邵惠公
邵惠公宇文顥は、周の文帝(宇文泰)の長兄である。徳皇帝(宇文肱)が楽浪王氏を娶り、これが徳皇后となった。顥を生み、性質は至孝であり、徳皇后の喪に服した際、哀傷のあまり礼を越えて憔悴した。徳皇帝が衛可瓌と戦い、落馬した時、顥は数騎を率いて駆けつけて救い、難を免れた。顥はついに戦死した。保定の初年、大塚宰を追贈され、邵国公に封ぜられ、諡して恵といった。三人の子、什肥・導・護がいる。
子 什肥
什肥は母に仕えて孝行で知られた。文帝が関中に入った時、母を離れることができず、晋陽に留まった。文帝が秦・隴を平定すると、什肥は斉の神武帝(高歓)に害された。保定の初年、大将軍・小塚宰を追贈され、邵国公の爵を襲い、諡して景といった。子の胄が後を嗣いだ。
胄は幼くして孤となり、頗る幹略があった。景公(什肥)が害された時、幼少であったため宮刑に処せられた。保定の初年、詔により晋公宇文護の子の会が景公の封を継承した。天和年間、斉と国交を開くと、胄は帰国し、邵国公の爵を襲った。隋の文帝が政を輔けるに及んで、胄は滎州刺史となり、兵を挙げて尉遅迥に応じ、清河公楊素に殺された。封国は除かれた。
什肥の弟 導
導は字を菩薩といい、若い頃より雄豪であった。初め諸父とともに葛栄の軍中にいたが、栄が敗れると晋陽に移った。文帝に従って賀抜岳と共に関中に入り、常に征伐に従った。文帝が侯莫陳悦を討つと、導は牽屯山でこれを追撃して斬り、功により饒陽県伯に封ぜられた。魏の文帝が東征した時、導を留めて華州刺史とした。やがて趙青雀・于伏徳・慕容思慶らが乱を起こすと、導は伏徳を捕らえ、思慶を斬り、渭橋に駐屯して文帝の軍と合流した。事が平定されると、爵位は章武郡公に進み、侍中を加えられた。高仲密が北豫州を以て降伏すると、文帝が東征し、再び導を大都督とし、華州刺史を代行させた。守備の要領を大いに心得ていた。大軍が不利となり、東魏軍が稠桑まで追撃して来たが、関中に備えがあると知って退却した。侯景が帰順して来ると、詔により隴右大都督の独孤信を東下させ、導に命じて信に代わって秦州刺史・大都督・十五州諸軍事とした。斉氏が帝を称すると、文帝がこれを討ち、魏の文帝は斉王宇文廓を遣わして隴右を鎮守させ、導を召し出して大将軍・大都督・二十三州諸軍事とし、咸陽に駐屯させた。大軍が帰還すると、もとの鎮守地に戻った。
導の性質は寛大で明察であり、撫御に長けていた。文帝が出征する度に、導は常に留守を守り、吏民の信頼を大いに集め、朝廷もこれを重んじた。上邽で薨去すると、魏の皇帝は侍中・漁陽王元綱を遣わして喪事を監護させ、尚書令を追贈し、諡して孝といった。朝議は、導が西戎を撫和し、威恩が顕著であったことから、代々隴右を鎮守させてその徳を顕彰しようとした。そこで上邽城西の無疆原に葬り、華戎の会葬者は一万余人に及び、路上で奠祭し、悲号が野に響き渡り、皆「我が君が我らを見捨てるのか」と言った。老若が共に土を背負って墳丘を築き、高さ五十余尺、周囲八十余歩に及んだ。役人が制止して、ようやく泣いて別れを告げて去った。天和五年、重ねて太師・柱国・豳国公を追贈された。
導に五人の子、広・亮・翼・椿・衆がいた。亮と椿は杞公(宇文亮)の後を継いだ。
広は字を乾帰といい、若い頃より方正厳格で、文学を好んだ。武成の初年、大将軍・梁州総管の位にあり、蔡国公に進封され、累進して秦州刺史・総管十三州諸軍事となった。性質は明察で、撫綏に長け、民衆は畏敬し喜んだ。当時、晋公宇文護の諸子や広の弟の杞公亮らは奢侈で制度を越えていたが、広のみ礼に従い、また士を敬って礼を尽くしたので、朝野に称賛された。かつて武帝の御所に侍した時、瓜の味が良かったので、持って進上すると、帝は喜んだ。広は晋公護が権力を専断するのを見て、これを抑制するよう勧めたが、護は受け入れなかった。後に陝州総管に任ぜられたが、病により免官となった。孝公(宇文導)が豳国公に追封されると、広を召して爵を襲わせた。初め、広の母の李氏は広の病を憂いて病となり、ついに亡くなった。広は喪に服して病が重くなり、ついに哀傷のあまり薨去した。世間では、母は広の病のために、広は母のために死んだと言い、慈孝の道が一門において極まったと称された。武帝は喪服を着て自ら臨んだ。その旧吏の儀同の李克信らが上表して功績を褒め述べ、その平素の志、すなわち倹約を守ることを申し立てた。詔して言う、「昔、河間王(元徳)の才藻は、中尉(官名)によって追叙され、東海王(司馬越)の謙約は、没後に称えられた。前典を斟酌し、旧章に従い、易簀の際の言葉を以て、遺志を申し述べさせ、葬儀の簡素化の願いを、立派な最期を損なうことなく叶えよ」。そこで本官を追贈し、太保・隴右十四州諸軍事・秦州刺史を加え、諡して文といった。隴右に葬られ、担当官庁は一貫して倹約の定めに従った。子の洽が後を嗣いだが、隋の文帝が政を輔けると害され、封国は除かれた。
翼は字を乾宜といい、西陽郡公に封ぜられたが、早くに薨じ、昭と諡された。子がなく、杞公亮の子の温が後を嗣いだが、後に亮の反逆に連座して誅殺され、封国は除かれた。衆は字を乾道といい、幼少より聡明でなく、天水郡公に封ぜられたが、隋の文帝に誅殺された。
導の弟 護
文帝が西巡し、牽屯山に至って病に罹り、護を涇州に召し寄せ、文帝に謁見させた。帝は言った、「我が容貌この如し、必ず済まぬ。諸子幼く、天下の事は汝に属す。」護は涕泣して命を受けた。雲陽に行き至ると、文帝は崩御した。護はこれを秘し、長安に至って初めて発喪した。時に嗣子(宇文覚)は幼沖であり、強寇が近くにあり、人情不安であった。護は内外を綱紀し、文武を撫循して、衆心ようやく定まった。先に、文帝は常に「我胡の力を得たり」と言っていたが、当時その指すところを知る者なく、時に人は「護」の字をこれに当てた。まもなく柱国に拝された。文帝の山陵が終わると、護は天命の帰する所ありとし、魏帝(恭帝)に禅譲の事をほのめかすよう遣わした。孝閔帝(宇文覚)が践祚すると、大司馬に拝され、晋国公に封ぜられ、邑一万戸を賜った。趙貴・独孤信らが護を襲おうと謀ったが、護は趙貴が入朝する機会を捉えてこれを捕らえ、党与は皆誅殺に伏した。大塚宰に拝された。
時に司会李植・軍司馬孫恆らは密かに宮伯乙弗鳳・張光洛・賀抜提・元進らを腹心として結び、帝に説き、護が臣節を守らず、図るべきであると述べた。帝はこれを然りとし、しばしば武士を後園に率い、縛り捕らえる態勢をとった。護は微かにこれを知った。李植を梁州刺史に、孫恆を潼州刺史に出し、その謀りごとを抑えようとした。後に帝は李植らを思い、しばしば召そうとした。護は諫めて言った、「天下の至親は兄弟に過ぎず。もし兄弟自ら嫌隙を構うれば、他人などいかに容易く親しむことができようか。ただ臣を除いた後、奸回の輩がその欲を逞しくすることを恐れるのみで、陛下を安んじるどころか、社稷をも危うくするでしょう。」そこで泣き涕して、久しくしてやっと止んだ。帝はなお猜疑し、乙弗鳳らはますます恐れ、密謀をますます深め、ついに期日を定めて護を誅殺しようとした。張光洛が護に告げたので、護は柱国賀蘭祥・小司馬尉遅綱らを召し寄せ、乙弗鳳らの謀を告げた。賀蘭祥らは皆帝を廃するよう勧めた。時に尉遅綱は禁兵を総領していたので、護は尉遅綱を遣わして宮中に入らせ、乙弗鳳らを召して議事と称し、順次捕らえて護の邸宅に送らせた。そこで宿衛兵を罷め散らし、賀蘭祥を遣わして帝を脅し、旧邸に幽閉した。ここにおいて公卿を召し集めて護の邸宅に畢集させた。護は言った、「先王(宇文泰)は王業に勤労すること三十余年、寇賊未だ平らがず、奄かに万国を棄てられた。寡人は地は猶子のごときもの、親しく顧命を受け、略陽公(宇文覚)が既に正嫡に居られるので、公らとともに立ち奉り、魏を革め周を興し、四海の主と為した。即位以来、荒淫度を過ごし、群小に昵近し、骨肉を疎忌し、大臣重将は皆誅夷せんと欲している。もしこの謀が遂に行われれば、社稷必ず傾覆に致す。寡人もし死せば、何の面目をもって先王に見えようか。今日は寧ろ略陽公に背くとも、豈に社稷に背くことができようか。寧都公(宇文毓)は年徳兼ねて茂り、仁孝聖慈、今、昏きを廃し明らかなるを立てんと欲する。公らはどう思うか。」群公は皆言った、「これは公の家事なり、敢えて命に唯々と聴かざらんや。」ここにおいて門外で乙弗鳳らを斬り、李植・孫恆をも誅殺した。まもなく帝を弑し、岐州より明帝(宇文毓)を迎えて立てた。
護は性質至孝であり、書を得て悲しみ自ら勝えず、左右の者も仰ぎ見ることができなかった。返書に云う、
斉朝は直ちに発遣せず、さらに重ねて護に書を送り、護に重ねて返報することを求めた。護は返書し、往復すること再三に及んだが、母は結局至らなかった。朝議はその失信を以て、有司に命じて斉に移書させたが、移書が未だ送られないうちに母が到着した。挙朝慶悦し、大赦を天下に下した。護は母と多年隔たり、一朝にして聚集し、凡そ資奉する所、窮極華盛であった。毎に四時伏臘には、武帝は諸親戚を率い、家人の礼を行い、觴を挙げて寿を上け、栄貴の極み、振古未聞であった。
宇文護の性格は甚だ寛大温和であったが、大局を見通すことに暗かった。自ら功績を立てたことを恃み、長く権力の中枢に当たり、任用する者は皆適任ではなかった。加えて諸子は貪婪残忍で、僚属は放縦に溢れ、政を蝕み人を害さぬ者はなかった。その暴慢を以て、密かに衛王宇文直と図ってこれを除こうとした。七年三月十八日、宇文護が同州から帰還し、帝(武帝)が文安殿で宇文護に謁見した後、含仁殿に導き入れ、皇太后に朝見させた。これ以前、帝が禁中で宇文護に会う時は、常に家人の礼を行っていた。宇文護が太后に謁見する時は、太后は必ず彼に座を賜い、帝は毎回立って侍っていた。この時、宇文護が入ろうとしたところ、帝は言った、「太后は年齢が既に高く、酒を大変好まれ、諸親族の朝謁も、時には取り次ぎを廃されることがある。喜怒が時に道理に外れることがある。近頃諫めても、受け入れられていない。兄上(宇文護)が今更に願い出て請うてほしい。」そこで懐中の酒誥を取り出して宇文護に授け、「これで太后を諫めよ」と言った。宇文護が入り、帝が戒めた通りに、読んで太后に示した。読み終わらないうちに、帝が玉珽を以て背後からこれを打ち、地面に倒した。また宦官の何泉に命じて御刀で斬らせた。何泉は恐れ、斬っても傷つけることができなかった。時に衛王宇文直が先に戸内に隠れており、そこで出てきて斬った。
馮遷は字を羽化といい、弘農の人である。若い時から行いを修め謹み、幹才能力があり、宇文護府の司録となった。性質は質直で、小心に畏れ慎み、兼ねて時事に明るく習練し、断決に長けていた。毎度文簿を校閲するのに孜々として倦まず、これによって宇文護に大いに任用された。後に陝州刺史に任じられた。馮遷は元々貧しく微賤で、当時の人々に重んじられなかった。一旦本州の刺史・検挙官となると、ただ廉潔恭順をもって郷里の人々と接し、怨む者はなかった。再び入朝して司録となり、累進して小司空となった。天和年間以後、年老いたため、任用は次第に衰えた。宇文護が誅殺された時も、依然として除名された。家で卒去した。子の馮恕は、位は儀同三司に至った。
杞簡公
杞簡公宇文連は、幼少より謹み厚く、敵に臨んで果断にして剛毅であった。徳皇帝に従って定州軍と唐河で遭遇し、共に戦死した。保定初年、太傅、柱国大将軍、大司徒を追贈され、杞国公に封ぜられ、簡と諡された。子の宇文元宝は、斉の神武帝(高歓)に害された。保定初年、大将軍、小司徒を追贈され、杞国公の封を襲い、烈と諡され、章武公宇文導の子である宇文亮が後を嗣いだ。
宇文亮は字を乾徳といい、梁州総管の位にあった。豳国公宇文広が薨じると、宇文亮を秦州総管とし、宇文広が管轄していた部衆を全て配属させた。州にあって政績は甚だ無かった。間もなく柱国に進み、東征に従い、上柱国に進んだ。引き続き鄴平定に従い、大司徒に転じた。大象初年、行軍総管として元帥鄭国公韋孝寛らと共に陳を伐った。帰還して豫州に至った時、密かに韋孝寛の陣営を襲おうと謀り、反逆しようとしたが、韋孝寛に追撃されて斬られた。子の宇文胲明は宇文亮の罪に連坐して誅殺され、詔して宇文亮の弟である宇文椿を烈公の後嗣とした。
宇文椿は字を乾寿といい、上柱国、大司徒の位にあった。大定年間、隋の文帝(楊堅)に害され、その五子も共に殺された。
莒荘公
莒荘公宇文洛生は、若い時より任侠を好み、施しを好み士を愛し、北州の賢俊は皆彼と交遊し、その才能の多くは彼の下にあった。葛栄が鮮于修礼を破ると、宇文洛生を漁陽王とし、引き続き徳皇帝の余衆を率いさせ、当時の人々は皆彼を洛生王と呼んだ。宇文洛生は将士をよく慰撫したので、勝利と捕獲は常に諸軍の冠であった。爾朱栄が山東を平定した時、宇文洛生は虜中にいたが、爾朱栄はかねてよりその名を聞き、内心畏れていた。間もなく爾朱栄に害された。保定初年、大将軍を追贈され、莒国公に封ぜられ、荘と諡された。
子の宇文菩薩は、斉の神武帝(高歓)に害された。保定初年、大将軍、小宗伯を追贈され、爵を襲い、穆と諡され、晋公宇文護の子である宇文至が後を嗣いだ。宇文至は字を乾附といい、後に父の宇文護の罪に連坐して誅殺され、詔して衛王宇文直の子である宇文賓を穆公の後嗣とした。宇文賓は字を乾瑞といい、間もなく宇文直の罪に連坐して誅殺され、斉王宇文憲の子である広都郡公宇文貢が襲封した。宇文貢は字を乾貞といい、宣帝の初年、誅殺され、封国は除かれた。
虞国公
虞国公宇文仲は、徳皇帝の従父兄である。代で卒去した。保定初年、太傅、柱国大将軍、大司徒を追贈され、虞国公に封ぜられた。子の宇文興が嗣いだ。
子の洛が嗣ぎ、位は儀同三司に至った。隋の初めに介国公となり、隋室の賓客となった。
広川靖公
広川公の測は、字を澄鏡といい、文帝の族子である。高祖父は中山、曾祖父は豆頽、祖父は騏麟、父は永で、いずれも魏に仕えて顕達した。測の性質は沈着で細密、若くして学問に篤く通暁し、魏に仕えて司徒右長史の位に至り、宣武帝の娘の陽平公主を尚し、駙馬都尉に任ぜられた。孝武帝が斉の神武帝を疑うに及んで、詔して測を文帝のもとに遣わし、密かに備えをさせた。帰還すると、広川県伯に封ぜられた。まもなく孝武帝に従って西遷し、爵を進めて公となった。文帝が丞相となると、測を右長史とし、軍国を委ね、また測に宗室の昭穆の遠近を詳しく定めさせ、属籍に附せさせた。
侍中・開府儀同三司を歴任し、汾州の事務を行った。政務は簡素で慈恵を旨とし、人心を得るところ多かった。地は東魏と接し、しばしば互いに侵掠しあったが、時に寇賊として捕らえられた者があっても、多くは縛って送り返した。測は皆、縄を解くよう命じ、賓館に置いてから引見し、客礼をもって遇した。そして宴を設け、国に放還し、衛送して国境を出させた。これより東魏人は大いに慚じ、もはや寇掠しなくなり、両国境では慶弔を通ずるようになり、当時の論は彼を羊叔子になぞらえた。ある者が測が二心を抱いていると告げると、文帝は怒って言った、「測は我のために辺境を安んじている。どうして骨肉を離間させようとするのか」と。そして告げた者を斬らせた。なお測に便宜処置を許した。綏州の事務を行うよう転じた。毎年、黄河の氷が結ぶと、突厥がすぐに寇掠に来た。以前は、常に予め住民を城堡に入れて避難させていた。測が着任すると、皆に安堵するよう命じた。そして要路数百箇所に多く柴を積み、遠く斥候を出して、その動静を知った。この年の十二月、突厥が連谷から寇掠に来て、国境から数十里のところまで来た時、測は柴を積んだ所で一斉に火を放つよう命じた。突厥は大軍が来たと思い、恐れて遁走し、雑畜や輜重を棄てたものは数え切れなかった。これ以降、再び来ることはなかった。測はこれにより戍を置いて備えるよう請うた。後に太子少保の任で卒し、文帝は自ら臨んで慟哭し、水池公に喪事の監護を命じ、諡して靖といった。
測の性質は仁恕で、施し与えることを好んだ。洛陽にいた時、盗難に遭い、失った物は妻の陽平公主の衣服であった。州県が盗賊を捕らえ、失物も共に回収した。測はこの盗賊が死罪に坐ることを恐れ、被害を認めなかったので、盗賊は赦免に遇った。盗賊は恩を感じ、測の左右に仕えたいと請うた。測が孝武帝に従って西遷する時、事態は極めて狼狽したが、その盗人も測に従って関中に入り、異志を抱くことは全くなかった。子の該が嗣ぎ、位は除州刺史に至った。測の弟に深がいる。
弟 深
深は字を奴於といい、性質は剛直で公正、器量と見識があった。数歳の時から、石を積んで陣営とし、草を折って旌旗とし、行伍を布置して、皆軍陣の勢いがあった。父の永がこれを見て喜び、「お前は自然にこれを知っている。後には必ず名将となるだろう」と言った。孝武帝が西遷する時、事は倉卒に起こり、多くの人が逃散した。深は当時子都督として、宿衛兵を率い、配下を慰撫し、皆を関中に入れることができた。功により長楽県伯の爵を賜った。大統年間、累転して尚書直事郎中となった。
斉の神武帝が蒲阪に屯し、その将の竇泰を潼関に向かわせ、高敖曹に洛州を包囲させた時、周の文帝は竇泰を襲おうとしたが、諸将は皆難色を示した。帝はその事を隠し、あたかも謀りごとのないかのように装い、ただ一人深に策を問うた。深は言った、「竇氏は高歓の驍将で、歓は毎度彼を頼りに外侮を防いでいます。今、大軍をもって蒲阪に迫れば、歓は守りを固め、竇は必ずこれを救援し、内外敵を受けて、敗北の道を行くことになります。軽鋭を選んで小関から潜り出る方が良いでしょう。竇の性質は躁急ですから、必ず決戦に来ます。高歓は慎重ですから、すぐには救援せず、そうすれば竇を生け捕りにできます。竇を虜にすれば、歓の勢いは自ら沮喪し、軍を返してこれを防げば、勝利を制することができます」。文帝は喜んで言った、「これこそ我が心だ」。軍は遂に行き、果たして竇泰を捕らえ、斉の神武帝も退いた。深はまた文帝に弘農を進取するよう説き、再びこれを陥落させた。文帝は大いに悦び、深に言った、「君はまさに我が家の陳平である」。
深は幼くして父を喪い、兄に仕えること甚だ謹んだ。性質は奇矯で、兵書を好んで読み、近侍の地位にあっては、常に籌策を進めた。選曹に在った時は、時に誉れがあった。性質は仁愛で、従弟の神挙・神慶が幼くして孤となると、深はこれを撫育訓導し、情義は実の兄弟と等しく、世もまたこれをもって称えた。任中に卒し、諡して成康といった。子に孝伯がいる。
深の子 孝伯
皇太子に令徳無きを以て、孝伯帝に言う、「皇太子の徳声未だ聞こえず、請うらくは妙に正人を選びて其の師友と為し、聖質を調護せしめよ、然らずんば、悔ゆるも及ばざる所あらん」と。帝顔色を斂めて曰く、「卿は世に鯁直を載せ、誠を竭くして事に仕え、卿の此の言を観るに、家風有り」と。孝伯拝謝して曰く、「言うことの難きに非ず、之を受くること難きなり、深く願わくは陛下之を思え」と。帝曰く、「正人豈に復た君を過ぎんや」と。ここに於いて尉遅運を以て右宮正と為し、孝伯仍って左宮正・宗師中大夫と為す。累遷して右宮伯に至る。嘗て侍坐に因りて、帝問う、「我が児比来進歩せずや」と。答えて曰く、「皇太子は比来天威を懼れ、更に罪失無し」と。及んで王軌内宴に因りて帝の鬚を捋り、太子の不善を言うに至り、帝酒を罷め、孝伯を責めて曰く、「公常に我に謂いて太子に過無しと云う、今軌此の言有り、公は誑きたり」と。孝伯拝して曰く、「臣聞く、父子の際は人の言い難き所なりと、臣は陛下の情を割き愛を忍ぶ能わざるを知り、遂に爾く舌を結ぶ」と。帝其の意を知り、默然として久しくして、乃ち曰く、「朕已に公に委ぬ、公其れ之を勉めよ」と。
大軍東討に及び、内史下大夫を拝し、留臺の事を掌らしむ。軍還りて、帝曰く、「居守の重きは、戦功に忝なきなり」と。ここに於いて大将軍を加授し、広陵郡公に爵を進め、並びに金帛女妓等を賜う。復た宗師と為す。毎に車駕巡幸するに、常に居守を令す。後帝北討し、雲陽宮に至りて疾に臥す、駅を以て孝伯を行在所に召し赴かせ、其の手を執りて曰く、「吾自ら量るに必ず済む理無からん、以後事を君に付す」と。是の夜、司衛上大夫を授け、宿衛兵馬を総べ、駅を馳せて京に入り鎮守せしむ。
宣帝即位し、小冢宰を授く。帝は斉王憲を忌み、意其を除かんと欲し、孝伯に謂いて曰く、「公能く之を図らば、当に其の官位を以て相授けん」と。孝伯頭を叩きて曰く、「斉王は戚近にして功高く、棟樑の寄する所なり。臣若し旨に順わば、則ち臣は不忠と為り、陛下は不孝の子と為らん」と。帝因りて之を疎んじ、乃ち于智・鄭訳等と其の事を図る。智をして憲の謀逆を告げしめ、孝伯を遣わして召し入れ、之を誅す。
帝の西征するや、軍中に過行有り、鄭訳も時に亦預かる。軍還りて、孝伯及び王軌尽く以て武帝に白す。武帝怒り、帝を数十撻ち、乃ち訳の名を除く。是に至り、帝憾み被杖を追い、乃ち訳に問う、「我が脚上の杖痕誰の為す所ぞ」と。訳曰く、「事は宇文孝伯及び王軌に由る」と。訳又軌の帝の鬚を捋る事を説く、帝乃ち軌を誅す。尉遅運懼れ、私かに孝伯に謂いて曰く、「吾徒必ず禍を免れず、奈何」と。孝伯曰く、「老母有り、地下に武帝有り、臣と為り子と為り、何くにか之かんとするを知らんや!且つ質を委ねて人に事うるは、本より名義に徇う、諫めて入らずんば、将に焉んぞ死を逃れん?足下若し身の為に計らば、宜しく且つ之を遠ざくべし」と。ここに於いて各其の志を行う。運尋いで出でて秦州総管と為る。帝荒淫日甚だしく、誅戮度無し。孝伯頻りに諫むも従わず、是に由りて益々疎んぜらる。後稽胡反し、孝伯を行軍総管と為し、越王盛に従い討ち平らぐ。及び軍還り、帝将に之を殺さんとし、乃ち斉王の事に託して之を誚りて曰く、「公は斉王の謀反を知りながら、何を以て言わざる」と。対えて曰く、「臣は斉王の社稷に忠なるを知り、群小の媒蘖する所と為り、之に罪を加う。臣は言えば必ず用いられざるを知り、以て言わざるなり。且つ先帝微臣を属して陛下を輔けしむ、今諫めて従わず、実に顧托に負く。此を以て罪と為すは、是れ甘心する所なり」と。帝慚じ、首を俯して語らず。令して家に於いて死を賜う、時に年三十六。
隋文帝践極に及び、孝伯・王軌の忠にして罪を獲たるを以て、並びに令して収葬せしめ、其の官爵を復す。嘗て高穎に謂いて曰く、「宇文孝伯は実に周の良臣なり、若し此の人朝に在らば、我輩措手する処無からん」と。子歆嗣ぐ。
東平公
神挙は武帝に待せられ、心腹の任に処し、王軌・宇文孝伯等屡々皇太子の短を言う、神挙も亦頗る之に預かる。及び宣帝即位し、荒淫度無し、神挙禍に及ぶを懼れ、自ら安からざるを懐く。初め范陽を定めたる後、威声甚だ振い、帝も亦其の名望を忌み、兼ねて宿憾を以てす、遂に人をして酒を齎し之に賜わしめ、馬邑に於いて薨ず、時に年四十八。
神挙は風儀美く、辞令善く、博く経史に渉り、性篇章を愛し、尤も奇射に工なり。戎に臨み寇に対し、勇にして謀有り、職を蒞め官に当たり、毎に声績を著す。兼ねて施しを好み士を愛し、雄豪を以て自ら居す、故に任文武を兼ね、声内外に彰る。百僚其の風則を仰がざる無く、先輩旧歯より今に至るまで之を称す。
子の同が嗣ぎ、位は儀同大將軍に至り、神舉の弟に慶がある。
弟の慶。
慶は字を神慶といい、沈深にして器局あり、少にして敏なるをもって知られた。初め東観に学び、経史に頗る渉猟した。既にして人に謂いて曰く、「書は姓名を記すに足るのみ、安んぞ久しく筆硯に事えて腐儒の業と為さんや」と。時に文州の賊乱あり、慶は募に応じて征に従い、功により都督を授けられた。衛王直が山南に鎮するや、左右に引かれた。慶は射を善くし、胆気あり、猛獣を格闘するを好み、直は甚だこれを壮とした。稍く遷りて車騎大將軍・儀同三司となった。宇文護を誅するに及び、慶は謀りごとに関与した。時に驃騎大將軍を授けられ、開府を加えられた。武帝に従い河陰を攻め、先登して堞に攀じ、賊と短兵相接し、石に中たって乃ち墜ち、絶えて後蘇生した。帝はこれを労って曰く、「卿の勇は以て人に売るべし」と。再び武帝に従い晉州を抜き、齊の兵大いに至るや、慶は齊王憲と軽騎をもってこれを覘い、卒然として賊と相遇い、賊の窘迫する所となった。憲は身を挺して遁れた。慶は退きて汾橋に拠り、賊衆争って進むや、慶はこれを射て、中たる所の人馬必ず倒れ、賊は乃ち稍く却いた。高壁を抜き、并州を克ち、信都を下し、高湝を禽えるに及び、功並びに最たるを占めた。位を進めて大將軍と為り、汝南郡公に封ぜられた。尋に行軍總管として延安の反胡を撃ち、これを平らげた。延・甯二州總管を歴任した。
隋の文帝が丞相たる時、行軍總管として江表を征し、白帝に次いで、労により上大將軍に進んだ。帝は慶と旧交あり、甚だ親しく遇され、丞相の軍事を督せしめ、心腹を委ねられた。尋ねて柱國を加えられた。開皇初年、左武衛將軍に拝され、上柱國に進んだ。数年を経て、涼州總管を除かれた。歳余にして徴還され、職に任ぜられなかった。
初め、文帝が潜龍の時、嘗て慶と語り、これに謂いて曰く、「天元(北周宣帝)は質に積徳なく、その相貌も寿も長からず、加うるに法令繁苛にして、声色に耽恣す。吾がこれを観るに、殆ど将に久しからん。又諸侯微弱にして、各々国に就かしむるも、曾て深根固本の計なく、羽翮既に翦られたれば、何ぞ遠きに及ばん。尉遲迥は貴戚にして、早く声望を著わし、国家に釁あらば、必ず乱階と為らん。然れども智量庸浅にして、子弟軽佻、貪にして恵少なく、終に亡滅を致さん。司馬消難は反覆の虜にして、亦た池内の物に非ず、変は俄頃に在らん。但だ軽薄にして謀無く、害を為す能わず、江南に自ら竄するに過ぎざらん。庸蜀は険隘にして、艱阻を生じ易く、王謙は愚蠢にして、素より籌略無し。但だ人の誤らしむる所と為らんことを恐るるのみ、虞るるに足らず」と。未だ幾ばくもせず、上言皆験した。ここに及び、慶は上(文帝)の遺忘を恐れ、再び収用せられざらんと欲し、旧く恩顧を蒙りしことを見せんとし、前の言を具に録し、表としてこれを奏した。上表を省みて大いに悦び、詔を下して曰く、「朕の言の験は、自ら是れ偶然なり。公乃ち忘れず、弥く誠節を表す。至意を深く感じ、嘉尚すること已まざるなり」と。是より上は毎に優礼を加えられた。家に卒した。
子の靜亂は、隋の文皇帝の女廣平公主を尚し、位は儀同・安德縣公・熊州刺史に至った。慶に先んじて卒した。靜亂の子の協は、位は右翊衛將軍に至った。宇文化及の乱に際し、害に遇った。
協の弟の晶は、字を婆羅門といい、大業年中に宮内に養われ、後に千牛左右となった。煬帝は甚だこれを親昵し、遊宴ある毎に必ず侍従せしめた。臥内に出入りし、六宮を伺察し、往来門禁を限らなかった。時人はこれを宇文三郎と号した。宮人と淫乱し、妃嬪・公主に至るまで亦た醜声あり。蕭后が帝に言うや、晶は聞き、懼れて敢えて見えず。協は因って晶の壮なるを奏し、久しく宮掖に在るべからずと。帝はこれを罪せず、召し入れて、初めの如くこれを待った。化及が殺逆の際、乱兵の害に遇った。
【史論】
論じて曰く、古より受命の君及び守文の王は、独り異姓の輔のみならず、亦た骨肉の助け有り。その茂親には則ち魯衛・梁楚有り、その疏属には則ち凡蔣・荊燕有り、咸く能く声を飛わし実を騰せ、百代の後に滅びず。若し豳孝公の勳烈に、善政を以てこれを加え、蔡文公の純孝に、儉約を以てこれを飾るは、峨峨たる焉、以て前載を轔轢するに足る。
周の受命の始め、宇文護は実に艱難に預かった。文后崩殂し、諸子沖幼、群公等夷の士を懐き、天下に去就の心有るに、卒く能く魏を変じて周と為し、危を捍ぎ義を獲たるは、護の力なり。向使し礼譲を以てこれを加え、忠貞を以てこれを経たらんには、桐宮に悔過の期有り、未央に天年の数を終え、前史の載する所と同じからん、焉んぞ足らんと道わんや。然れども護は学術に寡く、群小に昵近し、威福は己に在り、征伐は自ら出で、人臣にして君無きの心有り、人主として堪えざるの事を為し、終に妻子戮せられ、身首横分せらるるに至るは、蓋し其れ宜なるかな。
隋氏の起るに当たり、天威を仮りて海内を服し、胄は葭莩の親を以て、一州に拠りて義挙に協せり、忠にして能く勇と謂うべし。功業遂げず、悲しいかな。亮は実に庸才にして、巨逆に非常を図る、古人の徳を度らず、力を量らざるを称するは、其れ斯れを謂うか。
宇文測兄弟は経綸の日に馳駆し、孝伯・神舉は父子の間に言を尽くす。其の智勇忠概を観るに、並びに古人に追従することを得べし。