『孝経』に云う、「夫れ孝は、天の経なり、地の義なり、人の行なり」と。『論語』に云う、「君子は本を務む、本立ちて道生ず、孝悌なる者は、其れ仁の本なるか」と。『呂覧』に云う、「夫れ孝は、三皇五帝の本務にして、万事の綱紀なり。一術を執りて百善至り、百邪去り、天下順う者は、其れ唯孝のみならんか」と。然らば則ち孝の徳たるや至り、其の道たるや遠く、其の人を化すること深し。故に聖帝明王これを四海に行えば、則ち天地と其の徳を合し、日月と其の明を斉しくす。諸侯卿大夫これを国家に行えば、則ち永く其の宗社を保ち、長く其の禄位を守る。匹夫匹婦これを閭閻に行えば、則ち徽烈を当年に播き、休名を千載に揚ぐ。是を以て堯・舜・湯・武は帝王の位に居り、至徳を垂れて其の風を敦くし、孔・墨・荀・孟は聖賢の資を稟け、正道を弘めて其の俗を励ます。其の由る所を観れば、此に在るのみ。
然れども淳源既に往き、澆風愈扇き、礼義樹てず、廉譲修め莫し。若し乃ち銀黄を綰き、鐘鼎に列り、朝廷の間に立つは、一族に非ざるも、亀貝を積み、倉廩を実し、閭巷の内に居るは、一家に非ざるも、其の愛敬の道に於いては、則ち未だ備はる能はざる有り。哀思の節は、中を得る者罕なり。斯れ乃ち詩人の素冠を思う所以にして、孔門の衣錦を責むる所有り。
且つ生には色養の方尽くし、終には哀思の地極む、其の跡は緒多けれども、其の心は一なり。若し乃ち誠泉魚に達し、感鳥獣に通ずるは、事常倫に匪ず、斯れ蓋し希なり。温床・扇席、灌樹・負土に至りては、苟くも或いは人に加うれば、皆俗を疾む。斯れ固より仁人君子の歎きを興す所以にして、哲後賢宰の心を属うべき所なり。もし教化を明らかにして以て其の弊を救い、爵賞を優にして以て其の心を勧め、懇誠を存して以て其の進を誘い、歳月を積んで以て其の終を求めば、則ち今の所謂少なる者は、以て多と為すべく、古の所謂難なる者は、以て易と為すべし。
長孫慮等は古を稽ふるの学闕け、俊偉の才無し。或いは其の自然に任せ、情に矯飾無く、或いは天性に篤く、其の四体を勤む。並びに股肱の力を竭し、咸く愛敬の心を尽くし、自ら膝下の歓を足し、軒冕の貴を忘懐す。言はずして化し、人神通感す。仮令或いは位台輔に登り、爵王侯に列り、禄万鐘を積み、馬跡千駟たりとも、死の日曾て斯の人の徒隷と歯するを得ず。孝の大なるや、其れ然らざらんや。
案ずるに『魏書』は趙琰・長孫慮・乞伏保・孫益徳・董洛生・楊引・閻元明・呉悉達・王続生・李顕達・倉跋・張升・王崇・郭文恭を列して『孝感伝』と為し、『周書』は李棠・柳檜・杜叔毗・荊可・秦族・皇甫遐・張元を列して『孝義伝』と為し、『隋書』は陸彦師・田徳懋・薛濬・王頒・田翼・楊慶・郭世儁・紐因・劉仕儁・郎方貴・翟普林・李徳饒・華秋・徐孝粛を列して『孝義伝』と為す。今趙琰・李棠・柳檜・杜叔毗・陸彦師・李徳饒は別伝及び其の家伝に入る。其の余は並びに此れより編緝し、以て『孝行伝』に備う。
長孫慮は代の人なり。母飲酒するに因り、其の父真之を呵叱し、誤って杖を以て撃つに、便ち即ち死に致す。真県に囚執せられ、重坐を以て処せらる。慮尚書に辞を列して云く、「父母忿争するも、本余悪無く、直に謬誤を以て、一朝横禍を蒙る。今母喪未だ殯せず、父命旦夕に有り、慮兄弟五人並びに沖幼なり。慮身長に居り、今年十五、一女弟有り、向に始めて四歳。更相鞠養するも、保全する能わず、父若し就刑せば、交々溝壑に墜つ。乞う、身を以て老父の命に代え、嬰弱の衆孤をして、存立を蒙らしめん」と。尚書奏して云く、「慮は父に於いては孝子、弟に於いては仁兄なり。情を尋ね状を究むれば、特だ矜感す可し」と。孝文帝詔して特だ其の父の死罪を恕し、遠流に従わしむ。
乞伏保は高車部の人なり。父居は献文の時に 散騎常侍 と為り、牧曹尚書を領し、爵を甯国侯に賜う。忠謹慎密を以て、常に左右に在り、詔命を出内す。宮人河南宗氏を賜う。亡びたる後、宮人申氏を賜う。宋の太子左率申坦の兄の女なり。歳余にして居卒す。申伏保を撫養す。性厳肅にして、捶罵切至れども、伏保は奉事孝謹にて、初め恨色無し。父の侯爵を襲ぐ。例に降りて伯と為る。稍く左中郎将に遷る。禄賜を請う毎に、在外の公私尺丈の用ふる所、白く知らざる無し。出でて鄯善鎮将と為る。申年八十を踰ゆ。伏保手づから馬車を制し、親しく扶接す。申欣然として之に随う。申亡び、伏保官を解き、喪を奉じて洛に還る。復た長兼南中郎将と為り、卒す。
孫益徳は楽安の人なり。其の母人の為に害せらる。益徳童幼にして、母の為に復讐し、家に還り殯に哭して、以て県官を待つ。孝文・文明太后其の幼くして孝決なるを以て、又罪を逃れざるに、特だ之を免す。
董洛生は代の人なり。父喪に居るに礼を過ぐ。詔して秘書中散温紹伯を遣わし、璽書を奉じて之を慰め、自ら抑割して以て孝道を全うせしむ。又其の宗親に詔し、相喻奨せしめ、滅性の譏有らしむる莫からしむ。
楊引は郷郡襄垣の人なり。三歳にして父に喪い、叔の養う所と為る。母年九十二にして終る。引年七十五、哀毀礼を過ぐ。三年服畢り、父を識らざるを恨み、追服して斬衰し、粥を食い粗服し、終身命を誓う。十三年を経て、哀慕改めず。郡県郷閭三百余人の為に状を上りて美を称す。有司奏して宜しく旌賞すべく、其の一門を復し、其の純孝を樹つべしとす。詔して別に集書に勅し引の至行を標揚せしめ、又散員の名を以て仮するを得しむ。
閻元明は河東安邑の人なり。少にして至孝に至り、行郷閭に著る。太和五年、北随郡太守を除かる。元明親養に違離するを以て、言を興して悲慕す。母亦慈念し、泣淚して明を喪う。悲号上訴し、帰り奉養するを許さる。一たび其の母を見れば、母の目便ち開く。刺史呂寿恩状を列して上聞す。詔して州郡に下し、孝門として表し、其の租調兵役を復し、母の年を終わらしむ。母亡び服終り、心喪積載す。毎忌日、悲しみ傍隣を動かす。昆弟雍和し、尊卑諧穆し、貧に安んじ道を楽しみ、白首同帰す。
また猗氏県の人令狐仕は、兄弟四人で、早くに父を失い、十年にわたり泣き慕い、その母を奉養し、孝行は郷里に顕著であった。そして田畑を耕して粟を蓄え、広く施しをやめなかった。
また河東郡の人楊風ら七百五十人は、楽戸皇甫奴兄弟を列挙して称え、兵卒の身分に沈んでいたが、操り尚ぶところはますます高く、継母を奉養し、恭孝の称が甚だ著しいと述べた。
また東郡小黄県の人董吐渾と兄の養は、親に事えて至孝であり、三世同居し、家門に礼儀があった。景明の初め、畿内大使の王凝がその異例を表彰するよう上奏し請うたので、詔がこれに従った。
呉悉達は、河東聞喜の人である。兄弟三人は、年齢ともに幼く、父母が人に殺された。四時にわたり号泣慕い、悲しみは郷隣を感動させた。成長して仇を討ち、永安に避地した。兄弟は四十余年にわたり同居し、家門は和睦し、安逸を譲り労苦を競った。凶作の年であっても、粥さえ続かぬことがあったが、賓客が通過する時は必ず所有を傾けた。守宰の葬儀がある度に、私的に車牛を調達し、葬送の地まで送った。隣人の孤貧で困窮する者には、衣を解ぎ糧を省いて、これを賑恤しなかった者はなかった。郷里の五百余人が州に赴いて称頌した。刺史は悉達兄弟の行いが郷里に著しいとして、板書で悉達の父を勃海太守に追贈した。悉達は後に改葬しようとしたが、墳墓の所在が分からず、探し求めても得られなかった。号哭の声は昼夜止まず、神祇に訴えた。すると突然、悉達の足下の地が陥没し、父の墓誌銘を得たので、曾祖以下三世九喪を遷葬した。資産を傾け尽くし、他人に頼ることなく、哀傷のあまり憔悴し、初喪の時を上回った。有司が上奏して聞かせると、里門を表彰し徭役を免除し、孝義を顕彰した。
時に斉州の人崔承宗がいた。その父は宋の時代に漢中に仕え、母の喪に際してそこに仮葬された。後に青州・徐州が魏に帰したため、遂に隔絶された。承宗は性、至孝であり、万里の険路を投げ打ち、密かに道を負って喪を背負い都に還った。黄門侍郎の孫恵蔚がこれを聞き、「私はこの人に、廉範の情を見た」と言った。そこで弔問と贈り物を礼を尽くして行い、旧知の如くであった。
王続生は、 滎陽 京県の人である。継母の喪に遭い、喪に服し、杖をついてようやく起き上がった。礼制を終えるまでに、鬢の髪は全て落ちた。有司が上奏して聞かせると、宣武帝は詔して里門を表彰し、その徭役を選別した。
李顕達は、潁川陽翟の人である。父の喪に、水さえも口に入れず七日、鬢の髪が脱落し、形体は枯れ憔悴した。六年にわたり墓側に廬し、声を絶やさず泣き、ほとんど命を絶つほどであった。州牧の高陽王元雍がその状況を上奏すると、霊太后は詔してその里門を表彰した。
倉跋は、 滎陽 京県の人である。母の喪に、水さえも口に入れず五日、数升の血を吐き、喪に服して憔悴し、州里に称えられた。有司が上奏して聞かせると、孝武帝は詔して里門を表彰した。
張升は、 滎陽 京県の人である。父の喪に、水を飲み塩を絶ち、哀傷のあまり過度に憔悴し、形骸は枯れ、骨ばかりとなり、髪はほとんど落ち尽くした。名声は郷里に聞こえ、盗賊もその里を侵さなかった。州が上表して聞かせると、その里門を表彰した。
王崇は、字を乾邕といい、陽夏雍の人である。兄弟ともに孝行で称えられ、身をもって耕作に勤め、二親を養った。梁州鎮南府の主簿に仕えた。母が亡くなると、杖をついてようやく起き上がり、鬢の髪が脱落した。葬るに及ばず、仮に宅の西に仮葬した。崇は仮葬所に廬し、昼夜哭泣すると、鳩や鳩の群れが来た。一羽の小鳥がおり、白い体に黒い瞳で、形は雀より大きく、崇の廬に棲み、朝夕離れなかった。母の喪が終わり、また父の喪に遭い、哀傷のあまり礼を越えた。この年の夏、風雹があり、経過した所では、禽獣が暴死し、草木が摧折した。崇の田畔に至ると、風雹は止み、禾麦十頃は、ついに損傷落穂がなかった。崇の地を過ぎると、風雹は初めの如くであった。皆、至行の感ずるところであると称えた。崇は喪服を除いた後も、なお墓側に住んだ。その室の前に、草が一本生え、茎葉は甚だ茂り、人は誰も識らなかった。冬の中頃になると、また鳥が崇の屋に巣を作り、三羽の雛を育て、羽毛が成長しても、馴れて驚かなかった。守令がこれを聞き、自ら臨視した。州が上奏して聞かせると、その里門を表彰した。
郭文恭は、太原平遥の人である。太平県令に仕えた。七十歳を過ぎて、父母が亡くなった。文恭は孝慕の念が極まりなく、祖父の墓の傍らに住み、朝晩拝跪した。裸足で土を背負い、祖父と父の二つの墓を盛り上げ、寒暑を問わず力を尽くし、積年やめなかった。見る者は誰も哀歎しなかった者はない。尚書が上奏して聞かせると、その里門を表彰した。
荊可は、河東猗氏の人である。性質は質朴で、容止は人と異なっていた。苦労を厭わず勤勉に力を尽くし、その母を供養し、時節に応じた美味を絶やさず、ついに欠乏することはなかった。母の喪に、水さえも口に入れず三日、悲号して胸を叩き地に伏し、気絶してから蘇ることを四度も繰り返した。母を葬った後、遂に墓側に廬し、昼夜悲哭し、土を背負って墳丘とし、蓬髪で櫛もせず、菜食して水を飲むのみであった。しかし可の家の旧墓は、塋域が極めて広大で、雑草が深く茂り、家から十余里離れていた。しかも可は独りそこに宿り、禽獣と雑処し、哀傷は遠近に及び、邑里で称えられた。大統年中、可の郷人は可の孝行が風俗を勧励するに足るとし、上言した。周の文帝は州県に命じてその異例を表彰させた。喪服が終わった後も、なお喪に服しているようであった。大塚宰・晋公の宇文護は可の孝行を聞き、特に引見した。可と言論を交わすと、時に護の意に会うところがあった。護もまた至孝であり、その母の閻氏は敵境で亡くなり、存亡が測り知れなかった。可を見る度に、久しく膝下を離れていることを自ら傷み、可の至性を重んじた。可が卒した後、護はなおその純孝を思い、可の妻子を京城に収容し、常にその衣食を給した。
秦族は、上郡洛川の人である。祖父の白、父の雚は、ともに至性があり、閭里に聞こえた。魏の太和年中、板授により白を潁州刺史とした。大統年中、板授により雚を酈城郡守とした。族は性、至孝であり、親に事えて力を尽くした。父の喪に遭うと、哀傷のあまり礼を越え、一たび慟哭するごとに、その酸鼻は行路の人をも感動させた。母が健在であるので、常に哀情を抑え切り、その母の意を慰めた。四時の珍味に、欠乏したことはなかった。弟の栄先とまた互いに友愛し、家門の中は和やかであった。やがてその母もまた亡くなると、時を定めず哭泣し、ただ水を飲み菜を食うのみであった。喪が終わった後も、なお蔬食し、房室に入らず二十余年であった。郷里は皆歎異した。その邑人の王元達ら七十余人がその状況を上奏すると、詔がありその里門を表彰した。
栄先もまた至孝であり、父の喪に遭い、哀慕やまず、遂に憔悴して卒した。邑里はその孝行に感化された。周の文帝はこれを嘉し、詔を下してその行いを褒め称え、滄州刺史を追贈し、その異例を顕彰した。
皇甫遐は、字を永賢といい、河東汾陰の人である。累世寒微であったが、郷里はその和睦を称えた。遐は性、純粋で、幼くして父を喪い、母に事えて孝行で聞こえた。後に母の喪に遭うと、墓側に廬し、土を背負って墳丘とした。また墓の南に一つの禅窟を作り、陰雨の時は窟を穿ち、晴れの時は墓を営んだ。朝晩勤勉に力を尽くし、暫しも休まなかった。歳月を積むうちに、墳丘は数丈の高さとなり、周囲五十余歩、禅窟は重なる台が二重に巡り、総じて十二の室となり、中間の行道は百人を容れることができた。遐は粥を食い土塊を枕にし、風に櫛り雨に沐し、形容は枯れ憔悴し、家人も識別できなかった。墓を営み始めた当初、鴟鳥が各一羽ずつ現れ、徘徊して悲鳴し、墓側を離れず、まるで遐を助けるかのようで、月余り経って去った。遠近その至孝を聞き、競って米や麺を贈ったが、遐は皆受け取っても食わず、全て仏斎を営むのに用いた。郡県がその状況を上表すると、詔がありその異例を表彰した。
張元、字は孝始、河北芮城の人である。祖父の成は、仮に平陽郡守を務めた。父の延俊は州郡に仕え、累進して功曹主簿となった。共に純粋篤実として郷里に推された。元は性質謙虚で慎み深く、孝行の行いがあり、経史に少し通じていたが、仏典に精通していた。六歳の時、その祖父が夏の暑さを理由に、元を井戸に連れて行き水浴びさせようとした。元は固く従おうとせず、遊びたがっていると思われ、杖で頭を打たれて「なぜ浴びようとしないのか」と言われた。元は答えて「衣服は体を覆い、恥部を隠すためのものです。元は白日のもとで体を恥部を露わにすることはできません」と言った。祖父は驚き、やめた。
南の隣家に二本の杏の木があり、杏が熟すと多くが元の園に落ちた。子供たちは競って取って食べた。元が得たものは、持ち主に返した。道端に捨てられていた子犬がいたが、元はすぐに引き取って養った。その叔父は怒って「こんなもの何の役に立つのか」と言い、再び捨てようとした。元は答えて「命あるものは、皆その性命を重んじます。もし天が生かし天が殺すのであれば、それは自然の道理です。今、人に捨てられて死ぬのは、その道理ではありません。見ておきながら養わないのは、仁の心がありません。それゆえに引き取って養うのです」と言った。叔父はその言葉に感じ入り、ついに許した。間もなく、母犬が一匹の死んだ兎をくわえて元の前に置き去りにした。
元が十六歳になった時、その祖父は失明して三年が経っていた。元は常に憂い泣き、昼夜を問わず仏経を読み、礼拝して福と加護を祈った。後に『薬師経』を読み、「盲者視を得」という言葉を見た。そこで七人の僧を招き、七つの灯を灯し、七日七夜『薬師経』を転読し行道した。その度に言った。「天人師よ、元は孫として不孝であり、祖父を失明させました。今、燈の光を法界に普く施し、願わくは祖父の目が見えるようになり、元が代わって暗闇を求めます」。このように七日経ったある夜、一人の老人が金の鑱(医療器具)で祖父の目を治療する夢を見た。夢の中で喜び躍り、すぐに目が覚めた。そして家人に広く告げた。三日後、祖父の目は果たして見えるようになった。その後、祖父が再び臥せると、元は常に祖父の食べる量に合わせ、衣冠を解かず、朝夕付き添って介護した。祖父が亡くなると、慟哭して倒れ、その後蘇生した。父に従い、三日間水も飲まなかった。郷里の人々は皆、驚き嘆いた。県の博士楊軌ら二百余人がその様子を上奏し、詔によってその門に表彰がなされた。
王頒、字は景彥、太原祁の人である。父は僧辯、『南史』に伝がある。頒は若い頃から豪放磊落で、文武の才幹と器量があった。僧辯が侯景を平定した後、頒を荊州に留めた。梁の元帝が周の軍に陥落させられると、頒は関中に入った。父が陳の武帝(陳霸先)に殺されたと聞き、慟哭して気絶し、しばらくして蘇り、泣き声が絶えず、憔悴して骨と皮ばかりになった。喪が明けた後も、常に布衣と粗食で、藁の上に臥した。周の明帝はこれを嘉し、召し出して左侍上士に任じた。累進して漢中太守となり、まもなく儀同三司に任ぜられた。
隋の開皇初年、蛮族平定の功績により、開府を加えられ、蛇丘県公に封ぜられた。陳を取る策を献上し、皇帝(文帝)はそれを見て驚き、召し出して会見した。話し終えると涙を流し、皇帝も顔色を変えた。大軍を挙げて陳を伐つ時、頒は自ら従軍を願い出た。数百人の兵を率い、韓擒虎の先鋒に従って夜間に渡河し、力戦して負傷した。再び戦う力がないことを恐れ、悲しみに咽んだ。夜中に眠ると、夢に人が薬を授けるのを見、目覚めると傷は痛まなかった。当時の人は孝の感動によるものと考えた。
陳が滅びると、頒は密かに父の在世時の兵士を召集し、千余人を得て、彼らに向かって涙を流した。その中の壮士が尋ねた。「郎君の仇恥は既に晴らされたのに、悲しみが止まないのは、霸先(陳武帝)が早く死に、自ら手刃できなかったからでしょうか。その丘墓を発き、棺を開けて骨を焼き、孝心を表すこともできます」。頒は額を地に擦りつけて陳謝し、額から血が出るほどで、答えて言った。「その墳墓は非常に大きい。一晩で発掘しても遺体に届かず、明朝になってしまえば、事は露見してしまう」。一同は鍬や鋤を用意するよう請うた。そこで夜にその陵を発き、棺を割ると、陳武帝の鬚が全て抜け落ちておらず、その根元が全て骨から生えていた。頒はそこで骨を焼いて灰にし、水に投じて飲んだ。その後、自ら縛られて罪に服した。晋王(楊広)がその状況を上奏した。文帝は言った。「朕は義をもって陳を平定した。王頒の行いは、これも孝義の道である。どうして罪に問えようか」。許して問わなかった。役所がその戦功を記録し、柱国に加え、物五千段を賜ろうとした。頒は固く辞して言った。「臣は国の威霊に縁り、怨恥を晴らすことができましたが、本心は私情に殉じたものであり、国のためではありません。加えられる官爵と賞賜は、終に受け取ることはできません」。帝はそれに従った。代州刺史に任ぜられ、非常に善政を布いた。斉州刺史の任で没した。
弟の頍、字は景文。数歳の時に江陵が滅亡し、諸兄と共に関中に入った。若い頃から遊侠を好み、二十歳になってもまだ書物を知らず、兄の顒に責められ怒られた。そこで感激し、『孝経』『論語』を読み始め、昼夜倦まず、遂に『左伝』『礼』『易』『詩』『書』を読み、嘆じて言った。「書物に読めないものはない」。数年にわたり勤学し、遂に『五経』に広く通じ、その旨趣を究め、大いに儒者に称賛された。文章を綴ることを解し、談話を善くした。三十歳の時、周の武帝に召されて露門学士となり、議決がある度に、多くは頍が行った。性質は識見が明らかで、精力に倦まず、諸子を読み、異書を広く記憶し、博識をもって称された。また兵法に通暁し、ますます縦横の志を持ち、常に時世に逢わないことを嘆き、常に将相たることを自ら任じた。
開皇五年、著作佐郎に任ぜられ、まもなく国子学で講義するよう命ぜられた。折しも帝が自ら釈奠に臨んだ。国子祭酒の元善が『孝経』を講じたが、頍がこれと論難し合い、議論が鋭く交わされ、善はしばしば屈服させられた。帝は大いにこれを奇とし、破格で国子博士に任じた。後に事に坐して解職され、嶺南に配流された。
数年後、漢王諒の府諮議参軍に任ぜられ、王は大いに礼遇した。当時、諒は房陵王(楊勇)及び秦・蜀の二王が相次いで廃位されたのを見て、密かに異志を抱いていた。頍は密かに諒に甲兵を整えるよう勧めた。文帝が崩御すると、諒はついに兵を挙げて反乱を起こしたが、多くは頍の計略によるものであった。頍はその後も奇策を進言したが、諒は用いなかった。楊素が蒿沢に至り、戦おうとした。頍はその子に言った。「気候が非常に悪い。兵は必ず敗れる。お前は私に従え」。まもなく兵は敗れ、頍は突厥に帰ろうとした。山中に至り、道が途絶え、必ず免れられないと悟った。子に言った。「私の計謀は、楊素に劣らない。ただ言葉が用いられなかったために、ここに至った。座して捕らえられ、あの小僧の名声を高めることはできない。私が死んだ後、お前は決して親しい者を頼るな」。そこで自殺し、石窟に葬った。その子は数日間食べ物を得られず、ついにその故人を頼り、結局捕らえられた。楊素は頍の屍を求めて得て、首を斬り、太原に梟首した。著した『五経大義』三十巻、文集二十巻は、共に兵乱のため、再び残るものはなかった。
楊慶、字は伯悅、河間の人である。祖父の玄、父の剛は、共に至孝をもって知られた。慶は容貌や立ち居振る舞いが美しく、性質は弁舌に優れ聡明であった。十六歳の時、斉の国子博士徐遵明がこれを見て驚いた。成長すると、書記の類いに広く通じた。二十五歳の時、郡が孝廉に推挙したが、父母に侍り養うため赴任しなかった。母が病気になると、七十日間も襟帯を解かなかった。母の喪に服した時は、哀傷のあまり憔悴して骨と皮ばかりになり、土を背負って墳墓を築いた。斉の文宣帝はその門を表彰し、帛や綿・粟などをそれぞれ差をつけて賜った。隋の文帝が禅譲を受けると、たびたび褒賞を加え、抜擢して儀同三司に任じ、板授で平陽太守とした。家で没した。
田翼、どこの者かは知られていない。母を養って孝行で知られた。その後、母が一年余り臥せると、翼は自ら乾いた所と湿った所を替え、母が食べれば食べ、母が食べなければ食べなかった。隋の開皇年間、母が突然の下痢を患った。翼は毒薬によるものと考え、自ら汚物を嘗めた。母が亡くなると、翼は一度慟哭して気絶した。妻もまた哀しみに耐えられず死んだ。郷人は手厚く共に葬った。
紐因、字は孝政、河東安邑の人である。性、至孝なり。周の武成中、父母喪し、墓側に廬し、土を負いて墳を成す。廬の前に麻一株生じ、高さ丈許、これを囲めば合拱し、枝葉鬱茂にして、冬夏常に青し。鳥有りて上に棲み、因り声を挙げて哭すれば、鳥即ち悲鳴す。時に人これを異とす。周の武帝その閭を表し、擢て甘棠令に授く。隋の開皇初に卒す。
子の士雄、少より質直にして孝友なり。父喪し、また墓側に廬し、土を負いて墳を成す。その庭前に一の槐樹有り、初めは甚だ鬱茂せしが、士雄の喪に居するに及んで、樹遂に枯死す。服闋して宅に還るや、死槐復た栄ゆ。隋の文帝これを聞き、その父子の至孝を歎き、詔を下して褒揚し、その居を号して累德里と為す。
劉仕俊、彭城の人なり。性、至孝なり。母喪に丁り、絶えて復た蘇る者数たび、勺飲口に入れざること七日。墓側に廬し、土を負いて墳を成し、松柏を列植す。虎狼馴擾し、これが為に食を取る。隋の文帝禅を受け、その門閭を表す。
翟普林、楚丘の人なり。親に事えて孝を以て聞こゆ。州郡辟くも皆就かず、躬耕して色養す。郷閭これを楚丘先生と謂う。後に父母疾有り、親しく澡濕を易え、衣を解かざること七旬。大業初、父母倶に終わり、哀毀殆ど将に性を滅ぼさんとす。墓側に廬し、土を負いて墳を成す。盛冬繒絮を衣とせず、唯だ単縗を著るのみ。家に鳥犬有り、その墓に在るに随い、普林の哀臨する若くは、犬も亦た悲号し、見る者嗟異す。二鵲有りてその廬前の柏樹に巣くい、廬に入りて馴狎し、驚懼する所無し。司隸巡察し、その孝感を奏し、擢て孝陽令に授く。
華秋、汲郡臨河の人なり。幼くして父を喪い、母に事えて孝を以て聞こゆ。家貧しく、傭賃を以て養と為す。その母疾を患い、秋容貌毀悴し、鬢須尽く改まる。母終わり、遂に櫛沐を絶ち、発尽く禿落す。墓側に廬し、土を負いて墳を成す。助けんと欲する者あれば、秋輒ち拝してこれを止む。隋の大業初、狐皮を調し、郡県大いに狩す。一兔有り、これを逐うて、秋の廬中に奔り入り、秋の膝下に匿る。獵人廬の所に至り、異としてこれを免す。このより、この兔常に廬中に宿り、その左右に馴る。郡県その孝感を嘉し、具に状を以て聞かす。使いを降して労問し、而してその門閭を表す。後に群盗起こり、常に廬の左右に往来す。咸いに誡めて曰く、「孝子の郷を犯すこと勿れ」と。秋に頼りて全かる者甚だ衆し。
徐孝肅、汲郡の人なり。宗族数十家、多くは豪侈を以て相尚うも、唯だ孝肅は儉約なり。親に事えて孝を以て聞こゆ。幼小に在りと雖も、宗党の間に毎に争訟有れば、皆孝肅の所に至り平論し、短き者は咎を引きて退かざる無し。孝肅早く孤となり、父を識らず。長ずるに及び、その母に父の状を問い、因りて画工にその形を図らしめ、廟を構えてこれを置きて定省し、朔望享祭す。母を養うこと至孝、数十年家人未だその忿恚の色を見ざりき。母老疾す。孝肅燥濕を視て易え、憂悴すること数年、見る者悲悼せざる莫し。母終わり、孝肅蔬を茹み水を飲み、盛冬単縗、毀瘠骨立す。祖父母・父母の墓、皆土を負いて墳を成す。墓の所に廬すること四十余載、髪を被き徒跣し、遂に以て身を終う。
その弟の徳備終わり、子の処默、また墓側に廬す。弈世孝と称せらる。
論じて曰く、天地を塞ぎ四海を横たうるは、唯だ孝のみのみ。然らば則ち孝は愛敬の方に始まり、哀思の道に終極す。厥れ亦た多緒なりと雖も、その心は一なり。若し上智は自然の質を稟け、中庸は企及の義有り、その名を成すに及びては、その美は一なり。長孫慮等は或いは公卿の緒より出で、礼教の資を藉り、或いは茆笪の下より出で、奨勸の得る所に非ず。並びに心に因り理に乗じ、礼教を逾えず、感通の致す所、これを神明に貫く。乃ち土を負いて墳を成し、毀滅性を致す者有り。先王の典制に乖くとは雖も、亦た過ちを観て仁を知るなり。
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