北史

卷八十三 列傳第七十一 文苑

『易経』に曰く、「天文を観て以て時の変を察し、人文を観て以て天下を化成す」と。されば文の用いられること、その大なるかな!遠く三古に聴き、百代を彌綸す。若し『墳』・『素』の紀する所に至っては、云うを得ず。『典』・『謨』已降、遺風述ぶ可し。礼楽を制し作るに至り、実を騰せ声を飛ばすは、善いかな。言うに文あらずんば、行なうこと豈に遠からんや。ここを以て曲阜の多才多藝は、二代を監みて以て其の源を正し、闕里の性と天道は、『六経』を修めて以て其の末を維ぐ。用いて能く神を窮め化を知り、千古に首と称せられ、邦を経め俗を緯むること、百代に用を蔵す。至れるかな、これ固より聖人の述作なり。両周に逮びて道喪え、七十の義乖く。淹中・稷下、八儒・三墨の異、漆園・黍穀、名・法・兵・農の別、雅誥の奥義と雖も、或いは未だ尽く善からずと雖ども、其の遺跡を考うるに、亦た賢達の流れか。其の讒を離れ放逐せられたる臣、塗窮れて後門の士、道軻に感ずるも未だ遇わず、志鬱抑して申さず。憤激委約の中に、文を魏闕の下に飛ばし、泥滓に奮迅し、自ら青雲に致り、沈溺を一朝に振い、風声を千載に流す者、往々にして有り。

漢は孝武の後より、雅に斯の文を尚び、葩を揚げ藻を振う者林の如く、而して二馬・王・楊之が傑と為る。東京の朝、茲の道逾いに扇がれ、徴を咀み商を含む者市を成し、而して班・傅・張・蔡之が雄と為る。当塗受命し、尤も蟲篆を好む。金行勃興し、前烈を替えず。曹・王・陳・阮は宏衍の思を負い、棟幹を鄧林に挺で、潘・陸・張・左は侈麗の才を擅にし、羽儀を鳳穴に飾る。斯れ並びに当世を高視し、孔門に連衡す。時運推移し、質文屡変すと雖ども、譬えば猶お六代並び奏するが如く、俗を易うるの用爽わず、九源競い逐うも、一致の理同じく帰す。歴に前英を選ぶに、斯れに於いて盛んなり。既にして中州板蕩し、戎狄交侵し、僭偽相属し、生靈塗炭す。故に文章黜かる。其れ能く戦争の間に潜思し、鋒鏑の下に翰を揮うも、亦た時に因りて間出す。若し乃ち魯徴・杜広・徐光・尹弼の儔は、二趙に知名たり。宋 おさ ・封弈・硃彤・梁讜の属は、燕・秦に見重かる。然れども皆倉卒に迫られ、戦陣に牽かれ、章奏符檄は則ち粲然として観る可く、物を体し情に縁るは則ち寂寥として世に於いてす。其の才に優劣有るに非ず、時運然りなり。朔方の地に至りては、蕞爾たる夷俗、胡義周の国都を頌するは、足りて宏麗と称す可し。区区たる河右にして、学者中原に埒し、劉延明の酒泉を銘するは、清典と謂う可し。子曰く、「十室の邑、必ず忠信有り」と。豈に徒言ならんや。

洎て魏有り、沙朔に鼎を定む。南は河・淮を包み、西は関・隴を吞む。当時の士、許謙・崔宏・宏の子浩・高允・高閭・遊雅等有り、先後の間に、声実俱に茂り、詞義典正にして、永嘉の遺烈有り。太和の運に及び、情を鋭く文学にし、固より漢徹に頡頏し、曹丕を跨躡し、気韻高遠、豔藻独り構う。衣冠仰ぎ止み、咸く新風を慕い、律調頗る殊なり、曲度遂に改まる。辞は泉源に罕く、言は多く胸臆、古を潤し今を雕るも、遇わざる所有り。是の故に雅言麗則の奇、綺合繡聯の美、歳年を眇曆すれども、未だ独得を聞かず。既にして陳郡袁翻・河内常景、晩く疇類を抜き、稍々其の風を革む。明皇曆に禦するに及び、文雅大いに盛ん、学者牛毛の如く、成る者麟角の如し。孔子曰く、「才難し」と。其れ然らざらんや?時に陳郡袁翻・翻の弟躍・河東裴敬憲・弟莊伯・莊伯の族弟伯茂・范陽盧観・弟仲宣・頓丘李諧・勃海高肅・河間邢臧・趙国李騫、瓊瑤を雕琢し、杞梓を刻削し、並びに龍光と為り、俱に鴻翼と称せらる。楽安孫彥挙・済陰溫子升、並びに孤寒より自り、鬱然として特起す。咸く能く繁縟を綜采し、清華を興属す。建安の徐・陳・応・劉に比し、元元の潘・張・左・束に、各一時なり。

斉は自ら霸業雲の如く啓き、広く髦俊を延べ、四門を開きて以て之を賓し、八紘を頓えて以て之を掩う。鄴都の下、煙霏霧集す。河間邢子才・钜鹿魏伯起・范陽盧元明・钜鹿魏季景・清河崔長儒・河間邢子明・范陽祖孝徵・中山杜輔玄・北平陽子烈並びに其の流なり。復た范陽祖鴻勳有り、亦た文士の列に参ず。天保の中に及び、李愔・陸仰・崔瞻・陸元規並びに中書に在り、綸誥を参掌す。其の李広・樊遜・李德林・盧詢祖・盧思道始めて文章を以て著名す。皇建の朝、常侍王 けい 独り其の美を擅にす。河清・天統の辰、杜台卿・劉逖・魏騫亦た詔敕に参ず。李愔已下より、省に在りては唯だ除官詔旨を撰述し、其の軍国に關涉する文翰は、多くは魏收之を作る。武平に及び、李若・荀士遜・李德林・薛道衡並びに中書侍郎と為り、綸綍を典司す。

後主は群小に溺れてはいたが、詩を詠むことを好み、幼少時に詩賦を読んで人に語ったことがある、「いつかはこれを解する道理がわかるようになるだろうか」と。初めは屏風の絵画に因み、通直郎蕭放及び しん 陵王孝式に命じて、古の賢人烈士及び近代の軽艶な諸詩を書き写させて図画に充てたところ、帝はますますこれを重んじた。後にさらに齊州錄事參軍蕭愨、趙州功曹參軍顏之推を追ってともに撰錄に入らせ、なおも霸朝(北斉)に依って、これを館客と称した。蕭放及び顏之推はその事業をさらに広げたいと考え、また祖珽が政を輔けるにあたり、之推を愛重したことから、さらに鄧長顒に託して徐々に後主を説き、斯文(文学)に心を寄せさせた。武平三年、祖珽は文林館の設立を奏上し、ここにさらに文学士を召し引いて、これを待詔文林館と称した。祖珽はさらに『御覧』の撰修を奏上し、詔によって祖珽及び特進魏收、太子太師徐之才、中書令崔劼、 散騎常侍 さんきじょうじ 張凋、 中書監 ちゅうしょかん 陽休之に監撰させた。祖珽らは通直散騎侍郎韋道遜、陸乂、太子舍人王劭、 えい 尉丞李孝基、殿中侍御史魏澹、中散大夫劉仲威、袁奭、國子博士硃才、奉車都尉眭道閑、考功郎中崔子樞、左外兵郎薛道衡、並省主客郎中盧思道、 司空 しくう 東閣祭酒崔德立、太傅行參軍崔儦、太學博士諸葛漢、奉朝請鄭公超、殿中侍御史鄭子信らを追って館に入り撰書するよう奏上し、併せて蕭放、蕭愨、顏之推らにも同様に撰例に入るよう命じた。さらに 散騎常侍 さんきじょうじ 封孝琰、前樂陵太守鄭元禮、 えい 尉少卿杜台卿、通直 散騎常侍 さんきじょうじ 楊訓、前南兗州長史羊肅、通直散騎侍郎馬元熙、並省三公郎中劉瑉、開府行參軍李師上、溫君悠を館に入れ、これにも撰書を命じた。後にさらに特進崔季舒、前仁州刺史劉逖、 散騎常侍 さんきじょうじ 李孝貞、中書侍郎李德林を続けて待詔に入らせた。まもなくまた諸人にそれぞれ知る者を推挙するよう詔があった。さらに前濟州長史李翥、前廣武太守魏謇、前西兗州司馬蕭溉、前幽州長史陸仁惠、鄭州司馬江旰、前通直散騎侍郎辛德源、陸開明、通直郎封孝騫、太尉掾張德沖、並省右戶郎元行恭、 司徒 しと 戶曹參軍古道子、前 司空 しくう 功曹參軍劉顗、獲嘉令崔德儒、給事中李元楷、 しん 州中從事陽師孝、太尉中兵參軍劉儒行、 司空 しくう 祭酒陽辟疆、司公士曹參軍盧公順、 司空 しくう 中兵參軍周子深、開府行參軍王友伯、崔君洽、魏師謇らも併せて館に入り待詔とした。また僕射段孝言にも入るよう命じた。『御覽』が完成した後、撰錄に加わった人々の中にも待詔となれず、所司に処分を委ねられた者がいた。凡そこれらの人々の中には、文学が浅薄でありながら、親しい知人に附会し、妄りに推薦された者も十のうち三、四はいた。そうではあるが、当時筆を執る者たちは、ほぼ探し尽くされた。その外に広平の宋孝王、信都の劉善経ら数人の者がおり、その才性を論ずれば、館に入った諸賢のうち十のうち三、四は彼らに及ばなかった。

周(北周)の創業は、国運が衰微に属していた時にあり、既に失われた遺文を纂輯し、奇士を招聘することを及ばざるが如くに行った。このため蘇亮、蘇綽、盧柔、唐瑾、元偉、李昶の徒は、皆鱗翼を奮い起こし、自ら青紫(高官)の地位に至った。しかし蘇綽の建言は、質朴を存することを務め、遂には魏・ しん を糠秕の如く見なし、虞・夏を憲章とした。その文章は師古の美を備えていたが、矯枉(過ちを正すこと)が時宜に適した用をなさなかったため、常に行われることはできなかった。やがて革車(軍勢)は電の如くに進み、渚宮(梁の宮殿)は雲の如くに撤去され、梁・荊の風は関右に扇がれ、狂簡の徒は斐然として俗を成し、流宕して反ることを忘れ、取るべき裁量がなくなった。

人には六情があり、五常の秀を稟けている。情は六気に感応し、四時の序に順う。およそ文の起こる所は、情が中より発するによる。漢・魏以来より、 しん ・宋に至るまで、その文体は屡々変化し、前哲がこれを論じたことは詳しい。永明・天監の際から、太和・天保の間に至り、洛陽と江左では、文雅が特に盛んであり、互いの好尚は、異同があった。江左では宮商(音律)が発越し、清綺を貴び、河朔では詞義が貞剛で、気質を重んじた。気質は理がその詞に勝り、清綺は文がその意に過ぎる。理の深いものは時用に便であり、文華のあるものは詠歌に宜しい。これが南北の詞人の得失の大較である。もし彼の清音を掇り、茲の累句を簡にし、各々その短所を去り、両者の長所を合わせれば、文質彬彬として、尽美尽善となるであろう。

梁は大同の後より、雅道が淪缺し、次第に典則に背き、新巧を争って馳せた。簡文帝、湘東王(元帝)がその淫放を啓き、徐陵、庾信が分かれて道を揚げた。その意は浅くして繁く、その文は匿れて彩り、詞は軽険を尚び、情は哀思が多い。延陵季子の聴くところを以てその格を量れば、これまた亡国の音である。

隋の文帝は初めて万機を統べるにあたり、常に彫を斫って樸となすことを念い、号令を発するに、皆浮華を去った。しかし当時の俗の詞藻は、なお多く淫麗であり、故に憲台が法を執り、屡々霜簡(弾劾文)を飛ばした。煬帝は初め芸文を習うに、軽側ならざるものがあったが、即位に及んで、一変してその体を改めた。『越公に与うる書』、『東都を建つる詔』、『冬至に朝を受くる詩』及び『飲馬長城窟を擬す』は、併せて雅体を存し、典制に帰しており、その意は驕淫にあっても、詞に浮蕩はなかった。故に当時綴文の士は、遂に依って正しきを取ることができた。いわゆる能く言う者は必ずしも能く行う者ではないとは、これまた君子が人を以て言を廃さざる所以である。

東帝(東魏孝静帝)が秦(西魏)に帰してより、青蓋(隋の文帝)が洛に入るに至るまで、四隩(四方)皆至り、九州同じくする。江・漢の英霊、燕・趙の奇俊は、併せて天綱の中に該まり、俱に大国の宝となった。その楚(優れた者)を刈り言うに、片善も遺さず、潤水の円流も、十数えることができない。才の難きこと、その然らざるがあろうか。時の文人で、当世に称せられた者は、齊人の范陽盧思道、安平李德林、河東薛道衡、趙郡李元操、钜鹿魏澹、陳人の会稽虞世基、河東柳䛒、高陽許善心らであり、或いは河朔に鷹揚し、或いは漢南に独歩し、俱に龍光を騁け、併せて雲路を駆った。

『魏書』は袁躍、裴敬憲、盧觀、封肅、邢臧、裴伯茂、邢昕、溫子升を序して『文苑傳』としたが、今はただ子升を取るのみで、その余は各々その家傳に附する。『齊書』は祖鴻勳、李廣、樊遜、劉逖、荀士遜、顏之推を叙して『文苑傳』としたが、今はただ祖、李、樊、荀を取るのみで、その余も各々その家傳に附する。『周書』はこの傳を立てず、今は王褒、庾信を取ってこの篇に列する。顏之推は結局齊より周に入ったので、王、庾の下に列する。顏之儀は之推の弟であるので、之推の末に列する。『隋書』は劉臻、崔儦、王頍、諸葛潁、王貞、孫万寿、虞綽、王胄、庾自直、潘徽を序して『文学傳』としたが、今は崔儦、王頍、孫万寿は各々その家傳に従わせ、その余はこの篇に編み、併せて虞世基、許善心、柳䛒、明克讓をこれに冠して、以て『文苑傳』を備える。

溫子升

温子升、字は鵬挙、自ら云うには太原の人、晋の大将軍温嶠の後裔である。代々江左に居住していた。祖父の恭之は、宋の彭城王劉義康の戸曹となり、難を避けて魏に帰順し、済陰郡冤句県に家を構え、これによりその郡県の人となった。父の暉は、兗州左将軍長史となり、済陰郡の事務を代行した。

子升は初め崔霊恩・劉蘭に学問を受けた。精励で、夜を日に継ぎ、昼夜倦むことがなかった。成長してからは広く百家の書を博覧し、文章は清らかで婉麗であった。広陽王元深の賤客となり、馬坊で諸々の奴僕の子らに書を教えた。『侯山祠堂碑文』を作ると、常景がこれを見て善しとし、わざわざ元深を訪れて謝した。常景は言った、「近頃温生を見た」。元深は怪しんで尋ねると、常景は言った、「温生は大才士である」。元深はこれにより次第に彼を知るようになった。

熙平初年、中尉・東平王元匡が広く文士を召し集めて御史に充てようとした。同時に策試を受けた者は八百余人、子升と盧仲宣・孫搴ら二十四人が高第となった。ここにおいて選に預かった者たちは争って議論を仕掛けたが、元匡は子升にこれに対応させると、皆屈服して去った。孫搴は人に言った、「朝来、旗を靡かせ車の轍を乱した者は、皆子升に敗北を喫したのだ」。かくて御史に補され、時に二十二歳であった。台中の弾劾文は皆彼に委ねられた。憂により任を去った。喪が明けると、朝請に還任した。後に李神俊が荊州の事務を行った時、兼録事参軍に抜擢した。召されて省(中央官庁)に赴くよう命じられたが、李神俊は上表して留任させ派遣しないよう請うた。吏部郎中李奨はその上表を退け許さず、言った、「昔、伯瑜(後漢の韓伯瑜)が留任を許されなかったことを、王朗が嘆いた所以である。速やかに派遣すべきで、彦雲(?)の前の過失を繰り返してはならない」。かくて省に還った。広陽王元深が東北道行台となった時、郎中に召された。黄門郎徐紇は四方からの上表・啓を受け、敏速に返答したが、元深に対してだけは沈思し、言った、「彼には温郎中がおり、その才藻は畏るべきものがある」。高車が敗走した時、珍宝が満ちあふれていたが、子升は絹四十匹を取った。元深の軍が敗れると、子升は葛栄に捕らえられた。葛栄の下の 都督 ととく 和洛興は子升と旧知であり、数十騎で密かに子升を送り、冀州に到達させた。京に還ると、李楷はその手を執って言った、「卿が今免れたことは、夷甫(王衍)をしてその徳を慚じ入らしめるに足る」。これ以降、再び官途に志すことはなく、門を閉じて書を読み、精神を研ぎ澄ますことを止めなかった。

孝荘帝が即位すると、子升を南主客郎中とし、起居注を修めさせた。かつて一日、当直しなかったことがあり、上党王元天穆が当時録尚書事であったが、鞭打ちの刑を加えようとしたので、子升は遂に逃げ隠れた。天穆は大いに怒り、代わりの者を奏上した。荘帝は言った、「当世の才子は数人に過ぎず、どうしてこのようなことで便りに免職できようか」。かくてその上奏を止めさせた。天穆が邢杲を討伐しようとした時、子升を召して同行させようとしたが、子升は敢えて応じなかった。天穆は人に言った、「私はその才を用いようとしているのだ。どうして以前の恨みを抱こうか?今また来ないならば、南は越に走り、北は胡に走るしかあるまい」。子升は已むなくこれに面会した。伏波将軍を加えられ、行台郎中となった。天穆は深く彼を賞賛した。元顥が洛陽に入ると、天穆は子升を召して問うた、「即座に京師に向かおうか?それとも我に随って北へ渡ろうか?」。子升は答えて言った、「主上は武牢の失守により、この狼狽を招きました。元顥は新たに入ったばかりで、人心は未だ安らかではありません。今、これを討ちに行けば、必ず征討はあっても戦いはないでしょう。王がもし京師を克服し、大駕(天子)を奉迎されれば、桓公・文公の挙です。これを捨てて北へ渡られるのは、窃かに大王のため惜しみます」。天穆はこれを善しとしながらも用いることができず、子升を洛陽に還らせた。元顥は彼を中書舎人とした。荘帝が宮中に還ると、元顥に仕えた者は多くが廃黜されたが、子升は再び舎人となった。天穆は毎度子升に言った、「卿の前の計を用いなかったことを恨む」。正員郎に除され、依然として舎人であった。帝が爾朱栄を殺害した時、子升は謀議に参与し、当時の赦詔は子升の文辞であった。爾朱栄が内に入り、子升が詔書を手にしているのに出会い、問うた、「これは何の文書か?」。子升は顔色を変えず、言った、「勅です」。栄はそれを見ようとしなかった。爾朱兆が洛陽に入ると、子升は禍を恐れて逃げ隠れた。

永熙年間、侍読となり、舎人・鎮南将軍・金紫光禄大夫を兼ねた。 散騎常侍 さんきじょうじ ・中軍大将軍に遷り、後に本州の大中正を領した。梁の使者張皋が子升の文章を書き写し、江外に伝えると、梁の武帝はこれを称えて言った、「曹植・陸機が北土に復活したようだ。我が朝の文人が、数において百六の窮みに至ることを恨む」。陽夏太守傅摽が吐谷渾に使いし、その国の主の床頭に数巻の書があるのを見ると、それは子升の文であった。済陰王元暉業は嘗て言った、「江左の文人は、宋に顔延之・謝霊運がおり、梁に沈約・任昉がいるが、我が子升は以て顔・謝を陵ぎ轢き、任を包含し沈を吐き出すに足る」。楊遵彦(楊愔)が『文徳論』を作り、古今の文人は皆才に負いて行いを遺し、浅薄で険悪で猜忌心が強いが、ただ邢子才・王元景・温子升のみが彬彬として徳と素養があるとした。

斉の文襄帝(高澄)は子升を引き立てて大将軍諮議とした。子升は以前中書郎であった時、嘗て梁の客館に赴き国書を受け取ったが、自ら容姿を整えないことを以て、人に言った、「詩章は作り易いが、逋峭(風采)は為し難い」。文襄帝の館客元僅は言った、「諸人は賀すべきで、子升を推して祝辞を述べさせるのが良い」。子升は久しく忸怩とし、遂に陸操を推した。元僅・劉思逸・荀済らが乱を起こすと、文襄帝は子升がその謀を知っているのではないかと疑った。丁度彼に『神武碑』(高歓の碑文)を作らせていた。文が完成すると、遂に晋陽の獄に餓えさせ、粗末な短衣を食べさせて死なせた。屍体は路傍に棄てられ、家族は没官された。太尉長史宋遊道がこれを収めて葬り、またその文章を集めて三十五巻とした。

子升は外見は恬静で、物と争わず、言うことに基準があり、妄りに毀誉しなかった。しかし内面は深く険しく、事変の際には、好んでその間に参与したので、終に禍敗を招くに至った。また『永安記』三巻を撰した。子は無かった。

弟子の盛は、州の主簿となり、文才があり、二十余歳で卒した。

荀済

荀済、字は子通。その先祖は潁川の人で、代々江左に居住していた。済は初め梁の武帝と布衣の交わりがあった。梁武帝が王となることを知りながらも、負けん気で服さず、人に言った、「いずれ盾の上で墨を磨いて檄文を作ろう」。ある者がその才能を梁武帝に称えると、梁武帝は言った、「この人は乱を好む者である」。済はまた上書して仏法を譏り、費用が甚だしいと述べた。梁武帝が彼を誅殺しようとしたので、遂に魏に奔り、崔甗の家に寓居した。そしてこの時捕らえられたのである。楊愔が声をかけて言った、「老いて何故このようなことを?」。済は言った、「叱々、気概だ。老いと何の関わりがあろう!」。かくて供述して言った、「自ら年齢が衰えることを傷み、功名が立たぬことを恐れた。児女の情を捨て、風雲の事を起こし、故に天子を奉じて、権臣を誅しようとしたのだ」。斉の文襄帝はその才を惜しみ、殺さないつもりで、親しく言った、「荀公は何故謀反したのか?」。済は言った、「詔を奉じて将軍高澄を誅するのが、どうして謀反か!」。かくて焼き殺した。鄴の士大夫は多く済の詩文を伝えた。

祖鴻勳

祖鴻勳は、涿郡范陽の人である。父の慎は魏に仕え、雁門・咸陽の二郡太守を歴任し、政務に才能ある名声があった。金紫光禄大夫の任にて卒し、 中書監 ちゅうしょかん ・幽州刺史を追贈され、諡して恵侯といった。鴻勳は弱冠にして、同郡の盧文符とともに州の主簿となった。僕射・臨淮王彧がその文学を表薦し、奉朝請に任じられた。人が言うには、「臨淮王が卿を推挙したのに、ついに謝意を示さぬのは、おそらく適切ではあるまい」と。鴻勳は言った、「国に人材を推挙するは、臨淮王の務めである。祖鴻勳が何のゆえにそれに気づかねばならぬか」と。彧はこれを聞いて喜び、「われは適材を得た」と言った。後に咸陽王徽が鴻勳を 司徒 しと 法曹参軍事に奏上した。洛陽に赴いたとき、徽は言った、「臨淮王が推挙したのに、ついに門を訪れなかった。今来たのはなぜか」と。鴻勳は言った、「今は職務に赴くためであり、恩に謝するためではない」と。廷尉正に転じ、官を去って郷里に帰った。斉の神武帝(高歓)がかつて へい 州に召し寄せ、『晋祠記』を作らせた。好事の者はその文を賞玩した。位は高陽太守に至った。在官は清廉で質素であり、妻子も寒さと飢えを免れなかった。当時の議論は彼を高く評価した。斉の天保初年、官にて卒した。

李広

李広は、字を弘基といい、范陽の人である。その先祖は遼東より移り住んだ。広は広く群書に渉猟し、才思があった。若い頃、趙郡の李謇と並び称され、邢邵・魏収に次ぐ存在であったが、言葉には訥であり、行いには敏であった。中尉崔暹が御史を精選したとき、皆は世冑(名門の子孫)であったが、広のみが才学をもって侍御史を兼ね、国史を編修した。南台の文奏は、多くが彼の文辞によるものであった。斉の文宣帝(高洋)が初めて覇業を継いだとき、書記を掌ることを命じられた。天保初年、中書郎に任じようとしたが、彼の病が重篤に遇ったため止んだ。広はかつて早朝に出仕しようとし、仮寐していたところ、突然驚いて覚め、その妻に言った、「われ先ほど眠りにも覚めにもつかず、ふと一人の者がわが身中より出でて来て言うには、『君は心を用いること過酷にして、精神の堪えうる所にあらず。今、君のもとを去る』と」。それにより恍惚として楽しからず、数日にして病に遇い、積年の間起き上がれなかった。広は風雅に鑑識があり、度量は弘大で遠大、坦率で私心なく、士流に愛され、時に共に贈り物をして、それにより自給した。ついに病にて終わった。かつて畢義雲を崔暹に推薦した。広の死後、義雲はその文章七巻を集め、魏収に序文を依頼した。

樊遜

樊遜は、字を孝謙といい、河東北猗氏の人である。祖父の琰、父の衡は、ともに官宦にはならなかった。衡は性、至孝であり、父を喪い、土を背負って墳墓を築き、柏を数十畝四方に植え、朝夕に号泣して慕った。遜は若くして学問を好んだ。その兄の仲は氈を造ることを業とし、また常に遜を優しく養った。遜は自らを責めて言った、「人弟として、ひとり安逸を愛するは、心に愧じぬことがあろうか」と。共に勤めて事業に従おうとした。母の馮氏が言った、「汝は細かい行いに気を配ろうとするのか」と。遜は母の言葉に感じ、遂に典籍に専心し、常に壁に「見賢思斉」の四字を書いて自らを励ました。

遜は容貌醜陋であったが、才気があった。属する本州が陥落した折、鄴中に寓居し、臨漳の小吏となった。県令の裴鑒は官に臨んで清廉で苦労を厭わず、白雀などの瑞祥をもたらした。遜は『清徳頌』十首を上呈し、鑒は大いに賞賛して重んじ、主簿に抜擢した。なお右僕射の崔暹にこれを推薦し、遼東の李広、勃海の封孝琰らとともに暹の賓客となった。その静黙にして時流に乗れぬことを讒る者あり。遜は常に東方朔の言葉、「陸沈世俗、避世金馬」を服膺し、遂に陸沈公子を借りて主人とし、『客難』に擬いて『客誨』を作り、自らを広めた。後に崔暹が大いに客を集めたとき、大司馬・襄城王旭も時に座に在り、府僚を命じようとした。暹は遜を指して言った、「この人は学富み才高く、これに佳行を兼ねる。王の参軍と為すべし」と。旭はこれを見て言った、「まさか就くことができようか」と。遜は言った、「家に蔭第(先祖の官位による特権)無く、この任に当たることを敢えて致しません」と。武定七年、斉の文襄帝(高澄)が崩じ、暹は文宣帝により辺境に徙され、賓客は皆散り、遜は遂に陳留に徙り住んだ。梁州刺史の劉殺鬼は遜に録事参軍事を兼ねさせた。遜はなお秀才に挙げられた。尚書は旧令を案じ、下州は三年に一度秀才を挙げるとあり、開封人の鄭祖献を既に貢じた年から計れば、この年は合致しない。兼別駕の王聰が抗辞して争議し、右丞の陽斐は退けることができなかった。 尚書令 しょうしょれい の高隆之は言った、「遜の才学が優異であるとはいえ、来年を待つも遠からず」と。遜はついに本州に還った。天保元年、本州は再び召して秀才を挙げた。三年春、朝堂に会して対策した。策問が終わり、中書郎の張子融が奏上した。四年五月に至り、遜と定州の秀才李子宣らは対策してから三年も任用されず、外に付された。上書して罷免に従うことを請うたが、詔は報じられなかった。梁州は重ねて遜を秀才に挙げた。五年正月、制詔をもって問うた。尚書が第を擢げ、遜を以って当時の第一とした。十二月、清河王嶽が大行台となり、衆を率いて南討し、遜を従軍させた。明年、文宣帝が梁の貞陽侯蕭明を梁主として受け入れ、嶽は遜に大行台郎中を仮とし、江南に使いさせ、蕭脩・侯瑱と和解させた。遜は往還五日にして、脩らの返書を得、嶽は因って脩と江上で盟を結んだ。大軍が鄴に還ると、遜はなお都官尚書の崔昂に挙薦された。詔は尚書に付し、清平で勤勉幹練であると考課し、吏部に送った。

七年、詔して群書を校定し、皇太子に供することを命じた。遜は冀州の秀才高乾和、瀛州の秀才馬敬徳・許散愁・韓同宝、洛州の秀才傅懐徳、懐州の秀才古道子、広平郡の孝廉李漢子、勃海郡の孝廉鮑長暄、陽平郡の孝廉景孫、前梁州府主簿王九元、前開府水曹参軍周子深ら十一人とともに尚書に召され、共に刊定に当たった。時に秘府の書籍には誤謬が多い。遜は議して言った、「案ずるに、漢の中壘 校尉 こうい 劉向は詔を受けて書を校し、一書が終わるごとに表を上し、つねに言うには、臣向の書、長水 校尉 こうい 臣参の書、太常博士の書、中外の書合わせて若干本、以って相い比校し、然る後に殺青す、と。今仇校せんとする所のものは、供擬極めて重く、蘭台より出で、甲館に禦す。向の故事は、府閣に存す。即ち刊定せんと欲すれば、必ず衆本を藉りねばならぬ。太常卿邢子才、太子少傅魏収、吏部尚書辛術、司農少卿穆子容、前黄門郎司馬子瑞、故国子祭酒李業興は並びに多書の家なり。請う、牒を以って本を借り、参校せん」と。秘書監の尉瑾は尚書都坐に移文し、凡そ得たる別本三千余巻、『五経』諸史は殆ど遺闕無し。

時に魏収が『庫狄幹碑序』を作り、孝謙にその銘を作らせた。陸仰は知らず、収の合作と思った。陸操・伏渾が卒すると、楊愔は孝謙に己に代わって書を作り、晋陽の朝士に告げさせ、魏収に潤色させたが、収は一字も改めることができなかった。八年、東西二省の官を減員し、選を更に定め、員は三百を過ぎず、参ずる者は二三千人であった。楊愔は衆に向かって言った、「後生の清俊は、盧思道に過ぐるは莫し。文章の成就は、樊孝謙に過ぐるは莫し。几案の断割は、崔成之に過ぐるは莫し」と。遂に思道を長くして員外郎を兼ねさせ、三人並びに員外将軍とした。孝謙は辞して言った、「門族寒陋にして、第を訪ねれば必ず成らず。乞う、員外司馬督を補せん」と。愔は言った、「才高ければ常例に依らぬ」と。特奏して用いた。

清河の初め(北斉の年号か、あるいは清河王の頃か)、主書となり、詔策の制定に参与した。天統元年、員外郎を加えられた。七八日を経て、轜車(喪車)の傍を通り過ぎる際、眉を顰めて涙を流し、方相(葬列の先導役)を指して言った、「何日かまた君の力を煩わすことがあろうか」と。数日にして卒し、方相を雇って葬送させたが、それは以前に出逢った者であった。

孝謙の死後、定州の秀才荀士遜が継いで主書となり、才名はこれに次いだ。

茹瞻は字を孝博といい、東安の人である。南州で秀才に挙げられた。清らかで明朗、剛直であった。楊愔が彼を用いようとして言った、「今日の選びには、茹生を欠くことはできない」と。侍御史の任に在るうちに卒した。

荀士遜

荀士遜は広平の人である。学問を好み、思慮分別があり、文章は清らかで典雅であり、知音に賞賛された。武定の末、司州の秀才に挙げられ、斉の天保年間に至るまで、十年間も官職に補されなかった。皇建年間、馬敬徳が推薦して主書とし、転じて中書舎人となった。容貌は甚だ醜かったが、文辞によって重んじられた。かつて奏上すべき事があり、武成帝が後庭に居られた際、左右の者を通じて伝達したところ、伝達する者が士遜の姓名を知らず、『醜い舎人』と言った。帝は『必ずや士遜であろう』と言い、封題を見ると果たしてその通りであり、宮中の人々は皆笑った。累進して中書侍郎となり、称職と号された。李若らと共に『典言』を撰し、世に行われた。斉が滅んだ年に卒した。

王褒

王褒は字を子深といい、琅邪郡臨沂県の人である。曾祖父の王儉、祖父の王騫、父の王規は、いずれも『南史』に伝がある。王褒は識見と度量に通達し、志は沈静を懐き、威儀は美しく、談笑を善くし、史伝を博く読み、七歳で文章を作ることができた。外祖父である梁の 司空 しくう 袁昂は彼を愛し、賓客に言った、「この子は必ずや我が家の宰相となるであろう」と。弱冠にして秀才に挙げられ、秘書郎・太子舎人に任じられた。梁の国子祭酒蕭子雲は、王褒の姑の夫であり、特に草書・隷書に優れていた。王褒は年少の頃、姻戚としてその家に出入りし、模範として学んだため、名声は子雲に次ぎ、共に当時に重んじられた。武帝はその才芸を嘉し、弟の鄱陽王蕭恢の娘を妻とさせた。南昌県侯の爵位を襲ぎ、秘書丞・宣城王文学・安城内史を歴任した。侯景が建鄴を陥落させた時、王褒は管轄する部を鎮撫し、当時に称えられた。転じて南平内史となった。梁の元帝が即位すると、王褒は旧縁があり、召されて吏部尚書・右僕射に任じられ、さらに左丞に遷り、参掌を兼ねた。王褒は名家であり、文学に優れ豊かであったため、当時の人々は皆推挙し、故に地位と声望は重く、寵遇は日増しに厚くなった。しかしますます自ら謙虚に振る舞い、地位を以て人を見下すことはなく、当時の論評はこれを称えた。

初め、元帝が侯景を平定し、武陵王蕭紀を捕らえた後、建鄴が荒廃しているのに対し、当時江陵は殷盛であったため、そこに安住しようと考えた。またその政府の臣僚は皆楚の人であり、共に鄢郢に都を置くことを願った。かつて群臣を召してこれを議した。鎮軍将軍胡僧祐・吏部尚書宗懍・太府卿黄羅漢・御史中丞劉玨らは言った、「建鄴の王気は既に尽き、また荊南の地には天子の気がある。遷都は適切ではない」と。元帝は深くもっともであると思った。王褒は性格が謹慎であり、元帝が猜忌心が強いことを知っていたため、公然とその非を言うことはできなかった。後に暇な時を見計らって密かに諫言し、言葉は甚だ切実であった。元帝の本心は荊楚を好み、既に僧祐らの策に従っていたため、結局用いられなかった。魏が江陵を征伐した時、元帝は王褒に 都督 ととく 城西諸軍事を授けた。柵が破られると、元帝に従って金城に入った。間もなく元帝は出降し、王褒は遂に衆と共に出て、柱国于謹に会い、于謹は彼を大いに礼遇した。王褒はかつて『燕歌』を作り、塞北の寒苦の様を巧みに描き尽くした。元帝及び諸文士が皆これに和し、競って悲切な辞を作ったが、この時に至って初めてそれが現実となったのである。王褒は王克・劉玨・宗懍・殷不害ら数十人と共に長安に至り、周の文帝(宇文泰)は喜んで言った、「昔、呉を平定した時の利は、二陸(陸機・陸雲)のみであった。今、楚を平定した功績には、群賢が皆至った。これは過ぎたるものと言えよう」と。また王褒及び王克に言った、「我は即ち王氏の甥である。卿らは皆我が舅にあたる。親戚としての情を以てすべく、故郷を離れたことを気にかけるな」と。ここにおいて王褒及び殷不害らに車騎大将軍・儀同三司を授けた。常に従容として上席に侍し、供給は甚だ厚かった。王褒らもまた共に恩顧を受け、旅人の身であることを忘れた。

周の孝閔帝が即位すると、石泉県子に封じられた。明帝が即位すると、文学を篤く好み、当時王褒と庾信の才名が最も高かったため、特に親しく待遇を加えた。帝は遊宴の度毎に、王褒に詩を賦させ議論させ、常に側近に置いた。間もなく開府儀同三司を加えられた。保定年間、内史中大夫に任じられた。武帝が『象経』を作ると、王褒に注釈を命じた。引証は該博で、大いに称賛された。王褒は器量と見識があり、政治の根本をよく理解していた。累世にわたり江東で宰輔を務めた家柄であり、帝もまたこの点で彼を重んじた。建徳年間以後、朝廷の議論に多く参与し、凡そ大詔冊は、皆王褒に起草させた。東宮が建てられると、太子少保を授けられ、少 司空 しくう に遷り、依然として詔勅の起草を掌った。乗輿が行幸する時は、王褒は常に侍従した。

初め、王褒は梁の処士である汝南の周弘讓と親善であった。弘讓の兄の周弘正が陳から来朝した時、帝は王褒らが親戚知己と音信を通じることを許し、王褒は弘讓に詩と手紙を贈った。間もなく宜州刺史として出向し、任中に卒した。子に王鼒がいる。

庾信

庾信は字を子山といい、南陽郡新野県の人である。祖父の庾易、父の庾肩吾は、いずれも『南史』に伝がある。庾信は幼少より俊邁で、聡敏にして比類なく、群書を博く読み、特に『春秋左氏伝』に優れていた。身長八尺、腰帯十囲、容姿挙措は悠然として、人に優るものがあった。父の肩吾は、梁の太子中庶子となり、記録を管掌した。東海の徐摛が右衛率となった。徐摛の子の徐陵及び庾信は共に抄撰学士となった。父子が東宮に仕え、禁闥に出入りし、恩礼は他に比べるものがないほどであった。既に文章は共に綺麗で艶であり、故に世に徐庾体と号された。当時の後進は競って模範とし、一文を作る度毎に、都下で伝誦しない者はなかった。累進して通直 散騎常侍 さんきじょうじ となり、東魏に聘使として赴いた。文章と辞令は、鄴下で大いに称賛された。帰還して東宮学士となり、建康令を領した。

侯景が乱を起こすと、梁の簡文帝は庾信に命じて宮中の文武千余人を率い、朱雀航に営を置かせた。侯景が到着すると、庾信は兵を率いて先に退却した。台城が陥落した後、庾信は江陵に奔った。梁の元帝が承制すると、御史中丞に任じられた。即位すると、右衛将軍に転じ、武康県侯に封じられ、散騎侍郎を加えられ、西魏に聘使として赴いた。時に大軍が南征したため、長安に留め置かれた。江陵が平定されると、累進して儀同三司となった。周の孝閔帝が即位すると、臨清県子に封じられ、司水下大夫に任じられた。弘農郡守として出向した。驃騎大将軍・開府儀同三司・司憲中大夫に遷った。義城県侯に爵位を進めた。間もなく洛州刺史に任じられた。庾信は政務を簡素で静粛に行い、官吏と民衆は安んじた。当時、陳氏が周と通好し、南北に流寓していた人士は、各々旧国に還ることを許された。陳氏は王褒及び庾信ら十数人の帰還を請うた。武帝は王克・殷不害らだけを帰し、庾信及び王褒は惜しんで遣わさなかった。間もなく司宗中大夫に召された。明帝・武帝は共に文学を雅く好み、庾信は特に恩礼を蒙った。趙王・滕王ら諸王に対しても、交際は懇ろで、布衣の交わりのようであった。諸公の碑誌は、多く彼に依頼した。ただ王褒のみがほぼ庾信と肩を並べ、その他の文人は及ぶ者はいなかった。

庾信は地位と声望が通顕であったが、常に故郷を思う念があり、『哀江南賦』を作ってその思いを表した。大象の初め、病気により職を辞した。隋の開皇元年に卒した。文集二十巻がある。文帝はこれを悼み、本官を追贈し、荊・雍二州刺史を加贈した。子の庾立が嗣いだ。

顏之推

顔之推、字は介、琅邪郡臨沂県の人である。祖父の見遠、父の協はいずれも義烈をもって称された。代々『周官』『左氏』の学に通じ、ともに『南史』に伝がある。之推は十二歳の時、梁の湘東王が自ら『荘子』『老子』を講ずるのに遇い、之推は門徒に加わった。虚談は彼の好むところではなく、帰って『礼記』『春秋左氏伝』を学んだ。書物や史書を広く博覧し、該通しないものはなく、文辞と情致は典雅で麗しく、大いに西府(湘東王府)に称賛された。湘東王は彼を自国の右常侍とし、鎮西墨曹参軍を加えた。酒を好み、放縦に任せ、身なりを飾らず、当時の論評はこれをもって彼を軽んじた。湘東王は世子の方諸を 郢州 えいしゅう に鎮守させ、之推を中撫軍府外兵参軍とし、記録の管理を掌らせた。侯景が郢州を陥落させた時、幾度も之推を殺そうとしたが、行台郎中の王則のおかげで免れた。侯景が平定されると、江陵に帰還した。時に湘東王が即位し、之推を散騎侍郎とし、奏舎人の事務を担当させた。後に周軍に破られ、大将軍の李穆が彼を重んじ、弘農に送り、その兄の陽平公(李)遠の文書を掌らせた。黄河の水が急に増水するのに遇い、船を整えて妻子を連れて斉に奔った。砥柱の険を経たが、当時の人はその勇断を称えた。文宣帝(高洋)は彼を引見して喜び、すぐに奉朝請に任じ、内館に引き入れ、左右に侍従させ、大いに顧みられた。後に帝に従って天泉池に行き、中書舎人に任じようとし、中書郎の段孝信に勅書を持たせて之推に見せようとした。之推は営外で酒を飲んでおり、孝信が戻ってその様子を報告すると、文宣帝は「しばらく止めよ」と言った。これによって事は遂に取りやめとなった。後に文林館で待詔し、 司徒 しと 録事参軍に任じられた。之推は聡明で機知に富み、博識で才弁があり、尺牘(書簡文)に巧みで、応対は優雅で明瞭であり、大いに祖珽に重んじられ、館の事務を掌り知ることを命じられ、文書を判決し署名した。通直 散騎常侍 さんきじょうじ に昇進し、まもなく中書舎人を兼任した。帝が時に物を求められると、常に中使に命じて旨を伝えさせ、之推がそれを承って宣告し、館中の者は皆その進止を受けた。進上する文書はすべて彼が封をして署名し、進賢門でこれを奏上し、返答を待って初めて退出した。文字にも長け、繕写を監校し、事務を処理するのに勤勉で機敏であり、称職と号され、帝は大いに恩遇を加えて接した。勲功ある要人たちに嫉まれ、常に害そうとされた。崔季舒らが諫めようとした時、之推は急用を取って宅に帰ったので、連署しなかった。そして諫言した者たちが召集された時、之推も呼び入れられたが、調べて名がなかったので、免れることができた。まもなく黄門侍郎に任じられた。

周軍が しん 陽を陥落させると、帝(後主高緯)は軽騎で鄴に帰還し、窮迫して急を告げ、どうすべきか方策がなかった。之推は宦官の侍中鄧長顒を通じて陳に奔る策を進言し、さらに呉の士人千余人を募って左右とし、青州・徐州の路を取って共に陳国に投ずるよう勧めた。帝はこれを採用し、丞相の高阿那肱らに告げた。阿那肱は陳に入ることを望まず、呉の士人は信用し難いと言い、帝に珍宝や重い荷物を青州に送り、しばらく三斉の地を守るよう勧めた。もし守れなければ、ゆっくり海を渡って南に逃れるようにと言った。之推の策には従わなかったが、それでも彼を平原太守とし、黄河の渡しを守らせた。

斉が滅んで周に入った。大象(北周静帝年号)の末、御史上士となった。隋の開皇年間、太子(楊勇)に召されて文学となり、深く礼遇され重んじられたが、まもなく病気で亡くなった。文集三十巻があり、『家訓』二十篇を撰し、ともに世に行われた。之推は斉にいた時二人の子があり、長男を思魯、次男を敏楚と言い、おそらく本(魯・楚)を忘れないためであろう。『之推集』は、思魯自らが序を書いた。

弟に之儀がいる。

弟の之儀、字は升。幼くして聡明で悟りが早く、三歳で『孝経』を読むことができた。成長すると、広く群書に渉猟し、詞賦を作ることを好んだ。かつて梁の元帝に『荊州頌』を献上し、文辞の趣は雅やかで豊かであった。帝は手ずから勅書を下して言った。「枚乗の二代(枚乗・枚皋)はともに梁に遊び、応貞の両世(応璩・応貞)はともに文学と称された。我が才子を求めるに、まことに慰め深い」。

江陵が平定されると、之儀は例に従って長安に移され、周の明帝は彼を麟趾学士とした。次第に昇進して司書上士となった。武帝が初めて東宮を建てると、師傅を盛んに選び、之儀を侍読とした。太子(後の宣帝宇文贇)が後に吐谷渾を征伐した時、軍中で過ちを行い、鄭訳らは皆これを匡弼できなかったとして罪に坐したが、之儀のみは累次諫言したことで賞せられた。すぐに小宮尹に任じられ、平陽県男に封じられた。宣帝が即位すると、上儀同大将軍・御正中大夫に昇進し、爵位を公に進めた。帝の後の刑罰と政令は道理に外れ、昏乱と放縦は日増しに甚だしくなった。之儀は顔色を犯してしばしば諫言し、採用されなくても、終に止めず、深く帝に忌み嫌われた。しかし旧恩ゆえに、常に寛大に容赦された。帝が王軌を殺そうとした時、之儀は固く諫めた。帝は怒り、彼をも法に処そうとした。後にその誠実で直く私心のないことを認め、赦した。

宣帝が崩御すると、劉昉・鄭訳らは遺詔を偽造し、隋の文帝(楊堅)を丞相として幼い少主(静帝宇文衍)を輔佐させることにした。之儀は帝の真意ではないと知り、拒んで従わなかった。昉らが詔書を起草し、署名を終えると、之儀に署名を迫った。之儀は声を はげ して昉らに言った。「主上が昇遐され、嗣子は幼少である。阿衡(輔弼の任)の任は、宗室の英傑にあるべきである。方今、賢戚の内では趙王(宇文招)が最も年長であり、親族としても徳望としても、重い寄託を受けるにふさわしい。公らは朝恩を備えて受け、忠を尽くして国に報いるべきである。どうして一朝にして神器を他人に与えようとするのか。之儀は死ぬだけである。先帝を あざむ くことはできない」。そこで昉らは屈せしめられないと知り、之儀に代わって署名してこれを実行した。隋の文帝が後に符璽を要求すると、之儀はまた厳しい顔色で言った。「これは天子の物であり、自ら主(持つ者)がいる。宰相はどうしてこれを求めるのか」。そこで文帝は大いに怒り、引き出すよう命じて殺そうとした。しかしその人望ゆえに止めた。西疆郡守として出された。

帝位に即くと、詔を下して京師に召還し、爵位を新野郡公に進めた。開皇五年、集州刺史に任じられた。州にあっては清静を保ち、夷夏ともに彼を喜んだ。翌年、代わって帰還すると、悠々として仕官しなかった。十年正月、之儀は例によって朝参した。文帝は彼を見て見覚えがあり、御座に引き寄せるよう命じ、彼に言った。「危難を見て命を授け、大節に臨んで奪うことができない。古人の難しとしたところである。どうして卿に加えようか」。そこで銭十万・米一百石を賜った。十一年に卒去した。『文集』十巻があり、世に行われた。

虞世基

虞世基、字は懋世、会稽郡餘姚県の人である。父の荔は『南史』に伝がある。世基は幼い頃から穏やかで静かであり、喜怒を顔色に表さず、博学で高い才能があり、草書と隷書を兼ねて善くした。陳の中書令孔奐は彼を見て嘆じて言った。「南金の貴きものは、この人に属する」。少傅の徐陵はその名を聞き、召したが、世基は行かなかった。後に公の集会で、陵は一目見て彼を奇異とし、朝士を顧みて言った。「当世の潘岳・陸機である」。そこで弟の娘を妻とさせた。陳に仕え、累進して尚書左丞となった。陳主(後主陳叔宝)がかつて莫府山で狩猟をした時、世基に『講武賦』を作らせ、座中でこれを奏上させた。陳主はこれを嘉し、馬一匹を賜った。

陳が滅びると、隋に入り通直郎となり、内史省に直した。貧しくて産業がなく、常に書を傭って親を養い、怏怏として不平であった。嘗て五言詩を作って情を示し、文理が悽切で、世間では巧みとし、作者は皆吟詠した。間もなく内史舎人に拝された。煬帝が即位すると、顧遇はますます厚くなった。秘書監の河東の柳顧言は、博学で才があり、推して謝することは稀であったが、この時に至って世基と相見え、嘆じて言うには、「海内は共にこの一人を推すべきであり、我らが及ぶところではない」と。俄かに内史侍郎に遷った。母の憂いにより職を去り、哀毀して骨立した。詔があり、視事するよう命じた。拝見の日、殆ど起つことができず、左右に命じてこれを扶けさせた。その羸瘠を哀れみ、詔して肉を進めるよう命じた。世基が食すると、常に悲哽して箸を下すことができなかった。帝は人を遣わして謂うには、「今まさに委任せんとしているところである。国のために身を惜しむべきである」と。前後して敦め勧めた者は数度に及んだ。帝はその才を重んじ、親礼はますます厚く、専ら機密を典し、納言の蘇威、左翊衛大将軍の宇文述、黄門侍郎の裴矩、御史大夫の裴蘊らと共に朝政を参掌した。時に天下は多事であり、四方からの表奏は、日に百数を数えた。帝は方や凝重であり、事を廷で決せず、閣に入った後に初めて世基を召して口授で節度した。世基が省に至り、初めて勅書を作り、日に百紙に及び、遺繆するところがなかった。遼東の役では、位を進めて金紫光禄大夫となった。後に雁門に従幸し、突厥に包囲された。戦士は多く敗れた。世基は帝に賞格を設け、自ら撫循するよう勧め、そこで詔を下して遼東の事を停めた。帝はこれに従い、師は乃ち再び振るった。包囲が解けると、勲格は行われず、また伐遼の詔を下した。これにより、その衆を詐るものと言い、朝野は心を離した。帝が江都に幸し、鞏県に次ぐと、世基は盗賊が日に盛んであることを以て、兵を発して洛口倉に屯し、不虞に備えるよう請うた。帝は従わず、ただ答えて云うには、「卿は書生である。定めてなお恇怯であろう」と。当時天下は大乱し、世基は帝が諫めて正すことができないことを知り、また高熲、張衡らが相次いで誅戮されたことを以て、禍が己に及ぶことを懼れ、近侍の位に居ながら、ただ諂って容を取るのみで、敢えて意に忤わなかった。盗賊は日々に甚だしく、郡県は多く没した。世基は帝が数多く聞くことを厭うことを知り、後に敗を告げる者があれば、乃ち表状を抑損し、実を以て聞かせなかった。この後、外間に変があっても、帝はこれを知らなかった。嘗て太僕卿の楊義臣を遣わして河北の盗賊を捕らえさせ、賊数十万を降した。列状して上聞した。帝は嘆じて曰く、「我は初め賊が頓にこのようであると聞かなかった。義臣が列する降賊は何と多いことか」と。世基曰く、「鼠窃は多くとも、未だ慮るに足りません。義臣がこれを克し、兵を擁すること少なくなく、久しく閫外に在ることは、これ最も宜しからざるところです」と。帝曰く、「卿の言う通りである」と。直ちに義臣を追い、その兵を放って散らせた。また越王侗が太常丞の元善達を遣わし、賊中を間行させ、江都に詣でて奏事し、称して云うには、「李密は数万の衆を有し、京都を囲逼しています。賊は洛口倉を占拠し、城内に食がありません。若し陛下が速やかに還られれば、烏合の衆は必ず散るでしょう。然らざれば、東都は決して没するでしょう」と。因って歔欷嗚咽し、帝は顔色を改めた。世基は帝の憂色を見て、進みて曰く、「越王は年若く、この輩がこれを誑かしているのです。若し言う如くならば、善達は何の縁で得て至ることができましょうか」と。帝は勃然として怒りて曰く、「善達は小人なり、敢えて廷で我を辱しむるか」と。因って賊中を経て、東陽に向かい運を催させた。善達は遂に群盗に殺された。この後、外人は口を杜ち、敢えて賊を以て聞奏する者はなかった。

世基の気貌は沈審であり、言うことは多く意に合い、この故に特に親愛され、朝臣でこれに比する者はなかった。その継室の孫氏は、性驕淫であり、世基はこれに惑わされ、 ほしいまま 意に奢靡にふけり、器服を彫飾し、再び素士の風がなかった。孫はまた前夫の子の夏侯儼を携えて世基の舎に入り、頑鄙無頼で、そのために聚斂し、官を鬻ぎ獄を売り、賄賂が公行し、その門は市の如く、金宝が盈積した。その弟の世南は素より国士であったが、清貧で立たず、嘗て贍うところがなかった。これにより論者に譏られた。朝野は皆共に疾み怨んだ。宇文化及が しい 逆した時、世基は乃ち害された。

長子の蕭は、学を好み才芸があり、時人は家風有りと称した。弱冠で早く没した。

蕭の弟の熙は、大業末に符璽郎となった。次子の柔と晦は、共に宣義郎であった。化及が乱を将おうとする夕べ、宗人の虞伋が知って熙に告げて曰く、「事勢は既に然り。我は卿を済して南度させ、且つ禍を免れさせよう。共に死ぬこと何の益かあろう」と。熙曰く、「父を棄て君に背き、何の地に生を求めようか。尊の懐いに感じるが、ここに訣する」と。難が起こると、兄弟は競って先に死ぬことを請い、行刑人は先ず世基を殺した。

柳䛒

柳䛒、字は顧言、河東の人である。代々江南に仕え、襄陽に居た。祖父の惔は『南史』に伝がある。䛒は少時に聰敏で、属文を解し、書を読むことを好み、覧るところ将に万巻に及んだ。梁に仕え、著作佐郎となった。後に蕭察が荊州を拠ると、侍中とし、国子祭酒、吏部尚書を領させた。梁国が廃されると、開府を拝し、内史侍郎となった。吏幹が無いため、転じて晋王諮議参軍となった。王は文雅を好み、才学の士である諸葛潁、虞世南、王胄、朱瑒ら百余人を招引して学士とし、而して䛒がその冠となった。王は師友としてこれに処し、文什がある毎に、必ずその潤色を命じ、然る後に人に示した。嘗て京に朝して還り、『帰籓賦』を作り、䛒に命じて序を作らせた。詞は甚だ典麗であった。初め王が文を属するには、庾信体を效したが、䛒を見た後、文体は遂に変わった。

仁寿初め、引かれて東宮学士とし、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加え、洗馬を検校し、甚だ親重された。毎に臥内に召し入れ、これと宴謔した。䛒は特に俊辯で、多く侍従に在り、顧問する所があれば、応答は響くが如くであった。性酒を嗜み、言は誹諧に雑じた。これによりますます太子に親狎された。その内典を好むことを以て、『法華玄宗』を撰せしめ、二十巻としてこれを上った。太子は大いに悦び、賞賜は優洽で、儕輩に比する者無かった。

煬帝が嗣位すると、秘書監を拝し、漢南県公に封ぜられた。帝は退朝後、便ち命じて入らせて問い、言宴諷読し、終日にして罷めた。常に毎に嬪後と酒を対し、時に興会に逢えば、輒ち命を遣わして之を至らせ、同じ榻に共の席し、恩は友朋の比であった。帝は猶恨んで夜に召すことができず、乃ち匠に命じて木を刻んで偶人とし、機関を施し、坐起し拜伏する能く、䛒に像らせた。帝は月下に毎に対飲し、輒ち宮人に命じて座に置き、これと相酬酢し、而して歓笑した。揚州に従幸し、卒した。帝は傷惜すること久しかった。大将軍を贈り、諡して康と曰う。

䛒は『晋王北伐記』十五巻を撰し、集十巻が世に行われた。

許善心

許善心は、字を務本といい、高陽郡北新城の人である。祖父の茂、父の亨は、ともに『南史』に伝がある。善心は九歳で孤児となり、母の范氏に養育された。幼少より聡明で思慮深く、聞いたことはすぐに記憶し、多くを聞いて黙識し、当世に称えられた。家には旧書一万余巻があり、すべて広く通読した。十五歳で文章を作ることを解し、父の友人徐陵に書簡を上程すると、陵は大いにこれを奇とし、人に言うには「これは神童である」と。太子詹事の江総が秀才に推挙し、対策で高第を得て、度支郎中に任じられ、撰史学士に補せられた。禎明二年、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられて隋に聘使された。文帝の陳討伐に遭遇し、礼は成ったが帰国の命を得られなかった。累次上表して辞去を請うたが、上は許さなかった。賓館に留め置かれた。陳が滅亡すると、上は使者を遣わして告げさせた。善心は喪服を着て西階の下で号泣し、草を敷いて東に向かい、三日経った時、勅書をもって弔問された。翌日、詔があり賓館において通直 散騎常侍 さんきじょうじ に拝され、衣服一襲を賜った。善心は哀哭を尽くし、房に入って服を改め、再び出て北面して立ち、涙を流して再拝して詔を受けた。翌日、朝服を着て殿下で泣き、悲しみのあまり起き上がれなかった。上は左右を顧みて言うには「我が陳国を平定して得た者は、ただこの一人のみである。既にその旧君を懐かしむことができれば、即ち我が誠臣である」と。勅して本官のまま門下省に直させ、物千段、草馬二十匹を賜った。太山に従幸し、帰還後、虞部侍郎に任じられた。

十六年、神雀が含章闥に降りた。上は百官を召して宴を賜い、この瑞祥を告げた。善心は座中で紙筆を請い、『神雀頌』を作って奏上した。上は大いに喜んで言うには「我は神雀を見て、皇后と共にこれを観た。今、公らを召し入れて、ちょうどこの事を述べようとした。善心は座中で初めて知り、即ち頌を成すことができた。文に点を加えず、筆を停めず、常にこの言葉を聞いていたが、今、その事を見た」と。よって物二百段を賜った。十七年、秘書丞に除せられた。当時、秘蔵の図書典籍は、なお多くが混乱していた。善心は阮孝緒の『七録』に倣い、さらに『七林』を制作し、各々総叙を篇首に冠した。また部録の下に作者の意を明らかにし、類例を区別した。また、李文博、陸従典ら学者十名ほどを追って奏請し、経史の誤謬を正定させた。仁寿元年、黄門侍郎を摂行した。二年、太常少卿を摂行することを加えられ、牛弘らと礼楽を議定し、秘書丞、黄門の職はともに元の通りとした。四年、京師に留守した。帝が仁寿宮で崩御すると、煬帝は喪を発せず秘し、先に留宮人を更易し、善心を出して岩州刺史に除した。漢王諒の反乱に逢い、任に就かなかった。大業元年、礼部侍郎に転じ、儒者の徐文遠を国子博士に、包愷、陸徳明、褚徽、魯世達の輩を推薦することを奏上し、ともに品秩を加えられ、学官に任じられた。その年、納言楊達の副使として冀州道大使となり、旨にかなったため、物五百段を賜った。

左衛大将軍の宇文述は毎日、本部の兵数十人を借りて私役に供し、常に半日で終わらせた。御史大夫の梁毗がこれを弾劾した。上はまさに腹心として述を委ねており、初め法官に付して推問させると、千余人が皆、使役されたと称した。二十余日を経て、法官が上旨を窺い、遂に使役は一日に満たず、その数は多いが通計すべきではなく、仮に事実があっても罪はないと言った。諸兵士はこれを聞き、さらに初めは使役されなかったと言い出した。上はこれを釈放しようとし、虚実を付して議させると、百官は皆、虚であると議した。善心は、述が仗衛の場所において兵を抽いて私役し、一日に満たないとはいえ、宿衛を欠き、常に所部を役するのとは、情状が異なると考えた。また、兵は多くが下番し、本府に散還しており、分道追及されて、謀らずして同辞を述べている。今、ほぼ一月を経て、ようやく翻覆するとは、奸状分明であり、どうしてこれを捨てることができようか、と。蘇威、楊汪ら二十余人が善心の議に同調し、その他は皆、罪を免ずることを議した。煬帝は免罪とする奏を許可した。後、数ヶ月して、述は善心を讒して言うには「陳叔宝が卒すると、善心は周羅睺、虞世基、袁充、蔡徴らと共に葬送に行った。善心が祭文を作り、『陛下』と称した。敢えて今日、叔宝に尊号を加えるとは」と。召して問うと事実があり、自ら古例を援用し、事は釈明されたが、上は甚だこれを憎んだ。また、太史が帝の即位の年が堯の時と符合すると奏上すると、善心は国哀がまだ間もないため、賀すべきではないと議した。述は御史に諷してこれを弾劾させ、給事郎に左遷し、品を二等降格させた。

四年、『方物志』を撰して奏上した。七年、涿郡に従った。帝が自ら戎を禦いて東討しようとした時、善心が封事を上程し、旨に逆らい免官された。その年、再び征されて給事郎を守った。帝がかつて文帝の受命の符について言及し、鬼神の事を問うた時、善心と崔祖浚に勅して『霊異記』十巻を撰させた。

初め、善心の父は『梁史』を撰著したが、未完成のまま歿した。善心は父の志を述べて成し、家書を修続した。その『序伝』の末尾に制作の意を述べて、曰く。

謹んで按ずるに、太素将に萌やさんとし、洪荒初めて判ず。乾儀は資始し、辰象は以て時を正す所以なり。坤載は厚生し、品物はここに於いて気を播く。三才に参して徳を育み、二統に肖いて霊を降す。黎人ありて、これが君長と為り、貴賤ありて、その宗極と為る。上天の眷命を保ち、下土の楽推を膺け、太方を執り、長策を振るい、風雲を感召し、英俊を駆馳せざるは莫し。干戈揖譲、これを取るも功殊なり。鼎玉亀符、これを成すも一致なり。革命創制、竹素の道稍く彰れ、紀事記言、筆墨の官漸く著る。炎農以往、その名を存してその跡を漏らし、黄軒以来、その文を晦ましてその質を顕わす。丘に登り麓に納れ、訓誥及び典謨を具し、昴を貫き房に入り、夏正と殷祀を伝う。洎て方正位を弁じ、時に論じ功を計る。南北左右、四名の別を兼ね、『檮杌』『乗』車、一家の称を擅にする。国悪は諱すと雖も、君挙は必ず書す。故に賊子乱臣、天下大いに懼れ、元亀明鏡、昭然として察すべし。三郊の襲を遞へ、五勝の相沿うに及び、倶に百谷の王と称し、並びに四海を以て自任す。重光累徳、何れの世にか之れ無からんや。

梁の興るに逮り、君臨天下し、江左に建国す。これに盛んなるは莫し。受命は一君に在り、統を継ぐは四主に伝う。四十八載を克昌し、余祚五十六年。武皇帝は諸生より出で、爰に宝暦を昇る。百王の弊を拯い、万姓の危を救う。澆季の末流に反し、上皇の独道に登る。朝に君子多く、野に遺賢無く、礼楽必ず備わり、憲章咸く挙がり、弘く深き慈を不殺に於いてめぐらし、大なる忍を無刑に於いて済わす。蕩蕩巍巍、首と為すに称すべし。陰戎の潁に入り、羯胡の洛を侵すに属す。沸騰墋黷、三季の未だ聞かざる所、地を掃き天に滔き、一元の巨厄とする所。廊廟序有りて、狐兎の場と成るを翦り、圭帛儀有りて、犬羊の手に夫れを砕く。福善積みて身禍し、仁義存して国亡ぶ。豈に天道か、豈に人事か。嘗て別にこれを論ず、『序論』の巻に在り。

先君は昔、前代に在りて、早くより述作を懐き、凡そ『斉書』五十巻を撰す。『梁書』紀伝は、事に随い勒成し及び闕けて未だ就かざる所、目録に注して一百八巻と為す。梁室交喪し、墳籍銷尽す。塚壁皆残り、不准の盗む所無く、帷囊同毀し、陳農何を以てか求めん。秦儒既に坑せられ、先王の道将に墜んとし、漢臣徒に請うも、口授の文亦絶ゆ。撰ぶ所の書、一時に亡散す。陳の初め建つ有り、詔して史官と為り、闕を補い遺を拾い、心に識り口に誦し、旧目録に依り、更に修撰を加え、且く百巻を成し、既に六帙五十八巻を秘閣に上るを訖う。

善心は早くに父母の喪に遭い、薪を担ぐこともできず、太建の末年にはたびたび上表して聞かせ、至徳の初年に史官の任を授かった。方や絹素を採訪し、門庭に記録し、下には弱才を励まし、上には先志を成さんと願うところであった。しかし単宗にして強近少なく、虚室は原憲・顔回のごとく、退いて屏居し交遊する所なく、棲遅して進益を求めない。班嗣の書を借りても、ただその語を聞くのみで、王隠の筆を与えられても、未だその人を見ず。加之、庸瑣にして涼能、孤陋なる末学、郎署に参職し、兼ねて『陳史』を撰し、この書の完成を延ばし、未だ即ち成績せず。禎明二年、台郎として聘使に入り、本邑の淪覆に属し、他郷に播遷し、行人は時を失い、将命は復せず。都亭を望んで長慟し、別館に遷って懸壺す。家史旧書は後に蕩尽す。今ただ六巻のみ存し獲るも、また並びに缺落して次を失う。京邑に入りて以来、見るに随い補葺し、略く七十巻を成す:四『帝紀』八巻、『后妃』一巻、三『太子録』一巻、一帙十巻と為す;『宗室王侯列伝』一帙十巻;『具臣列伝』二帙二十巻;『外戚伝』一巻、『孝徳伝』一巻、『誠臣伝』一巻、『文苑伝』二巻、『儒林伝』二巻、『逸人伝』一巻、『数術伝』一巻、『籓臣伝』一巻、合わせて一帙十巻;『止足伝』一巻、『列女伝』一巻、『権幸伝』一巻、『羯賊伝』二巻、『逆臣伝』二巻、『叛臣伝』二巻、『叙伝論述』一巻、合わせて一帙十巻。凡そ史臣と称するは皆先君の言うところ、下に名案と称するは皆善心の補闕なり。別に『叙論』一篇を為し、『叙伝』の末に托す。

十年、また従って懐遠鎮に至り、朝散大夫を加授される。突厥が雁門を囲むや、左親侍武賁郎将を摂し、江南の兵を領して殿省を宿衛す。駕が江都に幸するや、前勲を追叙し、通議大夫を授け、詔して本品に還し、行給事郎とす。

十四年、化及が しい 逆した日、隋の官はことごとく朝堂に詣でて賀謁すれど、善心のみ至らず。許弘仁馳せて告げて曰く、「天子既に崩じ、宇文将軍政を摂す。合朝の文武、咸く集まらざる莫し。天道人事、自ら代終有り、何ぞ叔の預かりてか此の如く低徊する」と。善心之を怒り、肯て随いて去らざりき。弘仁返り走って馬上に上り、泣きて言うに曰く、「将軍は叔に於て全く悪意無し。忽ち自ら死を求むるは、豈に痛まざらんや」と。還りて唐奉議に告げ、状を以て化及に白くす。人を遣わし宅に就き執りて朝堂に至らしむ。化及釈すべしと令すれど、善心舞蹈せずして出づ。化及目を送りて曰く、「此れ大いに気を負う」と。捉え来たれと命じ、罵りて云う、「我は好んで汝を放たんと欲す。敢えてかくの如く不遜なる」と。其の党輒ち牽曳し、遂に之を害す。越王制を称するに及び、左光禄大夫を贈り、高陽県公に封じ、諡して文節と曰う。

善心の母范氏は、梁の太子中舎人孝才の女なり。少くして寡し、孤を養い、博学にして高節有り。隋の文帝之を知り、尚食に勅して時新を献ずる毎に、常に分ち賜うことを遣わす。嘗て詔して范を内に入れ、皇后に侍して講読せしむ。永楽郡君に封ず。善心禍に遇うに及び、范氏九十有二、喪に臨みて哭せず、柩を撫でて曰く、「能く国の難に死す、我に児有り」と。因りて臥して食わず、後十余日亦終わる。

李文博

李文博は博陵の人なり。性貞介鯁直、好学して倦まず。教義名理に至っては、特に之を留心す。読書して安危得失、忠臣烈士に至る毎に、未だ嘗て反覆吟玩せざること無し。開皇中、羽騎尉と為る。特に吏部侍郎薛道衡に知られ、恒に之を査事帷中に在らしめ、書史を披検せしめ、並びに己の行う事を察せしむ。若し政教の善事に遇えば、即ち抄撰記録し、選用の疏謬するが如きは、即ち之を委ねて臧否せしむ。道衡其の語を得る毎に、欣然として之に従わざる莫し。

後に秘書内省に直し、群籍を典校す。道を守り貧に居りて、晏如たり。衣食乏絶すと雖も、清操愈ます厲しく、妄りに賓客に通ぜず、恒に礼法を以て自ら処し、儕輩敬わざる莫し。道衡其の貧しきを知り、毎に家に延いて資費を与う。文博古今の政教得失を商略するに、諸掌を指すが如し。然れども吏幹無し。稍く校書郎に遷り、出でて県丞と為り、遂に下考を得、数歳調ぜず。道衡司隷大夫と為り、之に遇う東都尚書省に、甚だ嗟湣し、奏して従事と為す。因りて斉王司馬李綱に謂いて曰く、「今日遂に文博に遇い、得て之を用いるを奏す」と。以て歓笑と為す。其の賞められ知音せらるる、此の如し。

洛下に在りし時、嘗て房玄齢に詣で、相送って衢路に出づ。玄齢謂いて曰く、「公の生平の志尚、唯だ正直に在り。今既に従事と為るを得たり。故に応に素心を会う有るべし。比来濁を激し清を揚ぐる、為す所多少」と。文博遂に臂を奮い声を厲して曰く、「夫れ其の流を清くする者は必ず其の源を潔くし、其の末を正す者は須らく其の本を端くすべし。今政源混乱す。日に十の貪郡守を免くると雖も、亦た何の益かあらん」と。其の率直にして悪を疾む、忌諱を知らざる、皆此の類の如し。時に朝政浸く壞れ、人多く贓賄す。唯だ文博其の操を改めず。論者此を以て之を貴ぶ。乱に遭い播遷し、終わる所を知らず。

初め、文博内省に在りて校書す。虞世基の子も亦た其の内に在り、容服を盛んに飾るも未だ知る所無し。文博因りて従容として其の年紀を問う。答えて云く十八と。文博乃ち謂いて曰く、「昔賈誼此の年に当たり、何事を議論せし。君今徒だ儀容に事え、何を為さんと欲するか」と。又た秦孝王妃男を生む。文帝大いに喜び、群官に頒賜すること各差有り。文博家道屡く空し。人其の賞を悦ぶと謂う。乃ち云く、「賞罰の設けは、功過の帰する所なり。今王妃男を生む、群官に何事かあらん。乃ち妄りに賞を受くるなり」と。其の名を循り実を責め、過を録し功を計り、必ず賞罰を濫らせず、功過隠るること無からしむる、皆此の如し。

文博本経学を為す。後に史書を読み、諸子及び論に於て、尤も該洽す。性議論に長じ、亦た文を属するに善し。『政道集』十巻を著し、大いに世に行わる。

開皇中、又た魏郡の侯白有り。字は君素。好学して捷才有り、性滑稽、尤も辯俊なり。秀才に挙げられ、儒林郎と為る。通侻にして威儀を持せず、好んで俳諧雑説を為す。人多く之を愛狎し、在る所、観者市の如し。楊素甚だ之を狎む。素嘗て牛弘と朝を退く。白素に謂いて曰く、「日之夕矣」と。素大笑して曰く、「我を以て『牛羊下來』せしむるか」と。文帝其の名を聞き、召して語らしめ、之を悦び、秘書に令して国史を修めしむ。毎に将に擢用せんとすれど、輒ち「白は官に勝えず」と曰いて止む。後に五品食を給し、月余にして死す。時に人其の薄命を傷む。『旌異記』十五巻を著し、世に行わる。

明克譲

明克譲は、字を弘道といい、平原郡鬲県の人である。代々江南の朝廷に仕えた。祖父の僧紹、父の山賓は、ともに『南史』に伝がある。克譲は若くして儒雅で、談論をよくし、広く書史に渉猟し、読んだ書物はおよそ一万巻に及んだ。『三礼』『論語』には特に研究を深め、亀卜・策占・暦法・天象についても、その要領を得ていた。十四歳の時、初めて官に就き、湘東王の法曹参軍となった。時に舎人の朱異が儀賢堂で『老子』を講じたが、克譲もこれに参加した。堂の傍らに長く伸びた竹があったので、朱異が克譲にこれを詠ずるよう命じた。克譲は筆を取ればたちまちに成し、最後の句に「君の愛賞多からざれば、誰か此の貞心を貴ばん」と詠んだ。朱異はこれを大いに奇異とした。梁に仕えて中書侍郎の位に至った。梁が滅びると、長安に帰順し、麟趾殿学士に抜擢された。周の武帝が即位すると、露門学士となり、太史官の属僚とともに新暦を正定するよう命じられた。累進して司調大夫となり、歴城県伯の爵位を賜った。隋の文帝が禅譲を受けると、率更令の位にあり、侯に爵位を進めた。皇太子は師の礼をもって彼を遇し、恩礼は非常に厚く、四方から珍味が届くたびに、これを賜った。当時、東宮は盛んに天下の才学の士を徴用したが、博物洽聞の点では、皆克譲の下にあった。詔により太常の牛弘らと礼楽を修訂した。朝廷の典故について、多く裁定・訂正を行った。病気のため官を去り、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられて没した。皇帝は大いに惜しみ、皇帝・皇太子の両宮から贈賻は非常に厚かった。

著書に『孝経義疏』一部、『古今帝代記』一卷、『文類』四卷、『続名僧記』一卷、文集二十卷がある。

子の餘慶は、司門郎の位にあり、越王楊侗が称制した時、国子祭酒となった。

克譲の叔父の少遐は、広く群書に渉猟し、詞藻に優れた。梁に仕えて都官尚書の位に至った。北斉に入り、名流の王元景・陽休之らから非常に礼遇された。皇建年間、中庶子に任ぜられた。没後、中書令・揚州司馬を追贈された。

劉臻

劉臻は、字を宣摯といい、沛国相県の人である。父の顕は、『南史』に伝がある。劉臻は十八歳で秀才に挙げられ、邵陵王の東閣祭酒となった。元帝の時、中書舎人に遷った。江陵が平定されると、北魏に帰順して中書侍郎となった。周の塚宰宇文護に召されて中外府記室となり、軍書や羽檄は多く彼の手になるものであった。後に露門学士となり、大 都督 ととく を授けられ、饒陽県子に封ぜられた。藍田県令・畿伯下大夫を歴任した。隋の文帝が禅譲を受けると、位は儀同三司に進んだ。左僕射高熲が陳を伐つ時、劉臻を随軍させて文翰を主管させ、爵位を伯に進めた。皇太子楊勇は彼を学士に引き立て、非常に親しくした。

劉臻には吏務の才幹がなく、また性格がぼんやりしていて、経書に耽溺し深く思索した。世事については、多く忘れていた。劉訥という者もまた儀同の官にあり、ともに太子学士で、友情は非常に密であった。劉臻は城南に住み、劉訥は城東に住んでいた。劉臻がかつて劉訥を訪ねようとして、従者に言った。「お前は劉儀同の家を知っているか」。従者は劉訥を訪ねることを知らず、劉臻が自分の家に帰るのだと思い、答えて言った。「知っています」。そこで従者は彼を導いて行った。門を叩いた後も、劉臻はまだ気づかず、劉訥の家に着いたと思い、鞍によりかかって大声で呼んだ。「劉儀同、出て来られよ」。すると彼の子が門に出迎えたので、劉臻は驚いて言った。「お前も来たのか」。その子が答えて言った。「ここはあなたの家です」。そこで劉臻はしばらく見回した後、ようやく悟り、従者を叱って言った。「お前は全く意を用いない。私は劉訥を訪ねようとしたのだ」。性質として蜆を好んで食べたが、音が父の諱と同じため、扁螺と呼んだ。その疎放な振る舞いは多くこの類であった。

二つの『漢書』に精通し、当時の人は彼を「漢聖」と称した。開皇十八年、没した。文集十卷があり、世に行われた。

諸葛潁

諸葛潁は、字を漢といい、丹楊郡建康県の人である。祖父の銓は、梁の零陵太守。父の規は、義陽太守。潁は十八歳で文章を綴ることができ、初めて官に就き邵陵王参軍事となり、記室に転じた。侯景の乱の時、北斉に奔り、学士・太子舎人を歴任した。周が斉を平定した後、官職に就けず、門を閉ざして出ないこと十余年であった。『易』『図緯』『蒼頡篇』『爾雅』『荘子』『老子』を学び、その要領をかなり得て、清弁で俊才があった。晋王楊広はかねてよりその名を聞き、参軍事に引き立て、記室に転じた。王が太子となると、薬蔵郎に任ぜられた。

煬帝が即位すると、著作郎に遷り、非常に親幸され、寝所に出入りした。帝はしばしば私宴を賜うと、皇后や嬪御と連席共榻させた。潁は隙に乗じて、多く讒言・誹謗を行ったので、当時の人は彼を「冶葛(猛毒の草)」と呼んだ。後に旧恩を録して、朝散大夫を授けた。帝はかつて潁に詩を賜い、その最後の句に「参翰は長洲苑に、侍講は肅成門に、名理は研核を窮め、英華は討論に恣にす。実録は平允を資し、芳を伝えて後昆を導く」とあった。その待遇はこのようなものであった。吐谷渾征伐に従軍し、正議大夫を加えられた。帝の北巡に従駕し、道中で没した。

潁の性質は偏狭でせっかちであり、柳䛒としばしば憤り争った。帝はたびたび怒って責めたが、やはり止まなかった。その後、帝も彼を軽んじるようになった。文集二十卷があり、『鑾駕北巡記』三卷、『幸江都道里記』一卷、『洛陽古今記』一卷、『馬名録』二卷を撰し、ともに世に行われた。子に嘉会がいる。

王貞

王貞は、字を孝逸といい、梁郡陳留県の人である。幼少より聡明で、七歳で学問を好み、『毛詩』『礼記』『左氏伝』『周易』に通じ、諸史百家の書をことごとく読破した。文章を綴ることを得意とし、産業に努めず、常に諷詠読書を楽しみとした。開皇初年、汴州刺史の樊叔略が彼を主簿に引き立てた。後に秀才に挙げられ、県尉を授けられたが、好みに合わず、病気と称して家にいた。煬帝が即位し、斉王楊暕が江都を鎮守した時、その名を聞き、書を送って召し寄せた。到着すると、客礼をもって遇し、その文集を求めた。王貞は三十三卷を献上し、啓を奉って謝意を述べた。斉王が文集を覧て、非常に良しとし、良馬四頭を賜った。王貞はさらに『江都賦』を献上すると、王は銭十万貫、良馬二頭を賜った。間もなく、病が重くなり郷里に帰り、家で没した。

虞綽

虞綽は、字を士裕といい、會稽郡餘姚県の人である。父の孝曾は、陳の始興王の諮議であった。綽は身長八尺、姿形は甚だ雄偉で、博学にして俊才あり、特に草隸をよくした。陳の左 えい 將軍傅縡は、当世に盛名があったが、綽の詞賦を見て、賞賛した。陳に仕えて太學博士となり、永陽王記室に遷った。陳が滅亡すると、 しん 王楊廣が彼を引き立てて學士とした。大業の初め、秘書學士に転じ、詔を奉じて秘書郎虞世南、著作佐郎庾自直らとともに『長洲玉鏡』などの書十余部を撰した。綽が筆削したものは、帝が称善しないことはなく、しかしまさかの官はついに昇進しなかった。初め校書郎となり、藩邸の側近であったことから宣惠尉を授けられ、著作佐郎に遷った。虞世南、庾自直、蔡允恭ら四人と常に禁中に直し、文翰をもって詔を待ち、恩顧は厚く行き渡った。遼東征従に従い、帝が臨海に宿営した時、しばしば大鳥を見てこれを異とし、詔して綽に銘を作らせた。帝はこれを見て善とし、役人に命じて海上に刻ませた。遼東渡海の功により、建節尉を授けられた。

綽は才能を恃み気ままに振る舞い、誰に対してもへりくだることがなかった。著作郎の諸葛潁は学業をもって帝に寵愛されていたが、綽はしばしば彼を軽侮したため、ここにわだかまりが生じた。帝がかつて潁に綽のことを尋ねると、潁は「虞綽は粗略な人物です」と答えた。帝はうなずいた。時に礼部尚書楊玄感はその貴公子然とした振る舞いを称え、虚心に礼を尽くして交わり、布衣の友として結んだ。綽はしばしば彼と交遊した。その同族の虞世南が戒めて言うには、「上は猜疑忌避の性分であり、しかるに君は玄感に過分に厚くしている。もし絶交するならば、帝は君が悔い改めたと知り、咎められることはないであろう。そうでなければ、ついには禍いに遭うであろう」。綽は従わなかった。やがて、禁中の兵書を玄感に貸したと綽を告発する者があり、帝はこれを甚だ恨んだ。玄感が敗れると、その妓妾はことごとく宮中に入れられ、帝はそこで彼女らに問うて言った、「玄感は平常、どのような者と交際していたか」。その妾が虞綽と答えた。帝は大理卿鄭善果に命じてその事を徹底的に究明させた。綽は言った、「旅の身でささやかな交遊をし、玄感と文酒を交わし談笑しただけで、実に他の謀りごとはありません」。帝の怒りは解けず、綽を辺境に流した。綽は長安に至って逃亡した。役人が急いで捕らえようとしたので、そこで密かに江を渡り、姓名を変えて、自ら呉卓と称した。東陽に遊び、信安県令の天水郡の人辛大德の家に身を寄せた。一年余りして、綽は人と田を争って訴訟となり、そのため綽と知る者がいて告発したので、ついに役人に捕らえられ、江都で斬罪に処せられた。所有の詞賦は、ともに世に行われた。

大德は県令として、群盗を誅伐し切り、人心を得ること甚だしかった。綽とともに使者に捕らえられると、その妻が泣いて言った、「常に諫めて学士を匿わぬようにと言ったのに、今日の事は、哀れではありませんか」。大徳は笑って言った、「私はもともと長者(虞綽)を逃がそうと図ったのであり、人が告げたのである。私の罪である。綽に謝するために死ぬべきだ」。ちょうど詔があり、死罪の者は賊を討って自ら効力を示すことを以って許されることとなった。信安の吏民が使者のもとに赴き頭を叩いて言った、「辛君の命にかかわっております。そうでなければ信安もありません」。使者は彼を留めて賊討伐に当たらせた。帝は怒り、使者を斬った。大徳は全うされた。

王胄

王胄は、字を承基といい、琅邪郡臨沂県の人である。祖父の筠、父の祥は、ともに『南史』に伝がある。胄は若くして逸才があり、陳に仕え、太子舍人、東陽王文学を歴任した。陳が滅ぶと、 しん 王楊廣が引き立てて博士とした。仁寿の末、劉方に従って林邑を撃ち、功により帥 都督 ととく を授けられた。大業の初め、著作佐郎となり、文詞をもって煬帝に重んじられた。帝がかつて東都から京師に還った時、天下に大酺四日を賜った。五言詩を作り、詔して群官で詩を成した者は奏上させた。帝は胄の詩を見て善とし、侍臣に謂って言った、「気高くして致遠なるは、胄に帰す。詞清くして体潤うは、世基に在り。意密にして理新たなるは、ただ自直のみ。これらを過ぎる者は未だ詩を以って言うべからず」。帝の所有する詩篇は、多く彼らに継和させた。虞綽と齊名し、志を同じくして友好し、当時の後進の士は、みな二人を準拠とした。遼東征従に従い、朝散大夫に進めて授けられた。

胄の性質は粗略で礼儀に合わず、才能と功績を恃み、官途に鬱々としていた。常に意地を張って人を傲り見下し、時人を軽んじた。諸葛潁に嫉まれ、しばしば帝に讒言されたが、帝はその才を愛して罪としなかった。礼部尚書楊玄感は虚心に交わり、しばしばその邸に遊んだ。玄感が敗れると、虞綽とともに辺境に流された。胄はついに逃亡して身を潜め、密かに江左に還った。役人に捕らえられ、誅殺に坐した。著した詞賦は、多く世に行われた。

兄の翽は、字を元恭という。博学で多くのことに通じ、若くして江左に盛名があった。陳に仕え、太子洗馬、中舍人を歴任した。陳が滅び、胄とともに學士となった。煬帝が即位すると、秘書郎を授けられ、官に在るうちに卒した。

庾自直

庾自直は、潁川郡の人である。父の持は、『南史』に伝がある。若くして学を好み、沈静で寡欲であった。陳に仕え、 章王府外兵参軍、記室を歴任した。陳が滅び関中に入ったが、任用されなかった。 しん 王楊廣がこれを聞き、引き立てて學士とした。大業の初め、著作佐郎を授けられた。自直は文を属することを解し、五言詩に特に善かった。性質は恭しく慎み深く、妄りに交遊しなかった。特に帝に愛され、詩篇があれば必ずまず自直に示し、その批評を求めた。自直が難じると、帝はこれを改めた。あるいは再三に及び、その称善するのを待って、ようやく外に出した。このように親しく礼遇された。後に本官のまま起居舍人の事を知った。化及が逆をなすと、これとともに北上し、自ら露車に乗り、感激して発病し卒した。文集十巻があり、世に行われた。

潘徽

潘徽は、字を伯彥といい、吳郡の人である。性質は聡明で敏速、若くして鄭灼に『礼』を、施公に『毛詩』を、張沖に『書』を学び、張譏に『莊子』『老子』を講じ、いずれも大義を通じた。特に『三史』に精通した。文を属することを善くし、議論を立てることができた。中書令江總が文儒の士を招き寄せると、徽は一度總に詣で、甚だ敬われた。新蔡王國侍郎に初任し、選ばれて客館令となった。隋が魏澹を陳に聘問させると、陳人は徽にこれに対応させた。澹が返命しようとする時、陳主への啓(上奏文)に「敬奉弘慈、曲垂餞送」と書いた。徽は餞送を重んじ、敬奉を軽んずるものとして、その啓を退けて奏上しなかった。澹が言うには、「『曲礼』に云う、主は客を敬うと。『詩』に云う、『維桑與梓、必恭敬止』。『孝経』に、『宗廟致敬』。また云う、『其の親を敬わざる、之を悖礼と謂う』。孔子は天の怒りを敬い、成湯は聖敬日に躋る。宗廟は極めて重く、上天は極めて高く、父は極めて尊く、君は極めて貴し。この四者はみな同じく一つの敬であり、『五経』に異なる文はない。敬を軽しとするのが、果たして何に拠るのか」。徽がこれに難じて言うには、「先ほど論じた敬の字は、もともと全面的に軽いとするものではなく、ただ用いられる処が異なり、意味が通じるものと別のものとが成るのである。礼は敬を主とす、これは通説である。ちょうど男子が冠して字を付けるのに、注に『成人、其の名を敬うなり』とあるようなものである。『春秋』に冀缺あり、夫婦もまた相敬うと云う。子に対しては敬名の義があり、夫においても敬妻の説がある。これらをまた並べて極めて高く極めて尊いと言えるだろうか。至って『敬謝諸公』と言えば、固より尊ぶべき地ではない。『公子敬愛』は、ただ賓友に施すのみ。『敬問』『敬報』は、ますます雷同を見る。『敬聽』『敬酬』は、何ぞ貴賤の隔たりに関わらん。当に知るべし、敬の義と為すは、軽からざるものではあるが、ただ語としての敬は、時に混漫することがある。今『敬奉』と云う、それ故に疑いが成るのである。聊か一隅を挙げたまでで、深い根拠とは為さない」。澹は答えることができず、従ってこれを改めた。

陳が滅亡すると、州博士となった。秦王楊俊はその名を聞き、学士として召し出した。かつて楊俊に従って京師に朝した。途上において、楊俊は徽に馬上で賦を作ることを命じ、一駅を過ぎる間に完成した。その名を『述恩賦』という。楊俊はこれを見て善しとした。また『萬字文』を作ることを命じた。さらに字書を撰集することを命じ、名を『韻纂』とし、徽がその序文を書いた。楊俊が薨去すると、 しん 王楊廣は再び揚州博士に引き立て、諸儒とともに『江都集禮』一部を撰述することを命じ、また徽に序文を書かせた。煬帝が位を嗣ぐと、徽は著作郎陸従典、太常博士褚亮、歐陽詢らとともに越公楊素を助けて『魏書』を撰述したが、楊素が薨去したために止んだ。京兆郡博士を授けられた。楊玄感兄弟は彼を重んじ、しばしば往来した。楊玄感が敗れると、交際のあった者は多くその禍いに罹った。徽は楊玄感の旧友であったため、帝に悦ばれなかった。役人はその意を迎え、徽を西海郡威定県主簿として出した。心中甚だ不平であり、隴頭に至ったところで発病し、卒した。

隋の時代に常得志、尹式、劉善経、祖君彥、孔德紹、劉斌がおり、いずれも才名があり、事績は多く散逸している。

常得志

常得志は京兆の人である。隋の秦王の記室であった。秦王が薨去すると、その旧邸を訪れ、五言詩を作った。その文辞と道理は悲壮であり、当時の人々に甚だ重んじられた。また『兄弟論』を作り、その義理は称賛に値するものであった。

尹式

尹式は河間の人である。仁寿年間に、官は漢王記室に至った。漢王が兵を擁して抵抗すると、式は自殺した。その一族の正卿、彦卿もまたともに俊才があり、世に名を顕わした。

劉善経

劉善経は河間の人である。著作佐郎、太子舎人を歴任した。『酬徳伝』三十巻、『諸劉譜』三十巻、『四声指帰』一巻を著し、世に行われた。

祖君彥

祖君彥については、その父祖珽の伝に見える。

孔德紹

孔德紹は会稽の人である。清らかな才があり、官は京城県丞に至った。竇建徳が中書令に任じ、専ら書檄を司った。竇建徳が敗れると、誅殺された。

劉斌

劉斌は南陽の人である。祖父の劉之遴は『南史』に伝がある。斌は頗る詞藻に優れ、官は信都司功書佐に至った。竇建徳が中書舎人に任じた。竇建徳が敗れると、再び劉黒闥の中書侍郎となった。劉黒闥とともに突厥に亡命し、その後の消息は知れない。

【論】

論ずるに、古人が不朽の名を貴ぶのは、おそらくその言葉がなお存することを重んずるからである。王褒・庾信・顔之推・虞世基・柳䛒・許善心・明克讓・劉臻・王貞・虞綽・王胄らは、いずれも南方の声望を極め、さらに才名を加えている。彼らが貴顕であるのは、もとより当然である。その他の者は、あるいは位は低く人も微かであり、平居していてどうして自ら顕達できようか。しかし、霊蛇を握るべき時が来て、天網がともに弛むに及んで、ともに縹緗に編まれ、ことごとく辞林に貫かれた。その位は下げられ、その身は殺されても、千載の後には貴賤は一つである。この道によらなければ、どうしてこれを成し得ようか。およそ百の士子よ、努めざるべけんや。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻083