神武婁后
神武明皇后婁氏、諱は昭君、 司徒 を追贈された内干の女なり。幼少より明らかに悟り、強き族多くこれを聘うも、並びに肯へて行かず。城上にて神武が役を執るを見て、驚きて曰く「此れ真に吾が夫なり」と。乃ち婢を使はして意を通じ、又た数たび私財を致し、以て己を聘はしめ、父母已むを得ずして許す。神武既に天下を澄清せんとする志有り、産を傾けて英豪を結び、密謀秘策、后常に参預す。 渤海 王妃に拝せらるるに及び、閫闈の事悉く之に決す。
后は高明にして厳断、雅に儉約に遵ひ、外舎に往来するも、侍従十人を過ぎず。性寛厚にして、嫉妬せず、神武の姬侍、咸く恩を加へて待遇す。神武嘗て西討に出師せんとし、后夜に一男一女を孿生す。左右危急を以てし、追ひて神武に告げんことを請ふ。后聴かずして曰く「王出でて大兵を統ぶ、何ぞ我が故を以て軽く軍幕を離れん。死生命なり、復た来りて何を為さん」と。神武之を聞き、嗟歎すること久し。沙苑敗後のち、 侯景 屡ひて精騎二万を請ひ、必ず能く之を取らんことを言ふ。神武悦び、以て后に告ぐ。后曰く「若し其の言の如くならば、豈に還る理有らん、獺を得て景を失ふ、亦た何の利か有らん」と。乃ち止む。神武茹茹に逼られ、其の女を娶らんと欲して未だ決せず。后曰く「国家の大計、願くは疑ふこと無かれ」と。茹茹公主の至るに及び、后は正室を避けて之に処す。神武愧ぢて拝謝し、曰く「彼将に覚ゆる有らん、願くは絶えて顧みること無かれ」と。諸子を慈愛すること、己が出づるに異ならず、躬自ら紡績し、人に一袍一袴を賜ふ。手づから戎服を縫ひ、以て左右を帥ふ。弟の昭は、功名を以て自ら達し、其の餘の親属、未だ嘗て爵位を請はざりき。毎に言ふ、材有れば当に用ふべし、義を以て私を以て公を乱さずと。 文襄 嗣位し、進みて太妃と為る。 文宣 将に魏の禅を受けんとす、后固執して許さず、帝是に由りて中止す。天保初、尊びて皇太后と為し、宮を宣訓と曰ふ。濟南即位し、尊びて太皇太后と為す。 尚書令 楊愔等遺詔を受けて政を輔け、諸王を疏忌す。太皇太后密かに孝昭及び諸大将と策を定めて之を誅し、令を下して廃立す。孝昭即位し、復た皇太后と為る。孝昭帝崩じ、太后又た詔を下して武成帝を立てしむ。大寧二年春、太后疾に臥し、衣忽ち自ら挙がる。巫媼の言を用ひて姓を石氏に改む。四月辛丑、北宮に崩ず、時に年六十二。五月甲申、義平陵に合葬す。
太后凡そ六男二女を孕む、皆夢に感ず:文襄を孕めば則ち一つの断龍を夢み、文宣を孕めば則ち大龍を夢み、首尾天地に属し、口を張り目を動かし、勢状人を驚かす。孝昭を孕めば則ち地に蠕龍するを夢み、武成を孕めば則ち海に龍浴するを夢み、魏の二后を孕めば並びに月の懐に入るを夢み、襄城・博陵の二王を孕めば鼠の衣の下に入るを夢む。后未だ崩ぜざるに、童謡有りて曰く「九龍母死して孝を作さず」と。后の崩ずるに及び、武成服を改めず、緋袍故の如し。未だ幾もなく、三臺に登り、酒を置きて楽を作す。帝の女白袍を進む、帝怒り、之を臺下に投ず。和士開楽を止めんことを請ふ、帝大いに怒り、之を撻つ。帝は昆季の次実に九なり、 蓋 し其の徴験なるべし。
文襄元后
文襄敬皇后元氏、魏の孝靜帝の姉なり。孝武帝の時、馮翊公主に封ぜられて文襄に帰す。容徳兼ねて美しく、曲く和敬を尽くす。初めて河間王孝琬を生む、時に文襄世子たり、三日にして孝靜帝世子の第に幸し、錦彩及び布帛一万匹を贈る。世子辞し、諸貴の礼遺を通じて受けんことを求め、是に於て十屋皆満つ。次いで両公主を生む。文宣禅を受け、尊びて文襄皇后と為し、静徳宮に居る。天保六年に及び、文宣漸く昏狂に致り、乃ち高陽の宅に移り居しめ、而して其の府庫を取り、曰く「吾が兄昔我が婦を奸す、我今須く報ゆべし」と。乃ち后に淫す。其の高氏の女婦親疏無く、皆左右をして前において乱交せしむ。葛を以て絙と為し、魏の安德主に騎上せしめ、人をして推引せしめ、又た胡人をして苦辱せしむ。帝又た自ら呈露し、以て群下に示す。武平中、后崩じ、義平陵に祔葬す。
文宣李后
文宣皇后李氏、諱は祖娥、趙郡李希宗の女なり。容徳甚だ美し。初め太原公夫人と為る。帝将に中宮を建てんとす、高隆之・高德正漢婦人は天下の母と為すべからず、宜しく更に美配を択ぶべしと言ふ。楊愔固く漢・魏の故事に依り、元妃を改めざることを請ふ。而して徳正猶ほ固く后を廃し段昭儀を立て、以て勲貴の援を結ばんと欲す。帝竟に従はずして后を立てしむ。帝は嬪御を 捶 撻するを好み、乃ち殺戮する者有るに至るも、唯だ后のみ礼敬を蒙る。天保十年、可賀敦皇后と改む。孝昭即位し、降りて昭信宮に居り、号して昭信皇后と曰ふ。武成践祚し、后を逼りて淫乱せしめ、云く「若し許さずば、我当に爾が児を殺さん」と。后懼れて之に従ふ。後に娠み有り、太原王紹德閣に至るも、見るを得ず、慍りて曰く「児豈に知らざらんや、姉姉腹大なるを以て、故に児を見ざるなり」と。后之を聞き、大いに慚じ、是に由りて女を生みて挙げず。帝横刀して詬りて曰く「爾我が女を殺す、我何ぞ爾が児を殺さざらん」と。后の前に対して紹德を築き殺す。后大いに哭き、帝愈よ怒り、后を裸にして乱れ撾ち撻ち、天に号して已まず。絹囊を以て盛り、流血淋漉、之を渠水に投ず、良久にして乃ち蘇り、犢車に載せて妙勝尼寺に送る。后は性佛法を愛し、此に因りて尼と為る。齊亡びて関に入る。隋時に至り趙郡に還るを得。
孝昭元后
孝昭皇后元氏、開府元蠻の女なり。初め常山王妃と為る。天保末、姓を歩六孤と賜ふ。孝昭即位し、立てて皇后と為す。帝崩じ、梓宮 鄴 に之く。始めて汾橋を渡る、武成后に奇薬有るを聞き、追ひて之を索むるも得ず、閹人をして車に就き頓辱せしむ。降りて順成宮に居る。武成既に楽陵王を殺し、元は閟隔せられ、家と相知るを得ず。宮闈内忽ち飛語有り、帝令して検推せしむ、后の父兄の書信を得、元蠻是に由りて坐して官を免ぜらる。後齊亡びて周氏の宮中に入る。隋文帝相と作る、山東に放還す。
武成胡后
武成皇后胡氏は、安定の胡延の娘である。その母は范陽の盧道約の娘で、初めて懐妊した時、胡僧が門を訪れて言うには、「この宅の瓠蘆の中に月あり」と。既にして后を生んだ。天保の初め、長広王の妃に選ばれた。後主を産んだ日、号泣する声が産帳の上にあった。武成が崩じると、皇太后として尊ばれ、陸媼及び和士開が密かに謀って趙郡王高叡を殺し、婁定遠・高文遙を刺史として出させた。和・陸は太后に諂い事えて、至らざる所なし。初め武成の時、后は諸閹人と褻狎した。武成は和士開を寵倖し、毎に后と握槊し、これによって后と姦通した。武成が崩じて後、数え出て仏寺に詣で、また沙門の曇献と通じた。金銭を献の席の下に布き、また宝装の胡床を献の屋壁に掛けたが、これは武成が平生用いていたものである。乃ち百僧を内殿に置き、聴講を託して、日夜曇献と寝処した。献を昭玄統とした。僧徒は遥かに太后を指して曇献を弄び、乃至これをもって太上と謂うに至った。帝は太后の不謹を聞いたが未だこれを信ぜず、後に太后に朝し、二少尼を見て、悦んでこれを召すと、乃ち男子であった。ここにおいて曇献の事も発覚し、皆伏法し、併せて元・山・王の三郡君を殺したが、皆太后の昵近した者である。帝は晋陽より太后を奉じて鄴に還り、 紫陌 に至り、卒然に大風に遇う。舍人の魏僧伽は風角に明るく、奏言して即時に暴逆の事有るべしと。帝は詐って鄴中に急ありと云い、弓を彎げ槊を緾え、馳せて南城に入り、鄧長顒に命じて太后を北宮に幽閉し、仍って勅して内外の諸親、一に太后と相見することを得ざらしむ。久しくして、帝は復た太后を迎えた。太后は初め使者の至るを聞き、大いに驚き、不測の有るを慮る。毎に太后が食を設けると、帝も敢えて嘗めず。周の使の元偉が来聘し、『述行賦』を作り、鄭荘公が段を克ちて姜氏を遷したことを叙す。文は工ならざれども、当時深く以て愧じと為す。齊の滅亡後、周に入り、恣に姦穢を行った。隋の開皇年中に 殂 す。
後主斛律后
後主の皇后斛律氏は、左丞相斛律光の娘である。初め皇太子妃となった。後主が禅を受け、立って皇后と為る。武平三年正月、女児を生んだ。帝は光を悦ばせんと欲し、詐って男子を生んだと称し、このために大赦を行った。光が誅せられると、后は別宮に廃され、後に尼と為すことを命ぜられた。齊が滅び、開府元仁の妻に嫁ぐ。
後主胡后
後主の皇后胡氏は、隴東王胡長仁の娘である。胡太后が母儀の道を失い、深く以て愧じ、後主を悦ばせんと欲した故に、后を宮中に飾り、帝に見せしめた。帝は果たして悦び、弘徳夫人に立て、左昭儀に進め、大いに寵愛された。斛律后が廃されると、陸媼は穆夫人を以てこれに代えんと欲したが、太后は許さず。祖孝徴が胡昭儀を立てんことを請うたので、遂に登って皇后と為る。陸媼は既に勧めて立てたるに非ず、又意は穆夫人に在り、その後太后の前に於いて色を作して言うには、「何たる親侄女ぞ、かくの如き言語を作すや!」と。太后は何の言有るかと問うと、曰く「道うべからず」と。固くこれを問うと、乃ち曰く「語に大家に云う、太后の行い多く法に非ず、以て訓とすべからずと」と。太后は大いに怒り、后を喚び出し、立ちどころにその髪を剃り、送りて家に還らしむ。帝はこれを思い、毎に物を致して意を通ず。后は斛律の廃后とともに召し入れられて内に入り、数日にして鄴は守られず。后もまた改嫁した。
後主穆后
後主の皇后穆氏、名は邪利、本は斛律后の従婢である。母の名は軽霄、本は穆子倫の婢で、転じて侍中宋欽道の家に入り、姦私して后を生んだ。氏族を知る莫く、或いは云う、后は即ち欽道の女子なりと。小字を黄華、後に字を舎利とす。欽道の婦は妬み、軽霄の面に「宋」の字を黥す。欽道が伏誅すると、黄華はこれによって宮に入り、後主に幸せられ、宮内では舎利太監と称された。女侍中の陸太姫はその寵を知り、養って娘と為し、弘徳夫人に薦めた。武平元年六月、皇子高恒を生んだ。この時後主には未だ儲嗣なく、陸は陰に結び待ち、監撫の任は主無かるべからざるを以て、時に皇后斛律氏は丞相斛律光の娘なり、その恨みを懐くを慮り、先ず母としてこれを養わしめ、皇太子に立てた。陸は国姓の重きを以て、穆・陸相対し、又奏して姓を穆氏と賜う。胡庶人の廃せらるるに、陸は助け有り、胡は遂に立てられて皇后と為り、大赦す。初め、折衝将軍の元正烈が 鄴城 東の水中にて璽を得て献ず、文に曰く「天王后璽」、蓋し石氏の作る所なり。詔書を頒告し、以て穆后の瑞と為す。武成の時、胡后のために真珠の裙袴を造り、費やす所称計すべからず、火に焼かれた。後主は穆皇后を立てて後、復たこれを営む。周の武帝が太后の喪に遭うに属し、詔して侍中薛孤・康買等を弔使と為し、又商胡を遣わして錦彩三万疋を持たせて使とともに往かしめ、真珠を市いて皇后のために七宝車を造らんと欲したが、周人は交易を与えず、然れども竟にこれを造る。先ず童謡有りて曰く「黄華勢い落ちんと欲し、清觴杯酌に満つ」と。黄華の久しからざるを言う。後主は穆后を自立して以後、昏飲度無く、故に清觴杯酌に満つと云う。陸の息の駱提婆は詔して姓を穆と改めしむ。陸太姫、皆皇后の故なり。后は既に陸を母と為し、提婆を家と為し、更に軽霄を采らず。軽霄は後に自ら面を療し、見んことを求めんと欲す。太后・陸媼は禁掌してこれをさせ、竟に見ることを得ず。
論
論うに曰く、神武は肇めて齊の業を興し、武明は周の乱を追跡す。温公の邦家を敗るや、馮妃は褒后に比跡す。然らば則ち汚隆の義、蓋し系する所有りて焉。その余の孽を作して眚と為し、外平らかにして内蠹くは、近代に鑑みるに、齊に於いて甚だし。
校