神武婁后
神武明皇后婁氏、諱は昭君、司徒を追贈された内干の女なり。幼少より明らかに悟り、強き族多くこれを聘うも、並びに肯へて行かず。城上にて神武が役を執るを見て、驚きて曰く「此れ真に吾が夫なり」と。乃ち婢を使はして意を通じ、又た数たび私財を致し、以て己を聘はしめ、父母已むを得ずして許す。神武既に天下を澄清せんとする志有り、産を傾けて英豪を結び、密謀秘策、后常に参預す。渤海王妃に拝せらるるに及び、閫闈の事悉く之に決す。
太后凡そ六男二女を孕む、皆夢に感ず:文襄を孕めば則ち一つの断龍を夢み、文宣を孕めば則ち大龍を夢み、首尾天地に属し、口を張り目を動かし、勢状人を驚かす。孝昭を孕めば則ち地に蠕龍するを夢み、武成を孕めば則ち海に龍浴するを夢み、魏の二后を孕めば並びに月の懐に入るを夢み、襄城・博陵の二王を孕めば鼠の衣の下に入るを夢む。后未だ崩ぜざるに、童謡有りて曰く「九龍母死して孝を作さず」と。后の崩ずるに及び、武成服を改めず、緋袍故の如し。未だ幾もなく、三臺に登り、酒を置きて楽を作す。帝の女白袍を進む、帝怒り、之を臺下に投ず。和士開楽を止めんことを請ふ、帝大いに怒り、之を撻つ。帝は昆季の次実に九なり、蓋し其の徴験なるべし。
文襄元后
文襄敬皇后元氏、魏の孝靜帝の姉なり。孝武帝の時、馮翊公主に封ぜられて文襄に帰す。容徳兼ねて美しく、曲く和敬を尽くす。初めて河間王孝琬を生む、時に文襄世子たり、三日にして孝靜帝世子の第に幸し、錦彩及び布帛一万匹を贈る。世子辞し、諸貴の礼遺を通じて受けんことを求め、是に於て十屋皆満つ。次いで両公主を生む。文宣禅を受け、尊びて文襄皇后と為し、静徳宮に居る。天保六年に及び、文宣漸く昏狂に致り、乃ち高陽の宅に移り居しめ、而して其の府庫を取り、曰く「吾が兄昔我が婦を奸す、我今須く報ゆべし」と。乃ち后に淫す。其の高氏の女婦親疏無く、皆左右をして前において乱交せしむ。葛を以て絙と為し、魏の安德主に騎上せしめ、人をして推引せしめ、又た胡人をして苦辱せしむ。帝又た自ら呈露し、以て群下に示す。武平中、后崩じ、義平陵に祔葬す。
文宣李后
文宣皇后李氏、諱は祖娥、趙郡李希宗の女なり。容徳甚だ美し。初め太原公夫人と為る。帝将に中宮を建てんとす、高隆之・高德正漢婦人は天下の母と為すべからず、宜しく更に美配を択ぶべしと言ふ。楊愔固く漢・魏の故事に依り、元妃を改めざることを請ふ。而して徳正猶ほ固く后を廃し段昭儀を立て、以て勲貴の援を結ばんと欲す。帝竟に従はずして后を立てしむ。帝は嬪御を捶撻するを好み、乃ち殺戮する者有るに至るも、唯だ后のみ礼敬を蒙る。天保十年、可賀敦皇后と改む。孝昭即位し、降りて昭信宮に居り、号して昭信皇后と曰ふ。武成践祚し、后を逼りて淫乱せしめ、云く「若し許さずば、我当に爾が児を殺さん」と。后懼れて之に従ふ。後に娠み有り、太原王紹德閣に至るも、見るを得ず、慍りて曰く「児豈に知らざらんや、姉姉腹大なるを以て、故に児を見ざるなり」と。后之を聞き、大いに慚じ、是に由りて女を生みて挙げず。帝横刀して詬りて曰く「爾我が女を殺す、我何ぞ爾が児を殺さざらん」と。后の前に対して紹德を築き殺す。后大いに哭き、帝愈よ怒り、后を裸にして乱れ撾ち撻ち、天に号して已まず。絹囊を以て盛り、流血淋漉、之を渠水に投ず、良久にして乃ち蘇り、犢車に載せて妙勝尼寺に送る。后は性佛法を愛し、此に因りて尼と為る。齊亡びて関に入る。隋時に至り趙郡に還るを得。
孝昭元后
孝昭皇后元氏、開府元蠻の女なり。初め常山王妃と為る。天保末、姓を歩六孤と賜ふ。孝昭即位し、立てて皇后と為す。帝崩じ、梓宮鄴に之く。始めて汾橋を渡る、武成后に奇薬有るを聞き、追ひて之を索むるも得ず、閹人をして車に就き頓辱せしむ。降りて順成宮に居る。武成既に楽陵王を殺し、元は閟隔せられ、家と相知るを得ず。宮闈内忽ち飛語有り、帝令して検推せしむ、后の父兄の書信を得、元蠻是に由りて坐して官を免ぜらる。後齊亡びて周氏の宮中に入る。隋文帝相と作る、山東に放還す。
武成胡后
武成皇后胡氏は、安定の胡延の娘である。その母は范陽の盧道約の娘で、初めて懐妊した時、胡僧が門を訪れて言うには、「この宅の瓠蘆の中に月あり」と。既にして后を生んだ。天保の初め、長広王の妃に選ばれた。後主を産んだ日、号泣する声が産帳の上にあった。武成が崩じると、皇太后として尊ばれ、陸媼及び和士開が密かに謀って趙郡王高叡を殺し、婁定遠・高文遙を刺史として出させた。和・陸は太后に諂い事えて、至らざる所なし。初め武成の時、后は諸閹人と褻狎した。武成は和士開を寵倖し、毎に后と握槊し、これによって后と姦通した。武成が崩じて後、数え出て仏寺に詣で、また沙門の曇献と通じた。金銭を献の席の下に布き、また宝装の胡床を献の屋壁に掛けたが、これは武成が平生用いていたものである。乃ち百僧を内殿に置き、聴講を託して、日夜曇献と寝処した。献を昭玄統とした。僧徒は遥かに太后を指して曇献を弄び、乃至これをもって太上と謂うに至った。帝は太后の不謹を聞いたが未だこれを信ぜず、後に太后に朝し、二少尼を見て、悦んでこれを召すと、乃ち男子であった。ここにおいて曇献の事も発覚し、皆伏法し、併せて元・山・王の三郡君を殺したが、皆太后の昵近した者である。帝は晋陽より太后を奉じて鄴に還り、紫陌に至り、卒然に大風に遇う。舍人の魏僧伽は風角に明るく、奏言して即時に暴逆の事有るべしと。帝は詐って鄴中に急ありと云い、弓を彎げ槊を緾え、馳せて南城に入り、鄧長顒に命じて太后を北宮に幽閉し、仍って勅して内外の諸親、一に太后と相見することを得ざらしむ。久しくして、帝は復た太后を迎えた。太后は初め使者の至るを聞き、大いに驚き、不測の有るを慮る。毎に太后が食を設けると、帝も敢えて嘗めず。周の使の元偉が来聘し、『述行賦』を作り、鄭荘公が段を克ちて姜氏を遷したことを叙す。文は工ならざれども、当時深く以て愧じと為す。齊の滅亡後、周に入り、恣に姦穢を行った。隋の開皇年中に殂す。
後主斛律后
後主胡后
後主の皇后胡氏は、隴東王胡長仁の娘である。胡太后が母儀の道を失い、深く以て愧じ、後主を悦ばせんと欲した故に、后を宮中に飾り、帝に見せしめた。帝は果たして悦び、弘徳夫人に立て、左昭儀に進め、大いに寵愛された。斛律后が廃されると、陸媼は穆夫人を以てこれに代えんと欲したが、太后は許さず。祖孝徴が胡昭儀を立てんことを請うたので、遂に登って皇后と為る。陸媼は既に勧めて立てたるに非ず、又意は穆夫人に在り、その後太后の前に於いて色を作して言うには、「何たる親侄女ぞ、かくの如き言語を作すや!」と。太后は何の言有るかと問うと、曰く「道うべからず」と。固くこれを問うと、乃ち曰く「語に大家に云う、太后の行い多く法に非ず、以て訓とすべからずと」と。太后は大いに怒り、后を喚び出し、立ちどころにその髪を剃り、送りて家に還らしむ。帝はこれを思い、毎に物を致して意を通ず。后は斛律の廃后とともに召し入れられて内に入り、数日にして鄴は守られず。后もまた改嫁した。
後主穆后
論
論うに曰く、神武は肇めて齊の業を興し、武明は周の乱を追跡す。温公の邦家を敗るや、馮妃は褒后に比跡す。然らば則ち汚隆の義、蓋し系する所有りて焉。その余の孽を作して眚と為し、外平らかにして内蠹くは、近代に鑑みるに、齊に於いて甚だし。
校