王羆(孫の長述)、王思政、尉遲迥(弟の綱、綱の子の運)、王軌、樂運
王羆は、字を熊羆といい、京兆霸城の人である。漢の河南尹王遵の後裔で、代々州郡の名門であった。羆は質朴で剛直、物事を公平に扱い、州里の人々は彼を敬い畏れた。北魏の太和年間、殿中將軍に任ぜられ、やがて雍州別駕に昇進した。清廉で悪を憎み、公務に精励した。刺史の崔亮は人を見抜く鑑識があり、羆を見て深く敬服した。後に崔亮が定州に転じた時、羆を長史に起用するよう上奏したが、朝廷の執政者は羆がその任にふさわしくないとして許さなかった。梁が硤石を侵すと、崔亮は都督として南征し、再び羆を長史に起用するよう上奏し、鋭軍を率いさせた。朝廷は崔亮がたびたび羆を推挙するので、さすがに任用できると考えた。硤石を攻略した際、羆の功績が最も多かった。以前より南岐・東益の氐や羌が反乱していたので、羆を冠軍將軍に任じて梁州を鎮守させ、諸賊を討伐平定させた。帰還後、西河内史に任ぜられたが、辞退して受けなかった。当時の人が「西河は大邦で、俸禄も厚いのに、なぜ辞退するのか」と言うと、羆は「京洛の材木はすべて西河から出ている。朝廷の貴人が邸宅を営む者には、皆求められ借り出されることになる。もし私的に調達すれば、力が及ばず、もし民間から徴発すれば、また法律に違反する。このゆえに辞退するのだ」と言った。
当時、南秦州がたびたび反乱したので、羆に行南秦州事をさせた。羆が州に到着すると、その首領を腹心として召し出し、反乱者をほぼ捕らえ尽くした。そして首領らに言った。「お前らの仲間は皆死に絶えた。生きているのは何の役に立つか」。そして順に斬った。これ以降、南秦州に再び反乱者は出なかった。また詔により羆に行秦州事をさせた。まもなく涇州刺史に転じた。赴任する前に、周文帝が兵を徴発して勤王の挙兵をしたので、羆は先鋒として命を尽くすことを請い、大都督となり、華州を鎮守した。孝武帝が西遷すると、車騎大將軍・儀同三司に進み、別に萬年縣伯に封ぜられ、華州刺史に任ぜられた。齊の神武帝が軍を率いて潼関に進むと、人々は危惧を抱いたが、羆は兵士を激励し、衆心はようやく安まった。神武帝が退くと、驃騎大將軍に任ぜられ、侍中・開府を加えられた。かつて州城を修築中で未完成の時、梯子が城外にあった。神武帝が韓軌と司馬子如を遣わし、河東から夜間に渡河して羆を襲撃したが、羆は気づかなかった。夜明け頃には、韓軌の兵衆がすでに梯子に乗って城内に入っていた。羆はまだ寝床から起きず、戸外の騒がしい声を聞くと、裸身で髪を露わにし、裸足のまま、一本の白棒を持って大声で飛び出し、言った。「老いた羆が道に臥せば、狸ごときがどうして通れようか」。敵はこれを見て驚いて退いた。東門まで追撃し、左右の者が少しずつ集まり、共に戦ってこれを破った。韓軌は城に身を投げて逃げ去った。文帝はこれを聞いて雄壮だと思った。当時、関中は大飢饉で、民間から穀物を徴税して軍費に充てた。隠匿する者がいれば、互いに告げさせるように命じ、多くは鞭打たれ、このため人々は逃散した。ただ羆だけは人々に信頼されており、隠匿する者もなく、得た粟は諸州に劣らず、しかも怨みの声はなかった。沙苑の戦いでは、神武帝の軍馬が非常に盛んだった。文帝は華州が要衝であるため、使者を遣わして羆を労い、守備を強化するよう命じた。神武帝が城下に至り、羆に「どうして早く降伏しないのか」と言うと、羆は大声で叫んだ。「この城は王羆の墓だ。死生はここにある。死にたい者は来い」。神武帝は攻撃できなかった。
後に河東に移鎮し、前後の功績により扶風郡公に爵位を進めた。河橋の戦いで、朝廷の軍が不利となり、趙青雀が長安城を占拠すると、各地に固守する意志を持つ者はなかった。羆は大いに州の門を開き、城中の戦士を集めて言った。「天子が敗北したと聞くが、吉凶は知れない。諸君は驚き動揺し、皆異心を抱いている。王羆はここに任ぜられ、死をもって恩に報いる。諸君にもし異なる考えがあれば、来て私を殺せ。もし城が陥落することを恐れるならば、城を出るのも自由だ。もし忠誠心があり、王羆と心を一つにして固守できるならば、共に守ろう」。軍人たちはその誠実さを見て、異心を抱く者はなかった。軍が帰還すると、雍州刺史に任ぜられた。この時、蠕蠕が黄河を渡って南侵し、斥候の騎兵がすでに豳州に至った。朝廷はその深く侵入することを憂慮し、兵馬を徴発して京城に駐屯させ、街路に塹壕を掘って侵攻に備えた。右僕射の周惠達が羆を呼んで協議した。羆は命令に応じず、臥したまま起き上がらず、その使者に言った。「もし蠕蠕が渭水の北に来るならば、王羆が郷里の者を率いて自らこれを破る。国家の兵を煩わすことはない。どうして天子の城中で、このような騒ぎを起こすのか。周家の小児(周惠達)の臆病さがこうさせたのだ」。羆が権貴を軽侮し、正道を守って曲げないのは、皆このようなことであった。まもなく、河東に戻って鎮守した。
羆の性質は質素で率直、身なりを気にしなかった。かつて台使が来た時、羆が食事を用意すると、使者は薄餅の縁を裂き取った。羆は言った。「耕し種をまき収穫するまで、その労苦はすでに深い。搗き炊いて作り上げるまで、力を費やすことも少なくない。お前が選り好みするのは、まだ空腹でないからだろう」。左右の者に命じてこれを撤去させた。使者は愕然として大いに恥じた。また、客が羆と瓜を食べた時、客が瓜の皮を削ぎ、実に近い部分を厚く削いだので、羆はこれを嫌った。瓜の皮が地面に落ちると、手を伸ばして地面から拾い上げて食べた。客は非常に恥じ入った。性質はまた厳しくせっかちで、かつて私情を挟んで事を訴える役人がいた時、羆は鞭打つ暇もなく、自ら靴を手に取って、それで打った。宴会のたびに、自ら酒肉を量り、将士に分け与えた。当時の人はその公平さを尊び、その卑小さを嗤った。羆の行動は真情に任せ、巧みな偽りを弄さず、その経歴した所では、当時は功績が顕著でなくとも、去った後に必ず慕われた。官の任上で没し、太尉・都督・相冀等十州刺史を追贈され、諡を忠といった。
羆は貧素に安んじ、生業を営まず、後に貴顕となっても、郷里の旧宅を改めず、粗末な門のままだった。身死した日、家は甚だ貧窮しており、当時の人はその清廉潔白を敬服した。
子の慶遠は、弱冠で功臣の子として直閣將軍に任ぜられたが、羆に先立って卒した。孫に述がいる。
述は字を長述という。幼くして孤児となり、祖父の羆に養育された。聡明で識見があった。八歳の時、周文帝に見出されて「王公にこのような孫がいるのは、不朽に足る」と言われた。初めて官に就き員外散騎侍郎となり、長安縣伯に封ぜられた。羆が薨去すると、喪に服する礼を過ごし、詔により褒められた。喪が明けると、扶風郡公の爵位を襲封した。中書舍人に任ぜられ、起居注を修め、龍門郡公に改封された。周が禅譲を受けると、賓部下大夫に任ぜられた。累進して廣州刺史となり、非常に威厳と恩恵があった。朝廷の議論はこれを嘉し、そのまま大將軍に任ぜられた。後に襄州・仁州の二州総管を歴任し、いずれも有能な名声があった。隋文帝が丞相となると、信州総管に任ぜられ、位上大將軍の位にあった。王謙が乱を起こすと、使者を遣わして長述に書を送った。長述はその使者を捕らえ、上書し、また王謙を取る策を述べた。上(文帝)は大いに喜び、前後して金五百両を賜り、行軍総管に任じて王謙を討伐させた。功により柱国の位に進んだ。開皇初年、陳を平定する計略を献上し、戦艦を建造して上流の軍とした。上はその才能を善しとし、たびたび賞労を加えた。数年後、行軍総管として南寧を撃つが、到着せずに卒した。上は甚だ傷み惜しんだ。上柱国・冀州刺史を追贈し、諡を莊といった。
子の王謨が後を嗣ぐ。王謨の弟の王軌は、大業末年(隋末)に郡守となった。末子の王文楷は、起部郎となった。
大統(西魏の年号)の後、思政は任用こそされたが、自分が丞相府(宇文泰)の旧臣ではないことを自覚し、常に不安を抱いていた。周文帝(宇文泰)がかつて同州で、群公と宴を開いた際、錦の毛氈や雑多な綾絹数千段を取り出し、諸将に樗蒲をさせて勝ち取らせた。品物が尽きると、周文はさらに自ら身に着けていた金帯を解き、諸人に順に擲させ、「先に盧(樗蒲の最上目)を出した者にこれを与える」と言った。群公が擲し終わり、誰も得る者がいなかった。次に思政の番となると、彼は表情を引き締めて跪き、誓って言った。「王思政は旅人として朝廷に帰順し、宰相(宇文泰)より国士の遇いを受け、心を尽くして命を捧げ、知己の恩に報いんと願っている。もしこの誠心が実在するならば、宰相がご存知の通り、願わくば擲せば直ちに盧とならんことを。もし内に誠心が尽きていないならば、神霊もまたこれを明らかにし、盧とならぬようにせよ。その時はただちに身を殺して奉じる所に謝罪せん。」言葉と気概は慷慨として、一座はみな驚いた。即座に佩刀を抜き、膝の上に横たえ、樗蒲の賽を掴み、腿を叩いて擲した。周文が止めようとした時には、既に盧を擲していた。ゆっくりと拝礼して帯を受け取った。これ以降、朝廷からの信頼は一層深まった。
河橋の戦いにおいて、思政は馬から下り、長槊を左右に振り回して撃ち、一撃で数人を倒した。敵陣に深く陥入し、従者はことごとく死に、思政も重傷を負って気絶した。ちょうど日が暮れ、敵も軍を収めた。思政は長く軍旅を経ており、戦いにはいつも破れた衣と粗末な鎧しか着ておらず、敵は彼が将帥とは思わなかったので、難を免れたのである。配下の帳下督雷五安が戦場で泣きながら思政を探し求め、ちょうど彼が蘇生したので、互いに見つけ合った。そこで衣を裂いて傷を包み、思政を馬に乗せ、夜更けになってようやく軍に戻った。その後も弘農を鎮守し、侍中・東道行台に任ぜられた。思政は玉壁の地が険要であるとして、城を築くことを請うた。自ら計画を立てて測量し、鎮守地を移した。汾・晋・并の三州諸軍事・并州刺史・行台の職はそのままとし、引き続き玉壁を鎮守した。八年(西魏大統八年)、東魏が再び侵攻してきたが、ついに攻略できなかった。城を全うした功績により、驃騎大将軍・開府儀同三司を授けられた。
高仲密が北豫州を率いて帰順した時、周文は自ら出迎えて援護し、駅伝で思政を召し寄せ、成皋を鎮守させようとした。到着しないうちに周文は軍を返し、再び思政に弘農鎮守を命じた。思政は弘農に入ると、城門を開かせ、衣を解いて臥し、将士を慰労激励して、恐れるに足らぬことを示した。数日後、東魏の将劉豊生が数千騎を率いて城下に至ったが、これを畏れて進まず、軍を引き返した。そこで城郭を修築し、櫓を建て、農地を営み、秣を蓄え、守備に必要なものはすべて整えた。弘農に守備が整ったのは、思政に始まるのである。
十四年、大将軍に任ぜられた。九月、東魏の太尉高岳・行台慕容紹宗・儀同劉豊生らが歩兵・騎兵十万を率いて潁川を攻撃し、多くの死傷者を出した。高岳はさらに土山を築いて城中に臨み、飛び梯や火車など、攻撃の法を尽くした。思政もまた火䂎を作り、疾風に乗じて土山に投げ入れた。また火箭を射て、敵の攻撃用具を焼いた。さらに勇士を募り、縄で城から吊り下ろして出撃させ、敵の二つの土山を占拠し、楼と堞を築いて防備を助けた。斉の文襄帝(高澄)はさらに兵を増派し、洧水を堰き止めて城を水攻めにした。当時、怪獣(あるいは巨大な生物)が現れて、たびたびその堰を破壊した。しかし城は水攻めに遭って久しく、多くが崩れ落ちた。高岳は全軍で激しく攻撃した。思政は自ら矢石に身を曝し、士卒と苦労を共にした。高岳はさらに堰を修築し、鉄の龍や雑獣を作り、水神を鎮めようとした。堰が完成すると、大水が押し寄せた。城中では泉が湧き出て溢れ、釜を吊るして炊き、食糧も兵力も尽き果てた。慕容紹宗・劉豊生およびその将の慕容永珍は、隙があると思い、共に楼船に乗って城内を眺め、弓の名手に命じて城中を俯射させた。やがて大風が激しく起こり、船は城下まで漂い寄せられた。城上の兵は長い鉤で船を引き寄せ、弓弩を乱射した。紹宗は窮して、水中に飛び込んで死んだ。豊生は土山の方へ浮かんでいき、また矢に当たって斃れた。永珍を生け捕りにし、船中の器械もことごとく奪った。思政は永珍に言った。「我が滅亡は、時間の問題である。卿を殺しても益がないことは承知している。しかし、人臣の節義は、死をもって守るものである。」そして涙を流して彼を斬った。紹宗らの屍体も収容し、礼をもって埋葬した。
王思政は既に慕容紹宗らを失い、志気沮喪して、敢えて城に迫らなかった。斉の文襄帝(高澄)はこれを聞き、歩騎十万を率いて攻め寄せた。思政は助からぬと知り、左右を率いて土山に拠り、天を仰いで大いに泣き、左右も皆号慟した。思政は西に向かって再拝し、自ら剣を引こうとした。先に、文襄は城中の人々に告げて言った、「王大将軍を生け捕りにした者には、侯に封じ重賞を与える。若し大将軍の身に損傷があれば、親近の左右は皆重刑に処す」と。都督の駱訓が固くこれを止め、決断を下させなかった。斉の文襄はその通直散騎常侍趙彦深を遣わし、土山に赴いて白羽扇を贈り説得し、手を引いて降ろさせた。文襄に引見されると、言辞気概は慷慨として、涕涙交流し、屈撓屈服の容色はなかった。文襄はその事に忠なるを以て、起きて礼を尽くし、遇すること甚だ厚かった。その督将は諸州の地牢に分けて禁じられた。数年で皆死んだ。
思政が初めて潁川に入った時、士卒は八千人であった。包囲されて久しく、城中に塩がなく、腫れて死ぬ者が十の六七に及び、城が陥ちた日には、生き残った者は僅か三千人であった。外に救援なくとも、遂に叛く者はなかった。思政は常に王室に勤めることを務めとし、資産を営まなかった。嘗て園地を賜わったが、思政が出征した後、家人が桑や果樹などの雑樹を植えた。帰還してこれを見て怒り、「匈奴未だ滅びず、去病家を辞す。況んや大賊未だ平らかならず、産業に事えんと欲するは、豈に公を憂い私を忘るると謂うべきや」と言い、左右に命じて抜き棄てさせた。故に身が陥った後、家に蓄積がなかった。斉の文宣帝(高洋)が東魏の禅を受けると、思政を都官尚書・儀同三司とした。卒すると、本官を贈り、兗州刺史を加えた。
初め、思政が荊州に在った時、武関以南より延袤一千五百里に、三十余城を置き、皆要衝の地に当てた。凡そ挙薦した者は、皆その才を得た。
尉遅迥は、字を薄居羅といい、代の人である。その祖先は、魏の別種で、尉遅部と号し、これにより氏とした。父の俟兜は、性質弘裕にして鑑識有り、周の文帝の姉の昌楽大長公主を尚り、迥と綱を生んだ。迥が七歳、綱が六歳の時、俟兜が病みて将に卒せんとし、二子を呼び、その頭を撫でて言った、「汝ら並びに貴相有り、ただ我の見ざるを恨むのみ、各々勉めよ」と。武成帝の初め、柱国大将軍・太傅・長楽郡公を追贈し、諡して定といった。迥は少時に聡敏で、容儀美しかった。長じて大志有り、施しを好み士を愛した。魏の文帝の女の金明公主を尚り、駙馬都尉に拝され、西都侯に封ぜられた。大統十一年、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に拝され、魏安郡公に進爵した。十五年、尚書左僕射に遷り、領軍将軍を兼ねた。迥は通敏にして幹能有り、文武を兼ねて任じられながらも、頗る時の声望に允い、周の文帝はこれにより深く委任倚仗した。十六年、大将軍に拝された。
侯景が江を渡った時、梁の元帝は江陵を鎮めており、隣好を修めんことを請うた。その弟の武陵王蕭紀が蜀で帝を称し、衆を率いて東下し、これを攻めんとした。梁の元帝は大いに懼れ、書を移して救援を請うた。周の文帝は言った、「蜀は図るべきなり。蜀を取り梁を制するは、此の一挙に在り」と。乃ち群公と会議し、諸将は多く異同有り。唯だ迥は、紀が既に鋭を尽くして東下すれば、蜀は必ず空虚となり、王師が臨めば、必ず征有りて戦無からんと以為った。周の文帝は然りと以為い、謂って言った、「蜀を伐つ事は、一に汝に委ぬ」と。ここにおいて迥に開府の元珍・乙弗亜・侯呂陵始・叱奴興・綦連雄・宇文升等の六軍の甲士を督せしめて晋寿を取り、平林の旧道を開かせた。迥の前軍が剣閣に臨むと、紀の安州刺史楽広は州を挙げて先に降った。紀の梁州刺史楊乾運は時に潼水を鎮めていたが、先に既に使を闕に詣らせ、密かに誠款を送っていた。然れどもその下が従わぬを恐れ、なお潼水の別営を拠って拒守した。迥は元珍・侯呂陵始等を遣わしてこれを襲わせた。乾運は潼川に還って保った。珍等は遂にこれを囲み、乾運は降った。迥は潼川に至り、将士に大いに饗し、涪江を渡り、青渓に至り、南原に登り、兵を勒して武を講じ、約束を修繕し、器械を閲し、開府以下に賞として金帛を各有差賜った。時に夏中連雨し、山路険峻で、将士疲病する者十二三に及び、迥は自ら労問し、湯薬を加え、これを率いて西進した。紀の益州刺史蕭捴は城を嬰って自ら守り、進軍してこれを囲んだ。初め、紀が巴郡に至った時、前南梁州刺史史欣景・幽州刺史趙抜扈等を遣わして捴の外援とした。迥は分遣して元珍・乙弗亜等をしてこれを撃破せしめた。抜扈等は遁走し、欣景は遂に降った。捴は五十日間包囲され、頻りに戦って迥に破られた。使を遣わして降を乞い、許された。
性質至孝で、色養怠らず、身は外に在りとも、得た四時の甘脆は、必ず先に薦め奉り、然る後に敢えて嘗めた。大長公主は年高くして病多く、迥が京師に在った時、毎たび退朝して起居を参候し、憂悴の色は容色に形われた。大長公主は毎たびこれがために和顔して食を進め、以て迥の心を寧んじた。周の文帝はその至性を知り、迥を征して朝に入らせ、以てその母の意を慰めた。大鴻臚を遣わして郊労し、仍って迥に袞冕の服を賜った。蜀人はこれを思い、碑を立てて徳を頌した。六官初めて建つに当たり、小宗伯に拝された。
隋の文帝はそこで兵を徴発して尉遅迥を討ち、韋孝寛を元帥とし、陰羅雲に諸軍を監させ、郕国公梁士彦、楽安西の元諧、化政公宇文忻、濮陽公宇文述、武郷公崔弘度、清河公楊素、隴西公李詢、延寿公于仲文らをみな行軍総管とした。尉遅迥は配下の大将軍石愻を遣わして建州を攻撃させ、刺史の宇文弁は州を挙げて石愻に降った。尉遅迥はまた西道行台の韓長業を遣わして潞州を陥落させ、刺史の趙威を捕らえ、城の住民の郭子勝を刺史に任命した。上儀同の赫連士猷は晋州を攻撃し、すぐに小郷城を占拠した。紇豆陵恵は定州の钜鹿郡を襲撃して陥落させ、ついに恒州を包囲した。上大将軍の宇文威は汴州を攻撃し、上開府の莒州刺史烏丸尼、開府の尉遅俊は膠・光・青・斉・莒・兗の兵を率いて沂州を包囲した。大将軍の檀譲は曹・亳の二州を陥落させ、梁郡に兵を駐屯させた。大将軍・東南道行台の席毗は兵八万と号し、籓城に軍を置き、昌慮・下邑・豊県を陥落させた。李恵は申州から永州を攻撃し、焼き払って帰還した。宇文胄は洛口に軍を置いた。開府の梁子康は懐州を攻撃した。
魏安公尉遅惇は十万の兵を率いて武徳に入り、沁水の東に軍を置いた。韋孝寛らの諸軍は水を隔てて対峙し、進軍しなかった。隋の文帝はまた高熲を駅伝で急行させ、督戦させた。尉遅惇は兵を二十余里にわたって展開し、軍を少し後退させ、韋孝寛の軍が半分渡河したところを撃とうとした。韋孝寛はその後退に乗じて、鼓を鳴らして一斉に進軍したため、尉遅惇は大敗した。韋孝寛は勝ちに乗じて鄴に進軍し、尉遅迥は子の尉遅惇・尉遅佑らとともにまたその兵十三万を尽くし、城南に陣を布いた。尉遅迥は別に一万の兵を統率し、皆緑色の頭巾と錦の襖を着て、黄龍兵と号した。尉遅勤は五万の兵を率いて青州から尉遅迥のもとへ赴き、三千騎が先に到着した。尉遅迥はかつて軍旅を統率した経験があり、老いてはいたが、なお鎧を着て陣頭に臨んだ。その麾下の兵は皆関中の出身で、彼のために力戦した。韋孝寛らの軍は不利となり後退した。鄴の士女で見物する者は壁のようであった。高熲と李詢はそこで陣を整えてまず見物人を襲撃し、その混乱に乗じて攻撃した。尉遅迥の軍は大敗し、ついに鄴城に入った。尉遅迥は逃れて北城を守ったが、韋孝寛は兵を放って包囲した。李詢と賀婁子幹はその配下を率いて先に登城した。尉遅迥は楼に上り、数人を射殺した後、自殺した。尉遅勤・尉遅惇・尉遅佑らは東へ青州へ逃れたが、到着する前に、開府の郭衍に追いつかれ、皆郭衍に捕らえられた。隋の文帝は尉遅勤が最初に誠意を示していたため、特に赦免した。李恵は先に自ら縛られて罪に服したが、隋の文帝はその官爵を回復させた。
尉遅迥は晩年老耄となり、後妻の王氏に惑わされ、諸子の多くは仲が良くなかった。挙兵した際、開府・小御正の崔達拏を長史とし、その他の任免も多く斉の人を用いた。崔達拏は文士であり、謀略がなく、措置は多く綱紀を失い、匡救することができなかった。尉遅迥が挙兵してから敗北するまで、凡そ六十八日を経た。
子の尉遅寛は、大将軍・長楽郡公で、尉遅迥より先に卒去した。尉遅寛の兄の尉遅誼は、開府・資中郡公である。尉遅寛の弟の尉遅順は、尉遅迥の蜀平定の功績により、開府・安固郡公を授けられた。後に娘が宣帝の皇后となったため、上柱国に任ぜられ、胙国公に封ぜられた。尉遅順の弟の尉遅惇は、軍正下大夫・魏安郡公である。尉遅惇の弟の尉遅佑耆は、西都郡公である。皆誅殺されたが、尉遅誼らの諸子は幼かったため、皆命を全うした。
武徳年間、尉遅迥の従孫の庫部員外郎尉遅耆福が上表して改葬を請うた。朝廷の議論では、尉遅迥が周室に忠誠を尽くしたとして、詔を下してこれを許し、なお絹百匹を贈った。尉遅迥の弟に尉遅綱がいる。
兄の尉遅迥が蜀を征伐する際、周の文帝に従って城西まで見送り、一匹の走る兎を見た。周の文帝は尉遅綱にこれを射るよう命じた。尉遅綱は誓って言った。「もしこの兎を獲れば、必ず蜀を破るでしょう。」まもなく尉遅綱は兎を獲って帰った。周の文帝は喜んで言った。「事が平定したら、汝に良い者(奴婢)を賞として与えよう。」蜀を平定した後、尉遅綱に侍女二人を賜った。またかつて周の文帝に従って雲陽で北狩した際、五頭の鹿が共に走るのを見て、尉遅綱はそのうち三頭を獲った。遊宴に従うたびに、周の文帝は珍しい物を諸功臣に射させて取らせたが、尉遅綱の獲る物は常に多かった。
李運は若くして才幹に優れ、功を立てることを志した。西魏の大統十六年、父の勲功により安喜県侯に封じられた。周の明帝が立つと、帝位安定の勲功により、周城県公に爵位を進めた。隴州刺史を歴任し、再び左武伯中大夫に遷り、まもなく軍司馬を加えられた。李運は文武の職を兼ね、大いに信任された。広業郡公に爵位を進め、右司衛に転じた。当時、宣帝は東宮にあって、諂佞の者を親しく近づけ、しばしば罪過や失態があった。武帝は朝臣の中から忠実で誠実、剛直な者を選んでこれを補佐させようとし、ここにおいて李運を右宮正とした。
四年、同州刺史、同州・蒲津・潼関など六防諸軍事として出向した。帝が北斉を討伐しようとすると、李運を召して参議させ、東夏を平定するのに、大いに力を尽くした。五年、柱国に拝され、盧国公に爵位を進めた。司武上大夫に転じ、宿衛の軍事を総管した。帝が雲陽宮で崩御すると、喪を発せず秘し、李運が侍衛兵を総率して京師に還った。
宣帝が即位すると、上柱国を授けられた。李運が宮正であったとき、しばしば帝に諫言した。帝は受け入れず、かえって疎んじ忌むようになった。当時、李運はまた王軌・宇文孝伯らとともに武帝の親任を受けていた。王軌がたびたび帝の失態を武帝に言上したため、帝は李運もその事に関与したと思い、ますます恨みを抱いた。王軌が誅殺されると、李運は禍が及ぶことを恐れ、まもなく秦州総管として出ることができた。州に到着してもなお免れないことを恐れ、ついに憂いのうちに州で薨去した。大後丞・七州諸軍事・秦州刺史を追贈され、諡は忠といった。子の李靖が嗣いだ。
李運の弟の李勤は、大象の末、青州総管として、尉遅迥に応じて兵を起こした。
李勤の弟の李敬は、明帝の娘の河南公主を娶り、位は儀同三司に至った。
王軌は、太原郡祁県の人で、小名を沙門といった。漢の司徒王允の後裔であり、代々州郡の名族であった。累代魏に仕え、烏丸氏の姓を賜った。父の王光は、若くして雄武で、将帥の才略があった。たびたび戦功を立て、周の文帝(宇文泰)は彼を厚く遇した。位は驃騎大将軍・開府儀同三司・平原県公に至った。王軌の性質は質直で、出仕して輔城公(宇文邕)に仕えた。武帝が即位すると、累遷して内史下大夫となり、ついに腹心の任に就いた。帝が晋公宇文護を誅殺しようとしたとき、王軌はその謀を賛成した。建徳初年、内史中大夫に転じ、開府儀同三司を加授され、さらに上開府儀同大将軍に拝され、上黄県公に封じられ、軍国の政務にすべて参与した。并州・鄴の平定に従い、功により上大将軍に位を進め、郯国公に爵位を進めた。
陳の将軍呉明徹が呂梁に侵入して寇したとき、徐州総管梁士彦はたびたび戦って利あらず、ついに州城に退いて守った。呉明徹は清水を堰き止めて城を水攻めにし、船艦を城下に並べて攻め取ろうとした。詔により王軌を行軍総管とし、諸軍を率いて救援に赴かせた。王軌は密かに清水が淮水に入る河口に、多くの大木を立て、鉄鎖で車輪をつなぎ、水流を横断させてその船の通路を断ち、密かにその堰を決壊させて敵を倒そうとした。呉明徹はこれを知り、堰を破って急ぎ退却し、決壊した水勢に乗じて淮水に入ろうと望んだ。清口に至るころには、川の流れはすでに広がり、水勢も衰え、船はすべて車輪に妨げられ、もはや通過できなかった。王軌は兵を率いて包囲し追い詰めた。ただ騎将の蕭摩訶が二十騎を率いて先に逃走し、免れたのみであった。呉明徹および将兵三万余人と、器械・輜重はすべて捕虜・鹵獲された。陳の精鋭はここに殲滅された。位は柱国に進み、そのまま徐州総管に拝された。王軌の性格は厳重で、謀略に長け、さらに呂梁の勝利を得て、威は敵境に震った。陳人は彼を大いに恐れた。
宣帝が吐谷渾を征討したとき、武帝は王軌と宇文孝伯に命じてともに従わせ、軍中の進退はすべて王軌らに委ね、宣帝はその成果に頼るのみであった。当時、宮尹の鄭訳・王端らはともに宣帝の寵愛を受けていた。宣帝は軍中で甚だしく失徳な行いがあり、鄭訳らもみなこれに関与した。軍が帰還すると、王軌らはこのことを武帝に言上した。武帝は大いに怒り、宣帝を鞭打ち、鄭訳らの官職を除名し、さらに杖罰を加えた。宣帝はこのため彼らを大いに恨んだ。王軌はまたかつて小内史の賀若弼とこのことを語り、かつ皇太子は必ずや重任に堪えられないと言った。賀若弼は深くその通りだと思い、王軌にこれを上奏するよう勧めた。王軌は後に侍坐する機会を得て、武帝に言上した。「皇太子には涼徳が多く、陛下の家事(国家の事)をよく処理できない恐れがあります。愚臣は暗短で、是非を論ずるに足りません。陛下は常に賀若弼に文武の奇才があり、識見が広遠であるとされておりますが、賀若弼が近ごろ再び臣に対し、深くこのことを憂慮していると申しました。」武帝は賀若弼を召して問いただした。賀若弼は言った。「皇太子は春宮で徳を養っておられ、過ちを聞いたことはありません。陛下はどこからこの言葉をお聞きになったのでしょうか。」退出後、王軌は賀若弼を責めて言った。「平生の言論では、何でも話していたではないか。今になってこのように前言を翻すとは!」賀若弼は言った。「これは貴公の過ちである。皇太子は国の儲副(後継者)である。どうして軽々しく言えるものか。事に誤りがあれば、たちまち滅門の禍に至る。本来、貴公が密かに人物を批評すると思っていたのに、どうして公然と口に出すに至ったのか。」王軌はしばらく黙っていたが、やがて言った。「私は一心に国家のために尽くし、ついに私的な考慮を残さなかった。先ほど衆人の前で言ったのは、まことに適切ではなかった。」その後、王軌は内宴で寿を祝う機会に、また武帝のひげを撫でて言った。「愛すべき立派な御老公ですが、ただ後嗣が弱いのが残念です」。武帝は深くその通りだと思った。しかし漢王(宇文贇の弟)が次男であり、また才能がなく、これ以外の諸子はみな幼かったので、その意見を用いることができなかった。
宣帝が即位すると、鄭訳らを追って再び近侍とした。王軌は自ら必ず禍が及ぶことを悟り、親しい者に言った。「私は昔、先朝において、実に社稷のための最も重要な計略を申し上げた。今日の事態は、断じて知ることができる。この州は淮南を控え、強敵に隣接している。身のための計らいをしようと思えば、反掌のごとく容易い。しかし忠義の節操は、損なうことができない。ましてや先帝の厚恩を蒙り、常に死をもって報いようと思っていた。どうして嗣主に罪を得たからといて、すぐに先帝に背き徳を損ねようか。ただここで死を待つのみであり、義として他の計らいはしない。千年の後、私のこの心を知ってもらいたいと願う。」
武帝が嘗て同州に行幸した際、運を行在所に召し寄せた。到着すると、言った、「卿は太子をどのような人と言うか」。運は言った、「中人です」。時に斉王憲以下皆帝の側にいたが、帝は憲らを顧みて言った、「百官は私におもねり、皆太子は聡明で叡智であると言うが、ただ運だけが中人と言う。これぞまさに運の忠直を証するものだ」。そこで運に中人の様子を問うた。運は答えて言った、「班固は斉桓公を中人とし、管仲がこれを補佐すれば覇者となり、豎貂がこれを補佐すれば乱れるとしています。善に導くこともでき、悪に導くこともできる者です」。帝は言った、「私は分かった」。そこで優れた宮官を選んでこれを補弼させた。そして運を抜擢して京兆郡丞に任じた。太子はこれを聞き、心中甚だ快く思わなかった。
この後より徳政は行われず、たびたび赦しを行った。運はまた上疏して言った、「臣が謹んで按ずるに、周官に曰く、'国君が市に過ぐれば、刑人を赦す'と。これは市が利益の交わる所であり、君子は故なくして遊観せず、則ち恵みを施してこれを喜ばせるというのである。尚書に曰く、'眚災肆赦'と。これは過誤によって害を為し、罪は大なりと雖も、当に緩やかにこれを赦すというのである。謹んで経典を尋ねるに、罪の軽重を問わず、普く天の下を大赦する文はない。故に管仲は言う、'赦有るは、奔馬の轡を委ぬるなり。赦無きは、痤疽の礪石なり'と。また言う、'恵は人の仇讎なり。法は人の父母なり'と。呉漢の遺言にも、なお'ただ赦無きことを願う'と言い、王符が論を著しても、また'赦は明世の宜しく有るべき所に非ず'と言う。大尊(陛下)はどうしてたびたび非常の恵みを施し、奸宄の悪をほしいままにさせることができようか」。帝もまた受け入れず、かえって昏暴はますます甚だしくなった。運は遂に棺を車に載せて朝堂に詣で、帝の八つの過失を陳べた。
帝は大いに怒り、これを殺そうとした。内史元厳が諫めたため、これにより死を免れた。翌日、帝はやや悟り、運を召して言った、「朕は昨夜卿の奏上したことを思い、実に忠臣であると感じた。先皇は聖明であり、卿は数々規諫した。朕は既に昏暗であるのに、卿はまたこのようにできるとは」。そこで御食を賜ってこれを賞した。朝の公卿は、初め帝が甚だ怒るのを見て、運のために寒心しない者はなかった。後に賞を得るのを見て、また皆互いに賀し、獣の口を免れたと思った。
内史鄭譯は常に私事を請託したが、運はこれを許さず、このために彼を恨んだ。隋の文帝が丞相となると、譯は長史となり、遂に運を左遷して広州滍陽の令とした。開皇五年、毛州高唐の令に転じた。頻りに二県を歴任し、共に名声と実績があった。運は常に一つの諫官に処し、従容として諷議することを願ったが、性が訐直であったため、人に排抵され、遂に任用されなかった。乃ち発憤して夏・殷以来の諫爭の事を録し、集めて部類し、凡そ六百三十九條、四十一卷を合わせ、名づけて諫苑とした。これを奏上した。隋の文帝はこれを覧て嘉した。
論ずるに、王羆は剛峭有餘にして、弘雅は未だこれを聞かず。情は儉率に安んじ、志は公平に在り。既にして危城に節を奮い、勍敵に辞を抗し、梁人はこれがために退舍し、高氏は敢えて兵を加えず。これをもって称せられるは、信に虚しからず。述に至っては門風を隕さず、亦た称するに足る。王思政は有事の秋に馳駆し、功名の際に慷慨す。策名して霸府に及び、潁川に鎮を作し、縈帶の険を設け、守禦の術を修め、一城の衆をもって傾国の師に抗し、疲駘の兵を率いて勁勇の卒に当たり、猶能く大敵を亟に摧き、屡々奇功を建つ。忠節は本朝に冠たり、義声は鄰聴を動かす。運窮まり事蹙り、城陥ち身囚われ、壮志高風亦た百世に奮うに足る。尉遲迥は地は則ち舅甥、職は惟だ台袞、恩を沐すること累葉、眷を荷うこと一時、形勝の地に居り、籓維の托を受け、顛れて扶けず、憂責斯に在り。主威雲謝し、鼎業将に遷らんとし、九服心を移し、三靈卜を改むるに及び、遂に能く志を赴蹈に存し、袂を投げて兵を称す。君に忠なる勤め未だ宣ばれず、天に違う禍便ち及ぶ。その心を校するに、翟義・葛誕の儔か。綱・運は積んで王室に宣べ、勤労は出内す。その自ら栄寵を致すを観るに、豈に唯だ恩澤のみならんや。夫れ士の名を成す、その途一ならず、蓋し爵祿を待たずして貴く、学藝に因らずして重き者有り、何ぞ。亦た忠孝のみと云う。若し乃ち力を竭くしてその親を奉ずるは、人子の行いなり。身を致してその君に事うるは、人臣の節なり。斯れ固より三極を彌綸し、百代を囊括す。宣帝の東朝に在りしに当たり、凶德方に兆す。王軌の志は惟だ諱むること無く、骨肉の間に極議し、竟に淫刑に遇い、以て夷滅に至る。斯の人の若きは、人或いはこれをもってその忠ならずと為すも、則ち天下これを信ぜざる莫し。楽運の己の節を行う所以を観るに、其れ古の遺直の風有るか。