北史

巻九十五 列傳第八十三

蠻の種類は、蓋し盤瓠の後裔である。江・淮の間に在り、部落は蔓延し、数州に分布し、東は寿春に連なり、西は巴・蜀に通じ、北は汝・潁に接し、往々にしてこれ有り。その魏氏に於けるや、甚だしき患いとは為らず、晋の末に至り、稍々繁昌し、漸く寇暴と為る。劉・石の乱後より、諸蠻は忌憚する所無く、故にその族は漸く北遷を得、陸渾以南、山谷に満ち、宛・洛は蕭条として、略々丘墟と為る。

道武帝既に中山を定め、声教は河表に被わる。泰常八年、蠻王梅安、渠帥数千を率いて京師に朝し、質子を留めんことを求め、以て忠款を表す。始光年中、安の侍子豹を安遠将軍・江州刺史・順陽公に拝す。興光年中、蠻王文武龍、降を請う、詔してこれを褒め慰め、南雍州刺史・魯陽侯に拝す。

延興年中、大陽蠻の首長桓誕、沔水以北、滍葉以南、八万余落を擁し、使者を遣わして内属す。孝文帝これを嘉し、誕を征南将軍・東荊州刺史・襄陽王に拝し、自ら郡県を選ぶことを聴す。誕、字は天生、桓玄の子なり。初め、玄西奔して枚迴洲に至り殺されしとき、誕は時に数歳、大陽蠻の中に流竄し、遂にその俗に習う。長ずるに及び、智謀多く、群蠻の帰する所と為る。誕既に内属し、朗陵に居る。太和四年、王師南伐す、誕は前駆たらんことを請う。乃ち使持節・南征西道大 都督 ととく を授け、義陽を討たしむ、果たさずして還る。十年、潁陽に移居す。十六年、例に依り王を降して公と為す。十七年、征南将軍・中道大 都督 ととく を加え、竟陵を征す。遷洛に遇い、師は停む。是の時、斉の征虜将軍・直閣将軍蠻首田益宗、部曲四千余戸を率いて内属す。襄陽の首長雷婆思等十一人、戸千余を率いて内自ら徙り、大和川に居らんことを求め、詔して廩食を給う。後に南陽を開き、沔北の地を有たしむ、蠻人は安堵し、寇賊と為らず。十八年、誕朝に入り、賞遇隆厚なり。卒す、諡して剛と曰う。子の暉、字は道進、位は龍驤将軍・東荊州刺史、爵を襲ぐ。景明初め、大陽蠻首田育丘等二万八千戸内附し、詔して四郡十八県を置く。暉卒す。冠軍将軍を贈る。

三年、魯陽蠻の魯北燕等、衆を聚めて攻め逼り、頻りに詔して左衛将軍李崇にこれを討平せしめ、万余家を河北諸州及び六鎮に徙す。尋いで叛きて南走す、所在追討し、河に及びて、これを殺すこと皆尽くす。四年、東荊州蠻の樊素安反し、帝号を僭称す。正始元年、素安の弟秀安また反し、李崇・楊大眼悉くこれを討平す。二年、梁の沔東太守田清喜、七郡三十一県・戸一万九千を擁し、使者を遣わして内附し、師を乞いて梁を討たんことを請う。その雍州以東、石城以西、五百余里の水陸の援路、部曲を率いてこれを断たんことを請う。四年、梁の永寧太守文雲生六部、漢東より使者を遣わして帰附す。

永平初め、東荊州表す、太守桓叔興前後大陽蠻を招慰し、帰附する者一万七百戸、郡十六・県五十を置かんことを請う、詔して前鎮東府長史酈道元にこれを検行して置かしむ。叔興は即ち暉の弟なり、延昌元年、南荊州刺史に拝し、安昌に居り、東荊に隷す。三年、梁兵を遣わして江・沔を討ち、諸蠻を破り掠め、百姓擾動す。蠻自ら相督率すること二万余人、頻りに統帥を請い、蠻は以て声勢と為す。叔興は一統並びに威儀を給し、これが節度と為り、蠻人は遂に安んず。その年、梁の雍州刺史蕭藻、その将蔡令孫等三将を遣わして南荊の西南を寇し、襄・沔に沿い上下し、諸蠻を破り掠め、蠻首の梁龍驤将軍樊石廉、梁に叛き、来たりて援を請う。叔興と石廉を遣わして蠻夏二万余人を督集してこれを撃ち走らしめ、令孫等三将を斬る。藻またその新陽太守邵道林を遣わし、沔水の南石城東北に清水戍を立て、抄掠の基と為す、叔興諸蠻を遣わしてこれを撃ち破る。四年、叔興上表し、東荊に隷せざることを請い、これを許す。梁人の寇抄有る毎に、叔興必ずこれを摧破す。

正光年中、叔興、擁する所の部を率いて南叛す。蠻首の成龍強、戸数千を率いて内附し、刺史に拝す;蠻帥の田牛生、戸二千を率いて内徙し揚州に、郡守に拝せらる。梁の義州刺史辺城王文僧明・鉄騎将軍辺城太守田官德等、戸万余を率い、挙げて州を内属す。僧明を平南将軍・西 州刺史に拝し、開封侯に封じ;官德を龍驤将軍・義州刺史と為す;自余の封授各差有り。僧明・官德併せて朝に入る。蠻山を出でて辺城・建安に至る者、八九千戸。義州は尋いで梁の将裴邃の陥す所と為る。梁の定州刺史田超秀もまた使者を遣わして附を求め、歴年援を請う、朝廷は軽々しく辺役を致すを恐れ、未だこれを許さず。会に超秀死し、その部曲相率いて内附し、これを徙す。六鎮・秦・隴所在反叛し、二荊・西郢の蠻大いに擾動し、三鵶路を断ち、 都督 ととく を殺し、寇盗襄城・汝水に至り、百姓多くその害を被る。梁将を遣わして広陵を囲み、楚城の諸蠻、並びに前駆と為る。汝水以南より、恣にその暴掠を為し、連年攻討すれども、散じてまた合し、その暴ますます甚だし。

また冉氏・向氏・田氏有り、陬落特に盛んなり。余は則ち大なる者は万家、小なる者は千戸、更に相崇樹し、王侯を僭称す。三峡を屯拠し、水路を断遏し、荊蜀の行人、假道する者有るに至る。周文、伊・瀍を略定し、声教南に被わり、諸蠻威を畏れ、靡然として風に向かう。大統五年、蔡陽蠻王魯超明内属し、南雍州刺史を授け、仍世襲せしむ。十一年、蠻酋の梅勒特来たりてその方物を貢ぐ。尋いで蠻帥の田杜青及び江・漢の諸蠻擾動し、大将軍楊忠これを撃ち破る。その後蠻帥の杜青和自ら巴州刺史と称し、入附す、朝廷その称する所に因りてこれを授く。杜青和後遂に反し、東梁州を攻め囲む。その唐州蠻の田魯嘉もまた叛き、自ら 州伯と号す。王雄・權景宣等前後これを討平す。

廃帝の初め、蛮の首長樊舍が挙落して内附し、督淮北三州諸軍事・淮州刺史・淮安郡公に任ぜられた。于謹らが江陵を平定すると、諸蛮が騒動し、詔により豆盧寧・蔡祐らが討ってこれを破った。恭帝二年、蛮の酋長宜人王田興彦・北荊州刺史梅季昌らが相次いで款附した。興彦・季昌を並びに開府儀同三司とし、季昌に洛州刺史を加え、石台県公の爵を賜った。その後、巴西の人譙淹が君蛮を扇動して梁に附かせ、蛮の帥向鎮侯・向白虎らがこれに応じた。向五子王はまた信州を攻め陥とし、田烏度・田唐らは江路を遮断し、文子栄はまた荊州の汶陽郡を占拠して仁州刺史を自称し、並びに鄰州刺史蒲微も挙兵して命に逆らった。詔により田弘・賀若敦・潘招・李遷哲らが討ってこれを破った。周の武成の初め、文州の蛮が叛き、州軍が討って平定した。まもなく冉令賢・向五子王らがまた白帝を攻め陥とし、開府楊長華を殺し、ついに相率いて乱を起こした。前後して開府元契・趙剛らを遣わし総兵を率いて討伐に出たが、その族類をかなり切り取ったものの、元悪は除かれなかった。天和元年、詔により開府陸騰が王亮・司馬裔らを督してこれを討った。騰は水陸ともに進軍し、湯口に駐屯し、まず諭しを遣わした。しかし令賢はちょうど城池を増築し浚渫し、防禦を厳重に設け、その長子西黎・次子南王にその支族を率いさせ、江南の険要の地に十城を設置し、遠く涔陽蛮と結んでその声援とした。令賢はその兵卒を率い、水邏城を固守した。騰はそこで将帥を総集して進撃の策を謀り、皆まず水邏を取ることを望んだが、騰は衆に言うには、「令賢は内には水邏の金湯の険に恃み、外には涔陽の輔車の援けを託し、兼ねてまた資糧充実し、器械精新である。我が懸軍をもって、その厳壘を攻め、もし一戦して克たずば、かえってその気勢を成すことになろう。軍を湯口に頓して、まず江南を取り、その毛羽を翦ぎ、それから游軍して水邏を攻めるのが、制勝の計である」と。衆は皆これを然りとした。そこで開府王亮に衆を率いさせて江を渡らせ、旬日のうちにその八城を攻め落とし、凶党は奔散し、賊の帥冉承公を捕らえ、生口三千人を得て、その部衆一千戸を降した。ついに ぎょう 勇を簡募し、数道に分かれて水邏を攻めた。路は石壁城を経るが、険峻で四面壁立し、故にこの名がある。ただ一つの小路があり、梯を縁って上るが、蛮蜒はこれを峭絶として、兵衆の行くところではないと考えていた。騰は甲を着けて先に登り、衆軍が続いて進み、危険な阻害を経て、累日してようやく旧路を得た。かつ騰は先に隆州総管を任じられ、この路の蛮帥冉伯犁・冉安西が令賢と不和であることをよく知っていた。騰はそこで伯犁らを招き誘い、父子の契りを結び、また多く金帛を贈った。伯犁らは喜び、ついに郷導となった。水邏の側にまた石勝城というものがあり、これも険要で、令賢はその兄龍真にこれを守らせていた。騰はまた密かに龍真に告げて、もし水邏を平定したならば、彼に令賢の地位を代わらせると言った。龍真は大いに喜び、その子を騰のもとに遣わした。騰は厚く礼遇し、金帛を賜った。蛮は利に貪り深く、なお功を立てることを請うた。そこで騰に言うには、「拠る城を翻そうと思うが、人力が少ないことを恐れる」と。騰は三百の兵を助けることを許した。既にして二千人を遣わし、枚を銜んで夜に進み、龍真は力及ばず防ぐことができず、ついに石勝城を平定した。朝に水邏に至ると、蛮衆は大いに潰え、斬首一万余級に及んだ。令賢は遁走したが、追ってこれを捕らえた。司馬裔はまた別にその二十余城を下し、蛮の帥冉三公らを捕らえた。騰はそこでその骸骨を水邏城の側に積んで京観とし、後々蛮蜒はこれを見るたびに大いに哭き、これより狼戾の心は止んだ。

時に向五子王は石墨城を拠り、その子宝勝に双城を守らせた。水邏平定後、頻りに諭しを遣わしたが、五子王はなお従わなかった。騰はまた王亮を牢坪に屯させ、司馬裔を双城に屯させてこれを図った。騰は双城が孤峭で、攻めても陥とせず、賊がもし城を棄てて遁散すれば、また追討が難しいと考えた。そこで諸軍に命じて周囲に柵を立てさせ、その走路を遮断すると、賊は大いに驚いた。ここにおいて兵を放ってこれを撃ち破り、石墨において五子王を擒にし、双城において宝勝を捕らえ、諸向の首領を悉く斬り、生擒一万余口を得た。信州は旧く白帝に居したが、騰はさらに劉備の故宮城南、八陳の北、江岸に臨んで城を築き、信州を移置した。また巫県・信陵・秭帰を併せて城を築き防を置き、襟帯となした。

天和六年、蛮の渠帥冉祖裛・冉龍驤がまた反し、詔により大将軍趙訚が討って平定した。これより群蛮は懼れて息み、再び寇と為らなかった。

獠とは、蓋し南蛮の別種であり、漢中より邛・笮に至るまで、川洞の間、所在みなこれあり。種類甚だ多く、山谷に散居し、氏族の別を略ぼ無し。また名字無く、生む男女は、ただ長幼の次第をもってこれを呼ぶ。その丈夫は阿謨・阿段と称し、婦人は阿夷・阿等の類、皆言葉の次第の称謂である。樹に依り木を積み、その上に居ることを幹闌と名づけ、幹闌の大小は、その家口の数に随う。往々に一の長者を推して王と為すも、また遠く相統摂すること能わず。父死すれば子が継ぎ、中国の貴族の如し。獠王は各々鼓角一双を持ち、その子弟に自ら吹撃させしむ。相殺害するを好み、多く死し、遠行を敢えてせず。水底に臥して刀を持ち魚を刺すことができ、その口は食を嚼み並びに鼻で飲む。死者は、棺を立ててこれを埋む。性は禽獣に同じく、忿怒に至っては、父子も相避けず、ただ手に兵刃ある者を先に殺す。もしその父を殺せば、外に走り避け、一狗を求めて謝すれば、再び嫌恨せず。もし怨みを報いて相攻撃すれば、必ず殺してこれを食らう。平常の劫掠は、ただ猪狗を売り取るのみ。親戚比隣、指授して相売る。売られる者は号哭して服さず、逃げ隠れするが、買い手が指捕しに来れば、亡叛の如く逐い、獲れば便ちこれを縛す。ただ一度縛された者は、即ち賤隷と為るに服し、敢えて良と称せず。児女を亡失すれば、一哭して便ち止み、再び追思せず。ただ楯を執り矛を持ち、弓矢を識らず。竹を用いて簧と為し、群聚してこれを鼓し、音節と為す。細布を為すことができ、色は鮮浄に至る。大狗一頭を、一生口に売る。その俗は鬼神を畏れ、特に淫祀を尚ぶ。殺した人の美鬢髯なる者は、その面皮を剥ぎ、竹に籠め、乾燥すれば、これを鬼と号し、鼓舞してこれを祀り、福利を求む。兄弟妻子を売り尽くす者あり、乃ち自ら売って以て祭に供するに至る。銅を鋳て器と為し、大口で腹広く、銅爨と名づけ、薄く且つ軽く、熟食に易し。

建国中、李勢が蜀に在った時、諸獠は始めて巴西・渠川・広漢・陽安・資中より出で、郡国を攻め破り、益州の大患と為った。勢は内外敵を受け、これが亡びる所以となった。桓温が蜀を破って以来、力をもって制することができず。また蜀人が東流し、山険の地多く空き、獠は遂に山を挟み谷に傍う。夏人と参居する者は、頗る租賦を輸す。深山に在る者は、なお編戸と為らず。梁・益二州は歳ごとに獠を伐ち、以て公私を裨潤し、頗るこれを利と為すに藉りた。

正始年間(504-508年)、夏侯道遷が漢中を挙げて内附すると、宣武帝は尚書邢巒を梁・益二州刺史として派遣し、これを鎮撫させた。漢人に近い者は安堵して生業に励み、山谷に住む者は寇掠を敢えて行わなかった。後に羊祉を梁州刺史とし、傅豎眼を益州刺史とした。羊祉の性格は残酷で、民情を得られなかった。梁の輔国将軍范季旭が獠王趙清荊と共に兵を率いて孝子谷に駐屯すると、羊祉は統軍魏胡を派遣してこれを撃退した。後に梁の寧朔将軍姜白が再び夷獠を擁して南城に入り駐屯し、梁州の者王法慶がこれと通謀し、兵を固門川に駐屯させた。羊祉は征虜将軍を派遣してこれを討ち破った。傅豎眼は恩恵を施し信義を示し、大いに獠の和を得た。後に元法僧が傅豎眼に代わって益州刺史となると、法僧は在任中貪婪で残虐であったため、獠は遂に反乱を起こし、梁の兵を引き入れて晋寿を包囲攻撃した。朝廷はこれを憂慮し、傅豎眼が先に民情を得ていたので、再び駅伝に乗って赴き慰撫するよう命じた。獠は傅豎眼が来ると聞き、喜ばない者はなく、道で拝礼して迎え、これによって平定された。元桓、元子真が相次いで梁州刺史となったが、いずれも徳績がなく、諸獠はこれに苦しんだ。その後、朝廷は梁・益二州が険遠の地を制御することを考慮し、巴州を立てて諸獠を統轄させた。後に巴の酋長厳始欣を刺史とした。また隆城鎮を立て、管轄する獠二十万戸を統べた。彼らは北獠と呼ばれ、毎年租布を納め、また外部の人々と交通貿易を行った。巴州の生獠は、いずれも従順ではなく、その諸頭王は、時節ごとに刺史に謁見するのみであった。孝昌初年(525年)、諸獠は始欣の貪暴を理由に相率いて反乱を起こし、巴州を攻囲した。山南行台の魏子建が慰撫諭告すると、即時に解散した。これ以降、獠の諸頭王が相次いで行台に詣でる者が続き、子建は手厚く慰労し賜物を与えた。始欣は中国に多事があるのを見、また彼らの心を失い、罪譴を受けることを恐れていた。時に梁の南梁州刺史陰子春が辺境を扇動していたので、始欣は南叛を謀った。始欣の族子の厳愷は当時隆城鎮将であり、密かにこれを知り、厳しく斥候を設けた。そこで梁の使者を捕らえ、始欣への詔書・鉄券・刀剣・衣冠の類をことごとく封じて行台に送り届けた。子建は上奏して、傅豎眼が長く病んでいること、その子の敬紹が始欣から多額の賄賂を受け取って彼が州に戻ることを許したことを報告した。始欣は兵を起こして愷を攻撃し、これを屠滅して城を占拠し南叛した。梁の将軍蕭玩が兵を率いて援護した。時に梁・益二州はともに将を派遣してこれを討ち、巴州を陥落させ、始欣を捕らえ、遂に蕭玩の軍を大破した。そして蕭玩を斬り、傅曇表を刺史とした。後に元羅が梁州にいた時、その地は陥落し、これ以降は絶えた。

周の文帝が梁・益を平定した後、現地に命じて慰撫させた。華人と雑居する者は、賦役にもかなり従った。しかし天性暴乱であり、間もなく騒擾を引き起こした。毎年、近隣の州鎮に命じて出兵して討伐し、その生口を捕らえて賤隷に充て、これを「圧獠」と呼んだ。後に商旅の往来する者も、これを貨財として扱い、公卿から庶民に至る家で、獠口を持つ者は多かった。恭帝三年(556年)、陵州の木籠獠が反乱し、詔を下して開府陸騰に討伐させてこれを破った。周の保定二年(562年)、鉄山獠がまた反乱し、江路を遮断した。陸騰がまたその三城を攻め落とした。天和三年(568年)、梁州の恆棱獠が叛き、総管長史趙文表がこれを討った。軍が巴州に駐屯すると、文表は兵を率いて直進しようとした。軍吏らが言うには、「この獠は長く抵抗し、部衆は甚だ強く、これを討つ者は四方から攻めてその勢いを分けます。今もし大軍を直進させ、奇兵を遣わさなければ、恐らくは我が方に力を合わせて当たり、勝つことを制することはできません。」文表は言った、「以前はこれを制することができなかったので、今は別の進撃方法をとる必要がある。もし四方に兵を遣わせば、獠は降伏する道が絶え、道理として相率いて死を覚悟で抗戦するであろう。一つの道から進めば、我は威恩を示すことができ、人を分遣して道理を説き諭し、悪を行う者を討ち、善に帰する者を撫でる。善悪が既に分かれれば、経略しやすい。事には変通があり、どうして以前の轍を踏もうとするのか。」文表はこの考えを軍中に広く伝えさせた。時に従軍した熟獠で、恆棱と親しい者が多く、すぐに実情を報告した。恆棱獠は集まって協議したが、躊躇している間に、文表の軍は既にその境界に至った。獠の地には元々二つの道があり、一つはやや平坦で、一つは極めて険しかった。やがて生獠の酋帥数人が来て文表に会い、「官軍が山川を識らないのを恐れ、郷導となりましょう」と言った。文表は彼らに言った、「この道は広く平坦で、導きは必要ない。卿らは先に行って、子弟をよく慰撫せよ。」そして彼らを帰した。文表は配下に言った、「先ほどの獠の帥は、我々が広い道を行くと思い、必ずや険要に伏兵を設けているであろう。もし険しい道から行き、その不意を衝けば、獠衆は自ら離散するであろう。」そこで兵を率いて険道から進み、通じない所があれば、すぐにこれを平らげた。高みに登って望むと、果たしてその伏兵が見えた。獠は計略を失い、妻子を連れて争って険要な地に退き守った。文表は軍を大蓬山下に駐屯させ、禍福を示した。すると相率いて来降した。文表は皆これを慰撫し、なおその租税を徴収したが、敢えて動く者はなかった。後に文表を蓬州刺史とし、また大いに人心を得た。

建德初年(572年)、李暉が蓬・梁州総管となると、諸獠も風に望んで従い帰附した。しかしその種族は蔓延り、険しい山谷を保ち拠り、山に依り険を走ることは、平地を歩くが如く、たとえ屡々兵を加えても、窮め討つことはできない。性質また無知で、殆ど禽獣と同じく、諸夷の中でも、最も道理をもって招き懐けることが難しい者である。

林邑

林邑は、その先祖の出自については、事柄は『南史』に詳しい。その国は数千里に延び広がり、土地には香木・金宝が多く、物産は大体交趾と同じである。煉瓦で城を築き、蜃灰を塗り、戸は東に向ける。尊官は二つあり、一つは西那婆帝、二つは薩婆地歌という。その属官は三等あり、一つは倫多姓、次は歌倫致帝、次は乙地伽蘭という。外官は二百余りの部に分かれ、その長官は弗羅、次は可輪といい、牧宰の差のようである。王は金の花冠を戴き、形は章甫のようで、朝霞布の衣を着て、珠璣の瓔珞を飾り、革履を履き、時に錦袍を服する。良家の子で侍衛する者は二百人ほどで、皆金装の武器を執る。兵には弓・箭・刀・槊がある。竹で弩を作り、矢に毒を塗る。楽には琴・笛・琵琶・五弦があり、かなり中国と同じである。毎度鼓を撃って衆を警め、蠡を吹いて戎に就く。その人は目が深く鼻が高く、髪は縮れ色は黒い。俗は皆跣足で、幅広い布で身を纏い、冬月には袍を着る。婦人は椎髻である。椰葉の席を敷く。婚姻がある度、媒者に金銀の釧・酒二壺・魚数頭を持たせて女の家に至らせ、そこで日を選び、夫の家が親賓を集め、歌舞を相対して行い、女の家は一人の婆羅門を請うて女を男の家に送り、婿は手を洗い、女を引いてこれを授ける。王が死ぬと、七日で葬る。官のある者は三日、庶人は一日である。皆、棺に屍を納え、鼓舞を先導とし、輿に乗せて水辺に至り、薪を積んで焼く。その余骨を収め、王の場合は金の甕の中に納め、海に沈める。官のある者は銅の甕に納め、海口に沈める。庶人は瓦に納め、江に送る。男女は皆髪を切り、水辺まで泣きながら行き、哀しみを尽くして止み、帰るときは泣かない。毎七日、香を焚き花を散らし、また泣いて哀しみを尽くして止む。百日、三年も皆同じである。人々は皆仏を奉じ、文字は天竺と同じである。

隋の文帝が陳を平定した後、使者を派遣して方物を献上させたが、その後は朝貢が途絶えた。当時天下に事なく、群臣が林邑には多くの奇宝があると述べた。仁寿の末、帝は大将軍劉方を驩州道行軍総管とし、欽州刺史の甯長真、驩州刺史の李暈、開府の秦雄ら歩騎一万余り、および犯罪者数千人を率いてこれを討たせた。その王梵志は巨象に乗って戦い、劉方の軍は不利であった。劉方は多くの小坑を掘り、草で覆い、兵で挑発した。劉方は戦って偽って敗走し、梵志がこれを追うと、その象が陥没し、軍は大いに乱れ、劉方はこれを大破し、梵志は城を棄てて逃走した。その都に入り、廟の主神像十八体を獲たが、皆金を鋳て作り、その国に十八世あったことを示す。劉方が軍を返すと、梵志は故地を回復し、使者を派遣して謝罪し、これより朝貢は絶えなかった。

赤土

赤土国は、扶南の別種である。南海中にあり、水行百余日で至る。都とする所の土色は多く赤く、これにより号とする。東は波羅刺国、西は婆羅娑国、南は訶羅旦国、北は大海に接し、地方数千里である。その王の姓は瞿曇氏、名は多利富多塞、国の近遠を知らない。父が王位を釈し、出家して道に入り、位を利富多塞に伝え、在位十六年であるという。三人の妻があり、皆隣国の女である。僧祗城に住み、門が三重あり、各々百歩ほど離れている。毎門に菩薩や飛仙の像を図画し、金の花や鈴、旄を懸け、婦人数十人が、あるいは楽を奏し、あるいは金の花を捧げる。また四人の婦人を飾り、容飾は仏塔の辺りの金剛力士の如く、門を挟んで立ち、門外の者は兵仗を持ち、門内の者は白拂を執る。道を挟んで素網を垂らし、花を綴る。王宮の諸屋は、悉く重閣で北戸である。北面して三重の榻に坐し、朝霞布を衣とし、金花冠を冠り、雑宝の瓔珞を垂らし、四人の女子が左右に立って侍り、兵衛百余りがいる。王の榻の後に一つの木龕を作り、金銀五香木を雑えて鈿し、龕の後に一つの金光焰を懸ける。榻を挟んでまた二つの金鏡を立て、鏡の前に並べて金甕を陳べ、甕の前に各々金香炉がある。前に一つの金伏牛を置き、前に一つの宝蓋を立て、左右に皆宝扇がある。婆羅門など数百人が、東西に重行し、相向かって坐す。その官は、薩陀加邏一人、陀拏達叉一人、迦利密迦三人、共に政事を掌る。俱羅末帝一人、刑法を掌る。毎城に那邪迦一人、缽帝十人を置く。

その俗は、皆耳を穿ち髪を切り、跪拝の礼がなく、香油を塗って身を飾る。その俗は仏を敬い、特に婆羅門を重んずる。婦人は髻を項後に作る。男女共に朝霞・朝雲の雑色布を衣とする。豪富の家は、恣に華美にし、ただ金鎖は王の賜わらざれば服用できない。毎たび婚嫁には、吉日を選び、女家は先だって五日、楽を作り酒を飲み、父が女の手を執って婿に授け、七日にして初めて配す。娶りて後は、即ち財を分けて別居し、ただ少子のみ父と居る。父母兄弟が死ぬと、髪を剔ぎ素服し、水上に赴き竹木を構えて棚とし、棚内に薪を積み、屍を其上に置き、香を焼き幡を建て、蠡を吹き鼓を撃って送り、火で薪を焚き、遂に水に落とす。貴賤皆同じ、ただ国王は焼き終えて灰を収め、金瓶に貯え、廟屋に蔵す。冬夏常に温かく、雨多く晴れ少なく、種植に時なし。特に稲、穄、白豆、黒麻に適し、その他の物産は、多く交趾と同じである。甘蔗で酒を作り、紫瓜根を雑え、酒の色は黄赤で、味もまた香美である。また椰漿をもって酒とする。

隋の煬帝が位を嗣ぐと、絶域に通ずる者を募った。大業三年、屯田主事の常駿、虞部主事の王君政らが赤土に使することを請うた。帝は大いに悦び、物五千段を齎らせて赤土王に賜わった。その年十月、駿らは南海郡より舟に乗り、昼夜二十日、毎日順風に遇う。焦石山に至りて過ぎ、東南に陵伽缽拔多洲に詣で、西は林邑に対し、上に神祠がある。また南に行き、師子石に至る。ここより島嶼連接す。また二三日行き、西に望んで狼牙須国の山を見、ここに南に達して雞籠島に至り、赤土の界に至った。

その王は婆羅門の鳩摩羅を遣わし、舶三百艘で来迎し、蠡を吹き鼓を撃って隋の使を楽しましめ、金鎖を進めて船を纜いだ。月余りしてその都に至る。王はその子那邪迦を遣わし、駿らと礼見することを請うた。先だって人を遣わし金盤に香花を貯え鏡鑷を送り、金合二枚に香油を貯え、金瓶二枚に香水を貯え、白疊布四条を送り、以て使者の盥洗に供えんと擬す。その日未の時、那邪迦はまた象二頭を将い、孔雀蓋を持って使人を迎え、並びに金盤・金花を致し、以て詔函を藉け、男女百人が蠡鼓を奏し、婆羅門二人が路を導く。王宮に至り、駿らは詔書を奉じて閣に上り、王以下皆坐し、詔を宣べ終わり、駿らを引いて坐らせ、天竺楽を奏し、事畢わりて駿らは館に還る。また婆羅門を館に遣わして食を送らせ、草葉を盤とし、その大きさ方一丈である。駿に謂って曰く、「今は大国の臣であり、もはや赤土国ではない」と。後数日、駿らを請いて宴に入らせ、儀衛導従は初見の礼の如し。王の前に両床を設け、床上に並べて草葉の盤を設け、方一丈五尺、上に黄・白・紫・赤四色の餅、牛・羊・魚・鱉・猪・蝳蝐の肉百余品がある。駿を延いて床に昇らせ、従者は地席にし、各々金鍾に酒を置き、女楽が迭りて奏し、礼遺甚だ厚し。

まもなく那邪迦を遣わし、方物を貢ぎ、並びに金芙蓉冠、龍脳香を献じ、金を鋳て多羅葉とし、文を隠起して表と為し、金函でこれを封じ、婆羅門に香花を持たせ蠡鼓を奏して送らせた。海に入って後、緑魚が群れをなして水上を飛ぶのを見る。海を浮かぶこと十余日、林邑の東南に至り、山に並びて行く。その海水は色黄く気腥く、舟行一日絶えず、これは大魚の糞であるという。海の北岸に循い、交趾に達する。駿は六年の春に那邪迦と共に弘農で帝に謁した。帝は大いに悦び、駿らを執戟都尉に授け、那邪迦らには官賞各々差等があった。

真臘

真臘国は、林邑の西南にあり、本来扶南の属国である。日南郡より舟行六十日で至る。南は車渠国に接し、西に硃江国がある。その王の姓は刹利氏、名は質多斯那。その祖より漸く強盛となり、質多斯那に至りて遂に扶南を兼ねてこれを有つ。死し、子の伊奢那先が代わって立つ。伊奢那城に居し、郭下二万余家。城中に一大堂あり、これはその王が政を聴く所である。総べて大城三十所、城に数千家あり、各々部帥があり、官名は林邑と同じである。

その王は三日に一度朝政を聴き、五香七宝の床に坐し、上には宝帳を施し、文木を竿とし、象牙と金鈿を壁とし、状は小屋の如く、金光の焔を懸け、赤土と同様である。前に金香炉があり、二人を命じて側に侍らせる。王は朝霞古貝を著し、瞞絡して腰腹を覆い、下は脛に垂れ、頭には金宝の花冠を戴き、真珠の瓔珞を被り、足には革屣を履き、耳には金鐺を懸く。常服は白疊とし、象牙を屩とする。もし露髪ならば、瓔珞を加えず。臣下の服制は、大抵相類す。五大臣あり、一は孤落支、二は相高憑、三は婆何多陵、四は舍摩陵、五は髯羅婁、及び諸小臣。王に朝する者は、輒ち階下にて三稽首し、王が階に上るよう呼べば、跪き、両手を以て膊を抱き、王を繞りて環坐す。政事を議し終わりては、跪伏して去る。階庭門閣には、侍衛千余人あり、甲を被り仗を持つ。その国は参半・硃江の二国と和親し、数えしばしば林邑・陀桓の二国と戦争す。その人の行止は、皆甲仗を持ち、もし征伐あらば、これに因りて用いる。

その俗、王の正妻の子でなければ、嗣と為ることを得ず。王が初めて立つ日、所有の兄弟を並びに刑残し、或いは一指を去り、或いはその鼻を劓ぎ、別処に供給し、仕進することを得ず。人の形は小さくして色黒く、婦人にも白き者あり。悉く拳発にして耳に垂れ、性気は捷勁なり。居処器物は、頗る赤土に類す。右手を以て浄と為し、左手を穢と為す。毎旦澡洗し、楊枝を以て歯を浄め、経咒を読誦し、また澡灑して乃ち食す。食罷には還た楊枝を以て歯を浄め、また経咒を読む。飲食は多く蘇酪・沙糖・秔粟・米餅なり。食せんと欲する時は、先ず雑肉羹を取りて餅と相和し、手擩して食す。妻を娶る者は唯ち女人を女に送り、日を択びて媒人を遣わし婦を迎える。男女二家は、各八日間出でず、昼夜燈を燃やして息まず。男の婚禮畢れば、即ち父母と財を分かち別居す。父母死すれば、小児未婚の者は、余財を以てこれに与う。もし婚畢れば、財物は官に入る。喪葬には、児女は皆七日間食せず、発を剔ぎて喪し、僧尼・道士・親故皆来り聚會し、音楽を以てこれを送る。五香木を以て屍を焼き、灰を収め、金銀の瓶を以て盛り、大水の内に送る。貧者は或いは瓦を用い、而して五彩色を以てこれを画す。また焚かずして、屍を山中に送り、野獸に任せて食わしむる者あり。

その国の北は多く山阜あり、南は水澤あり。地気は尤も熱く、霜雪無く、瘴癘毒蜇に富む。粱・稻に宜しく、黍・粟は少なし。果菜は日南・九真と相類す。異なるものに、婆羅那娑樹あり、花無く、葉は柿に似、実は冬瓜に似る。庵羅樹は、花・葉は棗に似、実は李に似る。毗野樹は、花は木瓜に似、葉は杏に似、実は楮に似る。婆田羅樹は、花・葉・実並びに棗に似て小異なり。歌畢佗樹は、花は林檎に似、葉は榆に似て厚大、実は李に似、その大きさ升の如し。自余は多く九真と同じ。海に建同と名づくる魚あり、四足鱗無く、鼻は象の如く、水を吸いて上噴し、高さ五六十尺。浮胡魚あり、形は鲠且に似、嘴は鸚鵡の如く、八足あり。多く大魚あり、半身出で、これを望めば山の如し。毎に五六月の中、毒気流行すれば、即ち白豬・白牛・羊を以て城の西門外にこれを祠る。然らずば、五穀登らず、畜多く死に、人疾疫す。近都に陵伽缽婆山あり、上に神祠あり、毎に兵二千人を以てこれを守衛す。城東の神は名を婆多利とし、祭りに人肉を用いる。その王は年別に人を殺し、夜を以て祠禱し、また守衛する者千人あり。その鬼を敬うことかくの如し。多く佛法を奉じ、尤も道士を信ず。佛及び道士、並びに像をその館に立つ。

隋の大業十二年、使いを遣わして貢献し、帝はこれを礼すること甚だ厚く、その後もまた絶ゆ。

婆利

婆利国は、交趾より浮海し、南に赤土・丹丹を過ぎ、乃ちその国に至る。国界は、東西四月行、南北四十五日行。王の姓は刹利邪伽、名は護濫那婆。官は独訶邪拿と曰い、次は独訶氏拿と曰う。国人は輪を投げることを善くし、その大きさ鏡の如く、中に竅あり、外鋒は鋸の如く、遠くこれを以て人に投げれば、中らざる無し。その余の兵器は、中国と略同じ、俗は真臘に類し、物産は林邑と同じ。その人を殺し及び盗むは、その手を截ち、奸する者は、その足を鎖し、期年にして止む。祭祀は必ず月晦を以てし、盤に酒肴を貯え、流水にこれを浮かぶ。毎十一月必ず大祭を設く。海は珊瑚を出す。舍利と名づくる鳥あり、人の語を解す。

隋の大業十二年、使いを遣わして朝貢し、後遂に絶ゆ。

時に南荒に丹丹・盤盤の二国あり、また来たりて方物を貢し、その風俗・物産は、大抵相類すと云う。

【論】

論じて曰く、『礼』に云う、「南方を蛮と曰い、火食せざる者あり」と。然れどもその種類一にあらず、華人と錯居し、その流れを蜒・獽・俚・獠・厓と曰う。居に君長無く、山洞に随いて居る。その俗、発を断ち身に文し、相攻討するを好む。秦三楚を並び、漢百越を平げしより、地は丹徼に窮まり、景は日南に極まり、水陸居るべきこと、皆郡県と為る。洎乎に境南北に分かれ、割據各々殊なるに及び、蛮・獠の族は、遞に去就を為す。林邑・赤土・真臘・婆利に至っては、則ち地江嶺を隔て、中国に通ぜず。隋氏命を受けて、九宇を克平し、煬帝業を纂ぎ、威八荒に加わり、遠きに甘心し、志珍異を求むるに及びては。故に師を流求に出だし、兵を林邑に加え、威殊俗に振い、秦・漢を過ぐること遠し。荒外の功有りと雖も、域中の敗を救う無し。『伝』に曰く、「聖人に非ざれば、外甯すれば必ず内憂有り」と。誠に斯の言なるかな。

大業の中、南荒朝貢する者十余国、その事蹟湮滅し、今知るべきは四国のみ。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻095