夏の赫連氏、燕の慕容氏、後秦の姚氏、北燕の馮氏、西秦の乞伏氏、北涼の沮渠氏、梁の蕭氏
晋は永嘉の乱より、天下は瓜分され、胡羯が跋扈し、年代を経て、各々運命を担うと称し、皆帝位に居た。やがて互いに併呑し滅ぼし、終には魏の臣となった。然るに魏は昭成帝以前は、王者の跡未だ顕わならず、劉氏や石氏の類は、時代が連続せず、旧書は伝と為し、これを四夷に編し、耳目を欺く有りて、緗素に益する無し。且つ当時は五馬江に浮かび、正朔改まるを示し、『陽秋』の記注、記録に具存す。朝政は叢脞なりと雖も、年代は既に多し。太宗文皇帝天象に動き、大いに刊勒を存し、その時事相接するものは、既に『載記』に編せり。今は道武帝以来に併呑したる者を断じ、その行事を序し、その滅亡を紀す。その余に関わり及ばざるは、皆取らざる所なり。晋・宋・齊・梁の如きは、偏拠と曰うと雖も、年次漸く三百年、鼎命相承けたり。『魏書』は『島夷』と命じ、これを伝に列すも、亦取らざる所なり。故に今の篇に入れず、蕭察は帝号と云うと雖も、周室に附庸す、故にこの編に従い、次いで『僭偽附庸傳』と為す云爾。
鉄弗の劉武は、南単于の苗裔、左賢王去卑の孫、北部帥劉猛の従子にして、新興郡慮虒の北に居る。北人は胡父に鮮卑母を「鉄弗」と謂い、因って号を以て姓と為す。武の父は誥汁爰、代々部落を領す。汁爰死し、武代わる。武死し、子の務桓部落を代領し、魏と和通す。務桓死し、弟の閼陋頭代わりて立ち、密かに反叛を謀る。後に務桓の子悉勿祈、遂に閼陋頭を逐いて立つ。悉勿祈死し、弟の衛辰代わりて立つ。
衛辰は、務桓の第三子なり。既に立つと、子を遣わして朝献し、昭成帝は女を以て妻と為す。衛辰は密かに苻堅に通じ、堅は左賢王と為す。使者を遣わし堅に田地を求めしむ。春去り秋来たり、堅これを許す。後に乃ち堅に背き、専ら魏に帰す。兵を挙げて堅を伐ち、堅は其の将鄧討を遣わしこれを擒う。堅自ら朔方に至り、衛辰を夏陽公と為し、其の部落を統べしむ。衛辰復た堅に附く。昭成帝討ちて大いにこれを破り、遂に走りて苻堅に奔る。堅これを朔方に送還し、兵を遣わしてこれを戍らしむ。
昭成帝の末、衛辰は苻堅を導き魏の南境を寇す。王師敗績す。堅遂に国人を二部に分ち、河以西はこれに属し衛辰に、河以東はこれに属し劉庫仁に。堅後に衛辰を単于と為し、河西の新類を督摂せしめ、代来に屯す。慕容永は長子を拠り、衛辰を使持節・ 都督 河西諸軍事・大将軍・朔州牧・朔方王に拝す。姚萇も亦使者を遣わし結好し、衛辰を使持節・ 都督 北朔雑夷諸軍事・大将軍・大単于・河西王・幽州牧に拝す。
登国年中、衛辰は子の直力鞮を遣わし南部を寇し、その衆八九万。道武帝の軍五六千人、その囲みに為る。帝乃ち車を以て方営と為し、並び戦い並び進み、鉄岐山の南に於いて大いにこれを破る。直力鞮単騎にて走る。帝勝に乗じてこれを追い、五原の金津より南に河を渡り、径ちに其の国に入る。遂に衛辰の居る悦跂城に至る。衛辰父子驚きて遁る。乃ち分遣し陳留公元虔は南に至り白塩池にて衛辰の家属を虜い、将軍伊謂は木根山に至り直力鞮を擒う。衛辰単騎にて遁走し、その部下の為に殺され、首を伝えて行宮に至る。先だって河水赤く血の如し、衛辰これを悪む。衛辰の亡ぶるに及び、その族類を誅し、並びにこれを河に投ず。衛辰の第三子屈丐は薛幹部の帥太悉伏に奔る。
屈丐は、本名は勃勃、明元帝その名を改めて屈丐と曰う。北方に屈丐を言うは卑下なり。太悉伏これを姚興に送る。興の高平公破多羅没弈于は女を以て妻と為す。屈丐身長八尺五寸、興見てこれを奇とす。 驍 騎将軍に拝し、奉車都尉を加え、常に軍国の大議に参じ、寵遇勲旧を逾ゆ。興の弟済南公邕、興に言うに「屈丐天性仁ならず、親しみ育つ難し、これを寵する甚だし、臣窃かに惑う」と。興曰く「屈丐は済世の才有り、吾方にその芸用を収め、これを興して共に天下を平らげん、何の不可かあらん」と。乃ち屈丐を安遠将軍と為し、陽川侯に封じ、没弈于を助け高平を鎮めしむ。邑固く諫めて以て不可と為す。興乃ち止む。屈丐を持節・安北将軍・五原公と為し、三交五部の鮮卑二万余落を配し、朔方を鎮めしむ。
道武帝の末、屈丐は没弈于を襲い殺してその衆を併せ、僭って大夏天王と称し、年号を龍升とし、百官を置く。興乃ちこれを悔ゆ。屈丐は鉄弗の姓を恥じ、遂に赫連氏に改む。自ら云うに徽赫天に連なると。又その支庶を鉄伐氏と号し、云うに族剛鋭鉄の如く、皆人を伐つに堪うると。晋の将劉裕、長安を攻む。屈丐聞きて喜びて曰く「姚泓豈に裕を拒ぎ得んや。裕必ずこれを克たん。裕の去りし後を待ち、吾これを取ること遺物を拾うが如からん」と。ここに於いて馬に秣し兵を励まし、士 卒 を休養す。劉裕の泓を禽うるに及び、子の義真を留めて長安を守らしむ。屈丐これを伐ち、大いに義真を破り、人頭を積みて京観と為し、号して髑髏台と曰う。遂に灞上に於いて僭って皇帝と為り、年号を昌武とし、統万に都を定め、城南に銘を勒し、その功德を頌し、長安を南都と為す。
性驕虐にして、人を視ること草の如く、土を蒸して城を築き、鉄錐刺さ入ること一寸なれば、即ち作人を殺して並びにこれを築く。造る所の兵器、匠の呈する必ず死す。甲を射て入らざれば、即ち弓人を斬り、もし其れ入らば、便ち鎧匠を斬る。工匠数千人を殺す。常に城上に居り、弓剣を側に置き、嫌忿する所あれば、手ずから人を殺す。群臣忤視する者はその目を鑿ち、笑う者はその脣を決し、諫むる者をこれを誹謗と謂い、先ずその舌を截り、而して後にこれを斬る。その子璝を廃せんと議す。璝長安より起兵し屈丐を攻む。丐は子の太原公昌を遣わし璝を破りこれを殺す。屈丐は昌を太子と為す。始光二年、屈丐死す。昌僭りて立つ。
昌は字を還国と曰い、一名は折、屈丐の第二子なり。既に僭位し、年号を承光と改む。太武帝屈丐の死を聞き、諸子相攻み、関中大乱す。ここに於いて西伐す。乃ち軽騎一万八千を以て、河を済い昌を襲う。時に冬至の日、昌宴饗す。王師奄到し、上下驚擾す。車駕は黒水に次し、その城を去ること三十余里、昌乃ち出戦す。太武帝馳せ往きてこれを撃つ。昌退き走りて城に入る。未だ門を閉ざさず、軍士勝に乗じてその西宮に入り、その西門を焚き、夜城北に宿す。明日軍を分かちて四出し、一万余家を徙して還る。
後昌は弟の定を遣わして 司空 奚斤と長安において相対峙させた。太武帝は虚を衝いて西征し、君子津を渡り、軽騎三万を率いて倍道兼行した。群臣は皆諫めて言うには、「統萬城は堅固であり、一日で陥落させることはできません。今、軽軍をもってこれを討つのは、進んでも勝てず、退いても拠るべきものがありません。歩兵と攻城兵器を揃えて、一斉に進むに如きはありません」と。帝は言うには、「およそ用兵の術は、城を攻めることが最も下策であり、やむを得ずこれを用いるのである。もし攻城兵器を一斉に進めれば、賊は必ず恐れて堅く守るであろう。もし攻めて時に陥とさなければ、食糧は尽き兵は疲れ、外で掠奪するものもなく、上策ではない。朕は軽騎をもってその城下に至れば、彼らは先に歩軍があると聞いているので、歩兵が騎兵を見て至れば、必ず心に隙ができるであろう。朕はしばらく弱兵を以てこれを誘い、もし一戦を得れば、必ずこれを生け捕りにできる。そうなる所以は、軍士は家を二千里離れ、後には黄河の難がある。いわゆる死地に置いて後に生くというものである。これをもって決戦するには余裕があり、城を攻めるには不足である」と。遂に行軍し、黒水に駐屯し、軍を分けて谷に伏せ、少数の兵をもってその城下に至った。昌の将狄子玉が降伏して来て、言うには、人をやってその弟の定を追わせたが、定は言うには、「城は堅峻で攻め落とすことはできず、奚斤らを生け捕りにしてから、ゆっくりと進み、内外からこれを撃てば、どうして成功しないことがあろうか」と。昌はこれを然りとした。太武帝はこれを憎み、軍を退いて城の北に陣取り、昌に弱さを示し、永昌王健及び娥清らに分かれて騎兵五千を率いさせ、西の方の住民を掠奪させた。時に軍士が罪を負い、昌の城に逃亡し、官軍の食糧が尽き、士卒が野菜を食べ、輜重が後方にあり、歩兵は未だ至らず、これを撃つのが得策であると告げた。昌はその言葉を信じ、衆を率いて城を出、歩騎三万であった。 司徒 長孫翰らは皆、昌の歩兵の陣は陥とし難いと言い、その鋒を避け、しばらく歩兵を待ち、一斉に奮撃すべきであると言った。帝は言うには、「そうではない。遠く来て賊を求め、その出て来ないことを恐れていた。今避けて撃たなければ、彼は奮い立ち我は弱くなる。計略ではない」と。遂かに軍を収めて偽って敗走し、引き連れてこれを疲れさせた。昌は退却したと思い、鬨の声を上げて前進し、陣を広げて翼の形をなした。五六里進んだ時、帝がこれを突撃したが、賊の陣は動じなかった。少し前進した時、風が起こり、方術官の趙倪が帝に日を改めて待つよう勧めたが、崔浩がこれを叱った。帝は騎兵を左右に分けてこれを挟撃した。帝は馬から落ち、賊が既に迫ったが、帝は馬に躍り乗り、その尚書斛黎文を刺し殺し、騎兵の賊十余人を殺した。流れ矢が帝に当たったが、帝は奮撃を止めなかった。昌の軍は大いに潰走し、城に入ることもできず、上邽に奔り落ちた。遂にその城を陥れた。
初め、屈丐は奢侈で、宮室を造営することを好み、城の高さは十仞、基壇の厚さは三十歩、上部の広さは十歩、宮牆の高さは五仞で、その堅さは刀斧を研ぐことができた。台榭は高大で、飛閣が相連なり、皆彫刻や絵画が施され、綺繡で覆い、丹青で飾られ、文采を極めていた。帝は左右の者を顧みて言うには、「蕞爾たる小国でありながら、人を用いることこのようである。滅亡せざるを得ようか」と。
侍御史安頡が昌を生け捕りにした。帝は侍中古弼に命じて昌を迎えさせ、京師に至らせ、西宮門内に住まわせ、副次的な乗輿を与えた。また詔して昌に始平公主を娶らせ、会稽公を仮授し、秦王に封じたが、謀反を企てた罪で誅殺された。
昌の弟の定、小字は直獖、屈丐の第五子である。凶暴で頼むに足らぬ。昌が敗れると、定は平涼に奔り、尊号を自称し、年号を勝光と改めた。定は陰槃山に登り、自らの本国を望み、泣いて言うには、「先帝が朕に大業を継がせたのは、どうして今日のようなことがあろうか。天が朕に年を貸してくれれば、卿ら諸人と共に季興の業を建てるであろうに」と。間もなく群狐数百匹がその側で鳴いた。定は命じてこれを射させたが、何も獲られなかった。これを憎んで言うには、「見るものもまた大いに良からず、咄咄たる天道よ、また何を言おうか」と。
定は宋と連合し、河北を遥かに分割した。恒山以東は宋に属し、恒山以西は定に属した。太武帝は自ら軽騎を率いて平涼を襲撃した。定は平涼を救援し、方陣を布いて自らを固めた。帝は四面からこれを包囲し、その水と草を断った。定は水を得られず、衆を率いて原を下った。詔して武衛将軍丘眷にこれを撃たせた。定の衆は潰走し、傷を負い、単騎で遁走し、その余衆を率いて西の上邽を守った。神蒨四年、吐谷渾の慕璝に襲撃され、生け捕りにされて京師に送られ、誅殺された。
徒河の慕容廆、字は弈洛瑰、本来は昌黎の出身である。曾祖の莫護跋は、魏の初めに諸部落を率いて遼西に入居し、司馬宣王に従って公孫氏を討ち、率義王に拝され、始めて棘城の北に王府を建てた。祖の木延は、毌丘儉に従って高麗を征伐し功績があり、始めて左賢王の号を賜った。父の涉帰は、勲功により鮮卑単于に進んで拝され、邑を遼東に遷した。涉帰が死ぬと、廆が代わって部落を統領した。遼東が僻遠であることを以て、徒河の青山に遷った。穆帝の世、東部の患いとなった。廆が死ぬと、子の晃が嗣いだ。
晃、字は元真、年号を元年と号し、自ら燕王と称した。建国二年、昭成帝は晃の娘を后に迎えた。四年、晃は和龍に城を築いてここに都とした。高麗を征伐して大いにこれを破り、遂に丸都に入り、高麗王釗の父の利の墓を掘り、その屍を運び出し、その宮室を焼き、丸都を破壊して帰還した。釗が後に臣を称したので、その父の屍を返した。晃が死ぬと、子の雋が嗣いだ。
雋、字は宣英、位を襲ぐと、年号を元年と号した。石氏の乱を聞き、甲を礪ぎ兵を厳しくし、進取の計略を為さんとし、都を薊に遷した。建国十五年、俊は僭越して皇帝を称し、百官を置き、年号を天璽と号し、国を大燕と称した。十六年、薊より都を鄴に遷し、年号を光寿と号した。雋が死ぬと、第三子の暐が嗣いだ。
慕容暐は字を景茂といい、建熙と号した。暐の政治には綱紀がなかった。神が鄴に降臨し、湘女と称し、声があり、人と交わり、数日して去った。後に苻堅が将軍王猛を遣わして鄴を討ち、暐を捕らえ、新興侯に封じた。道武帝の七年、苻堅は淮南で敗れた。暐の叔父慕容垂は苻堅に叛き、鄴において苻丕を攻めた。暐の弟の済北王慕容泓は先に北地長史となっていたが、垂が鄴を攻めたと聞き、関東に亡走し、華陰に還って屯し、自ら雍州牧・済北王を称した。垂を丞相・大司馬・呉王に推戴した。堅は子の鉅鹿公苻叡を遣わして泓を討たせた。泓の弟の中山王慕容沖は先に平陽太守となっていたが、また河東で兵を起こし、泓のもとに奔った。泓の兵は十万に至り、使者を遣わして堅に告げ、天下を分けて王となることを求めた。堅は大いに怒り、暐を責めた。暐は頭を叩いて流血し謝罪したが、堅は以前のように彼を遇し、暐に命じて書を以て垂及び泓・沖を招かせた。暐は密かに使者を遣わして泓に告げた、「大業を勉めて建てよ、呉王を相国とし、中山王を太宰とし大司馬を領せしめ、汝は大将軍となり 司徒 を領し、制を承けて封拜せよ。我の死の報せを聞いたならば、汝は直ちに尊位に即け」と。泓は長安に向かって進み、年号を燕興とした。泓の謀臣高蓋・宿勤崇らは、泓の徳望が沖に劣り、かつ法を厳峻に持することを以て、泓を殺し、沖を立てて皇太弟とし、制を承けて事を行い、百官を置いた。阿房に進んで拠った。初め、堅が燕を滅ぼした時、沖の姉の清河公主は十四歳で、殊色あり、堅はこれを納れた。沖は十二歳で、また龍陽の姿あり、堅はまたこれを寵幸した。姉弟は専寵した。長安ではこれを歌った、「一雌また一雄、双飛して紫宮に入る」と。王猛が切に諫めたので、沖を出した。その母が卒すると、燕の皇后の礼を以て葬った。長安ではまた謡った、「鳳皇、鳳皇、阿房に止まる」と。時に鳳皇は梧桐に非ざれば棲まず、竹実に非ざれば食わずとされたので、阿城に梧桐と竹を数千株植え、鳳皇を待った。沖の小字は鳳皇であり、ここに至り、阿城はついに堅の賊となった。暐が入って堅に面会し謝罪し、ついで二子が昨日婚したことを言い、堅が邸に幸することを欲し、堅はこれを許した。暐が出ると、術士の王嘉は言った、「椎蘆を以て蘧蒢を作るも、文章を成さず。天大雨に会い、羊を殺すを得ず」と。暐が堅を殺そうとして果たさないことを言ったのである。堅と群臣は誰も解さなかった。この夜大雨が降り、朝になって果たして出なかった。事が発覚し、堅はついに暐父子及び宗族を誅し、城内の鮮卑は少長男女を問わず皆殺しにした。
慕容廆の弟の慕容運。運の孫の慕容永、字は叔明。暐が苻堅に併呑された後、永は長安に移された。家は貧しく、夫妻は常に市で靴を売った。暐が堅に殺されると、沖は自ら尊号を称し、永を小将軍とした。沖は毒暴であり、堅が出て五将山に至ると、沖は長安に入り、兵を放って大いに掠め、死者は数え切れなかった。初め、堅の乱が未だ起こらぬ時、関中に忽然として、火が無いのに煙気が大いに起こり、方数千里、月余り消えなかった。堅は毎度聴訟観に臨み、民に怨みある者があれば、城北に煙を挙げさせ、観てこれを記録した。長安ではこれについて詔して言った、「必ず存せんと欲すれば煙を挙げよ」と。関中では謡った、「長鞘の馬鞭左股を撃ち、太歳南行して当に復た虜るべし」と。西人は徒河を白虜と呼び、沖は果たして長安を占拠した。楽しんで帰ることを忘れ、かつ慕容垂の名声威勢が夙に著しく、山東を跨ぎ拠るのを憚り、進むことを敢えず、衆は皆これを怨んだ。登国元年、沖の左将軍韓延は人の怨みに因り、沖を殺し、沖の将段随を立てて燕王とし、年号を昌平と改めた。沖が長安に入った時、王嘉はこれに謂って言った、「鳳皇、鳳皇、何ぞ高く飛びて故郷に還らざる。故なくして此に在りて滅亡を取る」と。
沖が敗れると、その左僕射慕容恆は永と潜かに謀り、随を襲って殺し、宜都王の子慕容覬を立てて燕王とし、年号を建明とした。鮮卑の男女三十余万口を率い、乗輿・服御・礼楽・器物を携え、長安を去って東に向かった。永を武衛将軍とした。恆の弟の護軍将軍慕容韜は、陰かに二心あり、覬を誘って臨晋でこれを殺した。恆は怒り、去った。永と武衛将軍刁雲は衆を率いて韜を攻めた。韜は司馬宿勤黎を遣わして逆戦したが、永はこれを捕らえて戮した。韜は懼れ、恆の営に奔った。恆は慕容沖の子慕容望を立てて帝とし、年号を建平と改めた。衆は皆望を去って永に奔り、永は望を捕らえて殺し、慕容泓の子慕容忠を立てて帝とし、年号を建武と改めた。忠は永を太尉とし、 尚書令 を守らせ、河東公に封じた。東へ聞喜に至り、慕容垂が尊号を称したことを知ると、農事を要することを託して進まず、燕熙城を築いて自らを固めた。刁雲らはまた忠を殺し、永を推して大 都督 ・大将軍・大単于・雍秦梁涼四州牧・河東王とし、垂に蕃として称した。
永は進んで長子に拠り、僭って帝を称し、年号を中興とした。垂が滑台において丁零の翟釗を攻めると、釗は敗れて永に降った。永は釗を車騎大将軍・東郡王とした。歳余りして、永を謀殺しようとし、永はこれを誅した。垂が来て永を攻め、永は敗れ、前駆に捕らえられ、垂は数え上げてこれを戮した。並びに永の公卿以下刁雲・大逸豆帰ら四十余人を斬った。永の統べる新旧の人戸・服御・図書・器楽・珍宝は、垂が悉くこれを獲た。
慕容垂は字を道明といい、慕容皝の第五子である。甚だ寵愛され、常に諸弟子に自ら謂って言った、「この児は闊達にして奇を好み、終には人の家を破り、或いは人の家を成すであろう」と。故に名を霸とし、字を道業とした。恩遇は慕容俊に逾えた。俊は平らかでなく、王位に即くと、垂が墜馬して歯を傷つけたことを以て、名を缺と改め、外には郤缺を慕うを名とし、内実はこれを悪んだ。尋いで讖記の文により、乃ち夬を去り、垂を以て名とした。十三歳で偏将となり、征伐する所において、勇は三軍に冠した。俊が中原を平らげる時、垂は前鋒となり、累戦して大功有り。俊が尊号を僭称すると、呉王に封じられた。
後に車騎大将軍として枋頭において桓温を破り、威名大いに震い、暐に容れられず、西に奔って苻堅に就いた。堅は甚だこれを重んじ、冠軍将軍に拝し、賓都侯に封じた。堅が淮南で敗れ、垂の軍中に入った。子の宝は垂に勧めてこれを殺させようとしたが、垂は堅が己を遇すること厚きを以て、聴かなかった。洛陽に行き、墓を拝することを求め、堅はこれを許した。遂に兵を起こして鄴において苻丕を攻めた。垂は燕王を称し、百官を置き、年号を燕元とした。
登国元年、垂は位を僭し、年号を建興とした。中山において宗廟社稷を繕い、幽・冀・平州の地を尽く有し、使者を遣わして朝貢した。三年、道武帝は九原公拓跋儀を遣わして垂に使わし、垂はまた使者を遣わして朝貢した。四年、道武帝は陳留公拓跋虔を遣わして垂に使わし、垂はまた使者を遣わして朝貢した。五年、また秦王拓跋觚を遣わして垂に使わしたが、垂は觚を留めて遣わさず、遂に行人を絶った。垂は慕容永を討つことを議し、太史令靳安が垂に言った、「彗星が尾・箕の分を経るは、燕に野死するの王有るべし。五年を出でずして、その国必ず亡ぶ。歳鶉火に在れば、必ず長子を克つ」と。垂は乃ち止めた。安は出て人に謂って言った、「この衆既に並び、終に久しからず」と。安は蓋し道武帝の興るを知りて、敢えて言わざりしなり。先に、丁零の翟遼が垂に叛き、後に使者を遣わして謝罪したが、垂は許さなかった。遼は怒り、遂に自ら大魏天王を号し、滑台に屯し、垂と相撃った。死に、子の釗がこれに代わった。垂が滑台を征克すると、釗は長子に奔った。垂は長子を征することを議し、諸将は皆諫めた。永の国に未だ釁無きを以て、他年を請うた。垂はこれに従おうとしたが、垂の弟の 司徒 ・范陽王慕容徳が固く垂を勧めた。垂は言った、「 司徒 の議は吾と同じく、且つ吾は老いを投じ、囊底の智を叩けば以てこれを克つに足り、復た逆賊を留めて以て子孫に累わさず」と。乃ち永を伐ってこれを克った。
十年、垂はその太子宝を遣わして来寇せしむ。初め宝の来たるや、垂は既に疾あり。五原に到るより、道武はその行路を断ち、父子の間絶ゆ。帝乃ちその行人の辞を詭り、河に臨みて告げて曰く、「汝が父は既に死せり、何ぞ遽かに還らざるや」と。宝兄弟これを聞きて憂怖し、信然と為す。ここにおいて士卒駭動す。初め、宝幽州に至るや、その乗ずる車軸故なくして自ら折る。占工の靳安は大凶と為し、固く還るを勧むるも、宝怒りて従わず。ここに至り、安に問う。安曰く、「速かに去れば免るべし」と。宝愈々恐る。安退きて人に告げて曰く、「今や他郷に死し、屍骸草野に委ね、烏鳶螻蟻の食う所と為り、再び家族を見ること無からん」と。十月、宝船を焼き夜遁す。時に河の氷未だ成らず、宝は帝の度ること能わずと謂い、斥候を設けず。十一月、天暴風寒く、氷合い、帝進軍して河を済み急ぎこれを追う。参合陂の西に至り、靳安宝に言いて曰く、「今日西北風動くは、是れ軍将に至るの応なり、兼行して速かに去るべし、然らずば必ず危し」と。その夜、帝衆軍を部分し、東西掎角の勢いを為す。士卒を約勒し、馬口を束ね、枚を銜みて声無し。昧爽、衆軍斉しく進み、日出でて山に登り、下りてその営に臨む。宝の衆晨に将に東に引かんとし、顧みて軍の至るを見、遂に驚擾す。帝騎を縦して騰躡せしめ、馬は氷上に蹶倒す。宝及び諸父兄弟、軍馬迸散し、僅かに身を以て免る。宝の軍四五万人、一時に仗を放ち、手を斂めて就羈す。その王公文武数千を擒う。垂復た来寇せんと欲す。太史曰く、「太白夕に西方に没し、数日後に東方に見ゆ。此れ躁兵と為し、先に挙ぐる者亡ぶ」と。垂従わず、山を鑿ち道を開き、宝の前に敗れたる所に至り、積骸丘の如きを見、祭を設けてこれを吊う。死者の父兄子弟遂に皆慟哭し、声山川を震わす。垂慚忿して血を嘔い、病を発して還り、上谷に死す。宝僭立す。
宝は字を道裕と曰い、垂の第四子なり。少より軽果にして志操無く、人の己に佞するを好む。太子と為り、砥厲自ら修む。垂の妻段氏、垂に謂いて曰く、「宝は姿質雍容にして、柔にして断ぜず、承平なれば則ち仁明の主と為り、難に処れば則ち済世の雄に非ず。今大業を托すも、克昌の美を見ず。遼西・高陽は児の俊賢なる者なり、宜しく一を択びてこれを樹つべし。趙王驎は奸詐にして気を負い、常に宝を軽んずるの心あり、恐らくは難作さん」と。垂納れず。宝聞き、深く恨みと為す。宝既に僭位し、年号を永康とす。驎を遣わしてその母段氏を逼り自裁せしむ。段氏怒りて曰く、「汝兄弟尚お母を逼殺せんとす、安んぞ社稷を保たんや。吾豈に死を惜しまんや」と。遂に自殺す。宝議して以て后謀を以て嫡を廃せしとし、母無きの道を称し、喪を成すに宜しからずとす。群臣咸以为然りと為す。宝の中書令眭邃、執意抗言し、宝これに従いて止む。
皇始元年、道武南伐す。信都を克つに及び、宝大いに懼れ、夜来りて営を犯す。帝これを撃破す。宝中山に走り、遂に薊に奔る。宝の子清河王会、先に龍城を守る。宝の囲まれたるを聞き、衆を率いて難に赴き、路に宝に逢う。宝その軍を分奪し、以て弟の遼西王農らに授く。会怒り、農を襲いこれを殺し、兵を勒して宝を攻む。宝龍城に走り、会これを追い囲む。侍御郎高雲、会の師を襲い敗り、会は中山に奔る。宝命じて雲を子と為し、夕陽公に封ず。会中山に至り、慕容普鄰のために殺さる。宝龍城に至り、垂の舅蘭汗これに拒ぐ。宝南に走り薊に奔る。汗復た迎えを遣わす。宝は汗を、垂の季舅、子の盛また汗の婿なるを以て、必ず二心無しと謂い、乃ち龍城に還る。汗これを殺し、及び子の策ら百余人。汗自ら大 都督 ・大単于・昌黎王と称し、年号を青龍とす。盛を子婿と為すを以て、哀れみてこれを宥す。
盛は字を道運と曰い、宝の長子なり。垂これを封じて長楽公と為し、宝の僭立に及び、爵を進めて王と為す。蘭汗の宝を殺せるや、盛を以て侍中・左光禄大夫と為す。盛乃ち汗の兄弟を間し、相い疑害せしむ。李旱・衛双・劉志・張貞ら皆盛の旧昵、汗の太子穆並びに引きて腹心と為す。盛旱らを結び、汗・穆らの酔いに因り、夜襲いこれを殺す。僭して尊号し、年を建平と改め、また年号を長楽とす。盛改めて庶人大王と称す。盛は宝の暗くして断ぜざるを以て、遂に威刑を峻極にし、ここにおいて上下震局す。前将軍段璣ら夜鼓噪して盛を攻む。これを傷つく。遂に輦にて殿に昇り、叔父河間公熙を召し、後事を属す。熙未だ至らざるに死す。
熙は字を道文と曰い、小字を長生と曰い、垂の少子なり。群臣盛の伯母丁氏と議し、その家多難なるを以て、宜しく長君を立つべしとし、遂に盛の子定を廃し、熙を迎えて立てしむ。熙立ち、定を殺し、年号を光始とす。龍騰苑を築き、苑内に雲山を起こす。また逍遙宮・甘露殿を起こし、連房数百、観閣相交う。天河渠を鑿ち、水を引きて宮に入る。また妻苻氏のために曲光海・清涼池を鑿つ。季夏の盛暑、休息を得ず、暍死する者太半。熙城南に游ぎ、大柳樹の下に止まる。若し人ありて呼びて曰く、「大王且く止まれ」と。熙これを悪み、その樹を伐つ。下に蛇あり長さ丈余。熙尽く宝の諸子を殺し、年を建始と改む。またその妻のために承華殿を起こし、北門に土を負わしむ。土と穀と価を同じくす。典軍杜静、棺を載せて闕に詣り、上書極諫す。熙大怒し、これを斬る。熙の妻季夏に当たり凍魚膾を思い、仲冬に生地黄を須う。切責して得ず、有司に大辟を加う。苻氏死す。熙その屍を擁し僵仆絶息し、久しくして乃ち蘇る。悲号擗踴し、斬衰して粥を食う。大斂の後、復た啓きて交接す。百官に哭臨を制し、沙門に素服せしむ。有司に案検せしめ、泪ある者を忠と為し、泪無き者をこれを罪す。群臣辛さを含みて以て泪と為さざる莫し。葬に及び、熙は髪を被り徒步し、轜車に従い城門を毀ちて出づ。長老相い謂いて曰く、「慕容氏自らその門を毀つ、将に久しからざらん」と。衛中将軍馮跋兄弟、門を閉じて熙を拒ぎ、執いてこれを殺す。夕陽公雲を立てて王と為す。雲は宝の養子なり、復た姓を高氏とし、年号を正始とす。跋また雲を殺し自立す。
雲の立つや、熙の幽州刺史・上庸公慕容懿、遼西を以て帰降す。道武、懿を征東大将軍・平州牧・昌黎王と為す。後に反に坐し誅せらる。
晃の少子徳、字は玄明、雅く兄垂に重んぜらる。苻堅暐を滅ぼし、徳を以て張掖太守と為す。垂僭号し、范陽王に封じ、位は 司徒 。宝即位し、徳を以て鄴に鎮せしめ、大丞相と為す。宝既に東走す。群僚徳に尊号を称せんことを勧む。徳従わず。皇始二年、既に中山を抜く。道武衛王儀を遣わして鄴を攻む。徳南に滑台に走り、自ら燕王と称し、年号を燕元とし、百官を置く。徳の冠軍将軍苻広、乞活壘に於いて叛く。徳兄の子和を留めて滑台を守らしめ、衆を率いて広を攻め、これを斬る。而して和の長史李辯、和を殺し、城を以て魏に降る。徳拠る所無し。その尚書潘聰の計を用い、青・斉を拠り、広固に入り都し、僭して尊号を称し、年号を建平とす。女水竭く。徳聞きてこれを悪み、ここにおいて寝疾す。兄の子超、女水に祈らんことを請う。徳曰く、「人君の命、豈に女水の知る所ならんや」と。乃ち超を以て太子と為す。徳死す。超僭立す。
超は字を祖明といい、徳の兄である北海王納の子である。既に僭位し、年号を太上と称した。超が南郊で柴燎を行ったところ、炎は上がったが煙が出ず、霊台令の張光が人に告げて言うには、「今火は盛んであるが煙が消える、国は滅びるであろうか」と。天賜五年、晋の将軍劉裕が超を討伐し、超の将軍公孫五楼は大峴でこれを防ぐよう勧めたが、従わなかった。裕が大峴に入ると、超は臨朐で戦い、裕に敗れた。広固に退き還り、これを包囲された。広固では鬼が夜に泣き、流星が長さ十余丈あり、広固に墜ちた。城は陥落し、裕は超を捕らえた。建康の市に送り斬首した。
姚萇は、字を景茂といい、南安の赤亭の出身で、焼当の後裔である。祖父の柯回は、魏に助けて沓中で姜維を牽制し、功により綏戎 校尉 ・西羌 都督 を仮授された。父の弋仲は、晋の永嘉の乱の際、東に遷って榆眉に住んだ。劉曜は弋仲を平西将軍・平襄公とした。後に石季龍に従って清河の灄頭に遷り、石勒は弋仲を奮武将軍とし、襄平公に封じた。弋仲が死ぬと、子の襄が代わり、譙城に駐屯した。慕容儁は襄を 豫 州刺史・丹陽公とし、淮南に駐屯させた。自ら大将軍・大単于を称したが、晋の将軍桓温に敗れ、河東に奔った。後に苻眉に殺された。
弋仲には四十二人の子があり、萇はその二十四番目である。兄の襄に従って征伐し、襄は大いにこれを奇とした。襄が敗れると、苻堅に降った。堅に従って征伐し、頻りに功があった。堅が晋を伐つ際、萇を龍驤将軍とし、益梁州諸軍事を督させ、萇に言うには、「朕はもと龍驤をもって業を建てた。龍驤の号は初め人に仮さなかったが、今特に卿に授ける。山南のことは、一切卿に委ねる」と。堅の左将軍竇中が進み出て言うには、「王者に戯言はなく、これもまた不吉な兆候です。どうか陛下はご明察ください」と。堅は黙然とした。慕容泓が華沢で兵を起こすと、堅は子の衛大将軍睿を派遣してこれを討たせたが、戦いに敗れ、泓に殺された。この時、萇は睿の司馬であったが、罪を恐れて馬牧に奔った。衆一万余を集め、自ら大将軍・大単于・万年秦王を称し、年号を白雀とした。数ヶ月のうちに、衆は十万余に至った。慕容沖と連合し、進んで北地に駐屯した。苻堅が五将山に出ると、萇はこれを捕らえて殺した。
登国元年、皇帝を僭称し、百官を置き、国号を大秦とし、年号を建初とした。長安を常安と改め、その太子興にこれを鎮守させた。自ら安定において苻登を撃ち、これを破った。萇は病にかかり、夢に苻堅が天官の使者・鬼兵数百を率いて、突如として営中に入ってくるのを見た。萇は恐れ、後宮に走ると、宮人が萇を迎えて鬼を刺したが、誤って萇の陰部を刺した。鬼らは互いに言うには、「ちょうど死ぬべきところを刺した」と。矛を抜くと、血が一石余り出た。目覚めて驚き悸え、遂に陰腫の病にかかり、これを刺すと、夢のように血が出た。萇は狂言を発し、あるいは「陛下を殺したのは臣の兄の襄であり、臣の罪ではありません。どうか法を枉げられませんように」と称した。萇が死ぬと、子の興が位を襲い、秘して喪を発さなかった。
