北史

巻057

巻五十七 列傳第四十五 周宗室

北史

原文北史

巻五十七 列傳第四十五 周宗室

原文卷五十七 列傳第四十五周宗室

邵惠公

原文邵惠公

邵惠公宇文顥は、周の文帝(宇文泰)の長兄である。徳皇帝(宇文肱)が楽浪王氏を娶り、これが徳皇后となった。顥を生み、性質は至孝であり、徳皇后の喪に服した際、哀傷のあまり礼を越えて憔悴した。徳皇帝が衛可瓌と戦い、落馬した時、顥は数騎を率いて駆けつけて救い、難を免れた。顥はついに戦死した。保定の初年、大塚宰を追贈され、邵国公に封ぜられ、諡して恵といった。三人の子、什肥・導・護がいる。

原文邵惠公顥,周文帝之長兄也。德皇帝娶樂浪王氏,是為德皇后。生顥,性至孝,居德皇后喪,哀毀過禮。德皇帝與衛可瑰戰,墜馬,顥與數騎奔救,乃免。顥遂戰歿。保定初,追贈大塚宰,封邵國公,諡曰惠。三子,什肥、導、護。

子 什肥

原文子 什肥

什肥は母に仕えて孝行で知られた。文帝が関中に入った時、母を離れることができず、晋陽に留まった。文帝が秦・隴を平定すると、什肥は斉の神武帝(高歓)に害された。保定の初年、大将軍・小塚宰を追贈され、邵国公の爵を襲い、諡して景といった。子の胄が後を嗣いだ。

原文什肥事母以孝聞。文帝入關,不能離母,遂留晉陽。文帝定秦、隴,什肥為齊神武所害。保定初,追贈大將軍、小塚宰,襲爵邵國公,諡曰景。子胄嗣。

胄は幼くして孤となり、頗る幹略があった。景公(什肥)が害された時、幼少であったため宮刑に処せられた。保定の初年、詔により晋公宇文護の子の会が景公の封を継承した。天和年間、斉と国交を開くと、胄は帰国し、邵国公の爵を襲った。隋の文帝が政を輔けるに及んで、胄は滎州刺史となり、兵を挙げて尉遅迥に応じ、清河公楊素に殺された。封国は除かれた。

原文胄少孤,頗有幹略。景公之見害,以年幼下蠶室。保定初,詔以晉公護子會紹景公封。天和中,與齊通好,胄歸,襲爵邵國公。及隋文帝輔政,胄為滎州刺史,舉兵應尉遲迥,為清河公楊素所殺。國除。

会は字あざなを乾仁といい、胄が斉から帰国したため、譚国公に改封された。後に宇文護とともに誅殺された。建徳三年、封爵を追復され常武公となった。

原文會字乾仁,胄至自齊,改封譚國公。後與護同誅。建德三年,追復封爵常武公。

什肥の弟 導

原文什肥弟 導

導は字を菩薩といい、若い頃より雄豪であった。初め諸父とともに葛栄の軍中にいたが、栄が敗れると晋陽に移った。文帝に従って賀抜岳と共に関中に入り、常に征伐に従った。文帝が侯莫陳悦を討つと、導は牽屯山でこれを追撃して斬り、功により饒陽県伯に封ぜられた。魏の文帝が東征した時、導を留めて華州刺史とした。やがて趙青雀・于伏徳・慕容思慶らが乱を起こすと、導は伏徳を捕らえ、思慶を斬り、渭橋に駐屯して文帝の軍と合流した。事が平定されると、爵位は章武郡公に進み、侍中を加えられた。高仲密が北豫州を以て降伏すると、文帝が東征し、再び導を大都督とし、華州刺史を代行させた。守備の要領を大いに心得ていた。大軍が不利となり、東魏軍が稠桑まで追撃して来たが、関中に備えがあると知って退却した。侯景が帰順して来ると、詔により隴右大都督の独孤信を東下させ、導に命じて信に代わって秦州刺史・大都督・十五州諸軍事とした。斉氏が帝を称すると、文帝がこれを討ち、魏の文帝は斉王宇文廓を遣わして隴右を鎮守させ、導を召し出して大将軍・大都督・二十三州諸軍事とし、咸陽に駐屯させた。大軍が帰還すると、もとの鎮守地に戻った。

原文導字菩薩,少雄豪。初與諸父在葛榮中,榮敗,遷晉陽。與文帝隨賀拔岳入關,常從征伐。文帝討侯莫陳悅,導追斬之牽屯山,以功封饒陽縣伯。及魏文帝東征,留導為華州刺史。既而趙青雀、于伏德、慕容思慶等作亂,導禽伏德,斬思慶,屯渭橋會文帝軍。及事平,進爵章武郡公,加侍中。及高仲密以北豫州降,文帝東征,復以導為大都督,行華州刺史,甚得守扞之方。及大軍不利,東魏追至稠桑,知關中有備,乃退。侯景來附,詔徵隴右大都督獨孤信東下,令導代信為秦州刺史、大都督、十五州諸軍事。及齊氏稱帝,文帝討之,魏文帝遣齊王廓鎮隴右,徵導拜大將軍、大都督、二十三州諸軍事,屯咸陽。大軍還,乃旋舊鎮。

導の性質は寛大で明察であり、撫御に長けていた。文帝が出征する度に、導は常に留守を守り、吏民の信頼を大いに集め、朝廷もこれを重んじた。上邽で薨去すると、魏の皇帝は侍中・漁陽王元綱を遣わして喪事を監護させ、尚書令を追贈し、諡して孝といった。朝議は、導が西戎を撫和し、威恩が顕著であったことから、代々隴右を鎮守させてその徳を顕彰しようとした。そこで上邽城西の無疆原に葬り、華戎の会葬者は一万余人に及び、路上で奠祭し、悲号が野に響き渡り、皆「我が君が我らを見捨てるのか」と言った。老若が共に土を背負って墳丘を築き、高さ五十余尺、周囲八十余歩に及んだ。役人が制止して、ようやく泣いて別れを告げて去った。天和五年、重ねて太師・柱国・豳国公を追贈された。

原文導性寬明,善撫御,文帝每出征,導恆居守,深為吏人所附,朝廷重之。薨于上邽,魏帝遣侍中、漁陽王綱監護喪事,贈尚書令,諡曰孝。朝議以導撫和西戎,威恩顯著,欲令世鎮隴右,以彰厥德。乃葬上邽城西無疆原,華戎會葬者萬餘人,奠祭於路,悲號振野,皆曰「我君舍我乎」。大小相與負土成墳,高五十餘尺,周回八十餘步。為官司所止,然後泣辭而去。天和五年,重贈太師、柱國、豳國公。

導に五人の子、広・亮・翼・椿・衆がいた。亮と椿は杞公(宇文亮)の後を継いだ。

原文導五子,廣、亮、翼、椿、眾。亮、椿出後於杞。

広は字を乾帰といい、若い頃より方正厳格で、文学を好んだ。武成の初年、大将軍・梁州総管の位にあり、蔡国公に進封され、累進して秦州刺史・総管十三州諸軍事となった。性質は明察で、撫綏に長け、民衆は畏敬し喜んだ。当時、晋公宇文護の諸子や広の弟の杞公亮らは奢侈で制度を越えていたが、広のみ礼に従い、また士を敬って礼を尽くしたので、朝野に称賛された。かつて武帝の御所に侍した時、瓜の味が良かったので、持って進上すると、帝は喜んだ。広は晋公護が権力を専断するのを見て、これを抑制するよう勧めたが、護は受け入れなかった。後に陝州総管に任ぜられたが、病により免官となった。孝公(宇文導)が豳国公に追封されると、広を召して爵を襲わせた。初め、広の母の李氏は広の病を憂いて病となり、ついに亡くなった。広は喪に服して病が重くなり、ついに哀傷のあまり薨去した。世間では、母は広の病のために、広は母のために死んだと言い、慈孝の道が一門において極まったと称された。武帝は喪服を着て自ら臨んだ。その旧吏の儀同の李克信らが上表して功績を褒め述べ、その平素の志、すなわち倹約を守ることを申し立てた。詔して言う、「昔、河間王(元徳)の才藻は、中尉(官名)によって追叙され、東海王(司馬越)の謙約は、没後に称えられた。前典を斟酌し、旧章に従い、易簀の際の言葉を以て、遺志を申し述べさせ、葬儀の簡素化の願いを、立派な最期を損なうことなく叶えよ」。そこで本官を追贈し、太保・隴右十四州諸軍事・秦州刺史を加え、諡して文といった。隴右に葬られ、担当官庁は一貫して倹約の定めに従った。子の洽が後を嗣いだが、隋の文帝が政を輔けると害され、封国は除かれた。

原文廣字乾歸,少方嚴,好文學。武成初,位大將軍、梁州總管,進封蔡國公,累遷秦州刺史、總管十三州諸軍事。性明察,善撫綏,人庶畏悅之。時晉公護諸子及廣弟杞公亮等侈靡逾制,廣獨率禮,又折節待士,朝野稱焉。曾侍于武帝所,食瓜美,持以奉進,帝悅之。廣以晉公護擅權,勸令挹損,護不能納。後除陝州總管,以病免。及孝公追封豳國公,召廣襲爵。初、廣母李氏以廣患,憂而成疾,遂歿。廣居喪加篤,乃以毀薨。世稱母為廣病,廣為母死,慈孝之道,極於一門。武帝素服親臨。其故吏儀同李克信等上表褒述,申其宿志,庶存儉約。詔曰:「昔河間才藻,追敘于中尉;東海謙約,見稱於身後。可斟酌前典,率由舊章,使易簀之言,得申遺志,黜殯之請,無虧令終。」於是贈本官,加太保、隴右十四州諸軍事、秦州刺史,諡曰文。葬于隴右,所司一遵儉約之典。子洽嗣,隋文輔政,被害,國除。

翼は字を乾宜といい、西陽郡公に封ぜられたが、早くに薨じ、昭と諡された。子がなく、杞公亮の子の温が後を嗣いだが、後に亮の反逆に連座して誅殺され、封国は除かれた。衆は字を乾道といい、幼少より聡明でなく、天水郡公に封ぜられたが、隋の文帝に誅殺された。

原文翼字乾宜,封西陽郡公,早薨,曰昭。無子,以杞公亮子溫嗣,後坐亮反誅,國除。眾字乾道,少不慧,封天水郡公,為隋文所誅。

導の弟 護

原文導弟 護

護は字を薩保といい、幼少より方正にして志度あり、特に徳皇帝(宇文肱)に愛された。文帝(宇文泰)が関中に入ったとき、年が幼かったため従わなかった。普泰の初め(531年)、初めて晋陽から平涼に至り、時に十七歳であった。文帝の諸子は皆幼く、そこで家務を委ねられ、内外厳粛ならざるはなかった。文帝はこれを歎じて、己に類すと認めた。夏州に臨むに及んで、護を留めて賀抜嶽に仕えさせた。嶽が害されると、文帝は平涼に至り、護を都督とし、侯莫陳悦を破るに従った。後に魏帝(孝武帝)を迎えた功により、水池県伯に封ぜられた。文帝に従って竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑を破り、河橋に戦い、いずれも功があった。芒山の役では、敵に囲まれたが、都督侯伏龍恩の救いにより免れた。官を免ぜられる罪に坐したが、まもなく元の位に復した。大統十三年(547年)、中山公に進封された。十五年(549年)、大将軍に遷った。于謹とともに江陵を征し、進軍して直ちに江陵城下に至り、大軍の到着を待ち、包囲してこれを陥れた。師が還ると、護はまた襄陽の蛮帥向天保ら一万余落を討ち平らげた。六官制を初めて行うに当たり、司空に拝された。

原文護字薩保,幼方正有志度,特為德皇帝所愛。文帝之入關,以年小不從。普泰初,始自晉陽至平涼,時年十七。文帝諸子並幼,遂委以家務,內外無不嚴肅。文帝歎之,以為類已。及臨夏州,留護事賀拔嶽。嶽被害。文帝至平涼,以護為都督,從破侯莫陳悅。後以迎魏帝功,封水池縣伯。從文帝禽竇泰,復弘農,破沙苑,戰河橋,並有功。芒山之役,為敵人所圍,賴都督侯伏龍恩救,乃免。坐免官,尋復本位。大統十三年,進封中山公。十五年,遷大將軍。與於謹征江陵,進兵徑至江陵城下,以待大軍至,圍而克之。師還,護又討平襄陽蠻帥向天保等萬餘落。初行六官,拜司空。

文帝が西巡し、牽屯山に至って病に罹り、護を涇州に召し寄せ、文帝に謁見させた。帝は言った、「我が容貌この如し、必ず済まぬ。諸子幼く、天下の事は汝に属す。」護は涕泣して命を受けた。雲陽に行き至ると、文帝は崩御した。護はこれを秘し、長安に至って初めて発喪した。時に嗣子(宇文覚)は幼沖であり、強寇が近くにあり、人情不安であった。護は内外を綱紀し、文武を撫循して、衆心ようやく定まった。先に、文帝は常に「我胡の力を得たり」と言っていたが、当時その指すところを知る者なく、時に人は「護」の字をこれに当てた。まもなく柱国に拝された。文帝の山陵が終わると、護は天命の帰する所ありとし、魏帝(恭帝)に禅譲の事をほのめかすよう遣わした。孝閔帝(宇文覚)が践祚すると、大司馬に拝され、晋国公に封ぜられ、邑一万戸を賜った。趙貴・独孤信らが護を襲おうと謀ったが、護は趙貴が入朝する機会を捉えてこれを捕らえ、党与は皆誅殺に伏した。大塚宰に拝された。

原文文帝西巡,至牽屯山遇疾,召護至涇州,見文帝。帝曰:「吾形容若此,必不濟。諸子幼,天下事以屬汝。」護涕泣奉命。行至雲陽,文帝崩,護秘之,至長安乃發喪。時嗣子沖幼,強寇在近,人情不安。護綱紀內外,撫循文武,眾心乃定。先是,文帝常云「我得胡力」,當時莫曉其指,時人以「護」字當之。尋拜柱國。文帝山陵畢,護以天命有歸,遣諷魏帝以禪代事。孝閔踐阼,拜大司馬,封晉國公,邑萬戶。趙貴、獨孤信等將謀襲護,護因貴入朝,執之,黨與皆伏誅。拜大塚宰。

時に司会李植・軍司馬孫恆らは密かに宮伯乙弗鳳・張光洛・賀抜提・元進らを腹心として結び、帝に説き、護が臣節を守らず、図るべきであると述べた。帝はこれを然りとし、しばしば武士を後園に率い、縛り捕らえる態勢をとった。護は微かにこれを知った。李植を梁州刺史に、孫恆を潼州刺史に出し、その謀りごとを抑えようとした。後に帝は李植らを思い、しばしば召そうとした。護は諫めて言った、「天下の至親は兄弟に過ぎず。もし兄弟自ら嫌隙を構うれば、他人などいかに容易く親しむことができようか。ただ臣を除いた後、奸回の輩がその欲を逞しくすることを恐れるのみで、陛下を安んじるどころか、社稷をも危うくするでしょう。」そこで泣き涕して、久しくしてやっと止んだ。帝はなお猜疑し、乙弗鳳らはますます恐れ、密謀をますます深め、ついに期日を定めて護を誅殺しようとした。張光洛が護に告げたので、護は柱国賀蘭祥・小司馬尉遅綱らを召し寄せ、乙弗鳳らの謀を告げた。賀蘭祥らは皆帝を廃するよう勧めた。時に尉遅綱は禁兵を総領していたので、護は尉遅綱を遣わして宮中に入らせ、乙弗鳳らを召して議事と称し、順次捕らえて護の邸宅に送らせた。そこで宿衛兵を罷め散らし、賀蘭祥を遣わして帝を脅し、旧邸に幽閉した。ここにおいて公卿を召し集めて護の邸宅に畢集させた。護は言った、「先王(宇文泰)は王業に勤労すること三十余年、寇賊未だ平らがず、奄かに万国を棄てられた。寡人は地は猶子のごときもの、親しく顧命を受け、略陽公(宇文覚)が既に正嫡に居られるので、公らとともに立ち奉り、魏を革め周を興し、四海の主と為した。即位以来、荒淫度を過ごし、群小に昵近し、骨肉を疎忌し、大臣重将は皆誅夷せんと欲している。もしこの謀が遂に行われれば、社稷必ず傾覆に致す。寡人もし死せば、何の面目をもって先王に見えようか。今日は寧ろ略陽公に背くとも、豈に社稷に背くことができようか。寧都公(宇文毓)は年徳兼ねて茂り、仁孝聖慈、今、昏きを廃し明らかなるを立てんと欲する。公らはどう思うか。」群公は皆言った、「これは公の家事なり、敢えて命に唯々と聴かざらんや。」ここにおいて門外で乙弗鳳らを斬り、李植・孫恆をも誅殺した。まもなく帝を弑し、岐州より明帝(宇文毓)を迎えて立てた。

原文時司會李植、軍司馬孫恆等密要宮伯乙弗鳳、張光洛、賀拔提、元進等為腹心,說帝,言護不守臣節,宜圖之。帝然之,數將武士于後園,為執縛勢。護微知之。出植為梁州,恆為潼州,欲遏其謀。後帝思植等,每欲召之。護諫曰:「天下至親,不過兄弟。若兄弟自構嫌隙,他人何易可親?但恐除臣後,奸回得逞其欲,非唯不處陛下,亦危社稷。」因泣涕,久之乃止。帝猶猜,鳳等益懼,密謀滋甚,遂克日將誅護。光洛告護,護乃召柱國賀蘭祥、小司馬尉遲綱等以鳳謀告之。祥並勸廢帝。時綱總領禁兵,護乃遣綱入宮,召鳳等議事,以次執送護第。因罷散宿衛兵,遣祥逼帝,幽于舊邸。於是召公卿畢集護第。護曰:「先王勤勞王業三十餘年,寇賊未平,奄棄萬國。寡人地則猶子,親受顧命,以略陽公既居正嫡,與公等立而奉之,革魏興周,為四海主。自即位已來,荒淫無度,昵近群小,疏忌骨肉,大臣重將,咸欲誅夷。若此謀遂行,社稷必致傾覆。寡人若死,將何面目以見先王?今日甯負略陽公,豈可負社稷!寧都公年德兼茂,仁孝聖慈,今欲廢昏立明,公等以為何如?」群公咸曰:「此公之家事,敢不唯命是聽!」於是斬鳳等於門外,並誅植、恆。尋弑帝,迎明帝於岐州而立之。

二年(558年)、太師に拝され、路車と冕服を賜り、子の至を崇業郡公に封じた。初めて雍州刺史を牧と改め、護をこれに任じ、併せて金石の楽を賜った。

原文二年,拜太師,賜路車冕服,封子至為崇業郡公。初改雍州刺史為牧,以護為之,並賜金石之東。

武成元年(559年)、護が表を上って政を返上したので、帝はこれを許し、軍国の大事はなお護に委ねた。帝は性質聡明睿智にして識量あり、護は深くこれを憚った。李安という者あり、元来は鼎俎の役で護の寵を得て、膳部下大夫に抜擢されていた。この時、護は李安に命じて食事を進める際に毒を加えさせ、帝は遂に崩御した。護は武帝(宇文邕)を立て、百官は皆己を総べて護に聴いた。

原文武成元年,護上表政,帝許之,軍國大事尚委於護。帝性聰睿,有識量,護深憚之。有李安者,本以鼎俎得寵於護,擢為膳部下大夫。至是,護令安因進食加毒,帝遂崩。護立武帝,百官總已以聽護。

文帝が丞相であった時より、左右十二軍を立て、全て相府に属させた。文帝崩御後は、皆護の処分を受け、凡そ征発や人事は、護の文書がなければ行われなかった。護の邸宅には屯兵し禁衛させ、その盛んなことは宮闕に勝っていた。事の大小を問わず、皆先に断じて後で奏聞した。保定元年(561年)、護を以て都督中外諸軍事とし、一府を天官(塚宰府)に総属させた。或いは護の意を迎える者が、周公の徳重く、魯が文王の廟を立てた故事を引き、護の功は周公に比すべきであり、この礼を用いるべきだと述べた。そこで詔して同州の晋国公邸に徳皇帝(宇文肱)の別廟を立て、護に祭祀させた。三年(563年)、詔して今後詔誥及び百司の文書に公(護)の名を称してはならず、以て殊礼を彰わすとした。護は表を上って固く辞讓した。初め、文帝が創業するや、即ち突厥と和親し、掎角の勢いを謀り、共に高氏(北斉)を図ろうとした。この年、柱国楊忠を遣わして突厥とともに東伐させ、斉の長城を破り、并州に至って還った。後年さらに挙兵し、南北相応ずることを期した。斉主は大いに懼れた。

原文自文帝為丞相,立左右十二軍,總屬相府。文帝崩後,皆受護處分,凡所征廢,非護書不行。護第屯兵禁衛,盛於宮闕。事無巨細,皆先斷後聞。保定元年,以護國都督中外諸軍事,令一府總於天官。或有希護旨者,雲周公德重,魯立文王之廟,以護功比周公,宜用此禮。於是詔于同州晉國第立德皇帝別廟,使護祭焉。三年,詔自今詔誥及百司文書並不得稱公名,以彰殊禮。護抗表固讓。初,文帝創業,即與突厥和親,謀為掎角,共圖高氏。是年,乃遣柱國楊忠與突厥東伐,破齊長城,至并州而還,期後年更舉,南北相應。齊主大懼。

先に、護の母閻氏と皇第四姑(宇文泰の妹)及び諸戚属は皆斉に没し、幽閉されていた。護が宰相となって後、しばしば間使を遣わして尋ね求めたが、消息を知ることはなかった。この時、皆還朝を許され、且つ和好を請うた。四年(564年)、皇姑が先に至った。斉主は護の権力が重いのを以て、その母を留め、以て後の図りと為した。なお人に命じて閻氏の書を護に作らせて言うには、

原文先是,護母閻與皇第四姑及諸戚屬並沒齊,皆被幽縶。護居宰相後,每遣間使尋求,莫知音息。至是,並許還朝,且請和好。四年,皇姑先至。齊主以護權重,乃留其母,以為後圖。仍令人為閻作書與護曰:

護は性質至孝であり、書を得て悲しみ自ら勝えず、左右の者も仰ぎ見ることができなかった。返書に云う、

原文護性至孝,得書悲不自勝,左右莫能仰視。報書云:

斉朝は直ちに発遣せず、さらに重ねて護に書を送り、護に重ねて返報することを求めた。護は返書し、往復すること再三に及んだが、母は結局至らなかった。朝議はその失信を以て、有司に命じて斉に移書させたが、移書が未だ送られないうちに母が到着した。挙朝慶悦し、大赦を天下に下した。護は母と多年隔たり、一朝にして聚集し、凡そ資奉する所、窮極華盛であった。毎に四時伏臘には、武帝は諸親戚を率い、家人の礼を行い、觴を挙げて寿を上け、栄貴の極み、振古未聞であった。

原文齊朝不即發遣,更令重與護書,要護重報。護復書,往返至於再三,而母竟不至。朝議以其失信,令有司移齊,移未送而母至。舉朝慶悅,大赦天下。護與母暌隔多年,一朝聚集,凡所資奉,窮極華盛。每四時伏臘,武帝率諸親戚,行家人禮,稱觴上壽,榮貴之極,振古未聞。

この年、突厥は再び衆を率いて期に赴いた。護は斉氏が初めて国親(皇姑)を送ったばかりで、直ちに行きたくはなかったが、また蕃夷に失信することを慮り、已むを得ず、遂に東征を請うた。九月、詔して二十四軍及び左右廂の散隷、秦隴巴蜀の兵、諸蕃国の衆二十万人を徴発した。十月、帝は廟庭において護に斧鉞を授けた。出軍して潼関に至り、柱国尉遅迥を前鋒とし、大将軍権景宣に山南の兵を率いさせて豫州より出させ、少師楊標を軹関より出させた。護は連営して漸進し、軍を弘農に屯した。尉遅迥は洛陽を包囲し、柱国斉王憲・鄭公達奚武らは芒山に営した。護は性質として軍略がなく、この行もまた本心ではなかったので、師は出ること久しいが、克獲する所がなかった。無功を以て、諸将と共に稽首して罪を請うたが、帝はこれを責めなかった。天和二年(567年)、護の母が薨じた。まもなく詔して起きて視事することを命じた。五年(570年)、詔して護に軒懸の楽と六佾の舞を賜った。

原文是年,突厥復率眾赴期。護以齊氏初送國親,未欲即行,復慮失信蕃夷,不得已,遂請東征。九月,詔徵二十四軍及左右廂散隸、秦隴巴蜀兵、諸蕃國眾二十萬人。十月,帝於廟庭授護斧鋮。出軍至潼關,乃遣柱國尉遲迥為前鋒,大將軍權景宣率山南兵出豫州,少師楊標出軹關。護連營漸進,屯軍弘農。迥圍洛陽,柱國齊王憲、鄭公達奚武等營芒山。護性無戎略,此行又非本心,故師出雖久,無所克獲。以無功,與諸將稽首請罪,帝弗之責。天和二年,護母薨,尋詔起令視事。五年,詔賜護軒懸之樂,六佾之舞。

宇文護の性格は甚だ寛大温和であったが、大局を見通すことに暗かった。自ら功績を立てたことを恃み、長く権力の中枢に当たり、任用する者は皆適任ではなかった。加えて諸子は貪婪残忍で、僚属は放縦に溢れ、政を蝕み人を害さぬ者はなかった。その暴慢を以て、密かに衛王宇文直と図ってこれを除こうとした。七年三月十八日、宇文護が同州から帰還し、帝(武帝)が文安殿で宇文護に謁見した後、含仁殿に導き入れ、皇太后に朝見させた。これ以前、帝が禁中で宇文護に会う時は、常に家人の礼を行っていた。宇文護が太后に謁見する時は、太后は必ず彼に座を賜い、帝は毎回立って侍っていた。この時、宇文護が入ろうとしたところ、帝は言った、「太后は年齢が既に高く、酒を大変好まれ、諸親族の朝謁も、時には取り次ぎを廃されることがある。喜怒が時に道理に外れることがある。近頃諫めても、受け入れられていない。兄上(宇文護)が今更に願い出て請うてほしい。」そこで懐中の酒誥を取り出して宇文護に授け、「これで太后を諫めよ」と言った。宇文護が入り、帝が戒めた通りに、読んで太后に示した。読み終わらないうちに、帝が玉珽を以て背後からこれを打ち、地面に倒した。また宦官の何泉に命じて御刀で斬らせた。何泉は恐れ、斬っても傷つけることができなかった。時に衛王宇文直が先に戸内に隠れており、そこで出てきて斬った。

原文護性甚寬和,然暗於大體。自恃建立功,久當權軸,所任皆非其人。兼諸子貪殘,僚屬縱溢,莫不蠹政害人。以其暴慢,密與衛王直圖之。七年三月十八日,護自同州還,帝御文安殿見護訖,引入含仁殿,朝皇太后。先是,帝於禁中見護,常行家人禮。護謁太后,太后必賜之坐,帝每立侍。至是,護將入,帝謂曰:「太后春秋既尊,頗好酒,諸親朝謁,或廢引進。喜怒有時乖爽。比諫,未蒙垂納。兄今願更啟請。」因出懷中酒誥授護曰:「以此諫太后。」護入,如帝所誡,讀示太后。未訖,帝以玉珽自後擊之,踣地,又令宦者何泉以御刀斫之。泉懼,斫不能傷。時衛王直先匿於戶內,乃出斬之。

初め、帝が宇文護を除こうと図った時、王軌、宇文神挙、宇文孝伯が大いにその謀議ぼうぎに参与した。この日、王軌らは皆外におり、他に知る者はなかった。宇文護を殺した後、宮伯の長孫覧らを召し、直ちに宇文護の子である柱国譚国公宇文会、大将軍莒国公宇文至、崇業公宇文静、正平公宇文乾嘉及び宇文乾基、宇文乾蔚、宇文乾祖、宇文乾威ら、並びに柱国侯伏侯龍恩、龍恩の弟である大将軍万寿、大将軍劉勇、中外府司録尹公正、袁傑、膳部下大夫李安らを収監し、殿中で殺させた。斉王宇文憲が言った、「李安は賤しい身分の出身で、管轄するのは厨房だけであり、殺戮に足りません。」帝は言った、「お前は知らないのだ。世宗(明帝)が崩御したのは、李安の仕業である。」十九日、遂に詔を下して宇文護らの罪を暴き、大赦を行い、天和七年を建徳元年と改めた。宇文護の世子宇文訓は蒲州刺史であったが、その夜、柱国越公宇文盛を駅伝に乗せて蒲州を鎮守させ、宇文訓を京師に召還し、同州に至った時に死を賜った。宇文護の長史叱羅協、司録馮遷及び親任していた者らは皆除名された。宇文護の子である昌城公宇文深は突厥に使いしていたが、開府宇文徳に璽書を持たせて赴かせ、その地で殺させた。三年、詔して宇文護及び諸子の先の封爵を回復し、宇文護に蕩という諡号を贈り、共に改葬した。

原文初,帝欲圖護,王軌、宇文神舉、宇文孝伯頗預其謀。是日,軌等並在外,更無知者。殺護訖,乃召宮伯長孫覽等,即令收護子柱國譚國公會、大將軍莒國公至、崇業公靜、正平公乾嘉及乾基、乾蔚、乾祖、乾威等,並柱國侯伏侯龍恩、龍恩弟大將軍萬壽、大將軍劉勇、中外府司錄尹公正、袁傑、膳部下大夫李安等,於殿中殺之。齊王憲曰:「安出自阜隸,所典庖廚而已,未足加戮。」帝曰:「汝不知耳,世宗之崩,安所為也。」十九日,乃詔暴護等罪,大赦,改天和七年為建德元年。護世子訓為蒲州刺史,其夜遣柱國越公盛乘傅鎮蒲州,徵訓赴京師,至同州賜死。護長史叱羅協、司錄馮遷及所親任者皆除名。護子昌城公深使突厥,遣開府宇文德齊璽書就殺之。三年,詔復護及諸子先封,諡護曰蕩,並改葬之。

叱羅協は代郡の人で、本名は武帝(宇文邕)の諱いみなと同じであったが、後に改めた。若い時は貧しく微賤で、嘗て州の小吏となり、恭謹さによって知られた。竇泰が御史中尉となった時、叱羅協を書侍御史とした。竇泰が潼関に向かった時、叱羅協は監軍となった。竇泰が死ぬと、叱羅協は捕らえられた。文帝(宇文泰)は彼を大丞相東閣祭酒に任じ、累進して相府属、従事中郎となった。叱羅協は二京(長安・洛陽)に仕え、故事に詳しく習練し、また深く自らを励んだので、文帝は大いに彼を任用した。しかし依然として家族が東(東魏)にいるため、本拠を恋しがるのではないかと疑った。河橋の戦いに敗れた後、叱羅協は軍に従って帰還した。文帝は叱羅協に二心がないことを知り、冠軍県男に封じ、侯に進爵した。後に大将軍尉遅迥の長史となり、兵を率いて蜀を伐ち、潼州の事務を代行した。魏恭帝三年、文帝は叱羅協を征して朝に入らせ、蜀中の事について論じ、そこで宇文氏の姓を賜った。

原文叱羅協,代郡人,本名與武帝諱同,後改焉。少寒微,嘗為州小吏,以恭謹見知。竇泰為御史中尉,以協為書侍御史。泰向潼關,協為監軍。泰死,協見獲。文帝授大丞相東合祭酒,累遷相府屬、從事中郎。協曆事二京,詳練故事,又深自克勵,文帝頗委任之。然猶以家屬在東,疑其戀本。及河橋戰敗,協隨軍還。文帝知協不貳,封冠軍縣男,進爵為侯。後為大將軍尉遲迥長史,率兵伐蜀,行潼州事。魏恭帝三年,文帝征協入朝,論蜀中事,乃賜姓宇文氏。

晋公宇文護が孫恆、李植らを殺した後、腹心を司会柳慶、司憲令狐整らに委ねようとしたが、二人共に辞退し、共に叱羅協を推薦した。宇文護は遂に叱羅協を征して朝に入らせ、共に宿泊させ、深く寄託した。叱羅協は身命を賭して尽くすことを誓った。宇文護は大いに喜び、叱羅協を得るのが遅かったと思った。次第に宇文護府の長史に昇進し、公に進爵し、常に宇文護の側にいた。明帝はその才能見識が平凡で浅いことを知り、毎度抑えつけ、幾度も「お前は何を知っているというのか!」と言った。しかし依然として宇文護が親任しているため、毎度包含して容赦した。明帝が崩御すると、直ちに叱羅協を司会中大夫、中外府長史に任じた。叱羅協は体形が痩せて小さく、挙措は偏狭でせっかちであり、志を得てからは、毎度自らを誇り高ぶった。その言うところは、多く事の実情に乖いており、当時笑わぬ者はなかった。宇文護は彼が自分に忠実であるとして、毎度引き立て奨励した。叱羅協は宇文護の重い委任を受けると、帝室と婚姻関係を結びたいと望み、旧姓の叱羅氏に復することを求め、許された。また位を進めて柱国となった。宇文護は叱羅協が年老いているため、致仕を許したが、叱羅協は栄誉に貪り、告退しようとしなかった。宇文護が誅殺されると、除名された。建徳三年、叱羅協が古老であることを以て、儀同三司を授け、南陽郡公の爵を賜った。卒去し、子の金剛が嗣いだ。

原文晉公護既殺孫恆、李植等,欲委腹心于司會柳慶、司憲令狐整等,二人並辭,俱薦協。護遂征協入朝,引與同宿,深寄託之。協誓以軀命自效。護大悅,以為得協之晚。稍遷護府長史,進爵為公,常在護側。明帝知其材識庸淺,每按抑之,數謂曰:「汝何知也!」猶以護所親任,每含容之。及明帝崩,便授協司會中大夫、中外府長史。協形貌瘦小,舉措偏急,既以得志,每自矜高;及其所言,多乖事衷,當時莫不笑之。護以其忠己,每提獎之。協既受護重委,冀得婚連帝室,乃求復舊姓叱羅氏,許之。又進位柱國。護以協年老,許其致仕,而協貪榮,未肯告退。及護誅,除名。建德三年,以協宿齒,授儀同三司、賜爵南陽郡公。卒,子金剛嗣。

馮遷は字を羽化といい、弘農の人である。若い時から行いを修め謹み、幹才能力があり、宇文護府の司録となった。性質は質直で、小心に畏れ慎み、兼ねて時事に明るく習練し、断決に長けていた。毎度文簿を校閲するのに孜々として倦まず、これによって宇文護に大いに任用された。後に陝州刺史に任じられた。馮遷は元々貧しく微賤で、当時の人々に重んじられなかった。一旦本州の刺史・検挙官となると、ただ廉潔恭順をもって郷里の人々と接し、怨む者はなかった。再び入朝して司録となり、累進して小司空となった。天和年間以後、年老いたため、任用は次第に衰えた。宇文護が誅殺された時も、依然として除名された。家で卒去した。子の馮恕は、位は儀同三司に至った。

原文馮遷字羽化,弘農人。少修謹,有幹能,為護府司錄。性質直,小心畏慎,兼明練時事,善於斷決,每校閱文簿,孜孜不倦,以此甚為護委任。後授陝州刺史。遷本寒微,不為時輩所重。一旦刺舉本州,唯以廉恭接待鄉邑,人無怨者。復入為司錄,累遷小司空。自天和後,以年老,委任稍衰。及護誅,猶除名。卒於家。子恕,位儀同三司。

杞簡公

原文杞簡公

杞簡公宇文連は、幼少より謹み厚く、敵に臨んで果断にして剛毅であった。徳皇帝に従って定州軍と唐河で遭遇し、共に戦死した。保定初年、太傅、柱国大将軍、大司徒を追贈され、杞国公に封ぜられ、簡と諡された。子の宇文元宝は、斉の神武帝(高歓)に害された。保定初年、大将軍、小司徒を追贈され、杞国公の封を襲い、烈と諡され、章武公宇文導の子である宇文亮が後を嗣いだ。

原文杞簡公連,幼而謹厚,臨敵果毅。隨德皇帝遇定州軍于唐河,俱戰歿。保定初,追贈太傅、柱國大將軍、大司徒,封杞國公,諡曰簡。子元寶,為齊神武所害。保定初,追贈大將軍、小司徒,襲封杞國公,諡曰烈,以章武公導子亮嗣。

宇文亮は字を乾徳といい、梁州総管の位にあった。豳国公宇文広が薨じると、宇文亮を秦州総管とし、宇文広が管轄していた部衆を全て配属させた。州にあって政績は甚だ無かった。間もなく柱国に進み、東征に従い、上柱国に進んだ。引き続き鄴平定に従い、大司徒に転じた。大象初年、行軍総管として元帥鄭国公韋孝寛らと共に陳を伐った。帰還して豫州に至った時、密かに韋孝寛の陣営を襲おうと謀り、反逆しようとしたが、韋孝寛に追撃されて斬られた。子の宇文胲明は宇文亮の罪に連坐して誅殺され、詔して宇文亮の弟である宇文椿を烈公の後嗣とした。

原文亮字乾德,位梁州總管。及豳國公廣薨,以亮為秦州總管,廣所部悉以配焉。在州甚無政績。尋進柱國,從東伐,進上柱國。仍從平鄴,遷大司徒。大象初,以行軍總管與元帥鄭國公韋孝寬等伐陳。還至豫州,密謀襲孝寬營,將反逆,孝寬追斬之。子胲明坐亮誅,詔以亮弟椿為烈公後。

宇文椿は字を乾寿といい、上柱国、大司徒の位にあった。大定年間、隋の文帝(楊堅)に害され、その五子も共に殺された。

原文椿字乾壽,位上柱國、大司徒。大定中,為隋文帝所害,並其五子。

莒荘公

原文莒莊公

莒荘公宇文洛生は、若い時より任侠を好み、施しを好み士を愛し、北州の賢俊は皆彼と交遊し、その才能の多くは彼の下にあった。葛栄が鮮于修礼を破ると、宇文洛生を漁陽王とし、引き続き徳皇帝の余衆を率いさせ、当時の人々は皆彼を洛生王と呼んだ。宇文洛生は将士をよく慰撫したので、勝利と捕獲は常に諸軍の冠であった。爾朱栄が山東を平定した時、宇文洛生は虜中にいたが、爾朱栄はかねてよりその名を聞き、内心畏れていた。間もなく爾朱栄に害された。保定初年、大将軍を追贈され、莒国公に封ぜられ、荘と諡された。

原文莒莊公洛生,少任俠,好施愛士,北州賢俊皆與之遊,而才能多出其下。及葛榮破鮮于修禮,以洛生為漁陽王,仍領德皇帝余眾,時人皆呼為洛生王。洛生善撫將士,是以克獲常冠諸軍。爾硃榮定山東,時洛生在虜中,榮雅聞其名,心憚焉。尋為榮所害。保定初,追贈大將軍,封莒國公,諡曰莊。

子の宇文菩薩は、斉の神武帝(高歓)に害された。保定初年、大将軍、小宗伯を追贈され、爵を襲い、穆と諡され、晋公宇文護の子である宇文至が後を嗣いだ。宇文至は字を乾附といい、後に父の宇文護の罪に連坐して誅殺され、詔して衛王宇文直の子である宇文賓を穆公の後嗣とした。宇文賓は字を乾瑞といい、間もなく宇文直の罪に連坐して誅殺され、斉王宇文憲の子である広都郡公宇文貢が襲封した。宇文貢は字を乾貞といい、宣帝の初年、誅殺され、封国は除かれた。

原文子菩薩,為齊神武所害。保定初,追贈大將軍、小宗伯,襲爵,諡曰穆,以晉公護子至嗣。至字乾附,後坐父護誅,詔以衛王直子賓為穆公後。賓字乾瑞,尋坐直誅,而齊王憲子廣都郡公貢襲。貢字乾貞,宣帝初,被誅,國除。

虞国公

原文虞國公

虞国公宇文仲は、徳皇帝の従父兄である。代で卒去した。保定初年、太傅、柱国大将軍、大司徒を追贈され、虞国公に封ぜられた。子の宇文興が嗣いだ。

原文虞國公仲,德皇帝從父兄也。卒於代。保定初,追贈太傅、柱國大將軍、大司徒,封虞國公。子興嗣。

興は成長したが、兵乱に遭い、父の仲とはぐれ、幼かったため親族の遠近を知らず、文帝の兄弟とは初めは互いに面識がなかった。沙苑の敗戦の際、彼は軍中にあり、捕虜となり、定例に従って諸軍に分散配属された。興の性質は寛大で厚く、志と度量があり、世の変転に流離しながらも、その風範は見るべきものがあった。保定二年、詔を下して仲の子孫を尋ね求め、興は初めて宗室の属籍に附せられた。武帝は興が帝室の近親であることを以て、非常に厚く礼遇した。位は開府儀同三司・宗師に至り、虞国公の爵を襲封した。薨去すると、武帝は自ら臨んで慟哭した。詔して大司空・申国公李穆に喪事の監護を命じ、柱国大将軍を追贈し、諡して靖といった。

原文興生,屬兵亂,與仲相失,年幼莫知其戚屬遠近,與文帝兄弟,初不相識。沙苑之敗,預在行間,被虜,隨例散配諸軍。興性弘厚,有志度,雖流離世故,而風範可觀。保定二年,詔訪仲子孫,興始附屬籍。武帝以興帝戚近屬,尊禮之甚厚。位開府儀同三司、宗師,襲爵虞國公。薨,武帝親臨慟焉。詔大司空、申國公李穆監護喪事,贈柱國大將軍,諡曰靖。

子の洛が嗣ぎ、位は儀同三司に至った。隋の初めに介国公となり、隋室の賓客となった。

原文子洛嗣,位儀同三司。隋初為介國公,為隋室賓云。

広川靖公

原文廣川靖公

広川公の測は、字を澄鏡といい、文帝の族子である。高祖父は中山、曾祖父は豆頽、祖父は騏麟、父は永で、いずれも魏に仕えて顕達した。測の性質は沈着で細密、若くして学問に篤く通暁し、魏に仕えて司徒右長史の位に至り、宣武帝の娘の陽平公主を尚し、駙馬都尉に任ぜられた。孝武帝が斉の神武帝を疑うに及んで、詔して測を文帝のもとに遣わし、密かに備えをさせた。帰還すると、広川県伯に封ぜられた。まもなく孝武帝に従って西遷し、爵を進めて公となった。文帝が丞相となると、測を右長史とし、軍国を委ね、また測に宗室の昭穆の遠近を詳しく定めさせ、属籍に附せさせた。

原文廣川公測,字澄鏡,文帝之族子也。高祖中山、曾祖豆頺、祖騏麟、父永,仕魏,位並顯達。測性沉密,少篤學詣,仕魏,位司徒右長史,尚宣武女陽平公主,拜駙馬都尉。及孝武疑齊神武,詔測詣文帝,密為之備。還,封廣川縣伯。尋從孝武西遷,進爵為公。文帝為丞相,以測為右長史,委以軍國,又令測詳定宗室昭穆遠近,附於屬籍。

侍中・開府儀同三司を歴任し、汾州の事務を行った。政務は簡素で慈恵を旨とし、人心を得るところ多かった。地は東魏と接し、しばしば互いに侵掠しあったが、時に寇賊として捕らえられた者があっても、多くは縛って送り返した。測は皆、縄を解くよう命じ、賓館に置いてから引見し、客礼をもって遇した。そして宴を設け、国に放還し、衛送して国境を出させた。これより東魏人は大いに慚じ、もはや寇掠しなくなり、両国境では慶弔を通ずるようになり、当時の論は彼を羊叔子になぞらえた。ある者が測が二心を抱いていると告げると、文帝は怒って言った、「測は我のために辺境を安んじている。どうして骨肉を離間させようとするのか」と。そして告げた者を斬らせた。なお測に便宜処置を許した。綏州の事務を行うよう転じた。毎年、黄河の氷が結ぶと、突厥がすぐに寇掠に来た。以前は、常に予め住民を城堡に入れて避難させていた。測が着任すると、皆に安堵するよう命じた。そして要路数百箇所に多く柴を積み、遠く斥候を出して、その動静を知った。この年の十二月、突厥が連谷から寇掠に来て、国境から数十里のところまで来た時、測は柴を積んだ所で一斉に火を放つよう命じた。突厥は大軍が来たと思い、恐れて遁走し、雑畜や輜重しちょうを棄てたものは数え切れなかった。これ以降、再び来ることはなかった。測はこれにより戍を置いて備えるよう請うた。後に太子少保の任で卒し、文帝は自ら臨んで慟哭し、水池公に喪事の監護を命じ、諡して靖といった。

原文歷位侍中、開府儀同三司,行汾州事。政在簡惠,頗得人和。地接東魏,數相抄竊,或有獲其為寇者,多縛送之。測皆命解縛,置之賓館,然後引與相見,如客禮焉。仍宴設,放還其國,衛送出境。自是東魏人大慚,乃不為寇,兩界遂通慶弔,時論方之羊叔子。或有告測懷貳,文帝怒曰:「測為我安邊,何為間骨肉!」乃命斬之。仍許測便宜從事。轉行綏州事。每歲河冰合後,突厥即來寇掠。先是,常預遣居人入城堡以避之。測至,皆令安堵。乃於要路數百處並多積柴,仍遠斥候,知其動靜。是年十二月,突厥從連谷入寇,去界數十里,測命積柴處一時縱火。突厥謂大軍至,懼而遁走,委棄雜畜輜重不可勝數。自是不敢復至。測因請置戍以備之。後卒于太子少保,文帝親臨慟焉,仍令水池公監護喪事,諡曰靖。

測の性質は仁恕で、施し与えることを好んだ。洛陽にいた時、盗難に遭い、失った物は妻の陽平公主の衣服であった。州県が盗賊を捕らえ、失物も共に回収した。測はこの盗賊が死罪に坐ることを恐れ、被害を認めなかったので、盗賊は赦免に遇った。盗賊は恩を感じ、測の左右に仕えたいと請うた。測が孝武帝に従って西遷する時、事態は極めて狼狽したが、その盗人も測に従って関中に入り、異志を抱くことは全くなかった。子の該が嗣ぎ、位は除州刺史に至った。測の弟に深がいる。

原文測性仁恕,好施與。在洛陽之日,曾被竊盜,所失物即其妻陽平公主之衣服也。州縣禽盜,並物俱獲。測恐此盜坐之以死,不認焉,遂遇赦免。盜既感恩,請為測左右、及測從孝武西遷,事極狼狽,盜人亦從測入關,並無異志。子該嗣,位除州刺史。測弟深。

弟 深

原文弟 深

深は字を奴於といい、性質は剛直で公正、器量と見識があった。数歳の時から、石を積んで陣営とし、草を折って旌旗とし、行伍を布置して、皆軍陣の勢いがあった。父の永がこれを見て喜び、「お前は自然にこれを知っている。後には必ず名将となるだろう」と言った。孝武帝が西遷する時、事は倉卒に起こり、多くの人が逃散した。深は当時子都督として、宿衛兵を率い、配下を慰撫し、皆を関中に入れることができた。功により長楽県伯の爵を賜った。大統年間、累転して尚書直事郎中となった。

原文深字奴於,性鯁正,有器局。年數歲,便累石為營,折草作旌旗,佈置行伍,皆有軍陣之勢。父永遇見之,喜曰:「汝自然知此,後必為名將。」孝武西遷,事起倉卒,人多逃散。深時為子都督,領宿衛兵,撫循所部,並得入關。以功賜爵長樂縣伯。大統中,累轉尚書直事郎中。

斉の神武帝が蒲阪に屯し、その将の竇泰を潼関に向かわせ、高敖曹に洛州を包囲させた時、周の文帝は竇泰を襲おうとしたが、諸将は皆難色を示した。帝はその事を隠し、あたかも謀りごとのないかのように装い、ただ一人深に策を問うた。深は言った、「竇氏は高歓の驍将で、歓は毎度彼を頼りに外侮を防いでいます。今、大軍をもって蒲阪に迫れば、歓は守りを固め、竇は必ずこれを救援し、内外敵を受けて、敗北の道を行くことになります。軽鋭を選んで小関から潜り出る方が良いでしょう。竇の性質は躁急ですから、必ず決戦に来ます。高歓は慎重ですから、すぐには救援せず、そうすれば竇を生け捕りにできます。竇を虜にすれば、歓の勢いは自ら沮喪し、軍を返してこれを防げば、勝利を制することができます」。文帝は喜んで言った、「これこそ我が心だ」。軍は遂に行き、果たして竇泰を捕らえ、斉の神武帝も退いた。深はまた文帝に弘農を進取するよう説き、再びこれを陥落させた。文帝は大いに悦び、深に言った、「君はまさに我が家の陳平である」。

原文及齊神武屯蒲阪,分遣其將竇泰趨潼關,高敖曹圍洛州。周文帝將襲泰,諸將咸難之。帝隱其事,陽若未有謀,獨問策於深。深曰:「竇氏,高歡驍將,歡每仗之禦侮。今大軍就蒲阪,則歡拒守,竇必援之,內外受敵,取敗道也。不如選輕銳潛出小關,竇性躁急,必來決戰,高歡持重,未即救之,則竇可禽也。虜竇,歡勢自沮,回師禦之,可以制勝。」文帝喜曰:「是吾心也。」軍遂行,果獲泰,齊神武亦退。深又說文帝進取弘農,復克之。文帝大悅,謂深曰:「君即吾家陳平也。」

この冬、斉の神武帝がまた大軍を率いて沙苑に至ると、諸将は皆恐れたが、深だけが祝賀した。文帝がその理由を問うと、答えて言った、「歓は河北を撫で、大いに人心を得ています。智謀には乏しいが、人々は皆その命を用い、これをもって自ら守れば、容易に図ることはできません。今、孤軍を懸けて黄河を渡るのは、衆の望むところではなく、ただ歓が竇氏を失ったことを恥じ、また諫められて来たのであり、いわゆる忿兵で、一戦で生け捕りにできます。祝賀しないでどうしましょうか」。文帝はこれを然りとした。まもなく大いに斉軍を破り、果たしてその策の通りとなった。ほどなく爵を進めて侯となった。六官が建てられると、小吏部下大夫に任ぜられ、中大夫に遷った。武成元年、豳州刺史に遷り、安化県公に改封された。保定初年、京兆尹に任ぜられ、入朝して司会中大夫となった。

原文是冬,齊神武又率大眾至沙苑,諸將皆懼,惟深獨賀。文帝問其故,對曰:「歡撫河北,甚得眾心,雖乏智謀,人皆用命,以此自守,未易可圖。今懸師度河,非眾所欲,唯歡恥失竇氏,復諫而來,所謂忿兵,一戰可禽也。不賀何為?」文帝然之。尋大破齊軍,果如所策。俄進爵為侯。六官建,拜小吏部下大夫,遷中大夫。武成元年,遷豳州刺史,改封安化縣公。保定初,除京兆尹,入為司會中大夫。

深は幼くして父を喪い、兄に仕えること甚だ謹んだ。性質は奇矯で、兵書を好んで読み、近侍の地位にあっては、常に籌策を進めた。選曹に在った時は、時に誉れがあった。性質は仁愛で、従弟の神挙・神慶が幼くして孤となると、深はこれを撫育訓導し、情義は実の兄弟と等しく、世もまたこれをもって称えた。任中に卒し、諡して成康といった。子に孝伯がいる。

原文深少喪父,事兄甚謹。性多奇譎,好讀兵書,既居近侍,每進籌策。及在選曹,頗有時譽。性仁愛,從弟神舉、神慶幼孤,深撫訓之,義均同氣,世亦以此稱焉。卒于位,諡曰成康。子孝伯。

深の子 孝伯

原文深子 孝伯

孝伯は、字を胡王といい、その生まれは武帝と同じ日であり、文帝は彼を甚だ愛し、邸内で養育した。成長すると、また武帝と共に学んだ。武成元年、宗師上士に任ぜられ、時に十六歳であった。性質は沈着で正直、直言を好んだ。武帝が即位すると、左右に置こうとした。当時、政権は家臣(宇文護)にあり、専制することができなかったので、幼少時に共に経書を受けたことを口実に、互いに啓発したいと託言した。これにより護は彼を猜疑せず、右侍上士として入朝することができ、常に侍読を務めた。父の喪に遭うと、詔して喪服中に爵を襲ぐことを許した。武帝はかつて彼に言った、「公と我とは、漢の高祖と盧綰のようだ」。十三環の金帯を賜った。これより常に左右に侍し、臥内に出入りし、朝務に皆参与した。孝伯もまた心を尽くし力を尽くし、避けるところがなかった。時政の得失から、外間の細事に至るまで、皆奏上して聞かせた。帝は彼を信任し委任し、当時比べる者もなかった。晋公宇文護を誅殺しようとする時、密かに衛王宇文直とこれを図り、ただ孝伯及び王軌・宇文神挙らがよく参与することができた。護が誅されると、開府儀同三司を授けられ、司会中大夫・左宮正を歴任した。

原文孝伯,字胡王,其生與武帝同日,文帝甚愛之,養於第內。及長,又與武帝同學。武成元年,拜宗師上士,時年十六。性沉正謇諤,好直言。武帝即位,欲引置左右。時政在家臣,不得專制,乃托言少與同業受經,思相啟發。由是護弗之猜,得入為右侍上士,恆侍讀。及遭父憂,詔令服中襲爵。武帝嘗謂曰:「公於我,猶漢高與盧綰也。」賜以十三環金帶。自是恆侍左右,出入臥內,朝務皆得預焉。孝伯亦竭心盡力,無所回避。至於時政得失,外間細事,皆以奏聞。帝信委之,當時莫比。及將誅晉公護,密與衛王直圖之,惟孝伯及王軌、宇文神舉等頗得參預。護誅,授開府儀同三司,歷司會中大夫、左宮正。

皇太子に令徳無きを以て、孝伯帝に言う、「皇太子の徳声未だ聞こえず、請うらくは妙に正人を選びて其の師友と為し、聖質を調護せしめよ、然らずんば、悔ゆるも及ばざる所あらん」と。帝顔色を斂めて曰く、「卿は世に鯁直を載せ、誠を竭くして事に仕え、卿の此の言を観るに、家風有り」と。孝伯拝謝して曰く、「言うことの難きに非ず、之を受くること難きなり、深く願わくは陛下之を思え」と。帝曰く、「正人豈に復た君を過ぎんや」と。ここに於いて尉遅運を以て右宮正と為し、孝伯仍って左宮正・宗師中大夫と為す。累遷して右宮伯に至る。嘗て侍坐に因りて、帝問う、「我が児比来進歩せずや」と。答えて曰く、「皇太子は比来天威を懼れ、更に罪失無し」と。及んで王軌内宴に因りて帝の鬚を捋り、太子の不善を言うに至り、帝酒を罷め、孝伯を責めて曰く、「公常に我に謂いて太子に過無しと云う、今軌此の言有り、公は誑きたり」と。孝伯拝して曰く、「臣聞く、父子の際は人の言い難き所なりと、臣は陛下の情を割き愛を忍ぶ能わざるを知り、遂に爾く舌を結ぶ」と。帝其の意を知り、默然として久しくして、乃ち曰く、「朕已に公に委ぬ、公其れ之を勉めよ」と。

原文皇太子既無令德,孝伯言于帝曰:「皇太子德聲未聞,請妙選正人為其師友,調護聖質,不然,悔無所及。」帝斂容曰:「卿世載鯁正,竭誠所事,觀卿此言,有家風矣。」孝伯拜謝曰:「非言之難,受之難也,深願陛下思之。」帝曰:「正人豈復過君?」於是以尉遲運為右宮正,孝伯仍為左宮正、宗師中大夫。累遷右宮伯。嘗因侍坐,帝問:「我兒比進不?」答曰:「皇太子比懼天威,更無罪失。」及王軌因內宴捋帝鬚,言太子之不善。帝罷酒,責孝伯曰:「公常謂我云太子無過,今軌有此言,公為誑矣。」孝伯拜曰:「臣聞父子之際,人所難言,臣知陛下不能割情忍愛,遂爾結舌。」帝知其意,默然久之,乃曰:「朕已委公,公其勉之。」

大軍東討に及び、内史下大夫を拝し、留臺の事を掌らしむ。軍還りて、帝曰く、「居守の重きは、戦功に忝なきなり」と。ここに於いて大将軍を加授し、広陵郡公に爵を進め、並びに金帛女妓等を賜う。復た宗師と為す。毎に車駕巡幸するに、常に居守を令す。後帝北討し、雲陽宮に至りて疾に臥す、駅を以て孝伯を行在所に召し赴かせ、其の手を執りて曰く、「吾自ら量るに必ず済む理無からん、以後事を君に付す」と。是の夜、司衛上大夫を授け、宿衛兵馬を総べ、駅を馳せて京に入り鎮守せしむ。

原文及大軍東討,拜內史下大夫,令掌留臺事。軍還,帝曰:「居守之重,無忝戰功。」於是加授大將軍,進爵廣陵郡公,並賜金帛女妓等。復為宗師。每車駕巡幸,常令居守。後帝北討,至雲陽宮寢疾,驛召孝伯赴行在所,執其手曰:「吾自量必無濟理,以後事付君。」是夜,授司衛上大夫,總宿衛兵馬,令馳驛入京鎮守。

宣帝即位し、小冢宰を授く。帝は斉王憲を忌み、意其を除かんと欲し、孝伯に謂いて曰く、「公能く之を図らば、当に其の官位を以て相授けん」と。孝伯頭を叩きて曰く、「斉王は戚近にして功高く、棟樑の寄する所なり。臣若し旨に順わば、則ち臣は不忠と為り、陛下は不孝の子と為らん」と。帝因りて之を疎んじ、乃ち于智・鄭訳等と其の事を図る。智をして憲の謀逆を告げしめ、孝伯を遣わして召し入れ、之を誅す。

原文宣帝即位,授小冢宰。帝忌齊王憲,意欲除之,謂孝伯曰:「公能圖之,當以其官位相授。」孝伯叩頭曰:「齊王戚近功高,棟樑所寄。臣若順旨,則臣為不忠,陛下為不孝之子也。」帝因疏之,乃與于智、鄭譯等圖其事。令智告憲謀逆,遣孝伯召入,誅之。

帝の西征するや、軍中に過行有り、鄭訳も時に亦預かる。軍還りて、孝伯及び王軌尽く以て武帝に白す。武帝怒り、帝を数十撻ち、乃ち訳の名を除く。是に至り、帝憾み被杖を追い、乃ち訳に問う、「我が脚上の杖痕誰の為す所ぞ」と。訳曰く、「事は宇文孝伯及び王軌に由る」と。訳又軌の帝の鬚を捋る事を説く、帝乃ち軌を誅す。尉遅運懼れ、私かに孝伯に謂いて曰く、「吾徒必ず禍を免れず、奈何」と。孝伯曰く、「老母有り、地下に武帝有り、臣と為り子と為り、何くにか之かんとするを知らんや!且つ質を委ねて人に事うるは、本より名義に徇う、諫めて入らずんば、将に焉んぞ死を逃れん?足下若し身の為に計らば、宜しく且つ之を遠ざくべし」と。ここに於いて各其の志を行う。運尋いで出でて秦州総管と為る。帝荒淫日甚だしく、誅戮度無し。孝伯頻りに諫むも従わず、是に由りて益々疎んぜらる。後稽胡反し、孝伯を行軍総管と為し、越王盛に従い討ち平らぐ。及び軍還り、帝将に之を殺さんとし、乃ち斉王の事に託して之を誚りて曰く、「公は斉王の謀反を知りながら、何を以て言わざる」と。対えて曰く、「臣は斉王の社稷に忠なるを知り、群小の媒蘖する所と為り、之に罪を加う。臣は言えば必ず用いられざるを知り、以て言わざるなり。且つ先帝微臣を属して陛下を輔けしむ、今諫めて従わず、実に顧托に負く。此を以て罪と為すは、是れ甘心する所なり」と。帝慚じ、首を俯して語らず。令して家に於いて死を賜う、時に年三十六。

原文帝之西征也,在軍有過行,鄭譯時亦預焉。軍還,孝伯及王軌盡以白武帝。武帝怒,撻帝數十,乃除譯名。至是,帝追憾被杖,乃問譯:「我腳上杖痕誰所為也?」譯曰:「事由宇文孝伯及王軌。」譯又說軌捋帝鬚事,帝乃誅軌。尉遲運懼,私謂孝伯曰:「吾徒必不免禍,奈何?」孝伯曰:「有老母,地下有武帝,為臣為子,知欲何之!且委質事人,本徇名義,諫而不入,將焉逃死?足下若為身計,宜且遠之。」於是各行其志。運尋出為秦州總管。帝荒淫日甚,誅戮無度。孝伯頻諫不從,由是益疏。後稽胡反,令孝伯為行軍總管,從越王盛討平之。及軍還,帝將殺之,乃託以齊王事誚之曰:「公知齊王謀反,何以不言?」對曰:「臣知齊王忠於社稷,為群小媒蘖,加之以罪。臣以言必不用,所以不言。且先帝屬微臣輔陛下,今諫而不從,實負顧托。以此為罪,是所甘心。」帝慚,俯首不語。令賜死于家,時年三十六。

隋文帝践極に及び、孝伯・王軌の忠にして罪を獲たるを以て、並びに令して収葬せしめ、其の官爵を復す。嘗て高穎に謂いて曰く、「宇文孝伯は実に周の良臣なり、若し此の人朝に在らば、我輩措手する処無からん」と。子歆嗣ぐ。

原文及隋文帝踐極,以孝伯、王軌忠而獲罪,並令收葬,復其官爵。嘗謂高穎曰:「宇文孝伯實有周良臣,若此人在朝,我輩無措手處。」子歆嗣。

東平公

原文東平公

東平公神挙は、文帝の族子なり。高祖普陵・曾祖求男、魏に仕えて位並びに顕達す。祖金殿、魏の兗州刺史安喜県侯。父顕和、少にして爵を襲ぎ、性矜厳にして、頗る経史に渉り、膂力人に絶え、弓数百斤を彎げ、能く左右に馳射す。孝武の蕃に在るや、顕和早く眷遇を蒙る。時に多難に属し、嘗て顕和に計を問う。顕和宜しく門を杜ぎ跡を晦まし、時に相い動くべしと具陳し、帝深く之を納る。及び即位し、閣内都督を拝し、城陽県公に封ぜられ、恩旧を以て之を遇すること甚だ厚し。顕和の居る所隘陋なるを以て、乃ち殿省を撤きて賜い寝室と為す、其の重んぜらるる此の如し。及び斉の神武政を専らにするに及び、帝毎に自ら安からず、顕和に問うて曰く、「天下洶洶たり、将に之を如何にせん」と。対えて曰く、「善を択びて従うに若くは莫し」と。因りて詩を誦して云く、「彼の美人兮、西方の人兮」と。帝曰く、「是れ吾が心なり」と。遂に関に入る策を定む。其の母老ゆるを以て、預め計らわしむ。対えて曰く、「今日の事は、忠孝並び立たず。然れども臣密ならざれば則ち身を失わん、安んぞ敢えて預め私計を為さん」と。帝愴然として顔色を改め曰く、「卿は我が王陵なり」と。硃衣直合・合内大都督に遷し、長広県公に改封す。孝武に従い関に入る。溱水に至り、周の文帝素より其の善射なるを聞くも未だ之を見ず、俄かに水傍に一小鳥有り、顕和之を射て中つ。文帝笑いて曰く、「我卿の工なるを知れり」と。位を進めて車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍と為す。卒す。建徳三年、驃騎大将軍・開府儀同三司を追贈す。

原文東平公神舉,文帝之族子也。高祖普陵、曾祖求男,仕魏位並顯達。祖金殿,魏兗州刺史安喜縣侯。父顯和,少而襲爵,性矜嚴,頗涉經史,膂力絕人,彎弓數百斤,能左右馳射。孝武之在蕃,顯和早蒙眷遇。時屬多難,嘗問計於顯和。顯和具陳宜杜門晦跡,相時而動,帝深納焉。及即位,拜閣內都督,封城陽縣公,以恩舊遇之甚厚。顯和所居隘陋,乃撤殿省賜為寢室,其見重如此。及齊神武專政,帝每不自安,問顯和曰:「天下洶洶,將如之何?」對曰:「莫若擇善而從。」因誦詩云:「彼美人兮,西方之人兮。」帝曰:「是吾心也。」遂定入關策。以其母老,令預為計。對曰:「今日之事,忠孝不並。然臣不密則失身,安敢預為私計。」帝愴然改容曰:「卿,我之王陵也。」遷硃衣直合、合內大都督,改封長廣縣公。從孝武入關。至溱水,周文帝素聞其善射而未之見,俄而水傍有一小鳥,顯和射中之。文帝笑曰:「我知卿工矣。」進位車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。卒。建德三年,追贈驃騎大將軍、開府儀同三司。

神挙早く孤となり、夙成の量有り。及び長じ、神情倜儻、志略英贍、眉目疏朗、儀貌魁梧なり。明帝初、中侍上士を起家とす。帝翰林に留意し、而して神挙は雅好篇什、毎に遊幸するに、神挙恒に従う。長広県公の爵を襲ぐ。天和元年、累遷して右宮伯中大夫に至り、清河郡公に爵を進む。建徳三年、京兆尹より出でて熊州刺史と為り、斉人其の威名を憚る。及び帝東伐し、并州平定に従い、即ち刺史を授く。州は既に斉氏の別都にして、多く奸猾有り、神挙威恩を以て示し、遠近悦服す。武徳郡公に改封し、柱国大将軍に進み、又東平郡公に改封す。宣政元年、司武上大夫に転ず。及び幽州人盧昌期等范陽を拠りて反するに及び、詔して神挙に討ち禽らしむ。時に斉の黄門侍郎盧思道も亦反中に在り、賊平ぎ、将に衣を解きて法に伏せんとす、神挙乃ち釈して之を礼し、即ち露布を草せしむ。稽胡の反するに属し、西河を寇す、神挙は越王盛と之を討つ。時に突厥赴き救う、神挙奇兵を以て之を撃ち、突厥敗走し、稽胡款服す。即ち并州総管を授く。

原文神舉早孤,有夙成之量。及長,神情倜儻,志略英贍,眉目疏朗,儀貌魁梧。明帝初,起家中侍上士。帝留意翰林,而神舉雅好篇什,每遊幸,神舉恆從。襲爵長廣縣公。天和元年,累遷右宮伯中大夫,進爵清河郡公。建德三年,自京兆尹出為熊州刺史,齊人憚其威名。及帝東伐,從平并州,即授刺史。州既齊氏別都,多有奸猾,神舉示以威恩,遠近悅服。改封武德郡公,進柱國大將軍,又改封東平郡公。宣政元年,轉司武上大夫。及幽州人盧昌期等據范陽反,詔神舉討禽之。時齊黃門侍郎盧思道亦在反中,賊平,將解衣伏法,神舉乃釋而禮之,即令草露布。屬稽胡反,寇西河,神舉與越王盛討之。時突厥赴救,神舉以奇兵擊之,突厥敗走,稽胡款服。即授并州總管。

神挙は武帝に待せられ、心腹の任に処し、王軌・宇文孝伯等屡々皇太子の短を言う、神挙も亦頗る之に預かる。及び宣帝即位し、荒淫度無し、神挙禍に及ぶを懼れ、自ら安からざるを懐く。初め范陽を定めたる後、威声甚だ振い、帝も亦其の名望を忌み、兼ねて宿憾を以てす、遂に人をして酒を齎し之に賜わしめ、馬邑に於いて薨ず、時に年四十八。

原文神舉見待于武帝,處心腹之任,王軌、宇文孝伯等屢言皇太子之短,神舉亦頗預焉。及宣帝即位,荒淫無度,神舉懼及禍,懷不自安。初定范陽之後,威聲甚振,帝亦忌其名望,兼以宿憾,遂使人齎[CG]酒賜之,薨于馬邑,時年四十八。

神挙は風儀美く、辞令善く、博く経史に渉り、性篇章を愛し、尤も奇射に工なり。戎に臨み寇に対し、勇にして謀有り、職を蒞め官に当たり、毎に声績を著す。兼ねて施しを好み士を愛し、雄豪を以て自ら居す、故に任文武を兼ね、声内外に彰る。百僚其の風則を仰がざる無く、先輩旧歯より今に至るまで之を称す。

原文神舉美風儀,善辭令,博涉經史,性愛篇章,尤工奇射。臨戎對寇,勇而有謀,蒞職當官,每著聲績。兼好施愛士,以雄豪自居,故得任兼文武,聲彰外內。百僚無不仰其風則,先輩舊齒至於今稱之。

子の同が嗣ぎ、位は儀同大將軍に至り、神舉の弟に慶がある。

原文子同嗣,位至儀同大將軍,神舉弟慶。

弟の慶。

原文弟 慶

慶は字を神慶といい、沈深にして器局あり、少にして敏なるをもって知られた。初め東観に学び、経史に頗る渉猟した。既にして人に謂いて曰く、「書は姓名を記すに足るのみ、安んぞ久しく筆硯に事えて腐儒の業と為さんや」と。時に文州の賊乱あり、慶は募に応じて征に従い、功により都督を授けられた。衛王直が山南に鎮するや、左右に引かれた。慶は射を善くし、胆気あり、猛獣を格闘するを好み、直は甚だこれを壮とした。稍く遷りて車騎大將軍・儀同三司となった。宇文護を誅するに及び、慶は謀りごとに関与した。時に驃騎大將軍を授けられ、開府を加えられた。武帝に従い河陰を攻め、先登して堞に攀じ、賊と短兵相接し、石に中たって乃ち墜ち、絶えて後蘇生した。帝はこれを労って曰く、「卿の勇は以て人に売るべし」と。再び武帝に従い晉州を抜き、齊の兵大いに至るや、慶は齊王憲と軽騎をもってこれを覘い、卒然として賊と相遇い、賊の窘迫する所となった。憲は身を挺して遁れた。慶は退きて汾橋に拠り、賊衆争って進むや、慶はこれを射て、中たる所の人馬必ず倒れ、賊は乃ち稍く却いた。高壁を抜き、并州を克ち、信都を下し、高湝を禽えるに及び、功並びに最たるを占めた。位を進めて大將軍と為り、汝南郡公に封ぜられた。尋に行軍總管として延安の反胡を撃ち、これを平らげた。延・甯二州總管を歴任した。

原文慶字神慶,沈深有器局,少以敏見知。初受業東觀,頗涉經史。既而謂人曰:「書足記姓名而已,安能久事筆硯為腐儒業乎?」時文州賊亂,慶應募從征,以功授都督。衛王直鎮山南,引為左右。慶善射,有膽氣,好格猛獸,直甚壯之。稍遷車騎大將軍、儀同三司。及誅宇文護,慶有謀焉。時授驃騎大將軍,加開府。從武帝攻河陰,先登攀堞,與賊短兵接,中石乃墜,絕而後蘇。帝勞之曰:「卿勇可以賈人也。」復從武帝拔晉州,齊兵大至,慶與齊王憲輕騎覘之,卒與賊相遇,為賊所窘。憲挺身而遁。慶退據汾橋,眾賊爭進,慶射之,所中人馬必倒,賊乃稍卻。及拔高壁,克并州,下信都,禽高湝,功並居最。進位大將軍,封汝南郡公。尋以行軍總管擊延安反胡,平之。歷延、甯二州總管。

隋の文帝が丞相たる時、行軍總管として江表を征し、白帝に次いで、労により上大將軍に進んだ。帝は慶と旧交あり、甚だ親しく遇され、丞相の軍事を督せしめ、心腹を委ねられた。尋ねて柱國を加えられた。開皇初年、左武衛將軍に拝され、上柱國に進んだ。数年を経て、涼州總管を除かれた。歳余にして徴還され、職に任ぜられなかった。

原文隋文帝為丞相,以行軍總管征江表,次白帝,以勞進上大將軍。帝與慶有舊,甚見親待,令督丞相軍事,委以心腹。尋加柱國。開皇初,拜左武衛將軍,進上柱國。數年,除涼州總管。歲餘徵還,不任以職。

初め、文帝が潜龍の時、嘗て慶と語り、これに謂いて曰く、「天元(北周宣帝)は質に積徳なく、その相貌も寿も長からず、加うるに法令繁苛にして、声色に耽恣す。吾がこれを観るに、殆ど将に久しからん。又諸侯微弱にして、各々国に就かしむるも、曾て深根固本の計なく、羽翮既に翦られたれば、何ぞ遠きに及ばん。尉遲迥は貴戚にして、早く声望を著わし、国家に釁あらば、必ず乱階と為らん。然れども智量庸浅にして、子弟軽佻、貪にして恵少なく、終に亡滅を致さん。司馬消難は反覆の虜にして、亦た池内の物に非ず、変は俄頃に在らん。但だ軽薄にして謀無く、害を為す能わず、江南に自ら竄するに過ぎざらん。庸蜀は険隘にして、艱阻を生じ易く、王謙は愚蠢にして、素より籌略無し。但だ人の誤らしむる所と為らんことを恐るるのみ、虞るるに足らず」と。未だ幾ばくもせず、上言皆験した。ここに及び、慶は上(文帝)の遺忘を恐れ、再び収用せられざらんと欲し、旧く恩顧を蒙りしことを見せんとし、前の言を具に録し、表としてこれを奏した。上表を省みて大いに悦び、詔を下して曰く、「朕の言の験は、自ら是れ偶然なり。公乃ち忘れず、弥く誠節を表す。至意を深く感じ、嘉尚すること已まざるなり」と。是より上は毎に優礼を加えられた。家に卒した。

原文初,文帝龍潛時,嘗與慶言,謂曰:「天元質無積德,其相貌壽亦不長,加以法令繁苛,耽恣聲色,以吾觀之,殆將不久。又諸侯微弱,各令就國,曾無深根固本之計,羽翮既翦,何及遠?尉遲迥貴戚,早著聲望,國家有釁,必為亂階。然智量庸淺,子弟輕佻,貪而少惠,終致亡滅。司馬消難反覆之虜,亦非池內之物,變在俄頃。但輕薄無謀,未能為害,不過自竄江南耳。庸蜀險隘,易生艱阻,王謙愚蠢,素無籌略,但恐為人所誤,不足為虞。」未幾,上言皆驗。及此,慶恐上遺忘,不復收用,欲見舊蒙恩顧,具錄前言,為表奏之。上省表大悅,下詔曰:「朕言之驗,自是偶然;公乃不忘,彌表誠節。深感至意,嘉尚無已。」自是上每加優禮。卒於家。

子の靜亂は、隋の文皇帝の女廣平公主を尚し、位は儀同・安德縣公・熊州刺史に至った。慶に先んじて卒した。靜亂の子の協は、位は右翊衛將軍に至った。宇文化及の乱に際し、害に遇った。

原文子靜亂,尚隋文女廣平公主,位儀同、安德縣公、熊州刺史。先慶卒。靜亂子協,位右翊衛將軍。宇文化及之亂,遇害。

協の弟の晶は、字を婆羅門といい、大業年中に宮内に養われ、後に千牛左右となった。煬帝は甚だこれを親昵し、遊宴ある毎に必ず侍従せしめた。臥内に出入りし、六宮を伺察し、往来門禁を限らなかった。時人はこれを宇文三郎と号した。宮人と淫乱し、妃嬪・公主に至るまで亦た醜声あり。蕭后が帝に言うや、晶は聞き、懼れて敢えて見えず。協は因って晶の壮なるを奏し、久しく宮掖に在るべからずと。帝はこれを罪せず、召し入れて、初めの如くこれを待った。化及が殺逆の際、乱兵の害に遇った。

原文協弟晶,字婆羅門,大業中養于宮內,後為千牛左右。煬帝甚親昵之,每有遊宴,必侍從。至於出入臥內,伺察六宮,往來不限門禁。時人號為宇文三郎。與宮人淫亂,至於妃嬪公主亦有醜聲。蕭后言於帝,晶聞,懼不敢見。協因奏晶壯,不可久在宮掖。帝不之罪,召入,待之如初。化及殺逆際,為亂兵所害。

【史論】

原文【史論】

論じて曰く、古より受命の君及び守文の王は、独り異姓の輔のみならず、亦た骨肉の助け有り。その茂親には則ち魯衛・梁楚有り、その疏属には則ち凡蔣・荊燕有り、咸く能く声を飛わし実を騰せ、百代の後に滅びず。若し豳孝公の勳烈に、善政を以てこれを加え、蔡文公の純孝に、儉約を以てこれを飾るは、峨峨たる焉、以て前載を轔轢するに足る。

原文論曰:自古受命之君及守文之王,非獨異姓之輔,亦有骨肉之助焉。其茂親則有魯衛、梁楚,其疏屬則有凡蔣、荊燕,咸能飛聲騰實,不滅於百代之後。至若豳孝公之勳烈,加之以善政,蔡文公之純孝,飾之以儉約,峨峨焉足以轔轢於前載矣。

周の受命の始め、宇文護は実に艱難に預かった。文后崩殂し、諸子沖幼、群公等夷の士を懐き、天下に去就の心有るに、卒く能く魏を変じて周と為し、危を捍ぎ義を獲たるは、護の力なり。向使し礼譲を以てこれを加え、忠貞を以てこれを経たらんには、桐宮に悔過の期有り、未央に天年の数を終え、前史の載する所と同じからん、焉んぞ足らんと道わんや。然れども護は学術に寡く、群小に昵近し、威福は己に在り、征伐は自ら出で、人臣にして君無きの心有り、人主として堪えざるの事を為し、終に妻子戮せられ、身首横分せらるるに至るは、蓋し其れ宜なるかな。

原文有周受命之始,宇文護實預艱難。及文後崩殂,諸子沖幼,群公懷等夷之士,天下有去就之心,卒能變魏為周,捍危獲義者,護之力也。向使加之以禮讓,經之以忠貞,桐宮有悔過之期,未央終天年之數,同前史所載,焉足道哉?然護寡於學術,昵近群小,威福在已,征伐自出,有人臣無君之心,為人主不堪之事,終於妻子為戮,身首橫分,蓋其宜也。

隋氏の起るに当たり、天威を仮りて海内を服し、胄は葭莩の親を以て、一州に拠りて義挙に協せり、忠にして能く勇と謂うべし。功業遂げず、悲しいかな。亮は実に庸才にして、巨逆に非常を図る、古人の徳を度らず、力を量らざるを称するは、其れ斯れを謂うか。

原文當隋氏之起,假天威而服海內,胄以葭莩之親,據一州而協義舉,可謂忠而能勇。功業不遂,悲夫!亮實庸才,圖非常於巨逆,古人稱不度德、不量力者,其斯之謂歟。

宇文測兄弟は経綸の日に馳駆し、孝伯・神舉は父子の間に言を尽くす。其の智勇忠概を観るに、並びに古人に追従することを得べし。

原文宇文測兄弟驅馳于經綸之日,孝伯、神舉盡言于父子之間,觀其智勇忠概,並可追從于古人矣。