儒者たるや、その教えと為すところ大なり、その物に利する所博し。父子を篤くし、君臣を正す。政化の本原を開き、生霊の耳目を鑿ち、百王の損益、一以て之を貫く。世或いは汚隆有りと雖も、斯の文墜ちず。永嘉の後より、宇内分崩し、礼楽文章、地を掃うて将に尽きんとす。魏の道武帝、初めて中原を定む。日暇あらざるに雖も、都邑を建つる始め、便ち経術を以て先と為す。太学を立て、『五経』博士の生員千有餘人を置く。天興二年春、国子太学生員を増して三千人に至らしむ。豈に天下を馬上に取りて、以て馬上に臨むべからざるを以てせざらんや。聖達の経猷、蓋し遠き為なり。四年春、楽師を命じて学に入りて舞を習わしめ、先師に釈菜す。明元帝の時、国子を改めて中書学と為し、教授博士を立てる。太武帝始光三年春、城東に太学を起つ。後に盧玄・高允等を征し、而して州郡に令して各才学を挙げしむ。ここに於いて人多く砥尚し、儒術転じて興る。献文帝天安初め、詔して郷学を立てしめ、郡に博士二人、助教二人、学生六十人を置く。後に詔して大郡には博士二人、助教四人、学生一百人を立て、次郡には博士二人、助教二人、学生八十人を立て、中郡には博士一人、助教二人、学生六十人を立て、下郡には博士一人、助教一人、学生四十人を立てしむ。太和年中、中書学を改めて国子学と為し、明堂・辟雍を建て、三老五更を尊び、又皇子の学を開く。及び都を洛邑に遷すに及び、詔して国子・太学・四門小学を立てしむ。孝文帝は欽明にして古を稽え、墳籍を篤く好み、輿に坐し鞍に拠るも、講道を忘れず。劉芳・李彪諸人は経書を以て進み、崔光・邢巒の徒は文史を以て達す。其の餘典章に渉猟し、詞翰に閑集する者は、好爵を以て縻さざる莫く、動もすれば賞眷を貽す。ここに於いて斯の文郁然たり、周・漢に比す。宣武帝の時、復た詔して国学を営ましむ。四門に小学を樹て、大いに儒生を選びて以て小学博士と為し、員四十人。黌宇未だ立たずと雖も、経術弥れに顕る。時に天下承平し、学業大いに盛んにして、故に燕・斉・趙・魏の間、経を横たえ録に著すこと、勝げて数うべからず。大なる者は千餘人、小なる者は猶数百なり。州は茂異を挙げ、郡は孝廉を貢ぎ、王庭に対揚すること、年毎に衆を踰ゆ。神龜年中、将に国学を立たんとし、詔して三品以上及び五品清官の子を以て生選に充てしむ。未だ簡置に及ばず、仍って復た停寢す。正光三年、乃ち国学に釈奠し、祭酒崔光に命じて『孝経』を講ぜしめ、始めて国子生三十六人を置く。孝昌の後に及び、海内淆乱し、四方の校学、存する所幾き無し。
斉の神武帝は辺朔に生れ、戎馬に長じ、義に杖り旗を建て、区県を掃清す。魏氏の喪乱に因り、爾朱の残酷に属し、文章咸く蕩ち、礼楽ともに奔り、弦歌の音且に絶え、俎豆の容将に尽きんとす。永熙年中、孝武帝復た国学に釈奠し、又た顕陽殿に於いて祭酒劉欽に詔して『孝経』を講ぜしめ、黄門李鬱に『礼記』を説かしめ、中書舎人盧景宣に『大戴礼夏小正』の篇を講ぜしめ、復た生七十二人を置く。永熙の西遷及び天平の北徙に及び、庠序の制、未だ遑あらざる有りと雖も、儒雅の道、遽かに心慮に形る。時に初めて都を鄴に遷し、国子に生三十六人を置く。興和・武定の間に至り、儒業復た盛んなり。始め天平年中、范陽の盧景裕、従兄の仲礼と同郡に於いて逆を起こす。斉の神武帝其の罪を免じ、之を賓館に置き、経を以て太原公以下に教授せしむ。景裕卒するに及び、又た趙郡の李同軌を以て之に継がしむ。二賢並びに大いに恩遇を蒙り、殊礼を以て待たる。同軌雲亡し、復た中山の張雕武・勃海の李鉉・刁柔・中山の石曜等を征し、遞に諸子の師友と為す。天保・大寧・武平の朝に及び、亦た名儒を引進し、皇太子・諸王に経術を授く。然れども始基より季世に及び、唯だ済南王の儲宮に在りし時、性識聡敏にして、頗る自ら砥礪し、以て其の美を成す。自餘は多く驕恣傲狠にして、動もすれば礼度に違ひ、日就月将、聞くこと無きのみ。氷を鏤き朽ち木を雕るが如く、用うるに至りて成ること無し。蓋し由る有るなり。夫れ帝王子孫、習性驕逸なり。況んや義方の情篤からず、邪僻の路競いて開かる。自ら生知を得、体上智を包むに非ざれば。而して内には声色の娛を縦し、外には犬馬の好多し。安んぞ能く入りては篤行し、出でては賢に友せんや。徒らに師傅の資有るも、終に琢磨の実無し。貴遊の輩、明経を以て飾り、稽山の竹箭に羽を加うるが如しと謂うべく、俯して青紫を拾うは、断じて知るべし。而して斉氏の司存、或いは其の守を失い、師保疑丞、皆勲旧を賞す。国学博士、徒らに虚名有るのみ。唯だ国子一学、生徒数十人のみ。胄子にして通経を以て進仕する者は、唯だ博陵の崔子発・広平の宋遊卿のみ。自餘は其の人を見ること莫し。幸いに朝章寛簡、政綱疏闊にして、遊手浮惰、十室にして九なり。故に経を横たえて業を受くる侶、郷邑に遍く、笈を負いて宦に従う徒、千里を遠しとせず。閭里の内に入り、乞食を資と為し、桑梓の陰に憩い、動もすれば十数に踰ゆ。燕・趙の俗、此の衆尤も甚だし。斉の制、諸郡並びに学を立て、博士・助教を置きて経を授く。学生俱に久しく差逼して員に充つ。士流及び豪富の家、皆調に従わず。備員既に好む所に非ざれば、墳籍固より懐を開かず。又多く州郡の官人に駆使せられ、遊惰有るとも、亦た検察せず。皆上其の好まざる所より致るなり。諸郡俱に孝廉を察するを得、其の博士・助教及び遊学の徒にして経に通ずる者、推択して充挙す。射策十条、八条以上を通ずれば、九品の出身を聴す。其の尤も異なる者も、亦た抽擢を蒙る。
周の文帝(宇文泰)が天命を受け、経典を重んじた。当時、西都(長安)は動乱に陥り、戦場と化していた。先代の旧章、往昔の聖人の遺訓は、地を掃うようにしてことごとく失われてしまった。そこで三古(夏・殷・周)に闕文を求め、千載を隔てて至理を得、魏・晋の制度を退け、周公旦の盛んな典章を復興させた。盧景宣(盧辯)は学問で諸芸に通じ、五礼の欠けを修め、長孫紹遠は才知が広く聞き及んでいることで称され、六楽の乱れを正した。これにより朝廷の礼制章典は次第に整備され、学者たちはその風を慕った。明皇帝(北周明帝宇文毓)が帝位を継ぎ、学芸を尊び尚び、内には崇文の観を設け、外には成均(国学)の職を重んじた。素を握り鉛を懐く(著述に励む)者、重席を敷き解頤(大笑い)させるような学者が、間々朝廷より現れ、円冠に方領(儒者の服装)を着け、経書を執り笈を負う学生が、京邑に名を著録した。盛んな様は、まさに以前の時代を凌ぐものであった。保定三年(563年)に至り、帝は詔を下して太保燕公(于謹)を三老として尊んだ。帝は袞冕を着け、碧輅に乗り、文物を陳列し、礼容を整え、清蹕して太学に臨み、袒衣して割牲し(自ら肉を切り分け)てこれを饗し、觴を奉じて酳(すすぎの酒を注ぎ)した。これはまさに一世の盛事であった。その後、軽車(輶軒)を命じて玉帛を携えさせ、南荊(南朝梁)の沈重を招聘した。また山東(北斉)を平定した後は、至尊の身を降ろして万乗の労をとり、熊安生を殊礼をもって遇した。これにより天下は慕い向かい、文教は遠くまで及んだ。儒者の服を着け、先王の道を抱き、学舎を開き、学徒を招く者が肩を並べ、師に従う志を励まし、専門の業を守り、親戚を辞し、勤苦を甘んじる者が市を成した。通儒の盛んな業績は、魏・晋の臣に及ばなかったが、風俗が移り変わる様は、やはり近代の美事であった。
正朔(暦法、正統)が統一されないこと、およそ三百年、師の教えは紛然として、取るべき正しい基準がなかった。隋の文帝(楊堅)が期運に応じて帝位を継ぎ、天下を統一し、天綱(統治の大綱)を整えてこれを覆い、旌旗と帛を賜って礼遇し、良い爵位を設けてこれを繋ぎ止めた。そこで四海九州、学問に励み質問を待つ士は、ことごとく集まった。天子は万乗の車駕を整え、百官を率い、問う道の儀に従い、釈奠の礼を見学した。博士は懸河の弁を尽くし、侍中は重席の奥義を極めた。亡逸したものを考証し正し、異同を研究検討し、積もり滞っていた多くの疑問が、氷が解けるように消え去った。そこで奇俊を抜擢し、諸儒に厚く賞を与えた。京邑から四方に至るまで、みな学校を開いた。斉・魯・趙・魏の地では、学者が特に多かった。笈を負って師を追い、千里も遠しとせず、講誦の声は、道路上絶えることがなかった。中州の盛んな様は、漢・魏以来、この時に限るものであった。帝の晩年に及んで、精力が少し衰え、儒術を喜ばず、専ら刑名の学を尚び、政権を執る者たちは、皆篤く好んではいなかった。仁寿年間(601-604年)に至り、ついに天下の学を廃し、国子学一校のみを残し、弟子七十二人とした。煬帝が即位すると、再び学校を開き、国子学・郡県の学は、開皇の初めよりも盛んになった。儒生を徽辟(招聘)すると、遠近からことごとく至った。東都(洛陽)において互いに講論して得失を論じさせ、納言(官名)がその優劣を定め、一々上奏させた。当時、旧来の儒者は多くすでに亡くなり、ただ信都の劉士元(劉炫)と河間の劉光伯(劉焯)が抜きん出て、学問は南北に通じ、古今に博く極め、後進の学ぶところとなった。彼らの制作した諸経の義疏は、縉紳(士大夫)が皆師として宗仰した。やがて外では四夷に事を構え、戦争が絶えず、師弟は怠り散り、盗賊が群れをなして起こった。礼義は君子を防ぐに足らず、刑罰は小人を威するに足らず、学校を建てる名ばかりで、道を弘める実がなかった。その風は次第に墜ち、ついに滅亡に至った。方領矩歩の徒(儒者)もまた溝壑に転死し、およそ経籍は、このために煨燼の中に湮没してしまった。ついに後進の士に、『詩』『書』の言を再び聞かせず、皆窃奪の心を抱き、互いに不義に陥らしめた。『伝』に言う、「学ぶ者は栄え、学ばざる者は落ちる」と。されば盛衰はこれに繋がり、興亡はここに在る。国を持ち家を持つ者は、慎まざるべけんや。
漢代には、鄭玄が衆経に注釈を加え、服虔・何休はそれぞれ説があった。鄭玄の『易』『詩』『書』『礼』『論語』『孝経』、服虔の『左氏春秋』、何休の『公羊伝』が、河北で大いに流行した。王肅の『易』も、時々行われた。晋代には、杜預が『左伝』に注した。杜預の玄孫の坦、坦の弟の驥は、宋朝(南朝宋)において共に青州刺史となり、その家業を伝えたので、斉の地では多く習った。
魏の末年以来、大儒徐遵明の門下では鄭玄の注した『周易』を講じた。遵明はこれを盧景裕と清河の崔瑾に伝えた。景裕は権会と郭茂に伝えた。権会は早くに鄴都に入り、郭茂は常に門下で教授し、その後『易』を説くことができる者の多くは、郭茂の門から出た。河南および青斉の間では、儒生は多く王輔嗣(王弼)の注を講じ、師の教えは少なかった。
北斉の時、儒士で『尚書』の業を伝える者は稀で、徐遵明がこれを兼ねて通じていた。遵明は屯留の王聰に師事し、浮陽の李周仁および勃海の張文敬・李鉉・河間の権会に伝授した。これらは皆鄭康成(鄭玄)の注によるもので、古文(孔安国伝古文尚書)ではない。下里の諸生は、ほとんど孔氏(孔安国)の注解を見ることがなかった。武平末年(北斉後主の年号、570-576年)、劉光伯(劉焯)と劉士元(劉炫)が初めて費甝(費虒)の『義疏』を得て、これに留意した。
その『詩』『礼』『春秋』は、特に当時尊尚され、諸生は多くこれを兼ねて通じていた。
『三礼』は皆徐遵明の門から出た。徐は李鉉・祖俊・田元鳳・馮伝・紀顯敬・呂黄龍・夏懷敬に業を伝えた。李鉉はまた刁柔・張買奴・鮑季詳・邢峙・劉晝・熊安生に伝授した。安生はまた孫霊暉・郭仲堅・丁恃徳に伝えた。その後『礼経』に通じることができた者は、多くは安生の門人であった。諸生は皆『小戴礼』(礼記)に通じた。『周儀礼』(儀礼)を兼ねて通じた者は、十のうち二、三であった。『毛詩』に通じた者は、多くは魏朝の劉献之から出た。献之は李周仁に伝えた。周仁は董令度・程帰則に伝えた。帰則は劉敬和・張思伯・劉軌思に伝えた。その後『詩』を説くことができる者は、多くは二劉(劉敬和・劉軌思)の門から出た。河北の諸儒で『春秋』に通じた者は、皆服子慎(服虔)の注によるもので、これも徐生(徐遵明)の門から出た。張買奴・馬敬徳・邢峙・張思伯・張奉礼・張彫・劉晝・鮑長宣・王元則は皆服氏の学の精微を得た。また衛覬・陳達・潘叔虔がおり、徐氏の門を伝えたわけではないが、通解していた。また姚文安・秦道静がおり、初めは服氏を学んだが、後に兼ねて杜元凱(杜預)の注を講じるようになった。その河外(黄河以南、南朝地域)の儒生は、皆杜氏に伏膺した。その『公羊』『穀梁』の二伝は、儒者は多く心にかけなかった。『論語』『孝経』は、諸学徒が通講しなかった者はない。諸儒のうち権会・李欽・刁柔・熊安生・劉軌思・馬敬徳の徒は、多く自ら義疏を著した。専門とは言え、皆互いに祖述し習ったのである。
およそ南北で為した章句は、好尚が互いに異なった。江左(南朝)では、『周易』は王輔嗣(王弼)、『尚書』は孔安国、『左伝』は杜元凱(杜預)である。河洛(北朝)では、『左伝』は服子慎(服虔)、『尚書』『周易』は鄭康成(鄭玄)である。『詩』は共に毛公を主とし、『礼』は同様に鄭氏に遵った。南人は簡約を旨とし、その英華を得、北学は深く蕪雑で、その枝葉を窮めた。その終始を考え、その会帰を要約すれば、その立身成名は、方法は異なっても同じ境地に至るのである。
魏の梁越以下、伝授講議する者は甚だ衆多である。今それぞれ時代に依って次第を記し、以て『儒林伝』を備える。
梁越は、字を玄覧といい、新興の人である。経伝に広く通じ、性質は純朴で温和であった。北魏の初め、『礼経』博士となった。道武帝はその謹厚さを以て、上大夫に昇進させ、諸皇子に経書を教授させた。明元帝の初め、師傅の恩により、爵を祝阿侯と賜り、出て雁門太守となった。白雀を獲て献上し、光禄大夫に任ぜられ、卒した。
盧醜は、昌黎徒何の人である。襄城王魯元の一族である。太武帝が国政を監理していた時、醜は博学を以て召されて経書を教授した。後に師傅の旧恩により、爵を済陰公と賜った。位は尚書に至り、 散騎常侍 を加えられ、河内太守の任にて卒した。
張偉は、字を仲業といい、太原中都の人である。諸経に通じた学識を持つ。郷里で学業を受ける者は、常に数百人に及んだ。儒者として謹厳で広く受け入れ、たとえ頑固な者でも、質問が数十回に及んでも、偉は懇切に告げ諭し、少しも怒りの色を見せなかった。常に経典に依拠し、孝悌を以て教え、門人はその仁徳の教化に感じ入り、父のように仕えた。性質は清雅で、法に適わぬことは言わなかった。太武帝の時、高允らと共に召命を受け、中書博士に任ぜられ、累進して中書侍郎、本国大中正となった。酒泉に使いして沮渠無諱を慰労し、また宋に使いし、爵を成皋子と賜った。出て営州刺史となり、爵を建安公に進めた。卒すると、 并 州刺史を追贈され、諡して康といった。
梁祚は、北地泥陽の人である。父の邵は、皇始二年に北魏に帰順し、済陽太守の位にあった。祚の代に至り、趙郡に居住した。祚は志を篤くし好学で、経典を広く習得し、特に『公羊春秋』と鄭氏の『易』に長じ、常に教授していた。儒者の風範はあるが、当世に通用する才はなかった。幽州別駕の平恆とは旧知であり、恆は時折彼を招いて経史を論じた。秘書中散に召され、やがて秘書令に昇進したが、李䐶に排斥され、退いて中書博士となった。後に出て統万鎮司馬となり、召されて散令となった。陳寿の『三国志』を撰述し、『国統』と名付けた。また『代都賦』を作り、世に広く行われた。清貧で素朴な生活を守り、勢家貴人と交わらず、卒した。子の元吉は、父の風範を受け継いだ。
平恆は、字を継叔といい、燕郡薊の人である。祖父の視、父の儒は、共に慕容氏に仕えて通宦となった。恆は読書に耽り勤勉で、広く博識であった。周代以降より魏の時代に至るまで、帝王の伝承の由来、貴臣の昇降の経緯を、全て品第を撰び、是非を論じ、『略注』と号し、百余篇を成した。貧しさに安んじて道を楽しみ、屡々空しい境遇にあっても節操を変えなかった。中書博士に召された。久しくして出て幽州別駕となった。廉潔で貞節、寡欲であり、資産を営まず、衣食は常に足りず、妻子も飢寒を免れなかった。後に秘書丞に転じた。当時高允が監を務め、河間の邢祐、北平の陽嘏、河東の裴宗、広平の程駿、金城の趙元順らが著作郎であった。允は常に、経籍に博通すること恆に過ぐる者なしと称えた。
恆の三子は、皆父の業を受け継がず、酒を好み自棄した。恆は常にその家の衰えを憤り、杖を植えて家屋を巡り、丘の側で泣いた。彼らの為に婚姻や官途を営むことはせず、勝手に官職を得て娶らせ、言うには「此の輩はやがて衰えるであろう、何ぞ煩わしく我を労せしめんや」と。故に彼らの官職や婚姻は卑小で、家の門流に及ぶことができなかった。別に精舎を構え、経籍を中に置き、一人の奴僕で自らを養い、妻子もそこへ行くことを得ず、酒食も共にしなかった。時に珍味美物があると、時の老いた東安公の刁雍らを呼んで共に飲み食いし、家人には嘗めさせなかった。太和十年、恆を秘書令に任じようとしたが、固く郡守を請い、受けずして卒した。幽州刺史、都昌侯を追贈され、諡して康といった。
陳奇は、字を脩奇といい、河北の人である。幼くして孤貧であったが、母に至孝であった。幼少より聡明で識見があり、早熟の美質があった。経典を愛玩し、常に馬融や鄭玄の経解が旨を失っていると非難した。志は『五経』を著述することにあった。始めに『孝経』『論語』に注し、世に広く伝わり、縉紳に称賛された。河間の邢祐と共に召されて京に赴いた。当時秘書省の游雅はその名を聞き、初めは大いに好意を持ち、秘書省に引き入れ、史職を授けようとした。後に奇と典誥を論じ、『易』の訟卦「天と水違いて行く」に至り、雅は言った「葱嶺以西では、水は皆西に流れる。これを推すに、葱嶺以西では、豈に東に向かって天を望むことがあろうか」。雅は性来、短所を庇う癖があり、これによって奇を疎んじるようになった。嘗て衆人の前で奇を辱め、或いは「お前」と呼び、或いは小人と指した。奇は言った「貴公は君子の身、奇は小人の身です」。雅は言った「君は自ら小人と言うが、君の祖父は何者か」。奇は言った「祖父は、燕の東部侯厘です」。雅は奇を詰問して言った「侯厘とは何の官か」。奇は言った「昔、雲師、火正、鳥師といった名があった。これによって言えば、世が革まれば官も異なり、時が易われば礼も変わる。貴公は皇魏の東宮内侍長であられるが、果たして何の職か」。先に、詔勅により奇を雅に付けて、秘書官を選補させることとなっていた。雅は既に彼を憎んでいたので、遂に叙用しなかった。
奇は数年間冗散の身であったが、高允は常にその遠大な志を賞賛し、奇の通識は凡学の及ぶところではないと称えた。允は密かに雅を諫めて言った「貴殿は朝廷の声望を一身に集めているのに、何ぞ野の儒者と簡牘章句を弁じる必要があろうか」。雅は允が奇に私心があると思い、「貴殿は小人に与するのか」と言った。そして奇の注した『論語』『孝経』を取り、庭中で焼いた。奇は言った「貴公は貴人で、薪に困ることはないでしょうに、何ぞ奇の『論語』を燃やすのですか」。雅はますます怒り、京師の後進に告げて、伝授することを許さなかった。しかし奇は志を曲げず、また雅の過失を評した。雅が昭皇太后の碑文を制作し、太后の名の美を論じて、前魏の甄后に比喩した。奇はその誤りを指摘し、遂に上聞に達した。詔が下り 司徒 に検証させたところ、雅に理屈があった。
或る者が謗書を作り、多く時政を怨む言葉があり、奇が志を得ないことをかなり称えていた。雅は事に当たる者にほのめかして言った、この書は奇が不遇であると述べているから、奇が他人に作らせたものであろうと。律文に依れば、謗書を作った者は、皆妻子まで戮に及ぶ。遂に奇に罪を着せた。当時、 司徒 の平原王陸麗は奇が冤罪であることを知り、その才学を惜しんだので、故に数年引き延ばし、寛宥を得られることを望んだ。獄が決し、遂に大戮に至り、その家族に及んだ。奇は『易』に特に長じており、獄中で自ら筮を立てた。卦が未だ成らぬうちに、掻き破って嘆いて言った「我は来年の冬季を過ごすことはあるまい」。奇が害された時、その占った通りであった。奇が初めて召された時、夜に星が墜ちて足を圧す夢を見た。明けて人に告げて言った「星は風を好み、星は雨を好む。星が足を圧す夢は、必ず善き兆しではない。しかし時命が厳しく切迫しているので、赴かざるを得ないのみ」。
奇の外甥の常矯之は、郡守を歴任した。奇の注した『論語』は矯之が伝え掌ったが、世に行われるには至らなかった。その義は多く鄭玄と異なり、往々にして 司徒 崔浩と同様であった。
劉獻之は、博陵郡饒陽県の人である。幼くして孤貧であったが、風雅を好み『詩経』や『春秋伝』を愛した。かつて勃海郡の程玄に師事し、後に広く諸々の典籍を博覧した。名法家の言説を見ると、書を閉じて笑い、「もし楊朱・墨子の流れがこのような書を著さなければ、千年の後、誰が彼らの小ささを知ることができようか」と言った。かつて親しい者に言うには、「屈原の『離騷』の作品を見るに、これはもとより狂人であり、その死は当然である。孔子が『無可無不可(これでなければならないということもなければ、これではいけないということもない)』と言われたのは、まさにわが心を得ている」と。時に劉獻之に学ぼうとする者がいたが、献之はいつも彼らに言うには、「人が身を立てるには、百の行いが道を異にするとしても、四科(德行・言語・政事・文学)を基準とすれば、要は德行を第一とすべきである。そなたがもし家にあっては孝行、外に出ては悌順、忠信仁譲を実践できるならば、戸を出ずとも天下は自ずと知るところとなろう。もしそれができなければ、たとえ帷を下ろし股を刺し、草鞋を履いて師に従ったとしても、ただ博聞多識を得るに過ぎず、土龍を造って雨を乞うが如く、将来を惑わすのみである。それでは立身の道にとって、何の益があろうか。孔門の弟子たちも、初めは悟らず、皋魚の嘆きを見て、初めて帰って親を養った。ああ、先達たちはどうして自覚するのが遅かったのか」と。これにより四方の学者は、その行いと義を高く評価し、その門を訪れることを望んだ。
劉獻之は『春秋』と『毛詩』に通じていた。『左氏伝』を講ずるたびに、隠公八年までで止め、「義例はすでに終わった、これ以上解く必要はない」と言った。これにより弟子たちはその説を究めることができなかった。後に本郡が孝廉に推挙しようと迫ったが、京師に至って病と称して帰った。孝文帝が中山に行幸した際、詔を下して内校書を掌らせようとした。献之は慨然として嘆き、「私は莊周の言う散木(役に立たぬ木)に遠く及ばない。一度(官に就くこと)は甚だしいというのに、再びありえようか」と言い、固く病気を理由に辞退した。時に中山の張吾貴が献之と並び称され、天下は皆、儒宗と称した。吾貴が一度講義を開くと、門徒は数千に及び、その学業行いが称えられる者は少なかった。献之の著録(弟子として登録された者)は数百のみであったが、皆、経書に通じた士であった。ここにおいて識者はその優劣を弁別した。
北魏は喪乱の後を承け、『五経』の大義には師説はあったものの、海内の諸生には多く疑義滞るところがあり、皆、劉獻之に決断を求めた。六芸の文章については、全てに注釈を施したわけではないが、標榜した宗旨は、旧来の義とはかなり異なっていた。『三禮大義』四巻、『三傳略例』三巻を撰し、『毛詩序義』一巻に注釈を施し、世に行われた。また『章句疏』二巻を立てた。『涅槃経』に注釈を施したが、完成せずに死去した。四人の子、放古、爰古、参古、脩古がいた。
張吾貴は、字を呉子といい、中山郡の人である。幼少より聡明で弁舌に優れ、身長八尺、容貌は奇偉であった。十八歳の時、本郡から太学博士に推挙された。吾貴は以前は多く学んでいなかったが、酈詮に『礼』を、牛天祐に『易』を学んだ。詮と祐は粗く教えを開いたに過ぎなかったが、吾貴は一遍読み通すと、すぐに独自の見解を構築し、世の人は競って彼に帰依した。かつて夏学において、千数人の徒を集めたが、『春秋伝』を講じなかった。生徒たちがひそかに、「張先生は『左氏伝』について、説くことができないようだ」と言うと、吾貴はこれを聞き、彼らに言った。「私は今夏の講義を一旦中止するが、後で『伝』を説こう。君たちは来日、皆、書物を持参せよ」と。生徒たちは怪しんだだけであった。吾貴は劉蘭を訪ね、劉蘭はそこで『春秋伝』を講じた。三十日のうちに、吾貴は杜預と服虔の注を併せ読み、両家を総合し、異同を全て挙げた。諸生が後日集まると、すぐにそれを講じ、義例は尽きることがなく、多くが新異であり、劉蘭もなお伏して聴いた。学者たちはこれによってますます彼を奇異な人物と見なした。しかし弁舌で過ちを飾り立て、詭説を好んだため、その学業は長く伝わらなかった。また気概が牧守を凌ぎ、王侯にも屈せず、ついに仕官せずに終わった。
劉蘭は、武邑郡の人である。三十歳を過ぎてから、初めて小学に入り『急就篇』を書いた。家族はその聡敏さに気づき、師に従わせた。中山の王保安に『春秋』『詩経』『礼』を学んだ。家が貧しく、自ら学資を調達できなかったため、耕しながら学んだ。三年後、兄に申し出て講説を求めると、兄は笑って聞き入れ、黌舎(学舎)を建て、二百人の生徒を集めた。劉蘭は『左氏伝』を五日で一遍読み、兼ねて『五経』に通じた。以前、張吾貴は聡明弁舌で人に優れていたが、その解釈は先儒の主旨に基づかなかった。ただ劉蘭のみが『経』と『伝』の由来を推究し、注釈者の意図に基づき、緯書や候文、および先儒の旧事を参照して、非常に精緻で詳しかった。その後、『経』の義が審査博通となったのは、全て劉蘭によるものであった。劉蘭はまた陰陽に明るく、広く物事を知り識見が多かったため、儒者たちの宗仰するところとなった。
瀛州刺史の裴植は、州の南館で劉蘭を招いて書を講じさせた。裴植が学主となったため、生徒は非常に盛んで、海内に称えられた。また特に中山王の元英に重んじられた。元英は彼を館に引き入れ、その子の熙、誘、略らに授けさせた。劉蘭の学徒は前後数千人に及び、業を成した者は多かった。しかし『公羊伝』を排撃し、また董仲舒を非難したため、これによって世に譏りを受けた。国子助教となった。静坐して書を読んでいると、人が門を叩いた。劉蘭は引き入れるよう命じると、葛巾に単衣の者が入ってきて劉蘭と相対して座り、言うには、「貴方は学識者であるのに、なぜいつも私を毀辱するのか。理義の長短は、結局誰にあるのか。そして過ちもないのに無礼にも凌がれるとは。今、お呼びしたのは、貴方と正しく論じたいからだ」と言い終えると出て行き、劉蘭は間もなく病を得て死去した。
孫惠蔚は、武邑郡武遂県の人である。十五歳で、おおよそ『詩経』『書経』および『孝経』『論語』に通じた。十八歳で、董道季に師事して『易』を講じた。十九歳で、程玄に師事して『礼経』および『春秋三伝』を読んだ。儒学の場を遍歴し、冀州地方で名を知られた。太和の初め、郡から孝廉に推挙され、中書省で策問に応えた。時に 中書監 の高閭が談話の機会に推薦し、まもなく中書博士となり、皇宗博士に転じた。高閭が詔を奉じて雅楽を制定するにあたり、孫惠蔚はその事に参与した。楽が完成すると、高閭は上疏して朝士を太楽に集め、是非を共に研究するよう請うた。秘書令の李彪は、自ら才弁を恃み、その面前で難問を立てた。高閭は孫惠蔚に命じて李彪と論戦させたが、李彪は屈服させることができなかった。黄門侍郎の張彝は、常に交遊し、上表上疏して事を論ずる際、多く彼に諮問した。十七年、孝文帝が南征した際、告類の礼について上議した。また太師の馮熙が薨じると、孫惠蔚はその喪礼を監督した。上書して、馮熙のまだ元服していない子たちに、皆、成人の服を着用させるよう命じた。孫惠蔚と李彪は儒学によって互いに知り合い、李彪が尚書の位に至っても、孫惠蔚は依然として太廟令であった。孝文帝はかつて穏やかに言われた。「李彪(道固)は既に龍門に登ったが、孫蔚はなお細流に沈んでいる。朕は常にこれを負い目に思っている」と。長く低い官職に滞在したが、通塞(出世と不遇)を深く理解し、孜々として望むところがなく、儒者たちはこれを尊んだ。二十二年、東宮の侍読となった。これ以前、七廟は平文帝を太祖としていた。孝文帝が議して祖宗を定め、道武帝を太祖とした。祖宗は定まったが、昭穆の順序は改められなかった。孝文帝が崩御し、神主を廟に合祀しようとした時、侍中崔光が太常卿を兼ね、太祖が既に改まった以上、昭穆も順次に改めるべきであるとした。兼御史中尉・黄門侍郎の邢巒は、太祖は改まったが昭穆はなお改めるべきではないと考え、弾劾の草稿を作成し、崔光を弾劾奏上しようとした。崔光は孫惠蔚に言った。「これは礼制の問題であるのに、執法官が弾劾しようとしている。碩学の助けを得たいと思う」と。孫惠蔚は言った。「これは深く礼の変革を心得ています」と。まもなく書簡をしたためて崔光に与え、その事を賛明した。崔光は孫惠蔚の書簡を宰輔に呈し、孫惠蔚と邢巒を召して朝廷で得失を議論させた。 尚書令 の王肅もまた邢巒を助けたが、邢巒の理屈は結局屈し、弾劾の件はやがて沙汰やみとなった。
宣武帝が即位した後も、なお左右に侍し、経典を講じ教えた。冗従僕射から秘書丞・武邑郡中正に遷った。恵蔚は東観に入ってから、典籍が完備していないのを見た。また旧典を閲覧すると、先に定まった目録がなく、新旧が雑然と混ざり、首尾が完全でなく、あるものは数十帙も積み重なり、ないものは長年書写されず、あるいは篇第が剥落し、始末が欠損し、あるいは文が壊れ字が誤り、誤謬が連なっていた。巻目は多いが、完全に定まっているものは少ない。前の丞盧昶の撰した甲乙新録に依拠し、残欠を補い、有無を損益し、句読を校練して定本とし、順序を整えて均等に書写し、永く常式としたい。省中に先に本のないものは、広く推尋を加え、探し求めて充足させたい。しかし経記は浩瀚で、諸子は紛綸として、部帙が多く、章第に誤りがあり、一二の校書官では、歳月をもってしても完了しがたい。四門博士及び在京の儒生四十人を求め、秘書省において専心に校考させ、字義を参酌して定めさせたい。詔してこれを許した。
後に黄門侍郎となり、崔光に代わって著作郎となった。才は文史に非ず、撰著する所無し。国子祭酒・秘書監に遷り、なお史事を知る。延昌三年、講定の労を追賞し、棗強県男に封ぜられる。明帝の初め、出て済州刺史となる。京に還り、光禄大夫を除かれる。魏初以来、儒生の寒宦として、恵蔚が最も顕達した。初めは単名を蔚とし、正始年中、禁内に侍講し、夜に仏経を論じ、帝の旨にかなったため、詔して「恵」を加えさせ、恵蔚法師と号した。官において卒し、瀛州刺史を追贈され、諡して戴といった。子の伯礼が封を襲ぐ。
伯礼は隷書を善くし、位は国子博士に至る。恵蔚の族曾孫に霊暉あり。
霊暉は少にして明敏、器度あり。恵蔚の手録した章疏を得て、研精尋問し、さらに師友を求め、『三礼』『三伝』、皆その宗旨を通じた。しかし初め鮑季詳・熊安生に就いて疑滞を質問し、その発明するところは、熊・鮑も異とするところ無し。冀州の秀才に挙げられ、射策して高第となる。斉に仕え、累ねて国子博士に至り、南陽王綽の府諮議参軍を授かる。綽が定州刺史を除かれると、なお綽に従ってその鎮に赴く。綽のなすところ猖蹶なるも、霊暉はただ黙々として憂悴し、諫めて止めることができず。綽は表して霊暉を王師とし、管記の馬子結を諮議とすることを請う。朝廷は王師は三品であるとして、奏啓に合わずとす。後主は啓の下に手詔して云う、「ただこれを用いよ」と。儒者として甚だこれを栄えとす。綽が大将軍を除かれると、霊暉は王師として大将軍司馬を領す。綽が誅されると、停廃される。綽の死後、毎に七日から百日に至るまで、霊暉は常に綽のために僧を請い斎を設け行道す。斉滅亡後、卒す。
馬子結は、その先祖は扶風の人、代々涼土に仕え、魏の太和中に洛に入る。父祖ともに清官。子結及び兄の子廉・子尚の三人、皆文学に渉る。陽休之が西兗を牧すとき、子廉・子尚・子結と諸朝士は各々贈詩す。陽が総べて一篇に酬答す。詩に「三馬皆白眉」と云うはこれなり。子結は南陽王綽の管記となり、綽に従って定州に赴く。綽は毎に出遊猟するとき、必ず子結に走馬して禽に従わしむ。子結は儒緩なること既に、衣は垂れ帽は落ち、或いは叫び或いは啼き、騎をしてこれを駆らしめ、馬より墜ちざるは止まず。綽はこれをもって笑いとす。ここにより漸く親狎を見られ、啓して諮議となす。
石曜は字を白曜といい、中山安善の人。また儒学をもって進み、居官は清儉なり。武平年中、黎陽郡守となる。時に丞相咸陽王の世子斛律武都が出て兗州刺史となり、性貪暴なり。先に衛県を過ぎ、県令・丞以下、絹数千匹を斂めてこれに遺る。黎陽に至り、左右をして曜及び県官を諷動せしむ。曜は手に一絹を持ちて武都に謂いて曰く、「これは老石の機杼なり、聊か以て奉贈す。これ以外は、並びに吏人より出ずべし。吏人の物は、一毫も敢えて輒りて犯さず」と。武都もまた曜の清素なる純儒なるを知り、笑って責めず。曜は『石子』十巻を著す、言甚だ浅俗なり。位は終に譙州刺史。
霊暉の子万寿、字は仙期、一字は遐年。聰識機警、経史に博く渉り、文を属することを善くし、談笑を美とす。斉において、陽休之の開府行参軍として仕える。隋の文帝が禅を受けるに及び、滕穆王が引いて文学となす。衣冠整わざるに坐し、江南に配防せらる。行軍総管宇文述、召して軍書を典とす。万寿は本より書生、従容として文雅、一旦軍に従い、鬱々として志を得ず。五言詩を作り京邑の知友に贈る。詩が京に至り、盛んに当時吟誦せられ、天下の好事者多くこれを壁上に書して玩ぶ。後に郷里に帰り、十餘年調べられず。仁寿初め、 豫 章王長史を拝す、その好むところに非ず。王が転封して斉に於けるや、即ち斉王文学となる。当時、諸王の官属多く夷滅せられ、ここにより弥に自ら安からず、病を謝して免ぜらる。久しくして、大理司直を授かり、官において卒す。集十巻あり、世に行わる。
徐遵明は、字を子判といい、華陰の人。幼くして孤となり、学を好み、年十七、郷人の毛霊和らに随い山東に詣り学を求む。上党に至り、乃ち屯留の王聰に師事し、『毛詩』『尚書』『礼記』を受く。一年にして、便ち聰に辞し燕・趙に遊び、張吾貴に師事す。吾貴の門徒甚だ盛ん。遵明は伏膺すること数ヶ月、乃ち私かに友人に謂いて曰く、「張生は名高くして義に検格無く、凡そ講説する所、吾が心に愜わず。請う更に師に従わん」と。遂に平原の田猛略とともに范陽の孫買徳に就く。受業すること一年、復たこれを去らんと欲す。猛略、遵明に謂いて曰く、「君は年少にして師に従い、毎に業を終えず、かくの如き用意は、終に成ること無からんことを恐る」と。遵明は乃ちその心を指して曰く、「吾は今真の師の在る所を知れり、正にここに在り」と。乃ち平原の唐遷に詣り、蠶舎に居り、『孝経』『論語』『毛詩』『尚書』『三礼』を読む。門院を出でず、凡そ六年、時に箏を弾じ笛を吹き、以て自ら慰む。また陽平館陶の趙世業の家に『服氏春秋』あるを知る、これは晋の世の永嘉の旧写なり。遵明は乃ち往きてこれを読み、復た数載を経る。因りて手ずから『春秋義章』を撰す、三十巻。
この後門徒に教授し、毎に講坐に臨むに、先ず疏を持執し、然る後に敷講す。学徒今に至るまで、浸して俗を成す。遵明は外において講学すること二十餘年、海内宗仰せざる無し。頗る聚斂を好み、劉献之・張吾貴と皆河北において徒を聚めて教授し、絲粟を懸けて納め、衣物を留めてこれを持ちて之を待ち、名づけて影質と曰い、儒者の風を損うこと有り。遵明は鄭玄の『論語序』に「書は八寸の策を以てす」と云うを見て、誤って「八十宗」と作り、因りて曲げてこれを説く。その僻なること皆かくの如し。献之・吾貴はまた甚だし。遵明は京輦を好まず、兗州に旧有るを以て、因りて徙りてこれに属す。元顥が洛に入ると、任城太守李湛将、義兵を挙げんとし、遵明はその事に同ず。夜に人間に至り、乱兵のために害せらる。永熙二年、遵明の弟子通直散騎侍郎李業興、表して策命を加えんことを求め、卒に贈諡無し。
董徴は、字を文發といい、頓丘郡衛国の人である。身長は七尺二寸、古学を好み、雅素を尊んだ。十七歳の時、清河の監伯陽に師事して『論語』・『毛詩』・『春秋』・『周易』を学び、河内の高望崇に『周官』を学び、後に博陵の劉獻之について諸経を遍く学んだ。数年の中に、大義を精練し、生徒に講授した。太和の末、四門小學博士となった。後に宣武帝は詔して董徴をIY華宮に入らせ、孫惠蔚に命じて『六経』について問わせた。引き続き詔して董徴に京兆王・清河王・広平王・汝南王の四王を教授させた。後に累進して安州刺史となった。董徴は職務報告のため都へ行く途中、道すがら郷里に立ち寄り、酒宴を設けて盛大に催し、邑の長老を大いに饗応した。そして言うには、「腰に亀紐を帯びて国に帰ることは、昔の人が栄誉と称えたところであり、節を持って家に還ることは、どうして楽しからぬことがあろうか」と。そこで二、三の子弟を戒めて言うには、「この富貴は、天から降ってきたものではなく、勤学によって得られたものである」と。当時の人はこれを栄誉とした。都に入って司農少卿・光禄大夫となり、後に老齢を理由に職を解かれた。永熙二年、死去した。孝武帝は董徴がかつて学業を授けたことを考慮し、特に優遇して儀同三司・尚書左僕射・相州刺史を追贈し、諡して文烈といった。子に仲曜がいる。
李業興は、上党郡長子県の人である。祖父の虯、父の玄紀は、ともに儒学をもって孝廉に挙げられた。玄紀は金郷県令の任で死去した。業興は若い頃から耿介で学問を志し、後に趙・魏の地で徐遵明に師事した。当時、漁陽の鮮于霊馥もまた門徒を集めて教授していたが、遵明の名声はまだ高くなく、門弟も少なかった。業興はそこで霊馥の学舎に行き、学業を受ける者のふりをした。霊馥はそこで言うには、「李生は久しく羌博士(徐遵明を指す)に従っているが、何を得たのか」と。業興は黙って答えなかった。やがて霊馥が『左伝』を講じると、業興はその大義について数条問うたが、霊馥は答えることができなかった。そこで業興は衣を振るって立ち上がり、「羌弟子(徐遵明の弟子)はまさにこのようなものだ」と言った。そしてまっすぐに帰ってしまった。これ以来、霊馥の生徒は学舎を傾けて遵明のもとに就いた。門徒が大いに盛んになったのは、業興の働きによるものであった。
その後、広く百家の書に渉猟し、図緯・風角・天文・占候に至るまで、討究・習練しないものはなかった。特に算暦に長じていた。貧賤の中にあっても、常に自ら誇りとし、礼遇が十分でないと感じれば、たとえ権貴に対しても屈服しなかった。後に王遵業の門客となった。孝廉に挙げられ、校書郎となった。当時世に行われていた趙匪の暦法では、節気の計算が実際より後れていた。延昌年間、業興は『戊子元暦』を作って朝廷に上奏した。当時、屯騎 校尉 の張洪・蕩寇将軍の張龍詳ら九家が、それぞれ新暦を献上していた。宣武帝は詔して、これらを一つにまとめた暦を作るよう命じた。張洪らは後に業興を主導者に推し、『戊子暦』を完成させ、正光三年に上奏して施行された。業興は、殷暦の甲寅元、黄帝暦の辛卯元について、積算の元となる数値はあるが、術数が欠けていると考えた。そこでこれらを改めて修訂し、それぞれ一卷として世に伝えた。建義初年、詔により儀注を司ることを命じられた。間もなく著作郎に任じられた。永安三年、以前の暦法制定の功績により、長子伯の爵位を賜った。後に孝武帝が即位した際、礼事に参画した功績により、屯留県子に封じられ、通直 散騎常侍 に任じられた。永熙三年二月、孝武帝が釈奠を行った際、業興は魏季景・温子昇・竇瑗とともに摘句を担当した。後に侍読として宮中に入った。
鄴への遷都が始まると、起部郎中の辛術が上奏した。「今、皇居が移り、あらゆる制度が創始されようとしております。営造が始まれば、必ずや適切な規制が必要です。李業興は碩学の通儒であり、博聞多識であります。万門千戸の事柄について、彼に諮問すべきです。今、彼に図面や記録を調べさせ、是非を考定し、古を参照し今を交え、折衷して制度を定めさせてください。」詔はこれに従った。当時、尚書右僕射・営構大匠の高隆之は、詔により三署の楽器・衣服及び百戯などの品々を修繕する任に当たっており、業興に協力するよう奏請した。
天平四年、兼 散騎常侍 李諧・兼吏部郎盧元明とともに梁に使いした。梁の 散騎常侍 硃異が業興に問うて曰く、「魏の洛中の委粟山は南郊か、それとも円丘か」と。業興曰く、「委粟は円丘にして、南郊にあらず」と。異曰く、「比来、郊と丘は場所を異にすと聞く、これは鄭玄の説を用いるなり。我がここでは王粛の説を用いる」と。業興曰く、「然り。洛京の郊丘の処は、鄭玄の解釈を用いる」と。異曰く、「若し然らば、女子が逆に傍親を降すことも、また鄭玄に従うか否か」と。業興曰く、「この一事も、また専ら従うにあらず。若し卿のここで王粛の説を用いるならば、除服の禫祭は応に二十五月を用いるべきなれど、何ぞ王儉の『喪礼』において、禫祭に二十七月を用いるや」と。異は遂に答えず。業興曰く、「我、昨、明堂を見るに、四柱の方屋にして、全く五九の室無し、当に裴頠の制する所なるべし。明堂は上が円く下が方なり、裴は唯だ室を除くのみ、今これ上が円からず、何ぞや」と。異曰く、「円方の説は俗説にして、経典に文無し、方なるを何ぞ怪しまん」と。業興曰く、「円方の言は、出処甚だ明らかなり、卿自ら見ざるなり。卿の録する梁主の『孝経義』を見るに、亦た『上が円く下が方なり』と云う、卿の言は豈に自ら矛盾せざるか」と。異曰く、「若し然らば、円方の説は竟に何れの経に出づるか」と。業興曰く、「『孝経援神契』に出づ」と。異曰く、「緯候の書、何ぞ信ずべきや」と。業興曰く、「卿若し信ぜずんば、『霊威仰』・『葉光紀』の類、経典にも亦た出づる所無きが如きもの、卿は復た信ずるか否か」と。異答えず。梁の武帝、業興に問うて曰く、「『詩・周南』は王者の風にして、周公に系く。『召南』は仁賢の風にして、召公に系く。何を以て系くと名づくや」と。業興対えて曰く、「鄭玄の『儀礼』に注して云う、昔、太王・王季、岐陽に居り、躬ら『召南』の教を行いて王業を興す。文王に及びて今の『周南』の教を行いて命を受け、酆に邑を作る。文王は諸侯の地にて化せられたる国なり、今既に九五の尊に登る、復た諸侯の地を守るべからず、故に二公を分封し、名づけて系くと為す」と。梁の武帝また問う、「『尚書』に『正月上日、文祖に終を受け』とあるは、此時何の正を用いるか」と。業興対えて曰く、「これは夏の正月なり」と。梁の武帝言う、「何を以て知り得るか」と。業興曰く、「案ずるに『尚書中候運衡篇』に『日月始を営む』と云う、故に夏の正を知る」と。また問う、「堯の時以前、何の月を正とすや」と。業興対えて曰く、「堯より以上は、書典に載せず、実に知らざる所なり」と。梁の武帝また云う、「『寅賓出日』は正月なり、『日中星鳥、以て仲春を殷ぶ』は即ち二月なり。これは『堯典』に出づ、何ぞ堯の時に何の正を用いるかを知らずと云えんや」と。業興対えて曰く、「三正同じからずと雖も、時節を言う者は、皆夏の時の正月に拠る。『周礼』に『仲春二月、男女の夫家無き者を会す』と。周の書より出づと雖も、月も亦た夏の時なり。堯の日月も亦た此の如きべし。但だ見る所深からず、以て明問を弁析する無し」と。梁の武帝また曰く、「『礼記』に、原壤の母死し、木を叩きて歌う。孔子は聖人なり、而して壤と友たりや」と。業興対えて曰く、「孔子は即ち自ら解きて、親たる者は其の親を失わず、故たる者は其の故を失わず、と云う」と。また問う、「壤は何れの処の人ぞ」と。対えて曰く、「『注』に云う、原壤は孔子幼少の時の旧故なり。是れ魯の人なり」と。また問う、「原壤は不孝にして、人倫に逆らう、何を以て故旧の小節を存し、不孝の大罪を廃するや」と。対えて曰く、「原壤の行う所の事は自ら彰著なり、幼少の交わりは、今に始まるに非ず。既に大故無し、何ぞ容れて之を棄てんや」と。また問う、「孔子は聖人なり、何を以て原壤の事を書し、法を万代に垂るるや」と。業興対えて曰く、「これは後人の録する所にして、孔子の自製に非ず、猶お防に合葬するが如し。此の比の如きは、『礼記』の中に、動もすれば百数有り」と。また問う、「『易』に太極有り、極は有無か」と。業興対えて曰く、「伝うる所の太極は有なり」と。還りて、兼 散騎常侍 を加えられ、中軍大将軍を加う。
業興の家は代々農夫なり、学殖有りと雖も、旧い音は改めず。梁の武帝、其の宗門の多少を問うに、答えて曰く、「薩四十家なり」と。使いより還り、孫騰謂いて曰く、「何ぞ意図して呉児に笑わるるや」と。対えて曰く、「業興は猶お笑わるる所と為る、試みに公を遣わさんに、当に罵らるる所と著るべし」と。邢子才云う、「爾が婦疾む、或いは問うて実なりや」と。業興曰く、「爾は大いに癡なり!但だ此れを道えば、人疑う者は半ば、信ずる者は半ば、誰か検看せん」と。
武定元年、国子祭酒を除かれ、仍って侍読す。神武帝(高歓)は業興が術数に明るきを以て、軍行する時常に之に問う。業興は某日某処に勝つと曰い、親しい者に謂いて曰く、「彼若し勝ちを告げば、自然我を賞すべし。彼若し凶敗せば、安んぞ能く我を罪せんや」と。芒山の役、風西より来たりて営に入る。業興曰く、「小人の風来る、当に大勝すべし」と。神武帝曰く、「若し勝たば、爾を以て本州刺史と為さん」と。既にして太原太守と為す。五年、斉の文襄帝(高澄)引きて中外府諮議参軍と為す。後、事に坐して禁止せられ、業興乃ち『九宮行棋暦』を造る。五百を以て章と為し、四千四十を以て蔀と為し、九百八十七を以て升分と為し、還って己未を以て元と為し、終始相い維ぎ、復た移転せず、今の暦法術と異なる。気序の交分、景度の盈縮に至っては、異ならず。文襄帝の潁川を征するに、業興曰く、「往けば必ず克つ、克ちて後は凶なり」と。文襄帝既に克ち、業興を以て凶に当たらしめて殺さんと欲す。
業興は墳籍を愛好し、鳩集して已まず。手ずから補修し、躬ら題帖を加う。其の家の所有する所、将に万巻に垂んとす。覧読して息まず、多く異聞有り、諸儒其の深博なるに服す。性豪侠にして、意気を重んず。人の急難有れば、命を委ねて之に帰すれば、便能く容匿す。其の者と好合すれば、身を傾けて吝るところ無し。乖忤有れば、便ち即ち疵毀し、乃ち声色に至り、以て謗罵を加う。性又躁隘にして、論難の際に至っては、儒者の風無し。毎に人に語りて云く、「但だ我を好しと道え、妄言と知ると雖も、故に悪しと道うるに勝る」と。務めて進み前を忌み、後患を顧みず、時人此を以て之を悪む。学術の精微に至っては、当時に及ぶ者無し。業興二子有り、崇祖父の業を伝う。
崇祖は字を子述と云う。文襄帝、朝士を集め、盧景裕に命じて『易』を講ぜしむ。崇祖時に年十一、論難往復し、景裕之を憚る。業興其の子を助成し、忿鬩に至る。文襄帝の色甚だ平らかならず。姚文安、服虔の『左伝解』七十七条を難じ、名づけて『駁妄』と曰う。崇祖は服氏を申明し、名づけて『釈謬』と曰う。斉の文宣帝(高洋)、三台を営構するに、材瓦の工程は皆崇祖の算する所なり。屯留県侯に封ぜらる。遵祖は、斉の天保初めに宗景の暦を難ずること甚だ精し。崇祖は元子武の為に葬地を卜し、酔いて之に告げて曰く、「改葬の後、当に孝文に異ならざるべし」と。武成帝(高湛)の時、或る者之を告ぐ。兄弟法に伏す。
李鉉は、字を寶鼎といい、勃海南皮の人である。九歳で学に入り、『急就篇』を書き写し、一月余りで通じた。家はもと貧しく、常に春夏は農事に従事し、冬になって学に入った。十六歳の時、浮陽の李周仁に従って『毛詩』・『尚書』を学び、章武の劉子猛に『禮記』を、常山の房虯に『周官』・『儀禮』を、漁陽の鮮于靈馥に『左氏春秋』を学んだ。李鉉は郷里に師とすべき者がいないと考え、遂に州里の楊元懿・河間の宗惠振らと友を結び、大儒徐遵明の下に赴いて教えを受けた。徐の門下に五年間留まり、常に高弟と称された。二十三歳の時、自ら潜居して是非を論じた。『孝經』・『論語』・『毛詩』・『三禮義疏』及び『三傳異同』・『周易義例』を撰定し、合わせて三十余巻とした。心を尽くして精苦に努め、かつて三度の秋冬、枕を蓄えず、眠る毎に仮寐するのみであった。二十七歳の時、帰郷して両親を養い、郷里で教授した。生徒は常に数百人に及び、燕趙の間に経を語り得る者は、多くその門を出た。郷里に文籍が少ないため、来遊して京師に至り、未だ見ざる書を読んだ。秀才に挙げられ、太學博士に任じられた。李同軌が卒すると、齊の神武帝(高歓)は文襄帝(高澄)に命じて京師において碩学を妙簡し、諸子を教えさせた。文襄帝は李鉉を以て旨に応じ、 晉 陽に召し寄せた。時に中山の石曜・北平の陽絢・北海の王 晞 ・清河の崔瞻・広平の宋欽道及び工書の者韓毅が同じく東館に在り、諸王の師友となった。李鉉は聖人より去ること久遠で、文字に多く乖謬有りとし、講授の暇に、遂に『説文』・『倉頡篇』・『爾雅』を覧て、六藝の経注中の謬字を刪正し、名付けて『字辨』とした。
天保の初め、詔して李鉉に殿中尚書邢邵・中書令魏收らと礼律を参議させ、なお兼ねて國子博士とした。時に詔して北平太守宋景業・西河太守綦母懷文らに新暦を草定させ、録尚書・平原王高隆之は李鉉に通直常侍房延祐・國子博士刁柔と得失を参考させた。まもなく國子博士を正任とした。廃帝(高殷)が東宮に在った時、文宣帝(高洋)は詔して李鉉に経を以て入授させ、甚だ優礼を以て遇された。卒すると、特に廷尉少卿を追贈された。葬送の際、王人(朝廷の使者)が送り、儒者として栄誉とされた。
楊元懿・宗惠振は官ともに國子博士に至った。
馮偉は、字を偉節といい、中山字喜の人である。身長八尺、衣冠甚だ偉く、見る者肅然とせしめた。若くして李寶鼎(李鉉)に学び、李はその聡敏を重んじ、常に別意を以て試み問うた。多く通解し、特に『禮』・『傳』に明るかった。後に郷里に還り、門を閉ざして出ず、将に三十年に及んだ。生業を問わず、賓客と交わらず、専精覃思し、通ぜざる所無かった。齊の趙郡王(高叡)が定州に出鎮した時、礼を以て迎接し、命書三度至り、県令自らその門に至ったが、なお疾を辞して起たなかった。王は将に車駕を命じて請い致さんとし、佐吏前後星馳してこれを報じ、県令また自らその冠履を整え、已むを得ず出仕した。王は階を下りて事を迎え、その拝伏を止め、階を分かちて上り、賓館に留め、甚だ礼重された。王は将に秀才に挙げ充てんとしたが、固辞して就かず。歳余りして還ることを請うた。王はその拘束を願わざるを知り、礼を以て発遣し、贈遺甚だ厚かった。一も納れず、唯だ時服を受けるのみであった。還ると、人事を交えず、郡守県令、毎に親しく至った。歳時に或いは羊酒を置くも、また辞して納れず。門徒の束脩は、一毫も受けず。蚕して衣とし、耕して飯とし、簞食瓢飲、その楽しみを改めず。寿を以て終わった。
張買奴は、平原の人である。経義該博にして、門徒千余人、諸儒皆これを推重した。齊に仕え、歴任して太學博士・國子助教となり、卒した。
劉軌思は、勃海の人である。『詩』を説くこと甚だ精しかった。若くして同郡の劉敬和に師事し、劉敬和は同郡の程師則に師事したので、その郷曲には『詩』を為す者が多かった。劉軌思は齊に仕え、位は國子博士に至った。
鮑季詳は、勃海の人である。『禮』に甚だ明るく、兼ねて『左氏春秋』に通じた。若い時、常に李寶鼎の都講を務めた。後にはまた自ら徒衆を有し、諸儒これを称した。齊に仕え、太學博士の任に在って卒した。
従弟の長暄は、『禮』・『傳』に兼ねて通じた。任城王高湝の丞相掾となった。常に都において貴遊子弟を教授した。齊が滅亡し、家にて卒した。
邢峙は、字を士峻といい、河間鄭の人である。若くして学び『三禮』・『左氏春秋』に通じた。齊に仕え、初め四門博士となり、國子助教に遷り、経を以て皇太子に入授した。邢峙は方正純厚にして、儒者の風有り。厨宰が太子に食事を進める際、菜に邪蒿有り、邢峙はこれを去らせ、曰く「この菜には不正の名有り、殿下の宜しく食すべきに非ず」。文宣帝(高洋)聞いてこれを嘉し、被褥縑纊を賜い、國子博士に拝した。皇建の初め、清河太守に除され、恵政有り。年老いて帰郴し、家にて卒した。
劉晝は、字を孔昭といい、勃海阜城の人である。若くして孤貧、学を愛し、伏膺して倦まず。常に戸を閉ざして書を読み、暑月には唯だ犢鼻褌を著るのみ。儒者李寶鼎と同郷にして、甚だ相親愛した。李寶鼎はその『三禮』を授け、また馬敬德に就いて『服氏春秋』を習い、倶に大義を通じた。下里に墳籍少なきを恨み、便ち杖策して都に入る。鄴令宋世良の家に書五千巻有るを知り、乃ちその子の博士となることを求めて、恣意に披覧し、昼夜息まず。還り、秀才に挙げられたが、策試に及第せず、乃ち文を属するを学ばざりしを恨み、方に復た辞藻を緝綴す。言甚だ古掘にして、一首の賦を制し、六合を名とし、自ら絶倫と謂い、乃ち儒者は労して功寡しと歎じた。曾て賦を以て魏收に呈するも拝せず。魏收これに忿り、謂いて曰く「賦名六合、已に太だ愚なり、文また六合より愚なり。君の四体また文より甘し」。劉晝忿らず、また邢子才(邢邵)に示す。邢子才曰く「君この賦、正に疥駱駝に似て、伏して嫵媚無し」。劉晝は秀才を求め、十年得ず、憤りを発して『高才不遇傳』を撰す。冀州刺史酈伯偉これを見て、始めて劉晝を挙げ、時に年四十八。
刺史隴西の李璵も、嘗て劉晝を以て詔に応ぜんとした。先ずこれに告ぐると、劉晝曰く「公自ら国の為に才を挙ぐるなり、何ぞ労して劉晝に語らんや」。齊の河南王孝瑜(高孝瑜)劉晝の名を聞き、毎に召見すれば、輒ち促席して対飲した。後に密親有るに遇い、使いて且つ齋に坐せしむると、劉晝須臾にして径ち去り、追って謝し要むるも、終に復た屈せず。孝昭帝(高演)即位し、直言を受くるを好む。劉晝これを聞き、喜んで曰く「董仲舒・公孫弘出づるべし」。乃ち歩みて 晉 陽に詣り上書す。言亦た切直なるも、多く世の要に非ず、終に見えず収采せられず。上書した書を編録し、『帝道』と為す。河清年中、また『金箱璧言』を著す。蓋し機政の不良を指すを以てす。
劉晝夜に嘗て貴人、吏部尚書の若き者が交州興俊の令を補う夢を見、覚めて密かに書記す。卒後十余日、その家の幼女鬼語し、声劉晝に似て、云く「我、用いられて興俊県令と為り、仮を得て暫く来りて辞別す」と。劉晝常に自ら博物奇才と謂い、言好んで矜大す。毎に言う「我をして数十巻の書を後世に行わしむるは、齊景公の千駟を易え易からず」。容止舒緩、挙動倫に不ならず、ここに由り竟に仕官無く、家にて卒した。
馬敬德は河間の人である。若くして儒学を好み、笈を負って徐遵明に従い『詩経』・『礼記』を学び、大義を略通したが、精しくはなかった。そこで『春秋左氏伝』に留意し、沈思研求して昼夜倦むことがなかった。燕・趙の間で教授し、生徒で従う者が甚だ多かった。そこで州将に詣でて秀才を求めた。将は彼が純粋な儒者であるとして、推薦する意がなかった。敬德が方略を試すことを請うと、五条の問い全てに文理があったので、欣然として挙げて送った。都に至り、ただ中第を得たのみであった。経業の試験を請うと、十条を問われ、全て通じた。抜擢されて国子助教に任じられ、再び国子博士に遷った。斉の武成帝が後主のために師傅を選ぶと、趙彦深が彼を推挙し、入朝して侍講となった。その妻が夜に猛獣が来て自分に向かう夢を見た。敬德は走って藪棘を超え、妻は地に伏して敢えて動かなかった。敬德が占って言うには、「私は大官となるであろう。棘を超えるのは、九卿を超えることである。お前が地に伏すのは、夫人となることである。」と。後主は既に学を好まず、敬德の侍講は甚だ疎遠で、時折『春秋』を持参して講じた。それでも師傅の恩により、国子祭酒・儀同三司・金紫光禄大夫・瀛州大中正に拝された。卒すると、その門徒は言った、「馬先生は孔子に勝る。孔子は儀同を得られなかった。」と。まもなく開府・瀛州刺史を追贈された。その後、侍書の張景仁が王に封ぜられると、趙彦深が言った、「どうして侍書が王に封ぜられ、侍講には却って封爵がないのか。」と。これにより敬德も広漢郡王を追封され、子の元熙に襲封させた。
元熙は字を長明といい、若くして父の業を伝え、併せて文藻に長じた。通直として文林館で待詔した。武平年間、皇太子が『孝経』を講じようとすると、有司が師を選ぶよう請うた。帝が言うには、「馬元熙は朕の師の子であり、文学も悪くない。」と。そこで『孝経』を持参して皇太子に講じた。儒者としてその世々の栄えを誇った。性質は温和で篤厚、内廷において甚だ名声を得た。隋の開皇年間、秦王文学の任に在って卒した。
張景仁は済北の人である。幼くして孤となり、家は貧しく、書を学ぶことを業とし、遂に草書・隷書に巧みとなった。選ばれて内書生に補され、魏郡の姚元標・潁川の韓毅・同郡の袁買奴・ 滎陽 の李超らと並び称され、文襄帝(高澄)は皆を賓客として招いた。天保八年、勅命により太原王紹德に書を教えた。後主が東宮にいた時、武成帝が侍書を命じ、引擢された。小心恭謹で、後主は彼を愛し、博士と呼んだ。即位後、累遷して通直 散騎常侍 となり、左右に侍した。話す時も、なお博士と称した。胡人の何洪珍が後主に寵愛され、朝士と婚姻関係を結びたかった。景仁が内廷にいて官位も稍々高いのを以て、その兄の子に景仁の第二子張瑜の娘を娶らせ、これにより表裏で相援け、恩遇は日増しに厚くなった。景仁は病が多く、帝は毎度徐之範らを遣わして治療させ、薬物や珍味を給し、中使が病状を問う使者は道に相望んだ。その後、勅命で有司に常にその邸宅へ御食を送らせた。車駕が行幸する時、道中の宿所では毎度歩障を送り、風寒を遮らせた。位は儀同三司に進み、開府を加えられ、侍書は従前の如くであった。毎朝参内を要する時は、即ち東宮に留まった。文林館が立てられると、中人鄧長顒が旨を迎え、彼に総判館事を奏上させた。侍中に除され、建安王に封ぜられた。洪珍の死後も、長顒はなお旧誼を保ち、更に互いに補い合い、墜退することはなかった。遂に 中書監 に除され、卒した。侍中・五州刺史・ 司空 公を追贈された。
景仁が児童の時、洛京で、かつて国学に詣でて『石経』を模写していた。許子華が学中で彼に会い、景仁の手を執って言った、「張郎の風骨は、必ずや貴顕に通ずるであろう。ただ官爵が昇達するのみならず、天子と筆硯を同じくし、衣履を伝えることになろう。」と。子華が卒して二十余年後、景仁は開府の位に至り、数度にわたり衣冠・筆硯を賜い、子華の言った通りとなった。寒微の出自で、元来識見がなく、一朝にして開府・侍中となり、王に封ぜられた。その妻は姓が奇で、氏族の出どころを知る者なく、容姿・言葉遣い、何事も凡俗で鄙びていた。王妃に除されて後、諸公主・郡君と共に朝謁の列に在ると、見る者は彼女のため慚悚した。
景仁の性質は元来卑謙であったが、胡人や宦官の勢力を用いて、座して通顕に至り、志操は頗る改まり、次第に驕傲となった。良馬に軽裘、徒従は擁冗し、高門広宇、大路に面して建っていた。諸子はその本を思わず、自ら貴遊の子を任じた。倉頡以来、八体の書で進用された者は、彼一人のみである。
権会は、字を正理といい、河間鄭の人である。志尚は沈着雅量に富み、行動は礼則に遵った。若くして鄭玄注『易経』を受け、その幽微を妙に極め、『詩経』・『書経』・『周礼』・『儀礼』の文義に該洽し、兼ねて風角に明るく、玄象を妙に識った。斉に仕え、初め四門博士となった。僕射崔暹が館客として招き、甚だ敬重し、世子の達挐に師傅の礼を尽くさせた。暹は会を馬敬德らと共に諸王の師としようと推薦しようとした。会の性質は恬静で、栄勢を慕わず、左遷されることを恥じ、固辞した。暹はその意を識り、遂に推薦を止めた。まもなく国史の編修を追って担当し、太史局事を監知した。後に国子博士に遷った。会は参掌する職務は繁雑であったが、教授は欠かさなかった。性質は甚だ儒綍(穏やか)で、言うことができないかのようであったが、機に臨んで難問に答えると、響きに応える如く酬報し、これにより諸儒に推された。貴遊の子弟でその徳義を慕う者は、或いはその宅に就き、或いは隣家に寄宿し、昼夜に間隙を承けて、その学業を受けた。会は欣然として演説し、懈怠したことはなかった。風角玄象に明るいながらも、私室に至っては、全く口にしなかった。学徒に請い問う者がいても、終に説くところはなかった。常に言った、「この学は知ることはできても言うことはできない。諸君は皆貴遊の子弟であり、これによって進むのではない。何ぞ煩わしく問う必要があろうか。」と。ただ一人の子がいたが、この術は授けなかった。会がかつて家人を遠方に行かせたが、久しく帰らなかった。その者が帰還しようとして近づいた時、寒雪に逢い、他の家に寄り休んでいた。会が丁度学堂で講説していると、突然旋風が雪を吹き込んできた。会は笑って言った、「行く人が至った。どうして途中で停まったのか!」と。遂に人を遣わして追い尋ねさせると、果たしてその言葉の通りであった。会が占筮する度に、大小必ず当たった。ただ爻辞・彖・象を用いて、吉凶を弁じた。『易』占の類は、全く口にしなかった。
会は元来貧しい書生で、僮僕がおらず、初めて助教に任じられた日は、常に驢馬に乗っていた。その職務の処が多いため、夜にならなければ帰らなかった。かつて夜に城東門を出た時、会は独り一頭の驢馬に乗っていた。突然二人の者が現れ、一人は頭を引き、一人はその後ろに従い、助けているようであった。その動きは軽く漂うようで、生きた人間とは異なっていた。次第に道を失い、本来の道から外れた。心に甚だ怪しみ、そこで『易経』上篇第一卷を誦した。まだ終わらないうちに、前後の二人は忽然と離散した。会もまた気づかぬうちに驢馬から落ち、意識を失い、明け方になってようやく気づいた。落ちた所が城外で、家から僅か数里の所であることを知った。一人の子がおり、字は子襲といい、聡敏で精勤、幼くして成人の器量があった。先に亡くなった。葬送に臨む者はそのために傷慟したが、会はただ一哭して済ませ、当時の人はその達命を尊んだ。武平末年、役所から邸宅に帰る途中、路上で理由もなく馬が倒れ、遂に言葉を発することができず、急死した。『易経』注釈一部を著し、世に行われた。会は生来馬を畏れ、位望が至ったため乗らざるを得ず、果たしてこれによって終わった。
張思伯は河間楽城の人である。『左氏伝』を説くことに長け、馬敬德に次ぐ者であった。『刊例』十巻を撰し、当時に行われた。また『毛詩』の章句を為した。二経をもって斉安王廓に教授した。位は国子博士に至った。
また長楽の張奉礼がおり、『春秋三伝』に長け、思伯と並び称された。位は国子助教に至った。
張雕武は、中山郡北平県の人である。家柄は寒微であった。その兄の蘭武は、 尚書令 史に仕え、僅かに資産を有していた。故護軍長史の王元則が当時書生であり、その宅に滞在していた。雕武は若く美貌であり、元則に愛悦され、故に偏って教えを受けた。そこで学問を好み、精力は人に絶し、書巻を背負って師に従い、千里をも遠しとしなかった。『五経』に遍く通じ、特に『三伝』に明るかった。弟子で遠方より学業に就く者は、百を数え、諸儒はその強弁に服した。斉の神武帝(高歓)は彼を覇府に召し入れ、諸子に講説させた。乾明(北斉廃帝の年号)の初め、累遷して平原太守となったが、贓賄の罪に坐して官を失った。武成帝(高湛)が即位すると、旧恩により、通直 散騎常侍 に任じられた。琅邪王高儼が博士を求めた際、有司は雕武を選に応じさせ、当時は人を得たと称された。涇州刺史・ 散騎常侍 を歴任した。
帝(後主高緯)の侍講馬敬德が卒すると、乃ち入って経書を教授した。帝は甚だこれを重んじ、侍講とし、侍書の張景仁と共に尊礼され、共に華元殿に入り、『春秋』を読んだ。国子祭酒を加えられ、仮の儀同三司となり、文林館に待詔した。景仁が宗室であることから、その親戚の何洪珍に自らを托し、公私の事柄について、雕武は常にその指南となった。張景仁と共に二張博士と号された。時に穆提婆・韓長鸞が洪珍と共に帷幄に侍し、雕武が洪珍の謀主であることを知り、忌み憎んだ。洪珍はまた、雕武を国史監修に奏上した。まもなく侍中に任じられ、開府を加えられ、度支の事柄を奏上した。大いに委任され、言うところ多く従われ、特詔により奏事の際に趨走せず、博士と呼ばれた。
雕武は自ら微賤の出身でありながら大臣の位に至ったことを以て、公務に励精し、己を顧みぬ節操があった。議論は回避するところなく、左右の放恣な輩には、必ず禁令を加えた。数々寵臣権要を譏刺し、帷扆(天子のそば)で献替(良策を献じ、悪政を替える)した。帝もまた深くこれを倚仗し、まさに朝政を委ねようとしていた。雕武は便ち澂清(政治を清めること)を己が任務とし、意気は甚だ高かった。かつて朝堂で鄭子信に謂って曰く、「先ほど省中に入り、賢家の唐令(唐邕か)の処分を見たが、極めて取るに足らぬものであった。もし数行の兵帳(軍事文書)を作るならば、雕武は邕に及ばない。しかし主上を堯・舜に致し、身は稷・契の位に居らしめるならば、邕は我に及ばない。」と。長鸞らは密かにこれを図った。及んで侍中の崔季舒・黄門侍郎の郭遵と共に 晉 陽行幸を諫めた際、長鸞の讒言により誅殺された。刑に臨み、帝は段孝言をして彼を詰問させた。雕武は曰く、「臣は諸生より起り、光寵は隆く洽く受けました。今度の諫めは、臣が実に首謀であり、意は善くとも功は悪く、死を逃れることはできません。願わくは陛下、金玉(=貴体)を珍愛し、神明を開発され、数々賈誼の類を引きいれ、その政道を語らせ、聴覧の間に、擁蔽(ふさがれ閉ざされること)なきようにされませ。そうすれば臣は死すとも、生きている年と同じです。」と。因りて歔欷して涙を流し、俯して戮に就いた。左右の者は憐れみかつ壮としない者はなかった。
子の德沖らは北辺に徙された。南安王思好の反乱の際、德沖及び弟の德揭は共に免罪となった。德沖は聡敏で学問を好み、帝師の子として、早くから旌擢(表彰抜擢)され、中書舍人の位に至った。その父が誅戮された時、德沖は共に殿廷で捕らえられ、目の当たりに冤酷を見て、号哭し、地に殞絶し、久しくして蘇った。
郭遵は、钜鹿郡の人である。斉の文宣帝(高洋)が太原公であった時、国常侍であった。帝の家人に蓋豊洛という者がおり、家務を典知し、蓋将と号されていた。遵はその処分に因り、かつて抵抗したことがあり、高徳正に責められた。斉が禅譲を受けると、これにより主書に抜擢され、専ら訪察を令された。中書舍人の朱謂が钜鹿太守となった時、遵が弟子のために官を求めたところ、謂が文宣帝に啓上し、二百回鞭打ち、京畿に付された。久しくして、 并 省尚書都令史・建州別駕に任じられた。折しも韓長鸞の父の永興が刺史となったため、これにより遂に互いに参附した。後に黄門侍郎に抜擢されたが、誅殺された。
遵は賤微の出身であり、満ち足りることを容易くした。宮門で諸貴人に逢うと、辄ち姓字を呼び、言葉や振る舞いは極めて軽率であった。かつて宮門で韓長鸞を引き止め、辞して曰く、「王(長鸞か)は言うべき時に在る。主上がこのように放縦であられるのに、曾て規諫せず、何をもって大臣と名乗るのか?」と。長鸞はその率爾たることを嫌い、便ち手を掣って去った。これにより援けを加えられず、故に禍に及んだのである。
目次へ戻る※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。