北史

巻五十九 列傳第四十七

列傳第四十七

寇洛、趙貴(從祖兄の善)、李賢(子の詢・崇、孫の敏、弟の遠・穆、穆の子の渾)、梁禦(子の睿)

寇洛

寇洛は、上谷郡昌平県の人である。累世、将軍・官吏の家柄であった。父の延壽は、北魏の和平年間(460-465年)に、良家の子として武川鎮に駐屯し、その地に家を定めた。洛は性質が明敏で弁が立ち、小節に拘らなかった。賀抜嶽が西征する際、洛は嶽と同郷であったため、募られてこれに従い関中に入った。功績により安郷県子に封ぜられた。嶽が大行臺となると、洛を右 都督 ととく に任じた。侯莫陳悦が嶽を害した後、その軍勢を併せようとした。当時、元帥を喪ったばかりで、洛は諸将の中で最も古参であり、平素より衆人の信頼を得ていたため、将兵を収集し、復讐を志した。原州に至ると、衆人は洛を盟主に推戴し、嶽の軍勢を統率して平涼に至った。周の文帝(宇文泰)が到着すると、洛を右 都督 ととく に任じた。侯莫陳悦討伐に従い、これを平定した。涇州刺史に任ぜられた。大統初年(535年)、詔により開府儀同三司を加えられ、爵位は京兆郡公に進み、洛の母の宋氏は襄城郡君に封ぜられた。四年(538年)、東雍州を鎮守した。五年(539年)、任地で卒去した。太尉・ めと 書令を追贈され、諡は武といった。

子の和が後を嗣いだ。明帝二年(558年)、旧功を記録し、洛を文帝(宇文泰)の廟庭に配享させ、和に若引氏の姓を賜い、松陽郡公に改封した。

趙貴

趙貴は、字を元宝といい、天水郡南安県の人である。祖父の仁は、良家の子として武川鎮に駐屯し、その地に家を定めた。貴は若い頃より節操と気概があり、爾朱栄は彼を別将とし、元顥討伐に従軍させ功績を挙げ、燕楽県子の爵位を賜った。賀抜岳に従い関中を平定し、累進して大 都督 ととく となった。岳が侯莫陳悦に害されると、将吏は敗走し、守る者はなかった。貴はその仲間に言った。「私は聞く、仁義に常道などあるだろうか。これを行うのが君子であり、これに背くのが小人である。朱伯厚(朱震)や王修は、わずかな恩義に感じて意気に応じ、なお名節を踏み行うことができた。ましてや我々は賀抜公より国士の遇いを受けているのに、どうして自ら衆人と同じであろうか」。そこで涙を流し嘆息し、これに従う者は五十人であった。そこで悦のもとへ赴き偽って降伏を申し出ると、悦はこれを信じた。そこで岳の遺体を収葬することを請うと、言辞は慷慨としており、悦はその壮挙を認めて許した。貴は岳の遺体を収めて営中に戻り、寇洛らとともに平涼に奔り、共に悦に対抗することを図った。貴はまず周の文帝(宇文泰)を迎えることを提議した。周文が到着すると、貴を大 都督 ととく とし、府司馬を兼ねさせた。悦が平定されると、秦州の事務を代行した。

後に魏の文帝(元宝炬)擁立の功績に預かり、爵位は公に進んだ。梁GC定(梁仚定)が河西で乱を称すると、貴を隴西行臺としてこれを討ち破った。弘農奪回に従い、沙苑の戦いに参戦し、爵位は中山郡公に進んだ。河橋の戦いでは、貴は怡峰とともに左軍を率い、戦いは不利で、先に撤退した。高仲密が北 州を挙げて降伏すると、周文はこれを迎え、東魏軍と邙山で戦った。貴は左軍を率いたが、軍律を失い、官を免ぜられる罪に坐した。まもなく官爵を回復した。後に柱国大将軍に任ぜられ、乙弗氏の姓を賜った。六官が建てられると、太保・大宗伯となり、南陽郡公に改封された。周の孝閔帝が即位すると、大冢宰に遷り、楚国公に進封され、邑一万戸を賜った。

初め、貴は独孤信らと皆、文帝(宇文泰)と対等の関係であった。晋公の宇文護が政権を摂ると、貴は自ら元勲であることを恃み、常に不満を抱き、信とともに護を殺害しようと謀ったが、開府の宇文盛に告発され、誅殺された。

從祖兄 善

善は、字を僧慶といい、趙貴の從祖兄(父方の従祖父の孫)である。若くして学問を好み、容姿端麗で、沈着果断にして遠大な度量があった。爾朱天光が邢杲・万俟醜奴を討つ際、彼を長史とした。普泰初年(531年)、大行台尚書となり、山北県伯に封ぜられた。天光が韓陵で斉の神武帝(高歓)に抗したが敗れ、殺害された。善はその遺体の収葬を請うと、斉の神武帝はその義を認めて許した。賀抜岳が関中を総轄すると、善を迎え、再び長史とした。岳が侯莫陳悦に殺害されると、善は諸将と共に周の文帝(宇文泰)を輔佐擁戴した。魏の孝武帝が西遷すると、襄城県伯に改封された。尚書左僕射・尚書右僕射を歴任し、爵位は公に進んだ。善の性質は温厚で恭しく、器量と才覚があり、たとえ高位(尚書僕射)にあっても、ますます自ら謙虚で控えめであった。職務がよく遂行されれば、「これは某官の力である」と言い、罪責があれば、「これは善の過ちである」と言った。当時の人は彼に公輔(三公・宰相)の器量があると称えた。

大統九年(543年)、邙山の戦いに従軍したが、大軍が不利に陥り、善は敵に捕らえられ、東魏で卒去した。建徳初年(572年)、周と斉が国交を開くと、斉人はその柩を返還した。その子の詢が上表して贈官と諡号を請うた。詔により大将軍・大 都督 ととく ・四州諸軍事・岐州刺史を追贈し、諡は敬といった。

李賢

李賢は、字を賢和といい、自ら隴西成紀の人であると称し、漢の騎都尉李陵の後裔である。李陵は匈奴に没し、子孫は北狄に居住することとなった。後に北魏に従って南遷し、再び汧・隴の地に帰った。曾祖父の李富は、北魏の太武帝の時に子 都督 ととく として両山の屠各を討ち、陣中に没し、甯西将軍・隴西郡守を追贈された。西魏の大統末年、李賢兄弟の顕著な勲功により、 司空 しくう 公を追贈された。

李賢は幼少より志操があり、軽率な行動をとらなかった。かつて出遊した際、一人の老人に出逢った。その老人は鬢と眉が真っ白で、李賢に言った。「私は八十歳になるが、多くの士人を見てきた。卿のような者は未だいない。卿は必ずや台牧(高官)となるであろう。努力して励むがよい。」九歳の時、師について学業を受けたが、大要を観るのみであった。或る者がその不精細さを嘲笑すると、答えて言った。「賢がどうして徒を率いて授業することができようか。忠孝の道に至っては、実に心に銘じている。」問うた者は慚愧して心服した。十四歳の時に父の喪に遭い、諸弟を養育し訓導し、友愛の情は甚だ篤かった。

北魏の永安年間、万俟醜奴が岐州・涇州などを占拠して反乱を起こすと、孝荘帝は爾朱天光を派遣してこれを撃破させた。爾朱天光は 都督 ととく の長孫邪利を行原州事とし、李賢を主簿とした。累進して高平県令となった。賀抜岳が侯莫陳悦に害されると、周文帝(宇文泰)は西征し、李賢はその弟の李遠・李穆らと密かに侯莫陳崇に呼応した。功により 都督 ととく を授けられ、引き続き原州を守った。大軍が秦州に至ると、侯莫陳悦は城を棄てて逃走した。周文帝は兄の子の宇文導にこれを追撃させ、李賢を先鋒とし、牽屯山に至って追いついた。功により仮節・撫軍将軍・大 都督 ととく を授けられた。

北魏の孝武帝が西遷すると、周文帝は李賢に騎兵を率いて迎え護衛するよう命じ、上邽県公に封じた。まもなく左大 都督 ととく を授けられ、原州に戻って鎮守した。大統二年、州民の豆盧狼が 都督 ととく の大野樹児らを害し、州城を占拠して反乱を起こした。李賢は敢死の士を率いて一戦でこれを破り、豆盧狼は関門を斬って逃走したが、李賢は追撃してこれを斬った。八年、原州刺史を授けられた。周文帝が魏の太子(後の廃帝)を奉じて西巡した際、原州に至り、李賢の邸宅に行幸した。年齢を譲って座し、郷飲酒の礼を行った。後に帝(文帝)が再び原州に至った時、李賢に路車に乗り、儀服を整えさせ、諸侯会遇の礼をもって引見した。その後、李賢の邸宅に行幸し、終日歓宴し、親族すべてに差等をつけて賜物を与えた。恭帝元年、爵位を進めて西河郡公とした。後に弟の子の李植が誅殺されたことに連座し、李賢は官籍から除名された。北周の保定二年、詔により李賢の官爵を回復し、瓜州刺史を授けた。

武帝(宇文邕)と斉王宇文憲が幼少の頃、宮中に居ることが不吉とされ、周文帝は李賢の家で養育するよう命じ、六年後に宮中に戻った。これにより李賢の妻の呉氏に宇文の姓を賜い、姪として養い、甚だ厚く賜物を与えた。武帝が西巡して原州に至り、李賢の邸宅に行幸した時、詔して言った。「朕が昔幼少の頃、この州に寓居した。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大 都督 ととく ・瓜州諸軍事・瓜州刺史の李賢は、この地の良家の出で、勲功と徳行ともに顕著であり、朕を預かり、多年にわたり輔導した。その規諫輔弼を思えば、功労は甚だ大きい。今、巡撫してここに至り、代邑(かつての都)と変わらず、目を上げれば依然としており、旧来の思いを一層増す。李賢は属籍(皇族の籍)にはないが、朕は彼を親族のように遇する。その兄弟から、子・甥に至るまで、皆ともに宴席に預かり賜物を与えるがよい。」そこで中侍上士の尉遅愷を瓜州に派遣し、璽書を下して李賢を労った。衣一襲と寝具、および皇帝が用いる十三環の金帯一腰、中廄の馬一匹、金装の鞍と勒、雑色の絹五百段、銀銭一万を賜った。李賢の弟の申国公李穆にも同様のものを賜った。子・甥・男女・内外の孫三十四人にそれぞれ衣一襲を賜った。李賢の甥の庫狄楽を儀同に任じた。李賢の門生でかつて侍奉した者二人に大 都督 ととく を、四人に帥 都督 ととく を、六人に別将を授けた。奴隷で既に賤籍を免れた者五人に軍主を授け、未だ免れていない者十二人には代償を与えて放免した。

四年、王師が東征したため、西方の道が空虚となり、羌や渾の侵擾を憂慮したので、李賢を河州総管に任じた。河州は従来総管を置かなかったが、この時に創設した。李賢は大いに屯田を営み、運漕を省き、斥候を多く設けて寇戎に備えた。これにより羌や渾は影を潜めた。五年、宕昌が辺境を侵したので、洮州に総管府を設置してこれを鎮圧することとし、河州総管を廃止し、李賢を改めて洮州総管に任じた。羌の寇賊が侵擾したが、李賢は頻繁にこれを撃破し、虜は遂に震え恐れ、塞を犯さなくなった。まもなく洮州総管を廃止し、再び河州に総管府を置き、また李賢をこれに任じた。

武帝は李賢の旧恩を思い、召し出して大将軍に任じた。京師で薨去すると、帝は自ら臨み、哀哭の様は左右を感動させた。使持節・柱国大将軍・大 都督 ととく ・十州諸軍事・原州刺史を追贈し、諡を桓といった。子の李端が後を嗣いだ。

李端は位は開府儀同三司に至り、北斉平定に従軍し、戦没した。上大将軍を追贈され、襄陽公に追封され、諡を果といった。

李端の弟の李吉は、儀同三司であった。

李吉の弟の李孝軌は、開府儀同大将軍・升遷県伯となり、後に奇章公に封じられた。李孝軌の弟に李詢がいる。

李詢は、字を孝詢といい、深沈として大略があり、書記(文書・歴史)に広く通じていた。北周に仕え、累進して司衛上士となった。武帝が雲陽宮に行幸した際、留府の事務を委ねられた。衛王宇文直が乱を起こし、肅章門を焼いた時、李詢は内側からさらに火を燃やしたので、賊は中に入ることができなかった。武帝はこれを称善した。累進して英果中大夫となり、幾度も軍功により、位を大将軍に加えられ、平高郡公の爵を賜った。隋の文帝が丞相となった時、尉遅迥が乱を起こし、韋孝寛を派遣してこれを討たせ、李詢を元帥長史とし、腹心として委任した。軍が永橋に至った時、諸将の意見が一致しなかった。李詢は密かに上啓して重臣の監護を請うた。文帝は高熲に監軍を命じた。高熲と心を同じくしたのは、李詢のみであった。尉遅迥が平定されると、位を上柱国に進められ、改めて隴西郡公に封じられた。開皇初年、歴任して隰州総管となったが、病気のため召還されて京師に帰った。卒去すると、帝は長く悼み惜しみ、諡を襄といった。子の李元方が後を嗣いだ。

李詢の弟の李崇は、字を永隆といい、英果にして籌算(計画)に長け、胆力は人に優れていた。北周元年、父の勲功により回楽県侯に封じられた。当時まだ年が幼く、爵位を拝受した日、親族が祝賀する中、李崇ひとり涙を流した。李賢がその理由を問うと、答えて言った。「国に対して勲功がなく、幼少にして侯に封じられた。主君の恩に報いねばならず、孝養を全うすることができない。それゆえ悲しむのです。」李賢はこれにより彼を大いに異才と認めた。初め州主簿に任じられたが、好みではなく、就職を辞して将兵 都督 ととく を求めた。宇文護に従って北斉を伐ち、功績第一により儀同三司を授けられた。少侍伯大夫・少承禦大夫を歴任し、太子宮正を摂行した。周の武帝が北斉を平定した時、参謀に引き入れられ、勲功により開府を加授され、襄陽県公に封じられ、まもなく改めて広宗県公に封じられた。

隋の文帝が丞相となった時、上開府儀同大将軍・懐州刺史を加授され、爵位を郡公に進めた。尉遅迥が反乱を起こすと、使者を遣わして李崇を招いた。李崇は初め呼応しようとしたが、後に叔父の李穆が へい 州をもって文帝に帰附したことを知り、慨然として嘆息して言った。「一家の富貴を得た者は数十人に及ぶのに、国に難が遇った時、竟に傾きかけた国を支え絶えんとするものを継ぐことができないとは。何の面目あって天地の間に処せようか。」韋孝寛も彼を疑い、共に起居した。その兄の李詢は当時元帥長史であり、しばしば諭し説いた。李崇はこれにより文帝に帰心した。尉遅迥が平定されると、徐州総管を授けられ、位を上柱国に進めた。

開皇三年、幽州総管に任ぜられる。突厥が塞を犯すと、崇はこれを破った。奚・霄・契丹などはその威略に恐れをなし、争って内附してきた。後に突厥が大いに侵掠すると、崇は歩騎三千を率いてこれを防いだ。転戦すること十余日、兵士は多く死に、ついに沙城に拠って守った。突厥がこれを包囲し、兵士はほぼ全滅した。突厥は彼を降そうとして言った、「降る者は特勤に封ぜられよう。」崇は免れぬことを悟り、士卒に命じて言った、「我は軍を喪い、罪は万死に当たる。今、命を尽くして国家に謝す。我が死ぬのを見て、しばらく賊に降り、機会を見て散り散りに逃れよ。至尊(天子)に再び会い、この意を伝えよ。」かくて刃を挺てて賊に突入し、さらに二人を殺し、陣に没した。主州諸軍事・ 州刺史を贈られ、諡して壮といった。子の敏が嗣いだ。

敏は字を樹生といい、文帝はその父が王事のために死んだことを以て、宮中で養育した。成長すると、広宗公の爵を襲い、初めて左千牛に任ぜられた。姿容は美しく、騎射に優れ、歌舞弦管をよくした。開皇初め、周の宣帝后である楽平公主に娘の娥英がおり、婿を妙に選んでいた。勅により弘聖宮に集められた貴公子弟は、日に百数を数えた。公主は敏を選び取り、礼儀は帝の女を尚るのと同様であった。後に侍宴に臨もうとしたとき、公主は敏に言った、「私は天下を至尊に与えた。ただ一人の娘婿である。汝のために柱国を求めよう。もし他の官を授けられても、慎んで謝するな。」進んで上(文帝)に謁見したとき、上は自ら琵琶を弾き、敏に歌舞させ、大いに悦び、公主に言った、「敏は何の官か。」答えて言った、「一介の白丁でございます。」敏に言った、「今、儀同を授けよう。」敏は答えなかった。上は言った、「汝の意に満たぬか。今、開府を授けよう。」また謝さなかった。上は言った、「公主は我に対して大功がある。どうしてその女婿に官を惜しむことがあろうか。今、卿に柱国を授けよう。」敏はようやく拝礼して舞踏した。かくて座中で詔を発して柱国を授け、本官のまま宿衛させた。

後に煬帝の諱を避け、経城県公に改封された。豳・金・華・岐の数州刺史を歴任したが、多くは職に就かず、常に京師に留まった。宮内を往来し、侍従して游宴し、賞賜は功臣を超えていた。大業初め、衛尉卿に転じた。楽平公主がまさに薨ぜんとするとき、煬帝に遺言して「妾にはただ一人の娘がおります。自らの死は憂いませんが、娘を深く憐れみます。湯沐邑を敏に回していただきたい。」と言った。帝はこれに従い、ついに五千戸を食邑させた。屯衛将軍を摂った。楊玄感の反乱後、城闕を大いに修築したのは、敏の献策によるものであった。将作監となる。高麗征伐に従軍し、新城道軍を率い、光禄大夫を加えられた。十年、帝が再び遼東を征したとき、敏を黎陽に遣わして輸送を監督させた。

時に或る者が言うには、敏は一名を洪児というと。帝は「洪」の字が讖(予言)に当たるのではないかと疑い、かつて面と向かって告げ、彼が自決することを期待した。敏はこれによって大いに恐れ、しばしば金才・善衡らと人を しりぞ けて私語した。宇文述はこれを知って奏上し、ついに渾(李渾)とともに誅殺された。その妻の宇文氏もまもなく鴆毒を賜って死んだ。

賢の弟に遠がいる。遠は字を万歳といい、幼少より器量と才覚があり、かつて群児と戦闘の遊戯をしたとき、指揮すればたちまち軍陣の法があった。郡守はこれを見て異とし、召して再び遊戯させた。群児が散り散りに走ると、遠は杖を持って叱咤し、再び以前の陣形に戻し、意気雄壮で、前よりもはるかに勝っていた。郡守は言った、「この小児は必ず将帥となるであろう。並みの人物ではない。」

成長すると、書伝に広く涉獵した。魏の正光末、天下が鼎の沸くが如く乱れ、敕勒の賊胡琮が原州に侵逼した。遠の兄弟は郷人を率いて励まし、防ぎ守ろうと図ったが、衆情にはかなり異同があった。遠は剣を按じて節義を説き、ついで言った、「異議を唱える者は、斬らせていただく。」衆は恐れ、ようやく命を聴き、互いに盟して血をすすり、深く塁壁を築いて自守した。援軍なく、城は陥ち、その徒は多く害されたが、ただ遠兄弟だけは人に匿われて免れた。遠は賢に晦跡和光させ、身を潜めて間道を行き、朝廷に入って援軍を求めた。魏朝はこれを嘉し、武騎常侍を授け、まもなく別将に転じた。爾朱天光が西征するに及んで、遠に精兵を配して郷導とさせた。天光は遠の才望を欽慕し、長城郡守に任じた。後に侯莫陳崇の功に応じた功績により、高平郡守に遷った。周の文帝(宇文泰)は面会して悦び、麾下に置かせた。

魏の孝武帝が西遷すると、安定県伯に封ぜられた。魏の文帝が帝位を嗣いだ初め、遐年(長寿)を享受しようと思い、遠の字(万歳)が嘉すべきものとして、帝を扶けて 殿 しんがり に昇らせた。爵を進めて公とし、なお左右を領した。竇泰征伐に従い、弘農を回復し、ともに殊勳があった。 都督 ととく ・原州刺史を授けられた。周の文帝は遠に言った、「孤に卿ありては、身に臂あるが如し。本州の栄誉は、私事に過ぎぬ。」かくて遠の兄の賢に代わって州事を行わせた。沙苑の役では、遠の功が最も大きく、爵を進めて陽平郡公とした。まもなく大丞相府司馬に任じ、軍国の機務に参与した。時に河東は回復したばかりで、人情未だ安からず。周の文帝は河東を国の要領とし、遠に河東郡守を授けた。遠は風俗を敦め奨励し、農桑を勧め課し、奸非を粛清し とど め、兼ねて守備を修めた。まだ満一月にもならぬうちに、百姓はこれを懐いた。周の文帝は書を降して労い問うた。侍中に徴され、太子少師に遷った。

東魏の北 州刺史高仲密が州を挙げて来附を請うた。周の文帝は仲密の占拠する所が遼遠で、応接し難いと考えた。諸将は皆この行を憚った。遠は言った、「北 は遠く賊境にあり、高歓はまた河陽に兵を屯めている。常理から論じれば、実に救援は難しい。しかし獣穴に入らざれば獣子を得ず。もし奇兵を以てその不意に出でれば、事は或いは成し遂げられよう。たとえ利鈍(成否)があっても、もとより兵家の常である。もし顧みて躊躇して行わねば、すなわち平定の日はない。」周の文帝は喜んで言った、「李万歳の言うことは、ほぼ人意に したが う。」かくて行台尚書を授け、先駆として東出させた。周の文帝は大軍を率いて続いて進んだ。遠はひそかに軍を進め、仲密を抜き取って帰還した。引き続き周の文帝に従って芒山で戦い、時に大軍は利あらず、遠のみが独り所部を整えて殿を務めた。

まもなく 都督 ととく 義州弘農等二十一郡諸軍事を授けられた。遠は撫育統御に巧みで、幹略があり、戦守の備えは精鋭を極めなかったものはなかった。常に境外の人を厚く撫でて間諜とし、敵中の動静を必ず先んじて知った。事が漏れて誅殺されることがあっても、また悔いとしなかった。かつて莎柵で狩りをしたとき、叢薄の中に石を見て、伏せた兎と思い、これを射ると、鏃が一寸余り入り、見れば石であった。周の文帝は聞いてこれを異とし、賜書して言った、「昔、李将軍(李広)に親しくこの事あり。公今また爾り。世々その徳を載すと謂うべし。」東魏の将段孝先が宜陽に趣き、糧を送るを名目とし、実は窺覦の意があった。遠は密かにその計を知り、兵を遣わして襲撃して破った。孝先は遁走した。周の文帝は自らの乗る馬と金帯・床帳・衣被などを賜い、併せて彩絹二千匹を与え、大将軍に拝した。ほどなく、尚書左僕射に任ぜられたが、固辞した。周の文帝は許さず、遠は已むなく、ようやく職を拝した。周の文帝はまた第十一子の代王達を遠の子とさせ、その親待されることこのようであった。

時に周の文帝の嫡嗣は未だ立てず、明帝(宇文毓)は長子で、既に成徳あり;孝閔帝(宇文覚)は嫡子であるが、年尚幼少であった。かくて群公に謂って言った、「孤は子を立てるに嫡を以てしたいが、大司馬に疑いがあるのではないかと恐れる。」大司馬とは即ち独孤信であり、明帝の敬后の父である。衆に答える者なし。遠は言った、「子を立てるには長を以てせず嫡を以てす。略陽公(宇文覚)を嗣とすべきであり、公は何を疑われるのか。もし人(独孤信)を嫌うならば、請うて即ち信を斬らん。」すなわち起ち上がって剣を抜いた。周の文帝も起ち上がって言った、「何事ここに至るや!」信もまた自ら陳謝したので、遠はようやく止めた。ここにおいて群公は並びに遠の議に従った。遠は外に出て、信に拝謝して言った、「大事に臨んでは已むを得ざるなり。」信もまた遠に謝して言った、「今日は公に頼ってこの大議を決す。」六官が建てられると、小司寇を授けられた。周の孝閔帝が践祚すると、位を進めて柱国大将軍とし、再び弘農を鎮守させた。

遠の子の植は、文帝(宇文泰)の時既に相府司録となり、朝政に参与してこれを掌握した。及んで晋公宇文護が権力を執ると、密かに宇文護を誅殺しようとしたが、やや漏洩し、宇文護は植を梁州刺史として出させた。間もなくして廃帝(宇文覚)を廃し、遠と植を朝廷に召還した。遠は変事があることを恐れ、長く沈吟した後に言うには、「大丈夫は寧ろ忠鬼となろうとも、どうして叛臣となりえようか」と。遂に征に就き、京師に至った。宇文護は遠の功名が平素より重いことを以て、なおこれを全うし宥めようとし、言うには、「貴公の息子が異謀を有したので、早くその処置をなすべきである」と。乃ち植を遠に引き渡した。遠は平素より植を愛し、植はまた弁舌に優れ、初めからこの謀はなかったと云う。遠はこれを信じ、翌朝植を連れて宇文護に謁見しようとした。宇文護は植が既に死んだと思い、言うには、「陽平公(宇文遠)はどういうつもりで自ら来られたのか」と。左右が「植も門外におります」と云うと、宇文護は大いに怒って言うには、「陽平公は私を信じないのだな」と。召し入れて、遠に同座を命じ、帝(廃帝宇文覚)と植に遠の前で対質させた。植は言い窮まり、帝に言うには、「元はこの謀を為し、社稷を安んじ、至尊(皇帝)を利せんとしただけである。今日ここに至り、何事をか云々せん」と。遠はこれを聞き、自ら床に身を投げて言うには、「もしそうであるならば、誠に万死に値する」と。ここにおいて宇文護は乃ち植を害し、併せて遠に自殺を迫った。建徳元年、晋公宇文護が誅殺されると、本官を追贈され、太保を加えられ、諡して忠と曰う。隋の開皇初年、上柱国を追贈され、諡を改めて懷と曰う。植及び諸弟にも併せて諡が加えられた。

植の弟の基は、字は仲和、幼い頃より声譽があり、容姿は美しく、談論を善くし、群書に渉猟し、特に騎射に巧みであった。周の文帝(宇文泰)は義帰公主を娶らせた。父の勲功により、建安県公に封ぜられた。累遷して大 都督 ととく となり、爵を進めて清河郡公となった。魏の廃帝が即位した後、猜疑の隙は一層深まった。当時、周の文帝の諸子は皆幼少であり、章武公の宇文導、中山公の宇文護はまた東西に出鎮しており、ただ諸婿に意を託して、心膂と為していた。基は義城公の李暉、常山公の於翼らと共に武衛将軍となり、禁旅を分掌した。魏帝はこれを深く憚り、故に密謀が漏洩した。魏の恭帝が即位すると、爵を進めて敦煌郡公となり、間もなく位を進めて驃騎大将軍・開府儀同三司とし、陽平国の世子に拝された。六官が建てられると、御正中大夫を授けられた。

周の孝閔帝が践祚すると、浙州刺史として出された。間もなく兄の植の事に連座して死罪に当たった。王(宇文泰)の女婿であること、また叔父の穆が請願したことにより、免ぜられた。武成二年、江州刺史に除された。既に譴責謫降されてより、常に憂憤して志を得ず。保定元年、任上で卒した。穆は特に鍾愛しており、哭する毎に悲慟し、親しい者に謂うには、「良き児が我を去った、門戸はどうして興さんと欲しようか」と。宣政元年、使持節・上開府儀同大将軍・曹徐譙三州刺史・敦煌郡公を追贈され、諡して孝と曰う。子の威が嗣いだ。

威は字は安人、また改めて遠の爵である陽平郡公を襲い、上開府を加えられた。大象の末、位は柱国に至り、公に封ぜられた。

賢の弟の穆は、字は顯慶、少より明敏にして度量有り。文帝が関中に入ると、便ち左右に給事し、深く親遇された。穆もまた小心謹肅で、未だ懈怠したことがなかった。侯莫陳悦が賀抜岳を害すると、周の文帝は夏州より難に赴いたが、悦の党の史帰が原州を拠り、なお悦のために守っていた。周の文帝は侯莫陳崇にこれを襲撃させた。穆は時に先んじて城中におり、兄の賢、遠と共に崇に応じ、遂に史帰を擒らえた。功により 都督 ととく を授けられた。魏の孝武帝を迎えることに従い、永平県子に封ぜられた。また郷兵を領した。竇泰を擒らえ、弘農を復し、併せて戦功有り。沙苑の捷では、穆は言うには、「高歓は今日既に胆を喪った。速やかにこれを逐うことを請う。然らば高歓は擒らえられよう」と。周の文帝は聞き入れなかった。前後の功を論じ、爵を進めて国公となった。

芒山の戦いでは、周の文帝の馬が流れ矢に中り、驚いて逸走し地に墜ちた。敵人が追い付き、左右は皆散った。穆は馬から下り、鞭で周の文帝の背を打ち、因って大いに罵って言うには、「籠陳の軍士め、お前たちの主は何処にいる?お前だけがここに留まっているのか!」と。敵人はその軽侮を見て、貴人であると疑わず、遂に捨てて通り過ぎた。穆は馬を周の文帝に授け、遂に共に逃れた。この日、穆が微かであれば、周の文帝は既に助からなかったであろう。既にして穆と相対して泣き、これより恩顧は更に隆くなった。左右を顧みて言うには、「我が事を成す者は、この人であろうか」と。抜擢して武衛将軍・儀同三司を授け、進めて安武郡公に封ぜられた。前後の賞賜は、数え切れなかった。周の文帝はその忠節を歎じて言うには、「人の貴ぶ所は唯命である。穆は遂に命を軽んじて孤(私)を済わした。爵位玉帛では、未だ報いるに足りない」と。乃ち特に鉄券を賜い、十死を恕された。驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中に進んだ。初め、芒山の敗戦の時、穆が周の文帝に炍色の馬を授けた。後に厩舎にこの色の馬がいる者は、悉くこれを穆に賜った。また穆の嗣子の惇に安楽郡公を賜い、姉一人を郡君とし、その余の姊妹は併せて県君とし、兄弟子侄及び緦麻以上の親族並びに舅氏は皆厚賜に沾った。その褒崇はこのようなものであった。

玉壁の包囲を解くことに従い、安定国中尉に拝された。同州刺史・太僕卿を歴任した。于謹に従い江陵を平定し、功により別に一子を長城県侯に封ぜられた。間もなく位を進めて大将軍となり、拓跋氏の姓を賜った。また曲沔の蛮を撃ち破った。俄かに原州刺史に除され、世子の惇を儀同三司とし、賢の子を平高郡守とし、遠の子を平高県令とし、併せて鼓吹を加えられた。穆は自ら叔侄一家三人が皆郷里の牧宰となることを以て、恩遇が過ぎて隆大であるとし、固辞して拝受しなかった。周の文帝は許さなかった。後に召されて雍州刺史となり、小冢宰を兼ねた。周の孝閔帝が践祚すると、また一子を升遷県伯に封ぜられた。穆は賢の子の孝軌に回授することを請い、許された。

及び兄の子の植が宇文護を謀害しようとして誅殺されると、穆もまた連座して除名された。先に穆は植が家を保つ主でないことを知り、毎度遠にこれを除くよう勧めたが、遠は用いることができなかった。遠が刑に臨む時、泣いて穆に謂うには、「顯慶よ、我は汝の言を用いなかったが故にここに至った。どうしようか」と。穆はこれにより免ぜられ、その子弟もまた免官された。時に植の弟の基は従坐して誅戮されるべきであったが、穆は子の惇、怡らを以て代わりに死ぬことを求め、辞理は酸切で、聞く者動容せざるはなかった。宇文護はこれを哀れみ、遂に特に基の死を免じた。

明帝が即位すると、驃騎大将軍・開府儀同三司・大 都督 ととく に拝され、安武郡公の爵を復し、直州刺史に拝された。武成年間、子弟で免官爵された者は悉くこれを復した。累遷して大 司空 しくう となった。天和二年、進んで申国公に封ぜられ、旧爵を一子に回授した。建徳元年、太保に遷り、間もなく原州総管として出された。四年、武帝が東征すると、穆に別に軹関及び河北の諸県を攻撃させ、併せてこれを破った。後に帝の病のため班師し、棄てて守らなかった。六年、位を進めて上柱国とし、 へい 州総管に除された。時に東夏は初めて平定され、人情は尚お擾いていたが、穆は鎮静を以てこれを鎮守し、百姓はこれを懐いた。大象元年、邑を加えて九千戸に至り、大左輔に遷り、総管は元の如くであった。二年、詔して太傅を加えられ、仍って総管であった。

隋の文帝が宰相となると、尉遅迥が挙兵し、使者を派遣して穆を招いたが、穆はその使者を拘束し、その書状を上奏した。穆の子の士栄は、穆の居る所が天下の精兵の地であることを以て、密かに穆を勧めてこれに応じさせようとした。穆は聞き入れず、言うには、「周の徳は既に衰え、愚者も智者も皆これを知っている。天の時がこのようである以上、どうして天に背くことができようか」と。そこで使者を遣わして隋の文帝に謁見させ、併せて十三環の金帯を献上した。これは天子の服であるから、以て微かにその意を表明したのである。時に迥の子の誼は朔州刺史であったが、これも捕らえて京師に送った。迥はその配下の行台韓長業に潞州を攻め落とさせ、刺史趙威を捕らえ、城の住民郭子勝を刺史に任命した。穆は兵を派遣して討伐し、子勝を捕らえた。文帝はこれを嘉し、穆の功労は 鄴城 ぎょうじょう 攻略の第一勲と同じであるとして、三転を加え、その二子の栄・才及び賢の子の孝軌に分けて授けることを許した。栄及び才はともに儀同大將軍となり、孝軌は開府儀同大將軍に進み、また別に子の雄を密國公に封じた。穆はまた密かに上表して即位を勧めた。文帝が禅譲を受けると、詔して言うには、「公は既に旧徳であり、かつまた父の同輩である。敬って来旨を拝受し、便ち今月十三日に恭しく天命を膺ける」と。間もなく穆が朝見に来ると、文帝は座を降りて礼をした。太師に拝し、拝礼の際に名を呼ばれず、真食として成安県三千戸を与えられた。穆の子孫は繈褓の中に在る者でも、皆儀同に拝され、その一門で象笏を執る者は百余人に及び、貴盛は当時に比類無かった。穆は上表して致仕を乞うた。詔して言うには、「公は年既に耆旧であり、筋力煩わしさに耐え難い。今、所司に命じて敬って朝集を免ずる。もし大事有らば、須らく共に謀謨すべく、別に侍臣を遣わし、邸に就いて詢訪すべし」と。時に太史が奏上して、遷都の事有るべきとすると、帝は即位したばかりであったので、甚だ難しく思った。穆はそこで上表して、遷都すべき利便を極言した。帝は元より台城の制度が狭小なのを嫌い、また宮内に鬼妖が多いのを気にしていた。蘇威がかつて遷都を勧めたが、上は聞き入れなかった。太史の奏状に遇い、意はようやく惑わされた。ここに至って穆の上表を省み、帝は言うには、「天道は聡明であり、既に徴応有り。太師は人望有り、またこの請を抗する。然らば可なり」と。遂に遷都した。

一年余りして、詔を下すには、「穆は今より以後、たとえ罪過有りとも、ただ謀逆に非ざれば、縦え百死有るも、終に推問せず」と。開皇六年に薨去。時に七十七歳。遺令して、岱宗に陪駕できなかったことを恨みとした。詔して黄門侍郎を遣わして喪事を監護させ、十州諸軍事・冀州刺史を追贈し、諡して明と言う。石槨・前後部の羽葆鼓吹・轀輬車を賜い、百官これを郭外に送った。詔して太常卿牛弘に哀冊文を斎らせ、祭りには太牢を用いた。

長子の惇は字を士献と言う。周の文帝は功臣の長子を皆略陽公と遊び交わらせたが、惇は同輩の中でも特に引き立てられ、遠方の服玩珍奇の物有るごとに、必ず賜与を受けた。安楽郡公に封ぜられ、位は驃騎大將軍・開府儀同三司・鳳州刺史に至った。穆に先立って卒去した。子の筠、祖の爵を襲ぐ。

惇の弟の怡、位は儀同三司、渭州刺史を追贈される。

怡の弟の雅、若くして識量有り。周に仕え、軍功により西安県男に封ぜられ、位は荊州総管に至った。開皇初年、爵を公に進める。

雅の弟の恆、位は監州刺史、曲陽侯に封ぜられる。

恆の弟の栄、位は合州刺史、長城県公。

栄の弟の直、位は車騎將軍、帰政県侯。

直の弟の雄、位は柱國・驃騎將軍、密國公。

雄の弟の渾、仁寿初年、筠の吝嗇さに憤り、兄の子の善衡を遣わしてこれを殺害させた。賊を捕え得ず、文帝は大いに怒り、その親族をことごとく追及した。初め、筠は従父の弟の瞿曇と不和有り、渾は遂に瞿曇がこれを殺したと証言し、善衡は免れた。筠が死ぬと、帝は後継を立てることを議した。邳公蘇威が奏上して、筠は不軌であるとし、その封を絶つことを請うた。帝は許さず、乃ち渾を後嗣とした。

渾は字を金才と言い、姿貌は瑰偉で、美しい鬚髯を有した。左侍上士より起家する。尉遅迥が鄴で反乱を起こすと、時に穆は へい 州に在った。隋の文帝は迥を甚だ憂慮し、渾を駅馬に乗せて穆の下に急行させ、渾を京に入らせて熨斗を奉らせて言うには、「柄を執って以て天下を慰めんことを願う」と。文帝は大いに喜んだ。また渾を韋孝寬の所に遣わして穆の意を述べさせた。鄴が平定されると、功により上儀同三司を授けられ、安武郡公に封ぜられた。開皇年間、 しん 王広が藩国に出ると、渾は驃騎將軍として親信を領し、従って揚州に赴いた。

筠が死ぬと、渾はこれを継ごうと図り、妻の兄の太子左衛率宇文述に言うには、「もし襲封を得たら、国賦の半分を以て、毎年貴方に奉じよう」と。述はこれにより入朝して皇太子に白上し、文帝に奏上した。竟に詔して渾に申公を襲封させ、穆の後嗣を奉じさせた。大業六年、穆の封を追って郕公と改め、渾は仍ってこれを襲いだ。累進して光禄大夫に加わり、右 ぎょう 騎衛大將軍に遷る。渾は既に父の業を継ぎ、日に日に豪侈を増した。二年後、奉じる物を述に分け与えなかった。述は大いに恨み、酔ってその友人于象賢に言うには、「我は竟に金才に売られた。死んでも忘れぬ」と。渾はこれを聞き、ここより隙を生じた。帝が遼東を討つに及び、方士の安伽陀が帝に言うには、「李氏が天子となるべきである。宜しく天下の李姓を尽く誅すべし」と。述はこれを知り、因って渾を帝に誣えて言うには、「臣は金才と夙に親しく、その数度李敏・善衡らと日夜屏して語り、或いは終夜寝ずと聞きます。渾は大臣であり、家世隆盛、身は禁兵を捉えています。このようであるべきではありません」と。帝は言う、「卿、その事を探れ」と。述は乃ち武賁郎将裴仁基を遣わし、表を上って渾の謀反を告げさせ、即日に述を遣わしてその家を襲わせた。左丞元文都・御史大夫裴蘊を遣わして雑治させたが、数日経っても反状を得られなかった。帝は更に述に推鞫させた。述は獄中に入り、敏の妻宇文氏を召し出して言うには、「夫人は帝の甥である。何ぞ賢夫無きを患えん。李敏・金才の名は妖しい讖に当たる。夫人は自ら全きを求むべし」と。因って教えて言うには、金才がかつて敏に告げて云う、「汝は図籙に応じ、天子となるべきである。今、主上は兵を好み、百姓を労擾す。これ亦た天の隋を亡ぼす時なり。若しまた遼を渡らば、吾と汝は必ず大將軍となり、各軍二万余の兵、固より五万人に及ぶ。又、諸房の子弟・内外の親婭を発し、併せて従征を募る。吾が家の子弟は決して主帥となり、兵馬を分領し、諸軍に散在す。吾は汝と先発し、御営を襲い取らん。子弟は響応して赴かば、一日の間に天下定まれり」と。述は口で伝授し、敏の妻に表を書かせ、封じて「上密」と云う。述は持って入奏し、「既に金才の反状を得、併せて敏の妻の密表有り」と云う。帝はこれを見て、泣いて言うには、「吾が宗社、幾ばくか傾かんとす。親家公に頼りて全うするを得たり」と。ここにおいて渾・敏らを誅し、その余は少長無く皆嶺表に徙された。

梁禦

梁禦は、字を善通といい、その先祖は安定の人であった。後に官職のため北方の辺境に赴き、ついに武川に住まいを定め、姓を紇豆陵氏に改めた。高祖の俟力提は、魏の太武帝に従って征討に加わり、揚武将軍・定陽侯の位に至った。梁禦は幼少より学問を好み、進退振る舞いは詳雅であり、成長すると、ますます弓馬を好んだ。爾朱天光が西方を討伐する際、梁禦に志略あるを知り、側近として引き立てた。共に関中・隴右を平定し、益州刺史に任じられ、第一領人酋長となり、白水県侯に封ぜられた。賀抜岳に従って長安を鎮守した。賀抜岳が害されると、梁禦は諸将と共に謀り、周の文帝(宇文泰)を輔け戴いた。周の文帝が秦・隴を平定した後、兵を率いて東下しようとした時、雍州刺史の賈顯と会見し、賈顯を説得すると、賈顯は直ちに出迎えて周の文帝を迎え入れ、梁禦はついに雍州に入って鎮守した。大統元年、信都県公に爵位を進められ、尚書右僕射を授けられた。周の文帝に従って弘農を奪回し、沙苑の戦いで勝利し、侍中・開府儀同三司を加えられ、広平郡公に爵位を進められた。東雍州刺史として出向し、政治は大綱を挙げるのみであったが、民衆はこれを称えた。州において薨去し、臨終に際してはただ国歩未だ康ならざることを遺憾とし、家の事には言及しなかった。太尉・ 尚書令 しょうしょれい ・雍州刺史を追贈され、諡して武昭といった。子に睿がいる。

子の睿。

睿は字を恃徳といい、幼少より沈着聡明で行いに慎みがあった。周の文帝(宇文泰)の時、功臣の子として宮中で養育され、また命ぜられて諸皇子と交遊した。七歳で広平郡公の爵位を襲封した。累進して儀同三司・本州大中正・開府となり、五龍郡公に改封され、渭州刺史となった。周の閔帝が禅譲を受けると、禦伯に召された。中州刺史として出向し、新安を鎮守して北斉に備えた。北斉の軍が侵寇してくると、睿は常にこれを挫いた。帝は大いに賞賛し、大将軍に任じた。梁禦の創業の功により、蔣国公に爵位を進められた。朝廷に入って司会となった。後に斉王宇文憲に従って洛陽において北斉の将軍斛律明月を防ぎ、戦うごとに功績があり、小冢宰に遷った。敷州刺史・涼州・安州二州総管を歴任し、いずれも善政を施し、位は柱国に進んだ。

隋の文帝が国政を総覧すると、代わって王謙を益州総管とした。漢川の西まで赴いた時、王謙が反乱を起こし、始州を攻撃したため、睿は進軍できなかった。文帝は睿を行軍元帥と命じ、行軍総管の于義・張威・達奚長儒・梁升・石孝義ら歩騎二十万を率いて討伐させた。王謙は開府の李三王を通穀に守らせたが、睿は張威を派遣してこれを撃破した。龍門まで進軍すると、王謙の将軍趙儼・秦会が十万の兵を擁し、険阻な地に拠って陣営を構え、周囲三十里に及んだ。睿は将士に枚を銜ませ、間道より出で、四方から奮撃し、力戦してこれを破り、ついに進軍の太鼓を鳴らして進んだ。王謙の将軍敬豪は剣閣を守り、梁岩は平林を防いだが、共に恐れて降伏してきた。王謙はまた高阿那瑰・達奚惎らに大軍を率いて利州を攻撃させた。睿が到来すると聞き、達奚惎は兵を分けて開遠を占拠した。睿は上開府の拓拔宗を剣閣に、大将軍の宇文瓊を巴西に向かわせ、大将軍の趙達に水軍を率いて嘉陵に入らせた。張威・王倫・賀若震・于義・韓相貴・阿那惠らを分遣して達奚惎を攻撃させ、午の刻から申の刻にかけてこれを破った。達奚惎は王謙のもとに逃げ帰った。睿は成都に迫り、王謙は達奚惎・乙弗虔に城を守らせ、自ら精兵五万を率い、城を背にして陣を布いた。睿はこれを撃破した。王謙が城に入ろうとすると、達奚惎・乙弗虔は城を挙げて降伏した。王謙は麾下三十騎を率いて遁走したが、新都県令の王宝がこれを捕らえ、睿は市中で王謙を斬った。剣南はことごとく平定された。上柱国の位に進み、総管の職は元のままとし、物五千段・奴婢一千口・金二千両・銀三千両を賜り、邑千戸を授けられた。

睿は当時西州に威勢を振るい、夷獠は帰順したが、ただ南寧の首帥爨震のみが遠方を恃んで臣従しなかった。睿は上疏して言った。「南寧州は、漢代の牂柯の地である。近代以来、興古・雲南・建寧・硃提の四郡が分置され、戸口は殷盛で、金宝は富饒であり、二河には駿馬・明珠があり、益州・寧州には塩井・犀角が出る。晋の泰始七年、益州が広遠であるため、寧州を分置した。偽梁(南朝梁)の時代に至り、南寧州刺史の徐文盛が湘東王(後の梁の元帝)に召されて荊州に赴いた。当時、東夏(北朝)の勢力がまだ阻まれていたため、遠略に及ぶ暇がなく、土着の豪族爨瓚がついに一方を窃拠した。国家(北周)は遠くより刺史を授け、その子の震が相承して今日に至っている。しかし震は臣下の礼を多く欠き、貢賦を納めない。聞くところによれば、彼の地の民はその苛政に苦しみ、皇風(隋の徳化)に浴することを望んでいるという。幸い蜀を平定した兵士があり、重ねて師旅を興す煩わしさはなく、狎獠(蜀の平定)が完了したならば、直ちに南寧を平定することを請う。」文帝は深くこれを認めたが、天下が初めて平定されたばかりで、人心の不安を恐れたため、これを許さなかった。後に結局、史万歳を派遣してこれを討ち平定したが、これも睿の献策によるものであった。

睿は威厳と恩恵を兼ね備え、漢人・夷人ともに喜んで服し、声望はますます重くなったため、文帝は内心これを畏れた。薛道衡が蜀で従軍していた時、睿に勧進(帝位につくよう勧めること)を勧めたが、文帝は大いに喜んだ。文帝が禅譲を受けると、睿への待遇はますます厚くなった。睿はまた陳を平定する策を上奏し、帝はこれを良しとし、詔を下して言った。「昔、公孫述・隗囂は漢の賊であったが、光武帝は彼らと通和し、皇帝と称した。趙佗の高祖に対する関係も、初めはなお臣下とならなかった。孫皓が晋の武帝(司馬炎)に答えた書簡には、なお'白'(私儀から申し上げます)と書いていた。ある者はやがて帰服し、ある者は直ちに滅亡した。王者は度量が大きく、義は養うことを尊ぶところにある。たとえ陳国が来朝しても、藩臣の礼節を尽くしているとは言えず、卿の大略をもってすれば、確かに罪を責めるべきであるが、なおその誅罰を緩めようと思う。この意をよく理解せよ。淮海(陳国)が未だ滅んでおらず、必ずや師旅を興すことになろう。もし命が永遠に続くなら、終いには屈服させるであろう。身を以て国に許す者に、言葉を尽くす必要はない。」睿はこれで止めた。睿は当時、突厥が強大であるのを見て、辺境の患いとなることを恐れ、さらに鎮守の策十余事を陳述した。帝は久しく賞賛し、厚い情意をもって答えた。

睿は当時、自らを周代の旧臣として、長く重鎮に居ることを、内心安からず思い、たびたび朝廷に入ることを請うた。そこで召し還されて京師に帰った。引見されると、上(文帝)は彼のために立ち上がり、睿に殿上に昇ることを命じ、手を握って極めて歓んだ。睿は退いて親しい者に言った。「功を成し身を退く、今がその時である。」そこで病と称して辞し、門を閉ざして自らを守り、当時の権勢者と交わらなかった。帝は板輿を賜り、朝覲がある度に、必ず三衛(親衛兵)に輿に乗せて殿上に上がらせた。睿は王謙を平定し始めた当初から、自らの威名が盛んすぎることを以て、時に忌まれることを恐れ、大いに金賄を受け取って自らを穢すことにした。このため、勲功の記録は多く実態に合わず、朝廷に赴いて冤罪を訴える者が前後百数人に及んだ。上は有司に命じてその事実を調査させたところ、主管者の多くが罪を得た。睿は恐れ、上表して陳謝し、大理寺に帰って審理を受けることを請うた。上は慰諭してこれを許した。開皇十五年、文帝に従って洛陽に行き、そこで卒去した。諡して襄といった。

子の洋が嗣ぎ、嵩州・徐州二州刺史・武賁郎将の位を歴任した。大業六年、詔して睿の封を追って戴公に改め、洋に襲封させることを命じた。

論ずるに。

論じて言う。賀抜岳の変事は突然起こり、侯莫陳悅の意は兼併にあった。この時、人々には離心があり、士卒には固い志がなかった。寇洛は散乱した者を慰撫し、仇敵に抗い防ぎ、全軍を率いて帰還し、敵に覬覦の望みを絶たせた。己の徳を量って処し、霸王(宇文泰)に天下を匡合する謀略を立てさせた。趙貴は二つの関(潼関など)の険要の地に居り、周室に天下二分の功績を定めさせた。彼と此れはそれぞれ一時の功績であり、その功は確かに小さくはない。

李賢とその兄弟は乱離の世に属し、戎馬の間に居り、志略は縦横に働き、忠勇奮発して、頻りに強敵を摧き、屡々艱危を渉った。時に逢い主に遇い、名を策に委ね質とし、生成の恩を荷い、国士の遇を蒙り、共に好爵に縻され、各々勲庸を著す。遂に文武を兼ねる任を得、声は内外に彰け、位高く望重く、国を光し家を栄えしめ、跗萼連暉し、聊椒繁衍し、冠冕の盛は、当時これに比ぶるもの莫し。周より隋に至るまで、鬱然として西京の盛族たり、金・張の漢に在りしも、これを尚ばざるなり。然れども周文(宇文泰)始めて崩じ、嗣君幼沖なるに、内には功臣命を放ち、外には強寇辺に臨む。晋公(宇文護)は猶子の親を以て、負図の托を膺け、遂に家国を撫甯し、異端を開翦し、魏を革め周を興し、遠く安んじ邇く悦ばしめ、功勤既に著しく、過悪未だ彰けず。李植は先朝に遇を受け、宿りて機務に参じ、威権の己を去らんことを慮り、将来の容れられざるを懼れ、此の厲階を生じ、此の貝錦を成し、乃ち小を以て大に謀り、疏を由りて親を間う。主に昭帝の明無く、臣に上官の訴有り、嫌隙既に兆し、釁故これに因り、冢宰の君無き心を啓き、閔帝の廃 しい の禍を成すは、植の由る所なり。李遠は義方の訓を闕き、又先見の明無く、誅夷に至るは、不幸と為すに非ず。梁禦は め興王に奉じ、締構に参謀し、驅馳畢力し、夷険備嘗し、遠志未だ申さずと雖も、亦その時に遇うと云うべし。穆及び梁睿は皆周室の功臣、隋文の王業初めて基づくに、俱に腹心の寄を受け、故に穆は首に師傅に登り、睿は終に殊寵を膺く、其の機を見て動くを観れば、抑亦人の先覚なり。然れども方う魏朝の貞烈に、王淩に愧じ、晋室の忠臣に比し、終に徐広に慚ず。穆の子孫は、特り隆盛を為し、硃輪華轂、凡そ数十人、当時に忌まれ見られ、禍難遄く及び、之を得るに道に非ざれば、戒めざるべけんや。

目次へ戻る

※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻059