王傑、王勇、宇文虯、耿豪、高琳、李和(子の李徹)、伊婁穆、達奚寔、劉雄、侯植、李延孫、韋祐、陳欣、魏玄、泉仚、李遷哲、楊乾運、扶猛、陽雄、席固、任果
王傑は、金城郡直城県の人であり、本名は文達という。父の王巣は、北魏の榆中鎮将であった。王傑は若くして雄大な志を持ち、常に功名を自ら期した。孝武帝に従って西遷し、都昌県子の爵位を賜った。周の文帝(宇文泰)はその才能を奇異とし、かつて諸将に言った。「王文達は万人に匹敵する者である。ただ勇猛果敢すぎることを恐れるのみだ。」潼関の奪還、沙苑の戦いでの勝利、河橋の争奪、芒山の戦いに従軍し、いずれも勇敢さをもって知られた。親しく遇されること日増しに盛んとなり、ここに宇文氏の姓を賜り、爵位を公に進めた。累進して侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司となった。恭帝元年(554年)、于謹に従って江陵を包囲した。当時、柵内に長槊を巧みに用いる者がおり、登城する将士は多くがそのために殺された。于謹が王傑に命じてこれを射させると、弦の響きに応じて倒れた。登城する者たちはようやく入ることができ、遂にこれを陥落させた。于謹は言った。「我が大事を成し遂げさせたのは、貴公のこの一矢にある。」周の孝閔帝が即位すると、爵位は張掖郡公に進み、河州刺史となった。朝廷は王傑の勲功と声望が共に重いことを以て、故に本州(出身地に近い州)を授けたのである。後に随公楊忠と共に漢北より斉を討伐した。また斉公宇文憲に従って東進し、斉の将軍斛律明月を防いだ。位は柱国に進んだ。建德(572-578年)の初め、涇州総管に任じられ、頗る百姓に慕われた。宣帝が即位すると、上柱国に任じられた。薨去した。七州諸軍事・河州刺史を追贈され、鄂国公に追封され、諡を威といった。
子の王孝遷は、位は開府儀同大将軍に至った。
王勇は、代郡武川県の人であり、本名は胡仁という。若くして雄健で、胆力と決断力があった。侯莫陳悦・賀抜岳に従って数々の征討に加わり、功績が多くを占め、別将に任じられた。周の文帝が丞相となると、包信県子に封じられた。竇泰を生け捕りにすること、弘農を奪回すること、沙苑の戦いに従軍し、その気勢は諸軍を圧倒し、向かうところ必ず撃破した。周の文帝はその勇敢さを歎賞し、賞賜は特に厚く、爵位を公に進めた。大軍が不利となった時、胡仁及び王文達・耿令貴の三人のみが力戦し、いずれも殊勲があった。軍が帰還すると、上州刺史に任じられ、雍州・岐州・北雍州を胡仁らに授けることとした。しかし各州には優劣があるため、文(宇文泰)は令して籤を探らせて取らせた。胡仁は遂に雍州を得、文達は岐州を得、令貴は北雍州を得た。ここに胡仁に勇の名を、令貴に豪の名を、文達に傑の名を賜り、その功績を顕彰した。侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。恭帝元年(554年)、柱国趙貴に従って蠕蠕(柔然)を征討し、これを破り、爵位は新陽郡公に進み、庫汗氏の姓を賜った。また蠕蠕討伐の功績を論じ、別に永固県伯に封じられた。当時、別封を受ける者は、例として次子に回授することを聴されていたが、王勇は独り兄の子の王興に封じることを請い、当時の人はこれを義とした。まもなく位は大将軍に進んだ。王勇の性質は雄猛で、当時の 驍 将であった。功を誇り善を称え、人の悪を論じることを好み、当時の論議もまたこれを以て軽蔑した。柱国侯莫陳崇は勲功高く声望重く、諸将と共に晋公宇文護に謁見した時、王勇がしばしば人の短所を論じるのを聞き、衆人の面前でこれを折り辱めた。王勇は慚愧し憤恥し、背中に癰が発して卒した。
子の王昌が嗣いだ。官は大将軍に至った。
宇文虯は、字を楽仁といい、代郡武川県の人である。 驍 勇で悍猛、胆略があった。若くして征討に従い、累ねて戦功があり、南安侯に封じられた。孝武帝が西遷すると、独孤信を行台とし、信は宇文虯を引き立てて帳内 都督 とした。独孤信に従って梁に奔った。大統三年(537年)に朝廷に帰還し、爵位を公に進めた。竇泰を生け捕りにし、弘農を奪回し、及び沙苑・河橋の戦いにおいて、いずれも功績があった。また独孤信に従って梁の仚定を討ち、これを破った。累進して南秦州刺史・驃騎大将軍・開府儀同三司となった。宇文虯は戦陣を経るごとに、必ず自ら士卒に先んじたため、上下心を同じくし、戦えば克たざるはなかった。後に金州刺史・大将軍に任じられた。卒去した。
耿豪は、钜鹿郡の人であり、本名は令貴という。その先祖は武川に居住した。耿豪は若くして粗獷で、武芸があり、気勢を以て人を凌ぐことを好んだ。賀抜岳が西征する時、引き立てて帳内とした。賀抜岳が害されると、周の文帝(宇文泰)に帰順し、武勇をもって知られた。耿豪もまた自ら仕えるに足る主君を得たと謂った。侯莫陳悦の討伐及び孝武帝の迎え入れに従い、前後の功績を記録され、平原子に封じられた。沙苑の戦いでは、耿豪は殺傷甚だ多く、血が甲冑と戦袍を染めて尽く赤くなった。周の文帝は歎じて言った。「令貴は武猛で、向かうところ前進を阻むものなく、その甲冑と戦袍を見れば、以て証と為すに足り、更に級数を論ずる必要はない。」爵位を公に進めた。周の文帝に従って芒山で戦った時、耿豪は配下の者に言った。「大丈夫、賊を除くには、右手で刀を抜き、左手で槊を把り、直ちに斬りつけ直ちに刺し、慎んで死を畏れることなかれ。」遂に大声をあげて独り敵中に入り、敵人の鋒刃が乱れ下る中、当時は皆耿豪が死んだと思った。俄かに奮って刀を揮い帰還した。数合戦い、耿豪の前に当たる者は死傷相継いだ。また左右の者に言った。「我は豈に人を殺すことを楽しむものか。ただ壮士として賊を除くには、已むを得ずして然るのみ。若し賊を殺すことができず、また人に傷つけられもせぬならば、座を追う人と何の異なることがあろうか!」周の文帝はこれを賞賛した。北雍州刺史に任じ、和稽氏の姓を賜った。位は侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。耿豪の性質は凶悍で、言葉多く不遜であり、周の文帝はその 驍 勇を惜しみ、常に寛容に扱った。耿豪もまた自ら意気は群を冠すと謂い、終に屈するところがなかった。李穆・蔡祐は初め耿豪と同時に開府となったが、後に共に耿豪の上位に居た。耿豪は平らかでなく、周の文帝に言った。「世間の物議は、耿豪が李穆・蔡祐に勝ると謂います。」周の文帝が「どうしてそう言うのか」と問うと、耿豪は言った。「人が言うには、李穆・蔡祐は丞相の肩と腿、耿豪・王勇は丞相の咽喉と首筋、上位にある故に勝るというのです。」耿豪の粗猛さは皆この類いであった。卒去すると、周の文帝は痛惜した。
子の耿雄が嗣いだ。位は大将軍に至った。
高琳は、字を季瑉といい、その先祖は高麗の人である。燕に仕え、また魏に帰順し、羽真氏の姓を賜った。高琳の母がかつて泗水の畔で 祓禊 を行った時、一つの石に出会い、光彩朗らかで潤いがあったので、遂に持って帰った。その夜、衣冠を整えた仙人のような者が夢に現れ、言った。「夫人が先ほど持って来られた石は、浮磬の精です。若し能く宝として持ち続ければ、必ず優れた子を生むでしょう。」母は驚いて目覚め、全身に汗を流した。間もなく懐妊し、生まれた時に、因って琳と名付け、字を季瑉とした。孝武帝に従って西遷し、钜野県子に封じられた。河橋の戦役では、高琳の勇猛は諸軍の冠であった。周の文帝は言った。「貴公は即ち我が韓信・白起である。」また芒山の戦いに従い、正平郡太守に任じられた。斉の将軍東方老が来寇すると、高琳はこれを撃った。東方老は数か所の創傷を負ってようやく退き、その左右の者に言った。「我は戦陣を多く経てきたが、未だかってこのような健児を見たことがない。」後に鄜州刺史に任じられ、驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中を加えられた。周の孝閔帝が即位すると、爵位は犍為郡公に進んだ。武成二年(560年)、文州の氐を討ち平らげた。軍が帰還すると、帝は群公卿士を宴し、詩を賦して志を言わせた。高琳の詩の末章に云う。「竇車騎に言を寄せ、謝すに霍将軍を以てせん。何を以てか天子に報いん?沙漠静かに妖気を収めんと。」帝は大いに喜び言った。「獯鬻・獫狁(北方異民族)が跳梁跋扈し、未だ時に及んで塞に 款 わぬ。卿の言に験あらば、国の福である。」天和三年(568年)、江陵副総管となった。当時、陳の将軍呉明徹が来寇し、総管田弘と梁主蕭巋は出て紀南城に保ったが、唯だ高琳と梁の僕射王操のみが江陵の三城を固守してこれに抗した。昼夜拒み戦い、凡そ十旬を経て、呉明徹は退走した。蕭巋がその状況を上表して言上すると、帝は優詔を以て高琳を追って入朝させ、親しく労い問うた。六年(571年)、位は柱国に進んだ。薨去した。本官を追贈され、五州諸軍事・冀州刺史を加えられ、諡を襄といった。
子の高儒が爵位を襲った。位は儀同大将軍に至った。
李和は、本名を慶和といい、朔方郡岩緑県の人である。父の僧養は、累代にわたって豪雄であり、夏州の酋長となった。和は若くして勇敢で識見と度量があり、容貌は魁偉で、州里の人々に推された。賀抜嶽が関中に鎮すると、帳内 都督 に抜擢された。後に周の文帝(宇文泰)に従い、累進して侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・夏州刺史となり、宇文の姓を賜った。周の文帝はかつて諸将に言った、「宇文慶和は累代にわたり重任を委ねられ、常に我が意にかなう」と。また名を「意」と賜った。永豊県公に改封された。保定二年(562年)、司憲中大夫に任じられた。まもなく徳広郡公に改封され、洛州刺史として出向した。和は以前夏州にいた時、多くの遺愛を残しており、この任を受けると、商州・洛州の父老は皆その徳音を慕った。和が州に着くと、仁恕をもって民を導き、訴訟は簡素で静かになった。柱国大将軍に進んだ。隋の開皇元年(581年)、上柱国に昇った。和は剛直で簡素な人柄であり、老いてますます励み、諸子が仕える様は厳しい君主に奉ずるようであった。意という名は周の文帝が賜ったものであるが、帝の朝廷はすでに革まり、慶和は父が命じた名であり、義理としてこれを違えることはできない。ここに至って、遂に和を名とした。二年(582年)、薨去した。本官のまま 司徒 公を加贈され、諡して粛といった。子の徹が後を嗣いだ。
徹は字を広達という。性質は剛毅で、器量と才幹があった。周の武帝の時、皇太子に従って西征し吐谷渾を討ち、功により周昌県男の爵位を賜った。武帝に従って北斉を平定し、前後の功績を記録され、再び爵位を進めた。左武衛将軍に遷った。隋の晋王楊広が 并 州を鎮守する時、王府の官属を精選し、詔によって徹が晋王府の軍事を総管し、爵位を斉安郡公に進めた。時に蜀王楊秀も益州を鎮守しており、文帝は侍臣に言った、「どうして王子相(文官)のような文と、李広達のような武を得ることができようか」と。そのように重んじられた。翌年、突厥の沙鉢略可汗が辺塞を侵犯したので、文帝は衛王楊爽を元帥としてこれを撃たせ、徹を長史とした。白道で虜(突厥)と遭遇し、行軍総管の李充が襲撃を請うた。諸将の多くは疑ったが、徹だけがこれを奨励し、同行を請い、遂に掩撃して大破した。沙鉢略は身に着けていた金の甲冑を棄てて遁走した。功により上大将軍を加えられた。沙鉢略はこのため藩属を称した。安道郡公に改封された。開皇十年(590年)、位を柱国に進めた。晋王が揚州総管となると、徹を司馬とし、徳広郡公に改封した。まもなく城陽郡公に徙封された。その後、突厥が辺塞を侵犯すると、徹は再び行軍総管を兼ねてこれを撃破した。左僕射の高熲が罪を得ると、徹は平素から熲と親しかったため、疎まれ忌まれるようになった。後に怨言を口にしたので、文帝は聞きつけ、臥内に召し入れて宴を賜い、平生のことを語り合ったが、その際に毒を盛られて卒した。大業年間(605-618年)、その妻の元氏が庶子の安遠に呪詛の罪で誣告され、誅殺された。
伊婁穆は、字を奴幹といい、代郡の人である。父の霊は、騎射に優れ、周の文帝(宇文泰)に知られ、かつて言われた、「もし伊尹が殷で阿衡となり、主を堯・舜に致したように。卿は既に伊の姓を持つ。卿が前の業績を廃さないことを望む」と。そこで名を尹と賜った。衛将軍・隆州刺史・盧奴県公を歴任した。穆は弱冠で周の文帝の帳内親信となり、機知と弁舌で知られた。中書舎人・通直 散騎常侍 を歴任した。かつて事を奏上しに行くと、周の文帝は遠くから見て喜び、字を呼んで言った、「奴幹が儀同の面で我に会うようになった」と。そこで儀同三司に任じ、安陽県伯に封じられた。周の孝閔帝が即位すると、位を驃騎大将軍に進めた。建徳年間(572-578年)に卒した。
達奚寔は、字を什伏代といい、河南洛陽の人である。父の顕相は、武衛将軍であった。寔は若くして行いを修め、才幹と器量があった。魏の孝武帝に従って西遷し、臨汾県伯に封じられた。周の文帝に従って竇泰を生け捕りにし、弘農を回復し、沙苑で破り、いずれも力戦して功があった。累進して相府従事中郎となった。寔の性質は厳重で、深く器重された。六官が建てられると、蕃部中大夫を代行し、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、爵位を平陽県公に進めた。周の保定初年(561年)、刺史の任上で卒した。諡して恭といった。子の豊が後を嗣いだ。
劉雄は、字を猛雀といい、臨洮郡子城県の人である。若くして機知と弁舌に富み、慷慨として大志があり、初め周の文帝(宇文泰)の親信となり、後に中大夫兼中書舎人に任じられ、宇文の姓を賜った。周の孝閔帝が即位すると、大 都督 を加えられた。天和年間(566-572年)、累進して驃騎大将軍・開府儀同三司となり、周昌侯に封じられた。納言・内史中大夫・候正の官を歴任した。武帝はかつてゆったりと彼に言った、「古人云う、'富貴にして故郷に帰らざれば、錦を衣て夜行くが如し'と」と。そこで雄を河州刺史とした。雄は先に既に本県の県令となっており、この任を受けたので、郷里の人々はこれを栄誉とした。皇太子が西征して吐谷渾を討つ時、雄は涼州から滕王楊道に従って先に入り、功績が多かったため、上開府儀同三司を加えられた。 并 州平定に従い、上大将軍に任じられ、爵位を趙郡公に進めた。 鄴城 を平定し、柱国に進んだ。宣政元年(578年)、突厥が幽州を寇した時、雄は戦死した。亳州総管を追贈された。
子の升が後を嗣いだ。雄が王事に死んだため、儀同大将軍を授けられた。
侯植は、字を仁幹といい、その先祖は上穀郡の人である。高祖の恕は、北地郡太守となり、子孫は北地郡の三水県に住むようになった。植は若くして倜儻(風采堂々)で、大節を持ち、容貌は奇偉、武芸は絶倫であった。魏に仕えて義州刺史となり、甚だ政績があった。後に孝武帝に従って西遷し、侯伏侯の姓を賜った。周の文帝に従って沙苑を破り、河橋で戦い、大 都督 に進んだ。涼州刺史の宇文仲和が州を拠って反逆すると、植は開府の独孤信に従って討伐しこれを生け捕りにし、肥城県公に封じられ、賀屯の姓を賜った。後に于謹に従って江陵を平定し、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、別に一子を氵開源県伯に封じた。周の孝文帝(宇文覚)が即位すると、爵位を郡公に進めた。時に帝は幼少であり、晋公の宇文護が政権を執っていた。植の従兄の龍恩は護に親しまれた。護が趙貴を誅殺した時、諸宿将の多くは自ら安んじなかった。植は従兄の龍恩に言った、「主上は年齢が既に盛んである。安危は数公(宇文護ら)にかかっている。もし多く誅戮し、自ら威権を立てるならば、ただ社稷が累卵の危うきがあるだけでなく、我が宗族もこれによって敗れる恐れがある。兄はどうして知りながら言わないのか」と。龍恩は結局用いなかった。植はまた隙を見て護に言った、「公は骨肉の親として、社稷の寄託を担っている。願わくば王室に誠を推し、伊尹・周公の跡を擬してほしい。そうすれば天下は幸甚である」と。護は言った、「我は身を以て国に報ずることを誓っている。卿はまさか我に他の志があると思っているのか」と。また彼が先に龍恩に言ったことを聞き、ひそかに忌むようになった。植は禍を免れないことを恐れ、遂に憂いのうちに卒した。大将軍・平州刺史を追贈され、諡して節といった。子の定が後を嗣いだ。護が誅殺されると、龍恩とその弟の万壽は共にその禍に連座した。武帝は植が朝廷に忠誠であったため、特にその子孫を赦免した。
李延孫は伊川の人である。父の長壽は性格が雄豪で、若い頃より蛮族の酋長と結託し、闕南を侵掠した。北魏の孝昌年間、朝廷は彼が乱を起こすことを恐れ、長壽を防蛮 都督 に任じ、鼓節を与えた。長壽はその智力を尽くして群蛮を防遏し、伊川の周辺では寇盗がこれによりやや鎮まった。永安年間以後、長壽の徒侶は日増しに盛んとなり、魏帝はその力を用いようとし、これにより彼を慰撫した。累遷して北華州刺史となり、清河郡公の爵位を賜った。孝武帝が西遷すると、長壽は義士を率い励まして東魏を拒んだ。後に広州刺史となった。東魏が行台の侯景を派遣して攻撃すると、城は陥落し、害に遇った。太尉を追贈された。延孫もまた雄武で、将帥の才略があり、若くして長壽に従い征討し、勇敢さで知られた。賀拔勝が荊州刺史となった時、延孫を 都督 に推挙し、鵶路を肅清するのに大いに力を発揮した。長壽が害に遇うと、延孫は帰還し、その父の衆を収集した。孝武帝が西遷して後、朝廷の士人は流亡した。広陵王欣、録尚書の長孫承業、穎川王斌之、安昌王子均および建寧、江夏、隴東の諸王並びに百官らが妻子を携えて延孫に投じた者は、即ち衆を率いて護衛し送り、珍玩を贈って皆関中に到達させた。斉の神武帝はこれを深く憂い、行台の慕容紹宗らを数道に分けて攻撃させたが、延孫はこれを大破した。そこで延孫に京南行台、河南諸軍事を節度する広州刺史を授けた。まもなく車騎大将軍、儀同三司、大 都督 に進み、華山郡公の爵位を賜った。延孫は重い任に蒙った後、常に伊・洛を克清することを己の任務とし、頻りに寡をもって衆を撃ち、威は敵境に振るった。大統四年、その長史の楊伯蘭に害された。 司空 を追贈された。
子の人傑は、祖父・父の風があった。官は開府儀同三司に至り、潁川郡公に改封された。
韋祐は字を法保といい、京兆山北の人である。字をもって行われる。州郡の著姓であり、父の義は上洛郡守であった。西魏の大統年間、法保の著しい勲功により、秦州刺史を追贈された。法保は若い頃より遊侠を好み、質直で言葉少なく、交遊した者は皆軽薄で命知らずであった。父が没すると、母に仕えて孝行で知られた。李長壽の為人を慕い、遂にその娘を娶り、闕南に寓居した。正光末年、王公で難を避ける者が彼に依ったが、多くは全うされ救われたため、これにより貴遊の者から徳とされた。孝武帝が西遷すると、法保は行在所に赴き、固安県男に封じられた。長壽が害に遇うと、その子の延孫が長壽の余衆を収集し、東境を守禦した。朝廷は延孫の兵が少ないことを恐れ、法保を東洛州刺史に任じ、兵数百を配して延孫を援けさせた。法保が潼関に至ると、弘農郡守の韋孝寬が言うには、「子のこの役は、吉をもって還ることは難しいであろう」と。法保は言うには、「古人は獣穴に入らざれば獣子を得ずと称した。安危の事は、未だ預め量るべからず」と。遂に倍道兼行した。延孫の兵と合流すると、乃ち力を併せて伏流に柵を置いた。間もなく、周の文帝は法保と延孫を追って朝廷に還らせ、賞労は甚だ厚かった。河南尹に任じられた。延孫が害に遇うと、法保は乃ち配下を率いて延孫の旧柵を占拠した。かつて東魏と戦った。流れ矢が首に中り、口の中から出て、久しくしてようやく蘇った。大統九年、九曲城を鎮守した。侯景が 豫 州を付して帰附すると、法保は兵を率いて赴いた。景は彼を留めようとしたが、法保は彼に二心あることを疑い、固く辞して鎮守地に還った。十五年、驃騎大将軍、開府儀同三司を加えられ、まもなく爵位を公に進めた。時に東魏が軍を派遣して宜陽に糧饋を送ろうとしたので、法保は密かに邀撃し、流れ矢に中り、陣中で卒した。諡して莊という。
子の初が嗣いだ。位は開府儀同大将軍、閻韓防主に至った。
陳欣は字を永怡といい、宜陽の人である。若い頃より 驍 勇で気侠があり、姿貌は魁岸で、同類は皆敬い畏れた。孝武帝が西遷した後、欣は辟悪山において勇敢な少年を招集し、東魏を寇掠し、なお密かに使者を遣わして帰附した。立義大 都督 を授けられ、霸城県男の爵位を賜った。累遷して宜陽郡守となった。恭帝二年、位を驃騎大将軍、開府儀同三司に進め、侍中、宜陽邑大中正を加えられ、尉遅氏の姓を賜った。周の文帝は欣が累年にわたり著しい功績を挙げたことを以て、その祖父の昆及び父の興孫に共に儀同三司、刺史の位を追贈した。東魏の洛州刺史の獨孤永業は智謀ありと号され、境上を往来したが、欣と韓雄らは常に間諜をしてその動静を覗わせ、斉兵が来る度に、これを破ったので、永業は欣らを深く畏憚し、敢えて寇とすることがなかった。周の孝閔帝が践祚すると、許昌県公に爵位を進めた。後に熊州刺史に任じられ、州において卒した。欣と韓雄は里閈姻婭の間柄で、若い頃より親昵し、共に境上で兵を総べること三十余載に及んだ。防禦する度に、二人は互いに赴き合い、常に影と響の如くであった。故に数度強敵に対しても、常に功名を保った。共に武力はあったが、強弓を引き射て中てることについては、欣は雄に及ばず、財を散じ恵を施して士衆の心を得ることについては、雄は欣に及ばなかった。身が死んだ日、将吏はその恩徳を蒙り、感慟しない者はなかった。
子の萬敵が嗣いだ。朝廷は欣が雅に士心を得ていたことを以て、萬敵にその部曲を領させるよう命じた。
魏玄は字を僧智といい、その先祖は任城の人であったが、後に新安に徙った。玄は若い頃より慷慨で胆略があった。孝武帝が西遷し、東魏が北に徙ると、人情は各々去就を懐いたが、玄は常に郷兵を率いて東魏に抗拒した。芒山の役では、大軍は利あらず、宜陽、洛州は皆東魏の守るところとなったが、玄の母と弟は共に宜陽にいた。玄は忠孝両立せずと以為い、義徒を率いて闕南に還り鎮撫した。周の文帝は手書をして彼を労った。洛陽令に任じられ、広宗県子に封じられた。北周の保定元年、累遷して驃騎大将軍、開府儀同三司に至り、閻韓を鎮守した。熊州刺史に遷り、政は簡恵を旨とし、百姓はこれを悦んだ。和州刺史、伏流防主に転じ、爵位を公に進めた。斉の将の斛律明月が衆を率いて宜陽に向かい、兵威が甚だ盛んとなった時、玄は衆を率いてこれを防ぎ、戦う度に克った。後に疾により任上で卒した。
泉仚は、字を思道といい、上洛郡豊陽県の人である。代々商洛地方に勢力を張り、晋が東遷してからは、常に貢物を江東(南朝)に属して献じていた。曾祖父の景言は、北魏の太延五年に郷里を率いて帰順し、さらに王師を導いて商洛を平定した。建節将軍に任じられ、宜陽郡守を仮(兼任)し、本県の県令を世襲し、丹水侯に封ぜられた。父の安志は、また建節将軍・宜陽郡守となり、本県令を領し、爵位を伯に降格された。泉仚は九歳で父を失い、哀傷のあまり身を毀す様は成人のようであった。喪が明けて爵位を襲い、十二歳の時、郷里の皇平・陳合ら三百余人が州に赴き、泉仚を県令とするよう請願した。州がこれを上申した。当時、吏部尚書の郭祚は泉仚が年少であることを理由に、別に選んで派遣し、この一任期を終えたら、泉仚に代えさせるよう請うたが、宣武帝は詔を下し、皇平等の請願に従うことを命じた。巴の風俗は道教を奉じ、特に老子の術を重んじた。泉仚は幼少ながらも、学問を好み恬静であり、百姓は安んじた。まもなく母の喪のため職を去った。県中の父老が再び上表して元の任に復するよう請願した。後に上洛郡守に任ぜられた。蕭宝夤が反乱を起こすと、兵を青泥に向かわせ、上洛を奪取しようと図り、豪族の泉・杜の二姓が密かにこれに応じた。泉仚は刺史の董紹とともに襲撃し、二姓は散り散りに逃げ、蕭宝夤も退却した。淅州刺史に転じ、別に涇陽県伯に封ぜられた。永安年間、順陽において梁の将軍王玄真を大破し、東雍州刺史に任ぜられ、爵位を侯に進めた。管轄下の者に楊羊皮という者がいた。太保の楊椿の従弟で、楊椿を恃みとして百姓を侵擾した。地方官の多くはその陵辱を受け、皆畏れて敢えて言わなかった。泉仚は彼を捕らえ、極刑に処そうとした。楊氏は慚愧し恐れ、一族を挙げて恩赦を請うた。これ以降、豪族や権勢家で敢えて犯す者はなくなった。性質はまた清廉で倹約し、些細なことでも人を煩わさなかった。州に在ること五年、常に郷里から米を運んで自給した。梁の魏興郡は洛州と接壤しており、内属を願い出た。詔により泉仚を行台尚書としてこれを慰撫受け入れさせた。大行台の賀抜岳は、泉仚がかつて東雍州を治め、官吏や民衆に慕われていたことから、上表して泉仚を再び刺史とするよう請うた。詔はこれを許した。蜀人の張国俊が徒党を集めて略奪を働き、州郡は制御できなかったが、泉仚は彼を捕らえて誅し、管内は清く粛然とした。
斉の神武帝(高歓)が政権を専断すると、孝武帝(北魏の孝武帝元脩)には西顧(関中への遷都)の志があり、山南の事を泉仚に委ねようとし、洛州刺史に任じた。間もなく、帝は西遷した。斉の神武帝が衆を率いて潼関に至ると、泉仚はその子の元礼を遣わしてこれを防がせ、神武帝は進むことができなかった。上洛郡の 都督 の泉岳、その弟の猛略と拒陽県の杜窋らが謀り、洛州を覆して東魏に応じようとした。泉仚はこれを知り、泉岳と猛略を殺し、その首を都に送った。大統元年、開府儀同三司を加えられ、尚書右僕射を兼ね、爵位を上洛郡公に進めた。泉仚は志尚が廉潔で慎み深く、官に任ぜられる度に、憂いの色を見せ、寝食は常に減じた。この時も頻りに辞退したが、魏帝(西魏の文帝)は手詔を下して許さなかった。三年、高敖曹が州城を包囲攻撃し、杜窋がその郷導(案内役)となった。泉仚は防戦すること十余日、矢は尽き援軍は絶え、城はついに陥落した。泉仚は高敖曹に言った、「泉仚は力尽きたが、志は服さない」。竇泰が捕らえられると、高敖曹は退却し、泉仚を捕らえて東へ行き、杜窋を刺史とした。泉仚は出発に際し、密かに二子の元礼と仲遵に戒めて言った、「我が平生の志望は、せいぜい県令・郡守に過ぎなかったが、幸いに聖代に逢い、位は台司(三公)に次ぐまでになった。今や爵禄も高く、年齢もまた老いた。前途の平穏と危険は、おおよそ推し量れよう。汝らは功績を立てるに堪える者である。私が東にいるからといって、臣下の節を損なってはならない」。そして涙を揮って別れた。聞く者は誰も憤慨し嘆息しなかった者はない。まもなく鄴で卒去した。
元礼は若くして志気があり、弓馬を好み、やや草書・隷書に通じ、士君子の風があった。臨洮県伯の爵位と 散騎常侍 の官を賜った。洛州が陥落すると、父の泉仚と共に捕らえられて東へ行った。元礼は途中で逃げ帰った。当時、杜窋が刺史であったが、巴人は元来杜氏を軽んじ泉氏を重んじていた。元礼が到着し、仲遵と相見えると、父の臨別の言葉に感じ、密かに豪族と結託し、遂に郷人を率いて州城を襲撃し、杜窋を斬り、その首を長安に送った。朝廷はこれを嘉し、代襲して洛州刺史とした。周文帝(宇文泰)に従って沙苑で戦い、流れ矢に当たって卒去した。子の貞が嗣いだ。
仲遵は一名を恭という。幼少より謹み深く実直で、経史に広く通じた。十三歳で郡主簿となり、十四歳で県令となった。成長すると武芸があった。高敖曹が洛州を攻めた時、泉仚と力を合わせて防戦した。矢が尽きると、棒杖で防ぎ、流れ矢が目に当たり、再び戦うに堪えなくなった。城が陥落した時、士卒は嘆いて言った、「もし二郎(仲遵)が傷ついていなければ、ここまでにはならなかったであろうに」。泉仚が東行する際、仲遵は傷を負っていたため同行しなかった。後に元礼と共に杜窋を斬り、功により豊陽県伯に封ぜられ、東 豫 州刺史となった。元礼が戦死すると、再び仲遵を洛州刺史とした。大いに名声を得た。大統十三年、荊州刺史の事務を行った。梁の司州刺史の柳仲礼がたびたび辺境を寇したため、周文帝は仲遵に郷兵を率い、開府の楊忠に従ってこれを討つよう命じた。梁の随郡守の桓和が防戦して降らなかった。楊忠は諸将に言った、「まず柳仲礼を取れば、桓和は攻めなくても自ら服するであろう」。仲遵は答えて言った、「もし桓和を捨てて深く入れば、柳仲礼はすぐには捕らえられず、首尾ともに敵を受けることになり、これは危険な道です」。楊忠はこれに従った。仲遵は計略が自分から出たものであるからと、先ず城に登り、遂に桓和を捕らえた。柳仲礼を撃つことに従い、また彼を捕獲した。驃騎大将軍・開府儀同三司・本州大中正に進み、再び荊州刺史・十三州諸軍事の事務を行った。まもなく母の喪に遭い、喪に服し終えることを請うたが、許されなかった。大将軍の王雄が上津・魏興を南征した時、仲遵は王雄に従ってこれを討ち平らげた。そこで上津に南洛州を設置し、仲遵をその刺史とした。仲遵は心を留めて撫育接遇し、百姓は安んじた。
初め、蛮の首帥の杜青和が自ら巴州刺史と称し、州を挙げて帰附した。朝廷はその占拠する所に因ってこれを授け、依然として東梁州 都督 に隷属させた。杜青和は仲遵が撫御に長けていることを理由に、仲遵に隷属することを請うた。朝廷の議論では山川の便が良くないとして、これを許さなかった。杜青和はそこで安康の酋帥の黄衆宝らと結び、兵を挙げて共に東梁州を包囲した。再び王雄を遣わしてこれを討ち平らげ、巴州を洵州と改め、仲遵に隷属させた。以前、東梁州刺史の劉孟良は在職中貪婪で、多くの人が背叛していた。仲遵は清廉簡素をもってこれに臨み、群蛮の首帥は服した。仲遵は巴夷の出自ではあったが、方正で雅やかな操行を持ち、歴任した所では、皆清廉潔白をもって称された。朝廷はまたその父が危難に臨んで節を抗したことを考慮し、上洛郡公の爵位を襲封することを命じ、旧封(豊陽県伯)は一子に回授することを聴許した。まもなく 都督 ・金州刺史として出向した。任地で卒去した。大将軍・三州刺史を追贈され、諡を莊といった。
子の暼恆が嗣いだ。位は開府儀同大将軍に至った。
李遷哲は、字を孝彥といい、安康郡の人である。代々山南の豪族で、江左(南朝)に仕えた。父の元直は梁に仕え、東梁・衡の二州刺史、 散騎常侍 、沌陽侯を歴任した。遷哲は若くして行いを修め、識見と度量があり、慷慨として謀略に長じ、文德主帥として出仕した。父が衡州刺史となった時、遷哲を本郷に留め、部曲の事を統轄させた。当時二十歳で、群下を撫育統御し、大いにその実情を得た。後に沌陽侯の爵位を襲ぎ、 都督 ・東梁州刺史の位に至った。侯景が 簒 逆を起こすと、遷哲は外では辺境の寇を防ぎ、自ら守るのみであった。大統十七年、周文帝が達奚武・王雄らを遣わして山南の地を攻略させた。遷哲は軍を敗り、遂に達奚武に降った。しかしなお意気自若としていた。達奚武は彼を捕らえて京師に送った。周文帝は早く帰国しなかったことを責めた。答えて言った、「死節することができず、実にこれを愧じるのみです」。周文帝は深くこれを嘉し、沌陽県伯に封じた。
恭帝の初め、直州の人楽熾、洋州の人黄国らが連結して乱を起こした。周の文帝は遷哲が山南で信望があることを知り、開府の賀若敦とともに経略するよう命じた。熾らはまもなく平定され、遷哲は敦とともに南に出て土地を巡行した。遷哲は先に巴州に至り、その城郭に入った。梁の巴州刺史牟安人は門を開いて降伏を請うた。安人の子の宗徹らはなお巴城を拠点として降伏せず、遷哲はこれを攻め落とした。軍は鹿城に駐屯し、城主は使者を遣わして降伏を請うた。遷哲は配下に言った、「降伏を受け入れるのは敵を受けるがごとし。我、その使者を見るに、視線がなお高く、偽りはないか?」遂に許さなかった。梁人は果たして道の左に伏兵を設けて遷哲を迎え撃とうとしたが、遷哲は進撃してこれを破り、遂にその城を屠った。ここより巴・濮の人は、降伏の申し出が相継いだ。軍が帰還すると、周の文帝は自ら着用していた紫袍玉帯及び乗馬を賜い、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加授し、真州刺史に任じた(即ち本州である)。さらに軍儀の鼓節を与え、田弘とともに信州を討つよう命じた。時に信州は蛮酋の向五子王らに包囲されており、弘は遷哲を救援に赴かせた。遷哲が到着する前に、信州は既に陥落していた。五子王らは遷哲の到着を聞き、狼狽して遁走した。遷哲は白帝を占拠し、賀若敦らもまた到着したので、共に五子王らを追撃してこれを破った。田弘が軍を返すと、周の文帝は遷哲に白帝に留まって鎮守するよう命じた。信州には元より倉庫がなく、軍糧が欠乏していた。遷哲は葛根を収めて粉を作り、米と合わせて供給し、自らもまたこれを取って食した。時に珍しい食事があれば、即ち兵士に分け与えた。病気の者があれば、また自ら医薬を加えた。これにより軍中は感激し、人は命を捧げようと思った。黔陽の蛮である田烏度・田烏唐らはしばしば江中で略奪し、百姓の患いとなっていた。遷哲は機に応じて討伐に出て、多くを殺し討った。これにより諸蛮はその威を畏れ、それぞれ糧食を送った。また子弟を人質として送る者が千余家あり、遷哲は白帝城外に城を築いて彼らを住まわせた。併せて四鎮を置き、峡路を静めた。ここより寇掠は頗る止み、軍糧は充足した。周の明帝の初め、 都督 ・信州刺史を授けられた。二年、爵位を西城県公に進めた。武成元年、京師に朝見した。明帝は大いに礼遇し、甲第及び庄田などを賜った。天和三年、位を大将軍に進めた。詔により遷哲は金州・上州などの諸州の兵を率いて襄陽を鎮守した。五年、陳の将軍章昭達が江陵を攻め迫り、梁の明帝が襄州に急を告げた。衛公の直は遷哲に救援に向かうよう命じた。遷哲は配下を率いて江陵の外城を守り、自ら騎兵を率いて南門から出撃し、また歩兵に北門から出撃させ、両軍が首尾で挟撃すると、陳人は多く水に投じて死んだ。この夜、陳人はまた密かに城西の堞に梯子をかけて登城し、登った者は既に百数人に及んだ。遷哲はまた 驍 勇を率いて防ぎ、陳人はまた潰走した。間もなく大風暴が起こり、遷哲は暗闇に乗じて出兵してその陣営を撃つと、陳人は大いに乱れ、殺傷甚だ多かった。江陵総管の陸騰がまた西堤でこれを破り、陳人は遂に逃げ去った。建徳二年、爵位を安康郡公に進めた。三年、襄州で卒去した。金州総管を追贈され、諡して壮武といった。
遷哲は累代にわたり雄豪で、郷里に敬服された。性格はまた華美で奢侈を好み、自らの養生を厚くすることができた。妾媵は百数人に及び、男女六十九人を儲けた。漢水沿い千余里の間に、第宅が相次ぎ、子を産んだ姬媵はそれぞれその中に分かれて住み、それぞれに僮僕・侍婢・閽人が守護した。遷哲は毎回笳を鳴らして先導・従者を従え、その間を往来し、酒を傾けて歓宴し、生来の楽しみを尽くした。子孫が拝謁に来ても、その年齢や名前を忘れることがあり、簿を開いて確認した。
長子の敬仁は、遷哲より先に卒去した。第六子の敬猷が嗣ぎ、父の兵を統率し、位は儀同大将軍に至った。
遷哲の弟の顕は、位上儀同大将軍に至った。
楊乾運は、字を玄邈といい、儻城興勢の人である。若くして雄武で、郷里に信服された。安康郡守となった。梁に陥り、潼・南梁二州刺史を歴任した。武陵王蕭紀が尊号を称すると、乾運が巴・渝を威服させたことから、梁州刺史に任じ、潼州を鎮守させ、万春県公に封じた。時に紀はその兄の湘東王蕭繹と帝位を争い、乾運の兄の子の楊略が乾運に帰順するよう勧め、乾運はこれを認めた。折しも周の文帝が乾運の孫の法洛を遣わしたので、略は即ち夜に送り届け、乾運は帰順の意を示した。周の文帝は密かに乾運に鉄券を賜い、開府儀同三司・侍中・梁州刺史・安康郡公を授けた。尉遅迥が蜀を征討すると、遂に迥に降った。迥はこれにより進軍して成都を攻め、数十日でこれを陥落させた。京師に至ると、礼遇は厚かった。まもなく長安で卒去した。尚書右僕射を追贈された。子の楊端が嗣いだ。略もまた帰順の功により、位は開府儀同三司・大将軍に至り、上庸県伯に封じられた。
乾運の女婿の楽広は、安州刺史となり、安康県公に封じられた。
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扶猛は、字を宗略といい、上甲黄土の人である。その種族は白獣蛮と号した。猛は梁に仕え、位は南洛・北司二州刺史に至り、宕梁県男に封じられた。魏の廃帝元年、配下を率いて降伏した。周の文帝は手厚く慰撫して受け入れ、再び宕渠県男の爵位を与え、二郡を割いて羅州とし、猛を刺史とした。開府の賀若敦に従って信州を南討するよう命じた。敦は猛に白帝への直道を行かせたが、通る道は人跡不通であった。猛は山に梯をかけ葛をつかみ、艱難辛苦を遍く経て、遂に白帝に入った。人々や夷族を慰撫すると、喜んで帰附しない者はなかった。功により開府儀同三司に進んだ。まもなく信州の蛮が反乱し、猛はまた賀若敦に従ってこれを平定し、爵位を臨江県公に進めた。後に田弘に従って漢南の諸蛮を破り、位を大将軍に進めた。卒去した。
陽雄は、字を元略といい、上洛邑陽の人である。累代の豪族である。父の陽猛は、孝武帝に従って西遷し、功により郃陽伯に封じられ、征東将軍・揚州刺史の位に至った。雄は奉朝請より起家し、軍功により安平県侯に封じられた。子孫相襲で邑陽郡守に拝されることを得た。累進して平州刺史となり、爵位を玉城県公に進め、開府儀同三司・驃騎大将軍を加えられた。京兆尹・戸部中大夫を歴任し、位を大将軍に進め、中外府長史に転じ、江陵総管に遷り、魯陽県公に改封された。任地で卒去した。郡公を追封され、諡して懐といった。雄は付会(時勢に合わせる)ことが巧みで、自らの身を謀ることができたため、任は内外を兼ね、爵禄を全うした。子の長寛が嗣いだ。
席固は、字を子堅といい、その先祖は安定の人である。高祖の席衡は、姚氏の乱に因み、襄陽に寓居し、晋に仕えて建威将軍となり、遂に襄陽の著姓となった。固は若くして遠大な志を持った。梁の大同年間、斉興郡守となった。長く郡職に在り、士人多くがこれに附き、遂に親兵千余人を有するに至った。梁の元帝の時、興州刺史に遷った。軍人で募りに従う者は五千余人に及んだ。固は自ら一州を拠点とし、時勢の変遷を観ようとした。大統年間、領地を以て魏に帰順した。時に周の文帝はまさに江陵を南取し、蜀・漢を西定しようとしており、固の到来を聞き、大いに礼遇した。そのまま使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大 都督 ・侍中・豊州刺史に拝し、新豊県公に封じられた。後に湖州刺史に転じ、入朝を求めて上奏した。京師に至ると、爵位を静安郡公に進めた。まもなく昌・帰・憲三州諸軍事・昌州刺史に拝された。固は家にあっては孝友に努め、官に臨んでは頗る名声と実績があった。任地で卒去した。大将軍・五州刺史を追贈され、諡して粛といい、勅により襄州にその墓田を賜った。子の席雅が嗣いだ。
雅は字を彦文という。性質は方正で、若くして孝行で知られた。位は大将軍に至った。
雅の弟の英は、上開府儀同大将軍に至った。
任果は、字を静鸞といい、南安の人である。もとは地方の豪族であった。父の褒は梁に仕え、沙州刺史・新巴県公となった。果は勇猛果断な性質で、功を立てることを志した。西魏の廃帝元年(552年)、配下を率いて帰順した。周の文帝(宇文泰)はその遠方からの来附を嘉し、優れた礼遇をもって遇した。果は面会して蜀を取る策を述べ、深く採り入れられた。そこで沙州刺史・南安県公に任じられた。尉遅迥に従って蜀を討伐した。まもなく驃騎大将軍・開府儀同三司に進められた。成都が平定されると、始州刺史に任じられた。周の文帝は彼が地方の首領であり、早くから忠節を立てたことをもって、楽安郡公に爵位を進め、鉄券を賜い、世襲することを許し、さらに路車・駟馬および儀衛などを賜って、その栄誉を輝かせた。まもなく刺客に害された。
論じて曰く、王傑・王勇・宇文虯・耿豪・高琳・李和・伊婁穆・侯植らは皆、果敢剛毅の資質をもって、擾乱の時に節義を尽くし、それぞれ堅陣を屠り鋭鋒を覆すことができ、自らその功を致し、高い爵位と厚い官位を得たのは、もとより当然である。仲尼(孔子)が一人に完璧を求めないと称したのは、まことにその通りである。文士は温和恭謙の操りを懐くが、その弊害は懦弱である。武夫は剛烈の資質を受け継ぐが、その弊害は悍ましく勇みたつことである。故に酒をたしなんで謙遜せざる禍いや、剣を抜いて功を争う過ちがあり、大きければその生命を全うせず、小さくてもかろうじて免れるのみである。耿豪・王勇はそのような者ではなかったか。李延孫・韋祐・陳欣・魏玄らは勇略の資質をもって、城を守る重任を委ねられた。灌瓜や贈薬(昔の賢者の美談)には及ばぬ面はあるが、侮りを防ぎ衝を折ることは、前代の功業に並び駕するに足る。その能力をもって伊水・洛水に兵威を示し、崤山・函谷関を保ち据え、北斉に西路を阻む謀略を断たせ、北周に東方からの貢納の憂いを緩和させたのは、皆彼らの力である。泉仲遵は山谷より出で、元来は月旦評(人物評)の誉れもなかったが、難に臨んで慷慨として、人臣の節を失わなかった。これは仁義を実践する者ではなかったか。元礼・仲遵はその志を遵奉し、ついに功業を成し遂げ、ほぼその重任に耐えたと言えよう。李遷哲・楊乾運・席固の徒は、地方の擾乱に際し、皆帰順することを知り、遂に爵位を享け、終始を全うした。遷哲が周の文帝に答えた言葉を見ると、尚義の気概があった。乾運は武陵の任を受けたが、人に仕える道に背いた。もしその優劣を較べるならば、固より同年に語るべからざるものである。陽雄は文武の任を兼ね、名声は国内に著しく、これまた志と才能を備えた士である。
旧史には代郡の人宇文盛(字は保興)がおり、武毅をもって顕れ、盛の弟の丘(字は胡奴)、盛の子の述(柱国の位に至る)がおり、それぞれ伝がある。しかし事績として記すに足るものはない。盛については子の述の伝の冒頭に見え、丘については略記するのみである。
目次へ戻る※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。