夏の赫連氏、燕の慕容氏、後秦の姚氏、北燕の馮氏、西秦の乞伏氏、北涼の沮渠氏、梁の蕭氏
晋は永嘉の乱より、天下は瓜分され、胡羯が跋扈し、年代を経て、各々運命を担うと称し、皆帝位に居た。やがて互いに併呑し滅ぼし、終には魏の臣となった。然るに魏は昭成帝以前は、王者の跡未だ顕わならず、劉氏や石氏の類は、時代が連続せず、旧書は伝と為し、これを四夷に編し、耳目を欺く有りて、緗素に益する無し。且つ当時は五馬江に浮かび、正朔改まるを示し、『陽秋』の記注、記録に具存す。朝政は叢脞なりと雖も、年代は既に多し。太宗文皇帝天象に動き、大いに刊勒を存し、その時事相接するものは、既に『載記』に編せり。今は道武帝以来に併呑したる者を断じ、その行事を序し、その滅亡を紀す。その余に関わり及ばざるは、皆取らざる所なり。晋・宋・齊・梁の如きは、偏拠と曰うと雖も、年次漸く三百年、鼎命相承けたり。『魏書』は『島夷』と命じ、これを伝に列すも、亦取らざる所なり。故に今の篇に入れず、蕭察は帝号と云うと雖も、周室に附庸す、故にこの編に従い、次いで『僭偽附庸傳』と為す云爾。
夏の赫連氏
鉄弗の劉武は、南単于の苗裔、左賢王去卑の孫、北部帥劉猛の従子にして、新興郡慮虒の北に居る。北人は胡父に鮮卑母を「鉄弗」と謂い、因って号を以て姓と為す。武の父は誥汁爰、代々部落を領す。汁爰死し、武代わる。武死し、子の務桓部落を代領し、魏と和通す。務桓死し、弟の閼陋頭代わりて立ち、密かに反叛を謀る。後に務桓の子悉勿祈、遂に閼陋頭を逐いて立つ。悉勿祈死し、弟の衛辰代わりて立つ。
昭成帝の末、衛辰は苻堅を導き魏の南境を寇す。王師敗績す。堅遂に国人を二部に分ち、河以西はこれに属し衛辰に、河以東はこれに属し劉庫仁に。堅後に衛辰を単于と為し、河西の新類を督摂せしめ、代来に屯す。慕容永は長子を拠り、衛辰を使持節・都督河西諸軍事・大将軍・朔州牧・朔方王に拝す。姚萇も亦使者を遣わし結好し、衛辰を使持節・都督北朔雑夷諸軍事・大将軍・大単于・河西王・幽州牧に拝す。
屈丐は、本名は勃勃、明元帝その名を改めて屈丐と曰う。北方に屈丐を言うは卑下なり。太悉伏これを姚興に送る。興の高平公破多羅没弈于は女を以て妻と為す。屈丐身長八尺五寸、興見てこれを奇とす。驍騎将軍に拝し、奉車都尉を加え、常に軍国の大議に参じ、寵遇勲旧を逾ゆ。興の弟済南公邕、興に言うに「屈丐天性仁ならず、親しみ育つ難し、これを寵する甚だし、臣窃かに惑う」と。興曰く「屈丐は済世の才有り、吾方にその芸用を収め、これを興して共に天下を平らげん、何の不可かあらん」と。乃ち屈丐を安遠将軍と為し、陽川侯に封じ、没弈于を助け高平を鎮めしむ。邑固く諫めて以て不可と為す。興乃ち止む。屈丐を持節・安北将軍・五原公と為し、三交五部の鮮卑二万余落を配し、朔方を鎮めしむ。
道武帝の末、屈丐は没弈于を襲い殺してその衆を併せ、僭って大夏天王と称し、年号を龍升とし、百官を置く。興乃ちこれを悔ゆ。屈丐は鉄弗の姓を恥じ、遂に赫連氏に改む。自ら云うに徽赫天に連なると。又その支庶を鉄伐氏と号し、云うに族剛鋭鉄の如く、皆人を伐つに堪うると。晋の将劉裕、長安を攻む。屈丐聞きて喜びて曰く「姚泓豈に裕を拒ぎ得んや。裕必ずこれを克たん。裕の去りし後を待ち、吾これを取ること遺物を拾うが如からん」と。ここに於いて馬に秣し兵を励まし、士卒を休養す。劉裕の泓を禽うるに及び、子の義真を留めて長安を守らしむ。屈丐これを伐ち、大いに義真を破り、人頭を積みて京観と為し、号して髑髏台と曰う。遂に灞上に於いて僭って皇帝と為り、年号を昌武とし、統万に都を定め、城南に銘を勒し、その功德を頌し、長安を南都と為す。
後昌は弟の定を遣わして司空奚斤と長安において相対峙させた。太武帝は虚を衝いて西征し、君子津を渡り、軽騎三万を率いて倍道兼行した。群臣は皆諫めて言うには、「統萬城は堅固であり、一日で陥落させることはできません。今、軽軍をもってこれを討つのは、進んでも勝てず、退いても拠るべきものがありません。歩兵と攻城兵器を揃えて、一斉に進むに如きはありません」と。帝は言うには、「およそ用兵の術は、城を攻めることが最も下策であり、やむを得ずこれを用いるのである。もし攻城兵器を一斉に進めれば、賊は必ず恐れて堅く守るであろう。もし攻めて時に陥とさなければ、食糧は尽き兵は疲れ、外で掠奪するものもなく、上策ではない。朕は軽騎をもってその城下に至れば、彼らは先に歩軍があると聞いているので、歩兵が騎兵を見て至れば、必ず心に隙ができるであろう。朕はしばらく弱兵を以てこれを誘い、もし一戦を得れば、必ずこれを生け捕りにできる。そうなる所以は、軍士は家を二千里離れ、後には黄河の難がある。いわゆる死地に置いて後に生くというものである。これをもって決戦するには余裕があり、城を攻めるには不足である」と。遂に行軍し、黒水に駐屯し、軍を分けて谷に伏せ、少数の兵をもってその城下に至った。昌の将狄子玉が降伏して来て、言うには、人をやってその弟の定を追わせたが、定は言うには、「城は堅峻で攻め落とすことはできず、奚斤らを生け捕りにしてから、ゆっくりと進み、内外からこれを撃てば、どうして成功しないことがあろうか」と。昌はこれを然りとした。太武帝はこれを憎み、軍を退いて城の北に陣取り、昌に弱さを示し、永昌王健及び娥清らに分かれて騎兵五千を率いさせ、西の方の住民を掠奪させた。時に軍士が罪を負い、昌の城に逃亡し、官軍の食糧が尽き、士卒が野菜を食べ、輜重が後方にあり、歩兵は未だ至らず、これを撃つのが得策であると告げた。昌はその言葉を信じ、衆を率いて城を出、歩騎三万であった。司徒長孫翰らは皆、昌の歩兵の陣は陥とし難いと言い、その鋒を避け、しばらく歩兵を待ち、一斉に奮撃すべきであると言った。帝は言うには、「そうではない。遠く来て賊を求め、その出て来ないことを恐れていた。今避けて撃たなければ、彼は奮い立ち我は弱くなる。計略ではない」と。遂かに軍を収めて偽って敗走し、引き連れてこれを疲れさせた。昌は退却したと思い、鬨の声を上げて前進し、陣を広げて翼の形をなした。五六里進んだ時、帝がこれを突撃したが、賊の陣は動じなかった。少し前進した時、風が起こり、方術官の趙倪が帝に日を改めて待つよう勧めたが、崔浩がこれを叱った。帝は騎兵を左右に分けてこれを挟撃した。帝は馬から落ち、賊が既に迫ったが、帝は馬に躍り乗り、その尚書斛黎文を刺し殺し、騎兵の賊十余人を殺した。流れ矢が帝に当たったが、帝は奮撃を止めなかった。昌の軍は大いに潰走し、城に入ることもできず、上邽に奔り落ちた。遂にその城を陥れた。
初め、屈丐は奢侈で、宮室を造営することを好み、城の高さは十仞、基壇の厚さは三十歩、上部の広さは十歩、宮牆の高さは五仞で、その堅さは刀斧を研ぐことができた。台榭は高大で、飛閣が相連なり、皆彫刻や絵画が施され、綺繡で覆い、丹青で飾られ、文采を極めていた。帝は左右の者を顧みて言うには、「蕞爾たる小国でありながら、人を用いることこのようである。滅亡せざるを得ようか」と。
侍御史安頡が昌を生け捕りにした。帝は侍中古弼に命じて昌を迎えさせ、京師に至らせ、西宮門内に住まわせ、副次的な乗輿を与えた。また詔して昌に始平公主を娶らせ、会稽公を仮授し、秦王に封じたが、謀反を企てた罪で誅殺された。
定は宋と連合し、河北を遥かに分割した。恒山以東は宋に属し、恒山以西は定に属した。太武帝は自ら軽騎を率いて平涼を襲撃した。定は平涼を救援し、方陣を布いて自らを固めた。帝は四面からこれを包囲し、その水と草を断った。定は水を得られず、衆を率いて原を下った。詔して武衛将軍丘眷にこれを撃たせた。定の衆は潰走し、傷を負い、単騎で遁走し、その余衆を率いて西の上邽を守った。神蒨四年、吐谷渾の慕璝に襲撃され、生け捕りにされて京師に送られ、誅殺された。
燕の慕容氏
徒河の慕容廆、字は弈洛瑰、本来は昌黎の出身である。曾祖の莫護跋は、魏の初めに諸部落を率いて遼西に入居し、司馬宣王に従って公孫氏を討ち、率義王に拝され、始めて棘城の北に王府を建てた。祖の木延は、毌丘儉に従って高麗を征伐し功績があり、始めて左賢王の号を賜った。父の涉帰は、勲功により鮮卑単于に進んで拝され、邑を遼東に遷した。涉帰が死ぬと、廆が代わって部落を統領した。遼東が僻遠であることを以て、徒河の青山に遷った。穆帝の世、東部の患いとなった。廆が死ぬと、子の晃が嗣いだ。
慕容暐は字を景茂といい、建熙と号した。暐の政治には綱紀がなかった。神が鄴に降臨し、湘女と称し、声があり、人と交わり、数日して去った。後に苻堅が将軍王猛を遣わして鄴を討ち、暐を捕らえ、新興侯に封じた。道武帝の七年、苻堅は淮南で敗れた。暐の叔父慕容垂は苻堅に叛き、鄴において苻丕を攻めた。暐の弟の済北王慕容泓は先に北地長史となっていたが、垂が鄴を攻めたと聞き、関東に亡走し、華陰に還って屯し、自ら雍州牧・済北王を称した。垂を丞相・大司馬・呉王に推戴した。堅は子の鉅鹿公苻叡を遣わして泓を討たせた。泓の弟の中山王慕容沖は先に平陽太守となっていたが、また河東で兵を起こし、泓のもとに奔った。泓の兵は十万に至り、使者を遣わして堅に告げ、天下を分けて王となることを求めた。堅は大いに怒り、暐を責めた。暐は頭を叩いて流血し謝罪したが、堅は以前のように彼を遇し、暐に命じて書を以て垂及び泓・沖を招かせた。暐は密かに使者を遣わして泓に告げた、「大業を勉めて建てよ、呉王を相国とし、中山王を太宰とし大司馬を領せしめ、汝は大将軍となり司徒を領し、制を承けて封拜せよ。我の死の報せを聞いたならば、汝は直ちに尊位に即け」と。泓は長安に向かって進み、年号を燕興とした。泓の謀臣高蓋・宿勤崇らは、泓の徳望が沖に劣り、かつ法を厳峻に持することを以て、泓を殺し、沖を立てて皇太弟とし、制を承けて事を行い、百官を置いた。阿房に進んで拠った。初め、堅が燕を滅ぼした時、沖の姉の清河公主は十四歳で、殊色あり、堅はこれを納れた。沖は十二歳で、また龍陽の姿あり、堅はまたこれを寵幸した。姉弟は専寵した。長安ではこれを歌った、「一雌また一雄、双飛して紫宮に入る」と。王猛が切に諫めたので、沖を出した。その母が卒すると、燕の皇后の礼を以て葬った。長安ではまた謡った、「鳳皇、鳳皇、阿房に止まる」と。時に鳳皇は梧桐に非ざれば棲まず、竹実に非ざれば食わずとされたので、阿城に梧桐と竹を数千株植え、鳳皇を待った。沖の小字は鳳皇であり、ここに至り、阿城はついに堅の賊となった。暐が入って堅に面会し謝罪し、ついで二子が昨日婚したことを言い、堅が邸に幸することを欲し、堅はこれを許した。暐が出ると、術士の王嘉は言った、「椎蘆を以て蘧蒢を作るも、文章を成さず。天大雨に会い、羊を殺すを得ず」と。暐が堅を殺そうとして果たさないことを言ったのである。堅と群臣は誰も解さなかった。この夜大雨が降り、朝になって果たして出なかった。事が発覚し、堅はついに暐父子及び宗族を誅し、城内の鮮卑は少長男女を問わず皆殺しにした。
沖が敗れると、その左僕射慕容恆は永と潜かに謀り、随を襲って殺し、宜都王の子慕容覬を立てて燕王とし、年号を建明とした。鮮卑の男女三十余万口を率い、乗輿・服御・礼楽・器物を携え、長安を去って東に向かった。永を武衛将軍とした。恆の弟の護軍将軍慕容韜は、陰かに二心あり、覬を誘って臨晋でこれを殺した。恆は怒り、去った。永と武衛将軍刁雲は衆を率いて韜を攻めた。韜は司馬宿勤黎を遣わして逆戦したが、永はこれを捕らえて戮した。韜は懼れ、恆の営に奔った。恆は慕容沖の子慕容望を立てて帝とし、年号を建平と改めた。衆は皆望を去って永に奔り、永は望を捕らえて殺し、慕容泓の子慕容忠を立てて帝とし、年号を建武と改めた。忠は永を太尉とし、尚書令を守らせ、河東公に封じた。東へ聞喜に至り、慕容垂が尊号を称したことを知ると、農事を要することを託して進まず、燕熙城を築いて自らを固めた。刁雲らはまた忠を殺し、永を推して大都督・大将軍・大単于・雍秦梁涼四州牧・河東王とし、垂に蕃として称した。
永は進んで長子に拠り、僭って帝を称し、年号を中興とした。垂が滑台において丁零の翟釗を攻めると、釗は敗れて永に降った。永は釗を車騎大将軍・東郡王とした。歳余りして、永を謀殺しようとし、永はこれを誅した。垂が来て永を攻め、永は敗れ、前駆に捕らえられ、垂は数え上げてこれを戮した。並びに永の公卿以下刁雲・大逸豆帰ら四十余人を斬った。永の統べる新旧の人戸・服御・図書・器楽・珍宝は、垂が悉くこれを獲た。
後に車騎大将軍として枋頭において桓温を破り、威名大いに震い、暐に容れられず、西に奔って苻堅に就いた。堅は甚だこれを重んじ、冠軍将軍に拝し、賓都侯に封じた。堅が淮南で敗れ、垂の軍中に入った。子の宝は垂に勧めてこれを殺させようとしたが、垂は堅が己を遇すること厚きを以て、聴かなかった。洛陽に行き、墓を拝することを求め、堅はこれを許した。遂に兵を起こして鄴において苻丕を攻めた。垂は燕王を称し、百官を置き、年号を燕元とした。
十年、垂はその太子宝を遣わして来寇せしむ。初め宝の来たるや、垂は既に疾あり。五原に到るより、道武はその行路を断ち、父子の間絶ゆ。帝乃ちその行人の辞を詭り、河に臨みて告げて曰く、「汝が父は既に死せり、何ぞ遽かに還らざるや」と。宝兄弟これを聞きて憂怖し、信然と為す。ここにおいて士卒駭動す。初め、宝幽州に至るや、その乗ずる車軸故なくして自ら折る。占工の靳安は大凶と為し、固く還るを勧むるも、宝怒りて従わず。ここに至り、安に問う。安曰く、「速かに去れば免るべし」と。宝愈々恐る。安退きて人に告げて曰く、「今や他郷に死し、屍骸草野に委ね、烏鳶螻蟻の食う所と為り、再び家族を見ること無からん」と。十月、宝船を焼き夜遁す。時に河の氷未だ成らず、宝は帝の度ること能わずと謂い、斥候を設けず。十一月、天暴風寒く、氷合い、帝進軍して河を済み急ぎこれを追う。参合陂の西に至り、靳安宝に言いて曰く、「今日西北風動くは、是れ軍将に至るの応なり、兼行して速かに去るべし、然らずば必ず危し」と。その夜、帝衆軍を部分し、東西掎角の勢いを為す。士卒を約勒し、馬口を束ね、枚を銜みて声無し。昧爽、衆軍斉しく進み、日出でて山に登り、下りてその営に臨む。宝の衆晨に将に東に引かんとし、顧みて軍の至るを見、遂に驚擾す。帝騎を縦して騰躡せしめ、馬は氷上に蹶倒す。宝及び諸父兄弟、軍馬迸散し、僅かに身を以て免る。宝の軍四五万人、一時に仗を放ち、手を斂めて就羈す。その王公文武数千を擒う。垂復た来寇せんと欲す。太史曰く、「太白夕に西方に没し、数日後に東方に見ゆ。此れ躁兵と為し、先に挙ぐる者亡ぶ」と。垂従わず、山を鑿ち道を開き、宝の前に敗れたる所に至り、積骸丘の如きを見、祭を設けてこれを吊う。死者の父兄子弟遂に皆慟哭し、声山川を震わす。垂慚忿して血を嘔い、病を発して還り、上谷に死す。宝僭立す。
盛は字を道運と曰い、宝の長子なり。垂これを封じて長楽公と為し、宝の僭立に及び、爵を進めて王と為す。蘭汗の宝を殺せるや、盛を以て侍中・左光禄大夫と為す。盛乃ち汗の兄弟を間し、相い疑害せしむ。李旱・衛双・劉志・張貞ら皆盛の旧昵、汗の太子穆並びに引きて腹心と為す。盛旱らを結び、汗・穆らの酔いに因り、夜襲いこれを殺す。僭して尊号し、年を建平と改め、また年号を長楽とす。盛改めて庶人大王と称す。盛は宝の暗くして断ぜざるを以て、遂に威刑を峻極にし、ここにおいて上下震局す。前将軍段璣ら夜鼓噪して盛を攻む。これを傷つく。遂に輦にて殿に昇り、叔父河間公熙を召し、後事を属す。熙未だ至らざるに死す。
熙は字を道文と曰い、小字を長生と曰い、垂の少子なり。群臣盛の伯母丁氏と議し、その家多難なるを以て、宜しく長君を立つべしとし、遂に盛の子定を廃し、熙を迎えて立てしむ。熙立ち、定を殺し、年号を光始とす。龍騰苑を築き、苑内に雲山を起こす。また逍遙宮・甘露殿を起こし、連房数百、観閣相交う。天河渠を鑿ち、水を引きて宮に入る。また妻苻氏のために曲光海・清涼池を鑿つ。季夏の盛暑、休息を得ず、暍死する者太半。熙城南に游ぎ、大柳樹の下に止まる。若し人ありて呼びて曰く、「大王且く止まれ」と。熙これを悪み、その樹を伐つ。下に蛇あり長さ丈余。熙尽く宝の諸子を殺し、年を建始と改む。またその妻のために承華殿を起こし、北門に土を負わしむ。土と穀と価を同じくす。典軍杜静、棺を載せて闕に詣り、上書極諫す。熙大怒し、これを斬る。熙の妻季夏に当たり凍魚膾を思い、仲冬に生地黄を須う。切責して得ず、有司に大辟を加う。苻氏死す。熙その屍を擁し僵仆絶息し、久しくして乃ち蘇る。悲号擗踴し、斬衰して粥を食う。大斂の後、復た啓きて交接す。百官に哭臨を制し、沙門に素服せしむ。有司に案検せしめ、泪ある者を忠と為し、泪無き者をこれを罪す。群臣辛さを含みて以て泪と為さざる莫し。葬に及び、熙は髪を被り徒步し、轜車に従い城門を毀ちて出づ。長老相い謂いて曰く、「慕容氏自らその門を毀つ、将に久しからざらん」と。衛中将軍馮跋兄弟、門を閉じて熙を拒ぎ、執いてこれを殺す。夕陽公雲を立てて王と為す。雲は宝の養子なり、復た姓を高氏とし、年号を正始とす。跋また雲を殺し自立す。
雲の立つや、熙の幽州刺史・上庸公慕容懿、遼西を以て帰降す。道武、懿を征東大将軍・平州牧・昌黎王と為す。後に反に坐し誅せらる。
超は字を祖明といい、徳の兄である北海王納の子である。既に僭位し、年号を太上と称した。超が南郊で柴燎を行ったところ、炎は上がったが煙が出ず、霊台令の張光が人に告げて言うには、「今火は盛んであるが煙が消える、国は滅びるであろうか」と。天賜五年、晋の将軍劉裕が超を討伐し、超の将軍公孫五楼は大峴でこれを防ぐよう勧めたが、従わなかった。裕が大峴に入ると、超は臨朐で戦い、裕に敗れた。広固に退き還り、これを包囲された。広固では鬼が夜に泣き、流星が長さ十余丈あり、広固に墜ちた。城は陥落し、裕は超を捕らえた。建康の市に送り斬首した。
後秦の姚氏
姚萇は、字を景茂といい、南安の赤亭の出身で、焼当の後裔である。祖父の柯回は、魏に助けて沓中で姜維を牽制し、功により綏戎校尉・西羌都督を仮授された。父の弋仲は、晋の永嘉の乱の際、東に遷って榆眉に住んだ。劉曜は弋仲を平西将軍・平襄公とした。後に石季龍に従って清河の灄頭に遷り、石勒は弋仲を奮武将軍とし、襄平公に封じた。弋仲が死ぬと、子の襄が代わり、譙城に駐屯した。慕容儁は襄を豫州刺史・丹陽公とし、淮南に駐屯させた。自ら大将軍・大単于を称したが、晋の将軍桓温に敗れ、河東に奔った。後に苻眉に殺された。
弋仲には四十二人の子があり、萇はその二十四番目である。兄の襄に従って征伐し、襄は大いにこれを奇とした。襄が敗れると、苻堅に降った。堅に従って征伐し、頻りに功があった。堅が晋を伐つ際、萇を龍驤将軍とし、益梁州諸軍事を督させ、萇に言うには、「朕はもと龍驤をもって業を建てた。龍驤の号は初め人に仮さなかったが、今特に卿に授ける。山南のことは、一切卿に委ねる」と。堅の左将軍竇中が進み出て言うには、「王者に戯言はなく、これもまた不吉な兆候です。どうか陛下はご明察ください」と。堅は黙然とした。慕容泓が華沢で兵を起こすと、堅は子の衛大将軍睿を派遣してこれを討たせたが、戦いに敗れ、泓に殺された。この時、萇は睿の司馬であったが、罪を恐れて馬牧に奔った。衆一万余を集め、自ら大将軍・大単于・万年秦王を称し、年号を白雀とした。数ヶ月のうちに、衆は十万余に至った。慕容沖と連合し、進んで北地に駐屯した。苻堅が五将山に出ると、萇はこれを捕らえて殺した。
北燕の馮氏
馮跋は、字を文起といい、小字を乞直代といい、本来は長楽信都の出身である。慕容永が長子で僭号した時、跋の父の安を将とした。永が慕容垂に滅ぼされると、安は東に遷って昌黎に至り、長穀に家し、遂に夷俗に同化した。
弘が遼東に至ると、高句麗は使者を遣わして労い、言った。「龍城王馮君、野次に赴かれたが、士馬はお疲れではあるまいか。」弘は恥じ怒り、制を称して譲り責めた。高句麗は彼を平郭に住まわせ、まもなく北豊に移した。弘は平素から高句麗を侮り、政刑賞罰は、なお自らの国の如くであった。高句麗はその侍人を奪い、王仁を人質とした。弘はこれを憤り怨み、逃亡しようと謀った。太武帝はまた高句麗に弘を引き渡すよう求めた。(高句麗は)遂に彼を北豊で殺し、子孫同時に死んだ者は十余人であった。弘の子朗・邈。朗の子熙は、『外戚伝』にある。
西秦の乞伏氏
乞伏国仁は、隴西の人である。その先祖の如弗は、漠北より南に出た。五世の祖の佑鄰は、諸部を併合し、衆次第に盛んとなった。父の司繁は、部落を擁して苻堅に降り、堅は彼を南単于とし、また鎮西將軍に拝し、勇士川に鎮守させた。司繁が死ぬと、国仁が將軍となった。堅が敗れると、国仁の叔父の歩頹が隴右で叛いた。堅は国仁にこれを討たせたが、歩頹は大いに喜び、迎えて推戴し、部衆は十万余となった。道武帝の時、私的に大都督・大將軍・大単于・秦河二州牧を称し、年号を建義とし、官属を置いた。分国内を十一郡とし、勇士城を築いてこれに都した。
国仁が死ぬと、弟の乾帰が事を統べ、自ら大都督・大將軍・大単于・河南王を称し、年号を太初と改め、百官を置いた。登国年間、金城に遷った。城門が自ら壊れたので、乾帰はこれを嫌い、苑川に遷った。まもなく姚興に撃破され、また枹罕に奔り、遂に姚興に降った。河州刺史に拝され、帰義侯に封ぜられた。まもなく苑川に還された。乾帰は姚興に背き、私的に秦王を称し、百官を置き、年号を更始とした。使者を遣わして援軍を請うと、明元帝はこれを許した。五溪で狩りをしていると、梟がその手に集まった。まもなくその兄の子の公府に殺された。
子の熾盤が公府を殺し、代わって任を統べた。熾盤は自ら大將軍・河南王を称し、年号を永康と改めた。後に楽都で禿髮傉檀を襲撃し、これを滅ぼすと、私的に秦王を称し、百官を置き、年号を建弘と改めた。後にその尚書郎の莫者胡・積射將軍の乞伏又寅を遣わして金二百斤を貢ぎ、赫連昌を討つことを請うと、太武帝はこれを許した。統万が平定されると、熾盤はその叔父の平遠將軍泥頭・弟の安遠將軍安度を京師に人質として遣わした。またその中書侍郎王愷・丞相從事中郎烏訥闐を使者として表を奉り、その方物を貢がせた。熾盤が死ぬと、子の慕末が任を統べた。
慕末は字を安石跋という。即位すると、年号を永弘と改めた。その尚書隴西の辛進はかつて熾盤に従って後園を遊んだことがあり、進が鳥を弾いた際、弾丸が誤って慕末の母の顔面を傷つけた。この時に至り、進の五族二十七人を誅殺した。慕末の弟の殊羅が熾盤の左夫人禿髮氏と密通したので、慕末は知ってこれを禁じた。殊羅は叔父の什夤と謀って慕末を殺し、禿髮氏に門の鍵を盗ませた。鍵が合わず、門は開かなかった。門番が告げたので、慕末はその一味を捕らえ、ことごとく殺した。什夤を鞭打とうとすると、什夤は言った。「私は汝に死を負うとも、汝の鞭には負わない。」慕末は怒り、その腹を割き、屍を河に投げた。什夤の同母弟の白養及び去列は、頗る怒りの言葉があり、また彼らを殺した。政刑は残酷で濫り、内外崩壊離散し、部人は多く叛いた。
その後、赫連定に追い詰められ、王愷・烏訥闐を遣わして太武帝に迎えを請うた。太武帝は安定以西、平涼以東を封ずることを許諾した。慕末は城邑を焼き、宝器を毀ち、一万五千戸を率いて高田穀に至った。赫連定に拒まれたため、遂に南安を保った。太武帝は軍を遣わして迎えようとしたが、慕末の衛将軍吉毗が固く諫めて内徙すべからずとし、慕末はこれに従った。赫連定はその北平公韋代に命じて一万の兵を率い南安を攻撃させた。城内は大いに飢え、人々は互いに食らった。神蒨四年、慕末及び宗族五百余人が出降し、上邽に送られ、遂に定に滅ぼされた。
北涼の沮渠氏
大沮渠蒙遜は、本来張掖郡臨松県の盧水の人である。匈奴には左沮渠という官があり、蒙遜の先祖がこの職に就いていた。羌の酋豪を大と称したので、官を氏とし、大を冠したのである。代々盧水に住み酋豪となった。遜の高祖暉仲帰・曾祖遮は、皆雄健で勇名があった。祖の祁復延は伏地王に封ぜられた。父の法弘は爵を襲い、苻氏によって中田護軍とされた。
太延五年、太武帝は尚書賀羅を遣わして涼州に使いせしめ、且つ虚実を観察せしむ。帝は牧犍が藩を称し貢を致すと雖も、内に多く乖悖有りと為し、ここに親征す。詔して公卿に書を作らしめて之を譲り、其の罪十二を数う。官軍河を済すや、牧犍曰く「何の故か爾るや」と。其の左丞姚定国の計を用い、出迎を肯ぜず、蠕蠕に求救す。大将董来を遣わし万余人を率いて軍を城南に拒ぎ、戦いて退く。車駕姑臧に至り、使を遣わし牧犍を諭して出でしむ。牧犍、蠕蠕の善無を内侵するを聞き、幸いに車駕の返旆を冀い、遂に城を嬰いて自守す。牧犍の兄の子祖、城を逾えて出で降り、情を具に知る。太武帝乃ち諸軍を引きて進攻し、牧犍の兄の子万年、麾下を率いて又た来たり降る。城抜かるるや、牧犍は左右の文武と面縛して罪を請う。詔して其の縛を解く。涼州の人三万余家を京師に徙す。初め、太延中、一老父有りて敦煌城東門に書を投じ、忽然として見えず。其の書の紙に八字有り、文に曰く「涼王三十年、若し七年」と。又た震電の所に得たる石に、丹書して曰く「河西、河西、三十年。帯石を破り、七年を楽しむ」と。帯石は青山の名にて、姑臧の南に在り。山の祀の傍、泥に陥ちて通ぜず、牧犍の征南大将軍董来曰く「祀豈に知ること有らんや」と。遂に祀を毀ち木を伐り、道を通して行く。牧犍立つこと、果たして七年にして滅ぶ。初め、牧犍は嫂李氏を淫し、兄弟三人伝えに之を嬖す。李は牧犍の姉と共に公主を毒す。上、医を遣わし伝に乗じて公主を救わしめ、愈ゆるを得たり。上、李氏を徴すと、牧犍は遣わさず、厚く送りて酒泉に居らしむ。上大いに怒り、既に克つも、猶ほ妹婿を以て之を待つ。其の母死すや、王太妃の礼を以て葬る。又た蒙遜の為に守塚三十家を置き、牧犍に征西大将軍を授け、王は故の如し。初め、官軍未だ入らざる間に、牧犍は人を使わし府庫を斫ち開き、金銀珠玉及び珍奇の器物を取り、更に封閉せず、百姓之に因りて入り盗み、巨細蕩然として尽くす。有司賊を求めて得ず。真君八年、其の親しむ人及び蔵を守る者之を告ぐ。乃ち事を窮竟し、其の家中を捜索し、番々に蔵する所の器物を得たり。又た告ぐ、牧犍父子多く毒薬を畜え、前後隠窃に人を殺すこと、乃ち百数有り、姉妹皆左道を為し、朋行淫佚して、曾て愧色無しと。始め罽賓の沙門曇無讖と曰う者、東に鄯善に入り、自ら云う、鬼を使い病を療し、婦人をして多く子を得しむることを能うと。鄯善王の妹曼頭陀林と淫通し、発覚して、亡奔して涼州に至る。蒙遜之を寵し、聖人と号す。曇無讖は男女交接の術を以て婦女に教授し、蒙遜の諸女・子婦、皆往きて法を受く。太武帝、諸の行人の言う曇無讖の術を聞き、乃ち之を召す。蒙遜遣わさず、遂に其の事を発露し、拷訊して之を殺す。此に至り、帝之を知り、ここに昭儀沮渠氏に死を賜い、其の宗族を誅す。唯万年及び祖は以前先だって降りたるを以て、免るるを得たり。是の年、人又た告ぐ、牧犍猶ほ故臣と交通し謀反すと。詔して司徒崔浩をして公主の第に就きて牧犍に死を賜わしむ。主と決すること良久くして、乃ち自裁す。王礼を以て葬り、諡して哀王と曰う。及び公主薨ずるや、詔して牧犍と合葬せしむ。公主男無く、女有り、国甥を以て母の爵を襲い武威公主と為る。
蒙遜の子季義、位は東雍州刺史。真君中、河東の薛安都と謀逆し、京師に召し至り、其の兄弟に付して扼殺せしむ。万年、祖並びに先だって降りたるを以て、万年は張掖王に拝せられ、祖は広武公と為る。後に謀逆に坐し、俱に死す。
梁の蕭氏
この年、梁の元帝は柳仲礼に襄陽を攻め取らせようとしたので、蕭詧は妃の王氏と世子の蕭嶚を人質として送り、救援を請うた。周の文帝は栄権に返答の使命を与え、引き続き開府の楊忠を援軍として派遣した。十六年、楊忠は柳仲礼を捕らえ、漢東を平定した。西魏は蕭詧に発喪して後を継ぎ即位するよう命じ、仮の散騎常侍の鄭孝穆と栄権を使者として、蕭詧を梁王に策命した。蕭詧はそこで襄陽に百官を置き、制を承って封爵・任命を行った。十七年、尚書僕射の蔡大寶を留めて雍州を守らせ、自らは京師(長安)に朝見した。周の文帝は蕭詧に言った。「王がここに来られたのは、かなり栄権によるものである。」そこで栄権を召し出して会わせ、言った。「栄権は士を起こした者である。寡人は彼と事を共にしているが、未だ一度も信を失うところを見たことがない。」蕭詧は言った。「栄権は常に二国の言葉に私心がないと申しておりましたので、蕭詧は今、魏の朝廷に誠を帰すことができたのです。」
蕭詧は若い時から大志を持ち、小さな節義に拘らず、猜疑心は多かったが、人を知り善く任用し、将士を慰撫して恩を施し、その死力を得ることができた。性来酒を飲まず、倹素に安んじていた。母に仕えることは孝行として知られていた。また、音楽や女色を好まず、特に婦人を見ることを嫌い、数歩離れていても、はるかにその臭いを嗅ぐと言った。婦人の衣服を着用した後は、二度と着ず、全て棄てた。一度寵姫を幸いすると、病に臥せって数十日を要した。また、人の髪を見ることを嫌い、報告する者は必ず便宜を図って避けさせ、輿を担ぐ者は、冬は必ず頭を包み、夏は蓮の葉の帽子を被らせた。東揚州にいた時は、かなり放縦で、簿領を閲覧する際、戯れの言葉を好み、これによって世に嘲笑された。江陵が平定された後、宿将の尹徳毅が蕭詧に言った。「臣は聞きます。君主の行いは、匹夫とは異なると。匹夫は、小さな行いを飾り、小さな廉潔を競い、名誉を取ります。君主は、天下を定め、社稷を安んじ、大功を成します。今、魏の虜(西魏軍)は貪婪で、弔伐の義を顧みず、士人や庶民を捕虜とし、皆軍の実(戦利品・奴隷)としています。しかし、このような者たちの親族は皆、江東にいます。はるかなる人々に、戸毎に説いて回ることができるでしょうか。既に塗炭の苦しみをここまで味わい、皆、殿下がこれを為したと言っています。殿下は既に人の父兄を殺し、人の子弟を孤児にし、人は皆仇敵です。それでは誰と国を為すことができましょうか。ただ、魏の精鋭は全てここに集結しており、師を労う礼には、先例がないわけではありません。もし殿下が宴会を設け、固く于謹らを招いて歓を尽くせば、彼らは我々を疑わず、相率いて来るでしょう。あらかじめ武士を伏せておき、その機に乗じて彼らを斃すのです。江陵の百姓は、慰撫して安んじ、文武の官僚は、直ちに選任して官職を与えます。魏人は恐れて息をひそめ、死を送ることを敢えてしないでしょう。王僧辯の徒は、書簡を送れば招くことができます。その後、朝服を着て江を渡り、皇極に入り践祚し、堯の業を継ぎ禹の道を復するならば、万世に一度の機会です。」蕭詧は尹徳毅に言った。「卿のこの策は善くないわけではない。しかし、魏人は我を厚く遇しており、その徳に背くことはできない。もし急に卿の計を用いれば、鄧祁侯の言う『人将不食吾餘(人々は私の残り物さえ食べなくなるだろう)』ということになる。」その後、城の老若全てが捕虜として関中に連行され、また襄陽の地を失った。蕭詧は悔やみ、言った。「徳毅の言葉を用いなかったために、ここまでなったのだ!」また、邑居が破壊され、戦乱が日常的に起こるのを見て、その威略が振るわないことを恥じ、常に憂憤を抱き、そこで『湣時賦』を著して志を表した。平素から快からず、毎度「老馬伏櫪,志在千里。烈士暮年,壯心不已(老いた馬は槽に伏すも、志は千里にあり。烈士は暮年にあっても、壮心やまず)」と誦するたびに、眉を上げて目を見開き、腕を扼んで長く嘆息した。ついに憂憤のために背中に癰ができて死んだ。
蕭詧は文義を深く愛好し、著した文集十五巻、仏典に関する『華厳』・『般若』・『法華』・『金光明』の義疏三十六巻は、共に世に行われた。武帝(宇文邕)はまたその太子の蕭巋に命じて位を継がせ、年号を天保とした。
五年、陳の湘州刺史華皎と巴州刺史戴僧朔がともに来附した。華皎はその子の玄響を蕭巋のもとに人質として送り、兵を請うて陳を伐とうとした。蕭巋はその状況を上奏した。武帝は詔して衛公宇文直に荊州総管権景宣と大将軍元定らを督して赴かせた。蕭巋もまたその柱国王操に水軍二万を率いさせ、巴陵で華皎と合流させた。やがて陳の将軍呉明徹らと沌口で戦い、宇文直の軍は不利となり、元定はついに没し、蕭巋の大将軍李広らもまた陳の人に捕虜とされ、長沙・巴陵はともに陳に陥落した。衛公宇文直はその罪を蕭巋の柱国殷亮に帰した。蕭巋は敗退が殷亮一人の罪ではないと考えたが、命に背くことはできず、ついに彼を誅した。呉明徹は勝ちに乗じて蕭巋の河東郡を攻め落とし、その守将許孝敬を捕らえた。翌年、明徹は進んで江陵を侵し、江水を引いて城を灌漑した。蕭巋は出て紀南に駐屯し、その鋭鋒を避けた。江陵副総管高琳とその尚書僕射王操が防ぎ守った。蕭巋の馬軍主馬武・吉徹らが明徹を撃ち、明徹は退いて公安を守り、蕭巋は江陵に還った。蕭巋の八年、陳はまたその司空章昭達を遣わして来寇し、江陵総管陸騰と蕭巋の将士がこれを撃退した。昭達はまた竟陵の青泥を寇し、蕭巋はその大将軍許世武に赴援させたが、大いに昭達に破られた。
初め、華皎と戴僧朔は衛公宇文直に従って陳の人と戦って敗れ、その麾下数百人を率いて蕭巋に帰した。蕭巋は華皎を司空とし、江夏郡公に封じ、僧朔を車騎将軍とし、呉興県侯に封じた。蕭巋の十年、華皎が来朝しようとし、襄陽に至り、衛公宇文直に請うて言った、「梁主はすでに江南の諸郡を失い、民少なく国貧しい。朝廷が亡びた国を継ぎ絶えた者を興すにあたり、理に照らして資給すべきである。どうして斉桓公・楚荘王のみに衛を救い陳を復す美事を独占させようか。数州をお借りして、梁国を補益したいと望む」。宇文直はこれをよしとし、使者を遣わして状況を言上した。帝はこれを許し、詔して基・平・鄀の三州を蕭巋に帰属させた。
蕭巋は孝悌慈仁で、人君の度量があった。四時の祭祀供養には、悲しみ慕って涙を流さないことはなかった。性質は特に倹約で、下を統御するに方策があり、境内は安らかであった。著した文集および『孝経』『周易義記』『大小乗幽微』は、ともに世に行われた。文帝はまたその太子蕭琮に命じて位を嗣がせた。
蕭琮は煬帝が位を継ぐに至り、甚だ親重され、内史令に拝され、梁公に改封された。蕭琮の宗族は、緦麻以上の親族まで、皆才能に従って抜擢任用され、ここにおいて諸蕭の兄弟は、朝廷に布列した。蕭琮は性淡雅にして、職務を以て自ら煩わさず、退朝すればただ酒を縦にするのみであった。内史令楊約は蕭琮と同列にあり、帝は楊約に命じて旨を宣べさせ戒め励ました。楊約はまた私情を以て諭したが、蕭琮は言う、「蕭琮がもしまた事々しく振る舞うならば、公と何の異なることがあろうか」と。楊約は笑って退いた。楊約の兄楊素は当時尚書令であり、蕭琮が従父妹を鉗耳氏に嫁がせるのを見て、言う、「公は帝王の族なり、何ぞ妹を鉗耳氏に適せしむるや」と。蕭琮は言う、「前に既に妹を侯莫陳氏に嫁がせた、これまた何を疑わん」と。楊素は言う、「鉗耳は羌なり、侯莫陳は虜なり、どうして比べられようか」と。蕭琮は言う、「羌を以て虜と異なるとするは、未だ前に聞かず」と。楊素は慚じて止んだ。蕭琮は羈旅の身ながらも、北の間の豪貴を見て、降り下ること無かった。常に賀若弼と深く友とし、賀若弼が誅された後、また童謡に「蕭蕭また復た起つ」とあり、帝はこれにより彼を忌み、遂に家に廃した。卒し、左光禄大夫を贈られた。
子の蕭鉉は、襄城通守の位に至る。また蕭琮の弟の子蕭钜を梁公とした。蕭钜の小名は蔵といい、煬帝は甚だ彼に昵し、千牛とした。宇文皛と共に宮掖に出入りし、内外を伺察した。帝が遊宴する毎に、蕭钜は従わないことは無かった。遂に宮中において、多く淫穢の行いを行った。江都の変に、宇文化及に殺された。
蕭詧の子、蕭{山愰}は、孝恵太子と追諡された。蕭岩は安平王に封ぜられ、蕭岌は東平王に封ぜられ、蕭岑は河間王に封ぜられ、後に呉郡王に改封された。蕭琮の弟、蕭瓛は義興王、蕭曁彖は晋陵王、蕭璟は臨海王、蕭珣は南海王、蕭瑒は義安王、蕭瑀は新安王である。
蔡大寶を股肱とし、王操を腹心とし、魏益徳・尹正・薛暉・許孝敬・薛宣を爪牙とし、甄玄成・劉盈・岑善方・傅淮・褚珪・蔡大業に衆務を典掌させ、張綰を旧歯として顕位に処し、沈重を儒学を以て厚礼を蒙らせた。その他多くを奨励抜擢し、皆その器能を尽くさせた。蕭巋が業を継ぐに及んで、親賢を並び用いた。将相は華皎・殷亮・劉忠義、宗室は蕭欣・蕭翼、人望は蕭確・謝温・柳洋・王湜・徐岳、外戚は王洋・王誦・殷璉、文章は劉孝勝・范迪・沈君遊・君公・柳信言、政事は袁敞・柳庄・蔡延寿・甄詡・皇甫茲である。故にその疆土を保ちてその人を和することができた。今、蕭詧の子蕭{山愰}ら及び蔡大宝以下特に著名なる者を載せ、左に附す。梁・陳・隋に既に伝があり、及び蕭巋の諸子で職に任じざる者は、兼ねて録さない。
蕭{山愰}は字を道遠といい、蕭詧の長子である。母は宣静皇后という。蕭詧が梁王たる時、世子に立てられた。まもなく病没した。蕭詧が帝を称するに及び、追諡された。
蕭璟は隋に仕え、尚衣奉御となった。蕭瑒は衛尉卿・秘書監・陶丘侯となった。蕭瑀は内史侍郎・河池太守となった。
蔡大寶は、字を敬位といい、済陽考城の人である。祖父の蔡履は、斉の尚書祠部郎であった。父の蔡点は、梁の尚書儀曹郎・南兗州別駕であった。
蔡大宝は性厳整にして、智謀有り、雅に政事に達し、文辞贍速であった。蕭詧の章表・書記・教令・詔冊は、並びに蔡大宝が専らこれを掌った。蕭詧は推心して委任し、謀主と為した。時に人は蕭詧の蔡大宝有るは、猶劉先主の孔明有るが如しと為した。著す所の文集三十巻及び『尚書義疏』は、並びに世に行われる。
四人の子有り。次子の蔡延寿は器識有り、経籍に博く渉り、尤も当世の務に善かった。蕭詧の女宣城公主を尚み、中書郎・尚書右丞・吏部郎・御史中丞を歴任した。蕭琮に従い隋に入る。開府儀同三司・秘書丞を授けられた。成州刺史に終わる。
蔡大宝の弟蔡大業は、字を敬道という。至行有り、散騎常侍・衛尉卿・都官尚書・太常卿の位に至った。卒し、金紫光禄大夫を贈られ、諡して簡といった。五人の子有り、蔡允恭最も知名。太子舎人の位に至る。梁滅びて陳に入り、尚書庫部郎と為る。陳滅びて隋に仕え、起居舎人と為る。
王操は、字を子高といい、その先祖は太原の晉陽の人であり、蕭詧の母龔氏の従弟である。性質は篤実で、謀略に長けていた。初め蕭詧の外兵参軍となり、信任は蔡大寶に次いだ。蕭詧が帝を称すると、五兵尚書・郢州刺史を歴任し、柱国に進み、新康県侯に封ぜられた。蕭巋が位を嗣ぐと、鎮右将軍・尚書僕射を授けられた。呉明徹が侵寇した時、蕭巋は紀南に出て駐屯し、王操は将士を慰撫したので、命に従わぬ者はなかった。明徹が退くと、江陵は全きを得たが、これは王操の力によるものであった。侍中・中衛将軍・尚書令・開府儀同三司に遷り、荊州刺史を兼ねた。王操は朝廷の上位に位置したが、常に自らを抑え損なうことなく、当時の称賛を深く得た。死去すると、蕭巋は朝堂で哀悼の礼を挙げ、涙を流して言った、「天は我に江表を平定掃蕩させず、何ぞ我が賢相を奪うことの速きや」と。葬儀の際には、自ら瓦官門で祖道の礼を行った。司空を追贈され、爵位は公に進み、諡して康節といった。
七人の子があり、次子の王衡が最も名を知られた。才学があり、中書・黄門侍郎の位に至った。
魏益徳は、襄陽の人である。才幹があり、胆力勇気は人に優れていた。蕭詧が帝を称すると、柱国に進み、上黄県侯に封ぜられた。死去すると、司空を追贈され、諡して忠壮といい、爵位は公に進んだ。蕭巋の五年、益徳を蕭詧の廟に配祀した。
尹正は、その先祖は天水の人である。蕭詧が雍州に臨むと、正はその府の中兵参軍となった。張纘を捕らえ、杜岸を獲たのは、皆、尹正の力によるものであった。蕭詧が帝を称すると、護軍将軍に任じられ、柱国の位に至り、新野県侯に封ぜられた。死去すると、開府儀同三司を追贈され、諡して剛といった。蕭巋の五年、尹正を蕭詧の廟に配祀した。
子の徳毅は、権謀術策に長け、大将軍の位に至った。後に疑いを受けて死を賜った。
甄玄成は、字を敬平といい、中山の人である。経史に博通し、文章をよくした。若くして簡文帝に知られた。録事参軍として蕭詧に従い襄陽に鎮し、中記室参軍に転じ、政事に多く参与した。江陵の兵力が盛んなのを見て、二心を抱き、密かに書を元帝に送り、誠意を詳しく述べた。ある者がその書を手に入れ、蕭詧に送った。蕭詧は深く仏法を信じ、常に『法華経』を誦する者を殺さぬことを願っていた。玄成は平素より『法華経』を誦していたので、これによって罪を免れた。蕭詧が後に彼に会うと、常に言った、「甄公は『法華経』の力によく助けられた」と。後に吏部尚書の位に至り、文集二十巻があった。
子の詡は、若くして沈着聡明で、政事に習熟していた。中書舎人・尚書右丞を歴任した。蕭琮に従って隋に入り、開府儀同三司を授けられ、太府少卿の任で終わった。
七人の子があり、皆、操行があった。之元・之利・之象が最も名を知られた。之元は太子舎人となり、早世した。之利は隋に仕え、零陵郡丞の位に至った。之象は隋に仕え、尚書虞部員外侍郎、邵陵・上宜・渭南・邯鄲の四県令となった。
宗如周は、南陽の人である。才学があり、府の僚属として蕭詧に従い、後に度支尚書に至った。如周の顔は細長く、蕭詧は『法華経』に「経を聞き随喜すれば、面、狭長ならず」とあるのをもじり、かつて戯れて言った、「卿は何ぞ経を誹謗するや」と。如周は恐縮して、自ら誹謗していないと陳べた。蕭詧がまた初めと同じことを言うと、如周は恐れ、出て蔡大寶に告げた。大寶はその趣旨を知り、笑って言った、「君は他の経典は誹謗せず、ただ『法華経』を信じないだけだろう」と。如周はようやく悟った。またかつて如周に訴え事をする者がおり、彼を経由して如州の官に取り次ぐものと思い、言った、「某に冤屈滞結あり、故に如州の官に訴え来たる」と。如周は言った、「汝は何たる小人ぞ、敢えて我が名を呼ぶか」と。その人は恥じ謝って言った、「ただ如周の官が如州に取り次ぐと言ったまでで、如州の官の名が如周とは知りませんでした。早く如州の官の名が如周と知っていれば、如周の官を如州と呼びはしませんでした」と。如周は笑って言った、「卿に自ら責めさせたが、かえって侮りが深くなった」と。衆人は皆、その寛大高雅に敬服した。
袁敞は、陳郡の人である。祖父の昂は司空、父の士俊は安成内史であった。敞は若くして識見度量があり、文史に広く渉猟した。吏部郎として周に使いした。当時、主事の者が敞の班位を陳の使者の後にしたので、敞は固より命に従わず言った、「昔、陳の祖父(陳霸先)は、梁の諸侯の下吏に過ぎず、江東を盗み取りし。今、周朝は万国を宗とし、礼をもって遠近を招き携える。もし梁の行人の班位を陳の後にせんか、則ち恐らく彝倫(秩序)を失するに至らん。これ豈に使臣の望むところならんや」と。主事の者は屈することができず、遂にその状を奏上した。周の武帝はこれを善しとし、詔して敞と陳の使者とを異なる日に進謁させた。使いから戻り、上意に適ったので、侍中に遷った。左戸尚書に転じた。蕭琮に従って隋に入り、開府儀同三司を授けられた。譙州刺史の任で終わった。
【論】
論じて曰く、金行(晋)の運が否み、中原に喪乱ありて以来、元氏(北魏)は唯天の命を受けて、漸く統一回復せんとす。鉄弗(赫連氏)・徒何(慕容氏)の輩は、行録(正統)の帰する所に非ざるも、その遞割拠するを観れば、亦た一時の傑なり。然れども卒に夷滅に至るは、魏の為に駆除する者と謂うべし。梁主(蕭詧)は術を任じ謀を好み、賢を愛し士を養い、蓋し英雄の志、霸王の略有り。淮海版蕩(動乱)に及び、骨肉猜貳(疑い)し、衆を擁して自ら固め、藩を称して内に款を通ずるも、終に全楚を据え有し、頽運を中興す。士宇(領土)は旧邦に異なるも、位号は曩日に同じし。その自ら遠きより来るを眙れば、国を享くること短きも、賢なりと謂わざるべけんや。嗣子(蕭巋)は業を纂ぎ、遣構(先人の遺業)を増修し、賞罰は衷を得、挙措は方(道)有り。寇讎に密邇すれば、則ち威略具に挙がり、上国に朝宗すれば、則ち声猷遠く振るう。これ豈に継世の令主に非ずや。蕭琮は大いに其の邦を去り、因って反らず、遂に外戚となる。自ら持する事なく、蓋し亦た満を守るの道なり。