北齊書

卷十補列傳第二 高祖十一王

永安簡平王

永安簡平王高浚、字は定楽、神武帝 (高歓) の第三子である。初め、神武帝が浚の母を娶った際、その月に懐妊し、浚を産んだ時、己が子でないかと疑い、甚だ愛さなかった。しかし浚は早くから聡明で、後に寵愛を受けるようになった。八歳の時、博士の盧景裕に問うて曰く、「『祭神如神在』とは、神がいるのか、いないのか」と。対えて曰く、「いる」と。浚曰く、「神がいるならば、祭神神在と云うべきで、何ぞ煩わして『如』の字を用いるのか」と。景裕は答えることができなかった。成長すると、遊戯に節度なく、かつて官属に請託して賄賂を受け取り、大いに杖罰を受け、府獄に拘禁されたが、やがて赦された。後に次第に行いを改め、頗る読書を務めとした。

元象年間、永安郡公に封ぜられる。豪爽にして気力あり、騎射を善くし、 文襄 ぶんじょう 高澄 こうちょう に愛された。 文宣 ぶんせん 高洋 こうよう の性質は柔弱で、文襄帝に参謁する毎に、時に涕を流した。浚は常に帝の側近を責め、何故二兄の鼻を拭わないのかと、これにより帝の恨みを買う。累遷して 中書監 ちゅうしょかん ・兼侍中となる。出て青州刺史となり、頗る狩猟を好んだが、聡明で思いやりがあり、上下畏れ悦んだ。天保初年、爵を進めて王となる。文宣帝の末年は酒に耽り、浚は親しい者に謂いて曰く、「二兄は元来甚だ明瞭でなく、即位して以来、識見が頓に進んだ。今、酒によって徳を損ない、朝臣に敢えて諫める者なし。大敵未だ滅びず、吾は甚だ憂いと為す。駅伝に乗って ぎょう に至り面諫せんと欲するが、吾を用いるか知らぬ」と。これを知る者がおり、密かに帝に告げ、また恨みを買う。八年、朝覲し、帝に従って東山に幸す。帝は裸体で楽しみ、婦女を交え、また狐掉尾の戯れを為す。浚は進みて言う、これは人主の為すべきに非ずと。帝は甚だ悦ばず。浚はまた屏所で楊遵彦を召し、その不諫を譏る。帝は当時、大臣と諸王の交際を欲せず、遵彦は恐れて奏上す。帝は大怒して曰く、「小人は由來忍び難し」と。遂に酒宴を罷め宮に還る。浚は間もなく州に還り、また上書して切に諫む。詔して浚を徴するを命ず。浚は禍を懼れ、病と称して至らず。上怒り、駅伝を馳せて浚を収め、老幼泣いて送る者数千人。至ると、鉄籠に盛り、上党王高渙と共に北城の地牢の下に置き、飲食と便穢を同じ所に共にす。明年、帝自ら左右を率いて穴の前に臨み歌謡し、浚に和するを命ず。浚らは惶怖し且つ悲しみ、声の戦うを知らず。帝は愴然と為し、因りて泣き、赦さんとす。長広王 高湛 こうたん は先に浚と睦まず、進みて曰く、「猛獣どうして穴より出で得ようか」と。帝は黙然たり。浚らこれを聞き、長広王の小字を呼んで曰く、「歩落稽、皇天汝を見る」と。左右聞く者、悲しまざるはなし。浚と渙は皆雄略あり、諸王に傾服せられ、帝は害を為すを恐れ、乃ち自ら渙を刺し、また壮士の劉桃枝をして籠に就き乱れ刺さしむ。槊の下る毎に、浚・渙は輒ち手を以て引き折り、号哭して天を呼ぶ。ここに薪火を乱れ投じ、焼き殺し、石土を以て填む。後に出だすと、皮髪皆尽き、屍の色炭の如し、天下これが為に痛心す。

後に帝はその妃陸氏を儀同の劉郁捷に配す。郁捷は旧帝の蒼頭にして、軍功により用いられ、時に郁捷に浚を害せしめた故、以て配す。後数日、帝は陸氏が先に浚に寵愛されなかったことを以て、勅して離絶せしむ。乾明元年、太尉を贈られる。子なく、詔して 彭城王 ほうじょうおう 高浟の第二子高準を嗣がしむ。

平陽靖翼王

平陽靖翼王高淹、字は子邃、神武帝の第四子である。元象年間、平陽郡公に封ぜられ、累遷して尚書左僕射となる。天保初年、爵を進めて王となり、歴任して 尚書令 しょうしょれい ・開府儀同三司・ 司空 しくう ・太尉となる。皇建初年、太傅となり、彭城王・河間王と並び仗衛・ 羽林 うりん 百人を給せられる。大寧元年、太宰に遷る。性質沈み謹み、寛厚を以て称せらる。河清三年、晋陽にて薨ず。或いは云う、毒殺に終わると。還って鄴に葬られ、仮黄鉞・太宰・録尚書事を贈られる。子の徳素が嗣ぐ。

彭城景思王

彭城景思王高浟、字は子深、神武帝の第五子である。元象二年、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に拝され、長楽郡公に封ぜられる。博士の韓毅が浟に書を教え、浟の筆跡未だ巧みならざるを見て、戯れて浟に曰く、「五郎の書画この如し、忽ち常侍となり国を開く、今日以後宜しく更に心を用うべし」と。浟は正色して答えて曰く、「昔、甘羅幼くして秦の相と為り、能く書くを聞かず。凡人唯だ才具の何如を ずるのみ、豈に必ずしも動もて筆跡を誇らんや。博士は当今の能者なり、何を為して三公と作らざる」と。時に年 けだ し八歳なり。毅は甚だ慚じる。

武定六年、出でて滄州刺史となり、政務厳しく明察にして、管内粛然たり。守令・参佐より下は胥吏に至るまで、行遊往来するも、皆自ら糧食を賚う。浟は微細なことまで人間の事を知る。湿沃県の主簿張達が嘗て州に詣で、夜に人の舎に投じ、鶏羹を食す。浟はこれを察知す。守令畢く集まり、浟は衆に対し曰く、「鶏羹を食して何ぞ価直を還さざる」と。達は即ち罪に伏す。合境神明と号す。また一人幽州より来たり、驢に鹿脯を馱す。滄州界に至り、脚痛く行き遅し、偶々一人と会いて伴と為り、遂に驢及び脯を盗み去る。明旦、州に告ぐ。浟は乃ち左右及び府僚吏をして分かち鹿脯を市わしめ、その価を限らず。その主、脯を見てこれを識り、推して盗人を獲る。転じて 都督 ととく ・定州刺史となる。時に人あり、黒牛を盗まれ、背に白毛あり。長史の韋道建、中従事の魏道勝に謂いて曰く、「使君が滄州におられた時、姦を擒えること神の如し、若し此の賊を捉え得ば、定めて神なり」と。浟は乃ち上府に牛皮を市うと詐り、価直を倍酬し、牛の主にこれを認めしめ、因りてその盗人を獲る。建ら歎服す。また老母姓は王、孤独にして、菜三畝を種え、数え被り盗まる。浟は乃ち人をして密かに往きて菜の葉に字を書かしめ、明日市中にて菜の葉に字あるを見しめ、賊を獲る。爾後境内盗賊無く、政化は当時第一となる。

天保初年、彭城王に封ぜられる。四年、徴されて侍中となり、人吏送別に悲号す。老公数百人相率いて具に饌をして曰く、「殿下の来られてより五載、人は吏を識らず、吏は人を欺かず、百姓識る有りて以来、始めて今の化に逢う。殿下は唯だ此の郷の水を飲み、未だ此の郷の食を食さず、聊か疏薄を献ず」と。浟はその意を重んじ、一口食す。七年、転じて司州牧となり、従事を選ぶに皆文才の士で明らかに剖断する者を取り、当時美選と称せらる。州の旧案五百余り、浟は期せずして悉く断じ尽くす。別駕の羊脩らは権威ある外戚に犯すを恐れ、乃ち閤に詣で諮陳す。浟は告げしめて曰く、「吾は直道を行く、何ぞ権戚を憚らん、卿らは当に人の美を成すべく、反って権戚を以て言と為す」と。脩ら慚悚して退く。後に特進を加えられ、兼ねて 司空 しくう ・太尉、州牧は元の如し。太妃薨じ、任を解かる。尋いで詔して本官に復す。俄かに 司空 しくう を拝し、兼ねて 尚書令 しょうしょれい となる。済南王 (高殷) 嗣位し、開府儀同三司・ 尚書令 しょうしょれい ・領大宗正卿を除く。皇建初年、大司馬を拝し、兼ねて 尚書令 しょうしょれい 、転じて太保となる。武成帝 (高湛) 大業を承け入り、太師・録尚書事に遷る。浟は世務に明練にして、断決に果敢、事の大小無く、咸く悉く情実を以てす。趙郡の李公統は高帰彦の逆に預かり、その母崔氏は即ち御史中丞崔昂の従父子、兼ねて右僕射魏收の内妹なり。令に依れば、年六十を出でば、例として官に入るを免る。崔は年を増して陳訴し、所司は昂・收の故を以て、崔遂に免るるを得たり。浟は其の事を摘発し、昂らは罪を以て除名せらる。

天子の行幸に従い、高浟は常に鄴に留まった。河清三年三月、群盗の田子礼ら数十人が高浟を主君として劫掠せんと謀り、使者を詐称して、直ちに高浟の邸宅に向かい、内室に至り、勅命と称して高浟を馬上に牽き上げ、白刃を臨めて脅し、南殿へ引き連れようとした。高浟は大声で叫び従わず、遂に害され、時に三十二歳、朝廷と民間は痛惜した。初め高浟が劫掠される前、その妃鄭氏は人が高浟の首を斬り持って去る夢を見、これを悪しきこととし、数日にして高浟は殺された。仮黄鉞・太師・太尉・録尚書事を追贈され、轀輬車を給された。子の高宝德が嗣ぎ、開府・兼尚書左僕射の位に至った。

上党剛粛王

上党剛粛王高渙、字は敬寿、神武帝の第七子である。天資は雄傑にして、俶儻として群を抜き、童幼の時より常に将略を以て自ら任じた。神武帝はその壮健さを愛し、「この児は我に似ている」と言った。成長すると、力は鼎を扛ぐことができ、武材は絶倫であった。常に左右に言うには、「人は学無くしてはならぬが、ただ博士になる必要はない」と。故に読書して大略を知るが、甚だ耽習することはなかった。

元象年間、平原郡公に封ぜられた。文襄帝が賊に遇した時、高渙は年尚幼く、西学に在り、宮中の騒ぎを聞き、驚いて「長兄必ず難に遭われた」と言い、弓を引き絞って出た。武定末、冀州刺史に除せられ、州において美政があった。天保初、上党王に封ぜられ、中書令・尚書左僕射を歴任した。常山王 高演 こうえん らと共に伐悪諸城を築いた。遂に鄴下の軽薄の徒を集め、郡県を凌犯し、法司に糾弾された。文宣帝はその左右数人を誅戮し、高渙も譴責を受けた。六年、衆を率いて梁王蕭明を江南に送還し、東関を破り、梁の特進裴之横らを斬り、威名甚だ盛んであった。八年、録尚書事となった。

初め、術士が「高氏を亡ぼす者は黑衣なり」と言ったため、神武帝以後、行幸の度に沙門を見ることを好まず、黑衣の故であった。時に文宣帝は晋陽に行幸し、忌むところを左右に問うて「何物が最も黒いか」と。答えて「漆に過ぎるものはありません」と言う。帝は高渙が第七子であることを以てこれに当たるとし、庫真 都督 ととく の破六韓伯昇をして鄴に遣わし高渙を徴させた。高渙は 紫陌 しはく 橋に至り、伯昇を殺して逃れ、河に憑りて渡らんとしたが、土人に捕らえられて帝に送られた。鉄籠に盛り、永安王高浚と共に地牢の下に置かれた。歳余りして、高浚と共に殺され、時に二十六歳。その妃李氏を馮文洛に配した。これは帝の家の旧奴で、積労して刺史の位に至り、帝は文洛らに高渙を殺させたので、その妻を妻とさせたのである。

乾明元年に至り、二王の残骨を収めて葬り、 司空 しくう を追贈し、諡して剛粛といった。勅して李氏を邸に還らせた。しかし文洛は尚も旧縁を以て、身を飾り李を訪ねた。李は左右を盛大に列べ、文洛を階下に立たせて責めて言うには、「難に遭い流離し、大辱に至り、志操寡薄にして自ら尽くす能わず、幸いに恩詔を蒙り、藩闈に帰るを得た。汝は誰が家の何奴ぞ、尚も侮られんと欲するか」と。ここにおいて杖一百を加え、流血地に灑いだ。高渙に嫡子無く、庶長子の高宝厳が河清二年に爵を襲ぎ、金紫光禄大夫・開府儀同三司の位に至った。

襄城景王

襄城景王高淯、神武帝の第八子である。容貌甚だ美しく、弱年にして器量声望があった。元象年間、章武郡公に封ぜられた。天保初、襄城郡王に封ぜられた。二年春、薨去した。斉氏の諸王が国臣・府佐を選ぶに、多くは富商の群小や鷹犬の少年を取ったが、唯だ襄城王・広寧王・蘭陵王らは文芸清識の士を頗る引き入れ、当時これをもって称えられた。乾明元年二月、仮黄鉞・太師・太尉・録尚書事を追贈された。子無く、詔して常山王高演の第二子高亮を嗣がせた。

高亮、字は彦道、性恭孝にして、風儀美しく、文学を好んだ。徐州刺史となり、商人の財物を奪った罪で免官された。後主が敗走して鄴に奔った時、高亮はこれに従い、兼太尉・太傅に遷った。周軍が鄴に入ると、高亮は啓夏門で拒守した。諸軍は皆戦わずして敗れ、周軍は諸城門より皆入り、高亮の軍は方に退走した。高亮は太廟の行馬内に入り、慟哭して拝辞し、然る後に周軍に捕らえられた。関中に入り、例に依り儀同を授けられ、遠辺に分配され、龍州にて卒した。

任城王

任城王高湝、神武帝の第十子なり、少より明慧であった。天保初に封ぜられた。孝昭帝・武成帝の時より、車駕が鄴に還るに当たり、常に高湝をして晋陽を鎮守せしめ、幷省の事を総べさせ、 司徒 しと ・太尉・幷省録尚書事を歴任した。天統三年、太保・ 幷州 へいしゅう 刺史に拝され、別に正平郡公に封ぜられた。時に婦人が汾水に臨みて衣を浣うており、乗馬の人がその新靴を換えて馳せ去る者あり、婦人は故靴を持ち、州に至りこれを言上した。高湝は城外の諸嫗を召し、靴を示して欺いて言うには、「乗馬の人が路上で賊に劫掠され害され、この靴を遺した。親族ではあるまいか」と。一嫗が胸を撫でて哭して言うには、「児が昨日この靴を履いて妻の家に向かった」と。その言葉の如く、捕獲した。時に明察と称された。武平初、太師・司州牧に遷り、出でて冀州刺史となり、太宰を加えられ、右丞相・ 都督 ととく ・青州刺史に遷った。高湝は頻りに大藩を牧し、己を潔くせざるも、然れども寛恕をもって吏人に懐かれた。五年、青州の崔蔚波らが夜州城を襲撃した。高湝の部署は倉卒の際にも、皆整然とし、賊を撃ちて大破した。左丞相に拝され、瀛州刺史に転じた。後主が鄴に奔った時、高湝に大丞相を加えた。

安德王が晋陽で尊号を称した時、劉子昂をして高湝に啓を修めさせた。「至尊出奔し、宗廟既に重く、群公勧迫し、権りに号令を主とし、事寧ぎて終に叔父に帰す」と。高湝は言う、「我は人臣なり、何ぞこの啓を受くべけん」と。子昂を執って鄴に送った。帝が済州に至り、高湝に禅位したが、啓は遂に達せず。高湝は広寧王高孝珩と冀州において募りて四万余りを得、周軍に拒んだ。周の斉王宇文憲が来伐し、先ず書を送り赦詔を併せたが、高湝は皆これを井戸に沈めた。戦いに敗れ、高湝・高孝珩は共に擒えられた。憲が言う、「任城王何ぞ苦しんでここに至ったか」と。高湝は言う、「下官は神武帝の子、兄弟十五人、幸いに独り存し、宗社の顛覆に逢い、今日死を得て、墳陵に愧じず」と。憲はこれを壮とし、その妻子を帰した。 鄴城 ぎょうじょう に至らんとする時、高湝は馬上にて大哭し、自ら地に投じ、流血満面となった。長安に至り、尋ねて後主と共に死した。

妃盧氏は斛斯徴に賜わり、蓬頭垢面、長斎して言笑せず。徴がこれを放つと、乃ち尼となった。隋の開皇三年、文帝に表して高湝及び五子を長安北原に葬ることを請うた。

高陽康穆王

高陽康穆王高湜、神武帝の第十一子なり。天保元年に封ぜられた。十年、稍々遷って 尚書令 しょうしょれい となった。滑稽便辟をもって、文宣帝に寵愛され、常に左右に在り、杖を行って諸王を撻った。太后は深くこれを恨んだ。その妃の父である護軍長史張晏之が嘗て道中で高湜を拝しようとしたが、高湜は礼をしなかった。帝がその故を問うと、答えて「官職無き漢、何ぞ礼を須いん」と。帝はここにおいて晏之を抜擢して徐州刺史に拝した。文宣帝崩御の時、 司徒 しと を兼ね、梓宮を導引し、笛を吹き、「至尊は頗る臣を知り給うか」と言い、又胡鼓を撃って楽しんだ。太后は高湜を百余り杖ち、未幾にして薨じた。太后はこれを哀哭し、「我は其の成就せざるを恐れ、杖を与えたるに、何ぞ期せんや創を帯びて死せんとは」と言った。乾明初、仮黄鉞・太師・ 司徒 しと ・録尚書事を追贈された。子の高士義が爵を襲いだ。

博陵文簡王

博陵文簡王高済は、神武帝 (高歓) の第十二子である。天保元年 (550年) に封ぜられた。高済はかつて文宣帝 (高洋) に従って巡幸した際、道中に突然、太后 婁昭君 ろうしょうくん を思い出し、逃げ帰った。帝は怒り、白刃を臨めて脅したため、高済はこれにより驚き恍惚となった。太尉の位を歴任した。河清年間 (562–565年) の初め、出向して定州刺史となった。天統五年 (569年) 、州において人に語って云う、「順番からすれば次は我に及ぶはずである」と。後主 高緯 こうい はこれを聞き、密かに人を遣わして彼を殺させた。仮黄鉞・太尉・録尚書事を追贈された。子の高智が爵を襲い継いだ。

華山王

華山王高凝は、神武帝の第十三子である。天保元年、新平郡王に封ぜられ、九年 (558年) に安定王に改封、十年 (559年) に華山王に封ぜられた。中書令・齊州刺史の位を歴任し、就任中に太傅を加えられた。州において薨去し、左丞相・太師・録尚書を追贈された。高凝は諸王の中で最も懦弱であり、妃の王氏は太子洗馬王洽の娘であったが、下僕と姦通し、高凝は知りながらも制止できなかった。後に事が発覚し、王氏は死を賜り、詔により高凝は百回の杖刑に処せられた。その愚かさはこのようなものであった。

馮翊王

馮翊王高潤は、字を子澤といい、神武帝の第十四子である。幼少の時、神武帝は彼を評して「これは我が家の千里駒なり」と言った。天保初年に封ぜられた。東北道大行臺・右僕射・ 都督 ととく ・定州刺史の位を歴任した。高潤は姿形が美しく、十四、五歳の時、母の鄭妃と同衾し、穢らわしい雑音があった。成長すると、廉潔で慎み深く方正高雅であり、吏務に習熟し、隠れた偽りを摘発することに至っては、姦吏もその実情を隠しおおせなかった。開府の王迴洛と六州大 都督 ととく の獨孤枝が官田を侵奪窃取し、賄賂を受け取ったので、高潤はその事を糾弾した。二人が上表して言うには、「馮翊王は臺使を見送りに出て、魏の文帝 (曹丕) の旧壇に登り、南を望んで嘆息し、その意図は測りがたい」と。武成帝 (高湛) は元文遙を遣わして州に赴かせて勅を宣べさせた、「馮翊王は幼少より謹慎であり、州にあって非法を行わず、朕は彼をよく信じている。高みに登って遠くを望むは、人の常情である。鼠輩どもが勝手に離間を図り、眉目を曲げて事を捏造しようとするのか」と。ここにおいて王迴洛は鞭二百回、獨孤枝は杖一百回の決罰を受けた。まもなく 尚書令 しょうしょれい となり、太子少師を兼ね、 司徒 しと ・太尉・大司馬・司州牧・太保・河南道行台・録尚書を歴任し、別に文成郡公に封ぜられ、太師・太宰となり、再び定州刺史となった。薨去し、仮黄鉞・左丞相を追贈された。子の高茂德が後を嗣いだ。

漢陽敬懷王

漢陽敬懷王高洽は、字を敬延といい、神武帝の第十五子である。天保元年に封ぜられた。五年 (554年) に薨去し、十三歳であった。乾明元年 (560年) 、太保・ 司空 しくう を追贈された。子がなく、任城王 (高湝) の第二子高建德を後嗣とした。

原本を確認する(ウィキソース):北齊書 巻010