およそ天地の覆載するところは極めて大きく、日月の照臨するところは極めて広い。万物の内においては、生霊は少なく禽獣は多く、両儀の間においては、中土は狭くして殊俗の地は広い。人は形を天地に寓し、気を陰陽に稟けり。愚智は自然に本づき、剛柔は水土に係る。故に霜露の会する所、風気の通ずる所、九川を紀と為し、五嶽を鎮と作す、これを諸夏と謂う。その地に生ずる者は、則ち仁義の出づる所なり。昧穀・嵎夷、孤竹・北戸は、丹徼・紫塞を以て限り、滄海・交河を以て隔てらる、これを荒裔と謂う。その気に感ずる者は、則ち凶徳を行い稟く。若し夫れ九夷・八狄、種落繁熾し、七戎・六蠻、辺鄙に充牣す。風土殊俗と雖も、嗜欲同じからずと雖も、貪にして厭うこと無く、狠にして乱を好み、強ければ則ち旅拒し、弱ければ則ち稽服するに至っては、その揆一なり。
秦の皇は天下を鞭撻し、遐方に武を黷す。漢の武士馬強盛にして、遠略に志を肆す。匈奴已に却きて、その国乃ち虚し。天馬既に来たりて、その人亦困す。是れを知る、雁海・龍堆は、天の以て夷夏を絶つ所以なり。炎方・朔漠は、地の以て内外を限る所以なり。況や時に秦・漢に非ず、志甚だ嬴・劉に甚しく、天道に逆らいてその功を求め、人力を殫くして欲に従わんとすれば、顛墜の釁、固より踵を旋らさず。是を以て先王は教えを設け、内は諸夏にして外は夷狄とす。往哲は範を垂れ、樹徳を美とし広地を鄙しむ。禹跡の東漸西被するも、海及び流沙を過ぎず。『王制』の自北徂南するも、裁らく猶お穴居交趾す。豈に道三古に貫き、義百代に高き者に非ずや。魏より隋に至るまで、市朝屡く革まり、その四夷朝享も亦各時に因る。今各編次し、『四夷傳』を備う。
高麗
高句麗は、その先祖は夫餘より出づ。王嘗て河伯の女を得て、因って室内に閉じ、日に照らされ、身を引いてこれを避く。日影又逐い、既にして孕みあり、一卵を生む。大きさ五升の如し。夫餘王これを棄てて犬に与うるも、犬食わず。豕に与うるも、豕食わず。路に棄つるも、牛馬これを避く。野に棄つるも、衆鳥毛を以てこれを茹む。王これを剖くも破ること能わず、遂にその母に還す。母物を以て裹み暖かい処に置く。一男有りて破りて出づ。長ずるに及び、これを字して朱蒙と曰う。その俗に「朱蒙」と言うは、善く射る者なり。夫餘の人朱蒙を人の生みしに非ずと為し、これを除かんことを請う。王聴かず、これに馬を養わしむ。朱蒙私に試み、善悪有るを知る。駿なる者は食を減じて痩せしめ、駑なる者は善く養いて肥えしむ。夫餘王肥える者を以て自ら乗じ、痩せる者を以て朱蒙に給す。後に田に狩するに、朱蒙の善く射るを以て、これに一矢を給う。朱蒙一矢と雖も、獣を殪すこと甚だ多し。夫餘の臣、又謀りてこれを殺さんとす。その母以て朱蒙に告ぐ。朱蒙乃ち焉違等二人とともに東南に走る。中道一大水に遇い、渡らんと欲するも梁無し。夫餘の人これを追うこと甚だ急なり。朱蒙水に告げて曰く、「我は日子、河伯の外孫なり。今追兵垂れ及びんとす。如何にしてか渡るを得ん」と。ここに於いて魚鱉これが為に橋を成し、朱蒙渡るを得たり。魚鱉乃ち解く。追騎渡らず。朱蒙遂に普述水に至る。三人に遇い見ゆ。一は麻衣を著け、一は衲衣を著け、一は水藻衣を著く。朱蒙とともに紇升骨城に至り、遂にここに居す。号して高句麗と曰い、因って高を以て氏と為す。その夫餘に在りし時、妻孕み、朱蒙逃れたる後、子始閭諧を生む。長ずるに及び、朱蒙の国王と為るを知り、即ち母とともに亡れてこれに帰す。名づけて閭達と曰い、国事をこれに委ぬ。
朱蒙死す。子如栗立つ。如栗死す。子莫来立つ。乃ち夫餘を併す。
漢の武帝元封四年、朝鮮を滅ぼし、玄菟郡を置き、高句麗を以て県と為しこれに属せしむ。漢の時、衣幘・朝服・鼓吹を賜い、常に玄菟郡よりこれを受く。後稍々驕り、復た郡に詣らず、但だ東界に小城を築きてこれを受け、遂にこの城を幟溝漊と名づく。「溝漊婁」とは、句麗の「城」の名なり。王莽の初め、高句麗の兵を発して胡を伐たんとし、しかして行かんと欲せず。莽強迫してこれを遣わす。皆塞を出でて寇盗と為る。州郡句麗侯騶に帰咎す。厳尤誘いてこれを斬る。莽大いに悦び、高句麗を更め名づけて高句麗侯と為す。光武建武八年、高句麗使いを遣わし朝貢す。
殤帝・安帝の間に至り、莫来の裔孫宮、遼東を寇すことを建つ。玄菟太守蔡風これを討つも、禁ずること能わず。
伯固死す。子伊夷摸立つ。伊夷摸、伯固の時より已に数えずして遼東を寇し、又亡胡五百余戸を受けたり。建安の中、公孫康軍を出してこれを撃ち、その国を破り、邑落を焚焼す。降胡亦叛く。伊夷摸更に新国を作す。その後伊夷摸復た玄菟を撃つ。玄菟遼東と合撃し、これを大破す。
晋の永嘉の乱、鮮卑の慕容廆昌黎の大棘城に拠り、元帝平州刺史を授く。位宮の玄孫乙弗利頻りに遼東を寇す。廆制すること能わず。
弗利死す。子釗代わりて立つ。魏の建国四年、慕容廆の子晃これを伐ち、南陥より入り、木底に戦い、釗軍を大破す。丸都に追い至る。釗単馬奔竄す。晃釗の父の墓を掘り、その母・妻・珍宝・男女五万余口を掠め、その室を焚き、丸都城を毀ちて還る。釗後百済に殺さる。
晋の孝武帝太元十年に及び、句麗遼東・玄菟郡を攻む。後燕の慕容垂その弟農を遣わして句麗を伐ち、二郡を復す。垂の子宝、句麗王安を以て平州牧と為し、遼東・帯方二国国王に封じ、始めて長史・司馬・参軍の官を置く。後遼東郡を略す。
太武帝の時、釗の曾孫璉が初めて使者を安東に遣わし、表を奉って方物を貢ぎ、併せて国諱を請うた。太武帝はその誠実なる款情を嘉し、詔して帝系の名諱をその国に下す。員外散騎侍郎李敖を遣わし、璉を都督遼海諸軍事・征東将軍・領東夷中郎将・遼東郡公・高句麗王に拝した。敖がその地に至ると、平壤城に居し、その方域の事情を訪ねたところ、云うには、遼東より南へ一千余里、東は柵城に至り、南は小海に至り、北は旧夫餘に至り、人戸は前魏の時に比べて三倍であるという。後に貢使は相継ぎ、毎年黄金二百斤、白銀四百斤を致した。時に馮弘が衆を率いて奔って来たので、太武帝は散騎常侍封撥を遣わし璉に詔し、弘を送るよう命じた。璉は上書して、まさに弘とともに王化を奉ずべしと称し、ついに遣わさなかった。太武帝は怒り、討伐に向かわんとした。楽平王丕らが後挙を議したので、太武帝はやめた。そして弘もまたついに璉に殺された。
後に文明太后は献文帝の六宮が未だ整わぬことを以て、璉に勅しその女を推薦せしめた。璉は表を奉って云うには、女は既に嫁いだので、弟の娘を以て詔旨に応えたいと求めた。朝廷はこれを許し、安楽王真・尚書李敷らを遣わし国境まで幣帛を送らせた。璉は左右の者の説に惑わされ、朝廷は昔馮氏と婚姻したが、間もなくその国を滅ぼした。殷鑑遠からず、便宜を以てこれを辞すべきであると言われ、璉は遂に上書し、妄りに女が死んだと称した。朝廷はその偽りを拒むを疑い、また仮の散騎常侍程駿を遣わし厳しくこれを責め、もし女が確かに死んだなら、更に宗族の淑女を選ぶことを聴すと伝えた。璉は云う、「もし天子がその前の過ちを恕されるなら、謹んで詔を奉じます」と。会に献文帝が崩御したので、やめた。孝文帝の時に至り、璉の貢献は以前の倍となり、その報賜もまた稍々加えられた。時に光州が海中で璉が斉に遣わした使節の余奴らを捕え、京師に送った。孝文帝は詔して責めて曰く、「道成は親しくその君を殺し、江左に号を窃む。朕はまさに旧邦に滅国を興し、劉氏に絶世を継がんと欲する。而るに卿は境外に越え、郷を外にして、簒奪の賊と交通する。これ豈に藩臣の節を守るの義であろうか。今一過を以て旧款を掩わず、即ち藩に送還する。その恕しを感じ過ちを思い、明憲を祗承し、所部を輯寧し、動静を以て聞かせよ」と。
太和十五年、璉が死んだ。百余歳であった。孝文帝は東郊で哀悼の礼を挙げ、謁者僕射李安上を遣わし策を贈り、車騎大将軍・太傅・遼東郡公・高句麗王とし、諡して康と曰う。また大鴻臚を遣わし璉の孫の雲を拝し、使持節・都督遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡公・高句麗王とした。衣冠服物車旗の飾りを賜う。また詔して雲に世子を入朝せしめ、郊丘の礼に及ばしめんとした。雲は上書して病を辞し、その従叔の升于を使者に随わせて詣闕させたので、厳しくこれを責めた。これより、毎年常に貢献した。正始年中、宣武帝は東堂でその使節の芮悉弗を引見し、進みて曰く、「高麗は誠に天極に系り、累葉純誠にして、地産の土毛、王貢に過ち無し。但だ黄金は夫餘より出で、珂は則ち涉羅の産する所なり。今夫餘は勿吉に逐われ、涉羅は百済に併せらる。国王臣雲は惟だ絶えたるを継ぐの義を思い、悉く境内に遷す。二品の所以に王府に登らざるは、実に両賊の為す所なり」と。宣武帝曰く、「高麗は世に上将を荷い、海外を専制し、九夷の黠虜、実にこれを征するを得たり。昔の方貢の過ちは、責めは連率に在り。宜しく朕の旨を卿の主に宣べ、務めて威懐の略を尽くし、二邑をして旧墟に還復せしめ、土毛常貢を失わざらしめよ」と。
神龜年中、雲が死んだ。霊太后は東堂で哀悼の礼を挙げた。使者を遣わし策を贈り、車騎大将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高麗王とした。またその世子の安を拝し、鎮東将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高麗王とした。正光初め、光州がまた海中で梁から授けられた安の寧東将軍の衣冠・剣珮、及び使者の江法盛らを捕え、京師に送った。
安が死に、子の延が立った。孝武帝の初め、詔して延に使持節・散騎常侍・車騎大将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高句麗王を加えた。天明年中、詔して延に侍中・驃騎大将軍を加え、その余は悉く従前の如くとした。
その国は、東は新羅に至り、西は遼を渡り、二千里。南は百済に接し、北は靺鞨に隣り、一千余里。人皆土着し、山谷に随って居り、布帛及び皮を衣る。土田は薄く瘠せ、蚕農は自ら供するに足らず、故にその人は飲食を節す。その王は宮室を修めるを好み、平壤城に都す。亦た長安城と曰う。東西六里、山に随って屈曲し、南は浿水に臨む。城内には唯だ倉儲器備を積むのみで、寇賊の至る日に方りて固守に入る。王は別にその側に宅を為し、常には居せず。その外にまた国内城及び漢城有り、亦た別都なり。その国中これを呼んで三京と為す。また遼東・玄菟等数十城有り、皆官司を置きて統摂す。新羅と毎に相侵奪し、戦争息まず。
隋が陳を平定した後、高湯は大いに恐れ、兵を集め穀物を蓄え、守り防ぐ策を講じた。開皇十七年、文帝は璽書を賜い、毎回使者を遣わし、毎年朝貢することを責め、藩属と称え附くとはいえ、誠節が尽くされていないとし、靺鞨を駆り立て、契丹を禁固したこと、往年ひそかに交易の利を行い、群小を招き動かし、密かに弩手を率いて下国を巡り竄ったのは、まさに意図が良くなく、故意に窃盗を行ったのではないか、空いた客館をそのままに厳重に防備し、またしばしば馬騎を遣わして辺境の民を殺害したこと、常に猜疑し、密かに消息を窺っていることを責め、手厚く諭して自新を許した。高湯は書を得て惶恐し、上表して陳謝しようとしたが、病にかかり死去した。
子の高元が嗣いだ。文帝は高元を上開府儀同三司に任じ、遼東公の爵を襲封させ、衣服一襲を賜った。高元は上表して恩に謝し、併せて祥瑞を賀し、王に封ぜられることを請うた。文帝は優詔をもって王に冊立した。翌年、靺鞨の万余騎を率いて遼西を寇し、営州総管韋世衝がこれを撃退した。帝は大いに怒り、漢王楊諒を元帥とし、水陸の軍を総動員して討伐することを命じ、詔を下してその爵位を剥奪した。当時、糧秣の輸送が続かず、六軍は食糧に乏しく、軍は臨渝関を出たが、また疫病に遭遇し、王師は振るわなかった。遼水に到着したとき、高元もまた恐れおののき、使者を遣わして謝罪し、上表して「遼東の糞土の臣、元」などと称した。帝はそこで兵を収め、以前のように待遇した。高元もまた毎年朝貢を遣わした。
煬帝が位を嗣ぐと、天下は全盛で、高昌王・突厥の啓民可汗が共に親しく宮闕に詣でて貢献したので、そこで高元を征し入朝させようとした。高元は恐れ、藩国の礼が甚だ欠けていた。大業七年、帝は高元の罪を討たんとし、車駕は遼水を渡り、遼東の地に営を止め、軍を分道して出師し、各々その城下に兵を頓させた。高麗は出戦して多く利あらず、皆城に拠って固く守った。帝は諸軍に攻撃を命じ、また諸将に勅して、高麗がもし降伏すれば、すみやかに撫で受け入れよ、兵を放って入城させてはならない、とさせた。城が陥落しそうになると、賊はただちに降伏を申し出、諸将は旨を奉じて、機に赴くことができなかった。先に馳せて奏上し、返報が届くころには、賊の守備も整い、再び出て拒戦した。このようなことが三度あり、帝は悟らなかった。このため食糧は尽き軍は疲弊し、輸送も続かず、諸軍は多く敗績し、そこで軍を返した。この行軍では、ただ遼水の西で賊の武厲邏を抜き、遼東郡及び通定鎮を置いて還っただけである。九年、帝は再び親征し、諸軍に便宜を以て事を行うよう勅した。諸将は分道して城を攻め、賊の勢いは日増しに逼迫した。ちょうど楊玄感が乱を起こしたので、帝は大いに恐れ、即日六軍を併せて還った。兵部侍郎の斛斯政が高麗に亡命したので、高麗は事情を詳細に知り、精鋭を尽くして追撃し、殿軍は多く敗れた。十年、また天下の兵を発したが、盗賊が蜂起し、所在で道路が阻絶され、軍は多く期日に遅れた。遼水に至ると、高麗もまた困弊し、使者を遣わして降伏を乞い、斛斯政を送って罪を贖おうとした。帝はこれを許し、懐遠鎮に頓してその降伏を受け、捕虜・軍事物資を持ち帰った。京師に至り、高麗の使者に太廟に親告させ、そこでこれを拘留した。なお高元を召し入朝させようとしたが、高元はついに来なかった。帝はさらに後の挙兵を図ったが、天下が喪乱に会したので、遂に行うことはなかった。
百済
百済の国は、蓋し馬韓の属国であり、索離国から出た。その王が出行したとき、その侍児が後に妊娠した。王が帰還し、これを殺そうとした。侍児が言うには、「前に天に気があり、大きな鶏の卵のようで降りてきて、感じたので、妊娠しました」と。王はこれを赦した。後に男児を生んだ。王はこれを豕牢に置いたが、豕が口の気でこれを温めたので死ななかった。後に馬闌に移したが、これも同様であった。王はこれを神として、養うことを命じ、東明と名付けた。成長すると、弓射に優れ、王はその猛勇を忌み、再び殺そうとした。東明はそこで奔走し、南に淹滯水に至り、弓で水を打つと、魚や鼈が皆橋となり、東明はこれに乗って渡ることができ、夫餘に至って王となった。東明の後に仇台があり、仁信に篤く、初めて帯方の故地に国を立てた。漢の遼東太守公孫度が娘を妻とさせたので、遂に東夷の強国となった。初めは百家で済水を渡ったので、よって百済と号した。
献文帝はその僻遠にして、危険を冒して入献するを以て、礼遇を優厚にし、使者邵安を遣わしてその使とともに還らせた。詔して曰く、「表を得て聞く、恙無きを。卿と高麗睦まず、至って陵犯せられたりと。苟くも義に順い、仁を以てこれを守らば、また何ぞ寇讎を憂えんや。前に遣わした使は、海を浮かびて荒外の国を撫するも、従来積年、往きて反らず、存亡達否、未だ審らかに悉くせず。卿の送る鞍は、旧乗と比校するに、中国の物にあらず。疑似の事を以て、必然の過ちを生ずべからず。経略権要は、已に別旨に具す。」また詔して曰く、「高麗は先朝に藩を称し、職を供すること日久し。彼においては昔よりの釁あれども、国に対しては犯令の愆なし。卿の使命始めて通ずるや、便ち伐を致さんことを求め、事会を尋討するも、理また未だ周からず。献ずる錦布海物は、悉く達せずといえども、卿の至心を明らかにす。今雑物を賜うこと別の如し。」また詔して璉に安らを護送せしむ。高麗に至り、璉は昔余慶と讎ありと称し、東過を許さず。安らはここにおいて皆還り、乃ち詔を下してこれを切責した。五年、安らをして東萊より海を浮かばせ、余慶に璽書を賜い、その誠節を褒めた。安らは海濱に至り、風に遇い飄蕩し、竟に達せずして還った。
晋、宋、齊、梁が江左を拠る以来、また使を遣わして藩を称し、兼ねて拝封を受けた。また魏とも絶えず。
その南、海行三月に耽牟羅国あり、南北千余里、東西数百里、土は麞鹿多く、百済に附庸す。西行三日、貊国に至る、千余里と云う。
新羅
新羅とは、その先祖は本来辰韓の種である。地は高麗の東南に在り、漢代の楽浪の地に居す。辰韓はまた秦韓とも曰う。相伝えて言うには、秦の世に亡人が役を避けて来適し、馬韓がその東界を割いて居らしめた。秦人である故に、名づけて秦韓と曰う。その言語・名物は、中国人に似るものあり、国を邦と名づけ、弓を弧とし、賊を寇とし、行酒を行觴とし、相呼ぶ皆徒と為し、馬韓と同じからず。また辰韓の王は常に馬韓の人を用いてこれを作し、世々相伝え、辰韓は自立して王と為ることを得ず、その流移の人の故なることを明らかにす。恒に馬韓に制せられた。辰韓の始め、六国あり、稍々分かれて十二と為り、新羅は則ちその一つなり。或いは称す、魏の将毋丘儉が高麗を討ちてこれを破り、沃沮に奔る。その後故国に復帰す。留まる者有り、遂に新羅と為る。亦た斯盧と曰う。その人は華夏・高麗・百済の属を雑え、兼ねて沃沮・不耐・韓・滅の地を有す。その王は本来百済の人、海より逃れて新羅に入り、遂にその国に王と為る。初め百済に附庸し、百済が高麗を征するに、戎役に堪えず、後に相率いてこれに帰し、遂に強盛を致す。因って百済を襲い、迦羅国に附庸す。伝世三十、真平に至る。隋の開皇十四年、使者を遣わして方物を貢ぐ。文帝は真平を上開府・楽浪郡公・新羅王に拝した。
その官に十七等あり。一に伊罰幹と曰い、相国の如く貴く、次に伊尺幹、次に迎幹、次に破弥幹、次に大阿尺幹、次に阿尺幹、次に乙吉幹、次に沙咄幹、次に及伏幹、次に大奈摩幹、次に奈摩、次に大舍、次に小舍、次に起士、次に大烏、次に小烏、次に造位。外に郡県あり。その文字・甲兵は中国と同じ。人を選び壮健なる者は悉く軍に入り、烽・戍・邏は俱に屯営し部伍す。風俗・刑政・衣服は略々高麗・百済と同じ。毎月の旦に相賀し、王は宴会を設け、群官に班賚す。その日、日月神主を拝す。八月十五日に楽を設け、官人に射させ、馬・布を以て賞す。大事有れば、則ち官を聚めて詳議してこれを定む。服色は画素を尚び、婦人は髪を辮じて頸に繞らし、雑彩及び珠を以て飾りと為す。婚嫁の礼は唯だ酒食のみ、軽重は貧富に随う。新婦の夕、女は先ず舅姑を拝し、次に即ち大兄・夫を拝す。死すれば棺斂有り、葬送して墳陵を起す。王及び父母妻子の喪には、服を居すること一年。田は甚だ良沃にして、水陸兼ねて種う。その五穀・果菜・鳥獣・物産は、略々華と同じ。
大業以来、歳毎に朝貢を遣わす。新羅の地は山険多く、百済と隙を構うと雖も、百濟もまたこれを図る能わざるなり。
勿吉
勿吉国は高句麗の北にあり、一に靺鞨と曰う。邑落各自長有り、相総一せず。その人は勁悍にして、東夷の中で最も強く、言語は独り異なる。常に豆莫婁等国を軽んじ、諸国もまたこれを患う。洛陽を去ること五千里。和龍より北二百余里に善玉山有り、山より北行すること十三日で祁黎山に至り、又北行すること七日で洛環水に至る。水は広さ里余り、又北行すること十五日で太岳魯水に至り、又東北行すること十八日でその国に到る。国に大水有り、闊さ三里余り、名づけて速末水と曰う。その部類、凡そ七種有り。その一は粟末部と号し、高麗に接し、勝兵数千、驍武多く、毎度高麗を寇す。その二は伯咄部、粟末の北に在り、勝兵七千。その三は安車骨部、伯咄の東北に在り。その四は拂涅部、伯咄の東に在り。その五は号室部、拂涅の東に在り。その六は黒水部、安車骨の西北に在り。その七は白山部、粟末の東南に在り。勝兵並びに三千を過ぎず、而して黒水部は特に勁健なり。拂涅より以東は、矢皆石鏃、即ち古の粛慎氏なり。東夷中に強国と為る。居する所多く山水に依る。渠帥を大莫弗瞞咄と曰う。国の南に従太山と称する者有り、華言で太皇、俗に甚だこれを畏敬し、人は山上で溲汙することを得ず、山を行き経る者は、物を以て盛りて去る。上に熊羆豹狼有り、皆人を害せず、人もまた敢えて殺さず。地は卑湿にして、土を築いて堤の如くし、穴を鑿ちて以て居り、口を上に向けて開き、梯を以て出入す。その国に牛無く、馬有り、車は則ち歩いて推し、相与に偶耕す。土は粟・麦・穄多く、菜は則ち葵有り。水気堿く、木皮の上に塩を生じ、亦た塩池有り。その畜は多く猪、羊無し。米を嚼みて酒と為し、これを飲めば亦た酔う。婚嫁、婦人は布裙を服し、男子は猪皮の裘を衣、頭に武豹の尾を挿す。俗に溺を以て手面を洗い、諸夷の中で最も不潔なり。初婚の夕、男は女の家に就き、女の乳を執って罷む。嫉妬深く、その妻が外で淫すれば、人其の夫に告ぐる有らば、夫は輒ち妻を殺して後悔し、必ず告ぐる者を殺す。これによりて姦淫の事は終に発せず。人皆善く射る。射猟を以て業と為す。角弓長さ三尺、箭長さ尺二寸、常に七八月に毒薬を造り、矢に傅えて以て禽獣を射れば、中る者は立ちどころに死す。毒薬を煮れば気も亦た人を殺す能う。その父母春夏に死すれば、立ちどころにこれを埋め、塚の上に屋を作り、雨湿せざらしむ。若し秋冬に死すれば、その屍を以て貂を捕らえ、貂その肉を食らえば、多くこれを得る。
奚
その後、種類漸く多く、五部に分かれた。一に辱紇主、二に莫賀弗、三に契個、四に木昆、五に室得と曰う。各部毎に俟斤一人をその帥とする。水草に随って逐い、頗る突厥に同じ。阿会氏あり、五部中最も盛んで、諸部皆これに帰した。毎に契丹と相攻撃し、虜獲した財畜に因り、使節を遣わして方物を貢いだ。
契丹
天保四年(553年)九月、契丹が塞を犯した。文宣帝親ら戎し北討した。平州に至り、遂に西に趣き長塹に向かった。詔して司徒潘相楽に精騎五千を帥い、東道より青山に趣かしめ、復た詔して安德王韓軌に精騎四千を帥い東に趣き、契丹の走路を断たしめた。帝親ら山嶺を逾え、奮撃して大いにこれを破り、十余万口を虜い、雑畜数十万頭を獲た。相楽はまた青山に於て契丹の別部を大破した。所虜の生口は、皆諸州に分置した。その後、復た突厥に逼せられ、また一万家を以て高麗に寄せた。
隋の開皇四年、莫賀弗を率いて来朝した。五年、その衆を尽くして塞に款き、文帝はこれを容れ、故地に居住することを聴した。責めて譲ると、その国は使者を遣わして闕に詣で、頓顙して罪を謝した。その後、契丹の別部である出伏らが高麗に背き、衆を率いて内附した。文帝は来朝を見て、これを憐れんだ。上は突厥と和好しており、遠人の心を失うことを重んじ、悉く糧を与えて本部に還らせ、突厥に勅してこれを撫納させた。固く辞して去らなかった。部落は次第に衆を増し、遂に北に徙り、水草を逐い、遼西の正北二百里に当たり、紇臣水に依拠して居住し、東西三百里に亘り、十部に分かれた。兵の多いものは三千、少ないものは千余り。寒暑を逐い、水草に随って畜牧する。征伐あるときは、則ち曾帥相い議し、兵を興し衆を動かすことは、符契の如く合う。突厥の沙鉢略可汗は吐屯潘垤を遣わしてこれを統べさせたが、契丹は吐屯を殺して遁走した。大業七年、使者を遣わして朝し、方物を貢した。
室韋
その後五部に分かれ、相い総一せず、所謂る南室韋、北室韋、缽室韋、深末怛室韋、大室韋にして、並びに君長無し。人貧弱にして、突厥は三吐屯を以てこれを総領す。
南室韋より北に十一日行くと北室韋に至り、九部落に分かれ、吐紇山を繞って居住す。その部落の渠帥は号して乞引莫賀咄と曰う。毎部に莫何弗三人あり以てこれに貳す。気候最も寒く、雪深く馬を没す。冬は則ち山に入り土穴に居し、土畜多く凍死す。麞鹿に富み、射獵を務めとし、肉を食い皮を衣い、氷を鑿ち水の中に没して魚鱉を網取りす。地多く積雪し、坑阱に陥るるを懼れ、木に騎って行き、亻答すれば即ち止む。皆な貂を捕らえることを業とし、狐貂を以て冠と為し、魚皮を以て衣と為す。
又北に千里行くと缽室韋に至り、胡布山に依拠して住み、人衆多く北室韋に、幾つの部落なるかを知らず。樺皮を以て屋を蓋い、その余は北室韋と同じ。
缽室韋より西南に四日行くと、深末怛室韋に至る。水を因って号と為すなり。冬月は穴居して、以て太陰の気を避く。
又西北に数千里行くと大室韋に至る。径路険阻にして、言語通ぜず。特に貂及び青鼠多し。
北室韋は時に使者を遣わして貢献す。余は至る者無し。
豆莫婁
豆莫婁国は、勿吉の北千里にあり、旧き北夫余なり。室韋の東に在り、東は海に至り、方二千余里。その人は土着し、居室倉庫あり。山陵広沢多く、東夷の域に於いて、最も平敞なり。地は五穀に宜しく、五果生ぜず。その人長大にして、性強勇謹厚、冠抄せず。その君長は皆な六畜を以て官名と為し、邑落に豪帥あり。飲食も亦た俎豆を用う。麻布あり、衣服の制は高麗に類すれども帽大なり。その国の大人は、金銀を以てこれを飾る。刑を用うること厳急にして、人を殺す者は死し、その家人を没して奴婢と為す。俗淫にして、特に妒む者を悪み、これを殺して屍を国の南山の上に置き、腐るに至りて、女家始めて牛馬を輸するを得、乃ちこれと与う。或いは言う、濊貊の地なりと。
地豆干
烏洛侯
烏洛侯国は、地豆幹の北にあり、代都より四千五百余里を距る。その地は低湿にして、霧気多く寒し。冬に入れば則ち地を穿ちて室と為し、夏は則ち原阜に随って畜牧す。豕多く、穀・麦あり。大君長無く、部落の莫弗は皆世襲にて之を為す。その俗、髪を縄じ皮服し、珠を以て飾りと為す。人は勇を尚び、奸窃を為さず、故に蔵を慢にし野に積むも寇盗無し。射猟を好む。楽に箜篌あり、木槽革面にして九弦を施す。その国の西北に完水あり、東北に流れて難水に合し、その小水は皆難水に注ぎ、東に海に入る。また西北に二十日行けば、于巳尼の大水あり、所謂北海なり。
太武帝の真君四年に来朝し、その国の西北に魏の先帝の旧墟石室有りと称す。南北九十歩、東西四十歩、高さ七十尺、室に神霊有り、人多く祈請す。太武帝は中書侍郎李敞を遣わして告祭せしめ、祝文を石室の壁に刊して還る。
流求
流求国は、海島に居し、建安郡の東に当たる。水行五日にして至る。土は山洞多し。その王は姓は歓斯氏、名は渇刺兜、その由来及び国を有つ世数を知らず。彼の土人は之を可老羊と呼び、妻を多抜茶と曰う。居る所を波羅檀洞と曰い、塁柵三重、流水を以て環らし、棘を樹てて籓と為す。王の居る舎は、その大さ一十六間、禽獣を彫刻す。闘鏤樹多く、橘に似て葉密なり、条は繊細にして髪の垂るるが如し。国に四五の帥有り、諸洞を統べ、洞に小王有り。往々に村有り、村に鳥了帥有り、並びに善戦の者を以て之を為し、自ら相樹立し、一村の事を主る。男女皆白紵を以て髪を縄じ纏め、項後より盤繞して額に至る。その男子は鳥羽を以て冠と為し、珠貝を以て装い、赤毛を以て飾り、形制同じからず。婦人は羅紋白布を以て帽と為し、その形方正なり。闘鏤の皮を織り並びに雑毛を以て衣と為し、制裁一ならず。毛を綴じ螺を垂れて飾りと為し、雑色相間じ、小貝を下垂し、その声は佩の如し。璫を綴じ釧を施し、珠を頸に懸く。藤を織りて笠と為し、毛羽を以て飾る。刀・槊・弓箭・剣・鈹の類有り。その処は鉄少なく、刀は皆薄小にして、多く骨角を以て之を輔助す。紵を編みて甲と為し、或いは熊豹の皮を用う。王は木獣に乗り、左右に令して之を輿せしめ、而して導従十数人を過ぎず。小王は機に乗り、獣形に鏤む。国人は相攻撃するを好み、人皆驍健にして善く走り、死に難く創に耐ゆ。諸洞各々部隊を為し、相救助せず。両軍相当うれば、勇者三五人出でて前に跳噪し、言を交えて相罵り、因って相撃射す。もし其の勝たざれば、一軍皆走り、人を遣わして謝を致し、即ち和して解く。闘死者を収取し聚めて之を食い、仍って髑髏を将いて王の所に向かう。王は則ち之に冠を賜い、便ち隊帥と為す。
賦斂無く、事有れば則ち均しく税す。刑を用うるも亦た常准無く、皆事に臨み科決す。犯罪は皆鳥了帥に断じ、伏せざれば則ち上りて王に請う。王は臣下に令して共に議りて之を定めしむ。獄に枷鎖無く、唯だ縄を以て縛るのみ。死刑を決するには鉄錐を以てす、筋の如く大さ、長さ尺余、頂を鑽りて之を殺す。軽罪には杖を用う。俗に文字無く、月の虧盈を望みて以て時節を紀し、草木の栄枯を以て年歳と為す。人は深目長鼻、胡に類し、亦た小慧有り。君臣上下の節、拝伏の礼無し。父子同じ床に寝る。男子は髭鬚を抜き去り、身上に毛有る処は皆除去す。婦人は黒き黥を以て手に虫蛇の文を為す。嫁娶には酒・珠貝を以て聘と為し、或いは男女相悦べば、便ち相匹偶す。婦人の産乳には、必ず子衣を食い、産後に火を以て自ら灸し、汗を出さしめ、五日にして便ち平復す。木槽の中に海水を暴きて塩と為し、木汁を以て酢と為し、米麹を以て酒と為す。その味甚だ薄し。食は皆手を用う。異味を得遇えば、先ず尊者に進む。凡そ宴会有れば、酒を執る者は必ず名を呼ばれて後ち飲み、王に酒を上ぐる者も、亦た王の名を呼びて後ち杯を銜え共に飲む。頗る突厥に同じ。歌呼蹋蹄し、一人唱えば、衆皆和し、音は頗る哀怨なり。女子を膊の上に扶け、手を揺りて舞う。その死者は気将に絶えんとするに、輦にて庭前に至らしめ、親賓哭泣して相吊う。その屍を浴し、布帛を以て纏め縛り、葦席を以て裹み、土を襯して殯し、上に墳を起さず。子たる父の為に、数月肉を食わず。その南境の風俗は少しく異なり、人に死者有れば、邑里共に之を食う。熊・豺・狼有り、尤も多くは猪・鶏、羊・牛・驢・馬無し。厥の田は良沃にして、先ず火を以て焼き、而して水を引き灌ぎ、一鍤を持ち、石を以て刃と為し、長さ尺余、闊さ数寸、而して之を墾る。稻・粱・禾・黍・麻・豆・赤豆・胡黒豆等に宜し。木に楓・栝・樟・松・楩・楠・枌・梓有り。竹・藤・果・薬は、江表と同じ。風土気候は、嶺南に相類す。俗に山海の神を事え、肴酒を以て祭る。戦闘に人を殺せば、便ち将に所殺の人を以て其の神を祭る。或いは茂樹に依りて小屋を起し、或いは髑髏を樹上に懸け、以て箭を之に射し、或いは石を累ね幡を系ぎ、以て神主と為す。王の居る所、壁の下多く髑髏を聚めて以て佳と為す。人の門戸の上には、必ず獣の頭骨角を安ず。
倭
倭国は、百済・新羅の東南に在り、水陸三千里、大海中に於いて山島に依りて居る。魏の時、訳して中国に通ずるもの三十余国、皆子と称す。夷人は里数を知らず、但だ日を以て計る。その国境、東西五月行、南北三月行、各々海に至る。その地勢、東高く西下る。邪摩堆に居るは、則ち《魏志》の所謂邪馬台なり。又云う、楽浪郡境及び帯方郡より並びに一万二千里を去り、会稽の東に在り、儋耳に近しと。俗皆文身し、自ら云う、太伯の後なりと。帯方より倭国に至るを計るに、海水に循いて行き、朝鮮国を歴、乍ち南乍ち東、七千余里にして、始めて一海を度る。又南に千余里、一海を度る、闊さ千余里、名づけて瀚海、一支国に至る。又一海を度ること千余里、名づけて末盧国。又東南に陸行五百里、伊都国に至る。又東南百里、奴国に至る。又東行百里、不弥国に至る。又南に水行二十日、投馬国に至る。又南に水行十日、陸行一月、邪馬台国に至る。即ち倭王の都する所なり。
【論】
論じて曰く、広谷大川は制を異にし、人生其の間は俗を異にし、嗜欲同じからず、言語通ぜず、聖人は時に因りて教を設け、以って其の志を達し其の俗を通ぜしむる所以なり。九夷の居る所は、中夏と懸隔すれども、然れども天性柔順にして、横暴の風無く、山海に綿邈とすれども、而も易く以って道にて禦う。夏・殷の世には、時に或いは来王す。箕子の朝鮮に地を避くるに及び、始めて八条の禁有り、疏にして漏れず、簡にして入る可く、化の感ずる所、千載絶えず。今遼東の諸国は、或いは衣服に冠冕の容を参じ、或いは飲食に俎豆の器有り、経術を好尚し、文史を愛楽し、京都に遊学する者は、往来路を継ぎ、或いは世を没して帰らず、先哲の遺風に非ざれば、其れ孰れか能く此れに致さんや。故に孔子は曰く、「言忠信、行篤敬、蛮貊の邦と雖も行わる」と。誠に斯の言なるかな。其の俗の採る可きものは、豈に楛矢の貢のみならんや。魏より隋に至るまで、年は四代を移し、時は方に争競し、未だ外略に遑あらず。開皇の末に洎りて、方に遼左を征し、天時利あらず、師遂に功無し。二代は基を承け、志は宇宙を苞み、頻りに三韓の地を践み、屡び千鈞の弩を発す。小国は亡ぶるを懼れ、敢へて困獣に同じくし、兵載せて捷からず、四海騒然とし、遂に以って土崩し、身を喪ひ国を滅ぼす。兵志に之を有ること曰く、「広く徳を務むる者は昌え、広く地を務むる者は亡ぶ」と。然れども遼東の地は、郡県に列せられず久しく、諸国は朝正し貢を奉じ、歳時に闕くること無し。二代は震ひて之を矜り、以って人己に若く莫しと為し、能く文徳を以って懐かしむることなく、遽かに干戈を動かし、内には富強を恃み、外には地を広むるを思ひ、以って驕りて怨みを取り、以って怒りて師を興し、此の如くにして亡ばざるは、古より未だ聞かず。然れども四夷の戒め、安んぞ深く念はざる可けんや。其の豆莫婁・地豆幹・烏洛侯は、齊周及び隋を歴て、朝貢遂に絶え、其の事故は顕はるること莫しと云う。