北史

卷五十一 列傳第三十九 齊宗室諸王上

宗室

趙郡王

趙郡王高琛、字は元寶、齊の神武皇帝(高歓)の弟である。幼少より弓馬に慣れ、志気があった。南趙郡公に封ぜられ、累進して定州刺史・六州大 都督 ととく となり、甚だ声望があった。斛斯椿らが乱を起こすと、神武は軍を率いて洛陽に入り、 しん 陽を根本とするため、高琛を召して相府の政事を総理させた。天平年間、御史中尉に任ぜられる。厳正に糾弾し、憚るところなく、遠近粛然とした。まもなく神武の後宮に乱入し、杖罰によって死んだ。時に二十三歳であった。太尉・ 尚書令 しょうしょれい を追贈され、諡して貞といった。天平三年、さらに仮黄鉞・左丞相・太師・録尚書事を追贈され、王爵に進み、神武の廟廷に配享された。子の高睿が後を嗣いだ。

高睿は小字を須拔といい、幼くして孤となり、聡明で早くから成り立ち、 こと に神武に愛され、山公主(神武の妹?)に養育された。遊娘に母として育てさせ、諸子とは異なる恩寵を受けた。魏の興和年間、南趙郡公の爵を襲いだ。四歳になっても、まだ母を知らなかった。その母は魏の華陽山主である。従母姉の鄭氏が戯れて言うには、「汝は我が姉妹の子であるのに、どうして逆に遊氏に親しむのか」。高睿は尋ね求めたため、精神を失った。神武は病気にかかったかと疑うと、高睿は言った、「児に患いはありません。ただ生みの母がいることを聞き、暫しでも会いたいと思っただけです」。神武は驚き、元夫人(実母)を呼び寄せ、宮中で会わせた。高睿は前に進み跪拝し、その首を抱いて大声で泣いた。神武は甚だ悲しみ、平秦王(高帰彦)に言った、「この児は至孝であり、我が子の中で及ぶ者はいない」。そこで一日休務とした。高睿が『孝経』を読み、「父に事うるに資る」の句に至ると、涙を流し嗚咽した。十歳で母を喪い、神武は自ら領軍府まで送った。喪の儀を行い、声をあげて気絶し、三日間水も飲まなかった。神武と武明太后(婁昭君)が懇ろに諭したので、漸く命に従うようになった。喪中は長く斎戒し、骨と皮ばかりとなり、杖にすがってやっと起き上がった。神武は常山王(高演)に同室起居させ、日夜諭させ、左右に命じて水を進めることを許さなかった。清らかな口漱ぎさえ絶っていたが、昼になっても食事を取ろうとせず、これにより神武は食事の度に必ず呼んで同席させた。神武が崩ずると、哭泣して血を吐いた。壮年になり、婚礼を迎えようとする時、容貌に悲しみの色があった。文襄(高澄)が言うには、「我は汝のために鄭述祖の娘を娶らせるが、何を嫌って楽しまないのか」。答えて言うには、「孤児として遺されたことを自ら痛み、今まさに婚冠の礼を行おうとするに まさ たり、一層感切に堪えません」。言い終わらぬうちに、嗚咽して自ら制することができず、文襄はこれを哀れんだ。勤学を勧め、常に夜更けまで学びを続けた。文宣(高洋)が禅 を受けると、王爵に進んだ。高睿は身長七尺、容姿儀表は甚だ立派で、吏事に習熟し、人を見抜く鑑識があった。天保二年、出仕して定州刺史・六州大 都督 ととく となった。時に十七歳、良牧と称された。六年、詔により高睿は兵を率いて長城の築造を監督した。時に六月、高睿は途中で蓋や扇を除け、自ら軍人と共に労苦を共にした。定州では以前から常に氷を貯蔵しており、長史の宋欽道は高睿が暑さに曝されているのを思い、倍の速さで氷を送らせた。丁度炎暑の盛りであり、皆が一時の急務だと言った。高睿はこれに向かって嘆いて言った、「三軍皆が温水を飲んでいるのに、我どうして義理に背いて独り寒氷を進めようか」。遂に溶けるまで放置し、ついに一口も嘗めず、兵士は感動して喜んだ。 さき だって役務が終わると、任せて自ら帰らせていたので、壮丁は先に戻り、老弱者は多く倒れ死んだ。高睿はここに至り自ら営伍を率い、強者弱者が互いに支え合い、全うした者は十のうち三四に頼った。八年、 都督 ととく ・北朔州刺史に任ぜられる。高睿は新たに移住した者を撫慰し、烽戍を適宜配置し、備えに条法があり、大いに兵士に安んじられた。水のない場所で祈って井戸を掘ると、泉源が湧き出し、今に至るまで趙郡王泉と号する。九年、済南王(高殷)が太子として国政を監理することとなり、これに因り大 都督 ととく 府を設置し、尚書省と分けて諸事を処理し、また開府して佐史を置いた。文宣は特にその人選を重んじ、高睿を侍中とし、大 都督 ととく 府長史を摂行させた。高睿は後に宴に侍した際、帝(文宣)が常山王高演らに穏やかに言うには、「これまでにもこのような長史がいたか」。

皇建初年、併州の事務を兼ねる。孝昭帝(高演)が臨終に際し、予め顧命を受け、武成帝(高湛)を鄴に奉迎し、 尚書令 しょうしょれい に拝された。天統年間、父の高琛に仮黄鉞を追贈し、母の元氏に趙郡王妃を追贈し、諡して貞昭とし、華陽長公主の称号は従前の通りとした。有司が礼儀を整え、墓前に赴いて拝授した。時は厳冬の極寒であり、高睿は裸足で歩き号哭し、顔面は皆裂け、数升の血を吐いた。帰還するや、参朝して謝することができなかった。帝(後主高緯)は自ら邸に赴いて見舞い、 司空 しくう ・摂録尚書事に拝した。

河清三年、周軍及び突厥が へい 州に至った。武成は戎服を着け、宮人を連れて避難しようとしたが、高睿が馬の轡を捉えて諫めたので、やめた。帝は自ら軍を指揮し、六軍の進退は全て高睿の節度に従わせ、段孝先(段韶)に総括させた。帝と宮人は緋色の甲冑を着け、古い北城に登って望むと、軍営は甚だ整然としていた。突厥は周人を咎めて言った、「汝らは齊が乱れていると言うので、伐ちに来たのだ。今や齊人の眼中にも鉄がある、どうして当たることができようか」。そこで引き返した。陘嶺に至ると、凍って滑り、氈を敷いて渡った。胡馬は寒さで痩せ、膝より下は毛がなく、長城に到る頃には死に絶えていた。そこで矛を切り取って杖として帰還した。この役において、段孝先は慎重を期し、賊と戦わず、自ら しん 陽から道を失い、虜に屠られ、生き残る者は無かった。斛律光が三堆から帰還すると、帝は大寇に遭ったことを思い、その頭を抱いて泣いた。任城王高湝が進み出て言うには、「ここまでするには及びません」。そこでやめた。斛律光は帝の前で段孝先を面罵し、言うには、「段婆は送女客(婚礼の送り役)をするのが上手い」。ここにおいて高睿を有能とし、 尚書令 しょうしょれい を加え、宣城郡公に封じ、太尉に拝し、五礼を監修させた。晩節は酒色に耽り、和士開に陥れられることとなった。高睿は久しく朝政を司り、声望日増しに高まり、次第に疎まれ忌まれるようになった。そこで古の忠臣義士を撰び、『要言』と号して、その意を表した。武成が崩ずる。葬儀の数日後、高睿は馮翊王高潤・安德王高延宗及び元文遥と共に後主に奏上して言うには、「和士開は未だ内廷に居るべきではない」。併せて太后(胡氏)にも入奏した。そこで和士開を袞州刺史として出そうとした。太后は百日を過ぎるまで留めようとしたが、高睿は厳しい顔色で許さなかった。太后は酒を酌んで高睿に賜ろうとしたが、高睿は厳しい顔色で言った、「今は国家の大事を論じているのであって、一杯の酒のためではありません」。言い終わると便ち出て行った。その夜、高睿が寝ていると、一人の者、長さおよそ一丈五尺、臂長一丈余りの者が、門に向かって床に立ち、その臂で高睿を押さえつけ、久しくして遂に消えた。甚だ不吉に思い、起き上がって坐し嘆いて言った、「大丈夫の運命も一朝ここに至るか」。明朝、入朝しようとすると、妻子は皆諫めて止めさせた。高睿は言った、「社稷の事は重い、我は死をもってこれに尽くすべきである。我は寧ろ先皇に事えて死のうとも、朝廷の顛沛するを見るに忍びない」。殿門に至ると、またある者が言った、「入らぬことを願う」。高睿は言った、「我は上は天に背かず、死しても恨みはない」。入って太后に会うと、太后はまた(和士開の件で)言い寄ったが、高睿はますます固く主張した。出て永巷に至り、華林園に送られ、雀離仏院において劉桃枝に拉殺させられた。時に三十六歳。大霧が三日続き、朝野冤惜した。その年、詔して王礼をもって葬ることを許したが、結局追贈も諡も無かった。子の高整信が後を嗣ぎ、学を好み行いに慎みがあり、位は儀同三司、後に長安で没した。

清河王

清河王高岳、字は洪略、神武帝(高歓)の従父弟である。父の高翻、字は飛雀、器量と識見で知られ、侍御中散の官に在りて卒す。元象年中、仮黄鉞・大 ひき 軍・太傅・太尉・録尚書事を追贈され、諡は孝宣公。高岳は幼くして孤貧であり、人未だ之を知らず。長じて敦厚で正直、姿貌は聡然として、沈着深遠にして器量有り。初め洛邑に居す。神武帝は しばしば 度人を洛に遣わす時は、必ず高岳の邸に止宿せしむ。高岳の母の山氏、嘗て夜中に起き、神武帝の室に火無くして光有るを見る。別室に移るも、前の く見ゆる所なり。怪しむ。卜者に詣でて筮うに、『乾』の『大有』に遇う。占う者曰く、「吉なり、『易』に『飛龍天に在り、大人造るなり』と称す、貴ぶべからず言うべからず」と。山氏帰りて神武帝に報ず。神武帝後に信都に起兵す。山氏高岳に謂いて曰く、「赤光の瑞、今まさに しるし すべし、汝従うべし」と。高岳遂に信都に往く、神武帝之を見て大いに悦ぶ。

韓陵に戦うに及び、神武帝は中軍を将い、高昂は左軍を将い、高岳は右軍を将う。中軍敗る。高岳麾を挙げて大呼し、横より賊陣を衝く。神武帝因って大いに賊を破る。功により衛将軍・左光禄大夫に除され、清河郡公に封ぜらる。母の山氏は郡君に封ぜられ、女侍中を授かり、入内して皇后に侍す。天平二年、侍中・六州軍事 都督 ととく に除され、尋ねて開府を加えらる。高岳は時賢を辟引して僚属と為し、論者之を美とす。尋ねて使持節・六州大 都督 ととく ・冀州大中正を授かる。俄かに京畿大 都督 ととく を拝し、其の六州の事は悉く京畿に隷す。時に神武帝は晋陽に統務す。高岳は侍中の孫騰等と京師に在りて政を輔く。高岳の性は至孝、母疾有れば、衣帯を解かず。喪に遭いて職を去るに及び、哀毀して骨立つ。神武帝之を憂い、毎日人を遣わして労勉す。尋ねて本位に復起し、冀・晋二州刺史・西南道大 都督 ととく を歴任し、綏辺の称有り。

神武帝崩ずるに及び、侯景叛く。梁の武帝は間を乗じて其の貞陽侯蕭明を寒山に遣わし、泗水を擁して彭城を灌ぎ、景と掎角の声援を為す。高岳は諸軍を総べて南討し、行台の慕容紹宗と共に蕭明を撃破し、之を禽う。景は なお って渦陽に於いて左衛将軍劉豊等と相持す。高岳又之を破る。功により太尉に除さる。又慕容紹宗・劉豊等を統べて長社に於いて王思政を攻む。高岳は洧水を引いて城を灌ぐ。紹宗・劉豊は思政に獲らる。西魏は兵を出して思政を援く。高岳は内外を防禦し、城の没せざるは三板なり。会に文襄帝(高澄)親臨し、数日にして城を克ち、思政等を獲る。功により別に真定県男に封ぜらる。文襄帝は己の功と為し、故に賞典は弘からず。

文襄帝崩ず。文宣帝(高洋)は出でて晋陽を撫で、高岳に本官のまま尚書左僕射を兼ねさせ、留まって鄴を鎮守せしむ。天保初年、清河郡王に進封さる。五年、太保を加えらる。西南道大行台と為り、 司徒 しと の潘相楽等を統べて江陵を救う。師は義陽に次ぐ。西魏は荊州を克つ。因って地を略し、 郢州 えいしゅう を克ち、梁の郢州刺史陸法和を獲て、鄴に送る。詔して高岳に師を旋せしむ。高岳は寒山・長社を討ち、及び随・陸に出づるより、並びに功有り、威名弥重し。性は華侈にして、尤も酒色を悦び、歌姫舞女、鼎を陳ね鐘を撃ち、諸王皆及ぶ莫し。初め、高帰彦は少孤、神武帝は高岳に撫養せしむ。其の年幼を軽んじ、情礼甚だ薄し。帰彦は内に之を ふく む。帰彦が領軍と為るに及び、高岳は其の己に徳有りと謂い、更に之を倚仗す。帰彦は密かに其の短を構え、高岳が城南に大宅を造り、僭って永巷に擬す、但だ闕無きのみと奏す。帝後に夜行し、其の壮麗を見て、意平らかならず。仍って帝に属して鄴下の婦人薛氏を召し入宮せしむ。而して高岳は先に嘗て之を迎え、至宅す、其の姉なり。帝は薛氏の姉を懸けて鋸殺し、高岳を譲りて、奸人の女と為す。高岳曰く、「臣本より之を取らんと欲す、其の軽薄を嫌い、奸に非ず」と。帝益々怒り、高帰彦をして就宅して鴆を賜わしむ。高岳曰く、「臣に罪無し」と。帰彦曰く、「之を飲め」と。飲みて薨ず。朝野之を惜しむ。時に年三十四。詔して大鴻臚に喪事を護らしむ。太宰・太傅・仮黄鉞を贈り、轀輬車を給し、諡して昭武と曰う。城南の宅を以て荘厳寺と為すことを勅す。

初め、高岳は神武帝と天下を経綸す。家に私兵の戎器有り、甲冑千余領を儲く。文襄帝の末、高岳は表して之を納れんことを求む。文襄帝は推心して相任じ、許さず。文宣帝の時も、頻りに納れんことを請うも、又許さず。将に薨ぜんとするに、遺表して恩を謝し、並びに甲冑を上ることを請う。葬畢りて、方に之を納るることを許す。皇建年中、文襄帝の廟庭に配享さる。後、帰彦反す。武成帝(高湛)は其の前の譖を知り、帰彦の良賤百口を以て高岳の家に贈る。高岳に太師・太保を贈り、余は故の如し。子に高勱有り。

高勱、字は敬徳、幼くして聡敏、風儀美しく、仁孝を以て聞こゆ。七歳にして爵を襲ぎ清河王と為り、十四にして青州刺史と為る。祠部尚書・開府儀同三司を歴任し、安楽侯に改封さる。性は剛直にして、才幹有り。斛律光は雅に之を敬し、毎に征伐すれば則ち引いて副と為す。侍中・尚書右僕射に遷る。

後主が周師に敗るるに及び、高勱は太后に奉じて鄴に帰る。宦官の放縱進み、儀同の苟子溢は尤も幸す。高勱は将に之を斬りて徇らんとす。太后之を救う、乃ち釈放を得る。劉文殊窃かに高勱に謂いて曰く、「子溢の徒は、言いて禍福を成す、何ぞ此くの如くすを得んや」と。高勱は袂を攘げて曰く、「今西軍日々に侵し、朝貴多く叛く、正に此の輩の権を弄するに由る。若し今日之を殺し、明日誅せらるるも、恨み無し」と。文殊は甚だ之を愧づ。高勱は後主を勧め、五品已下の家の資産を悉く三臺上に置き、脅して曰く、「若し戦い捷からずんば、則ち之を焼かん。此の輩は必ず死戦し、乃ち捷つべし」と。後主従わず、遂に鄴を棄てて東遷す。高勱は常に後殿し、周軍に得らる。武帝(宇文邈)と語り、大いに悦び、因って斉の亡ぶる所由を問う。高勱は発言して流涕し、悲しみ自ら勝えず。帝は為に容を改む。開府儀同三司を授かる。

隋の文帝(楊堅)が丞相と為る時、謂いて曰く、「斉の亡ぶるは邪佞を任ずるに由る。公父子は忠良、隣境に聞こゆ、宜しく善く自ら愛すべし」と。高勱は拝謝して曰く、「勱は亡斉の末属、危きを扶け傾くを定むる能わず。既に獲宥を蒙り、已に多く優幸す。況んや濫りて名級を叨り、致して速やかに官謗を招く」と。帝は甚だ之を器とす。再び楚州刺史に遷る。城北に伍子胥の廟有り。其の俗は鬼を敬い、祈る者は必ず牛酒を以てし、産業を破るに至る。高勱歎じて曰く、「子胥は賢者、豈に百姓を損うべけんや」と。告諭して所部に及ぼす。是より遂に止む。百姓之に頼る。

開皇七年、光州刺史に転ず。上表して曰く、「陳氏は数年已来、荒淫悖乱ますます甚だしく、天は乱徳を厭い、妖実人に興る。或いは空裏に時に大声あり、或いは行路に鬼怪を伝え共にし、或いは人肝を刳いて天狗に祠り、或いは自ら身を捨てて妖訛を厭う。人神怨憤し、怪異薦発す。臣は庸才を以て、猥りに朝寄を蒙り、頻りに蕃守を歴て、其の隣接とす。密邇仇讎、其の動静を知る。天の罪あるを討つ、此れ即ち其の時なり。若し戎車雷動し、戈船電邁せば、臣は駑怯と雖も、鷹犬を効せんことを請う」と。併せて平陳の五策を上る。帝嘉し之れ、優詔を以て答う。及び大挙して陳を伐つに及び、勱を行軍総管と為し、宜陽公王世積に従い陳の江州を下す。功を以て上開府に拝し、物三千段を賜う。時に隴右の諸羌、数寇乱を為す。朝廷は勱に威名有るを以て、洮州刺史に拝す。下車して大いに威恵を崇め、人夷悦附し、豪猾屏跡し、路に遺物を拾わず、善政を以て称せらる。後に吐谷渾来寇す。勱時に疾に遇い、拒戦する能わず、賊遂に大掠して去る。憲司勱の戸口を亡くすを奏す。坐して免ぜられ、家に卒す。大唐前代の名臣を褒顕し、 都督 ととく 四州諸軍事・定州刺史を追贈す。子士廉最も知名なり。

広平公

広平公盛は、神武の従叔祖なり。寛厚にして長者の風有り。神武信都に起兵す。盛来り赴き、中軍大 都督 ととく と為し、広平郡公に封ぜらる。位を歴て 司徒 しと ・太尉に至る。天平三年、位に薨ず。仮黄鉞・太尉・太師・録尚書事を贈らる。子無く、兄の子子瑗を以て嗣がしむ。天保初、平昌王に改封せられ、魏尹に卒す。

陽州公

陽州公永楽は、神武の従祖兄の子なり。太昌初、陽州県伯に封ぜられ、進みて公と為り、累遷して北 州刺史に至る。河橋の戦い、 司徒 しと 高昂利を失い奔退す。永楽洛陽南城を守る。昂城南に走り趣く。西軍の追う者将に至らんとす。永楽門を開かず、昂遂に西軍に禽せらる。神武大いに怒り、之を杖つこと二百。後に 州を罷め、家産立たず。神武其の故を問う。対えて曰く、「裴監長史と為り、辛公正別駕と為り、王の委寄を受け、斗酒隻鶏も敢えて入らざりき」と。神武乃ち永楽を済州と為し、仍て監・公正を長史・別駕と為す。永楽に謂いて曰く、「爾大いに貪る勿れ、小小義取すとも復畏るる莫れ」と。永楽州に至る。監・公正諫むるも聴かれず、状を以て神武に啓す。神武啓を封じて永楽に示し、然る後に二人の清直を知り、並びに擢用す。永楽州に卒す。太師・太尉・録尚書事を贈り、諡して武昭と曰う。子無く、従兄思宗第二子孝緒を以て後と為し、爵を襲ぐ。天保初、脩城郡王に改封せらる。

永楽の弟長弼、小名は阿伽。性 ほぼ 武にして、城市に出入りし、行路を毆撃するを好む。時人皆阿伽郎君と呼ぶ。宗室を以て広武王に封ぜらる。時に天恩道人有り、至って凶暴にして、閭肆に横行す。後に長弼の党に入り、専ら闘を以て事と為す。文宣並びに収掩して獄に付す。天恩等十余人皆棄市せられ、長弼鞭一百。尋いで南営州刺史と為る。州に在りて故無く自ら驚き走る。叛亡して突厥に入り、 つい に死する所を知らず。

襄楽王

襄楽王顕国は、神武の従祖弟なり。才伎無く、直に宗室謹厚を以て、天保元年、襄楽郡王に封ぜらる。位は右衛将軍、卒す。

上洛王

上洛王思宗は、神武の従子なり。性寛和にして、頗る武幹有り。天保初、上洛郡王に封ぜらる。位を歴て 司空 しくう ・太傅に至り、官に薨ず。

子元海、累遷して 散騎常侍 さんきじょうじ に至る。山林に処し、釈典を修行せんことを願い、文宣之を許す。乃ち林慮山に入り、二年を経て、人事を絶棄す。志固からず、自ら啓して帰るを求む。本任に徴し復し、便ち酒を縦にし情に肆し、広く姫侍を納る。又領軍将軍を除かる。器小にして志大、頗る智謀を以て自ら許す。皇建末、孝昭 しん 陽に幸す。武成居守す。元海 散騎常侍 さんきじょうじ を以て留まり機密を典む。初め、孝昭の楊愔等を誅するに、武成に謂いて雲う、事成らば、汝を以て皇太弟と為さん、と。践祚に及び、乃ち武成を鄴に在らしめ兵を主らしめ、子百年を立て皇太子と為し、武成甚だ平らかならず。

是に先立ち、恒に済南を鄴に留め、領軍厙狄伏連を除いて幽州刺史と為し、斛律豊楽を以て領軍と為し、以て武成の権を分つ。武成伏連を留め、而して豊楽の事を視るを聴かず。乃ち河陽王孝瑜と偽りて猟し、野に謀り、暗くして乃ち帰る。先ず是れ童謠有りて雲う、「中興寺内白鳧翁、四方側りて聴けば声雍雍、道人聞けば夜に鐘を打つ」と。時に丞相府は北城中に在り、即ち もと 中興寺なり。鳧翁は雄鶏を謂い、蓋し武成の小字歩落稽を指すなり。道人は済南王の小名なり。鐘を打つは、将に撃たれんとするを言うなり。既にして太史奏言す、北城に天子の気有り、と。昭帝済南之に応ずと以為い、乃ち平秦王帰彦をして鄴に之き、済南を迎えて へい 州に赴かしむ。武成先ず元海に告げ、併せて自安の計を問う。元海曰く、「皇太后万福、至尊孝性非常なり。殿下別に慮るる須いず」と。武成曰く、「此れ豈に我が推誠の意なるや」と。元海省に還り一夜之を思わんことを乞う。武成即ち元海を後堂に留む。元海達旦眠らず、唯床を繞りて徐歩す。夜漏未だ尽きず、武成遽かに出でて曰く、「神算如何」と。答えて云う、「夜中に三策を得たり。恐らく用いるに堪えざるのみ」と。因りて梁孝王誅を懼れて関に入る事を説き、数騎に乗り しん 陽に入り、先ず太后に見えて哀を求め、後ち主上に見え、兵権を去るを請い、死を以て限りと為し、朝政に干せざるを求め、必ず太山の安きを保たんことを、此れ上策なり。若し然らずば、当に表を具して雲う、威権大いに盛んなり、恐らく衆口に謗りを取らん、と。青・斉二州刺史を請い、沈靖自ら居り、必ず物議を招かざらん、と。此れ中策なり。更に下策を問う。曰く、「言を発せば即ち族誅を恐る」と。因りて之を逼る。答えて曰く、「済南は世嫡なり。主上太后の令を仮りて之を奪う。今文武を集め、此の敕を以て示し、豊楽を執り、帰彦を斬り、済南を尊び、号令天下にし、順を以て逆を討つ。此れ万世の一時なり」と。武成大いに悦び、狐疑し、竟に用いる能わず。乃ち鄭道謙をして之を卜せしむ。皆曰く、「事を挙ぐるに利あらず、静かならば吉なり」と。又曹魏祖を召して国事を問う。対えて曰く、「当に大凶有らん」と。又時に林慮令姓籓有り、占候を知り、密かに武成に謂いて曰く、「宮車当に晏駕すべし、殿下天下の王と為らん」と。武成之を内に拘えて以て之を候う。又巫覡をして之を卜せしむ。多く雲う、兵を挙ぐる須いず、自ら大慶有らん、と。武成乃ち詔を奉じ、数百騎を令して済南を しん 陽に送らしむ。及び孝昭崩ず。武成即位す。元海を除いて侍中・開府儀同三司・太子詹事と為す。河清二年、元海和士開の譖に遭い、馬鞭六十せられ、責めて云う、「爾は 鄴城 ぎょうじょう に在りて我に弟を以て兄に反せしめ、幾許の不義ぞ。 鄴城 ぎょうじょう の兵馬を以て へい 州に抗せしめ、幾許の無智ぞ。不義無智、若何ぞ使うべけん」と。出でて兗州刺史と為す。

元海の後妻は、陸太姫の甥であるから、まもなく追って任用された。武平年間、祖珽と共に朝政を執った。元海はしばしば太姫の密語を珽に告げた。珽が領軍を求めたが、元海は許さず、珽はその告げたことを太姫に報いた。太姫は怒り、元海を鄭州刺史として出した。 鄴城 ぎょうじょう が敗れんとする時、 尚書令 しょうしょれい に召された。周の建徳七年、 鄴城 ぎょうじょう で謀反を企て、誅殺された。

元海は乱を好み禍を楽しんだが、偽って仁慈を装い、酒を飲まず肉を食わなかった。文宣帝の天保末年、内法を敬信し、ついには宗廟で血食を絶つに至ったが、皆元海の所為である。右僕射となってからは、また後主に屠殺を禁じ、酒の売買を断つよう説いた。しかし本心は静かでなかったので、ついに覆敗を招いた。

思宗の弟思好は、もと浩氏の子であるが、思宗が弟として養い、待遇は甚だ薄かった。若くして騎射をもって文襄帝に仕えた。文宣帝が受命すると、左衛大将軍となった。本名は思孝といい、天保五年に蠕蠕を討った時、文宣帝はその ぎょう 勇を喜び、「お前が賊を撃つのは鶻が鴉の群れに入るようだ。よろしく好事を思え」と言ったので、改名したのである。累進して 尚書令 しょうしょれい ・朔州道行台・朔州刺史・開府・南安王となった。辺境の人心を大いに得た。

後主の時、斫骨光弁が勅使として州に至ると、思好は甚だ謹んで迎えた。光弁が傲慢であったので、思好は心に恨みを抱いた。武平五年、ついに兵を挙げて反し、 へい 州の諸貴族に書を送って言うには、「主上は幼少より深宮に育ち、人の情偽を弁えず、凶悪狡猾な者に昵近し、忠良を疏遠する。ついに刀鋸の刑餘の者が軒階に溢れて貴くなり、商胡の醜類が帷幄で権を擅にする。生霊を剥削し、朝市を劫掠し、聴受に暗く、ひたすら忍害を行なう。母を深宮に幽閉し、もはや人子の礼なく、二弟を残戮し、たちまち孔懐の義を絶つ。なお子立に東門で馬を奪わせ、光弁に西市で鷹を制させ、駁龍に儀同の号を得させ、逍遙に郡君の名を受けさせる。犬馬の班位が軒冕に栄冠し、人は役に堪えず、乱階を長じんとする。趙郡王睿はまことに宗英と称し、社稷の寄るところである。左相斛律明月は世々元輔たり、威は隣国に著しい。ともに罪あるにあらず、たちまち誅殄に見える。孤はすでに皇枝に忝く預かり、実に殊奨を蒙る。今より義兵を擁率し、君側の害を指除せんとす。幸いにこの懐を悉くし、疑惑を致すことなかれ」と。行台郎王行思の文辞である。

思好は陽曲に至り、大丞相を自称し、百官を置き、行台左丞王尚之を長史とした。武衛趙海は晋陽で兵を掌握していたが、時あたかも倉卒で、奏上する暇がなく、詔を矯って兵を発してこれを拒いだ。軍士は皆言うには、「南安王が来られるなら、我々はただ万歳を唱えて奉迎するのみである」と。帝は変事を聞き、唐邕・莫多婁敬顯・劉桃枝・中領軍厙狄士文を晋陽に馳せさせ、帝は兵を率いて続いて進んだ。思好の軍は敗れ、行思と共に水に投身して死んだ。その麾下二千人は、桃枝がこれを包囲し、殺しつつ招くも、終に降らず、ついに尽きるに至った。時に帝は道中におり、叱奴世安が晋陽から露布を遂げ、城平都で斛斯孝卿に遇った。孝卿は食を勧めて誘い、そこで行宮に馳せ詣でて、叫んで事が済んだと告げた。帝は大いに歓び、左右は万歳を呼んだ。しばらくして、世安はようやく状況を自ら陳べた。帝は言うには、「お前に何のことを告げたのか。座して食うことを得るとは」と。ここにおいて孝卿を賞し、世安の罪を免じた。思好の屍を七日間曝し、その後屠剥して焼き、尚之を鄴の市で烹にし、内参に命じてその妃を宮内で射させ、なお火を放って焼き殺した。

思好が反する五旬前、ある者がその謀反を告げた。韓長鸞の娘は思好の子に嫁いでいたので、ある者が諸貴族を誣告し、事が相擾乱するので、殺さなければ後を絶たないと奏上し、そこで斬ったのである。思好が誅された後、死者の弟が闕下に伏して兄の贈官を求めたが、長鸞は取り次がなかった。

平秦王

平秦王帰彦、字は仁英、神武帝の族弟である。父の徽は、魏末に事に坐して涼州に徙るべきところ、河・渭の間を行き至り、賊に遇い、軍功によって流罪を免れた。そこで河州に数年留まり、胡語を解して西域大使となり、胡の師子を得て、功により河東の事を行い、そこで死んだ。徽は神武帝に対し、旧恩甚だ篤かった。神武帝が京洛を平定すると、徽の喪を迎え、穆と同営に葬った。 司徒 しと を贈られ、諡して文宣といった。

初め、徽が長安市を過ぎた時、婦人王氏と私通して帰彦を生んだが、この時すでに九歳になっていた。神武帝が追ってこれを見ると、撫でて対し悲喜した。やがて徐州刺史に遷った。帰彦は若い時は質朴であったが、後になって節を改め、放縦にして声色を好み、朝夕 たけなわ 歌した。妻は魏の上党王元天穆の女で、容貌は美しくないが甚だ嬌妒であった。しばしば忿争し、密かに文宣帝に啓して離縁を求めたが、事は寝て報じられなかった。天保元年、平秦王に封ぜられ、嫡妃の康氏と生母の王氏はともに太妃となった。二母に善く事え、孝をもって知られた。兼侍郎に徴され、やがて親寵を受けた。侯景討伐の功により、別に長楽郡公に封ぜられ、領軍大将軍を除かれた。領軍に加号されるのは、帰彦から始まった。文宣帝が高徳正を誅した時、金宝財貨をことごとく帰彦に賜った。乾明初年、 司徒 しと に拝され、なお禁衛を総知した。

済南王が晋陽から鄴に向かう時、楊愔が勅を宣し、従駕の兵五千を西中に留め、ひそかに非常に備えた。鄴に至って数日後、帰彦はようやくこれを知り、ここにおいてひそかに楊愔・燕子献らを怨んだ。楊愔らは二王(常山王演・長広王湛)を除こうとし、帰彦に計を問うた。帰彦は偽って喜び、元海と共にこれを量るよう請うた。元海もまた口では承諾しながら心では背き、長広王に馳せ告げた。長広王はここにおいて楊愔らを誅した。孝昭帝が雲龍門に入らんとする時、 都督 ととく 成休寧が仗を列ねて拒んで入れなかったが、帰彦が諭したので、その後に入ることができた。柏閣・永巷に向かって進むこともまた知っていた。孝昭帝が践祚すると、このことでますます優重された。毎回入朝する時、常に平 ゆる 王段韶の上にあった。 司空 しくう 尚書令 しょうしょれい に任じられた。斉の制度では、宮内ではただ天子のみが紗帽を着け、臣下は皆戎帽であったが、特に帰彦に紗帽を賜って寵遇した。孝昭帝が崩ずると、帰彦は晋陽から武成帝を鄴に迎えた。武成帝が即位すると、位を進めて太傅・領 司徒 しと とし、常に私の部曲三人を率い、刀を帯びて仗に入ることを聴された。武成帝に従って都に還ると、諸貴戚らは競ってこれを招いた。その往くところ、一座ことごとく傾いた。帰彦はすでに将相の地位にあり、志気満ち溢れ、発言は陵侮し、傍若無人であった。議する者は威権が主を震わせ、必ず禍乱をなすと言った。上もまたその前の翻覆の跡を尋ね、次第にこれを忌むようになった。高元海・畢義雲・高乾和らは皆しばしばその短を言った。上は帰彦の家に行幸し、魏收を召して御前で詔草を作らせ、右丞相を加えようとした。収は言うには、「至尊は右丞相として帝位に登られました。今帰彦は威名が盛んすぎるのでこれを出されるのです。どうしてまたこの号を加えることができましょうか」と。そこで太宰・冀州刺史に拝した。すなわち乾和が繕写した。昼間、なお門司に勅して軽々しく内に入れさせなかった。時に帰彦は家で酒を縱飲し、一晩中知らず、明け方に参朝しようとした。門で知り、大いに驚いて退いた。名を通して謝すると、勅して早く発つよう命じ、別に銭帛・鼓吹・医薬を賜い、事々に周到に備えた。また武職の督将に勅して、悉く清陽宮まで送らせた。拝礼して退き、敢えて共に語る者もなかった。ただ趙郡王睿と久しく語ったが、時に聞く者はいなかった。

州に至りて自ら安からず、謀反を企て、調(税)を受け終わるのを待ち、軍士に班賜せんと欲す。車駕が晋陽に如くを望み、虚に乗じて鄴に入らんとす。其の郎中令呂思礼に告げられ、詔して平原王段韶に襲わしむ。帰彦は旧より南境に私驛を置き、軍将逼るを聞き、之に報ず。便ち城を かこ みて拒守す。先ず是れ、冀州長史宇文仲鸞・司馬李祖挹・別駕陳季璩・中従事房子弼・長楽郡守尉普興等、帰彦に異有りを疑い、連名して密啓せしむ。帰彦は追いて之を獲、遂に仲鸞等五人を収禁す。仍並びに従わず、皆之を殺す。軍已に城に逼る。帰彦は城に登りて大いに叫び云く、「孝昭皇帝初めて崩じし時、六軍百万の衆、悉く臣が手よりし、身を投じて鄴に向かい陛下を迎えし。当時に反せず、今日豈に異心あらんや。正に高元海・畢義雲・高乾和の聖上を誑惑し、忠良を疾忌するを恨む。但だ此の三人を殺す為に、即ち城に臨みて自刎せん」と。其の後城破れ、単騎北に走る。交津に至り、 見獲 とら えられ、鎖して鄴に送らる。帝は趙郡王睿に令し、私に其の故を問わしむ。帰彦曰く、「 黄頷 こうがん の少児に我を牽挽せしむ。何ぞ反せざらんや」と。曰く、「誰ぞや」と。帰彦曰く、「元海・乾和、豈に朝廷の老宿ならんや。趙家の老公の時の如くならば、又豈に怨みを懐かんや」と。是に於いて帝又使いて譲む。対えて曰く、「高元海は畢義雲の宅を受け、用いて本州刺史と為し、後部鼓吹を給う。臣は蕃王・太宰と為り、仍鼓吹を得ず。正に元海・義雲を殺すのみ」と。上は 都督 ととく 劉桃枝に令し牽き入れしむ。帰彦は猶お前語を作し、活かんことを望む。帝は命じて其の罪を議せしむ。皆云く赦すべからずと。乃ち露車に載せ、枚を銜み面を縛し、劉桃枝之に刃を臨め、鼓を撃ちて之に随う。並びに子孫十五人、皆棄市にす。仁州刺史を贈る。

魏の時に山崩れ、石角二つを得、武庫に蔵む。文宣、庫に入り、従臣に兵器を賜い、特に二石角を帰彦に与え、謂いて曰く、「爾は常山に事えて反するを得ず、長広に事えて反するを得。反する時、此の角を以て漢を おど せ」と。帰彦の額骨三道、 さく を著けて安からず。文宣之を見て怒り、馬鞭を以て其の額を撃たしむ。血面を おお いて曰く、「爾の反する時、当に此の骨を以て漢を嚇すべし」と。其の言う反、竟に験有りと云う。

武興王普、字は徳広、帰彦の兄帰義の子なり。性寛和にして、度量有り。九歳の時、帰彦と河州より俱に洛に入る。神武諸子と同遊処せしむ。天保初め、武興郡王に封ぜらる。武平二年、累遷して 司空 しくう と為る。六年、 州道行台 尚書令 しょうしょれい と為る。後主、鄴に奔るに及び、就いて太宰を加う。周師逼るに及び、乃ち降る。長安に卒す。上開府・ 州刺史を贈らる。

高霊山

長楽太守霊山、字は景嵩、神武の族弟なり。神武に従い信都に起兵し、終に長楽太守に至る。大将軍・ 司空 しくう を贈られ、諡して文宣と曰う。子懿、武平鎮将に卒す。子無し。文宣、霊山の従父兄斉州刺史建国の子伏護を以て霊山の後と為す。

伏護、字は臣援、粗刀筆有り。天統初め、累遷して黄門侍郎と為る。伏護は数朝に歴事し、恒に機要に参ず。而して性酒を嗜み、毎多く酔って失う。末路に至り いよいよ 劇しく、乃ち連日食わず、専ら事として酒に酣なり、神識恍惚として、遂に以て卒す。袞州刺史を贈らる。建国侯。孫乂襲ぐ。

乂、少く謹み有り。武平末、給事黄門侍郎と為る。隋の開皇中、太府少卿と為り、事に坐して死す。

神武諸子

神武皇帝十五男:武明婁皇后、文襄皇帝・文宣皇帝・孝昭皇帝・襄城景王清・武成皇帝・博陵文簡王済を生む。王氏、永安簡平王浚を生む。穆氏、平陽靖翼王淹を生む。大爾朱氏、彭城景思王浟・華山王凝を生む。韓氏、上党剛粛王渙を生む。小爾朱氏、任城王湝を生む。游氏、高陽康穆王湜を生む。鄭氏、馮翊王潤を生む。馬氏、漢陽敬懐王洽を生む。

永安簡平王浚、字は定楽、神武第三子なり。初め、神武、浚の母を納る。当に月にして孕み有り。及び浚を産むに及び、己が類に非ざるを疑い、甚だ愛さず。而して浚は早慧、後更に寵せらる。年八歳、博士盧裕に謂いて曰く、「祭神神在るが如しは、神有りとするか、神無きか」と。対えて曰く、「有り」と。浚曰く、「神有らば、当に祭神神在ると云うべし。何ぞ如の字を煩わさん」と。景裕答うる能わず。及び長ずるに及び、嬉戯して節度無し。曾て属を以て請い受納し、大いに杖罰を見、府獄に拘禁せらる。既にして原さる。後稍々節を折り、頗る以て読書を務めと為す。元象中、永安郡公に封ぜらる。豪爽にして気力有り、騎射を善くし、文襄に愛せらる。文宣の性雌懦、文襄に参ずる毎に、時に はな 出づ。浚は恒に帝の左右を責めて曰く、「何ぞ因って二兄の鼻を拭わざる」と。是に由りて銜まれるを見る。累遷して 中書監 ちゅうしょかん ・兼侍中と為る。出でて青州刺史と為る。頗る畋猟を好むと雖も、聰明にして矜恕、上下畏れて之を悦ぶ。保定初め、進みて爵して王と為る。

文宣末年多く酒す。浚、親近に謂いて曰く、「二兄旧来、甚だ了了たらず。 に登りし後より、識解頓に進む。今酒に因りて徳を敗る。朝臣敢えて諫むる者無し。大敵未だ滅せず、吾甚だ以て憂いと為す。駅を乗りて鄴に至り面諫せんと欲す。吾を用いるや否や知らず」と。人知る有り、密かに以て帝に白す。 又見銜 ふく まる。八年、朝し来たり、幸に従いて東山に至る。帝裸裎して楽を為し、婦女を雑え、又狐掉尾の戯を作す。浚進みて言す、此れ人主の宜くすべき所に非ずと。帝甚だ悦ばず。浚又屏処に於いて楊遵彦を召し、其の諫めざるを そし る。帝時に大臣と諸王の交通を欲せず。遵彦懼れ、以て帝に奏す。大いに怒りて曰く、「小人由来忍び難し」と。遂に酒を罷め宮に還る。 浚尋 まもなく 州に還る。又上書して切に諫む。詔して浚を徴するを令す。浚は禍を懼れ、疾を謝して朝せず。上怒り、駅を馳せて浚を収む。老幼泣いて送る者数千人。至り、鉄籠を以て盛り、上党王渙と俱に北城地牢の下に置く。飲食溲穢、共に一所に在り。

明年、帝親ら左右を将い、穴に臨みて歌謡し、浚等に之に和せしむ。浚等惶怖且つ悲しみ、覚えず 声戦 ふる う。帝之が為に愴然たり。因りて泣き、将に之を赦せんとす。長広王湛、先に浚と睦まじからず。進みて曰く、「猛獸安んぞ穴を出づるを得ん」と。帝黙然たり。浚等之を聞き、長広王の小字を呼びて曰く、「歩落稽、皇天汝を見よ」と。左右聞く者、悲傷せざる莫し。浚と渙は皆雄略有り、諸王の傾服する所と為る。帝害と為らんことを恐れ、乃ち自ら渙を刺し、又壮士劉桃枝をして就きて籠に乱れ刺さしむ。槊の下る毎に、浚・渙輒ち手を以て之を拉折す。号哭して天を呼ぶ。是に於いて薪火乱れ籠に投じ、之を焼き殺し、石土を以て うず む。後出だすに、皮髪皆尽き、屍色炭の如し。天下之が為に痛心す。

後、帝其の妃陸氏を儀同劉鬱捷に配す。鬱捷は旧帝の蒼頭なり。軍功を以て 寵見 ちょうけん せらる。時に令して鬱捷に浚を害せしむ。故に以て配す。後数日、帝、陸氏の先に浚に寵無かりしを以て、勅して離絶せしむ。乾明元年、太尉を贈る。子無し。詔して彭城王浟の第二子准、字は茂則を以て嗣がしむ。

平陽靖翼王高淹、字は子邃、神武帝の第四子である。元象年間、平陽郡公に封ぜられ、累進して尚書左僕射に至った。天保初年、王爵に進み、尚書・開府儀同三司・ 司空 しくう ・太尉を歴任した。皇建初年、太傅となり、彭城王・河間王と共に仗身・羽林百人を給された。大寧元年、太宰に遷る。性質は沈着謹厳、寛厚と称された。河清三年、晋陽で薨去した。あるいは鴆毒によるものともいう。遺体は鄴に還葬され、仮黄鉞・太宰・録尚書事を追贈された。子の徳素が後を嗣いだ。

彭城景思王高浟、字は子深、神武帝の第五子である。元象二年、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられ、長楽郡公に封ぜられた。博士の韓毅が高浟に書を教えた時、その筆跡が未だ巧みでないのを見て、戯れて言った。「五郎の書画がこのようなものでありながら、突然常侍となり開国された。今日以後は、更に心を留めるべきです。」高浟は厳しい表情で答えて言った。「昔、甘羅が秦の丞相となったが、書に能くしたとは聞かない。人はただ才具の如何を論ずるのであって、必ずしも筆跡に勤しむ必要はない。博士は当世の能者であるのに、何故三公とならないのか。」時に年は八歳であった。韓毅は大いに慚じた。

武定六年、滄州刺史として出向した。政務は厳格明察で、管内は粛然とした。守令・参佐から下は胥吏に至るまで、行遊往来する者は皆自ら糧食を携帯した。高浟は些細なことでも民間の事を知り抜いており、隰沃県の主簿張達が嘗て州に赴いた時、夜に民家に宿泊し、鶏の羹を食べたことがあったが、高浟はこれを察知した。守令が一堂に会した時、高浟は衆人に向かって言った。「鶏の羹を食べたのに、何故その代価を返さないのか。」張達は直ちに罪を認めた。全境、神明と号した。また一人の者が幽州から来て、驢に鹿の脯を載せていた。滄州の境界に至り、足が痛んで歩みが遅くなり、偶然一人の者と道連れになったが、その者が驢と脯を盗んで逃げた。翌朝、州に訴え出た。高浟は左右及び府の僚吏に命じて、鹿の膊を市中で買い集めさせ、価格を制限しなかった。その所有者が脯を見てそれと認め、盗人を推問して捕らえた。 都督 ととく ・定州刺史に転じた。時に、黒牛を盗まれた者がいた。背中に白毛があった。長史の韋道建が中従事の魏道勝に言った。「使君が滄州におられた時は、奸悪を捕らえること神の如くであった。もしこの賊を捕らえられれば、まさに神というべきだ。」高浟は偽りの上符を作り、牛皮を買い上げ、倍の価格で報酬を支払った。牛の所有者にそれと認めさせ、それによって盗人を捕らえた。韋道建らは嘆服した。また、王姓の老母がおり、孤独で菜を三畝作っていたが、度々盗まれた。高浟は人を密かに遣わして菜の葉に字を書かせた。翌日、市中で菜の葉に字のあるものを見て、賊を捕らえた。爾後、境内に盗賊はおらず、政化は当時第一とされた。

天保初年、彭城王に封ぜられた。四年、侍中として召還されると、人吏は送別し悲しみ号哭した。数百人の老人が相率いて饌を整え、高浟に申し出た。「殿下がおいでになってから五年、人は吏を識らず、吏は人を欺きません。百姓が物心ついて以来、初めて今日のような教化に遇いました。殿下はただこの郷の水を飲まれただけで、まだ百姓の食物を召し上がってはおりません。聊か粗末なものを献じます。」高浟はその志を重んじ、一口食べた。七年、司州牧に転じ、従事を選ぶには皆、文才があり事理を明らかに剖断する士を取った。当時、美選と称された。州の旧案は五百余りあったが、高浟は一年を待たずに悉く断じ尽くした。別駕の羊脩らは権威ある戚族に抵触することを恐れ、閣を詣でて諮問陳述した。高浟は告げさせて言った。「我は直道を行くのみ。何ぞ権戚を憚らん。卿らは人の美を成すべきなのに、反って権戚のことを言うのか。」羊脩らは慚愧恐縮して退いた。後に特進を加えられ、 司空 しくう ・太尉を兼ね、州牧は元の如し。太妃が薨去し、任を解かれた。間もなく詔により本官に復した。俄かに 司空 しくう に任ぜられ、 尚書令 しょうしょれい を兼ねた。済南王が帝位を嗣ぐと、開府儀同三司・ 尚書令 しょうしょれい を除かれ、大宗正卿を領した。皇建初年、大司馬に任ぜられ、 尚書令 しょうしょれい を兼ね、太保に転じた。武成帝が大業を承けると、太師・録尚書に遷った。

高浟は世務に明練で、断決に果敢であり、事の大小を問わず、全て情実に基づいて処理した。趙郡の李公統が高帰彦の謀反に与した。その母崔氏は、御史中丞崔昂の従父姉であり、兼右僕射魏收の妻の妹でもあった。令によれば、年齢が六十を超えれば、例として官に没入されることは免除される。崔氏は年齢を増して陳訴し、担当官は崔昂・魏收の縁故により、崔氏は免罪を得た。高浟はこの事を摘発し、崔昂らは罪により除名された。その後、車駕が巡幸する時は、高浟は常に鄴に留まった。河清三年三月、群盗の白子礼ら数十人が、高浟を主君として劫かんと謀った。使者を詐称し、直ちに高浟の邸宅に向かった。内室に至り、勅命と称して高浟を呼び、馬に引き上げ、白刃を臨めて、南殿へ引き連れようとした。高浟は大声で叫んで従わず、遂に害された。時に三十二歳。朝野痛惜した。初め高浟が劫かれる前、その妃鄭氏が人が高浟の首を斬り持って行く夢を見て、これを悪んだ。数日して高浟は殺害された。仮黄鉞・太師・太尉・録尚書事を追贈され、轀輬車を給された。子の宝徳が後を嗣いだ。位は開府、兼尚書左僕射に至った。

上党剛肅王高渙、字は敬寿、神武帝の第七子である。天資は雄傑で、俶儻として群を抜いていた。童幼の頃より、常に将帥の謀略を以て自ら任じた。神武帝はその雄壮さを愛し、「この児は我に似ている」と言った。成長すると、鼎を持ち上げる力を有し、武材は絶倫であった。常に左右に言った。「人は学が無くてはならないが、ただ博士になる必要はないのだ。」故に読書して大略を知ったが、甚だ耽習はしなかった。

元象年間、平原郡公に封ぜられた。文襄帝が賊に遇難した時、高渙は年尚幼く、西学にいた。宮中の騒ぎを聞き、驚いて言った。「長兄が必ずや難に遭われたのだ!」弓を引き絞って出て行った。武定末年、冀州刺史に除かれ、州において美政があった。天保初年、上党王に封ぜられ、中書令・尚書左僕射を歴任した。常山王高演らと共に伐悪諸城を築いた。遂に鄴下の軽薄の徒を集め、郡県を陵犯し、法司に糾弾された。文宣帝はその左右数人を誅戮し、高渙も譴責を受けた。六年、衆を率いて梁王蕭明を江南に送還し、そのまま東関を破り、梁の特進裴之横らを斬り、威名大いに盛んであった。八年、録尚書事となった。初め、術士が「高を亡ぼす者は黑衣なり」と言った。これにより神武帝の後は、出行の度に桑門(僧侶)を見ることを欲しなかった。黑衣であるが故である。この時、文宣帝が晋陽に行幸し、忌むところを左右に問うて言った。「何物が最も黒いか。」答えて言う。「漆に過ぎるものはありません。」帝は高渙が第七子であることから、これに当たるとし、庫真 都督 ととく の破六韓伯升をして鄴に赴き高渙を召還させた。高渙は紫陌橋に至り、伯升を殺して逃亡し、河を頼りに渡ろうとしたが、土地の者に捕らえられて帝に送られた。鉄籠に収め、永安王高浚と共に地牢の下に置かれた。一年余りして、高浚と共に殺害された。時に二十六歳。その妃李氏を馮文洛に配した。馮文洛は帝の家の旧奴で、労を積んで刺史の位に至っていた。帝は馮文洛らに高渙を殺させたので、その妻を妻とさせたのである。乾明元年に至り、二王の残骨を収めて葬り、 司空 しくう を追贈し、諡して剛肅といった。勅があり李氏は邸宅に還されたが、馮文洛は尚も以前の縁故を頼み、身なりを整えて李氏を訪ねた。李氏は左右を盛大に列べ、馮文洛を階下に立たせて、数え上げて言った。「難に遭い流離し、大辱に至った。志操が寡薄で、自ら尽くすことができなかった。幸いに恩詔を蒙り、藩闈に帰ることができた。汝は誰が家の何奴ぞ? 尚も侮られんとするか!」ここにおいて杖を打って百回、流血地に灑いだ。

高渙に嫡子はなく、庶長子の宝厳が河清二年に爵を襲いだ。位は金紫光禄大夫・開府儀同三司に終わった。

襄城景王高淯は、神武帝(高歓)の第八子である。容貌は甚だ美しく、若年より器量と声望があった。元象年間(538-539年)、章武郡公に封ぜられる。天保初年(550年)、襄城郡王に封ぜられた。二年(551年)の春、薨去した。斉(北斉)の諸王が国臣や府佐を選ぶ際、多くは富商や群小、鷹犬の少年を採用した。ただ襄城王(高淯)、広寧王(高孝珩)、蘭陵王(高長恭)らは、よく文芸に通じた清識の士を引き入れ、当時はこれをもって称えられた。乾明元年(560年)二月、仮黄鉞・太師・太尉・録尚書事を追贈された。子がなく、詔により常山王高演の第二子高亮が後を嗣いだ。

高亮は字を彦道といい、性質は恭順で孝行、風采は美しく、文学を好んだ。徐州刺史となったが、商人の財物を奪った罪に坐して免官された。後主(高緯)が敗れた時、鄴に奔ったが、高亮もこれに従った。兼太尉・太傅に遷る。周(北周)の軍が鄴に入ると、高亮は啓夏門で防戦したが、諸軍は皆戦わずして敗れ、周軍は諸城門から皆入城し、高亮の軍はようやく退却した。高亮は太廟の行馬内に入り、慟哭して拝辞し、その後周軍に捕らえられた。関中に入り、定例に従って儀同の位を授けられ、遠方の辺境に配属され、龍州で卒した。

任城王高湝は、神武帝の第十子である。幼少より聡明で、天保初年に封ぜられた。孝昭帝(高演)、武成帝(高湛)の時代より、車駕(皇帝)が鄴に還る際、しばしば高湝に晋陽を鎮守させ、 へい 州尚書省の事務を総轄させた。 司徒 しと ・太尉・ へい 省録尚書を歴任した。天統三年(567年)、太保、 へい 州刺史に任ぜられ、別に正平郡公に封ぜられた。

時に、婦人が臨汾水で衣を洗っていると、馬に乗った者がその新しい靴を換えて駆け去る者があった。婦人は古い靴を持って州に訴え出た。高湝は城内の老婆たちを召し集め、靴を見せて欺いて言った、「馬に乗った者が路上で賊に襲われて害され、この靴を遺した。どうして親族がいないことがあろうか」と。一人の老婆が胸を打って泣きながら言った、「我が子が昨日この靴を履いて妻の家に行きました」。その言葉通りに捕らえると、犯人を捕獲した。当時、明察と称えられた。武平初年(570年)、太師・司州牧に遷る。出て冀州刺史となり、太宰を加えられ、右丞相・ 都督 ととく ・青州刺史に遷った。高湝は頻繁に大藩(大きな州)を治めたが、自らを潔白にはしなかったものの、寛大で恕すところがあり、官吏や民に慕われた。五年(574年)、青州の崔蔚波らが夜襲して州城を襲った。高湝の指揮分派は倉卒の際にも、ことごとく整然としており、賊を撃って大破した。左丞相に任ぜられ、瀛州刺史に転じた。後主が鄴に奔った時、高湝に大丞相の位を加えた。安德王(高延宗)が晋陽で帝号を称すると、劉子昂を使者として高湝に啓を修めさせた、「至尊(後主)は出奔され、宗廟のことが重く、群公が勧めて迫るので、暫く号令を主とします。事が平穏になったら、終には叔父(高湝)にお帰りいただきます」。高湝は言った、「私は人臣である。どうしてこのような啓を受け容れることができようか」。劉子昂を捕らえて鄴に送った。帝(後主)が済州に至り、高湝に禅位しようとしたが、ついに届かなかった。

高湝は広寧王高孝珩と冀州で兵を募り、四万余人を得て、周軍に抵抗した。周の斉王宇文憲が討伐に来ると、先に書簡と赦免の詔を送ってきた。高湝はそれらを皆井戸に沈めた。戦いに敗れ、高湝と高孝珩は共に捕らえられた。宇文憲が言った、「任城王、何もここまで苦しまれることはないのに」。高湝は言った、「下官は神武帝の子であり、兄弟十五人のうち、幸いにただ一人生き残った。宗社の顛覆に逢い、今日死ぬことができれば、墳陵に愧じることはない」。宇文憲はその言葉を壮とし、その妻子を返した。 鄴城 ぎょうじょう に至ろうとする時、高湝は馬上で大声をあげて泣いた。自ら地に投じ、流血が顔面に満ちた。長安に至り、まもなく後主と共に死んだ。

妃の盧氏は、斛斯徴に賜われた。盧氏は髪を振り乱し顔を汚し、長く斎戒して笑わず、斛斯徴が放免すると、尼となった。隋の開皇三年(583年)、文帝に上表して、高湝とその五人の子を長安の北原に葬ることを請うた。

高陽康穆王高湜は、神武帝の第十一子である。天保元年(550年)に封ぜられた。十年(559年)、次第に 尚書令 しょうしょれい に遷った。滑稽で 便辟 へつらい であり、文宣帝(高洋)の寵愛を受けた。左右にいて杖を行い、諸王を打ち据えたので、太后(婁昭君)は深く恨みに思った。その妃の父である護軍長史の張晏之が、かつて道中で高湜に拝謁を求めたが、高湜は礼をしなかった。帝がその理由を問うと、答えて言った、「官職のない漢に、何の礼が必要でありましょうか」。帝はそこで張晏之を抜擢して徐州刺史に任じた。文宣帝が崩御すると、高湜は 司徒 しと を兼ね、梓宮(御棺)を導引した。笛を吹いて言った、「至尊は臣を知っておられますか」。また胡鼓を打って楽しんだ。太后は高湜を百余り杖打ち、間もなく薨去した。太后はその死を哀しんで泣き、「私は彼が大成しないのを恐れ、杖を加えたが、どうして傷を負って死ぬことになろうとは」と言った。乾明初年(560年)、仮黄鉞・太師・ 司徒 しと ・録尚書事を追贈された。子の高士義が爵を襲った。

博陵文簡王高済は、神武帝の第十二子である。天保元年(550年)に封ぜられた。高済はかつて文宣帝に従って巡幸した際、道中で突然太后のことを思い出し、逃げ帰った。帝は怒り、白刃を臨めて脅したため、これによって精神が錯乱した。太尉の位を歴任した。河清初年(562年)、出て定州刺史となった。天統五年(569年)、州で人に語って言った、「順番から言えば、次は私の番になるはずだ」。後主はこれを聞き、密かに人を遣わして殺させた。仮黄鉞・太尉・録尚書事を追贈された。子の高智が爵を襲った。

華山王高凝は、神武帝の第十三子である。天保元年(550年)、新平郡王に封ぜられた。九年(558年)、安定王に改封される。十五年(564年)、華山王に封ぜられた。中書令・斉州刺史を歴任し、就任のまま太傅を加えられた。州において薨去し、左丞相・太師・録尚書を追贈された。高凝は諸王の中で最も懦弱であった。妃の王氏は、太子洗馬王洽の娘であるが、下僕と姦通し、高凝は知りながら制止できなかった。後ち事が発覚し、王氏は死を賜り、詔により高凝は百回杖打たれた。その愚かさはこのようなものであった。

馮翊王高潤は、字を子澤といい、神武帝の第十四子である。幼い時、神武帝が称して言った、「これは我が家の千里駒である」。天保初年に封ぜられ、東北道行台右僕射・ 都督 ととく ・定州刺史を歴任した。高潤は姿形が美しかった。十四、五歳の時、母の鄭妃と共に寝ていたが、穢らわしい雑音があった。成長すると、廉潔で慎み深く方正高雅で、吏職に習熟した。隠された偽りを摘発することに至っては、奸吏もその実情を隠すことができなかった。開府の王回洛と、六州大 都督 ととく の獨孤枝が官田を侵し窃み、賄賂を受け取ったので、高潤はその事を糾弾し挙げた。二人は上表して言った、「馮翊王は台使を見送りに出て、魏の孝文帝の旧壇に登り、南を望んで嘆息し、その意図は測りがたい」と。武成帝は元文遙を州に遣わし、宣旨して言った、「馮翊王は幼少より謹慎であり、州にあって非法を行わないことは、朕がよく信じているところである。高みに登って遠くを望むのは、人の常情である。鼠輩どもが軽々しく離間を図り、眉目(事実)を曲げて作り上げようとするのだ」。そこで王回洛は鞭二百回、獨孤枝は杖一百回の判決を受けた。まもなく 尚書令 しょうしょれい となり、太子少師を領し、 司徒 しと ・太尉・大司馬・司州牧・太保・河南道行台・録尚書を歴任し、別に文成郡公に封ぜられ、太師・太宰となり、再び定州刺史となった。薨去し、仮黄鉞・左丞相を追贈された。子の高茂德が後を嗣いだ。

漢陽敬懷王高洽は、字を敬延といい、神武帝の第十五子である。天保元年(550年)に封ぜられ、五年(554年)に薨去した。十三歳であった。乾明元年(560年)、太保・ 司空 しくう を追贈された。子がなく、任城王高湝の第二子高建德を後嗣とした。

【論】

論じて言う。趙郡王(高叡)は萼の跗(がくのふ:萼と花托、兄弟の喩え)のような親族として、顧命の重責に当たり、一つの徳を安んじ、この貞固な志を固く守り、畏るべき道を踏んで疑わず、危機に臨んで懼れず、その忠義をもって、凶悪な輩に斃れた。豈に四海を照らす道が、周の成王のような明君に遇わなかったためか。あるいは朝廷から三仁(殷の微子・箕子・比干)が去り、ついに殷墟の禍を見るに至ったのか。そうでなければ、邦国が病み疲れることが、どうしてこのように速やかでありえようか。清河王(高岳)は経綸(国家経営)の時期に属し、青雲の志自ら致し、出ては将となり入っては相となり、鴻業(大業)を助け成した。漢朝の劉賈、魏室の曹洪といえども、共にその風烈を論ずるに足らず、ただ文宣帝の失徳を顕わにするに適うのみである。高思好は昏乱の機に属し、高帰彦は猜嫌の隙に乗じ、咫尺の鄴都にあって、その禍を速めた。智小さく謀り大なるは、理として当然である。

神武帝(高歓)の諸王は、多く名声があった。永安王(高浚)は諫争によって禍に遭い、まさに北斉王室の比干であり、彭城王(高浟)は人に臨み政を布き、ついに循良の吏と比肩する軌跡を残した。近古にこれを求めても、容易に遭遇しがたいものである。上党王(高渙)は淮海に威を振るい、牢獄の辱めを受け、英傑の気概を以て悲歌の思いに迫られ、藜藿の羹を食らい、茅茨の下に処らんと欲したが、それは果たして得られることであろうか。馮翊王(高潤)は廉潔で慎み深く、明らかに閑雅であったが、妄りに讒言され匿れ、武成帝(高湛)の陰忌む朝廷において、『角弓』の詩の刺しを免れたことは、既に幸いであった。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻051