北齊書

卷八補帝紀第八 後主 幼主

後主

後主の諱は緯、字は仁綱、武成皇帝の長子なり。母は胡皇后と曰い、海上に坐して玉盆に乗り、日が裙の下に入る夢を見、遂に娠あり。天保七年五月五日、帝を幷州の邸に生む。帝は少にして容儀美しく、武成特に愛寵し、王世子に拝す。武成の大業を継ぐに及び、大寧二年正月丙戌、皇太子に立てらる。河清四年、武成帝位を帝に禅す。

天統元年

天統元年夏四月丙子、皇帝晋陽宮に即位し、大赦し、河清四年を改めて天統と為す。丁丑、太保賀抜仁を太師と為し、太尉侯莫陳相を太保と為し、司空しくう・馮翊王潤を司徒しとと為し、録尚書事・趙郡王叡を司空と為し、尚書左僕射・河間王孝琬を尚書令しょうしょれいと為す。戊寅、瀛州刺史尉粲を太尉と為し、斛律光を大将軍と為し、東安王婁叡を太尉と為し、尚書右僕射趙彦深を左僕射と為す。

六月壬戌、彗星文昌の東北に出で、其の大きさ手の如く、後に稍々長くなり、乃ち丈余に至り、百日にして乃ち滅す。己巳、太上皇帝詔して散騎常侍さんきじょうじ王季高を兼ねて陳に使わしむ。

秋七月乙未、太上皇帝詔して都水使者一人を増置す。

冬十一月癸未、太上皇帝晋陽より至る。己丑、太上皇帝詔して「太祖献武皇帝」を「神武皇帝」と改め、廟号を「高祖こうそ」とし、「献明皇后」を「武明皇后」と為す。其の「文宣」の諡号は有司に委ねて議定せしむ。

十二月庚戌、太上皇帝北郊に狩す。壬子、南郊に狩す。乙卯、西郊に狩す。壬戌、太上皇帝晋陽に幸す。丁卯、帝晋陽より至る。庚午、有司奏して「高祖文宣皇帝」を「威宗景烈皇帝」と改む。

是歳、高麗・契丹・靺鞨並びに使を遣わして朝貢す。河南大疫あり。

天統二年

二年丙戌春正月辛卯、円丘を祀る。癸巳、太廟にて袷祭し、詔して罪人を降すこと各差あり。丙申、吏部尚書尉瑾を尚書右僕射と為す。庚子、晋陽に行幸す。

二月庚戌、太上皇帝晋陽より至る。壬子、陳人聘問に来る。

三月乙巳、太上皇帝詔して三臺を以て興聖寺に施す。旱の故を以て、禁囚を降す。

夏四月、陳の文帝崩ず。

五月乙酉、兼尚書左僕射・武興王普を尚書令と為す。己亥、太上皇帝の子儼を東平王に封じ、仁弘を齊安王に、仁堅を北平王に、仁英を高平王に、仁光を淮南王に封ず。

六月、太上皇帝詔して兼散騎常侍韋道儒をして陳に聘せしむ。

秋八月、太上皇帝晉陽に幸す。

冬十月乙卯、太保侯莫陳相を太傅と為し、大司馬・任城王湝を太保と為し、太尉婁叡を大司馬と為し、馮翊王潤を太尉に徙め、開府儀同三司韓祖念を司徒と為す。

十一月、大雨雪、盜太廟の御服を竊む。

十二月乙丑、陳人聘に来る。

是の歳、河間王孝琬を殺す。突厥・靺鞨國並びに使を遣わして朝貢す。周に於いて天和元年と為す。

天統三年

三年春正月壬辰、太上皇帝晉陽より至る。乙未、大雪、平地二尺。戊戌、太上皇帝詔す、京官執事散官三品已上各三人を挙げ、五品已上各二人を挙げよ。事に称する七品已上及び殿中侍御史・尚書都檢校御史・主書及び門下錄事各一人を挙げよ。鄴宮九龍殿災あり、西廊に延焼す。

二月壬寅朔、帝元服を加え、大赦し、九州の職人各四級を進め、内外の百官普く二級を進む。

夏四月癸丑、太上皇帝詔して兼散騎常侍司馬幼之をして陳に使わしむ。

五月甲午、太上皇帝詔して領軍大将軍・東平王儼を尚書令と為す。乙未、大風晝晦し、屋を発ち樹を抜く。

六月己未、太上皇帝詔して皇子仁幾を西河王に封じ、仁約を樂浪王に、仁儉を潁川王に、仁雅を安樂王に、仁統を丹陽王に、仁謙を東海王に封ず。

閏六月辛巳、左丞相斛律金薨ず。壬午、太上皇帝詔す、尚書令・東平王儼に尚書事を録せしめ、尚書左僕射趙彥深を尚書令と為し、幷省尚書左僕射婁定遠を尚書左僕射と為し、中書監ちゅうしょかん徐之才を右僕射と為す。

秋八月辛未、太上皇帝は詔を下し、太保・任城王高湝を太師とし、太尉・馮翊王高潤を大司馬とし、太宰段韶を左丞相とし、太師賀拔仁を右丞相とし、太傅侯莫陳相を太宰とし、大司馬婁叡を太傅とし、大将軍斛律光を太保とし、司徒韓祖念を大将軍とし、司空・趙郡王高叡を太尉とし、尚書令・東平王高儼を司徒とした。

九月己酉、太上皇帝は詔を下した。「諸寺署が管轄する雑保戸で姓が高の者は、天保の初めには優詔があったが、権宜的に労役を免れなかった者もいる。今、雑戸の身分を悉く免除し、郡県に所属させ、一律に平民と同じ扱いとする。」丁巳、太上皇帝は晉陽に行幸した。

この秋、山東で大水が起こり、人々は飢え、道には餓死者の屍が満ちた。

冬十月、突厥・大莫婁・室韋・百済・靺鞨などの国がそれぞれ使者を遣わして朝貢した。

十一月丙午、晉陽の大明殿が完成したことを理由に大赦を行い、文武百官の官位を二階級進め、幷州居城・太原一郡の来年の租賦を免除した。癸未、太上皇帝は晉陽から帰還した。

十二月己巳、太上皇帝は詔を下し、故左丞相・趙郡王高琛を神武皇帝(高歓)の廟庭に配饗させた。

天統四年

四年正月、詔を下し、故清河王高岳・河東王潘相楽ら十人を併せて神武皇帝の廟庭に配饗させた。癸亥、太上皇帝は詔を下し、兼散騎常侍鄭大護を陳に使わした。

三月乙巳、太上皇帝は詔を下し、司徒・東平王高儼を大将軍とし、南陽王高綽を司徒とし、開府儀同三司徐顯秀を司空とし、開府儀同三司・広寧王高孝珩を尚書令とした。

夏四月辛未、鄴宮の昭陽殿が火災に遭い、宣光殿・瑤華殿などに延焼した。辛巳、太上皇帝は晉陽に行幸した。

五月癸卯、尚書右僕射胡長仁を左僕射とし、中書監和士開を右僕射とした。壬戌、太上皇帝は晉陽から帰還した。正月からこの月まで雨が降らなかった。

六月甲子朔、大雨が降った。甲申、大風が吹き、木を抜き樹を折った。この月、彗星が東井(星宿)に現れた。

秋九月丙申、周人が和を通じようとしてきたので、太上皇帝は詔を下し、侍中斛斯文略を周に派遣して報聘させた。

冬十月辛巳、尚書令・広寧王高孝珩を録尚書とし、左僕射胡長仁を尚書令とし、右僕射和士開を左僕射とし、中書監唐邕を右僕射とした。

十一月壬辰、太上皇帝は詔を下し、兼散騎常侍李翥を陳に使わした。この月、陳の安成王陳頊がその主(皇帝)伯宗を廃して自立した。

十二月辛未、太上皇帝崩御す。丙子、大赦を行い、九州の職人には一律に四階級を加え、内外の百官には並びに二階級を加う。戊寅、太上皇后の尊号を皇太后と為す。甲申、詔して細作の務め及び所在の百工は悉くこれを罷むべしとす。また詔して掖庭・晉陽・中山の官人等及び鄴下・幷州の太官官口二箇所にて、その年六十以上及び癃患ある者は、司に仰せて簡放せしむ。庚寅、詔して天保七年以来諸家の縁坐にて配流せられたる者は、所在にて還るを令す。

この歳、契丹・靺鞨国並びに使いを遣わして朝貢す。

天統五年

五年春正月辛亥、詔して金鳳等三臺の未だ寺に入らざる者を以て大興聖寺に施す。この月、定州刺史・博陵王済を殺す。

二月乙丑、詔して宮刑に応ずる者は普く刑を免じて官口と為す。また詔して鷹鷂を網捕する及び籠放の物を畜養するを禁ず。癸酉、大莫婁国使いを遣わして朝貢す。己丑、東平王儼を改めて琅邪王と為す。詔して侍中叱列長叉をして周に使わしむ。この月、太尉・趙郡王叡を殺す。

三月丁酉、司空徐顯秀を以て太尉と為し、幷省尚書令婁定遠を司空と為す。この月、行幸して晉陽に至る。

夏四月甲子、詔して幷州尚書省を以て大基聖寺と為し、晉祠を大崇皇寺と為す。乙丑、車駕晉陽より至る。

秋七月己丑、詔して罪人を降すこと各差あり。戊申、詔して使いをして河北諸州の雨無き処を巡省せしめ、境内偏旱の者は租調を優免す。

冬十月壬戌、詔して酒造りを禁ず。

十一月辛丑、詔して太保斛律光を以て太傅と為し、大司馬・馮翊王潤を太保と為し、大將軍・琅邪王儼を大司馬と為す。

十二月庚午、開府儀同三司・蘭陵王長恭を以て尚書令と為す。庚辰、中書監魏收を以て尚書右僕射と為す。

武平元年

武平元年春正月乙酉朔、元を改む。太師・幷州刺史・東安王婁叡薨ず。戊申、詔して兼散騎常侍裴獻之をして陳に聘せしむ。

二月癸亥、百済王餘昌を以て使持節・侍中・驃騎大將軍・帯方郡公と為し、王は故の如し。己巳、太傅・咸陽王斛律光を以て右丞相と為し、幷州刺史・右丞相・安定王賀拔仁を録尚書事と為し、冀州刺史・任城王湝を太師と為す。丙子、死罪已下の囚を降す。

閏月戊戌、隷尚書事・安定王賀拔仁薨ず。

三月辛酉の日、開府儀同三司徐之才を尚書左僕射に任ず。

夏六月乙酉の日、廣甯王孝珩を司空に任ず。甲辰の日、皇子恒が生まれたことを理由に、大赦を行い、内外の百官は皆二階級進め、九州の職人は皆四階級進める。己酉の日、詔して開府儀同三司唐邕を尚書右僕射に任ず。

秋七月癸丑の日、孝昭皇帝の子彥基を城陽王に、彥康を定陵王に、彥忠を梁郡王に封ず。甲寅の日、尚書令・蘭陵王長恭を錄尚書事に、中領軍和士開を尚書令に任ず。癸亥の日、靺鞨国が使いを遣わして朝貢す。癸酉の日、華山王凝を太傅に任ず。

八月辛卯の日、行幸して晉陽に至る。

九月乙巳の日、皇子恒を皇太子に立てる。

冬十月辛巳の日、司空・廣甯王孝珩を司徒に、上洛王思宗を司空に任じ、蕭莊を梁王に封ず。戊子の日、幷州の死罪以下の囚人を特別に減刑す。己丑の日、また威宗景烈皇帝の諡号を「顯祖文宣皇帝」と改める。

十二月丁亥の日、車駕、晉陽より至る。詔して右丞相斛律光をして晉州道より出で、城戍を修めしむ。

武平二年

二年春正月丁巳の日、詔して兼散騎常侍劉環俊を陳に使いせしむ。戊寅の日、百済王餘昌を使持節・都督ととく・東青州刺史に任ず。

二月壬寅の日、錄尚書事・蘭陵王長恭を太尉に、幷省錄尚書事趙彥深を司空に、尚書令和士開を錄尚書事に、左僕射徐之才を尚書令に、右僕射唐邕を左僕射に、吏部尚書馮子琮を右僕射に任ず。

夏四月壬午の日、大司馬・琅邪王儼を太保に任ず。甲午の日、陳が使いを遣わして和を結び、周を伐たんと謀るも、朝議これを許さず。

六月、段韶、周の汾州を攻め、これを克ち、刺史楊敷を獲る。

秋七月庚午の日、太保・琅邪王儼、詔を矯って錄尚書事和士開を南臺にて殺す。即日、領軍大將軍厙狄伏連・書侍御史王子宣等を誅し、尚書右僕射馮子琮に殿中にて死を賜う。

八月己亥の日、行幸して晉陽に至る。

九月辛亥の日、太師・任城王湝を太宰に、馮翊王潤を太師に任ず。己未の日、左丞相・平原王段韶薨ず。戊午の日、幷州界内の死罪以下の囚人を特別に減刑し、それぞれ差等あり。庚午の日、太保・琅邪王儼を殺す。壬申の日、陳の人来り聘す。

冬十月、京畿府を廃止し領軍府に統合す。己亥、車駕晉陽より至る。

十一月庚戌、詔して侍中赫連子悅を周に使わす。丙寅、徐州行臺・廣甯王孝珩を以て尚書事を録せしむ。庚午、尚書事を録する廣甯王孝珩を司徒と為す。癸酉、右丞相斛律光を左丞相と為す。

武平三年

三年春正月己巳、南郊に祀る。辛亥、故琅邪王儼を追贈して楚帝と為す。

二月己卯、衛菩薩を太尉と為す。辛巳、幷省吏部尚書元海を尚書右僕射と為す。庚寅、左僕射唐邕を尚書令と為し、侍中祖珽を左僕射と為す。是の月、勅して『玄洲苑御覽』を撰せしめ、後に名を『聖壽堂御覽』と改む。

三月辛酉、詔して文武の官五品已上各一人を挙げしむ。是の月、周、冢宰宇文護を誅す。

夏四月、周人聘問に来る。

秋七月戊辰、左丞相・咸陽王斛律光及びその弟の幽州行臺・荊山公豐樂を誅す。

八月庚寅、皇后斛律氏を廃して庶人と為す。太宰・任城王湝を右丞相と為し、太師・馮翊王潤を太尉と為し、蘭陵王長恭を大司馬と為し、廣甯王孝珩を大將軍と為し、安德王延宗を司徒と為す。領軍封輔相をして周に聘問せしむ。戊子、右昭儀胡氏を拝して皇后と為す。己丑、司州牧・北平王仁堅を尚書令と為し、特進許季良を左僕射と為し、彭城王寶德を右僕射と為す。癸巳、行幸して晉陽に至る。是の月、『聖壽堂御覽』成る。勅して史閣に付す。後に『修文殿御覽』と改む。

九月、陳人聘問に来る。

冬十月、死罪已下の囚を赦す。甲午、弘德夫人穆氏を拝して左皇后と為し、大赦を行ふ。

十二月辛丑、皇后胡氏を廃して庶人と為す。

是歳、新羅・百濟・勿吉・突厥並びに使を遣わして朝貢す。周に在りては建德元年と為す。

武平四年

四年春正月戊寅、幷省尚書令高阿那肱を以て尚書事を録せしむ。庚辰、詔して兼散騎常侍崔象を陳に使わす。是の月、鄴都・幷州並びに狐媚有り、多く人の髪を截つ。

二月乙巳、左皇后穆氏を皇后に立てる。丙午、文林館を置く。乙卯、尚書令・北平王仁堅を以て録尚書事と為す。丁巳、行幸して晉陽に至る。是の月、周人聘問に来る。

三月辛未、盗賊信州に入り、刺史和士休を殺す。南兗州刺史鮮于世榮之を討ち平らぐ。庚辰、車駕晉陽に至る。

夏四月戊午、大司馬・蘭陵王長恭を以て太保と為し、大将軍・定州刺史・南陽王綽を大司馬と為し、太尉衛菩薩を大将軍と為し、司徒・安德王延宗を太尉と為し、司空・武興王普を司徒と為し、開府儀同三司・宜陽王趙彦深を司空と為す。癸丑、皇祠壇壝蕝の内に忽ち車軌の轍有り、按驗するに傍らに人跡無し、車の来たる所を知らず。乙卯、詔して以て大慶と為し、天下に告げしむ。己未、周人聘問に来る。

五月丙子、詔して史官に『魏書』を更に撰せしむ。癸巳、領軍穆提婆を以て尚書左僕射と為し、侍中・中書監段孝言を以て右僕射と為す。是の月、開府儀同三司尉破胡・長孫洪略等、陳の将吳明徹と呂梁の南に戦い、大敗す。破胡走りて免るるも、洪略戦沒し、遂に秦・涇の二州陥つ。明徹進みて和・合の二州を陥す。是の月、太保・蘭陵王長恭を殺す。

六月、明徹進軍して壽陽を囲む。壬子、南苑に幸す。従官暍死する者六十人。録尚書事高阿那肱を以て司徒と為す。丙辰、詔して開府王師羅をして周に使わしむ。

九月、鄴の東に校獵す。

冬十月、陳の将吳明徹壽陽を陥す。辛丑、侍中崔季舒・張彫虎、散騎常侍劉逖・封孝琰、黄門侍郎裴澤・郭遵を殺す。癸卯、行幸して晉陽に至る。

十二月戊寅、司徒高阿那肱を以て右丞相と為す。是の歳、高麗・靺鞨並びに使を遣わし朝貢し、突厥使来りて婚を求む。

武平五年

五年春正月乙丑、左右の娥英を各一人置く。

二月乙未、車駕晉陽より至る。朔州行臺・南安王思好反す。辛丑、行幸して晉陽に至る。尚書令唐邕等、思好を大破し、思好水に投じて死す。其の屍を焚き、並びに其の妻李氏を焚く。丁未、車駕晉陽より至る。甲寅、尚書令唐邕を以て録尚書事と為す。

夏五月、大旱す。晉陽に死魃を得たり。長さ二尺、面と頂に各二目有り。帝之を聞き、便ち木を刻みて其の形を為し以て献ず。庚午、大赦す。丁亥、陳人淮北に寇す。

秋八月癸卯、行幸して晉陽に至る。甲辰、高勱を以て尚書右僕射と為す。

是の歳、南陽王綽を殺す。

武平六年

六年(武平六年)春三月乙亥、車駕(天子の行列)が晉陽より帰還した。丁丑、妖賊鄭子饒を都市で烹殺した。この月、周(北周)の使いが来朝した。

夏四月庚子、中書監陽休之を尚書右僕射とした。癸卯、靺鞨が使いを遣わして朝貢した。

秋七月甲戌、行幸して晉陽に至った。

八月丁酉、冀・定・趙・幽・滄・瀛の六州に大水が起こった。この月、周軍が洛川に入り、芒山に屯し、洛城を攻め迫り、火船を放って浮橋を焼き、河橋は断絶した。

閏月己丑、右丞相高阿那肱を晉陽より派遣してこれを防がせ、軍は河陽に駐屯した。周軍は夜中に逃げ去った。庚辰、司空趙彥深を司徒とし、斛律阿列羅を司空とした。辛巳、軍国資用の不足により、関市・舟車・山沢・塩鉄・店舗に課税し、軽重それぞれ差等をつけ、酒禁を解いた。

武平七年

七年春正月壬辰、詔して、去秋以来、水害により飢えて自立できない者は、その地において大寺及び諸富戸に付してその性命を救済せしめるとした。甲寅、大赦を行った。乙卯、車駕が晉陽より帰還した。

二月辛酉、雑戸の女子で年二十以下十四以上で未嫁の者をことごとく徴発して省(官庁)に集め、隠匿した者は家長を死刑に処した。二月丙寅、風が西北より起こり、屋根を飛ばし樹木を抜き、五日にしてやんだ。

夏六月戊申朔、日食があった。庚申、司徒趙彥深が薨去した。

秋七月丁丑、大雨が長く降り続いた。この月、水害により流亡する人戸を巡撫するため使者を派遣した。

八月丁卯、行幸して晉陽に至った。雉が御座に集まり、これを捕らえたが、有司は敢えて奏上しなかった。詔して邯鄲宮の営造を命じた。

冬十月丙辰、帝は祁連池で大規模な狩猟を行った。周軍が晉州を攻撃した。癸亥、帝は晉陽に帰還した。甲子、出兵し、晉祠に大いに集結した。庚午、帝は晉陽を出発した。癸酉、帝は陣を列ねて進軍し、雞棲原に登り、周の齊王宇文憲と対峙したが、夜になっても戦わず、周軍は陣を引き締めて退却した。

十一月、周の武帝は長安ちょうあんに退き、一部の軍を留めて晉州を守らせた。高阿那肱らが晉州城を包囲した。戊寅、帝は包囲の地に到着した。

十二月戊申、周の武帝が晉州救援に来襲し、庚戌、城南で戦い、我が軍は大敗した。帝は軍を捨てて先に帰還した。癸丑、晉陽に入り、憂懼して何処へ行くべきか分からなかった。甲寅、大赦を行った。帝は朝臣に言った、「周軍は甚だ盛んである。どうすればよいか。」群臣皆言う、「天命は未だ改まらず、一得一失は、古より皆然り。百賦を停め、朝野を慰撫し、残兵を収拾し、城を背にして死戦し、以て社稷を存すべきです。」帝の心は躊躇し、北朔州へ向かおうとした。乃ち安德王高延宗・廣甯王高孝珩らを留めて晉陽を守らせた。若し晉陽が守れなければ、即ち突厥に奔ろうとした。群臣皆これを不可と言ったが、帝はその言に従わなかった。開府儀同三司賀拔伏恩・封輔相・慕容鐘葵ら宿衛の近臣三十余人が西へ奔って周軍に降った。乙卯、詔して兵を募り、安德王高延宗を左に、廣甯王高孝珩を右に派遣した。延宗が入見すると、帝は北朔州へ向かいたいと告げた。延宗は涙を流して諫めたが、聞き入れられなかった。帝は密かに王康得と中人(宦官)齊紹らを遣わし、皇太后・皇太子を北朔州に送らせた。丙辰、帝は城南の軍営に行幸し、将士を労ったが、その夜逃げ出そうとし、諸将は従わなかった。丁巳、大赦を行い、武平七年を改めて隆化元年とした。その日、穆提婆が周に降った。詔して安德王高延宗を相国とし、防備を委ねた。延宗は涙を流して命を受けた。帝は乃ち夜に五龍門を斬り開けて出奔し、突厥へ走ろうとしたが、従官の多くは散り散りになった。領軍梅勝郎が馬の轡を捉えて諫めたので、ようやく鄴に引き返した。この時は高阿那肱ら十余騎のみで、廣甯王高孝珩・襄城王高彥道が続いて到着し、数十人で同行することができた。戊午、延宗は衆議に従って晉陽において皇帝の位に即き、隆化を改めて德昌元年とした。

庚申、帝は鄴に入った。辛酉、延宗が周軍と晉陽で戦い、大敗し、周軍に捕虜とされた。帝は人を募るよう命じ、官位賞賜を重ねると言ったが、この言葉はあったものの、結局財物を出さなかった。廣甯王高孝珩が奏上して宮人と珍宝を出して将士に分け与えるよう請うたが、帝は喜ばなかった。斛律孝卿が内廷で任を受け、甲冑を帯びて処分し、帝に自ら将兵を労わるよう請い、帝のために言葉を考え、且つ慷慨して涙を流し、人心を感激させるべきだと述べた。帝が既に衆の前に臨み、これを告げようとしたが、授けられた言葉を思い出せず、遂に大笑いし、左右の者も皆笑い、将士は心が離れる者なくはなかった。ここにおいて大丞相以下、太宰・三師・大司馬・大将軍・三公等の官に並びに員数を増やして授け、或いは三或いは四と、数えきれないほどであった。甲子、皇太后が北道より到着した。文武の一品以上の者を朱華門に引き入れ、酒食を賜い、紙筆を与え、周を防ぐ方策を問うた。群臣はそれぞれ異なる意見を述べ、帝は何に従うべきか分からなかった。また高元海・宋士素・盧思道・李德林らを引見し、皇太子への禅位を議そうとした。先に望気者(占い師)が言うには、変革があるだろうと。結局は天統(後主の父、武成帝の年号)の故事に依り、幼い主に位を授けることとなった。

幼主

幼主の名は恒、帝の長子なり。母は穆皇后と曰い、武平元年六月に鄴に生まる。その年の十月、皇太子に立てらる。

隆化二年春正月乙亥、皇帝の位に即く、時に八歳、元号を承光元年と改め、大赦を行い、皇太后を太皇太后と尊び、帝を太上皇帝とし、後を太上皇后とす。ここにおいて黄門侍郎顔之推・中書侍郎薛道衡・侍中陳德信ら、太上皇帝を勧めて河外に往き兵を募り、さらに経略を為さんことを、もし叶わざれば、南に陳国に投ぜんことを、これに従う。丁丑、太皇太后・太上皇后は鄴より先に済州に向かう。周の軍次第に逼る。癸未、幼主また鄴より東に走る。己丑、周軍は紫陌橋に至る。癸巳、城の西門を焼く。太上皇は百余騎を将いて東に走る。乙亥、河を渡り済州に入る。その日、幼主は大丞相・任城王湝に位を禅し、侍中斛律孝卿をして禅文及び璽紱を瀛州に送らしむ。孝卿すなわちこれを持ちて周に帰す。また任城王の詔を為し、太上皇を無上皇と尊び、幼主を守国天王とす。太皇太后を済州に留め、高阿那肱を遣わして留守とす。太上皇は皇后とともに幼主を携え青州に走り、韓長鸞・鄧顒ら数十人従う。太上皇すでに青州に至り、すなわち陳に入るの計を為す。しかるに高阿那肱は周軍を召し、斉主を生け捕りに致すことを約し、しばしば人をして告げ言わしむ、賊軍は遠し、すでに人をして橋路を焼き断たしむと。太上、ここにおいて停緩す。周軍は奄に青州に至る。太上は窘急し、将に陳に遜らんとし、金囊を鞍の後に置き、長鸞・淑妃ら十数騎とともに青州南の鄧村に至り、周の将尉遅綱に獲らる。鄴に送られ、周の武帝は賓主の礼を抗し、太后・幼主・諸王とともに長安に送られ、帝を温国公に封ず。建徳七年に至り、宜州刺史穆提婆と謀反を為すと誣えられ、延宗ら数十人とともに少長無く咸く死を賜う。神武の子孫の存する者は一二のみ。大象の末に至り、陽休之・陳徳信ら大丞相隋公に啓し、収葬を請う。これを聴し、長安北原の洪瀆川に葬る。

帝は幼にして令善、長ずるに及び、頗る綴文を学び、文林館を置き、諸文士を引く。しかるに言語澀訥にして、志度無く、朝士を見るを喜ばず。寵私昵狎に非ざれば、未だ嘗て交語せず、性懦にして堪えず、人視する者あれば、すなわち忿責有り。その奏事する者は、三公令録と雖も仰視を得ず、皆略に大旨を陳べ、驚き走りて出づ。災異・寇盗・水旱毎に有りと雖も、また貶損せず、ただ諸処に斎を設け、これをもって徳を修むとす。雅に巫覡を信じ、解禱に方無し。

初め琅邪王兵を挙ぐるに、人告する者誤って厙狄伏連の反と云う。帝曰く「これ必ず仁威なり」と。また斛律光の死後、諸武官高思好を挙げて大将軍に堪うとす。帝曰く「思好は反を喜ぶ」と。皆その言の如し。遂に自ら策に遺算無しと以て、乃ち益々驕縦す。盛んに無愁の曲を為し、帝自ら胡琵琶を弾じてこれを唱い、侍して和する者百数を以てす。人間これを無愁天子と謂う。嘗て出でて群厲を見、尽くこれを殺し、あるいは人の面皮を剥ぎてこれを視る。

陸令萱・和士開・高阿那肱・穆提婆・韓長鸞らを任じて天下を宰製せしめ、陳徳信・鄧長顒・何洪珍は機権に参預す。各々親党を引き、非次に超居し、官は財より進み、獄は賄をもって成る。その政を乱し人を害する所以、備え載するに難し。諸宮の奴婢・閹人・商人・胡戸・雑戸・歌舞人・見鬼人の富貴を濫得する者将に万数、庶姓の王に封ぜられる者百数、復た紀すべからず。開府千余、儀同無数。領軍一時に二十、文書を判するに連ねて、各々依の字を作り、姓名を具せず、誰なるかを知る莫し。諸貴寵の祖禰の官を追贈するは、歳一進み、位極まりて乃ち止む。

宮掖の婢は皆郡君に封ぜられ、宮女宝衣玉食する者五百余人、一裙の直は万疋、鏡台の直は千金、競って変巧を為し、朝衣にして夕に弊る。武成の奢麗を承け、帝王当然と以為う。乃ち更に宮苑を増益し、偃武修文台を造り、その嬪嬙諸宮中に鏡殿・宝殿・瑇瑁殿を起こし、丹青雕刻、妙にして当時に極まる。また晋陽に十二院を起こし、壮麗は鄴下に逾ゆ。愛する所恒ならず、数え毀ちてまた復す。夜は則ち火を以て照らして作し、寒は則ち湯を以て泥と為し、百工困窮し、休息する時無し。晋陽の西山を鑿ちて大佛像と為し、一夜に油万盆を然し、光宮内を照らす。また胡昭儀の為に大慈寺を起こし、未だ成らず、穆皇后の大宝林寺と改む。工巧に窮極し、石を運び泉を填め、労費億計、人牛の死する者は勝げて紀すべからず。御馬は則ち氊罽を以て藉し、食物は十余種有り、牝牡を合わさんと将れば、則ち青廬を設け、牢饌を具えて親しくこれを観る。狗は則ち粱肉を以て飼う。馬及び鷹犬に乃ち儀同・郡君の号有り、故に赤彪儀同・逍遙郡君・凌宵郡君有り、高思好の書に所謂「駮龍・逍遙」なるもの是なり。犬は馬上に褥を設けてこれを抱き、闘鶏もまた開府と号す。犬馬鶏鷹多く県幹を食す。鷹の養いに入る者は、稍々犬肉を割きてこれを飼い、数日に至りて乃ち死す。

また華林園に貧窮の村舎を立て、帝自ら弊衣を為して乞食児と為る。また窮児の市を為し、躬自交易す。嘗て西鄙の諸城を築き、人をして黑衣を衣せしめて羌兵と為し、鼓噪してこれを淩ぎ、親しく内参を率いて臨拒し、あるいは実に弓を彎げて人を射る。晋陽より東巡し、単馬馳騖し、衣解け髪散じて帰る。

また不急の務を好み、曾て一夜に蠍を索め、旦に及びて三升を得。特に入時に非ざる物を愛し、取求すること火急、皆須らく朝に徴し夕に辦ず。勢に当たる者これに因り、一を貸して十を責む。賦斂日々に重く、徭役日々に繁く、人力既に殫き、幣蔵空竭す。乃ち諸佞幸に賜いて官を売らしむ。あるいは郡を両三得、あるいは県を六七得、各々州郡を分かち、下は郷官に逮るも多く中旨を降す。故に勅用州主簿、勅用郡功曹有り。ここにおいて州県の職司多くは富商大賈より出で、競って貪縦を為し、人の聊生する無し。爰に鄴都及び諸州郡より、所在の徴税、百端俱に起こる。凡そ此の諸役は、皆武成に漸く、帝に至りて増広す。然れども未だ嘗て帷薄の淫穢有ること無く、唯この事は頗る武成に優れると云う。

初め河清の末、武成大蝟の鄴城ぎょうじょうを攻め破るを夢み、故に境内の蝟膏を索めてこれを絶たんとす。識者は後主の名声と蝟と相協うを以て、斉の亡ぶる徴なりとす。また婦人は皆剪剔して仮髻を著け、而して危邪の状飛鳥の如く、南面に至れば、則ち髻心正しく西なり。始め宮内にこれを為し、四遠に被る。天意は若し曰く、元首剪落し、危側西に走るべしと。また刀子を為す者は刃皆狭細にして、名づけて尽勢と曰う。游童の戯るる者は好んで両手を以て縄を持ち、地を拂いて却って上り跳び、且つ唱えて「高末」と曰う。高末の言は、蓋し高氏の運祚の末なり。然らば則ち乱亡の数は蓋し兆有りと云うべし。

【論】

論ずるに、後主は中庸の資質を持ちながら、染まりやすい性質を抱き、先人の訓戒を口にしながらも、教えは正しい道ではなかった。

鄭文貞公魏徴が総括して論じて言うには、神武帝は雄傑の資質をもって、初めて覇業の基礎を築き、文襄帝は英明な謀略をもって、叛徒を討ち遠方を懐柔した。

観るに、北斉の全盛期は、遠く険阻な地を控え帯び、西は汾・晉を包み、南は江・淮に極まり、東は海隅に尽き、北は沙漠に漸く。

また聞くところによれば、皇天は親しみを偏さず、ただ徳を輔けるのみであり、天時は地利に及ばず、地利は人和に及ばないという。