北史

巻六十一 列傳第四十九

列傳第四十九

王盟(子の勱、從孫の誼)、獨孤信(子の羅)、竇熾(兄の子の榮定、毅)、賀蘭祥、叱列伏龜、閻慶(子の毗)、史寧(子の雄、祥)、權景宣

王盟は、字を仵といい、明德皇后の兄である。その先祖は楽浪の人であった。六世の祖の波は、前燕の太宰であった。祖の珍は、魏の黄門侍郎となり、 へい 州刺史・楽浪公を追贈された。父の羆は、伏波将軍となり、良家の子として武川を鎮守し、そこで家を定めた。魏の正光年間、破六韓抜陵が諸鎮を攻め陥れたとき、盟もまたその勢力に擁された。抜陵が平定された後、中山に流寓し、再び積射将軍として蕭寶夤に従って西征した。寶夤が僭逆をなすと、盟は遂に民間に逃れて身を隠した。爾朱天光が関中に入ると、盟はこれに従った。賀抜岳に従って万俟醜奴を捕らえ、秦隴を平定するにあたり、常に先鋒として力戦した。周文帝が侯莫陳悦を平定すると、盟は原州刺史に任じられた。孝武帝が長安に至ると、魏昌県公に封ぜられた。大統三年、 司空 しくう に召されて拝され、 司徒 しと に転じた。蠕蠕より文帝の悼后を迎え、侍中を加えられ、太尉に遷った。魏文帝が東征するとき、留後大 都督 ととく として雍州の事務を行い、関中の諸軍を節度した。趙青雀の乱のとき、盟は開府の李虎とともに太子を輔佐して渭水の北に出て駐屯した。事が平定されると、長楽郡公に進み、拓王氏の姓を賜った。太保に遷った。九年、位を進めて太傅とし、開府儀同三司を加えられた。盟は姿態度量が弘大で雅やかであり、仁愛に富み広く人を愛した。師傅の位にありながら、礼は群臣の上にあったが、謙虚で恭しく自らを処し、勢位をもって人に驕ることはなかった。魏文帝は大いにこれを尊重し、病のときにはたびたびその邸に臨み、自ら望むところを問うた。十一年、薨去し、本官を追贈され、諡して孝定といった。

子の勱は、字を醜興といい、性質は忠実果断で才幹があった。十七歳のとき、周文帝に従って関中に入った。秦隷を平定し、関中を定めたとき、周文帝は嘗て言った。「将たるもの、坐して成敗を見るは上なり、堅きを被り鋭きを執るは次なり。」勱は言った。「願わくは兼ねてこれを被りたい。」周文帝は大笑した。まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ に拝され、梁甫県公の爵を賜った。大統初年、千牛備身直長となり、左右を領して、臥内に出入りし、小心で謹厚であった。魏文帝は常に言った。「王勱は二心なき臣というべし。」沙苑の戦役において、勱は 都督 ととく として禁兵を率い、左翼に位置し、その前面に当たる者は死傷甚だ多かった。勱もまた重傷を負い、遂に行軍の間に卒した。周文帝は深くこれを悼んだ。使持節・太尉・ 尚書令 しょうしょれい ・十州諸軍事・雍州刺史を追贈され、咸陽郡公に追封され、諡して忠武といった。

子の弼が爵を襲い、魏の安楽公主に尚し、大 都督 ととく ・通直 散騎常侍 さんきじょうじ の位に至った。

勱の弟の懋は、字を小興という。盟が西征したとき、懋はまだ幼かったので、山東に留め置かれた。永安年間、初めて関中に入り、盟と相見え、遂に征伐に従った。大統初年、安平県子の爵を賜った。後に爵を公に進め、累進して右衛将軍に至った。当時は国境で戦争が交わり、喪の礼がまだ定まらず、斉衰・斬衰の喪服を着る者も皆、墨縗のまま職務に従事していた。盟が薨じると、懋は上表して官位を辞し、喪に終わることを乞うたが、魏文帝は許さなかった。累進して開府儀同三司・侍中・左衛将軍・領軍将軍に至った。懋は温和で、小心敬慎し、宮禁を宿衛すること十余年、官職に勤勉で恪んで、未だ過ちがなかった。廃帝二年、南岐州刺史に任じられ、安寧郡公の爵を賜った。後に小司寇に拝され、官のまま卒した。

子の悦が嗣ぎ、大将軍・同州刺史の位に至り、済南郡公に改封された。

盟の兄の子の顕は、幼くして聡明で悟りが早く、沈静で言葉少なかった。初め周文帝の帳内 都督 ととく となり、累進して驃騎大将軍・開府儀同三司・光禄卿・鳳州刺史に至った。洛邑県公の爵を賜り、大将軍に進位し、卒した。子に誼がいる。

誼は字を宜君といい、幼少より大志があり、弓馬に熟達し、群書を広く博覧した。周の閔帝のとき、左中侍上士となった。当時大塚宰の宇文護が政権を執り、帝は拱手して黙し関与することがなかった。ある朝士が帝の側で少しばかり不恭な態度をとると、誼は勃然として進み出て、これを撃たんとした。その人は惶懼して罪を請うたので、やっと止めた。これより朝臣で敢えて恭しくない者はなくなった。禦正大夫に遷った。父の喪に遭い、礼を過ぎるほどに憔悴し、墓の側に廬して、土を背負って墳丘を築いた。

武帝が即位すると、累進して内史大夫となり、揚国公に封ぜられた。帝に従って斉を伐ち、 へい 州に至った。帝が城に入った後、かえって斉軍に敗れ、側近の多くが死んだ。誼は麾下の ぎょう 雄を率いてこれに赴いた。斉が平定されると、相州刺史から召されて大内史となった。汾州の稽胡が乱を起こすと、誼はこれを撃った。帝の弟の越王盛・譙王儉は総管であったが、共に誼の節度を受けた。賊が平定されると、一子を開国公に封ぜられた。帝は臨終に際し、皇太子に言った。「王誼は社稷の臣なり、機密の任に処すべきで、遠方に任ずる必要はない。」皇太子が即位して宣帝となると、誼の剛直を憚り、襄州総管として出させた。

隋文帝が丞相となったとき、鄖州総管の司馬消難が兵を挙げて反した。帝は誼を行軍元帥としてこれを討たせたが、到着する前に消難は陳に奔った。当時、北は商・洛より、南は江・淮に至るまで、東西二千余里にわたり、巴の蛮族が多く叛き、共に渠帥の蘭洛州を主に推戴した。洛州は自ら河南王と号して消難に附き、北は尉遅迥と連合した。誼は兵を分けてこれを討ち、一ヶ月ほどで皆平定した。帝は使者を遣わして労問し、その冠蓋は絶えなかった。第五女を誼の子の奉孝に娶せた。まもなく大 司徒 しと に拝された。誼は自ら帝と旧知であるとして、心を寄せるようになった。隋が禅を受けると、待遇はますます厚くなり、帝は親しくその邸に臨み、歓を極めた。

太常卿の蘇威が議して、戸口が増え、人々の田地が足りないので、功臣の土地を減らして民に与えようとした。誼は上奏して言った。「百官は、歴代の勲功ある賢者であり、ようやく爵土を蒙っている。一朝にしてこれを削るのは、妥当とは認めがたい。」帝はこれを正しいとし、遂に蘇威の議は取りやめになった。帝が岐州に行幸しようとしたとき、誼は諫めて言った。「陛下が万国に臨まれたばかりで、人情もまだ和していません。どうしてこの行幸が必要でしょうか。」上は戯れて言った。「我は昔、公と位望を同じくしていたが、一朝に屈節して臣下となった。あるいは恥じ愧じるかもしれぬ。この行幸は、威武を振るい揚げて、公の心を服させようとするのだ。」誼は笑って退いた。まもなく突厥への使者を奉じた。帝はその旨に適うことを嘉し、郢国公に進封した。

間もなく、その子の奉孝が卒した。一年余り過ぎて、誼は上表し、公主が若いので、喪服を除くことを請うた。御史大夫の楊素が誼を弾劾して言った。「臣は聞く、喪服には五等あり、親疏によって節が異なる。喪制には四種あり、軽重によって文が異なる。王者の常に行うところ、故に不易の道という。しかるに儀同の王奉孝は既に蘭陵公主に尚し、去年五月に身を喪った。始めて一周を経たばかりなのに、誼は早くも除喪を請うた。窃かに考えるに、王姫とはいえ、終には下嫁の礼を成す。公は主の夫であり、猶お天を移すの義にある。ましてや三年の喪は、上より下に達し、期に及んで服を釈するのは、礼において詳らかでない。しかるに夫婦の道は人倫の始め、喪紀の制は人道の最も大なるものである。苟もこれを重んじなければ、君子の笑いを取る。故に鑽燧して火を改めるのは、居喪の速きを責め、朝に祥し暮に歌うのは、哀を忘れる早きを譏るのである。然るに誼は自ら強うせずとも、爵位は既に重い。無礼を行わんと欲しても、どうしてできようか。これは薄俗を以て教えを傷つけ、父としては不慈であり、礼を軽んじ喪を易え、婦をして無義に致すものである。もしこれを放って正さねば、風俗を傷つける恐れがある。」詔があり、問わなかった。しかし恩礼は次第に薄くなり、誼は大いに怨望した。

ある者が王誼が謀反を企てていると告発したので、帝はその事実を調査するよう命じた。担当官が王誼に不遜な言動があったと上奏したが、実際に謀反の形跡はなかった。帝は酒を賜って釈放した。時に上柱国の元諧もまたかなり失意しており、王誼はしばしば彼と往来し、醜悪な言論を交わした。胡人の僧がこれを告発した。公卿が王誼は大逆不道であり、死罪に当たると上奏した。帝は王誼に会い、悲しげに言った、「朕と卿は旧く同学であり、甚だ憐れんでいるが、国法をどうしようか」。そこで詔を下して言った、「王誼は周の時代に、早くから人倫に参与し、朕と共に学問所で遊び、遂に親しくした。しかしその性質は険薄を懐き、巫覡が門に満ち、鬼言怪語をもって神道を称した。朕が天命を受けた初め、深く戒めと制約を存したが、口では改悔すると言いながら、心は実に悔い改めなかった。しかるに四天王の神道を説き、王誼が天命を受けるべきであるとし、書には王誼の讖があり、天には王誼の星があり、桃川・鹿川の二川、岐州の下で、歳が辰巳にある時、帝王の業を興すと言った。密かに占いをさせ、宮殿や官庁の災いを窺った。また自らの身は明王聖主であると言った。左道を信用し、所在で人々を誤らせた。自ら相や表を見て、王となることに疑いなしと言う。これを赦せば、あるいは乱を為すであろう。暴を禁じ悪を除くには、国刑に伏すべきである」。帝はまた大理正の趙綽に命じて王誼に言わせた、「時の命がこのようである、どうしようか」。そして家で死を賜い、時に四十六歳であった。

獨孤信は、雲中の人であり、本名は如願といった。北魏の初めに四十六部があり、その祖先の伏留屯は部落の大人となり、北魏と共に興った。祖父の俟尼は、和平年間に、良家の子として雲中から武川に鎮戍し、そこで家を定めた。父の庫者は、領人酋長となり、若くして雄豪で節義があり、北州の人々は皆敬服した。獨孤信は容貌が美しく、騎射に優れていた。正光の末、賀拔度らと共に衛可瑰を斬り、これによって名を知られた。後に葛栄に捕らえられた。獨孤信はまだ少年であったが、自ら服装を整え、軍中で獨孤郎と呼ばれた。爾朱氏が葛栄を破ると、獨孤信を別将とした。韓婁征討に従い、獨孤信は単騎で挑戦し、賊の漁陽王袁肆周を捕らえた。後に元顥の党を破り、受徳県侯の爵を賜り、武衛将軍に遷った。賀抜勝が荊州に出鎮すると、獨孤信を大 都督 ととく に上表した。賀抜勝の弟の岳が侯莫陳悦に害されると、勝は獨孤信に関中に入らせ、岳の残った兵衆を慰撫させた。時に周文帝(宇文泰)が既に岳の兵を統率しており、獨孤信とは同郷で、若い頃から親しくしていたので、会って大いに喜び、そこで獨孤信に命じて洛陽に入り朝廷の意向を請わせた。雍州に至ると、大使の元毗がまた獨孤信を荊州に帰還させた。まもなく召されて朝廷に入り、魏の孝武帝は大いに信任した。

孝武帝が西遷する時、事は突然起こり、獨孤信は単騎で瀍澗において帝に追いついた。孝武帝は嘆じて言った、「武衛(獨孤信)は遂に父母に別れ、妻子を捨てて我に従うことができた。世が乱れて忠良を知るとは、虚言ではないな」。浮陽郡公に爵位を進めた。時に荊州は東魏に帰属していたが、人心はなお本朝(西魏)を慕っていたので、獨孤信を衛大将軍・ 都督 ととく 三荊州諸軍事、兼尚書右僕射・東南道行台・大 都督 ととく ・荊州刺史とし、これを招き懐柔させた。到着すると、東魏の刺史辛纂が出戦したので、獨孤信は兵を放って辛纂を撃ち、大いにこれを破った。 都督 ととく の楊忠らが先鋒となって辛纂を斬り、ここに三荊は遂に平定された。

東魏はまたその将の高敖曹・侯景らを急派して来襲した。獨孤信は衆寡敵せずと見て、遂に麾下を率いて梁に奔った。三年間滞在し、梁の武帝がようやく獨孤信の北帰を許した。獨孤信の父母は山東にいたので、梁の武帝が獨孤信にどこへ行くのかと問うと、君に事えるに二心なしと答えた。梁の武帝はその義を重んじ、礼を厚くして送り出した。大統三年に長安に至り、国威を損なったとして上書して罪を謝した。魏の文帝は尚書に付して議させた。七兵尚書・陳郡王の元玄らが議し、既に恩赦を受けた経緯があるとして、罪を赦して復職させるよう請うた。詔により驃騎大将軍に転じ、侍中・開府を加えられた。まもなく領軍将軍に任ぜられた。引き続き弘農奪回に従い、沙苑の戦いで勝利し、河内郡公に改封された。捕虜の中に獨孤信の親族がおり、初めて父の凶報を知り、喪を発して服喪した。まもなく大 都督 ととく として起用され、馮翊王の元季海と共に洛陽に入り、潁・ ・襄・広・陳留の地は皆帰順した。四年、東魏の将の侯景らが洛陽を包囲したので、獨孤信は金墉城に拠り、臨機応変に防戦して十余日持ちこたえた。周文帝が瀍東に至ると、侯景らは退却した。獨孤信と李遠は右軍となり、戦況は不利で、東魏が遂に洛陽を占領した。六年、侯景が荊州を侵すと、周文帝は獨孤信と李弼に武関から出撃させ、侯景は退いた。直ちに獨孤信を大使とし、三荊を慰撫させた。まもなく隴右十一州大 都督 ととく ・秦州刺史に任ぜられた。以前は地方官が暗弱で、政令が道理に外れ、人々に冤罪や訴訟があっても、長年にわたって裁決できなかった。獨孤信が州に在ると、事は滞ることがなく、礼教を示し、耕桑を勧めたので、数年の中に、公私ともに富実し、流民で帰附を願う者が数万家に及んだ。周文帝はその信義が遠近に著しいとして、故に名を信と賜った。七年、岷州刺史の赤水蕃王の梁仚定が挙兵して反したので、詔により獨孤信が討伐した。仚定はまもなく部下に殺されたが、仚定の子弟がなおその残党を収集した。獨孤信は兵を率いて萬年に向かい、三交谷口に駐屯した。賊は力を合わせて防戦した。獨孤信は偽りの進路を取って稠松嶺に向かった。賊は獨孤信の軍の到来を予期せず、風の便りに聞いて潰走した。勝ちに乗って敗走する敵を追撃し、直ちに城下に至り、賊は皆出て降伏した。太子太保を加授された。

芒山の戦いでは、大軍は不利であった。獨孤信は于謹と共に散兵を率いて背後から敵を撃ち、斉の神武帝(高歓)の追撃騎兵は驚き乱れ、国はこれによって全うされた。涼州刺史の宇文仲和が州を占拠して後任と交代せず、周文帝は獨孤信に開府の怡峰を率いて討伐させた。宇文仲和は城に籠って固守したので、獨孤信は夜に諸将に命じて衝車と雲梯で城の東北を攻めさせ、自らは壮士を率いて西南を急襲し、夜明けまでにこれを陥落させた。宇文仲和を捕らえ、その六千戸を捕虜として長安に送った。大司馬に任ぜられた。十三年、大軍が南征した。時に蠕蠕が寇掠したので、獨孤信に命じて河陽に移鎮させた。十四年、柱国大将軍に進位し、前後の功績を記録し、封邑を増やし、諸子に回授することを許された。ここに第二子の善は魏寧県公に、第三子の穆は必要県侯に、第四子の藏は義寧県侯に封ぜられ、邑は各一千戸であった。第五子の順は武成県侯に、第六子の陀は建忠県伯に封ぜられ、邑は各五百戸であった。獨孤信は隴右に長く在ったので、還朝を請うたが、周文帝は許さなかった。ある者が東魏から来て、またその母の凶報を告げたので、獨孤信は喪を発して服喪した。獨孤信は哀苦を述べて、礼制を終えるよう請うたが、また許されなかった。そこで獨孤信の父の庫者を 司空 しくう 公に追贈し、母の費連氏を常山郡君に追封した。十六年、 尚書令 しょうしょれい に遷った。六官が建てられると、大司馬に任ぜられた。

周の孝閔帝が即位すると、大宗伯に遷り、衛国公に進封され、邑一万戸を賜った。趙貴が誅殺された後、獨孤信は同謀として連座して免官された。間もなく、 しん 公の宇文護がまた彼を殺そうとしたが、その名望が元より重かったので、罪過を明らかにすることを望まず、逼迫して家で自尽させた。時に五十五歳であった。

獨孤信は風度が美しく、雅に奇謀大略を有していた。周文帝が初めて覇業を開いた時、関中の地のみを有し、隴右が地勢に勝るので、獨孤信を委ねてこれを鎮守させた。既に百姓に慕われ、その名声は隣国に震動した。東魏の将の侯景が南奔して梁に逃れた時、魏収が梁への檄文を書き、偽って獨孤信が隴右を拠り、宇文氏に従わないと称し、「関西の憂いなし」と言い、梁の人々を欺こうとした。また獨孤信が秦州にいた時、ある日狩猟で日が暮れ、馬を馳せて城に入ったが、その帽子が少し傾いていた。翌朝になると、役人や民で帽子をかぶる者は皆、獨孤信を慕って帽子を傾けてかぶった。このように隣境や士民に重んじられたのである。

子の羅は先に東魏に在りしが、乃ち次子の善を以て嗣と為す。及び斉が平らぎ、羅が至るも善は卒し、又羅を以て嗣を主とす。信の長女は周の明敬后、第四女は元貞后、第七女は隋の文獻后なり。周・隋及び皇家三代皆外戚と為り、古より以来、未だ之れ有らざるなり。隋の文帝践祚し、乃ち詔を下して信を褒贈し、太師・上柱国・十州諸軍事・冀州刺史と為し、趙国公に封じ、邑一万戸、諡して恭と曰う。信の母費連氏を贈り太尉趙恭公夫人と為す。

羅は、字は羅仁。父の信は魏の孝武に随いて関中に入り、羅は遂に高氏に囚はる。及び信が宇文護に誅せらるるに及び、羅始めて釈放を見る。中山に寓居し、孤貧にして自ら給する無し。斉の将独狐永業、宗族の故を以て、之を哀しみ、田宅を買ひ、資畜を遺す。

初め、信が関に入りし後、復た二妻を娶る。郭氏は子六人を生む、善・穆・藏・順・陀・整なり。崔氏は隋の献皇后を生む。及び斉滅亡し、隋の文帝定州総管と為り、献皇后人を遣はして羅を求め、之を得る。相見て悲しみ自ら勝へず、侍御する者皆泣く。是に於て厚く車馬財物を遺す。未だ幾ばくもせず、周の武帝、羅を功臣の子とし、久しく異域に淪ちたるを以て、徴して楚安郡太守に拝す。疾を以て官を去り、京師に帰る。諸弟、羅の少長貧賤なるを見て、毎に軽侮し、兄の礼を以て之に事へず。然れども性長者にして、亦諸弟と校競して長短せず。後に是より之を重んず。

文帝丞相と為り、羅を儀同に拝し、常に左右に置く。既に禅を受け、詔して羅の父を追贈せんとす。其の諸弟、羅の母斉に没し、先づ夫人の号無きを以て、承襲すべからずとす。上以て后に問ふ、后曰く、「羅誠に嫡長なり、誣ふべからず。」是に於て爵を襲ひ趙国公と為す。其の弟善を以て河内郡公と為し、穆を金泉県公と為し、藏を武平県公と為し、陀を武喜県公と為し、整を千牛備身と為す。羅を擢拝して左領左右将軍と為し、左衛将軍に遷し、前後賞賜計ふるに勝へず。出でて涼州総管と為り、位を進めて上柱国と為し、徴して左武衛大将軍に拝す。煬帝位を嗣ぎ、改めて蜀国公に封ず。未だ幾ばくもせず官に卒す、諡して恭と曰う。

子の纂嗣ぎ、位は河陽都尉。

纂の弟武都、大業末、亦た河陽都尉と為る。

庶長子開遠。宇文化及の しい 逆するに、裴虔通賊を率いて成象殿に入り、宿衛の兵士皆逆に従ふ。開遠時に千牛と為り、独狐盛と力を戦はせ殿下に合し、賊に執はれ、賊義として之を捨つ。

善は字は伏陀。幼くして聡慧、騎射に善くし、父の勲を以て、魏寧県公に封ぜらる。魏の廃帝元年、又た父の勲を以て、驃騎大将軍・開府儀同三司を授けられ、侍中を加へられ、爵を進めて長城郡公と為る。周の孝閔帝践祚し、河州刺史を除く。父の釁を負ひ、久しく家に廢せらる。保定三年、乃ち龍州刺史を授く。天和六年、爵を襲ひ河内郡公と為る。帝に従ひ東討し、功を以て上開府を授けらる。尋て兗州刺史を除き、政は簡恵に在り、百姓之に安んず。州に卒す、持節・柱国・五州諸軍事・定州刺史を贈らる。

子の覧嗣ぎ、位は右候衛大将軍。大業末に卒す。

陀は字は黎邪。周に仕へ、胥附上士。父に坐して蜀に徙ること十餘年、宇文護誅せられ、始めて長安に帰る。隋の文帝禅を受け、上開府・領左右将軍に拝し、累ねて転じて延州刺史と為る。

陀は性左道を好み、其の外祖母高氏先づ猫鬼に事へ、已に其の舅郭沙羅を殺し、因りて転じて其の家に入る。上微かに聞くも信ぜず。会に献皇后及び楊素の妻鄭氏俱に疾有り、医を召して之を視しむるに、皆曰く、「此れ猫鬼の疾なり。」上、陀を以て、后の異母弟、陀の妻、楊素の異母妹なるを由り、是に意ひて陀の為す所と為す。陰に其の兄左監門郎将穆をして情を以て之に諭さしむ、上又左右を避けて陀を諷す、陀言有りと無し。上説ばず、左転して遷州刺史と為す。怨言を出だす、上左僕射高熲・納言蘇威・大理正皇甫孝緒・大理丞楊遠等をして雑に之を案ぜしむ。陀の婢徐阿尼言ふ、本より陀の母家より来り、常に猫鬼に事へ、毎に子日の夜之を祀る。子と曰ふは鼠なり。其の猫鬼毎に人を殺す者は、死する所の家の財物潜かに猫鬼を畜ふる家に移る。陀嘗て家より酒を索む、其の妻曰く、「錢無くして酤す可し。」陀因りて阿尼に謂ひて曰く、「猫鬼をして越公の家に向はしめよ、我をして錢足らしめん。」阿尼便ち之を咒ふ、数日居りて、猫鬼素の家に向ふ。後上初めて へい 州より還るに、陀園中に於て阿尼に謂ひて曰く、「猫鬼をして皇后の所に向はしめよ、多く吾が物を賜はしめん。」阿尼復た之を咒ふ、遂に宮中に入る。楊遠乃ち門下外省に於て阿尼を遣はして猫鬼を呼ばしむ、阿尼是に於て夜中に香粥一盆を置き、匙を以て扣きて呼びて曰く、「猫女来る可し、宮中に住む無かれ。」久しくして、阿尼の色正に青く、牽き拽かるるが若くして、雲ふ猫鬼已に到れりと。上其の事を以て公卿に下す。奇章公牛弘曰く、「妖は人より興る、其の人を殺せば、以て絶つ可し。」上犢車をして陀夫妻を載せしめ、将に其の家に死を賜はんとす。陀の弟司勳侍中整闕に詣りて哀を求む、是に於て陀の死を免れ、名を除き、其の妻楊氏を以て尼と為す。是に先だちて其の母人の猫鬼に殺さるるを訟ふる者有り、上妖妄と為し、怒りて之を遣る。此に及び、訟へらるる猫鬼を行ふ家を誅せんと詔す。陀未だ幾ばくもせずして卒す。

煬帝即位し、舅氏を追念し、礼を以て葬るを聴す。乃ち詔を下して正義大夫を贈る。帝の意猶ほ已まず、復た銀青光禄大夫を贈る。二子、延福・延寿。

陀の弟整、位は幽州刺史。大業初、金紫光禄大夫・平郷侯を贈らる。

竇熾は、字は光成、扶風平陵の人、後漢の大鴻臚章の後なり。章の子統、霊帝の時に雁門太守と為り、竇武の難を避け、亡奔して匈奴に奔り、遂に部落大人と為る。後魏南に徙り、子孫因りて代に家し、姓を紇豆陵氏と賜ふ。累世魏に仕へ、皆大官に至る。父略、平遠将軍、熾の勲著はしきを以て、少保・住国大将軍・建昌公を贈らる。熾は性厳明、謀略有り、須髯美しく、身長八尺二寸。少くして范陽の祁忻に従ひ『毛詩』・『左氏春秋』を受け、大義を略通す。騎射に善くし、膂力人に過ぐ。魏の正光末、北鎮擾乱す、乃ち略に随ひ定州に地を避け、葛栄に投ず。栄略に官せんと欲す、略受けず。栄其の異志有るを疑ひ、遂に略を冀州に留め、熾及び熾の兄善を将ひて軍に随はしむ。及び爾朱栄葛栄を破るに及び、熾乃ち家を将ひて栄に随ひ へい 州に於けり。時に葛栄の別帥韓婁等薊城を拠して下らず、熾を以て 都督 ととく と為し、驃騎将軍侯深に従ひて之を討つ。熾手ずから婁を斬り、功を以て揚烈将軍に拝す。

魏の孝武帝が即位すると、蠕蠕などの諸蕃はともに使者を遣わして朝貢し、帝は軒に臨んでこれを宴した。 とび が殿前を飛び鳴くことがあり、帝はもとより熾が射術に優れていることを知っていたので、遠人に誇示しようと固く思い、そこで熾に御箭二隻を与え、これを射るよう命じた。鴟は弦に応じて落ち、諸蕃人はみな歎異した。帝は大いに悦んだ。まもなく東南道行台の樊子鵠に従って爾朱仲遠を追撃し、仲遠は梁に奔った。時に梁主はまた元樹を遣わして侵入させ、譙城を占拠していた。子鵠は熾に命じてこれを撃破させ、行唐県子に封じられ、まもなく上洛県伯に爵を進めた。時に帝は斉の神武(高歓)と隙を構えており、熾に威重があるのを以て、爪牙の任に堪えるとして、閣内大 都督 ととく に拝し、朱衣直閣に遷った。そして帝に従って西遷した。引き続きその兄の善とともに城下に至り、武衛将軍の高金龍と千秋門で戦い、これを破った。そこで宮城に入り、御馬四十匹と鞍勒を取って、行在所に進献した。帝は大いに悦び、熾と善にそれぞれ駿馬二匹、駑馬十匹を賜った。

大統元年、別に真定県公に封ぜられた。周の文帝に従って竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑を破り、いずれも功があった。河橋の戦いでは、諸将は退走したが、熾は時にただ二騎に従うのみで、敵に追われて芒山に至った。熾はそこで馬を下り、山を背にして抗した。やがて敵の衆は次第に多くなり、矢は雨のように降り注ぎ、熾の騎士が持つ弓は、ともに敵に射られて破られた。熾はそこでその矢を総べて収めて射ると、当たった人馬は弦に応じて倒れた。敵はそこで互いに言うには、「この三人を得ても、まだ功とするに足りぬ」と。そこで少し引き退いた。熾はその怠りに乗じて、ついに包囲を突破して出ることができた。また太保の李弼に従って白額稽胡を討ち、これを破った。

高仲密が北 州を以て来降すると、熾は周の文(宇文泰)に従ってこれを救援した。洛陽に至ると、東魏の人が芒山を占拠して陣を布くのに遭遇した。周の文は輜重を瀍曲に留め置くよう命じ、軽騎を率いて奮撃し、中軍と右軍がこれを大破し、その歩卒をことごとく虜にした。熾はただ一人で石済まで追撃して還った。大統十三年、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられた。出て涇州刺史となり、職に蒞ること数年、政治は清静と称された。安武県公に改封された。

魏の廃帝元年、原州刺史を除された。熾は豪右を抑挫し、幽滞を申し理め、州に在ること十年、甚だ政績があった。州城の北に泉水があり、熾はたびたび遊践し、かつて僚吏と泉の側で宴し、水を酌んで自ら飲み、「吾がこの州に在るは、ただ水を飲むのみである」と言った。去職した後、人吏はその遺恵を感じ、この泉に至る者毎に、これを懐かしまぬ者はなかった。恭帝元年、広武郡公に爵を進めた。時に蠕蠕が広武を寇したので、熾は柱国の趙貴と分路してこれを討った。蠕蠕は引き退き、熾は河を渡って麹伏川まで追及し、これを大破した。武成二年、柱国大将軍に拝された。周の明帝は熾が前朝の旧臣であり、勲望ともに重いことを以て、独り邸宅を造営しようとした。熾は天下未だ平らかでなく、干戈未だ まず、徒役を軽々しく発すべからずと辞したが、周の明帝は許さなかった。まもなく帝が崩御し、事はようやく止んだ。

保定元年、鄧国公に進封され、邑一万戸、別に資陽県一千戸を食し、その租賦を収めた。天和五年、大宗伯から宜州刺史となった。先に周の文が渭北で狩猟し、熾と晋公の護(宇文護)に走兔を分射させたことがあり、熾は一日に十七頭を獲、護は十一頭であった。護は及ばぬことを恥じ、これによって嫌いを生じた。この時、熾はまた周の武帝が年長であることを以て、護に政権を返すよう勧める議論があり、護はこれを憎んだので、左遷されたのである。護が誅された後、召されて太傅に拝された。

熾は既に朝の元老であり、名望はもとより高く、軍国の大謀に至っては、常に参議した。かつて病気になった時、周の武帝がその邸に幸して見舞い、そこで金石の楽を賜った。その礼遇されることこのようであった。帝が大徳殿で斉を伐つことを謀ろうとした時、熾は既に衰老していたが、腕を扼して言うには、「臣は朽邁ではあるが、幹櫓を執り、率先して戎行を啓くことを請う。鯨鯢を誅翦し、寰宇を廓清し、方に省みて俗を観、岳に登って成を告げるのを見て、その後泉壤に魂を帰し、余恨無からしめたい」と。帝はその志節を壮とし、遂に熾の第二子の武当公の恭を左二軍総管とした。斉が平定された後、帝は熾を召して相州の宮殿を歴観させた。熾は拝賀して言うには、「陛下は真に先帝に負わざるものなり」と。帝は大いに悦び、上柱国に位を進めた。

宣政元年、雍州牧を兼ねた。周の宣帝が東京を営建するに及び、熾を京洛営作大監とし、宮苑の制度は皆その決するところに取った。大象初年、食邑を楽陵県に改め、邑戸は旧の如くであった。隋の文帝が輔政に入ると、洛陽宮の造作を停め、熾は入朝を請うた。時に尉遅迥が挙兵したので、熾は金墉に移り入り、洛州刺史の平涼西の元亨と心を同じくして固守し、引き続き洛陽鎮事を権行した。相州が平定され、熾はようやく入朝した。時に文帝が初めて相国となり、百官は皆勧進したが、自ら累世の恩を受けたことを以て、遂に上箋に署名せず、当時の人はその節を高くした。帝が践祚すると、太傅に拝され、殊礼を加えられ、拝礼の際に名を称されなかった。開皇四年八月に薨じ、時に七十八歳であった。八州諸軍事・冀州刺史を贈られ、諡して恭といった。

熾は親に事えるに孝であり、諸兄に奉ずるに悌順をもって聞こえた。その望位が隆重に至り、子孫は皆列位に処し、遂に当時の盛族となった。

子の茂が嗣いだ。茂には弟が十三人おり、恭・威が最も知名である。

恭は位は大将軍に至った。周の武帝に従って斉を平らげ、賛国公に封ぜられ、西兗州総管を除されたが、罪により賜死された。

熾の兄の善は、中軍大 都督 ととく ・南城公として魏の孝武帝に従って西遷し、仕えて太僕・衛尉卿・汾北華瀛三州刺史・驃騎大将軍・開府儀同三司・永富県公に至り、諡して忠といった。子の栄定が嗣いだ。

栄定は沈深にして器局あり、容貌魁偉、美須髯、弓馬に便であった。初め魏の文帝の千牛備身となり、周の文帝はこれを見て奇とし、平東将軍を授け、宜君県子の爵を賜った。後に周の文に従って北芒で斉人と戦い、周師は不利であったが、栄定は汝南公の宇文神慶と精騎を帥いて斉師を撃退した。功により上儀同に拝された。まもなくまた軍功により開府に位を進めた。永富県公の爵を襲ぎ、忠州刺史を除された。斉平定に従い、上開府を加えられ、前将軍・佽飛中大夫に拝された。

その妻は、隋の文帝の長姉の安成長公主であり、文帝は少時より彼と情誼が甚だ厚かった。栄定もまた帝に人君の表があることを知り、特に推し結んだ。帝が相となると、左右宮伯を領し、天臺を鎮守させ、露門内の両廂の仗衛を総統し、常に禁中に宿した。尉遅迥が初めて平定された時、朝廷は山東を頗る気にかけ、栄定を洛州総管に拝してこれを鎮めさせた。前後して縑四千匹、西涼の女楽一部を賜った。禅譲を受けると、来朝し、馬三百匹、部曲八十戸を賜って遣わされた。事に坐して除名された。公主は言うには、「天子の姉が田舎者の妻となるのか!」と。上は已むを得ず、まもなく右武候大将軍に拝した。上はたびたびその邸に幸し、恩賜は甚だ厚く、毎に尚食局に命じて一日羊一口を供させ、珍味もこれに称した。佐命の功により、上柱国に拝された。

位は寧州刺史・右武候大将軍・秦州総管に至り、呉楽一部を賜う。突厥の沙鉢略が辺境を侵すと、行軍元帥となり、総管を率いて涼州より出撃す。虜と高越原に戦い、両軍相対し、地に水なく、士卒は渇き甚だしく、遂には馬の血を刺して飲むに至り、死者十二三に及ぶ。栄定は天を仰ぎて太息す。俄かに雨降り、軍勢復た振るう。ここにおいて進撃し、数度その鋒を挫く。突厥はこれを憚り、盟を請いて去る。縑一万匹を賜い、爵を進めて安豊郡公と為し、また子の憲を安康郡公に封じ、縑五千匹を賜う。歳余にして、右武衛大将軍を拝す。帝、三公に任ぜんと欲すれども、栄定は上書して固く辞し、畏懼の道を陳ぶ。帝乃ち止む。前後の賞賜は数え勝たず。及び卒すや、帝、そのために朝を廃し、左衛大将軍元旻に喪事を監護せしめ、絹三千匹を賻す。上、侍臣に謂いて曰く、「吾、毎に栄定を三事に致さんと欲すれども、その人固く譲りて許さず。今、これを賜わんと欲すれば、重ねてその志に違う。」ここにおいて冀州刺史・陳国公を贈り、諡して懿と曰う。子の抗、嗣ぐ。

抗は容儀美しく、性質通達にして率直、巧思に長ず。父の卒後に、恩遇は弥厚く、賜わるところの銭帛金宝もまた巨万に及ぶ。位は定州刺史、幽州総管を検校す。煬帝即位し、漢王諒反す。抗が通と謀るものと為し、ここにより除名し、その弟の慶に陳公の封を襲封せしむ。

慶もまた姿容あり、性質和厚、頗る草隸に工なり。初め永富郡公に封ぜられ、位は河東太守・衛尉卿に至る。大業末、南郡太守となり、盗賊のために害せらる。

慶の弟の璡もまた草隸に工なり、頗る鍾律を解す。位は潁川・南郡・扶風太守を歴任す。

熾の兄の子は毅なり。毅は字を天武と為す。父の岳は早く卒す。毅が勲功を著すに及び、大将軍・冀州刺史を追贈さる。毅は深沉にして器度あり、親に事うるに孝をもって聞こゆ。魏の孝武帝の初め、員外散騎侍郎より起家す。時に斉の神武帝が朝政を擅にす。毅は慨然として主君に殉ぜんの志あり。孝武帝に従って西遷し、奉高県子に封ぜらる。竇泰を禽えるに従い、弘農を復し、沙苑に戦うこと、皆功あり、爵を進めて安武県公と為す。恭帝元年、驃騎大将軍・開府儀同三司・大 都督 ととく を進授され、永安県公に改封さる。出でて幽州刺史と為る。周の孝閔帝践祚し、爵を進めて神武郡公と為す。保定三年、大将軍を拝す。