興は字を子略といい、萇の長子である。苻登を滅ぼした後、初めて喪を発し服喪した。皇帝を僭称し、年号を皇初とした。天興元年、興は皇帝の号を去り、降って天王と称し、年号を洪始とした。興は洛陽を攻略し、その弟の東平公紹にこれを鎮守させた。三年、興は使者を派遣して来聘し、道武帝は謁者僕射張済を派遣して興のもとに使わした。天興五年夏、興はその弟の義陽公平に衆四万を率いさせて平陽を侵攻させ、乾壁を六十余日攻めて陥落させた。七月、車駕は親征した。八月、永安に駐屯すると、平は募って勇将に精騎二百を率いさせて軍情を窺わせたが、前鋒将の長孫肥に捕らえられ、一騎も帰らなかった。平は遂に退走した。帝は急追し、柴壁で追いつき、これを包囲した。興はその衆を挙げて悉く出し、平を救おうとした。帝は重囲を増築し、内には平の出撃を防ぎ、外には興の進入を防いだ。また汾の曲がりを截って南北の浮橋とし、西岸に乗じて囲みを築いた。帝は師を帥いて蒙阬の南四十里を渡り、興を迎え撃った。興は朝に北へ進んだが、未だ安営するに及ばず、大軍が突然到来したので、興の衆は怖れ憂いた。帝は興の気勢が挫けたと知り、南は蒙阬の口を絶ち、東は新阪の隘を塞ぎ、天度を守り、賈山に屯し、平に水陸の路を絶たせ、甲を坐してこれを捕らえようとした。また汾に沿って岡に帯し柵を樹てさせ、芻牧する者を衛わせた。九月、興は汾の西北から下り、壑に憑って塁を築き自らを固めた。興はまた数千騎を率いて西橋に乗じた。官軍は鉤で取り、薪蒸とした。興が塁に還ると、道武帝は彼が必ず西の囲みを攻めると考え、塹を修め、広げるよう命じた。夜になると、興は果たして来攻したが、梯が短く届かず、これを塹中に棄てて還った。興はまたその衆を分け、汾に臨んで塁を築き、水門を叩き逼り、平と相望んだ。帝は水中を截ったため、興は内外隔絶し、士衆は喪気した。ここにおいて平は糧尽き、窮迫し、夜に衆を悉く率いて西南から突出しようとした。興は兵を汾西に列ね、烽を挙げ鼓噪して、平の接援とした。帝は諸軍の精鋭を選び、汾西に屯して固守し、南は水口を絶った。興は夜に声を聞き、平が力戦して突囲して免れるのを望み、平は外の鼓を聞き、興が包囲を攻めて接応するのを望んだ。故にただ叫呼し、虚しく相応和するのみで、敢えて囲みに逼る者はなかった。平は出ることができず、窮迫し、遂に二妾を将いて水に赴き死んだ。興の安遠将軍不蒙世、揚武将軍雷重ら将士四千余人が平に従って水に投じた。帝は水に潜り鉤で捕らえるよう命じ、免れる者はなかった。平の衆三千余人は、皆手を束ねて捕らえられた。興の尚書右僕射狄伯支以下四十余人を擒にした。興は遠来して救ったが、自らその窮状を観て、力及ばず免れられず、挙軍悲号し、山谷を震動させ、数日止まなかった。頻りに使者を派遣して和を請うたが、帝は許さず、遂に班師した。興は長安に還った。雀数万頭が興の廟で闘い、毛羽が折れ落ち、多く死ぬ者がおり、月余りしてやんだ。識者は言うには、「今雀が廟上で闘う、子孫に争乱ある者あらんか」と。また興の殿に牛が吼えるような声があった。二匹の狐が長安に入り、一匹は興の殿屋に登り、宮中に走り入り、一匹は市に入り、求めても得られなかった。永興三年、興は周宝を派遣して来聘した。五年、興は使者を派遣して来聘し、併せて娘を進めることを請うたので、明元帝はこれを許した。神瑞元年、興は兼 散騎常侍 ・尚書吏部郎の厳康を派遣して来聘した。二年、興は 散騎常侍 ・東武侯姚敞、尚書姚軌を派遣してその西平公主を明元帝に奉じ、明元帝は后礼をもってこれを納れた。
泰常元年、興が死んだ。長子の泓は、字を元子といい、位を僭称し、年号を永和とした。晋の将軍劉裕が泓を伐ち、長駆して関中に入った。泓は戦いに敗れて降伏を請い、裕はこれを捕らえ、建康で斬首した。
馮跋は、字を文起といい、小字を乞直代といい、本来は長楽信都の出身である。慕容永が長子で僭号した時、跋の父の安を将とした。永が慕容垂に滅ぼされると、安は東に遷って昌黎に至り、長穀に家し、遂に夷俗に同化した。
馮跋は一石の酒を飲んでも乱れず、諸弟は皆品行を修めなかったが、ただ跋のみが恭順で慎み深かった。慕容熙が帝号を僭称すると、跋を殿中左監とし、やがて衛中將軍に昇進させた。後に罪に坐して逃亡した。やがて熙の政治は残忍で、人々はその命に耐えられなかった。跋は従兄の萬泥ら二十二人と謀を結び、跋と二人の弟は車に乗り、婦人に御させて、ひそかに龍城に入り、孫護の家に匿れ、熙を誅殺した。そこで夕陽公高雲を主に立てた。雲は跋を侍中・征北大將軍・開府儀同三司とし、武邑公に封じた。事は全て跋兄弟が決断した。明元帝の初め、雲が左右の者に殺されると、跋は自ら燕王と称し、百官を置き、年号を太平と定めた。この時は永興元年であった。跋は契丹らを慰撫し受け入れ、諸部族は多く来てこれに帰附した。明元帝は謁者の于什門を遣わしてこれを諭させたが、跋に留め置かれた。泰常三年、和龍城に赤気が日を蔽い、寅の刻から申の刻まで続いた。跋の太史令張穆はこれを兵気と見なし、跋に魏の使者を返し、職責を奉じて貢ぎ物を修めるよう勧めたが、跋は従わなかった。明元帝は征東大將軍長孫道生に討伐を命じたが、跋は城を守って固く防ぎ、道生は攻略できずに帰還した。
神䴥二年、跋は病に罹り、その長子の永は先に死んでいたので、次子の翼を世子とし、国事を摂らせ、兵を整えて非常事態に備えさせた。跋の妾の宋氏は自分の子の受居を立てようと図り、翼を深く忌み、彼に言った。「主上の病はまさに癒えようとしているのに、どうして父に代わって国を治めようとするのか。」翼は遂に(摂政を)退いた。宋氏は内外との連絡を偽って絶ち、閽人に伝令させた。翼及び跋の諸子、大臣は共に病状を見舞うことができず、ただ中給事の胡福のみが出入りでき、禁衛を専管した。跋の病が重くなると、福は宋氏がその計略を成し遂げようとしていることを憂慮し、跋の弟の弘に言上した。(弘は)兵を率いて入城し、跋は驚き恐れて死んだ。弘が位を継ぐと、翼は兵を率いて出戦したが利あらず、遂に死んだ。跋には男子が百余人いたが、全て弘に殺された。
馮弘は字を文通といい、跋の末弟である。跋が立つと、尚書右僕射となり、中山公に封ぜられ、中領軍を領し、内では禁衛を掌り、外では朝政を総轄した。 司徒 の位を歴任した。自立すると、宋氏と和解した。延和元年、太武帝自ら討伐し、弘は城を守って固く防いだ。その営丘・遼東・成周・楽浪・帯方・玄菟の六郡は皆降伏し、太武帝はその民三万余家を幽州に移した。その尚書郭深は誠意を尽くして帰順し、娘を進めて、附庸となることを乞い、宗廟を保守するよう勧めた。弘は言った。「以前に罪を負い、恨みの形は既に露わになっている。附庸として降れば死を取るのみである。志を守り、改めて赴くべき所を図るに如かず。」先に、弘はその元妻王氏を廃し、世子の崇を退け、肥如に鎮守させ、後妻慕容氏の子の王仁を世子とした。崇の同母弟の広平公朗・楽陵公邈は互いに言った。「禍いが来たらんとしている。」ここにおいて遂に遼西に出奔し、崇に降伏を勧め、崇はこれを受け入れた。丁度太武帝が給事中王徳を遣わして成敗の理を示したので、崇は邈を入朝させた。太武帝は崇を遼西王に封じ、その国の尚書事を録させ、遼西十郡について、制を承けて文官の尚書・刺史、武官の征虜将軍以下を仮授することを許した。弘はその将の封羽に命じて衆を率いて崇を包囲させたので、太武帝は永昌王健に諸軍を督させてこれを救援させた。封羽はまた凡城で降伏し、その民三千余家を移して帰還した。弘はその尚書高顒を遣わして罪を請わせ、末娘を後宮に充てることを乞うた。帝はこれを許し、その子王仁の入朝を求めたが、弘は遣わさなかった。その 散騎常侍 劉訓が諫めたので、弘は大いに怒り、彼を殺した。太武帝はまた楽平王丕らに命じてこれを討たせた。日を追って逼迫し、上下危惧した。弘の太常陽曵昬がまた弘に罪を請い降伏を乞い、王仁を入侍させるよう勧めた。弘は聞き入れず、密かに高句麗に迎えを求めた。太延二年、高句麗が将の葛居盧らを遣わして衆を率いて迎えると、弘は城内の士女を擁して高句麗に入った。先に、その国に狼が夜に城を巡って群れをなして吠えた。このように一年中続いた。また鼠が城西に集まり、数里に満ち溢れ、西へ行き、水に至ると先頭の者が馬糞を銜え、互いに尾を噛み合って渡った。宿営の地が燃え、十日で消え、地に触れると蛆が生じ、一月余りで止んだ。和龍城に白毛が生え、一尺二寸あった。
弘が遼東に至ると、高句麗は使者を遣わして労い、言った。「龍城王馮君、野次に赴かれたが、士馬はお疲れではあるまいか。」弘は恥じ怒り、制を称して譲り責めた。高句麗は彼を平郭に住まわせ、まもなく北豊に移した。弘は平素から高句麗を侮り、政刑賞罰は、なお自らの国の如くであった。高句麗はその侍人を奪い、王仁を人質とした。弘はこれを憤り怨み、逃亡しようと謀った。太武帝はまた高句麗に弘を引き渡すよう求めた。(高句麗は)遂に彼を北豊で殺し、子孫同時に死んだ者は十余人であった。弘の子朗・邈。朗の子熙は、『外戚伝』にある。
乞伏国仁は、隴西の人である。その先祖の如弗は、漠北より南に出た。五世の祖の佑鄰は、諸部を併合し、衆次第に盛んとなった。父の司繁は、部落を擁して苻堅に降り、堅は彼を南単于とし、また鎮西將軍に拝し、勇士川に鎮守させた。司繁が死ぬと、国仁が將軍となった。堅が敗れると、国仁の叔父の歩頹が隴右で叛いた。堅は国仁にこれを討たせたが、歩頹は大いに喜び、迎えて推戴し、部衆は十万余となった。道武帝の時、私的に大 都督 ・大將軍・大単于・秦河二州牧を称し、年号を建義とし、官属を置いた。分国内を十一郡とし、勇士城を築いてこれに都した。
国仁が死ぬと、弟の乾帰が事を統べ、自ら大 都督 ・大將軍・大単于・河南王を称し、年号を太初と改め、百官を置いた。登国年間、金城に遷った。城門が自ら壊れたので、乾帰はこれを嫌い、苑川に遷った。まもなく姚興に撃破され、また 枹罕 に奔り、遂に姚興に降った。河州刺史に拝され、帰義侯に封ぜられた。まもなく苑川に還された。乾帰は姚興に背き、私的に秦王を称し、百官を置き、年号を更始とした。使者を遣わして援軍を請うと、明元帝はこれを許した。五溪で狩りをしていると、梟がその手に集まった。まもなくその兄の子の公府に殺された。
子の熾盤が公府を殺し、代わって任を統べた。熾盤は自ら大將軍・河南王を称し、年号を永康と改めた。後に楽都で禿髮傉檀を襲撃し、これを滅ぼすと、私的に秦王を称し、百官を置き、年号を建弘と改めた。後にその尚書郎の莫者胡・積射將軍の乞伏又寅を遣わして金二百斤を貢ぎ、赫連昌を討つことを請うと、太武帝はこれを許した。統万が平定されると、熾盤はその叔父の平遠將軍泥頭・弟の安遠將軍安度を京師に人質として遣わした。またその中書侍郎王愷・丞相從事中郎烏訥闐を使者として表を奉り、その方物を貢がせた。熾盤が死ぬと、子の慕末が任を統べた。
慕末は字を安石跋という。即位すると、年号を永弘と改めた。その尚書隴西の辛進はかつて熾盤に従って後園を遊んだことがあり、進が鳥を弾いた際、弾丸が誤って慕末の母の顔面を傷つけた。この時に至り、進の五族二十七人を誅殺した。慕末の弟の殊羅が熾盤の左夫人禿髮氏と密通したので、慕末は知ってこれを禁じた。殊羅は叔父の什夤と謀って慕末を殺し、禿髮氏に門の鍵を盗ませた。鍵が合わず、門は開かなかった。門番が告げたので、慕末はその一味を捕らえ、ことごとく殺した。什夤を鞭打とうとすると、什夤は言った。「私は汝に死を負うとも、汝の鞭には負わない。」慕末は怒り、その腹を割き、屍を河に投げた。什夤の同母弟の白養及び去列は、頗る怒りの言葉があり、また彼らを殺した。政刑は残酷で濫り、内外崩壊離散し、部人は多く叛いた。
その後、赫連定に追い詰められ、王愷・烏訥闐を遣わして太武帝に迎えを請うた。太武帝は安定以西、平涼以東を封ずることを許諾した。慕末は城邑を焼き、宝器を毀ち、一万五千戸を率いて高田穀に至った。赫連定に拒まれたため、遂に南安を保った。太武帝は軍を遣わして迎えようとしたが、慕末の衛将軍吉毗が固く諫めて内徙すべからずとし、慕末はこれに従った。赫連定はその北平公韋代に命じて一万の兵を率い南安を攻撃させた。城内は大いに飢え、人々は互いに食らった。神蒨四年、慕末及び宗族五百余人が出降し、上邽に送られ、遂に定に滅ぼされた。
大沮渠蒙遜は、本来張掖郡臨松県の盧水の人である。匈奴には左沮渠という官があり、蒙遜の先祖がこの職に就いていた。羌の酋豪を大と称したので、官を氏とし、大を冠したのである。代々盧水に住み酋豪となった。遜の高祖暉仲帰・曾祖遮は、皆雄健で勇名があった。祖の祁復延は伏地王に封ぜられた。父の法弘は爵を襲い、苻氏によって中田護軍とされた。
蒙遜は父に代わって部曲を統率し、勇略があり、計略に富み、天文に通暁し、諸胡に推服された。呂光が涼土で王を称すると、蒙遜に自ら営人を領させ、箱直に配属した。また蒙遜の叔父羅仇を西平太守とした。後にその子慕に羅仇を率いさせて乞伏乾帰を枹罕で討たせたが、乾帰に敗れて殺された。蒙遜は羅仇の遺骸を還葬することを求め、これに乗じて衆を集めて金山に屯し、従兄の晋昌太守男成と共に建康太守段業を推して使持節・大 都督 ・龍驤大将軍・涼州牧・建康公とし、神璽元年と称した。業は蒙遜を張掖太守とし臨池侯に封じ、男成を輔国将軍として軍国の任を委ねた。業はまた自ら涼王を称し、蒙遜を尚書左丞としたが、蒙遜の威名を忌み、次第に遠ざけた。天興四年、蒙遜は内心安からず、西安太守となることを請うた。蒙遜はその衆を激怒させようと、密かに男成が叛逆したと誣告し、業は男成を殺した。蒙遜は泣いて衆に告げ、復讐を遂げんとする意思を述べた。男成は平素より恩信があり、衆情は怨憤し、泣いてこれに従った。蒙遜はこれに乗じて兵を挙げ業を攻め殺し、私的に使持節・大 都督 ・大将軍・涼州牧・張掖公を称し、年号を永安とした。張掖に居した。この月、涼の武昭王もまた兵を起こし、年号を庚子とした。
永興年間、蒙遜は姑臧を攻略し、遷ってここに居した。元号を玄始元年と改め、自ら河西王を称し、百官を置いた。頻繁に使を遣わして朝貢した。蒙遜が新台で寝ていると、宦官の王懷祖が蒙遜を斬りつけ、足に傷を負わせたが、蒙遜の妻孟氏が懷祖を捕らえて斬った。晋が姚泓を滅ぼしたと聞くと、大いに怒った。校郎が蒙遜に事を言上すると、蒙遜は「汝は劉裕が関中に入ったと聞いて、敢えて研研然としているのか」と言い、遂にこれを殺した。まもなく晋に称藩した。泰常年間、蒙遜は敦煌を攻略し、年号を承玄と改めた。後にはまた宋に称蕃し、併せて書籍を求めた。宋の文帝は全て与えた。蒙遜はまた宋の 司徒 王弘に『捜神記』を求め、弘はこれを与えた。
神蒨年間、尚書郎宗舒・左常侍高猛を遣わして朝貢し、上表して臣と称した。前後、貢使は相望んだ。後に子の安周を内侍として遣わした。太武帝は兼太常李順を使者として節を持たせ、蒙遜を仮節・侍中・ 都督 涼州西域羌戎諸軍事・太傅・行征西大将軍・涼州牧・涼王に拝することを命じた。崔浩に冊書を作らせてこれを褒賞した。蒙遜はまた元号を義和元年と改めた。延和二年四月、蒙遜は死んだ。詔を下して使者を遣わし喪事を監護させ、私諡して武宣王とした。蒙遜は性、淫で猜疑心が強く、刑戮に忍び、閨庭の中には、ほとんど礼儀がなかった。
第三子の牧犍が任を統べ、自ら河西王を称し、使者を遣わして朝命を請うた。併せて使者を遣わして宋に通じ、宋の褒授を受けた。先に、太武帝は李順を遣わして蒙遜の娘を迎え夫人としようとしたが、蒙遜の死に会い、牧犍は蒙遜の遺意を受け、妹を京師に送り、右昭儀とした。元号を承和元年と改称した。太武帝はまた李順を遣わし、牧犍を使持節・侍中・ 都督 涼沙河三州西域羌戎諸軍事・車騎将軍・開府儀同三司・領護西戎 校尉 ・涼州刺史・河西王に拝した。牧犍は無功にして賞を受けることを憚り、李順を留め、上表して安・平の一つの号を乞うたが、優詔をもって許さなかった。牧犍は太武帝の妹武威公主を娶り、その相宋繇を遣わして表を奉り謝し、馬五百匹、黄金百斤を献上した。繇はまた表を奉り、公主及び牧犍の母妃の後の称号を請うた。朝議では、礼は母は子によって貴び、妻は夫の爵に従うとし、牧犍の母は河西国太后と称すべく、公主は国内では王后と称し、京師では公主と称すべきであるとした。詔はこれに従った。牧犍は建節将軍沮渠旁周を遣わして京師に朝せしめ、太武帝は侍中古弼・尚書李順を遣わしてその侍臣に衣服を差等ありて賜い、併せて世子封壇の入侍を徴した。牧犍は遂に封壇を遣わして京師に朝せしめた。
太延五年、太武帝は尚書賀羅を遣わして涼州に使いせしめ、且つ虚実を観察せしむ。帝は牧犍が藩を称し貢を致すと雖も、内に多く乖悖有りと為し、ここに親征す。詔して公卿に書を作らしめて之を譲り、其の罪十二を数う。官軍河を済すや、牧犍曰く「何の故か爾るや」と。其の左丞姚定国の計を用い、出迎を肯ぜず、蠕蠕に求救す。大将董来を遣わし万余人を率いて軍を城南に拒ぎ、戦いて退く。車駕姑臧に至り、使を遣わし牧犍を諭して出でしむ。牧犍、蠕蠕の善無を内侵するを聞き、幸いに車駕の返旆を冀い、遂に城を嬰いて自守す。牧犍の兄の子祖、城を逾えて出で降り、情を具に知る。太武帝乃ち諸軍を引きて進攻し、牧犍の兄の子万年、麾下を率いて又た来たり降る。城抜かるるや、牧犍は左右の文武と面縛して罪を請う。詔して其の縛を解く。涼州の人三万余家を京師に徙す。初め、太延中、一老父有りて敦煌城東門に書を投じ、忽然として見えず。其の書の紙に八字有り、文に曰く「涼王三十年、若し七年」と。又た震電の所に得たる石に、丹書して曰く「河西、河西、三十年。帯石を破り、七年を楽しむ」と。帯石は青山の名にて、姑臧の南に在り。山の祀の傍、泥に陥ちて通ぜず、牧犍の征南大将軍董来曰く「祀豈に知ること有らんや」と。遂に祀を毀ち木を伐り、道を通して行く。牧犍立つこと、果たして七年にして滅ぶ。初め、牧犍は嫂李氏を淫し、兄弟三人伝えに之を嬖す。李は牧犍の姉と共に公主を毒す。上、医を遣わし伝に乗じて公主を救わしめ、愈ゆるを得たり。上、李氏を徴すと、牧犍は遣わさず、厚く送りて酒泉に居らしむ。上大いに怒り、既に克つも、猶ほ妹婿を以て之を待つ。其の母死すや、王太妃の礼を以て葬る。又た蒙遜の為に守塚三十家を置き、牧犍に征西大将軍を授け、王は故の如し。初め、官軍未だ入らざる間に、牧犍は人を使わし府庫を斫ち開き、金銀珠玉及び珍奇の器物を取り、更に封閉せず、百姓之に因りて入り盗み、巨細蕩然として尽くす。有司賊を求めて得ず。真君八年、其の親しむ人及び蔵を守る者之を告ぐ。乃ち事を窮竟し、其の家中を捜索し、番々に蔵する所の器物を得たり。又た告ぐ、牧犍父子多く毒薬を畜え、前後隠窃に人を殺すこと、乃ち百数有り、姉妹皆左道を為し、朋行淫佚して、曾て愧色無しと。始め罽賓の沙門曇無讖と曰う者、東に鄯善に入り、自ら云う、鬼を使い病を療し、婦人をして多く子を得しむることを能うと。鄯善王の妹曼頭陀林と淫通し、発覚して、亡奔して涼州に至る。蒙遜之を寵し、聖人と号す。曇無讖は男女交接の術を以て婦女に教授し、蒙遜の諸女・子婦、皆往きて法を受く。太武帝、諸の行人の言う曇無讖の術を聞き、乃ち之を召す。蒙遜遣わさず、遂に其の事を発露し、拷訊して之を殺す。此に至り、帝之を知り、ここに昭儀沮渠氏に死を賜い、其の宗族を誅す。唯万年及び祖は以前先だって降りたるを以て、免るるを得たり。是の年、人又た告ぐ、牧犍猶ほ故臣と交通し謀反すと。詔して 司徒 崔浩をして公主の第に就きて牧犍に死を賜わしむ。主と決すること良久くして、乃ち自裁す。王礼を以て葬り、諡して哀王と曰う。及び公主薨ずるや、詔して牧犍と合葬せしむ。公主男無く、女有り、国甥を以て母の爵を襲い武威公主と為る。
蒙遜の子季義、位は東雍州刺史。真君中、河東の薛安都と謀逆し、京師に召し至り、其の兄弟に付して扼殺せしむ。万年、祖並びに先だって降りたるを以て、万年は張掖王に拝せられ、祖は広武公と為る。後に謀逆に坐し、俱に死す。
初め、牧犍の敗るるや、弟の楽都太守安周は南に吐谷渾に奔る。太武帝は鎮南将軍奚眷を遣わして之を討たしむ。牧犍の弟の酒泉太守無諱は晋昌に奔る。乃ち弋陽の西元潔をして酒泉を守らしむ。真君初、無諱は酒泉を囲み、之を陥とす。又た張掖を囲むも、克つこと能わず、退きて臨松を保つ。太武帝は伐たず、詔して之を諭す。時に永昌王健は涼州を鎮む。無諱は其の中尉梁偉を健に詣らしめ、酒泉を奉ずることを求む。又た潔及び統帥の兵士を健の軍に送る。二年、太武帝は使を遣わし無諱を征西大将軍・涼州牧・酒泉王に拝す。尋いで無諱の復た叛を規るを以て、南陽公奚眷を遣わして酒泉を討たしめ、之を克つ。無諱は遂に流沙を度らんと謀り、安周を遣わし西に鄯善を撃たしむ。鄯善は降らんと欲すも、会に魏の使者勸めて拒守せしむるを令す。安周克つこと能わず、退きて東城を保つ。三年春、鄯善王比龍は西に且末に奔る。其の世子は乃ち安周に従う。鄯善大いに乱る。無諱は遂に流沙を度る。士卒渇死する者太半、仍って鄯善に拠る。是に先だち高昌太守闞爽は李宝の舅唐契の攻むる所と為る。無諱の鄯善に至るを聞き、詐降して、無諱をして唐契と相撃たしめんと欲す。無諱は安周を留めて鄯善に住ましめ、焉耆の東北より高昌に趣く。会に蠕蠕唐契を殺す。爽は無諱を拒ぐ。無諱の将衛興奴遂に其の城を屠る。爽は蠕蠕に奔る。無諱は因りて高昌に留まる。五年夏、無諱病みて死す。安周立ち、蠕蠕に併せらる。
梁帝蕭詧、字は理孫、蘭陵の人、武帝の孫、昭明太子統の第三子なり。幼より学を好み、文を属するに善く、特に仏義に長じ、特だ梁武帝の嘉賞を受く。梁の普通中、曲江県公に封ぜらる。及び昭明太子薨ずるや、詧を岳陽郡王に封じ、位は東揚州刺史、会稽太守を領す。初め、昭明卒すや、梁武帝は詧兄弟を捨てて簡文を立て、内に常に之を愧じ、故に寵は諸子に亜ぐ。会稽は人物殷阜にして、一都の会たるを以て、故に此の授有り、以て其の心を慰む。詧は既に其の昆季の嗣と為るを得ざるを以て、常に不平を懐く。又た梁武帝の衰老し、朝に秕政多く、敗亡の漸有るを以て、遂に貨財を蓄聚し、賓客に交通し、軽侠を招募し、節を折りて之に下る。其の勇敢なる者、多く帰附す。左右遂に数千人に至り、皆厚く資給を加う。中大同元年、西中郎将・雍州刺史、 都督 五州諸軍事、甯蛮 校尉 を除く。詧は襄陽の形勝の地たるを以て、又た梁武帝の基を創めたる所、時に平らかなれば以て根本を樹つるに足り、時に乱るれば以て覇功を図るに足ると為し、遂に刑政を修むるを務む。
太清二年、梁の武帝は詧の兄の河東王蕭譽を湘州刺史とし、湘州刺史の張纘を雍州に転任させた。張纘は才能を恃んで蕭譽を軽んじ、州府の迎えの礼に欠けるところがあり、蕭誉は深く恨みに思い、そこで病と称して会おうとしなかった。後に侯景が乱を起こしたと聞くと、蕭誉は張纘をかなり圧迫した。張纘は蕭誉と蕭詧のことを梁の元帝に讒言し、元帝はその世子の蕭方等と王僧辯に相次いで蕭誉を攻撃させた。蕭誉は蕭詧に報告し、蕭詧はこれを聞いて大いに怒った。梁の元帝が建業を救援せんとし、統轄する諸州に命じて一斉に兵を発して都に向かわせた時、蕭詧は府司馬の劉方貴に兵を率いさせて前軍とし、漢口から出撃させた。出発しようとした時、梁の元帝はまた諮議参軍の劉玨を遣わして蕭詧を召し自ら出向くよう命じたが、蕭詧は従わなかった。一方、劉方貴は密かに梁の元帝と通じ、期日を定めて蕭詧を襲撃しようとしていた。発するに及ばず、ちょうど蕭詧が別件で劉方貴を召したため、謀は漏れ、劉方貴は樊城を拠点として命令に背いた。蕭詧は軍を派遣してこれを攻撃した。梁の元帝は張纘に多額の資金を与えて送り出し、あたかも職務報告に赴くかのように装わせ、密かに劉方貴を支援した。張纘が大堤に到着した時には、樊城は既に陥落していた。蕭詧は劉方貴兄弟とその一味を捕らえ、皆斬った。蕭詧は当時、蕭誉が危急であることを知り、諮議参軍の蔡大宝を留めて襄陽を守らせ、自らは軍勢を率いて江陵を討ち、蕭誉を救援しようとした。梁の元帝は大いに恐れ、参軍の庾奐を遣わして蕭詧に言わせた。「甥が叔父を討つとは、逆と順はどこにあるのか。」蕭詧は言った。「私の兄に罪はないのに、しばしば攻囲されました。七父(元帝)が先帝の恩顧を顧みるなら、どうしてこのようなことがありましょうか。もし湘水まで兵を退かれるなら、私は直ちに軍旗を返して襄陽に帰りましょう。」当時、柵を攻め落とせず、大雨が激しく降り、平地で四尺の深さとなり、兵士の心はかなり離反した。軍主の杜岸とその弟の杜幼安、およびその兄の子の杜龕は、配下を率いて江陵に降った。蕭詧は夜遁走して襄陽に帰ったが、武器や輜重の多くは湕水に没した。蕭詧は自ら守りを固められないことを恐れ、蔡大寶を遣わして西魏に附庸となることを求めた。これは西魏の大統十五年であった。周の文帝(宇文泰)は丞相東閣祭酒の栄権を使者として派遣した。
この年、梁の元帝は柳仲礼に襄陽を攻め取らせようとしたので、蕭詧は妃の王氏と世子の蕭嶚を人質として送り、救援を請うた。周の文帝は栄権に返答の使命を与え、引き続き開府の楊忠を援軍として派遣した。十六年、楊忠は柳仲礼を捕らえ、漢東を平定した。西魏は蕭詧に発喪して後を継ぎ即位するよう命じ、仮の 散騎常侍 の鄭孝穆と栄権を使者として、蕭詧を梁王に策命した。蕭詧はそこで襄陽に百官を置き、制を承って封爵・任命を行った。十七年、尚書僕射の蔡大寶を留めて雍州を守らせ、自らは京師(長安)に朝見した。周の文帝は蕭詧に言った。「王がここに来られたのは、かなり栄権によるものである。」そこで栄権を召し出して会わせ、言った。「栄権は士を起こした者である。寡人は彼と事を共にしているが、未だ一度も信を失うところを見たことがない。」蕭詧は言った。「栄権は常に二国の言葉に私心がないと申しておりましたので、蕭詧は今、魏の朝廷に誠を帰すことができたのです。」
魏の恭帝元年、周の文帝は柱国の于謹に江陵を討伐させ、蕭詧は兵を率いてこれに合流した。江陵が平定されると、周の文帝は蕭詧に梁の後継者としての地位を命じ、江陵の東城に居住させ、江陵一州の地を資産として与えた。その襄陽の統轄区域は全て周の領土となった。蕭詧はそこでその国において皇帝を称し、年号を大定とした。父の蕭統を追尊して昭明皇帝とし、廟号を高宗とした。蕭統の妃の蔡氏を昭徳皇后と追尊した。また、実母の龔氏を皇太后と尊んだ。妻の王氏を皇后と立て、子の蕭巋を皇太子とした。その慶賞・刑罰・威令、官制・制度は全て王者と同じであった。ただ上疏する時のみ臣と称し、朝廷の正朔を奉じた。その下に爵位を授けることについては、梁氏の旧制に依った。その軍の階章や勲級については、また柱国などの官を兼用した。また、叔父の邵陵王蕭綸を太宰に追贈し、諡を壮武とした。兄の河東王蕭誉を丞相に追贈し、諡を武桓とした。周の文帝は依然として江陵防主を置き、兵を率いて西城に駐屯させ、外には蕭詧の防備を助けると称し、内実は蕭詧を防備した。
初め、江陵が滅びた時、梁の元帝の将であった王琳が湘州を占拠し、復興を志していた。蕭詧が即位すると、王琳はその将の潘純陀と侯方児を派遣して侵攻させた。蕭詧はこれを防ぎ、潘純陀らは退いて夏口に帰った。蕭詧の四年、蕭詧はその大将軍の王操に命じて王琳の長沙・武陵・南平等の郡を攻略させた。五年、王琳はまたその将の雷文柔を派遣して監利郡を襲撃陥落させ、太守の蔡大有はこれに死んだ。まもなく王琳は陳と対峙し、蕭詧に藩属を称して援軍を請うたので、蕭詧はこれを許した。軍が未だ出発しないうちに王琳の軍は敗れ、北斉に帰附した。この年、その太子の蕭巋が京師に来朝した。六年四月、大雨と雷があり、前殿が崩壊し、二百余人が圧死した。七年冬、鵩鳥が寝殿で鳴いた。八年二月、蕭詧は前殿で崩御した。時に年四十四。この年は周の保定二年であった。八月、平陵に葬られ、諡を宣皇帝、廟号を中宗とした。
蕭詧は若い時から大志を持ち、小さな節義に拘らず、猜疑心は多かったが、人を知り善く任用し、将士を慰撫して恩を施し、その死力を得ることができた。性来酒を飲まず、倹素に安んじていた。母に仕えることは孝行として知られていた。また、音楽や女色を好まず、特に婦人を見ることを嫌い、数歩離れていても、はるかにその臭いを嗅ぐと言った。婦人の衣服を着用した後は、二度と着ず、全て棄てた。一度寵姫を幸いすると、病に臥せって数十日を要した。また、人の髪を見ることを嫌い、報告する者は必ず便宜を図って避けさせ、輿を担ぐ者は、冬は必ず頭を包み、夏は蓮の葉の帽子を被らせた。東揚州にいた時は、かなり放縦で、簿領を閲覧する際、戯れの言葉を好み、これによって世に嘲笑された。江陵が平定された後、宿将の尹徳毅が蕭詧に言った。「臣は聞きます。君主の行いは、匹夫とは異なると。匹夫は、小さな行いを飾り、小さな廉潔を競い、名誉を取ります。君主は、天下を定め、社稷を安んじ、大功を成します。今、魏の虜(西魏軍)は貪婪で、弔伐の義を顧みず、士人や庶民を捕虜とし、皆軍の実(戦利品・奴隷)としています。しかし、このような者たちの親族は皆、江東にいます。はるかなる人々に、戸毎に説いて回ることができるでしょうか。既に塗炭の苦しみをここまで味わい、皆、殿下がこれを為したと言っています。殿下は既に人の父兄を殺し、人の子弟を孤児にし、人は皆仇敵です。それでは誰と国を為すことができましょうか。ただ、魏の精鋭は全てここに集結しており、師を労う礼には、先例がないわけではありません。もし殿下が宴会を設け、固く于謹らを招いて歓を尽くせば、彼らは我々を疑わず、相率いて来るでしょう。あらかじめ武士を伏せておき、その機に乗じて彼らを斃すのです。江陵の百姓は、慰撫して安んじ、文武の官僚は、直ちに選任して官職を与えます。魏人は恐れて息をひそめ、死を送ることを敢えてしないでしょう。王僧辯の徒は、書簡を送れば招くことができます。その後、朝服を着て江を渡り、皇極に入り践祚し、堯の業を継ぎ禹の道を復するならば、万世に一度の機会です。」蕭詧は尹徳毅に言った。「卿のこの策は善くないわけではない。しかし、魏人は我を厚く遇しており、その徳に背くことはできない。もし急に卿の計を用いれば、鄧祁侯の言う『人将不食吾餘(人々は私の残り物さえ食べなくなるだろう)』ということになる。」その後、城の老若全てが捕虜として関中に連行され、また襄陽の地を失った。蕭詧は悔やみ、言った。「徳毅の言葉を用いなかったために、ここまでなったのだ!」また、邑居が破壊され、戦乱が日常的に起こるのを見て、その威略が振るわないことを恥じ、常に憂憤を抱き、そこで『湣時賦』を著して志を表した。平素から快からず、毎度「老馬伏櫪,志在千里。烈士暮年,壯心不已(老いた馬は槽に伏すも、志は千里にあり。烈士は暮年にあっても、壮心やまず)」と誦するたびに、眉を上げて目を見開き、腕を扼んで長く嘆息した。ついに憂憤のために背中に癰ができて死んだ。
蕭詧は文義を深く愛好し、著した文集十五巻、仏典に関する『華厳』・『般若』・『法華』・『金光明』の義疏三十六巻は、共に世に行われた。武帝(宇文邕)はまたその太子の蕭巋に命じて位を継がせ、年号を天保とした。
蕭巋は字を仁遠といい、蕭詧の第三子である。機知に富み弁舌に優れ、文学を修め、撫育統御に長け、その下の者の歓心を得た。位を嗣いだ元年、祖母の龔太后を尊んで太皇太后と称し、嫡母の王皇后を皇太后と称し、実母の曹貴嬪を皇太妃と称した。その年の五月、太皇太后が崩御し、諡して元太后といった。九月、皇太妃がまた崩御し、諡して孝皇太妃といった。二年、皇太后が崩御し、諡して宣靜皇后といった。
五年、陳の湘州刺史華皎と巴州刺史戴僧朔がともに来附した。華皎はその子の玄響を蕭巋のもとに人質として送り、兵を請うて陳を伐とうとした。蕭巋はその状況を上奏した。武帝は詔して衛公宇文直に荊州総管権景宣と大将軍元定らを督して赴かせた。蕭巋もまたその柱国王操に水軍二万を率いさせ、巴陵で華皎と合流させた。やがて陳の将軍呉明徹らと沌口で戦い、宇文直の軍は不利となり、元定はついに没し、蕭巋の大将軍李広らもまた陳の人に捕虜とされ、長沙・巴陵はともに陳に陥落した。衛公宇文直はその罪を蕭巋の柱国殷亮に帰した。蕭巋は敗退が殷亮一人の罪ではないと考えたが、命に背くことはできず、ついに彼を誅した。呉明徹は勝ちに乗じて蕭巋の河東郡を攻め落とし、その守将許孝敬を捕らえた。翌年、明徹は進んで江陵を侵し、江水を引いて城を灌漑した。蕭巋は出て紀南に駐屯し、その鋭鋒を避けた。江陵副総管高琳とその尚書僕射王操が防ぎ守った。蕭巋の馬軍主馬武・吉徹らが明徹を撃ち、明徹は退いて公安を守り、蕭巋は江陵に還った。蕭巋の八年、陳はまたその 司空 章昭達を遣わして来寇し、江陵総管陸騰と蕭巋の将士がこれを撃退した。昭達はまた竟陵の青泥を寇し、蕭巋はその大将軍許世武に赴援させたが、大いに昭達に破られた。
初め、華皎と戴僧朔は衛公宇文直に従って陳の人と戦って敗れ、その麾下数百人を率いて蕭巋に帰した。蕭巋は華皎を 司空 とし、江夏郡公に封じ、僧朔を車騎将軍とし、呉興県侯に封じた。蕭巋の十年、華皎が来朝しようとし、襄陽に至り、衛公宇文直に請うて言った、「梁主はすでに江南の諸郡を失い、民少なく国貧しい。朝廷が亡びた国を継ぎ絶えた者を興すにあたり、理に照らして資給すべきである。どうして斉桓公・楚荘王のみに衛を救い陳を復す美事を独占させようか。数州をお借りして、梁国を補益したいと望む」。宇文直はこれをよしとし、使者を遣わして状況を言上した。帝はこれを許し、詔して基・平・鄀の三州を蕭巋に帰属させた。
斉が平定されると、蕭巋は鄴に朝した。帝は礼をもってこれに接したが、まだ重んじなかった。蕭巋はこれを知り、後に宴席の機会を捉えて、その父が周の文帝(宇文泰)の拯救の恩を受けたこと、および両国の艱難と脣歯輔車の関係について述べた。言辞道理は明晰流暢で、涙を流して泣くと、帝もまたこれにため息をついた。これより大いに賞賛し異遇を加え、礼遇は日増しに厚くなった。後に帝がまた彼と宴を催したとき、斉の旧臣叱列長叉もこれに列席した。帝は指さして蕭巋に言った、「これは城壁に登って朕を罵った者である」。蕭巋は言った、「長叉は桀を輔けることができず、かえって堯に吠えようとしたのです」。帝は大笑した。酒が酣になると、帝はまた琵琶を自ら弾き、なお蕭巋に言った、「梁主のために歓を尽くすべきである」。蕭巋は起ち上がって舞を請うた。帝は言った、「王は朕のために舞うことができるのか」。蕭巋は言った、「陛下がすでにみずから五弦を撫でられるならば、臣どうして百獣と同じくせぬことがありましょうか」。帝は大いに喜び、雑繒一万段・良馬数十匹を賜い、さらに斉の後主の妓妾および帝の乗っていた五百里駿馬を賜って彼を送り出した。隋の文帝が政を執ると、尉遅迥・王謙・司馬消難らがそれぞれ兵を起こした。当時、蕭巋の将帥は皆密かに興師を請い、尉遅迥らと連衡の勢いをなし、進んでは周氏に節を尽くし、退いては山南を席捲できると説いた。蕭巋はこれを不可とした。まもなく消難は陳に奔り、尉遅迥らは相次いで破滅した。隋の文帝が即位すると、恩礼はますます厚く、使者を遣わして金五百両・銀千両・布帛一万匹・馬五百匹を賜った。開皇二年、隋の文帝は礼を整えて蕭巋の娘を晋王(楊広)の妃に納め、またその子蕭瑒に蘭陵公主を娶らせようとした。これにより江陵総管を廃し、蕭巋がその国を専制した。四年、長安に来朝した。帝は大いに敬って待遇し、詔して蕭巋の位を王公の上に置いた。蕭巋は衣服を端正にまとい、進退は悠雅で、天子は目を注ぎ、百官は傾慕した。帝は蕭巋に縑一万匹を賜い、珍玩もこれに相当した。帰還する際、みずからその手を執って言った、「梁主は久しく荊楚に滞在し、旧都を回復していない。朕は長江に軍を振るい、送って還るのを待とう」。蕭巋は拝謝して帰った。五年五月、病臥して崩御した。臨終に表を奉って辞し、かつ身に着けていた金装の剣を献上した。帝はこれを見て嘆悼した。蕭巋は在位二十三年であった。梁の臣子は彼を顕陵に葬り、諡して孝明皇帝、廟号を世宗といった。
蕭巋は孝悌慈仁で、人君の度量があった。四時の祭祀供養には、悲しみ慕って涙を流さないことはなかった。性質は特に倹約で、下を統御するに方策があり、境内は安らかであった。著した文集および『孝経』『周易義記』『大小乗幽微』は、ともに世に行われた。文帝はまたその太子蕭琮に命じて位を嗣がせた。
蕭琮は字を温文といい、性質は倜儻として羈絆されず、博学で文義に通じた。弓馬をも兼ねて善くし、人を地に伏せさせて帖を持たせ、蕭琮は馬を走らせてこれを射ると、十発十中し、帖を持つ者もまた恐れなかった。初め東陽王に封ぜられ、まもなく梁の太子に立てられた。位を嗣ぐと、帝は璽書を賜ってこれを敦め励ました。また梁の大臣に璽書を賜い、誡め励ました。当時、蕭琮の年号は広運であったが、識者は言った、「運という字は、軍が走ると読める。我が君は奔走することになるであろうか」。その年、蕭琮は大将軍戚昕に舟師を遣わして陳の公安を襲わせたが、勝たずして還った。文帝は蕭琮の叔父蕭岑を徴し入朝させ、大将軍に拝し、懐義公に封じ、ついに留めて帰さなかった。また江陵総管を置いてこれを監させた。蕭琮が任命した大将軍許世武は密かに城をもって陳の将軍宜黄侯陳紀を召そうとしたが、謀が漏れ、蕭琮は彼を誅した。後二年、上は蕭琮を徴し入朝させ、臣下二百余人を率いて京師に朝した。江陵の父老は涙を流さない者はなく、「我が君は帰らないであろう」と言った。上は蕭琮が来朝したため、武郷公崔弘度に兵を将いてこれを戍らせた。軍が鄀州に至ると、蕭琮の叔父蕭岩および弟の蕭瓛らは崔弘度が不意に襲うことを恐れ、ついに陳の人を引いて城下に至らせ、住民を虜にして叛いた。ここにおいて梁国を廃した。上は左僕射高熲を遣わしてこれを安集させ、江陵の死罪を曲げて赦し、十年間の租税を免除した。梁の二主にはそれぞれ守墓十戸を与え、蕭琮を柱国に拝し、莒国公の爵を賜った。
蕭詧が初めて即位した年は乙亥の年(555年)であり、ここに至る年は丁未の年(587年)で、凡そ三十三年にして亡んだ。
蕭琮は煬帝が位を継ぐに至り、甚だ親重され、内史令に拝され、梁公に改封された。蕭琮の宗族は、緦麻以上の親族まで、皆才能に従って抜擢任用され、ここにおいて諸蕭の兄弟は、朝廷に布列した。蕭琮は性淡雅にして、職務を以て自ら煩わさず、退朝すればただ酒を縦にするのみであった。内史令楊約は蕭琮と同列にあり、帝は楊約に命じて旨を宣べさせ戒め励ました。楊約はまた私情を以て諭したが、蕭琮は言う、「蕭琮がもしまた事々しく振る舞うならば、公と何の異なることがあろうか」と。楊約は笑って退いた。楊約の兄楊素は当時 尚書令 であり、蕭琮が従父妹を鉗耳氏に嫁がせるのを見て、言う、「公は帝王の族なり、何ぞ妹を鉗耳氏に適せしむるや」と。蕭琮は言う、「前に既に妹を侯莫陳氏に嫁がせた、これまた何を疑わん」と。楊素は言う、「鉗耳は羌なり、侯莫陳は虜なり、どうして比べられようか」と。蕭琮は言う、「羌を以て虜と異なるとするは、未だ前に聞かず」と。楊素は慚じて止んだ。蕭琮は羈旅の身ながらも、北の間の豪貴を見て、降り下ること無かった。常に賀若弼と深く友とし、賀若弼が誅された後、また童謡に「蕭蕭また復た起つ」とあり、帝はこれにより彼を忌み、遂に家に廃した。卒し、左光禄大夫を贈られた。
子の蕭鉉は、襄城通守の位に至る。また蕭琮の弟の子蕭钜を梁公とした。蕭钜の小名は蔵といい、煬帝は甚だ彼に昵し、千牛とした。宇文皛と共に宮掖に出入りし、内外を伺察した。帝が遊宴する毎に、蕭钜は従わないことは無かった。遂に宮中において、多く淫穢の行いを行った。江都の変に、宇文化及に殺された。
蕭詧の子、蕭{山愰}は、孝恵太子と追諡された。蕭岩は安平王に封ぜられ、蕭岌は東平王に封ぜられ、蕭岑は河間王に封ぜられ、後に呉郡王に改封された。蕭琮の弟、蕭瓛は義興王、蕭曁彖は晋陵王、蕭璟は臨海王、蕭珣は南海王、蕭瑒は義安王、蕭瑀は新安王である。
蔡大寶を股肱とし、王操を腹心とし、魏益徳・尹正・薛暉・許孝敬・薛宣を爪牙とし、甄玄成・劉盈・岑善方・傅淮・褚珪・蔡大業に衆務を典掌させ、張綰を旧歯として顕位に処し、沈重を儒学を以て厚礼を蒙らせた。その他多くを奨励抜擢し、皆その器能を尽くさせた。蕭巋が業を継ぐに及んで、親賢を並び用いた。将相は華皎・殷亮・劉忠義、宗室は蕭欣・蕭翼、人望は蕭確・謝温・柳洋・王湜・徐岳、外戚は王洋・王誦・殷璉、文章は劉孝勝・范迪・沈君遊・君公・柳信言、政事は袁敞・柳庄・蔡延寿・甄詡・皇甫茲である。故にその疆土を保ちてその人を和することができた。今、蕭詧の子蕭{山愰}ら及び蔡大宝以下特に著名なる者を載せ、左に附す。梁・陳・隋に既に伝があり、及び蕭巋の諸子で職に任じざる者は、兼ねて録さない。
蕭{山愰}は字を道遠といい、蕭詧の長子である。母は宣静皇后という。蕭詧が梁王たる時、世子に立てられた。まもなく病没した。蕭詧が帝を称するに及び、追諡された。
蕭岩は字を義遠といい、蕭詧の第五子である。性仁厚にして、撫接に善く、 尚書令 ・太尉・太傅を歴任した。陳に入り、東揚州刺史を授けられた。陳が滅亡するに及び、百姓は蕭岩を主に推した。総管宇文述に撃破され、長安において法に伏した。
蕭岌は、蕭詧の第六子である。性淳和にして、侍中・中衛将軍の位に至った。蕭巋の五年、卒した。 司空 を贈られ、諡して孝といった。
蕭岑は字を智遠といい、蕭詧の第八子である。太尉の位に至った。性簡貴にして、下を禦するに厳整であった。蕭琮が位を嗣ぐに及び、自ら望重く属尊しと以て、頗る不法のことがあった。故に隋の文帝は朝に徴入し、大将軍に拝し、懐義郡公に封ぜられた。
蕭瓛は字を欽文といい、蕭巋の第三子である。幼より令誉有り、文を属する能くした。荊州刺史の位にあり、頗る能名有り。崔弘度の兵が鄀州に至ると、蕭瓛は懼れ、その叔父蕭岩と共に陳に奔った。陳主は侍中・呉州刺史と為し、甚だ物情を得た。三呉の父老は皆曰く、「吾が君の子なり」と。陳が滅び、呉人は彼を主に推した。呉人は梁の武帝・簡文帝及び蕭詧・蕭巋等兄弟の中に並びに第三子でありながら尊位を践んだのを見た。蕭瓛は自ら蕭巋の第三子たるを以て、深く自ら矜負した。謝異という者あり、頗る廃興を知り、梁陳の際、言うこと験ならざる無く、江南の人甚だ敬信した。陳主が禽らるるに及び、謝異は蕭瓛に奔り、これにより益々衆に帰せられた。宇文述がこれを討つと、蕭瓛は王褒を遣わして呉州を守らせ、自ら将兵して宇文述に拒いだ。宇文述は兵を別道より遣わして王褒を襲わしめ、王褒は道士の服を着て、城を棄てて遁走した。蕭瓛は敗れ、左右数人を将いて太湖に逃れ、人家に匿れた。捕らえられ、宇文述は長安に送って斬った。
蕭璟は隋に仕え、尚衣奉御となった。蕭瑒は衛尉卿・秘書監・陶丘侯となった。蕭瑀は内史侍郎・河池太守となった。
蔡大寶は、字を敬位といい、済陽考城の人である。祖父の蔡履は、斉の尚書祠部郎であった。父の蔡点は、梁の尚書儀曹郎・南兗州別駕であった。
蔡大寶は少にして孤となり、篤学倦まず、文を属するに善かった。初め明経の対策に第一となり、武陵王国左常侍に解褐した。嘗て書を以て僕射徐勉に干し、徐勉は大いに賞異し、乃ちその子と遊処せしめ、所有の墳籍を尽くしてこれに与えた。遂に群書を博覧し、学び綜べざる無し。蕭詧が初めて第を出るや、徐勉は仍って蔡大寶を薦めて侍読とし、記室を兼掌せしめた。尋いで尚書儀曹郎を除かれた。蕭詧が会稽に出鎮するや、蔡大寶は選曹に詣りて諮議を求めたが得ず、記室と為された。蔡大寶は攘臂して出でて曰く、「孫秀とならずんば、人に非ず」と。蕭詧が襄陽に蒞るや、諮議参軍に遷り、謀謨は皆蔡大宝より出た。梁の元帝が河東王蕭誉と隙を結ぶに及び、蕭詧は蔡大宝をして江陵に使いせしめてこれを観させた。梁の元帝は素より蔡大宝を知り、これを見て甚だ悦び、乃ち自ら制する所の『玄覧賦』を示し、注解せしめた。三日にして畢った。梁の元帝は大いに嗟賞し、贈遺甚だ厚かった。蔡大宝は還り、蕭詧に白して云う、「湘東(元帝)必ず異図有り、禍乱将に作らんとす、台城を下援すべからず」と。蕭詧はこれを納れた。蕭詧が江陵において帝を称するに及び、侍中・ 尚書令 と為り、選事に参掌し、柱国・軍師将軍に進位し、安豊県侯に封ぜられた。蕭巋が位を嗣ぐや、冊を以て 司空 ・ 中書監 ・中権大将軍・領吏部尚書を授けられた。固く 司空 を譲り、これを許され、特進を加えられた。蕭巋の三年、卒した。葬るに及び、蕭巋は三たびその喪に臨んだ。 司徒 を贈られ、爵を公に進め、諡して文凱といい、蕭詧の廟に配食された。
蔡大宝は性厳整にして、智謀有り、雅に政事に達し、文辞贍速であった。蕭詧の章表・書記・教令・詔冊は、並びに蔡大宝が専らこれを掌った。蕭詧は推心して委任し、謀主と為した。時に人は蕭詧の蔡大宝有るは、猶劉先主の孔明有るが如しと為した。著す所の文集三十巻及び『尚書義疏』は、並びに世に行われる。
四人の子有り。次子の蔡延寿は器識有り、経籍に博く渉り、尤も当世の務に善かった。蕭詧の女宣城公主を尚み、中書郎・尚書右丞・吏部郎・御史中丞を歴任した。蕭琮に従い隋に入る。開府儀同三司・秘書丞を授けられた。成州刺史に終わる。
蔡大宝の弟蔡大業は、字を敬道という。至行有り、 散騎常侍 ・衛尉卿・都官尚書・太常卿の位に至った。卒し、金紫光禄大夫を贈られ、諡して簡といった。五人の子有り、蔡允恭最も知名。太子舎人の位に至る。梁滅びて陳に入り、尚書庫部郎と為る。陳滅びて隋に仕え、起居舎人と為る。
王操は、字を子高といい、その先祖は太原の 晉 陽の人であり、蕭詧の母龔氏の従弟である。性質は篤実で、謀略に長けていた。初め蕭詧の外兵参軍となり、信任は蔡大寶に次いだ。蕭詧が帝を称すると、五兵尚書・ 郢州 刺史を歴任し、柱国に進み、新康県侯に封ぜられた。蕭巋が位を嗣ぐと、鎮右将軍・尚書僕射を授けられた。呉明徹が侵寇した時、蕭巋は紀南に出て駐屯し、王操は将士を慰撫したので、命に従わぬ者はなかった。明徹が退くと、江陵は全きを得たが、これは王操の力によるものであった。侍中・中衛将軍・ 尚書令 ・開府儀同三司に遷り、荊州刺史を兼ねた。王操は朝廷の上位に位置したが、常に自らを抑え損なうことなく、当時の称賛を深く得た。死去すると、蕭巋は朝堂で哀悼の礼を挙げ、涙を流して言った、「天は我に江表を平定掃蕩させず、何ぞ我が賢相を奪うことの速きや」と。葬儀の際には、自ら瓦官門で祖道の礼を行った。 司空 を追贈され、爵位は公に進み、諡して康節といった。
七人の子があり、次子の王衡が最も名を知られた。才学があり、中書・黄門侍郎の位に至った。
魏益徳は、襄陽の人である。才幹があり、胆力勇気は人に優れていた。蕭詧が帝を称すると、柱国に進み、上黄県侯に封ぜられた。死去すると、 司空 を追贈され、諡して忠壮といい、爵位は公に進んだ。蕭巋の五年、益徳を蕭詧の廟に配祀した。
尹正は、その先祖は天水の人である。蕭詧が雍州に臨むと、正はその府の中兵参軍となった。張纘を捕らえ、杜岸を獲たのは、皆、尹正の力によるものであった。蕭詧が帝を称すると、護軍将軍に任じられ、柱国の位に至り、新野県侯に封ぜられた。死去すると、開府儀同三司を追贈され、諡して剛といった。蕭巋の五年、尹正を蕭詧の廟に配祀した。
子の徳毅は、権謀術策に長け、大将軍の位に至った。後に疑いを受けて死を賜った。
甄玄成は、字を敬平といい、中山の人である。経史に博通し、文章をよくした。若くして簡文帝に知られた。録事参軍として蕭詧に従い襄陽に鎮し、中記室参軍に転じ、政事に多く参与した。江陵の兵力が盛んなのを見て、二心を抱き、密かに書を元帝に送り、誠意を詳しく述べた。ある者がその書を手に入れ、蕭詧に送った。蕭詧は深く仏法を信じ、常に『法華経』を誦する者を殺さぬことを願っていた。玄成は平素より『法華経』を誦していたので、これによって罪を免れた。蕭詧が後に彼に会うと、常に言った、「甄公は『法華経』の力によく助けられた」と。後に吏部尚書の位に至り、文集二十巻があった。
子の詡は、若くして沈着聡明で、政事に習熟していた。中書舎人・尚書右丞を歴任した。蕭琮に従って隋に入り、開府儀同三司を授けられ、太府少卿の任で終わった。
岑善方は、字を思義といい、南陽棘陽の人である。祖父の恵甫は給事中、父の昶は散騎侍郎であった。善方は器量があり、経史を広く総覧した。刑獄参軍として蕭詧に従い襄陽に至った。蕭詧が初めて内附を請うた時、善方が記室を兼ねて使者となり、往来すること凡そ数十回に及んだ。西魏恭帝二年、長寧県公に封ぜられた。蕭詧が帝を称すると、散騎侍郎・起部尚書の位に至った。善方は清廉慎重な性質で、当世の実務能力があったので、蕭詧は機密を委ねた。死去すると、太常卿を追贈され、諡して敬といった。著した文集十巻がある。
七人の子があり、皆、操行があった。之元・之利・之象が最も名を知られた。之元は太子舎人となり、早世した。之利は隋に仕え、零陵郡丞の位に至った。之象は隋に仕え、尚書虞部員外侍郎、邵陵・上宜・渭南・邯鄲の四県令となった。
宗如周は、南陽の人である。才学があり、府の僚属として蕭詧に従い、後に度支尚書に至った。如周の顔は細長く、蕭詧は『法華経』に「経を聞き随喜すれば、面、狭長ならず」とあるのをもじり、かつて戯れて言った、「卿は何ぞ経を誹謗するや」と。如周は恐縮して、自ら誹謗していないと陳べた。蕭詧がまた初めと同じことを言うと、如周は恐れ、出て蔡大寶に告げた。大寶はその趣旨を知り、笑って言った、「君は他の経典は誹謗せず、ただ『法華経』を信じないだけだろう」と。如周はようやく悟った。またかつて如周に訴え事をする者がおり、彼を経由して如州の官に取り次ぐものと思い、言った、「某に冤屈滞結あり、故に如州の官に訴え来たる」と。如周は言った、「汝は何たる小人ぞ、敢えて我が名を呼ぶか」と。その人は恥じ謝って言った、「ただ如周の官が如州に取り次ぐと言ったまでで、如州の官の名が如周とは知りませんでした。早く如州の官の名が如周と知っていれば、如周の官を如州と呼びはしませんでした」と。如周は笑って言った、「卿に自ら責めさせたが、かえって侮りが深くなった」と。衆人は皆、その寛大高雅に敬服した。
袁敞は、陳郡の人である。祖父の昂は 司空 、父の士俊は安成内史であった。敞は若くして識見度量があり、文史に広く渉猟した。吏部郎として周に使いした。当時、主事の者が敞の班位を陳の使者の後にしたので、敞は固より命に従わず言った、「昔、陳の祖父(陳霸先)は、梁の諸侯の下吏に過ぎず、江東を盗み取りし。今、周朝は万国を宗とし、礼をもって遠近を招き携える。もし梁の行人の班位を陳の後にせんか、則ち恐らく彝倫(秩序)を失するに至らん。これ豈に使臣の望むところならんや」と。主事の者は屈することができず、遂にその状を奏上した。周の武帝はこれを善しとし、詔して敞と陳の使者とを異なる日に進謁させた。使いから戻り、上意に適ったので、侍中に遷った。左戸尚書に転じた。蕭琮に従って隋に入り、開府儀同三司を授けられた。譙州刺史の任で終わった。
論じて曰く、金行(晋)の運が否み、中原に喪乱ありて以来、元氏(北魏)は唯天の命を受けて、漸く統一回復せんとす。鉄弗(赫連氏)・徒何(慕容氏)の輩は、行録(正統)の帰する所に非ざるも、その 遞 割拠するを観れば、亦た一時の傑なり。然れども卒に夷滅に至るは、魏の為に駆除する者と謂うべし。梁主(蕭詧)は術を任じ謀を好み、賢を愛し士を養い、蓋し英雄の志、霸王の略有り。淮海版蕩(動乱)に及び、骨肉猜貳(疑い)し、衆を擁して自ら固め、藩を称して内に 款 を通ずるも、終に全楚を据え有し、頽運を中興す。士宇(領土)は旧邦に異なるも、位号は曩日に同じし。その自ら遠きより来るを 眙 れば、国を享くること短きも、賢なりと謂わざるべけんや。嗣子(蕭巋)は業を纂ぎ、遣構(先人の遺業)を増修し、賞罰は 衷 を得、挙措は方(道)有り。寇讎に密邇すれば、則ち威略具に挙がり、上国に朝宗すれば、則ち声猷遠く振るう。これ豈に継世の令主に非ずや。蕭琮は大いに其の邦を去り、因って反らず、遂に外戚となる。自ら持する事なく、蓋し亦た満を守るの道なり。
目次へ戻る※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。