申徽、陸通(弟の逞)、厙狄峙、楊薦、王慶、趙剛(子の仲卿)、趙昶、王悅、趙文表、元定、楊(以下、人名)
申徽は、字を世儀といい、魏郡の人である。六世の祖の鐘は、後趙の司徒となった。冉閔の末年に、中原は喪乱し、鐘の子の邃は江左に避難した。曾祖の爽は宋に仕え、雍州刺史の位にあった。祖の隆道は、宋の北兗州刺史である。父の明仁は郡の功曹であったが、早くに亡くなった。徽は幼くして母と暮らし、孝養を尽くした。成長すると、経史を好んだ。性質は審慎で、妄りに交遊しなかった。母の憂いに遭い、喪が終わると、魏に帰った。元顥が洛陽に入ると、元邃を東徐州刺史とし、邃は徽を召し出して主簿とした。顥が敗れると、邃は檻車に載せられて洛陽に送られ、旧来の吏や賓客は皆去ったが、徽のみがこれを送った。邃が赦免されると、広く賓友を集め、徽に古人の風があると歎じた。まもなく太尉府行参軍に任じられた。
孝武帝の初め、徽は洛陽の兵難が未だ止まないことを以て、遂に間道を行って関中に入り、周文(宇文泰)に謁見した。周文は彼と語り、これを奇とし、賀拔岳に推薦した。岳もまた雅に敬待し、賓客として招いた。周文が夏州に臨むと、徽を記室参軍とし、兼ねて府の主簿を務めさせた。周文は徽が沈密で度量があることを察し、何事も信頼して委ね、大行台郎中とした。当時、軍国は草創期で、幕府の事務は殷盛であり、四方への書檄は皆、徽の文辞であった。孝武帝を迎えた功績により、博平県子に封ぜられ、本州の大中正となった。大統初年、侯に爵位を進めた。四年、中書舎人に任じられ、起居注を修した。河橋の役では、大軍は利あらず、近侍の官で分散する者は多かったが、徽のみは左右を離れず、魏帝はこれを称歎した。十年、給事黄門侍郎に遷った。
先に、東陽王元栄が瓜州刺史であった。その女婿の劉彦がこれに随従していた。栄が死ぬと、瓜州の首望(名望家)は栄の子の康を刺史とするよう上表したが、彦は遂に康を殺してその位を奪った。四方多難に属し、朝廷は問罪の暇がなく、因って彦に刺史を授けた。頻りに徴するも詔に奉じず、また南は吐谷渾と通じ、叛逆を図らんとした。周文は衆を動かすことを難しとし、権略をもってこれを致さんと欲し、乃ち徽を河西大使とし、密かに彦を図るよう命じた。徽は軽く五十騎を率いて行き、到着すると、賓館に止まった。彦は徽が単使であるのを見て、疑わず、徽は乃ち一人を遣わして密かに彦に帰朝を勧め、その意を探ったが、彦は従わなかった。徽はまた、その留まる計略に賛成するよう仕向け、彦はこれに従い、遂に館に来た。徽は先に瓜州の豪右と密謀して彦を捕らえ、遂に叱してこれを縛った。彦は無罪を言い張ったが、徽はこれを数えて曰く、「君は尺寸の功も無く、方嶽の重きに濫り居り、遠きを恃みて背誕し、貢職を恭しくせず、使人を戮辱し、詔命を軽忽す。君の咎を計るに、実に誅を容れず。但し詔を受くる日、本より相送りて帰闕せしむるを令す。恨むらくは即ち明罰を申し、以て辺遠に謝するを得ざるのみ。」と。ここにおいて詔を宣べて吏人及び彦の所部を慰労し、また大軍続いて至らんと云い、城内に敢えて動く者無し。使いより還り、都官尚書に遷った。
徽の性質は勤勉で、居官する所は全て、案牘の大小を問わず自ら省覧した。これにより事は滞ることなく、吏は奸を行うことができなかった。後に公卿を歴任しても、この志は懈らなかった。出て襄州刺史となった。当時、南方は初めて帰附したばかりで、旧俗として官人は皆贈賄を通じていた。徽は廉潔で慎み深い性質であり、乃ち楊震の像を寝室に描いて自ら戒めとした。代わって還る時、人吏で送る者は数十里に絶えなかった。徽は自ら人に徳無きを以て、慨然として愧いを懐き、因って詩を賦し、清水亭に題した。長幼これを聞き、皆競って来て読み、互いに謂って曰く、「これは申使君の手跡なり」と。併せて書き写し誦した。
明帝は、禦正が詔勅の総任を担うことから、更にその秩を崇めて上大夫とし、員数四人、号して大禦正とし、また徽をこれに任じた。小司空・少保を歴任し、出て荊州刺史となった。入朝して小司徒・小宗伯となった。天和六年、上疏して骸骨を乞うた。詔してこれを許した。薨じ、泗州刺史を追贈され、諡して章といった。
子の康が嗣いだ。瀘州刺史・司織下大夫・上開府の位に至った。
康の弟の敦は、汝南郡守となった。敦の弟の静は、斉郡守となった。静の弟の処は、上開府・同昌県侯となった。卒した。
陸通は、字を仲明といい、呉郡の人である。曾祖の載は、宋の武帝に従って関中を平定し、軍が還ると、載を留めてその子の義真に随従させ長安を鎮守させたが、遂に赫連氏に没した。魏の太武帝が赫連氏を平定すると、載は魏に仕え、中山郡守の位に至った。父の政は、性質が孝を致す。その母は呉の人で、魚を好んで食した。北土には魚が少なく、政がこれを求めるのは常に苦難であった。後に宅の側に忽ち泉が湧き出て、魚がいたので、遂に供膳することができた。当時の人は孝の感応によるものとし、因ってその泉を孝魚泉と称した。爾朱天光に従って討伐した。天光が敗れると、周文に帰した。周文が行台となると、政を行台左丞・原州長史とし、中都県伯の爵を賜った。大統年間に卒した。
通は幼少より敦厚で敏しょう好学であり、志節があった。幼くして政に従い河西におり、遂に寇難に逢い、政と相失った。通は乃ち自ら抜け出して東に帰り、爾朱栄に従った。栄が死ぬと、また爾朱兆に従った。爾朱氏が滅ぶと、関中に入った。周文が当時夏州におり、帳内督に引き立てた。間もなく、賀抜岳が侯莫陳悦に害された。時に岳の軍府が既に亡散したとの伝えがあった。周文はこれを憂えたが、通は然らずと思った。数日居て、問いが至ると、果たしてその策の如くであった。ここより愈々親礼を受け、遂に昼夜陪侍し、家人もその面を稀に見るのみであった。通は機密に処しながらも、愈々自ら恭謹にし、周文はこれをもって彼を重んじた。後に孝武帝を迎えた功績により、都昌県伯に封ぜられた。
九年、高仲密が地をもって来附し、通は若干恵に従って芒山で戦う。諸軍は皆退却したが、ただ恵と通のみが率いる所部をもって力戦した。夜中に至ってようやく密かに引き返したが、敵も敢えて迫らなかった。時に驃騎大将軍・開府僕同三司・太僕卿を授けられ、姓を部六孤氏と賜り、綏徳郡公に爵位を進めた。周の孝閔帝が践祚すると、小司空に任ぜられた。保定五年、累遷して大司寇となった。
逞は字を季明といい、初めは名を彦、字を世雄といった。魏の文帝が常に従容としてこれに謂いて曰く、「爾は既に温裕なり、何ぞ乃ち世雄と字する因由ぞ。且つ世の雄たるは、宜しき所に非ず。爾が兄弟に於いて又た復た類せず」と。遂に改めた。逞は少より謹密にして、早く名誉有り。兄の通は先に軍功をもって別に茅土を受けたので、父の爵位である中都県伯を逞に襲がせた。初官は羽林監・周文の内親信。時の同輩は皆、驍勇をもって自ら達したが、唯だ逞のみが文雅を兼ね、周文はこれにより礼遇を加えた。大統十四年、大丞相府軍事に参じ、まもなく記室を兼ねた。保定の初め、累遷して吏部中大夫となり、蕃部・禦伯中大夫を歴任し、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、司宗中大夫に転じて授けられ、軍司馬に転じた。逞は幹事と識見が詳明で、三府を歴任し、所在に績を著した。朝廷はこれを嘉し、爵位を公に進めた。
ほどなく、納言として起用された。また病のため劇務に堪えられず、宜州刺史に除せられた。故事によれば、刺史が奉辞する際、例として鹵簿を整えるが、逞は時が農繁期に属することを理由に、奏上してこれを停止するよう請うた。武帝は深くこれを嘉し、詔してその請いの通りとし、以て雅操を顕彰した。逞は州にあって恵み有る政を行い、吏人はこれを称えた。東宮が初めて建てられると、太子太保を授けられた。卒し、大将軍を追贈された。子の操が嗣いだ。
明帝の初め、益州刺史・都督三十一州諸軍事となった。峙の性質は寛和で、清靖を尚び、夷獠に安んぜられた。後に宜州刺史となり、入朝して少師となった。年老いたことを理由に致仕を乞うと、詔してこれを許した。卒し、諡して定といった。
子の嶷が嗣ぎ、少より名を知られ、開府儀同三司・職方中大夫・蔡州刺史の位に至った。官に卒した。
嶷の弟の徴は、斉平定に従い、功により儀同大将軍に任ぜられ、楽陵県公の爵を賜った。
徴の弟の徽もまた軍功により儀同大将軍・保城県男に至った。
徽の弟の嶔は、性質弘厚で、局度有り、斉右下大夫として武帝の東伐に従い、并州に入った。軍敗れ、侍臣は殲滅された。帝が出るに及んで、唯だ嶔のみが侍従した。功により上儀同大将軍を授けられ、開府に遷り、右宮伯を歴任し、楽城県侯の爵を賜った。隋に仕え、戸部尚書の位に至った。
楊薦は、字を承略といい、秦郡寧夷の人である。父の宝は昌平郡守。薦は幼くして孤となり、早くより名誉有り、性質は廉謹で、喜怒を色に表さなかった。魏の永安年中、爾朱天光に従って関中に入り、群賊を討ち、高邑県男に封ぜられた。周文が夏州に臨むと、帳内都督に補せられた。侯莫陳悦を平定すると、薦を使わして洛陽に入り事を請わせ、孝武帝は周文に関西大行台を授け、乃ち薦を直閤将軍に除した。時に馮翊長公主が寡居しており、孝武帝は周文に帰せんと意図し、乃ち武衛元毗に旨を諭させた。薦は帰って周文に報告し、また薦を遣わして洛陽に入りこれを請わせると、孝武帝は即ちこれを許した。孝武帝が関中に向かおうとすると、薦はその計に賛成した。孝武帝曰く、「卿は帰って行台に我を迎えよと語れ」と。周文はまた薦と長史宇文測を遣わして関を出て候接させた。孝武帝は長安に至った。清水県子に爵位を進めた。
趙剛は、字を僧慶といい、河南郡洛陽県の人である。祖父の趙甯は、北魏の高平太守であった。父の趙和は、永平年間(508-512年)に陵江将軍となった。南征して淮河を渡った時、父の喪に服すべき知らせを聞き、すぐに帰還した。担当官は法に照らして処罰しようとしたが、趙和は言った、「尽きることのない恩(親の恩)は、天を終えるまで報いることができない。もし葬儀を許し、礼が終わってから罪に服し殺されるなら、死んでも恨みはない」。言い終わると号泣し、その悲しみは傍らにいる者を感動させた。主司がこれを上聞したので、遂に赦された。喪が終わると、寧遠将軍に任ぜられた。大統初年(535年)、追贈して膠州刺史とした。趙剛は若くして機知に富み弁舌が立ち、才能と能力があり、奉朝請として官途につき、累進して金紫光禄大夫となり、司徒府従事中郎を領し、閣内都督を加えられた。孝武帝が斉の神武帝(高歓)と不和を生じた時、趙剛は密かに詔旨を奉じ、東荊州刺史の馮景昭を召喚しようとした。まだ発つ前に、神武帝がすでに洛陽に迫り、孝武帝は西遷した。馮景昭は府の官僚・文武を集め、去就を議論した。司馬の馮道和は、州を拠点として北方(西魏朝廷)の処分を待つよう請うた。趙剛は刀を抜いて地に投げつけ言った、「公が忠臣であろうとするなら、馮道和を斬るべきである。もし賊(東魏)に従おうとするなら、私を殺せ」。馮景昭は感じ入って悟り、遂に兵を率いて関右(西魏)に赴いた。ちょうど侯景が穣城に迫り、東荊州の住民である楊歓らが兵を起こして侯景に呼応し、その兵をもって途中で馮景昭を遮った。馮景昭は戦いに敗れ、趙剛は遂に蛮地に没した。後に自ら身請けして免れ、東魏の東荊州刺史李魔憐に面会し、関西(西魏)に帰順するよう勧めた。李魔憐はこれを受け入れ、趙剛を并州に至らせ、密かに情勢を観察させた。神武帝は趙剛を内宴に引き入れ、そこで趙剛に書状を持たせて荊州に命令を伝えさせようとした。趙剛は帰還して李魔憐に報告し、さらに李魔憐を説得して楊歓らを斬り、州を挙げて西魏に帰順させた。李魔憐はそこで趙剛を朝廷(西魏)に入朝させた。大統初年、趙剛は灞上で周の文帝(宇文泰)に面会し、関東の実情をことごとく陳述した。周の文帝はこれを賞賛し、陽邑県子に封じた。東荊州を回復した功績により、爵位は臨汝県伯に進んだ。
初め、賀抜勝と独孤信は、孝武帝が西遷した後、共に江左(梁)に流寓していた。この時、趙剛は魏の文帝(元宝炬)に言上し、彼らを追いかけて呼び戻すよう請うた。そこで趙剛を兼給事黄門侍郎とし、梁の魏興に使いさせ、移書(外交文書)をその梁州刺史杜懐宝らに持たせた。杜懐宝らはすぐに趙剛と盟約を交わし、移送文書を受け取って建康に送り、やはり人を趙剛に随行させて返答させた。この年、また詔して趙剛を三荊に使いさせ、任地において便宜を図って事を行わせた。使いから帰還し、詔旨に適ったので、爵位は武成県侯に進み、大丞相府帳内都督に任ぜられた。再び魏興に使いし、前の命令を重ねて伝えた。まもなく梁人は礼を尽くして賀抜勝・独孤信らを送り返した。ほどなく、御史中尉の董紹が策を進言し、梁漢の地を攻略するよう請い、董紹を行台・梁州刺史とした。趙剛はこれは不可であると考えたが、朝廷の議論はすでに決しており、遂に出兵した。董紹は結局功なく帰還し、免官されて庶人となった。趙剛を潁州郡守に任じた。高仲密が北豫州を挙げて帰順した時、兼大行台左丞とし、節を持って潁川に赴き義軍を節度させた。軍が帰還すると、趙剛は別に侯景の先鋒を南陸で破り、さらにその郡守二人を捕らえた。当時流言があり、趙剛が東(東魏)に叛くと伝えられた。神武帝はそこで反間の計を設け、迎えに遣わすと声をあげさせた。趙剛はそこで騎兵を率いてその丁塢を襲撃し、これを陥落させた。周の文帝は趙剛に二心がないことを知り、そこで賞賜を加えた。営州刺史に任ぜられ、爵位は公に進んだ。
渭州の人鄭五醜が謀反を起こし、叛羌の傍乞鉄勿と呼応した。趙剛を派遣してこれを鎮めさせた。出発しようとする時、魏の文帝は内寝に引見し、杯を挙げて趙剛に言った、「昔、侯景が東にいた時、卿によって困窮させられた。狡猾な羌の小丑ごときが、どうして卿に謀慮を労させるに足りようか」。当時、鄭五醜はすでに夷鎮を平定し、各地に柵を立てていた。趙剛が到着すると、いずれも攻め破り、その徒党を散らした。鄭五醜はそこで西に奔って鉄勿のもとに走り、趙剛はさらに進軍して鉄勿の偽りの広寧郡を破った。ちょうど宇文貴らが西討するに当たり、詔して趙剛に行渭州事とし、糧食を供給させた。驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、入朝して光禄卿となった。六官が建てられると、膳部中大夫に任ぜられた。
周の孝閔帝が即位すると、爵位は浮陽郡公に進み、利州総管として出向した。沙州の氐が険阻を恃んで命令に逆らい、趙剛は再び討伐してこれを平定した。方州の生獠は、これ以降初めて賦役に従うようになった。趙剛は信州が長江に臨み険阻を背負っているのを理由に、上表してこれを討伐するよう請うた。詔して趙剛に利州・沙州など十四州の兵を率いて経略に赴かせた。やがて渠州刺史を加授された。趙剛が初めて到着すると、梁の将帥はその軍威を恐れ、次々と降伏した。趙剛の軍が出て一年余り、士卒は疲弊し、まもなくまた逃亡・反乱した。後には功績を挙げて帰還した。また配下の儀同尹才と不和になり、召還されて朝廷に赴く途中、病気にかかり、路中で卒去した。中州・淅州・涿州の三州刺史を追贈され、諡を成といった。子は趙元卿、弟は趙仲卿。
趙仲卿は性質が粗暴で、膂力があった。周の斉王宇文憲は彼を甚だ礼遇した。軍功により位は上儀同となり、畿伯中大夫となった。後に王謙を平定した功績により、位は大将軍に進み、長垣県公に封ぜられた。隋の文帝が禅譲を受けると、河北郡公に進み、まもなく石州刺史に任ぜられた。法令は厳しく猛であり、些細な過失も寛容に許さず、鞭打ちは常に二百回に及んだ。役人たちは戦慄して敢えて違反する者はなく、盗賊は息を潜め、皆その能力を称えた。朔州総管に転任した。当時、塞北では盛んに屯田が行われており、趙仲卿がこれを総括した。少しでも処理が良くない者があると、趙仲卿はすぐに主管者を召し出してその胸や背を鞭打ち、あるいは衣服を解いて逆さに荊棘の中に引きずり込んだ。当時の人は彼を於菟(虎)と呼んだ。事は多く成功し、これによって収穫は年々広がり、辺境の守備に糧食輸送の憂いはなくなった。
時に突厥の啓人可汗が求婚を請うたので、上(文帝)はこれを許した。仲卿はこれに乗じてその骨肉を離間させ、遂に互いに攻撃させた。十七年、啓人が窮迫し、隋の使者長孫晟と共に通漢鎮に投じた。仲卿は千余騎を率いてこれを救援し、達頭は敢えて近づかなかった。密かに人を遣わして啓人の配下を誘致し、来たる者は二万余家に及んだ。その年、高熲に従って白道を指して達頭を撃ち、仲卿は前鋒となった。族蠡山に至り、虜と遭遇し、七日間交戦して大いにこれを破った。追撃して乞伏泊に至り、再び啓人を救った。突厥が全軍を挙げて到来すると、仲卿は方陣を布き、四方に拒戦し、五日を経た。時に高熲の大軍が到着し、合撃したので、虜は敗走した。追撃して白道を渡り、秦山を越えて七百余里に及んだ。時に突厥の降る者は一万余家、上は仲卿に命じてこれを恒安に処置させた。功により上柱国に進んだ。朝廷は達頭が啓人を掩襲することを慮り、仲卿に兵二万を屯させてこれを備えさせ、代州総管韓洪・永康公李薬王・蔚州刺史劉隆等に歩騎一万を将いて恒安を鎮守させたが、達頭が来寇し、韓洪の軍は大敗した。仲卿は楽寧鎮より邀撃し、千余級を斬った。翌年、役を督して金河・定襄の二城を築き、啓人を居住させた。
時に上表して仲卿の酷暴を言う者があり、上は御史王偉に命じてこれを按査させたが、いずれも事実であった。その功を惜しみ、罪に問わず、かえって労って言った、「公の清正なるを知る、下の者に憎まれる所以である」と。物五百段を賜った。仲卿はますます恣に振る舞い、これにより免官された。仁寿初年、司農卿を検校した。蜀王秀が罪を得た時、詔を奉じて益州に赴きこれを按査した。秀の賓客が通過した所では、仲卿は必ず深文を弄して法に致し、州県の長吏が坐した者は大半であった。上はこれを能とし、奴婢五十口・黄金二百両・米粟五千石・奇宝雑物をこれに称するほど賞賜した。煬帝が位を嗣ぐと、兵部・工部二尚書事を判じた。官に卒した。諡して粛といった。子の世弘が嗣いだ。
趙昶は、字を長舒といい、天水郡南安県の人である。曾祖父の襄は魏に仕え、中山郡守に至り、代に家を定めた。昶は幼少より聡明で、志節があった。弱冠にして、材力をもって知られた。魏の北中郎将高千が陝を鎮守した時、昶を長史・中軍都督とした。周文(宇文泰)が弘農を平定すると、抜擢して相府典籤とした。
大統九年、大軍が芒山で軍律を失い、清水の氐酋李鼠仁が軍中より逃げ帰り、険阻に憑って乱を起こした。周文がこれを討たんとし、先ず使い得る者を求め、遂に昶を使者と命じた。鼠仁に会い、禍福を以て諭した。群凶は従う者も従わぬ者もあり、その命に従う者の中には、また刃を昶に加えんとする者もあった。しかし昶の神色は自若として、志気はますます奮い立った。鼠仁は感悟し、遂に相率いて降った。氐の梁道顕が叛き、南由を攻めた時、周文はまた昶を遣わして慰諭させたところ、道顕等は皆直ちに款附した。東秦州刺史魏光がその豪帥三十余人と部落を華州に移徙させると、周文は即座に昶を都督としてこれを統領させた。先に、汾州の胡が叛いた時、再び昶を遣わしてこれを慰労させ、皆その虚実を知った。大軍が討伐に向かうと、昶は先駆となり、遂にこれを破った。功により章武県伯に封ぜられた。
十五年、安夷郡守に拝され、長蛇鎮将を帯びた。氐の習俗は荒獷であったが、昶は威と懐柔をもって礼を尽くし、悦服しない者はなかった。一年の後、軍に従うことを喜ぶ者が千余人に及んだ。帥都督を加授された。時に軍機に属し、徴発が切迫していたため、氐の心情はこれを難じ、再び相謀って叛こうとした。昶はまた密かに人を遣わして誘説し、その心を離間した。その離反を利用して、軽装で臨んだ。群氐は為すところを知らず、皆昶に来見したので、その首謀者二十余人を収めて斬り、残りの衆は遂に平定した。朝廷はこれを嘉し、大都督を除し、南秦州事を行わせた。時に氐帥の蓋閙等が反したので、昶はまたこれを討ち捕らえた。また史寧と共に宕昌の羌・獠二十余万を破った。武州刺史に拝された。恭帝の初め、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。潭水の羌が叛き、武陵・潭水の二郡守を殺害した。昶は儀同の駱天人等を率いて討ち平定した。
子の康が嗣ぎ、官は司邑下大夫に至った。
楊舣は、字を顯進といい、正平郡高涼県の人である。祖父の貴、父の猛は、ともに県令であった。舣は若くして豪俠であり、志気があった。魏の孝昌年間(525-527年)、爾朱栄が朝士を殺害した時、大司馬・城陽王元徽が難を避けて舣のもとに逃げ込み、舣はこれを匿って難を免れさせた。孝荘帝が立つと、元徽は出仕し、再び司馬となった。これにより舣は義烈により、伏波将軍・給事中に抜擢された。元顥が洛陽に入ると、孝荘帝は太行山を北に越えた。爾朱栄が帝を奉じて南討するに及び、馬渚に至った時、舣は船を整えて王師を渡した。元顥が平定されると、肥如県伯に封ぜられ、鎮遠将軍・歩兵校尉・行済北郡事を加えられた。都督・平東将軍・太中大夫に進んだ。
孝武帝に従って関中に入り、侯に進爵され、撫軍将軍・銀青光禄大夫を加えられた。時に東魏は鄴に遷都し、周の文帝(宇文泰)はその動向を知ろうと、舣を遣わして密かに鄴に行かせ観察させた。使いから戻り、上意に適う報告をしたので、通直散騎常侍・車騎将軍を授けられた。稽胡は険阻を恃んで従わず、しばしば略奪を行ったため、舣を黄門侍郎を兼ねさせて、慰撫に赴かせた。舣は権謀と策略に長け、辺境の事情をよく把握し、酋長や渠帥を誘導教化して、多くが帰順し、ついには木の実を携えて朝貢する者も現れた。時に弘農は東魏が守っており、舣は周の文帝に従ってこれを攻め落とした。しかし河以北はなお東魏に附いていた。舣の父の猛は先に邵郡の白水県令を務めており、舣はその地の豪族と知己であったので、微行して邵郡に赴き、兵を挙げて朝廷に呼応することを請うた。周の文帝はこれを許し、舣は遂に出発した。土豪の王覆憐らと密かに挙兵を謀り、内応を約束し、内外同時に発して、遂に邵郡を陥落させ、郡守の程保及び県令四人を捕らえ、皆斬った。衆議は舣に郡の事務を行わせようとしたが、舣は覆憐によって事が成ったとして、覆憐を邵郡守に推挙した。功により大行台左丞を授けられ、なお義兵を率いてさらに経略を行った。ここにおいて間諜を遣わして東魏の城砦を誘説させたところ、十日一ヶ月の間に、正平・河北・南汾・二絳・建州・太寧などの諸城が、こぞって内応を請うたので、大軍はこれに乗じて攻め落とした。舣を行正平郡事とし、左丞は元の通りとした。斉の神武帝(高歓)が沙苑で敗れた時、その将の韓軌・潘楽・可朱渾元らが殿軍を務めたが、舣は兵を分けて要所を遮断し、殺傷甚だ多かった。東雍州刺史の司馬恭は舣の威声を恐れ、城を棄てて遁走した。舣は遂に東雍州を占拠した。
周の文帝は舣に謀略があり、辺境の任に堪えると考え、行建州事に推挙した。時に建州は遠く敵境にあったが、舣の威徳と恩恵は夙に著しく、経過する地域では、多くが食糧を携えてこれに附いた。建州に至る頃には、衆は既に一万に達していた。東魏の州刺史の車折于洛が兵を出して迎え撃ったが、舣はこれを撃破した。またその行台の斛律倶を州の西で破り、多くの甲冑兵器及び軍需物資を鹵獲し、義兵に供給した。これにより威名は大いに振るった。東魏は太保の尉景を遣わして正平を陥落させ、また行台の薛修義を遣わして斛律倶と合流させたので、敵の勢力は次第に盛んとなった。舣は孤軍で援けがなく、かつ腹背に敵を受ける状況で、撤退を謀ったが、また義兵の裏切りを恐れた。そこで偽って周の文帝の文書を作り、あたかも外部から届けられた者のように人を遣わし、既に四方向から援軍を派遣したと伝えさせた。そこで人に漏洩させ、その地に知らしめた。また土地の者や義兵の首領を分け、それぞれが配下を率いて四方に出て略奪させ、軍費の供給に充てようとした。舣が派遣を終えると、夜中に邵郡へ撤退した。朝廷はその臨機の処置で全軍を保ったことを賞した。既に建州刺史を授けられた。時に東魏は正平を東雍州とし、薛栄祖を遣わしてこれを鎮守させた。そこでまず奇兵を遣わし、急ぎ汾橋を攻撃した。栄祖は果たして城中の戦士を全て出し、汾橋で防戦した。その夜、舣は別の道から渡河し、遂に襲撃してこれを陥落させた。驃騎将軍に進んだ。邵郡の者が郡の東で反乱を起こし、郡守の郭武安は身一つで逃れて難を免れた。舣はまた兵を率いて攻め、これを回復した。正平郡守に転じた。また東魏の南絳郡を撃破し、その郡守の屈僧珍を虜にした。前後の功績を合わせ、郃陽県伯に封じられた。
保定四年、少師に遷った。その年、大軍が洛陽を包囲し、詔して舣に軹関から出撃させた。しかし舣は東境を鎮守して二十余年、しばしば斉人と戦い、常に勝利し鹵獲を得ていたため、これによって軽敵の心を持つに至った。時に洛陽は未だ陥落せず、舣は深く敵境に入りながら、また防備を設けなかった。斉人が不意に到来し、舣の軍を大破した。舣は衆が敗れたため、遂に斉に降った。舣が勲功を立てたことについては、慷慨壮烈の志があったが、軍が敗れると、虜に就いて苟くも免れようとしたので、当時の論評はこれを以て卑しみ、朝廷はなおその功績を記録し、罪とはせず、その子に爵位を継がせた。
論じて曰く、申徽は器量が深沈であり、経史をもってこれを文飾し、陸通は鑑識と悟りが明敏であり、温恭をもってこれを飾り、ともに夙に龍顔に奉じ、早くより任用と遇合を受け、戟を提げて効を宣べ、荊を披いて功に預かり、義は周旋に結ばれ、恩は契闊に生じた。遂に端揆に入居し、列藩を出撫するを得た。識見と才用をもって成名したとはいえ、また情は旧臣を兼ねたのである。陸逞は戎旅の際に、文雅をもって知られ、境外に誉れを延ばす能を播き、官に蒞りては従政の美を著わし、歴任して顕要の地位に居たのは、徒然であろうか。庫狄峙は和戎の功を建て、楊薦は入関の策を成し、趙剛は凶狡を克く剪り、趙昶は氐・羌を懐服させ、王悦は侯景を料り、文表は突厥を譎した。あるいは先覚と明らかに称され、あるいは識見が機先を見ることを表し、その功を立て事を成すのを観れば、皆一時の志力の士である。元定は敗亡し、黄権の路無きに同じくし、楊舣は攻め勝つも、また兵は破れ身は囚われた。功名寥落、まことに嘆かわしい。《易》に曰く、「師出ずるに律を以てす、臧からざれば凶なり」。《伝》に曰く、「備えず虞らずんば、以て師とすべからず」。それは舣の謂いであろう。