北史

巻六十七 列傳第五十五

列傳第五十五

崔彥穆、楊纂、段永、令狐整(子の熙)、唐永(子の瑾)、柳敏(子の昂)、王士良

崔彥穆

崔彥穆は、字を彥穆といい、清河郡東武城の人であり、魏の 司空 しくう 安陽侯崔林の九世の孫である。曾祖父の崔顗は、後魏において平東府諮議参軍を務めた。祖父の崔蔚は、従兄の 司徒 しと 崔浩の難に遭い、南へ奔って江左に逃れた。宋に仕え、給事黄門侍郎、汝南・義陽二郡の太守となった。延興の初め、再び魏に帰順し、潁川郡太守に任ぜられ、ここに居を定めた。後に 郢州 えいしゅう 刺史の任で没した。父の崔幼は、永昌郡太守の官位で終わった。隋の開皇初年、献皇后の外曾祖父にあたるとして、上開府儀同三司・新州刺史を追贈された。

彥穆は幼少より明敏で悟りが早く、神彩は卓然としていた。魏の吏部尚書隴西の李神儁は、人を見抜く鑑識眼があり、彼を見て嘆じて言った。「王を補佐する才である。」永安の末、 司徒 しと 府参軍事に任ぜられ、再び転じて大司馬従事中郎となった。孝武帝が西遷した時、彥穆はその時従うことができなかった。大統三年、兄の彥珍と共に成皋で義兵を挙げ、これにより 滎陽 けいよう を攻め落とし、東魏の郡守蘇淑を捕らえた。引き続き郷郡王元洪威と共に潁川を攻め、その刺史李景遺を斬った。直ちに 滎陽 けいよう 郡太守に任ぜられ、間もなく千乗県侯の爵位を賜った。十四年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・司農卿を授けられた。当時は軍国草創の期で、諸々の事務が殷賑繁雑であったため、周の文帝(宇文泰)は彥穆を幕府に引き入れ、文翰の執掌を兼ねさせた。于謹が江陵を征伐した時、彥穆は本官のままこれに従い平定した。周の明帝の初め、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。間もなく安州刺史に任ぜられ、十二州諸軍事を総管した。朝廷に入って禦正大夫となった。陳氏が隣好を篤くすることを請うた。詔により彥穆がこれに使わされた。彥穆は風韻閑曠で、器度は方正雅やかであり、玄言を善くし、談謔を解し、甚だ江表で称えられた。戸部中大夫に転じ、爵位は公に進んだ。天和三年、斉への聘問より帰還し、金州刺史に任ぜられ、七州諸軍事を総管し、位は大将軍に進んだ。間もなく召されて小 司徒 しと に任ぜられた。

宣帝が崩御し、隋の文帝が政務を補佐すると、三方で兵が起こり、彥穆を行軍総管とし、襄州総管王誼と共に司馬消難を討たせた。軍が荊州に駐屯した時、総管の獨孤永業に異心があったため、これを捕らえて誅殺した。事が平定されると、隋の文帝は王誼を朝廷に召し入れ、直ちに彥穆を襄州刺史とし、六州諸軍事を総管させ、上大将軍を加授し、爵位を東郡公に進めた。間もなく、永業の家が自ら道理を訴えて雪冤されると、彥穆は連座して除名された。間もなく官爵を回復した。開皇元年に卒去した。子の君綽が後を嗣いだ。

君綽は性質が平易簡素で、経史を博く覧み、父の風があった。大象の末、丞相府賓曹参軍となった。

君綽の弟の君肅は、巾を解いて道王の侍読となり、大象の末、潁川郡太守となった。

楊纂

楊纂は、広寧の人である。父の安仁は、魏の朔州鎮将であった。纂は若くして慷慨として志略があり、勇力は人に倍した。二十歳の時、斉の神武帝(高歓)に従い信都で兵を起こし、軍功により、次第に武州刺史に昇進した。自ら賞が薄いと思い、志に怨憤を抱き、常に嘆いて言った。「大丈夫たるもの富貴は必ずしも故郷にある必要はない。もし妻子を心に懸けるならば、人の雄志を沮ませることになろうか。」大統の初め、遂に間道を通って関中に入った。周の文帝(宇文泰)は纂の手を執って言った。「人が貴ぶものは忠義であり、恐れるものは危亡である。危亡を憚らず、この忠義を踏み行うことができる者を、今まさに卿に見る。」直ちに征南将軍・大 都督 ととく を授け、永興県侯に封じた。周の文帝に従って洛陽の包囲を解き、河橋・芒山の戦いを経たが、纂は常に先鋒として登り、軍中皆その敢勇を推した。累進して驃騎大将軍・開府儀同三司となり、侍中を加えられ、爵位は公に進み、姓を莫胡盧氏と賜った。間もなく岐州刺史を授けられた。周の孝閔帝が即位すると、爵位は宋熙郡公に進んだ。保定元年、位は大将軍となり、隴東郡公に改封され、隴州刺史に任ぜられた。隋公楊忠に従って東征し、 へい 州まで至って帰還した。天和六年、柱国大将軍に進授され、華州刺史に転じた。纂の性質は質朴で、また文字を識らず、前後職に臨むも、ただ誠信を推し進めるのみであった。吏民はその忠恕を以て、頗るこれを懐いた。間もなく州において卒去した。

子の睿は、上柱国・漁陽郡公の位に至った。

段永

段永は、字を永賓といい、その先祖は遼西郡石城の人であり、晋の幽州刺史段疋磾の後裔である。曾祖父の段愄は、魏に仕えて黄龍鎮将となり、これにより高陸の河陽に移り住んだ。永は幼くして志操があり、里巷で称えられた。魏の正光の末、北鎮が擾乱すると、老幼を携え、中山に避難した。後に洛陽に赴き、平東将軍に任ぜられ、沃陽県伯に封じられた。青州の崔社客が兵を挙げて反乱すると、永はこれを討伐平定した。爵位は侯に進み、左光禄大夫に任ぜられた。当時、賊の首魁元伯生がおり、西は崤・潼から東は鞏・洛に至るまで、城壁を屠り陥落させ、所在で患いとなっていた。孝武帝は京畿大 都督 ととく 疋婁昭にこれを討たせようとしたが、昭は五千の兵での行軍を請うた。永が進言して言った。「この賊は城柵もなく、ただ寇抄を資とするのみで、これを取るには速さにあり、多勢にはありません。もし星の馳せる如く電の起こる如く発し、その不意を衝くならば、精騎五百で足ります。」帝はその計略を然りとし、ここに命じて永が昭に代わり、五百騎で倍道兼行して進み、遂にこれを撃破平定した。帝が西遷した時、永はその時従うことができなかった。大統の初め、遂に宗族の人々と結び、密かに帰順を謀った。密かに 都督 ととく 趙業らと共に西中郎将慕容顯和を襲撃して斬り、その首を京師に伝送した。功により別に昌平県子に封ぜられ、徐州刺史となった。竇泰を捕らえるのに従い、弘農を回復し、沙苑を破り、共に戦功があり、爵位は公に進んだ。河橋の戦役では、永は力戦して先鋒として登り、南汾州刺史を授けられた。累進して驃騎大将軍・開府儀同三司となり、姓を爾綿氏と賜った。廃帝元年、恆州刺史を授けられた。当時、朝廷の貴人の多くはその部民であったため、永を謁見する日には、冠蓋が路に満ち、当時栄誉とされた。周の孝閔帝が即位すると、爵位は広城郡公に進んだ。文州・瓜州の二州刺史、戸部中大夫を歴任した。保定四年、大将軍に任ぜられた。永は内外の官職を歴任し、所在で頗る名声があり、財を軽んじ士を好み、朝野これをもって重んじた。天和四年、小司寇を授けられた。間もなく右二軍総管となり、兵を率いて北道で武を講じた。病に遇い、賀葛城で卒去した。喪が遠くより帰ると、武帝は自ら臨み、使持節・柱国大将軍・同華等五州刺史を追贈し、諡を基といった。

子の岌が嗣いだ。位は儀同三司・兵部下大夫に至った。

令狐整

令狐整、字は延保、敦煌の人であり、本名は延といった。代々西土の冠冕(名門)であった。曾祖父の嗣、祖父の紹安は、官は郡守に至り、皆良二千石であった。父の虯は、早くから名望と徳行で知られ、瓜州司馬・敦煌郡守・郢州刺史を歴任し、長城県子に封ぜられた。西魏の大統末年、家で卒去した。周の文帝(宇文泰)はその死を悼み、使者を遣わして喪事を監督させ、また郷人に命じて墳墓を営ませた。龍驤将軍・瓜州刺史を追贈された。整は幼少より聡明で、沈着深遠にして識量があり、学芸と騎射は共に河右で推重された。刺史の魏東陽王元栄は整を召し出して主簿とし、蕩寇将軍を加えた。整の進退は詳雅であり、応対は弁舌爽やかで、謁見の際には州府の者が皆注目した。元栄は整の徳望を重んじ、嘗て僚属に謂って曰く「令狐延保は西州の令望(名望家)であり、やがて重器となろう。どうして州郡の職務で束縛できようか。しかし一日千里の駿馬も、必ず初めはゆっくり歩む。寡人は庶務を彼に委ね、ただ判を押すだけとしよう」と。間もなく、孝武帝が西遷すると、河右は擾乱した。元栄は整に防衛を依拠し、州境は安寧を得た。鄧彦が瓜州を窃拠し、交代を受け入れなかった時、整は開府の張穆らと密かに使者の申徽に応じ、鄧彦を捕らえて京師に送った。周の文帝はその忠節を嘉し、 都督 ととく に上表した。ほどなく城民の張保がまた刺史の成慶を殺し、涼州刺史の宇文仲和と結んで叛逆し、河西を占拠しようと図った。晋昌の人呂興もまた郡守の郭 ほしいまま を害し、郡を挙げて張保に応じた。初め、張保らが乱を図ろうとした時、整が義を守って従わないことを慮り、成慶を殺した後、整にも及ぼそうとした。しかし彼は人望があり、またその配下が叛くことを恐れたので、遂に害することを敢えてしなかった。外では礼敬を加えたが、内心は整を甚だ忌み嫌った。整もまた親しく従っているように装い、密かに彼を除こうと図った。密かに親しい者を遣わして張保に説かせて曰く「本郡と宇文仲和は唇歯の関係を結んでいます。今、東軍(高歓の軍)が次第に涼州に迫り、彼の勢いは孤立危険で、恐らく敵わないでしょう。もし敗北すれば、禍はこの地に及びます。鋭兵を分遣し、夜を日についで救援に向かうべきです。二州が合力すれば、東軍を討つことができます。その後、境を保ち民を休めるのが、最上の計略です」と。張保はこれを認めたが、誰を任せるか分からなかった。整はまた説かせて曰く「歴史上の成敗を見るに、任使にあり、選びが良くなければ、直ちに傾危を招きます。令狐延保は文武の資質を兼ね、統御に堪える才があります。もし将とすれば、必ず成功するでしょう」と。張保はこの計略を容れ、また整の父兄らが皆城中にいるため、彼を疑わず、遂に整を行かせた。整は玉門郡に至り、豪傑を召集して張保の罪逆を説き、馳せ戻って襲撃した。先ず晋昌を平定し、呂興を斬り、進軍して張保を撃った。州人は平素より整の威名に服しており、皆張保を見捨てて来附した。張保は遂に吐谷渾に奔った。衆議は整を推して刺史としようとした。整は曰く「そもそも張保が逆を肆にし、無辜を殺害したため、州全体の人が皆不義に陥った。今、心を同じくして凶を除くことに務めるのであって、もし互いに推薦し合えば、また悪事を真似て禍を招くことを恐れる」と。そこで乃ち波斯の使主の張道義に行州事をさせた。詳細を状にして上聞した。詔により申徽を刺史とした。整を召し出して朝廷に赴かせ、寿昌郡守に任じ、襄武県男に封ぜられた。周の文帝は整に謂って曰く「卿は早くより殊勲を立てたが、今の官位では賞に酬いるに足りない。まさに卿と共に天下を平定し、富貴を同じくしよう」と。遂に瓜州義首に立てた。整は国難が未だ寧まらないことを以て、常に宗族を挙げて尽力することを願い、遂に郷親二千余人を率いて入朝し、軍に従って征討した。整は撫育統御に長け、自ら豊かさと倹約を同じくしたので、士衆は皆旅の身であることを忘れ、その力を尽くして用いられた。周の文帝は嘗て整に悠々として謂って曰く「卿の遠祖が忠を立てて以来、積善の余慶と言え、代々その美を継いでいる者である」と。整の遠祖である漢の建威将軍の邁は、王莽に屈せず、その子の称は河右に避地したので、周の文帝はこれを称えたのである。累遷して驃騎大将軍・開府儀同三司となり、侍中を加えられた。周の文帝はまた整に謂って曰く「卿の勲は婁敬・項羽に同じく、義は骨肉に等しい。立身は敦厚雅正で、人の模範とすることができる」と。遂に宇文の姓を賜り、併せて名を整と賜った。宗人二百余戸は、皆属籍に列ねられた。

周の孝閔帝が践祚すると、司憲中大夫に拝され、法を公平に運用し、当時に称えられた。爵を進めて彭城県公となった。初め、梁の興州刺史の席固が州を挙げて帰附したため、周の文帝は席固を豊州刺史とした。席固は職に就いて久しいが、なお梁の法を憚り、施為する所は多く政典に欠けていた。朝議は密かに彼を代えようとしたが、その人選に難渋した。令狐整に豊州を権(仮)に鎮守させ、席固に代わる方略を委ねた。整は威恩を広く布き、身を傾けて撫接したので、数ヶ月の間に教化は州府に融和した。ここにおいて整を豊州刺史に除し、席固を湖州とした。豊州は旧来、民が居住しておらず、賦役が参集し、労逸が均しくなかった。整は武当に移住することを請い、詔はその奏を許した。奨励撫導し、移住する者は帰郷するが如く、旬月の間に城府は周備した。席固が転任する際、その部曲の多くは留まって整の左右となることを願ったが、整は朝制を以て諭し、これを許さなかったので、涙を流して去らぬ者はなかった。整が任期を満了し後任が到着した時、人吏は彼を慕い、老幼が整を見送り、遠近から皆集まり、数日間停留し、ようやく境界を出ることができた。その人心を得ることこのようであった。禦正中大夫に拝され、出て中華郡守となり、転じて同州司会、遷って始州刺史となった。整は情偽(真偽)を雅(正)しく識り、特に政術に明るく、恭謹廉慎で、常に満ちることを懼れたので、内外を歴任し、所在で称えられた。位を進めて大将軍となった。晋公宇文護が初めて政を執った時、整を腹心として委ねようとした。整は辞して敢えて当たらなかったので、その意に頗る逆らい、宇文護はこれによって彼を疎んじた。宇文護が誅殺された時、附会した者は皆法に伏したが、整だけは保全された。当時の人はその先覚を称えた。卒去した。本官を追贈し、四州諸軍事・鄜州刺史を加え、諡して襄と曰う。子の熙が嗣いだ。

子 熙

熙は字を長熙という。性格は厳粛で重厚、雅量があり、私室に在るといえども、終日厳然としていた。妄りに賓客と通じず、交わり結ぶ者は必ず一時の名士であった。群書を博覧し、特に三礼に明るく、騎射を善くし、音律をよく知っていた。初めて官に就くに当たり、経書に通じることを以て吏部上士となり、転じて夏官府都上士となったが、いずれも能ある名があった。母の喪により職を去り、ほとんど喪に堪えなかった。その父が戒めて言うには、「大孝は親を安んずるに在り、義として嗣を絶つべからず。我今存命す、汝また只立す、何ぞ過ぎに爾く毀頓して、我に憂いを貽すを得んや」と。熙はここより稍々饘粥を加える。喪が明けて、少駕部に除せられる。また父の喪に遭い、杖なくしては起たず。その哭聲を聞く者、泣かざるはなかった。河陰の役に、詔して墨衰を以て事に従うことを命じ、職方下大夫を授けられ、彭城県公を襲封した。武帝が斉を平定するに及び、留守の功を以て、位は儀同に進む。司勲・吏部の二曹中大夫を歴任し、当時の誉れ甚だ高かった。隋の文帝が禅を受ける際、熙は本官のまま納言の事を行った。まもなく 司徒 しと 左長史に除せられ、上儀同を加えられ、爵は河南郡公に進んだ。時に吐谷渾が辺境を侵したので、行軍長史として元帥元諧に従ってこれを討ち、功により上開府に進んだ。後に滄州刺史に拝せられ、在職数年、風教大いに和し、良二千石と称された。開皇四年、帝が洛陽に行幸した。熙が来朝すると、吏民はその転任を恐れ、道で悲泣した。帰還するに及んで、百姓は境を出て迎え謁し、歓叫が路に満ちた。州において白烏・白麞・嘉麦を得、甘露が庭前の柳樹に降った。八年、河北道行台度支尚書に転ず。吏民は追慕し、相い碑を立てて徳を頌した。行台が廃止されると、累遷して鴻臚卿となった。後に本官を以て吏部尚書を兼ね、往って五曹尚書の事を判じ、民務に明敏であった。帝は甚だこれを信任し、上って泰山を祠るに用い、還って汴州に次した時、その殷盛を悪み、多く奸俠あるを以て、熙を汴州刺史とした。着任すると、遊食を禁じ、工商を抑え、人で術を向けて門を開く者あればこれを杜ち、船客は郭外に停め、星居する者は勒めて聚落と為し、僑人は逐って本に帰らせ、滞獄ある者は並びに決遣し、令行禁止した。帝は聞いてこれを嘉し、侍臣を顧みて言うには、「鄴都は天下の臨み難き処なり、相州刺史豆処通に勅し、熙の法を習わしめよ」と。その年、来朝し、考績は天下の最となった。帛三百疋を賜い、天下に告げしめた。

嶺南の夷が数たび乱を起こすを以て、召し出されて桂州総管・十七州諸軍事に拝せられ、便宜を以て事を行うことを許され、刺史以下の官は、制を承って補授するを得、帳内五百人を給せられた。帛五百疋を賜い、伝駅を発してその家族を送り、武康郡公に改封された。熙が任地に至ると、大いに恩信を弘めた。その溪洞の渠帥らは更に相い謂って言うには、「前の総管は皆兵威を以て相脅かし、今の者は手教を以て相諭す、我ら輩どうして違うことができようか」と。ここにおいて相率いて帰附した。先だって州県は生梗で、長吏多く官に赴くを得ず、総管府に政を寄せていた。熙は悉くこれを遣わし、城邑を建て、学校を開設し、人夷感化された。

時に寧猛力という者がおり、陳の後主と同日に生まれ、自ら言うには容貌に貴相ありと、陳の世に既に南海を拠していた。陳を平定した後、文帝はこれに因ってこれを撫で、即ち安州刺史に拝した。然るに驕倨して険を恃み、未だ嘗て参謁しなかった。熙は手書を以てこれを諭し、交友の分を申し述べた。その母に疾あり、熙はまた薬を遺わした。猛力はこれに感じ、府に詣でて請謁し、敢えて非を為さなかった。熙は州県に同名の多いを以て、ここにおいて安州を欽州と改め、黄州を峰州と、利州を智州と、德州を歓州と、東寧州を融州と改めることを奏上した。帝は皆これに従った。在職数年、表を上して年老いて疾患あるを以て、所任を解くことを請うた。優詔して許さず、医薬を賜った。

熙は詔を奉じて交州の梁帥李仏子に入朝せしめんとしたが、仏子は乱を為さんと欲し、仲冬に至って上路することを請うた。熙の意は羈縻に在り、遂にこれに従った。ある人が闕に詣で、熙が仏子の賂を受けこれを赦したと訟えた。帝は聞いた。仏子の反問が至り、帝は大怒し、信然と為し、使者を遣わして熙を鎖し闕に詣でしめた。熙の性格は元来剛直で、鬱々として志を得ず、永州に行き至り、憂憤して病没した。帝の怒り解けず、その家財を没収した。行軍総管劉方が仏子を擒えて京師に送り、熙に実は贓無しと言上した。帝は悟り、乃ちその四子を召し出して仕えることを聴した。少子の徳棻が最も知名である。

整の弟の休は、幼くして聡敏、文武の材用あり。整と共に兵を起こして張保を逐い、帥 都督 ととく を授けられた。後に中外府楽曹参軍となった。時に諸功臣多く本州刺史となる。晋公護が整に謂って言うには、「公の勲望を以てすれば、本州を得るべきだが、朝廷は公を委任に藉り、遠出を容れず。然れども公一門の内、衣錦の栄え有るべし」と。乃ち休を以て敦煌郡守とした。郡に在ること十余年、政績甚だあった。合州刺史にて卒した。

唐永

唐永は、北海郡平寿県の人である。元は晋昌郡の憤安県に居住したが、晋の乱に、丹楊に徙った。祖父の揣は、初めて遠く魏に仕え、官は北海太守に至り、ここに因って家を定めた。父の倫は、青州刺史であった。永は身長八尺、少より耿介、将帥の才あり、『班超伝』を読み、慨然として万里の志あり。正光年中、北地太守となり、当郡の別将を兼ねた。間もなく賊将の宿勤明達・車金雀らが郡境を寇したが、永はこれを撃破し、境内稍々安んず。永は下を馭するに善く、士人競ってこれを用いられんとした。熙は陣に常に帛の裙襦を著け、角如意を把って指麾処分し、辞色自若たり。北地に在ること四年、賊と数十戦し、未だ嘗て敗北せず。時人の語に曰く、「陸梁する莫れ、恐らくは爾が唐将に逢わんことを」と。永の営した処は、今に至るも猶唐公壘と称する。行台蕭宝夤が永を南幽州刺史に表すと、夷人の送別する者、涙を垂れざるはなく、路に当たって遮り留め、数日に随い、始めて境を出るを得た。大統元年、東雍州刺史に拝せられ、間もなく衛将軍を加えられ、平寿伯に封ぜられた。卒し、 司空 しくう 公を贈られた。永の性格清廉、家に蓄積無く、妻子飢寒を免れず、世はこれを持ってこれを称した。

子の陵は、少より武芸を習い、吏職に頗る閑熟し、位は大 都督 ととく ・応州刺史・車騎大将軍・儀同三司に至った。

陵の子の悟は、風儀美しく、経史を博渉し、文詠観るべし。周の大象年中、宣帝の任遇を頗る受け、位は内史下大夫・漢陽公に至った。隋の文帝が政を得ると、家に廃されて卒した。陵の弟は瑾である。

子 瑾

瑾は字を附璘という。性格は温恭、器量あり、経史を博渉し、雅く属文を好んだ。身長八尺二寸、容貌甚だ偉なり。年十七、周の文帝その名を聞き、乃ち永に書を貽して言うには、「公に二子有り、曰く陵、曰く瑾、陵は従横多く武略あり、瑾は雍容として文雅に富む、並びに入朝を遣わすべく、孤は文武の任に委ねんと欲す」と。因りて召し出して尚書員外郎・相府記室参軍事に拝した。軍書羽檄は、瑾多くこれを掌った。沙苑を破り、河橋に戦うに従い、並びに功あり、姑蔵県子に封ぜられた。累遷して尚書右丞・吏部郎中となった。時に魏室播遷し、庶務草創、朝章国典に、瑾並びにこれに参じた。戸部尚書に遷り、位は驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、姓を宇文氏と賜った。

当時、燕公の於謹は勲功高く声望重く、朝廷と民間の帰属するところであった。周の文帝(宇文泰)に上言し、唐瑾が学問と品行を兼ね備えていると述べ、彼と同姓となり兄弟の契りを結びたいと願い出た。これにより子孫がその残された論議を継承し、道義の規範に益あらんことを望んだのである。周の文帝は長く感歎し、さらに唐瑾に万紐於氏の姓を賜った。於謹は深く唐瑾と結び交わり、長幼の序を厚くした。唐瑾もまた庭に子孫を並べさせ、弟や甥としての礼敬を行わせた。彼が朝廷の声望から宗仰されたのはこのような次第であった。臨淄県伯に爵位を進めた。吏部尚書に転じ、官吏の選抜総括と人材の流れを掌り、優れて人倫を見抜く鑑識眼があった。父の喪により職を去ったが、まもなく起用されて職務を執らせた。当時、六尚書は皆、当代の俊秀であり、周の文帝は人材を得たと自負し、彼らを六俊と称したが、中でも唐瑾は特に重用された。于謹が江陵を南伐した際、唐瑾を元帥府長史とし、軍中の謀略は多く唐瑾の出するところであった。江陵が平定されると、士大夫や官吏の身分の者は皆、奴隷に没落させられた。唐瑾はその才能や行いに少しでも善いところのある者を見つけると、すぐに赦免を議論し、唐瑾によって救われた者は非常に多かった。当時の論評はこれを称えた。軍が帰還する際、諸将の多くは捕虜や掠奪により、多大な財物を得た。唐瑾は何一つ取らず、ただ書物を二車得て、それを載せて帰ったのみであった。ある者が周の文帝に言上した。「唐瑾は大いに輜重があり、全て梁朝の珍玩です。」周の文帝は初め信じなかったが、その虚実を明らかにしようと、密かに使者を遣わして検査させたところ、ただ典籍が見られただけであった。そこで歎息して言った。「孤がこの人を知ってから二十余年、彼が利をもって義を犯さぬことを明らかに知っている。先ほどもし検査させなかったならば、常人は曾参の母が機杼を投げるような疑いを抱いたであろう。孤がますます彼を明らかにした所以である。およそ人から委任を受ける者はこのようであるべきだ。」江陵平定の功績により、爵位を公に進めた。

六官が建てられると、礼部中大夫に任じられた。出向して蔡州刺史となり、拓州、硤州を歴任し、赴任した地には皆、徳による教化があり、民と官吏に称えられた。荊州総管府長史に転じた。内に入って吏部中大夫となり、禦正、納言、内史中大夫を歴任した。まだ十旬(百日)にも満たないうちに、四つの職を遷り、官僚たちは皆これを栄誉とした。久しくして司宗中大夫に任じられ、内史を兼ねた。まもなく在官のまま卒去した。小宗伯を追贈され、諡は方といった。

唐瑾の性質は方正で重厚、風格があり、退朝して休暇の時も、常に衣冠を整えて妻子に対し、激しい雷や烈風に遇えば、たとえ夜中で安らかに寝ていても、必ず起き上がり、冠帯を整え笏を端持して正座した。また施しを与えることを好み、家に余財はなく、得た俸禄や賜物は常に宗族に分け与え、特に貧困な者には、さらに肥沃な田畑や屋敷を割いて救済した。子孫に遺したものは、全て痩せた土地であった。朝廷と民間はこれをもって彼を称えた。『新儀』十篇を撰し、賦、頌、碑、誄を著して二十余万字に及んだ。孫の大智が後を嗣いだ。

唐瑾の次男の令則は、性質上、詩文を好み、音律にも通じ、文章は多く軽やかで艶麗であり、当時の人々に伝えられた。天和の初年(566年頃)、齊馭下大夫として陳に使した。大象年中(579-580年)、官は楽部下大夫に至った。隋に仕え、太子左庶子の位にあった。皇太子の楊勇が廃されると、誅殺された。

柳敏

柳敏、字は白澤、河東郡解県の人、晋の太常の柳純の七世の孫である。父の柳懿は、魏の車騎大将軍、儀同三司、汾州刺史であった。柳敏は九歳で孤児となり、母に仕えて孝行で知られた。性質好学で、経書史書に広く目を通し、陰陽卜筮の術に至るまで、習わぬものはなかった。弱冠に満たぬ年齢で、員外散騎侍郎として官途に就いた。累進して河東郡丞となった。朝廷の議論では、柳敏の本籍地であることを理由にこの任があった。柳敏は郷里を統治したが、物事を公平に処理し、当時の評判を大いに得た。周の文帝が河東を回復した時、彼を見て器量が非凡であると認め、こう言った。「今日は河東を得たことを喜ばず、卿を得たことを喜ぶ。」すぐに丞相府参軍事に任じた。まもなく戸曹参軍に転じ、記室を兼ねた。四方からの賓客がある度に、常に彼に接応させ、また吉凶の礼儀についても、監察総括させた。また蘇綽らと新制を修撰し、朝廷の政典とした。礼部郎中に遷り、武城県子に封じられ、帥 都督 ととく を加官され、本郷の兵を領した。まもなく大 都督 ととく に進んだ。母の喪に遭い、服喪中、十日ほどの間に鬢の毛が半ば白くなった。まもなく起用されて吏部郎中となったが、哀毀して礼を過ぎ、杖にすがらなければ起き上がれなかった。周の文帝はこれを見て感歎し、特に食料を賜った。尉遅迥が蜀を伐つ時、柳敏を行軍司馬とし、軍中の計略は全て彼に委ねた。益州が平定されると、驃騎大将軍、開府儀同三司に進み、侍中を加官され、尚書に遷り、宇文氏の姓を賜った。六官が建てられると、礼部中大夫に任じられた。

周の孝閔帝が即位すると、爵位を公に進めた。また河東郡守に任じられたが、まもなく再び召されて礼部に任じられた。出向して郢州刺史となり、民情を大いに得た。朝廷に帰還する際、漢族や異民族の士人たちはその善政に感じ入り、酒肴や物産を持って路上で待ち受けた。柳敏は別の道から帰還した。再び礼部に任じられ、後に礼部が司宗と改称されると、やはり柳敏をこれに任じた。柳敏の操行は方正であり、性質もまた恭しく勤勉で、毎日朝廷に出る前には、必ず早く起きて夜明けを待った。また長く台閣(中央官庁)に在り、故事に明るく練達しており、近頃の儀礼で先典に背くものがあれば、皆、旧章に基づいて調査し、訂正して中正を得させた。小宗伯に遷り、国史の監修を務めた。小司馬に転じ、また律令の監修を務めた。大将軍に進み、出向して鄜州刺史となったが、病気のため赴任しなかった。武帝が北斉を平定すると、武徳郡公に爵位を進めた。柳敏は建德年間(572-578年)以後、病気がちで数年臥せっていたが、武帝及び宣帝は共に自らその邸宅に行って病状を問うた。開皇元年(581年)、上大将軍、太子太保に進んだ。その年に卒去した。五州諸軍事、晋州刺史を追贈された。臨終に際し、子らに戒め、葬儀に必要なものは、必ず簡素倹約に従うよう命じた。その子らは皆、涙を流してこれに従った。末子は柳昂である。

子 柳昂

柳昂、字は千里。幼少より聡明で器量と識見があり、才幹と器量は人に優っていた。周の武帝の時、内史中大夫、開府儀同三司となり、文城郡公の爵位を賜り、権勢を握り政務を執り、百官は皆その下にあった。柳昂は誠を尽くして善を勧め悪を止め、知る限りのことは何でも行い、謙虚に自らを処し、決して人に対して驕ることはなく、当時の論評はこれをもって彼を重んじた。武帝が崩御すると、遺命を受けて政務を補佐したが、次第に宣帝に疎まれるようになった。しかし本職から離れることはなかった。隋の文帝が丞相となると、深く結び付いた。文帝は彼を大宗伯とした。拝命の日、半身不随を患い、職務を執ることができなくなった。文帝が禅譲を受けると、病気が癒え、上開府を加官され、潞州刺史に任じられた。柳昂は天下に事が無いのを見て、上表して学問を勧め礼を行わせることを請うた。皇帝(文帝)はこれを見て善しとし、柳昂に優れた詔で答え、これより天下の州県は皆、博士を置いて礼を習わせるようになった。柳昂は州において、非常に善政を行い、在官のまま卒去した。

子の柳調は、秘書郎、侍御史を歴任した。左僕射の楊素がかつて朝堂で柳調を見かけ、独り言のように言った。「柳の枝は体全体が弱く、風がなくても独りで揺れる。」柳調は笏を引き寄せて顔色を正し言った。「柳調に取るべきところが無いとお認めなら、公は侍御とすべきではない。確かに取るべきところがあるなら、このような言葉を発すべきではない。公は衆目が注がれる地位にあり、枢機(重要な発言)を軽々しく発してよいものか。」楊素は彼を非常に奇異な人物と思った。煬帝が帝位を嗣ぐと、累進して尚書左司郎中となった。当時、朝廷の綱紀は振るわず、朝士の多くは賄賂や財貨に走ったが、ただ柳調だけは清廉で質素、常道を守り、当時に称美された。しかし実務の才幹はその長所ではなかった。

王士良

王士良、字は君明、その先祖は太原の しん 陽の人である。後に しん の乱に因り、涼州に避地した。魏の太武帝が沮渠氏を平定した時、曾祖父の景仁は魏に帰順し、敦煌鎮将となった。祖父の公禮は平城鎮司馬となり、代に家を定めた。父の延は蘭陵郡守であった。士良は若くして謹厳を修め、妄りに交遊しなかった。孝莊帝の末、爾朱仲遠が府参軍事に啓請した。大行台郎中・諫議大夫を歴任し、石門県男に封ぜられた。後に紇豆陵歩籓と交戦し、軍は敗れ、歩籓に捕らえられ、河右に居住することとなった。偽行台の紇豆陵伊利はその才能を欽慕し、右丞に抜擢し、孫娘を妻として与えた。士良は姻戚となった後、尽く言うことができ、禍福を以て諭したところ、伊利らは即時に帰附した。朝廷はこれを嘉した。太昌の初め、爵位を しん 陽県子に進め、間もなく琅邪県侯に進爵し、太中大夫・右將軍を授けられた。出て殷州車騎府司馬となった。東魏が鄴に遷都した後、京畿府を置き、兵馬を専ら管轄した。時に齊の文襄王が大 都督 ととく となり、士良を司馬とし、外兵参軍を領させた。間もなく長史に遷り、安西將軍を加えられ、符壘県侯に徙封された。武定の初め、行台右中兵郎中に除され、また大將軍府属・從事中郎に転じ、引き続き外兵の事を摂った。王思政が穎川を鎮守した時、齊の文襄王は衆を率いてこれを攻めた。士良に大行台左丞を授け、鎮西將軍を加え、爵位を公に進め、その弟の演を輔けて へい 州に居守させた。

齊の文宣帝が即位すると、入朝して給事黃門侍郎となり、中書舍人を領し、引き続き へい 州兵馬の事を総知し、征西將軍を加えられ、別に新豐県子に封ぜられた。間もなく驃騎將軍・尚書吏部郎中に除された。文宣帝が しん 陽から鄴宮に赴いた時、再び士良を尚書左丞とし、留後事を統轄させた。引き続き御史中丞に遷った。七兵尚書に転じた。間もなく入朝して侍中となり、殿中尚書に転じた。ほどなく、再び侍中・吏部尚書となった。士良は幼くして孤となり、継母の梁氏に孝行をもって仕え、名を知られた。その死に際し、喪に服する礼を全うした。文宣帝は間もなく起用して職務に就かせようとしたが、士良はたびたび誠意を表して辞退し、再三許されず、ようやく命に応じた。文宣帝はその憔悴した様子を見て、遂にこれを許した。このため臥病すること数年、文宣帝はたびたび自ら見舞った。病が癒えると、滄州刺史に除された。乾明の初め、鄴に召還され、儀同三司を授けられた。孝昭帝が即位すると、三道の使者を遣わして人物を捜し揚げさせた。士良は 尚書令 しょうしょれい の趙郡王高睿・太常卿の崔昂と共に郡国に分かれて行き、わずかでも善行のある者は、ことごとく上聞に達した。齊の武成帝の初め、太子少傅・少師に除され、再び侍中となり、太常卿に転じ、間もなく開府儀同三司を加えられた。出て 州道行台・ 州刺史となった。

保定四年、 しん 公の宇文護が東征し、權景宣が山南の兵を率いて 州を包囲すると、士良は城を挙げて降伏した。大將軍・小 司徒 しと を授けられ、爵位を廣昌郡公と賜った。間もなく荊州總管となり、荊州刺史を代行し、再び入朝して小 司徒 しと となった。間もなく鄜州刺史に除され、荊州刺史に転じた。士良は郷里を離れて久しく、突然本州に臨むこととなり、耆老や故人でなお存命の者もあり、遠近ともにこれを栄誉とした。上大將軍を加授され、老病を理由に致仕を乞うたところ、優詔をもってこれを許された。開皇元年に卒去、時に八十二歳であった。

子の德衡は、大象の末、儀同大將軍であった。

論して曰く、昔、陽貨は外に叛き、庶其は邑を窃んだが、『春秋』はこれを譏った。韓信は項氏に背き、陳平は漢に帰したが、史遷はこれを美とした。およそ運命が既に安泰となり、君道が既に顕著である時は、利に殉じて徳を忘れる者は罪である。時に擾攘に逢い、臣禮が未だ備わらない時は、禍を転じて福となす者は可なり、という所以である。崔彥穆・楊纂・段永らは昔、山東に在り、下位に沈淪し、共に羈旅の士として、燕雀の伍に邅回したが、終に龜組を佩き、機を見る者と言えようか。令狐整は幹用確然として、雅望は河右に重く、州裏に処すれば勲は方隅に著しく、朝廷に昇れば績は出内に宣べられた。しかして権寵を畏避し、終吉を克く保った。然らずんば、何を以て自ら顕名を致し高位を取るを得んや。熙は職を歴て誉れ流れ、風政克く挙がり、古の循吏と雖も、何を以てこれに加えん。而して毫釐の爽いあり、丘山の過ちを成す、唯だ命なるか。唐永は良能の名、在る所に美を著し、清白の誉れ、累職に顕れ、所謂幹能の士である。瑾・敏は共に郷梓の林に挺で出で、瑚璉の器を蘊み、博く載籍を観、多く旧章を識り、固より国の名臣、時の領袖であり、周に君子無くんば、斯れ焉くにか斯れを取らん。王士良の齊に仕えること、職は卿牧に居りながら、忠と義を失い、難に臨んで苟くも免れんとす、その背叛の徒か。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻067