沈重、樊深、熊安生、楽遜、黎景熙、冀俊、趙文深、辛彦之、何妥、蕭該、包愷、房暉遠、馬光、劉焯、劉炫、褚暉、顧彪、魯世達、張沖、王孝籍
沈重は、字を子厚といい、呉興郡武康県の人である。性質は聡明で悟りが早く、幼くして孤児となり、喪に服する礼を適切に守った。成長すると、儒学に専心し、師を求めて千里の遠方にも赴いた。ついに群書を博覧し、特に『詩経』と『左氏春秋』に通暁した。梁の武帝は学官を高く位置づけ、儒教を尊ぼうとした。中大通四年、選任を改め、沈重を国子助教に補任した。後に『五経』博士に任じられた。梁の元帝が藩王であった時、彼を大いに称賛し異才と認めた。即位すると、主書の何武を遣わして沈重を西上させ迎えさせた。
樊深は、字を文深といい、河東郡猗氏県の人である。継母に仕えて甚だ謹み深く、弱冠にして学を好み、書物を背負って河西に師を求め、『五経』を講習し、昼夜倦むことがなかった。北魏の永安年間、軍に従って征討し、功により累進して中散大夫となった。かつて読書し、吾丘子(の故事)を見て、帰郷して父母に仕え養った。
孝武帝が西遷すると、樊・王の二姓が義挙を起こし、西魏によって誅殺された。樊深の父の保周と叔父の歓周はともに害された。樊深は難を避け、崖から落ちて足を傷め、二晩絶食した。その後、一かごの餅を得て、食べようとしたが、継母が年老いて麻痺していること、あるいは虜掠を免れているかもしれぬことを思い、食べなかった。夜中に匍匐して探し求め、母に会うことができ、それで母に食べさせた。再び逃げ去り、姓名を改め、汾・晋の間を遊学した。天文と算暦の術を習得した。後に人に告発され、囚われて河東に送られた。折しも東魏の将軍韓軌の長史である張曜が彼の儒学を重んじ、樊深を家に招いたため、これによって逃げ隠れることができた。北周の文帝が河東を平定すると、保周に南郢州刺史を、歓周に儀同三司を追贈した。樊深は帰って父を葬り、土を背負って墳墓を築いた。
樊深は経書に専攻した上で、諸史および『倉頡篇』『爾雅』、篆書・籀文、陰陽、卜筮の書を読んだ。学問は博識であったが、弁舌に鈍く、故に当時に称されなかった。『孝経』『喪服問疑』を各一卷撰した。また『七経異同』三卷を撰した。子に義綱がいる。
安生は儒学の宗師となって学び、かつてその教えを受けて後世に名を馳せた者に、馬栄伯・張黒奴・竇士栄・孔籠・劉焯・劉炫らがあり、皆その門人である。撰した『周礼義疏』二十巻、『礼記義疏』三十巻、『孝経義』一巻は、並びに世に行われる。安生は同郡の宗道暉・張暉・紀顕敬・徐遵明らと祖師となった。道暉は高翅帽・大屐を好んで着用し、州将が初めて着任すると、直ちにそれを着用して謁見し、頭を仰ぎ肘を挙げて、屐の上で拝礼し、自ら学士は三公に比すと称した。後斉の任城王高湝が彼を鞭打つと、道暉はゆっくりと安偉を呼び、安偉が出て来て、人に言うには「私は鞭を受けたが、漢の体ではない」と。再び屐を履いて去った。冀州の人々は彼らのことを「顕公の鐘、宋公の鼓、宗道暉の屐、李洛姫の腹」と謡い、これを四大と称した。顕公は沙門であり、宋公は安德太守である。洛姫は婦人である。
安生が山東にいた時、毎年遊講し、彼に従う者は郡県を傾けるほどであった。ある者が彼を欺いて言うには「某村の古い鵒塚は、晋の河南将軍熊光のもので、七十二世を経ている。かつて碑があったが、村人に埋め隠された」と。安生は地を掘ってそれを求めたが得られず、連年訴訟した。冀州長史鄭大讙がこれを判決して言うには「七十二世とは、すなわち羲皇の上代の人である。河南将軍は、晋にこの号はない。訴えは道理に合わない記録である」と。安生はその一族を率いて鵒塚に向かって号泣した。名を通そうとして、徐之才と和士開の二人が相対しているのを見て、徐之才の諱が「雄」、和士開の諱が「安」であるため、遂に「触触生」と称した。群公はこれを嗤った。
遜の性質は柔和で謹み深く、交遊少なく、立身は忠信を本とした。自ら誇ることはなかった。毎度衆人の言論にあって、未だ嘗て人の先んずることはなく、学者はこれをもって彼を称えた。著した『孝経』・『論語』・『毛詩』・『左氏春秋序論』十余篇。また『春秋序義』を著し、賈逵・服虔の説を通じ、杜預の違うところを発明し、文辞と道理ともに見るべきものがある。
初め、周にはまた黎景熙があり、古学で顕れた。
黎景熙は字を季明といい、河間鄭の人である。少くより孝行をもって世に聞こえた。曾祖父の嶷は、魏の太武帝の時、軍功により爵を容城県男に賜り、後に燕郡守となった。祖父の鎮・父の瓊は、並びに爵を襲った。季明は少くより読書を好み、性質は記憶力が強く黙識したが、応対の才能はなかった。その従祖父の広は、太武帝の時の尚書郎で、古学に優れていた。常に吏部尚書清河の崔宏に従って字義を受け、また司徒崔浩に従って楷篆を学び、ここより家伝の法となった。季明もまた伝習し、頗る許慎の説と異なるところがあった。また玄象を好み、頗る術数を知ったが、落魄して生業に従わなかった。書物千余巻を有した。窮居独処であっても、飢寒をもって操を変えなかった。范陽の盧道源と莫逆の交わりを結んだ。永安年中、道源が入仕を勧めたので、始めて威烈将軍となった。孝武帝が西遷すると、季明は乃ち伊洛に寓居した。侯景が河外の地を巡ると、季明を召して従軍させ、稍く黎陽郡守に遷った。季明は従って懸瓠に至り、侯景が終に恃むに足らざるを察して、遂に去った。潁川に客居した。時に王思政が潁川を鎮守し、累次使者を遣わして季明を召し、内館に留めた。一月余りして、周の文帝また征召したので、遂に関中に入った。乃ち季明に命じて東閣で古今の文字を正定させた。大統末年、著作佐郎に拝された。当時、同輩は皆位は常伯を兼ね、車服は華盛であったが、唯季明のみ貧素を以てこれに居り、愧色がなかった。また職務に勤勉で、著述を怠らなかった。しかし性質は特に専固で、時流に合わず、ここをもって一旦史官となると、遂に十年間転任しなかった。武成末年、外史下大夫に遷った。
臣は聞く、成湯は旱魃に遭い、六事を以て自ら陳べた。宣王の時は甚だしく、圭璧はここに尽きたと。豈に遠く元元を慮い、俯して黎庶を哀しまざらんや。今は農の要なる月に、時雨なお欠け、率土の心は、渇仰の思いを懐いている。陛下は万類に情を垂れ、群生を子の如く愛し、百神に礼を覲したが、なお豊かに融和していない。豈に或いは事を作すに節なく、時令に違い、挙措中を失い、当にこの旱を招いたのではないか。
当時、豪富の家は競って奢侈華美を極めていた。季明はまた上書して言った。
臣は聞く、寛大であることが兼ねて覆う所以であり、慈愛であることが衆を懐かしめる所以であると。故に天地はその高厚を称えられ、万物はその包容と養育を得る。四時はその寒暑を顕著にし、庶類はその忠信に依拠する。これにより帝王たるものは、寛大さにおいて天地に象り、忠信において四時に則る。招搖星が東を指せば、天下は春を知る。人君が徳を布けば、領土の民はその恵みを懐く。伏して惟うに、陛下は乾の徳を資として宇内を統治され、万物ことごとく亨通し、時に六龍に乗り、自ら強いて止まず、よく問い諫言を受け容れられることは、天下の幸いである。
古より至道の君主もまた、皆広く延べ博く訪ね、樵夫や草刈りの意見をも採り上げ、諫鼓を置き誹謗の木を立てて、自らの過ちを求めた。近ごろ旱魃が長引き、人々は豊作を望んでいたが、陛下は明詔を発し、広く六つの病弊を求められ、禹や湯のごとく自らを責め、宋の景公の正を守る高さに倣われた。慈雨は時に応じて降り、穀物はこれにより実った。己に克ち用を節し、質素を慕い華美を去ることは、これ既に尊ぶべきことである。しかしながら、朱紫の衣はなお街路に輝き、綺縠の織物はなお豪富に侈り、短い粗衣は庶民に満たされず、糟糠さえも編戸の民は飽くことを得ない。これは勧導の理が、未だ行き届いていない故である。今、礼をもって導き、刑をもって整えても、風俗は固より一にするは難しい。昔、漢の文帝は上書の袋を集めて帷帳とし、十家の財産を惜しんで露台を造らなかった。後宮の寵姫も、衣裾を地に引きずらず、今日の富室の装飾と比べれば、嘗て婢隷の服装にも及ばなかった。しかしながら、自ら率先して下に範を示し、国は富み刑罰は清らかとなり、廟号を太宗と称されるのは、まことに由緒あることである。臣は聞く、聖人はその道に久しくあって天下が教化される、と。今、魏氏の衰乱の後に承け、貞信は未だ興らず。宜しく先ず五美を尊び、四悪を退け、浮華の俗を革め、流れ競うの風を抑え、鴻都門学の如き小技を察し、雉頭裘の如き異服を焼き、益なき貨物を時に重んぜず、徳を損なう器物を側に陳べず、そうすれば人は徳を知るであろう。
臣はまた聞く、政治の要は、選挙にあると。もし毫厘の差があれば、千里の失いを生じ、後来の者が上位に居れば、積薪の譏りを招く。これにより古の善く政を為す者は、貫魚の如く順序を以てし、任用は必ず才能を以てした。朝廷において人に爵位を与えるに、私的な寵愛を以てしなかった。才能を選んでその官に授け、能力を量ってその用に任せた。官はその才を得、任はその用に当たり、六つの手綱が調えば、坐して千里を致す。虞舜が衆の中から選んだ時、不仁な者は遠ざき、則ち諸事は安んじ、人はその教化を知ったのである。
帝はこれを見て賞賛した。
また周の文帝(宇文泰)の初め、天下が分崩に属し、当時学術の士は少なく、故に曲学や末技の者も、皆引き入れられた。冀俊・趙文深の徒に至っては、才は昔人に愧じるも、世に名を著わし、共に収用された。
冀俊は、字を僧俊といい、太原郡陽邑県の人である。性格は沈着謹厳で、隷書をよくし、特に模写に巧みであった。初め賀抜岳の墨曹参軍となった。岳が害されると、周の文帝(宇文泰)は彼を記室に引き立てた。当時、周の文帝は侯莫陳悦を討平しようと志し、俊に命じて魏帝の勅書を偽造し、費也頭(破野頭氏か)に与え、兵を率いて周の文帝を助け悦を討たせようとした。俊は旧い勅書を模写し、代わって舍人・主書などの署名をし、本物と異なる所がなかった。周の文帝は大いに喜んだ。費也頭は勅書を見て疑わず、遂に兵を遣わして周の文帝の節度を受けた。大統初年、長安県男に封ぜられ、弘農征伐に従い、沙苑の戦いに臨み、爵を子に進めた。累遷して襄楽郡守となった。まもなく召還され、明帝(宇文毓)及び宋献公(宇文震)らに隷書を教えた。当時、俗に書学を習う者も束修の礼を行い、これを謝章といった。俊は、文字の興りは蒼頡に始まるとし、もし通常の俗礼と同じくするのは礼に合わないと考え、周の文帝に啓上し、蒼頡及び先聖・先師に釈奠を行うことを請うた。黄門侍郎・本州大中正に除せられた。累遷して湖州刺史となった。静かに退き、常に清廉倹約を以て自ら処した。前後歴任した所は、頗る名声があった。まもなく驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。後に爵を昌楽侯に進め、卒した。
辛彥之は隴西狄道の人である。祖父の世敘は魏の涼州刺史であった。父の霊補は周の渭州刺史であった。彥之は九歳で孤児となり、非類とは交わらなかった。経史に広く渉猟し、天水の牛弘と志を同じくして学問を好んだ。後に函谷関を入り、京兆に家を定めた。周の文帝(宇文泰)は彼を見て器量あるものとし、中外府礼曹に引き立て、衣・馬・珠玉を賜った。当時は国家草創の期であり、朝廷の貴人多くは武人出身であったが、儀注を修定するのは、ただ彥之のみであった。まもなく中書侍郎に任ぜられた。周の閔帝が禅譲を受けると、彥之は小宗伯の盧辯とともに、専ら儀制を掌った。典祀・太祝・楽部・御正の四曹大夫を歴任し、開府儀同三司に至り、五原郡公に封ぜられた。宣帝が即位すると、小宗伯に任ぜられた。時に帝は五人の皇后を立てようとしたが、彥之は強く諫めた。これにより帝の意に逆らい、官を免ぜられた。
隋の文帝が禅譲を受けると、太常少卿に任ぜられ、任城郡公に改封され、開府の位に進んだ。国子祭酒・礼部尚書を歴任した。秘書監の牛弘とともに新礼を撰した。帝はかつて彥之に沈重と議論させたところ、重は抗しきれず、席を避けて謝して言うには、「辛君のいわゆる金城湯池、攻むべき勢いなし」と。帝は大いに喜んだ。後に随州刺史に任ぜられた。当時、州牧は多く珍玩を貢いだが、ただ彥之の貢ぐものは、いずれも祭祀に供える類のものであった。上(文帝)は朝臣に言った、「人はどうして学問がなくてよいものか。彥之の貢ぐものは、古を稽える力によるものである」と。潞州刺史に転じ、前後ともに恵みある政績があった。彥之はまた仏道を崇信し、城内に二つの浮図(仏塔)を建立し、いずれも十五層であった。開皇十一年、州人張元が急死し、数日後に蘇生した。天に遊び、新たに構えられた一堂を見たが、その造りは極めて崇高華麗であった。元がその故を問うと、潞州刺史辛彥之に功徳があるので、この堂を造って彼を待つのだという。彥之はこれを聞いて喜ばなかった。その年に卒去し、諡して宣といった。
彥之は『墳典』一部、『六官』一部、『祝文』一部、『礼耍』一部、『新礼』一部、『五経異義』一部を撰し、いずれも世に行われた。子の孝舒・仲龕は、ともに早くから美しい名声があった。
何妥は字を棲風といい、西城の人である。父の細脚胡は、商売のために蜀に入り、郫県に家を定めた。梁の武陵王蕭紀に仕え、金帛の管理を主として、これにより巨富を得、西州の大賈と号された。妥は幼少より機敏で、八歳の時に国子学に遊学した。助教の顧良が戯れて言うには、「汝の姓の何は、荷葉の荷か、それとも河水の河か」と。妥は声に応じて答えて言うには、「先生の姓の顧は、眷顧の顧か、それとも新故の故か」と。人々は皆これを異とした。十七歳で、伎巧をもって湘東王(蕭繹)に仕えた。後にその聡明さを知られ、誦書左右に召された。時に蘭陵の蕭翽もまた俊才があり、青楊巷に住み、妥は白楊頭に住んだ。当時の人はこれについて語って言うには、「世に両俊あり、白楊の何妥、青楊の蕭翽」と。そのように称賛されたのである。
江陵が平定されると、周に入り、太学博士として仕えた。宣帝が初めて五人の皇后を立てようとした時、儒者の辛彥之に問うた。彥之は答えて言うには、「后は天子と匹体し尊貴を同じくするもので、五人は宜しくない」と。妥は駁して言うには、「帝嚳には四妃があり、舜にもまた二妃があった。どうして常の数があるというのか」と。これにより襄城県男に封ぜられた。文帝(楊堅)が禅譲を受けると、国子博士に任ぜられ、通直散騎常侍を加えられ、爵位を公に進めた。
妥の性格は強情でせっかちであり、口才があり、人物の是非を好んで論じた。納言の蘇威がかつて上(文帝)に言うには、「臣の先人は常に臣を戒めて云いました。ただ『孝経』一卷を読めば、十分に身を立て国を治めることができる。多くを為す必要はない、と」と。上もまたこれを然りとした。妥が進み出て言うには、「蘇威が学んだものは、『孝経』だけではないでしょう。その父に確かにこの言葉があったならば、威が訓に従わないのは、これが不孝である。もしこの言葉がなかったならば、面と向かって陛下を欺くのは、これが不誠実である。不誠実で不孝な者が、どうして君に仕えることができましょうか。かつて夫子(孔子)はまた云われた。『詩を読まざれば以て言うこと無く、礼を読まざれば以て立つこと無し』と。どうして蘇綽が子を教えるのに、独り聖人の訓に反することが許されましょうか」と。威は当時五つの職務を兼ねており、上は彼を非常に親しく重んじていた。妥はこれにより蘇威は信任すべきでないと上奏した。また、天文律度を掌ることについて、いずれもその職にふさわしくないとして、妥は八つの事柄を上書して諫めた。
その後、上は何妥に命じて鐘律を考定させた。何妥はまた上表して言った。
臣は聞く。明らかなるものには礼楽があり、幽なるものには鬼神がある。されば天地を動かし、鬼神を感ずるものは、礼楽に近きものはない。また云う。楽至れば則ち怨み無く、礼至れば則ち争わず。揖譲して天下に臨む者は、礼楽の謂いである。臣は聞く。楽には二つある。一は奸声、二は正声である。夫れ奸声は人を感ずれば逆気これに応じ、正声は人を感ずれば順気これに応ず。順気は象を成し、故に楽行きて倫清く、耳目聡明、血気平和、風俗を移し易え、天下皆寧し。孔子曰く、『鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ』と。故に鄭・衛・宋・趙の声出ずれば、内には則ち疾を発し、外には則ち人を傷う。ここをもって宮乱れば則ち荒れ、その君驕る。商乱れば則ち破れ、その官壊る。角乱れば則ち憂え、その人怨む。徴乱れば則ち哀しみ、その事勤し。羽乱れば則ち危うく、その財匱う。五者皆乱れば、則ち国亡ぶる日無し。
魏の文侯が子夏に問うて言った。『我れ端冕して古楽を聴けば、則ち眠らんと欲し、鄭衛の音を聴けば倦まず。何ぞや』。子夏対えて言った。『夫れ古楽というものは、始めに文を奏し、復た武を以て乱す。身を修め家に及び、天下を平均す。鄭衛の音というものは、奸声以て乱れ、溺れて止まず、優雑子女、父子を知らず。今君の問うところは楽なり、愛する所は音なり。夫れ楽と音とは、相近くして同じからず。人君たるものは、謹んでその好悪を審らかにすべし』。案ずるに、聖人の楽を作すは、ただ苟くも耳目を悦ばすのみに非ず。宗廟の内に在りては君臣同じくこれを聴き、則ち和敬せざる無からんことを欲し、郷里の内に在りては長幼同じくこれを聴き、則ち和順せざる無からんことを欲し、閨門の内に在りては父子同じくこれを聴き、則ち和親せざる無からんことを欲す。これ先王の楽を立てる方なり。故に声を知りて音を知らざる者は、禽獣これなり。音を知りて楽を知らざる者は、衆庶これなり。故に黄鐘・大呂、弦歌干戚、童子皆能くこれを舞う。能く楽を知る者は、それ惟だ君子のみ。声を知らざる者は以て音を言うべからず、音を知らざる者は以て楽を言うべからず、楽を知れば則ち道に幾し。紂は無道たりしに、太師楽器を抱いて周に奔る。晋君の徳薄しきに、師曠固より清徴を惜しむ。
上古の時、未だ音楽有らず、腹を鼓し壌を撃ちて、楽その間に在り。『易』に曰く、『先王楽を作して徳を崇くし、殷かにこれを上帝に薦め、以て祖考に配す』と。黄帝『咸池』を作し、顓頊『六莖』を作し、帝嚳『五英』を作し、堯『大章』を作し、舜『大韶』を作し、禹『大夏』を作し、湯『大濩』を作し、武王『大武』を作すに至る。夏より以来、年代久遠、唯だ名字有るのみ、その声は聞くを得ず。殷より周に至るまで、『詩』の頌に備わる。故に聖賢より已下、多く楽を習う者あり、伏羲の瑟を減じ、文王の琴を足し、仲尼の磬を撃ち、子路の瑟を鼓し、漢高の築を撃ち、元帝の簫を吹くに至るまで。
漢祖の初め、叔孫通は秦の楽人に因り、宗廟の楽を制す。神を廟門に迎えるに、『嘉至の楽』を奏す。猶お古の降神の楽なり。皇帝廟門に入るに、『永至の楽』を奏す。行歩の節と為す。猶お古の『采薺』『肆夏』なり。乾豆上りて薦むるに、『登歌の楽』を奏す。猶お古の清廟の歌なり。登歌再び終わりて、『休成の楽』を奏す。神の饗うを美とす。皇帝東廂に就き坐定するに、『永安の楽』を奏す。礼の成るを美とす。その『休成』『永至』の二曲は、叔孫通の制する所なり。漢の高祖廟に、『武徳』『文始』『五行の舞』を奏す。春秋の時に当たり、陳の公子完斉に奔る。陳は舜の後なり、故に斉に『韶』楽有り。孔子斉に在りて韶を聞き、三月肉の味を知らずとはこれなり。秦の始皇斉を滅ぼし、『韶』楽秦に伝わる。漢の高祖秦を滅ぼし、『韶』楽漢に伝わる。漢の高祖名を改めて『文始』と為し、以て相襲わざるを示す。『五行舞』というものは、本は周の『大武』の楽なり、始皇改めて『五行』と曰う。孝文に及び、復た『四時の舞』を作し、以て天下安和、四時順なるを示す。孝景『武徳舞』を采りて『昭徳』と為し、孝宣また『昭徳』を采りて『盛徳』と為す。その名を変うるも、大抵皆秦の旧事に因る。晋・魏に至るまで、皆古楽を用う。魏の三祖、並びに楽辞を制す。永嘉播越より、五都傾蕩し、楽声南度し、ここを以て大いに江東に備わる。宋・齊已来、梁代に至るまで、行う所の楽事、猶お皆古を伝う。三雍四始、実に大盛と称す。侯景の篡逆に及び、楽師分散し、その四舞三調、悉く偽斉に度る。斉氏伝受を知るも、曲を得てこれを宗廟朝廷に用いざるなり。
臣は少くより音律を好み、管弦に留意す。年耆老と雖も、頗る皆記憶す。東土克定に及び、楽人悉く反り、その逗留を問うに、果たして云う、是れ梁人の教うる所なりと。今三調四舞、並びに皆手有り。精熟せずと雖も、亦頗る雅声を具う。若し教習伝授せしめば、庶くは古楽の流伝するを得ん。然る後にその会帰を取り、その指要を撮り、因循損益し、更に嘉名を制し、盛徳を当今に歌い、雅正を来葉に伝うれば、豈に美ならずや。謹んで三調四舞の曲名を具録し、又別の如く歌辞を制す。その声曲流宕にして、殿庭に陳ぶべからざるもの有らば、亦悉くこれを後に附す。
時に上方蘇夔をして太常に在らしめ鐘律に参議せしむ。蘇夔に建議有り、朝士多これに従う。何妥独り同からず、毎に蘇夔の短を言う。帝その議を下す。群臣多く何妥を排す。何妥復た封事を上し、得失を指陳し、大抵時政の損益を論じ、並びに当世の朋党を指斥す。ここにおいて蘇威及び吏部尚書盧愷・侍郎薛道衡等皆坐して罪を得。伊州刺史を除くも、行かず。尋いで国子祭酒と為り、官に卒す。諡して肅と曰う。
『周易講疏』三巻・『孝経義疏』二巻・『荘子義疏』四巻を撰す。沈重等と『三十六科鬼神感応等大義』九巻・『封禅書』一巻・『楽要』一巻・文集十巻を撰し、並びに世に行わる。
当時、江南より来たる学士の中に、蕭該と包愷は共に名を知られていた。
蕭該は蘭陵の人である。梁の鄱陽王蕭恢の孫であり、幼少時に攸侯に封ぜられた。荊州が平定されると、何妥と共に長安に至った。性質は学問に篤く、『詩経』『書経』『春秋』『礼記』に通じて大義を理解し、特に『漢書』に精通し、貴遊の間で大いに礼遇された。開皇初年、山陰県公の爵位を賜り、国子博士に任ぜられた。詔を奉じて何妥と共に経史の正定に当たった。しかし互いに自説を執り、次々と相手の非を論じたため、長くして完成しなかった。帝は譴責してこれを罷めさせた。蕭該は後に『漢書音義』及び『文選音義』を撰し、いずれも当時に重んぜられた。
包愷は字を和楽といい、東海の人である。その兄の包愉は『五経』に明るく、愷はその学業を悉く伝授された。さらに王仲通に従って『史記』『漢書』を受け、特に精究したと称された。大業年間、国子助教となった。この時『漢書』を学ぶ者は蕭該・包愷の二人を宗とし、遠近より学徒を集めて教授する者は数千人に及んだ。没すると、門人が墳墓を築き碑を立てた。
房暉遠は字を崇儒といい、恆山真定の人である。代々儒学を伝えた。暉遠は幼少より志操行いに優れ、『三礼』『春秋三伝』『詩経』『書経』『周易』に明るく、図緯をも兼ねて善くした。常に教授を務めとし、遠方より笈を負って従う者は、動けば千を数えた。北斉の南陽王高綽が定州刺史となった時、その名を聞き、博士として召し出した。北周の武帝が北斉を平定し、儒俊を捜訪すると、暉遠は真っ先に辟命に応じ、小学下士を授けられた。隋の文帝が禅を受けると、太常博士に遷った。太常卿の牛弘はしばしば彼を『五経』の庫と称した。吏部尚書韋世康がこれを推薦し、太学博士に遷った。まもなく沛公鄭訳と共に楽章を修正した。後に再び太常博士となり、間もなく抜擢されて国子博士となった。折しも帝が国子生で一経に通じる者を悉く薦挙し、抜擢任用しようとした。策問が終わると、博士たちは直ちに優劣を定めることができなかった。祭酒の元善が怪しんで問うと、暉遠は言った、「江南と河北では、義例が異なり、博士は遍く渉猟することができません。学生は皆、自分の短所を主張し、自分の長所を称えます。博士たちは各自疑いを持つので、長くして決しないのです。」祭酒はそこで暉遠に考定させると、暉遠は筆を取って即座に判定を下し、初めから疑滞がなかった。あるいは服しない者がいると、暉遠はその伝える義疏を問い、直ちに始めから終わりまで誦じ、それからその短所を指摘した。これ以後、非を飾る者は無くなった。試みた四、五百人は、数日で決着した。諸儒はその通博を推服せざるはなく、皆、自ら測り知れないと思った。まもなく詔を奉じて令式の編纂に参与した。文帝はかつて群臣に言った、「古より天子に女楽はあったか。」楊素以下、出典を知る者なく、遂に女楽は無いと言った。暉遠は言った、「臣は聞きます、'窈窕たる淑女、鐘鼓以て之を楽しましむ'と。これ即ち王者の房中の楽であり、『雅』『頌』に著わされております。無いとは言えません。」帝は大いに喜んだ。仁寿年間、官のまま卒した。朝廷は嗟惜し、賵賻は甚だ厚く、員外散騎常侍を追贈された。
馬光は字を栄伯といい、武安の人である。少より学を好み、師に従うこと数十年、昼夜休むことなく、図書讖緯を、畢く覧ざるはなかった。特に『三礼』に明るく、儒者の宗とされた。
隋の開皇初年、山東の義学の士を徴すると、光は張仲讓・孔籠・竇仕栄・張買奴・劉祖仁等と共に至り、並びに太学博士を授けられ、当時、六儒と号された。しかし皆、鄙野で儀範がなく、朝廷はこれを貴ばなかった。仕栄はまもなく病没した。仲讓は間もなく帰郷を願い出て、書物十巻を著し、自ら言った、「この書が奏上されれば、必ず宰相となるであろう。」またしばしば玄象の事を言った。州県が列上したため、ついに誅殺に坐した。孔籠・張買奴・劉祖仁も間もなく譴責を受けて亡くなった。ただ光のみが存命した。
かつて釈奠の際、帝が親しく国子学に幸し、王公以下が畢集した時、光が座に昇って『礼』を講じ、章門を啓発した。やがて諸儒生が順次論難した者十余りは、皆当時の碩学であった。光は疑滞を剖析し、言葉は俊弁ではなかったが、『礼』の義は弘大豊かであった。論者はその浅深を測り知れず、皆共に推服した。帝は嘉して労った。山東の『三礼』学者は、熊安生の後、ただ光一人を宗とするのみであった。初め瀛州・博州の間で教授し、門徒は千を数え、この時多くは笈を負って長安に従い入った。後数年、母の憂いに遭い郷里に帰り、病により家で卒した。
劉焯は字を士元といい、信都昌亭の人である。額は犀の如く、背は亀の如く、望み高く視ること遠く、聡敏で沈深、弱年より遊戯を好まなかった。少時に河間の劉炫と盟を結んで友となり、同郡の劉軌思に『詩経』を、広平の郭懋に『左伝』を受け、かつて阜城の熊安生に『礼』を問うたが、皆、卒業せずにして去った。武強の交津橋にある劉智海の家は、平素より多くの墳籍を蔵し、焯はそこに就いて読書し、十年に近く経った。衣食が続かなくとも、平然としていた。遂に儒学をもって知名となり、州博士となった。
隋の開皇年間、刺史趙煚がこれを引き立てて従事とした。秀才に挙げられ、射策で甲科となった。著作郎王劭と共に国史を修め、兼ねて律暦の議に参与した。引き続き門下省に直し、顧問を待った。まもなく員外将軍に除せられた。後に諸儒と秘書省で群言を考定した。仮に帰郷した際、県令韋之業がこれを引き立てて功曹とした。まもなく再び京に入り、左僕射楊素・吏部尚書牛弘・国子祭酒蘇威・元善・博士蕭該・何妥・太学博士房暉遠・崔崇徳・晋王文学崔賾等と、国子学で共に古今の滞義、前賢の通じなかった所を論じた。毎度座に昇ると、論難が鋒の如く起こったが、皆、彼を屈服させることができなかった。楊素等はその精博に服せざるはなかった。六年、洛陽の『石経』を運んで京師に至ったが、文字が磨滅し、知る者無かった。勅を奉じて劉炫の二人と論義し、諸儒を深く挫き、皆、妬み恨みを抱いた。遂に飛書によって誹謗され、除名された。
そこで郷里に優遊し、専ら教授著述を務めとし、孜孜として倦まなかった。賈逵・馬融・王粛・鄭玄の伝える章句に対して、多く是非を論じた。『九章算術』『周髀』『七曜暦書』等十余部について、日月の運行を推歩する法、山海を量度する術を、その根本を核とし、その秘奥を窮めた。『稽極』十巻、『暦書』十巻、『五経述議』を著し、並びに世に行われた。劉炫は聡明博学で、その名は焯に次ぎ、故に当時の人は二劉と称した。天下の名儒後進が、質疑し学業を受けるため、千里をも遠しとせず来る者は、数え切れなかった。論者は数百年以来、博学通儒でその右に出る者無しと為した。しかし、懐抱が広くなく、また財に吝嗇であった。束脩を行わない者には、未だ嘗て教誨したことがなく、当時の人はこれを以て軽んじた。
廃太子楊勇がこれを聞いて召したが、進謁するに及ばず、詔して蜀王に事えさせた。共に好む所ではなかったので、久しく至らなかった。王はこれを聞いて大怒し、人を遣わして枷をはめて蜀に送り、軍防に配属させた。その後、書籍を校典した。王が罪に坐して廃されると、焯はまた諸儒と共に礼・律を修定し、雲騎尉に除せられた。煬帝が即位すると、太学博士に遷ったが、まもなく品が卑しいことを以て職を去った。数年後、再び徴されて顧問を待った。その著した『暦書』を上ったが、太史令張胄玄の説と多く異なり、駁されて用いられなかった。卒すると、劉炫がそのために諡を請うたが、朝廷は許さなかった。
劉炫、字は光伯、河間郡景城県の人である。幼少より聡明敏慧なるをもって称せられた。信都の劉焯と共に戸を閉ざして読書し、十年間外に出なかった。劉炫は瞳が明るく澄み、太陽を視ても眩まず、記憶力強く暗誦し、比肩する者無し。左手に円を画き、右手に方(四角)を画き、口で誦し、目で数え、耳で聴く、五つの事を同時に行い、遺漏すること無し。周の武帝が斉を平定すると、瀛州刺史の宇文亢が召し出して戸曹従事とした。後に刺史の李繪が礼曹従事に任用し、吏務の才幹をもって知られた。
隋の開皇年間、詔勅を奉じて著作郎の王劭と共に国史を修撰し、やがて門下省に直し、顧問を待つこととなった。また諸術者に詔して天文律暦を修めさせ、兼ねて内史省において諸家の言説を考定した。内史令の博陵郡の李徳林は甚だ礼遇した。劉炫は三省を遍く直したが、結局官を得ず、県の役所がその賦役を責めた。劉炫は内史に自ら陳情し、内史は吏部に送り届けた。尚書の韋世康がその能うところを問うと、劉炫は自ら状を書いて曰く、「『周礼』、『礼記』、『毛詩』、『尚書』、『公羊伝』、『左伝』、『孝経』、『論語』、孔(安国)・鄭(玄)・王(粛)・何(休)・服(虔)・杜(預)等の注、凡そ十三家、義に精粗有れども、皆講授に堪え;『周易』、『儀礼』、『穀梁伝』は用功稍々少なし;史書・諸子・文集、嘉言故事、皆心に誦す;天文・律暦、微妙を窮め核す。公私の文翰に至っては、未だ他人に代筆させたこと無し」と。吏部は結局詳しく試験しなかった。然れども朝に在る知名の士十余人が、劉炫の陳べる所誤り無きことを保証し、ここに殿内将軍に除した。時に牛弘が天下の遺逸の書を購求することを奏上すると、劉炫は遂に百余巻の書を偽造し、題して『連山易』、『魯史記』等とし、書き写して官に送り、賞を取って去った。後にこれを訴える者有り、赦令により死を免れ、罪に坐して除名された。家に帰り、教授を以て務めとした。廃太子の楊勇が聞きて召し寄せた。京師に至るや、詔勅して蜀王楊秀に事えさせたが、遷延して行かず。楊秀は大いに怒り、枷をはめて益州に送った。やがて帳内に配し、毎度仗(武器)を執らせて門衛と為した。間もなくこれを釈放し、書史の校勘を掌らせた。劉炫は因って屈原の『卜居』に擬えて『筮塗』を作り、自らを寄託した。楊秀が廃されると、諸儒と共に五礼を修定し、旅騎尉を授かった。
開皇二十年、国子学・四門学及び州県の学を廃し、唯太学を置き、博士二人、学生七十二人とす。劉炫は上表して学校廃すべからざるを言い、情理甚だ切なり。帝は納れず。時に国家殷盛にして、皆遼東を意とす。劉炫は遼東伐つべからずと為し、『撫夷論』を作りて以て諷した。当時悟る者無し。大業の末に至り、三度征伐して克たず、劉炫の言ようやく験された。