時に斉人と衡を争い、戎車歳ごとに動き、並びに突厥と交結して外援と為す。突厥は既に周に女を納むることを許すも、斉人もまた甘言と重幣を以てし、使を遣わして婚を請う。狄人便ち悔い有らんと欲す。朝廷乃ち楊薦等をして累次使いしてこれを結ばしむ。往復十余度にして、方に前の好を復す。ここに至り、期して往きて迎えんと雖も、猶お改図を懼る。毅は地を兼ねて勲戚たり、素より威重を以てす。乃ち毅を使者と為す。毅の至るに及び、斉の使も亦そこに在り。突厥の君臣、猶お貳志有り。毅は言を抗し色を正し、大義を以てこれを責む。累旬にして乃ち定まり、卒に皇后を以て帰る。朝議これを嘉し、別に成都県公に封じ、位を進めて柱国と為す。同州刺史・蒲金二州総管を歴任し、上柱国を加えられ、入りて大司馬と為る。隋の開皇初、定州総管を拝す。累ねて藩鎮に居り、咸く人和を得たり。二年、州にて薨ず。襄・郢等六州刺史を贈られ、諡して肅と曰う。

毅の性質温和、毎に謹慎を以て自ら守り、又周の文帝の第五女襄陽公主を尚う。特に朝廷の委信を受け、任兼ねて出内すと雖も、未だ嘗て矜惰の容有ること無し。時人これによりて称す。子の賢、嗣ぐ。

賢は字を托賢と為し、志業通敏、少にして名を知らる。宣政元年、使持節・儀同大将軍を授かる。開皇中、爵を襲い神武公と為り、遷州刺史を除かる。

毅の第二女は即ち大唐の太穆皇后なり。武徳元年、詔して毅に 司空 しくう ・使持節・総管荊郢等十州諸軍事・荊州刺史・杞国公を贈る。又賢の子の紹宣に秦州刺史を追贈し、並びに賢の爵を襲封せしむ。紹宣に子無く、仍て紹宣の兄の子の徳藏を以て嗣がしむ。

賀蘭祥は、字を盛楽と為す。その祖先は魏と俱に起こり、乞伏と為る者有り、賀蘭の莫何弗と為り、因って氏と為す。後に良家子として武川を鎮むる者あり、遂にここに家す。父の初真は、少にして名を知られ、郷閭に重んぜられ、文帝の姉建安長公主を尚う。保定二年、太傅・柱国・常山郡公を追贈さる。祥は年十一にして孤と為り、喪に居るに礼に合う。舅氏に長じ、特に周の文帝に愛せらる。戎旅に在りと雖も、常に儒生を博く延いて、書伝を以て教う。周文、初めに関に入る。祥は晋公護と俱に晋陽に在り。後に乃ち使いを遣わして迎え致す。褐を解き奉朝請と為る。少より胆気有り、志は立功に在り。尋いで 都督 ととく に擢補せられ、恒に帳下に居る。侯莫陳悦を平ぐるに従い、又魏の孝武帝を迎え、前後の功により撫夷県伯に封ぜらる。仍て潼関を撃つに従い、東魏の将薛長孺を獲、又回洛を攻めてこれを抜く。還りて左右直長を拝し、爵を進めて公と為す。

大統九年、周文に従い東魏と芒山に戦い、位を進めて驃騎大将軍・開府儀同三司と為し、侍中を加えらる。十四年、 都督 ととく ・荊州刺史を除かれ、爵を進めて博陵郡公と為す。先に祥嘗て荊州の事を行い、未だ期月に及ばずと雖も、頗る恵政有り。ここに至り重ねて往く、百姓これを安んず。ここにより漢南の流人、繈負して至る者、日に千数有り、遠近の蛮夷、款附せざる者無し。祥は機に随い撫納し、咸くその歓心を得たり。時に盛夏亢陽、祥は親しく境内を巡り、政の得失を観る。古塚を発掘し、骸骨を暴露する有るを見て、乃ち守令に謂いて曰く、「此れ豈に仁者の政を為すや」と。所在に命じてこれを収葬せしむ。即日に雨降り、是の歳大いに年有り。境内に古墓多く、その俗は発掘を行なうを好む。ここに至り遂に息む。祥は周文の密親と雖も、性質甚だ清素なり。州境は南は襄陽に接し、西は岷蜀に通ず。物産の出すところ、諸の珍異多し。梁と通好するに及び、行李往来し、公私の贈遺有るも、一も受けず。梁の雍州刺史・岳陽王蕭詧、その風素を欽み、乃ち竹屏風・絺綌の属及び経史を以てこれに贈る。祥はその意に違い難く、取りて諸の所司に付す。周文後にこれを聞き、並びに祥に賜う。十六年、大将軍を拝す。周文、涇・渭の溉灌の処、渠堰廃毀するを以て、乃ち祥に命じて富平堰を修造せしめ、渠を開き水を引き、東に洛に注がしむ。功用既に畢り、人その利を獲たり。魏の廃帝二年、華州の事を行い、後に華州を同州と改め、仍て祥を刺史と為す。尋いで尚書左僕射を拝す。六官建てらるるに及び、小司馬を授かる。周の孝閔帝践祚し、位を進めて柱国・大司馬と為す。時に晋公護執政す。祥は護と中表たり、少より相親愛し、軍国の事、護皆祥と参謀す。及び趙貴を誅し、閔帝を廃するに、祥力有り。

武成初、吐谷渾が州郡を侵掠す。詔して祥と宇文貴に兵を総べてこれを討たしむ。祥は乃ちその軍司をして吐谷渾に檄し、渾の広定王・鍾留王等と戦い、これを破り、因ってその洮陽・洪和の二城を抜き、その地を以て洮州と為す。西土を撫安し、旅を振って還る。進んで涼国公に封ぜらる。薨ず。太師・同岐等十三州諸軍事・同州刺史を贈られ、諡して景と曰う。

子七人有り。敬・譲・璨・師・寬、名を知らる。

敬は少より顕職を歴任し、化隆県侯に封ぜられ、後に爵を襲い涼国公と為る。位は柱国・華州刺史に至る。

譲は、大将軍・鄭州刺史・河東郡公に至る。

璨は、開府儀同三司・宣陽郡公に任ぜられた。建徳五年、 へい 州の戦いに従軍して戦死し、上儀同大將軍を追贈され、清都公に追封された。

師は、明帝の娘を娶り、位は上儀同大將軍・幽州刺史・博陵郡公に至った。

寬は、開府儀同大將軍・武始公となった。隋に入り、汴州・鄭州の二州刺史を歴任し、いずれも政績を顕著にした。

祥の弟の隆は、大將軍・襄楽縣公となった。隋の文帝は祥と旧交があったため、開皇初年に上柱国を追贈した。

叱列伏龜は、字を摩頭陀といい、代郡西部の人である。その祖先は部落の大人であり、北魏の初年に帰順し、代々第一領人酋長となった。龜に至るまで五代である。龜は容貌が魁偉で、腰帯は十圍あり、挙措は詳雅で、武芸をも兼ね備えていた。父の業を嗣いで再び領人酋長となった。魏の孝昌三年、別将として長孫承業に従って西征し、累進して金紫光禄大夫に至った。洛陽に帰還するに従い、 都督 ととく を授けられ、やがて斉の神武帝(高歓)に寵愛信任され、大 都督 ととく を加授された。沙苑の敗戦に際し、先例に従って降伏して来た。周の文帝(宇文泰)は彼が豪族であることを重んじ、縄を解いて礼遇し、さらに邵恵公(宇文顥)の娘を娶らせた。大統四年、長楽縣公に封ぜられた。これ以降、常に征討に従軍し、しばしば戦功を挙げた。侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司・恆州刺史を歴任した。死去し、子の椿が後を嗣いだ。

椿は字を千年という。明帝の時、驃騎大將軍・開府儀同三司の位にあり、永世縣公に改封された。天和初年、左宮伯に任ぜられ、位を進めて大將軍となった。

閻慶は、字を仁度といい、河陰の人である。曾祖父の善は、魏に仕えて龍驤將軍・雲州鎮将を歴任し、雲州の盛楽郡に家を定めた。祖父の提は、持節・車騎大將軍・敦煌鎮都大将となった。父の進は謀略があり、勇気は当時第一であった。正光年中、龍驤將軍に任ぜられた。衛可瓌が乱を起こし、盛楽を攻囲した際に属し、進は兵を率いて防ぎ守り、功により盛楽郡守に任ぜられた。慶は幼少より聡明で、約束を重んじ、風采は端厳であり、見る者を厳然とさせた。父に従って盛楽を守り、大いに力を尽くしたため、別将に任ぜられた。後に軍功により歩兵 校尉 こうい ・中堅將軍に任ぜられた。やがて斉の神武帝(高歓)が兵を挙げて洛陽に入り、魏の孝武帝が西遷すると、慶は親しい者に言った。「高歓は さん 逆の謀を抱いている。どうして目前の安穏に苟且し、その支配を受けられようか」。そこで大統三年、宜陽から朝廷に帰参した。次第に後將軍に昇進し、安次縣子に封ぜられ、功により爵を伯に進めた。慶は綏撫を得意とし、士卒が休む前に自ら休むことはなく、故にその死力を尽くさせ、しばしば勲功を挙げた。累進して 散騎常侍 さんきじょうじ ・驃騎大將軍・開府儀同三司・雲州大中正となり、侍中を加えられ、大野氏の姓を賜った。周の孝閔帝が即位すると、河州刺史として出向し、爵を石保縣公に進めた。州は河外に位置し、地は戎夷と接していたが、慶は心を留めて撫育し受け入れ、簡約で恵み深いと称された。そのまま大將軍に任ぜられ、爵を太安郡公に進めた。中央に入って小 司空 しくう となり、雲州・寧州の二州刺史を歴任した。慶の性格は寛大で温和、苛酷な監察をせず、百姓はこれを喜んだ。天和六年、位を柱国に進めた。

しん 公(宇文)護の母は、慶の姑であった。護が朝政を専断していたが、慶は一度も迎合しなかった。護が誅殺されると、武帝(宇文邕)はこのことで彼を重んじた。詔して慶の第十二子の毗に帝の娘である清都公主を娶らせた。慶は位も声望も重く、帝室と婚姻で結ばれていたが、常に廉潔慎重を以て自らを律し、当時はこのことで称えられた。建徳二年、上表して致仕を願い出ると、優詔をもってこれを許された。慶は既に衰老し、常に重い持病を患っていた。宣帝(宇文贇)は彼が先朝の耆宿であることを以て、特に常例を超えて待遇し、静帝(宇文衍)に命じて邸宅に赴かせ病を問わせた。布千段を賜り、医薬に必要なものは、役所に供給させた。大象二年、上柱国に任ぜられた。

隋の文帝が即位すると、また皇太子に命じて邸宅に赴かせ病を問わせ、引き続き医薬の費用を供給させた。開皇二年に薨去した。七十七歳。 司空 しくう ・七州諸軍事・荊州刺史を追贈され、諡を成といった。長子の常は、慶より先に死去した。次子の毗が後を嗣いだ。

毗は、七歳で石保縣公の爵を襲封した。成長すると、容姿は厳かで、経史を好み、蕭該に『漢書』を学び、その大旨を略通した。篆書ができ、特に草書・隷書に優れ、当時の妙手とされた。周の武帝は彼を見て喜び、清都公主を娶らせた。宣帝が即位すると、儀同三司に任ぜられた。

隋の文帝が禅譲を受けると、技芸をもって東宮(皇太子楊勇)に侍った。しばしば彫麗な物で皇太子の歓心を買い、これにより大いに親しく遇され、文帝の前でしばしば称えられた。まもなく車騎に任ぜられ、東宮の宿衛を担当した。文帝がかつて高熲に龍台沢で大閲兵を行わせた時、諸軍の隊列は多く整っていなかったが、毗の一軍のみは規律が厳然としていた。熲がこれを文帝に言上すると、特に制書を賜って褒められた。ほどなく太子宗衛率長史を兼ね、まもなく上儀同を加えられた。太子の服飾や玩好の品は多く毗の作るところであった。太子が廃されると、毗は連座して杖一百の刑に処せられ、妻子と共に官奴婢に配された。二年後に放免された。

煬帝が位を嗣ぐと、軍器の造営を盛大に行い、毗が技巧に長け、旧事に習熟していることから、詔してその職務を主管させた。まもなく朝請郎を授けられた。毗は建議を立て、輦輅や車輿について多く増減した。起部郎に抜擢任官された。

帝がかつて法駕を大いに整備した際、属車が多すぎるのを嫌い、毗を見て言った。「開皇の頃は、属車十二乗で、用事も足りた。今は八十一乗で、牛が車を牽くのでは、文物を増すに足りない。朕はこれを減らしたいが、何に従うのがよいか」。毗は言った。「臣が当初数を定めた時、宇文愷と共に先例を参酌検討し、漢の胡伯始(胡広)・蔡邕らの議に拠れば、属車は八十一乗です。これは秦に始まり、遂に後の様式となった。故に張衡の賦に『属車九九』とあるのがこれです。次に法駕については、三分の一を減じて三十六乗とし、これは漢の制度です。また、宋の孝建年間のことを拠り所とすると、役所が奏議し、 しん が江左に遷ってからは五乗のみを設け、 尚書令 しょうしょれい の建平王宏が言いました。『八十一乗は、六国の制度を兼ねる意義があり、三十六乗は拠り所がなく、江左の五乗は倹約すぎて礼に叶わない。ただ帝王の文物、旗旒の数、及び冕玉に至るまで、皆十二を用いる。今はこれに準じて十二乗を設けるべきである』と。開皇年間に陳を平定した時、これを以て法としました。今、往古の典範に倣い、大駕は秦に依り、法駕は漢に依り、小駕は宋に依って、差等とすべきです」。帝は言った。「どうして秦の法を用いようか。大駕は三十六が宜しく、法駕は十二が宜しく、小駕は廃止せよ」。毗が故事を研究し精通していたのは、皆この類いであった。

長城の役(築造工事)では、毗がその事務を総括した。帝が恆嶽で祭祀を行うことになると、詔して毗に壇場の営立を命じた。まもなく殿内丞に転じ、張掖郡への行幸に従った。高昌王が行在所に朝見した時、詔して毗に節を持たせて迎え労わせ、遂に護衛して東都に入らせた。まもなく母の喪に服するため職を去ったが、喪期が終わらないうちに、起用して職務を見させた。遼東征討の役が起こらんとする時、洛口から渠を開いて涿郡に達し、漕運を通じさせようとし、毗がその工事を監督した。翌年、右翊衛長史を兼領し、臨朔宮を営建した。遼東征討に際しては、本官のまま武賁郎将を領し、宿衛を主管した。当時、軍は遼東城を包囲しており、帝は毗に命じて城下に赴き宣諭させた。賊の弓弩が乱射し、流れ矢が彼の乗る馬に当たったが、毗は顔色を変えず、言葉の調子を抑揚させ、事を終えて去った。殿内少監に遷り、また将作少監を領した。後に再び帝に従って遼東を征討した。楊玄感が叛逆を起こすと、帝は軍を返し、高陽郡に至るまで従ったが、そこで死去した。帝は大いに悼み惜しみ、殿内監を追贈した。

史寧は、字を永和といい、建康郡表氏県の人である。曾祖父の史 は、沮渠氏に仕えて臨松県令となった。北魏が涼州を平定すると、祖父の史灌は定例に従って撫寧鎮に移住し、そこで家を定めた。父の史遵は、初め征虜府の鎧曹参軍となった。杜洛周が乱を起こすと、六鎮は互いに殺し合い、史遵は郷里の人々を率いて恒州に奔った。その後、恒州が賊に敗れると、史遵は後に洛陽に帰り、楼煩郡守に任じられた。史寧が功績を立てると、 散騎常侍 さんきじょうじ ・征西大将軍・涼州刺史を追贈され、諡を貞といった。史寧は若くして軍功により、累進して持節・征東将軍・金紫光禄大夫を加えられた。賀抜勝が荊州刺史となると、史寧は本官のまま賀抜勝の軍司となり、彼に従って任地に赴いた。時に荊州の蛮族が騒動し、三鵶路が遮断された。史寧は先鋒としてこれを平定し、蛮族を慰撫したので、彼らは一斉に降伏した。まもなく南 郢州 えいしゅう 刺史に任じられた。賀抜勝が大行台となると、史寧を大 都督 ととく に推挙した。梁の下溠戍を攻撃してこれを破り、武平県伯に封じられた。また梁の斉興鎮など九城を攻め落とした。論功行賞の前に、孝武帝が西遷され、東魏が侯景を遣わして荊州を侵すと、史寧は賀抜勝に従って梁に奔った。梁の武帝は史寧を香蹬の前に引き出し、彼に言った。「卿の風采を見ると、結局は富貴を得る者である。私は卿に錦衣で故郷に帰らせよう。」史寧は答えて言った。「臣は代々魏の恩を受け、列将の位にありました。天が長く喪乱を下し、本朝が傾覆したのに、北面して逆賊に仕えることができず、幸いにも有道の地で肩を休めることができました。もし明詔の通りになれば、欣幸これに過ぎることはありません。」涙を流して泣くと、梁の武帝もこれに動容した。梁にいること二年、賀抜勝は史寧と密かに帰国の計画を図った。史寧は言った。「朱異は既に梁の主君に信任されています。私が会いに行きましょう。」賀抜勝はその言葉を認めた。史寧は朱異に会い、心を寄せる言葉を述べ、微かに帰国を望む意を託した。その言葉と態度は上品で真摯であった。朱異も感嘆し、梁の主君に奏上したところ、果たして賀抜勝らの帰国を許した。

大統二年、梁から帰国し、爵位を侯に進めた。しばらくして、車騎将軍に遷り、涇州の事務を代行した。時に賊帥の莫折後熾が住民を略奪していたので、史寧は州兵を率いて原州事務代行の李賢と共にこれを討ち破った。東義州刺史に転じた。東魏も胡梨苟を東義州刺史とした。史寧が辛うじて州城に入ると、梨苟も到着したので、史寧は迎え撃ってこれを破り、その洛安郡守馮善道を斬った。州は国境に接し、百姓は流亡していたが、史寧は心を留めて慰撫したので、皆が帰って来て生業に戻った。涼州刺史に転じた。史寧が到着する前に前刺史の宇文仲和が州城を占拠して乱を起こしたので、詔により独孤信と史寧がこれを討った。史寧が先に涼州に到着し、禍福を説くと、城中の官吏・民衆は相次いで降伏した。宇文仲和は依然として城を守って降らなかったが、まもなくこれを陥落させた。後に驃騎大将軍・開府儀同三司に遷り、侍中を加えられ、爵位を公に進めた。

十六年、宕昌の羌族で叛いた獠甘が乱を起こし、その王弥定を追放して自立し、傍乞鉄匆や鄭五醜らと結託した。詔により史寧は軍を率いて宇文貴・豆盧寧らとこれを討った。史寧は別働隊で獠甘を攻撃したが、山路は険阻で、やっと単騎が通れる程度であり、獠甘は既にその徒党を分けて柵を築き、険要を守っていた。史寧は進軍してこれを攻撃し、遂にその柵を破った。獠甘は百余騎を率いて生羌の鞏廉玉のもとに逃げ込んだ。弥定はこうして王位に復することができた。史寧は獠甘を捕らえていないので、進軍してこれを大破し、獠甘を生け捕りにし、示衆して斬った。また鞏廉玉を捕らえて朝廷に送った。得た戦利品は全て将士に分け与え、史寧は私することはなかった。軍が帰還すると、史寧は召されて配下を率いて河陽を鎮守した。

史寧は以前涼州にいた時、戎夷はその威厳と恩恵に服していたので、転鎮した後も、辺境の人々は皆彼を慕った。西魏廃帝元年、再び涼・甘・瓜三州諸軍事・涼州刺史に任じられた。初め蠕蠕は北魏と和親していたが、後に離反した。まもなく突厥に撃破され、その主阿那瓌が殺された。逃散した部落は依然として瓌の子孫を奉じ、河右を掠奪した。史寧は兵を率いて邀撃し、瓌の子孫二人とその種族の酋長を捕らえた。これ以来、戦うごとにこれを破り、前後数万人を降伏させた。爵位を安政郡公に進めた。二年、吐谷渾が北斉に使者を通じたので、史寧はこれを撃ち捕らえ、その場で大将軍に任じられた。史寧は後に使者を周の文帝のもとに遣わして用件を請うた。周の文帝は直ちに自ら身に着けていた冠・履・衣・被および弓箭・甲冑などを史寧に賜り、その使者に言った。「私に代わって涼州(史寧)に謝せよ。孤は衣を解いて公に着せ、心を推して公に委ねた。善く始め善く終わり、功名を損なうことなかれ。」

時に突厥の木汗可汗が涼州を通り、吐谷渾を襲おうとした。周の文帝は史寧に騎兵を率いて従うよう命じた。軍が番禾に至ると、吐谷渾は既に察知して南山に奔った。木汗は兵を分けて追撃し、青海で合流するよう命じた。史寧は木汗に言った。「樹敦・賀真の二城は吐谷渾の巣窟である。今その本根を抜けば、残りの種族は自然に離散する。これが上策である。」木汗はこれに従い、直ちに両軍に分かれ、木汗は北道から賀真に向かい、史寧は樹敦に向かった。渾の娑周王が兵を率いて迎え撃ったが、史寧はこれを撃ち斬った。山を越え険を踏み、遂に樹敦に至った。樹敦は渾の旧都で、多くの珍宝が蓄えられていた。渾の主は既に賀真に奔っており、征南王と数千人を留めて固守させていた。史寧は進軍してこれを攻め、偽って退却すると、渾人は果たして城門を開いて追撃した。そこで兵を返して奮撃し、門が閉じる前に史寧の兵は城内に入った。征南王を生け捕りにし、捕虜・男女・財宝は全て突厥に帰した。渾の賀羅抜王は険阻に依って柵を築き、史寧の進路を塞ごうとしたが、史寧はこれを攻め破った。木汗もまた賀真を破り、渾の主の妻子を虜にし、多くの珍宝を獲得した。史寧は軍を青海に返し、木汗と会合した。木汗は史寧の手を握り、その勇決を嘆賞し、自ら乗る良馬を贈り、史寧に帳前でこれに乗るよう命じ、木汗自ら歩いて送った。突厥は史寧の計画は必ず破ると考え、皆彼を畏れ憚り、口々に言った。「これは中国の神智の人である。」帰還しようとする時、木汗はまた史寧に奴婢百口・馬五百匹・羊一万頭を贈った。史寧は州に戻り、まもなく召されて朝廷に入った。時に周の文帝が崩御し、史寧は悲慟やまず、陵墓に赴いて哀悼の意を尽くすことを請うとともに、遠征軍の勝利を報告した。

周の孝閔帝が即位すると、小 司徒 しと に任じられ、出向して荊州刺史・荊襄淅郢等五十二州及び江陵鎮防諸軍事となった。史寧は謀略を有し、兵権を識り、敵に臨んで指揮するのは、皆その策の通りであり、当時の称賛を大いに得た。しかし荊州に在った時は、甚だ自ら奢侈にふけり、貪濁して法度を修めなかった。かつて外出した時、ある者が州の佐官が法を曲げたと訴えた。史寧は戻ると、訴えられた者にその者を処置させた。これ以来、訴え事のある者は敢えて再び言わなくなり、名声は西州において大いに損なわれた。保定三年、州において卒去し、諡を烈といった。子の史雄が後を嗣いだ。

史雄は字を世武という。若い頃から勇敢で、膂力は人に優れ、弓馬に巧みで、計略を有した。十四歳の時、史寧に従って牽屯山で周の文帝を奉迎した。引き続き狩猟に従い、弓は虚しく発することなく、周の文帝はこれを嘆異した。まもなく周の文帝の娘である永富公主を娶った。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司に任じられ、累進して駕部中大夫・司馭中大夫となった。柱国・ 枹罕 ほうかん 公辛威に従って金城を鎮守し、遂に軍中で卒去した。時に二十四歳であった。史雄の弟は史祥である。

祥は字を世休といい、若くして文武の才幹を有していた。周に仕え、太子車右中士となり、爵位の武遂県公を襲封した。隋の文帝が即位すると、儀同に拝され、交州の事務を領し、爵位を陽城郡公に進めた。州においては頗る恵みある政績があった。驃騎将軍に転じた。陳を討伐する役において、宜陽公王世積に従って九江道より出撃し、陳の軍を破り、進んで江州を陥落させた。文帝は大いに喜び、詔を下して慰労し励ました。位を上開府に進めた。まもなく蘄州刺史に拝され、蘄州総管に遷り、召されて左領軍将軍に拝された。また行軍総管として晋王広に従い、霊武において突厥を破った。右衛将軍に遷った。仁寿年間、兵を率いて弘化に駐屯し、胡に備えた。煬帝が当時東宮にあった時、祥に書を送り、旧時に兵を行った時の事を論じ、恩旨を述べた。祥は書を作って謝意を陳べた。太子は甚だ親しく遇した。

帝位に即くと、漢王諒が乱を起こし、その将綦母良を遣わして滏口より黎陽を巡行させ、白馬津を塞ぎ、餘公理を太行より河内に下らせた。帝は祥を行軍総管とし、河陰に軍を置いたが、長く渡河できなかった。祥は軍吏に言った;'餘公理は軽率で謀略がなく、また新たに志を得て、その衆が頼りになると考え、衆を恃んで必ず驕る。かつ河北の人々は元より兵事に慣れておらず、いわゆる市人を擁して戦うもので、図るに足りない。」そこで軍中に攻具を修めさせた。公理は間者を使ってこれを知り、果たして河陽内城に兵を屯させて備えた。祥はそこで船を南岸に繋ぎ、公理は甲兵を集めてこれに対した。祥はそこで精鋭を選び、下流より密かに渡河した。公理はこれを拒んだが、陣列を成さぬうちに、祥は兵を放って大いにこれを破った。東へ向かい黎陽に趣き、綦良を討った。綦良は軍を棄てて逃走し、その衆は大いに潰えた。位を上大将軍に進め、縑彩七千段、女妓十人、良馬二十匹を賜った。太僕卿に転じた。帝はかつて祥に詩を賜って言った:「伯炯朝寄重く、夏侯親遇深し、貴耳唯だ古を聞き、賤目詎ぞ今を知らん?早く勁草の質を標し、久しく背淮の心有り、逆を掃う黎山の外、旅を振るう河の陰。功已に王府に書され、情を留むる太僕の箴。」祥は上表して辞謝した。帝の手詔に曰く:「昔歳公を労し、河朔に罪を問う。賊爾の日両関の路を塞ぎ、倉に拠り河を阻む。公誠を竭くし勇を奮い、一挙にして克つ。故に聊か懐く所を示す、亦何ぞ謝せん。」

まもなく鴻臚卿に遷り、吐谷渾征討に従軍した。祥は玉門道より出撃し、虜を撃ち破った。位を右光禄大夫に進め、右 ぎょう 衛大将軍に拝された。遼東征討の時には、蹋頓道より出撃したが、利あらず、これにより除名された。ほどなく燕郡太守に拝され、賊の高開道に包囲され、城は陥落したが、開道は甚だ礼を以て遇した。開道が羅芸と通和するに及び、祥を涿郡に送ったが、途中で卒した。子の義隆は永年令となった。

祥の弟の雲は、字を世高といい、また父の勲功により爵位の武平県公を賜った。司織下大夫、儀同大将軍、萊州刺史を歴任した。

雲の弟の威は、字を世儀といい、また父の勲功により爵位の武当県公を賜った。

権景宣は、字を暉遠といい、天水郡顕親県の人である。父の曇騰は、魏の隴西郡守となり、秦州刺史を追贈された。景宣は若くして聡明で悟りが早く、気概と侠気があり、宗族や同郷の人々は皆嘆異した。十七歳の時、魏の行台蕭宝夤がこれを見て奇異とし、軽車将軍に表奏した。宝夤が敗れると、景宣は郷里に帰った。周の文帝が隴右を平定すると、抜擢して行台郎中とした。孝武帝が西遷すると、鎮遠将軍・歩兵 校尉 こうい を授けられ、平西将軍・秦州大中正を加えられた。大統初年、祠部郎中に転じた。景宣は兵権に明るく、智略があった。周の文帝に従って弘農を抜き、沙苑を破り、いずれも先鋒として敵陣に突入した。外兵郎中に転じた。開府の于謹に従って洛陽を救援し、景宣は糧食の蓄えを監督し、軍はこれにより補給された。

当時、洛陽を回復したばかりで、宮室を修繕しようとしたところ、景宣は三千の労役者を率いて、先に出て材木を採り運んだ。ちょうど東魏の兵が到来し、司州牧の元季海らは兵が少ないため引き揚げ、付近の城は悉く叛き、道路は塞がれた。景宣は二十騎を率いて戦いながら退き、従騎はほぼ全滅した。景宣は軽馬で包囲を突破し、手ずから数級を斬り、馳せて難を免れ、人家に身を投じて隠れた。景宣は長く隠れているのは良策でないと考え、偽って周の文帝の文書を作り、五百余人を募り得て、宜陽を保ち拠り、大軍が続いて来ると声言した。東魏の将の段琛らが衆を率いて九曲に至ったが、景宣を憚って進まなかった。景宣は琛がその虚実を審らかにすることを恐れ、腹心を従えて、軍を迎えると偽り、これにより西へ遁走した。儀同の李延孫と相会し、孔城を攻め落とした。洛陽以南も、まもなく来て帰附した。周の文帝は即座に景宣を留めて張白塢を守らせ、東南の義軍を節度させた。東魏の将の王元軌が洛陽に入ると、景宣は延孫らと共にこれを撃退し、功により大行台左丞を授けられた。宜陽に進んで駐屯し、襄城を攻めてこれを抜き、郡守の王洪顕を捕らえた。周の文帝はこれを賞賛し、召し出して朝廷に入らせた。前後の功績を記録し、顕親県男に封じられ、南陽郡守に任じられた。郡は敵境に隣接し、旧制では人を発して三十五箇所を守備させたため、農桑が多く廃れ、なお奸宄が起こっていた。景宣が着任すると、これを全て廃し、ただ城楼を修築し、器械を多く備えさせたところ、寇盗は跡を潜め、人々は生業に専念できるようになった。百姓はこれを称え、碑を立てて徳を頌した。周の文帝は特に粟帛を賞与し、その才能を表彰した。広州刺史に遷った。

侯景が河南を挙げて帰附すると、景宣は僕射の王思政に従って経略し応接した。やがて侯景が南へ叛くと、東魏が再びその地を有することを恐れ、景宣を大 都督 ととく 州刺史とし、楽口に鎮守させた。東魏もまた張伯徳を刺史として遣わした。伯徳はその将の劉貴平に命じ、その戍卒と山蛮を率いて、屡々攻め迫って来た。景宣の兵は千人に満たなかったが、機に応じて奮撃し、貴平は遂に退走した。使持節・車騎大将軍・儀同三司に進めて授けられた。潁川が陥落した後、周の文帝は楽口等の諸城が道路で阻絶されているため、全て引き揚げるよう命じた。襄州刺史の杞秀は狼狽して罪を得た。景宣は号令厳明で、軍旅が整然としており、配下部隊は全員渡河でき、独り優れた賞賜を受けた。引き続き荊州に留まって鎮守し、鵶南の事務を委ねられた。

初め、梁の岳陽王蕭詧が襄陽を以て朝廷に帰順しようとし、引き続き兵を率いて江陵の梁の元帝を攻撃した。詧の叛将の杜岸が虚に乗じてこれを襲撃した。景宣はそこで騎兵三千を率いて詧を助けた。詧はこれによりその妻の王氏と子の寮を人質として送った。景宣はまた開府の楊忠と共に梁の将の柳仲礼を捕らえ、安陸・随郡を陥落させた。久しくして、随州城の住民の呉士英が刺史の黄道玉を殺し、徒党を集めて寇賊となった。景宣は英が小賊であるから、計略で取ることができ、もしその罪を声高に言えば、同悪の者が多くなる恐れがあると考えた。そこで英に書を送り、偽って道玉が凶暴であったと称し、功を英らに帰した。英らは果たしてこれを信じ、遂に相率いて到来した。景宣はこれを捕らえて誅し、その党与を捕らえた。進んで応城を攻め、これを抜き、夏侯珍洽を捕らえた。これにより応・礼・安・随の地は併せて平定された。朝廷の議論は景宣の威令が南方に及んでいるとして、そこで へい 安肆郢新応六州諸軍事・ へい 州刺史を授けた。まもなく驃騎大将軍・開府儀同三司に進め、侍中を加えられ、江州・北司州の二州諸軍事を兼ねて督し、爵位を伯に進めた。唐州の蛮の田魯嘉が自ら 州伯と号し、斉の兵を引き入れ、大いに人々に害をなした。景宣はまたこれを破り、魯嘉を捕らえ、その地を郡とした。安州刺史に転じた。梁の定州刺史の李洪遠は初め帰順したが後に叛き、景宣はその二心を抱くことを憎み、密かに襲撃してこれを破り、その家族と部衆を虜にした。洪遠は身一つで逃走し難を免れた。これより酋帥は畏服し、敢えて叛く者はいなくなった。

燕公於謹が江陵を征した際、景宣は別働隊を率いて溳水において梁の 司空 しくう 陸法和及び司馬羊亮を破った。また別の将帥を派遣して魯山を攻め落とした。多くの舟艦を造り、旗幟を一層張り巡らし、江に臨んで渡河しようとし、梁の人々を恐れさせた。梁の将王琳が湘州にいたが、景宣は書を送って禍福を説き、琳は遂に長史席壑を遣わし、景宣を通じて州を挙げて帰順を請うた。周の孝閔帝が践祚すると、召されて司憲中大夫となった。まもなく基・鄀・硤・平の四州五防諸軍事・江陵防主に任じられ、大将軍を加えられた。保定四年、 しん 公護が東征した際、景宣は別に河南を攻略した。齊の 州刺史王士良・永州刺史世怡は共に城を挙げて降った。景宣は開府謝徹に永州を守らせ、開府郭彥に 州を守らせ、士良・世怡及び降卒一千人を京師に送った。まもなく洛陽が守られなくなると、二州を放棄し、その将士を引き抜いて還った。昌州に至ると羅陽の蛮が反乱し、景宣は軍を返してこれを破った。還って霸上に駐屯すると、 しん 公護が自ら出迎えて労った。天和の初め、荊州刺史に任じられ、十七州諸軍事を総管し、爵を千金郡公に進めた。陳の湘州刺史華皎が州を挙げて帰順し、表を奉って援兵を請うた。詔により景宣が水軍を統率して皎と共に下った。景宣が夏口に到着すると、陳軍は既に来ていた。しかし景宣は任遇が隆重であったため、驕傲で恣に振る舞い、多く自らを誇り、兼ねて賄賂を受け取り、指揮や節度は朝に出して夕に改めた。将士は憤怒し、誰も命に従おうとしなかった。水軍が交戦を始めると、一時に敗走し、戦艦や器仗は少しも残らなかった。時に衛公直が諸軍を総督し、景宣が敗北の責を負ったため、軍法で裁こうとした。朝廷は罪を加えるに忍びず、使者を軍中に遣わして赦した。まもなく病に罹り卒した。河・渭・鄯の三州刺史を追贈され、諡して恭といった。

子の如璋が嗣ぎ、位は開府・膠州刺史に至った。

如璋の弟の仕玠は、儀同大將軍・廣川縣侯となった。

論うに、王盟は初め親族として朝廷に昇り、終に才能によって進達し、始めの運を勤め宣べ、周の行路に位し、実に功臣の跡に参じたが、蓋し恩沢によるものではなかった。誼は文武の奇才であり、剛正をもって忌まれたが、隋が天命を受けると、鬱然として名臣となり、末路に猖披したのは、誠に終わりを全うする者が少ないことを示す。獨孤信は威を南服に伸べ、化を西州に洽くし、信は遐方に著しく、光は鄰国に昭かで、身は免れなかったが、慶は後に延び、三代の外戚、何ぞ其れ盛んなるや。竇熾は儀錶魁梧、器識雄遠、朝政に参入すれば嘉謀を屡陳し、藩条を総べ出でれば則ち惠政斯に洽く。毅は忠蕭に上に奉じ、溫恭に下に接し、茂実は本朝に彰け、義聲は殊俗に播く。並びに国華人望をもって、道を論じ官に当たり、栄は一時に映え、慶は来葉に流る。熾が進むを勧めるに遅疑し、故きを送るの心有りしは、王公恨恨たりとも、何を以てか此れに加えん。榮定は功を以て賞を懋くし、労を以て国を定め、其の祿位を保ち、厥の子孫を貽す、盛んなり。賀蘭祥・叱列伏龜・閻慶等は、階縁戚属たりと雖も、各功名を以て自ら終わり、而して毗は製造の功有り、亦た後葉に伝うるに足る。史甯・權景宣は並びに将帥の才を以て、内外の寵を受け、戎を総べて薄伐し、克敵の功を著わし、政を布き人に蒞み、称職の誉を垂る、若し此の如き者は、豈に国の良翰に非ずや。然れども史は末年において、貨財其の雅志を虧き、權も亦た晚節に矜驕し、其の威聲を喪う、惜しいかな。楊諒が紀を幹きしも、祥獨り之を克ち、效も亦た称するに足る云爾。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻061