文帝
周の文帝に十三人の子があった。姚夫人は明帝を生んだ。後宮は宋獻公の震を生んだ。文元皇后は孝閔皇帝を生んだ。文宣の叱奴皇后は武帝と衛剌王の直を生んだ。達歩妃は齊煬王の憲を生んだ。王姫は趙僭王の招を生んだ。後宮は譙孝王の儉、陳惑王の純、越野王の盛、代紘王の達、冀康公の通、滕聞王の逌を生んだ。
初め、帝は直の邸宅を東宮とし、代わりに直に自ら居所を選ばせた。直は諸々の府署を見て回ったが、気に入るものはなく、廃寺の陟屺仏寺に至り、そこに住もうとした。齊王の憲が言うには、「弟の児女も成長している。この寺は狭小であり、どうして適当であろうか」と。直は言った、「一身さえもまだ容れられないのに、何を児女のことを論じようか」と。憲は怪しみ疑った。直はかつて帝に従って狩猟校閲した際に行列を乱し、帝は怒り、衆人の前でこれを鞭打った。この時より、憤り怨むことますます甚だしくなった。帝が雲陽宮に行幸した時、直は京師で反乱を起こし、肅章門を攻撃した。司武の尉遅運が門を閉ざしたため、入れず、退却して逃走した。荊州まで追撃してこれを捕らえ、庶人に免じ、宮中に幽閉した。まもなく異心あり、その子十人とともに誅殺され、封国は除かれた。
武成初年、益州総管に任ぜられ、齊国公に進封された。初め、蜀を平定した後、文帝はその地が要害の地であるため、宿将をそこに置きたくないと考えた。諸子の中から推挙選抜しようと、武帝以下の者に順に問うたが、誰もまだ答えないうちに、憲が先に請願した。文帝は言った、「刺史は衆を撫で民に臨むべきもので、お前の及ぶところではない。年齢によって授けるならば、お前の兄に帰すべきである」と。憲は言った、「才能の用い方は大小とは全く関わりがありません。試みて効果がなければ、甘んじて面と向かって欺かれたと認めます」と。文帝は憲がまだ年若いとして、派遣しなかった。明帝は先帝の旨を追って遵奉したため、この任があったのである。憲は時に十六歳、撫民綏靖に長け、政術に心を留め、訴訟が輻湊したが、聴き受けるのに疲れを知らなかった。蜀人はこれを悦び、共に碑を立てて徳を称えた。
晉公の護が誅殺されると、武帝は憲を召し入れ、冠を免じて拝謝させた。帝は言った、「汝は親としては同気であり、喜び憂いは共にするものだ。事柄に関わらなかったのに、どうして煩わしく謝する必要があろうか」と。そこで詔して憲を護の邸宅に遣わし、兵符および諸々の簿籍などを収めさせた。まもなく憲を大冢宰とした。時に帝はすでに宰臣を誅し、自ら朝政を覧るようになり、まさに刑罰をもって統制しようとし、親族に及んでも、また刻薄であった。憲は護に任用されて以来、天和以後、威勢は次第に盛んとなった。護が何かを上奏しようとする時は、多く憲に奏上させた。その中に妥当でないものがあっても、憲は主君と宰相の間に猜疑の隙が生じることを慮り、常に曲げて旨を通じさせた。帝もまたこの心を理解していたため、禍患がなかった。しかしなお、威名が重すぎるとして、ついに心を平らげることができず、塚宰に遷任させたが、実はその権力を奪ったのである。開府の裴文挙は、憲の侍読であったが、帝はかつて内殿に臨んで引見し、言った、「昔、魏の末年に綱紀がなく、太祖が元氏を匡輔した。周が天命を受けると、晉公がまた威権を執った。積習が常となり、法はかくあるべきものと思い込んだ。どうして三十歳の天子が人の制するところとなろうか。また近代以来、また一つの弊害があり、暫く隷属しただけで、すぐに君臣の礼のようになる。これは乱世の一時の便宜であって、国を経営する術ではない。汝はたとえ齊公に陪侍していても、すぐに臣下と主君のようになってはならない。そもそも太祖に十人の子があっても、すべてが天子となれるわけではない。卿は正道をもって諫め、兄弟自ら嫌疑を招かせぬようにせよ」と。文挙は再拝して退出し、帰って憲に報告した。憲は胸を指し机を撫でて言った、「我が心の公なることを、どうしてご理解いただけないことがあろうか。ただ忠を尽くし節を竭くすのみである。また何を言うことがあろうか」と。
その秋、帝は雲陽において病に臥し、衛王直は京師に在った。帝は憲を召して謂うには、「汝は前軍となれ、吾もまた続いて発つ」と。直は間もなく敗走した。帝が京師に至ると、憲は趙王招と共に入り拝謝した。帝曰く、「管叔・蔡叔は誅戮され、周公は輔佐となった。人心は同じからず、その面の如し。ただ兄弟が親しく干戈を交えたことを愧じる、我においては為す能わざるが故なり」と。初め、直は内に憲を忌み、憲はこれを隠して容れ、かつ帝の同母弟であることを以て、常に友愛と敬意を加えた。晉公護が誅された時、直は固く憲をも誅すことを請うた。帝曰く、「齊公の心跡は、吾自ら悉く知る、更に疑うべきにあらず」と。文宣皇后が崩じた時、直はまた密かに憲が酒を飲み肉を食うこと平素と異ならざることを啓した。帝曰く、「吾と齊王とは異母生まれで、共に正嫡にあらず、特に吾の意により、今は袒括(喪服)を同じくする。汝はこれを愧じるべきで、得失を論ずるには及ばぬ。汝は太后の実子である、ただ自ら努めるべし」と。直は乃ち止んだ。
四年、帝は東征せんとし、独り内史王誼と謀り、余人は知る者無し。後に諸弟の才略、憲の右に出る者無きを以て、遂に之に告げた。憲は即ちその事を賛成した。大軍将に出づるに及び、憲は表を上り金宝等一十六件を以て軍資を助けんとした。詔して受けず、憲の表を公卿に示して曰く、「人臣はかくあるべきなり、朕はその心を貴ぶのみで、寧ろこの物に資せんや」と。乃ち憲を詔して前軍と為し、黎陽に向かわしめた。帝自ら河陰を囲んだが、未だ克たず。憲は武済を攻め抜き、進んで洛口を囲み、その東西二城を抜いた。帝の病により軍を還した。この年、初めて上柱国を置き、憲を以てこれに任じた。
五年、大いに挙兵して東征し、憲また前鋒と為り、雀鼠谷を守った。帝自ら晉州を囲み、憲は進んで洪洞・永安の二城を克ち、更に進取を図った。齊主は晉州が囲まれたと聞き、自ら来援した。時に陳王純は千里径に頓し、大将軍永是公椿は雞棲原に屯し、大将軍宇文盛は汾水関を守り、皆憲の節度を受けた。憲は密かに椿に謂うには、「兵は詭道なり、汝今営を為すに、幕を張る須いず、柏を伐って庵と為し、処所有ることを示せ。兵去った後も、賊は猶疑いを致さん」と。時に齊主は軍万人を分けて千里径に向かわしめ、またその衆をして汾水関に出でしめ、自ら大兵を率いて椿に対した。宇文盛は馳せて急を告ぐ、憲自らこれを救い、齊人は遽かに退いた。盛は柱国侯莫陳芮とこれを逐い、多く斬獲有り。俄かに椿、齊衆稍々逼るを告ぐ、憲またこれを救う。会うところ椿、勅を被り追還せられ、兵を率いて夜に反す。齊人は果たして柏庵を帳幕と謂い、軍の退くを疑わず、翌日にして始めて悟った。時に帝は已に晉州を去り、憲を留めて後拒と為した。憲は水を阻んで陣を為した。齊の領軍段暢、橋に至る。憲は水を隔てて暢に姓名を問う、暢曰く、「領軍段暢なり、公また誰ぞや」と。憲曰く、「我は虞候大都督なり」と。暢曰く、「公の言語を観るに、凡人に非ず、何ぞ名位を隠すを用いん」と。憲乃ち曰く、「我は齊王なり」と。偏に陳王純以下を指し示し、並びに之を告げた。暢は馬に鞭うって去り、憲は即ち軍を旋すことを命じた。齊人は遽かにこれを追い、戈甲甚だ鋭し。憲は開府宇文忻と殿と為りてこれを拒ぎ、その驍将賀蘭豹子・山褥環等を斬り、齊衆乃ち退いた。
憲は兵謀に善く、撫御に長じ、鋒を摧き陣を陷るに士卒の先となる。齊人はその風聞を聞き、その勇略を憚った。齊の任城王湝・広甯王孝珩等は信都を守り、また詔して憲をしてこれを討たしめた。仍て齊主に手書をさせて湝を招かしめたが、湝は受け入れず。憲の軍が趙州を過ぎると、湝は間諜二人をして覘わせたが、候騎がこれを捕らえて憲に白した。憲は乃ち齊の旧将を集め、偏将に示して曰く、「吾の争うところは大なり、汝等に在らず」と。即ち放ち還し、使を充てしめ、乃ち湝に書を送った。憲が信都に至ると、湝は城南に陣し、張耳の塚に登って之を望んだ。俄かに湝の署する所の領軍尉相願が偽って出でて陣を略し、遂に降ったので、湝はその妻子を殺した。明日、湝及び孝珩等を擒えた。
先に稽胡の劉沒鐸が自ら皇帝と称し、また詔して憲に趙王招等を督してこれを平げしめた。
憲は自ら威名日々重きを以て、潜かに退くことを思う。帝が北蕃を親征せんと欲するに及び、乃ち疾を以て辞した。尋いて帝崩じ、宣帝位を嗣ぎ、憲が属尊望重なるを以て、深くこれを忌んだ。時に未だ葬らず、諸王は内に在りて服していた。司衛長孫覧が兵を総べ政を輔けるに、諸王に異志有るを恐れ、開府于智にその動静を察せしむることを奏した。山陵より還り、帝はまた智に命じて宅に就き憲を候わしめ、これにより憲に謀有ることを告げた。帝は小冢宰宇文孝伯を遣わして憲に謂わしめて曰く、「今、叔を以て太師と為し、九叔を太傅と為し、十一叔を太保と為さんと欲す、いかが」と。憲は才軽きを以て辞した。孝伯命に返り、また来て曰く、「詔す、王は晩に諸王と俱に入れ」と。既に殿門に至り、憲独り引進される。帝は先に別室に壮士を伏せ、至るや即ちこれを執った。憲は辞色撓まず、固より自ら陳説す。帝は于智をして憲に対せしむ。憲の目光炬の如く、智と相質す。或る者曰く、「王の今日の事勢を以てすれば、何ぞ多く言うを用いん」と。憲曰く、「我は位重く属尊し、一旦ここに至る、死生は命にあり、寧くぞ復た存を図らんや。ただ老母堂に在り、慈恨を留めんことを恐るるのみ」と。因りて笏を地に擲ち、乃ちこれを縊った。時に年三十五。帝は于智を柱国と為し、齊国公に封じた。また上大将軍安邑公王興・上開府獨孤熊・開府豆盧紹等を殺し、皆憲に昵きを以てなり。帝は既に憲を誅し、以て辞と為す所無く、故に興等が憲と謀を結んだことに託し、遂に戮を加えた。時に人その冤酷なるを知り、咸く憲に伴いて死すと云う。
質は字を乾佑といい、憲の勲功により河間郡王に封ぜられた。賓は字を乾礼といい、中壩公である。貢は莒荘公の後を継ぎ、乾禧は安城公、乾洽は龍涸公である。皆憲と共に誅殺された。
招の著した文集十巻。
逌の著した文章は、世に広く行われた。
孝閔帝
明帝
明帝に三男あり:徐妃は畢剌王賢を生む。後宮は豐王貞、宋王實を生む。實は宋獻公震の後を継ぐ。
武帝
武帝に七男あり:李皇后は宣帝・漢王贊を生む。庫汗姫は秦王贄・曹王允を生む。馮姫は道王充を生む。薛世婦は蔡王兌を生む。鄭姫は荊王元を生む。
宣帝
【論】
論ずるに曰く、昔の賢き議者は、皆、周が五等を建てて歴載八百、秦が郡県を立てて二世にして亡ぶと為す。得失の跡は尋ね可きも、是非の理は互いに起こり、因循して変わることなく、古に復するは未だ聞かず。良く論を著す者は貴遠に溺れ、契を司る者は業を易うるに難く、適変の道を詳しく求めても、未だ至当を窮めざるなり。試みにこれを論ぜん。夫れ皇王迭興し、国を為すの道一ならず、聖賢間出し、徳を立つるの指殊塗なり。斯れ豈に故に相反するを為さんや、亦た政を為すのみと云うなり。何となれば、五等の制は商・周の前に行はれ、郡県の設けは秦・漢の後に始まる。時に論ずれば則ち澆淳理隔たり、地を易うれば則ち用捨或いは殊なり。譬えば猶ほ干戚日用するも、垓下の業を成すに難く、稷嗣の述ぶる所、成周の朝に施すべからざるが如し。是を知る、時に因りて制を宜しくする者は、政を為すの上務なり、人を観て教を立つるは、国を経るの長策なり。且つ封疆を裂き、侯伯を建て、賢能を択び、牧守を署すは、名に循うと雖曰えども異軫、実を責むれば抑亦た同帰なり。盛んなれば則ち之と共に安んじ、衰うれば則ち之と共に患う。共に安んずるは善悪に係り、礼義無くしては以て風を敦くすべからず。共に患うるは存亡に寄す、甲兵無くしては以て乱を靖ぐべからず。是を以て斉・晋は礼を帥い、鼎業傾きて復た振い、温・陶は位を釈し、王綱弛みて更に張る。然らば則ち周の列国は一姓に非ず、晋の群臣は一族に非ず。豈に斉・晋の列国に忠なるや、温・陶の群臣に賢なるや。蓋し位重き者は以て功を立て易く、権軽き者は以て節を尽くし難き故なり。斯の言に由りて之を言えば、侯を建て守を置くは、乃ち古今の異術、兵権爵位は、蓋し安危の階か。
周文の初めに関右を定むるや、日暇あらず、既に人臣の礼を以て終わり、未だ蕃屏の事に遑あらず。晋蕩の政を輔くるや、爰に其の党を樹て、宗室長幼並びに兵権を握る。海内隆平の風に謝すと雖も、国家磐石の固き有り。武皇芒刺を克く翦ぎ、政術を弘めんと思い、朝に専るの患を懲らし、維城の遠図を忘れ、外は寵任を崇め、内は猜阻を結ぶ。是より配天の基、潜かに朽壌の墟有り。宣皇位を嗣ぐや、凶暴を是崇め、芟刈先ず其の本枝に及び、削黜偏に公族に於いてす。斉王の奇姿傑出、足りて前載を牢籠す可きを以てす。周公の地に処り、上将の重きを居るも、肋冠俗し、攻戦神の如く、敵国は以て存亡に係り、鼎命は其れに由りて軽重す。道消の日に属し、震主の威を挟み、斯の人にして斯の戮に嬰る。君子是を以て国祚の永からざるを知るなり。
其の余は地は惟だ叔父、親は則ち同生と雖も、仮令文は能く主を輔け、武は能く敵を威すと雖も、当年に卿士を謝し、郡国に侯服に従い、号して千乗と為し、位匹夫に侔う。是を以て権臣其の機に乗じ、謀士其の隙に因り、亀鼎を遷すこと俯拾に速く、王侯を殲すること燎原に烈し。悠悠たる邃古、未だ茲の酷きを聞かず。豈に枯を摧き朽を振う、力を為すに易きに非ずや。向使宣皇、姫・劉の制を択び、聖哲の術を覧み、賢戚を分命して内外に布き、其の軽重を料り、親疏を以て間い、首尾相持ち、遠近用を為し、其の位をして危を扶うに足らしめ、其の権をして乱を為す能わざらしめ、事業既に定まり、僥倖自ずから息まば、赤子を臥せしめ、委裘を朝せしむると雖も、社稷固より以て久安、億兆以て患無かる可し。何ぞ后族の地にして能く其の神器を窺わんや。昔、張耳・陳餘、賓客廝役、居る所皆卿相を取る。而して斉王の文武僚吏、其の後亦た多く臺牧たり。異代相い符し、賢いと謂う可きかな。