北史

巻六十九 列傳第五十七

列傳第五十七

申徽、陸通(弟の逞)、厙狄峙、楊薦、王慶、趙剛(子の仲卿)、趙昶、王悅、趙文表、元定、楊(以下、人名)

申徽は、字を世儀といい、魏郡の人である。六世の祖の鐘は、後趙の 司徒 しと となった。冉閔の末年に、中原は喪乱し、鐘の子の邃は江左に避難した。曾祖の爽は宋に仕え、雍州刺史の位にあった。祖の隆道は、宋の北兗州刺史である。父の明仁は郡の功曹であったが、早くに亡くなった。徽は幼くして母と暮らし、孝養を尽くした。成長すると、経史を好んだ。性質は審慎で、妄りに交遊しなかった。母の憂いに遭い、喪が終わると、魏に帰った。元顥が洛陽に入ると、元邃を東徐州刺史とし、邃は徽を召し出して主簿とした。顥が敗れると、邃は檻車に載せられて洛陽に送られ、旧来の吏や賓客は皆去ったが、徽のみがこれを送った。邃が赦免されると、広く賓友を集め、徽に古人の風があると歎じた。まもなく太尉府行参軍に任じられた。

孝武帝の初め、徽は洛陽の兵難が未だ止まないことを以て、遂に間道を行って関中に入り、周文(宇文泰)に謁見した。周文は彼と語り、これを奇とし、賀拔岳に推薦した。岳もまた雅に敬待し、賓客として招いた。周文が夏州に臨むと、徽を記室参軍とし、兼ねて府の主簿を務めさせた。周文は徽が沈密で度量があることを察し、何事も信頼して委ね、大行台郎中とした。当時、軍国は草創期で、幕府の事務は殷盛であり、四方への書檄は皆、徽の文辞であった。孝武帝を迎えた功績により、博平県子に封ぜられ、本州の大中正となった。大統初年、侯に爵位を進めた。四年、中書舎人に任じられ、起居注を修した。河橋の役では、大軍は利あらず、近侍の官で分散する者は多かったが、徽のみは左右を離れず、魏帝はこれを称歎した。十年、給事黄門侍郎に遷った。

先に、東陽王元栄が瓜州刺史であった。その女婿の劉彦がこれに随従していた。栄が死ぬと、瓜州の首望(名望家)は栄の子の康を刺史とするよう上表したが、彦は遂に康を殺してその位を奪った。四方多難に属し、朝廷は問罪の暇がなく、因って彦に刺史を授けた。頻りに徴するも詔に奉じず、また南は吐谷渾と通じ、叛逆を図らんとした。周文は衆を動かすことを難しとし、権略をもってこれを致さんと欲し、乃ち徽を河西大使とし、密かに彦を図るよう命じた。徽は軽く五十騎を率いて行き、到着すると、賓館に止まった。彦は徽が単使であるのを見て、疑わず、徽は乃ち一人を遣わして密かに彦に帰朝を勧め、その意を探ったが、彦は従わなかった。徽はまた、その留まる計略に賛成するよう仕向け、彦はこれに従い、遂に館に来た。徽は先に瓜州の豪右と密謀して彦を捕らえ、遂に叱してこれを縛った。彦は無罪を言い張ったが、徽はこれを数えて曰く、「君は尺寸の功も無く、方嶽の重きに濫り居り、遠きを恃みて背誕し、貢職を恭しくせず、使人を戮辱し、詔命を軽忽す。君の咎を計るに、実に誅を容れず。但し詔を受くる日、本より相送りて帰闕せしむるを令す。恨むらくは即ち明罰を申し、以て辺遠に謝するを得ざるのみ。」と。ここにおいて詔を宣べて吏人及び彦の所部を慰労し、また大軍続いて至らんと云い、城内に敢えて動く者無し。使いより還り、都官尚書に遷った。

十二年、瓜州刺史成慶が城人張保に殺され、 都督 ととく 令狐延らが義兵を起こして保を逐い、刺史を請うた。徽が西方の地に信望が厚いことを以て、仮節・瓜州刺史に任じられた。徽は州に五年在任し、倹約をもって下を率い、辺境の民は楽しんでこれを安んじた。十六年、徽は尚書右僕射を兼ね、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。廃帝二年、公に爵位を進め、右僕射を正し、宇文の姓を賜った。

徽の性質は勤勉で、居官する所は全て、案牘の大小を問わず自ら省覧した。これにより事は滞ることなく、吏は奸を行うことができなかった。後に公卿を歴任しても、この志は懈らなかった。出て襄州刺史となった。当時、南方は初めて帰附したばかりで、旧俗として官人は皆贈賄を通じていた。徽は廉潔で慎み深い性質であり、乃ち楊震の像を寝室に描いて自ら戒めとした。代わって還る時、人吏で送る者は数十里に絶えなかった。徽は自ら人に徳無きを以て、慨然として愧いを懐き、因って詩を賦し、清水亭に題した。長幼これを聞き、皆競って来て読み、互いに謂って曰く、「これは申使君の手跡なり」と。併せて書き写し誦した。

明帝は、禦正が詔勅の総任を担うことから、更にその秩を崇めて上大夫とし、員数四人、号して大禦正とし、また徽をこれに任じた。小 司空 しくう ・少保を歴任し、出て荊州刺史となった。入朝して小 司徒 しと ・小宗伯となった。天和六年、上疏して骸骨を乞うた。詔してこれを許した。薨じ、泗州刺史を追贈され、諡して章といった。

子の康が嗣いだ。瀘州刺史・司織下大夫・上開府の位に至った。

康の弟の敦は、汝南郡守となった。敦の弟の静は、斉郡守となった。静の弟の処は、上開府・同昌県侯となった。卒した。

陸通は、字を仲明といい、呉郡の人である。曾祖の載は、宋の武帝に従って関中を平定し、軍が還ると、載を留めてその子の義真に随従させ長安を鎮守させたが、遂に赫連氏に没した。魏の太武帝が赫連氏を平定すると、載は魏に仕え、中山郡守の位に至った。父の政は、性質が孝を致す。その母は呉の人で、魚を好んで食した。北土には魚が少なく、政がこれを求めるのは常に苦難であった。後に宅の側に忽ち泉が湧き出て、魚がいたので、遂に供膳することができた。当時の人は孝の感応によるものとし、因ってその泉を孝魚泉と称した。爾朱天光に従って討伐した。天光が敗れると、周文に帰した。周文が行台となると、政を行台左丞・原州長史とし、中都県伯の爵を賜った。大統年間に卒した。

通は幼少より敦厚で敏しょう好学であり、志節があった。幼くして政に従い河西におり、遂に寇難に逢い、政と相失った。通は乃ち自ら抜け出して東に帰り、爾朱栄に従った。栄が死ぬと、また爾朱兆に従った。爾朱氏が滅ぶと、関中に入った。周文が当時夏州におり、帳内督に引き立てた。間もなく、賀抜岳が侯莫陳悦に害された。時に岳の軍府が既に亡散したとの伝えがあった。周文はこれを憂えたが、通は然らずと思った。数日居て、問いが至ると、果たしてその策の如くであった。ここより愈々親礼を受け、遂に昼夜陪侍し、家人もその面を稀に見るのみであった。通は機密に処しながらも、愈々自ら恭謹にし、周文はこれをもって彼を重んじた。後に孝武帝を迎えた功績により、都昌県伯に封ぜられた。

大統元年、侯に爵位を進めた。竇泰を禽えることに従い、また弘農を回復した。沙苑の戦いの後、力戦して功があった。また洛陽の包囲を解くことに従った。軍が還ると、趙青雀が長安で反した。周文はこれを討たんとしたが、人馬疲弊していることを以て、速やかに行くべからず、また青雀らは一時の陸梁に過ぎず、慮るに足らぬと謂い、乃ち「我が長安に到れば、軽騎を以て臨むのみで、必ずや面縛するであろう」と云った。通が進み出て曰く、「青雀らは既に大軍の不利を以て、朝廷の傾危を謂い、同悪相求め、遂に反乱を成す。然れどもその逆謀は久しく定まり、必ずや善に遷る心無からん。且つその詐りて大軍敗績し、東寇将に至らんと云う。若し軽騎を以て往かば、百姓は信然と謂い、更に兆庶の望みを沮む。大兵は疲弊すと雖も、精鋭猶お多し。明公の威を以て、帰らんと想う衆を率い、順を以て逆を討てば、何ぞ平らかならざるを慮らんや」と。周文は深くこれを納れ、因って青雀平定に従った。前後の功績を録し、公に爵位を進め、徐州刺史となった。寇難未だ平らかならざるを以て、留まってその部に赴かなかった。于謹と共に劉平伏を討ち、大 都督 ととく を加えられた。周文に従って玉壁を救援し、儀同三司に進んだ。

九年、高仲密が地をもって来附し、通は若干恵に従って芒山で戦う。諸軍は皆退却したが、ただ恵と通のみが率いる所部をもって力戦した。夜中に至ってようやく密かに引き返したが、敵も敢えて迫らなかった。時に驃騎大将軍・開府僕同三司・太僕卿を授けられ、姓を部六孤氏と賜り、綏徳郡公に爵位を進めた。周の孝閔帝が践祚すると、小 司空 しくう に任ぜられた。保定五年、累遷して大司寇となった。

通は性質が柔和で謹直であり、久しく列位に処するも、常に清廉で慎み深く自らを守った。得た俸禄と賜物は、全て親戚や旧知と共有し、家に余財はなかった。常に言うには、「凡そ人は貧しきを患えて貴からず、貴きを患えて貧しからざるを患うなり」と。建徳元年、大司馬に転じた。その年に薨じた。通の弟が逞である。

逞は字を季明といい、初めは名を彦、字を世雄といった。魏の文帝が常に従容としてこれに謂いて曰く、「爾は既に温裕なり、何ぞ乃ち世雄と字する因由ぞ。且つ世の雄たるは、宜しき所に非ず。爾が兄弟に於いて又た復た類せず」と。遂に改めた。逞は少より謹密にして、早く名誉有り。兄の通は先に軍功をもって別に茅土を受けたので、父の爵位である中都県伯を逞に襲がせた。初官は羽林監・周文の内親信。時の同輩は皆、 ぎょう 勇をもって自ら達したが、唯だ逞のみが文雅を兼ね、周文はこれにより礼遇を加えた。大統十四年、大丞相府軍事に参じ、まもなく記室を兼ねた。保定の初め、累遷して吏部中大夫となり、蕃部・禦伯中大夫を歴任し、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、司宗中大夫に転じて授けられ、軍司馬に転じた。逞は幹事と識見が詳明で、三府を歴任し、所在に績を著した。朝廷はこれを嘉し、爵位を公に進めた。

天和三年、斉が侍中斛斯文略・中書侍郎劉逖を遣わして来聘した。初めて隣好を修め、行人を盛んに選ぶに当たり、詔して逞を使主とし、尹公正を副使としてこれに報いさせた。逞は容貌と挙措が美しく、辞令に優れ、敏捷で礼有り、斉人はこれを称えた。還って近畿に至ると、詔して路車と儀服を以て郊外で迎え入れさせ、当時の人はこれを栄誉とした。四年、京兆尹に除せられた。郡界に豕が数子を生み、旬日を経て死んだ。その家にまた豶がいたので、遂いにこれを乳養し、諸豚はこれに頼って生き延びた。時の論議は逞の仁政によるものとした。まもなく司会中大夫に遷り、出て河州刺史となった。晋公宇文護はその才能を雅に重んじ、中外府司馬に表して、頗るこれを委任した。まもなくまた司会となり、納言を兼ね、小司馬に遷った。宇文護が誅せられると、連座して免官となった。

ほどなく、納言として起用された。また病のため劇務に堪えられず、宜州刺史に除せられた。故事によれば、刺史が奉辞する際、例として鹵簿を整えるが、逞は時が農繁期に属することを理由に、奏上してこれを停止するよう請うた。武帝は深くこれを嘉し、詔してその請いの通りとし、以て雅操を顕彰した。逞は州にあって恵み有る政を行い、吏人はこれを称えた。東宮が初めて建てられると、太子太保を授けられた。卒し、大将軍を追贈された。子の操が嗣いだ。

厙狄峙は、その先祖は遼東の人で、本姓は段、匹磾の後裔である。難を避けて改姓した。後に代に徙居し、代々豪族であった。祖父の淩は武威郡守。父の貞は上洛郡守。峙は少より弘厚をもって知られ、騎射に優れ、謀略有り。魏に仕え、高陽郡守の位に至り、政は仁恕を旨とし、百姓は大いにこれを喜んだ。孝武帝が西遷すると、峙は官を棄ててこれに従い関中に入った。大統元年、中書舎人に任ぜられ、機密に参掌し、恭謹をもって称された。黄門侍郎に遷る。時に東魏と覇を争い、蠕蠕が虚に乗じて、屡々辺境の患いとなった。朝議は和親を結ぼうとし、乃ち峙を使わした。峙は状貌魁偉で、辞令に長け、蠕蠕の主は雅にこれを信重し、これより後は再び寇掠しなくなった。周文は峙に謂いて曰く、「昔、魏絳が戎と和し、前史に称せらる。君を以てこれに比すれば、彼は愧色有り」と。高邑県公に封ぜられた。累遷して驃騎大将軍・開府儀同三司となり、侍中に任ぜられた。蠕蠕が滅んだ後、突厥が強盛となり、周と通好するも、外には斉氏と連絡した。周文はまた峙に命を銜ませてこれを諭させた。突厥は感悟し、即ち斉の使者を捕らえて京師に帰した。安豊郡公に爵位を進め、小 司空 しくう ・小司寇を歴任した。

明帝の初め、益州刺史・ 都督 ととく 三十一州諸軍事となった。峙の性質は寛和で、清靖を尚び、夷獠に安んぜられた。後に宜州刺史となり、入朝して少師となった。年老いたことを理由に致仕を乞うと、詔してこれを許した。卒し、諡して定といった。

子の嶷が嗣ぎ、少より名を知られ、開府儀同三司・職方中大夫・蔡州刺史の位に至った。官に卒した。

嶷の弟の徴は、斉平定に従い、功により儀同大将軍に任ぜられ、楽陵県公の爵を賜った。

徴の弟の徽もまた軍功により儀同大将軍・保城県男に至った。

徽の弟の嶔は、性質弘厚で、局度有り、斉右下大夫として武帝の東伐に従い、 へい 州に入った。軍敗れ、侍臣は殲滅された。帝が出るに及んで、唯だ嶔のみが侍従した。功により上儀同大将軍を授けられ、開府に遷り、右宮伯を歴任し、楽城県侯の爵を賜った。隋に仕え、戸部尚書の位に至った。

楊薦は、字を承略といい、秦郡寧夷の人である。父の宝は昌平郡守。薦は幼くして孤となり、早くより名誉有り、性質は廉謹で、喜怒を色に表さなかった。魏の永安年中、爾朱天光に従って関中に入り、群賊を討ち、高邑県男に封ぜられた。周文が夏州に臨むと、帳内 都督 ととく に補せられた。侯莫陳悦を平定すると、薦を使わして洛陽に入り事を請わせ、孝武帝は周文に関西大行台を授け、乃ち薦を直閤将軍に除した。時に馮翊長公主が寡居しており、孝武帝は周文に帰せんと意図し、乃ち武衛元毗に旨を諭させた。薦は帰って周文に報告し、また薦を遣わして洛陽に入りこれを請わせると、孝武帝は即ちこれを許した。孝武帝が関中に向かおうとすると、薦はその計に賛成した。孝武帝曰く、「卿は帰って行台に我を迎えよと語れ」と。周文はまた薦と長史宇文測を遣わして関を出て候接させた。孝武帝は長安に至った。清水県子に爵位を進めた。

大統元年、蠕蠕が和親を請うと、周文は薦と楊寛を使者とし、共に婚姻を結んで還った。侯に爵位を進めた。また薦を使わして蠕蠕に幣を納めさせた。魏の文帝の鬱久閭后が崩ずると、周文は僕射趙善を使者として蠕蠕に遣わし、更に婚を請わせた。善は夏州に至り、蠕蠕が東魏に二心あることを聞き、使者を捕らえようとしているのを知り、善は懼れて、乃ち還った。周文は乃ち薦を遣わし、黄金十斤、雑彩三百匹を賜った。薦が蠕蠕に至り、その恩に背き言を食らうことを責め、併せて結婚の意を論じると、蠕蠕は感悟し、乃ち使者を遣わして薦に随わせて命に報いさせた。侯景が来附すると、周文は薦に鎮遏を助けさせた。薦は景が翻覆することを知り、遂に還ることを求め、事実を具に陳べると、周文は乃ち使者を遣わし密かに景を助ける兵を追い返させた。まもなくして景は叛いた。

十六年、大軍が東討すると、周文は蠕蠕が虚に乗じて寇掠することを恐れ、乃ち薦を遣わし、更に和好を論じ、以てこれを慰撫させた。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられた。周の孝閔帝が践祚すると、禦伯大夫に除せられ、姚穀県公に爵位を進め、乃ち突厥に使いして結婚させた。突厥の可汗の弟である地頭可汗阿史那庫頭が東面に居り、斉と通和し、その兄を説いて先の約束に背かんとした。計謀既に定まり、将に薦らを斉に送らんとした。薦はその意を知り、乃ち正色してこれを責め、辞気慷慨として涕泗横流した。可汗は惨然として良久くして曰く、「幸いに疑う所無からんことを、当に共に東賊を平げ、然る後に我が女を発遣せん」と。乃ち薦に先ず命に報いさせ、併せて東討を請うた。奉使して旨に称うるにより、大将軍に廷した。保定四年、また突厥に幣を納めた。還って小司馬を行い、また大 司徒 しと を行った。陳公宇文純らに従って突厥に女を迎え、南安郡公に爵位を進めた。天和三年、総管梁州刺史に遷った。後に病により卒した。

王慶は、字を興慶といい、太原郡祁県の人である。父の王因は、北魏の霊州刺史・懐徳県公であった。王慶は若くして聡明で、才略があった。初め周の文帝に従って征伐し、弘農を奪回し、沙苑を破り、いずれも戦功があり、たびたび特別な賞賜を受けた。大統十年(544年)、殿中將軍に任ぜられた。周の孝閔帝が即位すると、晋公宇文護が彼を引き立てて典籤とした。王慶は機微に明るく弁舌が立ち、次第に親しく遇されるようになり、大 都督 ととく に任ぜられた。武成元年(559年)、前後の功績により、始安県男の爵位を賜った。二年(560年)、小賓部を代行した。保定二年(562年)、吐谷渾に使いした。その国境を分け、また和好のことを論じた。渾の主(吐谷渾の王)は喜んで服従し、親しい者を王慶に随行させて貢物を献上させた。

初め、突厥は周と和親し、娘を皇后として納めることを約束していた。ところが斉(北斉)がこれを知り、両国が合従する勢いができることを恐れ、やはり使者を遣わして求婚し、財貨の贈り物は甚だ厚かった。突厥はその重い賄賂を貪り、すぐにこれを許諾した。朝廷の議論では、かつて魏(北魏)が蠕蠕(柔然)と婚姻を結んだ際、斉人(北斉)によって離間されたことがあり、今また変更を恐れ、使者を遣わして結びつけようとした。そこで王慶を左武伯に任じ、楊薦の副使とした。この年、遂に へい 州(北斉の地)を攻める戦役が起こった。王慶は突厥の騎兵を引き連れ、隋公楊忠と共に太原まで至って帰還した。やがて斉人が皇姑(武帝の姑)と世母(武帝の伯母・叔母)を送還することを約束したので、朝廷は遂に通和した。突厥はこれを聞き、再び疑いを抱いて妨げた。そこでまた王慶を遣わしてこれを諭させた。可汗は感じ入って喜び、以前のように和好を結んだ。五年(565年)、また宇文貴と共に突厥に使いし、娘(可汗の娘)を迎えた。これ以降、王慶の信義が北蕃に顕著であるとして、毎年のように出使した。後に再び突厥に至った時、たまたまその可汗が急死した。突厥は王慶に言った、「前後の使者で、我が国の喪に遭った者は、皆顔に傷をつけて哀悼を示した。まして今や二国は和親している。どうしてこの事を行わないでいられようか」。王慶は強く抗弁して従わなかった。突厥は彼が正道を守るのを見て、ついに敢えて強逼せず、武帝はこれを聞いて賞賛した。王慶の前後の使者としての功績を記録し、開府儀同三司・兵部中大夫に昇進させ、爵位を公に進めた。丹州・中州の二州刺史を歴任し、政治は厳粛で、役人たちは敢えて犯す者はなかった。大象元年(579年)、小 司徒 しと に任ぜられ、上大将軍・総管汾石二州五鎮諸軍事・汾州刺史を加えられた。また延州総管に任ぜられ、位は柱国に進んだ。開皇元年(581年)、爵位は平昌郡公に進んだ。任地で卒去し、上柱国を追贈され、諡を莊といった。子の王淹が後を嗣いだ。

趙剛は、字を僧慶といい、河南郡洛陽県の人である。祖父の趙甯は、北魏の高平太守であった。父の趙和は、永平年間(508-512年)に陵江将軍となった。南征して淮河を渡った時、父の喪に服すべき知らせを聞き、すぐに帰還した。担当官は法に照らして処罰しようとしたが、趙和は言った、「尽きることのない恩(親の恩)は、天を終えるまで報いることができない。もし葬儀を許し、礼が終わってから罪に服し殺されるなら、死んでも恨みはない」。言い終わると号泣し、その悲しみは傍らにいる者を感動させた。主司がこれを上聞したので、遂に赦された。喪が終わると、寧遠将軍に任ぜられた。大統初年(535年)、追贈して膠州刺史とした。趙剛は若くして機知に富み弁舌が立ち、才能と能力があり、奉朝請として官途につき、累進して金紫光禄大夫となり、 司徒 しと 府従事中郎を領し、閣内 都督 ととく を加えられた。孝武帝が斉の神武帝(高歓)と不和を生じた時、趙剛は密かに詔旨を奉じ、東荊州刺史の馮景昭を召喚しようとした。まだ発つ前に、神武帝がすでに洛陽に迫り、孝武帝は西遷した。馮景昭は府の官僚・文武を集め、去就を議論した。司馬の馮道和は、州を拠点として北方(西魏朝廷)の処分を待つよう請うた。趙剛は刀を抜いて地に投げつけ言った、「公が忠臣であろうとするなら、馮道和を斬るべきである。もし賊(東魏)に従おうとするなら、私を殺せ」。馮景昭は感じ入って悟り、遂に兵を率いて関右(西魏)に赴いた。ちょうど侯景が穣城に迫り、東荊州の住民である楊歓らが兵を起こして侯景に呼応し、その兵をもって途中で馮景昭を遮った。馮景昭は戦いに敗れ、趙剛は遂に蛮地に没した。後に自ら身請けして免れ、東魏の東荊州刺史李魔憐に面会し、関西(西魏)に帰順するよう勧めた。李魔憐はこれを受け入れ、趙剛を へい 州に至らせ、密かに情勢を観察させた。神武帝は趙剛を内宴に引き入れ、そこで趙剛に書状を持たせて荊州に命令を伝えさせようとした。趙剛は帰還して李魔憐に報告し、さらに李魔憐を説得して楊歓らを斬り、州を挙げて西魏に帰順させた。李魔憐はそこで趙剛を朝廷(西魏)に入朝させた。大統初年、趙剛は灞上で周の文帝(宇文泰)に面会し、関東の実情をことごとく陳述した。周の文帝はこれを賞賛し、陽邑県子に封じた。東荊州を回復した功績により、爵位は臨汝県伯に進んだ。

初め、賀抜勝と独孤信は、孝武帝が西遷した後、共に江左(梁)に流寓していた。この時、趙剛は魏の文帝(元宝炬)に言上し、彼らを追いかけて呼び戻すよう請うた。そこで趙剛を兼給事黄門侍郎とし、梁の魏興に使いさせ、移書(外交文書)をその梁州刺史杜懐宝らに持たせた。杜懐宝らはすぐに趙剛と盟約を交わし、移送文書を受け取って建康に送り、やはり人を趙剛に随行させて返答させた。この年、また詔して趙剛を三荊に使いさせ、任地において便宜を図って事を行わせた。使いから帰還し、詔旨に適ったので、爵位は武成県侯に進み、大丞相府帳内 都督 ととく に任ぜられた。再び魏興に使いし、前の命令を重ねて伝えた。まもなく梁人は礼を尽くして賀抜勝・独孤信らを送り返した。ほどなく、御史中尉の董紹が策を進言し、梁漢の地を攻略するよう請い、董紹を行台・梁州刺史とした。趙剛はこれは不可であると考えたが、朝廷の議論はすでに決しており、遂に出兵した。董紹は結局功なく帰還し、免官されて庶人となった。趙剛を潁州郡守に任じた。高仲密が北 州を挙げて帰順した時、兼大行台左丞とし、節を持って潁川に赴き義軍を節度させた。軍が帰還すると、趙剛は別に侯景の先鋒を南陸で破り、さらにその郡守二人を捕らえた。当時流言があり、趙剛が東(東魏)に叛くと伝えられた。神武帝はそこで反間の計を設け、迎えに遣わすと声をあげさせた。趙剛はそこで騎兵を率いてその丁塢を襲撃し、これを陥落させた。周の文帝は趙剛に二心がないことを知り、そこで賞賜を加えた。営州刺史に任ぜられ、爵位は公に進んだ。

渭州の人鄭五醜が謀反を起こし、叛羌の傍乞鉄勿と呼応した。趙剛を派遣してこれを鎮めさせた。出発しようとする時、魏の文帝は内寝に引見し、杯を挙げて趙剛に言った、「昔、侯景が東にいた時、卿によって困窮させられた。狡猾な羌の小丑ごときが、どうして卿に謀慮を労させるに足りようか」。当時、鄭五醜はすでに夷鎮を平定し、各地に柵を立てていた。趙剛が到着すると、いずれも攻め破り、その徒党を散らした。鄭五醜はそこで西に奔って鉄勿のもとに走り、趙剛はさらに進軍して鉄勿の偽りの広寧郡を破った。ちょうど宇文貴らが西討するに当たり、詔して趙剛に行渭州事とし、糧食を供給させた。驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、入朝して光禄卿となった。六官が建てられると、膳部中大夫に任ぜられた。

周の孝閔帝が即位すると、爵位は浮陽郡公に進み、利州総管として出向した。沙州の氐が険阻を恃んで命令に逆らい、趙剛は再び討伐してこれを平定した。方州の生獠は、これ以降初めて賦役に従うようになった。趙剛は信州が長江に臨み険阻を背負っているのを理由に、上表してこれを討伐するよう請うた。詔して趙剛に利州・沙州など十四州の兵を率いて経略に赴かせた。やがて渠州刺史を加授された。趙剛が初めて到着すると、梁の将帥はその軍威を恐れ、次々と降伏した。趙剛の軍が出て一年余り、士卒は疲弊し、まもなくまた逃亡・反乱した。後には功績を挙げて帰還した。また配下の儀同尹才と不和になり、召還されて朝廷に赴く途中、病気にかかり、路中で卒去した。中州・淅州・涿州の三州刺史を追贈され、諡を成といった。子は趙元卿、弟は趙仲卿。

趙仲卿は性質が粗暴で、膂力があった。周の斉王宇文憲は彼を甚だ礼遇した。軍功により位は上儀同となり、畿伯中大夫となった。後に王謙を平定した功績により、位は大将軍に進み、長垣県公に封ぜられた。隋の文帝が禅譲を受けると、河北郡公に進み、まもなく石州刺史に任ぜられた。法令は厳しく猛であり、些細な過失も寛容に許さず、鞭打ちは常に二百回に及んだ。役人たちは戦慄して敢えて違反する者はなく、盗賊は息を潜め、皆その能力を称えた。朔州総管に転任した。当時、塞北では盛んに屯田が行われており、趙仲卿がこれを総括した。少しでも処理が良くない者があると、趙仲卿はすぐに主管者を召し出してその胸や背を鞭打ち、あるいは衣服を解いて逆さに荊棘の中に引きずり込んだ。当時の人は彼を於菟(虎)と呼んだ。事は多く成功し、これによって収穫は年々広がり、辺境の守備に糧食輸送の憂いはなくなった。

時に突厥の啓人可汗が求婚を請うたので、上(文帝)はこれを許した。仲卿はこれに乗じてその骨肉を離間させ、遂に互いに攻撃させた。十七年、啓人が窮迫し、隋の使者長孫晟と共に通漢鎮に投じた。仲卿は千余騎を率いてこれを救援し、達頭は敢えて近づかなかった。密かに人を遣わして啓人の配下を誘致し、来たる者は二万余家に及んだ。その年、高熲に従って白道を指して達頭を撃ち、仲卿は前鋒となった。族蠡山に至り、虜と遭遇し、七日間交戦して大いにこれを破った。追撃して乞伏泊に至り、再び啓人を救った。突厥が全軍を挙げて到来すると、仲卿は方陣を布き、四方に拒戦し、五日を経た。時に高熲の大軍が到着し、合撃したので、虜は敗走した。追撃して白道を渡り、秦山を越えて七百余里に及んだ。時に突厥の降る者は一万余家、上は仲卿に命じてこれを恒安に処置させた。功により上柱国に進んだ。朝廷は達頭が啓人を掩襲することを慮り、仲卿に兵二万を屯させてこれを備えさせ、代州総管韓洪・永康公李薬王・蔚州刺史劉隆等に歩騎一万を将いて恒安を鎮守させたが、達頭が来寇し、韓洪の軍は大敗した。仲卿は楽寧鎮より邀撃し、千余級を斬った。翌年、役を督して金河・定襄の二城を築き、啓人を居住させた。

時に上表して仲卿の酷暴を言う者があり、上は御史王偉に命じてこれを按査させたが、いずれも事実であった。その功を惜しみ、罪に問わず、かえって労って言った、「公の清正なるを知る、下の者に憎まれる所以である」と。物五百段を賜った。仲卿はますます恣に振る舞い、これにより免官された。仁寿初年、司農卿を検校した。蜀王秀が罪を得た時、詔を奉じて益州に赴きこれを按査した。秀の賓客が通過した所では、仲卿は必ず深文を弄して法に致し、州県の長吏が坐した者は大半であった。上はこれを能とし、奴婢五十口・黄金二百両・米粟五千石・奇宝雑物をこれに称するほど賞賜した。煬帝が位を嗣ぐと、兵部・工部二尚書事を判じた。官に卒した。諡して粛といった。子の世弘が嗣いだ。

趙昶は、字を長舒といい、天水郡南安県の人である。曾祖父の襄は魏に仕え、中山郡守に至り、代に家を定めた。昶は幼少より聡明で、志節があった。弱冠にして、材力をもって知られた。魏の北中郎将高千が陝を鎮守した時、昶を長史・中軍 都督 ととく とした。周文(宇文泰)が弘農を平定すると、抜擢して相府典籤とした。

大統九年、大軍が芒山で軍律を失い、清水の氐酋李鼠仁が軍中より逃げ帰り、険阻に憑って乱を起こした。周文がこれを討たんとし、先ず使い得る者を求め、遂に昶を使者と命じた。鼠仁に会い、禍福を以て諭した。群凶は従う者も従わぬ者もあり、その命に従う者の中には、また刃を昶に加えんとする者もあった。しかし昶の神色は自若として、志気はますます奮い立った。鼠仁は感悟し、遂に相率いて降った。氐の梁道顕が叛き、南由を攻めた時、周文はまた昶を遣わして慰諭させたところ、道顕等は皆直ちに款附した。東秦州刺史魏光がその豪帥三十余人と部落を華州に移徙させると、周文は即座に昶を 都督 ととく としてこれを統領させた。先に、汾州の胡が叛いた時、再び昶を遣わしてこれを慰労させ、皆その虚実を知った。大軍が討伐に向かうと、昶は先駆となり、遂にこれを破った。功により章武県伯に封ぜられた。

十五年、安夷郡守に拝され、長蛇鎮将を帯びた。氐の習俗は荒獷であったが、昶は威と懐柔をもって礼を尽くし、悦服しない者はなかった。一年の後、軍に従うことを喜ぶ者が千余人に及んだ。帥 都督 ととく を加授された。時に軍機に属し、徴発が切迫していたため、氐の心情はこれを難じ、再び相謀って叛こうとした。昶はまた密かに人を遣わして誘説し、その心を離間した。その離反を利用して、軽装で臨んだ。群氐は為すところを知らず、皆昶に来見したので、その首謀者二十余人を収めて斬り、残りの衆は遂に平定した。朝廷はこれを嘉し、大 都督 ととく を除し、南秦州事を行わせた。時に氐帥の蓋閙等が反したので、昶はまたこれを討ち捕らえた。また史寧と共に宕昌の羌・獠二十余万を破った。武州刺史に拝された。恭帝の初め、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。潭水の羌が叛き、武陵・潭水の二郡守を殺害した。昶は儀同の駱天人等を率いて討ち平定した。

周の明帝の初め、鳳州の人仇周貢・魏興等が反し、自ら周公と号し、広化郡を破り、諸県を攻め陥し、兵を分けて西に入り、広業・脩城の二郡を包囲した。広業郡守薛爽・脩城郡守杜杲等が昶に援軍を請うた。使者を遣わして杜杲に報じたが、周貢の党樊伏興等に捕らえられた。興等は昶が来ると知り、脩城の包囲を解き、泥功嶺を占拠し、六つの伏兵を設けて昶を待ち受けた。昶が到着すると、その伏兵に遭遇したが、合戦してこれを破った。広業の包囲も解け、昶はこれを追撃して泥陽川に至って還った。興州の人段吒及び氐酋の姜多がまた反し、郡県を攻め陥したので、昶はこれを討ち斬った。昶は自ら抜擢されて将帥の任に居ることを以て、心を傾けて士を下し、捕虜とした氐・羌を撫でてこれを使い、皆昶のために尽力した。周文は常に言った、「国家の士馬を煩わすことなくして能く氐・羌を威服させる者は、趙昶にこれがある」と。ここに至り、明帝は前後の功績を記録し、爵を進めて長道郡公とし、宇文の姓を賜い、賞労は甚だ厚かった。二年、賓部中大夫に徴召され、吏部を行った。まもなく病により卒した。

王悦は、字を衆喜といい、京兆郡藍田県の人である。若くして気概と才幹があり、州里に称された。周文が関隴を平定し始めた時、悦は郷里の者を募り率いて従軍した。屡々戦功があった。大統元年、相府刑獄参軍に除され、藍田県伯に封ぜられた。四年、東魏の将侯景が洛陽を攻囲した時、周文が救援に赴くと、悦はまた郷里の者千余人を率いて従軍し洛陽に至った。戦う前夜、悦はその旅費を尽くして牛を買い、戦士に饗した。悦の配下は尽力し、斬獲は最も多かった。大行台右丞に遷り、左丞に転じた。久しく管轄の任にあり、時に名声を得た。

十三年、侯景が河南を占拠して来附し、引き続き兵を請いて援けと求めたので、周文は先に韋法保・賀蘭願徳等を遣わして衆を率いさせてこれを助けさせた。悦は周文に言った、「侯景の高歓に対する関係は、始めは篤く郷党の情を結び、終わりには君臣の契りを定め、上将の位にあり、台司の職は重く、その分義を論ずれば、魚水のごときものであった。今、歓が死んだばかりで、景はすぐに離反した。君臣の道に違い、忠義の礼が足りぬことを知らぬわけがない。その図るところが既に大きく、小さな嫌疑を顧みぬためであろう。しかし尚かつ高氏に背徳することができたのに、どうして朝廷に節を尽くすことがあろうか。今もし勢いを加え、兵をもって援ければ、侯景が池中の物とならぬばかりか、朝廷も将来に笑いを遺す恐れがある」と。周文はこれを容れ、遂に法保等を追い返す使者を遣わし、侯景はまもなく叛いた。後に京兆郡守・ 散騎常侍 さんきじょうじ に拝され、大行台尚書に遷った。達奚武に従って梁漢を征した。軍が出発するに当たり、武は悦に命じてその城主楊賢を説得させた。悦はそこで書を送り、賢はこれにより遂に降った。悦はまた武に言った、「白馬は要衝であり、必ず争う地である。今、城の守りは寡弱で、容易に図ることができる。もし蜀の兵がまた至れば、これを攻めるのは実に難しい」と。武はこれを然りとし、即座に悦に軽騎を率いて直ちに白馬に向かわせた。悦はその禍福を示し、梁の将は深く悟り、遂に城を挙げて降った。時に梁の武陵王蕭紀は果たしてその将任珍奇を遣わし、先んじて白馬を占拠せんとしたが、関城に至った時、既に降ったと聞き、引き返した。梁州が平定されると、周文は即座に悦に行刺史事をさせた。新たに帰附した者を招き携え、人吏は安んじた。

廢帝二年(553年)、本任に召還される。行台が中外府に改められ、尚書の員が廃止されたため、悅は儀同の位で兵を率いて郷里に帰った。悅は長く顕職に在ったが、この帰郷にあたり、内心快からず、なお郷里を陵駕し、宗族・郷党との情誼を失った。その長子康は、悅の旧望を恃み、驕り縱に振る舞った。配下の軍人の一人に婚礼があろうとした時、康は道理に外れてこれを陵辱した。軍人が訴え出たため、悅と康はともに除名の処分を受け、遠方の防衛地に配流された。于謹が江陵を伐つに及び、悅を従軍させて功績を挙げさせた。江陵平定後、その地に留まって鎮守した。

周の孝閔帝が即位すると、例に依って官職を復し、 郢州 えいしゅう 刺史に任じられた。まもなく使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大 都督 ととく ・司水中大夫を拝命し、藍田県侯に爵位を進めた。ほどなく司憲中大夫に転じ、宇文氏の姓を賜り、さらに河北県公に爵位を進めた。性質は倹約で、生業を営まず、外では栄耀顕職にあっても、家は四壁のみの有様であった。明帝は手詔を下して労い励ました。保定元年(561年)、在官のまま卒した。

子の康が嗣ぎ、官は司邑下大夫に至った。

趙文表は、その先祖は天水郡西の人であったが、後に南鄭に移り住んだ。累世二千石の家柄である。父の玨は、性質が方正厳格で、度量があった。位は禦伯中大夫、昌国県伯に封ぜられた。虞・絳二州刺史を追贈され、諡は貞といった。文表は若くして行いを修め謹み、忠節を志した。周の文帝の親信として出仕し、累進して左金紫光禄大夫となった。保定五年(565年)、畿伯下大夫に任じられ、許国公宇文貴の府長史に転じた。まもなく車騎大将軍・儀同三司を拝命した。引き続き宇文貴に従って突厥に使いし、皇后を迎え、進退の儀礼作法はすべて文表にこれを掌らせた。文表は斟酌して行い、すべて礼の度合いに合った。皇后が国境に入らんとする時、突厥は馬が痩せていると称してゆっくり進んだ。文表は彼らに変心があるのを慮り、突厥の使者羅莫緣を説いて言った。「皇后はあの蕃国を発って以来、すでに時日を経ており、沙漠を経由し、人馬ともに疲労している。しかも東の賊(北斉)は常に隙を窺い、吐谷渾もまた変を起こしうる。今、君は可汗の愛女を以て、上国と婚姻を結ぶにあたり、まったく防備の慮いがない。これが人臣の体であろうか。」莫緣はこれを然りとし、倍道兼行し、数日で甘州に至った。皇后を迎えた功績により、別に伯陽県伯に封ぜられた。天和三年(568年)、梁州総管府長史に任ぜられた。管轄する地名を恆稜という地は、四方数百里にわたり、夷・獠が居住し、その険阻堅固を恃んで、常に不軌を抱いていた。文表は兵を率いてこれを討ち平らげた。蓬州刺史に転じた。政治は仁恕を尚び、夷・獠はこれを懐いた。驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。さらに大将軍を加えられ、爵位を公に進めた。大象年間(579-580年)、呉州総管に任ぜられた。当時、開府于顗が呉州刺史であった。隋の文帝が政権を執ると、尉遅迥らが兵を挙げ、遠近騒然とし、人々は異心を抱いた。于顗は自ら族が大きく、かつ国家の肺腑であることを以て、文表が自分に背くことを恐れ、先手を打とうと謀り、病と称して出仕しなかった。文表が問いに行くと、于顗は手ずから文表を斬り、その吏人に命じて「文表が謀反を図った」と告げさせ、急ぎその状況を上奏した。帝は諸方が未だ定まらないため、于顗が変を起こすことを恐れ、于顗を呉州総管に任じてこれを安んじた。後に文表に異志がなかったことを知り、于顗を罪にはしなかったが、その子の仁海に爵位を継がせた。

元定は、字を願安といい、河南洛陽の人である。祖父の比は、魏の婺州刺史であった。父の道龍は、钜鹿郡守であった。定は篤厚で言葉少なく、内には沈思審察し、外には剛毅であった。周の文帝に従って侯莫陳悅を討ち、功により歩兵 校尉 こうい に任ぜられた。孝武帝が西遷すると、高邑県男に封ぜられた。定は勇略があり、累ねて征伐に従い、戦うごとに必ず陣を陥れたが、自らその功を言うことはなかった。周の文帝は深くこれを重んじ、諸将もまたその長者ぶりを称えた。累進して驃騎大将軍・開府儀同三司となり、爵位を公に進めた。廢帝二年(553年)、宗室として建城郡王に封ぜられた。三年、『周礼』が施行され、爵位は例に従って降格となり、長湖郡公に改封された。

周の明帝の初め、岷州刺史に任ぜられた。威厳と恩恵を併せ用い、羌の豪族の心を大いに得た。以前、険阻に拠って従わなかった生羌も、この時に至ってみな山谷から出てきて、征賦に従った。定が交代で帰還する時、羌の豪族らは皆これを恋慕した。保定年間(561-565年)、左宮伯中大夫に任ぜられた。久しくして左武伯中大夫に転じ、位は大将軍に進んだ。天和二年(567年)、陳の湘州刺史華皎が州を挙げて梁に帰順した。梁主はこの隙に乗じてさらに攻め取ろうと図り、使者を遣わして援軍を請うた。詔により定は衛公宇文直に従って兵を率いて赴いた。梁人と華皎はともに水軍であり、定は陸軍であり、宇文直が総督した。ともに夏口に至ったが、陳の郢州が堅守して下らず、宇文直は定に命じてこれを包囲させた。陳はその将淳于量・徐度・呉明徹らを水陸より派遣して防がせ、華皎は陳軍に敗れ、宇文直は脱身して梁に帰った。定は孤軍で隔絶され、進退の路を失い、陳軍は勝ちに乗じて水陸よりこれを攻め立てた。定は配下を率い、竹を伐って道を開き、戦いながら進み、湘州に向かおうとしたが、湘州はすでに陥落していた。徐度らは定が窮地にあることを知り、使者を遣わして偽って定と通和し、重ねて盟誓を交わし、帰国を許すと約束した。定はその詭計を疑い、力戦して死のうとした。しかし定の長史長孫隆および諸将の多くが和を勧めたため、定はこれを許諾した。そこで徐度らと犠牲を裂き血をすすり、武器を解いて船に乗った。徐度に捕らえられ、配下の軍兵も囚虜とされ、丹陽に送られた。数ヶ月後、憂憤のあまり発病して卒した。子の楽が嗣いだ。

楊舣は、字を顯進といい、正平郡高涼県の人である。祖父の貴、父の猛は、ともに県令であった。舣は若くして豪俠であり、志気があった。魏の孝昌年間(525-527年)、爾朱栄が朝士を殺害した時、大司馬・城陽王元徽が難を避けて舣のもとに逃げ込み、舣はこれを匿って難を免れさせた。孝荘帝が立つと、元徽は出仕し、再び司馬となった。これにより舣は義烈により、伏波将軍・給事中に抜擢された。元顥が洛陽に入ると、孝荘帝は太行山を北に越えた。爾朱栄が帝を奉じて南討するに及び、馬渚に至った時、舣は船を整えて王師を渡した。元顥が平定されると、肥如県伯に封ぜられ、鎮遠将軍・歩兵 校尉 こうい ・行済北郡事を加えられた。 都督 ととく ・平東将軍・太中大夫に進んだ。

孝武帝に従って関中に入り、侯に進爵され、撫軍将軍・銀青光禄大夫を加えられた。時に東魏は鄴に遷都し、周の文帝(宇文泰)はその動向を知ろうと、舣を遣わして密かに鄴に行かせ観察させた。使いから戻り、上意に適う報告をしたので、通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・車騎将軍を授けられた。稽胡は険阻を恃んで従わず、しばしば略奪を行ったため、舣を黄門侍郎を兼ねさせて、慰撫に赴かせた。舣は権謀と策略に長け、辺境の事情をよく把握し、酋長や渠帥を誘導教化して、多くが帰順し、ついには木の実を携えて朝貢する者も現れた。時に弘農は東魏が守っており、舣は周の文帝に従ってこれを攻め落とした。しかし河以北はなお東魏に附いていた。舣の父の猛は先に邵郡の白水県令を務めており、舣はその地の豪族と知己であったので、微行して邵郡に赴き、兵を挙げて朝廷に呼応することを請うた。周の文帝はこれを許し、舣は遂に出発した。土豪の王覆憐らと密かに挙兵を謀り、内応を約束し、内外同時に発して、遂に邵郡を陥落させ、郡守の程保及び県令四人を捕らえ、皆斬った。衆議は舣に郡の事務を行わせようとしたが、舣は覆憐によって事が成ったとして、覆憐を邵郡守に推挙した。功により大行台左丞を授けられ、なお義兵を率いてさらに経略を行った。ここにおいて間諜を遣わして東魏の城砦を誘説させたところ、十日一ヶ月の間に、正平・河北・南汾・二絳・建州・太寧などの諸城が、こぞって内応を請うたので、大軍はこれに乗じて攻め落とした。舣を行正平郡事とし、左丞は元の通りとした。斉の神武帝(高歓)が沙苑で敗れた時、その将の韓軌・潘楽・可朱渾元らが殿軍を務めたが、舣は兵を分けて要所を遮断し、殺傷甚だ多かった。東雍州刺史の司馬恭は舣の威声を恐れ、城を棄てて遁走した。舣は遂に東雍州を占拠した。

周の文帝は舣に謀略があり、辺境の任に堪えると考え、行建州事に推挙した。時に建州は遠く敵境にあったが、舣の威徳と恩恵は夙に著しく、経過する地域では、多くが食糧を携えてこれに附いた。建州に至る頃には、衆は既に一万に達していた。東魏の州刺史の車折于洛が兵を出して迎え撃ったが、舣はこれを撃破した。またその行台の斛律倶を州の西で破り、多くの甲冑兵器及び軍需物資を鹵獲し、義兵に供給した。これにより威名は大いに振るった。東魏は太保の尉景を遣わして正平を陥落させ、また行台の薛修義を遣わして斛律倶と合流させたので、敵の勢力は次第に盛んとなった。舣は孤軍で援けがなく、かつ腹背に敵を受ける状況で、撤退を謀ったが、また義兵の裏切りを恐れた。そこで偽って周の文帝の文書を作り、あたかも外部から届けられた者のように人を遣わし、既に四方向から援軍を派遣したと伝えさせた。そこで人に漏洩させ、その地に知らしめた。また土地の者や義兵の首領を分け、それぞれが配下を率いて四方に出て略奪させ、軍費の供給に充てようとした。舣が派遣を終えると、夜中に邵郡へ撤退した。朝廷はその臨機の処置で全軍を保ったことを賞した。既に建州刺史を授けられた。時に東魏は正平を東雍州とし、薛栄祖を遣わしてこれを鎮守させた。そこでまず奇兵を遣わし、急ぎ汾橋を攻撃した。栄祖は果たして城中の戦士を全て出し、汾橋で防戦した。その夜、舣は別の道から渡河し、遂に襲撃してこれを陥落させた。驃騎将軍に進んだ。邵郡の者が郡の東で反乱を起こし、郡守の郭武安は身一つで逃れて難を免れた。舣はまた兵を率いて攻め、これを回復した。正平郡守に転じた。また東魏の南絳郡を撃破し、その郡守の屈僧珍を虜にした。前後の功績を合わせ、郃陽県伯に封じられた。

芒山の戦いでは、舣は標栢穀塢を攻め落とし、そのままこれを鎮守した。大軍が不利となると、舣もまた撤退した。東魏の将の侯景が騎兵を率いて舣を追撃したが、舣は儀同の韋法保と心を合わせて防戦し、戦いながら前進し、景は遂に退却した。周の文帝はこれを賞し、再び建州刺史を授け、軍箱を鎮守させた。舣は長く軍役に従事し、父の葬儀に及ばなかった。この時、上表して改葬を請うた。詔してその父に車騎大将軍・儀同三司・晋州刺史を追贈し、その母に夏陽県君を追贈し、ともに儀衛を給し、州里はこれを栄誉とした。斉の神武帝が玉壁を包囲した時、別に侯景に命じて斉子嶺に向かわせた。舣は邵郡への侵入を恐れ、騎兵を率いてこれを防いだ。景は遠く舣の到来を聞き、六十余里にわたって木を伐って道を断ったが、なお驚いて安らかでなく、遂に河陽に退還した。そのように畏れられたのである。十二年、大 都督 ととく に進み、晋・建二州諸軍事を加えられた。また蓼塢を攻め破り、東魏の将の李顕を捕らえ、儀同三司に進んだ。まもなく開府を加えられ、再び邵郡を鎮守した。十六年、大軍が東征した時、大行台尚書を授けられ、義兵を率いて敵境に先駆け、その四つの戍を攻め、陥落させた。時に斉軍が出撃しなかったため、舣を追って還らせた。華陽県侯に改封された。また邵郡に邵州を置き、舣を刺史とし、配下の兵を率いてこれを鎮守させた。

保定四年、少師に遷った。その年、大軍が洛陽を包囲し、詔して舣に軹関から出撃させた。しかし舣は東境を鎮守して二十余年、しばしば斉人と戦い、常に勝利し鹵獲を得ていたため、これによって軽敵の心を持つに至った。時に洛陽は未だ陥落せず、舣は深く敵境に入りながら、また防備を設けなかった。斉人が不意に到来し、舣の軍を大破した。舣は衆が敗れたため、遂に斉に降った。舣が勲功を立てたことについては、慷慨壮烈の志があったが、軍が敗れると、虜に就いて苟くも免れようとしたので、当時の論評はこれを以て卑しみ、朝廷はなおその功績を記録し、罪とはせず、その子に爵位を継がせた。

論じて曰く、申徽は器量が深沈であり、経史をもってこれを文飾し、陸通は鑑識と悟りが明敏であり、温恭をもってこれを飾り、ともに夙に龍顔に奉じ、早くより任用と遇合を受け、戟を提げて効を宣べ、荊を披いて功に預かり、義は周旋に結ばれ、恩は契闊に生じた。遂に端揆に入居し、列藩を出撫するを得た。識見と才用をもって成名したとはいえ、また情は旧臣を兼ねたのである。陸逞は戎旅の際に、文雅をもって知られ、境外に誉れを延ばす能を播き、官に蒞りては従政の美を著わし、歴任して顕要の地位に居たのは、徒然であろうか。庫狄峙は和戎の功を建て、楊薦は入関の策を成し、趙剛は凶狡を克く剪り、趙昶は氐・羌を懐服させ、王悦は侯景を料り、文表は突厥を譎した。あるいは先覚と明らかに称され、あるいは識見が機先を見ることを表し、その功を立て事を成すのを観れば、皆一時の志力の士である。元定は敗亡し、黄権の路無きに同じくし、楊舣は攻め勝つも、また兵は破れ身は囚われた。功名寥落、まことに嘆かわしい。《易》に曰く、「師出ずるに律を以てす、臧からざれば凶なり」。《伝》に曰く、「備えず虞らずんば、以て師とすべからず」。それは舣の謂いであろう。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻069