北史

巻五十 列傳第三十八

列傳第三十八

辛雄、族祖の辛琛、辛琛の子の辛術、辛術の族子の辛徳源、楊機、高道穆、兄の高謙之、綦儁、山偉、宇文忠之、費穆、孟威

辛雄は、字を世賓といい、隴西狄道の人である。父の辛暢は、汝南・郷郡の二郡太守であった。辛雄は孝行の天性があり、父の喪に服した時は、ほとんど見分けがつかないほど憔悴した。清河王元懌が 司空 しくう となった時、左曹に辟召された。元懌が 司徒 しと に遷ると、引き続き左曹に任じられた。辛雄は心が公平で正直であり、政事に明るく習熟していたので、彼の判断を経たものは、皆喜んで従った。元懌はしばしば人に言った。「必ずや訴訟なきを期すべきは、辛雄にこれあり」と。尚書駕部郎・三公郎を歴任した。郎官の淘汰が行われた時、辛雄と羊深ら八人だけが留め置かれ、その他は皆罷免・遣散された。

先に、御史中丞・東平王の元 ただ が再び棺を担いで諫争しようとしたことがあり、 尚書令 しょうしょれい ・任城王の元澄が元匡を大不敬で弾劾し、詔によって死罪を赦されていた。辛雄が上奏して元匡を弁護した。「ひそかに考えるに、白衣の元匡は、三朝に仕え、常に寵遇を受け、直言敢諫の性格は、帝心に知られていた。故に高祖(孝文帝)は彼に「匡」の名を賜り、陛下は彼を弾劾糾察の任に就けられた。高肇が権勢を振るった時、元匡は棺を作って諫め、主は聖明、臣は直諫で、ついに咎められることはなかった。仮に(今回)再び(棺を)造ろうとしたとしても、先帝は既に前例としてこれを許容され、陛下もまた後においてこれを寛大にされるべきです」。間もなく、元匡は平州刺史に任じられた。右僕射の元欽が辛雄の美点を称えると、左僕射の蕭宝夤は言った。「私は遊僕射(遊肇)が『辛雄のような者を四、五人得て共に省務を行えば、十分である』と言っていたのを聞いている。今日の賞賛は、何と遅いことか」。

初め、廷尉少卿の袁翻は、罪を犯した者が、恩赦を経ても競って上訴し、曲直が判然としないことを問題とした。そこで、かつて風聞に染まった者は、曲直を問わず、獄が成立したものとして推し量り、一切審理しないことを上奏した。詔によって門下省・尚書省・廷尉で議論することとなった。辛雄は議して言った。「『春秋』の義は、不幸にして過ちがあるならば、寧ろ過剰であっても濫りがましくあってはならない、というものである。過剰であれば罪人を見逃すが、濫りがましければ善人を害する。今、議する者は奸吏を罪するに忍びず、彼らが出入りして思いのままに振る舞うことを許し、君子と小人を、香草と臭草の区別もなくしている。これは善を賞し悪を罰し、心を尽くして哀れみ恤うというべきであろうか。古人はただ獄を精査しないことを憂えたのであって、冤罪を知りながらこれを処理しないということは聞いたことがない」。詔は辛雄の議に従った。この後、疑わしい議案がある度に、辛雄は公卿と駁難を交わし、その意見は多く採用された。こうして公明正大な名声が大いに高まった。また『禄養論』を著し、孔子が五つの孝を述べたのは、天子から庶人に至るまで、致仕(官を退くこと)に関する条文はないと称えた。『礼記』には、八十歳になれば一子は政事に従わず、九十歳になれば一家は政事に従わないとある。鄭玄の注に「賦役を免除する」とある。しかしこれはただ庶人を免除するのであって、公卿士大夫を指すものではない。禄を与えて養うことを許すべきであり、年齢で制限すべきではないと論じた。上書が奏上されると、孝明帝はこれを受け入れた。後に 司空 しくう 長史に任じられた。当時、諸公は皆その名声を慕い、補佐として迎えようとしたが、得る者はなかった。

当時、各地で賊の勢いが盛んであり、南朝の侵攻も国境を脅かし、山の蛮族が叛乱を起こしていた。孝明帝は親征しようと考え、まず荊州を目標とした。詔によって辛雄は行台左丞に任じられ、臨淮王元彧と共に東へ向かい葉城へ趣き、別将の裴衍は西へ鴉路を通ることとなった。裴衍が滞留して進まず、元彧の軍は既に汝水のほとりに駐屯していた。その時、北溝から救援要請があり、元彧は軍の進路が別であることを理由に、応じようとしなかった。辛雄は言った。「王は閫外の権を執り、ただ利に従うべきであり、機会を見て進むべきで、何ぞ道を守る(予定を固守する)必要があろうか」。元彧は後に得失の責任を問われることを恐れ、辛雄に符節を下して命令を出すよう求めた。辛雄は、天子が親征されるのであれば、蛮夷は必ずや震動し、その離反する心に乗じれば、向かうところ破れないことはないと考え、遂に元彧の軍に符節を下し、速やかに赴いて撃つよう命じた。賊はこれを聞くと、果たして自ら逃げ散った。軍中から上疏して言った。「人が堅陣に臨んで身を忘れ、白刃に触れても恐れないのは、一つには栄名を求め、二つには重賞を貪り、三つには刑罰を畏れ、四つには禍難を避けるためである。この数事がなければ、聖王といえどもその臣を勧めることができず、慈父といえどもその子を励ますことができない。明主はこの事情を深く知るので、賞は必ず行い、罰は必ず信実なものとし、親疏貴賂、勇怯賢愚を問わず、鐘鼓の音を聞き、旌旗の列を見れば、奮い立たずにはおらず、競って敵陣に赴くのである。どうして長生きを厭い、早死を楽しむことがあろうか。利害が目の前に懸かっていて、やめようとしてもやめられないのである。秦・隴の叛逆以来、数年を経ており、蛮左の常軌を乱すのも、既に久しい。戎役にある者は凡そ数十万人、三方の軍は敗多く勝ち少ない。その跡を尋ねるに、賞罰が明らかでないためである。陛下は天下の早く平定されることを望み、征夫の勤労を哀れんで、明詔を下し、賞は時を移さず与えられようとしている。しかし兵将の勲功は数年経っても決せず、軍を逃れた兵卒は平然と家にいる。これによって節義の士は勧め慕うべきものがなく、凡人には畏れ慎むべきことがない。進んで賊を撃てば、死は交わるが賞は遠く、退いて逃げ散れば、身は全うして罪はない。これが敵を見て敗走し、進んで力を尽くそうとしない所以である。重ねて明詔を発し、賞罰を改めて量るならば、軍威は必ず張り、賊難は鎮められるでしょう。臣は聞く、必ずや已むを得ないならば、食を去って信に就く、と。これを推すに、信は一刻も廃してはならないものである。賞罰は陛下にとって容易なことであるのに、尚お全うして行うことができない。攻敵は兵士にとって難しいことであるのに、その必死を期することは、どうして得られようか」。後に吏部郎中となった。

爾朱栄が洛陽に入り、河陰の難が起こると、人心は未だ安まらず、辛雄は潜伏して出てこなかった。孝荘帝は辛雄を尚書に任じようとしたが、門下省が奏上して言った。「辛雄は出てこず、存亡も分かりません」。孝荘帝は言った。「亡失しているかもしれないのに用いることを失うべきか、それとも存命しているのに用いないことを失うべきか」。遂に度支尚書に任じた。後に本官のまま侍中・関西尉労大使を兼ねた。出発に際し、五条の事柄を請願した。一つには、滞納の租調は全て徴収すべきでないこと。二つには、時期外れの徭役を簡略化して廃し、民命を休めること。三つには、課税調達の際、豊かさと貧しさによって差をつけ、州郡に量り検査させ、一律にしないこと。四つには、兵乱が数年続き、死亡する者が多く、父あるいは子を失い辛酸の思いが止まない者や、存命の老人には板授の官職を与え、生者の心を喜ばせ、死者の魂を慰めること。五つには、喪乱が久しく、礼儀が廃れているので、もし閨門が和やかで孝悌に卓然たる者がいれば、その門閭を表彰すること。荘帝はこれに従い、詔を下した。人で七十歳の者には県の官職を授け、八十歳には郡の官職を授け、九十歳には四品将軍を加え、百歳には従三品将軍とする、と。

永熙三年、吏部尚書を兼ねた。当時、側近が専横しており、辛雄は彼らの讒言を恐れ、正しいことを守ることができず、論者は大いにこれを非難した。孝武帝が南狩(長安遷都)すると、辛雄は左僕射を兼ね、京師の留守を任された。永熙の末、侍中を兼ねた。帝が関右に入ると、斉の神武帝(高歓)が洛陽に至り、永寧寺で朝士を大集させ、辛雄及び尚書の崔孝芬・劉廞・楊機らを責めて言った。「臣たるものは主に奉じ、危きを匡し乱を救うべきである。内にあって諫争せず、外に出ても陪従せず、平穏な時は寵に耽り、危急の時は逃げ隠れるようでは、臣下の節義はどこにあるのか」。そして彼らを誅殺した。

二人の子、辛士璨と辛士貞は、関中に逃げ込んだ。

雄の従父の兄に纂がおり、字は伯将、学問は文史に渉り、温良で雅正であった。初め袞州安東府の主簿となり、秘書丞で同郡の李伯尚とは旧知の間柄であった。伯尚が咸陽王禧とともに謀反し、逃げ隠れて纂を頼ったが、事が露見し、連座して官を免ぜられた。後に太尉騎兵参軍となり、しばしば府主の清河王懌に賞賛された。考課を定めるに至り、懌は言った、「辛騎兵は学もあり才もある、上第とするのがよい」と。梁の将曹義宗が新野を攻めたとき、詔により纂は荊州軍司となった。纂は将士をよく慰撫し、人々多く命に従い、賊は大いにこれを畏れた。ちょうど孝明帝の崩御の訃報が届き、皆は敵に相対しているため、凶報を秘匿しようとした。纂は言った、「安危は人に在り、どうしてこれに関わるものか」と。そこで喪を発して号哭し、三軍は縞素を着け、州城に還入し、盟約を申し合わせた。まもなく義宗に包囲されたが、相率いて固守した。孝荘帝が即位すると、兼尚書を除され、行台を引き続き務めた。後に大 都督 ととく 費穆が義宗を撃ち捕らえ、城に入り、酒を挙げて纂に属して言った、「辛行台がここにいなかったならば、私もこの功を立てる由もなかったであろう」と。

永安二年、元顥が勝ちに乗じて城下に至り、顥に捕らえられた。孝荘帝が宮中に還ると、纂は守りを固めなかった罪を謝した。帝は言った、「当時朕も北巡しており、東軍が守らなかったのは、どうして卿の過ちであろうか」と。転じて 滎陽 けいよう 太守となった。百姓の姜洛生・康乞得という者は、以前は前太守鄭仲明の側近で、豪横で狡猾で窃盗を働き、境内で患いとされていた。纂は機を窺って捕らえ、郡の市で梟首し、百姓は喜んだ。纂は洛陽に寄寓し、太昌年間に、河南邑中正となった。

永熙三年、河内太守を除された。斉の神武帝が洛陽に赴き、兵が城下に集結すると、纂は城を出て謁見し、神武帝は慰労激励した。そこで前侍中司馬子如に命じて言った、「我が行路は疲弊している、代わって我に河内の手を執らせよ」と。まもなく兼尚書・南道行台・西荊州刺史となった。時に蛮の酋長樊大能が西魏に応じたため、纂はこれを攻めたが、勝てずに敗れ、西魏の将独孤信に害された。 司徒 しと 公を追贈された。

雄の族祖に琛がいる。琛は字を僧貴という。祖父は敬宗、父は樹宝、ともに代郡太守であった。琛は幼くして孤となり、かつて友人を訪ね、その父母が無事であるのを見て、久しく涙を流した。初官は奉朝請・ 滎陽 けいよう 郡丞となった。太守の元麗は性来酒をよく飲み、琛はしばしばこれを諫めた。麗は後に酔うと、いつも閣を閉ざすよう命じ、「丞を入れるな」と言った。孝文帝が南征したとき、麗は輿駕に従い、詔して琛に言った、「卿に郡の事を委ねる、太守の如くである」と。景明年間、揚州征南府長史となった。刺史の李崇は、産業を多く営み、琛はしばしば諫めて論破したが、崇は従わず、ついに互いに糾弾しあったが、詔によりともに問われなかった。後に龍驤将軍・南梁太守を加えられた。崇は酒宴を設けて琛に言った、「長史は後必ず刺史となるであろう、ただ上佐がどのような人を得るか分からないだけだ」と。琛は答えて言った、「もし万一忝くも任ぜられれば、一方の正しい長史を得て、朝夕過ちを聞かされることが、私の願いです」と。崇は慚色を示した。官の任上で没した。

琛は寛雅で度量があり、経史に渉猟し、喜怒を色に表さなかった。官に当たっては法を奉じ、在任した所で称賛された。

長子の悠は、字を元寿といい、早くから器量と業績があり、侍御史となり、揚州軍を監察した。賊が平定され、勲功を記録する際、当時李崇がまだ刺史であったが、人名を託そうとしたが、悠は許さなかった。崇は言った、「私は昔その父に逢い、今またその子に逢う」と。早世した。

悠の弟の俊は、字を叔義といい、文才があった。魏子建が山南行台となったとき、郎中とした。軍国の機密を断ずることがあった。京に還る途中、 滎陽 けいよう で人に襲われ害された。東秦州刺史を追贈された。俊の弟に術がいる。

術は字を懐哲といい、若くして明敏で、識見と度量があり、初官は 司空 しくう 胄曹参軍となった。僕射高隆之とともに鄴都の宮室の営造を担当した。術には構想力があり、百工をよく成し遂げた。再び尚書右丞に遷り、出て清河太守となり、政治に能ある名声があった。追って へい 州長史を授けられたが、父の喪に遭い職を去った。清河の父老数百人が、宮廷に赴き上書し、碑を立てて徳を頌することを請うた。斉の文襄帝が後を継ぐと、尚書左丞宋遊道・中書侍郎李絵らとともに追って しん 陽に召し出され、ともに上客となった。累遷して 散騎常侍 さんきじょうじ となった。武定六年、侯景が叛くと、東南道行台尚書を除され、江夏県男に封ぜられた。高岳らとともに侯景を破り、蕭明を捕らえた。東徐州刺史に遷り、淮南経略使となった。斉の天保元年、侯景が江西の租税を徴収しようとしたので、術は諸軍を率いて淮を渡りこれを遮断し、その稲数百万石を焼いた。下邳に還って鎮すると、術に従って北に淮を渡った者が三千余家あった。東徐州刺史郭志が郡守を殺したので、文宣帝はこれを聞き、術に勅して、今後統轄する十余州の地において、法を犯す者がいれば、刺史はまず上奏して返答を待ち、それ以下はまず処断し、後に上表して報告せよ、と命じた。斉の代に行台が人事を兼ねて総括するのは、術から始まったのである。安州刺史・臨清太守・盱眙蘄城の二鎮将が法を犯したので、術は皆これを取り調べて上奏し誅殺した。睢州刺史およびその配下の郡守が、ともに大辟に当たる罪を犯したので、朝廷はその奴婢百口と財産をすべて術に賜った。三度辞退したが許されず、術はそれらを所管の官庁に送り、再び上聞しなかった。邢邵はこれを聞き、術に書を送って言った、「昔、鐘離意が言った、孔子は盗泉で渇きを忍び、珠璣を地に委ねた、と。足下が今このようにできるとは、まさに異代にして同時と言えよう」と。王僧辨が侯景を破ると、術は人々を招き携えて安撫し、城鎮が相次いで帰順し、前後二十余州に及んだ。そこで広陵に移鎮し、伝国璽を獲得して鄴に送ると、文宣帝は璽を太廟に告げた。この璽はすなわち秦の時代に作られたもので、四方四寸、上部の鈕には龍が交わって盤り、その文に「受命于天、既寿永昌」とある。二漢を通じて伝わり、さらに魏・晋を経た。晋の懐帝が敗れると、劉聰のもとに没し、聰が敗れると、石氏のもとに没した。石氏が敗れ、晋の穆帝の永和年間に、濮陽太守戴僧施がこれを得て、督護何融に遣わして建業に送らせた。宋・斉・梁を経て、梁が敗れると、侯景がこれを得た。侯景が敗れると、侍中趙思賢が璽を侯景の南袞州刺史郭元建に投じ、術のもとに送ったので、術が進上したのである。まもなく殿中尚書に徴され、太常卿を領した。引き続き朝の賢臣とともに、律令を議定した。吏部尚書に遷り、南袞州梁郡の幹を食んだ。鄴に遷都して以後、大選の職にある者で知名な者は四、五人いたが、互いに得失があり、尽く美しくなかった。文襄帝は若くして高朗であったが、欠点は疎略であった。袁叔徳は沈密で謹厚であったが、欠点は細かすぎることだった。楊愔は風流で弁舌に富んだが、士を取るのに浮華を失った。ただ術のみが性質が貞明を尚び、士を取るのに才能と器量をもってし、名に循って実を責め、新旧を参酌して挙げ、管庫の吏も必ず抜擢し、門閥も遺さなかった。前後の銓衡を考察するに、術において最も折衷がとれており、当時大いに称揚推挙された。天保の末、文宣帝はかつて術に百員の官を選ばせたが、参選者は二、三千人に及び、術は士子に題目を与え、人に誹謗されることがなく、その旌表抜擢した者は、後みな通顕に至った。

術は清儉で嗜欲少なく、職務に勤勉で、一時も懈怠せず、軍に臨んでは威厳をもってし、民を治めるには恵政があった。若くして文史を愛し、晩年はさらに学問に勤しみ、軍旅にあっても手から書巻を放さなかった。淮南を平定したとき、すべての財物は、一毫も犯さなかった。ただ大いに典籍を収集し、多くは宋・斉・梁の時代の佳本で、一万余巻を鳩集し、顧愷之・陸探微らの名画、二王以下の法書も、数少なくなかった。すべて王府には上らず、ただ私門に入れた。朝廷に還ると、貴要に贈り物をすることが多く、世間の議論はこれをもって術を軽んじた。十年に卒し、年六十。皇建二年、開府儀同三司・ 中書監 ちゅうしょかん ・青州刺史を追贈された。

子の閣卿は尚書郎であった。閣卿の弟の衡卿は識見と学問があり、開府参軍事となった。隋の大業初年に、太常丞の任で没した。術の族子に徳源がいる。徳源は字を孝基といい、祖父の穆は魏の平原太守であった。父の子馥は尚書左丞となった。

徳源は沈静で学問を好み、十四歳で文章を作ることができ、成長すると書物を広く博覧した。容姿は美しく、中書侍郎の裴譲之は特に彼を愛好し、竜陽の寵にも比すべき重きを置いた。斉の尚書僕射の楊遵彦、殿中尚書の辛術はいずれも一時の名士であったが、ともに襟を虚しくして礼敬し、共に彼を推薦した。後に兼員外散騎侍郎となり、梁への使者の副使として聘わった。徳源はもともと貧しく質素であったが、使者となったことでわずかに資装を得、そこで執事に贈り物をして、父のための贈官を求めた。当時の論議はこれを卑しんだ。中書侍郎の劉逖が上表して徳源を推薦した。「弱齢にして古を好み、晩節はますます厳しく、『六経』を枕にし、百家の書を漁猟する。文章は綺麗で艶であり、体調は清らかで華やかである。恭慎は閨門に表れ、謙譲は朋執に著しい。まことに後進の辞人、当今の雅器である。」これによって員外散騎侍郎に任じられた。後に兼通直 散騎常侍 さんきじょうじ となり、陳に聘わった。帰還すると、文林館で待詔となり、中書舎人の位に至った。

斉が滅びると、周に仕えて宣納上士となった。急用で相州に赴いたところ、尉遅迥が反逆を起こし、彼を中郎に任じようとした。徳源は辞退したが免れず、そこで逃亡した。隋が禅譲を受けると、長らく任用されなかった。林慮山に隠棲し、鬱々として志を得ず、『幽居賦』を著して自らを託した。もとより武陽太守の盧思道と親しく、時折往来していた。魏州刺史の崔彦武が徳源がひそかに交結していると上奏し、奸計がある恐れがあるとした。これによって南寧討伐の軍に従うよう謫せられた。帰還すると、秘書監の牛弘は徳源の才学が顕著であるとして、著作郎の王劭とともに国史を編修するよう上奏した。徳源はつねに公務の合間に撰集し、『春秋三伝』三十巻に注し、『揚子法言』二十三巻に注した。蜀王秀が彼を掾とするよう上奏し、諮議参軍に転じ、官のまま没した。文集二十巻があり、また『政訓』『内訓』をそれぞれ二十巻撰した。子に素臣がいる。

徳源の従祖の兄に元植がおり、斉の天保年間に 司空 しくう 司馬となった。学問に広く通じ、世に名が知られていた。

徳源の族叔の珍之は、若い頃から気概と侠気があり、北海太守を歴任し、後に平州の事務を行い、州で没した。驃騎大将軍、洛州刺史を追贈され、諡を恭といった。

子の愨は、武定末年に開府鎧曹参軍となった。

楊機は字を顕略といい、天水郡冀県の人である。祖父の伏恩は洛陽に移り住み、そこで家を定めた。機は若い頃から志操があり、士流に称えられた。河南尹の李平、元暉はいずれも彼を召して功曹に任用した。暉は特に郡の事務を彼に委ねた。ある者が暉に言った。「躬親せずしては、庶人は信じない。どうして機に事務を委ね、高臥しているだけなのか。」暉は言った。「君子は士を求めることに労し、賢者を任用することに逸する、と聞く。私はすでにその才を得て委ねているのだから、何が不可なのか。」これによって名声はいっそう高まった。当時、皇子の国官にはふさわしくない者が多かったため、詔によって清直の士が選ばれ、機は推挙されて京兆王愉の国中尉となり、愉は彼を非常に敬い畏れた。後に洛陽令となり、京師はその威風に服した。訴訟者は一度その前に出ると、後にみなその姓名を覚え、事理を記憶した。司州別駕、清河内史、河北太守を歴任し、いずれも能吏の名があった。永熙年間に度支尚書に任じられた。機の方正で直なる心は、久しくなるほどますます厳しく、公に奉じ己を正し、当時に称えられた。家は貧しく馬がなく、多くは小犢車に乗った。当時の論議はその清白を称えた。辛雄らとともに斉の神武帝に誅殺された。

高恭之は字を道穆といい、自ら遼東の人であると称した。祖父の潜は、献文帝の初年に陽関男の爵を賜った。詔によって沮渠牧犍の娘を潜に賜って妻とし、武威公主に封じ、駙馬都尉に任じた。父の崇は字を積善といい、幼少より聡明で機敏、端謹をもって称された。家の資産は豊かであったが、崇は志尚として倹素を尊んだ。初め、崇の母方の舅が罪に坐して誅せられ、公主は実家の血筋が絶えるのを痛み、そこで崇を牧犍の後継ぎとし、姓を沮渠に改めさせた。景明年間に本姓に復するよう上奏し、爵を襲い、洛陽令に任じられた。政治は清廉で果断であり、吏民はその威風を畏れ、摘発糾弾は豪強をも避けず、県内は粛然とした。没し、滄州刺史を追贈され、諡を成といった。

道穆は字をもって世に行われ、経史に学問を通じ、交わる者はみな名流の俊士であった。幼くして孤となり、兄に仕えること父のごとくした。しばしば人に言った。「人生において心を励まし行いを立てるのは、知られることが貴い。夕べに羊裘を脱ぎ、朝に珠玉を佩くようにすべきである。もし時世が我を知らなければ、すみやかに江海に退き跡を潜め、自らその志を求めるべきだ。」御史中尉の元匡が御史を厳選したとき、道穆は匡に任用を求める記を奏上し、匡はそこで彼を御史に推挙した。その糾弾摘発は、権門豪族をも避けなかった。正光年間に相州に使者として出た。前刺史の李世哲は、すなわち 尚書令 しょうしょれい の崇の子であり、多くの非法があり、人々の宅を強買し、広く屋宇を興し、いずれにも鴟尾を置き、また馬埒の堠の上に木人に節を持たせていた。道穆はこれを糾弾し、すべて取り壊させ、併せてその贓物を上表して摘発した。爾朱栄が蠕蠕を討つとき、道穆はその軍事を監察し、栄は彼を非常に畏れた。蕭宝夤が西征するとき、行台郎中とし、軍機の事を委ねた。後に兄の謙之が害されたことに属し、心情安からず、そこで孝荘帝に身を託した。孝荘帝は当時侍中であり、深く保護した。即位すると、龍城侯の爵を賜り、太尉長史に任じ、中書舎人を兼ねた。元顥が武牢に迫ったとき、ある者は帝に関西へ赴くよう勧めた。帝が道穆に意見を問うと、道穆は関中は荒廃していると述べ、車駕は北へ渡り黄河に沿って東下するよう請うた。帝はこれをよしとした。その夜、河内郡の北に到着し、帝は道穆に燭の下で詔書を作らせ、遠近に布告した。これによって四方は乗輿の所在を知った。まもなく給事黄門侍郎、安喜県公に任じられた。当時、爾朱栄は軍を返して秋を待とうとした。道穆は言った。「大王は百万の衆を擁し、天子を輔けて諸侯に令する。これは桓公・文公の挙である。今もし軍を返せば、顥に守備を整え直させることになり、虺を養って蛇と成すと言え、後悔しても及ばない。」栄は深くこれをよしとした。孝荘帝が政権を回復したとき、宴の席で爾朱栄に言った。「以前もし高黄門の計を用いなければ、社稷は安からなかった。朕のために彼に酒を勧め、酔わせよ。」栄はそこで、彼が監軍であったとき、事に臨んでよく決断し、まことに任用に値すると述べた。まもなく御史中尉に任じられ、依然として黄門侍郎を兼ねた。

道穆は外においては厳正な法を執り、内においては機密に参与し、およそ国を益し人を利する事柄は必ず上奏して聞かせ、諫争には言葉を尽くし、顧み憚ることがなかった。御史を選抜任用するに当たっては、皆当世の名高い人々、李希宗・李絵・陽休之・陽斐・封君義・邢子明・蘇淑・宋世良ら三十人を選んだ。当時、銭貨の質が次第に薄悪となったので、道穆は上表して言うには、「百姓の生業は、銭貨を根本とする。弊害を救い改鋳することは、王者の政務において優先すべきことである。近頃以来、私鋳の薄悪銭が濫造され、官司が糾弾取り締まっても、法網にかかる者は後を絶たない。市場における銅の価格は、八十一文で銅一斤を得るが、私鋳の薄悪銭では、一斤余りで二百文となる。既に深い利潤を示しておきながら、それに重刑を随わせているので、罪を得る者は多いが、奸悪な鋳造者はますます増えている。今の銭はただ五銖という文字があるだけで、二銖の実質もなく、薄さは甚だしく榆莢のようで、上に通すとすぐに破れ、水の上に置けば、沈まないほどである。因循して次第に至ったのであり、法令による防ぎが厳しくない。朝廷がこれを失したのであって、彼らに何の罪があろうか。昔、漢の文帝は五分銭が小さいとして、四銖銭に改鋳した。武帝に至っては、また三銖銭を半両銭に改めた。これらは皆、大をもって小に替え、重をもって軽に代えたのである。今を論じ古に拠れば、大銭を改鋳し、表面に年号を刻んでその始まりを記すべきである。そうすれば、一斤の銅で出来るのは、わずか七十六文となる。銅の価格は最も安くて五十文余りであり、その中には人件費・食料・錫炭・鉛鈔(鉛の粗末なもの)が含まれる。たとえ再び私営したとしても、自ら潤うことはできない。直接に利が無ければ、自然とその心は止むべきであり、況んや厳刑が広く設けられているのである。臣が推測するに、必ずや銭貨は永く流通し、公私ともに満足を得るであろう」。後に遂に楊侃の計を用いて、永安五銖銭を鋳造した。

僕射の爾朱世隆は朝廷で権勢が盛んであったが、内廷で謁見した際、衣冠の儀礼を失ったので、道穆はただちに弾劾糾問した。帝の姉の寿陽公主が行路で清道(皇帝の通行路を清めること)を犯し、赤棒を執る兵卒が呵責しても止まなかったので、道穆は兵卒に命じてその車を棒で打ち壊させた。公主は深く恨み、泣いて帝に訴えた。帝は言った、「高中尉は清廉正直な人である。彼の行うことは公事であって、どうして私的な恨みで責めることができようか」。道穆が後に帝に謁見すると、帝は言った、「先日、家姉が行路で君に抵触し、深く恥じ入っている」。道穆は冠を脱いで謝罪した。帝は言った、「朕は卿に恥じているのに、卿は反って朕に謝するのか」。まもなく詔して儀注を監修させた。また詔して言うには、「秘書省の図書典籍および典籍を記した浅黄色の絹(緗素)は、多くが散逸している。道穆に帳目を総括させ、併せて儒学の士に牒して、編纂し順序を整えさせよ」。

道穆はまた上疏して言った、「高祖(孝文帝)の太和の初め、廷尉司直を置き、刑罰の是非を論じさせた。事柄は古制に始まるものではないが、時宜に合わせて互いに補った。窃かに見るに、御史が使者として出向く時は、全て風聞を受けるが、時に罪人を捕らえることはあっても、枉(冤罪)や濫(過剰な取り締まり)がないわけではない。なぜか。堯の罰を受けたとしても、怨みないわけにはいかない。守令が政務を行うに当たり、愛憎があることもあり、奸猾の徒は常に悪意をもって報いることを考え、多くは根拠のないことを妄りに作り、共に誣告誹謗する。御史が一度検挙究明に及べば、成し遂げられないことを恥じ、杖木の下で、虚を実とする。無罪の者が自ら雪ぐことができない者は、どうして数え尽くせようか。臣は愚かで見識が短いが、職務を仮借せず守り、繡衣直指(御史)として指弾する所は、清く粛正されることを望む。もしなお以前の過失を踏襲するならば、善人を傷つけることもあり、その時は禄を盗む(職務を果たさない)責めを、逃れることはできない。臣の浅はかな見解によれば、太和の故事に依って、再び司直十人を置き、名目上は廷尉に隷属させ、位階は五品とし、官歴があり称賛され、心が平らかで性質の正しい者を選んでこれに任じることを請う。御史が出向いて糾弾する時は、ただちに廷尉に移牒し、人数を知らせる。廷尉は司直を派遣して御史と共に出発させる。到着した州郡では、別々の館に分かれて居住する。御史が検挙を終えたら、司直に引き渡す。司直が事柄を覆審して問い終わったら、御史と共に帰還する。中尉(御史中尉)が弾劾を上奏し、廷尉が科条に照らして審理するのは、全て旧式の通りとする。これにより、獄が成り罪が定まり、再び遅延や寛容がなくなり、悪を行って敗を取る者は、冤罪を称することができなくなるであろう。もし御史・司直の糾弾が事実に反する場合は、全て断罪された獄罪の通りに処罰する。検挙した内容に基づいて、互いに糾弾発覚させることを許す。もし両使者が曲筆・不正を行い、道理を尽くさないことがあれば、罪に問われた家の者が門下省に赴いて通訴することを許し、別に案検を加える。このようにすれば、肺石(直訴用の赤い石)の傍らで、怨みは止むことができ、棘を集めた獄門(牢獄)の下で、罪を受けて声を呑む者もいなくなるであろう」。詔してこれに従い、再び司直を置いた。

爾朱栄が死ぬと、帝は道穆を召し出し、赦書を授けて、外に宣布するよう命じ、言った、「今こそ精選された御史を得ることができるであろう」。先に、爾朱栄らは常にその親党を御史にしようと欲していたので、この詔があったのである。爾朱世隆らが大夏門の北で戦った時、道穆は詔を受けて督戦した。また太府卿李苗の橋を断つ計略を支持し、世隆らはこれにより北へ遁走した。衛将軍・大 都督 ととく を加えられ、兼ねて尚書右僕射・南道大行台となった。当時、外には蛮族征討を託していたが、帝は北軍の不利を恐れ、南巡の計画を立てようとした。発する前に、ちょうど爾朱兆が洛陽に入ったので、道穆は禍を慮り、病気と称して官を去った。世隆は彼が前朝(孝荘帝の朝廷)に忠実であったことを理由に、遂に彼を害した。太昌年間、車騎大将軍・儀同三司・雍州刺史を追贈された。子の士鏡が爵を襲い、北 州刺史となった。道穆の兄は謙之である。

謙之は字を道譲といい、幼少時に後母に仕えて孝行で知られた。経史に専念し、天文・算暦・図緯(讖緯)の書を多く渉猟した。文章を好み、『老子』・『易経』に留意した。父の爵を襲いだ。孝昌年間、河陰県令を代行した。先に、ある者が袋に瓦礫を詰め、銭貨であると偽って指し示し、人から馬を詐取し、それによって逃げ去った者がいた。詔を下して追捕し、必ず捕らえて奏聞するよう命じた。謙之はそこで偽って囚人一人に枷をかけ、馬市に立たせ、これは先の詐欺で馬を買った賊であり、今まさに刑を加えようとしている、と宣言した。密かに腹心を遣わし、市中で私的に議論する者を探させた。二人の者が相見て、欣然として言うには、「もう憂いはない」。捕らえて送り取り調べると、その一味をことごとく捕らえた。併せて前後の盗みを働いた場所を自白し、失物をした各家は、それぞれ元の品物を得て、詳細を状に記して報告した。まもなく正式に河陰県令となった。県において二年、政体を損益し、多くが後々の先例となった。当時、道穆が御史であり、また有能な名声があり、世はその父子兄弟が共に官職にある称賛を著しくしたことを称えた。

旧制では、二県の県令(洛陽・河陰の令)は直接陳述して得失を述べることができた。当時、佞幸の輩は、彼らが何かを発言して聞かれることを憎み、遂に共に奏上してこの制度を廃止させた。謙之はそこで上疏して言った、「臣は無能ながらも、誤って神聖な都邑(河陰)の長官となり、実に法を奉じて屈せず、この官職の任に称うことを考えております。朝廷の計り知れない恩に報い、人臣として職務を守る節を尽くしたいと存じます。しかし、豪族の支族、外戚の親類縁者は、囚われることになれば、目に映るものの多くがそれらです。皆、盗人に憎まれるような顔色(自分が正しいことを行う故に悪人から憎まれる様)を持ち、皆悪意をもって上位者に逆らう心を起こしています。県令は軽弱で、どうしてよく事を成し遂げられましょうか。先帝(孝文帝)は昔、明詔を発し、直接陳述して思いを述べることを許されました。臣の亡父、先臣の崇が洛陽令であった時は、常に参内して是非を奏上することができ、それ故に朝貴は手を束ね、敢えて政事に干渉する者はありませんでした。近年以来、この制度は遂に廃れ、神聖な県令の威厳が軽んじられ、下情が上達しなくなりました。今、二聖(孝明帝とその母胡太后)は遠く堯・舜に遵い、高祖(孝文帝)の法を手本とされています。愚臣もまた、駑馬の足を鞭打ち、少しでも功名を立てたいと望みます。新たな典則を行い、往時の制度を再び明らかにすることを乞います。これにより、奸悪な豪族は禁令を知り、少しは自ら心を慎むでしょう」。詔して外朝に付して検討して奏聞させた。

謙之はまた上疏して、次のように考えた。「正光以来、辺境の城はたびたびかき乱され、将を命じて師を出し、道に相継いだ。しかし諸将帥は、あるいはその才にあらず、多くは親しい者を遣わし、妄りに入募と称し、ただ奴客を遣わして充数するのみである。寇に対し敵に臨んでも、少しも弓を引かず。これでは王爵は虚しく加えられ、征夫は多く欠け、賊虜をどうして殄除できようか、忠貞をどうして勧誡できようか。また近習の侍臣、戚属の朝士は、官曹に請託し、威福を擅作する。もし清貞にして法を奉じ、曲がらない者がいれば、皆共に譖毀し、横に罪罰を受ける。朝に在って顧望し、誰か肯って申し聞かせようか。上を蔽い下を擁し、風を虧い政を損なう。讒諂をして甘心せしめ、忠讜の義を息ませる。また頻年以來、多くは徴発があり、人は命に堪えず、動もすれば流離を致す。苟くも妻子を保たんとし、競って王役を逃れ、再びその桑井を顧みず、この刑書を憚る。正に還りては必ず困窮する理あり、帰るに自ら安んずる路なきによる。もしその本業に帰ることを聴き、徭役を微かに甄べば、則ち還る者は必ず多く、墾田は増え開け、数年之後、大いに課入を獲るであろう。今、理をもってこれを還すことを務めず、ただ厳符切勒を欲するは、恐らく数年之後、走る者は更に多からん。故に国を有ち家を有つ者は、人の我に帰らざるを患えず、ただ政の立たざるを患う。敵の我を攻めざるを恃まず、ただ吾の侮られざるを恃む。これは千載共に遵い、百王一致するところである。伏して願わくは少しく垂れ覧察せられんことを。」霊太后はその疏を得て、左右の近侍を責め、諸寵要の者はこれによりてこれを疾んだ。乃ち太后に啓し、謙之に学芸ありと雲い、国子博士に除した。

謙之は袁翻・常景・酈道元・温子升の徒と、あるいは旧交を温めた。施しを好み贍恤し、言諾に虧けなし。家に居て僮隷に対し、その児に対してその父母を撻たず、三子を生めばその一世を免じた。愆あって奴婢に黥することなく、常に称して「俱に人体を稟く、如何にして残害せん」といった。謙之は父の舅の沮渠蒙遜がかつて涼土を拠えたが、国書に漏闕あるを以て、乃ち『涼書』十巻を修し、世に行われた。涼国は盛んに仏道を奉じたが、これを論じて貶し、仏は九流の一家であると称した。当世の名流は競って仏理を以て難じたが、謙之は還って仏義を以てこれに対し、竟に屈せしめることができなかった。時に行われた暦は多く未だ善を尽くさざるを以て、乃ち元の修者を改めて撰し、一家の法となした。未だ世に行われざるも、識者はその多能を歎じた。時に朝議して銭を鋳るに、謙之を以て鋳銭都將長者史とし、乃ち上表して三銖銭を鋳ることを求め、曰く。

蓋し銭貨の立てるは、本に有無を通じ交易を便にするを以てす。故に銭の軽重は、世代同じからず。太公は周のために九府圜法を置く。景王の時に至り、更に大銭を鋳る。秦は海内を兼ね、銭は半両重し。漢興り、秦銭の重きを以て、改めて榆莢銭を鋳る。文帝五年に至り、復た四銖となる。孝武の時は悉く復た銷壞し、更に三銖を鋳る。元狩の中に至り、五銖に変ず。又た赤仄の銭を造り、一を以て五に当つ。王莽が政を摂す、銭に六等あり:大銭は十二銖重く、次は九銖、次は七銖、次は五銖、次は三銖、次は一銖。魏の文帝は五銖銭を罷め、明帝に至り復た立てる。孫権は江左に大銭を鋳り、一を以て五百に当つ。権の赤烏の年、復た大銭を鋳り、一を以て千に当つ。軽重大小、時に随いて変ぜざるは莫し。窃かに食貨の要は、八政を首とし、財を聚むるの貴きは、詒訓の典文に在りと為す。是を以て昔の帝王は、天地の饒を乗じ、海内の富を禦し、腐れる紅粟を太倉にし、朽ちたる貫を泉府に蔵せざるは莫し。儲畜既に盈ち、人困弊無く、以て四海を甯謐にし、身の臂を使うが如くせしむ。昔、漢の孝武は、地広く財饒かにして、外に四戎に事え、遂に国用を虚しくす。ここに於いて草茅の臣、財を出して辺を助け、利を興すの計、税を廟堂に納む。市には榷酒の官を列ね、邑には告緡の令あり。塩鉄既に興り、銭弊たびたび改まり、少府遂に豊かに、上林積み饒かす。外に百蛮を辟け、内に賦を増さざるは、皆な利を計るの由なり。今、群妖未だ息まず、四郊に壘多く、徴税既に煩わしく、千金日々に費え、倉儲漸く耗し、財用将に竭からんとす。誠に楊氏の税を献するの秋、桑児の利を言うの日なり。夫れ西京の盛を以てして、銭猶おたびたび改まり、大小を並行し、子母相権す。況んや今、寇難未だ除かれず、州郡淪敗し、人物凋零し、軍国の用少なし。別に小銭を鋳れば、以て富益すべく、何ぞ政に損い、何ぞ人に妨げあらん。且つ政の興るは銭の大なるを以てせず、政の衰うるは銭の小なるを以てせず、ただ公私の得所を貴び、政化に虧け無きを貴ぶ。既にこれを古に行い、亦た宜しくこれを今に效すべし。昔、禹は大水に遭い、歴山の金を以て銭を鋳り、人の困を救う。湯は大旱に遭い、莊山の金を以て銭を鋳り、人の子を売る者を贖う。今、百姓窮悴すること、曩日に甚だしく、欽明の主、豈に垂拱してこれを観るを得んや。臣が今この鋳を為すは、以て交乏を済さんとす。五銖の銭は、任せて並用せしめ、行うに損無く、国その益を得ん。

詔してこれに従わんとす。事未だ就かず、会って卒す。

初め、謙之の弟の道穆は、正光中に御史となり、相州刺史李世哲の事を糾し、大いに挫辱を加え、その家は恒に憾みと為す。ここに至り、世哲の弟の神軌は霊太后に深く寵任せられ、会って謙之の家僮が良を訴うるに、神軌これに左右し、入って尚書を諷し、謙之を廷尉に禁ずるを判ぜしむ。時に将に赦せんとす、神軌は乃ち霊太后に啓し、詔を発して獄にて死を賜う。朝士哀しまざるは莫し。著す所の文章百余篇、別に集録あり。永安中、営州刺史を贈られ、諡して康と曰う。又た一子の出身を除し、以て冤屈を明らかにす。

謙之の弟の謹之、字は道修。父の崇は既に本姓に還り、謹之を以て沮渠氏を継がしむ。

綦俊、字は剽顯、河南洛陽の人なり。その先は代に居る。俊は孝莊の時に仕え、累遷して滄州刺史となり、甚だ吏人に畏悅せらる。尋いで太僕卿を除す。爾朱世隆等の誅せらるるに及び、斉の神武は文武百司を召し、下は士庶に至り、立つ所を議す。応ずる者莫し。俊は席を避けて曰く「広陵王は爾朱に扶戴せられたりと雖も、当今の聖主なり」と。神武将にこれに従わんとす。時に黄門の崔甗議同じからず、高乾・魏蘭根等固く甗の言を執り、遂に孝武帝を立てる。帝の関に入るに及び、神武は深く俊の言を思い、常に恨みと為す。尋いで御史中尉を除し、路に於いて僕射の賈顯度と相逢う。顯度は勲貴を恃み、俊の騶列を排して倒す。俊忿り色に見え、自ら入ってこれを奏す。尋いで 散騎常侍 さんきじょうじ ・驃騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司を加えらる。俊は佞巧にして、能く当塗に候い、斛斯椿・賀抜勝皆なこれと友善す。性多く詐り、賀抜勝の荊州に出鎮するに、俊に過ぎ別るる因りに、俊の母に辞す。俊故に敗氈弊被を見せしむ。勝更にこれに銭物を遺す。後に吏部尚書を兼ね、復た滄州刺史となる。徴還され、中尉を兼ね、章武県伯。尋いで殷州刺史を除し、州にて薨ず。 司空 しくう 公を贈られ、諡して文貞と曰う。

子の洪実、字は巨正、位は尚書左右郎・魏郡邑中正。酒を嗜み色を好み、行檢無く、卒す。

山偉は、字を仲才といい、河南洛陽の人である。その先祖は代に居住していた。祖父の強は容貌が美しく、身長は八尺五寸、騎射に巧みで、五石の弓を引き絞り、奏事中散となった。献文帝に従って方山で狩猟した際、二匹の狐が御前から飛び出したので、詔によって強がこれを射ると、百歩の内で二狐ともに獲た。位は内行長に至った。父の幼之は、金明太守の位にあった。山偉は文史に広く通じ、孝明帝の初め、元匡が御史中尉となった時、山偉を兼侍御史に任じた。御史台に入って五日目に、ちょうど正会に当たり、山偉は神武門を担当した。その妻の従叔が羽林隊主であり、殿門で直長を殴打したので、山偉はただちに弾劾して上奏した。元匡はこれを良しとし、まもなく正式に奏上して、国子助教に任命し、員外郎・廷尉評に転じた。

当時、天下は平穏で、官途に進む道は難しく、代から遷都してきた人々の多くは恩恵に預からなかった。六鎮及び隴西の両方が反逆を起こすと、領軍の元叉は、代来の寒門の者を伝詔に用いて慰撫しようとし、牧守の子孫で投状して求める者が百余人いた。元叉はこれにより勲附隊を設置するよう奏上し、それぞれの資歴に応じて出身を認めるよう命じた。これ以降、北人はすべて登用されることとなった。山偉はそこで記を奏上して、元叉の徳と美を称賛した。元叉はもともと山偉を知らず、侍中の安豊王元延明と黄門郎の元順に訪ねると、元順らはこれにより山偉を称賛推薦した。元叉は僕射の元欽に命じて山偉を兼尚書二千石郎に引き入れ、後に正名の士郎とし、起居注を編修させた。僕射の元順が選挙を担当した時、表を上って諫議大夫に推薦した。

爾朱栄が朝士を害した時、山偉は当直を守っていたため、禍を免れた。孝荘帝が宮中に入ると、山偉を給事黄門侍郎に任じた。先に、山偉は儀曹郎の袁升、屯田郎の李延考、外兵郎の李奐、三公郎の王延業と並んで車を進めていたが、山偉は少し後ろにいた。道で一人の尼僧に出会い、彼女は彼らを見て嘆いて言った、「この方々は因縁により、同日に死ぬことになろう」。そして山偉に言った、「あなたはまさに天子に近づき、よい官となるであろう」。果たして袁升ら四人は皆、河陰で害に遭い、その言葉の通りとなった。

まもなく著作郎を兼任し、節閔帝が立つと、秘書監に任じられ、引き続き著作を担当した。初め、爾朱兆が洛陽に入った時、官人は逃げ散り、国史典書の高法顯が密かに史書を埋めて隠したため、散逸しなかった。山偉はこれを自分の功績と思い、爵位と賞賜を求めて訴えた。山偉は爾朱世隆に取り入り、ついに東阿県伯に封ぜられたが、高法顯は男爵を得たのみであった。山偉はまもなく侍中に進んだ。孝静帝の初め、衛大将軍、中書令に任じられ、起居を監した。後に本官のまま再び著作を兼任し、官のまま死去した。驃騎大将軍・開府儀同三司・ 都督 ととく ・幽州刺史を追贈され、諡して文貞公といった。

国史は、鄧彦海、崔深、崔浩、高允、李彪、崔光以来、諸人が相継いで撰録してきた。綦俊及び山偉らは上党王元天穆と爾朱世隆に諂い媚び、国書は正しく代の人によって修緝されるべきであり、他の者に委ねるべきではないとし、このため綦俊・山偉らが改めて大籍を主管した。旧来のものを守るだけで、初めから著述はなく、故に崔鴻の死後から山偉の生涯が終わるまで、二十余年もの間、時事は跡形もなく、万に一つも記されなかった。後人が筆を執るにも、拠り所となるものがなく、史書の遺漏欠落は山偉に起因するのである。外見は沈着温厚を示したが、内実は虚偽と競争心に満ちていた。綦俊とは若い頃は非常に仲が良かったが、晩年は名誉と地位の間で、水と火のようになった。宇文忠之らの代の人と徒党を組み、時の賢人は彼を畏れ嫌った。しかし文史を愛好し、老いてますます篤かった。弟は若くして亡くなり、山偉は寡婦を養い孤児を訓育し、同居すること二十余年、恩義は非常に厚かった。産業を営まず、身が亡くなった後、邸宅を売って葬儀を営み、妻と娘は漂泊を免れず、士人友人は嘆き哀れんだ。長子の昂が爵位を襲った。

宇文忠之は、河南洛陽の人である。その先祖は南単于の遠い親族で、代々東部を占拠し、後に代都に居住した。父の侃は、書侍御史の任で死去した。忠之は文史に広く通じ、文章を書く才能がかなりあり、太学博士として官途についた。天平の初め、中書侍郎に任じられた。裴伯茂は彼と同じ官省にいたが、常に侮り軽んじ、忠之の顔色が黒いのを「黒宇」と呼んだ。後に詔により国史の編修を命じられた。元象の初め、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を兼任し、鄭伯猷の副使として梁に使した。武定の初め、尚書右丞となり、引き続き史を修めた。まもなく、事件により官籍を削除された。忠之は栄誉と利益を好んだ。中書郎となってから六、七年が経ち、尚書省で右丞を選ぶ際、選考に預かる者は皆策試を受けたが、忠之もこれを受験した。丞の職を得ると、大いに喜び満足し、志気が高ぶり、人を見下すような色があった。識者はこれを笑った。官爵を失うと、不満を抱いて発病し、君山で死去した。

費穆は、字を朗興といい、代の人である。祖父の于は、商賈二曹令・懐州刺史の位にあり、松陽男の爵位を賜った。父の万は爵位を襲い、梁州鎮将の位にあり、冀州刺史を追贈された。費穆は性質が剛烈で、壮気があり、広く文史に通じ、功名を好んだ。宣武帝の初め、爵位を襲い、次第に昇進して涇州平西府長史となった。当時、刺史の皇甫集は、霊太后の伯父であり、外戚の親としての身分を頼みに、多く非法を行った。費穆は厳しい顔色で諫め正し、皇甫集も彼を畏れた。

後に蠕蠕の主、婆羅門が涼州から帰降したが、その部衆は飢えのために辺境の邑を侵掠した。詔により費穆が旨を奉じて宣撫慰問すると、皆、心から帰附した。翌年、再び叛き、涼州に侵入寇掠した。費穆を兼尚書右丞・西北道行台とし、引き続き別将として、これを討伐に向かわせた。費穆が涼州に到ると、蠕蠕は逃げ去った。費穆は配下の者に言った、「夷狄は獣の心であり、敵を見ればすぐに逃げる。もしその胆を破らなければ、ついには奔命に疲れる恐れがある」。そこで精鋭の騎兵を選び練り、山谷に伏せさせ、疲弊した兵を外営として、敵を誘い寄せた。賊の騎兵が偵察して見ると、まもなく競って来襲し、伏兵が駆け出して撃ち、大いにこれを破った。六鎮が反乱を起こすと、費穆は別将となり、 都督 ととく 李崇に隷属して北伐した。 都督 ととく 崔暹が敗北すると、李崇は撤退を議しようとした。朔州は白道の要衝であり、賊の咽喉であるため、もしこれを保全しなければ、 へい 州・肆州が危うくなるとして、将を選んで鎮守防衛させようとし、皆の議論は費穆を推挙した。李崇はそこで費穆を朔州刺史とするよう請うた。まもなく雲州刺史に改めた。費穆は離散した者を招き集め、かなり人心を得た。北境の州鎮は皆陥落したが、費穆だけが存続した。長い間、援軍が来ず、費穆はついに城を棄てて南に逃れ、秀容の爾朱栄のもとに身を寄せた。やがて宮闕に赴いて罪を請うと、詔によりこれを許した。孝昌年間、 都督 ととく として二絳の反乱した蜀人を討ち平げ、 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられた。後に妖賊の李洪が陽城で反逆を起こし、蛮左と連合したので、詔により費穆が武衛将軍を兼ねてこれを撃破した。

爾朱栄が洛陽に向かうと、霊太后は費穆を徴発し、小平に駐屯させた。爾朱栄が孝荘帝を推戴奉戴すると、費穆は先に降伏した。爾朱栄はもともと費穆を知っており、会って大いに喜んだ。費穆は密かに爾朱栄を説いて言った、「公の兵馬は一万人を出ず、長駆して洛陽に向かい、前に横たわる者はありませんでした。それは主上を推戴奉戴し、人心に順ったからです。今、京師の衆、百官の盛りをもって、ひとたび公の虚実を知れば、必ず軽侮の心を抱くでしょう。もし大いに討伐懲罰を行い、さらに親しい党を立てなければ、公が北に還る日には、太行山を越えることもできず、内に難が起こる恐れがあります」。爾朱栄は内心これに同意し、ここに河陰の事件が起こった。天下の人はこれを聞き、歯ぎしりする者はいなかった。爾朱栄が洛陽に入ると、費穆は吏部尚書・魯県侯となり、進んで趙平郡公に封ぜられた。侍中・前鋒大 都督 ととく となり、大将軍元天穆とともに邢杲を討ち平げた。

当時、元顥が京師に入ると、費穆は元天穆とともに既に斉の地を平定し、元顥を撃たんとしていた。費穆は武牢を包囲し、陥落させようとしたが、ちょうど元天穆が北に渡河し、後継がなくなったため、費穆はついに元顥に降った。元顥は河陰の残酷な濫殺が、費穆に起因するとして、引き入れて詰問し責め、これを殺した。孝荘帝が宮中に還ると、侍中・ 司徒 しと 公を追贈し、諡して武宣といった。

孟威、字は能重、河南洛陽の人である。頗る気概と節操があり、特に北方の風俗に通暁していた。東宮斉帥・羽林監を歴任した。後に北方民族の言語に明解であることを以て、著作に在ることを勅され、推問・諮問に備えた。累遷して沃野鎮将となった。前後頻りに遠方の藩国に使し、粗く旨に称うることができた。普泰年間、大鴻臚卿に除され、卒し、 司空 しくう 公を贈られた。子の恂が嗣いだ。

論じて曰く、辛雄は吏能をもって職を歴任し、琛は公方をもって己を行い、懐哲は清監の体有り、徳源は雅業に虧けず、並びに素門の得るところなり。楊機は公に清断あり。道穆兄弟は政事の用有り。綦俊は遭逢して職を受け、山偉は位行頗る爽かならず。忠之は文史足用と雖も、雅道聞くこと蔑し。費穆は身を出して効力し、功名著はるも、末路一言、禍簪帯に延び、其の死や宜なるかな。孟威は方言を以て力を陳べ、其の勤も亦称すべきかな。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻050