周惠達、字は懷文、章武郡文安県の人である。父の信は、楽郷・平舒・成平の三県の県令を歴任し、いずれも廉潔で有能と称された。惠達は幼い頃より節操を有し、読書を好み、容貌が美しかった。北魏の斉王蕭寶夤が瀛州刺史となった時、惠達及び河間の馮景を閣下に召し出し、甚だ礼遇した。寶夤が洛陽に還ると、惠達はこれに従って洛陽に入った。寶夤が西征すると、惠達は再びこれに従って関中に入った。寶夤が雍州刺史に任ぜられると、惠達を使者として洛陽に遣わした。還らぬうちに、寶夤の謀 反 が京師に聞こえた。有司は惠達がその使者であるとして、捕らえようとした。惠達はひそかに馳せて帰還した。潼関に至り、大使楊侃に遇った。侃は言った、「何故わざわざ獣の口に入るのか」。惠達は言った、「蕭王は必ず左右の者に誤らされている。今往けば、あるいは 考 えを改めるであろう」。到着した時には、寶夤の反逆の形跡は既に露わで、繕うことができなかった。そこで惠達を光禄勲・中書舎人に用いた。寶夤が敗れた後、惠達ら数人のみがこれに従った。寶夤は惠達に言った、「人生富貴の時は、左右の者皆が節を尽くすと言うが、厄難に遭って初めて、歳寒(の松柏)を知るのである」。
賀拔嶽が関中大行台となると、惠達は嶽の府の属官となった。岳が侯莫陳悦に害されると、惠達は漢陽の麦積崖に逃げ込んだ。悦が平定されると、周文帝(宇文泰)に帰順した。文帝は再び府司馬とし、直ちに任を委ねた。周文帝が大将軍・大行台となると、惠達を行台尚書・大将軍府司馬とし、文安県子に封じた。周文が華州に出鎮すると、惠達を留めて後事を知らせた。当時は喪乱の後を受け、 諸 事多く欠けていた。惠達は兵器を造営し、倉糧を蓄積し、士馬を簡閲して、軍国の務めを助け、朝廷に甚だ称賛された。後に中書令に拝され、爵位を公に進めた。大統四年、尚書右僕射を兼ねた。その年、周文が魏文帝(西魏の文帝)と共に東討するに当たり、惠達に魏の太子を補佐させて居守とし、留台の事を総括させた。芒山で敗北すると、人情は駭動した。趙青雀が長安の子城を占拠して反逆したので、惠達は太子を奉じて渭橋の北に出てこれを防いだ。軍が還ると、青雀らは誅殺された。吏部尚書に任ぜられた。久しくして、再び右僕射となった。関右は草創以来、礼楽が欠けていた。惠達は礼官と共に旧章を損益し、これによって儀軌が次第に整った。魏文帝は朝で楽が奏されるのを見て、顧みて惠達に言った、「これは卿の功績である」。惠達は顕職にありながら、性質は廉潔で謙遜し、よく人に下り、公事に心を尽くして勤め、良士を愛し抜 擢 したので、これによって皆が 敬 い親しんだ。薨去し、子の題が嗣いだ。隋の開皇初年、惠達が前代に著しい功績を挙げたことを以て、蕭国公を追封された。
馮景、字は長明、河間郡武垣県の人である。父の傑は伏与県令であった。景は若い頃周惠達と友となり、共に客として蕭寶夤に従った。寶夤が後に尚書右僕射となると、景を引き立てて尚書都令史を領させた。正光年間、寶夤が関西大行台となると、景はまた行台都令史となった。寶夤が敗れて長安に還ると、或いは罪を負って朝廷に帰ることを議し、或いは州に留まって功を立てることを言った。景は言った、「兵を擁して還らぬのは、この罪は大きくなるであろう」。寶夤は従わず、遂に反逆した。寶夤が平定されて後、景はようやく洛陽に還ることができた。朝廷は景に諫言があったと聞いたので、罪に問わなかった。後に賀拔嶽に仕えて行台郎となった。岳は景を斉の神武帝(高歓)のもとに遣わし、その行動を観察させた。神武は岳の使者が来たと聞き、甚だ喜びの色を見せて問うた、「賀拔公は果たして我を憶えているか」。直ちに景と共に歃血し、岳を兄弟として託した。景が還り、状況を報告すると、岳は言った、「これは奸計は余っているが、実質は足りない。古より王臣に私的な盟約はない。我はこれをよく考えている」。岳は北で費也頭と合し、東で紇豆陵伊利を引き入れ、西で侯莫陳悦・河州刺史梁景睿及び酋渠を総括して盟誓し、共に平涼で会し、軍を東に移して下ろうとした。専任の嫌疑を恐れ、景を使者として孝武帝(北魏の孝武帝)に啓上させた。帝は甚だ悦んだ。また岳の大 都督 府従事中郎となった。後に侯莫陳悦が平定されると、周文は景を京師に遣わして捷報を告げさせた。帝に西 遷 の意があり、関中の情勢を問うた。景は帝に西遷を勧めた。後に孝武帝を迎えた功績により、高陽県伯に封ぜられ、 散騎常侍 ・行台尚書に任ぜられた。大統初年、詔により涇州の事務を行い、官にて卒した。
蘇綽、字は令綽、武功の人、魏の侍中蘇則の九世孫である。累世二千石の家柄であった。父の協は武功郡守であった。綽は若くして学を好み、群書を 博 覧し、特に算術に長じていた。従兄の讓が汾州刺史となった時、周帝(宇文泰)が都門外で餞別した。臨別に際し、言った、「卿の家の子弟の中で、誰か任用できる者はいるか」。讓はそこで綽を推薦した。周文はそこで行台郎中に召し出した。官に在ること年余り、知られるところとはならなかった。しかし諸曹の疑わしい事案は、皆綽に諮問してから決定した。施行する公文書も、綽がその条式を作った。台中の者は皆その才能を称えた。周文が僕射周惠達と事を論じた時、惠達は答えることができず、外に出て議することを請うた。そこで綽を召し出し、その事を告げると、綽は即座に裁量して決定した。惠達が入ってこれを呈すると、周文は善しとし、言った、「誰が卿とこの議を為したのか」。惠達は綽と答えたので、その王佐の才があると称えた。周文は言った、「我もまた久しく聞いている」。間もなく著作佐郎に任ぜられた。
時に周文が公卿と共に昆明池へ行き漁を観ようとし、城西の漢代の旧倉の地に至った時、左右に顧みて問うたが、知る者はいなかった。或る者が言った、「蘇綽は博物に通じています。彼に問うてみてください」。周文はそこで綽を召して問うと、詳しく状況を答えた。周文は大いに悦び、天地造化の始まり、歴代興亡の跡を問うた。綽は弁舌に優れ、応対が流れるようであった。周文はますますこれを嘉し、綽と並んで馬を緩やかに進めて池に至り、遂に網を設けずに還った。そこで綽を夜まで留め、政道を問い、臥してこれを聴いた。綽はここにおいて帝王の道を指摘し述べ、兼ねて申不害・韓非の要諦を述べた。周文は起き上がり、衣を整えて端座し、知らず知らずのうちに膝を前に進めた。語りは遂に夜明けまで及んで飽きることがなかった。翌朝、周惠達に言った、「蘇綽は真に奇士である。我は今より政を彼に任せよう」。即座に大行台左丞に拝し、機密に 参 与させた。これより寵遇は日増しに盛んとなった。綽は初めて文案の程式を制定し、硃出墨入(判決は朱で書き、下僚の受け取りは墨で書く)及び計帳・戸籍の法を定めた。
大統三年、斉の神武帝が三方向から侵入し、諸将は皆兵を分けて防ごうとしたが、綽のみの意見が周文と同じであった。そこで力を合わせて竇泰を拒み、潼関でこれを生け捕りにした。美陽県伯に封ぜられた。十一年、大行台度支尚書を授けられ、著作を領し、司農卿を兼ねた。
周文は時政を改革し、強国富人の道を弘めようとしていたので、綽はその知能を尽くして、これを賛成し成就させた。官員を減らし、二長(党長・里長)を置き、併せて屯田を設置して軍国を資した。また六条の詔書を作り、施行するよう上奏した。
およそ今の地方長官・郡守・県令は、皆天朝より命を受け、下国に臨んで治める。その尊貴さを論ずれば、皆古の諸侯に並ぶものである。それ故に前代の帝王は、しばしば天下を共に治める者は良き宰守のみであると称した。百僚・卿尹はそれぞれ司る所があるとはいえ、民を治める根本は、守宰ほど重要なものはないことを明らかに知っていたのである。およそ民を治める要諦は、まず己が心を治めることにある。心は一身の主であり、百行の根本である。心が清静でなければ、思慮が妄りに生ずる。思慮が妄りに生ずれば、道理を見るのが明らかでなくなる。道理を見るのが明らかでなければ、是非が 謬 り乱れる。是非が既に乱れれば、一身すら治めることができず、どうして民を治めることができようか。それ故に民を治める要は、心を清くすることのみにある。
次にまた、身を治めることが必要である。およそ人君の身は、百姓の表であり、一国の的である。表が正しくなければ、直き影を求めることはできず、的が明らかでなければ、射中ることを責めることはできない。今、君の身が 自 ら治められずして、百姓の治まることを望むのは、曲がった表で直き影を求めるようなものである。君の行いが自ら修められずして、百姓に行いを修めさせようとするのは、的なくして射中ることを責めるようなものである。故に人君たる者は、必ず心は清水の如く、形は白玉の如く、自ら仁義を行い、自ら孝悌を行い、自ら忠信を行い、自ら礼譲を行い、自ら廉平を行い、自ら倹約を行い、その後倦むことなく継続し、明察を加えねばならない。この八つを行って民を訓育するのである。そうすれば民は畏れてこれを愛し、則ってこれに象り、家ごとに教え日々に見せずとも、自ずから善行が興るのである。
天地の性において、人を以て最も貴しとする。その中和の心、仁恕の行いありて、木石と異なり、禽獣と同からざることを明らかにするが故に、これを貴ぶのである。然れども性は常に守る所なく、化に随って遷る。敦朴に化すれば質直となり、澆偽に化すれば浮薄となる。浮薄は衰弊の風であり、質直は淳和の俗である。衰弊なれば禍乱交々興り、淳和なれば天下自ずから治まる。古より安危興亡、化によるにあらざるはない。
然れども世道凋喪すること、既に数百年。大乱甚だしく滋むこと、二十載に及ぶ。人は徳を見ず、ただ兵革を聞くのみ。上に教化なく、ただ刑罰を用いるのみ。而して中興始まったばかり、大難未だ弭がず、これに師旅を加え、饑饉に因る。およそ百事草創、多くは権宜の策である。礼譲興らず、風俗未だ反らざるに至らしめた。近年やや収穫あり、徭賦稍々軽く、衣食切実ならざれば、則ち教化修めるべし。およそ諸々の牧守令長は、各々心を洗い意を革め、上は朝旨を承け、下は教化を宣べるべきである。
化というものは、淳風を以て扇ぎ、太和を以て浸し、道德を以て被い、樸素を以て示すことを貴ぶ。百姓をして勤勉に、日に善に遷らしめ、邪偽の心、嗜欲の性を、潜かに消化して、その然る所以を知らしめざる、これを化という。その後、孝悌を以て教え、人をして慈愛ならしめ、仁順を以て教え、人をして和睦ならしめ、礼義を以て教え、人をして敬譲ならしめる。慈愛なればその親を遺さず、和睦なれば人に怨みなく、敬譲なれば物に競わず。この三者既に備われば、則ち王道成る。これを教という。先王が風俗を移し易え、淳朴に還り素に反り、拱手して天下に臨み以て太平に至る所以は、皆これによる。これを要道という。
人は天地の間に生まれ、衣食を以て命とする。食足らざれば飢え、衣足らざれば寒さを覚える。飢寒体を切る時に、人をして礼譲を行わしめんと欲するは、これ坂を逆らって丸を走らせるが如く、勢い得べからざる所である。故に古の聖王はこの若きを知り、先ずその衣食を足らしめ、その後教化これに随う。衣食足る所以は、地利尽くすによる。地利尽くす所以は、勧課方有るによる。この教えを主るは、牧守令長に在るのみ。人は冥なり、智自ら周からず、必ず勧教を待ちて後にその力を尽くすを得る。諸州郡県は、歳首に至る毎に、必ず部人を戒め勧め、少長を問わず、農器を操持し得る者は、皆田に就かしめ、時に従って墾発し、その所を失わしめぬようにせよ。布 種 既に終わり、嘉苗理めを 須 い、麦秋野に在り、蚕室に停まる、この如き時は、皆宜しく少長 悉 く力を尽くし、男女並びに功を為し、湯を揚げて火を救い、寇盗将に至らんとするが如くせよ。然る後に農夫その業を失わず、蚕婦その功に就くを得しめん。遊手怠惰、早く帰り遅く出で、逸を好み労を悪み、事業に勤めざる者あれば、則ち正長名を牒して郡県に上し、守令事に随って罰を加え、一を罪して百を勧むべし。これ明宰の教えである。
百畝の田は、必ず春にこれを耕し、夏にこれを種し、秋にこれを収め、然る後に冬にこれを食う。この三時は、農の要月である。若しその一時を失えば、則ち穀を得て食うこと能わず。故に先王の戒めに曰く、「一夫耕さざれば、天下必ずその飢えを受くる者有り。一婦織さざれば、天下必ずその寒さを受くる者有り」と。若しこの三時に、 省 事に務めずして、人をして農を廃せしむるは、則ち人の命を絶ち、死に就かしむるが如きものである。単劣の戸及び牛無き家には、有無相通ずることを勧め令し、兼ねて 済 わしめよ。三農の隙及び陰雨の暇には、又た人を教えて桑を植え果を植え、その蔬菜を藝し、その園圃を修め、鶏豚を畜育し、以て生生の資に備え、養老の具を供えしむべし。
政を行うには過ぎて煩瑣であってはならず、煩瑣であれば人は煩う。勧課も亦た余りに簡略であってはならず、簡略であれば人は怠る。善く政を行う者は、必ず時宜に消息して煩簡の中に適う。故に詩に曰く、「剛からず柔からず、政を布くこと優優たり、百祿是を求む」と。もしこの如くできなければ、則ち必ず刑辟に陥るであろう。
天は蒸黎を生みて自ら化す能わず、故に必ず君を立ててこれを治む。人君独り治む能わず、故に必ず臣を置いてこれを佐く。上は帝王より、下は列国に及び、臣を置くに賢を得れば則ち安く、賢を失えば則ち乱る。これは自然の理にして、百王も易うること能わざる所である。
今、刺史・県令は悉く僚吏あり、皆佐助の人である。刺史府官は則ち天朝より命ぜられ、その州吏以下は、並びに牧守自ら置く。昔より以来、州郡の大夫は、ただ門地資歴を取るのみで、多く賢良を択ばず。末曹の小吏は、ただ刀筆を試みるのみで、並びに志行を問わない。門資というものは、先世の爵禄であり、子孫の愚瞽を妨げるものではない。刀筆というものは、身外の末材であり、性行の澆偽を廃するものではない。若し門資の中に賢良を得れば、これは騏驥を策して千里を取るが如くである。若し門資の中に愚瞽を得れば、これは土牛木馬、形は似て用は非なり、道を渉るべからざるものである。若し刀筆の中に志行を得れば、これは金相玉質、内外俱に美しく、実に人の宝である。若し刀筆の中に澆偽を得れば、これは朽木に飾り画き、目を悦ばすは一時、榱椽の用を充たすべからざるものである。今の選挙は、資蔭に限るべからず、ただ人を得るに在る。苟くも其人を得れば、自ずから廝養より起して卿相と為すことを得、則ち伊尹・傅説これである。況んや州郡の職においてをや。苟くも其人に非ざれば、則ち丹朱・商 均 と雖も帝王の胤なりと雖も、百里の封を守る能わず。況んや公卿の胄においてをや。これによりて言えば、官人(人を官に任ずる)の道見るべし。
およそ材藝を求むる所以は、その人を治むるに足るがためなり。もし材藝ありて正直を本と為す者あらば、必ずその材を以て治むることを為さん。もし材藝ありて奸偽を本と為す者あらば、その官に因りて乱をなさん、どうして化を致すこと得んや。ここをもって材藝を求めんと欲すれば、必ず先ず志行を択び、善き者はこれを挙げ、その志行善からざる者はこれを去るべし。
しかるに今人を択ぶ者、多くは邦国に賢無しと云い、挙ぐべきを知らず。これは未だこれを思わざるなり、理に適う論にあらず。その所以然る所以は、古人に言あり。 明主聿 に興りて、昊天に佐を降さず。大人命を 基 むるも、后土に才を擢かず。常に一世の人を引き、一世の務を治む。故に殷・周は稷・契の臣を待たず、魏・晋は蕭・曹の佐を 仮 らず。仲尼曰く、「十室の邑といえども、必ず忠信丘の如き者有り。」豈に万家の都にして、士無しと云わんや。ただこれを求むること勤からず、これを択ぶこと 審 らかならず、あるいはこれを授くるにその所を得ず、これを任ずるにその材を尽くさざるが故に、無しと云うのみ。古人云く、「千人の秀を英と曰い、万人の英を俊と曰う。」今、一官に智を 效 し、一邦に行いを聞こゆる者は、豈に近き英俊の士に非ざらんや。ただ能く勤めてこれを審らかにし、虚を去り実を取り、各々州郡の最を得てこれを用いれば、則ち人の多少を論ぜず、皆化に足る。誰か賢無しと云わん。
そもそも良玉未だ 剖 かれざれば、瓦石と類を同じくし、名驥未だ馳せざれば、駑馬と 雑 わる。その剖きてこれを 瑩 き、馳せてこれを試みるに及んで、玉と石、駑と驥、然る後に始めて分かる。かの賢士の未だ用いられざるや、凡品に混じ、 竟 に何を以て異ならん。要は事業を以てこれを任じ、成務を以てこれを責めれば、方にかの庸流と較然として同じからず。あるいは呂望の屠釣、百里奚の飯牛、 寧 生の角を 扣 く、管夷吾の三敗、この時に当たりて、悠悠の徒、豈にその賢を謂わんや。王朝に昇り、覇国に登り、数十年を積み、功成り事立ちて、始めてその奇士たるを識る。ここにおいて後世これを称し、口に容れず。かの環瑋の才、世にまれなる傑、尚お未だ遇わざるの時において、自ら凡品より異なることを得ず、況んやこれより降る者においてをや。もし必ず太公を待ちて後に用いんとすれば、これは千載太公無し。必ず夷吾を待ちて後に任ぜんとすれば、これは百世夷吾無し。その所以然る所以は、士は必ず微よりして著に至り、功は必ず小を積みて大に至る。豈に未だ任ぜられずして已に成り、用いられずして先に達する者あらんや。もしこの理を識れば、則ち賢は求め得べく、士は択び得べし。賢を得てこれを任じ、士を得てこれを使わしめば、則ち天下の理、何に向かってか成すべからざらん。
然るに官人を善くする者は、必ず先ずその官を省く。官省ければ、則ち善人充たし易し。善人充たし易ければ、則ち事治まらざる無し。 官煩 わしければ、則ち必ず不善の人を雑う。不善の人を雑えば、則ち政必ず得失有り。故に語に曰く、「官省ければ則ち事省く、事省ければ則ち人清し。官煩わしければ則ち事煩わし、事煩わしければ則ち人濁る。」清濁の 由 って来たる所は、官の煩省に在り。案ずるに今の吏員、その数少なからず。昔人は 事殷 く広しと雖も、尚お能く済し得たり。況んや今、戸口減耗せるにおいてをや。員に依りて置くも、猶お少なしと為す。聞くに下の州郡に在りては、尚お兼ね仮る有り、細人を擾乱し、甚だ理無し。これら諸の如き輩は、悉く宜しく 罷黜 すべく、常に習うこと無かるべし。
ただ州郡の官のみに非ず、宜しく善人を須うべく、 爰 に至りては党族閭里の正長の職も、皆当に審らかに択び、各々一郷の選を得て、以て相監統すべし。そもそも正長は、人を治むるの基なり。基傾かざれば上必ず安し。
およそ賢を求むるの路は、自り一途に非ず。然れどもこれを得て審らかなる所以は、必ず任じてこれを試み、考えてこれを察するに由る。居家より起こり、郷党に至り、その所以を訪い、その由って来たる所を観れば、則ち人道明らかにして、賢と不肖と別つ。これを 率 いて求めれば、則ち 庶 うくんば 愆悔 無からん。
その五、獄訟を 恤 む。曰く、
人は陰陽の気を受けて生まるるに、情有り性有り。性は則ち善を為し、情は則ち悪を為す。善悪既に分かれれば、賞罰これに随う。 賞罰中 れば、則ち悪止みて 善勧 めらる。賞罰中らざれば、則ち人の手足措く所無く、則ち怨叛の心生ず。ここをもって先王これを重んじ、特に戒慎を加うる者は、獄を察するの官をして、 精 しく心を悉くし、根源を推究せしめんと欲するなり。先ずこれに五聴を以てし、証験を以てこれを参ず。情状を 妙 に 睹 、陷伏を 窮 めて 鑒 み、奸の容るる所無からしめ、罪人必ず得しむ。然る後に事に随いて刑を加え、軽重皆当たり、過を捨て愚を 矜 み、情を得て喜ばず。又能く情理を消息し、礼律を 斟 酌 して、人心を曲げ尽くさざる無く、而して遠く大教を明らかにし、罪を得る者をして帰するが如からしむ。これは善の上なる者なり。然れども宰守一ならず、人人皆通識有ることを得べからず。理を推して情を求めんとすれば、時に或いは尽くし難し。ただ当に至公の心を率い、阿枉の志を去り、務めて曲直を求め、平当を尽くさんことを念うべし。聴察の理は、必ず見る所を窮め、然る後に法を以て拷訊し、苛からず暴ならず、疑い有れば則ち軽きに従い、未だ審らかならざれば妄りに罰せず、事に随いて理を断じ、獄停滞する無し。これ亦其次なり。若し乃ち仁恕せずしてその残暴を 肆 にし、人を木石に同じくし、専ら捶楚を用うるに至らば。巧詐なる者は、 事彰 なりと雖も免れ、辞弱き者は、乃ち罪無くして罰せらる。この如き者有らば、これは則ち下なり、共理の寄する所に非ず。今の宰守は、当に中科に勤めて、その上善を慕うべし。下条に在るが如きは、則ち刑の赦さざる所なり。
又当に遠大を深思し、徳教の存するを念うべし。先王の制に曰く、無辜を殺すに、罪有るを赦すに寧れん。善を害するに、淫を利するに寧んぜん。明らかに必ず中を得ずんば、寧ろ罪有るを濫りに捨てて、善人を謬って害すること無からしむ、と。今の政に従う者は則ち然らず。深文巧劾し、寧ろ善人を法に致して、罪有るを刑に免れしめんとす。その所以然る所以は、皆人を殺すを好むに非ず、ただ吏と為るには寧ろ酷なるべく、後患を免るべしと云うのみ。これは情自便に存し、至公を念わざるなり。法を奉ずることこの如くんば、皆奸人なり。そもそも人は、天地の貴き物にして、一たび死すれば復た生くること得ず。然るに楚毒の下、痛みに自ら 誣 い、申理せられずして、遂に刑戮に陷る者は、将に恐らく往往にして有らん。ここをもって古より以来、五聴三宥の法を設け、明慎庶獄の典を著わすは、これ皆人を愛すること甚だしきなり。およそ木を伐り草を殺し、田獵順わざるも、尚お時令に違いて帝道を 虧 く。況んや刑罰中らず、善人を濫りに害するにおいてをや。寧ろ天心を傷つけず、和気を犯さざらんや。和気損なわれて陰陽調適し、四時順育し、万物阜安し、蒼生悦楽せんと欲するは、得べからざるなり。故に語に曰く、一夫籲嗟すれば、王道これがために傾覆す、と。正にこれを謂うなり。およそ百の宰守、慎むこと無かるべけんや。
もし深奸巨猾にして、化を傷け俗を敗り、人倫に悖乱し、忠ならず孝ならず、故に道に背きて為す者は、一を殺して百を利し、以て王化を清むるには、重刑も可なり。この二途を識れば、則ち刑政尽くるなり。
聖人の大宝は位と曰う。何を以てか位を保つ、仁と曰う。何を以てか人を聚む、財と曰う。先王必ず財を以て人を聚め、仁を以て位を保つことを明らかにす。今寇逆未だ平らかならず、軍国の費広し。未だ 遑 あらずして減省し、人の 瘼 を恤むるに至らずと雖も、然れども宜しく平均ならしめ、下に怨み無からしむべし。平均とは、豪強を捨てずして貧弱を征せず、奸巧を 縦 にせずして愚拙を困らざるを謂う。これ之を均と謂うなり。故に聖人曰く、「蓋し均しければ貧無し」と。
しかし財貨の生産は、その功労が容易ではない。紡績や織物は、漸進的に始まるものであり、十日ほどの間に急いで作り上げられるものではない。必ず勧め課して、事前に営み管理させねばならぬ。絹の郷では先んじて織紝に取り組み、麻の土地では早くから紡績を修める。時期より先に準備し、時節になれば納入する。それゆえ王の賦税は供給を得、下民は困窮しない。もし事前に勧告戒めず、臨時に逼迫すれば、また遅滞を恐れ、己の過失とし、鞭打ちが交々至り、目前の調達を迫る。富商大賈はこれに乗じて利を射、持つ者は彼らに従って高く買い、持たぬ者は彼らから利息付きで借りる。租税を納める者は、ここに弊害を受ける。
租税の時期には、大まかな規定はあるが、貧富を斟酌し、先後を差等することは、すべて正長に起こり、守令に係る。もし斟酌が適切であれば、政は和し人は悦ぶ。もし検査管理に方策がなければ、吏は奸し人は怨む。また徭役を差発するに、多く留意せず、貧弱な者には重い徭役や遠方の戍守を課し、富強な者には軽い使役や近防を課すことがある。守令がこのような心持ちで、民を恤れむ心を持たぬのは、皆、王政の罪人である。
周の文帝(宇文泰)はこれを非常に重んじ、常に座右に置いた。また百官に習誦させ、牧守令長で六条及び計帳に通じない者は、官に居らせなかった。
晋の末以来、文章は浮華を競い、遂に習俗となった。周の文帝はその弊を革めんとし、魏帝の宗廟祭祀に際し、群臣が皆参集したのを機に、蘇綽に大誥を作らせ、奏上して施行させた。その詞は次の通りである。
中興十一年(西暦546年)仲夏、諸邦の百官は、皆王庭に会した。柱国泰及び群公列将、来朝せざるはなかった。時に大いに百の憲法を考へ、諸邦に敷き、我が王の法度を安んずる。皇帝曰く、「昔、堯は羲和に命じ、百工を 允 に治めしめた。舜は九官を命じ、諸々の功績は皆盛んになった。武丁は傅説に命じ、よく高宗と号された。まさに美事である、朕はこれを敬って従おう。汝ら位ある者よ、皆我が太祖の庭に至れ、朕は汝らにその官を大いに命じよう。」
六月丁巳、皇帝は太廟に朝して至り、凡そその具僚は、位に在らざるはなかった。
皇帝曰く、「我が元輔・群公・列将・百辟・卿士・庶尹・御事に告ぐ。朕は祖宗の霊命を敬って敷き、先王の典訓に稽え、以て在位の汝らに大いに誥す。昔、我が太祖神皇は、明命を受け始め、我が皇基を創められた。烈祖・景宗は、四方を開拓し、武功を平定された。文祖に至っては、文徳を広く敷かれた。武考(宇文肱)は、その旧を墜とさなかった。それ以降、陵夷の弊が起こり、大難が東土(東魏)に興り、我が黎庶は皆、塗炭に墜ちた。朕一人、武功を継ぎ、日夜畏れ慎み、大河を渡るが如く、渡る術を知らない。ここに帝典に稽え、王度に揆い、我が民の病苦を拯わんとする。かの哲王は、我に通訓を示し、『天は黎蒸(民)を生むも、自ら治めることができず、上帝は叡聖を降監し、元后を立ててこれを治めさせる。時に元后は独りで治めることができず、広く明徳を求め、百辟群吏に命じてこれを補佐させる。天が辟(君主)に命じ、辟が臣下に命ずるのは、ただ民を恤れむためであり、安逸楽しむためではない。辟は元首、庶黎は足、股肱は補佐である。上下一体、各々その司る所に勤め、これによって皇極に至る。』故にその常訓に曰く、『后(君主)がその后たることを艱難とし、臣がその臣たることを艱難とすれば、政は治まる。』今、朕一人、天の祐けを受け、既に元后に登った。股肱たる百辟は、我が国家の命に服し、その職を守らざるはない。ああ、后がその后たることを艱難とせず、臣がその臣たることを艱難としなければ、政はどうして乱れないことがあろうか。嗚呼、艱難であることよ!凡そ汝ら在位の者、敬って命を聴け。」
皇帝曰く、「柱国(宇文泰)よ、四海がうまくいかぬこと、既に二紀を経た。天は我が太祖・烈祖の命を絶たず、用いて我に元輔を賜うた。国家が傾かんとする時、公は棟梁である。皇極が正しからぬ時、公は宰相となる。百揆が法度を失う時、公は大録(総録)である。公はまさに文にも武にもよく、明らかに治め、七徳を導き、九功を敷き、暴を平げ乱を除き、下には我が蒼生を安んじ、傍らには九正に施し、伊尹が商に在り、周に呂尚が有り、傅説が武丁を補佐したように、我が無疆の祚を保たんことを。」
皇帝曰く、「群公、太宰・太尉・ 司徒 ・ 司空 よ。公らは朕の鼎の足となり、朕の身を補佐する。宰は天官たり、六職をよく調和させる。尉は武を司り、武は戈を止むるに在り。徒は衆を司り、敬って五教を敷く。空は土を司り、利用厚生を図る。この三事(三公の職務)は、天の三階の如く、この四輔(三公と宰相)は、四時が歳を成すが如し。天の工(仕事)は人が代わるのである。」
皇帝曰く、「列将よ、汝らは鷹揚の如く、朕の爪牙となる。寇賊奸宄、蛮夷が夏を乱す時、汝らは征伐に往け。恵みをもって安んじ、威をもって督め、刑は刑なきを期し、万邦ことごとく寧んぜしめよ。八表の内、朕の命に背かざらしめるは、汝らの功である。」
皇帝曰く、「諸邦の列辟(諸侯)よ、汝らは土を守り、人の父母となる。人はその飢えに勝たぬ故に、先王は農を重んじた。その寒さに勝たぬ故に、先王は女工(織物)を貴んだ。人が孝慈に率わなければ、骨肉の恩は薄くなる。礼譲に敦くなければ、争奪の芽が生ずる。この六つの事柄(農・工・孝・慈・礼・譲)こそ、実に教えの根本である。嗚呼、上に立つ者は寛容であることを要す。寛容すぎれば人は怠る。礼をもってこれを整え、剛からず柔からず、道に極まりを稽えるのだ。」
皇帝曰く、「卿士・庶尹・凡そ百の御事よ、王の省察は歳の如く、卿士は月の如く、庶尹は日の如く、御事は時の如し。歳月日時、その度を易えず、百の憲法ことごとく正しく、諸々の功績は凝る(成就する)。嗚呼、王の官たる者は、万国を陶冶均しくし、天に斗(北斗)が有るが如く、元気を斟り、陰陽を酌み、その和を失わず、蒼生は永く頼む。その序に悖れば、万物は傷つく。まさに艱難な時である。」
皇帝曰く、「天地の道は、一陰一陽である。礼俗の変遷は、一文一質である。三皇五帝以来今日に至るまで、ただ相革するのみならず、その弊を救うのであり、ただ相襲うのみならず、その久しきを得るのである。我が魏(西魏)は、周の末流を承け、秦・漢の遺弊に接し、魏・晋の華やかで虚誕な風を襲い、五代(晋・宋・斉・梁・陳? 或いは北魏以降か)の薄い風俗により、未だ革めず、将に俗を穆(美)しくし化を興さんとするも、どうして至ることができようか!ああ、我が公輔・庶僚・列辟よ、朕は徳なきを思い、その一心力を尽くし、ただその艱難を慎み、前代の王の大いなる輝かしい業績をよく遵奉し、敢えて怠り荒らすことはしない。汝ら在位の者に告ぐ、また朕の心に協力し、徳を敦くし元(善)を允にし、ただその艱難を務めよ。その華をよく棄て、その実に即き、その偽に背き、その誠を崇めよ。過ち忘れることなく、一に三代の常典に合わせ、道徳仁義に帰し、以て我が祖宗の大命を保て。天の美を荷い、よく我が万方を安んじ、永く我が黎庶を康らかにせよ。戒めよ、朕の言は再びせぬ。」
柱国泰及び庶僚百辟は、手を拝し頭を稽して曰く、「『まことに聡明にして、元后となり、元后は人の父母となる』。三皇五帝の王は、皆この道に従い、用いて刑措(刑罰を措く)に至った。それ以降、千載を経ても聞かなかった。帝は功を念い、将に衰世を反し、遠く雍熙(太平)に致さんとし、ここに大命を我が群臣に降し賜う。博きかな王の言、言うことは難しくなく、行うことが実に難しい。臣ら聞く、『初め有らざるはなく、終わりを 克 くするは 鮮 ない』と。商書に曰く、『終始唯一にして、徳は日新たなり』と。帝がその始めを敬い、その終わりを慎み、以て日新たなる徳に登らせ給わば、我が群臣、敢えて夙夜、この美を対揚せざらんや!この大いなる道理が、未だ四表に光り輝かず、徳を 邁 く種え、九域の幽遠なる所までも、皆明らかに元后の明訓を奉じ、道に遷い、永く無疆の美を 膺 けんことを。」
これより後は、文筆は皆この文体に依った。
蘇綽は質素倹約を旨とし、産業に従事せず、家に余財無し。天下未だ平らかならざるを以て、常に天下を己が任と為す。広く賢俊を求め、共に政道を弘め、凡そ推薦して達せしむる者は、皆大官に至る。周の文帝も心を推して委任し、間然たる言無し。或いは出遊する時は、常に予め空紙に署名して綽に授け、若し処分を須うる有らば、則ち事に随って施行せしむ。還りて後、啓して知らしむるのみ。綽は常に国を治むる道は、人を愛すること慈父の如く、人を訓うること厳師の如くすべしと謂う。毎に公卿と議論するに、昼より夜に達し、事の巨細を問わず、掌を指すが若し。思慮を積み労倦し、遂に気疾を成す。十二年、位に卒す。時に年四十九。
周の文帝は之を痛惜し、哀しみ左右を動かす。将に葬らんとす、乃ち公卿等に謂ひて曰く、「蘇尚書は平生謙遜にして、儉約を尚ぶ。吾其の素志を全うせんと欲すれど、便ち恐らくは悠悠の徒、未だ達せざる所有らん。若し其の贈諡を厚く加へば、又宿昔相知の道に乖く。進退惟れ穀にして、孤疑ふ有り」と。 尚書令 史麻瑤、次を越えて進みて曰く、「昔晏子は斉の賢大夫なり、一の狐裘三十年。其の死するに及びて、遣車一乗。斉侯其の志を奪はず。綽既に操履清白にして、廉挹自ら居る。愚謂はく、宜しく儉約に従ひ、以て其の美を彰すべし」と。周の文帝善しと称し、因りて瑤を朝廷に薦む。及て綽武功に帰葬せらるるに、唯布車一乗を載するのみ。周の文帝と群公は、皆歩み送りて同州の郭外に出づ。周の文帝親しく車後に於て酒を酹し、言ひて曰く、「尚書平生の為す事、妻子兄弟の知らざる者も、吾は皆之を知る。惟だ爾のみ吾が心を知り、吾爾が意を知る。方に天下を共に定めんと欲す、不幸遂に吾を捨てて去る、奈何!」と。因りて声を挙げて慟哭し、覚えず卮手に墜つ。葬日の至り、又使いを遣はして太牢を以て祭り、周の文帝自ら其の文を為す。
綽は又『仏性論』『七経論』を著し、並びに世に行はる。周の明帝二年、綽を以て文帝廟廷に配享す。子の威嗣ぐ。
威は字を無畏とす。少くして至性有り、五歳にして父を喪ひ、哀毀すること成人の若し有り。周の文帝の時、美陽県公の爵を襲ぎ、郡の功曹に仕ふ。大塚宰宇文護之を見て礼し、其の女新興公主を以て妻と為す。威は護の権を専らにするを見、禍の己に及ぶを恐れ、山に逃げ入る。叔父に逼せられ、卒ひに免るることを獲ず。然れども毎に山寺に居り、諷読を以て娯びと為す。未だ幾ばくもせず、持節・車騎大将軍・儀同三司を授けられ、改めて懐道県公に封ぜらる。武帝親しく万機を総べ、稍伯下大夫に拝す。前後に授けらるる所、並びに疾を辞して拝せず。
従父妹有りて河南の元世雄に適す。世雄先に突厥と隙有り、突厥朝に入り、世雄及び其の妻子を請ひ、将に甘心せんとす。周遂に之を遣す。威は夷人の利に昧きを以て、遂に田宅を標売し、資産を罄くして世雄を贖ふ。論者之を義とす。宣帝位を嗣ぎ、就いて開府を拝す。
隋の文帝丞相と為るや、高熲屡其の賢を言ひ、亦素より其の名を重くし、臥内に召し入れ、語りて大いに悦ぶ。月余り居るに、威禅代の議を聞き、遁れて田里に帰る。高熲追ひ之を請ふ。帝曰く、「此れ吾が事に預らんと欲せざるなり、暫く之を措け」と。及て禅を受け、徴して太子少保に拝し、其の父を追贈して邳国公と為し、威を以て之を襲がしむ。俄かに納言を兼ね、威上表して譲りを陳ぶ。優詔して許さず。
帝嘗て文献皇后と対觴し、威及び高熲・楊素・広平王雄の四人を召し、謂ひて曰く、「太史言ふ、朕が祚運は三年に尽くると。朕憂懣す、故に此の酒を挙ぐる耳。今南山の険処を営み、公等と之を固め、以て時変を観んと欲す、将に如何」と。威進みて曰く、「周の文王は徳を修め、旋て地動の災を除き、宋の景公は一言にて、法星を三舎退けしむ。願くは陛下は徳度を恢崇し、天の休を享けよ。若し徳を棄て険に恃まば、同舟の人、誰か敵国に非ざらんや!縦ひ南山の岨有りと雖も、安んぞ固むるに足らんや」と。帝其の言を善しとし、之に属して酒す。
初め、威の父綽は魏に在りて、国用足らざるを以て、徴税法を為し、頗る重しと称せらる。既にして歎きて曰く、「為す所の者は正に張弓の如し、平世の法に非ず。後の君子、誰か能く之を弛めん」と。威其の言を聞き、毎に以て己が任と為す。是に至り、賦役を減ずるを奏し、務めて軽典に従ふ。帝悉く之に従ふ。漸く親重せられ、高熲と朝政を参掌す。威は宮中に銀を以て幔鉤と為すを見、因りて盛んに節儉の美を陳べ、帝に諭す。帝為に容を改め、旧物の雕飾を悉く除毀せしむ。帝嘗て一人に怒り、将に之を殺さんとす。威閣に入り進みて諫む、納れず。帝怒り甚だしく、将に自ら出でて之を斬らんとす。威当前に去らず、帝之を避けて出づ。威又帝を遮り止む、帝衣を拂ひて入る。良久くして、乃ち威を召して謝し曰く、「公能く是の若くせば、吾憂ひ無し」と。是に於て馬二匹・銭十余万を賜ふ。歳余りして、尋いで復た大理卿・京兆尹・御史大夫を兼ね、本官悉く旧の如し。持書侍御史梁毗、威を劾して五職を兼領し、繁に安んじ劇に恋ひ、賢を挙げて自ら代るる心無しとす。帝曰く、「蘇威は朝夕孜孜として、志は遠大に存し、賢を挙ぐるに闕有りと雖も、何ぞ遽かに之を迫らん」と。顧みて威に謂ひて曰く、「之を用ふれば則ち行はれ、之を捨つれば則ち蔵る、唯だ我と爾と是れ有るか」と。因りて朝臣に謂ひて曰く、「蘇威我に遇はざれば、以て其の言を措く無く、我蘇威を得ざれば、何を以て其の道を行はん。楊素は才弁双ぶ無しと雖も、古今を斟酌し、我を助けて化を宣ぶるに至りては、威の匹に非ず。蘇威若し乱世に逢はば、商山の四皓、豈に易く屈せんや」と。其の重んぜらるること此の如し。
未だ幾ばくもせず、刑部尚書を拝し、少保・御史大夫の官を解く。後京兆尹廃せられ、雍州別駕を検校す。時に高熲と威は心を同じくし、協賛して政刑を掌り、大小と無く之を籌はざる無し。故に革運数年、天下平らかなりと称す。俄かに戸部尚書に転じ、納言は旧の如し。山東諸州の人饑ふるに属し、帝威に令して之を振恤せしむ。吏部尚書に遷り、兼ねて国子祭酒を領す。隋は戦争の後を承け、憲章踳駁す。帝朝臣に令して旧法を厘改し、一代の通典と為さしむ。律令格式多くは威の定むる所。世以て能と為す。九年、尚書右僕射を拝す。其の年、母憂を以て職を去り、柴毀骨立す。勅して殷勤に勉諭す。未だ幾ばくもせず、起して事を視せしむ。固く辞す。優詔して許さず。明年、帝 并 州に幸し、命じて高熲と同しく留事を総べしむ。俄かに行在所に詣るを追ひ、人訟を決せしむ。
尋いで令して持節を以て江南を巡撫せしめ、便宜従事するを得しむ。会稽を過ぎ、五嶺を逾えて還る。江表は晋已来、刑法疏緩にして、代族貴賤、相陵越せず。陳を平げたる後、牧人者尽く之を改變し、長幼と無く悉く之をして五教を誦せしむ。威之に煩鄙の辞を加ふ。百姓嗟怨す。使い還りて、江表は内州に依りて戸籍を責むるを奏言す。上は江表初めて平らかなるを以て、戸部尚書張嬰を召し、政急なるを責む。時に江南州県又論言して之を関中に徙れんと欲すとし、遠近驚駭す。饒州の呉世華兵を起して乱を為し、県令を生臠にし、其の肉を啖ふ。是に於て旧陳の率土畢く反し、長吏を執り、其の腸を抽りて之を殺し、曰く、「更に儂をして五教を誦せしむるか」と。尋いで詔して内史令楊素に討平せしむ。時に突厥の都藍可汗屡は患ひを為す。復た威を令して可汗の所に至らしむ。
威の子の夔は、公子として盛名があり、賓客を招き寄せ、四海の士大夫多くがこれに帰した。時に楽制を議し、夔と国子博士の何妥はそれぞれ主張するところがあった。ここにおいて夔と妥はそれぞれ一つの議を立て、百官にその同意する所に署名させた。朝廷の者は多く威に附き、夔に同調する者は十のうち八、九であった。妥は憤って言った、「私は席の間で函丈(師の座)に四十余年、かえって昨夜生まれた児童に屈せられるとは!」遂に威と礼部尚書の盧愷、吏部侍郎の薛道衡、尚書右丞の王弘、考功侍郎の李同和らが朋党を為すと奏上し、省中では王弘を世子と呼び、李同和を叔と呼び、二人が威の子弟の如きであると言った。また威が曲道(不正な手段)を用いてその従父弟の徹、粛らをして官職に罔冒(詐称)させたとも言った。また国子学が黎陽の人王孝逸を書学博士に請うた際、威が盧愷に属して、これをその府の参軍とした。上は蜀王秀、上柱国虞慶則らに雑(交えて)按問させたところ、事柄は皆実証された。帝は宋書の謝晦伝中の朋党の事を威に読ませた。威は懼れ、冠を免じて頓首した。帝は言った、「謝することは既に遅い!」ここにおいて威の官爵を免じ、開府として邸宅に就かせた。知名の士で、威に坐して罪を得た者は百余人に及んだ。未だ幾ばくもなく、帝は言った、「蘇威は徳行ある者であるが、ただ人に誤らされただけだ。」命じて通籍(宮門の通行許可)させた。
一年余りして、再び爵を邳公に復し、納言に拝された。泰山の祠に従い、不敬に坐して免官された。俄かに復位した。帝は群臣に謂って言った、「世人は蘇威が偽りの清らかさを装い、家に金玉を累ねていると言うが、これは妄言である。しかしその性は狠戾で、世の要に切実でなく、名を求めること甚だしく、己に従えば悦び、これに違えば必ず怒る。これがその大きな欠点である。」仁寿初年、再び尚書右僕射に拝された。帝が仁寿宮に行幸した際、威に留まって事務を総括させた。帝が還った時、御史が威の職務が多く処理されていないと奏上した。帝は怒り、威を詰問責めた。威が謝罪すると、帝も止めた。
煬帝が帝位を嗣ぐと、上は大いに長城の役を起こそうとしたが、威が諫めて止めさせた。高熲、賀若 弼 が誅殺された時、威は連座して免官された。一年余りして、魯郡太守に拝され、羽儀(儀仗)を整えた。召されて太常卿に拝された。吐谷渾征討に従い、右光禄大夫に進んだ。一年余りして、再び納言となり、左翊衛大将軍の宇文述、黄門侍郎の裴矩、御史大夫の裴蘊、内史侍郎の虞世基と共に朝政を参掌し、時人はこれを五貴と称した。遼東征討に際しては、本官のまま右武衛大将軍を領し、光禄大夫に進位し、爵を房陵侯に賜り、尋ねて房公に進封された。年老いて乞骸骨を請うたが、許されなかった。再び本官のまま選事(官吏選任)を参掌した。翌年、遼東征討に従い、右禦衛大将軍を領した。
楊玄感が反乱を起こすと、帝は威を帳中に引き入れ、懼色を顔に現して、言った、「この小児は聡明であるが、患いとならぬか?」威は言った、「粗疏な者は聡明ではありません。必ず慮ることはありません。ただ恐らくは次第に乱の階梯となることを憂うのみです。」威は労役が止まず、百姓が乱を思っているのを見て、これを以て微かに帝を諷そうとした。帝は終に悟らなかった。
還るに従い、涿郡に至ると、詔して威に関中を安撫させ、その孫の尚輦直長の儇を副使とした。威の子の鴻臚少卿の夔は先に関中簡黜大使となっていた。一家三人、皆関右に使わされ、三輔(京畿)の人はこれを栄誉とした。一年余りして、帝は手詔して言った、「玉は潔く潤い、丹紫もその質を変えることはできず、松は歳寒を表し、霜雪もその采を凋ませることはできない。温仁にして勁直とは、まさに性の然らしむるところと言えよう。房公威は、先帝以来の旧臣、朝廷の宿歯(老臣)であり、社稷の棟梁、朕躬を弼諧し、文を守り法を奉じ、身を卑くして礼に率いている。昔、漢の三傑のうち、恵帝を輔けたのは蕭何であり、周の十乱のうち、成王を佐けたのは邵奭である。国の宝器は、賢を得るにある。璟(玉)の如きは台階に参じ、衆人の瞻望する所これ允なり。事は論道に藉るとはいえ、終には献替(善を進め悪を替える)を期し、銓衡(人材の選定)は時を和らげ、朝の寄託は重し。開府儀同三司とし、その余は並びに元の如くとする。」威は当時尊重され、朝臣でこれに比する者はなかった。
後に雁門に行幸に従った。突厥に包囲され、朝廷は危懼した。帝は軽騎で包囲を突破して出ようとした。威が諫めて言った、「城を守れば我に余力あり、軽騎は彼の長ずるところです。陛下は万乗の主、どうして軽々しく脱出なさいますか。」帝は乃ち止めた。突厥も俄かに包囲を解いて去った。車駕が太原に駐ると、威は盗賊が止まないことを以て、帝に京師に還り、深く根を下ろし固く本を据えて、社稷の為に計らうよう勧めた。帝は初めこれに従ったが、終に宇文述らの議を用い、遂に東都へ向かった。天下大乱となり、威は帝が匡正できないことを知り、甚だこれを憂えた。時に帝が盗賊の事を問うた。宇文述が言った、「盗賊は確かに少なく、憂えるに足りません。」威は詭(偽り)に対することができず、身を殿柱に隠した。帝が呼んで問うと、威は言った、「臣は職司ではないので、多少は知りません。ただその漸く近づくことを患うのみです。」帝は言った、「どういう意味か。」威は言った、「かつては賊は長白山に拠りましたが、今は 滎陽 、汜水に近いのです。」帝は悦ばずに罷めた。時に五月五日、百官が上饋(贈り物)を献じ、多くは珍玩であったが、威は尚書一部を献じ、微かに帝を諷した。帝はますます不平を抱いた。後に再び遼東征伐の事を問うと、威は群盗を赦し、高麗討伐に派遣するよう願い出た。帝はますます怒った。御史大夫の裴蘊が旨に迎合し、御史の張行本に命じて、威が昔高陽で典選(官吏選任)を担当した時、人に官を濫授し、突厥を怯え畏れて、京師に還るよう請うたと奏上させた。帝はその事を案問させ、乃ち詔を下して言った、「威は性を立てて朋党を為し、異端を好み、詭道を懐挟し、名利に徼幸し、律令を詆訶し、台省を謗訕した。往年の薄伐(征討)に際し、先志を奉述し、凡そ切問に預かる者は各々胸臆を尽くしたが、威は開懐せず、遂に対命(応答)がなかった。啓沃(君主を啓発補佐)の道、そのかくの如きか!」ここにおいて除名した。一ヶ月余り後、人が威が突厥と陰に不軌を図ると奏上した。大理が簿責(文書で詰問)した。威は自ら陳べて、精誠を以て上に感ずることができず、瑕爨(欠点と過失)が屡々顕れ、罪は万死に当たると言った。帝は憫んでこれを釈放した。その年、江都宮に行幸に従った。帝が再び威を用いようとしたが、裴蘊、虞世基が昏耄で羸疾であると奏言したので、帝は乃ち止めた。
宇文化及が 弑 逆すると、威を光禄大夫、開府儀同三司とした。化及が敗れると、李密に帰した。密が敗れると、東都に帰し、越王侗はこれに上柱国、邳公とした。王世充が僭号すると、太師に署した。威は自ら隋室の旧臣として、喪乱に遭い、経る所の地において、皆時勢に消息(盛衰に応じて行動)し、以て容れられ免れることを求めた。
太宗が世充を平定し、東都の閶闔門内に坐すと、威は謁見を請い、老病して起拝できないと称した。上は人を遣ってこれを数えて言った、「公は隋朝の宰輔でありながら、政乱を匡救できず、遂に品物(万物)を塗炭に陥れ、君は 弑 され国は亡んだ。李密、世充を見れば皆拝伏して舞蹈した。今既に老病であるなら、労して相見える必要はない。」尋ねて長安に入り、朝堂に至って請見したが、高祖もまた許さなかった。家で終わり、時に八十二歳。
威は己を行うに清儉で、廉慎をもって称された。しかし公議に至る毎に、人の己に異なることを悪み、或いは小事であっても必ず固くこれを争った。時人は大臣の体(風格)なしと為した。修めた格令章程は、並びに当世に行われたが、頗る煩瑣を傷(害)し、論者は簡久(簡素で長久)の法に非ずと為した。大業末年に及んで、特に征役多く、論功行賞に至っては、威は毎に風旨(意向)を承望し、 輒 その事を寝(止め)させた。時に群盗蜂起し、郡県に奏聞する者があれば、また使人を訶詰し、賊の数を減らすよう命じたので、出師攻討するも多く克捷しなかった。ここにおいて遂に敗乱を致し、物議(世間の批評)に譏られた。子に夔あり。
蘇夔は字を伯尼という。聡明で弁舌に優れるが、性格は軽薄で邪険、品行に欠けていた。八歳で詩を誦し、騎射をも兼ねて解した。十三歳の時、父に従って尚書省に至り、安德王楊雄と射を競い、駿馬を賭け得て帰った。十四歳で学舎に詣で、諸儒と議論し、その言辞は見るべきものがあった。見る者は皆これを称賛した。成長すると群書を博覧し、特に鍾律を以て自ら任じた。初めは哲と名乗り、字を知人といったが、父の蘇威はこれによって改めさせたので、頗る識者に笑われた。初めて太子通事舍人に任じられた。楊素は彼を見て奇異とし、しばしば蘇威を 揶揄 して言うには、「楊素には子がなく、蘇夔には父がない」と。後に鄭訳・何舀と楽制を議論し、罪を得て、その議は廃されて行われなかった。楽志十五篇を著してその志を示した。数年を経て太子舍人に遷り、罪によって免官され数年を過ごした。仁寿三年、詔して天下に礼楽の源に通じた者を挙げさせた。晋王楊昭(のちの煬帝)が当時雍州牧であったが、蘇夔を推挙した。諸州が挙げた五十余人と共に謁見した。帝は蘇夔を見て侍臣に謂って言うには、「ただこの一人のみが、朕の挙げたるに称する」と。ここにおいて晋王友に拝した。
煬帝が位を嗣ぐと、太子洗馬・司朝謁者を歴任した。父が免職されたため、蘇夔もまた官を去った。後に尚書職方郎・燕王司馬を歴任した。遼東の役では、功によって朝散大夫に拝された。時に帝は遠略に勤しみ、蛮夷が来朝していた。帝は宇文述・虞世基に言うには、「四夷が相率いて服し、華夏の礼を観るに、鴻臚の職は、必ず令望ある者に帰すべきである。多才多芸で容儀美しく、賓客に接することのできる者はいないか」と。蘇威が蘇夔を以て答えた。即日に鴻臚少卿に拝した。その年、高昌王麹伯雅が来朝し、朝廷は公主を以て妻とさせた。蘇夔は雅望があったので、婚礼の主催を命じられた。
その後、延安・弘化など数郡に盗賊が屯結したので、詔して蘇夔に関中を巡視させた。突厥が雁門を包囲した時には、蘇夔は鎮城の東南に弩楼・車箱・獣圈を造り、一晩で完成させた。帝はこれを見て善しとした。功によって通議大夫に進位した。父の事に坐して除名された。後に母の喪に遭い、哀しみに耐えず、卒去した。時に四十九歳。
蘇綽の弟の蘇椿は、字を令欽という。性質は廉潔で慎重、沈着勇猛にして決断力があった。北魏の正光年中、関右で賊が乱を起こすと、蘇椿は募に応じてこれを討ち、蕩寇将軍を授けられた。功によって累進して中散大夫に至り、美陽子の爵を賜った。西魏の大統初年、鎮東将軍・金紫光禄大夫に拝し、賀蘭氏の姓を賜った。後に帥 都督 に除され、弘農郡の事務を行った。蘇椿は官に当たって強力に事を成し、特に周文帝(宇文泰)に知られた。
大統十四年、当州に郷師を置き、郷望が衆心に允かに当たらぬ者は預かることを得なかった。そこで駅伝を以て蘇椿を追い、郷兵を領させた。その年、槃頭氏を破る功があり、 散騎常侍 に除され、大 都督 を加えられた。十六年、随郡を征伐した。軍が還ると、武功郡守に除された。既に本邑であるので、清儉を以て自ら処し、大小の政事には必ず忠恕を尽くした。侯に進爵し、驃騎大将軍・開府儀同三司・大 都督 の位に至った。卒去した。子の蘇植が嗣いだ。
蘇綽の従兄に蘇亮がいる。
蘇亮は字を景順といい、蘇綽の従兄である。祖父の蘇稚は字を天佑といい、中書侍郎・玉門郡守の位にあった。父の蘇祐は泰山郡守であった。
蘇亮は若くして聡明で、博学にして文を属することを好み、章奏を善くし、弟の蘇湛らと共に皆西土で著名となり、一家から二人の秀才を挙げた。蘇亮が初めて秀才に挙げられ、洛陽に至り、河内の常景を訪れた。常景は深く彼を器とし、人に謂って言うには、「秦中の才学で山東に抗しうる者は、この人であろうか」と。北魏の斉王蕭宝夤が彼を参軍に引き立てた。蕭宝夤が大将軍に遷ると、引き続きその掾となった。蕭宝夤は大いに彼を知り重んじ、凡そ文檄や謀議のあるものは、皆彼に委ねた。間もなく武功郡の事務を行い、甚だ名声と実績を著した。蕭宝夤が乱を起こすと、蘇亮を黄門侍郎とした。蘇亮は人間関係を善く処し、物と忤ることがなかった。蕭宝夤が敗れると、従った者の多くは禍に遇ったが、蘇亮のみが全うされた。長孫承業・爾朱天光らが西征するに及び、皆蘇亮を郎中とし、専ら文翰を掌らせた。賀抜岳が関西行台となると、蘇亮を左丞に引き立て、機密を掌らせた。
北魏の孝武帝が西遷すると、吏部郎中に遷った。大統二年、給事黄門侍郎に拝し、中書舎人を領した。西魏の文帝の子、宜都王元式が秦州刺史となると、蘇亮を司馬とした。帝は蘇亮に言うには、「黄門侍郎をどうして秦州司馬とすることができようか。ただ朕の愛子が藩国に出るので、心腹を以て委ねるのみである。恨みとすることなかれ」と。辞去に臨み、御馬を賜った。八年、臨涇県子に封ぜられ、 中書監 に除され、著作を領して国史を修めた。蘇亮は機転の利いた弁舌を持ち、談笑を善くした。周文帝は甚だ彼を重んじ、籌議することがあれば、多くはその旨に合った。人の善を記し、人の過ちを忘れ、後進を推薦し通達させることは、常に及ばざるが如くであった。故に当世の人々は敬慕した。秘書監・大行台尚書を歴任し、出て岐州刺史となった。朝廷は彼が本州の牧となるので、特に路車・鼓吹を給し、先ずその宅に還らせ、併せて騎士三千を給して儀仗を列ね習わせ、郷党を遊行し、故人を経過して、十日間歓飲させ、その後で州に入らせた。世間はこれを栄誉とした。十七年、侍中に徴されて拝され、任上で卒去した。本官を追贈された。
蘇亮は若くして従弟の蘇綽と共に知名であったが、蘇綽の文章は少し蘇亮に及ばず、計画を経画し進取することについては、蘇亮はまた蘇綽に劣った。故に世は二蘇と称した。蘇亮は大統以来、転官せざる年なく、一年に三遷することもあった。皆が才の至るところと言い、その速さを怪しまなかった。著した文筆数十篇は、頗る世に行われた。子の蘇師が嗣ぎ、蘇亮の名が当時に重んぜられたので、初めから黄門侍郎に起家した。
蘇亮の弟に蘇湛がいる。
蘇亮の弟の蘇湛は、字を景俊という。若くして志操品行があり、蘇亮と共に西土で著名であった。二十余歳で秀才に挙げられ、奉朝請に除され、侍御史を領し、員外散騎侍郎を加えられた。蕭宝夤が西征するに当たり、蘇湛を行台郎中とし、深く委任された。蕭宝夤が叛逆を謀ろうとした時、蘇湛は病臥して家にいた。蕭宝夤はそこで蘇湛の従母弟である天水の姜儉をして蘇湛に謂わしめた、「私は坐して死亡を受けることはできない。今や身の計らいを為し、再び魏の臣とはならない。卿と死生栄辱を、正に共にすべきである。故に以て報いる」と。蘇湛はこれを聞くと、声を挙げて大哭した。姜儉は急いでこれを止めて言うには、「どうして直ちにこのようにするのか」と。蘇湛は言うには、「家門百口は、即時に屠滅される。どうして哭さないことがあろうか」と。数十声哭した後、徐ろに姜儉に謂って言うには、「我に代わって斉王に申し上げよ。王は元来窮して人に帰し、朝廷が王に羽翼を仮したことにより、かくまで栄寵を得たのである。既に国歩多虞に属するも、誠を竭くして徳に報いることができず、どうして人の間隙に乗じ、直ちに問鼎の心を持とうとするのか。今、魏の徳は衰えたとはいえ、天命は未だ改まらず、王の恩義は未だ人に洽わず、破亡の期は必ず踵を旋らす間もないであろう。蘇湛は終に積世の忠貞の基を以て、一朝にして王の為に族滅されることはできない」と。蕭宝夤は再び姜儉をして蘇湛に謂わしめた、「これは救命の計であり、已むを得ざるものだ」と。蘇湛はまた言うには、「凡そ大事を挙げるには、天下の奇士を得るべきである。今ただ長安の博徒の小児輩と共にこの計らいを為すに、どうして成し遂げることができようか。蘇湛は荊棘が王の戸庭に生ずるのを見るに忍びない。願わくは骸骨を賜って旧里に還り、庶くは全きまま地下に帰り、先人に愧じないことを得ん」と。蕭宝夤は平素より彼を重んじていたので、必ずや己が用いるに足らぬことを知り、遂に武功に還ることを聴した。蕭宝夤は後に果たして敗れた。
孝莊帝が即位すると、召し出されて尚書郎に任ぜられた。帝はかつて彼に言われた、「卿が蕭寶夤に答えた言葉は、甚だ美辞であったと聞く。我のためにそれを語ってみよ」と。湛は頓首して謝して言う、「臣が思うに、言辞は伍被に遠く及ばないが、終始変わることなく、ひそかに彼を超えていると考える。ただ臣は寶夤と親しく交わり、心を尽くして語ったが、彼に節操を守らせることができなかった。これは臣の罪である」と。孝莊帝は大いに喜び、散騎侍郎を加えた。まもなく中書に遷った。孝武帝の初め、病により郷里に帰り、家で没した。 散騎常侍 ・鎮西将軍・雍州刺史を追贈された。
湛の弟譲は、字を景恕という。幼くして聡明で、学問を好み、人倫を見る目に優れていた。初め本州の主簿となり、やがて別駕・武都郡守・鎮遠将軍・金紫光禄大夫に遷った。周文帝が丞相となると、召し出して府の属官とし、甚だ親しく遇された。出て衛将軍・南汾州刺史となり、善政があった。まもなく官で没した。車騎大将軍・儀同三司・涇州刺史を追贈された。
論じて言う。周惠達は蕭寶夤に礼遇され、ついに艱難辛苦を共にしたが、安危によって志を変えず、これはまことに誠実で終わりを全うする士である。周文(宇文泰)が剣を提げて起ち、諸制度は草創期にあり、競い合う時に簡約な法の制を施し、鼎立する日に太平の礼を修め、ついに彫琢を削り去って質朴とし、奢侈を改めて倹約に従い、教化が行き渡ると下は厳しく上は尊ばれ、国境はしばしば動いたが内は安らかで外は帰附した。これは蘇綽の力によるものである。邳公(蘇威)は周の道が末世にあり、隠遁して貞節を守っていたが、隋室が龍興すると、真っ先に招聘に応じた。親密に任用され、寵栄の極みに至り、長く枢機の職にあり、多くを損益し、心力を尽くして、知る限りのことは全て行った。しかし志は清倹を尚び、器量は広大ではなく、同調を好み異論を嫌い、直道に背き、簡易を尊ばず、通達した徳とは言えなかった。二帝に仕え、三十余年、当時は退けられたが、終には遺老と称された。君が邪であっても正しい言葉をせず、国が滅びても心情は衆庶と等しく、『汝違うも我は弼く』とは、ただその言葉を聞くのみで、疾風に勁草を知る、というような人物は見られなかった。礼遇と任命が興王(創業の君主)に欠けたのは、やはりこのことに由るのであろう。夔は志識が沈着で敏速、方正高雅と称すべきであり、もし天が年を貸したならば、堂構(父祖の業)を損なうことなく保つに足りたであろう。
目次へ戻る※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。