遊氏に親しむ」と。叡因りて問い訪ね、遂に精神怡ばず。高祖甚だ以て怪しみ、其の疾を感ずるかと疑い、医を命じて之を見んとす。叡対えて曰く「児に患苦無し、但だ生みし有るを聞き、暫く見ることを得んと欲するのみ」と。高祖驚きて曰く「誰か汝に向かって道うや」と。叡本末を具に陳ぶ。高祖元夫人を命じて宮に就き叡と相見えしむ。叡前に跪き拝し、因りて頭を抱きて大哭す。高祖甚だ以て悲傷す。平秦王に語りて曰く「此の児は天生の至孝、我が兒子に及ぶ者無し」と。遂に休務一日と為す。叡初めて『孝経』を読み、「父に事うるに資る」に至り、輒ち流涕歔欷す。十歳にして母に喪す。高祖親しく叡を領軍府に送り、叡の為に喪を発し、声殞絶し、哀しみ左右を感ぜしむ。三日水漿を口にせず。高祖と武明婁皇后殷勤に敦譬し、方に漸く旨に順う。喪に居りて礼を尽くし、仏像を奉持し長齋し、骨立つに至り、杖して後ち起つ。高祖常山王に共に臥起せしめ、日夜説き諭す。並びに左右に勅して水を進むるを聴さず。清漱を絶つと雖も、午後には輒ち食を肯んぜず。ここに由りて高祖食する必ず叡を喚び同案す。其の見湣惜まるること此の如し。高祖崩ずるや、哭泣して血を嘔す。壮に及び、将に婚娶せんとす。而して貌に戚容有り。世宗之に謂いて曰く「我爾が為に鄭述祖の女を娶らんとす。門閥甚だ高し。汝何の嫌う所有りて精神楽しからずや」と。叡対えて曰く「孤遺なるを痛み、常に深く膝下の慕い有り。方に婚冠に従わんとし、弥よ用って感切なり」と。言未だ卒らず、嗚咽自ら勝えず。世宗之が為に憫默す。己を励まし勤学し、常に夜久くして方に罷む。武定末、太子庶子を除く。顯祖(文宣帝高洋)禅を受く。爵を進めて趙郡王と封ぜられ、邑一千二百戸、散騎常侍に遷る。
七年、詔して本官を以て滄・瀛・幽・安・平・東燕の六州諸軍事・滄州刺史を都督せしむ。八年、叡を徴して鄴に赴かしめ、仍北朔州刺史を除き、北燕・北蔚・北恒の三州及び庫推以西黄河以東の長城諸鎮諸軍事を都督す。叡は新遷を慰撫し、烽戍を量り置き、内に防ぎ外に禦ぎ、備え条法有り、大いに兵民の安んずる所と為る。水無きの処有り、祷りて井を掘れば、鍬鍤裁ち下り、泉源湧き出づ。今に至るまで趙郡王泉と号す。
九年、車駕樓煩に幸す。叡行宮に朝し、仍従いて晉陽に還る。時に濟南王(廃帝殷)太子を以て国を監す。因りて大都督府を立て、尚書省と分ちて衆事を理め、仍開府して佐を置く。顯祖特に其の選を崇め、乃ち叡を侍中・摂大都督府長史に除く。叡後ち侍宴に因り、顯祖従容として顧みて常山王演等に謂いて曰く「由来亦此の如き長史有りしや。吾此の長史を用うる如何」と。演対えて曰く「陛下庶政に心を垂れ、賢を優し礼を物す。須拔進んでは蟬珥の栄に居り、退いては委要の職に当たる。昔より以来、実に未だかくの如き銓授を聞かず」と。帝曰く「吾此に於いて亦自ら得宜と謂う」と。十年、儀同三司・侍中・將軍・長史に転じ、王は故の如し。まもなく開府儀同三司・驃騎大將軍・太子太保を加えらる。
皇建の初め、幷州の事を行ふ。孝昭帝が崩御に臨み、顧托を預けられ、世祖を鄴に奉迎し、功により尚書令に拝され、別に浮陽郡公に封ぜられ、太史を監し、太子太傅となり、律令を議す。また北狄を討つ功により、潁川郡公に封ぜらる。再び尚書令に拝され、大宗正卿を摂す。天統の中、叡の父琛に仮黄鉞を追贈し、母元氏に趙郡王妃を贈り、諡して貞昭と曰ひ、華陽長公主は故の如し、有司に礼儀を備へて墓に就きて拜授せしむ。時に隆冬の盛寒、叡は跣歩して號哭し、面皆破裂し、嘔血數升す。還りてより、參謝に堪へず、帝親しく第に就きて看問す。司空に拜し、錄尚書事を摂す。突厥嘗て侵軼して幷州に至る、帝親しく戎を禦ひ、六軍の進止皆叡の節度を取らしむ。功により復た宣城郡公に封ぜらる。宗正卿を摂し、進みて太尉に拜し、五禮の議を監す。叡久しく朝政を典し、清真自ら守り、譽望日隆く、漸く疏忌を受け、乃ち古の忠臣義士を撰び、號して《要言》と曰ひ、以て其の意を致す。
世祖崩じ、葬後の數日、叡は馮翊王潤・安德王延宗及び元文遙と共に後主に奏して云ふ、「和士開は内任に仍り居るべからず。」併せて太后に奏し、因りて士開を出して兗州刺史とす。太后曰く、「士開は舊より驅使を經たり、百日を過ぎて留めんと欲す。」叡は正色して許さず。數日の内、太后數たび以て言と爲す。中官の要人にして太后の密旨を知る者有り、叡に謂ひて曰く、「太后の意既に此の如し、殿下何ぞ苦しみて違ふべけんや。」叡曰く、「吾が國家の事重し、死すら且つ避けず、若し生を貪ひて苟く全からんとし、國家を擾攘せしむるは、吾が志に非ず。況んや先皇の遺旨を受け、委寄輕からず。今嗣主幼沖、豈に邪臣を側に在らしむべけんや。正を以て之を守らざれば、何の面か天を戴かん。」遂に重ねて言を進め、詞理懇切なり。太后、酒を酌みて叡に賜ふことを令す。叡正色して曰く、「今國家の大事を論ず、卮酒の爲に非ず!」言ひ訖りて便に出づ。其の夜、叡方に寢しとき、一人を見る、長さ丈五ばかり可く、臂長さ丈餘り、門に當りて床に向ひ、臂を以て叡を壓す、良久しくして、遂に在る所を失ふ。叡意甚だ之を惡み、便ち起き坐して獨り嘆きて曰く、「大丈夫の命運一朝此に至る!」太后に殺さるるを恐れ、旦に朝に入らんと欲す、妻子咸く諫めて之を止む。叡曰く、「古より忠臣は、皆身命を顧みず、社稷の事重し、吾當に死を以て之に效すべし、豈に一婦人をして宗廟を傾危せしむるを容れんや。且つ和士開は何物の豎子ぞ、此の如く縱橫す、吾は寧ろ死して先皇に事へん、朝廷の顛沛を見るに忍びず。」殿門に至り、又人ありて曰く、「願くは殿下入ること勿れ、危變有るを慮ふ。」叡曰く、「吾上は天に負かず、死すとも恨み無し。」入りて太后に見え、太后復た以て言と爲すも、叡之を執ること彌固し。出でて永巷に至り、兵に遇ひて執へられ、華林園に送られ、雀離佛院に於て劉桃枝に令し拉ぎて之を殺す、時に年三十六。大霧三日、朝野冤み惜しむ。期年後、詔して王禮を以て葬ることを聽す、竟に贈諡無し。
清河王岳
清河王岳、字は洪略、高祖の從父弟なり。父翻、字は飛雀、魏朝にて太尉を贈られ、諡して孝宣公と曰ふ。岳幼時に孤貧、人未だ之を知らず、長じて敦直、姿貌嶷然たり、沈深にして器量有り。初め、岳洛邑に家す、高祖每たび使を奉じて洛に入るに、必ず岳の舍に止まる。岳の母山氏、嘗て夜起き、高祖の室中に光有るを見、密かに往きて之を覘ふれば、乃ち燈無し、即ち高祖を別室に移すも、前に見し所の如し。其の神異を怪しみ、卜者に詣でて之を筮はしむるに、《乾》の《大有》に遇ふ、之を占ひて曰く、「吉なり、《易》に『飛龍天に在り、大人造るなり』と稱す、飛龍九五大人の卦、貴ぶべからず言ふ。」山氏歸りて高祖に報ず。後高祖信都に起兵す、山氏之を聞き、大いに喜び、岳に謂ひて曰く、「赤光の瑞、今當に驗ふべし、汝間行して之に從ひ、共に大計を圖るべし。」岳遂に信都に往く。高祖之を見て、大悅す。
高祖が崩御し、侯景が叛くと、世宗は高岳を幷州に召還し、共に侯景を討つ計略を図った。時に梁の武帝は隙に乗じて貞陽侯蕭明を遣わし、寒山に衆を率いさせ、泗水を擁して彭城を灌漑し、侯景と掎角の勢いで呼応させた。高岳は諸軍を総帥して南討し、行臺慕容紹宗らと共に蕭明を撃ち、大破して、陣中で蕭明とその大将胡貴孫を生け捕りにし、その他の捕虜や斬首は数万に及んだ。侯景は渦陽に衆を擁し、左衛将軍劉豊らと相対した。高岳は軍を返して追討し、またこれを破り、侯景は単騎で逃げ去った。天保六年、功により侍中・太尉に任じられ、その他の官は元のままとし、別に新昌県子に封ぜられた。また使持節・河南総管・大都督に任じられ、慕容紹宗・劉豊らを統率して長社の王思政を討った。思政は城に籠って自ら守り、高岳らは洧水を引いて城を灌漑した。紹宗と劉豊は思政に捕らえられ、関西が兵を出して思政を救援したが、高岳は内外を防禦し、謀略に長けていた。城は三板(六尺)を残して水没しなかった。世宗が親征して来ると、数日で城は陥落し、思政らを捕らえた。功により別に真定県男に封ぜられたが、世宗はこれを己の功とし、故に賞典は盛大ではなかった。
世宗が崩御すると、顕祖(文宣帝)は晋陽に出て鎮撫し、高岳に本官のまま尚書左僕射を兼ねさせ、京師に留まって鎮守させた。天保初年、清河郡王に進封され、まもなく使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・宗師・司州牧に任じられた。五年、太保を加えられた。梁の蕭繹が周軍に逼迫され、使者を遣わして危急を告げ、援軍を請うた。冬、詔により高岳を西南道大行臺とし、司徒潘相楽らを統率して江陵を救援させた。六年正月、軍は義陽に駐屯したが、荊州が陥落したと聞き、そこで土地を攻略して南は郢州に至り、梁の州刺史司徒陸法和を捕らえ、ついで郢州を陥落させた。高岳は先に陸法和を京師に送り、儀同慕容儼を遣わして郢城を占拠させた。朝廷は江陵陥落を知り、詔して高岳に軍を返させた。
高岳は寒山・長社を討ち、また随・陸に出撃して以来、いずれも功績があり、威名はますます重くなった。しかし性格は華美で奢侈を好み、特に酒色を悦び、歌姫舞女を並べ、鼎を陳列し鐘を打ち鳴らすこと、諸王の及ぶところではなかった。初め、高帰彦は幼くして孤児となり、高祖は高岳に養育させたが、高岳はその年少を軽んじ、情誼と礼遇は甚だ薄かった。帰彦は内心これを恨みながらも口には出さなかった。帰彦が領軍将軍となり、大いに寵遇を受けると、高岳はその恩を自分に施したものと思い、ますます頼りとした。帰彦は密かに高岳の短所をでっち上げた。高岳は城南に邸宅を建て、政庁の後に巷を開いた。帰彦は帝に奏上して言った。「清河王が邸宅を造営し、帝宮に僭越して模倣し、永巷の制を設けましたが、ただ闕門がないだけです。」顕祖はこれを聞いて高岳を憎み、次第に遠ざけた。折しも顕祖が鄴下の婦人薛氏を召し出して宮中に入れたが、高岳は先に彼女を邸宅に呼び寄せたことがあった。それは彼女の姉であったからである。帝は薛氏の姉を吊るして鋸で殺し、高岳を責めて民の女を姦したとした。高岳は言った。「臣は本来彼女を娶ろうと思いましたが、その軽薄さを嫌って用いませんでした。姦したのではありません。」帝はますます怒った。六年十一月、高帰彦を邸宅に遣わして厳しく責めさせた。高岳は憂い恐れてなすべきことを知らず、数日で薨去した。故に当時の論議は紛然として、毒を賜わったものとされた。朝野は嘆き惜しんだ。時に四十四歳。詔して大鴻臚に喪事を監護させ、使持節・都督冀定滄瀛趙幽済七州諸軍事・太宰・太傅・定州刺史を追贈し、黄鉞を仮され、轀輬車を与えられ、賻物二千段を賜り、諡して昭武といった。
初め、高岳は高祖と共に天下を経営し、家に私兵を持ち、武器を蓄え、鎧千余領を貯蔵していた。世宗の末年、高岳は天下に事が無いとして、上表してこれを納めるよう求めた。世宗は至親の重みを重んじ、心を推して信頼し、言った。「叔父は肺腑の親として、職は城を守るにあり、所有する鎧は本来国家の用に供するものである。叔父は何を疑って納めようとするのか。」文宣帝の世にも、頻りに納めるよう請うたが、また固く許さなかった。将に薨ぜんとするに及んで、遺表して恩に謝し、併せて武庫に甲冑を上納することを請うた。ここに葬儀が終わって初めて、納めることを許されたのである。皇建年間、世宗の廟庭に配享された。後に高帰彦が反逆すると、世祖(孝昭帝)はその以前の讒言を知り、言った。「清河王は忠烈にして、皇家に力を尽くしたのに、帰彦はこれを誹謗し、我が骨肉を離間させた。」帰彦の財産を没収し、良賤百口を高岳の家に賜った。後また高岳の功を思い、重ねて太師・太保を追贈し、その他の官は元の通りとした。子の高勱が後を嗣いだ。
子 勱
高勱、字は敬徳、幼少より聡明で早く成長し、顕祖に愛された。七歳の時、皇太子に侍らせた。後に青州刺史に任じられ、拝命の日、顕祖は戒めて言った。「叔父(高岳)が以前青州を治めた時、多くの遺徳があった。故にお前を遣わしてそこの民衆を慰めるのだ。よく心を用い、名声と実績を損なうことのないようにせよ。」高勱は涙を流して答えて言った。「臣は幼少の身でありながら、濫りに抜擢を頂きました。たとえ凡庸な才能を尽くしても、先人の政績を辱めることを恐れます。」帝は言った。「お前が既にこのような言葉を言えるなら、私は心配しない。」まもなく武衛将軍・領軍・祠部尚書・開府儀同三司を追って授けられた。清河の地が畿内にあるため、楽安王に改封された。侍中・尚書右僕射に転じ、朔州行臺僕射として出向した。
後主が晋州で敗れた後、太后は土門道から京師に還られたが、高勱に兵馬を統領させ、太后を侍衛させた。当時、佞幸の宦官たちがなおも暴虐を行い、民間の鶏や豚をことごとく放し鷹や犬に襲わせて奪い取っていた。高勱は儀同三司の茍子溢を捕らえて軍中に示し、大いに誅戮しようとした。太后の命令があって、その後釈放した。劉文殊が密かに高勱に言った。「子溢の徒は、言葉で禍福を成すことができる。どうしてこのようにすることができようか。後世の誹謗を慮らないのか。」高勱は袖をまくって文殊に語った。「献武皇帝(高歓)以来、士卒を撫養し、政を親賢に委ね、武を用いて師を行い、敗北したことはなかった。今、西寇(北周軍)は既に幷州に至り、高官の多くはことごとく委ねて叛いている。正にこの輩が専政して権を弄んだために、内外が心を離し、士大夫が解体したのである。もし今日この兵卒を斬り、明日誅殺されても、何の恨みもない。王(劉文殊)は国家の姻戚として、同じく悪を憎むべきであるのに、返ってこのような言葉を言うとは、どうして望むところだろうか。」太后が鄴に還られると、周軍が続いて到来し、人々は皆恐れおののき、戦う心がなく、朝士が降伏して出る者が昼夜絶え間なかった。高勱はそこで後主に奏上して言った。「今、翻って叛く者は、多くは貴人であり、兵卒に至っては、まだ離反していません。五品以上の家属を追い集め、三台に置き、彼らに約束して言いましょう。『もし戦いに勝たなければ、直ちに退いて台を焼く』と。この連中は妻子を顧み惜しむから、必ず死戦するでしょう。かつ王師は頻りに敗北し、賊徒は我々を軽んじています。今、城を背にして一決すれば、理の上から必ずこれを破ることができます。これもまた計略の上策です。」後主はついに用いなかった。北斉が滅んで北周に入り、例に従って開府儀同三司を授けられた。隋朝では楊州・楚州・光州・洮州の四州刺史を歴任した。開皇年間に卒去した。
【評賛】
史臣が曰く。『易経』に言う。「天地の盈虚は、時に随って消息し、況んや人においてをや。」蓋し通塞には期があり、盛衰は道に適うものである。挙世が治を思えば、則ち仁を顕わしてこれに応じ、小人の道が長ずれば、則ち倹徳をもってこれを避ける。もし博陸侯(霍光)のような図りを負い、藩屏の地に処りながら、国を迷わし難を避けようとするなら、どうしてそれが得られようか。趙郡王(高叡)は萼と花托のような親として、顧命の重責に当たり、高く揖して退けば宗廟社稷は危うく、悪を去れば人神ともに安泰である。ここに一徳を安んじ、この貞心を同じくし、畏るべき途を踏んで疑わず、危機を履んで懼れなかった。この忠義をもって、凶悪な者(婁定遠・和士開ら)に斃れることを得た。豈に四海を照らす道が、周の成王の明に遇わなかったというのか。あるいは殷の朝から三仁(微子・箕子・比干)が去ったように、終に殷墟の禍を見るに至ったのか。そうでなければ、邦国が困窮するに、どうして影と響きの如く速やかなことがあろうか。清河王(高岳)は天下経営の機会に属し、自ら青雲に至り、将として出で相として入り、大業を助成した。漢朝の劉賈、魏室の曹洪と雖も、その高下を論ずるに足りない。天保の世は時ならず、悔いと咎が生じ易く、固よりその風烈を掩うことはできないが、ただ顕祖の失徳を顕わにしただけである。