北齊書

卷第十三 列傳第五 趙郡王琛(子叡) 清河王岳(子勱)

趙郡王琛

趙郡王琛、字は永寶、高祖 (神武帝高歓) の弟なり。若き時より弓馬をよくし、志気有り。高祖天下を ただ すに及び、中興 (孝武帝年號) の初め、 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮西將軍・金紫光祿大夫を授かる。禁衛に居るや、恭勤慎密にして、率先して左右に当たる。太昌 (孝武帝年號) の初め、車騎大將軍・左光祿大夫を除 (拜) せられ、南趙郡公に封ぜられ、食邑五千戸。まもなく驃騎大將軍・特進・開府儀同三司・ 散騎常侍 さんきじょうじ を拝す。 永熙 えいき 二年、使持節・ 都督 ととく 定州刺史・六州大 都督 ととく を除く。琛は誠を推し撫納し、人士を抜擢任 し、甚だ声譽有り。 斛斯椿 こくしちゅん 等の わだかまり 結ぶに及び。高祖内討を謀らんとし、 しん 陽を根本と為すを以て、琛を召して後 つか を留め掌らしめ、幷・肆・汾大行臺僕射と為し、六州九酋長大 都督 ととく を領せしめ、其の相府の政事は琛悉く之を決す。天平 東魏 とうぎ 孝靜帝年號) の中、御史中尉を除く。正色して糾弾し、回避する所無く、遠近肅然たり。まもなく高祖の後庭を乱し、高祖之を責罰し、杖に因りて たお る。時に年二十三。使持節・侍中・ 都督 ととく 冀定滄瀛幽殷幷肆雲朔十州諸軍事・驃騎大將軍・冀州刺史・太尉・ 尚書令 しょうしょれい を贈られ、諡して貞平と曰う。天統三年、また假黄鉞・左丞相・太師・録尚書事・冀州刺史を贈られ、爵を進めて王と為し、高祖廟庭に配饗せらる。子叡嗣ぐ。

子 叡

叡、小名は須拔、生まれて三旬にして孤と為り、 聰慧夙 つと に成り、特に高祖の愛する所と為り、宮中に養われ、遊娘に母たることを命じ、恩諸子に同じし。東魏の興和 (孝靜帝年號) の中、爵を襲い南趙郡公と為る。四歳に至るまで、未だ嘗て母を らず。其の母は則ち魏の華陽公主なり。鄭氏と云う者有り、叡の母の従母姊妹の女、戯れに叡に語りて曰く「汝は我が おば の児なり、何の因りぞ かえ って遊氏に親しむ」と。叡因りて問い訪ね、遂に 精神怡 よろこ ばず。高祖甚だ以て怪しみ、其の疾を感ずるかと疑い、医を命じて之を見んとす。叡対えて曰く「児に患苦無し、但だ生みし有るを聞き、暫く見ることを得んと欲するのみ」と。高祖驚きて曰く「誰か汝に向かって うや」と。叡本末を つぶさ に陳ぶ。高祖元夫人を命じて宮に就き叡と相見えしむ。叡前に跪き拝し、因りて頭を抱きて大哭す。高祖甚だ以て悲傷す。平秦王に語りて曰く「此の児は天生の至孝、我が兒子に及ぶ者無し」と。遂に休務一日と為す。叡初めて『孝経』を読み、「父に事うるに る」に至り、 すなわ ち流涕歔欷す。十歳にして母に す。高祖親しく叡を領軍府に送り、叡の為に喪を発し、 声殞絶 こえたえ し、哀しみ左右を感ぜしむ。三日水漿を口にせず。高祖と武明婁皇后殷勤に 敦譬 とくひ し、 まさ に漸く旨に順う。喪に居りて礼を尽くし、仏像を奉持し長齋し、骨立つに至り、杖して後ち起つ。高祖常山王に共に臥起せしめ、日夜説き諭す。並びに左右に勅して水を進むるを ゆる さず。清漱を絶つと雖も、午後には輒ち食を がえ んぜず。ここに由りて高祖食する必ず叡を喚び同案す。其の 見湣惜 あわれみおし まるること此の如し。高祖崩ずるや、哭泣して血を嘔す。壮に及び、将に婚娶せんとす。而して貌に戚容有り。世宗之に謂いて曰く「我爾が為に鄭述祖の女を娶らんとす。門閥甚だ高し。汝何の嫌う所有りて精神楽しからずや」と。叡対えて曰く「孤遺なるを痛み、常に深く膝下の慕い有り。方に婚冠に従わんとし、 いよい よ用って感切なり」と。言未だ おわ らず、嗚咽自ら勝えず。世宗之が為に憫默す。己を励まし勤学し、常に夜久くして方に罷む。武定末、太子庶子を除く。顯祖 文宣 ぶんせん 高洋 こうよう 禅を受く。爵を進めて趙郡王と封ぜられ、邑一千二百戸、 散騎常侍 さんきじょうじ に遷る。

叡身長七尺、容儀甚だ すぐ れ、吏職に閑習し、人を知るの鑒有り。二年、出でて定州刺史と為り、撫軍將軍・六州大 都督 ととく を加えらる。時に年十七。叡は庶事に留心し、姦非を糾摘し、農桑を勧課し、民儁に礼を接し、所部大いに治まり、良牧と称せらる。三年、儀同三司を加えらる。六年、詔して叡に山東の兵数万を領せしめ長城を監築せしむ。時に盛夏六月、叡途中に在り、 けだ 扇を屏除し、親しく軍人と其の労苦を同じくす。而して定州先に冰室有り、毎歳冰を蔵す。長史宋欽道、叡の暑熱に冒すを以て、遂に輿冰を遣わし、倍道して追送す。正に日中停車するに値い、炎赫尤も甚だしく、人皆堪えず。而して冰を送る者至り、 みな 冰を得て一時の要と謂う。叡乃ち之に対して嘆息して云う「三軍の人、皆温水を飲む。吾何の義を以てか、独り寒冰を進めん。古の将を追名するに非ず、実情の忍びざる所なり」と。遂に消液するに至り、 つい に一たびも嘗めず。兵人感悦し、遐邇称嘆す。是に先立ち、役徒罷作し、其の自ら返るに任す。丁壮の輩は、各自先ず帰る。羸弱の徒は、山北に棄てられ、饑病を加うるに、多く 僵殞 こういん に致る。叡は是に於いて親しく帥ぶ所部、之と俱に還り、州郷に配合し、営伍を部分し、督帥監領し、強弱相い持ち、善き水草に遇えば、即ち停頓と為し、余り有るを分かち、足らざるを おぎな い、全きを以て屯する者十に三四に及べり。

七年、詔して本官を以て滄・瀛・幽・安・平・東燕の六州諸軍事・滄州刺史を 都督 ととく せしむ。八年、叡を徴して ぎょう に赴かしめ、 なお 北朔州刺史を除き、北燕・北蔚・北恒の三州及び庫推以西黄河以東の長城諸鎮諸軍事を 都督 ととく す。叡は新遷を慰撫し、烽戍を はか り置き、内に防ぎ外に禦ぎ、備え条法有り、大いに兵民の安んずる所と為る。水無きの処有り、祷りて井を掘れば、 鍬鍤裁 すなわ ち下り、泉源湧き出づ。今に至るまで趙郡王泉と号す。

九年、車駕樓煩に幸す。叡行宮に朝し、仍従いて しん 陽に還る。時に濟南王 廃帝 はいてい 殷) 太子を以て国を監す。因りて大 都督 ととく 府を立て、尚書省と分ちて衆事を理め、仍開府して佐を置く。顯祖特に其の選を崇め、乃ち叡を侍中・摂大 都督 ととく 府長史に除く。叡後ち侍宴に因り、顯祖従容として顧みて常山王演等に謂いて曰く「由来亦此の如き長史有りしや。吾此の長史を用うる如何」と。演対えて曰く「陛下庶政に心を垂れ、賢を優し礼を物す。須拔進んでは蟬珥の栄に居り、退いては委要の職に当たる。昔より以来、実に未だかくの如き銓授を聞かず」と。帝曰く「吾此に於いて亦自ら得宜と謂う」と。十年、儀同三司・侍中・將軍・長史に転じ、王は故の如し。まもなく開府儀同三司・驃騎大將軍・太子太保を加えらる。

皇建の初め、 幷州 へいしゅう の事を行ふ。孝昭帝が崩御に臨み、顧托を預けられ、世祖を鄴に奉迎し、功により 尚書令 しょうしょれい に拝され、別に浮陽郡公に封ぜられ、太史を監し、太子太傅となり、律令を議す。また北狄を討つ功により、潁川郡公に封ぜらる。再び 尚書令 しょうしょれい に拝され、大宗正卿を摂す。天統の中、叡の父琛に仮黄鉞を追贈し、母元氏に趙郡王妃を贈り、諡して貞昭と曰ひ、華陽長公主は故の如し、有司に礼儀を備へて墓に就きて拜授せしむ。時に隆冬の盛寒、叡は跣歩して號哭し、面皆破裂し、嘔血數升す。還りてより、參謝に堪へず、帝親しく第に就きて看問す。 司空 しくう に拜し、錄尚書事を摂す。突厥嘗て侵軼して幷州に至る、帝親しく戎を禦ひ、六軍の進止皆叡の節度を取らしむ。功により復た宣城郡公に封ぜらる。宗正卿を摂し、進みて太尉に拜し、五禮の議を監す。叡久しく朝政を典し、清真自ら守り、譽望日隆く、漸く疏忌を受け、乃ち古の忠臣義士を撰び、號して《要言》と曰ひ、以て其の意を致す。

世祖崩じ、葬後の數日、叡は馮翊王潤・安德王延宗及び元文遙と共に後主に奏して云ふ、「和士開は内任に仍り居るべからず。」併せて太后に奏し、因りて士開を出して兗州刺史とす。太后曰く、「士開は舊より驅使を經たり、百日を過ぎて留めんと欲す。」叡は正色して許さず。數日の内、太后數たび以て言と爲す。中官の要人にして太后の密旨を知る者有り、叡に謂ひて曰く、「太后の意既に此の如し、殿下何ぞ苦しみて違ふべけんや。」叡曰く、「吾が國家の事重し、死すら且つ避けず、若し生を貪ひて苟く全からんとし、國家を擾攘せしむるは、吾が志に非ず。況んや先皇の遺旨を受け、委寄輕からず。今嗣主幼沖、豈に邪臣を側に在らしむべけんや。正を以て之を守らざれば、何の面か天を戴かん。」遂に重ねて言を進め、詞理懇切なり。太后、酒を酌みて叡に賜ふことを令す。叡正色して曰く、「今國家の大事を ず、卮酒の爲に非ず!」言ひ訖りて便に出づ。其の夜、叡方に寢しとき、一人を見る、長さ丈五ばかり可く、臂長さ丈餘り、門に當りて床に向ひ、臂を以て叡を壓す、良久しくして、遂に在る所を失ふ。叡意甚だ之を惡み、便ち起き坐して獨り嘆きて曰く、「大丈夫の命運一朝此に至る!」太后に殺さるるを恐れ、旦に朝に入らんと欲す、妻子咸く諫めて之を止む。叡曰く、「古より忠臣は、皆身命を顧みず、社稷の事重し、吾當に死を以て之に效すべし、豈に一婦人をして宗廟を傾危せしむるを容れんや。且つ和士開は何物の豎子ぞ、此の如く縱橫す、吾は寧ろ死して先皇に事へん、朝廷の顛沛を見るに忍びず。」殿門に至り、又人ありて曰く、「願くは殿下入ること勿れ、危變有るを慮ふ。」叡曰く、「吾上は天に負かず、死すとも恨み無し。」入りて太后に見え、太后復た以て言と爲すも、叡之を執ること彌固し。出でて永巷に至り、兵に遇ひて執へられ、華林園に送られ、雀離佛院に於て劉桃枝に令し拉ぎて之を殺す、時に年三十六。大霧三日、朝野冤み惜しむ。期年後、詔して王禮を以て葬ることを聽す、竟に贈諡無し。

子整信嗣ぐ。 散騎常侍 さんきじょうじ ・儀同三司を歷任す。學を好み行檢有り、少年の時獵に因りて馬より墜ち、腰腳を傷め、遂に起行すること能はず、長安に終る。琛の同母弟惠寶早く亡ぶ、元象の初め、侍中・ 尚書令 しょうしょれい 都督 ととく 四州諸軍事・青州刺史を贈らる。天統三年、重ねて十州 都督 ととく を贈り、陳留王に封ぜられ、諡して文恭と曰ひ、清河王岳の第十子敬文を以て嗣がしむ。

清河王岳

清河王岳、字は洪略、高祖の從父弟なり。父翻、字は飛雀、魏朝にて太尉を贈られ、諡して孝宣公と曰ふ。岳幼時に孤貧、人未だ之を知らず、長じて敦直、姿貌嶷然たり、沈深にして器量有り。初め、岳洛邑に家す、高祖每たび使を奉じて洛に入るに、必ず岳の舍に止まる。岳の母山氏、嘗て夜起き、高祖の室中に光有るを見、密かに往きて之を覘ふれば、乃ち燈無し、即ち高祖を別室に移すも、前に見し所の如し。其の神異を怪しみ、卜者に詣でて之を筮はしむるに、《乾》の《大有》に遇ふ、之を占ひて曰く、「吉なり、《易》に『飛龍天に在り、大人造るなり』と稱す、飛龍九五大人の卦、貴ぶべからず言ふ。」山氏歸りて高祖に報ず。後高祖 信都 しんと に起兵す、山氏之を聞き、大いに喜び、岳に謂ひて曰く、「赤光の瑞、今當に驗ふべし、汝間行して之に從ひ、共に大計を圖るべし。」岳遂に信都に往く。高祖之を見て、大悅す。

中興の初め、 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮東將軍・金紫光祿大夫を除かれ、武衛將軍を領す。高祖四胡と韓陵に戰ふ、高祖中軍を將ひ、 高昂 こうこう 左軍を將ひ、岳右軍を將ふ。中軍敗績し、賊之に乘ず、岳麾を舉げて大呼し、橫に賊陣を衝き、高祖方に師を回すを得、表裏奮擊し、因りて大いに賊を破る。功により衛將軍・右光祿大夫を除かれ、仍り武衛を領す。太昌の初め、車騎將軍・左光祿大夫を除かれ、左右衛を領し、清河郡公に封ぜられ、食邑二千戶。母山氏、郡君に封ぜられ、女侍中を授けられ、入りて皇后に侍す。時 尒朱兆 じしゅちょう 猶ほ幷州に據る、高祖將に之を討たんとし、岳を令し京師に留鎮せしめ、驃騎大將軍・儀同三司に遷す。天平二年、侍中・六州軍事 都督 ととく を除かれ、尋ねて開府を加ふ。岳時賢を辟引し、以て僚屬と爲し、論者以て美と爲す。尋ねて都監典書し、復た侍學と爲り、使持節・六州大 都督 ととく ・冀州大中正を除かる。俄に京畿大 都督 ととく を拜し、其の六州の事悉く京畿に詣る。時高祖務を しん 陽に統べ、岳は侍中 孫騰 そんとう 等と京師に在りて政を輔く。元象二年、母憂に遭ひて職を去る。岳性至孝、力を盡くして色養し、母若し疾有らば、衣帶を解かず、喪に遭ふに及びては、哀毀骨立す、高祖深く之を憂ひ、每日人を遣はして勞勉す。尋ねて本任に起復す。二年、兼領軍將軍を除かる。興和の初め、世宗入りて朝政を總ぶるに、岳出でて使持節・ 都督 ととく ・冀州刺史と爲り、侍中・驃騎・開府儀同は故の如し。三年、青州刺史に轉ず。岳權に任ずること日久しく、素より朝野に畏服せられ、二藩と爲るに及びては、百姓風を望みて讋憚す。武定元年、 しん 州刺史・西南道大 都督 ととく を除かれ、綏邊の稱有り。時岳患に遇ふ、高祖令し幷に還り治療せしめ、疾瘳へ、復た職に赴かしむ。

高祖が崩御し、 侯景 こうけい が叛くと、世宗は高岳を幷州に召還し、共に侯景を討つ計略を図った。時に梁の武帝は隙に乗じて貞陽侯蕭明を遣わし、寒山に衆を率いさせ、泗水を擁して彭城を灌漑し、侯景と掎角の勢いで呼応させた。高岳は諸軍を総帥して南討し、行臺 慕容 ぼよう 紹宗 ぼようしょうしゅう らと共に蕭明を撃ち、大破して、陣中で蕭明とその大将胡貴孫を生け捕りにし、その他の捕虜や斬首は数万に及んだ。侯景は渦陽に衆を擁し、左衛将軍劉豊らと相対した。高岳は軍を返して追討し、またこれを破り、侯景は単騎で逃げ去った。天保六年、功により侍中・太尉に任じられ、その他の官は元のままとし、別に新昌県子に封ぜられた。また使持節・河南総管・大 都督 ととく に任じられ、慕容紹宗・劉豊らを統率して長社の 王思政 おうしせい を討った。思政は城に籠って自ら守り、高岳らは洧水を引いて城を灌漑した。紹宗と劉豊は思政に捕らえられ、関西が兵を出して思政を救援したが、高岳は内外を防禦し、謀略に長けていた。城は三板 (六尺) を残して水没しなかった。世宗が親征して来ると、数日で城は陥落し、思政らを捕らえた。功により別に真定県男に封ぜられたが、世宗はこれを己の功とし、故に賞典は盛大ではなかった。

世宗が崩御すると、顕祖 (文宣帝) は晋陽に出て鎮撫し、高岳に本官のまま尚書左僕射を兼ねさせ、京師に留まって鎮守させた。天保初年、清河郡王に進封され、まもなく使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・宗師・司州牧に任じられた。五年、太保を加えられた。梁の蕭繹が周軍に逼迫され、使者を遣わして危急を告げ、援軍を請うた。冬、詔により高岳を西南道大行臺とし、 司徒 しと 潘相楽らを統率して江陵を救援させた。六年正月、軍は義陽に駐屯したが、荊州が陥落したと聞き、そこで土地を攻略して南は郢州に至り、梁の州刺史 司徒 しと 陸法和を捕らえ、ついで郢州を陥落させた。高岳は先に陸法和を京師に送り、儀同慕容儼を遣わして郢城を占拠させた。朝廷は江陵陥落を知り、詔して高岳に軍を返させた。

高岳は寒山・長社を討ち、また随・陸に出撃して以来、いずれも功績があり、威名はますます重くなった。しかし性格は華美で奢侈を好み、特に酒色を悦び、歌姫舞女を並べ、鼎を陳列し鐘を打ち鳴らすこと、諸王の及ぶところではなかった。初め、高帰彦は幼くして孤児となり、高祖は高岳に養育させたが、高岳はその年少を軽んじ、情誼と礼遇は甚だ薄かった。帰彦は内心これを恨みながらも口には出さなかった。帰彦が領軍将軍となり、大いに寵遇を受けると、高岳はその恩を自分に施したものと思い、ますます頼りとした。帰彦は密かに高岳の短所をでっち上げた。高岳は城南に邸宅を建て、政庁の後に巷を開いた。帰彦は帝に奏上して言った。「清河王が邸宅を造営し、帝宮に僭越して模倣し、永巷の制を設けましたが、ただ闕門がないだけです。」顕祖はこれを聞いて高岳を憎み、次第に遠ざけた。折しも顕祖が鄴下の婦人薛氏を召し出して宮中に入れたが、高岳は先に彼女を邸宅に呼び寄せたことがあった。それは彼女の姉であったからである。帝は薛氏の姉を吊るして鋸で殺し、高岳を責めて民の女を姦したとした。高岳は言った。「臣は本来彼女を娶ろうと思いましたが、その軽薄さを嫌って用いませんでした。姦したのではありません。」帝はますます怒った。六年十一月、高帰彦を邸宅に遣わして厳しく責めさせた。高岳は憂い恐れてなすべきことを知らず、数日で薨去した。故に当時の論議は紛然として、毒を賜わったものとされた。朝野は嘆き惜しんだ。時に四十四歳。詔して大鴻臚に喪事を監護させ、使持節・ 都督 ととく 冀定滄瀛趙幽済七州諸軍事・太宰・太傅・定州刺史を追贈し、黄鉞を仮され、轀輬車を与えられ、賻物二千段を賜り、諡して昭武といった。

初め、高岳は高祖と共に天下を経営し、家に私兵を持ち、武器を蓄え、鎧千余領を貯蔵していた。世宗の末年、高岳は天下に事が無いとして、上表してこれを納めるよう求めた。世宗は至親の重みを重んじ、心を推して信頼し、言った。「叔父は肺腑の親として、職は城を守るにあり、所有する鎧は本来国家の用に供するものである。叔父は何を疑って納めようとするのか。」文宣帝の世にも、頻りに納めるよう請うたが、また固く許さなかった。将に薨ぜんとするに及んで、遺表して恩に謝し、併せて武庫に甲冑を上納することを請うた。ここに葬儀が終わって初めて、納めることを許されたのである。皇建年間、世宗の廟庭に配享された。後に高帰彦が反逆すると、世祖 (孝昭帝) はその以前の讒言を知り、言った。「清河王は忠烈にして、皇家に力を尽くしたのに、帰彦はこれを誹謗し、我が骨肉を離間させた。」帰彦の財産を没収し、良賤百口を高岳の家に賜った。後また高岳の功を思い、重ねて太師・太保を追贈し、その他の官は元の通りとした。子の高勱が後を嗣いだ。

子 勱

高勱、字は敬徳、幼少より聡明で早く成長し、顕祖に愛された。七歳の時、皇太子に侍らせた。後に青州刺史に任じられ、拝命の日、顕祖は戒めて言った。「叔父 (高岳) が以前青州を治めた時、多くの遺徳があった。故にお前を遣わしてそこの民衆を慰めるのだ。よく心を用い、名声と実績を損なうことのないようにせよ。」高勱は涙を流して答えて言った。「臣は幼少の身でありながら、濫りに抜擢を頂きました。たとえ凡庸な才能を尽くしても、先人の政績を辱めることを恐れます。」帝は言った。「お前が既にこのような言葉を言えるなら、私は心配しない。」まもなく武衛将軍・領軍・祠部尚書・開府儀同三司を追って授けられた。清河の地が畿内にあるため、楽安王に改封された。侍中・尚書右僕射に転じ、朔州行臺僕射として出向した。

後主が晋州で敗れた後、太后は土門道から京師に還られたが、高勱に兵馬を統領させ、太后を侍衛させた。当時、佞幸の宦官たちがなおも暴虐を行い、民間の鶏や豚をことごとく放し鷹や犬に襲わせて奪い取っていた。高勱は儀同三司の茍子溢を捕らえて軍中に示し、大いに誅戮しようとした。太后の命令があって、その後釈放した。劉文殊が密かに高勱に言った。「子溢の徒は、言葉で禍福を成すことができる。どうしてこのようにすることができようか。後世の誹謗を慮らないのか。」高勱は袖をまくって文殊に語った。「献武皇帝 (高歓) 以来、士卒を撫養し、政を親賢に委ね、武を用いて師を行い、敗北したことはなかった。今、西寇 (北周軍) は既に幷州に至り、高官の多くはことごとく委ねて叛いている。正にこの輩が専政して権を弄んだために、内外が心を離し、士大夫が解体したのである。もし今日この兵卒を斬り、明日誅殺されても、何の恨みもない。王 (劉文殊) は国家の姻戚として、同じく悪を憎むべきであるのに、返ってこのような言葉を言うとは、どうして望むところだろうか。」太后が鄴に還られると、周軍が続いて到来し、人々は皆恐れおののき、戦う心がなく、朝士が降伏して出る者が昼夜絶え間なかった。高勱はそこで後主に奏上して言った。「今、翻って叛く者は、多くは貴人であり、兵卒に至っては、まだ離反していません。五品以上の家属を追い集め、三台に置き、彼らに約束して言いましょう。『もし戦いに勝たなければ、直ちに退いて台を焼く』と。この連中は妻子を顧み惜しむから、必ず死戦するでしょう。かつ王師は頻りに敗北し、賊徒は我々を軽んじています。今、城を背にして一決すれば、理の上から必ずこれを破ることができます。これもまた計略の上策です。」後主はついに用いなかった。北斉が滅んで北周に入り、例に従って開府儀同三司を授けられた。隋朝では楊州・楚州・ 光州 こうしゅう ・洮州の四州刺史を歴任した。開皇年間に卒去した。

【評賛】

史臣が曰く。『易経』に言う。「天地の盈虚は、時に随って消息し、況んや人においてをや。」蓋し通塞には期があり、盛衰は道に適うものである。挙世が治を思えば、則ち仁を顕わしてこれに応じ、小人の道が長ずれば、則ち倹徳をもってこれを避ける。もし博陸侯 (霍光) のような図りを負い、藩屏の地に処りながら、国を迷わし難を避けようとするなら、どうしてそれが得られようか。趙郡王 (高叡) は萼と花托のような親として、顧命の重責に当たり、高く揖して退けば宗廟社稷は危うく、悪を去れば人神ともに安泰である。ここに一徳を安んじ、この貞心を同じくし、畏るべき途を踏んで疑わず、危機を履んで懼れなかった。この忠義をもって、凶悪な者 (婁定遠・和士開ら) に斃れることを得た。豈に四海を照らす道が、周の成王の明に遇わなかったというのか。あるいは殷の朝から三仁 (微子・箕子・比干) が去ったように、終に殷墟の禍を見るに至ったのか。そうでなければ、邦国が困窮するに、どうして影と響きの如く速やかなことがあろうか。清河王 (高岳) は天下経営の機会に属し、自ら青雲に至り、将として出で相として入り、大業を助成した。漢朝の劉賈、魏室の曹洪と雖も、その高下を論ずるに足りない。天保の世は時ならず、悔いと咎が生じ易く、固よりその風烈を掩うことはできないが、ただ顕祖の失徳を顕わにしただけである。

原本を確認する(ウィキソース):北齊書 巻013