北史

卷九十六 列傳第八十四

てい

氐とは、西夷の別種であり、白馬と号す。三代の際、蓋し自ら君長有り、而して世に一朝見す、故に『詩』に「彼の氐・ きょう より自り、敢へて来王せざる莫し」と称す。秦・漢以来、世に岐・隴の南、漢川の西に居り、自ら豪帥を立てる。漢武帝、中郎将郭昌・衛広を遣わして之を滅ぼし、其の地を以て武都郡と為す。汧・渭より巴・蜀に抵るまで、種類実に繁く、或いは之を白氏と謂ひ、或いは之を故氐と謂ひ、各々侯王有り、中国の封拝を受く。

漢の建安中、楊騰と云ふ者有り、部落の大帥と為る。騰は勇健にして計略多く、始めて仇池に徙居す。方百頃、因りて以て号と為す。四面斗絶し、高さ七里余、蟠道三十六回、其の上に豊水泉有り、土を煮て塩を成す。騰の後、千万と名乗る者あり、魏より百頃氐王に拝せらる。

千万の孫、飛龍と名乗る、漸く強盛となり、晋武帝より平西将軍を仮授さる。子無く、外甥の令狐茂搜を養ひて子と為す。恵帝の元康中、茂搜自ら輔国将軍・右賢王と号し、群氐推して以て王と為す。関中の人士流移する者、多く之に依る。湣帝、以て驃騎将軍・左賢王と為す。茂搜死し、子の難敵位を統べ、弟の堅頭と部曲を分つ。難敵自ら左賢王と号し、下辨に屯す。堅頭は右賢王と号し、河池に屯す。難敵死し、子の毅立つ。自ら使持節・龍驤将軍・左賢王・下辨公と号す。堅頭の子の盤を以て使持節・冠軍将軍・右賢王・河池公と為す。晋に臣し、晋は毅を征南将軍と為す。

三年、毅の族兄の初、襲ひて毅を殺し、併せて其の衆を有ち、自ら仇池公と立つ。石季龍に臣し、後に晋に蕃称す。永和十年、初を改めて天水公と為す。十一年、毅の小弟の宋奴、姑の子の梁三王をして侍直に因りて手を下し初を殺さしむ。初の子の国、左右を率ひて三王及び宋奴を誅し、復た自ら仇池公と立つ。桓温、表して国を秦州刺史と為し、国の子の安を武都太守と為す。

十二年、国の従叔の俊、復た国を殺し自ら立つ。国の子の安、苻生に叛き、俊を殺し、復た晋に蕃称す。死し、子の世自ら仇池公と立つ。晋の太和三年、世を以て秦州刺史と為し、弟の統を武都太守と為す。世死し、統は世子の纂を廃し自ら立つ。統は一名を徳と云ふ。纂、党を聚めて統を襲ひ殺し、自ら仇池公と立つ。使を遣わして簡文帝に詣る。纂を以て秦州刺史と為す。晋の咸安元年、苻堅、楊安を遣わして纂を伐ち、之を克ち、其の人を関中に徙し、百頃の地を空しうす。

宋奴の死に、二子の仏奴・仏狗、苻堅に逃奔す。堅は女をして仏奴の子の定に妻せしめ、 めと 書・領軍に拝す。苻堅の敗れに、関右擾乱し、定は堅に尽力す。堅死し、乃ち衆を率ひて隴右に奔り、歴城に徙居し、仇池を去ること百二十里、食儲を百頃に置く。夷夏を招きて千余家を得、自ら龍驤将軍・仇池公と称し、晋に蕃称す。孝武、即ち其の自号を以て之に仮授し、後に以て秦州刺史と為す。登国四年、遂に秦州の地を有ち、隴西王と号す。後に乞仏乾帰に殺され、子無し。

仏狗の子の盛、先づ監国として仇池を守り、乃ち つか を統べ、自ら征西将軍・秦州刺史・仇池公と号す。定を武王と諡す。諸氐・羌を分けて二十部護軍と為し、各々鎮戍と為し、郡県を置かず。遂に漢中の地を有ち、仍て晋に蕃称す。天興初、使を遣わして朝貢し、詔して盛を征南大将軍・仇池王と為す。姚興に隔礙せられ、歳毎に貢使を通ずるを得ず。盛は兄の子の撫を平南将軍・梁州刺史と為し、漢中を守らしむ。宋の永初中、宋武帝、盛を封じて武都王と為す。盛死し、私諡して恵文王と曰ふ。子の玄、位を統ぶ。

玄は字を黄眉と云ひ、征西大将軍・開府儀同三司・秦州刺史・武都王と号す。宋に蕃すと雖も、仍て晋の義熙の号を奉ず。後に始めて宋の元嘉の正朔を用ふ。初め、盛、玄に謂ひて曰く、「吾れ年已に老ゆ、当に終に晋の臣と為るべし、汝善く宋帝に事へよ」と。故に玄之を奉ず。玄は士を待つに善く、流旧の懐ふ所と為る。始光四年、太武、大鴻臚の公孫軌を遣わし、玄を征南大将軍・督梁州刺史・南秦王に拝す。玄、表を上して内蕃に比せんことを請ふ、之を許す。玄死し、私諡して孝昭王と曰ふ。子の保宗、位を統ぶ。

初め、玄、臨終に弟の難当に謂ひて曰く、「今境 うかが 未だ寧かならず、方に撫慰を須ふ、保宗沖昧なり、吾れ卿に国事を授く、其れ先勲を墜すこと無かれ」と。難当固く辞し、保宗を立てて之を輔けんことを請ふ。保宗既に立つ、難当の妻の姚氏、難当に謂ひて曰く、「国険なり、宜しく長君を立つべし、反つて孺子に事ふるは、久しき計に非ず」と。難当之に従ひ、保宗を廃して自ら立ち、宋に蕃称す。難当、保宗を拝して鎮南将軍と為し、石昌に鎮す。次子の順を以て鎮東将軍・秦州刺史と為し、上邽を守らしむ。保宗、難当を襲はんと謀る、事泄れ、繫がる。是に先立ち、四方の流人、仇池の豊実なるを以て、多く往きて依附す。流人に許穆之・郝惔之の二人有りて難当に投ず、並びに姓を改めて司馬と為し、穆之自ら名は飛龍と云ひ、惔之自ら名は康之と云ひ、是れ晋室の近戚なりと云ふ。康之、尋で人の為に殺さる。時に宋の梁州刺史の甄法護、刑政理めず、宋の文帝、刺史の蕭思話を遣わして代任せしむ。難当、思話未だ至らざるを以て、将を遣わして兵を挙げ梁州を襲ひ、白馬を破り、遂に漢中の地を有つ。尋で思話其の司馬の蕭承之をして先駆として進討せしむ、向ふ所克捷し、遂に梁州を平ぐ。因りて又た宋に附す。難当、後に保宗を釈き、董亭に鎮せしむ。保宗は兄の保顕と共に京師に帰る。太武、保宗を征南大将軍・秦州牧・武都王に拝し、公主を尚せしむ。保顕を鎮西将軍・晋寿公と為す。後に大鴻臚の崔頤を遣わし、難当を征南大将軍・儀同三司・領護西羌 校尉 こうい ・秦梁二州牧・南秦王に拝す。

難当、後に自ら大秦王と立ち、年号を建義と曰ひ、妻を立てて王后と為し、世子を太子と為し、百官を置きて具に天朝に擬す。然れども猶ほ宋に貢献して絶えず。尋で其の国大旱し、災異多く、大秦王より降りて復た武都王と為る。太延初、難当、上邽に鎮して立つ。太武、車騎大将軍・楽平王の丕等を遣わし、河西・高平の諸軍を督して上邽を取り、又た詔して難当に諭し、詔を奉じて摂守せしむ。尋で国を傾けて南寇し、蜀土を有たんと規り、宋の益州を襲ひ、涪城を攻め、又た巴西を伐ち、雍州の流人七千余家を獲て、仇池に還る。宋の文帝怒り、将の裴方明等を遣わして之を伐たしむ。難当、方明に敗れ、仇池を棄て、千余騎と共に上邽に奔る。太武、中山王の辰を遣わし之を迎へて行宮に赴かしむ。方明、既に仇池を克ち、保宗の弟の保熾をして之を守らしむ。河間公の齊、之を撃ち走らす。

先に、詔により保宗を上邽に鎮守させ、また詔により駱穀に鎮守させ、その本国を回復させた。保宗の弟文德は先に氐中に逃れており、そこで保宗を説き叛くことを命じた。事が漏れ、楊難当は保宗を捕らえて京師に送り、詔により難当がこれを殺した。氐・羌は文德を立て、濁水に屯した。文德は自ら征西将軍・秦河梁三州牧・仇池公を号し、宋に援を求め、宋は文德を武都王に封じ、偏将房亮之らを派遣してこれを助けた。楊難当は逆撃し、房亮之を捕らえた。文德は葭蘆に奔って守り、武都・陰平の氐は多くこれに帰した。詔により淮陽公皮豹子らが諸軍を率いて文徳を討ち、文德は漢中に逃走し、その妻子・僚属・資糧を収めた。また保宗の妻である公主を京師に送り、賜死した。初め、公主は保宗に反することを勧め、人が問うて曰く、「父母の邦を背くことは如何」と。公主曰く、「礼に、婦人は外に成り、夫によって栄える。事が立ち、一方を拠守すれば、我もまた一国の母であって、どうして小県の主と比べられようか」と。これによって罪を得た。

文成帝の時、楊難当を営州刺史に拝し、後に外都大官に還った。卒し、諡して忠という。子の楊和は父に従って魏に帰し、別に爵仇池公を賜う。子の徳子が難当の爵を襲い、早く卒した。子の小眼が襲い、例により公に降格され、天水太守に拝し、卒した。子の大眼は別に伝がある。小眼の子公熙が爵を襲いだ。正光年中、尚書右丞張普惠が行台となり、租を南秦・東益に送り、普惠は公熙をともに行かせるよう上啓した。南秦に至り、氐が反したため進めず、公熙を遣わして先に氐を慰撫させた。東益州刺史魏子建は公熙が険薄であるとして、密かに訪察を命じ、公熙は果たして密謀があり、叛乱を起こそうとしていた。子建はそこで普惠に報せ、その摂録を命じた。普惠は急ぎ公熙を追ったが、公熙はついに赴かず、東に出て漢中に入った。普惠は表してその事を列挙したが、公熙は大いに賄賂を行い、ついに罪を免れた。後に仮節・別将となり、 都督 ととく 元志とともに岐州を守ったが、秦の賊莫折天生に捕らえられ、秦州で死んだ。

文德は後に漢中から入り、汧・隴を統べ、ついに陰平・武興の地を有した。後に宋の荊州刺史劉義宣に殺された。

保宗が捕らえられた時、子の元和は宋に奔り、武都・白水太守とされた。元和は城を拠して帰順し、文成帝はこれを嘉し、征南大将軍・武都王に拝し、内徙して京師に住まわせた。

元和の従叔の僧嗣がまた葭蘆で自ら武都王を称した。僧嗣が死ぬと、従弟の文度が自ら武興王と立ち、使者を遣わして帰順した。献文帝は文度を武興鎮将に授けたが、まもなくまた叛いた。孝文帝の初め、征西将軍皮歓喜が葭蘆を攻めてこれを破り、文度の首を斬った。

文度の弟の楊弘は、小名を鼠といい、名は献文帝の廟諱に犯すため、小名で称された。鼠は自ら武興王となり、使者を遣わして表を奉り謝罪し、その方物を貢いだので、孝文帝はこれを受け入れた。鼠は子の狗奴を入侍させ、鼠を 都督 ととく ・南秦州刺史・征西将軍・西戎 校尉 こうい ・武都王に拝した。鼠が死ぬと、従子の後起が位を統べ、孝文帝はまた鼠の爵をこれに授けた。鼠の子の集始は白水太守となった。後起が死ぬと、集始を征西将軍・武都王とした。集始はまた京師に朝し、 都督 ととく ・南秦州刺史・安南大将軍・領護南蛮 校尉 こうい ・漢中郡侯・武興王に拝され、車旗・戎馬・錦彩・繒纊を賜った。まもなく武興に還り、鎮南将軍に号を進め、加えて寧・湘五州諸軍事を督した。後に仇池鎮将楊霊珍が武興を襲撃して破り、集始はついに斉に入った。景明初年、集始が来降し、爵位を還授され、武興を守ることに帰った。死ぬと、子の紹先が立ち、 都督 ととく ・南秦州刺史・征虜将軍・漢中郡公・武興王に拝され、集始には車騎大将軍・開府儀同三司を追贈し、諡して安王といった。

紹先は幼少であったため、事を二叔の集起・集義に委ねた。夏侯道遷が漢中を以て帰順した時、梁の白馬戍主尹天保が衆を率いてこれを包囲した。道遷は集起・集義に援を求めたが、二人は辺蕃を保つのみ貪り、これを救おうとしなかった。ただ集始の弟の集朗のみが功を立てることを心に願った。衆を率いて天保を破り、漢川を全うしたのは、集朗の力であった。集義は梁・益が既に定まったのを見て、武興が久しく外藩たり得ないことを恐れ、ついに諸氐を扇動し、紹先を推して大号を僭称させ、集起・集義はともに王を称し、外に梁を引き込んで援とした。安西将軍邢巒が建武将軍傅豎眼を遣わして武興を攻めこれを克ち、紹先を捕らえて京師に送り、ついにその国を滅ぼし、武興鎮とし、また鎮を改めて東益州とした。

前後の鎮将唐法楽・刺史杜纂・邢豹は威恵を衷えず、氐の豪族仇石柱らが相率いて反叛し、朝廷は西南を憂えた。正光年中、詔により魏子建を刺史とし、恩信をもって招撫したところ、風化大いに行われ、遠近の者が款附し、内地のようであった。後に唐永が子建に代わって州となったが、まもなく、氐人は悉く反した。永は城を棄てて東走し、ここから再び氐の地となった。

魏末、天下乱れ、紹先は奔還して武興に至り、再び自ら王と立った。周の文帝が秦・隴を定めると、紹先は藩を称し、妻子を質として送った。大統元年、紹先はその女を娶ることを請い、周の文帝が奏上して魏帝に許させた。紹先が死ぬと、子の辟邪が立った。

四年、南岐州の氐苻寿が反し、武都を攻め陥とし、自ら太白王と号した。詔により大 都督 ととく 侯莫陳順と渭州刺史長孫澄がこれを討って降した。九年、清水の氐酋李鼠仁が地を拠って乱を起こし、氐帥梁道顕が叛き、南由を攻めた。周の文帝は典籤趙昶を遣わして慰諭し、鼠仁らは相継いで帰附した。十一年、武興に東益州を置き、辟邪を刺史とした。十五年、安夷の氐がまた叛いた。趙昶は時に郡守であり、首謀者二十余人を収めて斬り、ようやく定めた。ここにおいて趙昶を行南秦州事とした。氐帥蓋闘らが乱を起こし、蓋闘は北穀に拠り、その党は西に宕昌の羌獠甘と結び、共に蓋闘を主に推した。趙昶は道を分けて使者を遣わし、禍福を宣示した後、兵を出してこれを討った。蓋闘を擒え、その余党を散じた。興州の叛氐がまた南岐州を侵逼し、刺史叱羅協が使者を遣わして告急すると、趙昶が赴救し、またこれを大破した。先に、氐酋楊法深が陰平を拠り自ら王を称したが、これも楊盛の苗裔である。魏の孝昌年中、衆を挙げて内附し、ここから職貢絶えなかった。廃帝元年、楊法深を黎州刺史とした。二年、楊辟邪が州を拠りて反し、群氐はまたこれと同逆した。詔により叱羅協と趙昶がこれを討平した。周の文帝はここにおいて大将軍宇文貴を大 都督 ととく ・興州刺史とした。貴の威名は先に著しく、群氐はこれを頗る畏服した。来年、楊法深は尉遅迥に従って蜀を平らげ、軍が還ると、法深はまもなくその宗人の楊崇集・楊陳侳と各々その衆を擁し、互いに攻め討った。趙昶は時に成・武・沙三州諸軍事を督し、使者を遣わしてこれを和解させた。法深らは命に従い、そこでその部落を分け、更に州郡を置いてこれらを処した。

恭帝の末、武興の氐が反乱を起こし、利州を包囲し、鳳州の固道の氐である魏天王らもまた徒党を集めて呼応し、大将軍豆盧寧らがこれを討伐平定した。周の明帝の時、興州の人段吒及び下弁・柏樹の二県の人が反乱し、相率いて蘭皋の戍を破った。氐の酋長姜多はまた厨中の氐の属を率いて落叢郡を陥落させてこれに応じた。趙昶が二県を討伐平定し、併せて段吒を斬った。しかし陰平・葭蘆の氐はまたしばしば屯聚し、厨中と相応じた。昶はそこで精鋭の騎兵を選び、その不意を衝き、直ちに厨中に入り、大竹坪に至り、連続して七つの柵を破り、その渠帥を誅し、二郡は共に降伏した。昶が還ると、厨中の生氐がまた寇掠を行った。昶はまた儀同の劉崇義・宇文琦を遣わして厨中に入りこれを討伐させ、ここにおいて群氐は共に平定された。

王謙が挙兵すると、沙州の氐の帥で開府の楊永安がまた州を拠点として謙に応じ、大将軍達奚儒がこれを討伐平定した。

吐谷渾 とよくこん

吐谷渾は、本来遼東の鮮卑徒河の渉帰の子である。渉帰は一名を弈洛韓といい、二人の子があり、庶長子を吐谷渾といい、少子を若洛廆といった。渉帰が死ぬと、若洛廆が代わって部落を統率し、これが慕容氏である。渉帰が存命中に、七百戸を分けて吐谷渾に与え、若洛廆と二部とした。馬が争って傷つけ合うと、若洛廆は怒り、人を遣わして吐谷渾に言った。「先公の処分では、兄とは別の部とされた。どうして遠く離れず、馬が争って傷つけ合うのか。」吐谷渾は言った。「馬は草を食み水を飲み、春の気が発動するので争うのであり、争いは馬にあるのに、怒りが人に及ぶとは、別れるのは甚だ容易である。今、汝から万里の外へ去ろう。」若洛廆は後悔し、旧老及び長史の七那楼を遣わして謝罪させた。吐谷渾は言った。「我が乃祖以来、遼右に徳を樹て、先公の世に、卜筮の言葉に『二人の子あり、福祚を享け、共に子孫に流れる』とあった。我は卑しい庶子であり、道理として並び立つことはない。今、馬によって怒りを招いたのは、恐らく天が啓示したのであろう。諸君、試みに馬を東へ駆り立ててみよ。馬がもし東へ還れば、我も従って去ろう。」即ち従騎に命じて馬を押し戻させると、数百歩で、忽ち悲鳴をあげ、突進して西へ走り、その声は山が崩れるようであり、このようなことが十余度もあり、一回戻るごとに迷った。楼は力尽き、跪いて言った。「可汗、これはもはや人の力ではどうにもなりません。」渾はその部落に言った。「我が兄弟子孫は共に昌盛すべきであり、廆は子及び曾孫・玄孫に伝わり、その間は百余年に及ぶであろう。我は玄孫の間になって初めて顕れるであろう。」ここにおいて遂に西へ附いて陰山に至り、後に道を借りて隴に上った。若洛廆は吐谷渾を追慕し、『阿於歌』を作った(徒河では兄を阿于という)。子孫が僭号すると、この歌を輦後の鼓吹の大曲とした。

吐谷渾は遂に隴に上り、 枹罕 ほうかん に留まった。枹罕から甘松に至り、南は昂城・隴涸を界とし、洮水の西南から白蘭に極るまで、数千里の中を、水草を追い、廬帳に住み、肉と酪を糧食とした。西北の諸雑種はこれを阿柴虜と呼んだ。

吐谷渾が死ぬと、六十人の子があった。長子の吐延は、身長七尺八寸、勇力人に過ぎ、性格は苛烈で暴虐であった。昂城の羌の酋長姜聰に刺され、剣がなお体にあったまま、子の葉延を呼んでその大将の絶抜泥に言った。「我が気絶したら、棺に納め終わったら、速やかに去って白蘭を保て。その地は険遠であり、また土俗は懦弱で、制御しやすい。葉延は小児であり、余人に授けようとすれば、恐らく慌ただしくて終には制することができまい。今、葉延を汝に託す。股肱の力を尽くしてこれを補佐せよ。孺子が立ち得れば、我に恨みはない。」剣を抜いて死んだ。十二人の子があった。

葉延は幼くして勇猛果断であり、十歳の時、草を縛って人形とし、姜聰と号し、毎朝これに射かけ、射中ると嗥叫して泣き涕した。その母が言った。「仇賊の諸将は既に屠膾した。汝は年が小さいのに、どうして煩わしくも朝毎に自ら苦しむのか。」葉延は嗚咽して堪えられない様子で、母に答えて言った。「確かに無益であると知っているが、果てしなき心が、その痛みに勝てないのである。」性格は至孝であり、母が病み、母が三日食べないと、葉延も食べなかった。書伝をよく読み、自ら言うには、曾祖の弈洛韓が初めて昌黎公に封ぜられ、我は公孫の子である。『礼』によれば、公孫の子は王父の字を氏とすることができる。そこで吐谷渾を氏とした。

葉延が死に、子の碎奚が立った。性格は淳朴で謹直であったが、三人の弟が専権を握り、碎奚は制することができず、諸大将が共にこれを誅した。奚は憂い悲しんで再び政事を執らず、遂に子の視連を世子として立て、事を委ねた。号して莫賀郎といった(華言で父のこと)。奚は遂に憂い死した。視連が立ち、父の憂いを思って、遊び楽しみ酣宴しなかった。十五年で死に、弟の視羆が立った。死ぬと、子の樹洛幹らは皆幼く、弟の烏紇提が立ち、樹洛幹の母を妻とし、二人の子慕璝・慕利延を生んだ。烏紇提は一名を大孩といい、死ぬと、樹洛幹が立ち、自ら車騎将軍と号した。この年は、晋の義熙の初めである。樹洛幹が死に、弟の阿豺が立ち、自ら驃騎将軍・沙州刺史と号した。部内に黄沙があり、周囲数百里、草木が生えず、そこで沙州と号した。阿豺は氐・羌を兼併し、地方数千里、強国と号された。西強山に登り、墊江の源を観て、群僚に問うて言った。「この水は東に流れるが、さらに何という名があるか。どの郡国を通り、どの水に入るか。」その長史の曾和が言った。「この水は仇池を経て、晋寿を過ぎ、宕渠に出て初めて墊江と号し、巴郡に至って江に入り、広陵を渡って海に入ります。」阿豺は言った。「水でさえなお帰ることを知っている。我は塞外の小国であっても、ただ帰る所がないことがあろうか。」使者を遣わして宋に通じ、その方物を献じた。宋の少帝はこれを澆河公に封じた。拝受に及ばないうちに、宋の文帝の元嘉三年、また除命を加えた。また使者を遣わして朝貢しようとしたが、暴病に会い、臨終に諸子弟を召して告げて言った。「先公の車騎将軍(樹洛幹)はその子の虔を捨て、大業を我に属した。どうして先公の挙を忘れて、緯代に私することができようか。慕璝に継がせよ。」阿豺には二十人の子があり、緯代は長子である。阿豺はまた言った。「汝らは各々我が一隻の矢を奉じ、これを地下で弄べ。」やがて同母弟の慕利延に命じて言った。「汝は一隻の矢を取ってこれを折れ。」慕利延がこれを折った。「汝は十九隻の矢を取ってこれを折れ。」慕延は折ることができなかった。阿豺は言った。「汝らは知らないか。単なるものは折れやすく、衆は摧き難い。力を合わせ心を一つにすれば、その後社稷は固められる。」言い終わって死んだ。慕璝が立った。

先に、阿豺の時、宋の任命は結局届かぬうちに死んだ。慕璝はまた表を奉じて宋に通じ、宋の文帝はまた隴西公に授けた。慕璝は秦・涼の亡業の人を招集し、及び羌戎雑夷の衆を合わせて五六百落に至らせ、南は蜀・漢に通じ、北は涼州・赫連と交わり、部衆は次第に盛んとなった。太武帝の時、慕璝は初めてその侍郎謝大寧を遣わして表を奉じて魏に帰順した。まもなく赫連定を討ち捕らえ、これを京師に送った。太武帝はこれを嘉し、使者を遣わして策を授け、慕璝を大将軍・西秦王に拝した。

慕璝が上表して言った。「臣は誠に庸弱ではありますが、敢えて精誠を尽くし、僭逆を俘擒し、王府に捷を献じました。爵秩は崇くはなりましたが、土地は増え広がらず、車旗は飾られましたが、財貨は賞に周りません。どうかご覧察を垂れ、この単なる誠意をお察しください。臣は近頃寇逆に接し、疆境の人は賊に掠められ、流転して東下しております。今、皇化が混一されましたので、郷土に還りたいと願っております。乞仏曰連・窟略寒・張華等三人の家弱がここにおりますが、分かれて離ればなれは哀れむべきです。どうか併せて勅を下して遣わされ、恩沢が遐荒にまで行き渡り、存亡共に感戴するよう願います。」

太武帝は詔して公卿を朝堂に会し、答えて施行することを議させた。太尉長孫嵩及び議郎・博士二百七十九人が議して言った。

先に役所が処置したところによれば、秦王は荒遠の地の君主であり、本来政教の及ぶところではなく、来ればこれを受け入れ、去れば禁じない。皇威が遠くに及ぶと、西秦王は義を慕い威を畏れて、臣と称し貢を納め、爵号の授与を求めた。議する者は、古来要荒の君主は、たとえ人土が広大であっても、爵位は華夏に比すべきではないと考える。陛下が王官に寵を加えるのは、常分を越えており、車旗を飾り、上国と同じ班位を与える。繒絮の多少については、旧典にないところであり、皆臨時に豊かさを制すべきである。漢・魏以来、遐荒を撫綏するには、かなりの故事がある。呂后が単于に御車二乗・馬二駟を贈ると、単于は馬千匹で答えた。その後、匈奴と和親し、敵国として、贈る繒絮は数百を超えず、呼韓邪が臣と称し、自ら入朝して初めて万匹に至った。今、西秦王がもし土に桑蚕がないと言うなら、上請すべきであり、財が賞に足りないとは言えない。周室が衰微し、斉侯小白が天下を一匡した時、賜胙の命はあっても、益土の賞はなかった。晋侯重耳が楚を城濮で破った時、ただ南陽の田を受けたのみで、朝宿の邑とした。西秦が致すところは、定めるのみである。塞外の人は、時に乗じ便に因って、秦・涼に侵入したが、経略して境を拓く勲はなく、爵は上国に登り、秦・涼・河・沙の四州の地を統べながら、土が増廓しないと言う。聖朝を弱周に比し、自らを五覇に同ずるとは、飽くことなき情、極まるべからざるか。西秦王の朝廷への忠款を考えれば、その本情は必ずやここに至らない。あるいは左右が謹まず、これによってこの累を致したのであろう。

西秦の流人を検査すると、賊の時に抄略された者は、皆蒲阪にいる。今、既に藩と称し、四海ことごとく泰平で、天下一家であるから、秦州に命じて京師に送らせ、その後で送還すべきである。乞仏三人を請うたが、かつて賓国の使者として、王庭に来ており、国破れ家移り、すなわち臣妾となったので、聴許すべきではない。

制して曰く、「公卿が議したのは、失体ではない。西秦王が書した金城・枹罕・隴西の地は、彼自ら取ったものであり、朕がこれを与えるのは、すなわち裂土であり、何ぞ復た廓を須いよう。西秦の款が至れば、綿絹は使の疏数に随ってこれを増益し、一匹のみではない。」これより、慕璝の貢献は頗る簡略となった。また宋に通じ、宋の文帝はこれを隴西王に封じた。

太延二年、慕璝が死に、弟の慕利延が立った。詔して使者を遣わし、慕璝を策諡して恵王と曰う。後に慕利延を鎮西大将軍・儀同三司に拝し、西平王に改封した。慕璝の子元緒を撫軍将軍とした。時に慕利延はまた宋に通じ、宋はこれを河南王に封じた。太武帝が涼州を征すると、慕利延は懼れて、遂にその部人を率い、西に沙漠へ遁走した。太武帝は利延の兄に赫連定を禽らえた功があるとして、使者を遣わして宣諭すると、乃ち還った。後に慕利延は使者を遣わして表して謝し、書が奏上されると、乃ち詔を下してこれを褒奨した。

慕利延の兄の子緯代は慕利延に害されることを懼れ、使者と謀って自ら帰順しようとしたが、慕利延は覚ってこれを殺した。緯代の弟叱力延ら八人は京師に逃れ帰り、兵を請うて慕利延を討たんとした。太武帝は叱力延を帰義王に拝し、詔して晋王伏羅に諸将を率いさせてこれを討たせた。軍が大母橋に至ると、慕利延の兄の子拾寅は河西に走り、伏羅は将を遣わしてこれを追撃し、五千余級を斬首した。慕利延は白蘭に走り、慕利延の従弟伏念・長史孚呖鳩黎・部大崇娥らが衆一万三千落を率いて帰降した。後にまた征西将軍・高涼王那らを遣わして白蘭においてこれを討たせた。慕利延は遂に于闐国に入り、その王を殺し、死者数万人に及んだ。南征して罽賓を討つ。使者を遣わして宋に通じ援を求め、烏丸帽・女国金酒器・胡王金釧等の物を献じ、宋の文帝はこれに牽車を賜った。七年、遂に旧土に還った。

慕利延が死に、樹洛幹の子拾寅が立った。初めて伏羅川に邑し、その居止出入は、窃かに王者に擬す。拾寅は貢職を奉じて修め、魏の正朔を受け、また宋の封爵を受け、号して河南王とした。太武帝は使者を遣わしてこれを鎮西大将軍・沙州刺史・西平王に拝した。後に拾寅は険遠を恃み、頗る命に恭しからず。宋に使を通じ、善馬・四角羊を献じ、宋の明帝はこれに官号を加えた。

文成帝の時、定陽侯曹安が表して言うには、拾寅は今白蘭を保ち、多く金銀・牛馬があり、もしこれを撃てば、大いに獲るところがあると。議する者は皆、先帝が拾寅兄弟の不睦を忿り、晋王伏羅・高涼王那をして再征させたが、竟に多く克つことがなく、拾寅はまた遠遁したが、軍もまた疲労した。今、白蘭におり、王塞を犯さず、人の患とならず、国家の急とするところではない。もし使者を遣わして招慰すれば、必ず臣妾たらんことを求め、労せずして定めることができる。王者の四荒に対するは、羈縻するのみであり、何ぞその国を屠り、その地を有たんや。曹安は言う、「臣、かつて澆河の戍将たりし時、これに相近くし、その意勢を明らかにす。もし軍を分かちてその左右に出ずれば、拾寅は必ず南山に走り保たん。十日を過ぎずして牛馬の草尽き、人の食うところなく、衆必ず潰叛すべし。一挙にして定むべし。」これに従う。詔して陽平王新成・建安王穆六頭らに南道より出させ、南郡公李惠・給事中公孫抜及び曹安に北道より出させてこれを討たせた。拾寅は南山に走り、諸軍は河を渡ってこれを追った。時に軍多く病み、諸将は議して、賊は既に遠遁し、軍容は既に振るっている。今、疲病の卒を駆りて、難きを要する功を冀るは、過ちではないかと。衆はこれを然りとし、乃ち引き還り、駝馬二十余万を獲た。

献文帝はまた詔して上党王長孫観らに州郡の兵を率いさせて拾寅を討たせた。軍が曼頭山に至ると、拾寅は来りて逆戦し、観らは兵を縦してこれを撃ち破り、拾寅は夜遁した。ここにおいて思い悔いて復た蕃職につき、別駕康盤龍を遣わして表を奉じて朝貢した。献文帝はこれを幽し、その使に報いず。拾寅の部落は大いに饑え、しばしば澆河を寇した。詔して平西将軍・広川公皮歓喜に敦煌・涼州・枹罕・高平の諸軍を率いさせて前鋒とし、 司空 しくう ・上党王長孫観を大 都督 ととく としてこれを討たせた。観らの軍は拾寅の境に入り、その秋稼を芻った。拾寅は窘怖し、子を軍に詣らせ、表して改過を求め、観らはこれを聞かせた。献文帝は将士の労を重んじ、乃ち詔を下してこれを切責し、その任子を徴した。拾寅は子の斤を遣わして入侍させ、献文帝は尋いて斤を還し遣わした。拾寅は後にまた辺人を擾掠し、その将良利を遣わして洮陽を守らせた。これは枹罕の統べるところである。枹罕鎮将・西郡公楊鍾葵は拾寅に書を貽してこれを責めた。拾寅は表して曰く、「詔を奉じ、臣に旧土に還るを聴す。故に良利を遣わして洮陽を守らしむ。もし前恩を追わずば、洮陽にその土物を貢せしむるを求めん。」辞旨懇切なり。献文帝はこれを許し、これより歳ごとに職貢を修めた。

太和五年、拾寅が死に、子の度易侯が立った。その侍郎時真を遣わして方物を貢し、表を提上して嗣事を称した。後に度易侯が宕昌を伐つと、詔してこれを譲り、錦彩一百二十匹を賜い、悛改を令するを諭した。掠めた宕昌の口累は、部送して時に還すべし。易侯は並びに詔を奉じた。死す。

子の伏連籌が立つ。孝文帝は入朝させようとしたが、表を奉って疾病を称し、ただちに洮陽・泥和の二城を修築して戍を置いた。文明太后が崩ずると、使者を遣わして凶を告げたが、伏連籌は命を拝するに恭しからず。有司はこれを討つことを請うたが、孝文帝は許さなかった。群臣はその詔を受けて敬わざるを以て、献上する所のものを納むべからずとす。帝曰く、「拝受に礼を失うは、乃ち詰責を加うべきなり。献ずる所の土毛は、是れ臣の常道なり。献ずる所を杜棄すれば、便ち是れ之を絶つなり。縦ひ改悔せんと欲するも、其の路無からん」と。詔して曰く、「朕哀疚の中に在りて、未だ征討を存せず。而るに去春、枹罕の表して其の洮陽・泥和の二戍を取るを請ふ。時に此れ既に辺将の常なりと為し、即ち便ち聴許す。及び偏師を致して討つに及びて、二戍風に望んで降を請ひ、訊を執ること二千餘人、又た婦女九百口を得たり。子婦は悉く之を還すべし」と。伏連籌は乃ち世子の賀魯頭を遣わして京師に朝せしむ。礼錫に加ふること有り、伏連籌を拝して使持節・ 都督 ととく 西垂諸軍事・征西將軍・領護西戎中郎将・西海郡開国公・吐谷渾王と為し、麾旗章綬の飾り、皆備へて之を与ふ。

後に兼員外 散騎常侍 さんきじょうじ 張礼を遣わして伏連籌に使せしむ。礼に謂ひて曰く、「昔、宕昌と通和し、恒に大王と称せられ、己れは則ち自ら興動有り、殊に臣節に違ふ。発するの日、宰輔以為らく、君若し返り迷ひて罪を知らば、則ち克く蕃業を保つべし。脱せば愚を守りて改めざれば、則ち禍難将に至らんとす」と。伏連籌は遂に黙然たり。孝文帝の崩ずるに及び、使者を遣わして哀に赴き、其の誠敬を尽くす。

伏連籌は内に職貢を修め、外に戎狄を併せ、塞表の中に在りて、強富と号せらる。天朝に准擬し、官司を樹置し、諸国に制を称して、以て自ら誇大す。宣武帝の初め、詔して之を責めて曰く、「梁州の表して卿の宕昌に報ずる書を送る。梁弥邕は卿と並びに辺附と為り、其の国を語れば則ち隣籓、其の位を論ずれば則ち同列なり。而るに書を称して表と為し、報を名づけて旨と為す。有司は国の常刑を以て、殷勤に討を請ふ。朕は険遠多く虞有るを慮り、軽く相構惑はしむ。故に先づ此の意を宣べ、善く三思せよ」と。伏連籌は表を上りて自ら申し、辞誠懇至なり。宣武帝の世より正光に至るまで終わり、嫠牛・蜀馬及び西南の珍、歳として至らざる無し。後に秦州城人莫折念生反し、河西の路絶ゆ。涼州城人万於菩提等、東に念生に応じ、刺史宋穎を囚ふ。穎密かに伏連籌に援を求めしむ。伏連籌親しく大衆を率ひて之を救ひ、遂に保全せらる。爾より以後、関徼通ぜず、貢献遂に絶ゆ。

伏連籌死し、子の誇呂立つ。始めて自ら可汗と号す。伏俟城に居す。青海の西十五里に在り。城郭有りと雖も居せず、恒に穹廬に処り、水草に随ひて畜牧す。其の地、東西三千里、南北千餘里。官に王・公・僕射・尚書及び郎中・將軍の号有り。誇呂は椎髻に毦珠し、皁を以て帽と為し、金獅子床に坐す。其の妻を号して母尊と為し、織成の裙を衣、錦の大袍を披き、髪を辮じて後にし、首に金花冠を戴く。

其の俗、丈夫の衣服略ね華夏に同じく、多くは羅冪を以て冠と為し、亦た繒を以て帽と為す。婦人は皆珠貝を貫き、髪を束ね、以て多きを貴しとす。兵器に弓・刀甲・鞘有り。国に常賦無く、須うれば則ち富室商人に税して以て用に充つ。其の刑罰、人を殺し及び馬を盗むは死す。余は則ち物を徴して以て罪を贖ひ、亦た事を量りて杖を決す。人を刑するには必ず氈を以て頭を蒙り、石を持ちて高きより之を撃つ。父兄死すれば、後母及び嫂等を妻とす。突厥の俗と同じし。婚に至りては、財を備ふるに貧しくして能はざれば、輒ち女を盗み去る。死者も亦た皆埋殯し、其の服制、葬を訖へれば則ち之を除く。性貪婪にして、殺害に忍びたり。射獵を好み、肉酪を以て糧と為す。亦た田を種づることを知り、大麥・粟・豆有り。然れども其の北界は気候多く寒く、唯だ蕪青・大麥を得るのみ。故に其の俗、貧多くして富少なし。青海周回千餘里、海内に小山有り。毎冬、冰合したる後、良き牝馬を此の山に置き、来春に至りて之を収むれば、馬皆孕み有り。生む所の駒を得て、号して龍種と為し、必ず多く駿異なり。吐谷渾嘗て波斯の草馬を得て、海に放ち入れしに、因りて驄駒を生む。日に千里を行く能ふ。世に伝ふる所の青海驄是れなり。土はBX牛・馬・騾を出し、鸚鵡多く、銅・鐵・硃砂に饒す。地は鄯善・且末を兼ぬ。

興和中、斉の神武帝相と作り、荒遠を招懐す。蠕蠕既に国に附く。誇呂使者を遣わして致敬す。神武帝大義を以て諭し、其の朝貢を征す。誇呂乃ち使人趙吐骨真を遣わして蠕蠕を仮道し、頻りに東魏に来る。又た其の従妹を薦む。静帝納れて以て嬪と為す。員外 散騎常侍 さんきじょうじ 傅霊檦を遣わして其の国に使せしむ。誇呂又た婚を請ふ。乃ち済南王匡の孫女を以て広楽公主と為し、以て之に妻せしむ。此の後、朝貢絶えず。

西魏の大統初め、周の文帝、儀同潘濬を遣わして逆順の理を以て諭す。是に於て誇呂再び使者を遣わして舞馬及び羊・牛等を献ず。然れども寇抄已まず、縁辺多く其の害を被る。廃帝二年、周の文帝大兵を勒して姑臧に至る。誇呂震懼し、方物を貢せしむ。是の歳、誇呂又た斉に使を通ず。涼州刺史史甯其の還るを覘ひ、之を州西の赤泉に襲ひ、其の僕射乞伏触状・將軍翟潘密、商胡二百四十人、駝騾六百頭、雑彩絲絹万計を獲る。恭帝三年、史寧又た突厥の木杆可汗と共に誇呂を襲撃し、之を破り、其の妻子を虜ひ、珍物及び雑畜を獲る。武成初め、誇呂復た涼州を寇す。刺史是雲宝戦没す。賀蘭祥・宇文貴兵を率ひて之を討つ。誇呂其の広定王・鍾留王を遣わして拒戦せしむ。祥等之を破り、広定等遁走す。又た其の洮陽・洪和の二城を抜き、洮州を置きて還る。保定中、誇呂前後三輩使者を遣わして方物を献ず。天和初め、其の龍涸王莫昌率いて来降す。其の地を以て扶州と為す。二年五月、復た使者を遣わして来献す。建徳五年、其の国大乱す。武帝詔して皇太子に之を征せしむ。軍伏俟城に至る。誇呂遁走し、其の余衆を虜ひて還る。明年、又た再び使者を遣わして奉献す。宣政初め、其の趙王他婁屯来降す。是より、朝献遂に絶ゆ。

隋の開皇初めに及び、弘州を侵す。地曠くして人梗し、之を廃す。上柱国元諧を遣わして歩騎数万を率ひて之を撃たしむ。賊悉く国中を発し、曼頭より樹敦に至るまで、甲騎絶えず。其の署する所の河西総管定城王鐘利房及び其の太子可博汗前後来りて拒戦す。諧頻りに之を破る。誇呂大いに懼れ、親兵を率ひて遠く遁る。其の名王十三人召し率ひて部落を降す。上其の高甯王移茲裒素より衆心を得るを以て、拝して大将軍と為し、封じて河南王と為し、以て降衆を統べしむ。自余の官賞各差有り。未だ幾ばくもせず、復た来たりて辺を寇す。州刺史皮子信拒戦して之に死す。汶州総管梁遠鋭卒を以て之を撃つ。乃ち奔退す。俄にして廓州に入寇す。州兵之を撃ち走らす。

誇呂は在位百年に及び、しばしば喜怒によって太子を廃し殺した。その後、太子は殺されることを恐れ、ついに誇呂を捕らえて降伏しようと謀り、辺境の官吏に援軍を請うた。秦州総管の河間王はこれに応ずる計画を立てたが、皇帝(文帝)は許さなかった。太子の謀は露見し、その父によって殺された。再び末子の嵬王訶を立てて太子とした。疊州刺史の杜祭はこの隙に乗じて討つことを請うたが、皇帝はまたも許さなかった。開皇六年、嵬王訶もまた父に誅殺されることを恐れ、帰国を謀り、兵を派遣して迎え入れることを請うた。皇帝はその使者に言った、「普天の下、皆朕の臣妾である。各々善事を行えば、即ち朕の心に叶う。嵬王に既に好意があり、来て服従しようと欲するならば、ただ嵬王に臣子の法を教えるのみで、遠く兵馬を派遣して悪事を助けることはできない」。嵬王はそこで止めた。開皇八年、その名王の拓拔木彌が千余家を率いて帰化したいと請うた。皇帝は言った、「天に叛き父に背く者を、どうして受け入れられようか。またその本意は、正に死を避けることにある。もし今これを拒めば、また不仁となる。もし音信があれば、慰撫の使者を遣わし、自ら抜け出るに任せるべきで、兵馬を出して応接する必要はない。その妹婿や甥が来たいとしても、またその意に任せ、労して勧誘するには及ばない」。この年、河南王の移茲裒が死に、文帝はその弟の樹帰に命じてその衆を統べさせた。陳を平定した後、誇呂は大いに恐れ、険遠の地に逃げ隠れ、寇と為すことを敢えてしなかった。

開皇十一年、誇呂が卒去し、子の世伏がその兄の子の無素を使者として表を奉り藩を称し、併せて地方の産物を献上し、娘を後宮に備えんことを請うた。皇帝は無素に言った、「もし来請に依れば、他国も便ち相学ぶであろう。一を許し一を塞ぐは、是れ不平と謂う。若し併せて之を許せば、また好法に非ず」。遂に許さなかった。開皇十一年、刑部尚書の宇文弼を遣わしてこれを撫慰させた。開皇十六年、光化公主を世伏に娶わせた。世伏は表を上って公主を天后と称したが、皇帝は許さなかった。

翌年、その国は大いに乱れ、国人が世伏を殺し、その弟の伏允を立てて主とした。使者を遣わして廃立の事を陳べ、併せて専命の罪を謝し、且つ俗に依り主を尚ることを請うた。皇帝はこれに従った。此れより朝貢は歳毎に至るが、常に国家の消息を探り、皇帝は甚だこれを憎んだ。煬帝が即位すると、伏允は子の順を遣わして朝貢した。時に鉄勒が塞を犯したので、帝は将軍の馮孝慈を遣わして敦煌より出でてこれを防がせたが、戦いは利あらず。鉄勒は使者を遣わして謝罪し降伏を請うたので、帝は黄門侍郎の裴矩を遣わしてこれを慰撫し、吐谷渾を撃って自ら効を表すようそそのかした。鉄勒は即ち兵を率いて吐谷渾を襲い破り、伏允は東に走り、西平の境を保った。帝はまた観徳王の雄をして澆河より出で、許公の宇文述をして西平より出でてこれを おそ わせ、その衆を大いに破った。伏允は山谷の間に遁逃し、その故地は皆空となった。西平の臨羌城より以西、且末より以東、祁連より以南、雪山より以北、東西四千里、南北二千里、皆隋の有と為った。郡・県・鎮・戍を置き、天下の軽罪の者を発してここに移住させた。ここにおいて順を留めて遣わさず。伏允は自ら資する所なく、その徒数千騎を率いて党項に客となった。帝は順を立てて主とし、玉門より送り出し、余衆を統べさせ、その大寶王の泥洛周を輔けとした。西平に至ると、その部下が洛周を殺し、順は果たして入らずして還った。

大業の末、天下乱れ、伏允はその故地を回復し、しばしば河右を寇し、郡県はこれを制することができなかった。

吐谷渾の北に乙弗勿敵国あり。国に屈海あり、海の周回は千余里。衆は万落あり、風俗は吐谷渾と同じ。然れども五穀を識らず、ただ魚及び蘇子を食う。蘇子の形状は中国の枸郐巳子の如く、或いは赤く或いは黒し。

契翰という一部あり、風俗もまた同じ。特に狼が多い。

白蘭山の西北に、また可蘭国あり、風俗もまた同じ。目は五色を識らず、耳は五声を聞かず、是れ夷蛮戎狄の中の醜類なり。土地には産出す所なく、ただ大いに群畜を養い、而して戸落もまた万余人ばかりなり。頑弱にして戦闘を知らず、異人を見れば忽ちに挙国して便ち走る。性は野獣の如く、体軽く走ることに巧みで、逐うも得べからず。

白蘭の西南二千五百里、大嶺を隔て、また四十里の海を渡れば、女王国あり。人庶は万余落、風俗は土着し、桑麻に宜しく、五穀を熟す。女を以て王と為す故、因って号す。訳使は至らず、その伝える所もまた然り。

宕昌

宕昌羌は、その先祖は蓋し三苗の胤なり。周の時に庸・蜀・微・盧等八国と共に武王に従って商を滅ぼす。漢には先零・焼当等あり、世々辺患と為る。その地は東は中華に接し、西は西域に通じ、南北数千里。姓別に自ら部落を為し、酋帥は皆地分有り、相統摂せず、宕昌は即ちその一つなり。俗は皆土着し、居るに屋宇あり。その屋は、犛牛の尾及び羖羊の毛を織りて之を覆う。国に法令無く、又徭賦無し。ただ戦伐の時に至って、乃ち相屯聚す。然らずんば、則ち各々生業に事え、相往来せず。皆裘褐を衣、犛牛・羊・豕を牧養してその食を供す。父子・伯叔・兄弟の死者あれば、即ち継母・世叔母及び嫂・弟婦等を以て妻と為す。俗に文字無く、但し草木の栄落を候い、その歳時を記す。三年に一度相聚い、牛・羊を殺して以て天を祭る。

梁勤という者あり、世々酋帥と為り、羌豪の心を得て、乃ち自ら王と称す。勤の孫の弥忽、太武帝の初め、子の弥黄を遣わして表を奉り内附を求む。太武帝これを嘉し、使者を遣わして弥忽を宕昌王に拝し、弥黄に甘松侯の爵を賜う。弥忽死し、孫の彪子立つ。その地は仇池より以西、東西千里。席水より以南、南北八百里。地は多く山阜、人二万余落。世々職貢を修め、頗る吐谷渾によって断絶せらる。彪子死し、弥治立つ。彪子の弟の羊子、先ず吐谷渾に奔る。吐谷渾は兵を遣わして羊子を送り、弥治の位を奪わんと欲す。弥治は使者を遣わして救いを請う。献文帝、武都鎮将の宇文生に詔してこれを救わしむ。羊子退き走る。弥治死し、子の弥機立つ。その司馬の利柱を遣わして表を奉り方物を貢ぐ。楊文度の叛、武都を囲む。弥機はその二兄を遣わして衆を率い武都を救い、文度を破り走らす。孝文帝の時、使者の子橋を遣わして表を奉り硃沙・雄黄・白石胆を各々一百斤貢ぐ。此れより後、歳を以て常と為し、朝貢相継ぐ。後に孝文帝は鴻臚の劉帰・謁者の張察を遣わし、弥機を征南大将軍・西戎 校尉 こうい ・梁益二州牧・河南公・宕昌王に拝す。以てこれを助く。

鄧至

鄧至は、白水羌なり。世々羌豪と為り、地名に因りて号し、自ら鄧至と称す。その地は亭街より以東、平武より以西、汶嶺より以北、宕昌より以南。士風習俗もまた宕昌と同じ。その王の像舒治は使者を遣わして内附し、高祖(孝文帝)は龍驤将軍・鄧至王に拝し、貢献は絶えず。周の文帝は章武公の導に命じて兵を率いてこれを送らしむ。

鄧至の西に赫羊国あり。初め、その部内に一羊あり、形甚だ大きく、色極めて鮮赤なり。故に因って国名と為す。

また東亭衛・大赤水・寒宕・石河・薄陵・下習山・倉驤・覃水等の諸羌国あり。風俗粗獷にして、鄧至国と同じからず。また時に貢使を遣わし、朝廷はこれを納れ、皆これに雑号将軍、子・男、渠帥の名を仮す。

白蘭

白蘭は、羌の別種である。その地は東北は吐谷渾に接し、西北は利摸徒、南は那鄂を境界とする。風俗と物産は宕昌とほぼ同じである。周の保定元年、使者を遣わして犀甲・鉄鎧を献上した。

党項

党項羌は、三苗の後裔である。その種族には宕昌・白狼があり、いずれも自ら獼猴種と称する。東は臨洮・西平に接し、西は葉護に阻まれ、南北数千里にわたり、山谷の間に居住する。おのおの姓ごとに別れて部落をなし、大きいものは五千余騎、小さいものは千余騎である。牦牛の尾や羱羊の毛を織って屋根とし、裘褐を着て、氈をまとうことを上等の飾りとする。俗は武力を尚び、法令はなく、おのおの生業を営み、戦陣があれば屯聚するが、徭役はなく、互いに往来しない。牦牛・羊・豚を飼って食とし、農耕を知らない。その習俗は淫穢で蒸報を行い、諸夷の中で最も甚だしい。文字はなく、ただ草木の変化を観察して歳時を記す。三年に一度会合し、牛や羊を殺して天を祭る。八十歳以上で死んだ者は、天寿を全うしたとし、親戚は泣かない。若死にした者は、夭折したとし、共に悲しんで泣く。琵琶・横吹があり、缶を打って拍子をとる。

魏・周の時代、たびたび辺境を侵した。隋の文帝が丞相であった時、中原は多難であったため、これに乗じて大いに寇掠した。蔣公梁睿は王謙を平定した後、帰還の軍勢を利用してこれを討つことを請うた。開皇元年、千余戸が帰化した。五年、拓拔寧叢らがそれぞれ衆を率いて旭州に赴き内附し、大将軍を授けられ、その部下にはそれぞれ等級があった。十六年、再び会州を寇し、詔して隴西の兵を発してこれを討ち、その衆を大いに破り、人々は相率いて降伏し、子弟を遣わして謝罪した。帝は言った、「帰ってお前たちの父兄に伝えよ、人は生まれて定まった住処を持ち、老いを養い幼いを育てねばならぬ。それなのに急に帰り急に走るとは、郷里に対して恥ずかしくないのか」と。これより朝貢は絶えなかった。

附国

附国は、蜀郡の西北二千余里にあり、すなわち漢代の西南夷である。嘉良夷があり、すなわちその東部で、居住する種姓は自ら率い、風土習俗は附国と同じであるが、言語は少し異なる。統一されておらず、その人々には姓氏がない。

附国の王は字を宜繒という。その国は南北八百里、東西千五百里である。城柵はなく、川谷に近く、険しい山に依っている。俗は復讐を好むため、石を積んで巣を作り、その患いを避ける。その巣は高さ十余丈に及び、低いものでも五六丈あり、毎段ごとに木で隔て、基礎は三四歩四方、巣の上部は二三歩四方で、浮屠のようである。下の段に小門を開き、内から上に通じ、夜は必ず閉めて賊盗を防ぐ。国に重罪ある者は、牛を罰せられる。人々は皆軽捷で、剣を撃つのに巧みである。漆を塗った皮で兜や鎧を作り、弓は長さ六尺、竹で矢を作る。群母や嫂を妻とし、弟や息子が死ぬと、父や兄もその妻を娶る。歌舞・鼓簧・長角を吹くことを好む。死者があっても喪服の制度はなく、屍を高い床の上に置き、沐浴させ衣服を着せ、兜鎧を着せ、獣皮で覆う。子孫は泣かず、鎧を着て剣を舞いながら「我が父は鬼に取られた、我は冤を報いて鬼を殺さん」と叫ぶ。その他の親戚は、三声泣いて止む。婦人が泣く時は、必ず両手で顔を覆う。死者の家は牛を殺し、親族は豚や酒を贈り合い、共に飲み食いして埋葬する。死後一年して、初めて本葬を行い、必ず親族賓客を集め、馬を殺すこと数十匹に及ぶ。木を立てて祖父の神とし、これを祀る。その習俗は皮で帽を作り、形は円く鉢のようで、あるいは冪䍦をかぶる。衣は多くは羖皮の裘で、牛の脚の皮を丸ごと剥いで靴とする。首に鉄鎖をかけ、手に鉄釧を通す。王と酋帥は、金を首飾りとし、胸前に一つの金花を懸け、直径三寸である。その土地は高く、気候は涼しく、風多く雨少なく、小麦・青稞に適する。山には金・銀・銅を産し、白雉が多い。水には嘉魚があり、長さ四尺で鱗が細かい。

大業四年、その王は使者素福ら八人を遣わして入朝した。翌年、またその弟子の宜林に嘉良夷六十人を率いさせて朝貢した。良馬を献じようとしたが、道険しく通じなかった。山道を開き、職貢の物を修めようと請うたが、煬帝は民を労するとして許さなかった。

嘉良には川があり幅六七十丈、附国には川があり幅百余丈、ともに南に流れる。皮で舟を作って渡る。

附国の南に薄縁夷があり、風俗も同じである。西に女国がある。その東北は連山が数千里にわたって続き、党項に接する。しばしば羌があり、大小左封・昔衛・葛延・白狗・向人・望族・林台・舂桑・利豆・迷桑・婢薬・大硤・白蘭・北利摸徒・那鄂・当迷・渠歩・桑悟・千碉があり、いずれも深山窮谷にあり、大なる君長はいない。その風俗は党項にほぼ同じで、あるいは吐谷渾に隷属し、あるいは附国に附く。大業年間、朝貢した。西南の辺境に沿って諸道総管を置いてこれを管轄した。

稽胡 けいこ

稽胡は、一に歩落稽といい、おそらく匈奴の別種で、劉元海の五部の苗裔である。あるいは山戎赤狄の後という。 離石 りせき 以西、安定以東、方七八百里の範囲に、山谷の間に居住し、種族部落は繁栄している。その習俗は土着で、農耕も知り、土地は桑蚕が少なく、多くは麻布を着る。その男子の衣服および死亡・殯葬は、中華とほぼ同じである。婦人は多く蜃貝を貫いて耳や首の飾りとする。華人と雑居する。その渠帥はかなり文字を識り、言語は夷狄に似て、通訳によって初めて通じる。蹲踞して礼がなく、貪欲で残忍である。俗は淫穢を好み、女は特に甚だしく、嫁ぐ前夜、ようやく情夫と別れを述べ、夫の家はそれを聞いて、多いことを貴ぶ。嫁いだ後は、かなり防閑するが、姦通を犯した者は、事に応じて罰する。また兄弟が死ぬと、皆その妻を娶る。郡県に分属し、編戸に列せられているが、その徭賦は軽く、華人とは異なる。山谷が険阻で深い者は、まだ完全には隷属せず、凶悍で険阻を頼み、たびたび寇掠する。

魏の孝昌年間、劉 蠡升 れいしょう という者がおり、雲陽谷に居住し、天子を自称し、年号を立て、百官を置いた。魏氏の乱に乗じ、討伐する力がなかった。蠡升は遂に部衆を分遣して抄掠し、汾・晋の間は、一年として安寧な年がなかった。神武が鄴に遷った後、初めて密かにこれを図り、偽って娘を蠡升の太子に嫁がせると約束した。蠡升は遂に子を鄴に遣わし、斉の神武は厚く礼遇し、婚期を遅らせた。蠡升は和親を恃んで、備えをしなかった。魏の大統元年三月、斉の神武がこれを襲撃し、蠡升は軽騎を率いて外に出て兵を徴集したが、その北部王に殺され、神武のもとに送られた。その衆は再び蠡升の第三子の南海王を立てて主としたが、神武がこれを滅ぼし、その偽主および弟の西海王ならびに皇后・夫人・王公以下四百余人を捕らえ、鄴に帰した。

河西に居住する者は、多く険阻を恃んで従わなかった。時に周の文帝はちょうど神武と覇を争っており、経略する暇がなく、黄門侍郎楊[A181]を遣わしてこれを安撫させた。五年、黒水部衆が先に叛いた。七年、別帥の夏州刺史劉平伏がまた上郡を拠って反した。これより北山の諸部は、連年寇暴を働いた。周の文帝は前後して于謹・侯莫陳崇・李弼らを遣わし、相継いでこれを討ち平げた。

武成帝の初年、延州の稽胡の 郝阿保 かくあほ 狼皮 ろうひ がその種族を率いて、斉氏に帰附した。阿保は自ら丞相と称し、狼皮は自ら柱国と称し、またその別部の 劉桑德 りゅうそうとく と共に呼応した。 柱国豆盧寧 とうろねい が諸軍を督してこれを撃破した。二年、狼皮らの残党が再び叛き、詔により 大将軍韓果 かんか が討ってこれを破った。

保定年間、離石の 生胡 せいこ がしばしば汾水の北を寇掠し、 勲州刺史韋孝寬 いこうかん が険要の地に城を築き、兵糧を置いて、その通路を遮断した。 楊忠 ようちゅう が突厥と共に斉を伐つに及んで、稽胡らは旅を拒む思いを抱き、糧餉を供給しなかった。忠はその酋帥を欺き、突厥と共に軍を返してこれを討つと云うと、酋帥らは恐れ、相率いて供饋した。その後、丹州・綏州などの管内の諸胡は、蒲川の 別帥郝三郎 かくさんろう らと共にまた頻年にわたり命に逆らい、再び詔により 達奚震 たっけいしん 辛威 しんい 於寔 うじつ らが前後して窮めて討ち、その種落を散じた。天和二年、 延州総管宇文盛 うぶんせい が衆を率いて銀川に城を築くと、稽胡の 白鬱久同 はくいくきゅうどう 喬是羅 きょうぜら らが邀撃しようとしたが、盛はこれを討ち斬った。またその 別帥喬三勿同 きょうさんぶつどう らを破った。五年、 開府劉雄 りゅうゆう が綏州より出で、北辺の川路を巡検した。稽胡の 帥白郎 はくろう 喬素勿同 きょうそぶつどう らが河を渡って逆戦したが、雄は再びこれを破った。

建徳五年、武帝が晋州において斉の帥を破り、勝に乗じて北に逐うと、斉人の棄てた甲仗は、未だ収斂する暇がなく、稽胡が隙に乗じて窃かに出で、これを盗み有した。乃ち蠡升の孫の 没鐸 ぼつたく を立てて主とし、聖武皇帝と号し、年号を石平と曰うた。六年、武帝が東夏を平定し、これを討たんとし、議してその巣穴を窮めんとした。 斉王憲 せいおうけん は、種類既に多く、また山谷阻絶して、王師一挙にして尽く除くべからず、且つその魁帥を翦り、余は慰撫を加うべしと以為った。帝はこれを然りとし、乃ち憲を行軍元帥とし、 行軍総管趙王招 ちょうおうしょう 譙王儉 しょうおうけん 滕王逌 とうおうゆう らを督してこれを討たしめた。憲の軍は馬邑に次いで、乃ち分道して俱に進んだ。没鐸はその党の 天柱 てんちゅう を遣わして河東を守らせ、またその 大帥穆支 ぼくし を遣わして河西に拠らせ、険要を分守して憲軍を掎角せんと図った。憲は譙王儉に命じてこれを撃破させ、千余級を斬獲した。趙王招はまた没鐸を擒え、衆は尽く降った。宣政元年、汾胡の 帥劉受羅千 りゅうじゅらせん が再び反し、 越王盛 えつおうせい が諸軍を督してこれを討ち擒らえた。ここより寇盗は頗る息んだ。

【論】

論うに曰く、氐・羌・吐谷渾らは殊俗を曰い、別に辺陲に処る。前代を考うるに、屡々叛服を経、窺覘し首鼠す、蓋しその本性なり。徳無ければ則ち叛き、道有れば則ち伏す、これ先王の述ぶる所の荒服なり。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻096